少し前の作品だけれど、今観ても面白い、むしろ今こそ観るべきドラマたちをピックアップ。今回ご紹介する作品でも、“スターのあの頃”を見ることができてしまいます!注目したいのは、1998年から米FOXで8シーズンにわたって放送されたコメディ「ザット ’70s ショー」。前回取り上げた日本初上陸作「スキンズ」とは違い、「ザット ’70s ショー」は日本のFOXチャンネルでも放送されていましたが、一挙視聴できるようになった今、改めて目を向けたいのにはわけがあります。タイトルからも分かるように、物語の舞台は70年代。ウィスコンシン州の田舎町に暮らす若者たち、エリック、ドナ、ケルソー、ジャッキー、ハイド、フェズの6人が時代の空気を漂わせつつ、ゆるい青春模様を繰り広げていくのですが、何と言っても6人のキャラが魅力的で、演じるキャストも今思えばかなり豪華。気弱でちょっとヘタレなエリックを『スパイダーマン3』のヴェノムことトファー・グレイス、エリックの隣に住む赤毛女子ドナを「オレンジ・イズ・ニュー・ブラック」の美人受刑囚アレックスことローラ・プリポン、おバカなイケメン、ケルソーをアシュトン・カッチャー、気の強いお嬢様ジャッキーをミラ・クニス、陰謀マニアのハイドを「メン・アット・ワーク」のダニー・マスターソン、女子力の高い交換留学生フェズをデミ・ロバートの恋人としても知られるウィルマー・バルデラマが演じています。なかでも、ミラ・クニスとアシュトン・カッチャーのスターパワーは、今や当時より格段にアップ。2人が実生活で交際を始め、子どもを授かり、結婚して家族となった時、「ケルソーとジャッキーが!」と歓喜した「ザット ’70s ショー」ファンは多いはずです。ワガママなお嬢様ぶりを発揮してケルソーをグイグイ引っ張るジャッキーと、打っても響かない残念さとのほほんとした態度でジャッキーに向き合うケルソーは、くっついたり離れたりのすったもんだな展開も含め、「ザット ’70s ショー」的ベストカップルの1つ。ミラもアシュトンもさほど外見に変化がないのはさすがですが、初々しい2人のなれそめを見た気分にもなれるのがこのドラマ。ちなみに、放送開始当時は15歳だったミラですが、ドラマ内で交わしたアシュトンとのキスが、人生におけるファーストキスだったそうです。また、「ザット ’70s ショー」と合わせ、こちらもチェックしてほしいのがNetflixの新ドラマ「ザ・ランチ」。コロラド州で牧場(ランチ)を経営する一家を主人公にしたこのコメディでは、アメフト選手としての夢に破れ、実家を手伝い始める弟コルトをアシュトンが、その兄ルースターをダニー・マスターソンが演じています。ケルソーとハイドだった2人が、今度は兄弟になっているのが面白いところ!友達同士としてキャッキャする2人と、兄弟としてキャッキャする2人。見比べてみるのも、楽しいのではないでしょうか。(text:Hikaru Watanabe)
2016年04月29日中国版ツイッター「ウェイボー」上には、「あ、あの紅白歌合戦に出てる人、私の子供の頃の"男神"(男性版の「女神」)じゃない!? 」というコメントがあった。この"男神"というのがV6の長野博氏のことで、実は中国では「彼は私が初めてファンになった日本のスター」というように、中国におけるスターは長野博氏が最初という声もあるようだ。○中国で放送されたウルトラマンが話題に中国で誰もが知っている日本の作品と言えば、「ちびまる子ちゃん」「ドラえもん」「名探偵コナン」、そして「ウルトラマン」あたりだろう。ウルトラマンは1990年代前半に中国で放送が始まり、今に至るまで人気は衰えていない。中国では外国映画の上映本数は決められており、中でも日本映画の枠はかなり少ない。だが、その狭き門をウルトラマン映画はくぐり抜けて上映されていた。ウルトラマンを見て育った世代は日本の作品に慣れ親しんだ世代であり、ウルトラマンを通じて日本の芸能人に興味を持つようになった人も多い。そして、「ウルトラマンティガ」で長野博氏が「ダイゴ」を演じていたため、ウルトラマンティガで彼を知った中国人も多い。そのため、2015年の紅白で長野博氏を見かけて、「私の子供の頃の"男神"」とコメントするに至ったようだ。なお、長野博氏は「V6の母」と形容されることもあるようだが、中国でも「博●(●は「女馬」を1字で)」(博ママ)と呼ばれている。○「子供の頃、一番お嫁さんになりたい人だった」「紅白で偶然V6を見た。間違いない! あれはダイゴ! 私の初めての日本のアイドル」「紅白で初めてティガのダイゴをやってた長野博がジャニーズだったってことを知った」「長野博は中国で初めて有名になった日本のスター。多くの日本ファンにとって、初めてのアイドルは彼だ。ジャニーズのV6のメンバーで、ウルトラマンティガに出演したことで、中国で有名になった」このように解説するウェイボーのコメントには、たくさんの人が同意を示している。「彼は私が初めてファンになった日本のスター」「ティガで彼に夢中になった」「子供の頃、彼カッコいいって思ってた」「子供の頃、一番お嫁さんになりたい人だった(今もだけど)」「なんでこんなに見たことあるのかと思っていたら、ダイゴだったのか」○「あの人ジャニーズだったんだ」その一方で、「長野博は初めて有名になった日本のスターじゃないよ。1970年代、80年代の初めには、高倉健、山口百恵、栗原小巻とかが人気だったもん」と反論する人もいる。確かにそれはそうだが、ティガを見て育ったような1990年代生まれであろう若者たちにとって、彼らはちょっと遠い存在である。若い世代にとっては「ダイゴは私たちの世代の初めてのアイドル」なのだろう。また、「うちの子が大好きで毎日見てる。あの人ジャニーズだったんだ」等と、放送は1990年代だったにも関わらず、現在っ子も夢中になっているというコメントもあった。ほかにも、「子供の頃大好きだった人、今日初めて知ったんだけど、彼はうちのパパの2つ年下だった」というコメンもあった。今、ティガを見ている子どもたちもいつか、「長野博は私の子どもの頃のアイドル、でもおじいちゃんと近いくらいの年齢だったんだ」とウェイボーでつぶやくようになるのだろうか……。※写真はイメージで本文とは関係ありません
2016年01月25日恋愛映画の金字塔とも言われている『そして僕は恋をする』から20年。フランスを代表するアルノー・デプレシャン監督と名優マチュー・アマルリックが再びタッグを組んだ話題作『あの頃エッフェル塔の下で』に多くの絶賛の声が上がっています。外交官で人類学者であるポールは、長かった外国での生活を終え、フランスへ帰国することに。しかし、空港に着いたポールは、ある奇妙なトラブルに巻きこまれてしまう。それは、同じ名前のパスポートを持つ“もう一人のポール”がいるというものだった。それをきっかけに、ポールは忘れかけていた青春時代の記憶を呼び覚ますことになる。少年時代と高校時代、そして大学時代という3つの思い出がいまのポールを作り上げてあげていた。甦る記憶に残るのは、家族との関係やソ連へのスリリングな旅、そして憧れていたエステルとの初恋だった。パリの大学に通うポールとパリから離れた田舎町に残るエステル。お互いに募る想いを毎日手紙に書き綴っていたが、異国の地にいたポールは、ある日エステルから思いがけない電話を受け取ることに。そして、エステルへの変わらぬ思いに気がついたポールは、数十年ぶりに手紙を読み返し、ある真実に気がつくのだった……。本作が映画初主演とは思えない演技とみずみずしい魅力を見せるのは、若き日のポールを演じたカンタン・ドルメールとエステル役のルー・ロワ=ルコリネ。その新たな若き才能に魅了され、思わずスクリーンに釘付けに。そして、現在のポールを演じているデプレシャン監督の“分身”的存在とされているマチュー・アマルリックも相変わらずの存在感をみせ、観客を虜にしてしまうのです。大人であれば、誰もが一度は経験したことのある“身を焦がすような一生に一度の恋”。時が経ったいまだからこそ真正面から振り返ることができる反面、どんなに時が経っても思い出すたびに心の奥がチクリと痛くなるはず。そんな激しくも切ない想いがあなたの中にも沸き上がること間違いなしです。あなたの人生において、“本当の恋”が教えてくれたものとは?イベントデータ:『あの頃エッフェル塔の下で』公開表記:Bunkamuraル・シネマほか全国順次公開中配給:セテラ・インターナショナル©JEAN-CLAUDE LOTHER - WHY NOT PRODUCTIONS
2015年12月26日あの頃も今も、コンピュータは楽しい機械です。仕事でも趣味でも、コンピュータとともに過ごしてきた読者諸氏は多いことでしょう。コンピュータ史に名を刻んできたマシンたちを、「あの日あの時」と一緒に振り返っていきませんか?○軽自動車よりも高かったノートPC1994年(平成6年)12月、ディジタル・イクイップメント・コーポレーション(略称:DEC)は、薄型ノートPC「Digital HiNote Ultra」シリーズ(3機種)を発表しました。のちに「ハイトラ」「DHU」などの愛称で呼ばれ、スリムノートとして新しいジャンルの先駆けとなったコンピュータの誕生です。DECは1998年に、コンパックに買収され、そのコンパックも2001年、ヒューレット・パッカードに買収されます。現在、DECという社名こそありませんが、テクノロジーと業績は脈々と現在のパソコン業界に引き継がれています。今回は、DECがリリースしたPCの中でも代表的な、Digital HiNote Ultraを取り上げてみましょう。ハイエンドモデル「475CT」は、東芝製の9.5インチTFT(640×480ドット)液晶ディスプレイを搭載し、OSは日本語Windows 3.1(MS-DOS 6.2V)でした。CPUはIntel 486DX4プロセッサ(75MHz)、メモリは8MB、HDDは528MB(東芝製4,200rpm)です。当時のノートPCとしては高いパフォーマンスを誇りながら、本体サイズはW280×H30.5×D216mm、重量は1.8kgと、薄型/軽量を実現します。CD-ROMドライブは非搭載ですが、本体厚が約3センチで重量2kg以下というスペックは、まさに衝撃的でした。価格は実に558,000円(日本で本格的に販売された1995年6月当時)。インパクトあるプライシングです。ちなみに1994年発売の、スバルの軽自動車ヴィヴィオが548,000円でしたので、車より高いパソコン。まさに一般的ユーザーには憧れでした。マーケティングメッセージは、「世界一スリムなUltraは、世界一軽いCD-ROMノートになる」(※1995年6月時点・日本DEC調べ)でした。20年前、ハイエンドラップトップPCは、CD-ROMドライブを搭載したモデルが多かったですので、スリム/軽量をアピールしつつ、外付けオプションのCD-ROMドック「モービルメディア」(重量0.82キロ、価格は78,000円)とのセットで拡張性も訴えます。○写真で見るDigital HiNote Ultra具体的に、その魅力を写真で見てみましょう。最大の特徴は、何といっても、Digital HiNote Ultraの優れたデザインです。機能美ともいえるそのフォルムは、1995年グッドデザイン外国商品賞を受賞します。特に、本体下部後方にレイアウトされたバッテリ部分のヒンジが回転し、キーボードに傾斜を付けられることは、使い勝手の良さとコンパクトさを両立させた、斬新なアイディアです。このギミックは特許としても申請されますが、アイディアはこれだけにとどまりません。操作性に優れたトラックボールやドッキングベイなども、見逃せない特徴です。Digital HiNote Ultraを手がけたデザイナーのMichele Bovio氏は、トラックボールに関する特許などでも有名ですが、同時に優れたエンジニアでした(特許の詳細はWebページでも確認できます)。これらのアイディアを引用したPCベンダーの数や引用特許の多さからも、当時、DECのデザインと技術がいかに先進的であったかが想像されます。○Digital HiNote Ultraとの出会い筆者は、Digital HiNote Ultraを購入することはできませんでした。秋葉原のLAOX ザ・コンピュータ館で見かけたものの、遥かに予算オーバー。買えるはずないと、残念に眺めていました(当時、同じような思いをした方も多いのではないでしょうか?)。ほどなくパソコンショップに勤務した筆者は、Digital HiNote Ultra 475CTを幸運にも業務用端末として利用することになります。まさに役得。ショップの閉店後、CD-ROMドック「モービルメディア」に接続して、音楽を楽しみながら残務作業をしたものです。モービルメディアは、フロントにツィータ(1W)×2、底面にウーファー(2W)×1のスピーカーを内蔵しており、ノートPCらしからぬ迫力のサウンドが楽しめました。単にスリムなだけでなく、マルチメディア機能にも注力していたその先進性。いま振り返ってみても、Digital HiNote Ultraは、技術力のベンダー「DEC」を象徴した名機です。○1994年12月、あの日あの時Digital HiNote Ultraシリーズが発表された1994年12月を振り返ってみましょう。家庭用ゲーム機では、初代PlayStationが発売されました。家庭用ゲーム機にも関わらず、レーシングゲーム「リッジレーサー」のリアルな画像は、圧巻そのもの。3Dゲーム(もはや死語っぽいですが)の将来性・可能性と、新しい時代の到来を感じました。PlayStationの価格は39,800円、初回生産分の10万台はすぐ完売。そして、1年後には29,800円に値下げ、販売を加速させます。およそ10年後には、全世界で1億台を販売したといいます。ハードの価格を低めに設定して普及を進め、ゲーム専用機としてプロモーションしていました。コンピュータとゲーム機、その生い立ちは違うものの、ハードウェアのポジショニングで見ると、汎用性をうたい50万円を超える価格設定のDigital HiNote UltraとPlayStation、まさに対極にあるように感じます。改めて、販売価格とともに、背景のビジネスモデルと販売戦略の重要性を感じます。DECとDigital HiNote Ultraシリーズの消滅は残念ですが、優れた技術はヒューレット・パッカードに受け継がれています。今後も憧れとなるような製品の登場を期待しましょう。――――――――――「あの日あの時あのコンピュータ」では、読者の皆さんからのご意見を募集します。記事で取り上げるコンピュータや思い入れのある名機のリクエスト、ご自身のエピソードなどをお待ちしています。また、コンピュータ本体や周辺機器の写真、カタログデータといった資料のご提供も大歓迎です。マイナビニュースの「ご意見・ご感想」からお寄せください。
2015年05月25日夫婦揃って趣味は海外旅行。お互いの休暇を合わせて色々な国に旅行をしていたあの頃・・・それが子供が生まれてからはすっかり足が遠のいてしまったという人は少なくないのではないだろうか。子供と一緒の海外旅行というと心配ごとが尽きなく、なんとなく諦めてしまったり・・・でも、子連れ旅行経験者の先輩パパママに話を聞くと、素晴らしい体験談が聞こえてくるのも事実。そこで今回は、海外旅行経験豊富なTRIPPING!現地在住ママレポーターからのアドバイスを元に、キッズフレンドリーな東南アジアの子連れ旅行をフィーチャー。そろそろ子連れ海外旅行デビューしてみては!?東南アジアが子連れ旅行に向いている訳©TRIPPING!「子育てがしやすい!」と現地在住ママレポーターからも多数声のあがる東南アジア各国。実は子連れ旅行に向いている国々が多い。■ 1年を通して常夏!1年を通して常夏の観光地が多く、リゾートを楽しめるディスティネーションが多く存在。用意するのも夏服なので、荷物が嵩張らないという利点も!大好きなプールで遊べるならOKというキッズたちも満足すること間違いない。※1■ 飛行時間が比較的短い欧米諸国などに比べ比較的飛行時間が短い東南アジア各国。例えばフィリピンのセブ島は約4時間半。ベトナムのホーチミンには約6時間、シンガポールやバンコク(タイ)、バリ島(インドネシア)にも約7時間前後で到着。※2■ 時差がほとんどない東南アジア各国と日本は、時差が1時間~2時間半ほど。日本より遅れて時間を刻む。ほとんど時差がないため、家族そろって時差ボケ・・・なんてことにならなくて済む。■ キッズフレンドリーな国々東南アジア各国は、子供に優しいキッズフレンドリーな場所が多い。レストランには、子供用の椅子が常備されている所も多く、買い物中に子供が遊び始めても、お店の人が子供を抱っこしてあやしてくれるなんて話もよく聞く。国全体で子供を大切にする風潮があるのでパパママも安心。■ ハイクラスの宿泊施設も比較的リーズナブル東南アジアでは、世界的高級ホテルチェーンや高級コンドミニアムにも比較的リーズナブルに宿泊することができる。家族が増えて宿泊費が心配・・・という場合にも、プランによっては、ホッとできるプライスで宿泊できることも。※3子連れ旅行で検討したい、東南アジア2つの宿泊スタイル子連れ旅行の場合、いつも以上によく吟味したいことの1つが宿泊場所。子供が喜ぶ環境を備えた充実の施設はもちろん、メモリアルな家族旅行を叶えるためにも、ゆっくり時間をかけて選びたい。そこで、今回は子連れ東南アジアの旅で特におすすめしたい2つの宿泊スタイルを提案。1) 大型リゾートホテルインターコンチネンタル バリ リゾート(バリ島)©2013 IHG. All rights reserved.広めのプール、レストラン、キッズルームなどが揃った大型リゾートホテルは、ファミリー旅行の強い味方。ビーチリゾートの場合は、遠浅のプライベートビーチを保有するホテルであれば、更に嬉しい。フェスティブ・ホテル (シンガポール) ©Resorts World at Sentosaホテルが主催しているキッズプログラムが充実しているホテルも多々あるので、世界各国のキッズと一緒に思い出を作るのも楽しい。ルメリディアン・バリジンバラン(バリ島)©Le Meridien Bali Jimbaran2) キッチン付きのコンドミニアムやヴィラ©Airbnbキッチン付きのコンドミニアムやヴィラなら、子供用にいつものご飯をさっと出したり、離乳食を作ったりすることも可能。マーケットに繰り出して地元食材で調理してみるのも楽しい思い出に。洗濯機がついている物件もあるので、たっぷり遊んで汗をかいた子供の衣服もその日のうちに洗濯することもできるのが嬉しいポイント。更に寝室とリビングルームがセパレートされていることがほとんどなので、子供が寝てからリビングルームで夫婦水入らずでくつろぐこともできる。©Airbnb現地のコンドミニアムやヴィラを探す際に便利なのが、「Airbnb(エアビーアンドビー)」。物件のオーナーと旅行者を個人間で繋ぐWebサイトだ。Airbnbの場合、まるで現地に家族で暮らしているようなユニークな体験ができる物件も多く、子供と一緒にワクワクできること必至。・サムイ島(タイ)のヴィラ©Airbnb©Airbnb>詳細はこちら・バリ島ウブドのヴィラ©Airbnb©Airbnb>詳細はこちら※1一部、気温が下がる都市もあります。山岳地は1年に渡って朝晩の寒暖差が大きいのでご注意ください。※2 直行便で成田空港を出発した場合※3 国、都市によっては上記の通りとは限りません。子連れ旅行におすすめの東南アジアの街現地在住ママレポーター並びに、子連れ旅行経験パパママからの情報を基に、TRIPPING!編集部が独自で、おすすめの子連れ旅行先ベスト3をご紹介!1位:シンガポール©ASEAN-Japan Centre子連れ旅行に限らずとも人気の旅行先シンガポール。東京23区より小さいコンパクトな国ながら、ビーチリゾートや、熱帯ジャングルに位置するテーマパーク、異国情緒溢れる街に、近代的なアーバンリゾートとファミリーで楽しめるスポットが多数!衛生面や治安に関しても日本と変わらず(日本以上かも!?)安心して滞在することができる。>シンガポールの子連れ旅行情報はこちら>シンガポール情報はこちら2位:クアラルンプール(マレーシア)写真提供:マレーシア政府観光局最近では、親子留学先としても人気の高いマレーシアの首都クアラルンプール。急速に発展する中心部は、さながら昔アニメで視た近未来都市のよう。ファミリーで楽しめるテーマパークも続々と誕生しているので、最新の設備で親子そろって思いきり遊ぼう!>クアラルンプールの子連れ旅行情報はこちら>クアラルンプール情報はこちら3位:バリ島(インドネシア)©ASEAN-Japan Centre世界屈指の一大リゾートアイランド「バリ島」。数あるビーチには、それぞれ大型の高級リゾートホテルが立ち並び、プライベートビーチを楽しむこともできる。大型ホテルの場合、ショッピングモールが隣接されていることもあり、ホテル内のレストランや施設も充実していることが多いため、一度チェックインしてしまえばのんびり過ごすことも可能。プールと海があれば文句なし!のキッズもご満悦。>バリ情報はこちら現地在住ママに聞く子連れ東南アジア旅行のまめ知識◯東南アジア全般・水、帽子、日焼け止め、サングラス、虫よけスプレー、は必須。(全員一致)・室内は寒いので羽織るものは必須。(全員一致)・ウェットティッシュ、消毒ジェルは必須です。ローカルのレストランではおしぼりなどの用意がないため。(byNatsu)・日本のように自動販売機がないので、場所によってはなかなか買えないこともあります。水分は多めに持ち歩きましょう。 (by Natsu)◯シンガポール編・日本との寒暖の差が大きい場合、体調を崩すお子さんも多いので、暑さ対策に小まめに水分補給をさせることや、長時間炎天下の中いないよう注意することが重要です。万が一熱を出した場合は、ラッフルズジャパニーズクリニック、JAPAN Green clinic、ヘルスウェイジャパニーズクリニックなど日本語の通じる医療機関もあります。(byYU)・羽織るものに加え、靴下も持ち歩きましょう。プレイグラウンドでは靴下を履いていないと入れないところがあります。(by Amy)・オムツは日本になじみのブランドはメリーズ、パンパースが流通しています。基本的にどのスーパーでも買えますが、オムツかぶれ等の心配があるお子さんはお気に入りのオムツを大量に持ってきましょう。(by Amy)◯ホーチミン(ベトナム)編・道が整備されていなかったり、段差があるところが多いので、乳幼児連れの場合は、移動はベビーカーより抱っこひものほうが便利です。(by グッチ)・おむつ替えできる場所が日本より少ないので、5つ星ホテルやショッピングセンターなどの場所を事前にチェックしておくと良いです。(by グッチ)
2015年04月13日あの頃も今も、コンピュータは楽しい機械です。仕事でも趣味でも、コンピュータとともに過ごしてきた読者諸氏は多いことでしょう。コンピュータ史に名を刻んできたマシンたちを、「あの日あの時」と一緒に振り返っていきませんか?○ウルトラマンPCでございます。1995年(平成7年)9月25日、日本アイ・ビー・エムはPC/AT互換機として当時世界最軽量となる、約630gでA6ファイルサイズの超小型パソコン「IBM Palm Top PC 110」(以下、PT110)を発表しました。CMキャラクターにウルトラマンが登場したことから、「ウルトラマンPC」の愛称で多くのファンをつかんだコンピュータの誕生です。PT110は、IBM野洲研究所の高密度実装技術により、携帯性と利便性を追求して開発されました。筐体には、ブラック・アルマイト加工された軽量の「超ジュラルミン」を採用。4.7型DSTNカラー液晶ディスプレイ(SVGAモードで256色)に、CPUはIntel i486SX-33MHzを搭載していました。メモリは4MBまたは8MBで、HDDは内蔵しないものの、PCMCIA(PCカード)のTypeII×2またはTypeIII×1スロット、スマート・ピコ・フラッシュ専用スロット(4MB、10MB、15MB用)など、多彩なインタフェースを備えます。本体サイズはW158×D113×H33mm。ちょうど、VHSビデオカセットのサイズ(W188×D104×H25mm)とほぼ同等のコンパクトなボディに、デスクトップパソコン顔負けの性能を詰め込みました。PT110は3モデル用意され、いずれも価格はオープン。直販のIBMダイレクトでは最小構成のモデル(2431-YD0)が16万9,000円からで、プリインストールOSは「DOS J7.0/V」でした。特に、最上位モデル(2431-YDW)には、ポートリプリケーターとフロッピーディスクドライブに加えて、Windows 3.1が導入されたPCカードの260MB HDDが標準添付され、これをPC カードスロットに挿入するだけでWindows環境が実現できました。また、正式サポートはされていませんが、メモリを8MB以上にすることでWindows 95に対応し、自分でカスタマイズするユーザーも多かったと記憶しています。話が少しそれますが、PT110の生い立ちを振り返ってみましょう。1993年5月の「ビジネスショウ’93 TOKYO」にて、PT110の先駆けであるIBMのコンセプトモデル「モノリス」が展示されます。500gと軽量でありながら、Intel i386SL-20MHzのCPUを搭載し、2MBメモリ、VGA(640×480)の16階調モノクロ液晶、単三電池4本で駆動する、ブラック基調のスリムなDOS/Vパソコンでした。そのデザインが映画「2001年宇宙の旅」に登場する岩板のようなモニュメント「モノリス」にそっくりなことから名付けられたようです。ただ、この画期的な製品は残念ながら市販化されることはありませんでした。筆者の想像ですが、ビジネス的な要素は別にして、機能面で5インチ未満のVGAに表示される文字が小さすぎ、さらにバックライトがないモノクロ液晶だと視認性が悪かった、といった理由があったのではと思います。そんな中、シャープ「ザウルス」や、Appleの「ニュートンMessagePad」の登場、第7回コラムで触れたYHP「HP-200LX」のビジネス的な成功など、モバイル端末が元気づいた次期でもあります。HP-95/100/200LXはWindows 3.1の動作が難しいスペックでしたので、PT110でWindows 3.1が動くというのは、モバイルユーザーにとって大変魅力的でした。○遊び心と、スペック表には表れない利便性・拡張性話を戻して、PT110の実機をよく見てみると、設計者の様々な遊び心と触れることができます(書き切れないほどあるのですが、3つほど取り上げます)。(1) 電話になるPT110は電話として使うことができました。電話用レシーバーとマイクロフォンを本体前面に内蔵しており、電話回線をそのままPT110の「WingJack」と接続することにより、本体が「電話機」になったのです。技術的には、まずSoundBlaster用のマイクロフォン、内蔵スピーカー、ヘッドセット端子があります。さらに、電話用のスピーカー、マイクロフォン、ヘッドセット用端子があるという、すべてが2重になっている構成です。コンパクトと軽量を追求した設計コンセプトと相反し、無駄とも言えます。しかし、理屈ではなく筆者には、何かマニア心をくすぐるような、楽しさを感じます。ただボイス機能も、別途ソフトを利用する必要があり、内蔵モデムのカタログスペック上の表記は、「2400/9600bpsのデータ・FAXモデム」という表記になっていました(ソフトさえそろえば、データ・ボイス・FAXモデムとして機能します)。(2) 汎用的なバッテリや軽量ACアダプタの採用PT110には、重さ90gのリチウムイオンバッテリが採用され、ローパワー時に約3時間のバッテリ駆動が可能でした。また、動作状況を保存するボタン電池が搭載されていたので、メインバッテリを複数個用意して、本体をいったん休止したのちメインバッテリを交換、そして復帰といったことができました。カタログには記載がありませんが、このメインバッテリには、量販店で購入できるビデオカメラ用のバッテリパック(当時のパナソニック用やソニー用もOK)が転用可能でした。汎用品ですので入手が楽で、安く購入できることは大変ありがたかったです。当時、ラップトップパソコンのバッテリはニッケルカドミウムが一般的で、完全放電してから充電するのがお決まりでした(メモリ効果を抑制するためですね)。ですので、完全放電が不要なリチウムイオンバッテリは魅力的でした。ACアダプタには、120gの軽量プラグタイプが用意されます。220V電源には非対応でしたが、国内用途の100V電源対応に絞ることで、軽量化と小型化を図ったのでしょう。(3) 隠れメッセージ基板の増設メモリボードを外すと、MADE IN JAPAN「MONOLITH(モノリス) 1992」という刻印が現れます。さらに、「BOWMAN(ボーマン)」(映画「2001年宇宙の旅」に登場する船長の名)と書き込まれているチップも存在します。モノリス時代から数えて、3年がかりで製品化した開発者の想いが伝わってくるようです。このように、PT110には、モバイルユーザーの購入欲を刺激するこだわりが随所に見られます。PCカードスロットに、キヤノン「デジタルカメラCE300」や、FM多重チューナーカード、TVチューナーなどと接続し、コンパクトPCの使い方をユーザーが創造する楽しさもありました。○すばやく起動、使いやすいPIMPT110には、IBM大和研究所が専用に開発した統合ソフトウェア「Personaware」が標準で用意されます。電源スイッチを入れると、ピーと音がして、約7秒でランチャーまでたどり着きます(漢字はROMで搭載、BIOSの調整などチューニングの的確さを感じます)。個別の機能は、予定表、備忘録(To Do List)、住所録、ノート、電話、FAX、世界時計、電卓、エディター、手書きメモ、パズルゲーム、電子メール、秘書機能などと多彩です。加えて、文字サイズを4段階で拡大・表示できました(V-Text機能)。3種類の入力デバイス(キーボード、ポインティングヘッド、手書き入力用のメモパッド)と併せて、なかなかの使い勝手でした。V-Textの利用で、モノリスの弱点であった文字の見づらさを克服しています。余談ですが、「HP-200LXコネクティビティパック」(販売元日本HP)に付属しているDOS版のSystemMangaerを使うと、HP-200LXとほぼ同等のものをPT110で動かすことができました。HP-200LXのデータもそのまま移行できたので、ユーザーフォーラムの間では、PT110のことを「110LX」などと呼ぶことがありました。筆者は、HP-200LX用「駅すぱあと」をPT110で利用したものです。○1995年9月、あの日あの時1995年は8月25日、Windows 95(英語版)が米国など12カ国で発売されます。日本では遅れること約3か月、11月23日深夜0時に販売開始。東京・秋葉原は、深夜にも関わらず、5,000人を超える人々と多くの報道陣でまさに"お祭り騒ぎ"となりました。筆者は、LAOX ザ・コンピュータ館でフロッピーディスク版を購入。20枚を超えるフロッピーディスクと格闘しながら、4時間を超えるインストール作業の後、Winodows 95を楽しみました。それからいくつもの製品発売の場を経験することになりますが、Winodows 95ほど盛り上がった発売の瞬間に出会うことはありませんでした。1995年、パソコンの販売台数は570万台と、初めて自動車の新車登録台数を超えることとなります(JEITAデータ、日本自動車販売協会データによる)。パソコンは、日本独自のコンピュータ環境からWindowsという世界標準へシフトし、さらに身近な存在になっていきます。スポーツの世界では、野茂英雄さんが米国のメジャーリーグ、ドジャースで活躍し、新人王を獲得しました。独特のトルネード投法で、メジャーリーグに単身チャレンジするその姿は、多くの日本人に勇気を与えました。多くの日本人メジャープレイヤーの先駆けとなったのは言うまでもありません。日米の「Nomoマニア」に愛され、当時のクリントン大統領が「日本の最高の輸出品」と称賛した姿は、ブランディングの成功とも言えます。IBMは米国資本ですが、IBM Palm Top PC 110のモバイルに特化した製品仕様、ウルトラマンを使ったマーケティング施策など、日本独自のニーズや環境に合わせていかなければ成功しないという、ローカリゼーションの大切さを示した一例ではないでしょうか。IBMのパソコンビジネスは現在、レノボジャパンに引き継がれています。これからのパソコンも、CPUやストレージといった基本スペック、そして価格だけでなく、日本のユーザーニーズを汲(く)んだ個性的な製品を切に願います。――――――――――「あの日あの時あのコンピュータ」では、読者の皆さんからのご意見を募集します。記事で取り上げるコンピュータや思い入れのある名機のリクエスト、ご自身のエピソードなどをお待ちしています。また、コンピュータ本体や周辺機器の写真、カタログデータといった資料のご提供も大歓迎です。マイナビニュースの「ご意見・ご感想」からお寄せください。
2014年12月25日子どもの頃、みなさんはサンタクロースを信じていましたか?サンタさんを信じていた頃のクリスマスほど、幸せな時間はなかったと感じます。あの幸福感は一体どこから来ていたのだろうと、この時期になると思います。クリスマスの幸せの秘密を、一緒に探ってみませんか。クリスマスと誕生日の違いって?子どもにとってクリスマスが特別なのは言うまでもありませんが、誕生日と一体何が違うのでしょう。それはきっと、親の演出です。クリスマスツリーを飾ったり、プレゼントをこっそり仕込んだり、1ヶ月も前からケーキを予約したりと、クリスマス前の親は本当に忙しいものです。そんな思いをしなくても「はい、パパとママからのプレゼントだよ!」と渡してしまえば簡単なのに、それでもサンタさんを仕立てようと頑張る。「ホントにサンタさんきたー!」と喜ぶ子どもの顔が見たい一心で。みなさんもプレゼントの中身は忘れてしまっても、クリスマスの高揚した気持ちや幸福感は覚えているのでは?きっと、プレゼントをもらう以上の価値が、そこにはあったのでしょう。大人のクリスマスがつまらないワケ・・・大人になりサンタさんが来なくなってからというもの、クリスマスは他のイベントと同化してしまったと感じます。なんとなく恋人と過ごして、レストランに行って、とりあえずプレゼントを交換するイベント。そこには、必死でサンタさんを信じ込ませようとする一世一代のウソもなければ、思わず頬が紅潮するようなサプライズもありません。多くは想定の範囲内で収まってしまうものです。想像力が働かないクリスマスは、幸福感も薄いと思います。チャンスは来た!幸せなクリスマスを、もう一度自分が親になったら、もう一度あのクリスマスの特別な幸福感に浸れるチャンスが来たということです!まだ赤ちゃんだからとスルーせずに、一緒にお祝いをしましょう。クリスマスがどれだけ特別な日かを伝える意味でも、ファーストクリスマスから家族の大切な習慣にしたいものです。離乳食期の赤ちゃんでも楽しめるクリスマスアイデアなどを参考にしてみてください。手作りならではの温かみと、かわいさあふれるデコレーションアイデアが満載です!家族で一緒に作りあげるクリスマスは、子どもにも親にも格別な思い出になるはずです。面倒なことから幸せは生まれる先日、子どものころに書いたサンタさん宛てのカードを母親から渡されました。30年も大切にしまわれていたカードを見て、母にとってもあのクリスマスが幸せな時間だったことがわかりました。子どものころのあの高鳴る気持ちを思い出して、今度はみなさんが家族のためのクリスマスパーティーをプロデュースしましょう!手間がかかるし面倒だけれど、幸福感は面倒なことにしか伴わないのかもしれません。さあ、ホームパーティーの準備開始です!※参考: 出産準備サイト - どうしたらいい?「ファーストクリスマス」の祝い方・楽しみ方Photo by Pinterest
2014年12月18日あの頃も今も、コンピュータは楽しい機械です。仕事でも趣味でも、コンピュータとともに過ごしてきた読者諸氏は多いことでしょう。コンピュータ史に名を刻んできたマシンたちを、「あの日あの時」と一緒に振り返っていきませんか?○日本語プログラムでゲームを作れたんです1982年(昭和57年)8月25日、トミー(現・タカラトミー)は、16ビットグラフィックコンピュータ「ぴゅう太」(TP1000)を発売しました。米TI製のCPUを搭載し、メモリに16KBのRAMと20KBのROM、そのほか16色表示、擬音4種類、3和音、独自専用カートリッジ型のスロットを採用しながら、本体価格は59,800円を実現します。カートリッジは当初、6種類のゲーム(モンスターイン、ターピン、ザウルスランド、フロッガー、ボンブマン、スクランブル)が、各4,800円で用意されます。もちろん、ぴゅう太はゲーム専用機ではありません。本体上部にはJIS配列の日本語キーボードを搭載しており、日本語G-BASICが大きな特徴でした。背景を描き、アニメを加え、さらに音やタイマーをセットするなどといった、プログラミングができる本格派コンピュータだったのです。ぴゅう太のマーケティングメッセージは、「パソコンをここまで身近にしたのは『ぴゅう太』だ。」でした。1982年末のパソコン雑誌に掲載していた広告では、16ビットグラフィック機能をアピールします。女の子がぴゅう太を使い、「いちばん好きな人をコンピュータで絵にしました。」と、ジェームス・ディーン似の人物を描いた"テレビ"を映します。ぴゅう太のグラフィックは、いわゆるドロータイプではなく、独特なプログラミングを必要としましたが、当時としては16色の綺麗な描画が可能でした。日本語G-BASICの採用は、子供をターゲットにしている玩具メーカー「トミー」ならではの画期的なチャレンジ。例えば、BASICのGOTO文は「ニイケ」(~に行け)で、具体的には「40 ニイケ」のように記述します。IF文と組み合わせた場合、「モシ A=0 ナラバ 100 ニイケ」のような書き方です。慣れれば決して難しくはないのですが、プログラムリストの理解には、ちょっとしたコツが必要でした。さて、筆者とぴゅう太の出会いは、1982年末、新宿のデパートでした。発売されたばかりのPC-9801を触りに秋葉原や新宿に通ったものですが、立ち寄ったデパートの玩具コーナーにゲーム機として鎮座していた、ぴゅう太に出会いました。母親ぐらいの年齢の店員さんにハードやG-BASICについて質問しましたが、「コレ、まったく分からないんです」と困惑していました。私は、マイコンオタクの嫌な子供だったのでしょう。○1982年8月~1983年前半、あの日あの時ぴゅう太が発売された1982年8月は、「ゲームセンターあらし」のアニメがテレビ放映されていました(放映開始は1982年4月)。主人公の石野あらしが使った技、ジョイスティックを超高速で操作させる秘儀「炎のコマ」、静電気で電子回路を操作する「エレクトリック・サンダー」などが流行ったものです。もちろん現実には不可能な"動き"でしたが、ゲームセンターで「炎のコマ」と叫びながら、インベーダーゲームをプレイした方も多いのではないでしょうか。他にも、実際のインベーダーゲームにあった技法、いわゆる「名古屋打ち」なども登場し、拡散に一役買ったと記憶しています。また、防犯などの理由から、筆者の通っていた学校では、ゲームセンターの出入りが禁止となりました。この流れは社会現象でしたので、意図せず家庭用ゲーム機が普及する下地が形成されていったのかもしれません。(1982年下半期は、本コラム第1回のPC-9801で振り返りましたので、ぴゅう太が拡販された1983年上半期を振り返ってみます。)翌年の1983年4月15日、「東京ディズニーランド」が開園します。オープンからわずか1カ月で入場者100万人を記録するなど、その人気は爆発的なものでした。トミーは、東京ディズニーランドの開園当初から公式スポンサーであり、園内のショップでぴゅう太を販売しました(現在のタカラトミーも、東京ディズニーランドでウェスタンリバー鉄道のスポンサーとなっています)。ぴゅう太用のソフト「ミッキー・アスレチックランド」も4,800円で発売され、ミッキーマウスが5つのステージを駆け抜けていくその様は、キャラクターゲームの先駆け的な存在で、とても斬新でした。夢の国でぴゅう太を買われた方は、幸せだったことでしょう。――――――――――「あの日あの時あのコンピュータ」では、読者の皆さんからのご意見を募集します。記事で取り上げるコンピュータや思い入れのある名機のリクエスト、ご自身のエピソードなどをお待ちしています。また、コンピュータ本体や周辺機器の写真、カタログデータといった資料のご提供も大歓迎です。マイナビニュースの「ご意見・ご感想」からお寄せください。
2014年11月18日社会人で午前中に眠気がくる人は、子どもの頃からそのような症状は起きていましたか?実は、幼い頃から夜型の生活習慣が根付き、深夜2時~3時に眠るようなことを繰り返していると、午前中に眠気がくるだけでなく、体調も悪くなるといわれています。ひどい場合には、学校や会社にも行けない状態に。実は恐ろしい午前中の眠気について、詳しく見てみましょう。宵っ張りの子どもの例ある18歳の女の子は、幼い頃から両親が夜に働いていたため、宵っ張りだったそうです。しかし、その悪影響は、彼女が中学2年生になる頃に顕著になりました。どんどん寝付きが悪くなり、夜中3時頃でないと寝付けないようになったのだそうです。すると、当然朝起きるのがしんどくなります。それでも無理をして起きて学校に行くのですが、どうしても午前中は眠気がひどく、倦怠感、めまい、頭痛、吐き気などの症状も出ていたそうです。そして遅刻も多くなり、中学3年生の3学期になると、ほとんど学校に行けなくなってしまったのだそうです。小さい頃からの習慣の重要性この例から分かることは、いかに小さい頃からの睡眠習慣が恐ろしいものかということです。彼女はビタミンB12とメラトニンの薬物療法と、朝方に高照度光療法を受けることになりました。そして彼女の母親と共に、日常生活における生活指導やカウンセリングなども受けたところ、一ヶ月ほどで症状も改善し、無事に高校に通えるようになったそうです。もしこうなってしまったら、まず朝型へ生活習慣を変えるのが先決となるようです。いわゆる概日リズム睡眠障害と呼ばれる症状を持っている人にとって、重要なことだといわれています。周りの人からは「やる気のない怠け者」だと思われてしまいがちですが、実際は脳の機能障害であることは理解しておきたいところです。午前中の眠気を根本的に直す!もし、社会人のあなたが毎日、午前中に眠気が続くようであれば、小さい頃からの生活習慣に要因があるのかもしれません。ちょっと長い休暇の後に睡眠覚醒リズムの乱れが修正できるかどうかは、概日リズム睡眠障害になっていないかどうかを判断する目安になるといわれています。もし気になる場合には、お医者さんに相談してみましょう。必要に応じて、午前中に高照度の光を照射してもらうことで、後退している生体リズムを元に戻してもらうことも可能です。もちろん、朝の光を浴びるだけでも変わってきます。気になる方は、まずは起きたらカーテンを全開にして光を意識的に浴びるのもおすすめです。Photo by John Morgan
2014年10月19日年齢と共に衰えゆくカラ・・・。女性なら誰しも鏡を見て「あぁ、あの頃に戻りたい!」という気持ちを持つものではないでしょうか?特に女性のバストは、年齢を重ねるごとに垂れ下がり、魅力的なボディから遠ざかってしまいます。バストアップブラやガードルも数あれど、どうせ使うなら、ちゃんとしたものを使っていきたいですよね。そんな時、見つけちゃいました!CMでもおなじみ、「プロポーションづくりのダイアナ」さんの15,750円相当の補整下着が、なんと1,575円でお試しして、そのまま貰えちゃうというなんとも夢のようなキャンペーンを!その名も「キレイになりたい!5つの体験キャンペーン」!ということで、早速こちらの「プロポーションづくり体験コース」を体験してきました!驚きの体内年齢が発覚!プロポーションづくりのプロである「プロポーションコンサルタント」さんによる丁寧なカウンセリングの後、いよいよ自分の今の体の状態を計って行きます!まずは体組成計に乗り、体重、体脂肪、筋肉量、基礎代謝量、内蔵脂肪レベルなどが計られます。それによって割り出された筆者の体内年齢、なんと・・・40歳!かなりヤバいです・・・。ただしどんな結果が出ても、これから改善するべきポイントをコンサルタントさんが丁寧に教えてくださるのでご安心を!次に、全身の採寸。(※実際にはショーツ1枚で採寸)バスト、ウエストヒップ周りだけではなく、太ももやふくらはぎ、二の腕まで細部にわたって採寸。これにより、いつも着用していたブラジャーのサイズが2カップも間違っていたことが判明!やはり、プロの手で採寸してもらうことが大切なんですね。快適な着け心地!さて全身の体型診断を終えたら、いよいよ試着です!ここではブラジャーだけでなく、ボディスーツ、ガードル、ショーツも合わせて試着させて頂きました。ここで、驚きなのがサイズの豊富さです。ダイアナさんのブラジャーのサイズ展開は、なんと世界最多の69size!これはギネスにも認定された、他に類をみないポイント。本当にお客様に合うサイズの下着を着けてもらいたいという熱い志が伝わってきます!補整下着に「キツい!辛い!」という先入観を抱いていた筆者ですが、着用してみてなんとびっくり!上に無理なく引き上げられる感覚がなんとも快適ではないですか!窮屈さもまったくなく、フィット感ばっちりの着け心地です。着用後、衝撃的な結果が!(左:before、右:after)どうですか?!この違い!一目瞭然ですよね?メリハリ、すっきりしたライン、そしてバストの張り!さらに今回は特別に、試着前後に3Dボディスキャナーという全身測定装置で採寸いただきました。(※ 銀座を含む全国5ヶ所のギャラリーであれば、どなたでも無料で体験できるそうです)すると・・・(左:before、右:after)なんとトップバストが7.4センチも上がっているではありませんか!さらにウエストからヒップにかけてきれいなS字カーブが現れ、まるでルパン三世のフジコちゃんになった気分!これにて体験は終了。試着したブラジャーはそのままいただけます(※ ご自分に本当に合ったサイズをご提供する為、ブラはお取り寄せとなります)。しかも、こちらのブラジャー、なんと15,750円相当の商品なんですって。なんとも太っ腹なキャンペーン!たった1,575円で、魔法のようなブラが手に入るなんて、そうそうないですよね。ぜひこの機会に、あなた自身のカラダで驚きの効果を実感してみてください!「キレイになりたい!5つの体験キャンペーン 1,575円(税込)」の詳細はこちら。※ キャンペーンの体験は全国にあるキャンペーン実施サロンで体験出来ます。※ 対象者:はじめてダイアナをご体験される方(20歳以上女性、学生不可)。※ 期間中、体験はお一人様1回限りとなります。サロンに合計3回ご来店頂きます。※ 体験後にご感想を記入したアンケートのご提出が必要になります。※ ダイアナサロンにご来店頂いている方でも体験出来る場合がございます。詳しくはサロンにお問合せください。取材協力:ダイアナプロポーションギャラリー銀座photo by Pinterest & GotaWritten by 森田文菜※ 効果には個人差がございます。
2014年02月23日あの頃も今も、コンピュータは楽しい機械です。仕事でも趣味でも、コンピュータとともに過ごしてきた読者諸氏は多いことでしょう。コンピュータ史に名を刻んできたマシンたちを、「あの日あの時」と一緒に振り返っていきませんか?○FMシリーズの誕生1981年(昭和56年)5月20日に富士通は、8ビットパーソナルコンピュータ「FUJITSU MICRO 8」(以下、FM-8)を発表しました。のちに日本製コンピュータの代名詞の1つともなった「FMシリーズ」の誕生です。その設計思想は斬新で、8ビットCPU「MBL6809」(モトローラ「MC6809」コンパチブル)をメイン用とサブ用に2個搭載していました。さらに、同社の大型コンピュータ「FACOM Mシリーズ」に採用したばかりの64KbitダイナミックRAMを8個も、4層の基盤上に搭載。合計64KBという大容量の主記憶領域(メインメモリ)を誇りながら、218,000円と戦略的価格を実現したのです。発表当初のマーケティングメッセージは「CPUを2個搭載して、アドレス空間は128Kバイト、高分解ディスプレイ、日本語表示、豊富な補助記憶装置を採用したパフォーマンスモデル」。スペックでたたみかける、ビジネスユースを意識したものでした。翌1982年11月には、バブルカセット(現在でいうリムーバブル記憶装置)などを廃止した廉価版の後継機種「FM-7」が128,000円で発表され、大ヒットを飛ばします。FM-7については、別の機会に譲りましょう。FM-7の登場に合わせて、FM-8のカタログ表記も「FM-8」の略称へと変更され、「ハイクオリティ・ユースのパーソナルコンピュータ」としてメッセージを強化しながら販売が継続されます。82年ミスマガジングランプリの伊藤麻衣子(現、いとうまいこ)さんをイメージキャラクターに起用し、親しみやすさ、パーソナル感を演出していました。○FM-8との出会い1981年5月の発表は、NECのPC-6001(1981年9月発表)、PC-8801(同12月発表)の前であり、FM-8のスペックや価格には圧倒的なインパクトがありました。640×200ドット/8色表示のカラフルなデモ画面や、RS-232Cポート、アナログポートに標準でジョイスティックを付けられるなど、憧れて秋葉原のショップに通ったものです。半透明なバブルカセットのふたを開けると、電源スイッチがあり、それだけで大型機のような雰囲気でワクワクしました。電源をONにすると、標準実装されていたF-BASICの起動画面「FUJITSU MICRO 8 BASIC Version 1.0Copyright(C)1981 By FUJITSU/MICROSOFT 30358 Bytes Free Ready」カーソルが点灯し、大容量にしびれます。キータッチは重厚感があり、シューティングゲームでのBREAKキー連射にも十分対応できました。また、コンピュータ雑誌の影響は大きく、通称YAMAUCHIコマンド、拡張Kコンパイラなど、雑誌に取り上げられた情報もFM-8の人気を支えたと思います。コンピュータ雑誌といえば、何ページものダンプ(プログラム)リストが掲載されていて、それを自分の手で打ち込んで使うことが当たり前でした。FM-8ではオプションの漢字キャラクタROMもボードではなく、チップをソケットにさすタイプでしたので、パソコンをソフト、ハードウェアとも自ら作っている感覚があったのです。○1981年5月、あの日あの時1981年は世界的にみれば、IBM Personal Computer 5150が8月12日に発売されるなど、のちのコンピュータ業界の流れを左右するテクノロジーが生まれた年です。アメリカでは、初のスペースシャトル打ち上げが行われました。日本では、神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア’81)が3月20日~9月15日に開催されます。三宮とポートアイランドを結ぶ、世界初の無人運転システムだったポートライナーは、未来を感じさせてくれました。会場では、テレビ電話や3D画像といった21世紀の技術が紹介されます。日本IBMは遣唐使船の復元船をパビリオンで展示し、漢字が使えるコンピュータを「漢字反対語ゲーム」でアピールしました。当時、漢字が使えるコンピュータは画期的だったのです。漢字の入出力といえば、ワープロ専用機が主流でした。富士通初のワープロ専用機「富士通オアシス 100」(OASYS = Office Automation SYStem)が、1980年5月に270万円で発表され、1年間に1500台を超える受注があったそうです。1981年8月に小型化(本体重量は約32kg)された後継機、「富士通オアシス 100J」が159万円で発表されます。同100シリーズと合わせて1年間で1万台、3年間で10万台という販売目標を掲げ、群馬県館林新工場の建設計画を発表し、OA部門強化を打ち出します。富士通オアシスでは、独自の親指シフトキーボードも見逃せません。「かな」で入力して「親指キー」で漢字に変換する「ひと打ちひらがな、2打ち漢字」というメッセージで、自然で負担の少ないかな文字入力が可能でした。他国の文化を取り入れて、そこに日本独自発想の技術を加えて、さらに発展させるような風土がありました。なお現在でも、親指シフトキーボードは富士通コンポーネントが生産中です(Windows対応)。1981年は、OA化を意識したビジネス向けプロモーションが盛んでしたが、特に下半期より個人・パーソナル志向を意識した製品が展開されました。低価格化とともに、マーケティング戦略や販売経路が変化していった、始まりの時期と思えます。――――――――――「あの日あの時あのコンピュータ」では、読者の皆さんからのご意見を募集します。記事で取り上げるコンピュータや思い入れのある名機のリクエスト、ご自身のエピソードなどをお待ちしています。また、コンピュータ本体や周辺機器の写真、カタログデータといった資料のご提供も大歓迎です。マイナビニュースの「ご意見・ご感想」からお寄せください。
2014年01月22日