ガレッジセール・ゴリこと照屋年之監督が21日、沖縄県内で開催された「島ぜんぶでおーきな祭 第16回沖縄国際映画祭」内で行われたトークショーに登壇した。映画『洗骨』(2018)でモスクワ国際映画祭、上海国際映画祭各国の映画祭に出品され、日本映画監督新人賞を受賞、また第8回トロント日本映画祭にて最優秀作品賞を受賞した照屋監督。6年ぶりの長編最新作となる『かなさんどー』が2025年新春に沖縄先行、その後東京をはじめ順次全国公開されることが決定した。トークショーでは相方の川田が映画を撮るようになったきっかけを尋ね、ゴリは「松本(人志)さんが映画を撮られて、元吉本の大崎(洋)会長が芸人さんにも映画を撮るチャンスをあげたらどうかということで、僕は中退したんですけど日芸(日本大学芸術学部)の映画学科だったので、ゴリに短編映画を撮らせようというところで『刑事ボギー』という短編を撮った」と説明。「完成したときのわが子のようなかわいい作品、それに魅了されて、作品も評価をいただいたので、2本目も3本目も撮ってみようかと」と振り返った。そして、「映画ってしんどいんですよ。費用対効果が悪い。寝られないし、頭はパニックになるし、二度と撮りたくないって毎回現場で思うんですけど、作品ができてお客さんが泣いたり笑ったりするのを見ると、次も撮りたいって、僕14作品撮っているんです。映画を撮っていると知られてないのにやめなかった。撮る喜びがうれしすぎて。喜びのほうが大きくて、今まで撮り続けています」と語った。その後、『かなさんどー』の製作発表も行われ、照屋監督に加え、松田るか、堀内敬子、浅野忠信、Kジャージ、主題歌を手掛けた前川守賢、製作総指揮を務めた福田淳氏が登壇した。
2024年04月21日ガレッジセール・ゴリこと照屋年之監督の最新作『かなさんどー』の製作発表が21日、沖縄県内で開催された「島ぜんぶでおーきな祭 第16回沖縄国際映画祭」内で行われ、照屋監督、松田るか、堀内敬子、浅野忠信、Kジャージ、主題歌を手掛けた前川守賢、製作総指揮を務めた福田淳氏が登壇した。照屋監督の6年ぶりの長編最新作である映画『かなさんどー』は、自身が生まれ育った沖縄を舞台に豊かな風土と文化、そして照屋監督が持つ独自の死生観が織りなすヒューマンドラマ。最愛の母を亡くした娘・美花と、その父・悟と再生を描く。主人公・美花を松田、母親役を堀内、父親を浅野が演じた。2025年新春に沖縄先行。その後東京をはじめ順次全国公開される。キャスト陣は完成した作品を見て感動したと口をそろえ、浅野は「台本も読んでいますし内容を把握していたつもりですが、出来上がりを見たときに、るかちゃん演じる娘に助けられているんだなと実感して、笑わせてもらっていると思ったら最後はすごい切ない気持ちになってとっても感動しました」とコメント。堀内は「両目から太い涙が。どうしてこんなに泣いてしまっているんだろうとわからないくらい熱い涙が出ました。感動的な作品です」と言い、松田も「私もそうで、自分がやっているシーンでまさか自分の目に涙がたまると思わなくて」と涙が出たと話した。松田はまた、「ゴリさんが『時間をかけていいよ。俺らは待っている』と待ってくれるシーンもあって、すごく寄り添って撮ってくださったので、ゴリさんのおかげでのびのびとやらせていただけたなと思います」と照屋監督に感謝。浅野も「出る側の人でもあるので我々の細かい心情もすごく理解してくれますし、役になるために時間をかけさせてくれたり、必要な分だけの時間をくれて、サポートしてくれる監督でした」、堀内も「撮るものが明確に頭の中にあるので無駄なことを一切しない。私たちへの説明もすごく明確で、スタッフもゴリ監督がどういうものに撮りたいか理解され、てきぱきと動かれていて、すごく心地よく撮影させていただきました」と監督ぶりを絶賛した。さらに浅野は、照屋作品の魅力について「監督の持っている温かさとか真っすぐさが映画に注ぎ込まれていると思います」と述べ、堀内は「ゴリさんは芸人であるということもあって、笑いの面でも的確な指示があったので、笑いの部分がわかっていて、グッとくる話なのにそこまで重くならずに、笑いながら急に涙がどっとでてしまう、すごくマジックのような手法を持ってらっしゃるなと。見に来て体験していただきたいゴリさんマジックなのかなと思います」と語っていた。
2024年04月21日沖縄県立博物館・美術館では、2023年11月3日(金)から「YUKEN TERUYA OKINAWA HEAVY POP 照屋勇賢 オキナワ・ヘヴィー・ポップ」(主催:沖縄県立博物館・美術館)を開催しています。本展は、国内外で活躍する本県出身の美術家・照屋勇賢(てるや・ゆうけん)氏の初期作品から初公開となる最新作を紹介し、その仕事の全体像に迫る県内初の大規模な個展です。照屋勇賢 オキナワ・ヘヴィー・ポップ■展覧会概要消耗品の紙袋が、本来の姿である「木」として立ち上がる《Notice-Forest》、琉球王国時代から続く紅型が、現代の沖縄と世界を翻訳する《結い、You-I》、おもちゃの貨幣を用いて、私たちの日常に普及している「象徴」の力を浮かび上がらせる《Monopoly》-。照屋の作品は、heavyとpopが混在する沖縄の現在を投影し、普段私たちが気にも留めない「当たり前」を揺さぶります。それは、あらゆる場所で直面している分断や境界を乗り越えて、これからの世界を共に考えていく未来を想像させるでしょう。■本展のみどころ(1) 照屋は本展に向け沖縄戦をテーマにした新作の制作に取り組みました。沖縄の歴史を振り返り、アイデンティティを考え、希望へとつながる空間となっています。(2) 現在ベルリンを拠点に活動する照屋は、発表の機会は海外が主になります。今回、2018年の上海ビエンナーレで発表した大掛かりなインスタレーションも再現展示いたします。(3) 展覧会会期中に、展覧会のドキュメンテーションを含めたカタログを刊行します。展覧会の記録物のみならず、アーティストブックとして照屋勇賢の世界観を伝える一冊となります。(発行:12月中旬予定)■アーティストメッセージこの展覧会が「沖縄の歴史は今の沖縄に何を語り掛けるか」、歴史を捉え誇りと尊厳ある将来像を探るハートを持ってくれるよう願います。《My Father's Favorite Game》(2018)《Notice-Forest Madison Ave (Tiffany & Co.)》(2021)《コーラス》(2022)《結い、You-I》(2002)■概要展覧会名:「YUKEN TERUYA OKINAWA HEAVY POP照屋勇賢 オキナワ・ヘヴィー・ポップ」会期 :2023年11月3日(金)~2024年1月21日(日)主催 :沖縄県立博物館・美術館特別協力:Yuken Teruya Studio協力 :一般社団法人琉球・沖縄美術コレクション協会助成 :公益財団法人 花王芸術・科学財団、芸術文化振興基金助成事業公益財団法人 小笠原敏晶記念財団場所 :沖縄県立博物館・美術館 企画ギャラリー1・2観覧料 :一般1,200円/高校・大学生800円/小・中学生500円/未就学児無料※障がい者手帳をお持ちの方および介助者1名は当日料金の半額開館時間:9:00~18:00(金・土は20:00まで)※入場は閉館の30分前まで休館日 :月曜日、年末年始(12月29日~1月3日)、1月9日(火)※1月8日(月)は開館■アーティスト略歴照屋 勇賢(てるや・ゆうけん)1973年生まれ。沖縄県南風原町出身。1996年多摩美術大学美術学部絵画科油絵専攻卒業。2001年ニューヨーク・スクールオブビジュアルアーツ修士課程修了。以降ニューヨーク、ベルリン、沖縄を拠点に活動。《告知―森》シリーズをはじめ、紙袋などの日用品を用いながらその意味をずらすことで、普段は気づかない価値観や枠組みなどの問題を作品化する。2002年「VOCA展2002」奨励賞受賞。同年「オールドリッチ現代美術館」新人作家賞受賞。近年の主な個展に「照屋勇賢:On Okinawa、過去と未来からのコレクション」展(2014~15年、ベルリン国立アジア美術館)、「沖縄復帰50年特別企画 照屋勇賢展 CHORUS」(2022年、那覇文化芸術劇場なはーと/沖縄)がある。■沖縄県立博物館・美術館 基本情報〒900-0006 沖縄県那覇市おもろまち3丁目1番1号TEL : 098-941-8200FAX : 098-941-2392ウェブサイト: 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2023年11月14日沖縄出身でベルリンに拠点をおく照屋勇賢による、沖縄では未発表の作品を中心とした個展をホテル アンテルーム 那覇Gallery 9.5 NAHAにて行います。沖縄UDS株式会社(沖縄県那覇市牧志2-16-8 BIT PLAZAビル3F代表取締役社長:片桐雄一郎)が運営するホテル アンテルーム 那覇のギャラリースペース「Gallery 9.5 NAHA」にて、2022年4月15日(金)~2022年8月28日(日)に、県出身で世界的に活躍する照屋勇賢による個展「Unterritorial Territory」を開催します。ANTEROOM(待合室)という空間を活かした、場所性の定まらない中で新たな情景が目に浮かぶ展覧会となります。オープニングに行うプレス向けギャラリーツアー時に質疑応答の時間を設けますので、ご取材をお待ちしております。照屋勇賢個展「Unterritorial Territory 」概要開催期間:2022年4月15日(金)~2022年8月28日(日)時間:9:00~21:00場所:ホテル アンテルーム 那覇Gallery 9.5 NAHA入場無料【22.4.15~8.28】照屋勇賢個展「Unterritorial Territory 」 | ホテル アンテルーム 那覇(HOTEL ANTEROOM NAHA) : 関連催事1)ギャラリーツアー始めにプレス向けにギャラリーツアーを行い、質疑応答の時間とします。日時:4/15(金)16:45-17:15定員:20人(事前申込)参加:事前申込み制、必要事項をご記入のうえ、下記メールアドレスまでお申込みください。【件名】「照屋勇賢個展Unterritorial Territoryギャラリーツアー参加申込み」【内容】参加者氏名、ご所属、メールアドレス、電話番号E-mailアドレス: gallery@anteroom-naha.com 2)アーティストトーク照屋勇賢アーティストトークを行い、展覧会についてご説明します。日時:4/15(金)17:30-18:00定員:20人着席(事前申込/定員に達し次第受付終了/3/24より受付開始)参加:事前申込み制、必要事項をご記入のうえ、下記メールアドレスまでお申込みください。【件名】「照屋勇賢個展Unterritorial Territoryアーティストトーク参加申込み」【内容】参加者氏名、ご所属、メールアドレス、電話番号E-mailアドレス: gallery@anteroom-naha.com 本展のみどころ1)沖縄出身でベルリンに拠点をおく照屋勇賢による、新作、旧作を含めた壁掛け作品を中心に個展を行います。2)沖縄では未発表の作品を中心にホテル アンテルーム 那覇の海に臨み、トラフィカルな空間ならではの展示を行います。3)展示期間中には、照屋勇賢による実際に宿泊することが出来る客室展示の制作を予定しております。作家プロフィール照屋勇賢 TERUYA Yuken1973年沖縄県生まれ。多摩美術大学絵画学科油画専攻卒業後、ニューヨークのスクール・オブ・ビジュアル・アーツMFAプログラム修了。ファストフード店の紙袋や有名ブランドの紙袋に微細な切り込みを入れ、紙袋の中に街路樹などの実在の木をモデルとした木をつくり出す「告知―森」シリーズをはじめ、トイレットペーパーの芯などの日用品や身近なオブジェクトを用い、時にそれらの使用法を変え、意味をずらすことで、日々気づくことのない枠組みや問題を作品化する。照屋勇賢ステイトメントどのホテルの窓から見ても、同じオーシャンビューはない。ホテルの窓の数分だけ海がある。小さな内部空間が、巨大な外部空間を作り出し、内部空間(ホテル)から外部(沖縄)へ出ると、別の内部(沖縄)と外部(日本)が生まれるのです。Unterritorial Territory展の作品のほとんどは、沖縄で発表されたことのない作品です。沖縄の中でも非沖縄的な空間であるアンテルームは、これまで沖縄の中で発表してきたテーマとは異なる側面を持つ作品を発表する機会を与えてくれたのです。日本の中の沖縄は異なる場所、でもルールや法律は適用される、ユートピアでもディストピアでもない、ヘテロトピア、(異なる場所)として作られました。そして沖縄の日本復帰、50年経った今でも続いている。沖縄が日本を映す鏡であるのと同様に、私の作品は、誰もが負けてしまう圧倒的な力を映し出す鏡です。「夜明け」では新しい機能が生まれ変わり、「モノポリー」ではでは重力が不在です。この「他者」性には希望があり、ビジョンがある。もうひとつのヘテロトピアへのビジョン。作品画像広報用図版をご用意しております。画像掲載ご希望のかたは必要事項、画像番号を明記の上、FAXまたはメールにてお送りください。媒体名:発売・掲載・放映日:御社名(ご担当者名):Eメールアドレス:ご連絡先(電話・E-mail):諸注意①掲載時は作家名、タイトル、コピーライト等を必ず表記ください。トリミング、文字載せはお控えください。②記事をご掲載いただく場合には、情報確認のため校正原稿をお送りください。③掲載誌、HP リンク等をお送りいただけますとさいわいです。Notre Dame/Monopoly money, pin, foam/2021タイトル未定/ Monopoly money, pin, foam/2022Dawn series/Photographs chromogenic(c-print)/2008Gallery 9.5 NAHAGallery 9.5 NAHAホテル アンテルーム 那覇 概要施設名:ホテル アンテルーム 那覇住所:〒900-0016 沖縄県那覇市前島3丁目27番地11電話:098-860-5151開業日:2020年2月27日客室数:126室運営:沖縄UDS株式会社事業主:株式会社ASAKA【公式】ホテル アンテルーム 那覇|HOTEL ANTEROOM NAHA : 本件お問合せ先ホテル アンテルーム 那覇 Gallery9.5 NAHA電話:098-860-5151(ホテル代表)メールアドレス: gallery@anteroom-naha.com 詳細はこちら プレスリリース提供元:NEWSCAST
2022年03月24日73年前に、激しい砲火にさらされた場所だとは想像できないほど静かな海。「国立沖縄戦没者墓苑」が建つ摩文仁の丘には、強い日差しの下、穏やかな風が吹いていた――。 3月27日、沖縄に到着された天皇皇后両陛下は、真っ先にその丘を訪れて、東京から持参された白菊の花束を捧げ、拝礼された。 そこで美智子さまが、もっとも長い間、話をされたのが、元沖縄県遺族連合会長の照屋苗子さん(82)だった。 照屋さんが美智子さまと対面するのは、今回で5回目となる。初めて会ったのは、皇太子ご夫妻時代の’87年。2度目は即位された天皇陛下が、歴代天皇として初めて沖縄県を訪問した’93年だった。照屋さんは、このときの思いがずっと心にこびりついていたという。 「父をはじめ家族5人を亡くした私は、終戦時、9歳でした。2度目の対面のときに両陛下から『ご苦労なさいましたね』と、お声をかけられ、涙が止まらなくなってしまったのです」 戦後の混乱、困窮のなか、身を粉にして自分たちを育て、その約20年前に、68歳で亡くなった母・ツルさんのことが心に浮かんだのだ。 「苦労したのは、私じゃなくて母です。なぜ“もっと早く沖縄に来てくださらなかったのですか?”という思いが急に湧き上がってきて……」 その後も、両陛下にお会いするたびに、複雑な思いが湧き上がっていたという照屋さんだが、今回、5度目の面会で、その思いを汲んだようなお言葉を、美智子さまからいただいたというのだ。 「遺族連合会の方たちを労ってくださった後でした。美智子さまが、『覚えていますよ』と話しかけてこられたのです。2度目にお会いしたとき、私が記者の方たちに話して報道された『天皇陛下の沖縄ご訪問は遅すぎました。もっと早く来てくださり、母に直接お言葉をかけて欲しかった』という言葉を、多分、皇后さまはご存じだったのでしょう。私に『お母さまはお元気ですか? よろしくお伝えください』とおっしゃったのです。その日の朝、私は母の墓参りに行って、2人で撮った写真をハンドバッグの中に入れていたのです。美智子さまのお言葉を、直接天国の母に聞かせることができたように感じて、ふっと心が軽くなるのを感じました」 照屋さんは、墓苑に供花されるご様子を拝見して、美智子さまが左足をかばうように、歩かれているのがわかった。 「そのお姿に、これほどお体の悪いときでも、遠い沖縄にお越しになって、亡くなった人たちの供養をしてくださる。その両陛下への感謝の気持ちが、素直に湧いてきました。これまで私の心から消えなかった、もやもやした思いがなくなり、今は素直に、11回も沖縄を訪問していただき、『ありがとうございました』という気持ちになりました」 歴史を背負い、沖縄へ思いを寄せ続ける――。その責務は両陛下から、新天皇となられる皇太子さま、そして雅子さまへ受け継がれてゆく。
2018年04月06日ライトブルーの広大な空から、沖縄の強い日差しがじんじんと照りつける。沖縄本島南部に位置する糸満市の「国立沖縄戦没者墓苑」にも、真夏の日差しが降り注いでいた。ここは、太平洋戦争末期の激戦の地。墓苑には、沖縄戦で亡くなった市民や軍人など、約18万柱もの遺骨が納められている。 納骨堂へと続く石畳で、黒のレースのスーツで正装した沖縄県遺族連合会・元会長の照屋苗子さん(81)は、ふいに立ち止まった。 「この通路でね、ちょうどこの辺りに立って、天皇皇后両陛下をお迎えしたんです。両陛下は車を降りられると、献花台まで歩いていかれ、お花を供え、慰霊の祈りをささげられて、亡くなった方々の御霊を慰めてくださいました」(照屋さん・以下同) 皇太子時代から、戦没者の慰霊の旅を続けてこられた両陛下だが、国内で唯一、一般住民をも巻き込んだ激戦地・沖縄へ寄せる思いは、ことのほかお強いといわれる。 沖縄が昭和47(’72)年、日本へ返還されて以降、両陛下はこれまで10回、沖縄へ足を運ばれ、「摩文仁の丘」や「ひめゆりの塔」などの南部戦跡で、献花・黙祷をささげられてきた。昭和50(’75)年7月には、ひめゆりの塔の前で、過激派に火炎瓶を投げつけられる事件が起きたが、両陛下のお気持ちは揺らぐことはなかった。その後も予定どおりに「魂魄の塔」や「黎明の塔」で頭を下げられ、流れる汗を拭うこともなさらずに、関係者の話を聞かれ、ハンセン病療養所では入所者と談笑された。 積極的に沖縄の人々と交わろうとされる両陛下のそのようなお姿に、沖縄戦で芽生えた反日感情を、少しずつほぐされていった人は多いという。照屋さんも、沖縄戦で10人家族のうち5人を失った遺族の1人だ。長年、遺族会の活動を続けるなかで、慰霊に来られた両陛下をこれまで4回、お迎えし、お声をかけられている。 照屋さんが初めて、遺族会を代表して天皇皇后両陛下をお迎えしたのは、昭和62(’87)年10月24日のこと。昭和天皇の御名代として、国立沖縄戦没者墓苑を訪問された皇太子ご夫妻(当時)からお声をかけられ、照屋さんは、美智子さまのお美しさに目を見張るばかりだった。 「陛下に、『どなたを亡くされましたか?』と、質問されて、『父、祖母、家族5人が亡くなりました』と答えると、『大変でしたね』と。美智子さまも『大変でしたね』と、お声をかけてくださいました。このときは、雲の上の天上界の方にお会いしたという驚きのほうが大きかったですね」 2度目は、平成5(’93)年、平和祈念堂でのことだ。 「両陛下は、前列に並ぶ10人のことを事前に頭に入れられていて、『お父さまを亡くされたんですね』などと、一人一人にお声がけされたんです」 照屋さんは、天皇陛下から、「ご苦労なさいましたね」と、お声をかけられ、ふいに、68歳で亡くなった母・ツルさんのことが心に浮かんだ。そして、涙が止まらなくなった。ツルさんは、過酷な時代を生き抜いてきたというのに、常に穏やかで、面倒見がよく、誰からも慕われた。 「母はいつも『自分のことより人のことをよくしてあげなさい』と、言っていたの。『人のためにしたことは、陰徳となって、子や孫に返ってくるよ』って。私がずっと遺族会やボランティアに関わってきたのも、そういう母の言葉があったからです」 人のために。家族を守るために――。ツルさんの生き方は、いつも照屋さんの指針になってきたのだ。 「苦労したのは、私じゃなく母。なぜ、もっと早く沖縄に来てくださらなかったの?という思いが急に湧き上がってきて……」 涙が止まらない彼女に、陛下は、さらに優しくお尋ねになった。 「(沖縄遺族連合会の)青年部長をなさっておられますね。今、何をなさっていますか?」 それでようやく落ち着いた。 「遺骨収集を頑張っております」 その日、照屋さんは、ツルさんが眠るお墓に行き、手を合わせた。 「お母さん、今日、天皇陛下からお言葉をいただいたよ。お母さんがいただくべきだったのにね。私がいただいたよ。本当に大変だったね。私をこんなに大きく育ててくれて、お母さん、ありがとう……」 それから19年後の平成24(’12)年、沖縄県遺族連合会の会長になっていた照屋さんは、冒頭で紹介した場所で、両陛下をお迎えした。 「雨がザーザー降っていて。お待ちする間、晴れればいいのになぁと、空を見上げていたのを覚えています」 雨がやむ気配もなく、県職員も「今日はお声がけはないです」と、言っていた。ところが、慰霊を終えると雨のなか、陛下のほうからお声をかけてくださった。照屋さんが一歩前に進み出て、頭を下げ、挨拶すると、陛下は穏やかな笑みを浮かべ、「ああ、照屋さんね」と、お隣を歩く美智子さまに二言三言、ささやかれた。美智子さまも、「照屋さんね。前にもお会いしましたね。覚えていますよ」と、ほほ笑みながらおっしゃった。 最後に、陛下が照屋さんに「(遺族の皆さんも)お年を召されているでしょうから、どうかよろしく」と、おっしゃったとき、母のことを思ったときとは違う涙がこぼれてきた。 「遺族の1人として、私は頑張らなければと、陛下のお言葉が胸に迫ってきてね……」 両陛下は、照屋さんと同世代にあたられる。戦争を体験し、強く平和を願いながら、共に年を重ねた世代だ。 「両陛下はずっとお変わりなく、沖縄に心を寄せ、慰霊を続けられ、尽力されてね……。いまはもう感謝しかないです」
2017年07月30日2年前の「慰霊の日」、その年まで沖縄県遺族連合会会長を務めた照屋苗子さん(81)は、「沖縄戦没者追悼式」でスピーチをした。 「沖縄には、いまだに広大な米軍基地があります。米軍普天間飛行場の早急なる県外移設を熱望すると同時に、戦争につながる基地建設には遺族として、反対いたします」 安倍首相はじめ、駐日米国大使が臨席する前での、堂々たるスピーチだった。 しかし、この2年間に、普天間から県内の辺野古への基地移設が進められ、沖縄県民の思いは複雑だ。 「私はやっぱり遺族として、悲惨な戦争の体験者として、戦争につながるものには反対したい。そう思っています」(照屋さん・以下同) 照屋さんは、父・朝清さん(享年44)と母・ツルさん(享年68)の間に生まれた次女で、姉、兄2人、弟2人、妹の7人きょうだいだった。 「首里で生まれて、両親と祖母、子ども7人の10人家族だったの。父は役所の仕事をしていて、優しくてね。囲碁が大好きで、夜はお客さんと客間で囲碁をするの」 そんな生活が一変したのが、首里第二国民学校に通う8歳のときだ。 「学校へ行く途中で、飛行機が見えて。サイレンが鳴ったと思うと、艦砲射撃と爆弾で那覇が火の海になっていたよ」 昭和19(’44)年10月10日、米軍による空襲で、那覇市内は壊滅状態に陥った。翌年4月1日に、米軍が本島に上陸。戦況は悪化するばかりだった。 「4月のある日、日本兵が私たちが避難していたガマ(洞窟)に来て『南部へ行きなさい。食料も小屋もあるから』と言うの。でもね、南部は激戦地なのよ。日本軍にはいい人も悪い人もいた。こう言われて出て行った家の食料を、全部、取った人もいたから」 照屋さん一家も、指示どおり南部を目指したが、そこには食料も小屋もなく、その後は南部の山中を彷徨い、逃げ惑うばかりだった。 「死体が木に引っかかっているのも見た。親が死んで、背中におぶわれていた赤ちゃんが泣いていた。道路には死人もいっぱい。ただただ、踏まないように歩いたね」 6月、糸満市新垣にたどり着いた一家が、岩陰に隠れていると、近くの野戦病院で看護師として働いていた長姉が軍医を連れて、ケガをした弟たちの治療に来てくれた。 「岩陰の外で、治療をしているのを米軍に見つかったのかね。岩陰の中で座って見ていたら、ボボボッという音が聞こえて……。目の前で肉片と血が飛び散ったの。爆弾を撃ち込まれたの……」 気を失った照屋さんを呼ぶ声がした。ツルさんだった。 「母が体をゆすってくれて、意識が戻った。自分を見ると、血の塊と肉片が、ひっついていて……。私はやられていないけど、母がゆすって、その肉片を払ってくれていて」 ぼう然とする照屋さんを、ツルさんは岩陰から引きずり出して叫んだ。 「『ここで待ってなさい!』って。その光景を見せたくなかったんだろうね。母はきっとその場を“片づけて”いた」 姉も祖母も3歳の弟も即死だった。 「そのときだよ。母がね。『ここにいてもどうせ死ぬなら、首里へ帰ろうね』って。私はなんだかうれしくてね。死ぬのを納得していた。私、9歳だったよ」 生き残った家族で、首里を目指し、切り立った崖を下りたが、海上には米軍の船が集結していて逃げ場がない。一家は、隠れていた洞窟を出て、投降したという。 「今は海、奇麗よねぇ~。でも、あのときは海岸に、水膨れした死体があちこちにあったよ。もう、なんの感情もなかったね。戦争は本当に、人の心を変えてしまうんだよ」 照屋さんの長女・知子さん(51)が小学4~5年生のとき、身近な人の戦争体験を聞くという宿題が出た。知子さんが照屋さんに尋ねると、いつも朗らかな表情が一変。驚くほど口が重かったという。自らのつらい体験は、長い間、誰にも話せなかったのだ。 「戦争を体験した人は、みんな、つらいことは、家族に話せていないんですね。だから、下の世代に伝わってないのね」 このことがきっかけとなり、照屋さんは、遺族会の女性部で、戦争体験を次世代に伝える「語り部の会」を開くようになった。 「戦争を知らない若い世代に、その悲惨さ、平和の尊さを語り継がなくてはならない。それが、生き残ったものの使命ですから」
2017年07月30日