2023年7月27日、タレントのはるな愛さんがSNSを更新。自身の性的指向などを公表するカミングアウトについて言及しました。はるな愛「縛られない生き方を」性別適合手術を受けたことを公表している、はるなさん。芸能人としてデビュー後も、積極的に性の多様性について発言してきました。はるなさんは、同日の投稿で「カミングアウトする人。カミングアウトしない人。それぞれの生き方がある」としたうえで「カミングアウトに縛られない生き方をしてほしいなぁ」とつづっています。また、「自分はどう生きるか!」と、あくまでも自分自身の考えを大切にすることの重要性を説きました。カミングアウトする人。カミングアウトしない人。それぞれの生き方がある。カミングアウトアウトに縛られない生き方をしてほしいなぁ。1秒1分1日と性別は安定しないと思う。これからも自由に生きてほしい。自分はどう生きるか!!! #カミングアウト — はるな愛 (@haruna_ai0721) July 27, 2023 はるなさんがカミングアウトについて言及した前日の26日には、パフォーマンスグループ『AAA』のメンバーである、與真司郎(あたえ・しんじろう)さんが同性愛者であること自ら公表し、話題を呼びました。性的指向などについて公表することは、当事者にとって、難しい問題です。事情があって公表できない人、自らの意思で公表しない人、多くの選択肢があります。どうするかは自分次第ですが、どんな選択をしてもその意思が尊重され、批判されることのない世の中になることを、当事者のみならず、多くの人が願っているはずです。[文・構成/grape編集部]
2023年07月27日特別悪いことが起きなくても、なぜか毎日が辛い、苦しいと感じる人もいるでしょう。今回は、イラストが何に見えるかによって、あなたの「生き方上手度」がわかる心理テストをご紹介します。生きやすくなるためのアドバイスや、克服のコツもご紹介するので、ぜひチェックしてみてください。Q.このイラストは何に見えますか?A:花瓶B:目C:ビーカーD:玉ねぎあなたはどれを選びましたか?さっそく結果をみてみましょう。この心理テストでわかるのは?「生き方上手度」深層心理においていろいろなものに見える“イラスト”は、不確定な状態や不安定さを象徴しています。また、どうなるのかわからない人生ともリンクしています。イラストが何に見えたかによって、人生への向き合い方、つまり生き方が上手か下手かを探ることができるのです。A:「花瓶」を選んだあなた…生き方上手度40%人目を引くような華やかさとオーラを漂わせているのが、この答えを選んだ人。あなた自身はマイペースな性格で目立ちたいという欲はないものの、自然と周囲から注目を浴びやすい傾向があるようです。生き方上手度は、40%です。わざわざ大変な道や選択肢を選びがちなところもあり、それゆえに苦労することも多いかもしれません。しかし、そのおかげで強くたくましいマインドを持つことができるでしょう。無理に上手に生きようとしなくても、自分の信念ややり方を貫くことが生きやすくなるための近道と言えるでしょう。B:「目」を選んだあなた…生き方上手度20%あなたは几帳面で、何事もきちんとしないと気が済まないタイプのよう。丁寧なスタンスが評判を呼ぶ一方で、融通やアレンジが利かない、面白みがないと思われることも。この答えを選んだ人は、これまでも生きづらさを感じることが多かったのではないでしょうか。その原因は、あなたがきちんとしすぎることに原因があるのかもしれません。人生は不確定要素の多いゲームのようなもの。もっと気楽に出たとこ勝負で楽しめば、きっと生きるのも楽になるはず。たとえば、買い物やレジャー先もフィーリングで決めるなど、小さなことでいいからトライしてみて。C:「ビーカー」を選んだあなた…生き方上手度60%あなたは頭の回転が速く、ユニークな発想力の持ち主でしょう。周囲の想像を超えたことをパッと思いつくことが多く、アイディア勝負の世界で生きているかもしれません。生き方上手度は、60%です。ピンチに直面しても、持ち前の閃きと柔軟な思考力のおかげで、辛いと思わずにサラッと切り抜けることができそう。コミュ二ケーション力も高く、人と関わることにストレスを感じないところも生き方上手の証拠。今後も困ったことが起きたら、頭をひねって周囲にオープンに相談する。これを忘れなければ、事なきを得られるでしょう。D:「玉ねぎ」を選んだあなた…生き方上手度80%この答えを選んだ人は、ガードが固くトラブルへの耐性があります。ピンチに陥っても、周囲からいじわるされても、ヘコたれない強さがあるでしょう。性格も慎重かつ温厚で、小さなことにクヨクヨしない傾向が。あなたの生き方上手度は80%です。悪いことが起きても、「ま、いいか」「なんとかなるさ」と深刻に考えないのがあなたの強みでしょう。ただし、体調が悪いときは考えもネガティブになりやすいものです。常に健康に気遣い、心身ともに元気でいることも、生き方上手度をより高めるポイントと覚えておいてください。おわりにもっと上手に生きられたら苦労しないのに……と思っている人もいるかもしれません。幸い、生き方は自覚や努力で変えることが可能です。今回の診断を参考にして、人生をより生きやすく心地良いものにしていきましょう。©JDawnInk/gettyimages文・月風うさぎ
2023年07月23日「頑張りすぎて疲れた」という経験がある方もいるのでは?なかには、他人の経験から自らの生き方を見つめ直した方もいるようで……。そこで今回は、実際に寄せられた「頑張りすぎない生き方」を2つご紹介します。他人の経験を踏まえて……ある人の話で「人は臨終直前に何を思うのか」という話を聞いたことがあります。一部の人は「あんなに働きすぎるんじゃなかった……」と思うそうです。仕事を頑張っても、いざ自分の人生楽しもうと思ったときには身体に不調をきたしてしまい、やりたいことも出来ず……。その話を聞いてから「自分の身を削ってまで働く必要はないな」と思うようになりました。(38歳/看護師)まずは限界を決めずに……どのくらい頑張ったら自分の心身が崩れてしまうのか、それを知って見極めることが必要ではないでしょうか。ギリギリのラインまで頑張ってみてから、耐えられる許容量を知ってそこから頑張り過ぎないように生きることが大切だと思います。やらないうちに自分の限界を決めてしまっては、自らの可能性を狭めてしまうのでもったいないと思います。(38歳/自由業)自分に合った頑張り方を……今回は、「頑張りすぎない生き方」を2つご紹介しました。皆さんは頑張りすぎないために、意識していることはありますか?※こちらは実際に募集したエピソードをもとに記事化しています。(MOREDOOR編集部)
2023年03月14日生きるうえで大切にしていることは人それぞれ。なかには、自分に合った生き方を見つけた方もいるようで……。そこで今回は、実際に寄せられた「頑張りすぎない生き方」を2つご紹介します。頑張らなくても……頑張ることは大切です。しかし、周りに合わせて“普通の人”になるために頑張る必要はないと思います。日々の生活で他人に迷惑をかけず、自分が出来ることで誰かの役に立てることがあれば手を貸す、そのくらいの意識で生活していけば良いと思います。(52歳/アルバイト)自分に合った働き方で……私は仕事を頑張った結果に体調を崩してしまい、現在はアルバイトなどをしながら生活しています。会社勤めをしていた頃よりも収入は減りましたが、精神的にはだいぶ楽になりました。今は会社勤めでなくても、在宅ワーク等で収入が得られる時代です。また、会社勤めでも週4勤務が可能な企業も少しずつ増えてきました。仕事でストレスを感じている方は、無理をせずに自分に合った働き方を見つけるのもアリだと思います。(36歳/アルバイト)生き方は人それぞれ……皆さんそれぞれ自分に合った生き方を見つけているようですね。皆さんは頑張りすぎないために、何か意識していることはありますか?※こちらは実際に募集したエピソードをもとに記事化しています。(MOREDOOR編集部)
2023年03月11日食欲の秋、スポーツの秋、勉強の秋…みなさまは今年の秋をどのようにお過ごしですか。もうすでに来年のことを考えていらっしゃる方も多いかもしれませんね。そんなあなたが、これからの「生き方のヒント」を見つけるとしたらどこにあるのでしょうか。以下の簡単な心理テストをどうぞおためしください!Q.帰宅して郵便ポストを開けると、何も書かれていない白い封筒が入っていました。不思議に思って中を開けると、何かが描かれている一枚の紙が出てきました。さて何が描かれていたと思いますか?1.天使2.分厚い本3.虹4.窓選べましたか? それでは、答えを見てみましょう。1、「天使」を選んだあなたあなたのこれからの生き方のヒントは、「今までの自分史」にあります。記憶をたどって人生で経験したイベント、それに伴う感情などを書き出してみると、本来やりたかったことや再度チャレンジしたいことなどが明確になりますよ。2、「分厚い本」を選んだあなたあなたのこれからの生き方のヒントは、「偉人の言葉」にあります。名言がまとめられたサイトや書籍があるので、時間のあるときに目を通してみてください。心が安らいだり元気をもらえたり、考え方を変えるきっかけになるかもしれませんよ。3、「虹」を選んだあなたあなたのこれからの生き方のヒントは「旅など非日常空間」にあります。旅行に行く時間がなくても、普段行かないようなお店に足を運んだり、ホテルのラウンジを利用するだけで気分が変わり、新たなものの見方ができるようになりますよ。4、「窓」を選んだあなたあなたのこれからの生き方のヒントは「映画やドラマ」にあります。仕事や家族問題など興味のあるテーマに絞って、いろいろな作品を観てみましょう。「こんな生き方もあるのか」と参考になる人物像に出会えますよ。いかがでしたか? 日常のふとした弾みで目にしたり、耳に入ってきたことから、問題解決に対するヒラメキがわいたり、インスピレーションが働くことがあるので、直感のアンテナは磨いておきたいですね。そのためにも、できるだけ自分自身の課題は片づけて身軽にしておきたいものですが、あなたが今年中に取り組んでおくべきことは何でしょうか。詳しいテストをご用意していますので、こちらもご覧ください。 「2023年を迎えるにあたり、今年中にあなたがやっておくべきことは?」 ママが気になる心理テストがいっぱい! 子育て診断はこちら
2022年11月15日オードリー・ヘプバーンの特集本『オードリー・ヘプバーンという生き方』が、2022年10月14日(金)に発売される。世界中から愛された女優の美しい生き方を振り返る『オードリー・ヘプバーンという生き方』は、オードリーの美しい生き方、常に注目を浴びてきたファッション、珠玉の名言などを275点の写真と共にまとめた書籍。オードリー没後30年を前に、波乱万丈でありながらも謙虚・気丈に生きた彼女の人生から、前向きに美しく生きるヒントが見つかる一冊だ。『オードリー・ヘプバーンという生き方』では、4つのチャプターに分けてオードリーという人物を深堀する。当時カリスマ的人気を博した彼女のファッションから、一躍トップ女優に躍り出た『ローマの休日』などの出演映画と演じたキャラクター解説、彼女の人柄に至るまで、有名写真家による多くの写真と共に紹介。監修者は、1987年にオードリーが来日した際に、インタビューを行うなどした清藤秀人。また、巻頭8ページには、世界最高峰の写真家集団マグナム・フォトによる秘蔵写真を掲載する。【詳細】書籍『オードリー・ヘプバーンという生き方』発売日:2022年10月14日(金)定価:1,540円監修:清藤秀人出版社:宝島社
2022年10月17日2022年10・11月に上演される『女の一生』の取材会が行われ、主人公・布引けい役を務める大竹しのぶ、演出を担いながらけいの夫・伸太郎を演じる段田安則が登壇した。森本薫が文学座に書き下ろした『女の一生』は、名優・杉村春子の代表作(初演:1945年)。2020年に誕生した段田の演出版では、天涯孤独の少女けいが、拾われた家の長男に嫁いで家業を守る40年間が描かれる。なお本作は2020年に東京・京都で上演予定だったが、新型コロナウイルス感染症の影響で京都・南座公演のみ中止になった経緯がある。人生経験を重ねる実感が、ヒロインの一生を通じて目の当たりにできる──段田さんの演出版が再演されることになりました。いまのお気持ちは?段田2020年は新橋演舞場のみ、上演が叶ったんですよね。前回公演中止になってしまった京都の南座だけでなく、今回は博多座にもお持ちして九州の皆さんにもお目にかけたいと思います。大竹演舞場も、客席を「半分」まで減らしてね。お客さまがその半分に満たない日もありました。はじめはショックでしたが、いつも満席の劇場は当たり前ではなかったんですよね。すぐ「この状況でもご来場のお客さまがこんなにいらっしゃるんだ」「ひとりでも劇場にいらしてくださるなら、私たちは演劇を続けよう」と思い直しました。段田そんな状況になって、もう2年以上が経つんですよね。大竹コロナ禍で踏んだ舞台ということもあって、『女の一生』は初心に帰らせてくれたお芝居という想いがあります。客席の皆さんが喜んだり集中したりする姿を拝見していると、何より私たちが励まされる。再演の機会をいただいたからには、お客さまの反応をもっと引き出せるようにパワーアップしたいですね。段田「文学座の宝」というべき不朽の名作ですが、2年前に立ち上げてみて改めて素晴らしい作品だということがわかりました。主人公の布引けいも、現在の日本では大竹しのぶしか演じられる方がいないのでは、と思います。大竹戯曲が素晴らしいんですよ。杉村春子さんが947回も「演じ続けたい」と感じた理由が、戯曲と向き合ってよく理解できました。段ちゃんも、いつも稽古場で「これは本当にいい本で、やればやるほど深さがよくわかる」「書かれてあることをそのままやればいい作品になる」とおっしゃっていたほど。──おふたりは戯曲のどんな点を気に入っていらっしゃるのですか?段田セリフがいいんですよね。これ、森本薫さんが34歳でお亡くなりになる直前に書かれた戯曲なんですが「その年齢でよくこれだけ人間の心情が描けたな」と感心するくらい。僕の演出版だと1905(明治38)年〜1945(昭和20)年を時代背景に、思春期から晩年の夫婦の会話まで16歳〜56歳の布引けいを取り巻く心情が描き分けられています。大竹それほど好きじゃないのに、なんなら高橋克実さん演じる次男に惹かれているのに、段田さん演じる堤家の長男と結婚させられてね(笑)。そういう夫婦間の冷え冷えしたところ、段ちゃんがとてもうまく演じられるんですよ(苦笑)。そこから時間が経って許し合う夫婦、老いていく夫婦の寂しさ、愛とは違う形で結びつく情みたいなものが、すべて描かれている。「人生経験を重ねるって、そういうことなんだな」という実感が、布引けいの一生を通じて目の当たりにできるんですよね。段田森本さんは杉村春子さんに当て書きされたそうですが、ヒロイン布引けいの多面的な描き方も気に入っています。戦災孤児だったけいが才覚を買われて堤家を盛り立てる成功譚に終わらせず、いや〜な影の一面もきちんと書くんですよね。大竹そうそう。明治・大正・昭和を生き抜いたヒロインは、明るくたくましく健気にがんばるだけじゃない。「人生そんなに甘いもんじゃない」って面も描かれます。そんな彼女だからこそ、有名な「誰が選んでくれたのでもない、自分で選んで歩き出した道ですもの」というセリフが響くんじゃないかな。布引けいのたくましい生き方は、現代の観客にとってエネルギーになる──大竹さんが演じる布引けいの魅力を、段田さんはどのように受け止めていらっしゃいますか?段田ヒロインが年を重ねることで生じる「内面の変化」を目の当たりにできるのが、大竹さんが持つ最大の魅力ですね。布引けいの人生を思春期から老年にさしかかるあたりまで演じ分けてもらう中で、扮装や声のトーンなど創意工夫のしどころはたくさんあると思いますが……大竹さんの場合は必ず「内面」がともなう。これが切り替わるだけで、10代にも50代にもなれるんですよ。その様子をそばで拝見しているのが、本当に楽しかったです。大竹芝居の「嘘」を楽しんで、笑ってもらうしかないですよね。だって段ちゃんは学生服を着ているし、高橋さんはカツラかぶっているんだから(笑)。2017年のミュージカル『にんじん』で、22歳のときにやった少年役に再び挑戦したことを思い出しました。若かった当時より、還暦を迎えた60歳で“にんじん”を演じた方がお芝居をしないで済んだ……といいますか、開き直れて楽しかったんですよね。見た目は仕方ないけれど、登場人物の気持ちを理解することはできる。今回なら、布引けいという少女の心になれるのが楽しいんです。──主人公の運命が変わっていく10代のヒロイン登場シーンに際して、段田さんはどんな演出をつけたのでしょうか?段田それが、特に大きな注文はつけなかったんですよ。大竹さん演じる布引けいが、僕にはちゃんと「16歳」に見えた。それでオッケーかなって。晩年の杉村春子さんは実年齢80代で、10代のヒロインを演じたんですよね。これから年を重ねた大竹さんも、どんな風に若き日のけいを演じるのでしょうね。そんな経年変化を楽しめる作品でもあると思います。──段田演出の魅力、どんなところに感じますか?大竹段ちゃんとは30年近く一緒に芝居をしていて、何でも相談しあえる役者仲間です。俳優同士で演技の話をするのは意外と難しいんですよ。現場において、それは演出家や監督の領域なので。でも段ちゃんは、そういうことが言い合える唯一の役者仲間。稽古中はもちろん、幕が上がってからも「あのセリフってさ」「アンタしつこいね!」とやり合いながら、一緒に追求しています。今回もこの難しい台本をよく演出なさったと思いますね。コロナ禍で出番でない人は早く帰らなければならず、稽古時間が限られる中でもしつこく粘り強く演出をつけてくれました。やっぱり私たちの仕事って、しつこく粘ってどこまでも追求するもの。それをまっとうできる仲間であり、演出家だと思いますね。──劇中には第一次・第二次世界大戦が人々の生活に影響を与え、日本が苦難の道を歩む様子も描かれます。ロシアによるウクライナ侵攻やいまだ収まらないコロナ禍など世界を取り巻く現状と通じる部分があると思いますが、その中で『女の一生』を上演する意義はどこにあると思いますか?段田布引けいのたくましい生き方は、現代の観客にとってエネルギーになる気がしますね。彼女の人生には、悲喜こもごもいろんなことが起こります。のほほんとしていたら、足元すくわれるわけです。周りをよく見て、現実としっかり渡り合ってさえいれば「人生に何があっても生きていける」という前向きなメッセージが得られると思います。大竹激動の時代を生き抜くため、自分の生き方を受け入れながらも強く前を向く布引けいの姿に、お客さんたちは励まされると思いますね。加えて私は、『女の一生』の初演が戦時中の1945(昭和20)年4月だったことにも胸に迫る想いがあります。憲兵に見張られ禁止されたら、空襲警報が鳴ったら幕が下りるかもしれない中でも「芝居を届けたい」という切実さが、ちょうど私たちが『女の一生』をコロナ禍で上演しようと思った気持ちに通じるんです。劇場に吹く風はまだまだ厳しいですが、それでも来てくださるお客さまの心に訴えるよい芝居を届けたいと思っています。取材・文:岡山朋代撮影:荒川潤ぴあアプリ限定!アプリで応募プレゼント★【よくばり❣ぴあニスト限定】招待券プレゼント受付中! ※10/12(水)迄【応募方法】1. 「ぴあアプリ」をダウンロードする。こちら() からもダウンロードできます2. 「ぴあアプリ」をインストールしたら早速応募!『女の一生』チケット情報はこちら:
2022年09月30日ミュージカル『蜘蛛女のキス』は、監獄で同房となった政治犯のバレンティンと映画を愛する同性愛者のモリーナが出会う。生き方も価値観も違い、当初は相容れなかったふたりだが、いつしか心を許すように。安蘭けいさんが演じるのは、モリーナの憧れの映画スターであるオーロラと、オーロラが演じる蜘蛛女だ。「幻想の中の役ながら、人間的なリアルな存在として見せていきたい」「この作品を初めて観たときは、救われない人たちの話という印象だったんです。でもいざ自分がやるとなって脚本を読んでいたら、バレンティンとモリーナの愛がすごく切なく迫ってきて。オーロラや蜘蛛女も、これまではモリーナの幻想の中での愛とか死の象徴的な存在としてとらえていたのが、彼女に寄り添って生きているような感じがしたんですね。今はもう少し人間的というか感情的なものも出して、リアルな存在として見せられたらと思っています」安蘭さんといえば、高い歌唱力を誇った元宝塚トップスターであり、演じるキャラクターの心情に丁寧に寄り添った的確な演技で、作品に厚みを持たせる芝居の人でもある。「登場したときに観客に強烈なインパクトを残せたらとは思っているんですけれど、最近、お母さんとか奥さんばかり演じていたので…。出てくるだけで観客がのけぞるくらいのオーラとか迫力とか…カリスマ的な何かが欲しいですね。演出や照明、セットなども含め、独特な世界観を作り出せたらな、と思っています」『CHICAGO』などを手がけた名ソングライターコンビによる美しくドラマティックな楽曲も魅力。「何度も転調したり臨時記号が多かったり、この作品に取り組もうとする人に戦いを挑むというか挑戦的な感じがするんですね。蜘蛛女なら男性でも低いくらいのキーに合わせられていたりして。でもそこを歌うことで凄みが出るし、こちらの想像力が広がって気持ちも高揚するんです」しかし、「ただ気持ちよく歌うだけならカラオケでいい」とも語る。「やっぱり“伝えたい”という思いがあるんですよね。歌は好きだけれど、私はそこに役の気持ちだったり、歌に込められた物語を伝えたいと思う。ストレートプレイの中で表現するような繊細な心情の動きをミュージカルの舞台へも持っていきたいというのが私のスタンスなんです」今年、芸能生活30周年を迎え、あらためて今、「俳優という仕事が、自分の天職だと感じている」そう。「演じている瞬間が本当に幸せなんです。劇場の空間が好きだし、一番自分でいられる場所なんですよね」ミュージカル『蜘蛛女のキス』映画を愛する同性愛者のモリーナ(石丸)は、刑務所の獄房で社会主義運動の政治犯・バレンティン(相葉・村井/Wキャスト)と出会う。当初は反発し合っていたふたりだが、いつしか心を通わせていき…。11月26日(金)~12月12日(日)池袋・東京芸術劇場 プレイハウス脚本/テレンス・マクナリー(マヌエル・プイグの小説に基づく)音楽/ジョン・カンダー歌詞/フレッド・エブ演出/日澤雄介(劇団チョコレートケーキ)出演/石丸幹二、安蘭けい、相葉裕樹・村井良大(Wキャスト)ほかSS席1万5000円S席1万3500円サイドシート9000円ほかホリプロチケットセンター TEL:03・3490・4949(平日11:00~18:00)大阪公演あり。あらん・けい滋賀県出身。2006年より’09年まで星組トップスターとして活躍。近作にミュージカル『ジェイミー』、舞台『Oslo オスロ』など。最新アルバム『AVANCE』も好評発売中。※『anan』2021年12月1日号より。写真・内田紘倫(The VOICE)インタビュー、文・望月リサ(by anan編集部)
2021年11月30日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラム「石井ゆかりの幸福論」。 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。今回は、第12のテーマ、「幸福」とは何か。(後編)をお届けします。12.「幸福」とは何か。(後編)私はかねてより、第12ハウスの象意について、個人的な仮説を抱いてきました。それは、「第6ハウスが雇用関係を象徴する。それは他人から自分への命令、または自分から他人への命令を意味する。であれば、その対岸にある第12ハウスとは、自分で自分に命令する場所、つまり、究極の『自由意志』の場所なのではないか」ということです。たとえば、義務を果たす(6ハウス)ことは他者との関係の中で起こりますが、「自己犠牲(12ハウス)」は、自分で自分に命じることによってだけ成立します。もといこの仮説は、かなりの暴論です。一般的な星占いの考え方の真逆をゆくもの、と言ってもいいかもしれません。6-12ハウスはあらゆる意味で「自由意志の制限」を意味する、という考え方のほうが「主流」のはずです。なぜ私がそこに全く逆の仮説を抱いたかといえば、「星占いにおける自由、人生における自由とは、一体何なのだろう?」と考え続けていて、まだその答えにたどり着いていないからなのかもしれません。ホロスコープにおける12のハウスの意味づけには、様々な根拠があると言われます。そのなかでも重視されるのが「アセンダント/第1ハウスからの位置関係」です。第1ハウスとの位置関係が「アスペクトするか否か」が大変重要なのです。伝統的占星術においては、第1ハウスとメジャーアスペクトの位置関係にならないハウス、すなわち2、6、8、12だけが、凶意を付与されています。これらは第1ハウスという「自己」からは「見えないところ」、つまり「コントロールの及ばない場所」なのです。それでも、第2ハウスは第1ハウスに隣接している分、まだ「見える」場所です。即ち「自分の手の中にあるもの、持っているもの」を示します。第12ハウスも第1ハウスに隣接していますが、これは「背後」です。普段は自分に見えない自分、振り返らなければ見えない自分を象徴している、と言えるのではないでしょうか。私たちの日常の行動の多くは、ほとんど無意識に発動しています。「どうやって歩いているか」をいちいち考えながら歩いていたら、たぶん転んでしまいます。自転車に乗るのも、私がこうしてキーボードを叩いているのも、ひとつひとつ意識に上らせて動作しているわけではありません。同様に、たとえば誰かが自分に怒鳴りつけてきたとき、無意識に固まって、何も言えなくなります。道端で二人の人が喧嘩しているのを見て、とっさに「怖い」と感じ、見て見ぬ振りをして急いで通り過ぎる、といったことも、やってしまいます。あとになって「あの時、言い返せばよかった!」「仲裁に入るか、警察を呼ぶかすればよかった!」などと思い返しても、間に合いません。それでも、なにか困難やトラブルに遭遇したとき、敢えて立ち止まり、怯える自分や面倒を避けたい自分と闘って、「自分の時間や労力を犠牲にしてでも、よいことをしよう」とおもえることがあるとすれば、これはすばらしい「自由意志」です。それをしたからなにか見返りがあるというわけではありません。ただ、自由な一人の人間として「そうしたい」と思い、自由に行動する権利を行使するだけなのです。損をするかもしれず、ケガをするかもしれず、「良かれと思ってやったのに、拒否される・失敗する」といったことになる可能性もあります。それでも、究極の自分の「自由の行使」として、私たちは時折、そうした行動を起こします。前述の通り、第12ハウスには古来、凶意がたくさん詰め込まれています。でも、そこには「苦悩」とか「隠遁」とか「海外追放」「犠牲」など、「おや?」と思わされるキーワードがところどころに現れます。ある人が12室を生きていて、「苦悩し、隠遁したり、海外追放になったりしている」とすれば、この人はいったい、どうしてそんなことになったのでしょうか。ただ単に「運悪く」そうなったのでしょうか。この人は何に悩み、どうして追放になったのでしょうか。「単に生きるのではなく、善く生きる」と言ったソクラテスのように、自説を曲げずに火刑に処されたジョルダノ・ブルーノのように、この人はもしかすると、限りない自由な意志を生きたのではないでしょうか。もちろん、人間は、自分の身に降りかかる災厄を避けるために、意志を隠したり曲げたりすることもできます。実際、現実の中では、多くの人がそうした選択をします。それは決して、悪いこととはいいきれません。家族の暮らしを守るために上司の理不尽な命令に従うとか、進学に有利な成績をつけてもらうために教師の理不尽な要求に応えるとか、そんなことはいくらでもあります。世の中は広い意味での権力の関係に支配されていて、だれも完全に自由になど生きられません。ただ、「自分の力ではあらがえない権力や圧力に屈した」という経験は、人の心の中に、深い傷を残します。でも、「自分がこれを選んで、自分の力でこれを成し遂げたのだ」という主体感、自己効力感は、あくまで「自由な意志」としか結びつかないはずです。外圧に負けて意見を変えたなら、主体感や自己効力感は著しく削がれるでしょう。本物の幸福がもし、「私が自分の意志で何事かをなしている」という条件を必要とするなら、「自分の意志に反して身を守った」記憶は、幸福感を減じるはずなのです。もしかすると「殺されても自分の意見を曲げない・捨てない」人はつまり、「殺されても自分の幸福を手放さない」人だった、ということになるのでしょうか。「私の出生図では、12ハウスに星が集まっているのですが、私は不幸なのでしょうか」というご質問を以前、頂いたことがあります。結論から言えば、そういう読み方にはならないと思います。アセンダント近くにある星は「上昇星」と言われ、フレッシュで強い状態にある、という考え方があります。また、12室に星を多く持つ人の中には、優れた政治家や医師など、「(原理的には)営利を目的としない仕事につく人々」が多く見られるという説もあります。「ギブアンドテイク」を度外視したような仕事、役割は、世の中にとてもたくさんあります。他に宗教家やアーティスト、教育者、社会運動家、思想家などもそうした要素を担っているだろうと思います。その人の中に何かしら自由な強い意志がなければ、担えない役割がたくさんあるのです。12室に星を集めている人は、その役割にハッキリした名前がついているかどうかは別として、そうした方向への道を選びやすいのかもしれません。そうした意志を持てる人たちは、幸福なのでしょうか。たとえば、雨の日に傷ついて倒れていた子猫を保護して、その子猫が息を吹き返して元気になっていくのを見るのが「幸福」だとするなら、きっと、第12ハウスの幸福とは、そうしたものなのではないかと私は想像しています。それは奇跡のような、ギフトのような、それでいて「受けとらなければ決して手に入らない」、神秘的な幸福なのだと思います。
2021年10月25日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラム「石井ゆかりの幸福論」。 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。今回は、第12のテーマ、「幸福」とは何か。(前編)をお届けします。12.「幸福」とは何か。(前編)第12ハウスのテーマから「幸福とは何か」を考えたとき、私は2つのことを思い浮かべました。ひとつは、「人間が最も大きな幸福を感じるのは、どんなときか」ということです。これは、このシリーズでも何度か書いたように思いますが、「心配事が解決したとき」「心待ちにしていた人が帰ってきたとき」「辛い病気が快癒したとき」「苦しみが終わり、安らぎが来たとき」なのではないかと私は考えています。何か辛いこと、悲しいこと、強い制限やガマンしている状態があって、それが「解除」されたとき、私たちは雨上がりの虹と青空を見上げるように、突き抜けるような「幸福だ!」という思いを味わいます。たとえば恋人に愛を伝えたり、生涯のパートナーとなってくれるようにプロポーズしたりする時でも、思いを伝える側は極度に緊張し、「もし受け入れてもらえなかったらどうしよう」という恐怖を感じます。申し出を受ける側も、それを期待している場合は特に「このまま相手が態度をハッキリさせなかったらどうしよう」という深い不安や孤独感を抱くものだろうと思います。こうした暗い疑念や不安が深ければ深いほど、「告白」が受け入れられたときの喜びが大きくなるものではないでしょうか。もうひとつは、「主体感」「自己効力感」というようなもののことです。「自分の力でやった」「自分の判断でやった」「自分の意志でやった」という手応えは、幸福の重要な条件ではないでしょうか。たとえば、自分が取り組んだゲームがうまく行ったときでも、それが全くの偶然でうまく行ったときと、自分自身の創意工夫、技術などでうまく行ったときとでは、喜びの質が異なります。「自分が頑張って成し遂げたのだ」「自分の力で出来たのだ」と感じる時、私たちはその喜びを受けとる「正当な権利を持っている」と思えます。たとえば、自分で首や脇の下を触ってもなんともないのに、他人が触ってくると「くすぐったい」と感じます。同じように同じ部位を触っても、「自分で触った」のと「他人が触った」ので感じ方が変わります。私たちは「自分がやったこと」と「他人がやったこと」を、こうした感覚レベルでさえ、細かく区別しています。苦しみが解決したとき。そして、自らの行動で良いことが起こったと感じたとき。この条件が「幸福」を生み出すのではないか、と私は想像しました。たとえば、保険会社やハウスメーカーの「幸福な家族」のイメージを思いえがいた時、「彼らは生まれつき裕福な家庭に生まれ、何の問題もなく育ち、特に挫折することもなく出会い、子供を持ち、みんな健康で、引き続き問題なく裕福に暮らし続けている」と考えると、なんとなく薄ら寒いような、リアリティのなさを感じてしまいます。もちろん、そういう家庭も存在するかもしれませんが、それが「幸福の究極の形」と言えるかというと、頷けない気持ちになります。一方でもし、その家族は実は、破産を乗り越えてもう一度再生した家族だったとか、家族の誰かが重病から回復したとか、そういった「苦労した過去」があったなら、「この人達は今現在の幸せの価値や意味を、誰よりも知っているのだろうな!」と想像したくなります。また、「ギフトを受けとる側と、ギフトを贈る側では、どちらが幸福か」というテーマがあります。ずっと欲しかったものや憧れていたもの、見た瞬間に気に入るようなものを「プレゼントされる」のは、確かに嬉しいものです。でも、自分が贈ったギフトを大喜びして受けとり、ずっと大事に愛用してくれている、といったことのほうが、喜びの「重み」は大きいのではないかという気がします。これは「自分の力でよいことが起こった」という喜びに属するはずです。「石井ゆかりの幸福論」という壮大なお題をいただいて、ホロスコープの「12のハウス」をそのまま章立てにして、ここまで「幸福」とは何かを考えてきたわけですが、最終章である「第12ハウス」は、現代的には「無意識、過去、秘密、自己犠牲」などを象徴する、とされます。ただ、古い時代の占星術では、このハウスはあまり良い象意を与えられていません。その解説には「悪い予兆、不運、自己破壊、奴隷、使用人、危険、外国、敵、隠れた敵、魔女、犠牲、国外追放、自己犠牲、幽閉、隠遁、恐れ、病」などというキーワードが並びます。どれも「幸福」のイメージからはほど遠い言葉たちです。実は、これらのキーワードには、第6ハウスと共通するものが少なくありません。第6ハウスは現代的には「雇用関係、仕事の状態、家事、健康」ですが、伝統的占星術では「使用人、奴隷、病気、敵、不運」などが当てはめられるのです。12室と6室は向かい合っていて「ポラリティ」で結ばれています。対岸のハウスはその意味合いにつながりがあり、あるいは「反転」しているのです。たとえば第1ハウスは「自己」で、第7ハウスは「他者、パートナー、相手」です。第3ハウスは「基礎的学習、兄弟姉妹、短い旅」、第9ハウスは「専門的な学問、遠い親戚、長旅」となります。「自分」の対義語は「他者・相手」、「近い」の対義語は「遠い」だとすると、向かい合ったハウスは対義語の関係になっている、と言えるかもしれません。第6ハウスと第12ハウスの意味合いが似ているのは、両者に割り当てられた惑星がともに「凶星(マレフィック)」、すなわち火星と土星だという点に関係があるのかもしれません。古い時代の星占いでは吉凶がかなりはっきりと語られる傾向があります。一方、現代的な占星術の世界では、「吉凶とはそもそも、なんなのだろう?」という掘り下げが行われますので、「幸運・不運」だけをバッサリ決めてしまうような考え方は、あまりしないように思われます。……後編へ続きます。>>次回もお楽しみに(2021年10月25日更新)
2021年09月25日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラム「石井ゆかりの幸福論」。 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。今回は、第11のテーマ、「友」と「希望」。(後編)をお届けします。11.「友」と「希望」。(後編)私は自分が愛読する本の作者を、勝手に友だと感じています。でも、生身の彼らに会って友達になれるか、というと、絶対になれないだろうな!とも思います。人間は色々な部分でできていて、その部分のいくつかで友情を交わせれば、それでいいのではないでしょうか。毎日挨拶をするお店の店員さんも、家に帰れば全く違った表情をしているかもしれません。でも、その人の全てと友情を交わすのでなくとも、たった一瞬の積み重ねで、温かな細い糸が紡がれていく、ということで、十分だという気がするのです。夢も同じです。庭の花を育て、窓ガラスを拭き、食事を支度し、書類のブランクを埋め、ダンボールをまとめてしばり、といった具合に星屑のようにたくさんの日々の夢が散らばっていて、その小さな星屑を一つ一つ集めて、それで人生の道筋ができていく、ということではないかと思うのです。たった一つの巨星を追いかけつづけるような人生もあれば、星屑で出来た天の川を歩き続けるような人生もあるのだと思うのです。全ての瞬間の中に、11ハウスのテーマがきらめいている。そんな生き方ができれば、すばらしいだろうな、と思います。そしてそれは、けっして、それほど大それたことではないだろうとも思うのです。本稿のタイトルは「友」と「希望」としました。「希望」と「夢」は、似ているようで違います。「夢」はビジョンですが、「希望」には、絵面はありません。「希望」とは、「なにかはわからないけれど、なにかきっといいことがある」という信念のことだと思います。「夢」は持てなくとも、「希望」は持てます。「希望」は、人が生きていくためにどうしても必要な思いであり、他者と関わる時にも絶対に必要な合い印です。希望を失った人は、いわゆる「セルフ・ネグレクト」のような状態に陥ります。自他を破壊するような衝動、自分を放棄するような衝動に駆られます。絶望と孤独は密接につながっています。そこは、光の射さない、深い洞窟のような場所です。現代社会において、社会生活の大部分は「ルール」と「ビジネス」でできています。「仕事だからやる」「ルールだからやる」ということだらけです。仕事でもきまりでもないけれどもやる、という活動は、「個人的な趣味」と見なされがちです。11室のテーマは「友」と「夢、希望」で、これらはルールでもビジネスでもありません。ゆえに現代的な目には、これらは「個人的なテーマ」と映ります。でも、11ハウスは本来、プライベートな世界ではありません。この場所は世の中そのもの、社会そのものです。「一人の人間として、自由な気持ちのもとに社会参加する」ということは、特殊な活動と考えられがちです。でも、本来はもっと自然なことであり、多くの人が願い目指すことであり、もっと祝福された活動なのではないか、と思われます。たとえば日本では選挙の投票率がなかなか上がりませんが、投票行動は11ハウスのテーマと考えられます。もちろん、自分一人だけの利益を追求するために投票に行く人もいるかもしれませんが、多くの場合はどんな立場であれ「みんなが幸福になるためには、こんな状況はおかしい」「もっといい世の中にしたい」というビジョンを抱いて投票に臨むはずです。そこには希望があり、同じ社会を構成する他の人々との、友愛の感情があります。11ハウスの対岸には、5ハウスがあります。5ハウスは個人としての愛や歓びを象徴します。対する11ハウスは、自分を取り巻くこの世の中への愛や、社会的な喜びを象徴します。11ハウスの「公共性」のイメージが、両者の対比で際立ちます。人間は個人的にも、社会的にも、「自分さえよければいい」という具合にはいかないのだろうと思います。愛する人が、ひいては全世界の人が幸福になってくれなければ、自分自身も本当に幸福にはなれない。そういう思いが、この5ハウス-11ハウスのポラリティに示されているような気がするのです。>>次回もお楽しみに(2021年9月25日更新)
2021年08月25日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラム「石井ゆかりの幸福論」。 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。今回は、第11のテーマ、「友」と「希望」。(前編)をお届けします。11.「友」と「希望」。(前編)友達がたくさんいる人、夢を持っている人。この2種類の人々は、もしかすると現代社会でもっとも「肯定される人」なのかもしれません。「友達がいない」「自分が何をしたいのかわからない」と悩んでいる人は、現代社会にはたくさんいます。人間がかかりうる最も大きな病が孤独と絶望なのだとすれば、「友達と夢があればとりあえず大丈夫」と言えるのかもしれません。先日、ヘミングウェイの名作「老人と海」を再読していたのですが、たった一人で漁に出て行く老人サンチアゴには、少年マノーリンという友があり、大物を釣り上げようという夢があります。この2つの条件によりサンチアゴは、認知症の影を見せ始めていながらも、とても充実した人物に見えます。ホロスコープの12の「ハウス」のうち、第11ハウスは最も祝福されたハウスと言っていいかもしれません。そこには古く「友、希望、贈り物、才能、将来の夢」といったテーマが並べられ、大吉星である木星が、ここに位置するとき喜ぶ、とされています。人間が人生において望みうるもののうちもっとも大きなものが、この11室という場所に関連付けられています。どれもお金では買えないもの、「授かる」しかないものたちです。こう考えてみて、自分自身を振り返ると、「私には、仕事以外でマメに連絡を取り合うような相手はいないし、これを目指しているとはっきり言えるような夢もないな」と、苦笑したくなります。ただ、それで自分がとても恵まれない不幸な人間だと感じるか、と言えば、そうでもないように思われます。「夢」と言えば「人生を賭けるような夢!」のイメージが浮かびます。「友」と言えば「終生信頼し合い、支え合い、いつでも何でも相談できる親友」を想像したくなります。でも、もしかすると、「夢」や「友」は、そんなに大それたことでもないのかもしれません。たとえば「日々の夢」は、そんなに高く輝かしいものではなくて、ただ「今日やるべきこと」「やってしまいたいこと」程度のものなのかもしれません。しばしば仕事を引退した人たちが「やるべきことや通う場所がなくなると、一気に老いる」と語ります。「夢」は、ここから一歩でも二歩でも先に進んだ場所にいる自分のビジョンだと考えると、このことはしっくりきます。日々のタスクは、ごく小さな単位の「夢」なのです。「友」も、「ズッ友だよ!」というような「友」だけが友ではありません。日々挨拶する隣人や顔見知りのコンビニの店員さん、行きつけの店のスタッフなど、「知人」レベルでもうっすらとした親愛の情が存在するもので、それで十分「友」なのかもしれません。たとえば災害に見舞われたようなとき、そうした「顔見知り」とは、すぐに声をかけ合ったり、助け合ったりできるでしょう。外国で孤独を感じているとき、自国の人に出会うととても嬉しくなる、といったことがあります。人間同士の心の距離とはそんなもので、お互いをわずかにでも「知っている」と思えれば、それで十分なのかもしれません。純粋で、完璧で、絶対的な「友」「夢」というのは、たしかにそうしたものを持っている人もいますが、多くの場合は幻想なのではないでしょうか。更に言えば、人間は成長し、変容します。それとともに、夢も友も、変わっていくものです。11ハウスで力を持つとされる星は前述の通り、木星です。木星は、射手座と魚座の支配星です。両者は柔軟宮、変容を司る世界です。夢も友も、変化の中にあるのです。「永遠の友」は、もしかしたら、存在しないかもしれません。でも、「この瞬間の友」は、いつでも作り得ます。先日、ある人がこんな話をしていました。「子供を自転車に乗せて走っていたら、後ろから走ってくる人がいて、見れば脱げ落ちてしまった子供の靴をとどけてくれようとしていた」というのです。走ってきてくれた人は「この瞬間の友」です。その靴が落ちるのを見たのは、走ってきてくれた人だけではないかもしれません。同じように拾おうとして、先を越されたので立ち去った、という人もいるかもしれません。みんなが「その瞬間の友」です。もしあなたが今、この稿の中に共感できる部分を見いだして下さったなら、あなたは私の「この瞬間の友」です。でも、さらに成長を遂げた未来のあなたは、この稿を振り返って、とても幼稚で陳腐だと感じるかもしれません。友情は、変化していきます。とはいえ、たとえば幼い頃に読んだ絵本を愛する気持ちが終生変わらないなら、その絵本は、瞬間の友であったと同時に、永遠の友です。……後編へ続きます。>>次回もお楽しみに(2021年8月25日更新)
2021年07月25日人生の先輩的女性をお招きし、お話を伺う「乙女談義」。最近“わきまえる女”問題が話題になりましたが、今月のゲストは’90年代テレビの中で、わきまえない女として活躍していた、田嶋陽子先生です。第3回は、そんな“わきまえる女”問題について伺いました。世間からの刷り込みで、女はわきまえてしまう。小学校6年生、「将来総理大臣になりたい」と書いた私に対し、先生は「道は近し」と返してくれました。ところが中学に入ると、学年1位の成績を取れば「男は試験なんて真面目にやらないから」と、私の真面目な努力を笑って男をかばう先生や、「生理が来たら女は終わり」と、未来の夢を絶つ先生がいた。近所のオバチャンには「陽子ちゃんはいくら勉強ができても、女だからね」と嘆かれたり…。母親に至っては「勉強ができても女らしくしないとお嫁のもらい手がないよ」と。そういった言葉で洗脳され、手足を縛られていく、そんな感じの10代でした。こう言われ続けたら、“女は所詮こんなもの、穴と袋なんだ”と思ってしまっても仕方ない。今の言葉で言うならば、そうやって女は“わきまえさせられてきた”んですよ。でもそこで負けず、「私はわたしの人生を生きる!」と頑張るのが、今で言う“わきまえない女”。私もその一人。生きづらいですが、元気で自由です。悩んだテレビ出演時、支えになったのは先輩の言葉。母との折り合いの悪さや、女であることの苦しさなどを分析し、1992年に、著書『愛という名の支配』を出版。そこで私は母からの、そして世間からの呪縛から解放され、やっと自由になれました。50歳頃から『笑っていいとも!』や『TVタックル』など、テレビのバラエティに出演することに。テレビの中の私はいつも男性陣に怒鳴っていたので、怖い女だと思われていたと思います(笑)。当時の私の本業は大学教授。バラエティに出たことで同業者からもかなり批判されました。そんなとき、先輩であり一番尊敬するフェミニストの駒尺喜美さんが、「専門書はよく売れて8000部。でもテレビは視聴率1%で100万人。反感を買っても、テレビでフェミニズムが語られた、その事実が残ることには大きな意味がある」と言ってくださった。当時、私の出演番組は視聴率20%超えもあったので、2000万人以上が見ていることに。駒尺さんの言葉が支えになりました。たじま・ようこ1941年生まれ、岡山県出身。英文学・女性学研究者、元法政大学教授、元参議院議員。’90年代、テレビ番組に多数出演し、“フェミニズム”をお茶の間に広めた。著書に『愛という名の支配』(新潮文庫)など多数。※『anan』2021年6月30日号より。写真・小川朋央(by anan編集部)
2021年06月26日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラム「石井ゆかりの幸福論」。 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。今回は、第10のテーマ、「自己実現」とはなにか。(後編)をお届けします。10.「自己実現」とはなにか。(後編)学業を修めて社会に出て、ひとつの仕事に就き、その仕事を定年まで続けて、引退後は晴耕雨読でのんびり暮らす。たとえばこのような人生を送った人には、第10ハウスのテーマ「キャリア、社会的立場」は、ごくわかりやすいものに思えるかもしれません。一方、様々な事情から社会的に複雑な道のりを歩んできた人、若いときに学びの機会が得られなかった人、結婚して仕事を辞めて家庭に入った人、「ヤングケアラー」のような立場に立たされ、ほとんど仕事を選べなかった人などの中には、「自己実現とは何か」というテーマの前で、怒りや痛みを抱きながら立ち尽くす思いをしている人が少なくありません。人に誇れるような社会的立場、収入がなければ、人生は失敗なのか。自分は幸福では無いのか。昨今では「承認欲求」という言葉が一般的になりました。「マウンティング」「キラキラ」といった言葉もよく見かけます。人から、社会的存在としてどう見えているかということを、だれもが気にしています。古い時代の第10ハウスのテーマに「評判」があります。社会的評判。人間が人生を賭けて目指す、最も高いところにあるものは、「社会的評判」なのでしょうか。社会的に評判がよければ、それこそが人生最大の幸福なのでしょうか。どんなに人からうらやましがられても、個人として幸福でなければ、なんにもならない。そう考える人もいます。パートナーや子供達から愛され、人から尊敬され、たくさんの友に囲まれることこそが人生の幸福であり、金や立場、名誉などはどれほどあっても意味がない、と語る人もいます。そうした話に耳を傾け、深く頷きながら、「そんな風に割り切れるのは、老人か宗教家だろうな」とシニカルに考える人がいます。「やりたいことをやるのが、一番だ」と言いきる人もいます。その「やりたいこと」がなんなのか、まるで解らずに、「やりたいことのない自分」を責めている人もいます。「やりたいこと」と言われて、ゲームをしたり遊びに行ったりすることを思い浮かべる人がいます。一方、「なんらかの活動をして社会的に名をなす」「儲かるビジネスをする」ことを「やりたいこと」と捉える人もいます。所属する組織の中で、どんどん地位を上げ、大きな権力を持とうとする人もいます。その権力をもって「世の中をよくしよう」と考えていたのに、いつか、権力を持って維持することだけが喜びとなっている人もいます。社会的に大きな力を持てば持つほど、それを失うことが怖くなり、自分の内側に閉じこもってしまう人がいます。自己実現とは、何なのでしょうか。社会的な成功や幸福とは、どんなものなのでしょうか。この問いへの答えは、たぶん、生きている人の数だけ存在するようにも思われます。私の知人に、生まれつきの重病と闘いながら生きた人がいます。その人は幼い頃「そう長くは生きられない」と言われながら、何度も危険な橋を渡りつつ、なんとか大人に成長しました。20代の頃、比較的病状が安定していたときに障害者採用で会社勤めをしましたが、数年で体調が悪化し、退職せざるを得ませんでした。病気のため、結婚したり子供を生んだりすることもありませんでした。退職した後、体調のよいときはボランティアをしたり、町内会の資料作成などの仕事を引き受けたりしました。老いた両親の体調が悪くなると、自分も辛い中で、なんとか面倒を見ました。たくさんの本を読み、映画を見、世の中のことを知ろうとしていました。病気のために足が悪くなっても、出かけるのが好きなお母さんを、色々な場所に連れ出しました。やがて病状が悪化し、50代の若さで亡くなりました。私たちは、自分の人生の全体を知ることはできません。いつも途中までしか解りません。もとい、死ぬ間際に「これが自分の人生だった」と総括することができる人もいるでしょう。ただ、私が知人の人生をこんなふうに短くまとめたようには、本人が捉えることは難しいのではないかという気がします。素晴らしい頭脳の持ち主だった知人が、「もし、病気がなかったら、どうだっただろう」と想像したくなることはありました。でも、病気のせいで知人の人生が「自己実現」を阻まれたのかというと、それはちょっと違うのでは無いかという気もするのです。もちろん、本人の思いと、他人の認識は全く異なります。知人自身は、自分の病を恨んでいたかもしれません。ただ、私から見れば、知人の人生は本当に力強く、ひたすら尊敬に値するものでしかありません。どんな有名人の人生、どんな成功者の人生とくらべても、知人の人生はなんらひけをとるものではありません。それどころか、私の目には、だれの人生よりもたちまさって感じられます。ドラッカーは「なにをもっておぼえられたいですか?」と問いかけました。たとえば自分が死んだ後で、自分のことを思いだしてくれた人が、「あの人はこんな人だった」と語るとして、それはどんな表現だったら満足か、というのです。「あの人は野球の名選手だった」「あの人は名監督だった」などと言われたい人もいるでしょう。「あの人は素晴らしい職人だった」「ユニークな芸術家だった」「多くの人の命を救った医師だった」などと言われる人もいるでしょう。「情熱的な営業マンだった」「誰よりも愛されたガイドだった」「最高の父親だった・母親だった」「かけがえのない親友だった・恋人だった」等と言われたい人もいるかもしれません。人の人生は一言でまとめられるようなものではありませんが、その人と関わった人には、なんらかの記憶と印象が残ります。私は知人の印象を、「誇り高く、強く、人間として限りなく尊敬できる人生を送った人だった」と記憶しています。第10ハウスがもし「評判」ならば、ドラッカーの問いは正鵠を射ています。「なにをもって記憶されたいか?」という問い、そしてそのあとには「そう記憶してもらえるような生き方をしているか?」と続きます。その答えこそが、第10ハウスの幸福の答え、なのだろうと思うのです。……後編へ続きます。>>次回もお楽しみに(2021年7月25日更新)
2021年06月25日『浅田家!』『罪の声』という話題作に出演し、女優としても女性としても、成熟した魅力を放つ篠原ゆき子。6月1日に公開された映画『女たち』では、毒母の介護や、恋人の裏切り、大切な人を失う喪失感で、八方ふさがりとなる主人公を熱演。そんな彼女に制作秘話や、逆境の乗り越え方など深い話を伺った。女優としても女性としても、成熟した魅力を放つ篠原ゆき子。2020年は『浅田家!』『罪の声』という話題作に出演し、12月に公開された主演映画『ミセス・ノイズィ』も高く評価され、ロングラン上映された。さらに『モータルコンバット』(6月18日公開)ではハリウッドデビューを果たす。そしてもう1本、彼女のキャリアにおいて勝負作となりそうな主演映画『女たち』が6月1日(火)より公開された。『女たち』 6月1日(火)全国公開 ©「女たち」製作委員会本作は、『ソナチネ』(93)、『GONIN』(95)などで知られる奥山和由のプロデュース作品。篠原が演じるのは、自然豊かな田舎町で、体の不自由な母・美津子(高畑淳子)と二人暮らしをする美咲役だ。心のよりどころとなるのは、養蜂場を営む親友・香織(倉科カナ)と、結婚の約束をしている直樹(窪塚俊介)の存在だった。劇中でコロナ禍という地続きの日常が描かれる本作。罵詈雑言を浴びせる毒母の介護や、恋人の裏切り、大切な人を失う喪失感で、八方ふさがりとなる美咲をはじめ、いろいろなことにもがいてストレスに押しつぶされそうになる“女たち”の葛藤は実にリアルで、決して対岸の火事とは思えない。そんな女性が共感せずにはいられない等身大の人間ドラマを、新鋭・内田伸輝監督のもと、脚本段階から参加した篠原を直撃。制作秘話と共に、コロナ禍においての気付き、行き詰まったときの乗り越え方についても語ってもらった。撮影:源 賀津己コロナ禍での撮影で感じたこと―—篠原さんにあて書きされたオリジナル脚本の映画化作品ですが、どんな経緯で参加されたのですか?きっかけは、プロデューサーの奥山さんから「一緒に映画を作り上げることができる監督とゼロからやってみては」とご提案していただいたことです。内田監督とは『おだやかな日常』(12)でもご一緒させていただいたのですが、役者の意見を広く取り入れてくださる方で、お互い信頼関係もありましたし、撮影の斎藤さんは内田監督の奥さまでもあるのですが、私の親友と親交が深く、そういうご縁もあいまって、本作に参加させていただきました。―—脚本作りから参加するというのは、女優としては本望なやり方ですね。はい。1年間、美咲について考えてきたので、いつのまにか自分のなかに美咲のエッセンスが入り込んでいて、特に役作りはしなかったです。ただ、脚本作りの段階で、突然コロナ禍となり、「コロナを無視して撮影するのは難しいね」という話になりました。それでコロナを交えての物語にすることになったのですが、撮影まであまり時間がなくて。でも、内田監督にとっての脚本は、旅行に行く上でのガイドブックのようなものだそうで「その場で生まれるものを一番大事にしてほしい」と言われたので、全然脚本どおりではなかったです。『女たち』 6月1日(火)全国公開 ©「女たち」製作委員会―—撮影に入られたのは、昨年のいつ頃でしたか。7月です。当時、撮影が出来るかできないかの瀬戸際でしたが、奥山プロデューサーが「やってみましょう」と賭けに出られた感じでした。ですから、撮影に入れたという喜びと共に、誰かが感染したら止まってしまうという緊迫感があり、だからこそ、意地でも“今”を焼き付けようというみなさんとの結束感をすごく感じました。みんな裏でいろんな孤独を抱えている―—美咲と親友の香織が、草原でワインを飲みながら語り合うシーンが素敵ですが、それだけにその後で起こる悲劇が切なかったです。いわゆるLOHAS的な暮らしぶりがいいですよね。でも、そんな素敵な暮らしをしているのに、実は裏でいろんな孤独を抱えているというのが、すごく現代的だなとも思いました。―—結婚を約束していたはずの恋人に二股をかけられたと知った美咲が、恋人宅に忍び込みます。見つかりそうになった時、思わず手にした鍋蓋で顔を隠すという身も蓋もないシーンが笑いを誘いました。あれは脚本にありましたが、面白いシーンでしたね(笑)。内田監督作の『ふゆの獣』(11)でも、男と女の三角関係や四角関係で、追い詰められた男女の滑稽さみたいなものが描かれていて、私はその作品も大好きだったので、ぜひそういう要素を入れていただきたいと監督にお願いしました。美咲に問い詰められた直樹の言い訳もすごくダサくて、最高です(笑)。あれは演じた窪塚俊介さんのアドリブも混じっていましたが、撮影していてすごく楽しかったです。『女たち』 6月1日(火)全国公開 ©「女たち」製作委員会―—高畑淳子さん演じる毒母もすさまじかったですね。実は、本読みの段階では、あそこまで体が麻痺していて、ろれつが回らない設定ではなかったんです。高畑さんが、自分は健康体に見えるし、強そうだから、そういう麻痺がないと、介護の重圧感が感じられないんじゃないかと、内田監督に提案してくださいました。高畑さんはいろいろと調べて役作りをされたと思うんですが、初めて目にした時は、鳥肌が立ちました。そんな高畑さんのただならぬ演技を拝見して、私も気が引き締まりました。―—毒母にののしられる美咲のフラストレーションが、ひしひしと伝わってきました。今回は、共演者が高畑さんや倉科さんといった実力派の俳優陣の方々だったので、自分はとりあえずノープランで入り、みなさんのお芝居を受けることをすごく意識しました。だから親子のシーンでは、高畑さんのすさまじいパワーにすごく助けていただきました。撮影:源 賀津己毒母を介護して、わかったこと―—実際に役を通して、介護を経験してみていかがでしたか?美咲役を演じるにあたり、いろいろな体験本やブログなどを読みましたが、優しくて愛情深い人ほど苦しんでしまう傾向があるのが本当に切なくて。恐らく、適度に力を抜ける方なら、もう少し抜け道があると思いますが、一生懸命になりすぎてしまう人ほど、介護しているうちに家族を手にかけてしまったり、心中をしてしまったりするという事例がいくつもありました。また、介護が女の人だけに委ねられがちということにも違和感を覚えつつ、すごく難しい問題だなと思いました。実の母親の介護ですらあんなに大変なのに、お姑さんとなるともっと難しいんだろうなと。でも、劇中のサヘル・ローズさん演じるヘルパーさんのように、他者に入ってもらうことは、すごく大切だなと感じました。『女たち』 6月1日(火)全国公開 ©「女たち」製作委員会「大丈夫」という声がけは難しい―—美咲と香織が「大丈夫」と声を掛け合うシーンも胸に染み入りました。「大丈夫」という言葉も難しいですね。いろんな境遇の方がいると思うし、ただでさえギリギリの状態で頑張ってこられた人が、コロナで道を閉ざされたと思い込むこともあるでしょうし。でも、たぶんすべてが閉ざされたわけではないと思うんです。いつか絶対に「あの時はああだったね」と言える日が来ると思うので。―—篠原さんご自身は、コロナ禍のステイホーム期間中、心境の変化などはありましたか?家族とは密にならざるを得なかったので、以前よりももっと近いものになったというか、居心地のいいものになったかなとは思います。以前は友達や役者仲間と外へ出かけたり、飲んで息抜きをしたりしてきましたが、コロナでそれができなくなりました。夫は自分と全く違う職業の人ですが、いつの間にか仕事の話もできるようになり、意外とそれが良かったのかなと。撮影:源 賀津己―—そういう点では、ステイホームがプラスに働いたのですね。私自身、ぐーたらして過ごすのは嫌いじゃないので、心が沈むことはあまりなかったほうだと思います。自分だけではなく、みんな仕事がなくて、正々堂々と休みを取れている感じはありました。もちろん、そんなことを言っていられない方々もたくさんいらっしゃったと思いますし、自分もことごとく映画祭や撮影など、やりたかったことがどんどん飛んでいったので、そこはすごく悔しかったです。行き詰まったときの、乗り越え方とは?―—本作に出演したことで、篠原さんご自身はどんなメッセージを受け取りましたか?人に助けを求めるとか、自分の弱さをさらけ出すことはすごく大事だなと、改めて思いました。命をつなぐため、最後の最後にそれをすることができれば、人は変われる気がします。女の人はとかく自分を幸せに見せたいと思ってしまうこともあるから、なかなか難しい気がしますが、きっと誰だって何かを抱えているとも思うんです。本当に行き詰まったら、発狂してでもいいので、弱みを晒しまくれば、意外とそこで助けてくれる人がいるはずです。撮影:源 賀津己つらい時だからこそ、大事なこと―—篠原さんご自身は、弱音を吐けるタイプですか?私は本当に出せないタイプでした。それはプライドなのか何なのかわからないんですけど、今回の撮影ではそこを吐き出して、高畑さんをはじめ、みなさんにすごく助けていただきました。また、最近も、いろいろと他のお仕事で落ち込んだことがありましたが、試しにその時、弱音を吐いてみたんです。そしたら家族や事務所の皆さんさんたちが助けてくれました。これはいいなと、今は味をしめてしまった感じです(笑)。でも、コロナ禍だからこそ、周りの人に甘えてみるのはアリだなと、心から思いました。『女たち』 6月1日(火)全国公開 ©「女たち」製作委員会人生においてのつまずきはきっと誰もが経験していくこと。渦中にいる時は苦しすぎて、自分だけが突き放されたような感覚に陥ってしまうけど、見渡せば自分への愛情や救いの手があるということを、この映画は気づかせてくれる。葛藤しながら、小さな希望をつなげようとする女たちから、ぜひ勇気をもらっていただければ幸いです。
2021年06月08日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラム「石井ゆかりの幸福論」。 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。今回は、第10のテーマ、「自己実現」とはなにか。(前編)をお届けします。10.「自己実現」とはなにか。(前編)「私は今、子育て中なので、占いに『仕事』と書いてあっても、関係がありません。どのように読んだらよいでしょうか?」「今は仕事をしていないので、占いに『目標達成』『ミッションのスタート』『社会的立場やキャリア』などの表現が出てくると、自分のことではないと思ってしまいます」過去にこうしたご質問を、しばしば頂いてきました。「仕事」か、「家庭」か。現代ではかなり変化も出てきましたが、それでも尚、この命題が多くの女性の目の前に置かれる状況は、少なくとも日本の社会では、続いていると言わざるを得ません。星占いで用いる第10ハウスは、一般には「仕事」「キャリア」「職業」などを象徴するといわれます。実際、「私の適職は何ですか?」などのご質問があればまず、第10ハウスに注目する占い手が大半だと思われます。もちろん、それ「だけ」では回答できませんが、まず最初の一歩として第10ハウスの様子を見るのは王道です。雑誌の記事等で占いを執筆する上でも、第10ハウスに星が入れば「目標達成」「仕事が忙しくなる」「キャリアの転機」などと書くことになります。では、第10ハウスは本当に、「子育てや介護で、主に家庭の中のことを担っている人」には、「関係がない」のでしょうか。ホロスコープの円で、第1ハウス-第7ハウスカスプのライン、これは言わば「地平線」、あるいは「地面」です。ゆえに、第1ハウスから第6ハウスの半円は、「地面の下」です。一方、第7ハウスから第12ハウスは「地面の上」です。ホロスコープを読む上で、地面の下にあたるハウスは「内側の世界、プライベート、原点、個人」を象徴し、地面の上にあるハウスは「外界、他者、パブリック、世の中、集団」を象徴する、と大きく捉えることができます。もちろん、各ハウスの機能を細かく見ていけば、12ハウスのテーマには「隠遁」があったり、6ハウスは「義務、責任」だったりと、簡単に「プライベートか、おおやけのことか」というふうに割り切ることは難しいのですが、ハウスのイメージを掴む上では、「見えている空は外界で、見えない部分はインナースペース」と捉えると、だいぶ解りやすくなります。そう考えると、9、10、11ハウスあたりは、ホロスコープにおいて「もっとも広い場所」「最も遠い場所」です。一人の人間として生まれて、成長とともにどんどん行動範囲を拡大した結果、たどり着くのが9ハウスから11ハウスあたりというわけです。12ハウスになると、第1ハウス、つまり「スタートライン」が視野に入ります。私たちはぐるっと世界を巡って、最終的にはなんらかのかたちで、またもとの世界に戻ろうとするものなのかもしれません。人生において目指していく、一番遠い場所。人生でたどり着ける、一番高い場所。これが第10ハウスのイメージです。とするなら、たとえば幼い頃から「結婚して温かい家庭を作り、子供を育てる」ことを夢見ていた人は、第10ハウスは「自分が創り上げた家庭」であっておかしくありません。実は、古い時代のホロスコープ解釈では、第10ハウスのテーマとして「子供」が置かれていたこともあるのです。かつて、各種産業の家族経営や世襲が一般的だった時代には、家を継いでくれる確かな子供を持つことは、社会的使命に近いものでした。場合によっては、その人自身の社会的評判や地位に直結することだったのです。いまだに「家の跡継ぎを産み育てること」を子供に要請する人々は存在します。子供を育てることは、社会的なテーマだったのです。一方現代では「子供を持つことは、あくまでプライベートなこと」なのでしょうか。そう考えている人もたくさんいますが、本当は、そうではありません。もし本当に子育てが個人的生活だけに帰属するテーマであるなら、たとえば義務教育という考え方や子供のための各種施設、青少年を保護するための法律などは、存在しなくてもよいはずです。子供は未来の大人であり、社会の構成員です。どんなに親子が親しく深い愛情で結ばれていても、親と子供は別々の人間であり、子供には子供の社会的権利があります。子供もまた「他者」です。子供と関わるということは、個人としての情愛の問題だけに留まりません。それは、かつて以上に社会的な活動なのです。会社で同僚や上司や顧客と関わるのと同じように、社会的関わりという側面を多量に含んでいるはずです。……後編へ続きます。>>次回もお楽しみに(2021年6月25日更新)
2021年05月25日漫画家として活躍するカレー沢薫さんの連載コラム「アクマの辞典」このコラムは、ア行からワ行まで、女や恋愛に関する様々なワードをカレー沢さん独自の視点で解釈していきます。女の本性をあぶりだす新しい言葉の定義をとくとご覧あれ!■第75回アクマの辞典パ行【ペ】➤「ペース」(ぺーす)今回のテーマはパ行から「ペース」だ。つきあうなら、結婚するなら「○○が合う人がいい」という話は山ほどある。確かに「合う」相手のほうが揉め事は少ないだろうが、揉めなければ良いカップルというわけでもない。むしろ「毎日ケンカばっかり」というつぶやきに「うちは全然ケンカとかしないけどなー」というマウント引用リプをするためだけに、ケンカどころか「話し合い」すら全回避し、相手の意見に盲従or自分の考えをゴリ押しするか、それ以前に「揉めそうな問題はお互い見て見ぬふり」になってしまっているカップルも多い。どれだけケンカしても体の相性がグンバツなので一発キめれば何で揉めていたかさえ忘れる、というカップルもいるだろうから、何が合えば上手くいくかは人それぞれである。では「ペース」というのはどうだろうか。確かに、何をやるにも人それぞれの「ペース」というものがある。行動や生活を共にするならペースが合っていたほうがスムーズだろう。恋愛のペースにおいても、「結婚まで性交渉はしない」という考えの人間から見れば「デート3回以内でベッドに誘わないのは侮辱罪にあたる」と考えているヤツは、もはや「性獣」であり、種族の段階から違う。結婚にしたって「25までに」と考えている人間が「30歳くらいに」と思っている相手とつきあうと、25歳前後でスーパーギスギスタイムが訪れるだろう。さらに、30歳になってから相手に「そろそろ」と言われても、結婚フィーバータイムが終了しているため逆に「今更?」となってしまうのだ。私の知り合いは、相手に結婚を打診したら「来世で一緒になろう」と言われたらしい。人生レベルでペースが違う場合もあるのだ。このようにペースの違う相手とつきあうと「時間の無駄」や、逆に「早まったこと」をしてしまう可能性がある。しかし、ペースが違う相手とつきあったおかげで助かった、という時もあるだろう。例えば「避難勧告」などに対し「来世で」などと言っていたら、そのまま来世に直行してしまう恐れがある。腰が重い人間を、常にケツが椅子から3ミリ浮いているフォバー尻パートナーが引っ張って良い結果になることだってあるはずだ。逆に「玉子98円だから今すぐ行こう」という人間に、落ち着いたパートナーが「服を着てからにしたほうが良くないか?」と悠長なことを言ったために法を犯さずにすんだという場合もある。つまり、ペースが違う人間が一緒になることで、素早く動いたほうが良い時は迅速に、落ち着いて動いたほうが良い時は慎重にと、お互いの長所を生かせるという話だ。しかし、現実はそう上手くいかないし、相手のペースに合わせるのも、自分のペースに合わせさせるのも大変である。よって、ペースが違う者同士が一緒になると「相手に相談せず一人でやる」ケースのほうが圧倒的に多くなり、警察からの連絡ではじめてパートナーが全裸で玉子を買いに行ったと判明したりするのだ。同じ時空と法律の中で生きるなら、やはりペースは近いほうがいい、あまりにも違いすぎる場合は、来世で一緒になろう。--------------------------■パ行【パ】➤「パリピ」(ぱりぴ)…暗いというだけでオタクと思われるように、声がデカいだけでそう呼ばれるパーティなんか出たことがないヤツもいる【ピ】➤「ぴえん」(ぴえん)…これを使うと若者ぶってると思われそう、という防衛本能からオジサンが使う汗顔文字を使うという事故【プ】➤「プロテイン」(ぷろていん)…プロテインが不味いという人間は、美味いと飲みすぎてデブる【ペ】➤「ペース」(ぺーす)…地味にストレスなのが「食うペース」の違い【ポ】➤「ポリアモリー」(ぽりあもりー)…無許可ポリアモリーは普通にいる
2021年05月05日漫画家として活躍するカレー沢薫さんの連載コラム「アクマの辞典」このコラムは、ア行からワ行まで、女や恋愛に関する様々なワードをカレー沢さん独自の視点で解釈していきます。女の本性をあぶりだす新しい言葉の定義をとくとご覧あれ!■第74回アクマの辞典バ行【ボ】➤「ぼっち」(ぼっち)「非リア充」「陰キャ」など平均より明度と彩度が低いヤツを指す言葉は多数ある。個人的には「鬼滅は見ない、なぜならみんな見ているから」と言っているヤツのほうが、これから先、人生に外灯が1本も立ってない気がするが、これらの言葉に共通するイメージは「孤独」である。よって私が「非リア充」を名乗ると「結婚している癖に、どの口が言いやがる」と瞬時にスティッキィ・フィンガーズを食らう羽目になる。既婚の非リア充ならわかってくれると思うが、結婚している=リア充、まして「モテている」ではないのだ。会社の全女子社員から「こいつと世界で2人きりになったら自害する」と思われている、いとも容易く人類滅亡を選ばせるような上司ですらなぜか結婚していたりするだろう。結婚とはその程度のものだ。しかし、家に虫以外の生命体がいる時点で非リア充ではないと言われたらそこまでである。そのぐらい非リア充や陰キャにとって「孤独」は重要な要素なのだ。最近は「孤独」に焦点を当てた言葉もある、それが今回のテーマ、バ行から「ぼっち」である。「ぼっち」とは「ひとりぼっち」から来ており、仲間がいない様を指す。クリスマスを1人で過ごすことは「クリぼっち」と言い、響きだけなら誰よりも卑猥なクリスマスを過ごしているように聞こえる。しかし、恋人がいないというだけで「ぼっち」を名乗る人間はあまりいないように感じる。仲間(ファミリー)に囲まれた状態で「今俺ぼっちなんで彼女絶賛ボシュ―中っすw」などと逆ピースをキメたら射殺されても文句は言えない。パートナーがいないだけで「ぼっち」とはあまり言わないのは「結婚しなかろうが、恋人がいなかろうが何が悪い」という価値観が広がってきたせいかもしれない。対して「ひきこもりで、友達皆無で、近所に存在さえ知られていなくて何が悪い」という風潮にはなかなかならない。確かに、イチャつく相手がいなくても困ることはないが、周囲から孤立し、困った時に頼る相手がいないというのは本当に困るし、そういった「孤立」が引き起こす事件や事故も多いのだ。少なくとも突然「三人組をつくれ」と言われた時に困るし、そこから不登校などに繋がる恐れがある。だが、私はまさに会社を辞めてから社会と断絶し、近所に誰も知り合いがいないひきこもりだが、自分のことを「ぼっち」と自称することはあまりないし、孤独にさいなまれるということもあまりない。なぜなら、一人だと「ぼっち」だと感じないからだ。「ぼっち」だと感じるのは「ぼっちじゃないヤツ」と比べるからである。三人組を作れず「今世界滅亡しねえかな」と思うのは、周りがみんな三人組を作っているからであり、さらにそいつらの視線にさらされているからだ。つまり「ぼっち」自体がキツいのではなく「他のヤツと違う」という疎外感、さらに「周りにぼっちと思われている」という羞恥心で辛いのだ。私も平素全く孤独を感じないが、窓の外で近所のママグループが井戸端会議をしているの見ると「社会だ…」と、凄まじい孤独を感じる。よって「恋人が欲しい」という時も、恋人がいるヤツと比べたり、恋人がいない寂しいヤツと周りに思われたくなかったりして、欲しいと考えていないか確認したほうが良い。私がその井戸端会議に乱入しても、その中でまた孤立するか、警察を呼ばれるかの二択なように、そんな動機で恋人を作っても「俺の自由時間が減った」と感じるだけだと思う。「ぼっちを快適と思っている自分」を認めず、他人と比べ、他人の目ばかり気にしていては永遠に「孤独感」はなくならない。--------------------------■バ行【バ】➤「バンギャ」(ばんぎゃ)…「30過ぎて乗ると体がバラバラになる」でお馴染みの深夜バスに40近くになっていても乗れていたりする、不健康そうに見えて健康じゃないと務まらない【ビ】➤「美意識」(びいしき)…美しい桜に半分以上自分の顔面がインした写真を撮ろうとしたり、下で焼肉をしたり、春は美意識の崩壊がよく見られる【ブ】➤「不器用」(ぶきよう)…顔が良いヤツだけがそう評される、あとは「気が利かない」「いらんことを言うヤツ」と呼ばれる【ベ】➤「別に」(べつに)…瞬時に「MDMA」という謎の単語が思い浮かぶようになったので、罪は償えても「イメージ」は消えない【ボ】➤「ぼっち」(ぼっち)…「ぼっち」を嘆くヤツを集団に入れてやると逆に死ぬ
2021年04月05日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラム「石井ゆかりの幸福論」。 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。今回は、第9のテーマ、遠く仰ぎ見て「わたしとは何か」と問う。(前編)をお届けします。■9.遠く仰ぎ見て「わたしとは何か」と問う。(前編)これを書いているのは2021年3月ですが、「旅行」を考えるのがまだまだ難しい状況です。でも、今回のテーマ、星占いでの「第9ハウス」は、「旅と学びと宗教の部屋」なのです。どうしても「旅」を語らないわけにはいきません。いわゆる「コロナ禍」で、私たちは「不要不急の外出を避ける」ことを求められています。「楽しみのための旅行」は、不要不急の最たるものです。少なくとも今の社会で「旅」は、人間が生きていく上で、絶対必要なものではない、とされています。ですが、長い人間の歴史を考えると、「旅=長距離の移動」は、また別の意味合いを持って見えてきます。というのも、私たち「ホモ・サピエンス」は、アフリカに起源を持ち、そこから世界中に広がったのです。祖先の長旅の結果として、私たちは今ある場所に住んでいる、と言えます。もとい、人間がどこで発生してどう拡がったか、という問題には諸説あるようですが、とにかく大陸や海を越える「移動」は起こっていたのです。私たちの祖先が「旅をした」理由は、これまた諸説あるようです。食べものを求めてなのか、気候変動のためなのか、集団同士の闘争・戦争のためなのか、疫病から逃れるためなのか、etc,.とにかく人間はごく古い時代から、山を越え海を渡り、長い長い距離を超えて、今のように世界中に住まうようになりました。もし宇宙人が地球にやってきて、人間を長期的に観察したなら、「旅は人間の習性だ」と考えるでしょう。「フンコロガシはフンをまるめる」のと同じように、「人間は旅をする」のです。なぜ、現代を生きる私たちもまた、旅をするのでしょうか。異文化に触れ、しばしば不自由な思いをし、時には身を危険にさらしても、「どこか知らない世界に行ってみたい」と考えるのは、なぜなのでしょうか。第9ハウスの向かい側は、第3ハウスです。第3ハウスも、「旅と学び」がテーマになっています。ただ、第3ハウスはコミュニケーションやショートトリップなど、比較的「近距離・身近」な世界間の移動を担います。それに対して第9ハウスの移動は、宇宙旅行まで管轄するような、ごく遠くまでの旅です。第3ハウスの記事()で、私は大阪大学の仲野先生へのインタビューのエピソードをご紹介しました。「なぜ学ぶのか」「なぜ旅をするのか」という疑問に、仲野先生は「知ることが楽しいから」と応えられたのですが、さらに私が執拗に聞いていったとき、こう仰いました。「自分が生きてる世界を知りたい、っていうことでしょうね。世の中ってどんなもんか知りたい。好奇心でしょうね。それは、自分というものがどういうものが知りたい、ということでもあると思います。納得して死んでいきたい。」私たちは「自分がなんなのか」を知るために、常に外界に答えを求めます。自分が「何と同じ」で、「何と違う」か。その情報を集めることで、次第に「自分」の像をつくっていきます。友だちと遊ぶとき、しきりに「○○ちゃんと同じ!」「○○ちゃんは違う」というふうに、自分と他人の一致/相違点を探していく幼児をよく見かけます。親と自分が似ていることを無意識に確認し、そこで見つけた特徴が、自分のアイデンティティに組み込まれます。一方、親と全く違う性質を見つけたら、それもまた、自分自身の個性としてアイデンティティの部品となります。ある集団の中で「自分だけ違う」ことを痛烈に恐れるのは、大人になってからも続く傾向ではないかと思います。一方で「自分探し」をするために、あえてハデな格好をしてみたり、際立った行動を取ってみたりする人もいます。帰属意識と、差異を見いだして独立しようとする気持ち。その両者が複雑に絡み合って、「自分はこういう存在だ」という思いが形成されます。「自分がなんなのか」を知るためには、私たちは常に外部にコンタクトを取らねばなりません。よその家に遊びに行って初めて「自分の家とは違う文化」に出会います。自分が住む地域を離れて少し離れた場所に出かけたとき、新しい方言に出会い、自分の話し言葉の特殊性に驚かされます。さらに遠く海外に出ると、自分が日本人であるということを発見します。人類が宇宙旅行を夢見、宇宙人を探しに出かけたいと考えているのは、自分がどんな宇宙人と同じで、どんな宇宙人と違うかを知りたいからではないかと思います。つまり、「人間とは何か」が知りたいのです。今は地球上の動物との比較でしかわかりませんが、「他の星」の知的生命体と人間を比べたら、「人間ってこうなのか!」と、その時初めてわかることがあるはずです。私たちには「自分が誰かを知りたい」という願いがあります。「自分が何者なのか」がよくわからないとき、私たちはそれを必死に探そうとするだろうと思います。たとえば、親を「知る権利」ということが、昨今問題になっています。自分の産みの親が知りたい、という切なる思いは、否定できるものではないように思われます。第9ハウスのテーマに「宗教」があります。古い時代、庶民が旅に出る理由として、ごく一般的なのが宗教的な「巡礼の旅」でした。これだけでも、宗教と旅が密接に結びつくのは納得できます。さらに、いくつかの宗教は「人間とは何か」「わたしとは何か」に、ある程度の答えを与えてくれます。世界の創造神話にはじまり、その神を信仰する者だということ自体が「アイデンティティ」になり得るのです。「クリスチャン」「ムスリム」などの呼称が、即「わたしは何者か」という問いへの、ひとつの答えになります。遠く高い知恵に触れて、地上の自分のなんたるかを知る、ということは、「宇宙人に出会って、人間とは何かを(より深く)知る」ということと、わずかに通じるものがあるような気もします。……後編へ続きます。>>次回もお楽しみに(2021年4月25日更新)
2021年03月25日漫画家として活躍するカレー沢薫さんの連載コラム「アクマの辞典」このコラムは、ア行からワ行まで、女や恋愛に関する様々なワードをカレー沢さん独自の視点で解釈していきます。女の本性をあぶりだす新しい言葉の定義をとくとご覧あれ!■第73回アクマの辞典ダ行【ダ】➤「ダサい」(ださい)今回のテーマはダ行から「ダサい」である。先日、漫画『クッキングパパ』1000話が無料公開されており、仕事や時間、己が何者かも忘れて読みふけったのだが、何せ30年以上も続いている漫画なので、そこかしこから「時代」を感じる。肉じゃがをダサいというJDに「肉じゃがにダサいもナウいもないさ」とパパが言い放つシーンがあった。これは「ナウい」が完全にお亡くなりになっている一方で、「ダサい」が未だに生きているという貴重な資料である。「ダサい」は、毎年生まれる新語に勝ち抜いてきたディフェンディングチャンピオンであり、それだけ「強い」言葉ということだ。みんな何だかんだ言って「ダサい」のは嫌なのである。「ダサくてもがむしゃらに頑張る」と言っている人も、ちょっとは「ダサくても頑張っている自分カッコいい」と思っており「何もないところでコケて、肥溜めに落ちる」など正真正銘ダサいことはやはり嫌なのだ。しかし、「ダサいのは嫌だ」と思うのは大事である。なぜなら、ダサいのは「楽」だからだ。自宅でも化粧をして髪を巻くような生活よりも、「メスゴリラでーす!」と言って男用ボクサーブリーフで登場するほうが遥かに楽な生き方なのである。ダサい自分を認め、楽に生きることも大事だが、それが過ぎるとただの「堕落」になり、リアルゴリラと化し人間ですらなくなるので、ゴリラの誘惑に耐え「カッコいい人間」であろうとする姿勢はやはり尊い。問題は、格好をつける努力はしたくないが、ダサいのも嫌だという状態である。恋愛でも「ダサい」ことはたくさんある。「近所にいい感じのレストランができたんだ」と、彼女をデニーズに連れて行ってしまうなど、恋愛のダサ行為は多々あるが、やはり、一番ダサいのは「フラれること」だと思っている人は多いような気がする。フラれるのはダサいから、告白するテクより相手に告白をさせる方法のほうが需要はある。別れ話を切り出されたとき、本当は寝耳にスプラッシュ・マウンテンだが、フラれたことにはしたくないので、瞬時に「実は俺もそう思っていた」と返して「イーブン」に持ち込もうとしてしまう。自分の心を守るために必要な行為とも言えるが、恋愛からこの「ダサさ」を徹底的に排したらどうなってしまうだろうか。まず、絶対フラれたくないし、フラれないために必死になるのもダサいから、相手に求める条件が「イケそう」一点になってしまう。そして、つきあっても相手に振り回されるなんてダサいので、自分より下に置ける口答えしないタイプを選ぶようになり、万が一相手に口答えされたら「よくも俺様をダサい目にあわせてくれたな」と逆上する。結果相手に逃げられると、また同じようなタイプを探すようになる。ここにパーフェクトモラハラ爆誕である。誰だってダサいのは嫌だ。しかし、犬の糞を避けようとして肥溜めに落ちるように、人はダサさを避けようとして余計ダサくなってしまうこともある。--------------------------■ダ行【ダ】➤「ダサい」(ださい)…「ダサい」と言われていた人が次の日「逆にカッコいい」と言われてたりするので気にしすぎてもしょうがない【ヂ】➤「地雷女」(ぢらいおんな・じらいおんな)…許せないことが多すぎるオタク女ではなく、つきあうと大変なことになる女のこと「面倒」という点では同じ【ヅ】➤「○○尽くめ」(づくめ)…部屋中キティちゃん尽くめの女より、名もなきクマのぬいぐるみを一つ置いている女のほうが何を考えているかわからなくてコワイ【デ】➤「デトックス」(でとっくす)…「デトックス」「リセット」など「一からやり倒したくなる病」患者は「ノートの1P目だけきれいに書く病」も患っている場合が多い【ド】➤「同窓会」(どうそうかい)…3年間何も起こらなかったメンバーと1日再会して何か起こるわけがない
2021年03月05日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラム「石井ゆかりの幸福論」。 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。前回に引き続き、第8のテーマ、自分の人生は「自分だけのもの」なのか。(後編)をお届けします。■8.自分の人生は「自分だけのもの」なのか。(後編)必要なものを、必要なだけ受けとる。リスクは最低限に抑える。いつも冷静に、自分の欲望に振り回されることなく、自分の損得をきちんと考えて行動する。こうした態度は確かに、大人として望ましい生き方です。ただ、ここには、ある視点が欠けています。それは、人間を生かしている「生命力」の視点です。幼い子が力の限り、長い時間泣き叫びます。じっとしていることができず、常に走り回っている子供がいます。若いときは何でも大笑いし、大興奮し、妄想を膨らませ、バカなことをたくさんしでかします。大人になってからも突如、自分の燃えるような衝動を抑えられない瞬間が訪れます。損をすると半ばわかっているのに自分の全てを賭けてしまう人がいます。ちょっとした好奇心から、違法なものに手を出してしまう人がいます。愛したものにのめり込み、没頭し、耽溺し、おぼれこんで生活が破綻する人もいます。明日早起きしなければならないとわかっているのに、深夜になってもゲームをやめられない、本を閉じられない、ドラマを見ずにいられない、といった経験に、心当たりはないでしょうか。カッとなって怒鳴り散らして後悔したり、勢いで告白してやっぱり後悔したり、職場で号泣して後悔したり、上司を殴りつけて後悔したり、といったことは、珍しいことではありますが、現実問題「よく見る光景」です。こんなふうに、私たちは自分で思う以上に、限りなく激しいエネルギーを生きています。若いときほどそれはむきだしに表れます。一方、大人になってうまく制御できるようになったと思えた瞬間、びっくりするような内なる荒波に飲み込まれてしまうことも、よくあるのです。人生の「出入り口」のリスクの問題は、私たちのこうした「生命力」に直結しています。なぜなら、外界との「出入り」が発生するのは、私たちが生きているためだからです。死んだら、呼吸も、食事も、すべての「出入り」が止まります。私たちは冷たくなり、もう、エネルギーの激しい燃焼と、それにともなう「出入り」は起こらないのです。もとい、人生にはもうひとつの「出口」があります。それは「出産・育児」です。自分の生命力は、自分という個体の中ではかならず終わりますが、新しい人間に燃え移って、継承されていきます。一人の人の人生から、もう一つ別の新しい人生が「放出される」のです。子供を生み育てることもまた、大きなリスクを引き受ける営為です。でも、私たちの内なる激しい生命力は、そのリスクを負って、命を次世代につなげていきます。こうして考えてみると、「幸福」とは、かなり複雑なものであることに気づかされます。というのも、多くの人が「しあわせになりたい」と願うとき、最初に念頭に置くのは、自分自身の幸福であるはずです。ですが、「自分の幸福とは何か」を考えていくと次第に、愛する人や子供の幸福が最大の条件となることは、珍しくありません。さらに、「幸福とは何か?」という問いの答えが「苦しみや悲しみが訪れないこと」となる場合もあります。これは、ここまで長々と述べてきた「ゲートの開閉」の問題です。喜びやゆたかさが私たちの生活に入ってくるとき、責任や義務、罪悪感などが一緒に流れ込んでしまうことも、よくあります。幸福は、自分一人だけの世界では、完結しないのです。私たちの人生は、常にいくつもの「出入り口・ゲート」によって、外界と繋がっています。ゆえに、私たち自身の幸福を考えるときはいつも、その出入り口から出入りするものに考えが及ぶのです。出入りするものは、完全にはコントロールできず、出入りの際には常にリスクが伴います。そのリスクが現実のものとなったとき、多くの人が自分を責めますし、他人が自分を責めてくることもあります。でも本当は、それを「責める」ことは、ナンセンスなのです。ゲートの開け閉めを失敗して、受け入れるべきではないものを受け入れてしまう経験を、ほとんど全ての人が持っているはずです。一方、ゲートの開け閉めの賭けに運良く勝っただけなのに、「自分は自力で成功したのだ」と信じ切っている人は、少なくありません。時限爆弾の青い線と赤い線のどちらを切るか、ノーヒントで決めなければならないような瞬間を、私たちは人生の中で、けっこうしばしば、経験しているのです。そこで爆弾をバクハツさせてしまったとして、その人の責任を問えるでしょうか。法的にはもちろん、そこがしばしば、問われます。裁判の場では、それこそが「争点」になります。でも、私たちが自分個人としての人生や幸福を考える場合は、どうでしょうか。あるいは、自分にとってごく大切な人の人生について考えるときは、どうでしょうか。かけがえのない大切な人が、赤か青か、間違ったほうを切ってしまったなら、私たちは基本的に、全力で相手をサポートしようと思うはずです。自分もまた、同じ目に遭わないとも限らないことが、わかるからです。幸福がもし、人間の心の中に生まれるものだとするなら、私たちが幸福になるにはまず、「ゲートの開け閉めの失敗について、自他を責めるのをやめる」ことが必要なのかもしれません。人生には、誰のせいでもないことが、たくさんあります。新型コロナウイルスに感染した人を責めるのがナンセンスであるのと同じように、そこで犯人捜しをするのは、無意味なのです。もちろん、たくさんの警告を受けながらも「自分だけは大丈夫」「このくらいは大丈夫だろう」といった無根拠な自信で行動し、感染してしまった人々に、医療従事者の方々などが苛立ちを感じるのは当然だと思います。ただ、失敗は誰にもあります。それをどのように反省し、他の人々への教訓とするかは、また別の問題と言えるでしょう。ひとつだけたしかなのは、「リスク管理」と、「失敗した人を直接的に非難する」こととは、別のことだという点です。世の中には、取り返しのつかない失敗というものも、存在します。人間は、そういう失敗を「する」のです。「絶対にやってはならない!」と声を上げるのも大切ですが、「そもそも、人間とは、そういうことをする生き物なのだ」というところから思考を始めるほうが、近道なのではないかと思うのです。いいことも悪いことも「誰のせいでもなく」起こります。そのことを引き受けてどう生きるか、ということが、第8ハウスの幸福のテーマなのではないかと、私は思っています。>>次回もお楽しみに(2021年3月25日更新)
2021年02月25日漫画家として活躍するカレー沢薫さんの連載コラム「アクマの辞典」このコラムは、ア行からワ行まで、女や恋愛に関する様々なワードをカレー沢さん独自の視点で解釈していきます。女の本性をあぶりだす新しい言葉の定義をとくとご覧あれ!■第71回アクマの辞典ザ行【ジ】➤「事実婚」(じじつこん)…免許類、口座名義を変えるため平日1日潰さなくても良いだけでもでかい今回のテーマは「事実婚」である。家族の在り方も多様化してきた、と言ってもわが国では未だに、夫婦別姓や同性婚は認められていない。夫婦別姓を求める側が具体的な理由を述べる一方で、反対派が夫婦やその子どもが別の名字を名乗ることで家族の絆が弱まる、とお気持ちの問題を表明してしまったせいで「絆」のイメージがさらにダウンしてしまった。夫婦別姓裁判の行く末も気になるところだが、それはそれとして絆さんはそろそろ訴訟のためのアップを始めたほうが良いと思う。同性婚についても、同性愛者が同性と結婚できないのは不平等という訴えに対し「同性愛者も異性と結婚できるんだから平等」と返答したことがツイッターで話題になっているのを見かけた。私程度の知能指数なら「もしかして、とんちがきいているのでは?」と煙にまかれてしまうが、多くの正常な方が「何を言っているんだ?」とスペースおキャット様の顔になっていた。そういう「絆派」の方からすると、籍を入れない「事実婚」は「籍を入れないことで夫婦の絆が弱まる」ということになると思う。これに関しては「籍が入っている夫婦たちだ、面構えが違う」といった精神的な面は置いておいて、籍が入っているよりも事実婚のほうが、面倒な手続きが少ないので思い立ったが吉日で別れやすい、というのはあるかもしれない。その一方で、事実婚は籍を入れている夫婦より権利が弱い。内縁関係でもある程度の権利は認められているが、まず「事実婚」だということを認めさせる必要がある。ただ一緒に住んでいるだけでは「同棲」とみなされる場合があり「お互い至近距離で屁をこきあってるから、これはもはや熟年夫婦」と具体的に夫婦関係である根拠を示し、さらに友人知人、周囲の人が二人のことを「夫婦」と認識している必要もあるという。ここで誰かが「囲った愛人のところにオッサンが居座ってるだけと思ってました」と言ったら一気に風向きが変わってしまう。逆に言えば、一緒に住んでなかろうが、屁を遠慮しあっていようが、籍さえ入っていれば「夫婦」であり、権利的にはそちらのほうが強かったりするのだ。このように、結婚にも事実婚にもメリット、デメリットがある。事実婚だと法的縛りが薄い分、我慢がきかずに別れやすいのも、裏を返せば「我慢せずに別れられる」というメリットだ。「結婚は我慢」とは事実だが、「我慢してまで続けるべきではない結婚」もある。つまり、結婚には事実婚よりも「縛りと面倒が多くて身軽ではない」というデメリットがあるのだ。逆に、何かあった時は正当な配偶者としてゴリゴリに権利を主張できる。また「妻です」と「内縁の妻です」では、名乗った時に生じる「間」が明らかに違ったりするだろう。そういった「周りの目」の負担は事実婚のほうが大きい。このように、どちらにも良い点と悪い点はある、そしてどちらが正しいというのではなく、好きなほうを「負担なく選べる」のが、多様化社会ではないだろうか。--------------------------■ザ行【ザ】➤「罪悪感」(ざいあくかん)…浮気を繰り返す人間は謝るけど、これがない【ジ】➤「事実婚」(じじつこん)…免許類、口座名義を変えるため平日1日潰さなくても良いだけでもでかい【ズ】➤「Zoom」(ずーむ)…他人と顔が並ぶことでやはり自分のアホ毛の立ちかたは尋常ではないと気付けた【ゼ】➤「全員片思い」(ぜんいんかたおもい)…中盤、本命じゃない同士がつきあいだして「やっぱ違う」と言って別れる【ゾ】➤「属性」(ぞくせい)…中学生の時「闇属性」を名乗ってなかったヤツとはわかりあえない
2021年02月05日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラム「石井ゆかりの幸福論」が11月から連載再開! 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。今回は、第8のテーマ、自分の人生は「自分だけのもの」なのか。(前編)をお届けします。■8.自分の人生は「自分だけのもの」なのか。(前編)人間のからだには様々な「門」「出入り口」があります。口や鼻の穴、目や耳、汗腺や尿道、肛門、膣など、私たちの身体にはたくさんの入り口や出口があって、外界と常になにかしら、やりとりしています。この「口」がふさがってしまうと、命が危険にさらされます。それに似て、生活・人生にも、様々な出入り口があります。たとえば「がま口」がそうです。お金が入ってくる口と、出て行く口です。性交によって「他者を受け入れる」ことも「ゲート」のテーマです。「入学」「入門」「入居」など、どこかに自分を丸ごと預けるような「入り口」もあります。一方、古来「脱出」「出奔」「脱獄」「家出」など、穏やかでない「出口」の使い方もあります。「コロナ禍」で私たちは、マスクで口を塞ぎ、ウイルスの出入りに常に気を配る状態になりました。出口や入り口は、出入りしてほしくないものが出入りしてしまう危険をはらんでいます。しっかり閉めておかなければ、望ましくないものが入ってきますし、中からどんどん大事なものが流出してしまう場合もあります。とはいえ、閉めっぱなしでは使えないのです。どんなにマスクをして気をつけていても、食事をするときには、マスクを外さなければなりません。マスク自体、呼気と吸気を通すように作られていなければ、私たちは窒息死してしまいます。星占いで用いる第8ハウスは、ホロスコープの「出入り口」のような場所です。その対岸の第2ハウスもまた、ゲートです。実際、古く第2ハウスは「ハデスの門」などと呼ばれました。金庫も財布もきちんと閉めておかなければなりませんが、開かなければ用をなしません。厳重に管理されなければならない「ゲート」のイメージは、古くから星占いの世界に刻み込まれていたようです。私たちの人生は、外界に向かって開かれなければなりません。でも、無防備に開かれっぱなしの状態では、容易に傷つけられ、大切なものを奪われてしまいます。人生の玄関、人生の裏口、人生のがま口。こうしたものを、危機感をもって管理する姿勢を、誰もが持っています。ただ、その危機感の「強弱」は、人によって振り幅が大きいものでもあります。警戒心の強い人もいれば、ユルユルの人もいるのです。また、経験によって、その管理運用の方針は大きく変わります。たとえば、子供の頃の経済的な環境は、大人になってからのその人の経済活動を大きく左右します。性的な問題で傷を負わされた人は、その後長く、「ゲートを閉ざした状態」になることは珍しくありません。外界に向かってデリケートな部分を「ひらいた」とき、私たちは傷を負うリスクを引き受けることになります。そして、実際に、傷を負ってしまうことがあるのです。これは、若いうちだけでなく、いくつになっても起こりえます。ゲートから何が入ってきて、何が出て行くのか。私たちは、ゲートの開け閉めだけはある程度自分でできますが、「門をたたいてくる相手」を、管理することはできません。どんな人に愛を告白されるのか、いつどんな人がオレオレ詐欺の電話をかけてくるのか、自分を口説いている相手は本気なのか遊びなのか、そうしたことを「コントロール」することはできないのです。「何が来るか」ということ自体は、制御不能なのです。私たちにできることはただ、「ゲートを開くかどうか」の判断だけです。オレオレ詐欺の被害に遭った人や、性犯罪の被害者などに「警戒が足りなかった」「やられるほうが悪い」という言葉を投げかける人がいます。「自分さえしっかりしていれば大丈夫」「他の人が引っかかっても、自分は冷静で賢いから、決して引っかからない」と考える人は、驚くほどたくさんいます。でも現実には、そうではありません。人生の「ゲート」を自ら開くとき、私たちは一様にリスクを負うのです。そして、人生の「ゲート」を開かないときも、私たちは人生のチャンスを逃し、ひとりぼっちで苦しみながら生きることになるリスクを負うのです。リスクは、どちらにも存在します。「ノーリスク」で生きることはできないのです。第8ハウスから「幸福」を考えたとき、まず「リスク」というテーマが浮かびます。自分の人生に何を容れ、何を拒絶するか、という判断がそこにあるからです。たとえば、親族からの莫大な遺産を、あえて「受けとらない」という判断をする人がいます。全額を寄付したり、誰かに譲ったりする人は、少なくありません。「受けとることによる、なんらかのリスク」を回避するための判断だったのでしょう。厳しい親の言うことを聞いて、恋愛を一切拒否して育ち、大人になった人がいます。既に十分いい大人になってしまってから、この人は親に「早く結婚しなさい」と言われ、激しい戸惑いと怒りを感じたそうです。一切のリスクを回避するために、「ゲート」を完全に閉ざして生きてきたため、それをどのように開けばいいのか、わからなくなってしまった、ということなのだと思います。ゲートの開き方は、経験によって学び取られなければならないのです。一方、育った環境からの影響で、自尊心が非常に低く、「何でも受け入れてしまう」という人もいます。人からの「求め」や人からの褒め言葉を、渇いた人が塩水を飲むように、ずっとごくごく飲み続けてしまうのです。渇きはおさまらず、心には痛みが蓄積していきます。ゲートが開きっぱなしで、「受け入れることのリスク」が一切回避されないまま、傷つき続けてしまう人は、決して少なくありません。……後編へ続きます。>>次回もお楽しみに(2021年2月25日更新)
2021年01月25日昔、久々に学生時代の友人に会ったとき。「久しぶりー!」と声をかけられても、誰だか全然わからなかったことがあります。「このイベントに参加しそうな私の知り合いって……?」と考えて、やっと「ああ、あの子か!」とわかったのですが、明らかに私を知っている風に話しかけてくる相手に、しばらくの間、ひやひやしながら話を合わせたのを覚えています。10年ぶりくらいだったから、彼女だとわからなかったのかと思いきや、私が気づかなかった理由はそうではありませんでした。10年も経っていれば、老けたり、太ったり、痩せたり、髪型がガラッと変わったりしてわからない、というのはよくあること。なかには、「お直し」をしたから顔が違っている、という人もいるかもしれません。しかし、彼女の場合は、昔と同じ体形で、髪型も昔とほぼ一緒、そこまで老けたなあという印象もなかったのに、それでも気づかなかった理由――。それは、彼女の「顔つき」が変わっていたから。■「なんか、顔、変になってる!」本当に失礼な話ですが、彼女だと気づいたときに私が真っ先に思ったことは、「なんか、顔、変になってる!」老けた、やつれた、整形した、そういうことではなく、何か言いようのない違和感のようなものを感じたのです。確実に以前とは違うけれど、「じゃあ、どこが違うのか?」と言われるとうまく説明できない、おかしな変化。それは、今までの生き様がそのまま顔に出てしまったかのような。今まで積み上げてきたカルマが顔を作っているかのような。もちろん、彼女は悪人などではなく、むしろ私以上に至極真っ当な生活を送っているため、悪行をはたらいたから悪人面になったとか、そういう話ではありません。ただ、昔、よく顔を合わせていたときのことを思い返すと、ある点においてはものすごく自分本位になったりと、少し変わったところもあり、当時は「悪い人ではないけれど、ちょっと付き合いづらいな」と感じていたこともあります。その「ちょっと変わったところ」が、10年分蓄積されて顔つきに現れてしまった、というのが、彼女の変化を説明するのに、一番しっくりくる理由ではないかと思います。■生き方、性格は顔に出る彼女に限らず、ある程度の年齢の人に対して、顔を見ればなんとなくその人の性格が想像できる、ということは、皆さんも経験しているのではないでしょうか?私も、サロンでお客様のBefore・Afterの写真を撮っていて、やはり顔つきと性格の傾向というものを感じます。目元が優しそうな人は、話してみたらやはり穏やかな人だったり、意志が強そうな目の人は、予想通り強かったり、逆に目の奥が怖い人には、朗らかな人なんていないし、口がへの字の人に「あの人、いつも感じがいいよね」と言われる人はいないのです。もちろん、万人がそうだということではなく、性格は顔に出る傾向がある、ということです。そして、こういうときに「全員がそういうわけじゃない! 顔で決めつけるな!」と言ってくる人もいると思いますが、その人は「そういうことを言いそうな顔」をしているのでしょう、きっと。■過去の「業」が自分の顔を形づくるココ・シャネルが遺した名言「20歳の顔は自然からの贈り物。50歳の顔はあなた自身の功績」は、まさにその通りであり、過去の「業」が自分の顔を形づくっているのは確実。因果応報ではないですが、いい生き方・考え方をしてきた人はいい顔つきが、必ずしもいいとはいえない生き方・考え方の人には、それ相応の顔つきがもたらされるのでしょう。だから「あれ? この人って……?」と、なんとなくイヤな感じがした場合は、極力距離を置くようにするとか、「人を見た目で判断するなんてよくない」なんて思わず、自分の感覚に従って行動した方が無難です。また、そのジャッジは自分にも下されている、と肝に銘じて、自分の普段の顔つきを意識することも必要。今、これを読んでいるこの瞬間、あなたはどんな顔をしていますか?※ この記事は2017年8月18日に公開されたものです。
2021年01月10日漫画家として活躍するカレー沢薫さんの連載コラム「アクマの辞典」このコラムは、ア行からワ行まで、女や恋愛に関する様々なワードをカレー沢さん独自の視点で解釈していきます。女の本性をあぶりだす新しい言葉の定義をとくとご覧あれ!■第71回アクマの辞典ガ行【ゴ】➤「合コン」(ごうこん)今回のテーマはガ行から「合コン」である。合コンと言えば貴重な男女の出会いの場だったのだが、最近では出会いを求めるなら専らアプリで、「合コンはオワコン」などとささやかれているそうだ。この、全く無意識に「このカレーは辛れぇ」と言ってしまい意図せずスベるという構図が完成している時点で合コンは終わっている。しかし、合コンは終わった、と言うものの、合コン世代であろう中高年に聞いてみると「合コンをしたことがない」という、終わる以前に始まってなかった層がかなり多いのだ。おそらくこれが、合コンが終わり、アプリが主流になった理由だろう。まず、私の近くにいる人々、つまり、私が「合コンしたことあるか?」と聞けるような連中は、全員非リア充である。要するに、合コンというのは開催するまでに万難がありすぎて、非リアには無理なのだ。そもそも「合コン」とは何かというと「合同コンパ」の略だ。コンパとは飲み会という意味で、「二つのグループ」が出会いを求めて一緒に飲み会をするから「合同コンパ」と言われている。その「二つのグループ」を用意するのが、どれだけ大変か、という話である。まず「一つのグループ」に所属するのすら難しく、体育の時間に「三人組を作れ」というミッションを「先生」というカードを使わずにクリアできたことがない人間に「二つのグループ」など無茶がすぎる。ただ、合コンとは「二つのグループ」を一人で用意するものではないと思う。おそらく異性の友人などに「こっちは女の子集めるから、そっちは男集めてよ」とやるのが、スタンダードな合コンのセッティング方法だと思われる。しかし、この「異性の友人」という存在がまずイマジナリ―なのである。仮にいたとしても「メンツを集められる友人」である可能性は低い。学生時代、自分と同じタイプ同士で固まることにより、教師の家庭訪問を回避する人間で構成されたグループというのは、全員コミュ症で交友関係が狭いため、合コンをセッティングできる人材などほぼ皆無なのである。つまり「合コン」というのは選ばれし者しか利用できない出会いの場なのだ。それに対してアプリの出会いツールは誰でも使える、少なくとも利用規約に「まず三人組を作れ」とは書かれていない。また「合コン」というのは何だかんだで近しい人間関係の中で行われるため、トラブリューが起こったら厄介だし、やらかした場合はそれが広まってしまう。その点アプリでの出会いというのは、やり取りが切れればそれまでの場合が多い。出会うまでもそうだが、敗戦処理のコストも合コンよりアプリのほうが圧倒的に安いのである。しかし、出会いのコストが安くなり、さらに選択肢が広がったために「出会いを大切にしなくなってきた」とも言える。「別に、こいつじゃなくてもいいや」とすぐ切られやすくなったということだ。切られないためには「こいつじゃないと」と思われなければならない。結局のところ「高スペックの人間のほうがモテる」という構図はリアルでもアプリでも変わらない。むしろ「年収」などがプロフィールで可視化されていない合コンのほうがまだ優しいとも言える。--------------------------■ガ行【ガ】➤「学生結婚」(がくせいけっこん)…デキ婚であることに触れられたくないときは、こちらを全力でフューチャーする【ギ】➤「偽装結婚」(ぎそうけっこん)…マンガでは恋愛関係になるきっかけだが、リアルではどうしても戸籍をいじりたいときに使う【グ】➤「群馬」(ぐんま)…群馬を「未開の地」と呼ぶなら、「人類未誕生の地」と言わざるを得ない田舎が山ほど出てくる【ゲ】➤「劇団員」(げきだんいん)…美容師やバーテンダー的には、頭文字がBというだけで、こいつを差し置いて「つきあってはいけない」扱いされるのは納得がいかないのではないか【ゴ】➤「合コン」(ごうこん)…1回でも参加したことがあると言うと「お前あっち側の人間かよ」扱いされるので注意
2021年01月05日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラム「石井ゆかりの幸福論」。 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。前回に引き続き、第7のテーマ「パートナーシップ」と幸福。(後編)をお届けします。▼ 7.「パートナーシップ」と幸福。(前編)はこちら■7.「パートナーシップ」と幸福。(後編)「私は結婚に向いていない」「結婚に興味がない」と言いつつ占いを求める人の言う「結婚」は、「世間的に言う結婚」のことだろうと思います。「世の中一般にイメージされるような『結婚』」「保険やハウスメーカーのCMに出てくるような、ステレオタイプの『結婚』とその役割概念」に、「興味がない」のでしょう。「自分に何らかの形で『合う』と思える誰かと、人生の一部を共有して、助け合って生きていく」ということなら、もしかしたら、「興味がある」と感じられるかもしれません。心の片隅にそうした関心、あるいは仮説があるからこそ、こうしたご質問を寄せられたのではないかと思うのです。もちろん、全ての方がそうだというわけではないと思います。ご相談にはそれぞれ、共通する部分がある一方で、まったく誰のものとも重ならない、とても深いものが含まれているからです。たとえば「同性愛でなくとも同性同士で結婚できる世の中になるべきだ」という考え方があります。これは、結婚制度というものを考える上で、とても大事な発想だと思います。パートナーシップとは、ただ、人が人と、協力し合って生きていくことです。そのことに、部外者が何の意見をはさめるものでしょうか。パートナーシップは、「創造」されねばならないのです。どこかにあるテンプレートに、無自覚に自分をはめ込むような「結婚」は、危険なのです。サイズも見ず、試着もせずに、かたい革靴を買うようなものです。パートナーを得ても、ちっとも幸福になれない人もいます。いわゆる「モラハラ」や「DV」「ワンオペ育児」など、パートナーによって不幸になる人も、たくさんいます。その一方で、パートナーと生きていることがなにより幸福だと感じる人もいます。この違いは、どこにあるのでしょうか。パートナーシップを結ぶことで幸福になるには、おそらく、いくつかの条件が必要なのだろうと思います。そして、その条件もまた、全ての人に当てはまるというものではないでしょう。「誰にでもぴったり合う靴」が存在しないのと同じです。ただ、こんなことを私は想定します。パートナーシップによって幸福になる条件のひとつ、それは、お互いの関係の中で、「缶詰が開く」体験があることです。人の心の中には、固く閉じている場所がたくさんあります。でも、閉じた場所の中に格納されたものは、そのままでは成長しないのです。ナカミが腐敗して膨張し、どうにもならなくなることもあります。そして、その「閉ざされた場所」「缶詰」を、一人で開けることは、なかなか難しいのです。ある人と出会い、生きる時間を共有する中で、その「缶詰」のようなものが開きます。中にはそもそも「隠しておきたかったもの」「触れたくなかったもの」が入っているので、ちょっと困った事態になる場合も、よくあります。自分一人では状況を収拾できず、出会えたその人に手をかしてもらうことになります。そのとき、幸福に向かうためのパートナーシップが結ばれます。白雪姫のガラスの棺が壊れる瞬間、鉢かづき姫のかぶった鉢が壊れる瞬間、シンデレラの片方の靴が脱げてしまう瞬間などは、まさに、「缶詰が開く」瞬間です。これらは初潮や破瓜のメタファーだと解釈されることも多いようです。でも、それ以外にも「バランスが崩れる」「缶詰がふくれてはじける」瞬間は、人生の中でたくさんあります。私たちが成長を重ね、他者と巡り会ったとき、なんらかのきっかけで、心の中で閉ざされていた部分が開かれます。それは一見、トラブルのように見えることもしばしばです。ですがその瞬間にこそ、奇跡のような「関わり」が生じ、新しい人格と関係性が生まれ出すのです。こうした体験は、人生の中でたった一度のことではなく、何度も繰り返されていくことなのではないでしょうか。「美女と野獣」で野獣の顔から王子の顔に変わる瞬間や、おやゆび姫が死にそうなツバメを介抱するくだりなどは、「一人では収拾できなくなった状況を、助けてもらう」体験に重なります。内なる弱さや醜さが現れ出ても、それに向き合ってくれる「誰か」が現れたとき、私たちは相手を初めて、「もう一つの自分の生命」として認識し始めるものなのかもしれません。そんなことは怖くてできない、と思われるでしょうか。でも、時々「心の機が熟す」と、そんなことが自然に起こる場合も、少なくないようです。>>次回もお楽しみに(2021年1月25日更新)
2020年12月25日漫画家として活躍するカレー沢薫さんの連載コラム「アクマの辞典」このコラムは、ア行からワ行まで、女や恋愛に関する様々なワードをカレー沢さん独自の視点で解釈していきます。女の本性をあぶりだす新しい言葉の定義をとくとご覧あれ!■第70回アクマの辞典ワ行【ワ】➤「笑いのツボ」(わらいのつぼ)今回のテーマはわ行から「笑いのツボ」である。付き合うなら笑いのツボが合う人が良いと言われる。しかしこれが「婚活」だったら、笑いのツボの優先順位は28位ぐらいで「好きな牛丼チェーン店」とタイ程度だと思う。なぜなら、どんなに大爆笑ギャグでも、3日間、水と指のサカムケしか食ってない状態では笑えないし、逆にその状況が一番笑えるぐらいだ。「楽しさ」というのは「衣食住」が足りている状態で初めて感じられるものである。たまに、食費を削ってガチャを回したり、同じCDを何枚も買ったりと、生活を犠牲にして趣味を楽しんでいる者もいるが、それは単身者のみに許された自傷行為であり、パートナーがそれでは困る。少なくとも、衣が足りてなくてパパが全裸では、家族で外食を楽しむことも叶わないだろう。婚活で最初に「年収」を見ると嫌がられるが、よほど自分に稼ぎがない限り、そこがダメなら全部ダメになりかねないのだから当然だ。しかし、結婚などの「生活」を考えない交際の場合、「笑いのツボ」はかなりランクを上げてくる。実際「好みのタイプは?」と聞かれて「優しい人」に続いて出てくるのは「楽しい人」であることが多い。これは、細かい話をして好感度を下げたくないヤツや、なぜお前に自分の趣向を明かさなければいけないのかと静かにキレてるヤツ、そしてスゴイ性癖を持っているヤツが質問をかわす時に使う常套句でもあるが、全く嘘というわけではない。生活や将来を考えないという“恋愛エンジョイ勢”なら「一緒にいて楽しいか」というのは最重要事項である。しかし、何をもって「楽しい」とするかは個人によって違う。たとえば「共産主義あるある」などに笑えるかどうかはかなり好みの分かれるところだろう。よって、カップルが一緒にいて楽しいと感じるためには「笑いのツボ」が合致しているに越したことはないのだ。笑いのツボが違うと、一緒にいて楽しくない上、さらに「こっちが面白いと思って言ったことに相手がドン引き」という事故が起こりやすい。“下ネタ絶許勢”と、ウンコとちんちんの話さえしていれば一生笑顔でいられるという“コロコロ勢”とでは、両方が面白くなれるタイミングはなかなか訪れない。大体は片方爆笑、片方ドン引きになりやすく、結果「一緒にいても楽しくない」となってしまうのだ。逆に言えば、笑いのツボより重要なのは「ドン引きのツボ」の合致なのかもしれない。笑いのツボが多少ズレているぐらいなら、他の好きなところでいくらでもカバーできるし、ウンコギャグで笑いたければ、ウンコ友達と笑えば良い。一方、差別ギャグなどの自分がドン引きすることに対し相手が引いていない、むしろそれを面白いと思っている姿を見るというのは一発アウトになりがちである。「笑いのツボの合致」というのは、状況によってかなり優先順位が変動する。しかし「倫理観の一致」だけは“エンジョイ勢”も“婚活ガチ勢”も常に上位に置いておかないと、楽しくない上に、生活も破綻することになりかねないのだ。--------------------------■ワ行【ワ】➤「笑いのツボ」(わらいのつぼ)…同じことで笑えるかより、笑えないことで相手が笑ってるほうが致命的【ヲ】➤「ヲシャマンベ陣屋」(おしゃまんべじんや)…毎回恒例、苦し紛れのヲ今回は江戸時代にあった屯所だそうです【ン】➤「ん廻し」(んまわし)…料理に慣れない男たちが酒肴を持ち寄る落語、自分は何もしないのにホームパーティを開きたがる男よりはマシ
2020年12月05日【元ホステスが語る男ゴコロの裏事情576】女性の中には、彼氏がいなくても、現状に満足している人も大勢いるでしょう。好きで独身でいるなら、自分自身が恋人=「セルフパートナー」もいいのかもしれません。そのほうが、変に結婚に焦っていない分、素敵な恋にも恵まれると思うんです。■ひとりで幸せ=「セルフパートナー」女優のエマ・ワトソンが「今は独り身に幸せを感じている」と、共に過ごす相手がいなくても人生を楽しんでいる自分のことを、「シングル」ではなく「セルフパートナー」と呼んでいました。これ、素直にかっこいいなぁ!と感じたんですよね。そういうふうに、特に彼氏を必要としていなくて、自分の人生に満足しているなら、セルフパートナーでいいんじゃないかな?と。「シングル」というと、ひとりぼっち感が強くて寂しい感じがしますが、好きで独り身の場合、ひとりを満喫しているんだったら、「セルフパートナー」と表現したほうがしっくりくるし、素敵です。男性に依存していない感じがかっこいいですよね。正直、「早く結婚したい」と無理にパートナーを探す人より、独り身に幸せを感じているセルフパートナーのほうが必死感もないので、自然な恋にも恵まれるんじゃないかと思うんです。必死に探し回るより、自然な恋のほうがいい人に巡り合えること多い気がするし。恋活や婚活で焦っているときに限って、心に余裕がないからか、変な男を引き当てたりするじゃないですか?■ひとりで生きる自信がつけば素敵な人に巡り合える?壇蜜さんが結婚したとき、「ひとりでも生きられる自信がついたから、誰かと一緒にいられるようになった」とコメントして大きな反響を呼びましたよね?その言葉が心に沁みた!という女性も多いのではないでしょうか?そう、「経済的にピンチだから早く結婚して、誰かに養ってもらいたい」とか「働きたくないから結婚したい」と、自分で自分の面倒も見られない人、誰かに幸せにしてもらおうと他力本願な人が結婚って……結構危ないんです。自立できていない状態、自分が満ち足りていない状態で、誰かと生活を共にするのは、かなり難しいですからね。逆に、ひとりでも今の生活に十分満足している人、ひとりでしっかり生きている人こそ、結婚向きだし、素敵な結婚ができる印象が。少し前に、筆者の知人が結婚しました。30代後半で、世間的に言えば晩婚です。ですが、気を遣わなくていい素敵な相手に出会えたらしく、すごく幸せそうで。結婚を焦っていなかったからこそ、いい人に巡り合えたんじゃないかなと思います。そう、結婚って「適齢期だから」「周りが結婚してるから」と焦ってするものじゃないですからね。「別にひとりでも生きていけるけど、この人といたらもっと楽しいだろうな」と思う相手と巡り合えたときに、結婚を考えたほうが幸せになれそうです。■まずは自分を幸せにというわけで、ひとりで満足ならセルフパートナーもいいかと。で、素敵な人が現れたら結婚を考えればいいじゃないですか?「結婚したい!」と必死でパートナーを探しまくっても、そうそう、いい人には巡り合えません。だって人ってだいたい「類は友を呼ぶ」で、似た者同士がくっつきますし。心に余裕がある人ほど素敵な人が寄ってくるはず。いつか最高の相手に出会うためにも、まずは自分を幸せにしましょう。
2020年09月20日言い訳をしない生き方のすすめ出典:byBirth気が付くと、口癖のように使っている「でも」「だって」「どうせ」という言葉たち。これらの自分を守るための言い訳をやめることで、あなたの人生はより豊かなものになります。言い訳をする癖がつくと、やっと訪れた成長のチャンスを逃したり、成功への道を自ら閉ざしてしまったりする可能性があります。“言い訳をしない”という習慣はすぐに身につくものではありませんが、毎日少しずつポジティブな気持ちを積み重ね、輝く未来を手に入れましょう。言い訳をしない方法とは?出典:byBirth「成功者は言い訳をしない」と言われますが、どうすれば言い訳をせずに過ごせるのでしょうか?ここからは、言い訳をしない具体的な方法を3つご紹介します。言い訳をしていることに気付くまずは、自身が言い訳をしていることに気付く必要があります。言い訳をしている人は、知らず知らずのうちに「でも」「だって」といったマイナスな言葉を使っていることが多いので、自分の口癖を意識してみてください。日常的に言い訳をしているのか自分では分からない場合は、家族や気心の知れた友人に聞いてみてもいいかもしれませんね。また、声に出していなくても、心の中で言い訳をする癖がついている人も少なくありません。何かが起きたら真っ先に言い訳を考えてしまう人は、このまま読み進めてみてください。「言い訳=損」を自覚する言い訳をすることは、結果的に損をすることになると覚えておきましょう。言い訳をしても現状は変わりませんし、何より言い訳は時間の無駄です。さらに、言い訳をすることで他人からの信用も失うでしょう。人生を変えたいなら、言い訳をするのをやめて現状を打破する方法を考えたいものです。失敗は成長に繋がる言い訳とは、自分が失敗したときの予防線です。あらかじめ言い訳をして、保身に走ってしまうのでしょう。そんな自分に気付いたときに考えたいのは、失敗は成長の糧になるということ。失敗を悪いことだと思っていると、何か問題に直面したときに必ず言い訳をしてしまいます。しかし、失敗することは悪いことではないはずです。「失敗してもいい」「失敗してこそ成長できる」と考えることができたら、言い訳をしない生き方にぐっと近付けるのです。言い訳をしないメリット出典:byBirth続いて、言い訳をしないメリットを3つご紹介します。他にもメリットはたくさんありますが、それはあなた自身が実感してみてください。可能性が広がる「どうせ私は○○だから~」と言い訳をしていると、それ以上の成長は見込めません。自分の能力のキャパシティを理解していることは良いことですが、その言い訳はあなたの成長を妨げているかもしれません。やりたいこと、幼い頃からの夢、憧れ…。それらを諦める必要はありません。言葉ひとつで、あなたの可能性を広げましょう。信用される言い訳をせずに正直に謝ったり、心の内を明かしたりできる人は、他人からの信用を得ることができます。反対に、言い訳をして保身に走る人は、徐々に信用を失うでしょう…。将来のビジョンが見えてくる言い訳をして成長の機会を逃してばかりいると、いつまで経っても将来のビジョンがはっきりすることはありません。自分に言い訳をせず、ひたむきに取り組んでいれば、だんだんとなりたい自分が見えてくるはずです。自分の気持ちに正直に生きましょう!出典:byBirth言い訳で保身したところで、何のメリットもありません。他人の信用を失う上に、自分自身もモヤモヤした気分になるはずです。言い訳をやめるには毎日の積み重ねが必要ですが、まずは言い訳をしている自分に気付き、それを受け入れることが大切です。人生をより豊かにするために、自分の気持ちに正直に生きていきたいですね。
2020年06月03日50代を迎え、さらに輝きを増す羽田美智子さん(51)。「40代までは自分が主役でもいいけれど、これからは相手を立てる生き方を」と思ったことで、「自分にも光が当たるよう」と話します。ドラマの主演を務めながら、今、思うことーー。「隕石が接近して地球滅亡まであと半年、というドラマのお話をいただいたのが昨年の秋でした。そのときは“非現実感”がおもしろそう、と思ったんですが、今、世界中がかつてない混沌とした状況に陥ってしまって。もちろん設定は違うけれど、時代が、地球が変わるときだと痛感しています」そう話すのは、ドラマ『隕石家族』(東海テレビ・フジテレビ系、土曜23時40分〜)で主演を務める羽田美智子さん。彼女が演じる主婦・門倉久美子は、あと半年の命と知り、自分に正直に生きたいと一念発起。「好きな人がいます!」と家族に告白し、高校時代の初恋の人のもとへと走ってしまう。「人生でやり残したことはないか?と考えたとき、久美子にとっては、かつての純愛を手に入れることだったんですよね。その気持ちをまったく理解できないわけではないし、むしろ、純粋に人を愛した記憶を大事にする部分には共感できて、『正直に生きるってどういうことだろう?』と、自身に問い直す機会にもなりました」また、羽田さんは「地球が滅亡するとして、自分にとって本当に必要なものは?」と自身に問い続けたそう。「すると思いのほか、きっとたいしたものじゃないな、って思えたんです。あの世に持っていける財産は、お金や評価ではないだろうし。人を純粋に愛して、愛されてよかった、という記憶くらい。そして、自分がどれだけ伝えられたか、ってことなんじゃないかな。結局は“あきらめる”ということ。ネガティブな言葉に聞こえますが、もともとは仏教用語で“明らかに眺めて物事に執着しない”という意味のようです。近年の自然災害を経験するたびに実感してきたこともあるんですが、極論『命さえあれば、なんとでもなる』、あらためて覚悟を決めたら、強くなれた気がします」“捨てる”選択をしたことで、心がふっと楽になったという。「あと、人生でやり残したことが、案外、何もなかったんです。結婚も離婚も経験できましたし(笑)、大切な仲間とも出会えました。ただ、そう思えるのも、50代になった今だからでしょうね。40代のころは『まだ何もできてない』という焦りの中にありました。人に『ありがとう』と言うばかりで、言われるような生き方をしてこられただろうか、寂しい人生ではなかっただろうか……」そんな思いもあり、5年前、故郷である茨城県常総市が水害に見舞われた際には、まっさきにボランティアに駆けつけた。「地元の同級生との交流が増え、『美智子が頑張っているから私たちも頑張るよ』と言ってもらうたびに、表舞台に立つ者として、同世代を引っ張る責任もあるのでは、と考えるようになりました。その昔、『女は40代までは楽しいけれど、50代からはみじめよ。鏡を見ればうんざりするし、あちこち不調が出てくるし』と言われたことがあったんです。でも『そんなことはない!』と証明したくって。『あとからくる人たちに“50代の希望”だと思われる存在になる!』って、周囲のスタッフたちにも宣言しちゃったんです(笑)」50歳からの生き方を見つめ直し、昨年にはオンラインショップ「羽田甚商店」をスタート。目の奥がビビッと開いた“本当にいい暮らしのモノ”だけを販売している。「50代からは、相手やモノを主役に立てる生き方をしたいな、と思って。自分の性格的に、人のためが自分のためになるだろうし、実際、それによって自分自身に光が当たっているように感じています」「女性自身」2020年5月5日号 掲載
2020年05月01日