舞台『サイボーグ009』の製作発表記者会見が2024年3月25日(月) に開催。原作を管理する石森プロと演出の植木豪、主演の七海ひろきのトークに加え、出演キャストによるスペシャルパフォーマンスなどが行われた。今回の製作発表記者会見の模様は、舞台公式YouTubeチャンネルで生配信が実施され、多くの視聴者と取材陣が見守る中、舞台の詳細が明かされた。冒頭、初公開となる七海出演の公演スポット映像から製作発表記者会見はスタート。公演スポット映像で期待感が高まった中、主演の七海、演出の植木、そして原作の石森プロよりライセンス部部長、及川美香が登場し、本作に関するトークが展開された。トークではまず、七海が009/島村ジョー役に抜擢された経緯、そして『サイボーグ009』誕生60周年のアンバサダーに就任した理由について、及川は七海の持つ凛とした立ち姿や伸びやかな動き、そして憂いのある眼差しが「島村ジョー」という人物を形どる上で必要な要素であり、少年っぽさの雰囲気の中にある儚さが魅力と語る。これに植木も大きく賛同し、撮影時の様子を明かした。撮影:財津裕也そしてトークショー内ではメインビジュアル及びキャラクタービジュアルが初解禁。原作ベースのものもあれば、現代のアレンジが加えられたものもある各衣装のビジュアルは、原作ファンはもちろんのこと、舞台ファンやアニメファンなどの心も揺さぶるものになっている。撮影:財津裕也また、舞台のビジュアルと原作のイラストを使用した来場者特典や、毎公演行われる全公演アフターイベントについても発表となった。全公演アフターイベントは、撮影可能なスペシャルカーテンコール・アフターカーテンコール、009/島村ジョーオンリーカーテンコールやアフタートークショーが予定されている。トークショーの後には「サイボーグ戦士」8名と「BG SOLDIERS」によるスペシャルパフォーマンスを実施。映像とアクションを融合した圧巻のパフォーマンスで、見た者を舞台の世界に一気に引き込んだ。撮影:財津裕也舞台『サイボーグ009』は、2024年5月18日(土) から26日(日) に東京・日本青年館ホールで上演される。舞台『サイボーグ009』製作発表会見舞台『サイボーグ009』スポット映像<公演情報>舞台『サイボーグ009』原作:石ノ森章太郎演出:植木豪脚本:亀田真二郎舞台『サイボーグ009』メインビジュアル【出演】009/島村ジョー:七海ひろき001/イワン・ウイスキー:(声の出演)※後日発表002/ジェット・リンク:高橋駿一003/フランソワーズ・アルヌール:音波みのり004/アルベルト・ハインリヒ:里中将道005/ジェロニモ・ジュニア:桜庭大翔006/張々湖:酒井敏也007/グレート・ブリテン:川原一馬008/ピュンマ:Toyotaka0010/プラス 、シキ:滝澤諒0010/マイナス、リク:相澤莉多アイザック・ギルモア:大高洋夫■BG SOLDIERSHILOMU Dolton KIMUTAKU KENTA GeN 加藤貴彦 神谷亮太【公演日程】2024年5月18日(土)~26日(日) 東京・日本青年館ホール公式サイト:石森プロ(C)舞台「サイボーグ009」製作委員会※石ノ森章太郎の「ノ」の字は、約60%縮小が正式表記。
2024年03月27日昨年大好評を得た『演劇ドラフトグランプリ』 が今年も開催!プロデューサーの荒牧慶彦さんと、座長を務める七海ひろきさん、高野洸さんに“演劇”への想いを伺いました。『演劇ドラフトグランプリ』とは…座長に選出された数名の俳優たちが、ドラフト会議によって演出家や共演する俳優を自らドラフト指名してチームを結成。上演時間や舞台形式などのルールにのっとり、クジで決まったテーマに沿って演劇作品を創作し、公演当日に作品を披露。審査員と観客の投票によりグランプリを決定するイベント。荒牧慶彦さんが発案し、その企画・プロデュースで昨年6月に第1回が開催され好評を得た。高野 洸×荒牧慶彦×七海ひろき荒牧慶彦:「演劇ドラフトグランプリ」を初めて開催した去年は手探り状態で、始まるまでは不安でいっぱいだったんですけど、いざやってみたら本当に面白くて!これは絶対に続けた方がいいということで、今年も開催することになりました。高野 洸:今年もお声かけいただいて嬉しいです。去年の「演劇ドラフトグランプリ」は役者一人ひとりのパワーがとんでもなかった(笑)。僕もそれを間近で感じることができて嬉しかったですし、1日でいろんな作品が観られるのは面白いですよね。七海ひろき:私も去年は配信で観ていたんですが、役者の情熱も、舞台を見守るお客さんの集中力もひしひしと伝わってきて、全部ひっくるめて“演劇”だなあと感動しました。荒牧:今年は七海さんと演出家の三浦香さんという新しい風が加わってくれました。(高野)洸とはもともと仲がいいので信頼関係があるし、若い座長がいてほしいという思いもあって去年に引き続きお願いしました。他チームの座長である玉ちゃん(玉城裕規)も染くん(染谷俊之)も、僕が尊敬する先輩としてオファーさせていただきました。高野:去年声をかけてもらったときも思ったんですけど、正直、僕でいいんですか?という思いはあるんですよね(苦笑)。荒牧くんは僕がめちゃくちゃリスペクトしてる先輩なので、この人が言うのならついていこうと思ってはいるんですけど。七海:私も同じ気持ちです。でも、こんな機会はもうないと思うので、出させていただけるのであれば精一杯がんばります!荒牧さんとは、舞台『ゲゲゲの鬼太郎』でご一緒したのが初めてだったけど、お芝居が大好きなんだなというのが伝わる熱い人。すべてに情熱を持って臨んでいて、どうしたらもっといい舞台になるかをつねに考えていらっしゃる。荒牧:いやー…(照)。僕は、僕にはないものを持ってる人が好きなんですよ。例えば洸はアーティストとしてライブをやっているし、七海さんは宝塚歌劇団出身で、今は声の仕事もされている。お互いが自分のスキルを提示し合いながら、より高め合える仲間だと僕は思っていて…。仲間でありライバルであり、この業界を一緒に盛り上げてくれる同志であると思ってるんですよね。高野:でも、チームのメンバーを決めるドラフト会議では、僕と荒牧くんが同じ役者を指名して、僕が負けてしまいました(笑)。荒牧:そうだったね(笑)。高野:僕は出演者の中で一番付き合いが長い(福澤)侑(ゆう)くんをまっ先に指名したんですけど…。荒牧:僕のチームのテーマが“アイドル”だったから、振り付けができる侑が欲しかったんだよね。それに侑とはいろんな作品で共演してるから、チームにいてくれたら心強いと思って。七海さんのチームはすごいメンバーが揃いましたよね。七海:個性的なチームになりました(笑)。唐橋充さんは一度共演してみたいと思っていたんですけど、玉城さんと指名が重なってドキドキしました。幸い、クジの引きが強くて、最高のメンバーが揃いました。荒牧:うちも“アイドル”というテーマにふさわしく、動けるメンバーが揃いました。顔もいいですし(笑)。高野:僕はドラフト1巡目で侑くんが取れなかったので逆に吹っ切れました。去年は最年少座長として新しいことをやろうとダンスを取り入れたりしたので、今年はまた違ったことに挑戦しようかなと。荒牧:今年、洸が選んだメンバーは意外だったかも。2年目の覚悟が見えたよね。七海:ドラフト会議はすごく緊張しました!自分が選ぶ立場であることにも震えましたが、私たちがいた会場も、実際に野球のドラフト会議をする場所なんですよね。荒牧:おふざけは本気でやる、というのが「演劇ドラフトグランプリ」のテーマなので(笑)。もちろん、演劇の素晴らしさを届けたいという気持ちはありますが、ある意味お祭りでもあるので、ファンの方に一緒になって楽しんでもらいたいんですよね。“グランプリ”と銘打つ以上、勝ち負けは出てしまうけど、僕は全員が一番星だと思っているし、ぜひ自分の推しだけでなく、この人の演技が好きだなという人を見つけてもらいたいです。高野:豪華なキャストが揃っていますし、みんなの新たな一面が発見できる場でもありますよね。僕としては配信も盛り上がってほしいんですよ。自宅でスポーツ観戦するように、少しでも演劇に興味のある人に観ていただけたら嬉しいです。七海:この1回の舞台のためだけにみんなとものを作る、という時間を大切にして本番を楽しみたいです。この「演劇ドラフトグランプリ」が“演劇を観た!”と感じてもらえるような、心動かされる時間になったらと願っています。(写真中央)あらまき・よしひこ1990年2月5日生まれ、東京都出身。2012年に、ミュージカル『テニスの王子様』2nd seasonでデビュー。2.5次元舞台を中心に、舞台『刀剣乱舞』『ヒプノシスマイク‐Division Rap Battle‐』Rule the Stageなどで人気を博す。’22年にはドラマ『たびくらげ探偵日記』で主演を務めるなど活躍の幅を広げている。ジャケット¥82,500シャツ¥23,100パンツ¥33,000(以上ラッド ミュージシャン/ラッド ミュージシャン 原宿 TEL:03・3470・6760)イヤカフ、上¥9,900下¥12,100リング¥33,000(以上ライオンハート/シアン PR TEL:03・6662・5525)その他はスタイリスト私物(写真右)ななみ・ひろき1月16日生まれ、茨城県出身。2003年に宝塚歌劇団に入団し、男役スターとして人気を博す。’19年の退団後は、俳優、歌手、声優など幅広く活躍。昨年にはドラマ『合コンに行ったら女がいなかった話』に主演。今年、舞台『THE MONEY』のプロデュースも手がけた。’24年放送開始のアニメ『戦国妖狐』千夜役で声の出演。ジャケット¥72,600(ラッド ミュージシャン/ラッド ミュージシャン 原宿)シャツ¥41,800(ガラアーベント/サーディヴィジョンピーアール TEL:03・6427・9087)右手のリング¥24,200左手のリング¥15,400(共にライオンハート/シアン PR)その他はスタイリスト私物(写真左)たかの・あきら1997年7月22日生まれ、福岡県出身。2009年よりDream5メンバーとして活動し、’14年に「ようかい体操第一」でNHK紅白歌合戦出演。活動終了後は俳優としてミュージカル『刀剣乱舞』膝丸役で人気を博し、今年は舞台『キングダム』で主人公・信を演じた。’19年にソロCDデビューも果たし、’24年1月30日に新曲『ex‐Doll』がリリース。ジャケット¥64,900シャツ¥23,100パンツ¥31,900ベルト¥13,200(以上ラッド ミュージシャン/ラッドミュージシャン 原宿)その他はスタイリスト私物『演劇ドラフトグランプリ2023』12月5日(火)17:00開演日本武道館総合演出/植木豪総合司会/山寺宏一特別審査員/中川晃教楽屋レポーター/髙木俊アシスタントレポーター/田中涼星【劇団『一番星』】座長/荒牧慶彦演出/川尻恵太出演/木津つばさ、高橋怜也、福澤侑、松井勇歩【劇団『びゅー』】座長/高野洸演出/松崎史也出演/北川尚弥、高木トモユキ、古谷大和、松島勇之介【劇団『国士無双』】座長/染谷俊之演出/中屋敷法仁出演/糸川耀士郎、椎名鯛造、鳥越裕貴、長妻怜央【劇団『恋のぼり』】座長/玉城裕規演出/私オム出演/石川凌雅、小西詠斗、萩野崇、服部武雄【劇団『品行方正』】座長/七海ひろき演出/三浦香出演/加藤大悟、唐橋充、後藤大、廣野凌大アリーナ席・1階席1万3500円2階席1万1500円3階席9500円Mitt TEL:03・6265・3201(平日12:00~17:00)※『anan』2023年12月6日号より。写真・宮崎健太郎スタイリスト・藤長祥平ヘア&メイク・車谷 結(荒牧さん)塩田勝樹(七海さん、高野さん)取材、文・尹 秀姫構成、文・望月リサ(by anan編集部)
2023年12月06日左から、澄風なぎ、緒月遠麻、寿つかさ、七海ひろき、伶美うらら元宝塚歌劇団で宙組組長を15年務めた寿つかさの初主演作品、そして七海ひろきが座長兼初プロデュースをする、舞台「THE MONEY-薪巻満奇のソウサク-」がCBGKシブゲキ‼で本日初日を迎えた。本作のキャストは、寿つかさ、七海ひろき、緒月遠麻、伶美うらら、澄風なぎの5名。全員が元宝塚歌劇団の宙組に在籍していたメンバーである。演技派俳優5名による新感覚のミステリーシットコム演劇。発表当時から話題を呼び、チケットが連日完売となる人気公演だ。これは、5人の犯罪者の物語である。アンティークな絨毯やソファセット、猫足のローテーブルなど、洋館の1室がステージに広がる。この限られた舞台美術のみを駆使して描かれる構成も見どころのひとつだ。主演寿つかさの開演アナウンスがあり、いよいよ開幕。失踪した夫を探す主婦ミツキ(寿)と、ミステリアスな謎の女アオイ(七海)が、ステージ中央のアンティークソファに向き合って座っている。アオイが「あなたの旦那さんが横領した5000万を所持している、3日後の時効がきたら山分けしよう」と不穏な提案を持ちかける。金に困っているミツキは、アオイを怪しく思いながらもこの提案を飲む。金の入っているケースは洋館から持ち出すことはできないなど、この上なく怪しいアオイは、何を尋ねても秘密と答える。ミツキの旦那と面識がある洋館の主人マリ(緒月)に、5000万円の件を隠そうと嘘で誤魔化す2人。そこへ横領事件を追う刑事のサエ(伶美)が登場し、ミツキとアオイはパニック。さらに、横領事件と無関係のフード配達員のウオ(澄風)が加わり台風のように、状況をややこしくしていく。ミツキとアオイの2人が、隠さなくてはいけない秘密が雪だるま式で増えていき、それらを周りに必死に隠そうと悪戦苦闘する様子が、本人たちは必死なのだが非常に面白い。マリの天然ボケを抜群なニュアンスで演じる緒月と、大パニックで右往左往するミツキを絶妙なテンポとシュールな動きで表現する寿のコメディセンスが秀逸で、サエを演じる伶美の真面目で真剣な芝居と、七海が演じるアオイのマイペースで冷静なツッコミやフォローが絶妙なコメディスパイスとなっている。そして、その空気を澄風が大胆にウオという強烈なキャラクターでかき乱す。個性豊かな登場人物たちによる畳みかける会話劇とめまぐるしい展開に客席は笑いの渦に包まれた。ステージ上で繰り広げられているのは本格ミステリーなのだが、客席側ではコメディとなる不思議な現象。本作の最大の仕掛けは、ネタバレとなり記載出来ないため、是非公演を観てほしい。本作のタイトルからはじまり、物語の至る所にちりばめられた要素を見事に回収する積み立て式の面白さが実に爽快である。各登場人物は、脚本・演出の保木本が出演者と面談して作った“あてがき”。この作品の魅力の大きな要素と言えるだろう。なお、保木本は、昨年七海が主演を務めたTVドラマ「合コンにいったら女がいなかった話」(関西テレビ)で脚本を担当し、七海と意気投合。七海が本作のオファーを持ちかけたとのこと。謎解きや奇想天外な展開に息をのんだかと思いきや、シチュエーションのおかしさに笑い声が飛び交う。物語が進むにつれ客席との一体感が深まり不思議な没頭感を体験できる。いくつもの伏線が張り巡らされ、想像がつかないストーリー。まさに、新感覚のミステリーシットコムである。東京公演はCBGKシブゲキ‼で8月27日(日)まで。その後、8月30日(水)から9月3日(日)まで、心斎橋PARCO 14F SPACE14で上演される。上演時間は約90分。東京公演と大阪公演の千穐楽には、楽天TVによるライブ配信も行われる。キャストコメント寿つかさ/ミツキ役七海ひろき初プロデュース公演、舞台「THE MONEY」に出演させて頂けますこと大変嬉しく思っております。脚本・演出の保木本さんをはじめ素晴らしいスタッフの方々、そして魅力溢れる出演者と共に“お客さまを笑顔にしたい!”と私達も日々稽古してまいりました!宝塚歌劇団卒業後初の舞台、初のシチュエーションコメディ、お客様と笑いを通じた楽しい時間になりますように!!七海ひろき/アオイ役会話劇の楽しさと難しさを感じながら脳みその回路を繋げようと必死に稽古をしました。舞台「THE MONEY」は、お客さまが最後の出演者です。キャスト、スタッフ一同、この舞台を通じて笑いを生み出し、お客さまと一緒に楽しい時間を過ごしたいと思います。QQカンパニーの初公演、どうぞ心ゆくまで口角を上げてお楽しみください!緒月遠麻/マリ役濃密なお稽古期間を終えてとうとう舞台へ。作品の内容と同じく私たちもハラハラドキドキ。一体型劇場かのように皆様と共にこの世界を楽しみたいです!喜劇は悲劇←演出家のお言葉考えて、疑って、そして笑って、ただただ楽しんで下さい。本日はご観劇、本当にありがとうございます!!伶美うらら/サエ役舞台『THE MONEY』がいよいよ開幕いたします。シチュエーションコメディという新しいお芝居の挑戦でもあり、とても学びのある濃いお稽古期間を過ごして参りました。いよいよ開幕いたします!一回一回を大切に私自身も思いっきり演じたいと思います。THE MONEYの空間をぜひお楽しみくださいませ。澄風なぎ/ウオ役〝シチュエーションコメディ〟の世界、私自身、扉を開いたばかりではありますが、お稽古を重ねる毎にその魅力に出逢い、もっとうまくなりたい!…と引き込まれております。全力投球で参ります。お楽しみいただけたら嬉しいです。公演概要■キャスト寿つかさ緒月遠麻伶美うらら澄風なぎ七海ひろき■脚本・演出保木本真也■企画QQカンパニー■日程・会場〈東京公演〉2023年8月23日(水)~8月27日(日)CBGKシブゲキ!!〈大阪公演〉2023年8月30日(水)~9月3日(日)心斎橋PARCO 14F SPACE14■ライブ配信〈東京公演〉8月27日(日)13:00公演 全景視点(定点)8月27日(日)17:00公演 物語視点(スイッチング)〈大阪公演〉9月3日(日)12:00公演全景視点(定点)9月3日(日)16:00公演物語視点(スイッチング)配信プラットフォーム:Rakuten TV 【公式WEBサイト】 詳細はこちら プレスリリース提供元:NEWSCAST
2023年08月23日俳優の磯村勇斗が14日、都内で行われた映画『渇水』(公開中)の舞台挨拶に出席し、同作で共演した女優・山崎七海と柚穂の今後に期待を寄せた。河林満氏による同名小説を、刊行から30年の時を経て初の映画化。日照り続きの夏、給水制限が発令されていた市の水道局に勤める岩切俊作(生田斗真)の業務は、水道料金滞納家庭や店舗を回っての料金徴収と、水道を停止すること。貧しい家庭を訪問しては忌み嫌われる日々で、妻・子供とも別居中の俊作はある日、停水執行中に育児放棄を受けている幼い姉妹(山崎、柚穂)と出会う。自分の子供と重ね合わせてしまう俊作は、自分の心の渇きを潤すように、その姉妹に救いの手を差し伸べる。この日のイベントには磯村のほか、主演を務めた生田と高橋正弥監督が参加。磯村は、「『渇水』が公開されてから、たくさんの方に嬉しいコメントをいただいたりと、多くの方に観ていただいております」と周囲の反響に触れ、「今日こうして生田さんと登壇できたことを嬉しく思います」と心境を伝える。上映後のイベントということもあり、生田と磯村がラストシーンの撮影秘話を語る場面も。劇中の関係性を意識した制作陣から山崎・柚穂との会話を控えるよう指示があったが、ラストシーンの撮影から徐々に会話することができたそう。生田は「このシーンの後から、彼女たちも“この人と話していいんだ”という感じで、学校であった話とか夏休み中の話をしてくれたのが印象に残っています」と振り返り、磯村も「妹役の柚穂ちゃんは、本当に天真爛漫で、お姉ちゃん役の山崎さんはしっかりしていた」と印象を告白した。さらに磯村は、「とてもいい女優さん。僕はこれからがすごく楽しみですね。いい目してますから」とその存在感を絶賛。生田も「本当そうだよね! 今後が楽しみな2人」とうなずく、2人のこれからの活躍に期待を寄せていた。
2023年06月14日■前回のあらすじ不幸アピールばかりしていたと反省するつぐみ。変わりたいけれど、自信を持てずにいると七海は今からでも変わることはできると力説する。しかし、会話の途中で七海が突然倒れてしまい…。 >>1話目を見る 私が学生時代に七海に掛けた言葉なんて、言われるまで忘れていました。私は七海が中退したことさえ忘れていた薄情者なのに…。七海が今でもその言葉に励まされて生きていると知って、涙が出ました。私は、変わりたい。ツラかった昔の自分を認めてあげたい。それと同時に、七海が知っている前向きだったころの自分を取り戻したい…そう思ったのです。次回に続く(全8話)毎日更新! ウーマンエキサイトのTwitterをフォローしてこの話の続きを先読み! ※この漫画は実話を元に編集しています脚本・ 日野光里 /イラスト・ お花
2023年02月19日■前回のあらすじ友人の七海から、「本当に不幸なの?」と指摘されたつぐみ。一言「ツラかったね」と言ってくれればいいのにと思うつぐみは、やっぱり誰も私を理解してくれないと怒りをあらわにするが、ふとあることを思い出し…。 >>1話目を見る 私が、不幸だっただろうと思っていた七海の過去が、本人からしたら「ただの過去」で「不幸ではなかった」。私にとっては衝撃でした。大変な思いをしたのに、ツラいと言わずに過去にできるものなの? 強がってるんじゃなく?不幸は張り合うものじゃない…? 七海の言葉を受けて、私は今まで勝手に周りに自分の価値観を押し付けていたと思いはじめたのです…。次回に続く(全8話)毎日更新! ウーマンエキサイトのTwitterをフォローしてこの話の続きを先読み! ※この漫画は実話を元に編集しています脚本・ 日野光里 /イラスト・ お花
2023年02月17日現在公開中の映画『劇場版 呪術廻戦 0』より、七海、冥冥、京都校メンバーらを捉えた新カットが公開された。「週刊少年ジャンプ」(集英社刊)にて連載中、シリーズ累計発行部数6000万部を突破している大人気コミック『呪術廻戦』(芥見下々・著)。そんな『呪術廻戦』初の映画化となる『劇場版 呪術廻戦 0』は、ファンにとって重要な“百鬼夜行の決行日”である12月24日に全国418館(IMAX39館含む)にて公開され、昨日1月13日に公開から21日目で観客動員:589万人、興行収入:80億円を突破する大ヒットとなり一大旋風を巻き起こしている。この度、新たに七海・冥冥・京都校メンバーら、映画オリジナルシーンの本編カットが公開された。さらに、先日公開された、禪院真希役の小松未可子、狗巻 棘役の内山昂輝、パンダ役の関 智一による“2年ズ”鼎談の後編も到着。本作の大きな魅力でもある、アクションシーンについて語っている。本編全体を通したアクションシーンに関して、内山は「アクションシーンのレベルが高いのは勿論なんですが、キャラクターによって戦い方のスタイルが違うのも面白かった。真希さんだったら薙刀状の呪具だし、乙骨だったらソードアクション、パンダだったら肉弾戦。そういう違いによってバトルの雰囲気が変わるので、観ていて全く飽きなかったです」とコメント。関は「序盤からアクションシーンの勢いが凄くて、このままこのペースで続いていったらラストはどうなるのかなって思っていたんですよ。同じレベルのアクションシーンじゃつまらなくなるかもしれないって。でも、ラストはもう何が起きているのかわからないくらい激しくなっていて、メリハリがしっかりしていて楽しめました」と語っている。更に、原作では描かれていなかった映画オリジナルシーンとなる、七海・冥冥・京都校メンバーらの活躍について小松は、「東京でみんなが頑張っていた頃、京都校の人たちもちゃんと戦っていたんだって、原作の深堀がより出来ていいシーンだと思いました。あと……ナナミンはずるい!決めるところは決めちゃって、うらやましいくらいにいいシーンを持っていかれちゃった(笑)。冥冥も大きな武器振り回してね。颯爽としていてカッコよかった!」と語っている。その他、TVアニメシリーズで戦った“京都校メンバー”の活躍ぶりや、“乙骨最強説”などを語っている鼎談完全版(後編)は、映画公式サイト( )にて公開されている。『劇場版 呪術廻戦 0』公開中
2022年01月14日ものまね界のレジェンド・コロッケさんと、宝塚歌劇団出身でハンサム代表の七海ひろきさんという、予想だにしなかったまさかの組み合わせに驚く人も多いはず。10月の明治座は、『令和千本桜~義経と弁慶』のタイトルのもと、この二人の異色の共演が実現する。コロッケ:ここまでタイプもやってきたことも違う二人が共演ですからね。明治座さんとしてもそこの化学反応を狙ったんだと思いますが…。七海ひろき:最初にお話をいただいたとき、「私、ものまねできないよ?」とは思いましたが、ワクワクしました。コロッケ:どうなるか全然想像がつかないですからね。ただ『義経と弁慶』と聞いてからは、なるほどね、と。七海さんの義経ぴったりですし。凛とした義経だからこそ、僕が弁慶をやる面白さってあると思うので。そもそも、弁慶って本来は義経より倍くらいでかくないといけないんですよ。でもそこで家来が「弁慶ってもっとでかくなかった?」ってツッコんだら、それだけで面白いじゃないですか。そこで「いや顔が…」って返したら、あ~ってなりますよね。七海:私が笑いを堪えられるかが、すごく問題になってきそうですよね。それ、ズルいです(笑)。お客様も周りの役者さんも笑っている中で、ツッコミ側の私は必死に堪えないといけないわけですよね…。コロッケ:そうなったときはそうなったときで、「大丈夫か」とか「気は済んだか」とかのちょっとしたセリフで十分空気は戻せますから、そんなに心配しなくて大丈夫ですよ。七海:(笑)。楽しみです。今、私が考えているのは、主従関係を結んだ義経と弁慶の絆が徐々に深まっていく過程を、観ているお客様に自然に感じていただきたいなということです。私とコロッケさんがこうやってお話しさせていただく中で、だんだん距離が縮まっているように。コロッケ:そうなんですよね。物語の部分はしっかり作っていかないととは僕も思っています。経験上言うと、物語から崩しちゃうと大ヤケドする。舞台に立っている人たちだけが面白がっている、身内受けの舞台になりがちなんですよね。ファンの方なら嬉しいけれど、明治座ですし、いろんなお客様に面白がってもらって帰っていただきたいですよね。七海:私もあまり内輪受けみたいなことは苦手で…。どの方が観ても楽しめるお芝居のほうが好きなんです。コロッケ:じつは、足を一歩出すだけでも笑いって取れるんですよ。コケ方とかね。たとえば、弁慶の話をしたときの義経の動きとかでも…こうやって言うことで自分にプレッシャーをかけてるんですけど(笑)。七海:笑いって、泣かせるよりも難しいといわれていますけど、私にとってもまだ難しいです。稽古の中で学ばせていただけたら。コロッケ:第二部のオンステージは、おなじみのネタもありつつ、新ネタも披露しようと思っていますし、もちろん七海さんとのコラボも…。七海:私自身は歌を歌わせていただいたりもしますけれど、コラボも楽しみです。ものまねは苦手なんですが…コロッケさんとステージに立てるなんてめったにないので、なにかご一緒できたらとは思っていて。コロッケ:いろいろ企んでます。『令和千本桜~義経と弁慶/コロッケものまねオンステージ2021』侍を襲い刀狩りをしていた弁慶(コロッケ)は、あと1本で千本となる夜、義経(七海)に敗れ主従関係を結ぶ。出会いから平泉での自害までを描く芝居が第一部。第二部は、それぞれのショーとコラボステージ。10月9日(土)~21日(木)浜町・明治座出演/コロッケ、七海ひろき、高橋健介、蒼木陣、日向野祥、矢島舞美、上田堪大・川原一馬(Wキャスト)S席1万2500円A席6500円ほか明治座チケットセンター TEL:03・3666・6666(10:00~17:00)コロッケ熊本県出身。オリジナルをデフォルメしたものまねで’80年代に大ブレイク。そのレパートリーは500を超える。’18年には本名の滝川広志として映画『ゆずりは』で初主演を果たした。ななみ・ひろき茨城県出身。宝塚在団中男役として人気を博し’19年に退団。現在は俳優、声優、歌手として活動中。12月に茨城、東京、大阪で「七海ひろきクリスマスディナーショー2021」を開催。※『anan』2021年10月6日号より。写真・小笠原真紀取材、文・望月リサ(by anan編集部)
2021年10月03日芸能生活40周年を迎えたコロッケと、元宝塚歌劇団星組男役スターの七海ひろきによる、異色のコラボレーションが話題の『令和千本桜〜義経と弁慶/コロッケものまねオンステージ2021』。一体どんなステージになるのか、お互いの印象も含めて、コロッケと七海に話を聞いた。「七海さんがやる義経は、武家ではない人たちの気持ちも分かってくれるイメージ」(コロッケ)──はじめに、お互いの第一印象を教えてください。コロッケ実はまだあまりじっくりお話しする機会がなかったのですが、七海さんと共演させていただくということが分かってから、出演作なども見させていただきました。すごく清潔感のある方なので、僕がやる弁慶とどういう形で絡んでいけるのかなと。僕はコテコテな感じだから(笑)。どこまで食い込んでいいのか、どこまでやれることがあるのかというのは、まだ手探りみたいな状態です。七海私がコロッケさんに初めてお会いしたのは、ビジュアル撮影の時でしたが、でも一方的に、小さい頃からテレビで姿を見ていました。いろいろな方のモノマネをされていて、私も毎回ワクワクしながら見ていて。なので、ビジュアル撮影の時も、取材の時も、お会いできることをとても楽しみにしていました。雲の上の方という気持ちでしたので、あくまでイメージで「モノマネ界の帝王だぜ」みたいな感じなのかなとも思ったのですが(笑)お会いしてみると、すごく気さくに笑いかけてくださったり、話しかけてくださったり。懐の大きさをすごく感じているので、お稽古も含め、本番も楽しい時間になるだろうなと率直に思いました。──まさに異色のコラボレーションは明治座ならではですよね。第一部では『令和千本桜』ということで、七海さんが義経、コロッケさんが弁慶を演じられます。今、どんなお気持ちですか?コロッケお芝居の邪魔にならないように、あくまで芝居の中で面白さをつくっていかないといけないと思います。義経と弁慶というふたりの関係性の中で、皆さんがクスッと笑える部分があればいいなと。例えばですけど、義経が「弁慶!」と声をかけたら人違いで、弁慶はそのことを気にしているとかね(笑)。本を読みながら、お芝居の中で進めていければいいなと思っています。七海義経と弁慶は、昔から何度も上演されてる演目で、いろいろな解釈やパターンのものがありますよね。その中で、義経というのは、弁慶をはじめ、家来の方々がいる。なぜ彼らがついていこうと思ったのかを考えたときに、自分でハードルを上げますけど(笑)、カリスマ性のような“何か”があったのかなと。まだ試行錯誤中ですが、その“何か”を、コロッケさんや他の共演者の方々とお稽古の中でつくっていけたらいいなと思います。そして、皆さんとの協調性を深めていけたらいいなと思います。コロッケ多分七海さんがやる義経は、庶民派というか、武家ではない人たちの気持ちも分かってくれるイメージですね。人を人としてみてくれるというか。七海それをどうやったら表現できるかな……。コロッケもう、スッと、凛としていただけるだけで大丈夫ですよ(笑)。こちらが「はは〜」とひれ伏すときに、温かい目で見ていただければ、十分伝わります。「お客様が “本当に『令和千本桜』だね “と思って観て楽しんでいただけるものを目指したい」(七海)──「令和」ということで、どういうところに新しさがあるのでしょうか?コロッケ弁慶というと、体が大きくて、すごい強くて、荒くれ者というイメージですよね。実際、僕は弁慶とはお会いしたことないですけど、本当はそんな人じゃなかったかもしれないじゃないですか。そこにひとつ落としどころがあると思っているんです。堂々としているのに、ハエがすごく嫌いとか(笑)。僕が弁慶やらせていただくからには、どこかコロッケらしいことをやりたいですよね。舞台の演出で言えば、義経が飛んだり、橋で出会うところはブラックライトを使ったりする演出が面白いんじゃないかな。蛍光色でふっと場面が浮かび上がるような感じがして。とにかく「新しい時代劇」というような見方をしていただけたら、嬉しいです。──「新しい時代劇」ですか。コロッケ言葉ひとつにしても、時代劇言葉が全てではなく、物語を崩さない程度なら、現代語が入っていてもいいと思うんですね。極端な話、携帯電話が出てきてもいいと思っていて(笑)。令和だと携帯は当たり前の時代ですよね。誰かが携帯を取り出して、ひと言「時代が違うと思います」とつっこむだけで、笑いとして収められる。ただ、そういうことが続くとグダグダになってしまうので、その塩梅はこれからの検討課題ですが。──七海さんはどう思われていますか?七海コロッケさんが「こういう演出はどうだろう」とか「七海さんにはこういうことをやってもらえたら、素敵に見えると思う」とかいろいろアイデアを話してくださって。そのこと自体がすごく嬉しいし、一緒に素敵な作品をつくっていきたいなという気持ちになります。令和版というのは、現段階では正確には分からないですけど、衣装、照明、音楽が目新しかったり、踊りや殺陣も令和っぽくなったりするのかな。みんなで模索していきながら、つくっていくと思うんですけど、お客様が「本当に『令和千本桜』だね」と思って観て楽しんでいただけるものを目指したいと思います。コロッケさんについていきながらも、私も一緒に引っ張っていけるようにしたいです。ふたりのモノマネは・・・本番のお楽しみ──第二部では、コロッケさんのモノマネの鉄板ネタもたくさん見られるのでしょうか。コロッケそうですね。でも、新しいネタもやるつもりです。BTSとかLiSAとか、令和で活躍している人はやらなくてはいけないと思っています。七海楽しみです!コロッケ似ている、似ていないではないので、僕の場合は(笑)。僕が解釈したその人のイメージなのでね。以前とあるモノマネをしたら「やる必要があるんでしょうか?」と言われたことがあるのですが、そもそもやる必要がないことをやってきているので(笑)。やっぱり観に来ていただくからには、おなじみのものと、そうではないものをお見せできるようにしたいですね。──七海さんのモノマネも見られますか?七海全然固まっていないですよ! でも、せっかくの機会なので、七海ひろきらしい部分もありつつ、コロッケさんと一緒にやらせてもらえる場面もつくっていただいて、新しい自分と出会いたいとは思います(笑)。──そもそも七海さんはモノマネはされるんですか?(笑)。七海私ね、何も持ちネタないんですよ(笑)。コロッケそれはそうでしょう! モノマネをやる必要がないもの!(笑)。七海モノマネは完全に見て楽しむ側だったので、未知の領域です。コロッケ僕の場合、モノマネは、その人のことがすごく気になるとか、歌が好き、声が好き、仕草が好きとか、そういうところから。僕は好きだからこそ、おかしな部分が見えてしまう方向に行っちゃうタイプなんですけど。だから七海さんも、この人のこういう踊り方が好き、歌い方が好きというのがあれば。だんだんとその人に近くなっていくのではないかな。好きでないと、無理やり覚えるなんて、嫌じゃないですか。七海なるほど。そう考えると、私は、好きになった人を真似しようという風にあまり思ったことがないのかもしれないですね。あくまで尊敬している存在なので、自分がそれになりたいとは思ったことがないのかも。コロッケ例えば、好きな歌はあります? カラオケに行ったりします?七海 カラオケはめっちゃ行きます! アニソンの歌や、西川貴教さんの歌が好きでよく歌います。でも、本当、モノマネはしたことないなぁ(笑)……とにかく、まだ何も決まっていないので、本番でのお楽しみということでお願いします!──分かりました(笑)。では、最後にみどころと、お客様へのメッセージをお願いします。コロッケ私の見どころは、一部はコロッケではなくて、二部はコロッケということです(笑)。一部と二部が両方同じものになってしまうことは、お金を出して観に来ていただいてる方に失礼だと思うので、やはり違うものを見せるのが筋だと思ってますから。一部はコロッケではなくやっぱり弁慶として、二部はコロッケで。幕が開けた時からグワーっとハイライトでいきたいですね。新ネタもいろいろ頑張ります!七海そうですね。私も、一部は七海ひろきでなく、二部は七海ひろきでいきたいなと思います(笑)。第一部の『令和千本桜』では、義経と弁慶の物語を皆さんと一緒につくっていきたいなと思いますし、第二部は、私もまだどうなるかドキドキなのですが、お客様が初日を観たときに、思い切り楽しんでいただけるように、精一杯頑張りたいと思います。取材・文:五月女菜穂撮影:杉映貴子ぴあアプリ限定!アプリで応募プレゼント七海ひろきさんのサイン入りチェキを2名様にプレゼント!【応募方法】1. 「ぴあアプリ」をダウンロードする。こちら() からもダウンロードできます2. 「ぴあアプリ」をインストールしたら早速応募!『令和千本桜~義経と弁慶/コロッケものまねオンステージ2021』2021年10月9日(土)~2021年10月21日(木)会場:東京・明治座チケット情報
2021年08月21日名画チャンネル「シネフィルWOWOW」が、元宝塚歌劇団男役スター・七海ひろきのインタビュー付きで『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』をHDテレビ初放送する。放送に際して、七海が主人公・天上ウテナの衣装を着用したオリジナル写真ポストカードのプレゼントキャンペーンが実施中だ。『少女革命ウテナ』は、1997年からTVシリーズとして放送されたアニメーション。独特の世界観を美しい映像が当時のアニメファンに大きな影響を与えた。本編の放送前後には、宝塚歌劇団を退団後、俳優・声優・アーティストとして活躍する七海が登場。本作のファンを公言する七海が『少女革命ウテナ』の魅力を語る。オリジナル写真ポストカードは、七海の名前にちなみ抽選で77名様に3枚組セットでプレゼント。シネフィルWOWOWホームページ内にある番組特設ページの専用応募フォームから11月8日と26日に放送する番組の最後に発表するキーワードを入力の上、応募してほしい。【七海ひろきコメント】宝塚歌劇団や退団後の活動で、さまざまなキャラクターのコスチュームを着させていただいています。それでもやはり、小さな頃から大好きだったウテナの学ランに袖を通した瞬間、なんともいえない感動がこみ上げてきました(笑)。撮影時は、ウテナの動きを考えながらカメラの前に立っていました。これまでお芝居や歌の活動をする中で、何度も「作品を作ること」に対するプロの向き合い方を見てきましたが、今回もとても勉強になり、うれしい機会でした!さまざまなカットの中から3種類をポストカードにしていただいています。【番組概要】◆『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』【七海ひろきインタビュー付き】放送日時:11月8日(日)21:00、11月26日(木)24:45出 演 :七海ひろき(インタビュー)番組特設ページ: ()【プレゼントキャンペーン実施概要】<応募要項>シネフィルWOWOW公式ホームページ内にある、番組特設ページの専用応募フォームに必要事項と、11月8日(日)21:00と11月26日(木)24:45から放送される番組内で発表される<キーワード>を入力の上、ご応募ください。※<キーワード>は両放送日とも同じ内容です賞 品: 七海ひろきが、主人公・天上ウテナの衣装を着用したオリジナル写真ポストカード3枚組セット応募期間: 11月8日(日)21:00~12月3日(木)23:59当選者数: 77名様※当選者の発表は、賞品の発送をもって代えさせていただきます。
2020年10月09日10年ほど前、知人の勧めにより精神科を受診しました。そのとき明確な診断名はつきませんでしたが、いくつかの向精神薬を処方されました。「飲んだら気持ちが楽になる」。そう思って飲み続け、だんだん薬の種類や量が増えていきました。そんな私ですが、今は減薬を頑張っています。なぜ減薬しようと思ったのか。減薬している時はどのような状態なのか。少しでも多くの方に知ってほしく、この文をしたためています。文・七海向精神薬を飲み始めたときから、量が増えていくまで当時の私は、自分がうつ病だと認めたくありませんでした。だけど、心身の不調は数年間続いていました。そんな時、身近な人に精神科を紹介してもらったのです。「優しい医師で、私の親戚も通っているから」と、そう言っていました。精神科は思ったよりも“普通”でした。待合室にはさまざまな人がいました。保護者に付き添われている制服姿の学生、スーツ姿の男性、子どもを連れた女性、私の祖父母くらいの年齢の人。街中ですれ違うような人がたくさん座っていて、なんだか“安心”したのを覚えています。診察室で何を喋ったのかはあまり覚えていません。心身のしんどさを具体的に伝えた記憶はなく、うつ病といった診断も特におりませんでした。「気分が楽になるから」と、数種類の薬を処方されました。それが、初めて向精神薬を手にしたときです。飲んでみると、ふわふわと浮かぶような感覚になりました。私の場合は、全能感があふれるような感じで、ひどく落ち込んだ気分のときも楽になりました。それからその薬を飲み続けました。しかし、だんだん効いている感覚がなくなってきました。飲まないと焦燥感に駆られるようになり、冷や汗が出ました。薬の量が増え、手もとの薬がなくなったら病院に駆け込みました。そして追加の薬を出してもらい、新しい種類の薬も処方されました。こうして薬の量も種類も徐々に増えていきました。私が減薬をしようと思ったきっかけ精神科以外ではほとんど病院に行っていませんでしたが、お腹に激痛が走り動けなくなったときや、片目の視野が真っ暗になったとき。検査をしたほうが良いのではないかと思ったときに、病院に行ったのです。問診票には飲んでいる薬を書かなければなりませんでした。診察では、薬や精神状態について詳しく聞かれました。すると「薬の副作用だろう」「その症状は気のせいだ」と言われ、検査をしてもらえませんでした。腹痛を訴えたときは「気のせいだから痛み止めも必要ない」と言われました。それまで私は、薬についてほとんど何も調べていませんでした。向精神薬を飲んでいると、精神疾患を持っていると、まともに取り合ってもらえないのかと疑問を抱きました。そして自分なりに薬について調べてみたのです。すると、私が飲んでいる薬のうちのいくつかは、依存性が非常に高く、海外では強く規制されているという情報が出てきたのです。添付文書を読むと、「連用により薬物依存を生じることがあるので、観察を十分に行い、用量及び使用期間に注意し慎重に投与する」「漫然とした継続投与による長期使用を避ける」などとありました。背筋が凍るような思いがしました。それほどまでに依存性が高いと説明されただろうか。手もとの薬がなくなったとき、いつもすぐに新しく処方されたのはなぜだろうか。私は既にかなり依存しているのではないか。漫然と飲んでいる状態なのではないか。書かれている副作用はさまざまでした。10年ほど飲み続けている私に、どんな副作用があってもおかしくありません。内科などで薬の副作用を疑われるのも、気のせいだと言われるのも、そんなにおかしくない話なのかもしれないと思いました。定期的に血液検査しなければならない薬も飲んでいたのですが、私は一度も検査をしたことがありませんでした。検査が必要だということも知らされていなかったので、当時の主治医に聞きました。なぜ血液検査をしないのか、そして私は漫然と服薬している状態ではないのか、と。医師はほとんど無言で、血液検査については「忘れていた」のひと言でした。「人間だから忘れることもある」と。私は減薬を決意しました。何かの症状で困った時、薬を飲んでいると真っ先に副作用を疑われてしまうこと。そして、単純にその薬の依存性が怖かったこと。一生この薬を飲み続けないと、私は生きていけないのか。薬に生かされているようだと思ったのです。減薬のつらさは想像以上だった精神科は変えました。薬物療法ばかりに頼らない病院を探しました。そうした病院であれば、減薬も理解してもらえると思ったからです。新しい病院では「減薬したほうが良い」とはっきり伝えられました。そして、「こんなに無茶な飲み方をしている患者は珍しい」とも。私が飲んでいる薬には、離脱症状が現れることもあります。依存性のある薬を減量する際に出る症状です。人それぞれですが、幻覚や不眠、痙攣発作などは添付文書に記載されています。私の場合は、何よりも不安感が大きいです。そして、眠れない日もあります。依存してしまっている薬を少しずつ減らし、より依存性の低い薬に置換していくという減薬方法を提案されました。数週間ほど新しい薬に置き換えてみたのですが、強い眠気に襲われました。1日のうち20時間ほど寝続けていることもあります。起きている間は始終ボーッとしていて、頭が働きません。思うように喋れず、ふらついて真っ直ぐ歩けません。しかし、長時間寝ているので、ほとんど薬を飲まない日が続きました。薬を飲まないリズムが強制的にできあがったようです。ただ、新しい薬はあまりにもボーッとして、行動できません。このボーッとする感覚がなくなったとき、新しい薬にもまた依存するのではないかという恐怖心も抱きました。主治医に相談して、減薬方法が固まりました。新しい薬は減薬の導入に使うことにしたのです。薬は徐々に減らしていかなければならないので、減らす段階の初期のみにその薬を飲みます。減らしたリズムができあがったら、その新しい薬は飲みません。この減薬方法は私が主治医と話し合って決めたものなので、イレギュラーかもしれません。しかし、少しずつではあるものの、確実に減薬できています。私に合った減薬方法を見つけてくれる医師にかかれているので、いつかは必要な薬しか飲まないで良い生活ができるのだと希望を抱いています。今まで私は、自分が健康でなくても良いと考えていました。だけど、前向きに生きたい。そう思えるようになったのです。向精神薬を否定するつもりはありません。私自身、服用して助けられた部分があるのですから。しかし、漫然と飲み続けることには疑問を抱くようになりました。症状を良くしたいから、薬を飲んでいます。でも、不必要な量や種類を飲むことで依存性を高めるのはどうなんだろう。副作用の危険性を高めるのはどうなんだろう。他の症状で病院に行った時、門前払いされてしまうのはどうなんだろう。薬とはうまく付き合いたいというのが今の気持ちです。無理な減薬・断薬は、心身に悪影響を与えます。自分の心や体と向き合いながら、不必要な薬を減らしていきたいと考えているところです。薬を減らしていくたびにしんどい思いをします。だけど、前向きに生きるために、私は減薬という道を選びました。その先に本当の幸せがあるのか分からないけれど、今は、選んだ道をゆっくり歩いていこうと思っています。©Anatoliy Sizov/Gettyimages©SARINYAPINNGAM/Gettyimages©KatarzynaBialasiewicz/Gettyimages©Tzido/Gettyimages
2019年04月02日私は2回、社会からドロップアウトしました。原因はどちらも精神疾患です。双極性障害、いわゆる躁鬱病を抱えています。体調を崩したときは、本当にたくさんの方々に迷惑をかけました。希望を持つことなんておろか、未来を想像することすらできなかったのです。そんな私が、今あなたに伝えたいことがあります。文・七海1度目のドロップアウト。やりがいを持って働いていた職場をやめたとき新卒で入社した会社。わからないことだらけでしたが、仕事の楽しさを実感していました。つらいこともありましたが、それ以上にやりがいを感じていたのです。一生懸命働いていたそのとき、役職に就く話が上がりました。勉強不足なことは多々ありましたが、認められる喜びも感じていた頃です。ちょうどその時期でした。大きな躁状態がやって来たのです。当時の私は鬱病と診断されており、躁状態という認識はありませんでした。数日寝なくてもさまざまなことを頑張れる、そんな感覚でした。もともと生活が不規則だった節があった私は、仕事にも打ち込みました。帰ったら寝ずに勉強し、朝になったら出社する……そんな生活でした。当時は寝なくても平気だと思っていただけで、躁鬱病とは考えてもいませんでした。今までできなかったことにチャレンジしてみたり、新しいアイディアを提案してみたりと、そういった状態だったと認識しています。しかし、その生活は長く続きませんでした。1か月もしないうちに、突然ベッドから起き上がれなくなったのです。経験したことのない、ひどい鬱状態になりました。ベッドから起き上がれなくなった私は、泣きながら会社に電話しました。「体調が悪いのでお休みさせてください」と。記憶が曖昧なのですが、恐らく数週間休んだと思います。毎日泣きながら天井を眺めていたのは覚えています。その後、正式に辞表を出しました。動けなかったので、ほとんど親に頼りました。自分で何もできないのも、やりがいを持っていた職場をやめるのも、情けなく、悔しかったです。今よりも鬱病への偏見が激しかった頃の話です。私は隠れるようにして、実家で過ごしました。1年近く働けず、生きがいを失ったように感じました。さらには、生きている価値もないと思いました。毎日当たり前のように来る朝が、恨めしかったです。朝が来なければ、私はもう生きなくて良いのに。2度目のドロップアウト。恐れていたことが現実になったとき前職を辞めてから、躁鬱病の診断が降りました。しばらく自分に合う薬が見つからなかったのですが、ようやく落ち着ける抗躁剤を飲み始めることができました。それからだんだん症状が落ち着くように。酷い鬱状態も脱していて、奇跡的に転職できたのです。転職先でも多くのことを学び、学生時代から抱いていた夢を叶えたく、フリーランスに転身。以前経験したような、大きな躁状態も鬱状態も出なくなっていた頃です。しかし、心のどこかで怯えていました。また働けなくなるのではないか、と。フリーランスとして働き、数年が経ちました。最初は会社員との違いに戸惑いましたが、徐々に充実した働き方だと感じるように。しかし、恐れていたことが起こりました。酷い鬱状態がやってきたのです。以前とは違って躁状態はありませんでした。「働けなくなるかもしれない」が「やっぱり働けない」に変わり、自分を責めました。会社員ではなかったので、手当てなどがありません。通帳の残高は減っていくばかりで、本当に、もう生きる資格がないのだと思いました。また寝たきりの生活が始まりました。気力は起きず、もう働くのは不可能だと思いました。私が社会に出ると迷惑をかける。私が生きていると迷惑をかける。これからどうやって生きていけば良いのかも、本当に生きていけるのかもわかりませんでした。それでも温かい世界があった。きっと、あなたにもその世界がある働けなくなったという意味で、私は2回、社会からドロップアウトしました。1度目も2度目も、ひどく絶望しました。何もできない私には、存在意義がないのだと思いました。だけど今現在、私は社会に復帰することができています。自分を責め続けてきましたが、温かい手を差し伸べてくれるかたは何人もいたのです。その温かさは、鬱状態だった私には想像もつかないものでした。希望を持てないとき、未来を想像できないとき、自身を責めてしまうかたが多いのではないかと思います。そして、温かい世界も見えなくなってしまうのだと思います。正直、今でも「また働けなくなるのではないか」と怯えている面はあります。だけど今はそこから目を背けずに、今できることを誠心誠意頑張ろうと思っています。希望を持てないときも、未来を想像できないときも、そのときできることに向き合えば、それで十分なのだと思います。あなたが寝たきりでも良いと思うんです。そのつらさを受け止めているあなたは、それだけで頑張っているのだと思います。今は自己否定してしまうかもしれないけれど、必ず、あなたのすぐそばにも、温かい世界があります。世界がこんなにも温かいものだなんて、知りませんでした。ドロップアウトする以前は、”当たり前” に感じていたのでしょう。私がこの経験で得たのは、温かい世界です。それを感じられるようになったことです。いまだに自分の存在意義はわからないし、迷惑はたくさんかけていると思います。だけど、温かい世界に精一杯恩返しをしたいんです。今現在つらい思いをしているあなたにも、温かい世界を感じられる日はきっと来ます。これは、たくさんの迷惑をかけながら生きてきた私が伝えたいことです。©AntonioGuillem/Gettyimages©Carlo107/Gettyimages©Natnan Srisuwan/Gettyimages
2018年12月23日発達障害という言葉がずいぶん浸透してきたと感じますが、私は複雑な心境です。当事者として、思いを発信してきました。発達障害当事者も、そうでない人も、お互いに理解し合える世界を望んでいました。今の状況は、果たしてそういった世界なのでしょうか……。文・七海日常生活で ”発達障害” の使われ方が変わったネット上でもそうなのですが、私のもっと身近なところ、日常生活でも変化を感じるようになりました。ひと昔前まで、発達障害者は ”腫れ物扱い” されている印象がありました。さらにいえば、発達障害だということをカミングアウトしても、その単語自体を知らないという人もいました。今では発達障害という言葉を聞いたことがない人のほうが稀なのではないでしょうか。コミュニケーションが上手でない人を、”アスペ” と揶揄することすらありました。当人が当事者であるかどうかは別にして、差別用語として使用されていた認識です。今では、「もしかしたら私も発達障害かも……」「あの人は発達障害だから仕方ないよね」といった発言が見受けられます。以前まででも全くなかったわけではないのですが、こんなに多くなったように感じるのです。さらにいえば、ニュアンスも異なるように思います。差別用語としてではなく、ある意味 ”個性” として受け入れられている面はあるのかもしれません。錯綜する情報、発達障害の ”せい” にする人たち発達障害という単語が浸透したうえで感じるのは、情報が混乱しているというもの。主にADHDとアスペルガー症候群が取り上げられているように感じます。その2つを取っても、情報がごちゃ混ぜになっていると感じる場面が多々あるのです。例えばADHDの特徴として、長時間ひとつのことに集中できないといったものが挙げられます。いっぽう、アスペルガー症候群の特徴の中には、言葉を額面通りに受け取るといったものがあります。もちろんこれは一例で、症状はさまざま。その症状の出方も人それぞれです。上に挙げた例を見ると、どちらも社会生活を送るうえで不便をきたす可能性があります。しかしながら、ADHDとアスペルガー症候群は別物です。併発している方も確かにいますが、「集中力がないし空気を読めないから発達障害である」と決めつけるのは少々安直な考えに感じます。私はアスペルガー症候群当事者ですが、集中力がないときはないですし、不注意からミスをすることだってあります。だけど、ADHDの診断は降りていません。また、発達障害は、ADHDとアスペルガー症候群だけではありません。読み書きや計算などの能力のうち、習得や使用などに著しい困難を示す ”学習障害” も、発達障害のひとつです。よく聞くアスペルガー症候群は ”自閉症スペクトラム障害” のひとつであり、そのほかには知的障害や運動能力の遅れを伴うものなどもあります。発達障害は本来さまざまであるものの、情報が錯綜しているが故に「ADHDとアスペルガー症候群の症状の一部があるから発達障害だろう」と憶測する人も少なくないように思うのです。発達障害という言葉が浸透しているぶん、「自分は発達障害だ」「あの人は発達障害だ」と決めつけると楽になる気持ちもよくわかります。生きづらかった原因は障害の ”せい” だったのだ、と安堵した経験は私自身にもあるからです。偏見は確かに少なくなったかもしれない。だけど…前述した通り、ひと昔前はもっと偏見にあふれていたように感じます。アスペルガー症候群でいうと、”コミュニケーションができない人” というレッテルを貼られるような感覚です。しかし、私には接客経験があります。接客でいうと、クレーム処理が得意なほうでした。他の人のクレーム処理も任されていたので、そういった認識です。アスペルガー症候群と聞くと、クレーム処理が苦手なイメージがありませんか? 実際、私は真逆なのです。発達障害といっても、本当にさまざまなのです。「○○だから発達障害」というストレートな考え方は、今の状況だと少し危険だなと思います。発達障害の情報が錯綜しているぶん、「私(あの人)は発達障害だからこれもできないだろう」と、勝手な諦めも出てしまうかもしれないからです。憶測だけで自分や他人の可能性を潰すのは、非常に残念に思います。ひと昔前に比べて偏見は少なくなったと思います。偏見や差別意識をなくせれば、そういった思いもありました。その点で言えば、私の願った世界に近づいたのかもしれません。だけど、強い違和感を覚えるのはなぜなんだろう。何度も自問自答しました。今の結論では、発達障害自体が拠り所になっているだけの人が多くいるように感じるからです。発達障害は ”個性” という捉え方で良いのだと、私は思います。程度の差はあれど、みんなで手を取り合って生きていければ良いのでは、と。そういったポジティブな世界を望んでいたのだと思います。今は発達障害の ”せい” にする風潮が強すぎるのかな、と感じます。多少の安堵感は良いと思うんです。しかし、発達障害の ”せい” にして、可能性を摘んでいるような状況が、ネガティブな浸透の仕方のように感じています。当事者も、当事者であろう人も、そうでない人も。みんなが生きやすい世界が私の理想です。せっかく浸透するのであれば、わかり合い、助け合い、プラスを生み出せるような世界になるよう願っているのが、私の真意です。©PaulaConnelly/Gettyimages©fizkes/Gettyimages©praetorianphoto/Gettyimages
2018年11月05日学生の頃から、体調が悪く起き上がれない日が続くことがありました。あるとき心療内科に行き、うつ病だと診断されました。しかしその後、双極性障害(いわゆる躁うつ病)だったことが発覚。うつ状態にも躁状態にも怯える毎日が始まりました。そんな私が日々感じることを綴ります。文・七海抜け落ちた記憶。躁うつ病が発覚したとき1日中ベッドから起き上がれない日々が続き、おかしいな、と思うことはありました。心療内科の受診をすすめられ、そこでうつ病の診断が降りました。精神疾患と向き合い始めたのは、この時期からです。処方された抗うつ剤はよく効き、地に落ちるような気分も何とか持ち上げられる気がして、私は薬を飲み続けました。しかし、あるときから不審なことを感じ始めました。異性の友人から、かなり踏み込んだセクシュアルな発言を受ける。朝気づくと知らない男性が隣で寝ている、など。記憶にないこと、特に性に関するものでそういったことが起こるようになったのです。そういった事態は徐々に悪化していき、曖昧なまま知らない男性と過ごしている夜が出てきました。相手が友人であることもありました。私はそのとき寝ていなかったようで、眠らないまま、毎日そういった日を過ごしていたのだと思います。そんなときの記憶で強く残っている感覚は、全能感です。なんだか空でも飛べそうな、そんな高揚感がありました。ある日、突然体が動かなくなりました。ベッドから起き上がろうとしても起き上がれない。気分はとても落ち込み、全能感に浸っていた自分を責めるようになりました。そして、断片にある男性との記憶も、とても責めました。自分が何をしていたのかわからず、でも取り返しのつかないことをしてしまったと思ったのです。ベッドから動けるようになったとき、私は病院に行きました。そこで診断されたのは双極性障害。うつ病とは別物だったのです。抗うつ剤が躁状態を引き起こす場合もあると聞き、薬を切り替えました。うつ病と診断された後に躁うつ病が発覚するケースも稀ではないようで、私はまさにそれでした。躁うつ病は再発することが多く、薬ともうまく付き合わなければならない、と言われました。躁状態も怖い、うつ状態も怖い。当事者としての心境躁うつ病の中でも、さまざまな症状が出るそうです。例えば躁状態の際、買い物をたくさんしてしまったり、ギャンブルをしてしまったりするケース。私の場合顕著だったのは、性的奔放です。こうしたものから、人間関係を壊してしまうこともあるそうです。実際、私にも経験があります。躁状態の後に訪れるのはうつ状態です。経験則上、大きく躁転(躁状態になること)するほど、後に大きなうつがやってきます。躁状態の自分を責めるのも含めて、非常に落ち込んだ気分になります。絶えず自殺念慮がよぎり、自分の存在価値を見出せなくなります。私自身の、当事者の観点からだけでいうと、根拠のない全能感も怖いです。性的奔放も怖いです。人間関係を壊すのも怖いです。そして、その後で訪れる大きなうつも怖いです。躁うつ病患者は自殺率が高くなるともいわれています。私にはそれがわかるような気がするのです。感覚的なものなので、全ての人に当てはまるわけではないと思いますが、私の場合は酷いうつ状態の後が一番危険だと感じます。躁状態のときはとにかく何でもできる気がします。その後のうつで激しく自分を責めます。しかし、起き上がれない状態であることが多い。起き上がれる程度まで回復したとき、死への決意が固まっているような、そんな感覚があるのです。私が一生この病気と付き合うとしたら再発率が高いため、躁うつ病が完治するのは難しいといわれています。私はこの病気と一生付き合っていかなければならないのだと覚悟しています。現在は躁状態とうつ状態、どちらも抑える薬を服用しており、酷い状態は避けられています。だけど、薬を飲んでいても、恐怖心が大きいです。躁うつ病だから性的奔放が倫理的に許されるかといえば、そうではないことは理解しています。躁うつ病だから人間関係を壊して良いわけでもありません。私はいろいろな人に、多くの迷惑をかけながら生きているのだと自覚しています。だからこそ、私は私自身が怖くて、私自身を否定してしまいます。どうして私なんだろう。どうしてこの病気なんだろう。そう考えたこともあります。それでも、生きている限り、私は私と向き合わなければならないのだと思います。毎日、躁状態への恐怖が心のどこかにあります。だけど、きちんと向き合って生きることにしました。過去の自分は責めてしまいますが、未来の自分は今から作っていける。例え理性の及ばないところにそれがあったとしても、幸いにも自分に合っている薬がある。危ないな、と感じたら家族に「監視」してもらっています。迷惑をかけながら、助けを借りながら生きているけれど、病気と向き合いながら、未来を作っていきたい。それが、今の私の思いです。©PeopleImage/Gettyimages©kupicoo/Gettyimages©kieferpix/Gettyimages
2018年09月12日マジョリティとマイノリティ。この単語だけを見ると、マジョリティが生きやすくて、マイノリティが一方的に生きにくい社会であるように感じるほうが多いような気がします。だけど、アスペルガー症候群という発達障害があり、マイノリティである私は、本当にそうなのだろうかと感じることがあるのです。生きづらさを作っているのは、本当は誰なのでしょうか……。文・七海私がマイノリティにカテゴライズされたときの、正直な気持ち小さい頃からさまざまな違和感を覚えていました。コミュニケーションがうまく取れない自分を必要以上に責めたこともありますし、今でも責めていると思います。学生時代は友だちを作ることができませんでした。友だちという存在への羨望は、人一倍強いのではないかと思います。集団生活が主である学生時代は苦痛で仕方なく、大抵孤立していました。昼休憩はひとりでご飯を食べながら、わいわいと賑わうクラスメイトたちを眺めていました。羨ましいな、寂しいな、と思いながら。いじめに遭ってから身体の異変を感じました。朝が辛く、夜は眠れません。鬱病の予兆でした。それから鍵やガス栓を何度も確認するなど強迫性観念の症状が出て、日常生活まで支障が出てきました。些細なことも確認しなければ気が済みませんでした。社会人になってから精神科受診を勧められ、鬱病だと診断されました。薬物療法が始まりましたが、結局は躁鬱病で、他の精神疾患も多く併発していたことが発覚。さらに、アスペルガー症候群であることがわかったのです。診断された時期は、ちょうど「大人の発達障害」という言葉がよく使われ始めたときでした。発達障害については深く知らなかったものの、大変なんだろうなという認識。偏見を持っているつもりは全くありませんでした。しかし、実際に自分が診断されたときは、ショックを受けたのを覚えています。そしてショックを受けている自分に対しても、ショックを受けました。私は知らず知らずのうちに偏見を抱いていたのだ、と。それと同時に安心感も覚えました。相反する気持ちが混在して複雑でしたが、自身が発達障害当事者であることを受け入れられたのは、結局この安心感があったからだと思うのです。私が違和感を抱きながら生きてきたのも、集団生活になじめなかったのも、生きづらさを感じていたのも、発達障害だからだったんだ、と。発達障害と言われて安心したのはなぜ?偏見がなくなったかどうかは別にして、発達障害という言葉自体はかなり浸透してきたと思います。発達障害と聞くと、例えぼんやりとであっても、何かしらのイメージが浮かぶかたも多いのではないでしょうか。そこに負のイメージが付随するかどうかは、ここでは置いておきます。例えばの話ですが、何かしらの生きづらさを自分が感じていることを思い浮かべてみてください。何不自由なく人間関係を築けている人は、実際にはそう多くないと思うのです。人間関係は複雑だからこそ、悩みを抱えるのだと思います。今あなたが思い浮かべた生きづらさや悩みを、医師に相談したとしましょう。そこであなたに病名が付いたとしたら、どう感じるでしょうか。恐らくですが、「私はこの病気だったから、今まで悩んでいたんだ」と安心する部分があるのではないかと思うのです。あのときの私と同じように。科学も医学も日々進歩します。新たな病名がつくものも、これから出てくるのではないかと思います。科学的・医学的論拠に基づいた病名が自分に付くと、そこで自分をカテゴライズすることができます。言い方は乱暴ですが、”病気のせい” にすることも可能なのです。私があのとき安心感を覚えたのは、それまでの生きづらさを発達障害であるせいにしたからだと思います。もちろん、そういったカテゴライズをすることで、これからの生活に何かしらの対策ができるのであれば、人生において非常に大切なことだと思います。しかし、安心感を抱くだけでは、何も変わらないのではないかと考えています。これは、自戒の念を込めて書いていることです。恐らくなのですが、自分は発達障害かもしれないという不安を抱く人が一定数いるのも、ある意味安心感を求めているように感じます。発達障害でなくても同様です。何かにカテゴライズされると、安心感を抱く傾向にあるのではないかと考えているのです。迫害する側、カテゴライズされる側。だれも責めないやり方はないの?私自身が発達障害当事者なので、発達障害を例にします。単語自体は浸透しているとはいえ、まだまだ風当たりは強いと実感しています。現実の生活でカミングアウトするタイミングはあまりありませんが、匿名のインターネットを見てみると、発達障害に対してかなり酷いことを書かれていることもあります。発達障害当事者を軽蔑している前提の文章を見かけることもあります。そういった人たちが、現実の生活で当人に面と向かって侮辱の言葉を吐いていなかったとしても、心の中ではそう思っている人が一定数いるのではと感じるのです。こうした現状を見ると、マイノリティが一方的に迫害されて、生きづらい社会になっているように見えます。しかし、私は思うのです。声が大きくなり、他を排除しようとしてしまうのは、安心感があるからではないかと。マジョリティはマジョリティであることに安心感を覚えます。自分が多くの人と違っていないという感覚が、自分が異質ではないという感覚につながるのではないでしょうか。だからといって、マイノリティを迫害して良い理由にはなりません。いっぽうマイノリティは、確かに生きづらさを感じる面が多々あるかと思います。だけど、例えば発達障害だとカテゴライズされたときに、その人が安心感を覚えるとしましょう。同じところにカテゴライズされた人々のなかには、権利を主張する人もいます。権利は誰しもが持つべきものなので、不当に迫害を受けている人がそういったムーブメントを起こすことは重要です。しかし、それを踏まえたうえでも、行きすぎた運動があるのではないかと感じます。当事者にしかわからない辛さを訴え、理解を深めるのは大切なこと。理解を深めて、生きやすい社会を作るのも大切なこと。私が疑問を持っているのは、排他的なムーブメントに対してです。マイノリティが声を上げるのは大切なのですが、他のマイノリティを迫害するような言動や、マジョリティを軽蔑したり過度に攻撃的になったりしている言動は、良くないのではないかと思うのです。こうした過激な動きは、むしろ生きづらい社会にしている原因になり得るのではないでしょうか。異なるカテゴリーのマイノリティ同士も理解し合えず、もともと理解のない言動をするマジョリティに対しても、響く運動だとはとても言えないと思うのです。マイノリティがこういった他を排除しようとする運動をする理由のひとつに、安心感あるのではないかと考えています。マジョリティであれマイノリティであれ、他を迫害する言動は良くないと思います。マジョリティである安心感も、カテゴライズされたことによる安心感も、自分自身を守るための生きやすさではあると思います。ただし、その生きやすさを、生きづらい社会にするための要素にしてはならないというのが、私の考えです。安心感は、一歩間違えると攻撃の源になってしまいます。マジョリティもマイノリティも、誰しもが生きやすい社会を作ろうと思うことが、本当に大切なことなのではないでしょうか。©PeopleImages/Gettyimages©martin-dm/Gettyimages©Wavebreakmedia/Gettyimages©/Gettyimages
2018年06月06日私はアスペルガー症候群。発達障害という言葉が浸透しているとは感じるものの、まだまだ偏見や生きづらさを実感します。人が生きていくうえでの幸せとは何なのか、その答えは出せないままです。文・七海結婚するつもりもなかったし、子どもを産むつもりもなかった発達障害は遺伝性だという説は、よくいわれます。アスペルガー症候群当事者として生まれ、当事者として生きてきました。人それぞれなのは重々承知ですが、私は生きづらさを感じてきました。コミュニケーションのうえで成り立つ人間関係はとても難しく、それを築くのが苦手だと痛感しています。比喩がわからず額面通り行動してしまったり、暗黙の了解がわからず不快な気分にさせてしまったり。努力してきたつもりだし、今も努力しているつもりなのですが、知らず知らずのうちに人間関係に亀裂を入れてしまっていたように思います。学生時代はいじめに遭った経験もありますし、集団行動になじめずクラスでも1人浮いていました。そういった生活のなか、躁鬱病などの精神疾患も併発しました。全てをアスペルガー症候群の特性のせいにするつもりはありませんが、人間関係が基盤になる社会を生きるうえでは、ハンディキャップな障害であるように感じます。また、発達障害当事者に対する風当たりは非常に強いと実感します。例えば「アスペかよ」といった罵り言葉を聞くことがあります。相手がアスペルガー症候群であろうがなかろうが、当事者を差別しているからこそ出てくる言葉なのではないかと思います。「だってアスペは空気が読めないし面倒だから」と言われそうですが、その考えが偏見や差別の根本なのだと考えています。アスペルガー症候群は遺伝性の可能性がある、と聞いたとき、私は子どもを産まないと決意しました。ある種のハンディキャップを持って生まれる可能性が高いとわかっているなら、子どもにつらい思いをさせたくないと考えたのです。だから、出産の話につながるような結婚もしないつもりでした。理解ある男性と出会って結婚。その後のプレッシャー結婚はしないという前提で交際していたことはよくあります。結婚願望がないことも、最初に伝えていました。そんななか、病気にも私の価値観にも理解がある男性に出会いました。私は彼に、「子どもを産むつもりはないし、一緒にいたいなら事実婚が良い」と伝えました。それでも彼は結婚したいと言い、結婚したときの法的メリットを挙げてくれました。話し合うなかで、結婚という道でともに生きるのも良いものだと理解し、入籍に至ったのです。しかし結婚についてあまり考えてこなかった私は、入籍後のプレッシャーに悩むようになりました。それは、両家の親から出産を望まれるということです。私のなかで結婚は、私と相手との問題でした。「結婚したら次は子どもがほしいのだろう」と、身内からも自然に思われるのだという感覚が抜けていたため、実親や義親たちが当然のようにそう考えるということを考えていなかったのです。義親はとても良い人です。主人と一緒に家にお邪魔し、よくお話します。世間話の延長線上で義母からこう言われました。「これから家族を作っていくうえで大切なことよね」と。言われた瞬間、その意味を理解できませんでした。私と主人は入籍していて、もう家族なのに。家族を作っていくって何だろう? しばらくして気づきました。暗に孫を望んでいるのだ、と。多分、それが当たり前なのだ、と。実親には学生の頃から結婚しないと宣言していました。子どもを作る気がないことも、それで伝わるだろうと思っていました。しかし、いざ結婚すると、孫を望んでいるのではないかという言動が気になるように。「子どもは作らない」と伝えましたが、心根でどう考えているのかはわかりません。子どもを作らない選択肢を取る夫婦もいるのはわかっていますが、子どもを産むことが幸せだという風潮では、当たり前のように子どもを作りたいのだろうと思われるのだと気づいたのです。義親が良い人なぶん、申しわけなさが増しました。遺伝性といわれている病気でも産む人は産む。幸せのあり方はゆっくり考えよう発達障害以外にも、遺伝性だといわれている病気はたくさんあります。その病気はハンディキャップになり得たり、生きづらさを感じたりするものかもしれません。なかには、発病したら死に至るような病気もあるでしょう。それでも、産みたい人は産んでいるのです。私は決してそれを否定しません。発達障害から話は逸れますが、私も主人も癌家系です。癌は今のところ完全な予防が難しく、治療も大変で、死亡率も決して低くはありません。癌もすべてではないですが、遺伝性のものがあるといわれているので、彼との子どもは癌に罹患する可能性も高くなるのではないかと思います。私がもし発達障害でなかったとしても、夫婦ともに癌家系であれば妊娠への思いを踏みとどまったのではないかと考えています。しかし、同じ境遇の夫婦でも、子どもを産む人はいるだろうと思います。私は ”幸せ” が何なのかを、改めて考えてみることにしました。幸せだと言うことは簡単です。不幸だと言うことも簡単です。だけど、私は自分自身の幸せをきちんと理解していないのだな、と感じています。今のところ、私は「生まれてきて良かった」と思えていません。「生まれてきて良かった」と感じられるとき、私は幸せなのだと断言できるような気がします。自分が幸せだと感じられたときに、初めて子どもを幸せにできる第一歩を踏み出せるような、そんな気がするのです。アスペルガー症候群当事者として、生きづらさを感じてきました。癌家系に生まれ、いつか私も癌になるのかもしれないな、とも思っています。だけど、それ以上に、生きていて幸せだと感じられることがあれば、きっと子どもにも、幸せを感じてほしいと期待や希望を持てるような気がしています。幸せのあり方は人それぞれです。出産への考え方も人それぞれです。私は今、自分自身の幸せのあり方と、ゆっくりと向き合っていこうと考えています。正解なんてないんだろうけど、自分と、私を大切にしてくれている人と、生まれてくるかもしれない子どものことを想って。©Highwaystarz-Photography/Gettyimages©KatarzynaBialasiewicz/Gettyimages©chameleonseye/Gettyimages
2018年04月28日幼い頃から生きづらさを感じてきました。私はアスペルガー症候群。診断が降りたのは大人になってからでした。アスペルガー症候群だとわかってから半年ほど経った頃でしょうか。学習障害も併発していることが発覚しました。それがわかったとき、ストンと腑に落ちるような、そんな感覚になったのを覚えています。文・七海違和感を覚えた小学生の頃。見落とされた障害他人とコミュニケーションを図るのは、昔から苦手でした。ただ、学校での勉強は比較的できたほうだと思います。「詰め込み教育」だったことも相まってか、教科書を丸覚えすればテストで良い点が取れたのです。良い点を取ると、先生にも両親にも褒められました。「賢いね」と言われるたび、良い点数を取ることが良いことなのだと思ってきました。ただ、苦手だった教科がひとつだけありました。それが算数です。小学校中学年くらいまではさほど気にならなかったのですが、a(アール)とha(ヘクタール)が出てきた頃から苦手意識が生まれてきたのです。概念としての単位がどうしても理解できず、そのまま中学、高校と進学していきました。数学が苦手だったので文系を選びましたが、数学Ⅱ・Bは必須科目です。その頃には全くと言ってよいほど数学ができなくなっていたので、万年赤点でした。ひどいときは、全国模試で偏差値28だったこともあります。その当時は発達障害も知らなかったですし、学習障害の存在も知りませんでした。ほかの科目で苦手なものが特になかったので、合計すると偏差値もあまり悪くなく、数学だけ極端に苦手なのだと考えていました。社会に出てから困ったこと。算数は日常に転がっている比較的有名な国立大学に進学し、在学中にはアルバイトを始めました。初めて社会と触れ合ったとき、計算ができない自分がそこにいました。ひと桁の足し算ですら指を使って計算していたので、レジ打ちをする際に暗算ができません。釣り銭を間違えると大変だと思い、慎重を期すことに徹しました。そんな私を見て、店長は首をかしげます。でも、どうしても周りの人のように暗算することができませんでした。社会人になると、計算する機会が増えました。予算を立てたり収支を考えたり。経理職ではありませんでしたが、数字に触れる場面は少なからずあったのです。学校のテストとは違って電卓は使って良いものの、間違っているかもしれないという強い不安感から何度も何度も同じ箇所を計算し直しました。アルバイトをしていたときもそうですが、会社員になっても同じような言葉を投げかけられました。「本当にあの大学を卒業しているの?」と。悪い意味で学歴がついてきてしまうのです。私は社会で役に立たない人間なんだ、と感じました。学習障害の発覚。私以外にも苦しんでいる人はいる躁うつ病を患い、ある朝突然動けなくなりました。私はそのまま会社を辞め、療養することに。そのときに初めて発達障害の検査をきちんと受け、診断が降りました。それからアスペルガー症候群であることを前提の治療が始まったのですが、学習障害だとは診断されませんでした。生きづらさの原因はアスペルガー症候群であるところにあったのかと、ある種の安堵感があり、それ以上の疑問は持っていませんでした。治療は学歴に基づいたものだったのですが、私にはそれが非常に苦痛で、長く続けることができませんでした。そんなとき、カウンセラーとのふとした会話の中で、学習障害かもしれないと言われたのです。それは、小学生の頃から算数が苦手だという内容です。結局、総合的・表面的な判断では学習障害が見えなかったという診断でした。学習障害という言葉を知り、同じように辛い思いをしている人がいることも知りました。計算だけでなく、読み書きが苦手という特徴がある人もいるそうで、現れ方や程度の差もさまざまです。極端に苦手意識を持ち、自信をなくしてしまう人もいるでしょう。「勉強を怠けている」と学生時代に言われてしまうこともあり得るのではないかと思います。私自身がそうでしたが、学習障害であることを見落とされることがあります。そうすると、原因がわからないままに生きづらさを感じてしまう可能性があると思うのです。思い当たる節があれば、専門機関で相談してみるのも良いかもしれません。読み書きや計算などは、社会を生きていくうえで必要なもの。あまり問題ないのに過度に心配するのは良くないと思いますが、そういった特性があると知っていると対処しやすくなります。私の場合、経理関係がほとんど完全に分離している会社に再就職したり、どうしても計算しなくてはいけないときはチェックをお願いしたりしていました。違和感は、あなた自身が抱えている場合も、あなたが周囲の人に抱えている場合もあります。「できない自分が悪い」「怠けているからできない」と自分や他人を責めず、あらゆる人がいることを当事者や周囲が受け入れられる、優しい社会になればと望んでいます。©FatCamera/Gettyimages©Wavebreak/Gettyimages©Steve Debenport/Gettyimages
2018年04月11日私は何度か自殺未遂をしました。この記事を読んでいる人のなかには、「死にたい」と思っている人がいるかもしれません。私も「死にたい」と思ったとき、ネットで検索してこういった記事にたどり着いたことがあります。だけど、私を救ってくれる記事はありませんでした。私はあなたを救えるかどうかわかりません。だけど、せっかくここにたどり着いてくれたのだから。自殺未遂経験者だからこそ伝えられることがあるかもしれないと、あなたへの言葉を綴ります。文・七海目覚めたら病院のベッドの上だった。もう二度と、あの絶望感は味わいたくない何度か自殺企画をしましたが、未然に防いでくれた人がいたことがありました。なぜ自殺企画で終わったのかというと、「遺書」のようなものを書いたり、突然家からいなくなったりしたからだと思います。家からいなくなるというのは、恐らく客観的に不自然な形で、ということです。そういった行為をするとき、私は誰かに止めて欲しかったのかどうか、わかりません。だけど、重篤な状態に陥ったときは、ほとんどの記憶がありません。普段から首をもたげている希死念慮が強くなり、衝動的に「死にたい」「死ななければならない」と行動に移しているような気がするのです。私は今現在こうして生きていますが、目覚めたときの絶望感は二度と味わいたくないと考えています。重篤な状態で発見され、病院に搬送、気がついたら真っ白な天井が目の前にある。「私はまだ生きているんだ」「私はまた死ねなかったんだ」と、絶望するのです。”当たり前” に生きている人とは感覚が違うと感じたことが多々あります。「死なないんだから大丈夫」といった考えを口にする人がよくいるように思うのですが、私は死に ”救い” を求めているような気がするのです。死んだら救われるような、そんな気がするのです。死んだら何もかもから ”解放” されるような気がして、私の場合は「何か決定的に嫌なことがあったら死ねば良いや」と考えています。「死なないんだから大丈夫」とは真逆に……。私は多分、次に自殺しようと決意したときは、より ”確実な” 方法を選ぶと思います。死に方については随分調べました。自殺未遂をした人ほど完遂率が高くなるといわれているのが、私にはわかる気がするのです。だってもう、あの絶望感を味わいたくないから。知人の自死。末期癌の宣告。私の身近にある死昨年、知人が自死を選びました。突然のことでした。彼とは頻繁に連絡を取っていたわけではないけれど、ある程度気心が知れている気になっていました。だけど、何の前触れもなく、彼はこの世からいなくなりました。私は酷く泣きました。昨日まで近くにいた人が、とても遠くに行ってしまったから。そして、語弊を恐れずに言えば「彼が羨ましい」と、同時に思いました。私は完遂できなかったけど、彼は完遂した。今ある苦しみから ”救われた” のではないかと思ったからです。自分の矛盾した感情が憎く、今でも恨めしく思います。ほかの知人に、末期癌を宣告された女性がいます。高校当時に唯一仲良くしてくれた人。彼女はもともと病気がちで、学校にあまり来られなかったけれど、いつもひとりだった私に話しかけてくれました。卒業後も交流は続き、私が自殺未遂で入院しているときは心配そうにしてくれました。だけどあるとき、「癌になった」と連絡がありました。若年性で進行が早く、見つかったときには末期でした。抗癌剤治療を受けながらも笑顔を見せる彼女は強いんだろうな、と思いました。そして、「何で私じゃなくて彼女なんだろう」と思いました。私は何度か自殺未遂をしました。自殺企画もしました。今でも希死念慮・自殺念慮は消えません。だけど、自殺した知人も、末期癌の知人も、「死んでほしくないし、死んでほしくなかった」です。自殺未遂を経験しているのに、いまだに自殺念慮があるのに、知人に「死んでほしくない」と思い泣くのは、私のエゴだと思います。私が今生きているたったひとつの理由。きっと、エゴだって生きる理由になり得る私は「死にたい」と思っています。「死んで楽になりたい」と。だけど私は今生きています。正直、自殺し切れなかった ”臆病者” で ”惨め” な存在だと感じます。だから、「死にたい」と思っている人に対して、軽々しく「死んだらだめ」と言えません。だから、私が今生きている理由について話したいと思います。私が「死にたい」と呟いたとき、主人はこう言いました。「お前と心中するために一緒にいるわけじゃない。一緒に生きたいんだ」と。「物事には順序があるから、自殺する前に別れてくれ」。あるとき強い絶望感に襲われ、その順序を守ろうとしました。理由を言わず一方的に別れを突きつけて、そのまま死ねば良いと考えていたのです。私は順序を守れば良いのだと思っていたのですが、自殺企画を感づいた彼から返ってきたのは意外な言葉でした。「俺は単純にお前と一緒にいたいんだ。これは理屈とかじゃなくって、俺の完全なエゴだよ。順序とか言ったけれど、1日1秒でも一緒に生きられるなら、あの言葉は取り消すから。少しでも長く、一緒に生きていきたいんだ」。私は彼がなぜ私と一緒に生きたいのか理解できなかったし、彼の涙もわかりませんでした。だけど、気づいたら私も泣いていました。私の涙も、わかりませんでした。知人に対して「死んでほしくない」と思うのは、私のエゴでしょう。主人が言った通り、理屈ではありません。自殺する人が視野狭窄に陥っているのは、客観的に理解できます。ニュースで流れてくる自殺者の周囲にも、「死んでほしくない」というエゴが本当はあったんじゃないかな、と思います。私が今生きているのは、彼のエゴのためです。はっきり言って、それ以外は思いつきません。だけど実は、私が気付いていないだけで、ほかにもエゴがあるのかもしれません。「死にたい」と思ったとき、誰の顔も浮かばなくても良いと思うんです。「死にたい」あなたは視野狭窄に陥っていて、思い浮かべられないだけかもしれないから。もしも死を少しでも躊躇っているのなら、そこに誰かのエゴがあるのかもしれないと、それだけは頭に入れてみていただければ、と思います。生きることは苦しいです。なぜ生きなければいけないのか、その理由は私にはわかりません。だけど多分、「一緒に生きたい」「死んでほしくない」といったエゴはたくさん存在するんだろうなぁと思います。エゴそのものに気づいていなくっても、エゴがあることがわかっていれば、それで良いのではないかな、と思います。私は主人のエゴのために生きています。エゴが生きる理由なんです。多分、人間ってとても複雑で、”優しいエゴ” にも取り囲まれながら、絡まれながら、みんな生きているんだろうなぁと思います。これを読んでいるあなたもそうだと思います。生きることは苦しいし、生きなければいけない理由はわからないけれど、少しだけ目を閉じて、休んでみても良いかもしれません。何もかも放棄したって良い。”優しいエゴ” に気づけなくても良い。いつでも「死ねる」し、「楽になれる」んだから、ちょっとここでお茶を飲んでひと休みしてみても良いのではないかな、と思います。これが、「死にたい」と思ってこの記事を読んでくれたあなたへの、私のエゴです。(C)kieferpix/Gettyimages(C)RichLegg/Gettyimages(C)laflor/Gettyimages(C)StockPlanets/Gettyimages
2018年03月20日私は多くの精神疾患を抱えています。病気が原因で困ったこともたくさんありました。たくさんの偏見も肌で感じてきました。そんななか、数か月前に症状が重たくなり、ベッドから起き上がれなくなってしまったのです。働くことはおろか、外出することもできなくなりました。でも、こういった状態になったのは初めてではありません。以前の苦しみがまたよみがえるかもしれない。そういった恐怖感でいっぱいになった私を唯一救ってくれたのが、愛ある言葉でした。文・七海毎日泣くことしかできなかった。毎日謝ることしかできなかった数年前にも、鬱状態が酷くなり、起き上がれることができなくなった時期があります。それが原因で、私は会社を退職しました。その頃にも精神科に通っていましたが、薬を飲んで症状を緩和し、しんどい日も出勤していました。その会社に在籍している数年間、1日も休んだ日はありません。そうした無理が祟ったのでしょう。ある朝突然、前触れもなく起き上がれなくなってしまったのです。退職した後に再就職しましたが、常に不安が付きまといました。「また動けなくなったらどうしよう」「また働けなくなったらどうしよう」と。以来、長い期間症状が重たくなったことはなかったのですが、数か月前に悪夢がよみがえりました。私はまた動けなくなり、また働けなくなったのです。再びたくさんの人に迷惑をかけながら仕事を辞め、ベッドで過ごす日々が始まりました。以前動けなくなったときにも同棲していましたが、今回も、違う男性と同棲していました。同棲していると相手にも迷惑をかけてしまいます。しかし、実家の両親とは折り合いが悪く、逃げるようにして同棲し続けていた私。実家に帰ると症状が悪化することがよくあるのを彼は知っていたので、実家に帰ることを提案した私に「俺と一緒にいよう」と言いました。実家に帰らなければ迷惑をかける、でも実家にいたくない、彼に申し訳ない。そういった感情がたくさん沸き上がりました。私は彼が仕事に行っている間も、仕事から帰ったときも、泣いて謝っていました。何度「ごめんなさい」と言っても、足りないような気がしました。私が救われた言葉。快方に向かったのは”愛” があったからだった私は毎日、何度も謝りました。しかし彼は、「謝ることじゃない」と繰り返し言いました。「風邪を引いたら俺だって休むんだから。体調が悪いときは休まないといけない」。そう言ってくれたもの、私は罪悪感から逃れることができませんでした。特に罪悪感を覚えたのは、”働けない” という事実です。以前働けなくなったとき、「義務感で動けなくなったら終わりだ」と感じてしまいました。働かなければならないのに働けないという事実が、悔しくて仕方なかったのです。収入源は毎月彼の給与のみでした。私には収入がありません。支え合って同棲したかったのに、情けなく感じました。私は動けないにもかかわらず、求人情報をスマホで検索するように。働き続けた業界での経験もあります。その業界での夢もありました。だけど、”働けない” という事実が焦りに変わり、「早く働かなくては」と思うようになっていたのです。今まで働いてきた業界で復帰できる気がしませんでした。長年の夢もよくわからなくなってしまいました。私は全く未経験の業界の求人を眺め続けました。外出すらできないのに。焦りが積もったとき、彼に打ち明けました。「働けなくて申し訳ないから、雇ってくれるところで働きたい」と。彼は否定も肯定もしませんでした。「やりたいことはゆっくり見つけたら良い。今答えが出ないことに対して、無理に答えを出す必要はない」と言い、「体調が悪くなるのは誰にでもあることだから、申し訳ないと思う必要もない。無理に働かなくても良いし、無理に働いて身体や心を壊したら本末転倒だよ」と付け加えました。「やりたいことが見つかったときに、やりたいことをして楽しいと思ってもらえるのが嬉しい」。そうした言葉をかけてくれる人は、今まで誰1人としていませんでした。私は少しだけ楽な気持ちになりました。罪悪感が全て拭われたわけではないけれど、なんだか救われたような気がしたのです。それでもどうしても焦ってしまい、求人情報誌を持って帰ってもらうこともありました。ベッドでそれを眺める私を見て、「やりたいことは見つかった?」といつも聞いてくれました。否定も肯定もせず、ゆっくり私のペースに合わせてくれたのが、私を温かい気持ちにさせました。私は徐々に自分の心と向き合うことができるようになりました。”やりたいこと” も ”夢” もよくわからなくなってしまっていたけれど、だんだんそれを取り戻せるようになっていきました。毎日朝が来ると憂鬱な気分が増していたけれど、「良い朝だなぁ」と思える日が出てきました。「良い朝だなぁ」と私が言うと、「良い朝だと感じられるのは良いことだね」と彼が言いました。”良い朝” は少しずつ増えてきて、暗闇で泣いてばかりいた私に、光が差したような気がしました。彼の言葉には全て ”愛” がこもっていたように思います。”愛” があったからこそ、自分自身を見失っていた私に寄り添えたのではないかと。私が今同業種で社会に復帰できているのは、彼の ”愛” があったからこそだと感謝しています。”寄り添うこと” と ”腫れ物に触るようにすること” は違います私は精神疾患者です。病気があるからできないこともあるし、症状が悪化するから一時的にできなくなることもあります。”健常者” に比べるとできないことが多く、迷惑をかけることも多いのではないかと思います。当事者として思うことがあります。私は動けなくなったとき、彼に寄り添ってもらえました。それが一番良かったのだと思います。精神疾患を抱えていると言うと、色眼鏡で見られているような気になることが多々あります。根強い偏見を感じてきたため、理解が広まってほしいという思いは確かにあります。しかし、決して ”特別視” してほしいとは思っていないのです。精神疾患は ”触れてはいけないもの” でも ”タブー” でもありません。私含め精神疾患を抱える人がいる以上、助け合い、共生できる社会が理想です。私は彼と入籍しました。入籍すると、「子どもは?」と聞かれることもあります。しかし、私が持っている病気の中には遺伝性だといわれているものも。病気のために感じた風当たりの強さは、誰にも感じてほしくないと思っています。遺伝の可能性がある以上、この社会が変わらない限り、私は怖くて子どもを生むことを考えられません。身近に精神疾患を抱える人がいるという方、どのように接していますか? どう接して良いのかわからないから、あまり触れないようにしているという方もいるのでは。罵声を浴びせたりするのはもちろん、腫れ物に触るようにする扱いも、少し違和感を覚えます。万人に ”愛” を持って接することができる人は少ないかと思いますが、心を持って寄り添うことはできるのではないでしょうか。そうした歩み寄りが、共生へとつながるのだと信じています。そして最後に。配偶者など身近な人が精神疾患を抱えている方へ。私はパートナーの ”愛” に救われました。言葉や表現の仕方は人それぞれだと思いますが、”愛” を持って見守り、”愛” を持ってともに歩むといった考えで、あなたなりの優しさを伝えてみてください。きっと、あなたのパートナーは、あなたの ”愛”、そして ”救いの言葉” を求めているのではないかと思います。(C)ViktorCap/Gettyimages(C)AntonioGuillem/Gettyimages(C)oatawa/Gettyimages(C)AnnaRise/Gettyimages
2018年01月30日統合失調症は、幻覚や幻聴、被害妄想といった症状が出るため、数多くある精神疾患のなかでも偏見が強いものでもあります。「関わりたくない」と思われてしまうのでしょうか。以前私は統合失調症と診断されたことがありますが、しばらく落ち着いていました。しかし、去年になって再発。リアルな体験記としてお伝えできればと思います。文・七海実は、記憶が曖昧なんです。しんどかったという感情だけが残っている去年、数か月間統合失調症を再発していました。快方に向かってからしばらく経った今、そういった症状は出なくなってきました。今、あの頃のことを思い出そうとすると、しんどかったという感情と涙が先に出てきます。しかし、実際には記憶が曖昧であるところがあります。家族との会話や知人に泣きながら電話をかけたことなど、言われても思い出せないものが多くあります。今ではたくさんの人に迷惑をかけたと強く思っているけれど、その当時の心持ちがあまり定かでなく、自分自身でも怖くなる部分があります。知人や家族に言われたことを前提に、覚えている記憶を辿っていこうと思います。きっと、統合失調症で苦しんでいる人はたくさんいます。「関わりたくない」という偏見が、当事者に寄り添う気持ちへと変わっていけば、と一縷の希望を持って、今、執筆しています。「暗闇が怖い」、「声が聞こえる」。”被害妄想”という言葉では片付けられない恐怖感まず感覚的におかしいな、と思ったのは、暗闇への恐怖感でした。ベッドに入って電気を消すと、とても怖かったのを覚えています。電気の色や明るさでも恐怖感があったらしく、長い時間調節していたと聞きました。寝るときも、起きているときも、真っ暗にはできなくなりました。やがて、カーテンの隙間から見える暗闇が怖くなり、ドアについている覗き穴までもが怖くなっていきました。暗闇が見えうるところは全て紙や段ボールで覆い、部屋に引きこもりました。それからは、暗闇に限らず「外が怖い」と思うように。常に誰かから見られているような気がして、一切外出ができなくなりました。それからほとんど寝たきりの状態が続きました。ベッドから起き上がることはほとんどなく、なにかを食べることもほとんどなくなりました。そのうち、誰かの声が聞こえるようになりました。直接声が聞こえるのではなく、脳に響いてくる感じです。夜中になにかを喋ったり突然泣きわめいたりということがよくあったそうですが、その辺りはあまり覚えていません。しかし、はっきりと覚えている言葉があります。「優しさを僕にくれたら、強くしてあげる」。誰かはそう言いました。当時私は寝たきりの状態を情けなく思っていたので、うなずいたのを覚えています。私は比較的穏やかだと言われることが多いのですが、その声を聞いた日からとても凶暴になったと聞きます。些細な物音がしただけでも、その物音を立てた人に攻撃したくなったような、そんな感情は覚えています。これらは統合失調症の主たる症状で、”被害妄想” などにあたります。しかし、記憶にある恐怖感は、”被害妄想” という言葉では片付けられない怖さでした。外に出られるようになってから、ぶつかった壁運良く周囲の理解と協力があって、数か月後には起き上がれるように、そして外出できるようになりました。ただし、ひとりで外出するまでには時間がかかりました。外出して、以前のような生活を送りたいと強く願いました。しかし、次に困ったのは体力と筋力の低下でした。寝たきりの生活をしていた私は、あまり歩くことができなくなってしまっていたのです。少し歩くたびに疲労感があり、過呼吸になったりパニック発作を起こしてしまったりすることもありました。そういった発作が怖く、また外出を避けようとした時期もあります。しかし、補助してもらいながら外出するようにして、近所のスーパーまでは行けるように。ただ、以前は15分程度で行けていた場所ですが、そのときは1時間かけて行っていました。少しずつ体力をつけるようにし、外出する練習もしました。今ではひとりでも外出できるように。ただ、以前のように速く歩いたり遠出したりというのはまだ難しいのが現状です。しんどい時期を乗り越えられたのも、周囲の理解があったからこそ電気を消せないところから始まり、暗闇を隠す行動、”誰か” と話す行動、衝動的な凶暴性。そして、ひとりで外出できるまでの道のり。正直、”奇異な行動” に見られてしまうことはわかります。だけど当時、本当にしんどかったのです。私が今の生活を取り戻せているのは、周囲の理解と協力があったからこそです。きっと、私ひとりでは今でもしんどいままだったのではないかと思います。迷惑をかけて申し訳ないという気持ちと、心からの感謝があります。”奇異な行動” に見えてしまうからこそ、「関わりたくない」と思われてしまうのかな、と感じます。しかし、本人は本当に苦しんでいるのだというのを、私の実体験を通して知ってもらえれば、と思います。幸いにも、私は周囲に恵まれていました。でも、そうでない人だってたくさんいるのではないかと危惧します。「関わりたくない」と一蹴するのではなく、寄り添う気持ちを少しでも持ってもらえれば、と願います。しんどい思いをしている人が、ひとりでも多く救われますように。(C)lovell35/Gettyimages(C)andriano_cz/Gettyimages(C)Tharakorn/Gettyimages(C)fzant/Gettyimages
2018年01月22日あるとき突然苦しくなって、倒れてしまうことがありました。救急車で運ばれ、パニック障害だと診断されました。それからは、発作が起きるかもしれないという恐怖感との戦いです。さまざまな病気があるなかで、どのように理解が深まれば当事者の不安が軽減されるのか、悩ましくもあります。文・七海何が原因かわからないのに、苦しい。パニック発作の症状パニック障害は、人によってさまざまな症状が現れます。心臓がドキドキしたり、体が震えたり、しびれを感じたりといった具合です。「このまま死んでしまうのではないか」という不安感が伴うとよくいわれています。こういった症状は、パニック発作といわれます。発作は一過性のもので、病院で検査を受けても体に異常がないと診断されます。ときには「気のせい」と言われてしまうこともあるのですが、脳内物質が影響しているとされる病気です。私の主な症状は、強いめまいと吐き気です。同時に ”酸素がない” ような感覚になり、呼吸が苦しくなります。自分の体なのに思うように動かせず、倒れてしまうことがしばしばあります。最初にパニック発作が起きたときは、一緒にいた人が驚いて救急車を呼びました。救急車で運ばれる間はとても苦しかったのですが、病院に着いた頃には治まっていました。もともと他の精神疾患を持っていたこともあり、精神科に行くよう言われ、最終的にパニック障害だと診断されました。それからは、どんなときにパニック発作が起こるかわからず外に出るのが怖くなっていきました。私のパニック発作のきっかけは、いまだにわかっていません。突然起こるパニック発作への恐怖。周囲への説明の難しさパニック発作は、時間も場所も問わず、突然やってきます。不安感が強く作用するのか、一度起きた状況と似ている場面に遭遇すると、再び起きてしまうことがよくあります。また、エレベーターや電車といった閉鎖空間は「逃げ場がない」と思ってしまうためか、パニック発作が起こることが多いです。パニック発作を恐れて、行動範囲が狭くなってしまったと感じることは多々あります。発作自体は当然苦しいですし、周囲に迷惑をかけてしまっていることも自覚しているからです。しかし、パニック発作が怖いからといって全く外出しないわけにはいきません。発作が起こってしまいそうな状況はなるべく避けるようにしています。どうしても電車に乗らなければならないときは、イヤホンで音楽を聞き、ずっと携帯電話か本を見るようにします。外界をシャットダウンするようにすると、私の場合は落ち着くことが多いです。しかし、それでも症状が出てしまうことがあります。そういったときは、周囲の方がとても親切にしてくれることも。電車で席を譲ってくれたり、道端で声をかけてくれたり。ときには安全な場所まで肩を貸してくれることも、救急車を呼んでくれることもあります。非常にありがたく、優しさが身に沁みます。しかし、平衡感覚を失い強い吐き気に襲われている最中なので、私の場合は無理に移動しようとすると症状が酷くなってしまうことも。胃の中のものが込み上げてきて、呼吸もしんどくなります。こうなると、余計に心配をかけてしまうことになるのです。心優しい人に「ありがとう」と伝えられなくて。不甲斐なさと感謝と心配してくれて、手を差し伸べてくれた優しい人たち。パニック発作が起きてからでは、しゃべることはおろか頷くこともままなりません。私がどういった病気を持っていて、たった今どういった状況なのかを伝えることが難しいのです。助けてくれた人は、症状が悪化している様子を見てとても心配したのではないかと思います。それを思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。パニック障害は、見た目ではわかりにくい病気です。無理に動くとしんどくなってしまうということは、正直伝わらないのではないかと思います。さまざまな病気があるし、同じパニック発作でも治まり方は人によるので、ゆっくり休めるところに移動させたほうが良いと考えるのも自然な流れだと思います。だからこそ、どのように理解が深まればいろんな人が安心できるのかが悩ましいのです。そこに今、答えを見出せないでいます。だけど、手を差し伸べてくれた人に「ありがとう」と伝えたい気持ちだけは確かです。彼らが「お大事にね」と声をかけて去っていくそのときに、私はしゃべることすらできないことが多いです。「ありがとう」と言えなかったことが、悔しくてなりません。私と同じように、「ありがとう」を言えないような症状が出てしまう人もいるかと思います。でもきっと、その人も私と同じように「ありがとう」と思っているはずです。治療を受けていても、予防をしても、突然起こってしまうパニック発作。迷惑をかけたくない気持ちはずっとありますが、ひとりで外出しない生活はあまり現実的でないのが事実。認識を広めるためにどのようにしたら良いかを悩みつつ、私はとても感謝しています。苦しいときに触れる人の優しさは、ずっとずっと、温かいものです。そういった温もりが、快方の助けになっているのではないかと、そう思うのです。手を差し伸べてくれた人がいるということが、恐怖心に打ち勝つ勇気を与えてくれているのだと感じます。直接言えなかったけれど、心から伝えたい。「ありがとう」と。(C)Favor_of_God/Gettyimages(C)oneinchpunch/Gettyimages(C)Leylaynr/Gettyimages
2018年01月18日