Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。保育の授業である質問をされた、きしもとさん。これを読んでいるあなたにとって『子供』とはなんですか?第9回『ちょっとずつやさしくて、ちょっとずつかなしい。』「子ども」を一言であらわすとなんという言葉を思い浮かべますか?保育の授業でそんな質問をされた。はしの席から一人ずつ「かわいい」とか「純粋」とか答えている中で、ある男が「邪悪」と答えた。その言葉は一際目立っていて、ぼくは「たしかに子どもには邪悪な一面もあるかもしれないな、おもしろい視点だなあ」と感心していた。一方、教壇でその質問をした先生は憤怒していた。憤怒なんて言葉を初めて使ったけれど、大げさではなく噴火する勢いで声を荒げて怒っていた。「子どもに悪の心なんてありません!」と。その男の言葉が宙ぶらりんになっていた。なんで「邪悪」と言ったのか、どんな想いや考えがあるのか聞こうとしないその姿勢はいかがなものかと思ったが、必要以上に怒られている当の本人は言い返すことはなく「そんな変なこと言った?」と困惑していた。どこかに隠れてしまったその男の本心を知りたくて、授業が終わってからどういう意味でその言葉を使ったのかを尋ねた。「子どもって悪気なく嫌なこととかするやん?人叩いたり悪口言ったりさ」と、いまだ怒られたことに納得しない表情で話してくれた。「それ、無邪気ちゃうん」と尋ねると「あ、それやわ!」と合点がいったようだった。まわりが子どものキラキラしている姿ばかりを言っている中でその視点を提起したのは素晴らしいなという尊敬の気持ちと、どんな言い間違いしてんねんアホやなという気持ちが入り混じり、「じぶん邪悪やな」と返すと、どう受け取ったかわからないけれど「ほんまや、邪悪やわー」と笑っていた。子どもの言葉と向き合うときに「子どもの言動をどこまで注意したらいいかわからない」という相談を受けることがある。小学生にもなると、どこで覚えたのか耳を塞ぎたくなるような暴言を、たとえば「しね」とか「ころすぞ」とか言うような言葉を軽はずみに使うようになる。そんな言葉を子どもから聞くと、ヒヤリとする。純粋無垢だったはずのその子が、悪に染まっていくようで不安になる。純粋なまま育ってほしい一心でその言葉を禁止したり、その言葉を使ったその子を咎めたりしてしまうけれど、子どもが本当に殺意を持ってその言葉を使っているのかと言えばきっと大体がそうではない。「きらい!」であるとか「むかつく!」であるとか、関西人の使う「あほか!」くらいの軽いノリの時もあるのかもしれない。どこで覚えたのかと書いたけれど、思い当たる節はいくつもある。テレビやネット動画だけでなく、日常で大人も使っていたりする。それこそ軽いノリで。自分の思いを言葉にしようとしたというよりは、まだ語彙の少ない中で相手を攻撃したり、自分のイライラする感情を表す言葉として、どこかで見聞きしたその乱暴な言葉を使うこともあるだろう。ぼくはそんなとき、自分が嫌だなって思ったことなら、それをそのまま伝えるようにしている。子どもの育ちのために、とか躾のためにとかは考えず、ひとりの人としてどう感じたかをそのまま伝える。言われたことが嫌だったなら、「傷ついたよ」と伝えればいい。誰かを傷つけるようなことをしていたら「見ていて気分が悪いよ」と自分の気持ちを話せばいい。必要以上に断罪はしない。表現の方法を間違えているだけだから、その言葉を肯定はしなくても否定もしない。否定したり禁止するということは、その子の感情に蓋をするということかもしれないからね。整理できない思いがあるのならそれを使わないようにするのではなく、その思いを表す言葉を知ることや、その感情との向き合い方を知ることの方が必要だろう。あわせて、その言葉の本心を理解しようとしてくれる存在と、受け止めてもらう経験も。それでもやっぱり根っこの感情が本当に「殺したい」のであれば「死ね」という言葉で正しいんだろうし、もしそうならば、その言葉を他人が否定することはできない。僕たち大人も自分の思いや感情を普段からちゃんと言葉にしているだろうか。そう考えたら、できていることの方が少ない気がする。「仕事いきたくなーい」ってよくいうけど、みんなは言わないかもしれないけど僕は言うんだけど、本当に仕事に行きたくないかといえば実はそうではなく「もうちょっとゆっくり寝たーい」とか「のんびり映画見てすごしたーい」とかだったりする。「細かい雑務がめんどくさーい」とか「あの上司と顔合わせたくなーい」とかかもしれないし、言葉にできなくてなんとなく言っていることだってきっとある。その感情をそのまま言葉にするのって実は難しくって、複雑に絡み合った感情を何か言葉にしたくて目の前のことにそのまま表出したりする。自分の感情をうまく言葉にできないだけでなく、自分の感情自体を正確に理解することもままならないときもある。子どもに「あっちいって!」とか「きらい!」とか「死ね!」と理不尽に言われたときに、本当はチクっと傷ついているのに、どうしてか怒ってしまったり。そもそも、感情を正確に言葉にすることなんかできるのかな。なんだかルンルンしている気持ちを「楽しい」という言葉にするから「楽しい」になる。そもそもルンルンってなんの音かわからないけれど、楽しいという言葉よりもルンルンの方が伝わることもあるかもしれない。もやもやしている気持ちを「悔しい」とか「むかつく」とかいう言葉にするからその感情が形になる。どの言葉にするのか適切な言葉をまだ知らないから、その感情からまっすぐ「死ね」とか「きらい」いう過激な言葉になるんじゃないか。その「死ね」や「きらい」は、「悲しい」かもしれないし「寂しい」かも「痛い」かも「虚しい」かもしれないし、「もやもや」とか「いらいら」とかかもしれないし、この世界の言葉にはない感情なのかもしれない。そんなときに、あなたはそんなこと言う子じゃないって言われたら、そんな思いを持つことはいけないことだって否定されてその思いに蓋をされたら、ぎゅーっと苦しくなる。それはきっと大人も同じだ。たとえばなにかお願い事をされたときにも、大人だから付き合ってあげないとって思わなくても、自分がそれをしたくないのなら断ってもいいのだ。ぼくは仕事だから子どもにお願いされたらよほど無理なことじゃなければ断らないようにしているけれど、仕事じゃないならその断る理由が「疲れた」とか「めんどくさい」でも悪いことではないと思う。ただ、そのときに「断られることも覚えないと」だとか「思い通りにいかないときの折り合いの付け方を学ぶ」とか、その子の育ちのためになりそうな理由を探しそうになるんだけれど、それは必要はない。むしろ、「相手のため」という言い訳は本質を隠すし、本心でもない。自分を守るために相手を引き合いに出す必要はない。相手のためではなく、自分のために自分を守ればいい。「いまは私が使っているから貸したくない」「疲れているから応えられない」ときちんと伝えればいい。「それはやめてね」「傷つくからね」そうやって伝えるだけでいいんだと思う。それでその子のなにかが育つとか考えるのは少し傲慢なんだ。意見の表明をして相手はそれを受け止めた。できる限り自分の本心に近い部分を伝えて、できる限り相手の本心に近い部分を受け取る努力をした。ただそのやりとりが人と人との関係なんだと思う。優しい人だねと言われたら、「そうなのかな」と思うと同時に、期待に応えようと思う。強い人だねと言われたら、弱音を吐いてはいけないような気がする。本が好きだもんね、勉強好きだもんね、優しいもんね、子どもが好きだもんね。その言葉に励まされることもあるし、道を踏み外しそうになるのを踏みとどまらせてくれることもある。けれど、その言葉が呪いとなることもきっとあるんだろう。期待に応えたいという思いとあわせて「そうある自分に価値がある」と思ってしまっていたりもする。言いかえればそれは、期待を裏切らないように、価値がないと思われないように、ということ。自分の役割に徹していると、自分の気持ちが疎かになる。そんな自分の気持ちをなおざりにしていることに気づいていなかったりもする。大人だから、子どもの言うことには傷ついたりしない。親だから、めんどくさいこともきちんとやる。長男だから下の子に優しくする。上司だから、部下だから…それぞれの立場でそれぞれの役割を演じるために、ときに頑張りすぎたりする。それってやっぱりしんどい。だから、優しくない自分もいて良いんじゃないかな。頑張れない自分も、意地悪な自分も、ネガティブな自分も、期待を裏切る自分も。「相手はどんな言葉を望んでいるんだろう」それを考えることはきっと優しさなんだけれど、本当の思いを伝えることでお互いが救われることもきっとある。それは、自分を大切にするということでも、相手を大切にすると言うことでもあるよね。子どもも同じだ。ぼくたちが抱く「子どもは純粋であってほしい」とか「子どもに邪悪なところなんてない」という期待が、子どもも大人もおいつめてしまう。自分にどんな役割があったとしても、自分がしたくないことやできないことは「したくない」と言っていい。それは、自分もひとりの人間であるという、自分が自分であるということ。命を危険に晒すとか突き放すのでなければ、相手を故意に傷つけたりするのでなければ、大人も子どもも一人の人間だ。子どもに対してだけでなく家族にでも友人にでも職場でもそうなんだと思う。当たり前にそれを我慢する必要はない。そんなこと言ったらできる人にしわ寄せがいくとか、みんなわがままになってしまう、と言われるかもしれない。「それはしたくないな、嫌だな」と思っても、それを伝えても、結局はやらなきゃいけないことはある。けど、だからって黙ってなきゃいけないとは思わない。部屋の掃除をしたくないし、洗い物がめんどくさい。だからって「掃除めんどくさーい!やりたくなーい!」と言っちゃダメかといえばそんなことないはずなんだよ。いい大人なんだから掃除するの当たり前でしょう。文句なんか言わずにやれよ。なんて言わないでほしいし、自分が自分をそうやって追い込むのももうやめたい。「めんどくさいよね、明日にしよっか」「まあでもやろっか」「だれかにたのもっか」でいいんじゃないかな。絶対に手を抜けない消毒とかもさ、やるのが当たり前でしょうではなく「めんどくさいよね、けどやらなきゃね」って自分で自分を慰めながらやってる。伝えることって立場によってはとても勇気のいることだから、言えないことが悪いことだということではなくて、自分を大切にするために、自分を追い込む必要なんてないってこと。近しい人に話したり、帰って独り言でも、SNSに吐いてもいい。「ほんとは嫌だったんだよね」「悲しかったんだよね」「むかつくんだよね」とほんとの気持ちを言葉にするだけで、自分の気持ちを大切にできるような気がする。その言葉が少し乱暴でもいいのかもしれない。もしかしたら相手も自分の感情を正確に言葉にはできていなくて、悲しませるつもりはなくて、まっすぐ正確に言葉にすれば関係が良くなることだってきっとあるんだろう。もちろんそんな簡単なことではなくて悪化することだってあるけどね。自分が誰かのその心の言葉を聞いたときに、「なら代わりにぼくがやりますね」って言うかもしれないし、「キツイですよね」って共感するだけかもしれない。けれど「あなたはこうなんだから」「あなたの役割なんだから」「あなたが言ったんだから」って、その思い自体を批判して突き放さなしたりしないように気をつけていたいなと思う。自分の思いや価値観は、人を叩くためのものではなく自分を守るためのものだ。そうやって考えるだけで、少なくとも自分の言葉で誰かが傷つくことはあっても攻撃するという事は減るのかもしれない。僕の文章も、誰かの心に突き刺さる言葉としてではなく、そこらに生えている草花を眺めるような、たまに気になったら摘むような、そんな感覚で読んでもらえていたら嬉しいなと思う。余談ですが子どものころ、たまに会いに来てくれるじいちゃんは、いつもアンパンを買ってきた。ぼくの2つ上の兄の好物だったからだ。じいちゃんがアンパンを買ってくるたびに、ぼくの中でアンパン好きの兄ちゃんというイメージが確立されていき、兄のなかでも「自分はアンパンが好きだ」という意識が強化されているようだった。兄の喜ぶ姿を見てじいちゃんは「やっぱり好きなんだな」と満足げにまたアンパンを買ってきた。そのままいけば相当なアンパン好きになるんだろうと期待できたが、意外にもそうはならなかった。ある日当たり前のようにアンパンを取ってあげたら、「おれ、あんまりアンパン好きちゃうかも」と遠慮気味に兄は言ったのだ。「自分は本当にアンパンが好きなのか、君はアンパンが好きだねと周りに言われるからそんな気がしていたのか、本当は好きじゃないんじゃないか」そんな葛藤があったかは知らない。自分が本当に好きなのはアンパンではなくアンパンが好きな自分なんじゃないかなんて悩む姿を想像すると微笑ましいけれど、当時の幼いぼくはなにか不安な気持ちになった。たしかに好きだったはずなのに飽きてしまったんだろうか、もともと好きじゃなかったんだろうか、じいちゃんはどんな気持ちになるんだろうかと、誰も悪くないのに、寂しいような切ないような言葉にできない気持ちになっていた。その事実がじいちゃんの耳に入ったのかはわからない。そのあとじいちゃんが変わらずアンパンを買ってきていたか、買ってこなくなったのかも覚えてないくらい曖昧な記憶だ。けれどたまに、嬉しそうにアンパンを買ってきたじいちゃんと、突如アンパンに別れを告げた兄を思い出す。みんなが優しいのになぜか悲しい。なんだか少し切ないけれど、誰かひとりがしんどいではなく、みんなが優しいからみんなが少しずつ悲しいのなら、そのほうがいいのかもしれない。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2020年09月13日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。ふとした瞬間、大人は子供から『気付き』を得ることも。きしもとさんは、子供たちと触れ合っていろいろなことを学んだといいます。第8回『とけたアイスは 冷たいジュースに。』子どもが折り紙をしていた。何を作っているのか聞けば「まだわからん。折ってたらなんかできるかなと思って」と返ってきた。折り紙というのは完成形があってそれに向けて折るものだと思っていた。「なんかできるかな」と当てもなく折って楽しむのか。自由でいいなと思った。同時に、野暮なこと聞いたなとも思った。子どもの活動を深めようとしてかけた言葉が逆に邪魔しているような気がして、言い訳するように「いいね、何ができるか楽しみやね」と返した。しばらくしてから「ほらな、適当にやったらなんかできる思ったら、やっぱなんかできたわ」と出来上がったものを見せてくれた。たしかに適当に折ったとは思えない、それっぽいものができていて感心した。なんだろう?ヨットのようにも見えるしリボンのようにも見えるな…と正解を探しそうになって慌てて「ほんまや、すごいなあ。適当にやったらなんかできるんやな」とその子の言葉をそのまま借りて、本心を伝えた。隣で見ていた子が「それなに?」と尋ねた。やっぱり気になるよね、と耳をそばだてていると、その子は「なんか!」と答えた。なんだ、なんでもない「なんか」だったのか。ああ、やっぱり僕の想像なんか飛び越えてて素敵だなとあらためて思った。折り紙や工作をしていると、その作ったものでごっこ遊びが始まったりする。お店屋さんをしたり、学校ごっこをしたり。そのごっこ遊びが発展するとそれを広げるためにまた、例えばお金だったりバッグだったり、さらに新しいものを制作していく。小学生にもなってごっこ遊びというと「幼稚っぽい」と心配されるけれど、意外とそんなことはない。子どもの発達や育ちに大きく関係していて、社会性や創造性を育む重要で質の高いあそびだ。学童で過ごす時間は短いため、あそびが盛り上がり始めたタイミングで帰る時間になることがある。そんなときには、次の日に続きをする。しなかったりもする。ある年、2、3年生の子たちがやっていたごっこ遊びが半年ほど続いた。学童にある本を並べて本屋を開いたり自分たちで本を作ったり、絵を描いたりそれをお面にして売ったり、折り紙やイラストを並べてお店屋さんごっこをすることもあれば、レジ自体を作って遊ぶ日もあった。その日その日で、やりたいことや思いついたあそびをして、次第に周りを巻き込んでいく。関係ないあそびをしている男子たちが、手を止めて色紙で作られたバッグを持ってお店屋さんで買い物をする。そんな不思議な風景が見られるようになっていった。ある子が、そのごっこ遊びをそのまま生かして夏祭りをすると言い出した。日程を決めてポスターを貼り、ダンボールで作ったモグラ叩きや輪投げを制作して、景品も折り紙などで大量に作った。僕はといえば、手出し無用とばかりに買い出しリストを渡されて、仕入れ担当に任命された。たまにお面の色ぬりをさせてもらって褒めてもらった。当日は大盛況だった。普段ごっこ遊びに興味がない子でもノリノリで楽しんでいた。お店に並んでいる子が「楽しみすぎてばくはつしそう!」と笑顔を爆発させていた。「ポイントカードはお持ちですか?」と聞かれて、接客応対まで本物みたいだなと感心しながら「持っていません」と答えると「ではお作りしておきますね」と、お洒落なカードを渡された。素晴らしい接客。僕がパン屋の店長だったらバイトに引き抜いているところだ。面白いのが、みんながみんな接客をしたがるわけではなくて、裏で景品を制作したりゲームの仕込みをしている子たちもいたこと。こんなこと言ったらまじめに働いている人に怒られそうだけれど、考えてみれば僕たちが生活している社会も、それぞれの役割になりきっていろんな役を演じている、ある意味ごっこ遊びみたいなものだよな、なんてことを考えたりしていた。あそびがこま切れにならずに地続きであることや、発展して周りを巻き込んでいくことは保育の一つの理想だ。といってもなかなかそんなに上手くはいかず、それは大人の都合の時もあれば移り気な子どもの気分によるところもある。無理に続けさせるようなことはしないから、自然とこんな風に行事に発展したのはすごいと思ったし、次の年に子どもたちが「今年も夏祭りしよう!」と言い出して、下の代に受け継がれながら毎年の恒例になったことも、なにか成功しているように感じた。そうすると、どのあそびもなにか成果の見えるものに向けてされるべきなんじゃないか、と期待してしまうようになる。ゴールに向かってやらないと意味のないような気がする。子どもたちが意味のわからないあそび(あくまで僕には意味のわからないという意味)をしているのを眺めながら、どこに向かって行くんだろう。と考えていた。どこに向かうにしても楽しそうだなあと思った。あれ?どこかに向かわなければいけないんだっけ?と考えた。そもそもあの夏祭りが完成形なんだろうか?夏祭りがゴールで、そこに向かうまでの活動は「準備期間」なんだろうか。きっとそうじゃないよね、と思い直した。はじめの折り紙でもう完成しているんだ。その日その時に夢中になっているその瞬間が、どこに向かっているでもないけれど、そのいまで完成している。それがどんどん広がって形を変えていく。あの夏祭りは、その日々がたまたま積み重なって、たまたま目に見えるものになっただけだった。未完成のものを完成に近づけようとすると足りないピースを埋めることを考えてしまうけれど、もう完成しているものが形を変えて育っていくと思うと、その時その時の姿を大切にできるような気がする。夏祭りが恒例となった何年目かの夏、進捗を尋ねると「まだ全然準備できてへんねん、へへへ」と笑っていた。それはサボっていたのではなく、いま楽しいことに忙しいのだろう。自分にできないことは、足りていないのではない同僚から「仕事できる人を見て、自分は全然できていないなって思うんです」と相談を受けた。その「仕事できる人」といわれている職員も、同じようなことを言っていたのを僕は知っている。隣の芝を見て羨ましがるというよりも、引け目を感じることのほうが多いらしい。あの人にできていることを自分はできていない。自分には持っていないものを持っている人を見ると、それが正しい姿のように感じて自分ができていないように思ってしまう。もともといる自分に足りてないものがあるような、例えるならパズルのピースが一つ欠けているような気がしてしまう。あの人は持っているけれど自分は持っていない。できていない。そんなことを思い始めたら、いろんな人と自分を比較して、パズルにはどんどん虫食いが増えていく。子どもを見る時もそうだ。ついついできないところに目がいって、足りないように感じて、それを埋めることや隠すことに必死になる。それが成長や教育と呼ばれたりもする。それってとてもしんどいことだよね。だからね、少し見方を変えようと思う。もともと完成していて、なにか特別にできることはトッピングみたいなものなんだと。仕事が早い、コンピュータに強い、英語が話せるとか足が速いとか。いや、特別にできることだけではないかもしれない。言葉を喋れるとか、歩けるとか、もっと当たり前だと思っている、耳が聞こえるとか目が見えるとかもそうかもしれない。うまくできるようになって完成するのではない。もう完成している。何かできることは特別なことで、それができないからといってダメなのではない。仕事が早い人を見て、「自分はなんで仕事が遅いんだろう」ではなくて、あの人は特別な力を持っているのだと思うようにする。誰かの得意を自分ができないからと言って、それは自分の「苦手なこと」ではないのだと。ただその人の得意なのだと。自己肯定感って、できる自分を誇れることでも、できない自分を認めることでもなく、今の自分の姿をそのまま肯定できることだ。難しいけれど、それができるようになりたい。あの人はなんでできないんだろう、と思ってしまう時も、「あいつ出来ないな」ではなくて、自分やるやんって思えたら。自分が当たり前にできていることでも自分が少し特別なのかもしれないと思えたら、自分も相手もしんどくないよね。今までの時代は、みんなができて当たり前だった。同じことを同じように。だから、できないことを欠点と呼んでいた。けれど、これからの時代は「みんなができなくて当たり前」でいい。みんなができなくて当たり前というのはできない状態が普通だということ。そしてそれぞれの「できること」は優れていることではなく、その人の一部として認めていく。みんなができて当たり前のことなんてないんだって知ると、できている人を見て同じようにできていない自分に引け目を感じることは少なくなるんじゃないかな。ぼくはあまり何かに挑戦したことはない。就活も受験勉強もほとんどしてこなかった。だから、何かに向けて必死になることも何かに失敗して絶望することも、それをしてきた人と比べて経験が浅いと思う。それでも、こんな未来のはずじゃなかったのになって思うことはある。失敗とまではいかなくても、思っていた未来とは違っていると、やっぱり落ち込む。その先に見ていた世界が見られないことはやっぱり悲しい。あるかもしれないと思っていた道がないことを知ると、みんなは進んでいるのに自分には進めないのかと、希望を持っていた自分は大した人間じゃないんだと思ったりする。「けれど、今の目の前のことは何も変わっていないじゃない」と友人が言った。挑戦して失敗したとしても、思っていた未来にならなくても、いま十分生きていて幸せで、それはなにも失くならないじゃないかと。たしかに、これから期待する未来がこなくても、いま大事にしてるものや幸せであることは変わらない。挑戦して失敗しても、減りはしないのかもしれない。ならなおさら、いま充たされていることが、なにかになるための、どこかに向かうための大きな礎となるのだろう。余談ですが子どもがアイロンビーズを作っていた。なにを作っているのか気になって見ていると、それを察したのか「イヌ作ってるねん」と教えてくれた。しばらくして完成したものを見せてくれた。「イヌ、かわいく作れたやん」と伝えると「ネコやで」と返された。あれ?イヌって言ってなかったっけ?と思っていると「イヌ作ってたけどネコみたいになったから、ネコにしてん」と教えてくれた。自由で素敵だなと思った。そんな風に生きていけたらいいな、とネコになったイヌを見て思う。目指したり憧れていた人生でなくても、思いもしない生き方になっても、「イヌを目指してたけどネコもいいかなって思ってん」と生きていけたら。そうやって生きていけるように子どもたちを受けとめられたら。「これ、あげるわ」と、さっきのネコと同じサイズのアイロンビーズを手渡された。ぼくが異動で会わなくなるから餞別らしい。ピンクの顔に耳が生えていて目と鼻が色を変えてつけられている。ウサギだな、と思っていたら「ウサギを作っててんけど、ブタみたいになったからブタやで」と、面白いのか照れてるのかわからない笑顔で教えてくれた。「ウサギに見えるよ」とは言わなかった。ウサギのつもりがブタになった。それを知ったらなんだか、そのピンクのブタが急に愛らしく見えてきた。先日、6歳の友人と出かけた時に、暑かったので自販機でアイスを買った。17種類ある中からソーダ味のシャーベットを選んだ。吸って食べるタイプのやつだ。はじめのうちは固くて出てこないからと絞り出すようお願いされた。しばらくしたら暑さでとけてほとんど液体になっていた。「溶けちゃったね」と言うと、「溶かしてジュースになるのが美味しいねん」と言っていた。アイスを食べてるつもりだったのに途中からジュースを飲んでいた。ぼくはなぜだか、ブタになったウサギのことを思い出した。空になった容器をゴミ箱に捨てるよう促すと、「こんなにきれいなのに捨てちゃうの?」と悲しい顔をした。ぼくが笑っていると、容器にキスをしてゴミ箱に勢いよく放り込んだ。意味がわからないけどおかしくって、ぼくはきっとずっと忘れないだろうなと思った。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2020年08月15日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。新型コロナウイルス感染症の感染拡大によって、日常が壊れた学童保育所。そんな中で同僚が漏らした言葉は…。第7回『たからくじが当たらなくても。』「余裕がないと人が出るんですかね。自分の性格めちゃくちゃ悪いって思いますわ」と同僚が漏らした。ああ、ぼくも同じことを思っていた。こんな保育がしたいんじゃないのに、口ばっかりじゃないか、自分はこんなにダメな人間なのか。この数ヶ月ずっとそんなことを考えている。ぼくの務める学童保育所は、「日常の忙しさ」という点で言えば教育・保育業界の中では余裕のあるほうだ。「だから楽だ」ということではなくて、余裕があるからこそ質の高い支援を目指せると思ってやっている。それが、コロナ禍によって崩れた。小学校の休校措置によって、ひとりで家で過ごす子どもたちの受け入れ先として、学童保育所に白羽の矢が立ったのだ。文字通り「緊急事態」のなかで、職員不足、不明瞭な情報と感染対策、体力的・精神的な負担、自分も罹るかもしれない恐怖、見通しが立たない不安…いろんなものが重なり、少しずつ余裕がなくなっていった。普段はゆとりを持って関われていたはずなのに、つい口うるさくなったり丁寧に対応できなかったり、ひどい時には感情的に怒ってしまったりもした。小さなことにイライラしてしまい、子どもたちにつらく当たってしまった時には「自分はなんてダメな人間なんだ」と、反省とは呼べないただの質の低い自己嫌悪に陥った。自分たちがとりわけ大変だった、というような苦労話をしたいわけではない。どれだけ子どもとの関わり方や知識を深めていても、普段から気をつけていても、余裕がないと“なににもならない”のだと思い知ったという話。子どもと向き合うことも、丁寧に関わることも、ぼくが「できた人間」だからできていた訳ではないのだ。たまたま余裕を持てる環境だったからできていただけなのだ。やらなきゃいけないことが増えることよりも、余裕がなくなることのほうが精神的に追い込まれていく。今まで無理なくやれていると思っていたことでも、ただ余裕がなくなるだけでうまくできなくなることがある。「余裕がある」ことを、ハンドルの「あそび」に例えた話を聞いたことがある。ハンドルを回したときにすぐにタイヤが動いてしまわないようになっている、その少しの余裕があるからデコボコした道でもまっすぐと走れる。頑張りすぎるなとか型にはまるなという文脈だっただろうか。とにかく人生にもあそび(余裕)が必要だ、という話だったような気がする。なるほど、たしかに人生に余裕は必要だ。けれど、それは「まっすぐ走るためにあったほうがいい」ハンドルのあそびなんかではなく、「ないと走れない」ガソリンなんじゃないのか。「ないと故障してしまう」エンジンオイルかもしれない。車に詳しくないので、例えが合っているのかわからないけれど、ようは、余裕は「あったほうがいい」ではなく「ないといけない」ものだった。子育てを始めてから「自分がこんな人間だと思わなかった」という悩みを抱く人がいる。やらなきゃいけないことが増えて、余裕もなくなる環境なら、なおさら今までの自分ではいられないだろう。あまり怒ったりしないとか、穏やかに人と接することができるというのは、その人がもともと持っている素質ももちろんあるだろうけれど、多くは環境によって「そうしなくてよかった」だったり、「そうあれていた」だけだったりするのかもしれない。余裕がなくなった時に出てくる自分って、「人が出る」という言葉の通り「本来の自分」なんだろうか。その人の本性が出る、とういう言い方をするけれど、そもそも本来の自分なんてあるんだろうか。そのときの環境、もちろん周りだけでなく自分のコンデションも含めて、その時々の自分がいるだけなんじゃないか。そのときの「今の自分」が、自分が描いている理想とは違って「自分はダメだ」なんて思ってしまうのかもしれない。うまくやっているように見える人を見て、自分はあんな風にできないと劣等感を抱いてしまうけれど、その人はそういう環境にいるだけかもしれない。つらく当たる人を見て、あの人はダメだと言いそうになるけれど、いま余裕がない環境にいるのかもしれない。自分がいまこんななのは、全然ダメだなって思っているいまの自分は、「ダメな人間」なんじゃなくて「いま余裕がないから」なんだきっと。それが言い訳だとしても、なんとかそう言い聞かせて、いまどうにか文章を書いている。そういえば、今まで一度でも100点の保育をしたことがあるんだろうか。と少し考えてみた。理想通りの、一片の過ちもない完璧だったといえる保育があっただろうか。無いかもしれないな。測れるものではないから主観になってしまうんだけれど、主観ってだいたい自分に甘いはずなのに無いって言えるから間違いないんだろう。それは自分が謙虚だとか、「今に満足しては成長できない」というような向上心の類ではないと思う。わざわざ考えることでもなかった。ずっと前から分かっていることを確認するように、今さらながら「100点の日、そんなものは存在しないのだ」ということに気づく。理想のとおりってなんだろう宝くじが当たったらなにがしてみたい?路線バスの一番後ろの席に座って祖父と話したのを思い出す。たしか、千里中央という大阪市街から少し外れたニュータウンの駅にあるスターバックスでコーヒーを飲んだ、その帰りだったと思う。なんでそんな質問をしたのか覚えていない。車内広告を見て思いついたのか、話の間を持たせようとしたのか、はたまたガンを患って余命宣告されていたじいちゃんの残りの人生で何かできないか考えて、浅はかながら質問の答えに「ヒント」を探したのかもしれない。祖父は「ベンツに乗りたいな」と答えた。特別に車好きというわけではない祖父にとって知っている高級車がベンツだったのだろうか、それとも若い頃に男の憧れとして抱いたのを思い出したのだろうか。理由は聞かなかった。ガーデニングが趣味でばあちゃんと毎日デートしている、そんなぼくが知っている祖父のイメージとは違っていて意外だった。他にも、ハワイに行ってみたいとか大きなガーデニング庭園が欲しいとかそんなことを言っていたような気がする。いや、もう10年も前の話だから、言っていないことを僕が勝手に記憶に加えているだけかもしれない。どちらにせよ、どれも、ニートのような生活をしていた僕には叶えてあげられそうにないものだった。いや、宝くじが当たって叶う夢は全部お金にものを言わすものなんだから、そもそもの質問が間抜けだったのだ。じいちゃんは、ガンが治らないまま、そして孫の宝くじは当たらずベンツに乗れないまま、黄泉の国に旅立ってった。その頃何度も「もっともっとやりたいことも僕ができることもあったんじゃないか」って後悔した。けれど、最近思うのが、きっとじいちゃんにとっては満点の人生だったんじゃないかってこと。もっと、って思うのは残ったぼくが勝手にじいちゃんの人生を足りてないものにしているだけで、それって傲慢で失礼なことだよね。じいちゃんは100%を生きたのだ。ベンツには乗れなかったけれど、ハワイには行けなかったけれど、間違いなく幸せだったと思う。じいちゃんとやりたいことはまだまだたくさんあったけれど、それでもやっぱり、その時のぼくも間違いなく幸せだった。子どもたち一人ひとりの姿を見て、感情的にならずに冷静に話をして、じっくりと丁寧に関わる。そんな保育がしたい。専門知識を持って子どもの育ちを焦らずに見守って、何が起きても動じずに臨機応変に的確な支援をしたい。できれば誰も傷つけることなく過ごしていたいし、誰も嫌わずに誰にも嫌われずに生きていたい。それが現実的ではない「理想」なのはわかっている。けれど、だからって、その理想を捨てられるほど諦めがいいなら、「自分なんて」と悩んだりしない。どうせ人を傷つけてしまうから、といって傷つけることに鈍感になっていいのかな。ぼくは嫌だな。理想を捨てるのは現実主義なのではなくて、諦めとか言い訳だよね。だから、理想に向いていられるように、それが実現できなくても「失敗じゃない」ってことにしようと思う。理想通りにいかないのが失敗なら、人生のほとんどが失敗になってしまうもの。子どもの話をゆっくり聞いてあげたいな。けれど忙しくて後で聞くねって言ったまま子どもは帰って行っちゃったな。そんな後悔や反省をばかりをずっと繰り返している。50点とか60点とかの日ばかりだ。減点法ならきっと0点の日だってある。理想に近づいたり離れたり、その時その時で最善の形は変わる。それが100点かもしれないし、50点かもしれないし、目も当てられない点数かもしれない。けれど、それがその時々のその環境で出せる最高点なんだ。それは、諦めでも惰性でもない。これまでと比べて「こんなことができたはずなのに」ということがこれからの生活では特に増えてくると思う。 ぼくはその度にそれを「足りていない日」にして落ち込むのかな。やっぱりいい一日だったって思って過ごしていたいよね。だから、「できたらいいな」っていう思いは大事にしながら、でもそれは「できなきゃダメ」ってことではないよ、と言い聞かせて、雨なら雨で晴れなら晴れでその日できることをして、できなかったことを許してやっていきたいなって思う。余談ですがお寿司を買った時についてくる醤油には[こちら側のどこからでも切れます]という表記がある。あらかじめ切り口が付いていて[あけくち]と表記されているものもある。どちらも力加減を間違えれば中身の醤油が飛んでしまうので慎重に開封する。たまに失敗する。祖父は、[あけくち]があってもハサミを出してきて丁寧に切るような人だった。手がヌルヌルして開けられないからハサミで、とかではなく決まり事のように初めからだ。チャック付きのお菓子もハサミで切るものだから、手で開けた方が切り口が揃わなくて次に開けやすいのに…と僕は思っていた。いつも忘れ物をする僕に「しっかりせんかい」と叱り、20歳の誕生日には[忘れ物をしないこと]を目標にさせられた。僕は一年間その目標を忘れて過ごした。真面目で几帳面な祖父は花を育てるのも好きで、僕が始めて一人暮らしを始めた時にゼラニウムの鉢をプレゼントしてくれた。そして僕はその花をあっさりと枯らしてしまった。ある時「じいちゃんみたいにできへんわ」と溢したことがある。ガサツで忘れ物ばかりして靴下すぐ片方なくなるし花もすぐに枯らしてしまう。昼までぐうたらしてるし、じいちゃんみたいに丁寧に生きられない。そんな自分が少し嫌だなあって思ったりしていた。すると「わしがお前くらいの頃もそんなんやったわ」とじいちゃんは答えてくれた。絶対うそや、と僕は思った。じいちゃんは若い頃もきっとしっかりしていたに決まってる。けれど、いま思ってみる。今じゃない遠い未来、僕もじいちゃんくらいの歳になればあんな風に生きられるかも、って。無理かもしれないけれど、歳をとって余裕ができたならできるかもしれない。そうやって期待してみるだけで、それができていない今を、少しだけ許してあげられるような気がした。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2020年06月30日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。「子供がいうことをきいてくれない」というのは、よくある悩み。そんな時の、きしもとさんの対処法は…。第6回『棚からぼた餅、ベンチからナポリタン。』朝、ラップにくるんだご飯を電子レンジで温める。横着して素手で茶碗に移そうとしたものだから熱さに耐えきれずラップを脱がしたタイミングで熱々のご飯が茶碗ではなく床へダイブする。朝食をとれないまま家を出て鍵を閉めたところで着ているパーカーが部屋着だと気付く。さっきの米粒が裾についていて、さすがにこの格好では出勤できないなと、閉めた鍵を抜かないまま反対に回す。着替えをして部屋の鍵を再び閉めてから階段を降り始めたところで同じアパートの住人と目があったので会釈をする。大きな袋を抱えているのが目に入って、あることを思い出す。前々回のゴミの日から出しそびれて膨れた45L袋を今度こそ忘れないようにと昨晩玄関に置いたのだった。降りかけた階段を一段飛ばしで駆け上る。ごみ収集所に来て本日最大のミッションを遂行した達成感でスキップしそうになったところでポケットWi-Fiを忘れたことに気づく。Wi-Fi環境なしで一日過ごす不便さを考えれば電車一本遅らせても取りに帰るべきか、と考えて踵を返す。ポケットWi-Fiをカバンに押し込みようやく駅に向かって歩き出す。出だし順調とは言い難いけれど雲ひとつない空を見たらいい一日になりそうな気がして大きく深呼吸する。少し冷たい空気が心地良い…あれ?…マスクをしていない。なんてこった。財布は忘れてもマスクは忘れてはいけないこのご時世。さすがに取りに帰らないわけにはいかない。2本遅らせた電車に乗りながら友人からのメールに返信する。朝から散々だったことも報告すると「通常運転で安心するわ」と返信が来た。そうか、これがぼくの通常運転か。たしかにうまくいかないことも平常だと思えばイライラしない。うまく生きられない自分をそのまま受け入れてくれる存在はありがたい。音楽を聞いて気分を上げようとイヤホンを探す。朝、歯を磨きながら出発の準備をしているときに手に取ったイヤホンを、忘れないようにとパーカーのポケットに入れたのだ。そうだ、「忘れないように」とパーカーのポケットに入れたのだった。落ち込むどころかむしろ期待を裏切らない自分に感心する。うん大丈夫、これがぼくの通常運転だ。想定通りにいかないことと向き合うということ子どもに何か行動を促すとき、たとえば移動して欲しいとか片付けしてほしいというときには、指示ではなく「お願い」をするようにしている。強制ではなく、あくまでもお願いだから相手には断る権利があるし、断られたら無理強いはしないようにする。選択できるというのはその子の人権や主体性を尊重する上で重要な要素だ。けれど、どうしても行動してほしいときはある。人手がなかったり時間がなかったり、いずれにしてもこちらの都合なんだけれど、そんなときに受け入れてくれなかったら少し強い口調でお願いしてしまう。そうなったら「お願い」とは表面だけで半ば強制だ。意固地になって動かない子がいて、どうしても説得できないときは最終手段として怒って、ほとんど脅しのような形でむりやり行動を促してしまうこともある。そんな時にふと思う。最終的に拳銃を突きつけて無理にでも言うことを聞かせるのなら、はじめから子どもが自分の思い通りに動くことを前提にしているんじゃないのかって。もちろん拳銃は比喩だけれど、子どもの思いを尊重すると言いながら穏やかに声をかけているつもりでいて、実のところ最後は力でどうにかできると思っているんじゃないか?と。こちらの想定内の内容であれば、その子が選択したことを尊重できる。けれど、想定外のことでも受け入れられるだろうかと考えたら自信を持ってイエスとは言えない気がする。ぼくは「子どもの主体性を尊重しています」とよく言っているけれど、こちらが用意した数ある正解の中から、その子が選んだことを尊重しているだけにすぎないんじゃないか。もちろん危険なことは尊重できないし、選択肢が限られている中でどれにしたいかを決めてもらうことはある。けれど、ゼロからどうしたいかを聞いた時や、子どもが想定していない言動をした時に、本当に子どもの気持ちを受け止めているんだろうか。根っこの部分では子どもを手のひらの上でコントロールできると思っていて、こちらが描いた正解に向かわせようとしているんじゃないか。そんなことを考えたりする。とりとめない話を、たとえば何度も忘れ物をしたとかゴミを出し忘れたとかそんな話をした時に「だから?」と興味なさそうにされると傷ついたりムカッとしたりする。とりとめない話だから取るに足らないと思われても良いはずなのになぜか傷つく。それは、自分の話に興味を持ってくれないとか無下に扱われたというような、相手の振る舞いだけが原因ではなく、自分のなかにも要因があるような気がする。ぼく自身が知らぬ間に相手の反応を予想あるいは期待しているんじゃないかと。こんな風に返ってくるのかなと。ありがとうと言えばどういたしましてと、頑張れよって言ったらお前も頑張れよと返ってくるように。期待に似た当たり前を抱いているのかもしれない。それが明確ななにかではなくても、無意識に何かしらの期待をしていて、そして「思っていた反応と違う」ことにがっかりしているんではないだろうか。期待はしていなくても想定はしている。あの子があんなことをするなんて、あの人があんなことを言うなんて、と裏切られた気分になったら、もしかしたらそれは自分が勝手にその人を想像の中で作り上げたり、自分の当たり前で勝手に期待しているだけなのかもしれない。いつも遅れて来るからとギリギリの時刻にバス停に向かったら、バスが停留所を通り過ぎたところだった。ということが何度かある。いつも遅れるくせに…とは逆恨みもいいところで完全に自分のミスなのにイライラしてしまうのは、遅刻するかもという余裕のなさではなく、想定通りに事が運ばないからなのだろう。朝晴れていたのに帰宅のタイミングで雨に当たる。運が悪いなという気持ちと合わせて、天気予報では降らないと言っていたのに…と傘を持たなかったことを誰かのせいにしたりする。けれどよく考えたら天気なんて自分じゃどうしようもないこと。ある程度の予測はできてもコントロールできないことはわかっている。なのにイライラしてしまうのは、想定外のことが起きたことが気に食わないのかもしれない。いつも乗っている時間に電車が来ない。思っていた言葉を返してもらえない。子どもが言うことを聞いてくれない。そんな時についイライラしてしまうのは「余裕がない」のとあわせて「思い通りにいかない」という要因もあるのだ。それは、わがままという意味ではなく、僕たちは無意識に自分の都合のいいことを想定したり期待したりしているということ。買いたいものが買えたり、食べたいものが食べられたり、誰かが自分のいうことを聞いてくれたり、ある程度自分で思った通りに生きられる経験をしていると、気づかぬうちになんでも努力次第で計画通りに進むと錯覚してしまっていたりするのかもしれない。けれどどうかな。考えてみれば自分の思い通りになることの方が少ないんじゃないだろうか。他人の言動も、電車の発着も、天候も、どんな事象も自分の意のままにはいかない。それを存外忘れがちなのだ。雨が降るかどうかわかっても雨を止ませることはできないように、どんなことも、ある程度予測はできたとしてもコントロールするのは難しいし、それは傲慢でもある。雨が降るなら傘をさすか雨宿りをするように、自分じゃコントロールできないことに一喜一憂するよりも思い通りいかないこととどう向き合うのかを考えた方がいいのかもしれない。相手がどんな振る舞いをしてどんな言動をするか、こちらの用意したものになぞるのではなく、その人の言動をその人のものとして、それを自分はどう受け止めて解釈するのか。例えば子どもの発達段階って、子どもが育つ上での一つの指標となる。何歳ごろにこれができるようになって、何歳ごろはこんな機能が発達してというようなもの。けれど、その通りに育てようとすると個人差があるから求められる子どもはしんどいだろうし、発達段階通りに育っていないと保育者は不安になるし子育てがしんどくなる。じゃあこの発達段階って何のためにあるのかっていうと、その子のそのままの姿をより深く理解するためにある。たとえば誰にでも笑っていた子が、急に泣いたり恥ずかしがったりするようになったときに、顔を識別できるようになったのかな、安心できる存在との違いを認識できるようになってきたのかな、周囲の目が気になるようになってきたのかな、とそれぞれの年齢の発達段階からその子の育ちを前向きに解釈することができる。もうすぐ人見知りの時期だから上手に人見知りできるように脅かしてやろう、なんてことはしない。その子の姿を肯定的に受けとめて育ちに気付くために、知識が役立ってくる。その知識を役立てるためには、その子の姿をしっかりと見なければいけないから、その知識を「期待」ではなく「視点」にして、まるまる受けとめて見守ることが大切になってくる。想定外を当たり前にしてみたら。思い通りにいかないことが当たり前だと思えたら、新しいことや偶然起きたことも発見できるんじゃないかと思うのだ。ここを育てようと思うと、そこが育っているかどうかでしかその子の育ちを見ることができない。自分の思いもしないところが育っているかもしれない、と視点を変えると見えていなかったその子の姿に気づくことがある。大人が意図してなくてもいい。偶然の産物でもいい。その子から生まれたその子の育ちに、僕たちが気づければいいのだ。予定をきっちり決めてその通りに動く方が安心する人もいるから、どちらが良いとか悪いとかではないけれど、僕みたいに毎日ドジ踏んで、出る目がだいたい裏目の人間としては、思い通りにことが進まないのを基準にした方が楽だったりする。自分がうまくいかないたびに、ドジを踏むたびに「自分なんて」なんて思わなくていいように。予定通り想定通りにいかないのは当たり前なんだよって。そんな失敗も笑い話にしたり、そんななかで「よかったね」って思えることを見つけていければ。自分の正しいに固執しないためにも大切なことだと思うから、もしうまくいっているなと感じることが増えたら、それはもしかしたら自分が誰かをコントロールしているかもしれないと思えたら。そんなときは少し気を抜いて、「想定外」が起きることを楽しめるような余裕を持てたらいいな。余談ですがある夏、キャンプに行ったときに一年生の男の子が弁当を一口も食べずにひっくり返してしまった。これからの人生で弁当箱を見るたびに毎回思い出してしまうんじゃないかというくらい、それはそれは落ち込んでいた。半年くらい経ったころ、公園へピクニックに行ったときに同じようなことが起きた。別の子が一口も食べていない弁当箱をひっくり返してしまったのだ。ぼくたちがなぐさめながら代わりのものを買いに行こうと話していると、キャンプで同じ目にあったその男の子が「おれも落としたことあるでぇ〜」と笑って声をかけていた。その子にとって苦い思い出ではなく、笑って話せる出来事になっていることに安心した。同時に、「かわいそうに」となぐさめるのとはまた違う優しさを感じた。うまくいかない、失敗をする、要領が悪い、そんな経験がユーモア次第で誰かを救うこともあるんだよね。休日の昼間、良い天気だったのでコンビニでナポリタンを買い人気のない公園を見つけて食べることにした。蓋を開けて持ち上げようとした瞬間に手を滑らせて見事に地面にひっくり返した。「おれも落としたことあるでぇ〜」というあの子の声が聞こえたような気がした。砂まみれになった麺を容器に戻して、一緒に買ったペットボトルの緑茶を飲んだ。これでぼくも、誰かが弁当をひっくり返した時に声をかけてあげることができる。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter[文・構成/grape編集部]
2020年05月18日子どもが生まれることになり、夫の望みで専業主婦になった私。仕事は特に引き止められることもなく、あっさりと退職。そして出産。子どもの誕生はうれしかったけれど、これまでよりもさらに私自身は、誰からも注目されなくなっていったのです。日々孤独を感じていたからこそ、私は一緒に遊んだり、悩みを打ち明けられるママ友が欲しいと思っていました。ある日、バレエを習っている千夏ちゃんのママに「一緒に習わない?」と誘われて嬉しかったのですが…多くの人から囲まれて祝福された私は、自分が主役になったような気持ちでいっぱいでした。だからこの時、周りのママの微妙な表情、さらに千夏ちゃんママの言葉の意味をまったく理解できなかったのです。今思えばこのときから「ママ友いじめ」の芽は出ていたのかもしれません。\次回は5月3日(日)更新予定です/\人気作家の動画もぜひご覧ください!/ 母ちゃんTVはコチラ チャンネル登録お願いします♪ 【義父母がシンドイんです!】 連載 えっ…困る! 義母からのいらないプレゼント【前編】 義母が夫に「きちんと食べてるの?」発言にモヤモヤ「義実家帰省」妻の仁義なき戦い【前編】 悪気もデリカシーもない義父…私のイライラが爆発する【第1話】 マザコン夫と過保護な義母にドン引き…! 2人のラブラブぶりに血の気が引いた瞬間【前編】 マンガ: べるこ
2020年05月02日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。第5回は、きしもとさんが人それぞれ異なる子育ての価値観について考えます。第5回『知らないからこそ、間違うからこそ。』年度の変わり目、一年が過ぎようとしているこの時期にようやく気づく子どもの姿がある。3月の初め、ある高学年の男の子と公園で遊んでいるのを見て「楽しそうですね」と同僚から声をかけられた。その子を見ると、いつにない笑顔ではしゃいでいた。「いつにない?」本当かなとふと思った。自分が気づけていなかっただけでいつもこんな風に楽しんでいたんじゃないか。高学年の男の子たちは、大人にはあまり依存せず自分たちの世界であそびを楽しんでいる。家でゲームをしたり公園で同年代の子達と遊ぶ方が楽しいんじゃないかと感じることもある。もちろん一緒に遊ぶことはあるけれど、低学年のようにずっとくっついてくるようなことはほとんどない。すると、自然とこちらから声をかけるのが、危険なことやよくないことをしたときに偏ってしまう。楽しんでいる中で「注意してくる人」とだけ認識されたら、話もまともに聞いてくれない。危険なことなら聞いてもらわないといけないから遠慮なく伝えるのだけれど、ふてくされた態度や反論があるとこちらもつい強い語調になってしまう。そんなやりとりが多い男の子だった。あんなに毎日会っていて、この楽しそうにしている姿にぼくはどれだけ目を向けていたのだろう、と思った。全然見れていなかったかもしれないな、と。荒い口調で怒ってしまったり否定するような言い方をしたりした、思い出したくない記憶が蘇り、後悔した。「もう少し優しく接したらよかったなあ」と同僚にこぼすと、「まだありますよ、接する時間」と返された。うんそうだよなと思った。あと一ヶ月、できなかったことを嘆くにはまだ早い。いまからでもできることをしよう、と気持ちを立て直した。子どもとの関わりや子育てについての発信をしていると、共感してくれる人や参考にしてくれる方たちがたくさんいる。ありがたいことに、すごいねと言ってもらえることもある。けれど、その度に自分はそんな人間じゃないんだと逃げだしたくなる。「よく綺麗事が言えるよね、そんな清廉潔白な人間じゃないだろう。今までの失敗が無かったことにはならないぞ」ともう一人の自分が責めてくる。「あの人は間違っている」というような誰かを批判する言葉を聞くと、他人事ではなくその言葉はそのまま自分にも突き刺さる。浅はかな偏見で人を差別したことや傷つけたことがある。保育でも、強い言い方をしたり怒鳴ったり、言うことを聞かせようとしたり、そういった「適切ではない関わり」をしたことがある。体罰を与えて大怪我を負わせたことはなくても、そうなっていたかもしれない状況はいくらでもあったと思う。思い出すだけでこの仕事から離れたくなる。ぼくが今どんな人間になっていても、そのときのその人の傷はきっとそのままだ。なかったことにはできない。たまたまなのだ、いま何もない顔をして保育を語れているのは。当たり前のように子どもたちと毎日関わることができているのは。ぼくの知っているそれと、違うものたちぼくが育った家庭は、父がお茶をくれと言えば母はお茶を淹れる。返事をする母は、どちらかといえば嫌そうな顔をしているので、それはそれで嫌だろうから自分で淹れれば良いものを、父は半ば意地のように自分では淹れない。それについての是非は語れないし語るつもりもない。それは本人たちにしか分かり得ない二人だけの関係だ。ただそういう環境で育ったということは、ぼくも「それがふつう」という感覚を少なからず持っているということだ。良いとか悪いとかではなく、そこから自分の偏見が生まれていたりする。そう自覚しだしたのは成人してからだった。友人の母親が好きな歌手のライブに一人で行くというのを聞いて、不思議に思った。「母親が夜一人であそびにいくの?」と否定的な感情を僅かながら持った。恥ずかいしいことに、その時のぼくはまだ未熟で思慮が浅く世間知らずだった。なにも変なことじゃないのに、自分の知っているそれと違うというだけで違和感を感じてしまったのだ。保育や保護者支援について学んでいたし、実習にも行っていたけれど、自分の偏見や世の中の当たり前と向き合う機会はあまり持たなかったのだろう。ぼくの実家のおでんにはニンジンが入っている。小学校の頃に他の家ではニンジンが入っていないことに衝撃を受けた。そして、大人になってからタケノコのおでんを食べてさらなる衝撃を受けた。自分の経験がすべてで、それが当たり前だと思い込んでしまう。食事は手作りで手間をかければかけるほどよくて、共働き家庭もあるけれど父親が養って母親は家にいるのが普通で、子どもには両親がいて、休日は家族と過ごして、おでんにはニンジンが入っていて。なんとなくそれが当たり前だと思っていた。けれど、こういった「自分の当たり前」って、いろんなことを見て考察して考え抜いた先に見つけた揺るぎない価値観とか考え方ではなく、ただ「ぼくが知っているそれ」ってだけなんだよね。だから、そんな中で感じる他人の「間違い」は「ぼくが知っているそれではない」というだけなんだ。それは、偏見にまみれたものに限らず逆も然りなんだろう。ジェンダー意識が高くて多様性を尊重する環境で育ったとしても、そうでない人を見て「あの人は間違っている」と感じてしまうなら。「自分の知っているそれではない」という、ただそれだけの感覚が偏見となり、気づかぬうちに誰かを追い込んでしまっていたりする。だから、自分の当たり前で人を潰してしまわないように、人の当たり前で自分が潰れてしまわないように気をつけていたいと思うのだ。いろんな方法を、いろんな人がいることを、いろんな考えがあることを、完璧じゃなくていいことを、自分が知らないことがたくさんあることを、まず知ることができたら。多くのことを知るたびに知らないことがどんどん増えて、自分が知っていることは米びつの中にある米粒一粒くらいなのだと知れたら、きっと他の米粒を見て簡単に批判はできなくなる。当たり前だと思っているものに潰されそうになった時に、実はそれは当たり前ではないのかもしれないと知れたら、少し気持ちが楽になる。もし間違っていると感じる言説に触れて許せなかったり、自分は間違ってばかりだと感じて落ち込みそうになったら、「まだ知らないのだ」と思えたらいいな。その人がまだ知らないのかも知れないし、自分がまだ知らないのかもしれない。それは、卑下するという意味ではなくて。「タコは食べものではない」と言う人に「タコを食べないなんておかしい!」なんて怒ったりしないように。ただ、文化が違うのかな、食べたことないのかな、おいしさを知らないだけなんだろうなと思うように。そこでもし、食べてみてほしいなって思ったら、あなたは間違っていますよ、とはきっと言わずに「タコパしようよ」って誘うよねきっと。他のもの入れても美味しいから、一回やってみて気が向いたらタコ焼き食べてみようよって。あ、おでんにしても美味しいよね。生まれたばかりの、まだ価値観とも呼べない感覚を正面から否定されたら、自分の全てを否定されたと感じて防御反応としてその「なんとなくの価値観」に固執してしまうんじゃないかな。いろんなものを見て考えて価値観を作り上げていくのはやめて、自分が「間違い」にならないように「ぼくが知っているそれ」を正解にするための答えを探していくんじゃないのかな。そうなったらきっと、永久に考えが変わることはないんだろう。だから、批判をするなら丁寧にしたい。なんのために、どこに向いてそれを批判するのかをちゃんと考えたい。それは、いい人でありたいからではなく、間違っている自分と、これから間違うかも知れない自分のために。もし「許せない」と思いそうになったら、タコパに誘ってみれたらいいなと思う。いまの自分が10年前のぼくを思い出してそう思うように、これを書いている現在の自分もまた10年後の自分から見たら未熟で、やはり気づかぬうちに自分の当たり前で誰かを傷つけたり追い詰めてしまったりしているのだと思う。自分がもともとどんな人間かを気にしてしまったらもう人生を諦めてしまいそうになる。だから、どんな人間でありたいか、そのために今から何ができるのかを考えることにする。子どもたちを大切にできる保育者でありたいし、みんながしんどくないようになればいいなと思っている。うまくできなくても、その思いは本当なんだ。自分がした言動を変えることはできないけれど、だからこそ何度も間違う自分とともに、埋まることはない穴を自己満足で埋めることはなく、愚直にユーモラスに、できることを重ねていきたいな。いい親でいることはできないかもしれない。いい保育者であることはできないかもしれない。けれど、それでもいいじゃないか。完璧にできないし、100点を取ることはできないけれど、その時その時に最善だと思うほうを選んでいければ。その方法をみんなで出し合えたら。その中から選ぶのは、自分を追い詰めるためのものではなく、追い込んでしまう自分を救うためのものであればいいなと思う。余談ですが冒頭の話から一ヶ月経った3月の末のある日の夕方、公園から学童に戻るときにその子が「まだ遊びたい」と伝えてきた。幸い人手があったので小一時間その子と走り回った。二人で遊ぶこと自体はそんなに楽しくないはずなのに、ゲラゲラと笑っていた。「帰りの匂いがするわ」公園を出た時に、その子がふと呟いた。わかるような、わからないような、けれどその子のそのままの言葉なんだろうな、ああ、いいなあと素直に思った。意味を聞くのは野暮だとわかっていながらも、やっぱりどうしても聞きたくなって尋ねてみた。「終わったなあー寂しいなあーけどまあ明日も学童あるしなあって感じの匂いやな」と返ってきた。ぼくの目に写っているのは生意気なその子ではなく、今日を思いきり楽しんで明日に期待して充たされているような、そんな顔だった。「まだありますよ、その子と接する時間」一ヶ月前に同僚からかけられた言葉を思い出した。穴は埋まっていないかもしれないけれど、救われた気がした。ふいになにかが溢れ出しそうになり、それがこぼれないように、その「帰りの匂い」を思いきり鼻から吸いこんだ。「金曜日の夕方と日曜日の夕方、どっちが好き?」と続けるその子に、そりゃあ金曜の夕方やな。とだけ答えた。君たちのおかげで日曜の夕方が憂鬱になることはほとんどないけどね。【コラム第1回】子育てで『正解』に苦しめられたら保育者が大切にしたいこと【きしもとたかひろ連載コラム】【コラム第2回】子供を注意して「しまった!」保育者が気を付けていることは…【きしもとたかひろ連載コラム】【コラム第3回】「ヘタだからやらない」という子供その理由に考えさせられる【きしもとたかひろ連載コラム】【コラム第4回】子育ての『手抜き』で大切なこと「手を抜いてもいい」ではなく…【きしもとたかひろ連載コラム】[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2020年04月16日初心者から愛好家まで、LIMIAの読者のみなさんに訪れてほしい話題のショップに出向いてくわしくリポート。スタッフの方にも熱く語っていただいています!DIYしてみたくなる、もっと好きになる、そんなお店をどんどんご紹介していきますよ♪一歩入れば、DIY欲がむくむく湧き出す⁉気になるショップをまずはクリック♪【DIYショップ巡り #1】DIYパーツが豊富!ワクワクが詰まった〔エイトタウン〕へ行ってきた!【DIYショップ巡り #2】アンティーク調ツールが楽しい〔DULTON JIYUGAOKA〕【DIYショップ巡り #3】迷ったらこれ!DIYショップ〔tukuriba〕で「今人気の商品」とは?【DIYショップ巡り #4】古き良きアメリカを肌で感じられる〔ACME Furniture 渋谷店〕【DIYショップ巡り #5】自分だけの空間づくりのアイデアがぎっしり〔toolbox ショールーム〕【DIYショップ巡り #6】DIYをもっと身近に!初級者も安心の〔DIY FACTORY FUTAKOTAMAGAWA〕【DIYショップ巡り #7】ひんやりするけど温かい。タイルの新発見ができるお店〔Tile Style 深大寺〕【DIYショップ巡り #8】本物タイルも手軽にDIY!〔D.I.Y.TILE代官山〕に行ってきた!【DIYショップ巡り #9】“溶接”という選択肢をDIYに。〔Fe☆NEEDS 中目黒店〕で体験してみた【DIYショップ巡り #10】DIYer注目!日本有数の「木のまち」新木場で木材の魅力に触れようこれからもDIYが楽しくなるショップをたくさんご紹介していきます。お楽しみに♪
2018年08月25日神社でお参りした際に、社務所でお分かちいただく御神札。ところが、自宅に持ち帰った後に御神札をなんとなくそのまま立てかけているだけ、という人はいませんか?社寺ライターとして活躍する大浦春堂さんによるこちらの連載で、正しい御神札のお祀り方法や神棚のしつらえかたを理解し、自分や家族の幸せを神様に見守っていただきましょう。【神様と暮らす #1】自宅にしつらえる、神棚のキホン【神様と暮らす #2】神棚をつくるときに用意したいもの【神様と暮らす #3】神棚をつくったら気をつけたい4つのこと【神様と暮らす #4】新しい神棚をお迎えするのに必要な「神棚奉斎」とは?【神様と暮らす #5】神棚にお供えする物、お供え後の扱い【神様と暮らす #6】神棚のお手入れ、正しい時期と方法【神様と暮らす #7】引っ越しで神棚を運ぶ方法、新居にしつらえるキホン【神様と暮らす #8】神棚におあげするお酒、お神酒のキホン
2018年07月19日