この春、新たにYouTubeチャンネル「長渕剛のyoutube now now now!」を開設した長渕剛(67)。4月11日、「長渕剛 誹謗中傷へのメッセージ」と題する動画をアップし、自身に関する騒動に言及した。動画で「俺ね、ずーっとこの数ヵ月さ、具合が悪いんだ」と切り出した長渕。具体名は明さなかったものの、「最近ネットで、俺の誹謗中傷がガンガン炎上したりなんかしてた」と説明したうえで、こう語り始めた。「炎上させてるやつが誰かわかんないんだけど、俺も気になるからやっぱり見るじゃん。 なんでおめえにこんなこと言わなきゃいけないの?って。会ったこともないのに。そんなばっかりだったから。だけど、たとえばさ、それを我慢しろって弁護士さんたちに言われるとさ、我慢するのが社会の通念なのかな?とか思うし。で、人を傷つけたくないから、それをちゃんと喧嘩するっていう柄でもないし。昔、自分が30代だったらさ、俺、どうしてたかな?『てめこの野郎』って言ってたかもわかんないけども。なんで俺はこんな傷ついてんだと」また、長渕は誹謗中傷によって「俺は人間をこれだけ傷つけてきたのか?という風に、本当に、なんか入っちゃって、バッドに入っちゃって」と、心を痛めていることを明かした。加えて、ツアーを目前に控え、プロモーションをしようとしたところ、この騒動による”実害”を受けたという。「実害が何かっつったら、テレビプロモーションやろうとしてたら、全部ノーサンキュー。『え。なんでっ?』て(聞くと)、『いやいや、ちょっとすいません長渕さん。応援はしたいんだけど。今ネットでいろんなこと言われてるんで、少し様子を見ながら』(と言われた)。様子って何の様子ですか?何の様子見るんですか。その言われてることが沈静化したらですか?いつ沈静化すんだよって。誰のこと言ってんだって。俺って言ってんの?被害者と加害者がいて、こいつが悪いって言ってるやつは誰?って話なのね」などと述べ、騒動への憤りをあらわにした。炎上によって、いろんな人が傷ついていることに加え、テレビやラジオでのプロモーションができなくなったという長渕。「そうすると俺はどうやってみんなにアプローチして、コンサートに行くよって、待っててねって、言えんのよと」と辛い状況も告白。「こうやって叩いて叩いて潰していく構図なんだと思うよね。悔しい!今までの俺だったら『てめえこの野郎こっちこいや!』って言ってんだけど、やっぱりそれは相手にするほどのことではないなと、別のチャンネルでも思ったり」と、騒動に対し沈黙をしてきた理由についても明かした。
2024年04月18日今回、お店をご紹介してくださるのは……【鎌倉 北じま】北嶋 靖憲氏1989年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。日本料理を学ぶためにと京料理の名店【和久傳】の門を叩き、【室町和久傳】【高台寺和久傳】【京都和久傳】の3店舗で16年間研鑽を積み、更に同店の系列店【丹】では料理長を務めた。その後独立し、自身の出身地である鎌倉で【鎌倉 北じま】を開業。フランスのレストランガイド「ゴ・エ・ミヨ2022」ではテロワール賞を受賞している。北嶋 靖憲氏がオススメするお店富山【御料理ふじ居】オススメの理由「いま、チーム富山として「フッコウメシ」を立ち上げられ、震災した方々に希望をあたえていらっしゃいます」御料理ふじ居【エリア】富山市その他【ジャンル】日本料理・懐石・会席【ランチ平均予算】15000円【ディナー平均予算】25000円【アクセス】富山駅北嶋 靖憲氏がオススメするお店石川・輪島【L’AtelierdeNOTO】(※臨時休業中)オススメの理由「今回の震災でご自身のお店も被災されていらっしゃいますが、炊き出し等のボランティアを優先したり、状況が見えない方々に積極的に情報発信をして下さっています。」北嶋 靖憲氏がオススメするお店富山・南砺【レヴォ(L’evo)】オススメの理由「チーム富山として「フッコウメシ」を立ち上げ、被災した方々に希望をあたえていらっしゃいます」レヴォ(L’evo)【エリア】砺波/五箇山【ジャンル】フレンチ【ランチ平均予算】25000円【ディナー平均予算】25000円ご紹介してくださった【鎌倉 北じま】北嶋さんの店舗情報鎌倉 北じま【エリア】鎌倉/逗子【ジャンル】日本料理・懐石・会席【ランチ平均予算】20,000円 ~ 29,999円【ディナー平均予算】20,000円 ~ 29,999円※推薦されたお店の営業状況は店舗様にお問い合わせください
2024年03月16日先頃、日本代表(A代表)のロールモデルコーチとして参加することが発表された、中村憲剛さん。世代別代表のロールモデルコーチも務め、U-17ワールドカップを目指すチームにも帯同していました。プロになる前は、世代別代表とは無縁の"非エリート"だった中村憲剛さんは、エリート選手たちに、どんな言葉をかけていたのでしょうか?さらには「伸びる選手と伸びない選手の違い」についても、お話しいただきました。(取材・文鈴木智之)ここだけのノウハウが詰まったDVD【KENGO Academy】>>■日常を、基準を高めていこうU-16、U-17日本代表に、ロールモデルコーチとして帯同した中村憲剛さん。エリートたちを前に、こんな話をしたと言います。「この環境にいることは、みなさんの努力の賜物なので素晴らしいことです。だけど、いまここにいることが、将来を保証するものではないことも確かです。過去のデータを見ると、このチームからA代表に上り詰められるのは、1人か2人ぐらいしかいないよ」さらにこう続けます。 「そして10年後。16歳、17歳の時点で日本のトップにいるキミたちではない、見向きもされないような選手が、日の丸をつけたケースがあります。それが僕です。僕はキミたちの年齢の頃、世代別代表のような良い場所にはいられませんでした。でも、みんなが途中で断念したところを越えて、違うルートで駆け上がっていきました」中村憲剛さんは「みんなはいま、この場所にいられているのだから、そこにいることを自分から放棄するのはもったいない。右肩上がりで成長していけば、他の選手が追いつけないところに行ける」と言葉に力を込めます。「努力を怠ると、ウサギとカメのように、追い抜かれてしまうんです。それが嫌なら、自分の日常を、基準を高めていこう。日本代表という素晴らしい環境で、最高の時間を過ごしているにもかかわらず、自分のチームに帰ったらそれを忘れて、のんべんだらりと過ごしていると、二度と戻ってこられなくなる。そんなもったいないことはないよ」■伸びる選手と伸びない選手の違いこのような話を聞いた選手たちは、「目の色を変えて取り組むようになる」と言います。そのうえで、中村憲剛さんは「伸びる選手と伸びない選手」の違いを、次のように表現します。「伸びる選手は、素直で聞く耳を持っています。人のせいにせず、自分の足りないところを分析した上で、ちゃんと努力し続けられる人。それが伸びる選手だと思いますし、その反対が、伸び悩む選手なのかなと思っています」中村憲剛さんは現役引退後、指導者の道を進み、S級ライセンス取得の過程で、母校・中央大学で指導を行っています。また、現役時代から若手選手の相談に乗り、アドバイスをしてきました。「現役のときは、後輩たちにも伝えていましたけど、話を聞く子、聞こうとする子、アドバイスをもらいに来る子は、継続して努力ができるんです。一方で、こちらの言ったことに対して『ちょっとそれは』とか『俺はこう思ってるんで』など、意見を聞き入れない人は、成長するチャンスを逃しているのかなと思います」■成長するために大切なことプロとして18年間、第一線で活躍してきた、中村憲剛さん。サッカー選手として成長し続けるために、必要なキーワードを3つあげます。それが「素直さ」と「傾聴力」。そして、努力し続ける「継続力」です。「監督も人間なので、目を見て話を聞く人と、明後日の方向を見ながら聞く人の、どちらに伝えたくなるか。僕はいま指導者なので、指導者目線で見ると『話が頭に入っていないな』『真剣に聞く準備ができていないな』と感じることもあります」さらに、選手から指導者に立場が変わり、見えるものが変わってきたと話します。「育成年代の子たちは、本人はちゃんと聞いているつもりでも、それが態度に現れない子もいます。だから指導者である自分自身も、しっかり人を観ないといけないなと思います」■育成年代を指導する上での気づき育成年代の指導に力を注ぐ中で、2023年には東京・調布でKENGO Academyのジュニアクラスを新設。既存の中学生(神奈川県・川崎市)に加え、S級取得の過程では大学生を指導しており、各カテゴリーで「何を、どのように教えるか。その違いに直面している」と言います。「大学生になったときに、新たなサッカーの考え方を入れるのは、なかなか難しいので、ある程度、小学生の段階でサッカー観を提示したほうがいいのかなと思っていました。でも、そうすると効率が良すぎてしまって、子どもたちがそれしか判断しなくなるのではないか。その結果、彼らが本来持っている、クリエイティブさに欠けてしまうのではないかというのが、いま感じている課題です」中村憲剛さん自身、小中高大、プロと、様々な環境、指導者のもとでサッカーをすることで「30代後半から40歳ぐらいのときに、自分のサッカー観ができあがりました」と話します。「それは、たくさんの経験をした結果だと思うので、削ぎ落としたものを小学生や中学生にポーンと渡すのはどうなのかなって。正解のプレーを提示して、それをさせるのは、道を歩いていて、小石をどかす作業をしているようなものですよね」さらに、こう続けます。「小石につまづくことで、次はつまづかないようにしよう、どうすればいいんだろうと考えますよね。そこに対して大人が関わり、正しい方向に持って行きすぎると、エラーが起きなくなるんです。そうするとトライアンドエラーではなくなってしまうので、すごく難しいですし、指導者としてはジレンマだなって思います」■KENGO Academy DVDでサッカーを学ぼう中村憲剛さんは現場での指導に加え、KENGO Academy DVDを通じて、サッカーの考え方のベースを提示しています。現役生活を振り返り「たくさんの指導者のもとでプレーしてきた中で、それぞれの良いところを抽出して、自分のものにしていく作業を繰り返してきた」と話し、「相手をどう攻略するのか。その基礎の基礎となる部分の話をしている」と自信を持つDVD。サッカーに対する考え方を知ることで、サッカー理解が深まることでしょう。ぜひサッカーIQを高めるために、DVDを観て学び、レベルアップに役立ててみてはいかがでしょうか?前回の記事「相手を観て、プレーすることの大切さ」はこちら>>
2024年02月01日●エレファントジョンに訪れた「今年こいつら、いいらしいぞ」飄々とした小気味いいテンポのボケと熱を帯びた正確なツッコミで、東京のライブシーンを沸かせたお笑いコンビ・エレファントジョン。2014年には『日清食品 THE MANZAI 2014 年間最強漫才師決定トーナメント! 栄光の決勝大会』(フジテレビ系)決勝の舞台にも立ったが、惜しまれながらも2017年に解散の道を選んだ。そのエレファントジョンでツッコミを担当していた加藤憲は現在、ピン芸人としてライブイベントのMCやライブ配信アプリ「17LIVE(イチナナ)」での配信を行いながら、プロレスのリングアナウンサーとして輝きを放っている。『THE MANZAI』以降も笑いをとり続けていたエレファントジョンはなぜ解散したのか。そしてリングアナの道へ進んだきっかけは何だったのか。コンビ解散から現在の活動に至るまでの軌跡をたどった。○■芸人になるっていう選択肢もあるのかと取材現場へは一人で現れた。こうした取材では通常、タレントはマネージャーと共に現場入りすることが多いが、加藤は現在フリーランスで活動しているため、基本的には全て一人行動だという。『THE MANZAI』決勝の舞台で華々しく笑いをとる姿をテレビ越しに観ていた身としては、不思議な感じがした。そう伝えると、「いやいや! 当時から、ずっとそういうもんでしたよ」と回想する。「芸能の他のジャンルの方々がどうなのかは分かりませんけど、芸人は相当上のほうに行かないと、現場にマネージャーさんがついてくることはないんじゃないんですかね? 『THE MANZAI』の決勝みたいな大きい仕事の時には、さすがにいてくれましたけど。だから、マネージャーさんがついてくると、『あっ、今日は大きい仕事なんだ』と。いない時は『今日はそうでもないんだな』という判断ができちゃう(笑)」1976年生まれで、現在46歳の加藤。本人も「僕らの世代はどう考えてもそうですね」と語るように、ダウンタウンから多大な影響を受けた世代だ。「小学生の頃は、とんねるずさんがすごく人気でした。でも、とんねるずさんは自分には遠いもの、みたいな感じで。語弊があるかもしれないですけど、ダウンタウンさんが現れた時、すごく身近に見えたといいますか。後になって、めちゃくちゃ高度なことをされていたと分かるんですけど、自分もそんなんできたらいいなって、何となく思っていた気がします」加藤が高校を卒業する年は、ちょうど東京にも吉本興業の養成所「NSC」が開校された年。ダウンダウンに影響を受けたのであれば、そのままNSCへと入学しそうなものだが、加藤は大学卒業後、プロダクション人力舎の養成所「スクールJCA」に7期生として入所し、芸人の門を叩いた。「高校の時、一緒にお笑いの真似事をしていた同級生がいて。そいつから『仙台に吉本の事務所ができるらしいから、一緒に行かないか?』と誘われたんです。二人とも仙台には縁もゆかりもないのに。今考えたら、すごい頭いいなと思うんですけど、『東京とか大阪だったら負けるだろうから、仙台に行ってデカい顔しようぜ』みたいなことを言われて。この時、芸人になるっていう選択肢もあるのかと思いました」「それで両親に相談をしたんです。『実は、友だちから誘われてて、ちょっとやってみたいんだけど』って。そしたら、『バカなことを言うな』と。今も両親には頭が上がらないですけど、『高校を出てすぐに芸人を始めたら、もしもダメだった時に苦労すると思うから、1回大学に行きなよ。大学に4年間行って、それでもその気持ちが変わらないんだったら、やってみればいいんじゃないか』と言われて。それで大学に入って、イベントのMCをするサークルみたいなところで、学園祭やいろんなイベントのMCをやってたんです。そしたら、より芸人をやりたくなってしまって。そのことを両親に伝えたら、『やってみたら?』と背中を押してもらいました」「当時はまだ、東京には吉本と人力舎しか養成所がなかった時代で、さっきの友だちの考えに近いんですけど、吉本に入っても勝てない気がすると思ったんです。でも人力舎は当時まだ先輩方も今くらい売れてなかったですし、『事務所の名前もよく分からないし、ここなら行けんじゃん?』みたいな感じでJCAに入って、そこからですね」そしてこの養成所で、後にエレファントジョンを結成することになる森枝天平氏(元ガッテン森枝) と出会った。○■エレファントジョンの分岐点元チャップメンの加藤と、元アメデオの森枝氏がコンビを組んだエレファントジョンは、当時芸人の登竜門だったネタ番組『爆笑オンエアバトル』(NHK総合)で注目を集め、出演者のなかでも活躍した芸人が駒を進めることができるチャンピオン大会にも出場。『THE MANZAI』では2012年から3年連続で認定漫才師50組に選ばれ、2014年には決勝進出も果たした。このキャリアを整理しながら、エレファントジョン時代で一番印象に残っていることを聞くと、「2013年が一番強かった気がしますね」と答える加藤。そして「もう10年も前なんですね」と懐かしみ、「僕が勝手に思ってることなんですけど」と、ある持論を述べる。「『M-1』や『キングオブコント』といろんな賞レースがあるじゃないですか。芸人の界隈では、『今年こいつら、いいらしいぞ』『(賞レースで)いきそう』っていうのがあるんですよ。本当にすごい人は、この『いいらしいぞ』で本当にいくんですよ。その古くはバイきんぐさん。バイきんぐさんが世間的にはまだまだ全然知られてないとき、芸人界隈では『今のバイきんぐはめちゃくちゃ仕上がってる』と言われてて、ライブで一緒になると本当に渦を起こすくらい笑いをとる。その勢いのまま、『キングオブコント』で優勝したんですよね」「それが本物だと思うんですけど、実は『今年いいらしいぞ』のなかには、そのプレッシャーに負ける芸人もいて、2013年の僕たちは多分打ち負けたタイプなんです。『K-PRO』っていういろんな事務所から芸人が集まるライブがあるんですけど、2013年のエレファントジョンはもう毎月優勝、優勝できなくても2位か3位に入る、みたいな年で。それで芸人たちから『今年絶対にいく』と言われてました。でも、『THE MANZAI』は準決勝止まりで、全くダメだった」「次の年になったら、もう『いいらしいぞ』って言われなくなるわけですよ。そしたらちょっと肩の荷が下りた気がして、『THE MANZAI』の決勝にも行けたんです。僕たちのメンタルがもっと強かったら、2013年にそのままバンといけてた気がするんですけど、そこでいけなかったですね」この話を聞いて、ゾクリとした。飛石連休・藤井ペイジのYouTubeチャンネル『ペイジちゃんねる』に出演した森枝氏も、「芸人時代のピーク」として2013年を挙げ、さらにバイきんぐの話をしていたからだ。コンビとしての感覚はピッタリとシンクロしていたのだろう。この2013年以降もエレファントジョンは笑いをとり続けた。しかし、2017年に二人は解散することになる。余談だが、このインタビュー直後、別の芸人の取材があり、「さっき加藤憲さんの取材だったんです」と伝えると、その芸人は「マジですか! 加藤さんの後に自分なんかがすみません!」と謙遜しつつ、「エレファントジョンさん、なんで解散しちゃったんですかね」とポツリと漏らした。思わずそうこぼれ出るほど、エレファントジョンは「まだやれる」と周りの芸人たちに思わせた状態で、解散の道を選んだ。●ライブ配信に思わぬ訪問者「今日は謝罪と感謝を伝えに来ました」○■コンビ解散後、ライブ配信に思わぬ訪問者『ペイジちゃんねる』でも語られているが、解散を切り出したのは森枝氏だった。当時、自身の子どもが高校進学を控えるタイミングで、「自分のやりたいことで、子どもの進む道を減らすのはどうなんだろう」と揺れる思いがあったという。そして、現在は芸人を引退し、構成作家や養成所の講師として活動している。一方、解散を告げられた側の加藤は当時の心境をこう振り返る。「やっぱりお子さんのってなると、ちょっと何も言えないというか。元々森枝という人間は結婚して、お子さんが生まれるまで本当にめちゃくちゃなやつだった。僕はそれを面白いと思ってたんですけど、結婚してすごい真面目になって、お子さんもどんどん大きくなって、受験があって……ってなると、止められなかったですね」「それから、子どもの受験があるから芸人は辞めるけど、ここまでお笑いを一生懸命やってきたから、お笑いに関わる仕事をするみたいだ、とフワッと聞いて。僕としては、もっとしっかりネクタイを締めるようなサラリーマンになるもんだと思っていたのに、芸人を辞めて今度は裏方の仕事を始めました、っていうのが腑に落ちなくて」「解散を告げられて、僕がこの後どうしていくかを模索している時に、森枝が後輩のトークライブに普通に出てたんです。まだ解散してから1カ月後ぐらいですよ? 解散ライブの時に彼はお客さんの前で『引退する』と言って、ライブが終わったはずだったのに。『話が違うんじゃないか』と、すごい喧嘩しましたね」解散以降、森枝氏の近況については人づてに少し聞く程度で、どんな活動をしているかはほとんど知らなかったそうだ。しかし、そんななか、加藤が2019年より定期的に行っている「17LIVE」のライブ配信に、思わぬ訪問者があった。「ライブ配信に、森枝の息子さんが来てくれたことがあって。最初はそうだと分からなくて、初めて配信を観てくれた人にいつもするみたいに『はじめまして』というやり取りをしていたら、『実は僕、森枝の息子なんです。今日は加藤さんに謝罪と感謝を伝えに来ました。加藤さんのおかげで僕は高校にも行けましたし、今は大学生になりました。僕の受験のために加藤さんに多大なる迷惑をかけてしまったとずっと思っていたので、今日謝りに来させてもらいました』とコメントで言うんです」「でも僕、ひん曲がってるところがあるんで、『森枝の息子がわざわざこんなことするはずがない。偽物だ!』と思って。リスナーも顔を出して一緒に話せる機能があるので、『本当に森枝の息子なら、顔を見せてみなさい』と言ってみたら、本物の息子で。最後に会った時の面影があるし、なんなら親父にもちょっと似てるんです(笑)。それで、『いやいや! 色々あったけど、全くもって君のせいじゃないし、君の親父とか僕みたいな風にならずに、もっと堅実な道を選んだほうがいいから頑張ってね』と伝えましたね」●リングアナへの挑戦、今も大切にする下準備○■芸人からリングアナへコンビ解散後、いくつかのコンビやトリオを試しながら活動していると、新たな挑戦につながる転機が訪れる。芸人仲間から、レスラーの高木三四郎が代表を務めるプロレス団体「DDTプロレスリング」で実況を探しているから受けてみたらどうかと声をかけられたのだ。元々プロレスファンだった加藤は、オーディションに参加することに。しかし、即席実況が上手くいかず、結果は散々だったという。このままでは終われないと思った加藤は「何でもいいからやらせてくれませんか?」と志願。すると、偶然にも所属のリングアナウンサーが産休に入るタイミングということも重なり、会場スタッフとして下積みを行いながらリングアナの修行を始めた。そして1年間の修行ののち、晴れてリングアナとしてデビュー。現在は実況を担当する機会にも恵まれている。「何でもそうなんですけど、実情も知らずに色々言うのは嫌なんです。『17LIVE』も最初に声をかけてもらった時は怪しいなと思ったんですけど、やりもせずに文句言うよりは、ちゃんとやってみて、じっくり中まで見てみてから文句を言いたいなと思って、始めてみました。リングアナも正式になってから2年経って、少しずつ文句じゃないですけど、自分の意見を言えるようになってきました」芸人からリングアナへ。異業種からの挑戦である。ファンからの反応を本人はどう感じているのだろうか。「僕がリングアナや実況をしていることをよく思わない人も多分いると思います。いると思うんですけど、それは仕方ないことだなって。僕も言う側の人間なんで(笑)。プロレスのイメージがなかったタレントが『プロレス大好きなんです!』と言ってたら、『あれ、今までプロレス好きとか言ってたっけ? おかしくない?』『ここに空きがあるから、急に言い出したのね』ってなりますもん。だから、ファンの方の気持ちもすごく分かるんです。だからこそ、いまだにちゃんと下調べをしてからじゃないと現場に行かないようにしています」加藤がリングアナになって2年が経ったという報告をするSNSの投稿には、ファンや関係者から祝福の声が多数寄せられていた。プロレスという競技、リングアナという仕事、そしてファンへの誠意がちゃんと伝わっているということでは? そう尋ねると、「どうなんですかね? でも、そう思ってもらえていたら嬉しいですけどね」と少し照れくさそうに口元を緩めていた。■プロフィール加藤憲1976年12月27日生まれ。東京都出身。1998年、スクールJCAへ7期生として入学。現鬼ヶ島・アイアム野田とのコンビ・チャップメンとしての活動を経て、2004年にガッテン森枝とのコンビ・エレファントジョンを結成。2010年、「第9回漫才新人大賞」で大賞を受賞。2014年、『日清食品 THE MANZAI 2014 年間最強漫才師決定トーナメント! 栄光の決勝大会』で決勝進出を果たした。2017年、エレファントジョンを解散。2019年、「17LIVE」にてライブ配信をスタート。2021年、プロレスのリングアナデビューを果たし、現在はリングアナ・実況として活躍している。
2023年03月18日2022年11月21日、声優の梁田清之(やなだ・きよゆき)さんが亡くなっていたことが分かりました。57歳でした。梁田さんの友人で声優、真殿光昭(58)が同日にツイッターで発表。「友人の梁田清之君が逝去されました。彼はフリーだったため奥様の御意向により、僕が代わってここに声優業界関係者の皆様並びに彼のファンの皆様にご報告させて頂きます。線香をあげ、弔わせて頂いた今でも信じられない思いですが、心より梁田君のご冥福をお祈りさせて頂きます」(原文ママ)とつづった。サンケイスポーツーより引用梁田さんは、1993年10月から1996年3月まで放送されていたテレビアニメ『SLAM DUNK』(テレビ朝日系)で、赤木剛憲(あかぎ・たけのり)を演じていました。また、2004年から放送されていたアニメ『BLEACH』(テレビ東京系)では握菱鉄裁(つかびし・てっさい)役を、2006年放送のアニメ『BLACK LAGOON The Second Barrage』(フジテレビ系・テレビ朝日系など)では松崎銀次役を演じるなど、数々の作品に参加していました。梁田さんの訃報を発表した、真殿さんの投稿には、ファンのみならず、多くの声優仲間からも惜しむ声が寄せられています。・言葉になりません。とても残念です。今はただ、梁田さんのご冥福をお祈りするばかりです。・まだまだお若いのに。驚きと悲しみで、うまく言葉にできません。・57歳か…。梁田さん、早すぎます。さびしいなあ。・アニメ『SLUM DUNK』では、真面目な場面もギャグのシーンも、イメージする赤木剛憲そのものでした。残念でなりません。梁田さんのご冥福をお祈りいたします。[文・構成/grape編集部]
2022年11月22日社会学者であり、コメンテーターとしてメディアに出演している、古市憲寿さん。古市さんは、2022年11月15日にTwitterを更新し、スペイン・バルセロナでの様子を公開しました。脱出ゲームを終えた後の写真や、サグラダ・ファミリアの写真に加え、『海外旅行する人が準備しておくと便利なこと』などの情報を投稿。スペインの脱出ゲームで汚れた。でも楽しかった! pic.twitter.com/rf2U4km4Zz — 古市憲寿 (@poe1985) November 14, 2022 いくつかのツイートの中で、自身の若い頃の写真も投稿しており、反響を呼んでいます。14年前、若い。バルセロナの港のどこか。 pic.twitter.com/gUMUt7Lkar — 古市憲寿 (@poe1985) November 15, 2022 古市さんは14年前にもバルセロナを訪れており、その時に撮影された写真を公開。2022年現在の古市さんと比べて、少しあどけない様子が伝わってきますね!投稿には、さまざまなコメントが寄せられました。・やんちゃな雰囲気があって、かわいい。・まったく印象が違う、別人みたい…。・昔もいいけど、今もかっこいいよ!・髪型が若いけど、顔立ちは全然変わらないですね。メディアに出演している時の、臆することのない堂々たる姿勢とのギャップに、魅了された人が多かったようです![文・構成/grape編集部]
2022年11月19日平川憲秀 著『日本一働きやすい治療院を目指したら、人が辞めない会社になりました』2022年5月16日刊行株式会社あさ出版(代表取締役:田賀井弘毅、所在地:東京都豊島区)は平川憲秀 著『日本一働きやすい治療院を目指したら、人が辞めない会社になりました』 を2022年5月16日(月)に刊行いたします。人が辞めない3つの「好き」のつくり方とは京都・大阪・滋賀に16店舗を展開する平川接骨院/針灸治療院グループ。成熟期に突入した治療院業界で、売上5年で8倍と驚異的な成長を続けています。本書は、同社を支える「圧倒的にホワイトな職場のつくり方」を解説。社員数132名で従業員満足度92%を実現する仕組みを紹介します。「社員同士でなんでも言い合える関係を目指さない」「教育研修は業務時間内に行う」など、業界を問わず、離職率の高さに頭を悩ませる経営者の助けとなるヒント満載の1冊です。「働きやすい」に必要な3つの「好き」※以下、本文より一部抜粋せっかく採用した「人」が辞めてしまう理由には、大きく3つあると私は考えています。それは、「会社がつらい」「仲間がつらい」「仕事がつらい」。逆に、この3つのうちの1つでも「好き」と思えるものがあれば、人はその組織で働くことに楽しさを感じ、「辞めたい」とは感じなくなってくれるはずです。そこで当社では、この3つのうちのどれかを「好き」になってもらうべく、会社の仕組みづくりを進めてきました。「会社が好き」になるために仕事において守るべき明確な「ルール」が あることが社内の心理的安全性を高める。仕事において守るべき明確な「ルール」があることが社内の心理的安全性を高める。手帳型のルールブック「経営計画書」。社員が社長の言葉に振り回されなくなり働きやすさが格段にアップ。手帳型のルールブック「経営計画書」。社員が社長の言葉に振り回されなくなり働きやすさが格段にアップ。「仲間が好き」になるために社員旅行、懇親会、サークル活動、コミュニケーションツールなど社内の人間関係をよくする仕組み。社員旅行、懇親会、サークル活動、コミュニケーションツールなど社内の人間関係をよくする仕組み。さまざまなチーム活動で、チーム力をアップ。社員の結束が高まる運動会は社員から一番人気の行事。さまざまなチーム活動で、チーム力をアップ。社員の結束が高まる運動会は社員から一番人気の行事。「仕事が好き」になるために結果が出れば仕事は楽しくなる。 だから教育研修時間は年間1000時間。結果が出れば仕事は楽しくなる。だから教育研修時間は年間1000時間。マニュアル化の徹底により社員一人ひとりが確実に仕事で結果が出せるようにする。マニュアル化の徹底により社員一人ひとりが確実に仕事で結果が出せるようにする。書籍情報表紙タイトル:日本一働きやすい治療院を目指したら、人が辞めない会社になりました著者:平川 憲秀ページ数:256ページ価格:1,650円(10%税込)発行日:2022年5月16日ISBN:978-4-86667-375-2 amazon: 楽天: 目次1章日本一働きやすい治療院のつくり方2章教育の仕組みで成長できる3章働きやすさは、「仕組み」がつくる4章風通しをよくするコミュニケーションの仕組み5章未来をつくる経営著者プロフィール平川憲秀(ひらかわ・のりひで)著者:平川憲秀EMPOWERMENT株式会社代表取締役。京都市出身。両親が1976年に京都市南区に開業した鍼灸整骨院を引継ぎ、平川接骨院/針灸治療院グループとして京都・大阪・滋賀に16店舗を展開。企業成長率年120%、圧倒的な働きやすさで注目を浴びる。現在は、全国50社以上が集まる「エンパワーメント経営アカデミー」で治療院成長のための「仕組みと組織づくり」のサポートも行っている。【報道関係各位】『日本一働きやすい治療院を目指したら、人が辞めない会社になりました』リリース.pdf : 詳細はこちら プレスリリース提供元:NEWSCAST
2022年05月12日シンガーソングライターの長渕剛が出演する、MTG「SIXPAD」の新CM「SIXPAD | Powersuit Core Belt 長渕剛編」が27日より放送される。新CMに向けて約半年間、自分を追い込んできたという長渕。新CMでは、今回のためにリメイクした楽曲「REBORN」をバックに、本格的なマシーンを使用した躍動感のあるトレーニングシーンや、魂のこもったステージパフォーマンスの様子が収録されている。撮影は「ステージパフォーマンス」と「トレーニングシーン」に分けて、2日間かけて実施。両日とも長渕の撮影にかける熱い思いが響く、活気ある現場となった。
2022年04月27日戦争の極限下で異質な他者と出会い、人はどう変わるのか。古市憲寿さんによる、極上純愛小説『ヒノマル』。「この2年で、自由というのは脆いものだと痛感しました。ある出来事をきっかけに社会の空気はがらりと変わってしまうし、当たり前だと思っていた“自由”という権利すら、突然奪われてしまう。それが、またすぐに『いまはしょうがないか』と当たり前の形が変わって、いつの間にか窮屈さが増していくことだってあり得ますよね。そんなときに、社会の要請に従順に従うのか、徹底的に抗うのか。ただ、それ以外の第三の道というのはあるんじゃないのかなと思うんです」『ヒノマル』の舞台である戦時下と、コロナ禍にあるいまの状況に共通点を感じたという古市憲寿さん。「たとえば戦時下にも『不要不急』というスローガンがあったんです。そんな非常時だからこそ書けた物語かもしれません。戦争に対して、あるいはコロナウイルスに対してどう向き合うか。価値観が極端に対立していたり、親しい人同士でも本音と本音をぶつけ合えなかったり。そんなふうに疑心暗鬼になってギスギスした空気が蔓延する時代に、人と人はどうすれば信頼し合い、共に行動できるのかを考えたかったんです」主人公は、国家のために命を捧げたいと考えている軍国少年の新城勇二。ある日、中学の同級生で親友の小針啓介から〈魔女退治に行かないか?〉と誘われる。観音山公園内の洞窟に魔女が住んでいると噂があるのだ。探しに行くと、ひっそりとした洞窟に〈秘密の図書館〉を作っていた美しい女の子が現れて…。一ノ瀬涼子と名乗った彼女は、歴史学者の娘で、勇二より1学年上の高等女学校生。勇二は、「日本は負ける」と主張する涼子に反発を覚えながら、無意識に惹かれていく。だが、彼女は兄・優一の恋人だった。「聡明な兄と、国の教育のまま軍国少年になってしまった弟、リベラリストで自由奔放な女の子。いわゆる三角関係の物語なんですが、戦争中の物語なのでどうしても事件が起こるんです。兄が徴兵されたり、非国民呼ばわりされたり、空襲に怯えたり。極限状態で人はどうなるのか」第1稿のときの勇二は、国の勝利を疑いもしないような人間だったそう。書き直すうちに、内心では理知的な大人たちの言説を否定できなくなっていく“二重性”を、にじませるよう意識した。「勇二の正義感のゆらぎをどう書くかが、いちばん気を遣ったところですね。涼子は涼子で気ままに振る舞いすぎて、周囲とハレーションを起こしていますが、優一や勇二らとの交流を経て少し変わった部分もある。異質な他者との出会いによって人はどう変わるのか。それを見つめるのが大きなテーマでした」極限を苦悩しながら生きる若者たちの姿が描かれるが、読み心地は存外に明るい。「確かに重苦しい時代ですが、戦時中には戦時中なりの青春はあったと思うんです。たとえば、勇二らは勤労動員で軍需工場に行かされますが、夜中に涼子たちがいる女子寮に忍び込んだりします。実際にあったエピソードを参考にしたのですが、どんな大変な時代に生まれたとしても、楽しみ方はある。それは現代にもいえる話だと思います」本書には、機転が利いて要領よく立ち回れるような人物も多く登場するが、そんな人間でも時代の常識から完全に逃れるのは難しい。「ただそうした束縛を突破できる力があるとすれば、『自分や大切な人を守りたい。一緒に幸せになりたい』しかないのかなと。そんな思いを込めた作品です」シンプルだが力強いラストの一文まで、一気読み必至の大ロマンスだ。ふるいち・のりとし1985年、東京都生まれ。社会学者。同世代の視点からの新たな若者論『絶望の国の幸福な若者たち』で注目を浴びる。2018年に初小説『平成くん、さようなら』を発表し、コンスタントに作品を書き続けている。近著に『楽観論』など。『ヒノマル』物語は昭和18年、戦争の只中にある日本から始まる。大学生だった優一は学徒出陣で徴兵され、勇二らは勤労動員で駆り出される。重苦しい束縛をかいくぐり、青春を駆け抜ける彼らのたくましさが希望だ。文藝春秋2200円※『anan』2022年4月20日号より。写真・中島慶子(本)インタビュー、文・三浦天紗子(by anan編集部)
2022年04月19日冬晴れの1月に東京都江東区で中村憲剛さんのサッカー教室が行われました。子どもたち向けのサッカー教室と保護者向けのトークイベントが行われたこの企画。今回はサッカー教室の様子をレポートします。■小学生30人を対象にサッカー教室を実施よく晴れたフットサルコートに、小学生30名が集合しました。メインコーチを務めるのが中村憲剛さん。現役時代は川崎フロンターレの中心選手として活躍し、引退後は若手選手の指導やサッカー解説などを務め、人気を集めています。さらにはMCとして、名古屋グランパスや川崎フロンターレで活躍した中西哲生さんが参加。憲剛さんの指導内容に合わせて解説するなど、トレーニングを盛り上げていきました。■「正確に止めて蹴る」を実行するにあたり最も大切なもの最初のトレーニングは「2人組での対面パス」。パス&コントロールは、憲剛さんのプレーの代名詞「正確に止めて蹴る」を実行するにあたり、もっとも大切なものです。憲剛さんは子どもたちのプレーを見ながら「棒立ちではなく、ステップを踏みながらやろう」「足のインサイドを使い、体の前でボールを止めよう」と実演を交えながら、わかりやすく伝えていきます。続いて、憲剛さんは「さっき言ったことを意識しながらやったら、すごくサッカーっぽくなった。次はパススピードを意識しよう」と実演。転がってきたボールを両足でピタッと止める姿は、現役時代さながらです。憲剛さんのアドバイスによって、子どもたちの動きがどんどん変わっていきます。それを見て「良くなったよ。パススピードが上がったね!」などの声をかけながら、子どもたちの間を巡回していきます。■1つ1つのプレーにこだわる大切さを伝えた2つ目のトレーニングでは、4人の中心に1人の選手が入り、前後左右からのパスをコントロールして、横の選手にパスを出す動きを繰り返していきます。憲剛さんは「意識することはなんだろう?思い出してみよう」と投げかけると、子どもたちから「足踏み、インサイドにボールを当てる、体の前で止める」などの返事がかえってきます。憲剛さんは「そうだね。それを忘れると、せっかくいいトレーニングをしたのにもったいない。意識してやってみよう」と、1つ1つのプレーにこだわることの大切さを伝えていました。さらには、子どもたちのプレーを見ながら「ミスは問題ないよ」「慌てないで」など、プレーの後押しをする声をかける姿が印象的でした。■中西さん、憲剛さんともに短時間での成長に驚いた中西さんからは「この後にする、ゲームを想定しながらやろう」とアドバイスが送られ、ふたりとも、プレーを見ながら「良くなったね!」と短時間の成長に驚いていました。その後の「3対1のボール回し」では、憲剛さんがディフェンス役になり、子どもたちのプレーとシンクロしながら「遠い足で止める」「左足に出せるよ」「一回でボール止めれば、相手を見れるよ」など、一緒にプレーしながら声をかけていきます。そして「さっき言ったことを意識してやったら、パスは回った?」と質問。子どもたちからは「パススピードが早くなった」などの反応がかえってきます。それを受けて、憲剛さんは「さっき言ったことを意識してやるとボールは回る。ボールを持っている人の技術も大事だけど、ボールを持っていない選手のポジションも大事。試合と同じだからね」と語りかけていました。■「大事なのは自分の考えたことを積極的にやること」憲剛さんからのアドバイス最後のゲームでは、中西さんも飛び入り参加し、場を盛り上げます。中村さんは「ここまでやったことを全部意識しよう。ゲームには全部が詰まっている。みんな、頭の中を整理できたと思うから、ゲームで出そう。失敗してもいいよ。大事なのは、自分の考えたことを積極的にやること」と、子どもたちの背中を押していきます。憲剛さん、中西さんともに、子どもたちと一緒にプレーし、アドバイスを送りながら、楽しそうにボールを蹴っていました。そして、1時間におよぶトレーニングは終了。最後に中村さんは子どもたちに向けて、次のようなメッセージを送っていました。「短い時間だけど、積極的にやってくれたことに感謝しています。今後、みんなが試合を楽しむために必要なことを教えたので、ここで終わりにせず、常に意識してもらえたらと思います。また会えることを楽しみにしています!」■「憲剛さんからパスをもらえてうれしかった」子どもたちも大満足イベント終了後、子どもたちに感想をうかがいました。「中村憲剛さんのパスの一つ一つがすごくて、教え方もわかりやすかった。憲剛さんからパスをもらえたのがうれしかったし、みんな仲良くしてくれてよかった」(リュウジくん/小6)「中村憲剛さんから『ナイス!』と言ってもらえたのがうれしかった。パスをするときに、意識することを知ることができたのでよかった。憲剛さんはあこがれの人なので、会えてうれしい」(イオリくん/小5)子どもたちは、あこがれの中村さんと一緒にボールを蹴ることができて、ユニフォームにサインをもらうなど、かけがえのない思い出になったようでした。
2022年04月13日サッカーをするお子さんを持つ保護者、そして子どもたちが参加したサッカー教室イベント。第一部は名古屋グランパスや川崎フロンターレで活躍した中西哲生さんの司会による、中村憲剛さんのトークセッションが行われました。テーマは「サッカーをする子どもとの関わり方」。貴重な内容の一部を紹介します。■親は子どもの鏡指導者へのネガティブ発言は子どもにも移る憲剛さん自身、サッカーをする子を持つパパということで、サッカー選手・指導者の視点に加え、父親の立場からも話してくれました。まず、中西さんから「保護者の態度が、子どもに影響を及ぼすと思いますか?」という質問に対しては、「それは間違いないですね。親は子どもの鏡だと思います」と即答。「親が監督・コーチに対してネガティブなことを言うと、自然と子どももそうなってしまいがちです。なので、僕はネガティブな事はなるべく言わないようにしています」とスタンスを述べます。■ポジティブな声掛けの重要性お子さんが小学生の頃は「試合を見ながら、チームメイトの良いプレーを積極的に褒めていた」そうで、「そうすると、それが他の保護者にも伝わって、みんなで子どもたちの成長を見守ろうという雰囲気になっていくんですよね」と、ポジティブな声掛けの大切さを話します。中西さんからは「科学的にも、人間はネガティブなことを言うと、通常の3倍定着しやすいそうです」という話があり、「それもあって、僕が選手を指導するときには、ネガティブなことは一切言いません」と実体験を教えてくれました。「つまり、うまくいったことを定着させようと思ったら、ネガティブなことの3倍言わないといけないわけです。そのため、良かったことは何度も言います」と、ポジティブな声掛けの重要性を強調します。参加者のみなさんにも「このことを覚えておくと、子どもに対してネガティブなことを言おうとしたときに、踏みとどまることができると思います」とアドバイス。憲剛さんも「普段の3倍、褒めることを心がけましょう」と同調していました。■子どもが何考えているか聞きたいから「問いかけ」をする中村家では、お子さんに問いかけをよくするそうで、その理由を「子どもが何を考えているか、頭の中を覗きたいんです」と話します。「うまくいったプレーがあったとして、なんでうまくいったのか。それを子ども自身の言葉で聞きたいんです。子どもって、僕ら大人が思っているよりも想像性が豊かです。小学校高学年になると、会話ができてくるので、僕にとって楽しい時間です」現役引退後、時間をみつけては、お子さんのサッカーを見に行くという中村さん。試合を見ていて、プレーについて言いたくなることはあるそうですが、そこはぐっと我慢。ただし、お子さんが「あること」をしないときは、強くたしなめるそうです。「これは妻とも共有しているのですが、子どものプレーを見ていて、チームのために走らない、自分がボールを取られても奪い返さないなど、チームのために頑張ることができなかったときは注意しています」シュートを打つ、パスを出すといったプレーの向上にはトレーニングが必要ですが、チームのために頑張ることは、意識の持ち方ひとつで、すぐに実行に移すことができます。「頑張ることは、意識次第ですぐにできるようになるので、小学3年生ごろから言っていました。『自分が守備の選手だったとして、前の選手がボールを奪われたのに、取り返しに行かなかったらどう思う?』という話はよくしました」そのような対話を続けることで、お子さんのプレーは変わっていき、いまでは「行きすぎじゃない?(笑)」というほどハードワークするようになったそうです。■「怒られなかった育成年代」がプロでのプレーにいい影響を与えた中西さんは、現役時代にともにプレーした、ストイコビッチ選手とのエピソードを教えてくれました。「ストイコビッチ選手は、子どもの頃から、A、B、Cと3つのパスの選択肢を持っていたそうです。子どもの頃はパワーがなくて、パスが通らなかったこともあったけど、当時の指導者から『体が大きくなれば、そのパスは通るようになる。アイデアを持ち続けてプレーしてほしい』と言われたそうです」創造性あふれるプレーで、世界中のサポーターを魅了したストイコビッチ選手。憲剛さんは「僕にとっても、あこがれの選手のひとりでした」と話し、自身の子ども時代のエピソードを語ります。「僕が小学生時代に所属していたチームも同じで、子どもの考えを尊重してくれていました。なんでそこにパスを出したんだとか、なんでそんなプレーをするんだって、言われたことがないんです。『いまのパス面白いね。だけど通らなかったね。じゃあ、次は通るように練習しよう』。そういうチームでした」憲剛さんは「子どもの頃から、プレーのアイデアを尊重してもらったおかげで、いろんなことに挑戦しようと思ったし、人が驚くようなプレーをしたいと思って練習してきました。その過程で生まれたミスに対して、怒られなかった育成年代を過ごしてきたことは、間違いなく現役時代に生きています」と感謝を口にします。■子どもが楽しくサッカーできるかは親にかかっていると言って過言ではないそしてイベントの最後に、次のようなメッセージを送っていました。「子どもが楽しくサッカーができるかは、お父さん、お母さんにかかっていると言っても過言ではないと思います。指導者ももちろんそうですが、一日の中で一番長くいるのは保護者ですから。その中で、親と子どもで一緒に成長していくことが大切なのだと思います。僕自身、失敗と後悔を繰り返しながら、親として成長していきたいと思っています。僕も頑張ります。一緒に頑張っていきましょう」司会が旧知の中西さんだったこともあり、「普段しない話を、結構しちゃいました」と笑顔を見せる中村さん。参加者のみなさんは、ここでしか聞けない体験談やエピソードをたくさん知ることができて、大満足の様子でした。<イベントの様子>
2022年04月11日最近よく耳にする「ポジショナルプレー」ってなに?そんな人に「入門編」としておすすめなのが3月に発売された『こどもポジショナルプレー~ボールを追うサッカーから、ボールを追いかけるサッカーへ~』です。ポジショナルプレーをわかりやすい表現で解説するとともに、ポジショナルプレーが身につく練習メニューも紹介。本書にポジショナルプレーの達人として登場する中村憲剛さんも「これからはポジショナルプレーを標準装備する時代」とおすすめしています。本書の中から今回はポジショナルプレーの鍵となる「5レーン」の解説と練習メニューを紹介します。■「5レーン」って何?ピッチを縦に5分割してそれぞれのレーンに選手を配置近年、ポジショナルプレーについての説明で「5レーン」という言葉がよく聞かれます。どのような考え方かざっくりと説明すると、ピッチを縦に5分割し、それぞれの「レーン」に選手を配置するというものです。相手が4バックの場合、DFだけでこの5つのレーンをすべて埋めることはできず、誰のマークについていいか迷うことになります。この「相手を迷わせる位置どり」が、ポジショナルプレーの基本になります。■「5レーン」トレーニングメニュー5レーンから始まる3vs2【ねらい】レーンの意識付け&どこに立つと攻撃が優位になるか理解させる。【準備】1.12m×20mのグリッドの中に5レーンを作る。2.攻撃側は3人、守備側は2人。3.最初は皆それぞれ異なるレーンにしか立てない。【ルール】1.まずは攻撃側の1人目が好きなレーンを選び、自由に位置を決めて立つ2.守備側の1人目は、異なるレーンに入りながら攻撃側の1人目をマーク3.その後も同じように攻撃側の2人目→守備側の2人目→攻撃側の3人目が異なるレーンにそれぞれ入っていく。4.5人が5つのレーンを埋め、立ち位置を決めたところから、指導者が攻撃側にボールを渡して3vs2がスタート。ここからはレーンに関係なく動くことができ、攻撃側はドリブルで奥のラインを突破したら勝利。■練習のポイント最初はボールを使わずに、立ち位置を考えることに集中させるところがポイントです。こうして5人が異なるレーンに入ると、数が1人多い攻撃側が有利な状況を作り出せるということを理解できると思います。異なるレーンに入るだけでなく、攻撃側の3人が同じ高さに立たない(縦ズレ)ことで相手がマークに付きづらくなるということも、この練習を通して感じることができると思います。まだ指導現場では浸透していないチームもあるかもしれませんが、親御さんもサッカーの最新戦術などを何となくでも頭に入れておくと、お子さんと一緒にサッカーを見るのが楽しくなったり、子どものサッカーへのかかわり方がもっと楽しめるようになることでしょう。
2022年03月29日2022年にシンガーソングライターデビュー20周年を迎える堂本剛による新プロジェクト「堂本剛プロデュース」が3月25日(金)より始動する。堂本は2002年のシンガーソングライターとしてのシングル発売以降、さまざまなプロジェクトを通じ、音楽や俳優、ファッション、デザインなど多岐にわたる分野で活躍を続けてきた。本企画では「LINE VOOM」で毎月10本程度のオリジナル動画、ZOZOの協力のもと全7型(予定)におよぶオリジナルのファッションアイテムをプロデュース。動画はスゴ技挑戦や音楽などの内容を投稿、アイテムは2022年夏よりシーズンレスに着用できるユニセックスアイテムを通販サイト「ZOZOTOWN」で販売予定だ。またプロジェクト期間中、撮影やプロデュース作業にスタッフが密着。その模様やオフショットは無料動画配信サービス「GYAO!」のオリジナル番組『つよしP(仮)』として配信される。ほかにも堂本のプロデュースによるコンテンツがさまざまなメディアに登場する予定だ。初回のプロデュースとなるビジュアル撮影に堂本はお気に入りの衣装で登場。カメラマンからの「目線なしも撮りますか?」との声に「いいですね!」とふたつ返事でOKするも「(プロデュースを)任せるのが不安になる写真にしましょう」と堂本らしいジョークを飛ばす。それから空気椅子の状態でポーズを決めるなど、個性あふれる撮影になった。写真撮影後、早速ファッションアイテムの打ち合わせを開始。堂本が手がけるファンクミュージックのように、様々な方向からのアプローチにより、手に取る一人ひとりがサステナブルなものに関する関心や、何かを感じてもらえるようなアイテム作りに取り組みたいとコメントする。用意されたサンプルを手に取りながら、生地の選択やデザインの方針など、完成にむけたイメージを膨らませた。続いて「LINE VOOM」向けの動画撮影。人気のチャレンジ動画に挑戦するもなかなかうまくいかず、「しょぼいなあ」と堂本。失敗も楽しむ、おおらかな一面を見せた。さらにはなかなか見られない音楽制作の現場にもスタッフが密着。ベースやギターを手に取り、音作りの様子やリフのアイデアを形にしていく作業、浮かんだメロディをマイクに吹き込むところなど、一つの楽曲を形にしていく方法を紹介する。録音した音源をチェックする目は真剣そのもので、シンガーソングライターデビュー20周年を経て一層精力的に音楽に取り組む姿が印象的だった。■企画情報「堂本剛プロデュース」3月25日(金)よりスタート<詳細>(1)「堂本剛 × ZOZO」堂本剛プロデュースのもと、ZOZOが開発・販売アイテム型数:7点(予定)2022年夏より予約販売開始(予定)(2)「堂本剛」LINE公式アカウント(3)「LINE VOOM」堂本剛オリジナル動画3月26日(土)~2022年9月「堂本剛」LINE公式アカウントにて配信PC: スマホ: (4)「GYAO!」オリジナル番組『つよしP(仮)』3月26日(土)21時より配信開始。毎週土曜日更新(全26回)・番組視聴ページ: ・公式Twitterアカウント: 特設ページ:
2022年03月25日ヴィッセル神戸所属、アンドレス イニエスタの来日後初著となる書籍『イニエスタ・ジャパン! 日本に学んだ 人生で大切なこと』が、本日2月14日より発売された。本書では、イニエスタが、衝撃のバルセロナ退団から、来日を決めた真の理由、そして日本での生活における学びや気づきを自身の言葉で初めて告白。彼の言葉や考えを通して、今を生きるすべての人に勇気や人生のヒントを与える一冊となっている。また、イニエスタを尊敬してやまない7名のサッカー選手たちからのコメントをコラム「拝啓イニエスタ様」と題して掲載。サンジェルマンFC所属・メッシ選手はイニエスタ選手を「彼は極めて特別な選手です」とコメント。元サッカー日本代表・中村憲剛は「彼のプレーが日本で観られるということは、本当に日本の選手たちや子供たちにとって、とても大きな財産」と語っている。ほかにも、そばで見てきた選手たちだからこそ知る彼の真摯なサッカーへの想いや、チームメイトにだけ見せていた意外な一面なども。なお、ヴィッセル神戸オフィシャルショップでは、ヴィッセル神戸限定バージョンのカバーも販売している。喜久屋書店全店と、全国18の書店での購入者には、カバーをデザインしたクリアファイルがプレゼントされる。楽天ブックスと、ヴィッセル神戸オフィシャルグッズショップ・オフィシャルサイトでご購入の方にはそれぞれ異なるオリジナル・ポストカードが付属される。また、ヴィッセル神戸オフィシャルグッズショップ 「THE VISSEL」と、全国12の書店には、イニエスタ選手の等身大パネルが設置されている。特典は無くなり次第終了。【コンテンツ】第一章 私が日本を選んだ理由第ニ章 人生2度目の旅立ち第三章 勝者のメンタリティ第四章 責任と感謝の気持ち第五章 学び直しの連続第六章 家族の大切さ第七章 最善の選択コラム「拝啓イニエスタ様」・サンジェルマン FC リオネル・メッシ選手・サンジェルマン FC ネイマール選手・FC バルセロナ ダニエウ・アウヴェス選手・FC バルセロナ ジェラール・ピケ選手・元サッカーアルゼンチン代表 ハビエル・マスチェラーノ氏・元サッカー日本代表 中村憲剛氏・セルティック FC 古橋亨梧選手■購入特典(クリアファイル) 対象書店東京 ブックファースト新宿店東京 ジュンク堂書店池袋本店神奈川 丸善ラゾーナ川崎店神奈川 紀伊國屋書店横浜店愛知 ジュンク堂書店名古屋栄店大阪 ブックファースト梅田2階店大阪 紀伊國屋書店梅田本店兵庫 ジュンク堂書店西宮店兵庫 ジュンク堂書店三宮店兵庫 ジュンク堂書店三宮駅前店兵庫 ジュンク堂書店神戸住吉店兵庫 ブックファースト阪急西宮ガーデンズ店兵庫 ブックファースト西宮店兵庫 紀伊國屋書店加古川店兵庫 紀伊國屋書店神戸阪急店兵庫 大垣書店神戸ハーバーランドumie店兵庫 大垣書店プリコ神戸店広島 ジュンク堂書店広島駅前店全国 喜久屋書店全店※特典は数量限定のため、なくなり次第終了となります。■購入特典(ポストカード)対象店(1)楽天ブックス(2)ヴィッセル神戸オフィシャルグッズショップ・Jリーグオンラインストア店(2/14 より販売受付開始)・THE VISSEL・ハーバーランド店・スタジアムグッズショップ(ヴィッセル神戸ホームゲーム開催時のみ)※通常版・限定版それぞれのカバーをデザインしたオリジナル・ポストカードになります。特典は数量限定のため、なくなり次第終了となります。■等身大パネル設置書店東京 ジュンク堂書店池袋本店東京 ブックファースト新宿店神奈川 紀伊國屋書店横浜店愛知 ジュンク堂書店名古屋栄店大阪 紀伊國屋書店梅田本店兵庫 ジュンク堂書店三宮店兵庫 ジュンク堂書店三宮駅前店兵庫 大垣書店神戸ハーバーランドumie店兵庫 紀伊國屋書店神戸阪急店兵庫 喜久屋書店神戸南店兵庫 喜久屋書店西神中央店兵庫 喜久屋書店須磨パティオ店兵庫 ヴィッセル神戸オフィシャルグッズショップ 「THE VISSEL」『イニエスタ・ジャパン! 日本に学んだ 人生で大切なこと』著者:アンドレス イニエスタ発行:ぴあ株式会社発売:2月14日定価:1,650 円(税込)版型:四六判/無線綴じ/216Pヴィッセル神戸オフィシャルグッズショップ、全国の書店、ネット書店にて発売
2022年02月14日株式会社カブト(所在地:東京都港区、代表取締役:行木隆)のアスリート社員でビーチバレーボール選手の池田隼平(JUMPEI IKEDA)は、庄司憲右(KENSUKE SHOJI)選手とペアを結成し、世界を目指します。■背景株式会社カブトでは、ビーチバレーボールを日本でメジャースポーツにし、人々に夢や希望、元気を与えられる環境を構築するプロジェクトとして「KABTO beach volleyball project」を立ち上げました。その具体的なアクションとして、国際大会での上位進出を1つの目標として掲げています。この度、プロジェクトの目標及び想いを、共に2022年前期男子ビーチバレーボール日本代表※である池田隼平と庄司憲右選手で共有できたことによりペアを結成し、世界を目指すことになりました。池田・庄司ペア※ビーチバレーボールの「日本代表」とは、日本バレーボール協会(JVA)で選出された強化指定選手を指します。■選手プロフィール(1) 池田隼平池田順平出身地:熊本県阿蘇市経歴 :熊本県私立鎮西高等学校・法政大学卒2010年、2011年全日本バレーボール高等学校選手権大会(春高バレー)2大会連続準優勝2010~2011 U-18 日本代表、2012~2013日本代表2012年 U-20 アジア選手権大会優勝【ビーチバレーボール日本代表歴】2018年前期、2019年前期・後期、2020年前期・後期、2021年後期、2022前期(2) 庄司憲右選手庄司憲右選手出身地:鳥取県境港市所属 :愛媛県競技力向上対策本部/湘南ベルマーレ経歴 :島根県立米子西高等学校・天理大学卒【ビーチバレーボール日本代表歴】2019年前期・後期、2021年前期・後期、2022年前期■今後の展開今年は9月に杭州で開催される国際大会出場を目指します。その後は、世界各地で開催されるワールドツアーやアジアツアー、ジャパンツアーを転戦し、国際大会のポイントを獲得していきます。最終的に、国際大会のランキングで上位獲得を目指しながら、プロジェクトを遂行していきます。■会社概要商号 : 株式会社カブト代表者 : 代表取締役 行木隆所在地 : 〒105-0003東京都港区西新橋3-24-10 ハリファックス御成門ビル2F設立 : 2000年7月事業内容: システム開発・販売事業、リスクマネジメント事業、コンサルティング事業資本金 : 4,550万円URL : 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2022年01月12日社会学者としてだけでなく、TV番組の司会やコメンテーター、小説家など、活躍の場を拡げ続ける古市憲寿さん。その軽やかなフットワークのヒントを教えていただきました。社会学者で小説家、TVのコメンテーターとしても活躍する古市さんが注目を浴びるきっかけとなったのは、ちょうど10年前、26歳で刊行した著書『絶望の国の幸福な若者たち』(巻末には俳優の佐藤健さんとの対談を収録!)だった。ただし本人の感覚としては、人生を決定付けたターニングポイントは、大学生時代まで遡る。「大学3年生の1年間、ノルウェーに留学したんです。そこで学んだことを元に卒業論文を書いていた頃、大学院進学を勧められ、社会学を本格的に専攻することになった。キャリア形成という意味でも大きなポイントでしたが、あの1年で生き方、考え方自体がかなり変わりました」もともと留学を決めた理由は、「単純に就活したくなかっただけ(笑)。それで一番ゆっくりできそうな国を選びました」しかし留学当初は、後悔することも多かったそう。「初めての一人暮らしだし食事もそんなに美味しくないしいつも天気が悪いし、友達もすぐにはできないし。勝手に思い描いていたキラキラの留学生活とのギャップで、最初の1か月は鬱々としていました。でも、この気持ちって、過度に自分に期待しているから生まれるんだよなと気が付いたんです。“自分はもっとうまくできるはず”とか考えて縮こまらないで、今の自分にできることをやれればいいし、日常の中で楽しいと感じられる小さなことを拾い集めていけばいい。今はもう、自分に期待しないと割り切っているので、どんな大舞台に見える場所でも緊張せずに済むし、トラブルが起こっても一人で抱え込まず、あっさりと人に頼れる。自分に期待しないって、結構いいことずくめだと思うんです(笑)」それは、自己否定とは異なる。むしろ、適切な自己肯定だ。「自分の足りないところや、コンプレックスに感じるところを認識するのは大事だと思うんです。というのも、それが変えられないものだなと分かったら、肯定するしかないじゃないですか。ある種の絶望から、楽観は始まるんですよね。例えば“何をやっても長続きしない”と思っている人は、楽観的な見方をすれば“好奇心が旺盛”ですよね。自分の淡泊な顔が気にくわなくても、実はそれって誰に対しても威圧感を与えない顔かもしれない。太っている人って、優しそうに見えたりしますよね。全ては解釈次第で、どんなコンプレックスも、見方を変えれば必ずいいことだと思えるようになる。別に“新しい自分”を目指さなくても、今の自分のままでも自分を肯定できるはずなんです」8月に出した新著の題名は『楽観論』だが、100%の楽観を目指せと説いているわけではない。大前提として悲観や「諦め」はありつつ、「それでも」自分自身や世の中に対していいところを探す。そんな柔軟なバランスを提案している。「自分の能力を活かせる場所は、この世界のどこかに必ずある。気付いていないだけで、“ここ”がそうかもしれない。こんな時代だからこそ、日常生活の中に少しの楽観を取り入れてみてほしいです」Noritoshi Furuichi1985年、東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。小説家として芥川賞に2度ノミネート。最新の著書は『楽観論』(新潮新書)。※『anan』2021年9月22日号より。写真・井手野下貴弘ヘア&メイク・堤 紗也香取材、文・吉田大助撮影協力・BACKGROUNDS FACTORY(by anan編集部)
2021年09月18日「僕は“勝手口”からこの世界に入った人間なので…(笑)」――。そう語るのはミュージシャンの牛尾憲輔。ソロユニット“agraph(アグラフ)”として活躍する一方、「LAMA」としてのバンド活動、「電気グルーヴ」のライブサポートやDJプレイなど、多方面で精力的に活動している。もうひとつ、牛尾さんの音楽活動の一面として、忘れてはならないのが“劇伴(げきばん)”と呼ばれる、映画やTVシリーズ作品の音楽の仕事。冒頭の「勝手口」発言は、この劇伴の仕事を指したもの。20代の頃から仕事として音楽に携わり、ソロアーティストとしても十数年のキャリアを誇る牛尾さんだが、劇伴を担当するようになったのはこの6~7年のこと。2014年のアニメシリーズ「ピンポン THE ANIMATION」を皮切りに、アニメーション映画『聲の形』、『リズと青い鳥』、さらに『麻雀放浪記2020』など、この6~7年ほどの間で次々と話題作の音楽を手がけてきた。昨年末にアニメ化が発表された「チェンソーマン」の音楽も担当しており先日、公開された音楽が入ったティザー映像も大きな話題を呼んだ。そんな牛尾さんが音楽をつけた最新の実写映画『子供はわかってあげない』が公開を迎えた。この機会に牛尾さんにインタビューを敢行。映画の世界で働く人々にその仕事について話を伺う【映画お仕事図鑑】連載第11回のテーマは「劇伴」!映画の音楽ってどうやって作るの? 普段の音楽活動との違い、その魅力は? たっぷりと話を聞いた。「ピンポン」で初めて担当した劇伴それまでの音楽活動とは「全く別物だった」――牛尾さんが最初に劇伴を担当されたのは2014年にフジテレビのノイタミナ枠で放送された「ピンポン THE ANIMATION」(湯浅政明監督)ですね?そうですね。メインで劇伴の全てを手掛けたのは「ピンポン」です。ただ、その前に知り合いのアーティストの方に「劇伴に参加してみないか?と声を掛けていただいて、ちょっとだけ参加したことありました。――「ピンポン」のオファーが来て、劇伴をご自身で手掛けることになったときの心境は?最初は不安でしたね。「できるのかな…?」と。そもそも劇伴というのは特殊な世界なので、ちゃんと劇伴のことを学ばないとできないと思っていましたし、僕はそれまで、基本的に自分のアーティスト活動しかしてこなかったので、白羽の矢を立てていただいたものの「僕(=音楽)がコケてしまったら、何百人という人が関わっている作品そのものにケチをつけてしまうことになるんじゃないか…?」とすごく緊張したこと覚えていますね。――アーティストとしてもともと劇伴に興味はおありでしたか?アーティストとしての活動の中で、テクノロジーをベースにした音楽を作っていたので、映像に音楽をつけるという部分で、技術的にトライしてみたいことはあるなという思いは持っていましたね。「こういう技術を使ってこういうことをやれば、きっとこんなことができるなぁ…」と挑戦してみたいという気持ちはありましたね。――実際「ピンポン」で劇伴を担当されてみていかがでしたか? それまでの音楽制作とはやはり違いましたか?全然違いましたね。とはいえ「ピンポン」の時にそれがきちんとできていたかどうかは怪しいですが…(苦笑)。とにかく全く別物でした。劇伴の場合、作った音楽を「これでOK」とジャッジするのが自分じゃないんですよね、それまでセルフプロデュースでクオリティを研ぎ澄ましていくということしかやってこなかったのですが、劇伴の場合「いかに作品にフィットするか?」ということが評価軸になるので、それはすごく新鮮だったし、そこで自分の足りない部分が見えてきたりもしました。――その後も京都アニメーション制作の映画『聲の形』、『リズと青い鳥』(いずれも山田尚子監督)など、次々と話題作の劇伴を担当されました。こうした活動を通じて、改めて感じた普段の音楽活動と劇伴の違い、劇伴ならではの面白さなどについて教えてください。先ほども言いましたが、これまでソロでアーティストとして活動してきて、単に自分の世界観とか自分のクオリティを研ぎ澄ますということであれば、自由に作れるんですよ。例えば、普段からダンスミュージックや電子音楽をベースにしていると、どうしても2のべき乗(※1,2,4,8,16…という2の累乗数)のリズムで作りたくなるんですね。でも映画ってそんなリズムとは関係ない。「このシーンは20秒と2コマ」と言われても、それは4小節にはならないわけです。音楽って時間軸をコントロールするものだと思いますが、映画の場合、音楽以外のものに主従関係の“主”があるわけで、それは普段の音楽活動とは全く違うものでしたね。そういう意味で、普段からのアーティスト活動も劇伴もどちらも「音楽」という言葉で表現されているけど、全く違う言葉で表さなくてはいけないものなんじゃないか? と思うくらい違うものだったし、それは発見であり、劇伴での経験から自分の活動へのフィードバックもあったし、すごく面白かったですね。――いま、ジャンルの話が少し出ましたが、agraphとしての活動でやられているのは電子音楽ですが、劇伴では作品に合わせて全く異なるジャンルの音楽を手掛けられています。牛尾さんが手掛けた複数の劇伴とagraphとして発表された作品を並べたとき、同じ人が作ったと知って、驚く人もいるのではないかと思います。いやぁ、そう感じていただけるのはすごく嬉しいです。最近、 “牛尾節”的な言い方をしてくださる人もいて、僕としてはそれはあんまり嬉しくないんですよね(苦笑)。賞味期限が短そうじゃないですか? 細く長くやりたいと思っているので…(笑)。それぞれの作品のジャンル的な違いについて、比喩的な言い方をしますと、真ん中に僕が音楽を手掛けてきた“作品”があるとして、僕が“作り手”の側にいて、作品を挟んで反対の側に“視聴者・観客”がいるとします。“視聴者・観客”側から見ますと、作品ごとに異なる様々なジャンルの音楽に見えると思うんですよ。「ピンポン」のようなテクノ系もあれば『聲の形』のような繊細なもの、今回の『子供はわかってあげない』のように、音楽というよりも映像に合った“音”が並んでいるような作品まで、様々な見え方がしていると思います。でも作り手の側の僕からしたら、制作のプロセスというのはほとんど一緒なんですよ。つまり、もともとの僕が音楽をやる上でのベースになっている“思想・哲学”みたいなものがあって、ほとんどの作品はそのフィルタを通って作られているんです。簡単に言葉にできないけど、ある哲学や思想が最初にあって、それをベースに個々の作品に寄り添いながら「こういう音楽にしよう」「こういうフレージングをして…」という感じでそれぞれの作品ごとの音楽を作っていく感じなんですね。そういう意味で、あんまりジャンルの違いで戸惑うようなことはないんです。同じスタートラインから始まって、4小節を「ドン! ドン! ドン!ド ン!」という強いリズムで均等に分割にすればテクノになるし、そうではなく、作品のゆっくりした雰囲気に合わせて、4小節を均等にではなく、例えば「ドン! ドーン…ドッ」というリズムにして有機的な音を組み合わせれば、また違ったジャンルの音楽になるんですね。創作の最初の一歩目に関しては、同じ部屋で同じコンピュータに向かって同じソフトを使ってやっているので、僕にとっては同じなんですね。ただ、作品ごとに向き合っていく“角度”が少しずつ違っていて、その角度の違いは最初の時点では1°とか2°くらいのすごく小さなものなんだけど、それが劇伴として観客・視聴者のみなさんに届く頃にはすごく大きな差になって見えてくるんですね。――いまおっしゃった「哲学・思想」というのは、担当する各作品のということではなく、あくまでも“牛尾さん自身が、音楽を作る上での”ということですね?そうです。おこがましい言い方ですが、それが例えば今回、沖田監督が僕を選んでくださった理由の部分でもあると思います。“作家性”と言い換えてもいいと思います。――その作家性と関連するかもしれませんが、これまで劇伴のオファーが届いたときに「え? この作風の監督が自分に音楽のオファーを?」と驚かれたことはありますか?ビックリすることはあります。それこそ今回の沖田監督の作品は以前から大好きで、『南極料理人』が公開されたのはちょうど大学生くらいだったかな? 世代的にもドンピシャで、お声がけいただいてすごく嬉しかったです。白石和彌監督(『麻雀放浪記2020』)もそうですね。僕は電気グルーヴとご一緒させていただいてきて、ピエール瀧さんからも白石監督について話を伺っていて「すごいな」と思っていたので、そういう監督からお声がけいただいたのはビックリしましたし、嬉しかったですし、面白いですよね。あえて全ての効果音をミュートして書き上げた、上白石萌歌と千葉雄大の車のシーン その意図は…?――アニメーション作品と実写作品で劇伴制作に違いはありますか?それはありますね。実写は基本的には“ピクチャーロック”と言われる、CGや色はまだ粗い状態だけど、基本的な画が出来上がっている「だいたいこういう映画ですよ」というのがわかる状態の映像が送られてきて、そこから劇伴の制作がスタートします。実写であれば、その段階で登場人物たちは動いているし、色も乗っているし、生音の効果音が乗っているんですね。でも、アニメーションだと、最初に頂く映像はバラバラだし、最後の最後……試写の前日くらいまで出来上がってなかったり、なんなら試写も回せない状態だったりするんですね。――なるほど、音楽をつける段階での映画そのものの完成度が実写とアニメでは全然違うんですね。加えてアニメの場合、当たり前ですけど、生の効果音がなくて、足音も衣擦れの音も、全てつけない限りは無音なんです。その差による違いはすごく大きいですね。影響を受ける部分も多いです。映画の中にセリフや環境音といったロゴス(=論理・意味)的なものが存在するときに、それを「支えるのか?」、「邪魔するのか?」、それとも「引くのか?」 ということをこちらでやらないといけないわけです。だから、元の映像に効果音があるかどうかというのはすごく大きいですね。例えば怒っている人が机を叩いた「ドンッ!」という音があったとして、実写であればピクチャーロックの段階でその音が既に存在していて、聞こえるわけです。なので、音楽をつける際に、その音にかぶらないようにしたりするんですけど、アニメの場合、その効果音が最後のダビングの段階まで鳴らないわけで、それはこちらが仕事をする上ではすごく難しいんですね。今回の『子供はわかってあげない』だと、美波(上白石萌歌)と明(千葉雄大)が、お父さん(豊川悦司)の家に向かう途中の車に乗ってるシーンで、まさにいまお話したような音楽の作り方をしています。僕のほうから沖田監督にお願いして、あのシーンの実景の音や車の音を全てカットしてもらったんです。というのは、僕があのシーンの曲を書いた時、効果音をミュートして、完全に画に合わせて書いたんですね。そうしたら“夏の予感”みたいな、すごくメロウな雰囲気の曲ができたので監督に「もしよかったら、これを聴いてみてくれませんか? 僕自身が効果音のない環境で画だけを見て書いたので」と説明して、それでOKをいただきました。――ここからさらに今回の『子供はわかってあげない』に即して劇伴制作についてお聞きしていきますが、その前に映画そのものについて、牛尾さんの感想をお聞かせいただけますか?もう沖田さんらしい“間”とかが、すごく面白くて…。沖田さんって本当にこういう奇跡みたいなフィルムを作るんですよね。先ほども言いましたが、音楽を作る上で、ある程度の映像をいただいた上で曲を作り始めているので、ずっと自宅のサブディスプレイに映像を流し続けてたんですけど、(細田)佳央太くんがすごくかわいくて好きになりましたね(笑)。「みんな! とにかく佳央太くんを見てくれ!」って思いました。「音が並んでいる」――“何も起こらない”のが魅力の沖田修一監督作品に寄り添ってできた劇伴――今回の劇伴に関して、先ほどのお話の中で「音が並んでいる」という表現をされていました。実際、映画を観ると、牛尾さんの制作された音楽だけでなく効果音やセリフも含めて、“音”がすごく印象的でした。今回の劇伴の制作の過程について振り返っていただけますか?今回の作品で最初に沖田さんと顔を合わせたのは……渋谷の焼肉屋だったはずなんだけど…(笑)、何を話したかなぁ? あぁ、たしか最初に「ハバネラ」の話があったんじゃなかったかな?――序盤の美波ともじくん(細田佳央太)の会話の中で、ゆったりしたリズムで流れる「ハバネラ」(※オペラ「カルメン」で歌われるアリア。本作の予告編でも使用)ですね。ということは、あの「ハバネラ」は監督の提案で?そうなんです。すごく申し訳なさそうな顔をしながら沖田さんが「すいません、牛尾さん。なぜか頭の中に『ハバネラ』が鳴り響いていまして…』って(笑)。こちらは「???」という感じだったんですけど(笑)、いま考えると、言っていただけてよかったなと思います。監督の話を聞いて「ハバネラ」バージョンと、そうじゃないバージョンを作ってみたんですけど、「ハバネラ」のメロディって聴けば誰でもわかる強いメロディだけど、ゆっくりにするとスカスカになるんですよ。音が落っこちてくるような感じというか…本来はすごくハーモニー豊かな曲なんですけど、それが一音、一音に寄っていく感じになるんですね。最初にゆっくりの「ハバネラ」を聴いた時、音が“密”ではなく“疎”になっていくのを感じて、それが大きな発見だったというか「これを劇伴全体を通してやってみようかな」と思いついたんですね。こういう言い方が正しいかわからないけど、それってすごく沖田作品に合う気がしたんです――「ハバネラ」によって、劇伴の方向性が決まったと?この映画、もちろん美波をはじめ、何人かにとっては、人生におけるすごく大きなことが起きる映画ではあるんですけど、とはいえ、それでも沖田監督の映画って何も起きないことが魅力なんですよね。相対的に、例えば宇宙大戦争的な作品と沖田作品を並べたとき、沖田作品って格段に“何も起きない”じゃないですか(笑)? そういう何も起きないけど、でも繊細で些細なことがすごく意味を持ってくる――そんな視点・視野を持っているんですよね今回の映画の中でも、お父さんと美波がご飯を食べている時、食べ物が飛んじゃって「ごめん」「いいよ」ってやりとりがあったんですけど、あれはアドリブなんですよね。でも、あそこにちゃんと視点があるっていうのは、沖田さんの作品ですごく大事なことだと思うんです。あの関係性を描いているってことは、あらすじに太字で書くべき重要なところなんじゃないかって(笑)。それくらい本当に一見すると何も起きてないような状態であっても、でも注目したものが繊細な動きで情感豊かなものになるっていうのは、僕が沖田さんの作品の中でも大好きな部分で、そこに向けて、さっきお話した自分の“哲学・思想”を発射させると、結果ああいう音楽になるのかな? と思います。――他に音楽に関して、沖田監督からリクエストなどはなかったんですか?そこまで大きなリクエストみたいなものはなかったと思います。ただ、こまごまと「ここはどうしましょうか?」という話はいろいろとしましたね。例えば、美波とお父さんが浜辺で歩いているロングショットのシーンとか。あのシーンの劇伴は果たして音なのか? それとも音楽なのか――? 僕自身、あれが曲なのかどうかもわからないんですけど、あれが「ありやなしや?」という話なんかはたくさんしましたね。ドラムの音だけが響き渡るクライマックスの“挑戦”――終盤の美波ともじくんの重要なシーンで、ドラムの音だけをバックにドラマが進んでいくところも印象的でした。冒頭で美波がもじくんと出会ったシーンでは、2人が屋上から校舎を降りてくるんですけど、あの終盤のシーンは、逆にのぼっていくんです。沖田さんからは「もう、しっちゃかめっちゃかでワケがわかんなくなっている美波でありたい」と言われて、それはどんな感じなのかな? とずっと考えていたんですが「フリージャズみたいな」という言葉を沖田さんからヒントとしてもらって、それならドラムで、リズムもだんだんメチャクチャになっていくような感じがいいかなと思いました。それで、冒頭で2人が降りてくるところのセリフのやりとりを使用して、“ダブ(※)”というんですけど、ワーッとエコーを重ねていく手法でやってみたいなと沖田さんに相談したら、最初は「うーん…」と考え込んでいたんですけど、最終的には「それでいきましょう」ということになりました。※リズムを強調してミキシングし、エコーなどのエフェクトを過剰に施し、原曲とは全く異なる作品に作り変えてしまう手法。――沖田監督は、牛尾さんのそうしたアイディアを積極的に取り入れていってくれたんですか?いや、笑顔で譲らないんですよ、沖田さんって(笑)。何より作品のことを第一に考えて、ダメな時はダメとハッキリと言うので、その中で僕は「こんなのどうですか?」「じゃあこれは?」と次々と球を投げるというのを繰り返していました。――改めて今回の劇伴において、本作ならではの新たな部分、いままでにない挑戦をした部分はどういったところですか?やはり、先ほどお話した、ドラムのソロでセリフがグルグル回るという終盤の部分ですね。ダビングステージという映画館のようなスタジオなんですけど、そこで実際の映像を流しながら、ミキシング・コンソールという機材を使って、その場でDJのように卓を演奏して、あのシーンの音楽を聴いてもらったんです。あれはセッションみたいですごく面白かったですね。――最後に牛尾さんが感じる劇伴の魅力、面白さについて教えてください。なんでしょうね? 勝手口からこの世界に入っておいて、その視点で好き勝手なこと言うと、他のちゃんと劇伴を学んで活躍されている作家さんたちに失礼ですけど……でも劇伴って楽しいなって思います。やってて楽しいですよ(笑)。ミュージシャンってつい手癖でやってしまったりするし、アーティスト活動をやってても、結局、いつも同じことの繰り返しになっている部分もあって悩むんですけど、劇伴って自分にない引き出しや忘れていた引き出しを引っ張り出さないといけなかったりするんです。さっき「フリージャズのような」という話が出ましたけど、僕自身は電子音楽畑の人間なので、ジャズは全く通ってないし、フリージャズなんてできないんですよ。でも、おそらく沖田さんが「フリージャズ」という言葉で表現したものは、本当のフリージャズじゃなくて、もっと衝動的な何かだったり、グチャグチャになっていく何かだったんだと思うんですよね。そこで、自分の引き出しの中にあるものをあれこれと組み合わせて、沖田さんの求めるものを狙って曲を作っていくんですけど、そういうことをしていると、今度はアーティスト活動のとき、それまでの自分では思いつかなかったようなことを思いついたりするんです。例えば普段の音楽活動でもドラムの打ち込みをすることはあるし、それで生っぽいものを表現したり、先ほども話に出た“ダブ”という手法でエコーを重ねるようなこともするけど、それらを組み合わせて何かを作るっていうことは、リクエストがないと自分には思いつかないですよね。そういう意味で、劇伴の制作が自分の中の面白い発見につながるなと感じています。僕のような者がお名前を出すのも本当におこがましいんですけど、武満徹(※)先生が、「ノヴェンバー・ステップス」という世紀の名曲を書かれる前に、その着想を得たのは劇伴だったそうです。それは『切腹』(1962年/小林正樹監督)という映画で、そこでオーケストレーションの中に邦楽器を取り入れたことで、そちらに意識が向いたということをおっしゃっていたのを以前、拝見しました。※ほぼ独学で音楽を学び、西洋音楽に東洋の伝統的な楽器や手法を取り入れるなどして、映画や舞台の劇伴から電子音楽、オーケストラまで幅広いジャンルで名曲を残した世界的作曲家。代表作に「ノヴェンバー・ステップス」など。1996年没。そうやって劇伴での経験を自分の作品にフィードバックして、そこからまた新しいものが生まれていくというのはすごくポジティブなスパイラルだなと思いますし、楽しいです。「劇伴と普段の音楽は全く別物」と言いましたが、とはいえ、そんなことを意識せず、楽しめる素敵なお仕事だなと感じています。(text:Naoki Kurozu)■関連作品:子供はわかってあげない 2021年8月20日より全国公開©2020「子供はわかってあげない」製作委員会©田島列島/講談社
2021年08月30日過去のいじめ問題がきっかけとなり、ミュージシャンの小山田圭吾さんが、東京五輪開会式の楽曲担当を辞任することが発表されました。同件は、小山田さんが、障害のある同級生などにいじめを行っていたことを明かした、1990年代のインタビュー内容が拡散されたというもの。小山田さんが楽曲を担当する東京五輪には、障がい者スポーツの大会であるパラリンピックもあり、かついじめの内容も度を越えたものだったことから、批判の声が殺到しています。古市憲寿「そもそも『いじめ』という言葉がよくない」2021年7月19日、社会学者の古市憲寿さんが自身のTwitterを更新。内容に反響が上がっています。フォロワーに小山田さんの件について聞かれた古市さんは、自身の考えをこう明かしました。「いじめ」に関する報道に思うことはずっと一緒で(これまで何度も発言したり書いてきています)、そもそも「いじめ」という言葉がよくないと思うんです。刑法における暴行罪や傷害罪に当たるなら刑事事件になるべきで、学校空間を聖域にするべきではありません。@poe1985ーより引用古市さんはそもそも『いじめ』という言葉がよくないとした上で、「学校空間を聖域にするべきではない」と指摘。また、問題なのは『いじめから時間が経過してしまった場合』とし、「すべての被害者がすぐに告発できるわけではない。言葉にできるまでに10年、20年かかることがある」と被害者の心に寄り添いました。続けて、古市さんはこう持論を展開しています。当事者の問題であること、日本は法治国家であること、の二点が重要だと思います。私刑は許されないわけですから、当事者が告発したい場合に、それを支援する制度や社会のあり方は大事です。だけどそれを、それこそ「いじめ」のような形で加害者を糾弾するのは反対です。@poe1985ーより引用最後に、「当事者が告発をしたい場合に、それを支援する制度や社会のあり方が大切」と持論をつづっています。投稿には、ネット上でさまざまな声が寄せられました。・「『いじめ』という言葉がよくない」というのは本当に共感。その言葉があることで、いじめの実情が曖昧になっている気はする。・当事者が告発できる社会の構築っていうのは少し難しいのかも。もちろん実現するのが理想だけど…。・開会式の作曲家としてふさわしくないという批判は仕方がないと思う。けど古市さんのいうように、私刑にしていい、というわけでもない。ネット上では賛否が分かれた、古市さんのいじめに対する持論。いじめに関する問題を他人事として済まさず、正しい方法によって少しでも傷付く人を減らす努力が必要でしょう。[文・構成/grape編集部]
2021年07月20日「夫婦2人家族なのに、自宅の6人掛けテーブルも、なぜか隣同士に座る私たちでした。トッちゃんは、いつも横にいたんです……」夫・赤木俊夫さん(享年54)との幸せな歳月を昨日のことのように振り返るのは、妻の雅子さん(50)。目尻を下げ、思い出したようにこんなエピソードも明かす。「夫は使い古した下着で靴を磨くんです。それをリビングに2週間も置きっぱなしにしたことがあって。私はそれが、どうしてもイヤで“プチどっきり”のつもりで鞄にこっそり忍ばせたんです」俊夫さんは、職場からメールで一言「もう!」。それがちっともケンカにならず、笑いに変わる、仲むつまじい夫婦だった。そんな、ささやかな幸せにあふれた23年間にわたる結婚生活は、突然終わりを迎える。財務省近畿財務局職員だった俊夫さん。’18年3月7日、学校法人森友学園への国有地売却をめぐる財務省の公文書改ざん問題で、改ざんを強制させられたことを苦に、自ら命を絶った。雅子さんは、昨年3月に、国と佐川宣寿元財務省理財局長(63)を相手に損害賠償を求め提訴。誰のどんな指示があったために、俊夫さんが死に至ったのか、その真実を明らかにしたいとの思いからだ。そこで真相解明の糸口となっていたのが、赤木ファイルである。雅子さんは、これまで国にファイルの開示を求めていたが、国はその存否さえ明らかにしてこなかった。しかし今回、6月23日に大阪地裁で行われた第4回口頭弁論にあたり、ついにその赤木ファイルが裁判資料として提出され、ついに内容が公開されたのだ。全518ページの膨大な赤木ファイルは、まさに俊夫さんが命を懸けて残した「国の改ざんの記録」。そして、決してやりたくない改ざんをやってしまった俊夫さんの悲痛な心の叫びでもある。■的中した雅子さんの懸念この日の弁論の最後に、雅子さんは背筋を伸ばし思いを述べた。「赤木ファイルを見て、手書きの文字が夫の字だとすぐにわかりました。夫が苦しい立場に追い込まれながら、赤木ファイルを作ってメモを残してくれたのだと思うと、涙が出そうになりました」雅子さんの知らなかった事実もたくさん記載されていたという。「夫が、具体的な説明もなしに、改ざんに反対をしても、一方的に改ざんを指示されて苦しんでいたことが、わかりました」当時の俊夫さんの様子を、雅子さんはこう語っていた。「’17年に問題が発覚してからは、次第に夫から笑顔が消え、心療内科に通うようになりました。テレビで森友問題のニュースが流れても、何も聞けませんでした」いつも隣にいて、どんな話題も笑いに変わる夫婦だったのに、会話が極端に減ってしまったという。ファイルの開示により、ようやく当時の夫の心の内を知ることができたが、まだ納得できないところがあると雅子さんは語る。この日に公開されたファイルは、所々が黒く塗りつぶされている。その部分はほとんどが、財務省理財局や近畿財務局の職員名と思われる箇所。約400カ所もの“黒塗り”は、改ざんが「誰からの指示」だったのかを隠し続けているのだ。雅子さんはこの裁判の前に、「黒塗りだけはやめてほしい」と本誌に不安を漏らしていたが、その懸念が的中する形となった。さらに、麻生太郎財務大臣(80)はファイルが証拠として提出された際「再調査は考えていない」と即座に発言。国は幕引きを図ろうとしているようにみえる。なぜ国は、この事件を一刻も早く「なかったこと」にしようとしているのか。裁判後の夕刻、疲れた表情ながらも、雅子さんは本誌に決意を語ってくれた。「トッちゃんの、つらかった思いは、私が受け取りました。すべての黒塗りがなくなり、真相が明らかになるまで、最後までやり抜きます」
2021年06月29日学校法人森友学園への国有地売却をめぐる財務省の公文書改ざん問題。改ざんの経緯を明らかにするカギとなっていたのが、当時改ざんを強制されたことを苦に自死した赤木俊夫さん(享年54)が残した「赤木ファイル」だった。妻の雅子さん(50)は昨年3月に、国と佐川宣寿元財務省理財局長(63)を相手に損害賠償を求め提訴。事件の真相解明をもとめ、ファイルの公開を要求してきたが、国はその存否さえ明らかにしてこなかった。しかし今回、6月23日に大阪地裁で行われた第4回口頭弁論にあたり、ついにその赤木ファイルが裁判資料として提出され、内容が公開となった。雅子さんが裁判後の夕刻、疲れた表情ながらも、本誌に心境を語ってくれた。「やっぱり、赤木ファイルには、“その名前”の記載があったんだなと思いました。それを隠したかったから、1年3カ月も国は出さなかったのかもしれない……」雅子さんが開口一番に言った「その名前」とは、安倍晋三前首相の妻・昭恵氏のことだ。そもそも、俊夫さんが財務本省からの指示で改ざんを強いられるきっかけとなったのは、’17年2月17日の国会における、安倍前首相の次の発言だと考えられている。「私や妻が(森友学園の問題に)関係しているということになれば、間違いなく総理大臣も国会議員も辞める」■「安倍さんは国会議員をまだされていますね」しかし、実際は「安倍昭恵総理夫人」の文字が森友学園に関する公文書に存在。そのため、その文言を消すために、この発言の直後から改ざんが始まったとみられていたのだ。今回の赤木ファイルの公開で、確かに総理の発言の直後から、改ざんが始まったことが明らかになった。《当該文書を確認していたところ……現時点で削除した方が良いと思われる箇所があります。当該箇所をマーキングしておきました》この改ざん指示の文章は、同年2月26日に財務省理財局係長から俊夫さんを含む近畿財務局職員7人に宛てられたメールの一部。そして《当該文書》には、次の部分がマーキングされていた。《打合せの際「……安倍昭恵総理夫人を現地に案内し、夫人からは『いい土地ですから、前に進めてください』とのお言葉をいただいた」との発言あり(森友学園籠池理事長と夫人が現地の前で並んで映っている写真を提示)》その安倍前首相に、雅子さんはいま、こんな言葉を投げかける。「実際、安倍さんの名前と昭恵さんの名前が、赤木ファイルに出てきました。でもいま、安倍さんは国会議員をまだされていますね。あの国会での発言後、夫は改ざんを指示されたんです。『関係している』ことは明らかですよね。いま、何と答えるのか、安倍さんに直接、聞いてみたいです」そして、裁判は今後も続く。「理不尽なパワハラはどんな職業でも起こりうるし、いまもどこかで苦しんでいる人がいる。裁判を通して『やってはいけないことはやってはいけない』と伝えたい」最後に、雅子さんは言い切った。「トッちゃん(編集部注・俊夫さん)の、つらかった思いは、私が受け取りました。すべての黒塗りがなくなり、真相が明らかになるまで、最後までやり抜きます」
2021年06月29日「やっと、一歩、進んだ感じがします」どんよりとした雲のあいだから、ときおり陽光がのぞく日曜日の午後、本誌編集部を訪れた赤木雅子さんは、やや明るい声で言った。’18年3月7日、森友学園事件にまつわる公文書の改ざんを強制させられたことを苦に、財務省近畿財務局の職員だった赤木俊夫さん(享年54)が、自ら命を絶った。23年間連れ添った妻・雅子さんは、財務省による改ざん事件の真相を解明するため、昨年3月に国などを相手に提訴。俊夫さんが改ざんの経緯を記したとされる“赤木ファイル”の公開を求めていた。国は、これまでファイルの有無について解答を拒んできた。しかし一転、5月6日にファイルがあることを認め、次回6月23日の弁論で、裁判資料として提出するというのだ。「それまでずっと、存在について尋ねても『探索作業中』と言われていました。あることは間違いないのに、あるともないとも明言せずに、逃げてきたんです。今回、公開が決まったことについて、弁護士の先生も『珍しいことですよ』とおっしゃっていました。おそらく世論の後押しのおかげだろうと」しかし、この公開を「まだ手放しでは喜ぶことはできない」と雅子さん。国や自治体、公的機関などが資料を開示する場合、都合の悪い部分や人物名を“事件と無関係”“公人ではない”などとして黒く塗りつぶすことが多いためだ。いわゆる“黒塗り”である。■国は黒塗りで何を隠したいのか?今回も国は「メールに記載されたパスワードや、裁判に関連しない第三者の個人情報などが含まれている」ことを理由に、資料の一部をマスキングするという。元NHK記者で森友事件に詳しいジャーナリストの相澤冬樹さんはこう指摘する。「赤木ファイルの資料の中には印刷されたメールが含まれています。おそらく俊夫さんが受け取っていたメールには『誰々がここを消せと言っている』という内容が含まれているはずです。もしそこに『安部昭恵』『首相夫人』などというワードがあったら、実際は当事者なのに、国は『第三者』という理屈で消してしまおうと考えるでしょう。生前、財務省の決裁文書から昭恵夫人にかかわる部分を消したとされる俊夫さんですが、誰の指示もないのに消すはずはありません。もし資料に記載がないというのなら、意図的に抜いている可能性が高いのです」一方で雅子さんは「この裁判資料のマスキングを指示されることによって、また公務員の誰かが苦しめられるのでは」と憂慮する。夫の俊夫さんが自責の念に苛まれた改ざん作業の中には、マスキングの作業も含まれていたのだ――。「夫の手帳には’17年2月26日から始まった改ざん作業についての記録が残されています。その中の3月7日ごろに『PDF、マスキング』というメモが残っているんです。マスキングをする人がいれば、その人も“真実を隠す”行為に手を染めることになってしまう。夫はそれを苦に命を絶ったのです。その再発だけは防いでほしい。それだけはやめてほしい」“赤木ファイル”の公開は今月23日。裁判への関心がより高まることで、マスキングされる部分が少しでも減るようにとの思いから、雅子さんはこの取材を受けたのだ。「夫が残した資料は、改ざんがどのように行われたかの経緯です。そこに登場する名前は、裁判に関係しないなんてことはないでしょう。私が知りたいのは真実です。だれが何を指示したがために、夫が資料を改ざんすることになったのか、それを明らかにしたいのです」
2021年06月14日SNSの普及にともない、昔の友人や連絡の途絶えた幼馴染などをインターネット上で見つけ、再び連絡をとりあうことができるようになりました。昔の友人とつながることは懐かしい話で盛り上がったり、現在の姿に驚いたりと、楽しいものですよね。古市憲寿「18年ぶりに話せた!実は大学の同級生で…」2021年2月9日、社会学者の古市憲寿さんがTwitterを更新。音声SNS『Clubhouse(クラブハウス)』で、18年ぶりに会話したある友人とのエピソードを明かし反響を呼んでいます。クラブハウスとは、自分でルーム作りそこに友人を招待して会話を楽しんだり、ルームに入って話を聞いたりすることができるサービス。驚きの声が多く寄せられた、投稿がこちらです。クラブハウスで水嶋ヒロくんと18年ぶりに話せた!実は大学の同級生で、入学当初に会っていたのを覚えていてくれた。あと昔、YouTubeの悪口を言ったのもばれていた— 古市憲寿 (@poe1985) February 9, 2021 なんと、古市さんと俳優の水嶋ヒロさんは、2003年に慶応義塾大学へ入学した『同級生』だといいます。音声での会話を楽しめるクラブハウスで、水嶋さんと久しぶりに会話した古市さん。投稿では、「昔水嶋さんのYouTubeチャンネルの悪口をいったことがバレていた」と冗談交じりに明かしました。きっと、水嶋さんが18年経った今でも自分のことを覚えていてくれたことを、嬉しく思ったことでしょう。ネット上では、古市さんと水嶋さんの意外な関係に、驚きの声が上がっています。・まさかすぎる2人でした…!どちらも好きなので、嬉しい!・覚えていてくれてよかったですね。意外な組み合わせだったのでビックリです!・古市さん、悪口はほどほどに!クラブハウスで聞いていましたが、とても楽しいやりとりでした。SNSを通じて、学生時代を振り返った古市さんと水嶋さん。同窓会などができない中でも、SNSを通じて懐かしい友人とやりとりをするだけで、ちょっとした同窓会気分を味わうことができるかもしれませんね![文・構成/grape編集部]
2021年02月10日本日1月27日に発売された『FOOTBALL PEOPLE 川崎フロンターレ 中村憲剛特集号』では、中村憲剛氏とつながりが深い方々にインタビュー。誌面の都合で泣く泣くカットせざるを得なかった盟友・伊藤宏樹氏(現・川崎フロンターレ強化部)との対談の未公開部分を昨日に続き掲載。後編は長年、兄と弟のような関係で切磋琢磨してきたふたりが、印象に残っている試合やゴールについて語り合う。――印象に残っているゴールを教えてください。中村憲剛(以下、中村)「俺は2007年のナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)で、宏樹さんがアウトサイドに(巻いて)かけて、サイドネットに突き刺さったゴール。あれは、宏樹さんのゴールのなかでもすごく覚えてる」伊藤宏樹(以下、伊藤)「あれ?その試合に憲剛いたんだっけ?」中村「いましたよ」伊藤「いたか」中村「あれはいました(笑)」伊藤「憲剛はいつもカップ戦にあると、代表でいないイメージだったから」中村「あのときはいたんですよ、なぜか」伊藤「(チョン・)テセのゴール、アシストした?」中村「した、した。俺、意外と宏樹さんの生涯ゴールの半分ぐらいはアシストしていると思う。セットプレーも含めて」伊藤「少ないからな(笑)」中村「たぶん5点、6点くらいでしょ?そのうち3点ぐらいは俺がアシストしているよ」伊藤「もうちょっと(点は)多いわ!」――宏樹さんは憲剛さんのゴールで印象深いものはありますか?伊藤「ゴールでいうと、プロ1年目のアウグストからのボレー。まだ憲剛が26番のとき。引退セレモニーの『ThanksVTR』のなかでも流れていたけど」中村「あれね」伊藤「あとは、アシストは熊谷での大宮アルディージャ戦。ジュニーニョに出したロングスルーパス、かな」中村「それもう、だいたい世に出ているやつじゃないですか。……別のやつもらってもいいですか?(笑)」伊藤「じゃあ、やめようか?(笑)」中村「大丈夫、大丈夫、それでいい(笑)」伊藤「まだ、いっぱいあるけど、憲剛とジュニーニョの“翼くん・岬くんゴールデンコンビ”みたいに決めたやつも好きだけどね。あれはFC東京戦だっけ」中村「FC東京戦のやつね。あれもすごかった」伊藤「あれは本当にすごかった」中村「宏樹さん、ほとんど俺のゴールを後ろから見ているからね。確か、宏樹さんが俺と一番試合に出ていたんだよね?この間、誰かとその話をした覚えがある」伊藤「この間、タニ(谷口博之)が言っていたな」(写真左より)中村憲剛、伊藤宏樹――ふたりのなかで一番印象深い試合は?伊藤「ふたりのなかでか。俺が悲しかったのは、2004年に昇格して、2005年にいざ念願のJ1開幕戦を迎えた柏レイソル戦。憲剛が前日に熱を出して、いないという。あれは悲しかった」中村「それを挙げるのは、よくないなあ(苦笑)」伊藤「本当、そこを楽しみにめっちゃ(練習して)きていたのね。そしたら、前日のホテルで知らされて」中村「俺もそうだよ。飯を食って、部屋に戻ったらもう急に寒気がしちゃって」伊藤「39℃くらいあったよね?」中村「ああーってなった」伊藤「『何してんだよ!』と思った。あれが本当に残念だった」中村「現役最初のJ1の試合と最後のJ1の試合が柏戦で、両方とも行っていないという……(苦笑)」――なるほど。中村「実は2005年にJ1に昇格したときの試合日程が柏、続いて浦和レッズだったんです」伊藤「ああ」中村「しかもアウェイ柏、ホーム浦和で。それで、自分の現役最後のリーグ戦は、ホーム浦和、アウェイ柏!」伊藤「すごい偶然だね」中村「2020年のスケジュールが出たときにもう、ゾゾゾってなったよ。それで始まって、それで終わるの?という日程だったので。だからその2試合は絶対に出なきゃいけないって思ってた」伊藤「でも、最後、出ていないからちょうど良かったのかもしれないね(笑)」中村「というか、(伊藤が挙げた)一番悔しかった試合、印象に残っている試合に、俺がいないことが問題です(笑)」伊藤「印象に残っている試合……他は……」中村「何ですかね。もう、あり過ぎて…」伊藤「個人的にはあれかもしれない。俺の引退試合になった(2013年の)横浜F・マリノス戦。あの試合は憲剛がめっちゃめちゃパフォーマンスが良かったから。あれにはびっくりしましたよ」中村「俺ね、最初で最後だと思う。人のために頑張ったの」伊藤「結構、神がかっていた」中村「神がかっていましたね。『宏樹さんの等々力ラストゲームを負けて見送るわけには、絶対にダメだ』と思っていた」伊藤「しかも、相手は優勝のかかっていた大きな試合。大舞台ですよ」中村「あの試合は、もう本当に心震えましたね。それにこの人、引退すると言ったのが、その週の初めなんですよ。F・マリノス戦の週のオフの日に、電話がかかってきて、あり得ないよ、本当に」伊藤「(笑)」中村「それもあったから、俺は2カ月前に言ったんです。だって、さみしい。1週間前に言われて、気持ちの整理がつかないじゃないですか。だから自分は、引退するときは絶対に先に言いたいと思っていたんです。そうしたら、たまたまチームの調子も良くて言いやすかった。やっぱり、唐突なお別れになっちゃうのはダメだなというのは、宏樹さんから学びました(笑)」伊藤「あはは(笑)」中村「残される方はさみしいからね。俺、今回は去っていくほうの気持ちが初めてわかったけど、意外と去っていくほうは、さっぱりいけるんですよ」伊藤「うん」中村「ただ残された方は、キツいから」伊藤「俺の場合は、フロンターレだけで、憲剛の場合は背負っているものが違うから。俺はあれで良かったんだよ」中村「いやいや、そんなことないでしょ」伊藤「でも、改めて、憲剛のこの終わり方は本当にすごいよね。リーグ優勝を決めたことを考えても、最後に天皇杯決勝の舞台まで整ったことも含めて。普通のスポーツ選手では、なかなかできないことだと思います」取材・文:林遼平撮影:佐野美樹FOOTBALL PEOPLE 川崎フロンターレ 中村憲剛特集号FOOTBALL PEOPLE 川崎フロンターレ 中村憲剛特集号川崎フロンターレとサッカー人生を歩んできた中村憲剛のバンディエラの矜持に迫ります。1万文字にもおよぶ本人のロングインタビューはもちろん、ピッチの外から見届けた天皇杯決勝のラストゲームにも密着。小林悠、家長昭博、大島僚太、谷口彰悟、登里亨平らチームメイト、恩師、クラブスタッフにもインタビュー。サッカー漫画『GIANT KILLING』の漫画家・ツジトモによる中村憲剛の描き下ろしイラストやスキマスイッチ・常田真太郎からのメッセージ、よき理解者である伊藤宏樹との対談も掲載。タイトル:FOOTBALL PEOPLE 川崎フロンターレ 中村憲剛特集号発行:ぴあ株式会社発売:2021年1月27日定価:1,500円(本体1,364円)判型:B5判・96ページAmazon: 楽天ブックス: 書店、ほかネット書店にて詳細はこちら:
2021年01月27日明日1月27日(水)に発売される『FOOTBALL PEOPLE 川崎フロンターレ 中村憲剛特集号』では、中村憲剛氏とつながりが深い方々にインタビュー。その企画のひとつとして行われた、かつてのチームメイトである伊藤宏樹氏(現・川崎フロンターレ強化部)との対談は関係性の深いふたりの歩みがわかる貴重なトークとなっている。今回、誌面の都合により、本誌ではカットせざるを得なかった未公開部分を特別に掲載。兄弟のように強い絆で結ばれたふたりのクロストークをお楽しみあれ。――ふたりがチームメイトだったときは、どんな話をすることが多かったのですか?中村憲剛(以下、中村)「本当にずっとしゃべっていたよね。だから、いつ、とかではなく常に、だよね」伊藤宏樹(以下、伊藤)「うん、何をしゃべっていたかが分からないくらいに(笑)」中村「アウェイのときに宿泊するホテルでも、普通に部屋に行って話していた。今はあり得ないけど、本当にずっとベッタリだった」伊藤「ね。でも、試合になれば、いつも喧嘩していた」中村「そうそう。ちなみに俺ら、仲良くはないんですよ?(笑)」伊藤「憲剛は俺しか文句を言える人がいないから、こっちにばっかり言ってくる」中村「みんな先輩だったから(笑)」伊藤「当時、ボランチなのに、まあ守備はしないし、ポジショニングはめちゃくちゃで(笑)。だからこっちも言うけど、でも、それがたまにいいチャンスになるし、(当時監督だった)関塚(隆)さんもそれを褒めるんですよ。それで憲剛は伸び伸びやっているから、こっちは(守備面などの)文句を言って、喧嘩をするわけです。そうしたら、だんだん憲剛が成長してくるにつれて、賢いから的確なことを言うんですよ。すると、こっちも言い返せなくなって、グーってなって、とりあえず『うるせえ!』となる(笑)。そういったやり取りが多かったかな。でも、昔はそんなことがおもしろかったけどね」中村「こっちとしても言い負かしているというか。この人ね、リアクションはそんなに多くないんですよ。我慢して、我慢して、最後に『うるせえ!』と言う。あとは『取れよ!』とか。まあまあな口を……」伊藤「そんな言い方ですよ。もう、昔は(笑)」中村「こっちも『宏樹っ!』とか、呼び捨てにしていて(笑)。だからシーズン最初のキャンプのときに、それをやると新加入(の選手)が『えっ?』ってなっていたよね(笑)。普段にしても好きなものや趣味も全部、違うからね。馴れ合うような仲の良さじゃない」伊藤「うん」――それなのにアウェイのホテルなどでも一緒にいられる理由とは?伊藤「何だろうね、あれ。バスや新幹線でも隣だったし」中村「居心地がいいから。何を言っても大丈夫という安心感。たぶん。失礼な後輩ですよ。今、思えば」伊藤「失礼極まりない後輩だよ(笑)」中村「極まりない(笑)。だけど、昔からのフロンターレのサポーターは結構、知っているよね」伊藤「ふたりのつながりで言うと、僕が(2013年に)引退するときに、憲剛は二人組(の練習相手)や隣に座る人がいなくなってさみしいんだろうなという話をしていたんだけど、この間、憲剛が引退するときに、(小林)悠が全く同じ話をしていたから『ああ、歴史っておもしろいな』というのは、個人的には思ったね」中村「だって大変だったよ。“宏樹ロス”……」伊藤「長くやったら、そうなるんですよ。やっぱり悠も憲剛と長く一緒にやって、そういう関係になった。それでまた、何年後かに悠が何を言うんだろう、というのは思います」中村「宏樹さんの引退VTRを、当時、妻とずっと見ていてふたりで泣いていましたもん(笑)」伊藤「あはは(笑)」中村「うう……いなくなるって……。だから結構、大変だった。2014年から悠がそういう存在になるまでは本当に。要は、宏樹さんがやっていた役割を俺がやって、俺がやっていたことを悠がやらなくてはいけなくなったから。本当はタサ(田坂祐介)だったんですけどね、俺のなかでは。宏樹さん、俺、タサで、いつも3人一緒だった。だから、つなげていこうと。だけど、あいつ(田坂)はドイツに行ってしまった(笑)」伊藤「そう」中村「だから、後継者を探さなきゃいけなくなってしまった。タサは今も仲がいいし、俺と宏樹さんみたいな感じだけど、でも、いなくなっちゃったから、当時は慌てましたよね」伊藤「あれは慌てたね(笑)」中村「せっかく宏樹さんがフロンターレの先輩から受け継いできたものを、俺もちゃんと受け継いで、それをタサにつないで、(その次は)悠と決めていたのに、いなくなったから結構大変だったよね」(写真左より)中村憲剛、伊藤宏樹――確かに、考えると中村選手と小林選手の間が、世代的にも少し空いている感じはあります。伊藤「年齢的にね」中村「タサやタニ(谷口博之)だったんだけど、間にいた選手は全員、菊地(光将)も横山(知伸)も移籍しやがった(笑)」伊藤「しやがったって(笑)」中村「だから俺が頑張んなきゃいけなかったんですよ。宏樹さんがいなくなって、いかに宏樹さんが、あらゆる日陰の仕事をやっていたかがわかったから」伊藤「それ、もうちょっと大きな声で言ったほうがいいよ(笑)」中村「(笑)。要は、俺と宏樹さんは“表と裏”ではないけど、俺が表面をやって、宏樹さんが裏面のマネージメントというかチームの雰囲気作りを含めて、いろいろなところに目を届かせてくれていたことに初めて気付いた」伊藤「俺らはチームキャプテン・ゲームキャプテンみたいな感じで別れていて、ふたり(の間)では『ふたりで一人前だな』みたいな自覚があった。お互いにないところを補いながらね。そういうのも含めて、僕が引退してからの憲剛には注目していましたけど、そこからの憲剛の歩みは成績にも出ていますけど、周りに伝えることを含めて後輩たちを育ててきたところがあるし、今のチームを作り上げるためにすごく貢献したと思います。本当にすごいと思いますよ」――“世代をつなげていく”話は、昔からそういうふうに話していたんですか?中村「昔からですね。『そこの木の“幹”をちゃんと太くしていかないと』という話はずっとしていた。だけど、自分ひとりではできないから、育つのを待つしかなかった」――宏樹さんは自身の引退後のことはどう考えていたんですか?伊藤「あまり考えてはいなかったですけど、自分の引退は関係なしに、ターニングポイントとしては、風間(八宏)さんが2012年に(川崎フロンターレに)来て、やるサッカーが明確になったことで、憲剛も楽しそうにしていた。そこを突き詰めたことが、今のこのスタイルになったところもあるし、そこについての心配はしていなかったです」中村「サッカー的なところはね」伊藤「うん」中村「振り返れば、最初は、サッカー自体も風間さんになって『大丈夫か?』みたいになっていた。でも、最初のサンフレッチェ広島戦で、俺のアシストから宏樹さんが先制点を取ったんですよ。不慣れな右SBで宏樹さんが珍しくいい動きをしていてさ」伊藤「あれ、面白いよね。本当に最初の試合で、みんな(従来の)ポジションと違うところをやっていて。ある意味、今までのフロンターレの概念みたいなものを壊して、一つでもいいプレーができればみたいな感じでやった試合だった。それで、あの得点が取れた」中村「あの1点は、今のフロンターレのベースの本当に第一歩になったから。あのゴールを俺と宏樹さんで取ったというのは、歴史的には非常に大きかったんじゃないかなと、改めて思いますけどね。……うれしそうだな、おい宏樹っ!(笑)」伊藤「『何で、お前があそこにいんねん!』みたいな感じだったんですけどね(笑)」中村「本当にそういうゴールだった。連戦がスタートするなか、風間さんになってからの新たな船出。『大丈夫かな、フロンターレ?』となっているときの1試合目。その試合はボッコボコにされるんですけど(笑)、それでもあの1点を俺と宏樹さんで取ったというのは『あ、これでやっていける』みたいな思いはありましたからね」(明日1月27日(水)7:00配信の未公開記事後編に続く)取材・文:林遼平撮影:佐野美樹FOOTBALL PEOPLE 川崎フロンターレ 中村憲剛特集号FOOTBALL PEOPLE 川崎フロンターレ 中村憲剛特集号川崎フロンターレとサッカー人生を歩んできた中村憲剛のバンディエラの矜持に迫ります。1万文字にもおよぶ本人のロングインタビューはもちろん、ピッチの外から見届けた天皇杯決勝のラストゲームにも密着。小林悠、家長昭博、大島僚太、谷口彰悟、登里亨平らチームメイト、恩師、クラブスタッフにもインタビュー。サッカー漫画『GIANT KILLING』の漫画家・ツジトモによる中村憲剛の描き下ろしイラストやスキマスイッチ・常田真太郎からのメッセージ、よき理解者である伊藤宏樹との対談も掲載。タイトル:FOOTBALL PEOPLE 川崎フロンターレ 中村憲剛特集号発行:ぴあ株式会社発売:2021年1月27日定価:1,500円(本体1,364円)判型:B5判・96ページAmazon: 楽天ブックス: 書店、ほかネット書店にて詳細はこちら:
2021年01月26日川崎フロンターレひと筋18年の“クラブの象徴”、中村憲剛選手が現役引退を電撃発表したのは、大怪我から復帰し、40歳となる誕生日にゴールを決めた翌日。いま明かす胸の内とは……。無観客試合の味気なさ。コロナ禍で痛感したのは…。――シーズン中の引退会見は、我々が度肝を抜かれました。僕にとっては前々から思っていたことで、先輩である伊藤宏樹さん(現在、川崎フロンターレ強化部スタッフ)の引退も考えるきっかけのひとつになりました。宏樹さんは、僕が33歳の時に引退されたのですが、その発表をホーム最終戦の週初めにされたんです。僕たちは報告を受けて、気持ちを無理やり整理して試合に挑みました。結果は勝利こそしましたが天皇杯では負けてしまい、宏樹さんはドタバタしたまま退かれました。その様子を見て、チームメイトにも応援してくださる方々にも、お別れまでの気持ちの猶予みたいなものが必要だと思ったんです。また、今年改めてサポーターの存在の大きさを痛感したというのもありますね。無観客試合をスタジアムの上から観ていたのですが、何とも言えない味気なさを感じました。これまでサポーターがいて当たり前だったことが、実はそうではなかった。みなさんがいてこそエモーショナルな空間ができるのだと初めて思いました。ですから、ひとりでも多くの人に自分のプレーを見てもらいたい、そうじゃなかったら寂しいと思い、このタイミングでの発表となりました。――選手の方々の反応はみなさん同じだったそうですね。まずは絶句、次に「まだできるじゃないですか」の言葉でしたね。「そうだよね」や「おつかれさま」ではなく、そう言ってもらえるなんて、とても嬉しかったです。ただ、みんなが僕への思いもいろいろと話してくれたので、精神的にはこたえました(笑)。――中村選手も選手やクラブへの思いは相当あるでしょうね。僕は川崎フロンターレに拾ってもらったと思っています。最初はついていくのに必死でしたが、いつしか自分の立ち位置がわかるようになり、毎年すべてをクラブに捧げてきたつもりです。そこから、多くの人に「元気が出た」「勇気をもらえた」と言われるプレーヤーになれたのは、クラブおよび支えてくれたみなさんのおかげ。もう感謝しかないですし、これからはそれを還元していきたいです。なので、引退後もフロンターレを離れるつもりはありません。でも、クラブだけに携わるということでもなくて、まだ何も決まっていませんが、若い選手の育成や、Jリーグの普及活動もお手伝いしたいですし、ゲーム解説にも興味があります。今は指導者のライセンスを取っている最中で、将来的には監督も視野に。でもS級(最高位の指導者資格)を取るまでにあと3~4年はかかりますね。この仕組み、何とかしてくれませんか(笑)。って、これでは体がいくつあっても足りないですね。――ダメもとでお聞きします。現役復帰の可能性は、本当にもう1ミリもないのですか?本気で決断したことなので、それはないですね(笑)。自分を裏切ることになりますし、今はそのイメージは湧かないです。ともかく、これまで好きなサッカーを40歳まで続けたのは我ながらよくやったなと思います。そして、むしろここからだなと思っています。今まではいわば自分がメインで周囲を巻き込んでいましたが、これからはサポートや応援する側になりますから。自分なりにブランディングを考えていかなければいけない。でも、不安よりは期待のほうが勝っていますよ。第二の人生を思い切り楽しもうと思います。――とはいえ、現役生活はまだあります!(本誌発売日の)2日後は天皇杯の準決勝ですね。もちろん勝って、元日の決勝で優勝して引退できたら本当に幸せ。簡単ではないと思いますが、実現できたら、こんなに恵まれたサッカー選手はいないと思います。泣いても笑っても僕のラストになりますが、他の選手に余計なプレッシャーをかけたくないので、一選手として優勝を狙いにいきます。リーグ優勝も泣くかなと思ったら笑ってましたし、今回も笑って終えそうです。涙はきっと、グラウンドにひれ伏すほどに泣いたリーグ初優勝で枯れたのかな(笑)。なかむら・けんご1980年10月31日生まれ、東京都出身。川崎フロンターレ所属。ポジションMF。中央大学卒業後、同クラブ入団。幅広い視野と高度なテクニック、特にスルーパスが持ち味で、長年チームを牽引し3度のリーグ優勝に貢献、常勝軍団へと導いた。日本代表にも招集され活躍。2020年11月1日、今シーズン限りでの現役引退を表明。カメラマンがドリブルとシュートをいきなりリクエスト。「本当に怪我していたのかな、と思うくらい好調です。天皇杯は自分にとってラストの試合ですが、私情抜きに完全燃焼で頑張ります」。天皇杯準決勝は12月27日(日)、決勝は2021年1月1日(金)。クラブでは中村憲剛選手への感謝を込めて「One Four KENGO」プロモーションを実施中。※『anan』2020年12月30日‐2021年1月6日合併号より。写真・藤尾真琴インタビュー、文・伊藤順子(by anan編集部)
2021年01月01日地獄と天国を見た男。’19年から’20年にかけての中村憲剛選手を表すならば、これがしっくりくるかもしれない。選手生命を脅かすほどの大怪我からの復活、まさかの電撃引退表明、そしてリーグ優勝。記憶と記録に残る激動の現役ラストイヤーと、心に秘めていたある思いを中村選手に語っていただきました。――3度目となるリーグ優勝おめでとうございます!まずはこの一年を振り返っていかがでしたか。’19年11月、39歳を迎えた2日後の試合で、左膝前十字じん帯損傷という大怪我を負いました。手術を経てリハビリ中にコロナ禍となり、緊急事態宣言が出て練習場にも病院へも行けない日々が続いたのですが、周囲の方々のおかげで8月末には試合にも出られるようになったんです。その復帰戦や誕生日にゴールを決められただけでなく、クラブはJリーグ史上初の12連勝を遂げ、かつ史上最速で優勝することができました。その1か月前に現役引退を発表したのですが、思い描いていた以上の結果というかストーリーが生まれ、自分の想像を遥かに上回る素晴らしいシーズンになったと思います。――想像を超えていた、とは?妻以外は誰にも言わなかったのですが、実は35歳になった時に、40歳を迎えたら引退しようと決めていたんです。僕は計画的なほうではなくて、いつも目の前のことだけを考えて切り拓いてきたのですが、唯一未来を考えたのが引退だったんですね。自分が戦力として求められているうちに退きたいと、それだけは心に決めていたのですが、具体的な身の引き方は描けなくて。昨年10月にルヴァン杯で優勝した時点で、来年迎える引退に向けてどうやって終わっていくのだろうかと、漠然と考えていました。もちろんリーグ優勝は目標にありましたが、今シーズンの連勝や首位独走は想像できなかったですね。鬼木達監督や選手、スタッフの努力の賜物だと思います。――当然、怪我も想定外ですよね。全治7か月という、僕の選手生活で初めての大怪我でした。でも、予期せぬ出来事の一方で、これのおかげでラストまでの道は決まったとも思えたんです。そもそもサッカー選手を17年やってきた人間が、よりによって残り1年でここまでの大怪我なんてしないですよ。これは意味のあることなのだろうと。何が何でも克服し、復帰をしてプレーをみなさんに見せてからやめろと言われているのだと僕は受け止めました。とはいえ、早期に戻っても再断裂の危険があり、慎重に調整しながら進めました。今は痛みも全くなく、これまで通りに動けているので、プログラムを作ってくれたトレーナーや医師の方々に大変感謝しています。――焦りはなかったのですか?リハビリの時期がコロナ禍と重なり、自分だけじゃなく、Jリーグはおろか日本自体が止まっていたので、しんどかったですけれど、しゃあないと開き直れて、焦りはそこまで感じずに済みました。ただ、膝が思い通りに動かせなかったり、原因不明の痛みが出たりした時はすごく苦しい思いをしましたね。だから、妻にはしょっちゅう、「痛い」「無理」「もうやだ」と子どもみたいに弱音を吐いていました(笑)。妻は妻で、休校だった子どもたちの世話や食事作りで、言ってみればそれどころじゃなくて。毎回「そんなことを言ってもどうせやるんでしょ」と軽くあしらわれていましたけど、そのリアクションがありがたかったですね。――怪我がもたらしたものとは?大怪我は僕が唯一したことのない経験でした。というのは、35歳で40歳の年に引退すると決めてから、36歳でJリーグMVP初受賞、37歳でリーグ初優勝、38歳でリーグ連覇、ルヴァン杯初優勝と、立て続けにさまざまな経験を回収できていたので。これだけ並べると僕が“持っている”ように思われるかもしれませんが、大卒で入団した時は、クラブはJ2にいて、そこからJ1に上がれたものの、優勝まであと一歩の2位止まりで終わることが何度も続いていました。僕は、今の位置に辿り着くまで幾度も悔しい思いをしてきた人間で、近年得られた結果は、地道に鍛錬し積み重ねてきたクラブと自分へのご褒美だと思っています。だから、不謹慎かもしれませんが、この怪我によって、良くも悪くもすべての経験が揃って現役を終えられると。とはいえ、怪我については、そう捉えないと自分的に重すぎたことでもあって、終わりが決まっていたからこそポジティブに変換できたのだと思っています。怪我自体の痛みや辛さだけでなく、復帰する過程の苦しさ、試合に絡めない悔しさ。怪我を通して得た経験と湧き出たさまざまな感情は、今後指導者になるにしても、何にしても活かせるだろうし、説得力のある話ができると思っています。――では、現時点で夢がありながらもうまく進めていない人に対してアドバイスをするならば?中長期的なプランニングがあってこそですが、いま目の前のことをどれだけ頑張れるかが大事なのかなと。それを積み重ねた先に自分の望んでいた未来があるのだと思います。僕はそうやってきたから優勝という結果が出ましたが、努力しても報われないことや仕事なども多いと思います。それでも、努力してない人には絶対に何も転がってきません。自分なりにやったと思っても成果が出ていないのであれば、自分はまだ努力が足りないと思えるかどうかもポイントかな。そこに気づければ、足りない部分を補えて成長できるはずです。他人のせいにするのは簡単ですが何も残りません。僕も学生時代にそういうところがありましたが、結局選んだのは自分なのだから。努力している人に手は差し伸べられるという意味で、今を頑張ってほしいですね。絶対誰かが見てくれていますから。なかむら・けんご1980年10月31日生まれ、東京都出身。川崎フロンターレ所属。ポジションMF。中央大学卒業後、同クラブ入団。幅広い視野と高度なテクニック、特にスルーパスが持ち味で、長年チームを牽引し3度のリーグ優勝に貢献、常勝軍団へと導いた。日本代表にも招集され活躍。2020年11月1日、今シーズン限りでの現役引退を表明。カメラマンがドリブルとシュートをいきなりリクエスト。「本当に怪我していたのかな、と思うくらい好調です。天皇杯は自分にとってラストの試合ですが、私情抜きに完全燃焼で頑張ります」。天皇杯準決勝は12月27日(日)、決勝は2021年1月1日(金)。クラブでは中村憲剛選手への感謝を込めて「One Four KENGO」プロモーションを実施中。※『anan』2020年12月30日‐2021年1月6日合併号より。写真・藤尾真琴インタビュー、文・伊藤順子(by anan編集部)
2020年12月31日常田真太郎(スキマスイッチ)とSHISHAMOがコラボ『天才の種』を12月27日(日)に配信開始。配信に合わせて両者からのコメントが到着した。『天才の種』は、引退を発表した川崎フロンターレ・中村選手に向けて書き下ろされた楽曲。12月21日、川崎・等々力陸上競技場「中村憲剛選手引退セレモニー」にて、『KENGO Thanks VTR』とともに初披露された。作詞・編曲は常田真太郎、作曲は宮崎朝子(SHISHAMO)となっている。物語のスタートを感じさせるピアノから始まり、徐々にダイナミックになっていくバンド演奏と、夢を追いかけ努力し、「続ける」ことで小さな種を育て、キレイな花を咲かせるのではなく、大きな木が育つというストーリーだ。中村選手の人生と重なるように制作されたが、今夢に向かって努力している人や一度立ち止まってこれからの人生に向かう人へ寄り添い、後押ししてくれる。また『KENGO Thanks VTR』も川崎フロンターレのオフィシャルYouTubeチャンネルにて公開となった。川崎フロンターレ中村選手、常田、宮崎からのコメントは以下の通り。<川崎フロンターレ・中村憲剛コメント>この度、スキマスイッチの常田真太郎さんとSHISHAMOのみなさんがタッグを組んで自分の引退セレモニーのために素晴らしい楽曲を作ってくださいました。しんたさんとSHISHAMOのみなさんが組んでいただくと聞いた時から完成を心待ちにしてました。セレモニーで流れたVTR、イントロが流れ出した瞬間からそれまで我慢していた涙が止まりませんでした。そして、スピーチでも話しましたが、それまで他人事のように感じていた自分の引退がこの楽曲を聞いたことで一気に現実のものになりました。音楽は人の心を動かす力があります。この『天才の種」からしんたさんとSHISHAMOのみなさんの自分への想いを感じて、心が震えました。セレモニーに来てくれた人、LIVE配信を見てくれた多くの人から「あの歌すごい良かったよね」と言ってもらえました。自分のことのように嬉しかったです。それと同時に、より多くの方にこの楽曲を聞いて欲しい、そして届いて欲しいなと思いました。それが今回実現することになり、本当に嬉しく思っていますし、実現に向けて動いてくださった多くの方に心からの感謝を申し上げたいと思います。ありがとうございました。この素晴らしい楽曲を自分のために作ってくれたこと、それをその場だけの物にせず多くの人に届けようにしてくれたことがとても嬉しいですし、自分は本当に幸せ者です。みなさんがこの楽曲を聴いて、それぞれがそれぞれの天才の種を育てて大きくして欲しいと思いますし、この楽曲がみなさんにとっても大切な一曲になることを願っています。<スキマスイッチ・常田真太郎コメント>――楽曲制作に至った経緯、楽曲について(楽曲に込めた想い)9月末あたりに入ったくらいにケンゴ本人から引退の報告を受け、そのすぐあとに川崎フロンターレから正式に楽曲制作のオファーをいただきました。昔、引退などまだまだ先の頃に「いつか引退する時は俺が曲作ってケンゴのハイライト動画を作ってもらう」と話してたことがついに現実となり、そこで本当にケンゴは引退するんだなと実感しました。ただ、せっかくならフロンターレに縁のあるミュージシャンと一緒に作ってセレモニーをより盛り上げたいと思い、後輩でもありフロサポ仲間でもありまたサッカー仲間でもあるSHISHAMOの3人にオファーしたところ快諾してもらい、この四人での楽曲制作となりました。制作にあたってはやはりまず第一にケンゴが喜んでくれること、そしてケンゴ以外の人が聴いても受け入れてくれるような楽曲がいいなと思い、目線自体はケンゴ自身ということで描いてみました。キッカケみたいなものはこちらだとしてもメロディーの主導権は朝子ちゃんに委ね、僕は歌詞の方で主導権をとらせてもらいました。中でも歌詞を書くにあたってはケンゴ本人にリサーチして事実関係などを確認しながら書いていくスタイルにしたのですが、そのような書き方は初めてで、かなり興味深い作業になりました。松岡ちゃんの正確なビート、よっちゃんの力強いリズムに朝子ちゃんのロックなギターと叙情的で素晴らしい歌、それに弦一徹さん率いる14人ものストリングスのアンサンブルが絡む豪華なサウンドに仕上がったこの「天才の種」を、ケンゴを始め聴いてくれた皆さんが末永く愛してもらえたらと思います。――配信に向けてこの度急遽配信が決まったこと、ものすごく嬉しく思っています。キッカケはもちろんケンゴ一人のために作ったとこからスタートしていますが、それがどんどん広がっていくことはケンゴ自身も希望してくれていて、あのセレモニー会場の等々力で、またDAZN配信でじっと動画を観てくれた方がまたあの時を、そしてケンゴのキャリアを思い出してくれたら作者冥利につきます。ただ、セレモニーの時のコメントでは本人を前にうまく言葉が繋げず伝えたいことの半分も伝えられませんでした…。数々の逆境をいつも跳ね返し、その姿を隣で見て常に勇気と刺激をもらってきましたが、とにかく大変なことになった2020年すらも図らずもあんなにも素晴らしい引退セレモニーで締めくくらんとする中村憲剛は心底すごい存在だと思いました、ということはここで伝えておきたいです。<SHISHAMO・宮崎朝子コメント>――楽曲制作に至った経緯、楽曲について(楽曲に込めた想い)10月の中旬にしんたさんからマネージャーに連絡を頂いて、まず憲剛選手がフロンターレを引退するという話を聞きました。信じられないという気持ちのあとに、サポーターとしてとても寂しい気持ちになりました。そして一緒に楽曲を作ろうという話を受けました。やるならSHISHAMOに声かけるしかないだろう!ということで声をかけてくれたそうで、とにかくそのしんたさんの気持ちが嬉しかったです。ただ、私は今まで一度も共作をしたことがなかったので、とにかく何も分からない状態でしんたさんのスタジオにお邪魔して、ほぼ音楽の授業のような時間を過ごさせていただきつつ、様々なアイディアを出し合って曲が出来ていく過程は、とても実りのある時間でした。色々勉強させていただいて、こんな機会をいただいて、しんたさんにもフロンターレにも憲剛選手にも感謝しかありません。そして何より最高の楽曲が完成したので、あとは誰かの大切な曲になってくれたら嬉しいです。――配信に向けて今回しんたさんが書いてくれたこの歌詞を初めて読んだ時、ああ、これは憲剛選手の曲でありながらみんなの曲でもあるな、と感じました。一人の人間の成長や努力の積み重ねを描いた歌詞なので、きっとこの曲に自分を重ねてくれる人がたくさんいるな、と思っていました。なので今回配信が決定して、たくさんの人に聴いてもらえることがとても嬉しいです。SHISHAMOとしても、初のコラボ楽曲ということで歌も演奏も新鮮なものになっているので、楽しんでもらえたらと思います。■リリース情報常田真太郎(スキマスイッチ)×SHISHAMO『天才の種』12月27日(日)配信リリース
2020年12月27日中村憲剛の偉大さはイベント名を見ても理解できる。12月21日に行われた引退セレモニーの正式名称は『おフロの恋人! LOTTE presents 中村憲剛引退セレモニー&優勝報告会』である。勝点83、26勝、88得点、得失点差57、2位に勝点18差、最少敗戦3試合などなど、記録尽くめで史上最速優勝を果たした川崎フロンターレの優勝報告会の前に、引退セレモニーと謳われているのだ。名前だけではない。2時間半ほどのプログラムの中で、鬼木達監督や谷口彰悟主将のあいさつなど優勝報告セレモニーは15分ほど。時間配分も大半は引退セレモニーが占めた。福田紀彦川崎市市長より市民栄誉賞が授与された (C)J.LEAGUE等々力陸上競技場に1万3000人を集めるなどセレモニーは異例の規模で行われたが、決して華美ではなかった。中村がどれだけクラブ・川崎市に愛され、中村がどれほどクラブ・川崎市に愛されていたかわかるあたたかいイベントであった。式はホームタウン活動で親交が深かった中原消防署や中原警察署、河川協力団体のとどろき水辺の楽校、フロンターレ算数ドリルで関わった川崎市立有馬小学校の関係者が感謝の言葉を並べてスタート。キングカズこと三浦知良をはじめ、川島永嗣、ジュニーニョなど盟友・戦友たちもビデオメッセージを送った。福田紀彦川崎市市長から市民栄誉賞が授与され、36名ものクラブOBも登壇した。さらに本人も登場。チームメイトからのメッセージ、家族からの花束贈呈、スキマスイッチ常田真太郎、SHISHAMOからのあいさつ、川崎市の小学生からの手作りシャーレのプレゼントなど、涙あり、笑いあり、感動ありのラインナップとなった。中村憲剛引退セレモニーに1万3000人が集った (C)J.LEAGUEエース・小林悠は涙ながらに「苦楽をともにした憲剛さんと初めて優勝した時を超える感動はこの先も絶対にない。一緒に抱き合って喜び合えたことが本当にうれしかった。憲剛さんがいなかったら、今の僕は絶対にないと断言できます。僕にとって大きな存在でした」と感謝の念を表した。長男・龍剛くんは「中村憲剛選手の18年間のサッカー人生は出来すぎでした。悲しい時も悔しい時もともに乗り越えてきた家族として、ありがとうと伝えたいです。引退、おめでとう。そして、ありがとう」と12歳とは思えぬクオリティの手紙を披露した。中村は集まったゆかりのある人々、チームメイト、クラブ関係者、そしてファン・サポーターに感謝の言葉を並べた。「みんながありがとうと言ってくれたけど、ありがとうと言いたいのは僕の方。何でもない大学生を拾ってくれたフロンターレには感謝しかありません。僕はフロンターレで学んだ。それは地域密着、『川崎市のみなさんを笑顔に、元気にする』こと。自分がただサッカーをやっていればいいという発想の人間だったら、ここまでプレイヤーとして続けられなかったと思うし、フロンターレもここまで大きくなることはなかったと思っている。本当にそういった意味でフロンターレに拾ってもらって心からよかったと思っているし、この18年間、本当に感謝の気持ちしかない。頼もしい後輩たちにフロンターレは任せて、僕は先のステージに進みたい。今日の景色は一生忘れません。本当に感謝しています。フロンターレ、最高です」胴上げの回数はもちろん背番号にちなみ14回 (C)J.LEAGUE場内一周では神輿にものった (C)J.LEAGUEチームメイトたちによって背番号と同じ14回を2セット胴上げされた中村は場内を一周。ファン・サポーターとの別れを惜しんだ。セレモニーを終えた後、中村は記者会見に登場し、「もう何だろ。すごいことが起きたんだなと。感情が揺さぶられて、心地よい疲労感で気持ちよかった。一生忘れられない光景がまたひとつ増えました。本当に引退するんだなと」と率直な感想を語った。さらに「夢見心地。今もフワっとしている。本当に感謝しかない。本当に幸せ者だなと。入れてくれたのもそうだし、ここまで大きく育ててくれたのもそう。僕も還元していかないといけない」と続けた。泣いたことを指摘されると、「泣かない方がおかしい(笑)。感情を揺さぶられすぎて、わけがわからなくなかった。みんなの思いがありがたすぎて。基本泣き虫だから、案の定泣きました」と頬を緩めた。チームを代表してメッセージを送る小林悠(川崎フロンターレ) (C)J.LEAGUE小林からのメッセージについて質問されと、「いつ泣くかなと見ていたが、あいつにしか話せない話をしてくれたので、僕も感極まった。僕の方こそ感謝している。彼が優勝させてくれたんで」と言い、龍剛くんの手紙について問われると、「息子の文章力の高さにちょっと引いた(笑)。彼が息子であることを僕は誇りに思う。もちろん妻もふたりの娘もそう。4人がいなければ、僕はここまでがんばれなかった。心の底から感謝している」と振り返った。サッカーを志す子どもたちへメッセージも送った。「僕自身足が遅かったり、体が小さかったりと劣等感を持っていた。劣等感を武器に変えることで道が切り開けて、40歳までやれた。可能性に蓋をせずに、毎日毎日トレーニングしていけば誰でも必ず道は開ける。受け入れてくれる素晴らしいクラブが川崎にはあると伝えたかった」次なる夢の日本代表監督について、コメントを求められると、「過程を経て、タイミングが合って初めてなれるもの。そうなるには本当に勝たないといけないし、評価されないといけない。自分から目指しますなんて軽々しく口にできないが、目指すのは自由」と口にした。大いなる目標の前に、目の前に迫った目標がある。もうひとつのタイトル『天皇杯』である。次なる戦いに向けて、中村は「今日は感情を揺さぶられすぎたので、今日は切り替えられない。明日トレーニングがある。明日からしっかり切り替えていきたい。みんなとサッカーできるのもあと10日。まず準決勝に向けてしっかり準備をして全力で向かっていきたい。(国立での決勝については)正直そこまで考えていない。相手のあることなので、勝てる保証はどこにもない。準決勝、等々力でやるのは最後。そこで全力を尽くすことしか考えていない」とキッパリ。中村憲剛の勇姿が見られるのも最大あと2試合 (C)J.LEAGUE中村憲剛は、そして川崎フロンターレは12月27日(日)・等々力陸上競技場での『天皇杯』準決勝でブラウブリッツ秋田×福山シティFCの勝者と対峙し、1月1日(金・祝)・国立競技場での『天皇杯』決勝を目指す。準決勝のチケットは予定枚数終了、決勝のチケットは12月26日(土)午前10時より一般発売。取材・文:碧山緒里摩(ぴあ)チケット情報
2020年12月22日俳優の綾野剛が、2021年4月2日より公開される映画『ホムンクルス』に主演することが1日、明らかになった。原作は2003年~2011年まで『ビッグコミックスピリッツ』で連載され、累計発行部数400万部超えとなった山本英夫氏による同名漫画。異形の姿をした登場キャラクターのビジュアル描写や独創的な内容から、9月の実写化情報解禁時にも驚きや不安、そして期待の声でタイトルワードがトレンド入りし話題に。本作は、記憶も社会的地位もなくした主人公が、頭蓋骨に穴を開ける禁断の実験「トレパネーション」を受ける。それ以来、男の左目には人間の心の歪みが異形として見えるようになり、自らの記憶に隠された衝撃の真実と共に狂った運命の歯車が動き出していく……。“人間の正体”がリアルに映し出される衝撃的サイコミステリー。今年夏のTBS系ドラマ『MIU404』や映画『ドクターデスの遺産-BLACK FILE-』での活躍が記憶に新しい綾野が主演に抜てきされ、『呪怨』シリーズ、映画『犬鳴村』など、国内外で活躍する日本ホラー界の巨匠・清水崇監督がメガホンを取る。撮影は2019年12月から2020年1月に、物語のスタート地でもある、高層ビル群がそびえ立つ東京・西新宿を含む東京都内などで行われた。さらに本作は、企画段階よりNetflixでの全世界独占配信が決定。日本国内のみ全国の劇場で、鑑賞環境の整った劇場公開用の特別素材にて先行公開する。綾野は「全てが初めてでした。世界観も、表現も、生き方も。僕が山本英夫先生の漫画の世界に初めて触れた時、今までに出会った事のない感覚や悍ましさ、人間の奥底に眠る境地がそこにありました。映像作品となる本作にもその世界は確かに存在しました」と作品についての印象を語り「世界は瞳に映るモノ、見えているモノが全てでは無いという事実をお届けします」と意気込みを見せた。清水監督は「どこのどんな文化圏の人にも通じる“人の脆さ”や“距離感”、その“交差”や“生きる価値観”などを本作で少しでも見つめ直したり、共有してもらえたら…と思います」と本作のメッセージをアピール。「10年経った今、まさか実写映像で見られるとは……とっても嬉しいです!!」と喜びの声をあげたのは原作者・山本氏。「しかも、〝魂〟を視る主人公を、綾野剛さんが演じてくれるとはピッタリだと思いました! 他の俳優陣も豪華キャストで……はよ見せて」と、自身も今後のキャスト発表を楽しみにしているコメントを寄せた。
2020年12月01日2020年10月31日放送の、バラエティ番組『アナザースカイⅡ』(日本テレビ系)では『世界の学校スペシャル』というテーマのもと、これまでの放送を振り返りました。留学経験のある著名人の1人として、同番組にゲスト出演した社会学者の古市憲寿さんは、20歳の時にノルウェーのオスロ大学へ留学。2019年1月には、同番組の企画で母校であるオスロ大学を訪問しました。オスロ大学では子育てをしながら学ぶ生徒のため、敷地内に保育園が併設されていることを紹介。日本とノルウェーとの保育環境の違いについて、古市さんはこのように持論を展開しました。やっぱり日本って待機児童がすごい問題だったりとか、「少子化」っていう割には全然子供のためにいろんなことを行政がしてないなって感じて。だったらいっそ、国が義務教育みたいに幼稚園とか保育園に関しても整備してもいいんじゃないかっていう。小学校に待機児童っていないじゃないですか。だから同じようなことが、保育園とか幼稚園とかでもできるんじゃないかっていう。ノルウェーは義務教育とかじゃないですけど、望んだら1歳を超えたら多くの子供たちは保育園に通えるわけで。それが多分、子供たちの発育にもいい影響を及ぼしている。アナザースカイⅡーより引用古市さんが訪問した当時オスロ大学内の保育園には76人の子供が預けられており、8人の先生と12人のアシスタントが働いていました。厚生労働省によると、日本では、保育現場における保育者の人数は、以下のように定められています。【保育園】1~2歳児6人につき1人以上3歳児20人につき1人以上4~5歳児30人につき1人以上【幼稚園】児童35人につき1人以上古市さんは、オスロ大学内の保育園の保育者が多いことに驚いたといいます。また、その園では、子供の主体性に任せて遊ばせている光景を目の当たりにした古市さん。「日本と違い、保育者の数が多いからできること」と、ノルウェーの保育園の体制に感心していました。日本だと、おままごととかお遊戯とか、「みんなでこれしましょう」っていうことが多いと思うんですけど。(ノルウェーの保育園では)子供の主体性に任せているなと思います。多分、先生の数が多いからできると思うんですけどね。ノルウェーって、そんなに詰め込み教育じゃないんですけど、大学ランキングが高いのは、子供の頃に主体性を、子供に持たせてあげている。「何やりたい」とか「何したい」ってことを、みんなが主張するようにちゃんと環境を作ってあげるから。これが大人になってからもいいように働いているんじゃないかなぁって。アナザースカイⅡーより引用スタジオで、過去の自分の発言をVTRで見ていた古市さんは「僕、これ、好感度上がりますかね?」と笑いながらひと言。同番組のMCを俳優の広瀬アリスさんは「めちゃめちゃ上がりますね」「世の母親たちが『うんうん!』ってうなずいてると思う」と答えました。同番組の視聴者からはさまざまな声が上がっています。・本当に、古市さんの好感度ものすごく上がりました!素敵な考え方だと思います。・「小学校に待機児童はいない」という発言、本当にその通りだと思います。保育園、幼稚園の環境の改善をもっと進めてほしい。・保育士の待遇をもっと改善していく必要があると思う。「保育士として働きたい」って思える環境を作っていくことも大切ですね。日本では2019年10月1日から、3~5歳の保育料無償化をスタート。保育料無償化だけにとどまらず、さまざまな国のいいところを取り入れながら、保育環境の改善がもっと進むことを祈ります。[文・構成/grape編集部]
2020年10月31日