2018年5月29日 11:00
立川志らく「不愉快だった」 20代のときテレビ界から去ったワケ
にいっぺんでいいや」となっちゃうもんなんですけれど、私はそうならなかった。死ぬまでずっと思いが冷めなかった。だからこそ、いろんなことを教えてくれたと思うし、最後までかわいがってくれたんだと思ってます。もし自分にもこういう弟子がいたら、すぐ二つ目にしてあげるのにねぇ(笑)。
――志らくさんが、最後まで談志さんに恋愛感情を持てた、つまりは気持ちが“情”に変わらなかったのは、なぜでしょうか?
志らく:それは、うちの師匠がずっと進化し続けていたから。普通は50代半ばくらいから“守りの芸”になるもんなんです。そこからは老いていくだけ。長く見続けている客はそれを、「味がある」とか「いぶし銀の芸だ」とか言って、ノスタルジーを含めて評価するけれど、落語を知らない若い客からしたら、それはおじいさんの独り言にしか聞こえないんですよ。
でも談志は、死ぬまで進化し続けていた。写実主義だったのが印象派になって、私が入門した頃はゴッホ、その後はピカソになった。死ぬ前は一筆書きみたいになっちゃったけれど、常に“今やる落語が最も面白い”人だった。だから私はずっと恋い焦がれていたんだと思います。
――ご自身も、落語家としては変化し続けていきたいですか?
志らく:もちろん。