こんにちは。コラムニストの鈴木かつよしです。以前、筆者が雑貨や医薬部外品を取り扱う商事会社を経営していたとき、震災の被災者の方々にささやかでも自分にできることをしたいと思い、救援物資を送って大変喜んでいただいたことがあります。自分の商売の守備範囲で主に使い捨てカイロやウエットティッシュなどを送り感謝されたのですが、実はそれ以上に喜ばれた意外なモノがあります。今回は、巨大地震に備えて準備しておきたい意外なモノとその活用術についてご紹介させていただきます。●(1)布製ガムテープの使いみちの広さには驚き!自分としては瓦礫やガラス片などの散乱物の除去に使ってもらえればという気持ちで送った“布製のガムテープ”。これが、自分には想像のつかない用途で活躍してくれたことは驚きでした。あとで被災者の方からいただいた手紙によると、避難所で女性が着替えたいときなどに適当なボール紙や模造紙などを布テープで壁にとめて、即席の更衣室が作れる というのです。また、脱臼や亀裂骨折した腕や脚を医師に診てもらうまでの間、とりあえず固定する のにも布製ガムテープが大いに役立ったとのこと。貼ってもまた簡単にはがせるのが布製粘着テープの特長。救援物資の入った段ボール箱にいったん封をして保管する際に本来の用途で大活躍したのはもちろんのことですが、布テープの使いみちの広さには本当に驚かされました。●(2)断水で食器が洗えない状況下で役に立つポリエチレン製ラップ筆者が20代の数年間を過ごした神戸の街が阪神淡路大震災で壊滅的な被害を受けたとき、やはり甚大な被害をこうむった西宮市に住む旧友から頼まれて送ったのが台所で使うポリエチレン製のラップでした。旧友によれば、1月の寒い中で家が倒壊し避難所暮らしになった際に、ラップを体じゅうに巻き付けて防寒着がわりに したところ暖かく、とても助かったとのこと。しかもそれだけではなく、絆創膏がわりの止血用 に使える。それから、思わず「なるほど」と思ったのは水道が破壊されて水が使えない被災地の状況下で食器を小まめに洗うことはできません。でもラップがあればお皿にラップをかぶせた上から食べ物を盛り 、食べたらラップだけ換えて次の食事のときに使うということができますので衛生的です。さらに、ヒモやロープがないときには、ラップを用いて紙縒(こより)のように代用のヒモを作ることが可能です。このようにラップの活用範囲は非常に幅広く、布テープとともに備えておきたいモノであります。●(3)飲料水として備蓄しておいた水が意外な用途に使える?最後に、これは筆者が被災地に送ったというわけではなく、関東地方にお住まいの東日本大震災の被災者の方から聞いたペットボトル飲料水の意外な活用法のお話です。実際に巨大地震に見舞われたとなれば自分の自宅が倒壊しなかったにしても、ライフラインの復旧までには数日を要することが想定されます。水道が止まり、水洗トイレがその機能を果たせなくなった自宅で本震後の数日間を過ごす際、困るのはトイレの流す水ですね。『総務省消防庁』では、目安として1人1日3リットルとして3日分の飲料水の備蓄を推奨しています。これは4人家族で2リットル・ペットボトルが6本入り3ケース分に該当します。その方によれば、いっそのこと10ケース分の水を常時備蓄しておくと、トイレの流す水にもまず困ることはない ということでした。スーパーやドラッグストアーで探せば安いのであれば2リットル1本で60~70円台の水が売っていますので、10ケース分といっても全部で税込み4千円台程度の出費です。ぜひ、消防庁が推奨する量以上の備蓄をおすすめいたします。----------いかがでしたでしょうか。こういったお話は筆者が承知しているものにとどまらず、みなさんからも「こんなモノがこんな役に立つよ」といった情報がありましたらぜひお教えいただければと思います。わが国で暮らす以上、巨大地震に遭遇するリスクは誰にでもあります。みんなで共有いたしましょう。【参考リンク】・災害に対するご家庭での備え~これだけは準備しておこう!~ | 首相官邸ホームページ()●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/福永桃子
2017年05月16日こんにちは。エッセイストで経済思想史家の鈴木かつよしです。みなさんは、愛する旦那さまや奥さまのことを「愛せ」と誰かから強制されたらどんな気持ちになりますか?あるいはお子さんが学校で「親を愛しなさい」「郷土を愛しなさい」と執拗に教育されることを希望されますか?中には「別にいいじゃないか」とおっしゃる方もいるかもしれませんが、ほとんどの人は「余計なお世話だ」と感じることでしょう。実は、そう感じるのはきわめて正常かつまっとうなことで、ノーベル文学賞を受賞した英国の哲学者バートランド・ラッセルは、愛情というものが義務化・強制化に馴染まないことを20世紀初頭の段階で明言しています。今回は愛情が義務化できない理由について考えると同時に、子どもから愛される親というのは実際の生活で何を実践している人なのかということについて見て行きたいと思います。●愛情は自然と育まれてくるものさきほど紹介したように哲学者のバートランド・ラッセルは1926年の著書『教育論』の中で、『愛情は義務として存在できるものではない』(“Love cannot exist as a duty”)と明言しています。その理由についての詳述をラッセルはあえて避けているように見えますが、筆者が読み解くところでは、「愛情はお互いの関係が良い場合に自然と育まれてくるものだから強制したり義務として押しつけたりすることに意味がない 」と言っているように思えます。その根拠は同著の中でラッセルが述べている次のくだりです。**********『親が子供に対して「両親や兄弟姉妹のことを愛すべきだ」と言うことは、有害なことだとまでは言わないが、まったくもって無益なことだ。親が「子供から愛されたい」と望むのであれば子供がもっている内なる愛を誘い出すような不断の行動が必要なのであって、また子供が豊かな愛情を生み出せるようになるための「何か」を心身両面から子供に与えることができるように努力しなければならないのだ』(“to tell a child that it ought to love its parents and its brothers and sisters is utterly useless,if not worse.Parents who wish to be loved must behave so as to elicit love,and must try to give to their children those physical and mental characteristics which produce expansive affections.”)<出典:『ラッセル教育論~特に幼児期における~』(On Education,especially in early childhood)1926年、邦訳は鈴木勝義による>※『バートランド・ラッセルのポータルサイト』より引用**********●“愛”を義務化しようとするから息苦しい世の中になるいかがでしょうか。およそ90年も昔の人の言葉であるにもかかわらず、胸に鋭く突き刺さってはきませんでしょうか。筆者には地元の市立中学校に通う息子とやはり地元の保育園に通う男の子の孫がいるのですが、おかげさまで彼らが通う学校や園ではおかしな“愛情の強制”教育は行われていません。当たり前のことではありますが、子どもたちは特に問題ない限りにおいて自分のことをこの世でいちばん気にかけてくれているママやパパのことが大好きです。また野鳥たちが飛び交い友達と遊んだ川がある自分が育った土地のことも大好きです。ラッセルも示唆しているように“親子の愛”も“兄弟愛”も“郷土愛”も“母校愛”も、義務化などしなくたって本来子どもたちには自然と備わっている感情 なのです。にもかかわらず、最近は義務化できないはずの“愛”を義務化しようとする立派ななりをした大人が多いように見えませんか。今わたしたちがこの世の中に感じる何とも表現し難い“息苦しさ”の正体もそれなのではないでしょうか。●父は妻子を愛するがゆえに妻子に愛されて旅立って行った筆者は町工場の経営者だった父親が87歳でなくなった直後の2012年の初めに、ある全国版の新聞に父親の思い出を綴ったコラムを寄稿しました。著作権が新聞社にあるので全文をそのまま掲載することはできないのですが、朝から晩まで工場の薬品にまみれて働き、空いた時間で資金繰りに飛び回り、働いても働いてもお金に縁の無かった父にどうしても贈りたくて書いた作品でした。そのコラムの中で筆者は、中学生のとき急性緑内障を発症した疑いで一刻も早く眼科に行って処置しなければ失明する怖れがあるという状況の中、けっこうな体重になっていた自分のことを父がおぶって眼科の病院まで走って連れて行ってくれた思い出にふれました。お金になんか縁の無い人でも、自分のことを全力で愛してくれる親のことを子どもが愛さないはずがないのです。そんな人でしたから、父は妻(筆者の亡母)のことも娘(筆者の姉)のことも生涯全力で愛しつづけ、旅立ってからもわたしたちの心の中に生きています。子どもから愛される親とは、子どものことを愛して愛してやまないママやパパ のことです。もちろん親愛なるパピマミ読者のみなさんにとっては、とっくにわかりきっていることではあると思いますが。【参考リンク】・ラッセル教育論ー特に幼児期における | バートランド・ラッセルのポータルサイト()●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/REIKO(SORAくん、UTAくん)
2017年05月09日こんにちは。エッセイストで経済思想史家の鈴木かつよしです。わが国の子どもたちは諸外国に比べると自己肯定感が低く、夢や希望といったものを持っていない傾向があるということは、内閣府をはじめとするさまざまな研究機関や団体による意識調査で明らかになっています。その理由についても、生まれたときからすでにそこにある圧倒的な格差だということまでは、ほとんどの専門家のあいだで一致した見解です。ところが、原因までだいたい分かっているというのに、子どもが希望を持てる世の中にするための解決策については、残念ながら行政レベルでは遅々として進んでいないというのが実態でしょう。筆者はこの状況を改善するための一つの方法として、“家庭環境を超えた友と出会える場所”が自然に存在している状態を意識して作ること が必要なのではないかと思っています。●「邪魔する奴は僕が許さない」~映画『スタンド・バイ・ミー』のゴーディとクリスの友情〜スティーヴン・キング原作でロブ・ライナー監督の手による1986年公開のアメリカ映画『スタンド・バイ・ミー』を見た人は、40代以上のパパとママには多いことと思います。1950年代末、オレゴン州の小さな町に暮らす4人の少年たちは、趣味も志向も家庭環境も違うけれど妙に馬が合い、喧嘩をしながらもいつも一緒に遊んでいました。この少年たちが好奇心から“死体”探しの旅に出るひと夏の物語なのですが、主人公である文学少年・ゴーディはまずまずの恵まれた家庭の子ではあるものの、自慢の兄が事故死して両親から冷遇され、作家になりたいという将来の夢も失いかけています。一方、ゴーディの親友・クリスは非常に賢明な少年であるにもかかわらず、父親がアル中、兄はふだつきの不良という家庭環境から周囲の信用を得ることができず、本来は進学コースに進むべき聡明さの持ち主なのに「うちの環境で進学コースになんか行けるわけがない」と諦めています。旅のさなか、二人は「君には物語を書く才能がある。続けるべきだ」「君が進学コースに行けないなんてありえない。絶対に行けるから諦めないで勉強してくれ。邪魔する奴は僕が許さない」と語り合い、この友情が礎となってゴーディは作家に、クリスは弁護士に成長していくという映画でした。ゴーディとクリスは同じ町に住み同じ学校に通う仲間でしたが、この二人のように“家庭環境はずいぶん違うけれど感性の部分で共鳴できる友人”に出会えるチャンス が今の日本には少ないというのが、筆者の問題意識です。●同質的な環境に育った子ばかりが集まってしまう学校や塾今、わが国の子どもたちが置かれている日常の場所はどうでしょうか。学校はというと、私立学校の場合は完全に同質的な環境に育った子の集団となっているようです。そういう筆者も中学校は私立の慶応普通部という男子校に通ったのですが、当時のその学校には筆者のような潰れそうな町工場の子もいれば、国務大臣の子、医者の子、中小企業のサラリーマンの子もいて、ゴーディとクリスのような家庭環境を超えた友と出会うチャンスがかなりありました。友人たちから聞くところによると今はそうでもないようで、潰れそうな町工場の子や中小企業のサラリーマンの子は、ほとんどいなくなってしまったようです。その意味では、公立学校の方が家庭環境の違う子とは出会えます 。ところが、せっかくいろいろな家庭環境の子がいるにもかかわらず、進学を目指す子は結局一定以上の経済力の家庭の子だけで集団を形成していくため、学校を卒業して職人になる子や無業者になってしまう子たちとのあいだに交流がなく、友情が成立する余地がありません。塾も同様です。このような状況こそが、筆者の問題意識の根底にあるのです。●どこの家の子も好奇心で入っていけるような場所が地域にあるといい人間のことですから、育った環境が違おうと考え方が違おうと、感性の部分で共鳴できるものがあれば友情を築くことができます 。筆者の中学生時代、Kくんという立派な印刷会社を経営している家の子がいました。明日潰れてもおかしくない化学薬品工場の子の筆者とは経済力が全然違いました。でも筆者はKくんの人としての大きさに惹かれてKくんと同じラグビー部に入り、KくんはKくんで筆者が書く作文や感想文を「言葉に魂がこもっている」と褒めてくれました。考え方も、どちらかといえば保守的なKくんとどちらかといえばリベラルな筆者とではずいぶん違っていましたが、尊敬し合っていました。そのKくんは大人になって慶応大学の教授を経て、今は京都芸術大学で教鞭をとっているのですが、慶応の教授時代に東京都の港区と連携して“地域の人たちのための家”のようなものを設立したのです。昭和の一軒家のような日本家屋の空き家を改造して、地域の大人も子どもも、おじいさんもおばあさんも、学生もサラリーマンも商店主も、好きなときに好きなように利用してくださいという“場所” を作ったのです。筆者は50歳になったころ、Kくんに招待されて一度その“家”を訪れました。12月のはじめだったので、家の中には『ここにある材料を好きなように使って自分だけのクリスマス・リースを作ってね』というコーナーがありました。そこで筆者が目にした光景は、「うちはお母さんは一人で働いてるからクリスマスなんてやってもらえないの」と言う低学年の女の子と「勉強で分かんないところがあったらいつでも教えてやるからな」と言う高学年の男の子の、仲良く並んで話しながらリースを作っている様子だったのです。●“場所”作りが行政には期待しにくい理由と“小さな一歩”がとても大切なワケあの低学年の女の子と高学年の男の子の姿を目にしたとき、筆者は「さすがはKくん。今はまだ小さな一歩かもしれないけれど、素晴らしい場所を作ってくれたものだ」と思いました。正直言ってわが国ではもう、行政に任せていたらKくんのような発想は出てきません 。なぜならば、すでに中央省庁のキャリア官僚はほとんど全員と言ってもいいくらいまで首都圏の富裕層出身の人たちで占められているからです。もちろん彼らが悪い人だなどとは申しません。でも、弱い立場にある人や、「努力」や「ハングリー精神」といった言葉がむなしくなるくらいの経済的ハンディキャップを最初から背負ってしまっている子どもたちに対する想像力や共感力を彼らに求めるというのは、やはり難しいことでしょう。その意味ではKくんが作った“家”もそうですが、NPOの人たちの手による「無料塾」や「子ども食堂」なども運営スタッフの人たちと多少の年齢差はあるにしても“家庭環境を超えた友と出会える場所”として機能しているのだろうと思います。最後に、中学から高校1年まで一緒だったNくんの話をさせてください。Nくんは慶応幼稚舎という小学校からエスカレーターで上がってきたお金持ちの子だったのですが、普通部時代にご両親が離婚し飲食店を営むお母さまに引き取られ、そのお母さまの飲食店もNくんが慶応高校1年のときに経営が立ち行かなくなり、私立学校の学費を払えなくなって退学していきました。別れる際に、絵を描くのが上手だったNくんに筆者は「絵だけは描き続けてくれよな」と言い、Nくんは私に「鈴木の作文、またどこかで読ませてくれ」と言いました。今、きっとNくんはこの空の下のどこかで絵を描いているのだろうと筆者は信じています。と同時に、もはやセレブリティーの子弟でほとんどが占められるようになってしまった母校に、あのころの雰囲気はもうないのではないかと思うと一抹の寂しさを禁じえません。「Kくんが残していってくれた“家”あたりから新たな“場所”の作り手が育ってくれたらいいのにな」といった気持ちでいっぱいです。【参考リンク】・今を生きる若者の意識~国際比較からみえてくるもの~ | 内閣府()●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/坂井由有紀(央将くん)、貴子(優くん、綾ちゃん)
2017年05月02日こんにちは。エッセイストで経済思想史家の鈴木かつよしです。低所得の若者向けの住宅政策がほぼ皆無といってもいいわが国では、賃金の低い(主に非正規雇用の)若者たちが“住”に関して親に依存しなければ生きて行けず、「自力で家賃を払えないので“実家”を出られない 」という状況が生じています。ただ、今は実家暮らしでよくても、親自体の収入の減少や建物の老朽化、親が介護を要するようになる、高額な医療費がかかるようになる等々の問題は親の加齢に伴って日に日に現実のものとなって来ます。つまり、親にそれなりの可処分所得がある時期を過ぎると実家を出られない若者の問題が一気に社会問題化してくるおそれがあるのです。筆者はここ20年ほどのわが国の雇用実態が若者に犠牲を強いていることに憤りを覚える者の一人ですが、一方で、大変でも一定の年齢が来たら一度親元からは離れてみて、自分の生活を自分で設計する訓練をしてみる ことも貴重な経験ではないかと考えております。この場合の“一定の年齢”とは何歳くらいなのか?パパもママも一緒に考えてみませんか。●首都圏と地方とでは“実家暮らし”に対する意識がかなり違う情報サイトの『アットホームボックス』が2016年7月に全国20~59歳の男女1,457名を対象に行った調査で、「実家暮らしは何歳までしてもいいと思いますか?」と質問したところ、26.6%の人が「30歳」と答えました。「30歳」以外の年齢を答えた人がいずれも20%台にも満たなかったことを考慮すると、かなりの人が「30歳を区切りに実家からは独立するのが望ましい」といったイメージを持っていることがわかります。この質問への答えの平均が「32歳」であったことも、そのことを裏付けていると言えます。ただこの質問に対する答えは首都圏と地方でかなり違っています 。東京に住んでいる人が「実家暮らしをしてもいい」と考える年齢は何と「24.6歳 」まで。東京に次ぐメトロポリスの神奈川県の住民は「25.5歳」までと回答しており、一般論として大都市周辺の人は“成人し学生生活を終え社会人になったら実家は出るべきだ”と考えていることがわかります。これに対して地方はどうかというと、岩手県在住の人は「41.6歳 」まで実家暮らしは許容されると答え、次いで高知県民の「39.1歳」までOK、徳島県民の「39.0歳」まで実家暮らしOKという結果が出ていて、総じて中年以降も実家に留まって暮らすことに寛容です。●「何歳までというより親子共依存克服のために独立は必須」と言う精神科医次に参考にしたいと思うのは、個人的には筆者の友人でもある精神科医のT先生の見解です。T先生はご自身のクリニックでの臨床経験から、「親との関係が悪い」「親の存在がストレスになっている」といった主訴で来院する患者さんの多くが“実家を出て行かない子どもたち”であるとの視点に基づいて、次のように述べています。『何歳までにということは言えませんが、親子が共依存の関係に陥ってお互いが精神的に苦しめあう状態から脱するためには、成人して一定の年齢に達した子どもが実家を出て独立することは必須 であるかと思います』(50代女性/都内メンタルクリニック院長・精神科医)先生によると、親子というものは子どもの成長に伴って次第にその関係性が変化して行くのが自然なことであり、子どもが自分も伴侶や子どもを得ていろいろな経験をすることによって初めて親と対等な関係の協力者になりうるとのこと。経済事情から現実的に実家を出るのが無理という場合でも、少なくとも“寝泊りする場所”以外の機能を実家に求めないくらいの気持ちは必要だとおっしゃっています。●経済的に不可能でさえないのなら20代〜40代のどこかで自分の世帯を持ってみる何歳までということはないにせよ、T先生は『経済的に不可能でさえないのなら20代から40代のどこかで自分の世帯を持ってみることは、その後の親子関係・家族関係を再構築するうえでとても有益 』(50代女性/前出・精神科医)と言います。それでは、おしまいに筆者自身の経験から少しだけお話しさせていただきたいと思います。筆者は東京の中野というところで小さな町工場を経営する両親の第二子として「戦後」と言われる時代の最後のころに生まれました。両親の工場はその後の技術革新についていくだけの力がなかったため、筆者が成長して行く過程というのはちょうど親の仕事と収入が徐々に徐々に減って行く過程と合致しておりました。それでもサラリーマンの家庭と違いキャッシュ・フローから何とか子どもの学費を調達することができた両親のおかげで筆者は私立の大学を卒業することができ、自分自身の問題意識から中小企業の経営を金融面から支援する政策銀行に就職し、神戸支店への赴任が決まった22歳の春に中野の実家を出て行きました。その後両親の工場は最終的には倒産し、筆者と両親の間にも意見の違いから来るさまざまな葛藤はありました。しかし、彼らの人生の最後で筆者の世帯の方で彼らを引き取り筆者の妻や子どもたちと一緒に数年間の時を過ごさせてあげることができて、両親は幸せな気持ちで旅立ってくれたであろうと思っています。それもこれも、筆者が22歳の段階で実家を出、自分の家族を持つことができていたからです。もちろん今のように大学を出たからといって必ずしも正社員として就職できるわけではない時代に、何が何でも実家を出るべきだなどと言うつもりは毛頭ございません。現実問題としてワンルームを借りただけで月10万円近い家賃が出て行く東京で、月収10万円台半ばの非正規雇用の若者が実家を出ることは無謀な行為ではあります。でも、勤務先で知り合いお互いに好意を持ったパートナーと一緒に暮らせばどうでしょうか。1人あたりの固定費は2分の1になり総収入は2倍になりますから、単純計算で世帯の可処分所得は4倍になるのです。「このへんで実家に依存するのはやめよう 」という気持ちさえあれば実家を出て行くことは不可能なことではないのです。●親子の愛は確かに深いが、できることならパートナーとの戦友愛を育めたらいいこうして考えてくると、今回のテーマの「子どもが実家に住んでいいのは何歳まで?」という問いへの答えは、「何歳までということは特にないが、その人にとってベストと思えるタイミングで一度実家は出てみるのがいい」ということになるのでしょうか。最近は平均寿命が伸びたこともあり、50代に入ってから初めて結婚し実家を出たという同窓生が、筆者にもいます。親子の愛というものは確かに深く尊いものですが、筆者は、人が「生きてきてよかった」と思うときというのは「パートナーとの戦友愛を実感したとき」ではないかと思っています。もちろん筆者は、真面目に働いているのに雇用形態が非正規であることで「出たくても実家を出て行けない」若い人に精神論で独立を押しつけることはけっしてしません。その場合は行政が支援をするべきです。税金の使い方を工夫して低家賃で住める公営住宅を低所得の若者たちに社会が用意すべきだと思います。今、さまざまな理由から実家暮らしを続けている子どもさんがいらしたら、経済的に不可能でさえないのであればパパとママの方から背中を押してさしあげてください。子どもさんにもパートナーとの戦友愛を育んでもらう方が、パパとママの先々のためにもきっといいと思うからです。【参考リンク】・住まいのターニングポイントは30歳? みんなが思う住まいと年齢の関係 | at home VOX(アットホームボックス)()●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/沖まりね
2017年04月18日こんにちは。エッセイストで経済思想史家の鈴木かつよしです。東京都が2016年に墨田区・豊島区・調布市・日野市に住む小学5年生・中学2年生・高校2年生の子どもがいる家庭およそ2万世帯を対象に行った調査によると、全体の約20%に上る“生活困難層”のうち特に困難度合いの高い“困窮層”では13.1%もの子どもが「自分が価値のある人間とは思えない」と答えていることがわかりました。「同級生たちは医者や弁護士になるのが夢だと言ってるけど、うちに勉強部屋すらない自分に夢なんか持てない」。そんなお子さんを見て不憫に思っていらっしゃるパパとママへ、筆者の3人の若い友たちの話をさせていただきたいと思います。3人とも学歴や家庭環境への不安を理由に思春期には自己肯定感を持てなかったものの、「夢中になれること」「天職と思える仕事」に出合えたために人生が変わった経験を持つ人たちです。学歴や家庭環境への不安などが理由で将来を悲観しているお子さんのために、参考にしていただければ幸いです。●皆が目指す“一流大学から大企業正社員”の道でなくギター作り職人になったMさんMさん(26歳/女性)は困窮家庭というよりもむしろ、どちらかというと経済的には恵まれた家庭で育ちました。お父様は鉄道会社系の大企業に勤務、お母様は先生で、大手の食品会社で正社員として勤務するお姉様と同じように、当時高校生だったMさんも「一流大学から大企業正社員」のコースを当然行くものだろうと周囲は思っていたそうです。ところがMさん本人はけっして成績が悪いわけではないものの勉強に「夢中にはなれない」。夢中になれるのは高校の友達と組んでいたロックバンドでベースを弾くこと。でも、それを職業にして食べて行けるほど甘くないことはわかっていました。お姉様のようには褒められたり称賛されたりすることのないMさんは、『自分なんかお姉ちゃんと違って、あえて生まれてなんか来なくていい子だったんだ』と思い悩んだそうです。そんな彼女が高校3年になったころ、ふとしたことでハンドメイドのエレキギター制作技術を学べる専門学校があることを知りました。Mさんは『自分がやりたかったことは、これだ』と思い、大学には進学せずにエレキギターを作る職人を目指す ことにします。今、26歳になったMさんは、彼女を指名してギターの制作を注文してくるプロのロックギタリストのお客さんを何人か持つまでに至りました。お師匠さんのようにそれだけで食べていけるところまではいきませんが、お姉様が勤務する食品会社で契約社員として働いてもいますので、生活は問題ありません。同い年の彼と入籍する日も近いようです。●母子家庭のため塾にも通えなかったSくんは天性の数学センスを自覚してから変身Sくん(25歳/男性)の場合、中1のときにお父様が急病でなくなってからお母様がたった一人で家計を支えたため、生活は大変だったそうです。他の友達と同じように塾に行きたいなどと言い出せるような状況ではなかったといいます。しかも成績全般はけっしていい方ではなかったSくんは、塾にも行けない自分が将来ろくな仕事になど就けるわけがないと、中2の終わり頃までは自暴自棄に陥っていたとのことです。ところが中3のとき、Sくんは友達がみんな「難しい」と言う数学の問題を自分だけは誰に解き方を教わったわけでもないのに難なく解けてしまうことに気づきます。Sくんには天性の数学的センスがあった のです。そのことを自覚してからというものSくんは変わったと言っています。県立高校に進んでからは数学に関しては教科書に載っている問題では飽き足らないため、バイトで稼いだお金でより専門的な数学書を購入し独学で勉強したとのこと。Sくんは数学のアドバンテージで他の科目の点数をカバーするという方法で東京にある国立の工科系大学に合格し、4年後には世界的な通信機器メーカーに技術者として就職したのです。『あのとき自分には特別な数学の才能があるということに気づいていなかったら、今ごろ僕は愚痴ばかり言いながら生きるためだけの仕事に追われて暮らしていたと思います』。そう言うSくんも来年に予定されている海外赴任の前には、バイト先で知り合い一緒に暮らしている彼女と正式に結婚するつもりだとのことです。●親の経営する会社が倒産して高校も中退の危機。母方の祖母の激励で立ち上がったWさんWさん(28歳/女性)は高校1年生のときにお父様が経営していた会社が倒産し、貧困生活に陥りました。お母様の派遣社員としての収入だけでは家族が生きていくだけでやっと。中学校から私立の中高一貫女子校に通っていたWさんは退学して働くことを考えます。『指定校推薦で大学に行き、キャリアウーマンを目指す』というWさんの夢ははかなく散り、『もうどうでもいいわ』という気持ちになったそうです。そんなとき、ご自身だってけっして生活が楽ではない母方のおばあ様が大切な貯金からWさんの当面の学費を出してくださったとのこと。おばあ様いわく『あなたは女の子だけど大学まで行ってしっかり学問さえすれば、きっと大きな組織の管理職も務まるような人になる。それだけの器があるよ。だから高校を中退してはだめよ 』 。投げやりになりかけていたWさんは気持ちを立て直し、当初の目標通り指定校推薦を貰って女子大学で4年間学び、就職超氷河期であったにもかかわらず国内最大手の医療機器メーカーに採用され、今では昇格試験にも合格し幹部候補生として生き生きとした毎日を過ごしています。2歳の男の子のママでもあります。----------いかがでしたでしょうか。もちろん、困窮家庭で自己肯定感を持てずにいるお子さんがみんな今回ご紹介した3人のようにプラス思考に転じることができるかといえば、そういうわけではありません。むしろ、「こんなのはすごく恵まれている例にすぎない」とおっしゃる方も多いでしょう。しかし、“絶望感”に近いものから“軽い憂鬱”的なものまで程度の差こそあれ、3人が思春期の一時期に「自分なんかもう大した人生を送れっこない」と感じていたところから「自分にとって大切なもの」を見つけたことによって立ち直り、そこから先は本人たちの意思と努力で幸せをつかんでいったということは紛れもない事実です。学歴や家庭環境への不安が理由で将来を悲観しているお子さんにはパパとママから(この3人の例をストレートに話すのではなく)そんな人も実際にいたらしいよといった程度の励ましのために、参考にしていただけたらと思います。●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/前田彩(桃花ちゃん)
2017年04月11日こんにちは。エッセイストで経済思想史家の鈴木かつよしです。この春から中学生になるお子さんをお持ちのパパとママも多いかと思いますが、中学校生活を楽しく充実したものにできるかどうかを左右する大きな要素の一つに“部活”があることは論を待ちません。実は筆者はこの部活に関して苦い経験があります。筆者が通った中学校は大学までつながっている私立の一貫校だったのですが、部活動のバリエーションがありすぎて人一倍好奇心が旺盛な筆者のような者は“どれもこれも中途半端”になってしまったのです。ラグビー部、ホッケー部といった“希少系”運動部に所属しながら同時に音楽部フォークソング班や花を育てる会のような変わり種の文化系クラブにも参加し、いずれも達成感を得るところまでは至らずに終わってしまいました。それに比べると、地元の普通の公立中学校は部活動の選択肢は多くありませんが、かえって目移りせずに充実した部活ライフを送れる可能性があります。今回はオススメの部活について、新中学生をお持ちのパパ・ママのみなさんと一緒に考えてみたいと思います。●美術部は、基本的な“絵ごころ”を養うのに最適な部活おそらくわが国にある中学校であれば99%の確率で存在するはずの部活が“美術部”です。部員が9人集まらないから野球部がないという中学校はかなりありますが、美術部がない中学校はそうめったにはありません。それくらい人間にとって絵を描いたり造形を作ったりする作業は本能的な“悦び”であると言えるでしょう。この美術部という部活ですが、絵の上手下手に関係なく絵を描くことが“好き”でさえあればけっこう長続きします。何といっても一週間に3日も4日も集中して絵を描く時間を持てるわけですから、おのずと基本的な“絵ごころ”が養われます ので、将来何かしらクリエイティブな道に進みたいという希望を持っているお子さんにとっては最適な部活ということができるでしょう。●卓球・テニス・バドミントンは部員が2人いればできる次に運動系の部活ですが、私立の中高一貫校のようにカーリング部とかラクロス部とか弓道部とかいったちょっと気をひかれるシャレた部活はなくても、卓球部・テニス部・バドミントン部であれば地元の公立中学校に大抵は存在します。この3つの運動競技に共通する長所は“人が2人だけ集まれば試合ができる”という点です。スポーツの魅力はいろいろありますが、試合というゲームを楽しみながら勝つことの喜びと負けることの口惜しさを体験できる という点は大きな魅力の一つと言えます。どこの公立中学校にもあるこれらの運動部に入って、お子さんたちにはぜひスポーツ競技を通して心身ともに成長していっていただきたいと思います。●演劇部はストレスフルな日常からの気分転換に有効なにかと悩み事の尽きない中学生時代、お子さんたちも時にはストレスフルな日常から自由になりたいと思うことがあるでしょう。そんなとき、今の現実とは違う自分を演じる楽しさが体験できて非日常の世界に没入することができる演劇部はおススメです。思春期真っ只中のお子さんたちの心のリフレッシュにとても有効な部活 であり、これもまた大抵の公立中学校に用意されています。また演劇はいろいろな役目を受け持つ人たちが協力し合うことによってはじめて成立する共同作業でもあります。中学生時代に演劇部で活動することはお子さんたちがこれから大人へと成長して行くうえで素晴らしい経験となることは間違いありません。----------いかがでしょうか。この他にも大抵の公立中学校に用意されている部活動はいろいろありますし、地域によってはその土地ならではの部活が存在するケースもあります。たとえば近隣に大きな一級河川があるような地域ですと、ボート部を持つ公立中学校があることもあります。いずれにしても3年間という短い中学生時代を高校受験のための準備一色で塗りつぶしてしまうのは勿体ないです。この春から中学生になるお子さんには、ぜひ何か興味の持てる部活動に参加していただけたらと思います。【参考リンク】・我が国の文教施策[第1部 第3章 第2節 3] | 文部科学省()●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/REIKO(SORAくん、UTAくん)
2017年03月28日こんにちは。エッセイストで経済思想史家の鈴木かつよしです。非正規雇用がごく一般的な雇用形態となったわが国で、夫も妻も非正規で働いているというパターンに該当する夫婦はまったく珍しくなくなりました。にもかかわらずネットの世界などでは、「夫婦ともに非正社員なのに子どもを持つなんて無謀なことは考えるな」といった類いの発言がいまだに溢れているようにみえます。現実にはパパ・ママともに非正社員で世帯収入が多くなくても、2人のお子さんを立派に育てているご夫婦を筆者は知っていますし、「夫婦とも非正規では子どもは持てない」という認識は正しくありません 。ただ、収入が少なくても何を心がけ、何を捨てたから育てられたというのはあったようですので、今回はこれから親になろうという非正規で働いているご夫婦が心がけるべきことについて考えてみたいと思います。●まず「非正社員夫婦じゃ子どもは持てない」という“迷信”から抜け出しましょうまず肝に銘じておくべきことは、夫婦ともに真面目に働いてさえいるのであれば、雇用形態が非正規であっても子どもを持てないなどということはけっしてない、ということです。これは2011年に厚生労働省が公表した数字ですが、正社員の平均年収は男性が339.6万円で女性が248.8万円。一方非正社員はというと、男性が222.2万円で女性が172.2万円でした。たしかに夫婦とも非正規だと二人合わせても年収300万円台と少々大変かもしれませんが、(住んでいる地域等にもよりますが)子どもがいたらやって行けないというほどのことでもありません。また、今後は法改正に伴って一定以上の時間数勤務する非正社員は会社の規模にかかわらず社会保険にも加入できるようになりますので、福利厚生面が著しく劣悪ということもないです。非正社員どうしの夫婦には子どもを持つという人として当たり前の幸せを手にする資格がないなどといった世間の一部にある考え方は明らかな“迷信”であるという基本認識を持つところからスタートしましょう。●「ずっと公立」「塾行かず」でも本人に学ぶ意欲さえあれば問題はありません次に問題になるのは、子どもを持った場合に当然必要になってくる教育費です。夫婦二人きりならどのようなライフスタイルで生きようが二人の自由ですが、子どもに最低限の教育を受けさせることができるか否かはその子が大人になったときに自立して生きていけるようになるかどうかを左右します。教育にお金がかかりすぎることはわが国の極端な少子化の大きな一因となっている政策上の大問題だということができるでしょう。また、これは東京の都心部などで顕著な傾向なのですが、地域によっては「義務教育の段階から私立の(一部公立も含む)一貫教育校に通わせないと、大人になって収入の高い職業に就くための高等教育を受けられる可能性は低くなる」といった“迷信”が存在するケースがあります。筆者自身の経験と交友関係から断言いたしますが、小学校から高校まで「ずっと公立」でも、進学塾に通うだけの経済的な余裕が家庭になくても、子ども本人に学ぶ意欲さえあれば心配は要りません。●塾代に何万何十万もかけなくても大丈夫ですが、副教材の書籍代に一定のお金はかけて!ただ、「ずっと公立」で「塾へは通わない」場合には、これだけは心がけてください。塾代として何万円、何十万円もかける必要はありませんが、できれば教科書に準拠している副教材の書籍を主要科目の分くらいは買い与えてやってほしい のです。学ぶ意欲のある子であればそれだけでも十分な基礎学力を養えるはずです。それ以上の専門教育的なものは、二人とも非正規で働いているご夫婦であれば差し当たり捨ててお子さん自身が高校生以上になったときに自分でバイトしたお金で受けることをすすめてください。また、いよいよ学費の高い大学に通うことになっても、返済義務のない給付型奨学金制度 を持っている機関が実は民間企業でも新聞社をはじめとしていくつか存在します。学問をしたい子を応援してくれるところは国以外にもいろいろありますので、いたずらに心配ばかりしないことです。●非正社員のパパとママは、おじい様おばあ様が健在なら脛をかじることも恥じないで!どうしても教育にかかるお金の話が中心になってしまいましたが、おしまいにそれも含めて家族の生活全般という視点でみたとき、非正社員どうしのパパとママに申し上げたいことがあります。それは、お二人の実家の御両親(お二人のお子さんにとってのおじい様おばあ様)が健在なのであれば、いざというときに脛をかじることも恥じないでほしいということです。子どもは何歳になっても子どもです。他に方法がないときくらいは親に頼ってかまいません。なんだか偉そうなことばかり申し上げてしまったような感じかもしれませんが、実は筆者自身、非正社員よりもっと不安定な“自営の小規模企業経営者”だった時期が長くありました。当時派遣社員として家計に大貢献してくれた妻とともに二人の子どもを育て、今では孫の顔まで見られるような状態になったのですが、あの厳しかった時代にそれでも削らなかったのが子どもの参考書代 でした。そして、本当にどうしようもない、他に手立ての無いようなときに頼ったのが、筆者と妻の親の援助だったのです。非正規雇用だからといって子どもを持つことを諦めていたら、わが国の人口減少はもう歯止めがかからないでしょう。そうなったら社会保障の担い手はもうどこにも存在しません。そうなる前にまず、「夫婦とも非正規では子どもは持てない」といった“迷信”から解き放たれることこそが、いちばん大事なことであるように思います。【参考リンク】・奨学金の制度(給付型) | JASSO()・非正規雇用の現状派遣・有期労働対策部企画課平成24年9月(PDF)()●ライター/鈴木かつよし(コラムニスト)●モデル/福永桃子、藤沢リキヤ
2017年03月21日こんにちは。エッセイストで経済思想史家の鈴木かつよしです。最近めっきり使われなくなった言葉の一つに“不言実行”があります。他人の前で派手なパフォーマンスをせず、見返りのあるなしにかかわらず自分がやるべき仕事を黙って遂行する姿勢のことを指した言葉です。一方、スポーツ選手などの間で発生し、今では日本語としてすっかり定着した感のある“有言実行”という造語は、あえて他人に聞こえるように大きな目標を掲げておいて達成できるように頑張るというもの。現代は“有言実行”の方が高い評価を得やすい傾向があるように見えます。しかし、こと子育てという観点で言うのであれば、筆者は「子どもに不言実行の生き方を示せるパパやママはステキだ」と思います。どういうことか、その理由を一緒に考えてみましょう。●有言実行タイプの人は結果を残せなかった場合でもそんなには非難されない有言実行タイプの有名人というと元プロ野球選手で打撃三冠王を3度も獲得した落合博満さん。元男子競泳選手で五輪金メダリストの北島康介さん。元陸上競技・女子マラソンの選手でやはり五輪金メダリストの高橋尚子さんなど、圧倒的にスポーツ界に多く見られる印象があります。こういった人たちは「三冠王を獲るぞ」「金メダルを獲ります」と、実現することが大変な目標をマスコミの前で高らかに宣言したうえで実際にその目標を達成してみせたため、「有言実行の人」と呼ばれるわけです。しかし、よく考えてみると、彼らのように才能に恵まれたスーパー・アスリートでさえ、その最高峰の目標を現実に達成できたのは人生で一回ないし数回きり。毎年シーズン開幕前に三冠王獲得宣言をしていた落合選手がたとえその年三冠王を獲れなかったにしても、そのことを非難するような人はそんなにはいません。それはなぜかと言いますと、そういった高い目標を公の前で言葉にすること自体がとても勇気の要ることであり、尊いことだからです。つまり、真剣に有言実行しようとしている人に対して多くの人は“寛容” なのです。ここに、有言実行タイプの人が大衆的人気を博しやすい理由があります。●不言実行できる人の存在感は抜群一方、不言実行はどうでしょうか。不言実行の有名人といえば何といっても俳優の高倉健さん(故人)で、役柄上も私生活も不言実行。そして、元プロ野球選手で広島カープを25年ぶりのリーグ優勝に導いた黒田博樹投手などが思い浮かびます。不言実行タイプの人は何かをする前にマスコミ受けするような花火を派手に打ち上げるというようなことはけっしてしません。それにもかかわらず不言実行の人の存在感たるや抜群で、有言実行タイプの人が“人気”を集めやすいとするならば、不言実行の人は“尊敬”を集めやすい と評することができるかもしれません。そもそも不言実行という概念そのものが中国の春秋時代の哲人・孔子の『論語』の中の一節から生まれたと言われており、どういうものかと申しますと「何か言いたいことがあるのなら、まずそれを自分で行ってから言うのが徳の高い人というものだ」という一節があるのです。このことからも“尊敬されるのは不言実行の人”、“人気者は有言実行の人”という見方は、間違ってはいないのだろうと思います。●不言実行のパパ・ママは子どもにとって尊敬の的さて、そんな“有言実行”と“不言実行”ですが、子どもたちにとってはどちらのタイプのパパ・ママがステキに映るでしょうか?筆者はどちらもステキだと思いますが、有言実行のステキさは“親しみやすいステキさ”であり、不言実行のステキさは“頭が下がるステキさ” なのだろうという気がします。「健康のために1か月で5kg体重を減らすわよ!」と宣言したうえで本当にダイエットをやりとげるママはかわいらしくてステキですし、疲れているのに愚痴の一つも言わずに今日も仕事に出かけるパパには頭の下がるステキさを感じます。ただ、こと“子育て”の場面では、やっぱりパパやママの“不言実行”の姿がステキだなと感じてしまうことにはそれなりの理由があります。現代は何でもやたらと“口に出す”人が増えているだけに、何も言わずにやって見せてくれるパパやママがとてもステキに映るというところです。パパやママだって、子どもに格好いいところばかり見せながら生きていけるわけではありません。特に自営の仕事などをなさっているパパやママだったら、ほんの数分の納期遅れが原因でお客さんに深々と頭を下げて謝っているところを子どもに見られるのは日常茶飯事です。それでも、次は納期に1分も遅れずに最高の商品をお客さんに届けて見せる。何も言わずに、黙って、「仕事とはこうして向き合うものなのだよ」と背中で教えてくれる パパとママはめちゃくちゃステキです。やたらと“宣言”はするけれどよく見ると“有言不実行”の人がとても多いことが、現代社会の特徴でもあるように思います。そんな中で、子どもに“不言実行”の生き方を示して見せるパパやママがとても輝いて見えるのは、筆者だけでしょうか。●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/ゆみ
2017年03月14日1994年に入門した同期、桂吉弥、桂春蝶、桂かい枝が『吉弥・春蝶・かい枝 くしかつの会』を3月29日(水)、大阪・ABCホールで開催する。『くしかつの会』とは、“94年から活動を始めた”ことにちなんで命名した。「吉弥・春蝶・かい枝 くしかつの会」チケット情報吉弥は桂吉朝に入門し、桂米朝の下で内弟子期間を過ごした。春蝶は三代目桂春團治の下へ、かい枝は先代の五代目桂文枝の下へ入門。3人とも上方落語四天王と呼ばれる噺家に育てられた。「師匠から教わったこととか、何となく共通する部分のある3人です。何か一緒にやりたいと話していた数年後、一門や所属事務所の垣根を越えてこういう会をやらせてもらえて。我々3人が今後の上方落語を引っ張っていく存在になれるよう、そこを目指す会だと思っています」とかい枝。現在、東京に拠点を移し、アウェイで上方落語の発展に心血を注いでいる春蝶。東京では今、若手から中堅を中心にした落語ブームが再び起こっている。「東京でやっていて思うのは、上方の落語家は向こうに全然負けていなくて、倍ぐらいの力がある人が多い。でも、残念ながら東京の宣伝力が関西の10倍はあるんです。ということは、力が倍あっても、東京の宣伝力は10倍なので、結果的には5倍負けているんですよね。なので、何とかして大阪でも様々なブームを作っていきたい」と、『くしかつの会』がその先駆けになればと意気込む。ネタは吉弥が「百年目」、春蝶が「芝浜」、かい枝が「三十石夢の通い路」といずれも東西を代表する大ネタだ。春蝶が口演する「芝浜」は東京の噺。それを春蝶は上方から江戸に引っ越してきた魚屋夫婦という設定に置き換えた。「自分の持っている古典の大ネタとして、一番聞いてほしかったもの。上方の噺家が東京の代表的なネタをやったら、こんなふうになるんやでという、大阪のイズムみたいなものも聞いてほしい」と春蝶。一方、「三十石夢の通い路」を演じるかい枝は「ふたりは重厚感のある噺なので、その間をスルスルと行くような、“楽しかったな、面白かったな”と思ってもらえたらと思って」選んだ。ネタ順は当日、舞台上で決定する。ネタの順番によっても聞き応えが異なるだけに、当日が楽しみだ。これからの上方落語界の担い手と嘱望される、名実ともに磐石の3人が集った。新たな時代の潮流をその目でぜひ確かめてほしい。チケットは発売中。
2017年03月09日こんにちは。エッセイストで経済思想史家の鈴木かつよしです。『日本老年学会』などは先ごろ、現代の日本人は10~20年前と比べて加齢に伴う心身の衰えが遅いという理由から、現在「65歳以上」とされている“高齢者”の定義を「75歳以上」に引き上げるべきだ という提言をいたしました。政府の中にも以前から高齢者の定義を「70歳以上」にした方がいいという案はあり、ある国会議員は「65歳の人を高齢者なんて扱うのはもうやめよう」と、公の場で発言もしています。筆者の友人でもある精神科医のA先生(50代・女性/都内メンタルクリニック院長)は、下記のように述べ、高齢者と定義する年齢の引き上げには慎重であるべきと指摘しています。『自分自身の臨床経験から言うと、人間の認識力や判断力は、70代に入ると急激に衰えるという印象を持っています。最近目に余る70代以上のドライバーの運転ミスによる自動車事故の多発が典型的な例ですが、70代以上の人の身体能力や認知能力を安易に過大評価することには懸念を禁じ得ません』この問題、パパ・ママ世代の生活にもかかわることなので、もう少し一緒に考えてみましょう。●さらなる定年延長の制度化に繋がり若年層の雇用縮小と労働現場の活力低下が懸念される現在の法律では60歳で定年に達した社員でも希望すれば65歳までは勤務できるようになっていますが、今回出てきたような「高齢者と定義する年齢の引き上げ」が社会的に主流の考え方になってきた場合、定年そのものが65歳とか68歳。さらに希望すれば70歳から75歳まで勤務できる。こういったことが企業に義務づけられ制度化される公算が高くなります。しかし、さすがに70代以上の人が会社に何人も居るようになってきますと、若年層を雇用する余裕が企業から失われてきますし、何よりも労働現場の活力の低下が心配されます。●年金の支給開始年齢が今以上に引き上げられたら気持ちの部分から折れてしまうのが心配『日本老年学会』は今回の提言を年金の受給年齢などに反映させることには慎重な態度を示してはいますが、行政府などにとってはこれにより年金の支給開始年齢を上方修正しやすい雰囲気 ができてくるのであれば、本音の部分では好都合な面もあるでしょう。けれど、実際問題として今57歳である筆者にとっても現行の年金支給開始年齢の65歳まで「あと8年もある」というのは率直な実感であり、これがもし支給開始は68歳とか70歳とか75歳だとか言われたら、気持ちの部分から折れてしまうかもしれません。金額的には大したことはないとはいえ、これまで1円もごまかさず正直に納税してきた我々「年金受給予備軍」の納税意欲に水を差すのは、国がとる政策としてはどうなのだろうかという気は否めません。●業種問わず現代の企業の利益の源は“情報通信技術”の部分にあり70代以上には厳しい筆者の専門である経済思想史的な視点で見ますと、この21世紀序盤のわが国では、国内の市場をメインに営業している企業の業績を分けるキーワードは業種を問わず“情報通信技術”にあります。製品やサービスそのものは以前からあったようなものであっても、情報ツールを斬新な発想で使いこなすことによって全く新しい価値が生まれる。昔からあった民宿がネットやスマホをフル活用した「民泊」になったように、シェアリングエコノミーやマッチングビジネスといったものが大黒柱となって国内経済を支える時代が来るでしょう。その新しい経済の柱部分の直接的担い手としては、70代以上の人というのは厳しいものがあります。彼らの持ち味は“経験に基づいた引き出しの多さ”ですから、むしろ営利企業という枠の外から若い人たちにヒントをくれる存在として尊敬したいものだと思うのです。●平均寿命と健康寿命の差が大きいわが国で75歳高齢者説をとることは危険?『日本老年学会』は、『65歳から74歳までは活発に活動できる人が多く、“准高齢者”と呼ぶべき』といった提言もしていますが、前出のA先生はその提言にも疑問を投げかけています。『このような立場に立つことは、平均寿命と健康寿命の差が大きいわが国ではリスクを伴います。例えば2013年時点で日本の男性の平均寿命は80.2歳でしたが、介護などを必要とせず健康に日常生活を送れている人という意味での健康寿命は70.6歳 で平均寿命との差が9.6年もあり、主要先進各国の7年程度とは大きな開きがあります。これには日本の60代以上には世界の中でも認知症の患者数が群を抜いて多いことも大きく影響していることが理由として考えられます。しかし、いずれにしても“平均寿命の長さだけで高齢者の年齢の定義を上方修正することにはリスクがある”ということであり、「表面的に元気に見えるから高齢者は75歳から」と性急に高齢者の定義を改めることには、医師としては賛成しかねます』(50代・女性/都内メンタルクリニック院長、精神科医)----------いかがでしたでしょうか。この問題、いろいろな立場からいろいろなご意見があろうかとは思います。ただ多くのパピマミ読者のみなさんよりは“高齢者”に近い筆者の実感で言わせていただけるなら、65歳はもう立派な高齢者です。リスクマネジメントの観点からはあまり高齢者の身体能力・認知能力を過大評価しすぎないように と、申し上げたいと思います。●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/貴子(優くん、綾ちゃん)
2017年03月07日こんにちは。エッセイストで経済思想史家の鈴木かつよしです。みなさんは、「偉人」とか「歴史上の大人物」といった言葉からどんな人を連想されるでしょうか。筆者の場合は、米国の野球選手で国民的英雄のベーブ・ルース。英国のロック・ミュージシャンでザ・ビートルズ形成期の実質的リーダーであったジョン・レノン。日本の小説家である夏目漱石。こういった人たちを思い起こします。もちろん人によって「偉人」だと思う人物は違うのでしょうが、多くの人々から「偉人」と呼ばれ伝記になっているような人物の共通点の一つに、「若いころは“不良”と呼ばれたような問題児ばかりである 」というのがあります。それは、どうしてでしょうか?●その時代の限界を突き破ったからこそ偉人。鬱積した不良の怨恨が突破の原動力になった伝記になるような偉人というのは、みな“その時代の限界”を突き破った人々 です。例えばベーブ・ルースであれば、それまではゴロ(グラウンダー)を転がしてコツコツと得点を重ねるというのが常識だった野球という競技を、遥か彼方の空中へ打球を飛ばして一気に3点、4点と得点する競技に変えてしまいました。ルースが少年時代、ふだつきの不良だったことは有名な話ですが、病弱な母親を15歳のときに亡くし酒場の経営で忙しくかまってもくれない父親を恨んだルースは、その大きな体を持て余し、喧嘩・万引き・酒・煙草に明け暮れる手に負えない悪(ワル)だったようです。全寮制の矯正学校に送られたルースは、そこでマシアス神父というルース以上の大男で怪力の教官から勉強と洋服の仕立て方と野球を教わります。そして、自分の腕力と野球の才能は自分と同じように貧しかったり親の愛に恵まれなかったり病気であったりといった「気の毒な子どもたち」の“夢”となるために使おうと決意します。尊敬する育ての父親・マシアス先生の指導によって、不良少年ルースの鬱積した世の中に対する怨恨の念は、野球というスポーツ競技の当時の技術とプレー・スタイルの限界を突き破る原動力へと変わって行ったのです。●「劣等感が莫大なエネルギーを持つ」という精神科医アドラーの理論筆者がこの、「鬱積した不良の怨恨が時代の限界を突き破る原動力となる」という仮説を友人でもある精神科医のA先生(50代女性)に話したところ、『オーストリア出身の精神科医アルフレッド・アドラーの理論に近い仮説ですね』と言われました。A先生によれば、アドラー医師の理論とは次のようなものだそうです。『人間は基本的に“優越を求める心”に動かされているため、そのことは同時に“劣等感”というものを生み出す。全ての人は劣等感を持っており、劣等感が持つエネルギーは莫大 である。そしてそれは、努力と成長への刺激となる 、というのがアドラーの理論の骨子です。その意味で“劣等感”は「よいもの」であり、「頭が悪い自分なんかいくら勉強したって無駄さ」といった逃避の言い訳としての“劣等コンプレックス”はネガティブで「よくないもの」だというのがアドラー医師の主張なのです』(50代女性/都内メンタルクリニック院長・精神科医)これを聞いて筆者は自分の立てた仮説があながち見当はずれではなかったんだなとホッとすると同時に、今から100年も前に「劣等感が人間を成長させる爆発的なエネルギーになる」ということに注目していたアドラー医師の慧眼に舌を巻く思いでした。●“元・不良”たちの伝記をアドラー理論を踏まえたうえで読むととても面白いこのアドラー理論を踏まえたうえで“元・不良”たちの伝記をあらためて読んでみると、大変面白いのでおすすめです。英国リヴァプールで労働者階級の家に生まれたジョン・レノンは、船乗りだった父親がジョンの幼いころに蒸発。母親は他の男と同棲。母親の姉メアリー夫婦に育てられます。実の両親に甘えることができずにグレていた彼は、少年時代は喧嘩に明け暮れていたようです。しかも彼は小さなころから強度の近視で分厚い眼鏡をかけていたため、友人たちから「四ツ目」と呼ばれてからかわれていたとのこと。このように身体的機能について客観的に劣っていることをアドラーの理論では『器官劣等性 』というのですが、器官劣等性を巡って人間がくだす人生上の決断が物凄いエネルギーを生み出すことは、アドラー理論の中心をなす部分でもあります。15歳でエルヴィス・プレスリーのロックンロールに衝撃を受けたレノンは、それから(現代の私たちが聴くとやや退屈な)3コードのロックンロールにマイナーコードや転調を取り入れて革命的に展開し、20世紀後半以降の音楽の主要形態となる「ロック」という分野を確立して行きます。●明治期のスーパー・エリート夏目漱石も“元・不良”とはどういうこと?最後に、夏目漱石について触れておきましょう。明治期のスーパー・エリートで国費で英国留学までした漱石が“元・不良”とはどういうことか、読者のみなさんとしては腑に落ちないことでしょう。しかし漱石も実はベーブ・ルースやジョン・レノンと同じく、親の愛情には恵まれずに育った人 だったのです。生家は江戸の町方名主の家でしたが、明治維新で没落して行く中で養子に出され、実父と養父の対立に巻き込まれたりします。抜群の頭の良さゆえ33歳のときに文部省から英国留学を命じられますが、頭の良い漱石には日本人が近代社会を構成するための大前提である“独立した人格を持つ個人”になれていないことが見えてしまい、神経症に苦しむことに。『坊つちゃん』に登場する「赤シャツ」や「野だいこ」が“上辺だけの近代人”として描かれているように、漱石は個人の独立を伴わずに表面だけ近代化して行く明治期の日本のあり方 に対して日本で一番批判的な“不良”中年だったのです。そして、自分自身が「個人主義になりきれない一人の日本人である」という“劣等感”が彼の創作意欲に火をつけます。漱石は44歳のときに文部省から贈られた博士号の受け取りを辞退しますが、もう一人の明治の文豪・森鴎外が生涯国家官僚の職を歴任したことと対照的です。夏目漱石は49歳で没するまで、反官の不良大小説家としてその溢れんばかりの才能を爆発させたのでした。----------今、「生き方の押しつけにつながりかねない」という理由で、学校教育の現場で「伝記」はあまり積極的には教材として使われていないようです。でも、今回お話ししたような“元・不良”たちの成長過程の記録は、必ずしも“優等生”ではないお子さんたちが将来というものに対して希望をもって向き合えるようになるために、とても有効な教材なのではないかと思います。パパやママにもちょっとだけ「伝記」を見直していただければ嬉しく思います。●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/前田彩(桃花ちゃん)
2017年02月28日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。いわゆる『カジノ解禁法案』の可決で話題になった言葉で『ギャンブル依存症』というものがあります。ギャンブルに伴う楽しさや高揚感の深みにはまり、抜け出せなくなってしまうことを指す言葉です。都内でメンタルクリニックを開院し、依存症に詳しい精神科医のT先生は、『単なる“ギャンブル好き”の人と“ギャンブル依存症”の患者さんとでは決定的な「次元の違い」があり、ギャンブルを好む人のことを一律にギャンブル依存症と呼ぶのは間違い です』(50代女性/都内メンタルクリニック院長、精神科医)と言います。また、『少々ギャンブル好きな人のことまで安易に病人扱いする必要はない』ともおっしゃっています。では、ただのギャンブル好きとギャンブル依存症の境界線とはどこにあるのか。ひとたびギャンブル依存症の域に足を踏み入れてしまった場合にはどうすべきなのか、一緒に考えてみましょう。●ギャンブル依存症の精神科での診断名は『病的賭博』。“借金してまで”が一つの目安『私たちはよくパチンコやスロット、競馬、競輪、宝くじの中でもギャンブル性の強いロトやスクラッチといったギャンブルが大好きな人のことを面白おかしく“ギャンブル依存症”などと呼んだりします。しかし、ギャンブル好きであっても別に仕事を休んでまでパチンコ屋に入り浸るとか、家族につらい思いをさせてまで競輪場に行ってしまうといったように日常の生活に問題をきたすような状態にまではなっていない というのであれば、「ギャンブル依存症」とまでは言えません。それは単なる「ギャンブル好き」です』(50代女性/前出・精神科医)T先生はこう言い、『ギャンブル依存症』と呼ぶには少なくとも下記のような要件を満たしていなければならないと言います。『常識的に考えて、経済的・社会的に「今はギャンブルをしない方がいいのではないか」と思われる状況であるにもかかわらず自己抑制が効かない ことが、ギャンブル依存症と呼ぶにあたっての必要要件です。そのような状態なのに“借金をしてまで”ギャンブルに手を染めてしまうといった症状が、ギャンブル依存症の一つの目安になるかと思います。専門的で複雑な診断基準は別にありますが、一般の人たちにも分かりやすい目安はその辺りです』(50代女性/前出・精神科医)先生によると、ギャンブル依存症の精神神経科での正式な診断名は『病的賭博(びょうてきとばく) 』というようで、1980年から正式な精神疾患として認定されているとのことでした。●身近にそんなにはいないように思えるギャンブル依存症患者だが、実は……こうしてT先生のお話を聞いていますと、自分を含めて私たちの身近にギャンブル依存症が疑われる人というのはそんなにはいないように思えます。けれど、厚生労働省の研究班が2014年に公表した調査結果では、わが国には536万人ものギャンブル依存症患者がいて、しかも国民全体のうちの有病率は4.8%と世界の先進各国の中で群を抜いて高い という結果が出ています。有病率についてさらに言うと、フランスは1.2%、米国(ルイジアナ州)で1.6%ですので、日本の有病率がいかに高いかがわかります。しかし、考えてみれば私たちは毎朝通勤の途中で開店前のパチンコ屋さんの店先に並ぶ人たちの長蛇の列を目撃しています。毎年夏になるとそのお店の駐車場に止めた車の中に長時間子どもを置きっ放しにして親が遊興に没頭し、子どもが熱中症で命を落とすといった悲痛なニュースにしょっちゅう触れているわけです。またパチンコだけでなく、競馬や宝くじといった“合法的なギャンブル”は、わが国では私たち一般庶民のすぐそばに、ごくごく身近で親しみのあるものとして存在しています。つまり、今のわが国は、一見するとそれほど深刻なことには映らないようなギャンブル依存症が、静かに(しかし着実に)まん延している状態だと言うことができるのではないでしょうか。T先生がおっしゃるように、借金をしてまでギャンブルに手を染めてしまうのがギャンブル依存症かどうかの目安であるとするならば、普通の人が持っているクレジットカードで誰に咎められるでもなく、手軽にキャッシングできてしまうこの環境こそ、「見えないギャンブル依存症」の温床になっているというふうに言えるのかもしれません。●ギャンブル依存症が疑われる人がいたら家族や身近な人から専門医の受診を勧めてくださいそれでは、もし私たちの近くに「もしかしてギャンブル依存症なのでは?」と疑われるような人がいた場合、どうしたらいいのか。T先生は、『自分から自覚症状を訴えて来院できる人はほとんどいないので、ご家族や身近な人から専門医の受診を勧めてください』と言います。先生によれば依存症は精神科の専門分野なので、「もしかして、そうかな」と思ったときにはまず一番近くにある地元のメンタルクリニックにご本人を連れてきて、遠慮なく相談してほしいとのこと。その上で、精神科医の中にもそれぞれの得意領域があるので、より専門的な治療が必要な場合は連携している医療機関を紹介しますとのことでした。最後に、T先生によるとギャンブルで得られる快楽はある意味で性的な快楽に匹敵するほどの強いものであるがゆえに、ひとたびギャンブル依存症に陥ってしまった場合には、医療の手助けを借りずにそこから抜け出すことはなかなか難しい とのこと。また、職業別にみると勝負事の楽しさを知ってしまったスポーツ選手や自営業といった仕事の人に、昔も今も多く見られる傾向があるとのことでした。みなさんの身近には、ギャンブル依存症が疑われる人はおられますでしょうか?●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/ゆみ
2017年02月21日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。子育ても一段落し、再び外へ出て働かれているママのみなさん、お疲れさまです。多くのみなさんはいわゆる“非正規”の立場で働いていらっしゃるかと思いますが、 職場で“正社員”の人から理不尽な扱いを受けて嫌な思いをされた経験 はありませんでしょうか。「正社員同士なら、あんな言い方や怒り方はしないはず。パートのわたしを明らかに見下しているようで不愉快」と感じたことはないでしょうか。筆者の野鳥観察仲間でもある精神科医のA先生は、『現在の労働現場にパートやアルバイトの立場で再登板しようというママは、正社員の冷たい態度の問題に、ある程度心の準備をして臨んだ方がいい』(50代女性/精神科医)とおっしゃっています。A先生のお話を参考にし、筆者の実体験と元々の専門である経済思想史の視点も交えながら、職場で正社員からの理不尽な“見下し”に遭ってしまったときの心の持ち方について考えてみることにしましょう。●1990年代後半を境にしてガラリと変わったわが国の“働く現場”の雰囲気わたくしごとで恐縮ですが、筆者が慶応大学の経済学部を卒業して社会に出た1980年代の初めごろ、わが国の“働く現場”に「正社員だから」とか「非正規だから」といったような、雇用形態の違いによる身分の差別というものは存在しませんでした 。最初に就職した企業は通商産業省(現在の経済産業省)管轄の政策銀行だったのですが、支店長も運転手さんも、正職員も用務担当のパートのおじさん・おばさんも、みな同じ職場で働く対等な仲間の関係だったのです。筆者の記憶では1990年代の半ばごろまでは日本の職場はそういう感じでした。80年代の後半に転職して勤務していたメーカーにはパートの工員さんも多く働いていましたが、会議もミーティングも社員と一緒でしたし、飲みに行くときも一緒。また、社員より金額は少ないとはいえ、社長はパートさんにも「気持ち」と言って賞与を出していましたので、今の非正社員の人たちのようにやるせない疎外感を抱くことはなかった かと思います。そして何よりも、パート勤務の20代・30代の工員さんたちが普通に結婚なさっていました。空気が一変したのは90年代の後半です。相対的に国力が落ちるとともに平成不況が長引く中にあって、わが国の企業は社員全体に対して少しずつの我慢を等しくお願いするといった道は選ばずに、同じ会社で働く労働者を安定した身分の“正社員”と雇用の調整弁としての“非正規”に分けることで乗り切っていく道を選んだのです。それまでの「同じ会社で働く人はみな家族のようなもの」という“経営家族主義”の思想を捨て去り、「会社の正式なメンバーは正社員のみである」という考え方に変えたわけです。ちょうどそのころに医療福祉大学の職員を経て健康食品販売の会社を立ち上げた筆者は、取引先のいろいろな企業を訪問する中で、すっかり変貌したわが国の働く現場の雰囲気に違和感を覚えたものでした。こうして1980年代までは勤労者全体の10%台であった非正規労働者は1999年には25%に急増し、2003年には30%を超え今では働く人の約4割が“非正規” という国になりました(総務省統計局『労働力調査』より)。●正社員も精神的には“幸福ではない”ため、ストレスのはけ口を“非正規攻撃”に向ける前置きが長くなってしまいましたが、このような経緯をもって拡大してきたわが国の“非正規”の歴史を見ると、非正規という働き方が今後ますます増えることはあっても減ることはまずないであろうと考えることができます。再就職ママたちもその雇用形態はよほどのことがない限り非正規での有期雇用契約になるでしょう。前出した精神科医のA先生は言います。『会社の正式メンバーである“正社員”の人たちは、その身分こそ安定してはいるもののそれと引き換えにいわゆる“社畜”として会社に忠誠を尽くすことを暗黙のうちに強いられていますので、慢性的なストレスに苛まれることになります。そのはけ口を会社の中でどこへ向けるかといったら、会社自体が自分たちの正式な仲間とは認めていない“非正規で働く人”に向かうのは、むしろ“必然”だといっても過言ではないでしょう』(50代女性/精神科医)●正社員からあまりにも理不尽な扱いを受けることはパワハラに該当するかも……筆者が知っている40代主婦の女性は、ある倉庫業の会社でピッキングのアルバイトとして働いていたとき、正社員の男性から「今日は消防の査察が入る日なんだよ。この線からちょっとでも商品がはみ出てたら俺たち社員が責任を取らされるんだ。アルバイトにいい加減な仕事をされたら迷惑をこうむるのはこっちなんだよ」と怒鳴られたそうです。でも、こんな失礼な話ってあるでしょうか。まず、今日は消防の査察が入るという情報をアルバイトの人たちは知らされていない。情報さえ社員と同じようにもらってさえいればその通りにやっていたのに、です。そして、誰も社員に迷惑をかけようなどとは思っていないのにこの言われよう。『こういったケースは、れっきとしたパワーハラスメントに該当すると考えられます。正社員のこのような心ない言動によって精神的に深く傷つけられたと感じ心身のバランスを崩してしまったときには、精神科を受診していただければ医師が診断書を書くことが可能ですので、それをもって会社のハラスメント担当部署に報告するというのもひとつの方法です。その際、実際の相手が発した言葉の録音などがあればよりベターです』(50代女性/精神科医)●社会が“非正規”を都合よく利用している以上、非正規の人がいちいち傷ついていては損また、別の女性(40代/主婦)は子どもが高学年になったので10年ぶりに事務のパートとして食料品の商事会社で働きはじめたところ、1か月ほど経ったころに同じ部署で事務として働く正社員の女性同士の、概ね下記のような内容の会話が聞こえてしまったそうです。「○○さんのいるところじゃボーナスの話もできないので息が詰まっちゃうのよね」「奥さんの稼ぎが月5~6万程度のパート収入でやっていけるなんて、旦那さんが高給取りか、それとも目指している生活の水準がよっぽど低いかのどっちかよね」「どうでもいいけどさ、努力してなったわたしたち社員に牙をむくような態度をとらないでほしいわよね。あんたが怠け者だから非正規でしか社会復帰できなかっただけのこと じゃない」いやはや、呆れてしまって言葉も出ませんが、A先生は次のようにおっしゃっています。『社会自体が“非正規雇用”というシステムを都合よく利用し放置している以上、このようなとんでもない意識を持つ正社員の人は残念ですがいなくなりません。だとするならこんな心ない言葉を気にしていちいち傷ついていたら損ですので、正社員の心ない言葉や態度に出くわしても気にならなくなる方法を2つ紹介します』(50代女性/精神科医)●正社員の理不尽な言動にカチンときても自分を見失わないための心の持ち方2箇条それでは最後に、A先生による“正社員の理不尽な言動にカチンときても自分を見失わないための心の持ち方”を2つに要約してみましょう。・非正規の人の方がポテンシャルが高いことを肝に銘じること。日本の正社員のサラリーマンが本業以外で一流のプロフェッショナルになることは時間的にきわめて難しいことですが、非正規の人であれば可能性を持っています 。芥川賞作家の村田沙耶香さんは今でもコンビニでアルバイトを続ける非正規労働者です。・自分が非正規なのは「努力してこなかったから」とか「怠けてきたから」とかでなく、「正社員のサラリーマンになることを至上の価値として生きてこなかったから」にすぎないということを思い出すこと。いかがでしたでしょうか。今すぐ収入につながるような“手に職”はなく、家庭の事情から外で働くにしても短時間の勤務しかできないという場合、正規・非正規の区別を撤廃している会社も、探せばあります。職場再登板ママのみなさんの御活躍をお祈りいたしております。●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/貴子(優くん、綾ちゃん)
2017年02月14日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。ここ4~5年の間で、メディアでよく目にするような社会的影響力を持つ人たちの中に、国内外を問わず「他人の意見を聞かない人」が急増しているような気がします。大国の大統領しかり、地方自治体の首長しかり、作家や文化人の中にも自分や自分の作品に関して批判的な意見は聞かない人が目立ちます。わたしたちのような市井に生きる庶民であれば、日々の暮らしに精一杯なので他人の意見をいちいち聞いて動揺していられないといった面もあります。しかし、指導的な立場にある人は世の中のいろいろな層の人々の意見を公平にくみ取ったうえで意思決定をする必要がありますので、他人の意見に耳を貸さないというのは困りますよね。都内でメンタルクリニックを開院し、個人的には筆者の趣味を介した友人でもある精神科医のT先生は、『リーダーが他人の意見を聞かないといった場合には、ある“狙い”をもってあえて意見を聞かないようにしているということが考えられます』(50代女性/都内メンタルクリニック院長・精神科医)と言い、リーダーを選ぶ立場のわたしたち一般市民に警鐘を鳴らしています。どういうことなのか、一緒に考えてみましょう。●リーダーは人の意見を聞かないことで“差異の恐怖”を作る『われわれ精神科の医師がしばしば用いる言葉で、“差異の恐怖”というものがあります。この“差異の恐怖”とはどういうものかというと、「力を持っている者に対して他の人と違う批判的なことを言ったらひどい目に遭うのではないか」といった恐怖心のことをいうのです。リーダーの中にはこの“差異の恐怖”を意図的に利用して市民や部下を支配しようとするタイプの人が必ず一定の割合でいるものですが、現代はこの手のリーダーが極端に増えつつあるような気はします』(50代女性/前出・精神科医)T先生の言うこの「差異の恐怖を味わわせる」という支配の手法ですが、何も国政や地方自治といった分野のみならず、わたしたちが働く職場や住んでいる地域の町内会など、身近な場所でもしばしば目にすることがあります。たとえば企業のある部署で、前任者の部長のやり方をガラリと変えたいと考えた新任の部長がいたとします。会議で前部長時代のやり方に肯定的な発言をした社員に対してその場では特に取り合わずにスルーしておき、翌日その社員を個人的に呼び出して、「もう体制は変わったのだよ。新体制の下でみんな一丸となって頑張ろうとしているときに、きみはこの部署の将来についてどう考えているのかね?」などと詰問する。こういったケースもそれに当たるでしょう。ストレートに「私のやり方の批判ともとれるようなことを言うな」とは言われなくても、呼び出された方は「クビにでもなったらマズいな。次からは今の部長に逆らわないでおこう」と考えるものです。こうして“自分のやり方に対する異論は存在しない ”という、リーダーにとって“思うつぼ”の空気が醸成されて行くわけです。●親が肝を据えて“意見を聞かないリーダー”と闘わないと子どもが大変さて、パピマミライターである筆者にとって気になるのは、わが子がこういった“人の意見を聞かないタイプ”の指導者にあたってしまった場合です。もっとも、このタイプの指導者は特定の分野について自分の指導方針に絶対的な自信を持っていることが多いため、とくにスポーツの世界などで一流になりたいとき、とても頼りがいのある存在になるというケースもあります。ですから、そこはパパやママがわが子を指導する人の人格と実力をよく見極める眼力と、問題がある場合にはおそれずに闘う胆力が必要になります。そうでないと最悪の場合、しばしばニュースで耳にするようないわゆる“虐待”や“しごき”といった事故につながっていってしまう おそれがあるのです。●わが子が“意見を聞かない指導者”にあたってしまったらそれでは最後にT先生からいただいた、“わが子が人の意見を聞かない指導者にあたってしまった場合の対処法”をご紹介いたしましょう。『お子さんに対する指導方針が「おかしい」と感じたら、まずは思い切ってそう切り出し、話し合いをしてください。直接話し合うことによってその指導者が、一定の合理的な理由をもって意見を聞かないのか。とにかく生徒を“支配したいだけ”の人なのか。あるいは人の話を“聞けない”人なのかが、パパやママであれば感覚的にわかるはずです。最初の“根拠があって異論を受け付けない”場合のみ、根気よく対話を続けることでお子さんの成長にプラスの効果を期待することもできなくはないと思います。しかし、“支配したいだけ”の人、“人の話を聞けない”人と感じた場合 には、その指導者からは距離をおかれた方がいいでしょう』(50代女性/都内メンタルクリニック院長・精神科医)----------いかがでしたでしょうか。T先生によると、リーダーは組織を円滑に機能させるために、その在任中は本人の持って生まれた性格にかかわらず人の意見をきかなくなりがちであることは否めないということでした。しかし、最近のようにその傾向が極端になりすぎると子どもたちが委縮し、本来の力を発揮できなくなってしまいます。将来この社会を支える子どもたちが伸び伸びと成長し、誰にとっても住みやすい世の中を作って行くためには、わたしたち大人の一人ひとりが肝を据えて“人の意見を聞かない指導者”と闘って行く必要があるのかもしれません。●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/REIKO(SORAくん、UTAくん)
2017年02月07日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。通勤電車の中で、ささいなことにイラついて舌打ちをしている人に出くわしたとき。「それについては自分が悪かった。すまん」の一言で済む話なのに、小さなミスを部下のせいだと言わんばかりに悪あがきする社員の様子を会社で見てしまったとき。「自分の子どもにだけは、ああいう器の小さな人間に育ってほしくないな」と、思いますよね。都内でメンタルクリニックを開院する精神科医のT先生(50代・女性)は、『器が小さい人にならないためには器の大きい身近な人のマネをすることを、精神科医の立場からはおすすめしたい』と言います。わが子に“器の大きい人”に育ってほしいと願っているパパやママのみなさん、一緒に考えてみませんか。●まずはパパとママが器の大きな存在であることが大切“器の大きい人”というと私たちは、日本史上の人物なら坂本龍馬や伊達政宗、本田宗一郎などを、世界史上の人物ならリンカーンやエジソン、ヘレン・ケラーなどを一般的には思い起こすかもしれません。ただ、そのような歴史上の人物たちというのは、いくら書物や資料が残っているとはいえ、もう二度と直接目にしたり会話したりすることはできません。また、その人たちが本当に器が大きかったのかどうかを確認する方法もありません。だからこそT先生が言うように、“身近にいる器の大きい人物”のマネをすることが有効 なのです。T先生はさらにつづけます。『子どもにとっていちばん身近な人。それは、言うまでもなくパパとママです。パパとママが器の大きな存在であることこそが、子どもを器の大きい人間に育てるためのもっとも大切な条件であると言うことができるでしょう』(50代女性/都内メンタルクリニック院長・精神科医)●器の大きなパパとママとはどんな人かでは、器の大きなパパとママとはどんなパパとママでしょうか。T先生によるとこうです。『器の大きいパパ・ママとは、一個人として自分の意見ははっきり言うけれど、それを子どもにけっして押しつけないパパ・ママのことです。血のつながった実の親かどうかなどということは関係なく、このような保護者のもとで育った子どもは器の大きな大人になります』(50代女性/都内メンタルクリニック院長・精神科医)筆者なりに補足するのであれば、器の大きいパパとママには・やたらに怒らない・慌てふためかず、落ち着いている・誰とでも話ができ、誰のことも拒絶しない・他人を決して見下さないなどといった特性があると思います。そういった特性を持っている親に共通した“子どもに対する態度”が、「自分を持ちながら自分を押しつけない 」という姿に凝縮しているのではないでしょうか。●父親ではなく、器の大きな叔父のマネをした人の例おしまいに。この話の流れだと両親の器が小さいと器の大きな大人になることは絶望的と思われてしまうかもしれないので、必ずしもそうではないという実例をお話しして締めくくりたいと思います。筆者の中学・高校の同窓生に、有名な政治家の長男と次男がいました。長男は筆者の2年先輩、弟の方は筆者の2年後輩だったため、筆者は運のよいことに二人の実際のその人柄に触れることができたというわけです。その後長男は父親と同じく政治家になり、弟の方はタレントになったのですが、この兄弟、二人のことを知る者の10人中9人から「弟の方が器が大きい」と言われるのでした(お兄さまの方の器が小さいということではありません)。例に漏れず筆者もまたそう思うものですから、二人と共通の知人である先輩や後輩たちにいろいろ聞いてみると、弟の方はどうも政治家の父親ではなく戦後わが国の庶民から圧倒的な人気を博したスター俳優だった叔父さんの立ち振る舞いをマネして大きくなっていったようなのでした。このように、子どもが“器の大きな大人”に成長していく上でのロールモデル(あの人のようになりたいというモデルとなるような人物のこと)は必ずしも親でなくてもいい ようです。「ああいうふうに大きな人間になりたいなあ」と子どもが思い、無意識のうちにその姿をマネしたくなるような大人が身近にいさえすれば、器の大きな大人に育つことは十分可能なのかもしれません。----------いかがでしたでしょうか。みなさんのご家庭ではパパが“器の大きな人”のロールモデルとなるか、それともママがなるのか。はたまたパパでもママでもなく、豪快で優しいおじいちゃんなのか。考えてみると楽しくなってきませんか。●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/REIKO(SORAくん、UTAくん)
2017年01月31日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。都内でメンタルクリニックを開院し、個人的には筆者と共通の趣味を介した友人でもある精神科医のA先生(50代・女性)はここ数年、主に男の子を持つママからある相談を受けることが多くなったと言います。その相談とは、「息子は勉強もスポーツも音楽や美術といった芸術面でもこれといった得意分野がなく、将来そこそこの収入を得られる職に就けるのかどうかがものすごく不安」といった内容のものだそうです。なぜ女の子ではなく男の子のママなのか。その相談に答えはあるのか。一緒に考えてみましょう。●男の子に対して「逆ジェンダー差別」があるわが国の社会この手の相談事が男の子を持つママから集中的に寄せられることについてA先生は、わが国には女の子に対してというよりも、むしろ男の子に対して「逆ジェンダー差別」ともいうべきものが根強く存在していることが一つの原因としてあると言います。『たとえば女の子であれば別にこれといってものすごく勉強やスポーツができなくても、子どもが好きだから保育士になりたいとか、食育を通して世の中に貢献したいから栄養士を目指すといった夢が持てる面があります。ところがそういった職業の世界はなぜかわが国では男の子に対して排他的なところがある。女性の社会進出を進めるうえでも男性の保育士がもっともっと増える必要があるにもかかわらず、男性がその道を選ぶことに躊躇をしてしまうような雰囲気があるのです。まさにこれは男性の社会進出を阻害する「逆ジェンダー差別」のようなもので、こういった例はよく見ると日本社会の随所に見ることができます』(50代女性/都内メンタルクリニック院長・精神科医)●普通の男の子が持てる夢が少ないという現実A先生が指摘する「逆ジェンダー差別」のようなものが男の子に対して存在するうえに、これといって勉強もスポーツも音楽も美術も得意でない男の子が持てるような夢が、今の世の中には少ないという現実もあります。昔だったらそんな男の子は最低限の勉強だけはしたうえで技術力を持った町工場に就職して職人になるという道がありました。ところが今は経済のグローバル化にともなってそういった町工場は国内では少なくなってしまいました。また、勉強は好きではないので料理人を目指すといったケースも以前は多くありましたが、今は料理人修行ができるような経営基盤がしっかりしたお店はどちらかというと富裕層をお得意さんとして成り立っている場合が多いです。そのため、広く一般庶民のために料理を作りたいという夢を持った子にとっては、「ちょっと違うんだよな」という感じがあるかもしれません。●中の上程度に勉強ができる子が担当してきた分野の方が人工知能に取って代わられる?ゲームクリエイターになりたいと思っても小さなころからソフト・プログラミングの習い事をさせてもらえなければ基礎を身につけることができないし、通知表がオール3の普通の男の子は何を目指したらいいのか。ママたちの悩みはわかるような気がするのです。でも、悲観的にばかりなっていることはありません。A先生は次のように言っています。『これからの数十年間で人間が実際に人工知能に仕事を奪われてしまう職業分野というのは、そのほとんどが「中の上程度に勉強ができる子が担当してきた分野」です。具体的に言うなら、銀行の審査・融資担当者や税理士、警察官や自衛官といったフィジカル系以外の公務員、法律事務所の事務員などといった仕事で、人間から切り替えてもさほどのコストがかからず仕事の内容に関してはむしろ正確性が増す分野だと言えます。これに対して、例えば理容師や美容師、ダンサー、ゲームクリエイターでもソフト・プログラミングではなくストーリー創作の担当者といった感性がものをいう分野は人間の仕事として残ります。これといって勉強もスポーツも音楽もできなくても、普通の男の子たちが活躍できる分野は無限にあると言ってもいいでしょう』(50代女性/都内メンタルクリニック院長・精神科医)●多くのママが自分の息子の将来が心配だからこそ塾に通わせ無難な道を歩かせたがるいかがでしょうか。考えてみれば、世の多くのママが男の子を塾に通わせ、そこそこ有名な大学を卒業させ、規模の大きな会社に就職させたがるのも、みなさん自分の息子が勉強でもスポーツでも芸術分野でもそれほど秀でているわけではないからと心配しているがゆえなわけです。かつて、忌野清志郎さん(故人)というロックスターは、『これといって才能のないやつは大学に行ったらいいさ』という名言を残しましたが、まったくその通りなのです。他人より物凄く秀でたものを持っている子は放っておいてもその道のプロフェッショナルになって行きますので、あえて大学になど行く必要はないのです。けれども、わが子のことが心配で精神科の医師に相談するママたちの“子を思う気持ち”は、それはそれでとても尊いものなのではないでしょうか。少なくとも筆者はそう思います。大丈夫。これといって特長がないように見えて、息子さんはいずれちゃんと自立して行きますよ。今も息子さんが夢中になって遊んでいる“あれ”を、生涯の仕事として。●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/REIKO(SORAくん、UTAくん)
2017年01月24日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。今から10年ほど前、夫の厚生年金を離婚時に分割できるようにした年金制度変更に伴って、わが国の“熟年離婚”の件数は急増し、今や年間4万件に迫る勢いだと言われています。しかしその一方で、現時点ですでに高齢者になっている世代とこれから5年後10年後に高齢者の仲間入りをする世代とでは、“熟年離婚”というものに対する態度が同じであっていいものなのかと言う人が筆者の旧友の精神科医におり、筆者もそういった意見に関心を持っています。今回は“熟年離婚”について、一緒に考えてみましょう。●熟年離婚とは何か。どのような原因で離婚に至るのかそもそも、“熟年離婚”とは何でしょうか。言うまでもなくそれは“中高年の夫婦の離婚”のことであり、一般的には結婚して20年以上が経つ夫婦の離婚を指します。言葉そのものは1960年代の終わり(昭和40年代の中ごろ)あたりから存在していたようですが、とりわけ注目されるようになったのは2007年(平成19年)。それまで離婚したら妻はもらえなかった夫の厚生年金を離婚時に分割できるようにした年金制度変更以降の離婚件数増 からかと思われます。2014年には年間3万6,800件を超え、25年前と比べて7割増となっているのです。長い年月にわたって苦楽を共にした夫婦がどうして人生の終盤で離婚を決意するのか。これまでに数多くの中高年の患者さんから離婚するべきかどうかといった悩みを打ち明けられた筆者の旧友で精神科医のA医師(50代・女性)によると、熟年離婚へと至る原因にはいくつかのパターンがあるそうで、概ね次のようなものだということです。『妻側の言い分としては、臭くお腹が出て頭も薄くなった夫を生理的に受けつけられない。夫の暴力やモラハラが耐えられない。夫の母親と同じ墓に入りたくない、など。夫側の言い分としては、ずっと専業主婦であることに疑問も持たずに肥りぬくぬくと生きていることが許せない、などがティピカルなパターンです』(50代女性/都内メンタルクリニック院長・精神科医)●団塊世代より下の世代が熟年になってから離婚することは、どうなのかさて、この“熟年離婚”、たしかに件数的にはかなりの数字になりつつあります。しかし、これから高齢者になる私たちが、現在すでに年金を受給している団塊以上の世代の高齢者の人たちと同じように「俺も熟年離婚するぞ」「わたしも熟年離婚するわよ」と血走ってしまってよいものなのか。前出のA先生はこう言っています。『わたしたち団塊より一回り下の世代が年金を受給できる年齢を迎えたときには、わが国の社会保障制度の給付内容は間違いなく今よりも大幅に劣化しています。したがって、夫婦二人でなら乗り越えることができたであろう経済問題でも一人では太刀打ちできないというケースが容易に想定できる。安易に熟年離婚を志向することにはリスクがいっぱい です。ポスト団塊世代であるわたしたちは、今の高齢者たちとは違う熟年期の夫婦関係の理想形を模索し、備えるべきです』(50代女性/前出・精神科医)●お互いを尊敬して協力し合うライフスタイルで脱・熟年離婚それでは、夫婦がお互いを尊敬し協力し合って生きる熟年期のライフスタイルは、どうすれば作り上げることができるのでしょうか。筆者は、「何だかんだいっても、この世界中に、この人以上に自分のことを知っている人など存在しない」ということを、改めて認識することによって可能になると思っています。熟年離婚して、その後に、自分という人間について一から面倒な説明をしないでも分かってくれている人と出会えるでしょうか。それは、ありえません。もちろんパートナーの暴力やハラスメントがどうしても治らないといった場合は別です。唯一このケースでは熟年離婚も検討すべきだと思います。しかし、そうでない限り、そんな大切な人をけっして手放すべきではありません 。『何年も夫婦をやってこれたということは、二人の間に感性や価値観の共有があったからこそです。その点をよくわきまえて、50代に入ったら、夫婦とは精神的に結びついた存在なのだと思うこと。過度な金銭的充実、身体的充実を志向したところで所詮無理があると割り切ることです。同じ花を見て和み、同じコントを観て笑い、同じ絵を鑑て美しいと思うこと。そうすることで、熟年離婚という夫婦にとって最も悲しい結末を、回避することはできるはずです』(50代女性/前出・精神科医)長年にわたって熟年離婚の相談に乗ってきたA先生もこう言っています。身体的には衰えても精神的にお互いを尊敬して協力し合うこと。それこそが本当の愛情というものではないでしょうか。熟年離婚をしても経済的に“逃げ切れる”上の世代の人たちのことを格好いいなどと思う必要はありません。●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/前田彩(桃花ちゃん)
2017年01月17日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。今回は、子育ても一段落して「そろそろまた働いてみようかな」と考えていらっしゃるママのみなさんへ、「やりがいの搾取を目論んでいるブラック企業にご注意を」というお話です。「時給は安いがパティシエへの道が開けるかも」といったうたい文句でアルバイトのスタッフをこき使う洋菓子店。「お年寄りから“ありがとう”と言われたときの喜びはお金なんかに代えられません」というフレーズで低賃金のケアスタッフを募集する介護事業者。都内でメンタルクリニックを開院する精神科医のT先生(50代女性)は、『やりがいという人間なら誰もが持っている自己実現欲求に巧みに付け入って、少ない報酬で労働力を搾取することは犯罪行為に等しい』と警鐘を鳴らしています。●“やりがいの搾取”って何?そもそも“やりがいの搾取”とは何でしょうか。“やりがいの搾取”とは、今から10年ほど前に教育社会学者の本田由紀先生が提唱した概念で、人間が誰でも持っている「生きがい」や「やりがい」といった自己実現への欲求を利用して勤労者を低報酬でとことん働かせる企業運営の仕組みや構造のことを指します。最近話題になった例でお話ししますと、2016年の11月に全日本教職員組合(全教)が発表したアンケート調査の結果で、全国の公立小中学校の図書館で非正規で働く司書の人の半数以上(52%)が年収100万円に満たない ことがわかりました。司書の資格を取る人は本が好きで子どもの世話をするのが好きな傾向があるため、司書として働くことができているというそれだけで「やりがい」「生きがい」を感じる場合が多いのです。非正規とはいっても司書である以上する仕事は正職員の司書とほとんど同じですし、拘束時間にしても正職員の司書と比べて極端に短いわけではありません。それなのに年収が100万円にも満たない。これではいくら仕事にやりがいを感じているとはいっても、それでもって自立した生活を営むための職業とはなりえません。●子育て卒業再就職ママにとっても無関係の話ではありません「別に、わたしの収入だけで生活していこうってわけじゃないし」「生活設計はあくまでも夫の収入がベース。わたしがまた働こうと思う理由は、子どもが手を離れたことでできた時間を使って自分の自由になるお小遣い程度のお金だけでも稼ごうかなって思ったから」。ほとんどの子育て卒業再就活ママさんは、このようにおっしゃるでしょう。その通りだと思います。ただ、みなさんにとっても“やりがいの搾取を狙ってくるブラックバイト先”というものは決っして無縁ではないことだけは記憶しておきましょう。少し前ですが、“ポエム居酒屋”というものがマスコミでも話題に上りました。「お金なんか二の次。大切なのはやりがいだ!」などと書かれたポエムともいえないような詩を店長が自ら掲げて、アルバイトの学生や主婦の人たちに唱和させるという、見ようによっては異様な光景ともいえる朝礼・夕礼を実践している居酒屋チェーンの話題です。知名度があり職場環境もまずまず衛生的な会社なので、30代から40代くらいの子育て卒業ママもアルバイトとして数多くの人が働いていました。ところがこの会社、店長が「○○さんの笑顔を待っているお客様がこれから来店するのだから、あと1時間頼むね」などと、主婦や学生のアルバイトの人たちに退勤のタイムカードをスキャンした後の残業を強要 し、多額の未払い賃金を抱えていたのです。有名企業だしお客さんたちとのコミュニケーションも楽しいと感じて“やりがい”を持って働いていたママさんたちは、騙されてしまったわけです。●やりがいの搾取は精神科医の立場から見ると“悪質な詐欺”前述した精神科医のT先生は次のようにおっしゃっています。『やりがいの搾取は、自己のアイデンティティーを確認したいという、人間が本来持っている基本的な欲求に付け入っているため、わたしたち精神科医の立場から見ると“悪質な詐欺”行為であると断言せざるをえません』(50代女性/前出・精神科医)T先生によると、やりがい搾取の被害に遭ったという趣旨の訴えでクリニックに来院した患者さんに比較的多い職種として、塾の講師、不動産関連の会社の営業ならびに事務職、介護関連職、居酒屋やファミリーレストランのアルバイト店員などが挙げられるということです。筆者自身の体験から申し上げますと、医療関連職は医師や看護師さん以外はやりがいの搾取に遭いやすいですし、小売業・卸売業などの物品販売業も縮小社会となったわが国の国内市場に限定すれば、やりがいの搾取に遭いやすいといえます。また、商業デザインやアクセサリー製作、キャッチコピー・ライティングのようなクリエイティブ系の仕事を「自宅に居ながらネットで手軽にできます」のような触れ込みで募る形式の事業所のなかにも、「やりがいがあるのだから報酬が少々安くても仕方ないでしょう」的な運営姿勢の企業がときどき見られますので、子育て卒業再就活ママのみなさんにはぜひとも気をつけていただきたいと思います。●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/倉本麻貴(和くん)
2017年01月03日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。附属病院併設の医療系大学で事務職員として仕事をしていた筆者は今でも現役で医師をしている友人を数多くもっていますが、ここ数年、彼(彼女)らが自分の専門の診療科目を超えて危惧している共通の心配事があります。筆者と会ったときにも必ずと言っていいほど話題に上るその心配事。それは、「子どもたちのスマホ依存はもはや一定のレベルを超えた“スマホ病”ともいうべき段階に入っており、スマホ病の子どもたちが大人になった十年後の社会がとても心配だ」ということです。医師たちがいう“スマホ病”とはどのようなものなのでしょうか。その病を患った子どもたちが大人になった十年後の社会はどうなるのでしょうか。一緒に考えてみることにいたしましょう。●すでに若者の多くはスマホなしには人間関係の“間”がもてなくなっているまずご紹介したいのは、精神科医の立場から子どもたちの“スマホ病”を危惧している、都内でメンタルクリニックを開院するA先生のお話です。A先生は言います。『お気づきかもわかりませんが、すでに高校生・大学生の多くはスマホなしには人間関係の“間”がもてなくなってしまっています。通学の電車の中でも友人たちとの昼食中でも、スマホを奪われたらそれこそずっと居眠りをしていなければならないほど現実の人間たちと向き合えないような子が大多数 になっています。これでは少子化にますます拍車がかかるのも当然ですし、スマホという隠れ家を手に入れて面倒な人間関係にかかわらなくてもよくなったわが国の子どもたちが海外の同世代人たちと外交交渉をしなければならなくなったときにどうなって行くのか。とても心配ではあります』(50代女性/都内メンタルクリニック院長、精神科医)●世の中がLINEによる“村八分”にビクビクする人間の集団に次に取り上げたいのは、これはもう中学生・高校生の子どもをもつ親御さんであればみなさん気にはなっている問題だろうとは思いますが、優れたメール機能を有するスマホアプリの代表格『LINE』における“村八分(むらはちぶ)”の問題 です。村八分とは、昔の日本の農村部で村の決まりに背いた人が出たときに村人全部が申し合わせてその人やその家族と絶交することで、火事と葬式以外の件は一切の交流を断つというわが国特有の陰湿ないじめの一類型です。これについては、前述のA先生からその話題が出るずっと以前より筆者自身がとても憂慮していたことでもありました。そもそも、相手から勝手に送られてきたメールを読もうが読むまいが、そんなことは個人の自由であるはずです。ところが、LINEという超近代的なスマホアプリによって見事に復活した前近代のいじめ形態は、今やわが国の中学生・高校生の日常生活を四六時中監視し、支配しています。A先生によれば、『中高生以上の子どもたちの間では、村八分にされることが怖くて年がら年中スマホ(LINE)をチェックしていなければならないという文化 は既に定着してしまっている』ということになり、「他人がなんと言おうと自分は自分の道を行くぞ」といった近代的な自我や自尊心のような意識が破壊されつつあることに警鐘を鳴らしているのです。●精神科領域だけではない“スマホ病”の弊害いかがでしょうか。今回は主に精神科医の立場から気にかかる子どもたちの“スマホ病”について考えました。医師をしている筆者の友人でも整形外科が専門の人はいわゆる“ストレートネック”による目まいや頭痛、手足のしびれといったスマホによる健康被害を気にかけています。都内で眼科クリニックを開院している医師のM氏は、『今、驚くべき速さで若い人の“老眼”が増加している 。これは、10代半ばのころから毎日毎日長時間にわたってスマホを使用しつづけてきたことと無関係ではないように思う』(40代男性/都内眼科クリニック院長、眼科医)と述べ、患者とその保護者の人たちに注意を呼びかけているとのことでした。社会の将来を担うのは言うまでもなく、子どもたちです。わたしたち大人は医師たちがこれほど心配している子どもたちの“スマホ病”というものに関して、もう少し真剣に考えて、対処して行く必要があるのではないでしょうか。●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/大上留依(莉瑚ちゃん)
2016年12月27日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。20年来のつき合いで、個人的には筆者のバードウオッチング仲間でもあるN先生(50代男性/都内多摩地区のメンタルクリニック院長)は、精神科・心療内科の医師ですが、『最近、夫の悪口を喋りまくるために来院される奥様方、とくに専業主婦の方がとても多い』と言います。そう言われてみると、筆者が日頃よくお話しをする既婚女性の方々も、そのお立場がいわゆる“専業主婦”に近ければ近いほど、夫の悪口をおっしゃっているように思えます。精神科や心療内科などの診療所は伴侶への愚痴を「病気」と捉えて治療する場所ではありませんが、諸々の心身症的な症状が伴侶に対するストレスに起因したものであるとするならば、『精神科医として適切な処方箋は書かなければならない』とN先生は言います。今回はそんなお話をしたいと思います。●夫を嫌悪する妻たちの主訴は“夫への生理的嫌悪感”と“夫の行動への不快感と理解不能”N先生がおっしゃるに、主婦の方々が発する“夫の悪口”は、ザックリ言うと次のような内容のものが多いそうです。『まず、「夫が生理的に無理 」「気持ちが悪い」といった感覚のもの。次に、「休みの日や定年退職後の毎日を家でゴロゴロして過ごすだけの夫が不快」という内容のもの。そして、「夫の行動が理解できない」「妻や子にいろいろ悩み事があるときなのにフラッと出かけてしまう神経がわからない」といった内容のものが目立ちます』(50代男性/前出・医師)「生理的に無理」というのは男性としてはまことに哀しいかぎりですが、たしかに妻と出会ったころに比べたらお腹は出るは髪の毛は薄くなるはで、「気持ちが悪い」と言われてしまう理由もわからないではありませんね。また、休みの日のゴロ寝にしても悩み事を相談したいのにフラッと出かけしまう習性にしても、夫族なら誰にでも思い当たるふしがありはしませんでしょうか。●専業主婦の女性に“夫を嫌悪する妻”が多い理由多かれ少なかれ世の夫たちに見られるこのような傾向を、“嫌悪”するほど許せなくなってしまうのは“専業主婦”の女性に多いというのが、冒頭でも紹介したN先生の実感です。では次に、なぜ専業主婦の女性たちはそれほどまでに夫に嫌悪感を抱いてしまうのかについて考えてみましょう。N先生はその理由を、“ストレスを発散できる場所の有無”に見出しています。『たとえば週に2~3日、1日3~4時間程度のパートやアルバイトでも、外に出て仕事をしていれば仲間ができます。同じ労働を通してできた仲間というのは言ってみれば“戦友”のようなものなので、かなりプライベートな問題まで聞いてもらえるお友だちが見つかる可能性があるのです。これに対して純然たる専業主婦の方にはそこまで深い話ができる友だちはできにくい。悩みを聞いてくれない夫に関する愚痴を吐き捨ててストレスを発散できる相手も場所も無い のです』(50代男性/前出・医師)●夫を嫌悪する妻たちへの処方箋は……そこで、夫への嫌悪感が原因で心身に不調をきたしている女性(主に、専業主婦の人たち)へのN先生が書く処方箋はどのようなものかということですが、もちろんそれぞれの患者さんを個別に診察してよくお話を聞いたうえでという大前提のもとに、おおむね次のように分類されるそうです。『第一に、うつ状態を呈している場合はうつの治療をします。お話をよく聞いたうえでの心理療法が基本ですが、必要があれば薬物療法も使用します。第二にストレス起因の身体症状が認められる場合、内科的な診療も行ったうえでやはり患者さんとの会話の中からストレスの緩和方法を模索します。第三に、これがいちばんケースとしては多いのですが、心身ともにさほど重大な問題点が認められない場合。この場合わたしは短時間でも外で働いてみること をすすめてみたり、何度でもいいので心が落ち着かれるまでわたしのクリニックに愚痴を吐き出しに来ること をおすすめしています。以上が、夫を嫌悪する奥さまたちへのわたしが書く処方箋の基本類型です』(50代男性/前出・医師)----------いかがでしょうか。結局、いちばん多いケースでは、ご本人が口で言うほどには夫のことを嫌悪しているわけではないのかもしれません。はじめはちょっとしたストレスでも発散する場所がない専業主婦の方々はそれを自分一人で抱え込んでしまったときに、いちばん身近な存在である夫への嫌悪感や不快感といった形をとって噴出する。ならば短時間でもいいので外で働いて愚痴を言い合える“戦友”をつくり、少しでも自由に使えるお金を得てストレスの解消に使ってみるのもいいのではないでしょうか。戦友たちとカラオケボックスで発散するのもいいものです。そして、諸般の事情で今は外で働けないという場合は、メンタルクリニックという密閉された空間で、“人の悩みを聞く専門家”である精神科のドクターに吐き出してみてください。ご本人が思っているほど旦那さまのことを嫌っていなかったことに気づくかもしれません。●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/杉村智子(まさとくん)
2016年12月20日こんにちは、エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。「“好き”だけで結婚しなけりゃよかった」というのは既婚の女性にとって永遠の“心の声”なのかもしれません。「あのとき伯母が紹介してくれた老舗の御曹司と一緒になっていれば」とか、「顔なんかイマイチでも三世代住宅付きのあの男性と結婚してたらなあ」だとか。第一印象で「この人しかいない!」と思い込んで、突っ走って結婚した今の旦那で本当によかったのだろうか。ときどきそんなことを考えてしまうアナタに、今回のコラムは読んでいただきたいと存じます。都内で精神科・神経内科のクリニックを開院する医師のT先生(50代女性/都内精神科・神経内科クリニック院長)は、『人と初めて出会ったときの第一印象というものは大事にすべき。異性に対するいわゆる“一目惚れ”も、そういった大切な判断材料の一つです』と述べ、第一印象の良さを重視して結婚へと至ることは医学的に間違ったことではないとおっしゃっています。今回は「一目惚れで結婚することは間違っていない」という説のエビデンスについて一緒に考えてまいりましょう。●一目惚れ結婚を後悔するのは、結婚相手に経済力がなかったとき女性が一目惚れで結婚してしまったことを後悔するのは「結婚した相手の男性の経済力が思っていたほどではなかった 」と感じたときに多いのではないかと思われます。具体的な例えを挙げてお話ししてみましょう。出会ったころの夫のことを「若いのに自分の趣味でもある楽器の専門店を経営して立派に生活してるなんてステキだわ」と好きになり、彼の方からも「僕のことを世界でいちばん理解してくれるあなたを愛しています」と言われれば、それは結婚することになりますよね。でも、結婚後の生活は現実そのものですから自営でお店を経営していくことはけっして甘くなく、欲しい服も買わずに我慢して生活費を切り詰めながら夫のお店の業績好転を待つということも必要になってきます。そんなときにふと、「ああ。旦那に一目惚れなんかしないでもっと安定した職業の男性と一緒になってた方が生活楽だったんだろうな」との思いが一瞬頭をよぎったとしても、仕方のないことです。●偏桃体が瞬時に下す総合判断は相手の潜在的可能性にまで及ぶので信頼性があるただ、それはそうなのですが、旦那さまの経済力といっても70年、80年の人生の中の30歳時点、40歳時点のものですよね。旦那さまの楽器専門店は今後、他にそのようなお店はどこを探してもないということもあり稀有な存在になっていく可能性もあります。今は経済的には楽でなくても、それでも旦那さまとああしよう、こうしようと話すことそのものが楽しいのであれば、それは幸せな結婚生活です。冒頭でご紹介したT先生は一目惚れをするということについて『自分自身の遺伝情報をはじめとして、これまでに経験したありとあらゆる情報を基に脳がシミュレーションをしたうえで総合的に判断を下した結果である』と述べています。つまり、彼の現状に関して今はお店の経営が安定せず楽ではないかもしれないけれど、二人で助け合い、励まし合ってコツコツと真面目に努力を重ねていけば、いずれは高収益体質の立派なお店に成長させることがきっとできる。そういった可能性まで含めてあなたの脳が総合的かつ瞬時に判断している のかもしれないのです。人が人を好きになるメカニズムについては近年の脳科学のめざましい進歩もあって、だいぶ解明されてきています。T先生の説明をそのまま記しますと、『脳の奥深くにある扁桃核が、出会った相手が自分に“良く”作用する存在か“悪く”作用する存在かを一瞬で総合判断し、「好き」と決まれば大量のドーパミンがどっと放出されて脳全体を駆け巡るため止めようのない恋愛感情が生まれて相手と一体化したいと願うようになる』といったメカニズムです。そして脳による総合判断はその人の遺伝子レベルまで包括した未来予測に及ぶ ものですから、相応の信頼性があるということなのです。これこそが、“第一印象”を頼りに“一目惚れ結婚”に突き進むことは間違ったことではないと、T医師が述べるエビデンス(根拠)なのです。●脳が「苦手だな」と判断した相手と無理をしてつき合うことこそ問題T先生によればむしろ、『第一印象で「苦手だな」と感じた人と無理をしてつき合おうとすることこそ問題』だといいます。話を分かりやすくするため、再び具体的な例えを挙げてみましょう。伯母さんが紹介してくれた老舗の御曹司。30代の若さで一国一城の主で高収入。親から生前贈与を受けた持ち家もあり。こんな人と結婚したなら経済的な心配などとは一切無縁な生涯が約束されているのだろうなとは思うけど、ちょっとだけ庶民を見下したようなところが感じられてそれだけが気がかり。こんなとき、伯母さんのすすめに従っておつき合いをした方がいいのでしょうか?答えは、T先生によれば「ノー」です。あなたの脳はあらゆる情報から“庶民を見下したような高慢な人”のことを「敵」として認識している からです。そのような相手と無理しておつき合いをつづけていると、『ストレスがたまり、精神的に不安定な状態に陥るおそれがある』とT先生は指摘します。●きっかけは“第一印象”でオーケーいかがでしたでしょうか。要するに、「きっかけは“第一印象”でオーケー」ということですね。T先生がおっしゃっているように、“一目惚れ”には医学的な根拠がありますので、その人の本能的判断で突っ走って結婚したことを後悔する必要はありません。大切なことは結婚してからもずっとお互いを尊敬し合い、助け合って暮らしていくことでしょう。一目惚れで結ばれた二人になら、きっとできるはずです。●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/福永桃子
2016年12月13日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。みなさんは、「父性(ふせい) 」という言葉をご存じでしょうか。筆者のように、かつて医療福祉大学の事務方のコーディネーターとして多くの医師たちと一緒に仕事をしていた者にとっては何度も耳にした言葉ですが、 普通はあまり耳馴染みのない概念ではないかと思います。父性とは、子育てにおいて父親に期待される性質 のことです。一般論としては、「母性」が子どもの欲求を無条件に受け入れ包み込んでやる性質であるのに対し、子どもに社会的ルールや忍耐といったものを教える能力や性質 のことを「父性」と呼んでいます。映画評論家でもある精神科医の樺沢紫苑先生は、著書の『父親はどこへ消えたかー映画で語る現代心理分析ー』で、今のわが国でみられる“いじめ”や“引きこもり”、“草食系男子”といった精神医学的な諸課題がすべて「父性の消失」と深く関わっていると指摘し、今この問題に対処しないと10年後の日本は大変なことになるとの危惧を表明しました。その一方で、臨床歴40年超のベテラン児童精神科医である佐々木正美先生は、『母性と父性は量的なバランスはさほど問題ではなく、先ずはありったけの母性をもって子どもをありのままに包み込んでやることこそが重要である。先に母性、後から父性という順番こそが大事なのだ』という主旨の自説を展開されています。今回は子どもをもつすべてのママやパパと一緒に、「父性」というものについて考えてみたいと思います。●母子家庭にも父性はあり、父子家庭にも母性があるさて、父性というものについて考えるときに忘れてはいけないことがあります。それは、父性はけっして男性に固有のものではなく、一方で母性もけっして女性に固有のものではない ということです。片親でも立派に子どもを育てている家庭が数えきれないくらい存在することが証明しています。母子家庭にも父性はあり、父子家庭にも母性があるということです。佐々木正美先生は上述したように、母性と父性の量的なバランスはさほどの問題ではないとおっしゃっていますが、それでも『母性が強すぎると甘えん坊で自立できない人間が育ち、父性が強すぎると幼児性と攻撃性が出てくる』と指摘しています。何事も“すぎる”ことはよくないということですね。その意味では、シングルマザーやシングルファーザーで立派にお子さんを育てている人は、一人で母性的な役割と父性的な役割を実にバランスよく担われているということだろうと思います。●現代は母性が強く自立できない子が多いというが、子どもにとって一番大切なのは母性この母性と父性のバランスについて、現代は母性の方が強く父性が消失しつつあることが非常に問題だと提起をしたのが、冒頭でも紹介した樺沢紫苑先生です。著書である『父親はどこへ消えたかー映画で語る現代心理分析ー』の中で樺沢先生が一貫して言いたかったことは、『現代は、子どもにとって「乗り越えるべき存在」である父親というものが最初から存在していない時代である』ということです。そしてそのことが“いじめ”や“引きこもり”といった諸問題と深く関係していると、樺沢先生はおっしゃりたいようです。一方、同じ精神科医でも児童精神医学が専門の臨床医である佐々木正美先生はまったく逆の見方をしています。佐々木先生の見方では、現代は「そんなことをしてはいけません」というふうに子どもに厳しく制限をする“父性の強い家庭”が目立つというのです。そして、子どもが健全に育つためには、「親はどんなことがあっても無条件に自分のことを愛し、守ってくれる」という絶対的な信頼感・安心感こそが大切なのであり、この“無償の愛”を与えることができるのは母性以外にはない 、という見解です。そこから、『まずは母性で無条件に子どもを愛し、厳しさやルールを教えるのはそのあと』という、佐々木先生独自の「母性愛・父性愛を与える順番の定理」が導き出されたというわけです。●順番は「母性の愛」から「父性の愛」の順番でさて、樺沢医師や佐々木医師の見解について考えたうえでわが身を振り返ってみますと、筆者は母親も父親も「父性」が強い家庭で育ったため、少年時代は攻撃性の強い子どもでした。負けん気が必要以上に強かったため人と軋轢を生むことも多く、今だったら「空気が読めないやつ」として“いじめ”の対象となり登校できなくなっていたのではないでしょうか。ただ筆者の両親は二人とも、“自分の子どもは何であれかわいい。かわいくてしかたない”といった感じの「母性」も持ち合わせた人間であったため、まずそこから出発して育てられた自分は道を大きくは踏み外さないですんだのではないかという気がするのです。たしかに樺沢医師が言う通りで、現代は昔のように『巨人の星』の“星一徹”のような父親はまず存在しません。それが子どもたちの忍耐の足りなさや“引きこもり”につながっているというなら、そういった面はなくはないのかもしれません。ただ、自分が育った過程を見つめ直すにつけ、とにもかくにも原点に「無条件の母性の愛」があったからこそ、その後に両親から受けた厳しい指導の数々にも決定的に人格を歪められることなくすんだのではないかと思うのです。その意味で、筆者は佐々木正美先生の意見に共感します。子どもにはまず何よりも「母性」の愛を無条件に与え、「父性」的な愛をも受け入れられる準備が十分に整ってから社会の規範やルールを教えるというのが、正しい在り方だと思います。みなさんはいかがお考えになられますでしょうか。【参考文献】・『父親はどこへ消えたかー映画で語る現代心理分析ー』樺沢紫苑・著・『抱きしめよう、わが子のぜんぶー思春期に向けて、いちばん大切なこと~』佐々木正美・著●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/神山みき(れんくん)
2016年12月06日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。報道各社によると、法務省は成人の年齢を現在の20歳から18歳に引き下げる 民法改定案を国会に提出する方針を決めたようです。改定案が成立すれば早ければ2021年の4月から18歳の子が民法上の成人となりますので、筆者の下の息子はまさにわずか18歳で大人扱いされる第一期生ということになります。『子育てが終わらない 「30歳成人」時代の家族論』などの著書がある精神科医の斎藤環先生は、『20代のほとんどが親がかりの生活を送っている中で、経済的に自立し、行動に責任を負える18歳がどれほどいるでしょうか』と、法務省法制審議会の民法成年年齢部会でも成人年齢の引き下げに反対。わが国の現状を考えると、若者を成人として大人扱いすることができるのは『25歳(以上)というのがギリギリ』と言い、精神神経科の医師として政府の方針に異を唱えました。この問題、成人前の子どもをもつ親として、わたしたちも一緒に考えてみる価値があるのではないでしょうか。●当事者である18歳・19歳の人たちは成人年齢18歳への引き下げに反対している斎藤先生は成人年齢の引き下げに反対する理由として、2016年1月に受けた朝日新聞のインタビューの中で、『人が大人として成熟する節目は、実質的には就労と結婚、子どもを持つことだと思う』と述べました。そのうえで、『18歳、19歳の若者の側から「成人年齢を引き下げてほしい」という声を聞いたことなど一度もない』と指摘しています。この斎藤先生の指摘には統計的な根拠もあり、2016年5月に実施された読売新聞の調査によると、成人年齢18歳への引き下げについて「賛成」の18歳~19歳はわずか35%。これに対して「反対」が64%でした。当事者である18歳・19歳の人たちは概ね引き下げに反対 しているわけです。斎藤先生が引き下げに反対する第一の理由はこれです。●富裕層の子と特殊な職業の人を除けば20代前半までに経済的に自立できる人は少ない“大人としての権利を与えるから納税の義務をはじめとする国民の義務全般を負ってくれ”というのであれば、若者が(ブラック企業でない企業に)就職して、最低限の文化的生活を送ることのできる社会環境が整っていることが前提になるのだろうと思います。しかし実際には、20代の前半ごろまでに経済的に自立できる若者がどれくらいいるでしょうか。プロスポーツの一流選手や売れっ子のタレント・芸能人、親の資産に依って生きることができる富裕層の子ども。そんな人たちくらいしか思い浮かびません。以前であれば、高校卒業後に堅い会社に就職して2年が経った20歳のときにはある程度自立できていたとも言えるでしょうが、それはせいぜい昭和40年代前半まで。今は昔の話です。18歳や19歳では「自立」というにはほど遠い生活状況しか手に入らないというのが現実であるにもかかわらず、自分の意思で契約をしていいですよという“大人としての権利”を与える代わりに、“大人としての義務 ”を早くから負うという負担が増える。これには、『大人としての負担や義務を今よりも増やそうという大人側の意識が働いている』と斎藤先生は指摘します。だからこそ成人年齢の安易な引き下げには賛成できないというのが、斎藤医師が“18歳成人”に反対する第二の理由です。●「欧米では18歳成人が常識」は無意味。若者対策が遅れている日本では単なる自立強要さらに斎藤医師が指摘するのは、「欧米では18歳成人が常識」という法務省側の論拠についてです。この説明に対して斎藤先生は、『日本はOECD加盟国の中で唯一、青少年を担当する専門の省庁が存在しません。育った家庭の経済力などの関係できちんとした教育を受けることができなかった若者たちをサポートする体制や、段階的に自立を促す器がまったく用意されていない』と指摘します。たしかにそう言われてみると、そんなに収入の高い仕事でなくても、働くことの喜びと自分の手で収入を得ることの喜びを若者たちに手に入れてもらうための取り組みを今よりもっと真剣にやってもらうことの方が、成人年齢引き下げの議論などよりも先だろうと、筆者も13歳の子どもの親として、2歳の孫の祖父として思います。これが第三の反対理由です。●精神科医療の臨床現場ではわが子を無条件で愛せない親が増加。早く放り出すのは危険第四の反対理由。これこそが斎藤環さんが精神神経科の医師としてもっとも問題視している点かと思いますが、それは“子どもの虐待件数がどんどん増加している傾向 ”です。朝日新聞のインタビューで斎藤先生は次のように述べています。**********『児童虐待防止法の施行で実態が透明化されたこともあり、児童相談所での相談件数は施行前の5倍以上です。親子だからといって無条件に子どもを可愛がるわけではないという現実が身もふたもなく露呈しています。団塊世代の親は、まだ無条件にわが子を可愛がる傾向がありました。しかし臨床の現場では、親がひどい目にあうくらいなら子どもは捨ててもいいくらいの認識が一般化してきている印象です』(2016年1月19日付『朝日新聞』より)**********言われてみると、街なかで自分の子どもに対してあまりにもひどいんじゃないかと思えるような暴言・暴力をふるっている親は、昔よりずっと増えているような印象を受けます。行政はサポートしてくれない、親は子どもを無条件で愛してくれない、このような傾向の中で国が納税者を増やしたいがゆえに今よりも早い段階から子どもを法的に大人扱いするのは逆効果ではないかと筆者も思います。優先されるべきは“成人年齢の引き下げ”ではなく、“成人への移行期における就労サポート ”のシステムでしょう。●結論として、現代のわが国では何歳で成人がリーズナブルなのか?それでは、今のわが国では本当のところ何歳で成人とするのが「社会的・精神的な自立」という意味においてリーズナブルなのでしょうか。キャリアカウンセラーの小島貴子さんとの共著である『子育てが終わらない 「30歳成人」時代の家族論』の中で斎藤環先生は、次のように端的に結論づけています。**********『27歳が社会的自立の節目である。順調に就労が進んだ場合に何とか自立の見込みがつく時期が、今のわが国では27歳という年齢である』**********----------いかがでしょうか。もちろん、成人年齢を18歳に引き下げようとしている国には国の事情があるのでしょうし、今の国会の党派別議席構成をみれば、18歳成人法案は現在13歳の子どもたちから現実のものとなるでしょう。それはそれとして、子どもをもつママやパパとしては、斎藤医師のように「行政がやろうとしていることが子どもたちにとって本当にいいことなのか」と自分の頭で考える姿勢だけは常に持っていなければいけないと思います。筆者はどちらかというと、「今のままでいいのではないか」という意見ですが、みなさんも一度「わが子が“未成年”を卒業するのは何歳がベストか 」を考えてみるのはどうでしょう。国の方針と同じように、「18歳成人がいい」とおっしゃるかたはそう多くはないような気が、筆者はしているのですが。【参考文献】・『子育てが終わらない 「30歳成人」時代の家族論』斎藤環、小島貴子・共著●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年11月29日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。ベストセラーになった『下流老人一億総老後崩壊の衝撃』の著者で、社会福祉士・社会運動家の藤田孝典さんは、「老後破産にいちばん陥りやすいのは、 年収700万円前後の現役時代に比較的収入に恵まれていた世帯である」という主旨のことを述べて広く国民に警鐘を鳴らしました。その反響は大きく、今では現役時代の収入にかかわらず、不測の事態によって誰でも老後破産に陥る恐れがあるということが常識として定着しつつあります。藤田さんは社会運動家の立場から、西欧の先進諸国に比べて著しく遅れたわが国の社会保障行政の問題点を鋭く指摘しますが、一方で老後貧困に陥りうつ状態を呈して訪れる患者さんたちの診察にあたっている精神科の医師の中には、「足るを知るという心の持ち方ができていないと、結局お金がいくらあっても精神的に充実したシニア・エイジを過ごすことはできない」と、異口同音に指摘する人たちが存在します。これからシニア・エイジを迎える者の一人として、皆さんと一緒に、今回はこの“知足”の思想 を重要視している複数の精神科医たちのアドバイスに着目してみたいと思います。●「退職後に数千万円が必要という言葉に惑わされてはいけない」と言う保坂隆先生『精神科医が教える50歳からのお金がなくても平気な老後術』などの著書がある精神科医の保坂隆先生は、『マスコミやネット上に溢れる「退職後に数千万円が必要」といった言葉に惑わされてはいけない』と言っています。お金はその人の人生観やライフスタイル、家族状況、生活環境、健康状態などによっていくら必要になるかが全く違ってくるため、老後に数千万円は必要だといったような、金融資本ビジネスの立場から庶民の不安を煽るような言説を鵜呑みにしてはいけない ということです。また保坂先生は、**********『慎ましい暮らしでも明るく過ごしている人もいれば沢山お金を持ちながら不安でたまらないという人もいる。生き方を分けるのは、ものの捉え方である。人と比べず、不要な物は持たず、身軽に、自分流で、低く暮らし高く思う。このような心の持ち方ができていればシニア・エイジの毎日を心から楽しんで暮らすことは誰にでも可能である』**********と言っています。●「世間体を過剰に意識したらいくらお金があっても足りない」と言う吉本博昭先生次にご紹介するのは、“内観療法”という心理療法の第一人者でもある、医師で精神科アイ・クリニック(富山市)を開院する吉本博昭先生の見解です。現役時代に収入が比較的多かった人たちを、一転して“老後破産”へと追い込んでいく原因として最も大きなものが「病気」と「介護」であることは藤田孝典さんも指摘していますが、吉本医師は内観療法研究の機関誌『やすら樹』に寄稿した『医療と内観~知足(ちそく)~』という文章の中で、以下のような主旨のことを述べておられます。『知足(ちそく)という思想は中国の哲学者・老子が書いた「老子道徳経」に出てくるもので、「足るを知る者は富む」すなわち「今あるものの中に積極的に喜びを見出す生き方ができている者は幸いだ」という考え方である。老子の思想と数多くの共通点を持つ中国仏教の禅宗にも同様の概念があり、京都の龍安寺にある蹲踞(つくばい)に記された「吾唯足知(われ、ただ、たることをしる)」という言葉も老子の理念と同じ意味である。自分は精神科の医師として、「この患者さんは知足という考え方を持ってさえいれば病気にならなかったのではないか」と思うことがとても多い』そして吉川先生は、『境界性パーソナリティー障害とまでいえなくても、他人の生活水準より低いことを必要以上に恐れたり世間体を過剰に気にしていたらお金などいくらあっても足りないし、心身の健康という意味でもきわめて不安定な状態と言わざるをえない』といった主旨の結論づけをされているのです。●老後破産に陥ってしまった元プチ富裕層の人たちによく見られる傾向とはそれでは、保坂隆医師や吉本博昭医師らが異口同音に述べる“知足の心”という概念を念頭に置きながら、藤田孝典さんら社会福祉の専門家の人たちが共通して指摘する、“老後破産に陥ってしまった元プチ富裕層の人たちによく見られる傾向”についてまとめてみましょう。筆者がみる限り、ざっと次のような点を挙げることができます。●(1)持ち家にこだわるがゆえに身動きがとれなくなってしまった現役時代の収入に比較的恵まれている大企業のサラリーマンの場合、住宅ローンが難なく組めるがゆえに、ややもすると分不相応な持ち家や分譲マンションにこだわる傾向があります。同僚に対する見栄もあったでしょう。ところがこれが意外とくせもので、自分や家族が思いがけず大病を患ったり介護を要するようになったりしたときに、ローンがあるがために身動きがとれず 、賃貸住宅で暮らす人のように安い家賃の住居に柔軟に移ることができずに破たんしてしまう。こういうケースはしばしばみられます。●(2)学費が払えたがために無理をして子どもを私立学校に通わせてしまった私立の中高一貫校の学費を何とか払っていけるだけの収入があったがために、無理して子どもを私立に通わせ、生活が苦しくなってしまったというケースもよくみられます。無理をしてでも将来少しでも収入の高い仕事に就けるようにとの親心はわかるのですが、藤田孝典さんは言います。**********『最近では無理して私立中高・有名大学を卒業しても就職した会社が世間一般では一流企業と呼ばれているにもかかわらず内実はブラック企業で、うつ病になるとか、会社を辞めて再就職できないケースも多い。そうなると30歳前後の子どもを定年退職してから養わなければならず、親の年金頼みの子どもによって老後に経済破たんしてしまう例が珍しくありません』(『週刊現代』2015年11月6日号より)**********●(3)プライドのせいで定年後に就ける職がないため年金以外の収入が皆無定年退職後に20年〜30年もの人生が待っている今の超高齢化社会では、リタイアした後でも年金以外の収入があった方が安心です。ところが、現役時代に比較的高い収入を得ていたような人たちは中途半端なプライドが邪魔をして 、「警備員なんかできない」「駐車場の交通整理など無理」のように“○○したくない”が先に立ってしまう傾向があります。これに対し、比較的低収入だったシニアの人たちはつまらないプライドが無いため、倉庫管理員でも清掃作業員でも抵抗なくこなし、結果的に60代以降の継続的な収入では元プチ富裕層の方が少なくなってしまうきらいがあるのです。----------いかがでしょうか。上記の他にも、「一度手にした生活水準をどうしても落とすことができなかった」とか、「どうしても見栄があって第三者にSOSを発信することができなかった」といった傾向が指摘できるかもしれません。こういった傾向は、保坂隆医師や吉本博昭医師らが言う“足るを知る”という心の持ち方ができていないということと関連するように思いませんか?現役時代にそこそこ高収入であった人の方が老後破産に陥りやすい という傾向を“自業自得”のように評するのではなく、知足の心を持って生きないことには結局は誰しも穏やかで充実したシニア・エイジを過ごすことはできないのだということの教訓にすべきなのではないでしょうか。【参考文献】・『精神科医が教える50歳からのお金がなくても平気な老後術』保坂隆・著・『一生お金に困らない老後の生活術』保坂隆・著・『下流老人一億総老後崩壊の衝撃』藤田孝典・著●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/TOYO
2016年11月22日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。わが国で『セクシャルハラスメント』(以下“セクハラ”と略す)という言葉が一般的に使われるようになったのは1989年の新語・流行語大賞の新語部門でこの言葉が金賞を受賞したころからだったかと記憶しています。そのころと比べればずいぶんと世間のセクハラに対する目は厳しくなり、女性が理不尽な不快感に苦しむことの少ない社会にはなったように思います。しかし、筆者が最近気になっているのは“限りなくパワハラと一体化したセクハラ ”で、絶対的に優位な立場を利用して卑劣な行為を行う人を見ていると同じ男性としてとても情けない気持ちになってしまいます。都内でメンタルクリニックを開院する精神科・心療内科医のT先生は、『パワハラ一体型のセクハラが原因で適応障害などの大事(おおごと)に至ってしまう前に一度、心療内科の医師のところへ相談にきてほしい』と言います。子育ても一段落してパートやアルバイト、派遣といった形でまた働いてみようと考えておられる女性のみなさんにも参考にしていただければ幸いです。●セクハラ被害の相談件数は、派遣労働者のほうが正社員の3倍以上も多いT先生が言う“パワハラ一体型のセクハラ”とは、これまでも「対価型セクハラ」などと呼ばれてきた“職場における階級の優位性を利用して下位にある者に対して行う性的なハラスメント行為 ”に近い概念です。製造業などの作業現場で監督・指導をする立場にある上司が、作業スペースの狭さを利用して作業員の女性に体を密着させてきたりすることもこれに当たるでしょう。セクハラ自体が本来パワハラの一種であるとする考え方もありますが、筆者が近年この“限りなくパワハラに近いセクハラ行為”が目立つのではないかと感じていることには統計的な裏づけもあります。厚生労働省が公表している『個別労働紛争の相談状況』や『派遣労働者実態調査』の直近の数字と、総務省が実施している『労働力調査』の雇用形態別雇用者数の数字などから算出すると、2014年以降のセクハラ被害の相談件数は派遣労働者で正社員の実に3倍以上も多い ことがわかっています。そのため、近年のセクハラは“単に性衝動に基づいたもの”と考えるより、“パワハラと一体化したもの”の方が多いと考えた方が自然だからです。よほどのことがない限り無期限の雇用を保障されている恵まれた人たちによって、景況や業績といった理由で企業側の都合でいつ雇用契約を打ち切られてもおかしくない非正規雇用という弱い立場で働いている人たちが、理不尽で不快なセクハラ行為の被害に遭っている。そうだとすれば、これは看過できないことなのではないでしょうか。●左手薬指のダミー指輪の効果も今は昔、既婚女性こそセクハラ被害に遭いやすい傾向がしかもこうした“パワハラ一体型セクハラ”の加害者となっているような相対的に上位の職責にある人たちが、ここ数年来の傾向としてセクハラ行為の対象を“未婚女性”から“既婚の女性”へも広げてきている ことが、このタイプのセクハラ問題をより深刻化させていると、前出のT先生は指摘しています。『たとえば以前であればセクハラ行為の主たる被害者であった未婚の女性が、わざとダミーの指輪を左手の薬指にすることでセクハラ被害に遭う危険性を減らすことに効果がありました。「既婚者の女性と、面倒なことにはなりたくない」といった思いが加害者側にあったからです。ところが最近は、「既婚の女性の方がセクハラ行為に対して我慢強い 」みたいに相当身勝手な思い込みを抱いているセクハラ加害者が増え、ダミーの指輪のようなセクハラ撃退法が功を奏さなくなりつつあります』このようなお話を日頃からセクハラ被害の相談に携わっている医師の口から聞くと、パワハラと一体化したセクハラというものは被害者の“生活”という人の暮らしの根源的な部分の弱みに乗じているため、かなり質(たち)の悪い ものであるような気がしてきます。しかしそれでも、『対処法はある』と、T先生は言います。●パワハラ一体型セクハラの加害者は自分の立場が揺らぐことが何よりもこわい『パワハラと一体化したセクハラ行為をする人は、被害者である非正社員の女性が抗議をすることはあっても“雇い止め”につながりかねない法的な手段にまで出ることはまずないだろう と高をくくっています。非正規雇用の人にとっては数か月とか半年の単位でやってくる雇用契約の期限のときに会社側が「この人は面倒だ」と感じるような状態にあれば、雇用契約を打ち切ることに会社側には現行法上何の非もないため、適当な理由でもって雇い止めにしてくれるだろうと思っているからです。したがって法的に闘う場合にはセクハラ上司が明らかに法に触れる行為をしているという証拠の収集 が必要で、これは次の職場を探しておく必要がある非正社員のセクハラ被害者にとってはかなりの負担になります。一方、パワハラ一体型セクハラへの対処法として、法的な手段ではなくわれわれ医師に相談していただくという方法が存在します。この場合法的に“闘う”のとはちょっと違って、被害者の心身の健康を“守る” という感じの対処の仕方になります。パワハラ一体型セクハラの被害者にはストレスからくる集中力の低下、不安感、恐怖感、抑うつ感、イライラ感、わけもなく涙が出る、喉の異物感、頭痛、胃痛などの心療内科的な症状が伴うため、医師の立場で患者を守るというスタンスの対処法です』(50代女性/前出・心療内科医師)T先生はこう言い、具体的には次のような段取りの対処法をおしえてくださいました。パワハラ一体型セクハラの被害に遭ってしまったときには、(1)事態をできるだけ落ち着いて省み、自分には非はなく悪いのはセクハラをする上司の方である ことをまず自覚する(2)その上で、セクハラ上司の上司にあたる立場の人の中で、できるだけ信頼がおけ自分の話をきちんと聴いてくれそうな人は誰かを選定する(3)(2)ができたらわれわれ医師の方で事態の改善に有効と考えられる診断書を書きますので、(2)で選定した“セクハラ上司の上司”に診断書を携えて 相談してくださいパワハラ一体型のセクハラをする加害者は自分の立場が揺らぐことが何よりもこわいため、このような対処法が有効であるというのがT先生の見解です。その点が“単に性衝動に基づいたセクハラ”と質的に区別されるということでした。なお先生によれば心療内科や精神科のほか、レディースクリニックやウイメンズクリニックのような看板を掲げている医療機関であればほとんどのところでセクハラの相談にのってくれるとのこと。法務関連の専門機関と連携しているクリニックもある とのことです。自分の立場の優位性や自分が手にしている権力をいいことにパワハラ一体型のセクハラをしてくるような上司に、泣き寝入りをつづけることはありません。●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/倉本麻貴(和くん)
2016年11月15日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。筆者の中学高校時代の友人で、“絵を描くことが大好きな子”が3人いました。それぞれ描く絵のモチーフも技法も違うのですが、共通するのは3人とも時間さえあれば(時に、絵を描いていてはいけないときでも)いつでも絵を描いていたこと。 3人とも人とのコミュニケーションはあまり得意でなかったこと。そして3人とも、いってみれば“気が利かない”人間であったことです。3人が医師の診断を受けたと聞いたわけではないので無責任なことは言えませんが、3人とも陰で「発達障害ではないか」と言われるような個性を持った人たち で、その後1人は“巨匠”と呼ばれる漫画家になり、1人はイタリアに渡って世界的なカーデザイナーになり、もう1人もその世界では知らない人がいないほど有名なメカニックデザイナーになりました。ちなみにこの3人や筆者が通った中高は、“変わり者”を許容してくれる学校ではありました。精神科医で小児科医でもある竹川敦先生は自身が院長を務める仁和医院のホームページの中で、『発達障害児から自由人へ、そして天才へと変わっていった ような人たちこそが、現代のこの便利で文化的な世の中を作ってくれた』という主旨のことをおっしゃっています。今回は、知的な遅れはない“高機能広汎性発達障害”と思われる子が天才へと育っていける環境はどうすれば意識して作ることができるのか、精神科医の見解を参考にしながら考えてみたいと思います。●国立の大学生の10人に1人は発達障害竹川先生は仁和医院のホームページで発達障害を、『いわゆる対人コミュニケーション能力、問題解決能力、臨機応変さ、想像力や気を利かせる能力などの低下を認めるものの総称』と定義しています。そしてそれは『遺伝的な脳の構造の問題なので治るものではない 』とし、『自分の性格傾向を周囲の人に説明できるようになること、生き方の工夫をすることが治療である』と述べています。障害の程度や重複の有無、生活環境や年齢などによっても症状は違ってくるため、一言で発達障害といっても相当に多様な精神医学的概念であるということができるでしょう。知的な遅れがなく普通に日常生活が送れるためにあえて専門医の診断を受けることもない“高機能広汎性発達障害と思われる人”も含めると、『発達障害は今の学童の5%、国立の大学生の10%はいる 』と、竹川先生は指摘しています。●海外の先進国では発達障害者の長所を伸ばす教育が普及しているこのような発達障害の人たちの中には実は歴史上の偉人や天才と呼ばれるような人がとても多いという事実を、精神神経科や児童精神科を専門とする医師のほとんどが認めています。前出の竹川医師も仁和医院のホームページの中で、・トーマス・エジソン・スティーブン・スピルバーグ・ビル・ゲイツ・ウォルト・ディズニー・トム・クルーズ・アルベルト・アインシュタインといった人たちの名前を出して発達障害であるとしていますし、筆者の友人の精神科医では、・マイケル・フェルプス・スーザン・ボイル・スティーブ・ジョブス・ジョン・F・ケネディなども発達障害であったと言う人もいます。こうしてみると海外の人に発達障害の偉人や天才が多い印象を受けますが、それは印象にとどまらず事実である と断言する児童精神科のベテラン臨床医で、杉山登志郎先生というわが国における高機能広汎性発達障害の権威がおられます。杉山先生は2009年11月1日発売の『ビッグイシュー日本版130号』の中で、次のような主旨のことをおっしゃっています。『実際のところ発達障害の天才や偉人は多い。代表的な例としてはやはり物理学者のアインシュタインだろう。本人の言による症状から、自閉症スペクトラム障害が疑われる。これは自閉症、アスペルガー症候群、その他の広汎性発達障害などの診断が明確にはつけにくいケースまでを一連の連続体としてとらえた概念である。「発達障害」という言葉は特に「社会的な適応障害」を伴うものを指す場合が多いため、私は高機能広汎性発達障害のことは「発達の凹凸(おうとつ)」と言うほうがしっくりくると考えている。凸(とつ=長所)の部分を活かせる分野 に出逢え、理解のある企業に就職できたり理解のある組織や団体と契約できたりした場合には、健常者では考えられないようなスケールで才能を発揮することがある。ただ、海外の先進国では凹凸の凸の部分を伸ばすための特別教育が実施されているのですが、日本ではその考えは根づいていない。凹(おう)の部分をサポートしながら長所を伸ばしていく 。そんな教育体制が望まれます』●さらなる多様性と共生重視の教育をいかがでしょうか。絵を描くことが大好きだった筆者の3人の旧友たちはたまたま日本では珍しく“変わり者”に寛大な私立学校に通えたのでその才能を存分に伸ばすことができましたが、一般論としてはわが国の教育体制の中に発達障害の子がその長所をとことん伸ばせるような理念が根づいているとは言い難い ように思えます。それでも筆者は、日本の戦後教育はそれ以前の時代(戦前・戦中)と比べれば計り知れないくらい質が良くなり、発達障害の人への理解も進んだ“始めの一歩”ではあったであろうと思うのです。なぜならば、そうでなければアスペルガー症候群であることを公表している『いま、会いにゆきます』で有名な小説家の市川拓司さんやADHD(注意欠陥多動性障害)を告白しているバンド『SEKAI NO OWARI』のボーカリスト・Fukaseさんのような人たちが、発達障害のために何かと叩かれながらも周囲の友人たちの理解を糧に今日の成功を手にすることはなかった はずだからです。多様性を認めて共生するという考え方が戦前や戦中より教育現場において遥かに浸透していたからこそ、市川さんやFukaseさんの才能をわたしたちも楽しむことができるようになったのです。発達障害の人が天才へと育っていける環境は、さらなる多様性の重視、共生の理念の浸透にかかっているのだろうと思います。【参考リンク】・20.発達障害について | 仁和医院ホームページ()●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年11月08日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。わたくしごとで恐縮ですが、筆者の義理の両親つまり妻の父親と母親は、それぞれ間もなく91歳、88歳の誕生日を迎えようとしています。二人とも全然“無病息災”でここまで来たわけでなく、義父は働き盛りのころ『バセドウ病』を患いましたし、今は脳梗塞の後遺症で言葉が不自由です。義母の方も長いこと『心筋症』や『関節リウマチ』を患っており、体の状態そのものはガタガタだと言った方が適当でしょう。それなのに、二人とも至って元気で普通に暮らしています。あまり病気をしなかった筆者の実の両親が最期はあっさりと病に命を奪われて他界したのとは対照的です。岡山市で内科・リハビリテーション科の診療所を開業する医師の土肥博道先生は、“多病息災 ”という概念の提唱者でもありますが、『人間は病気になっても年を取ってきても、今を生き積極的に脳や身体を使ってさえいれば、誰でも百寿者(百歳以上の人のこと)になることは可能だ』とおっしゃっています。今回は長寿の人たちや病気でも元気な人たちの人生から“多病息災の生き方 ”を学んでみたいと思います。●脳が委縮しても認知症の症状が出ない人、進行癌が広範囲に転移しても百寿者になった人土肥博道先生が院長を務めている『さとう内科』のホームページには、二人の百寿者の生涯について興味深い記述がなされています。一人目は認知症研究者の間では有名な人なのですが、アメリカの修道女で福祉活動家でもあった『シスター・メアリー』です。ミネソタ大学の予防医学研究グループが678名の修道女を対象として実施した研究で、101歳で亡くなったシスター・メアリーの脳は委縮が強く、βアミロイドの沈着が見られ、典型的なアルツハイマー病患者の脳だったそうです。にもかかわらず、シスター・メアリーは亡くなる直前まで正常な認知機能と運動能力を保ち、認知症の症状が全くなかったとのこと。土肥先生はこのシスター・メアリーの例から、『たとえアルツハイマー病の病変が多数存在し明らかにアルツハイマー病に罹患していると認められる状態であっても、シスター・メアリーのように積極的に脳を使っていると認知症の症状がでないことがある 』と断じています。シスター・メアリーは84歳まで現役の数学教師として教鞭をとり、晩年も福祉活動家として熱心に仕事をしていたということでした。二人目はかつてわが国の最高齢者であった116歳の女性です。最期は癌で亡くなったその女性を死後に解剖してみたところ、癌は肝臓や腹腔内にまでひろがり、きわめて広範囲に転移していたそうです。それなのに彼女は116歳で亡くなるそのときまでずっと元気だったとのこと。土肥先生はこの女性の例をあげて、『多病息災という生き方・心の持ち方で暮らせば、たとえ進行癌があったにしても癌の症状が表面に出ないことがあり得る 』と述べておられます。●多病息災の生き方とはどのようなものかそれでは、土肥博道先生がおっしゃる“多病息災”の生き方とは、どのようなものなのでしょうか。土肥先生が旧姓の“佐藤”博道というお名前だったころの著書に、『多病息災にくらす健康生活術』という本があります。その中で先生は、筆者なりに要約するなら次のような主旨のことをおっしゃっています。“健康だけが価値をもつかのように考えるのは間違いである。とくに超高齢化社会を迎えつつあるこれからの時代、加齢に伴って免疫力が低下した高齢者が人口のうちの多数を占めるというのに、「無病息災」でいこうなどと考えるのは非現実的。1つも病気がない状態を目指すのではなく、7つも8つも病気があって、なおかつ治りにくいと言われるような病気もあるのに、そんなことに気を取られないで病気と上手く付き合いながら生きていくことが大切である。誰かの役に立ち、自分が夢中になれる仕事や趣味に没頭しながら今を生きる 。このような姿勢で生きてさえいればシスター・メアリーらのようにアルツハイマー病になっても癌になっても、普通の生活ができるのである。これを「多病息災」の生き方と言う”●周りを見まわしてみれば“多病息災”で生きている人は意外と多い冒頭の話に戻りますが、筆者の義理の両親は二人とも“多病”であるにもかかわらず、“息災”(無事であること)で、いよいよ百寿者に近づこうとしています。でも筆者の義理の父母だけでなく、周りを見まわしてみると“多病息災”で生きている人はけっこう多いのではないでしょうか。わが国を代表する俳優さんで白血病や胃癌を患いながら、まるで「そんなことは大したことではない」と言うかのように精力的に国内外で活躍されているかたがいます。この役者さんは筆者と同い年でもあるためその生き方はとても励みになります。英国の天体物理学者であるスティーヴン・ホーキング博士は、まだ学生であった1960年代に『筋萎縮性側索硬化症(ALS)』を発症しました。この病気では進行に伴って全身のいたるところの筋肉が動かなくなりますので、1つの病気で人を“多病”にしてしまいます。人工呼吸器を使用しなければ発症して数年から5年程度で死に至る病気の患者でありながら、博士は74歳になる現在でも画期的な研究を続け、現代宇宙論に多大な影響を与えています。あたかも研究を続けるためには難病に気を取られている時間はない とでも言いたげに見えます。それから、なにも有名人に限らず、みなさんの身近にも多病息災の人がいませんか?筆者の知人で「今回は○○癌だ」「前回は△△癌だった」「その前は□□癌をやったよ」などと、気にかける様子もなく笑い飛ばしている企業経営者の人がいます。間もなく60代を迎えようとしていますが、彼なども“多病息災”の生き方を実践している人なのでしょう。----------おわりに、土肥博道先生が院長を務めるさとう内科のホームページから、多病息災について記した素敵な文章を引用しておきます。**********『(医者になった)最初のころは病気の予防が最も大事だと思っていましたが、次第に、病気になったら病気でもいいんだと思うようになりました。(中略)やはり、人間の一生は「生老病死」から逃れることはできないんだということに気がつきました。人間は年とともに、みんな多病息災で生きていくしかないのです。大切なことはできれば病気にならないようにすること、もし病気になったら病気を受け入れること、そして病気の進行を緩くすることです。そのために養生があり、医療があります』**********還暦が近づいてきた筆者としては妻ともども、土肥先生のこの言葉を噛みしめて生きていきたいものだと思っています。【参考文献】・『多病息災にくらす健康生活術ー病気も老いも仲良くつきあう22章』佐藤博道・著【参考リンク】・がん・生活習慣病・老化予防のための生活術 百寿者に学ぶ | さとう内科()●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年11月01日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。筆者はこれまでに『パピマミ』に寄稿したコラムの中で何度か『音楽療法』についてとり上げてまいりました。しかし、それらはいずれも『音楽回想療法 』と呼ばれるべき『回想法』という手法を取り入れた心理療法の一つであり、本当であれば先に回想法全般についてのお話をさせていただくのが正しい順番であったのではないかと、今は考えております。そんなわけで今回は、筆者の実際の介護体験からも認知症の進行抑制に効果が感じられた 『回想法』や『音楽回想療法』について、心理療法に造詣の深い精神科・老人科の医師にうかがったお話を参考にしながら、ご紹介してまいりたいと思います。●回想法とは何か『回想法とは、1963年に米国の精神科医で老年医学者であったロバート・バトラー博士によって創始された心理療法です。バトラー博士は、高齢者にとってイキイキと暮らしていた時代のことを回想すること は自信や自己肯定感を回復させ脳を活性化させる、さらに過去の懐かしい思い出を誰かに話すことで脳が刺激され精神状態を安定させる効果が期待できると提唱しました。以来欧米を中心に高齢者の抑うつ感の改善・認知症の予防や進行の抑制に効果のある心理療法として発展し、わが国でも厚生労働省所管の国立研究開発法人である国立長寿医療研究センターでその有効性が検証されています。認知症が治るというほどの劇的な効果が期待できるわけではありませんが、やらなかった人よりは認知症の進行を遅らせる ことができ、表情もやわらかくなれるという意味で、在宅でも取り入れていただきたい認知症の対症療法の一つです』(50代男性/関東地方精神科・老人科クリニック院長、医師)関東地方のとある中堅都市で精神科・老人科クリニックを開院するA先生はこのように述べ、回想法は自宅でも家族がセラピスト役になって簡単にできる方法なのでぜひ試してみてほしいとおっしゃっています。●「特に優れた回想法」(日野原重明医師)としての“音楽回想療法”さて、この回想法を実施するにはそれこそいろいろなツールが考えられるわけです。たとえば高齢者のかたたちが子どものころに遊んだ玩具や折り紙などを用いて、夢にあふれていた少年少女時代を回想する方法。あるいは戦後、焼け跡からの出発ではあったにせよ自由と民主主義を手にしたことによって男女の恋愛をおおらかに描いた映画を堂々と観られるようになった青春時代。当時観た映画をDVDで鑑賞してもらい、奥さま(旦那さま)と出会ったころを回想していただくのもいいでしょう。でも、“105歳の現役医師”として名高い日野原重明先生によると、そういった方法にも勝る「特に優れた回想法」があるというのです。それが、『音楽回想療法』です。日野原重明医師はご自身が監修した『標準音楽療法入門・理論編』の中で次のように述べています。**********『音楽はいろいろな出来事と結びつきやすく、特に高齢者の記憶を再生し回想する手段として用いられる。回想に使われる方法としては写真や絵、草花なども用いられるが、音楽の強い情緒性が特に長期記憶と結びつきやすいために、優れた回想法になるものと考えられる』**********さまざまな回想法が考えられる中で、特に音楽を用いた回想法の効果が抜群である ことを日野原先生は指摘していたのでした。●高度の認知症にもかかわらず『北国の春』を聴いてにっこりとほほ笑んだ父日野原先生がおっしゃるような“音楽を用いた回想法の効果の高さ”について、筆者には思い当たる実体験があります。50代のはじめごろ、87歳になっていてすでに認知症が“高度”の段階に達していた父親に関する思い出です。そのころには父はもう筆者の顔を見て「やあ。社長!」などと言うほど人が誰だか認識できなくなっていて、家の中での徘徊もひどく、献身的に介護をする母にはつらくあたるなどとても重い状態になっていました。常に無表情で笑うことはほとんどなく、食欲もわかないため主治医に処方された缶入りの流動食品でなんとか栄養摂取をしているような毎日でした。そんなある日、居間のテレビで昔の昭和歌謡の特集番組がついていて、『北国の春』をオリジナルの歌手の人がライブで歌っていたのです。この曲は東北地方出身の父が現役の中小企業経営者だった当時に大好きだった曲で、社員や取引先の人たちとよくカラオケで歌っていた「十八番(おはこ)」でした。急いで父の部屋のテレビをつけてあげると、それまでの固まったような父の表情が見る見るうちにやわらかくなってきて、およそ半年ぶりににっこりとほほ笑んだのでした。結局4か月後に父は他界するのですが、あのとき以降、筆者もなるべく心がけて父が好きだった曲、『恋人よ』や『津軽海峡冬景色』などのCDをかけてあげるようにしたところ、ほほ笑むことが増え、食欲も若干ですが回復し、家族はみな本当に嬉しく思ったものです。日野原先生が指摘するように、音楽の強い情緒性 が父にイキイキと生きていた時代の記憶を呼び覚ましたのかもしれません。●在宅で回想療法を実施する場合の注意点は?最後に、前出のA先生に在宅で回想療法を実施する場合の注意点をうかがっておきましょう。『音楽回想療法に代表される各種の回想法は在宅で誰でも実施することができますが、次の点には注意してください。(1)重度の認知症患者の方には向かない場合もあるので、その場合は無理に続けないこと(2)回想が患者にとってつらい記憶を呼び起こしているように見えたらすぐに中止すること(3)回想療法を患者の実生活にどのように活かすかということを常に考えて実施すること』----------いかがでしたでしょうか。認知症患者のご家族をお持ちの方には、A先生の言う注意点をよく心にとめたうえで回想法とくに音楽回想療法をぜひ実施してみていただきたいと思います。【参考文献】・『標準 音楽療法入門(上)理論編』日野原重明・監修●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年10月25日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。独自の若者論・現代日本文化論で注目を集める精神科医の斎藤環さんは、その著書『承認をめぐる病』で、“今のわが国の若者たちは衣食住に象徴されるような物や食などへの基本的な欲求よりも、 「他者から認められたい 」との思いで生きている”という主旨の指摘をし、話題を呼んでいます。「コミュ力」にしても「スクールカースト」にしても「KY」にしても、若者の価値観が“認められること”にあまりにも偏ってしまっているがために生まれた言葉であるとし、こういった斎藤先生の見方については精神医学に携わる多くの医師たちが「的を射たもの」と評価しています。「町の精神科医」を自認する都内在住のT先生(50代女性/都内メンタルクリニック院長)もその一人ですが、T先生はさらに『若者の承認欲求が強すぎる傾向は格差社会の副産物だ』と言い、この傾向の悪い面と良い面の両方について自説を展開してくださいました。今の若者の“認められたい志向”はどうして格差社会の副産物といえるのか。一緒に考えてみましょう。●生まれ育った家の経済力で地位が買える時代に一発逆転で上位の層に行くには「コミュ力」斎藤環さんは著書の中で、近年、若者の誰もが他者からの承認を強く願い、承認されているかどうかの評価基準がコミュニケーション能力である こと、著書で使われている言葉で言うなら、「場の空気を読む能力」や「笑いを取る能力」などがその象徴であることを指摘しています。そしてその能力は必ずしも自分の主張を論理的に表現し、相手を説得する能力のような知的で質の高いものではなく、単にその人の“キャラ”づけにとどまる程度のものであると述べています。ただ、若者がこうなったのは若者だけのせいでしょうか。筆者はそうは思いません。なぜなら、わたしたち大人の方こそ、若い人たちに「コミュ力」の高さばかりを過剰に求めているところがあるからです。いい例が、就活です。企業が就活学生を採用する際の判断基準として一番に重視する項目は、専門性の高い理工科系の学生を別にすれば、ここ数年ずっと「コミュニケーション能力」です。しかも、ほとんどの普通の子はバイトに明け暮れなければ大学に通えないような時代に、先祖代々多額の資産を持っているような経済的に恵まれた家に育った子だけはその親の財力で学力・運動能力・芸術的な能力といったいわゆる“実力”を磨くことが難なくできてしまう。一般的な庶民の子たちは増々もって「コミュ力」を磨き“マシな部類の正社員サラリーマン”になるしかない。中学・高校の思春期の学校生活においては、コミュ力を磨いてスクールカーストの上位に行くしかない。筆者のこのような見方は少々乱暴だろうかと思いきや、都内でメンタルクリニックを開院するT先生がお墨付きをくださいました。●近年の若者の承認欲求の強さは格差社会の副産物であるT先生に、近年の若者の承認欲求の強さは格差社会の副産物であるといえる理由について話を伺いました。『斎藤環先生は著書の中で、若者に特有な「自分が何者であるか」という“実存の不安”を解消してくれたものは1970年代までは思想や宗教だった。その後は若者をアイデンティティ・クライシスから救うツールは心理学に取って代わり、今はそれが「その人のキャラ付けに基づいたコミュ力によって評価される承認の度合い」であるという主旨の指摘をされています。その分析は実に鋭いものですが、斎藤先生の場合はややもするとそういった“強すぎる承認欲求”“コミュ力偏重主義”の悪い面にスポットを当てすぎの面もあると思います。今のわが国では、富裕層の家に生まれさえすれば、その子どもは大抵のものを手にすることができます。運動能力も外国語を話す力も医学部に合格する学力も楽器を演奏する能力もコンピュータのプログラミングをする能力も、お金に糸目をつけずに習わせてさえもらえるなら誰だって身につきますし、それによって収入の高い職業に就くことも容易になります。一方、一般的な庶民の子どもたちはというと、そのような“お金が要る特技や能力”はなかなか身につきません。では、庶民の子がちょっと上に行くにはどうしたらいいか。コミュ力で“いい会社”に就職するか、笑いを取る力で“お笑い芸人”から“タレント”や“文化人”を目指すか 。そういった方法が近道と言えるでしょう。つまり、近年の若者の承認欲求の強さは格差社会の副産物だと言うことができるのです』いかがでしょうか。日ごろから中高生や大学生の心の相談に応じている町の精神科医は、若い人たちの承認欲求の強さやコミュ力志向の“良い面”にもしっかりと向き合っているように思えます。●寡黙でもしっかりと認められる人たちがいるおしまいに。筆者には世間から「社会起業家」と呼ばれているような若い知人が何人かいます。女性も男性もいますが、その人たちに共通していることは、「育った環境はどちらかというと逆境だった」という点です。そして彼らは自分の体験に基づいた願いから、子どもたちの未来が親の経済力によって制約されることのないようにと無料の学習塾や無料の食堂を運営し、しっかりと地域社会から「承認」されています。普段の彼らは“キャラ”とは縁遠い“地味”な人たちで、おもしろいことを言って笑いを取ることもありません。むしろ“寡黙”な印象を受ける人が多いのですが、ひとたび自分たちがやろうとし、やっている活動を理解してもらい協力を得たいというときには、並々ならぬ情熱と「承認欲求」をもって語りかけて来るのです。そういうときの彼らのコミュニケーション能力はとても高い。若い人たちの承認欲求が強いことは、悪いことばかりではないと筆者は思います。というよりも承認欲求の強さは昔から、機会になかなか恵まれない若い人たちの原動力 になってきたのではないでしょうか。斎藤先生が著書で指摘するような『キャラの相互確認に終始する毛づくろい的コミュニケーション』としてだけでなく、機会に恵まれなかった若者が現状を打破するための質の高いコミュニケーション能力 につながるものでさえあれば、“承認をめぐる病”には良い面もあるのではないかと筆者は思うのですが、みなさんはどうお考えになるでしょうか。【参考文献】・『承認をめぐる病』斎藤環・著●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年10月18日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。30代以下のみなさんにはあまり馴染みのない言葉だろうと思いますが、1990年代の前半にわが国でもメディアで大きく取り上げられた概念で、『フィンランド症候群 』というものがありました。フィンランド保険局が40歳から45歳までの管理職約600人を選んで定期検診・栄養管理・運動指導・酒タバコ塩分の抑制を義務づける一方で、同年代同職種600人の別グループを選定し定期的な健康調査票への記入だけを依頼したうえで、あとは自由になさってくださいとしました。1974年から1989年までつづけられた追跡調査の結果、15年後に出た答えは、「後者の健康管理されなかったグループの方が健康で死亡率も低い 」でした。この事実のことを当時のわが国のマスメディアが『フィンランド症候群』と呼んだのです。健康管理の専門家ともいえる医師たちの中に今、「フィンランド症候群には根拠がある」と言い、現代人の“過度な健康志向”に警鐘を鳴らす人が次々に現れています。今回は「フィンランド症候群には根拠がある」と言う医師たちの論拠について考えてみたいと思います。●熊本市の元ラガーマン歯科医師は“依存”と“免疫機能低下”を指摘熊本市で歯科医院を開業する歯科医師の菊川明彦先生は、東京医科歯科大学ラグビー部でプレーした元ラガーマンですが、ご自身の『菊川歯科』のホームページの中でフィンランド症候群について触れ、次のような主旨のことを述べています。“フィンランド症候群を初めて世間に紹介したロラン・ジャカールとミシェル・テヴォスの共著『安らかな死のための宣言』では、「治療上の過保護と生体の他律的な管理は健康を守ることにはならず、逆に依存・免疫不全・抵抗力の低下をもたらす 」と指摘している。むろん必要な医療は受けなければならないが、健康保持には平生、自ら抵抗力をつけ免疫機能を高める工夫が肝要だ”ラガーマンらしい捉え方ですが、フィンランド保険局の調査で心臓血管系の病気、高血圧、癌、自殺等いずれの調査項目においても健康管理をされなかった人々のグループの方がはっきりと好結果を示している事実をみると、菊川先生の考え方には注目すべきところがあるのではないでしょうか。●気鋭の精神科医が語る「ストレスフルな人生こそ身体に悪く、NK細胞の不活性を招く」次に紹介させていただくのは多彩な評論活動でも知られる精神科医の和田秀樹さんの見解です。和田先生は筆者が介護退職するのと入れ違いで『国際医療福祉大学』に就職され、現在は同大学大学院の教授として教鞭をとられています。和田先生がその著作である『50歳からの活力人生』の中で、フィンランド症候群の根拠について述べられていることの主旨は、次のようなものです。“フィンランド症候群の教訓は健康に気を配らなかったグループの方が最終的には長生きした点にあり、それは心の問題が身体に影響を及ぼした結果と考えられる。結局、ストレスこそが身体に一番悪い。やれ「コレステロール値が高い」とか、やれ「塩分が過多」だとか、ガチガチに管理され言われつづけることが精神に大きなストレスを与えていた ということだ。つまり、あまりに健康を意識するのではなく、生き生きとした毎日を送ることこそが大切なのである。楽しく生き生きと生活することはNK細胞(ナチュラルキラー細胞)を活性化し、結果的に健康に結びつく。NK細胞は身体に入ってきた細菌を殺してくれるとともに身体が作り出す癌のもとになっている「できそこないの細胞」をどんどん掃除してくれる細胞で、60代になると20代のときの半分にその活性が落ちてしまう。加齢とともに癌が増えるのはそのためである。研究結果から、うつ状態になるとNK細胞の働きが悪くなり、コントや漫才などで笑い転げるとNK細胞が活性化されることがわかっており、つまるところ健康を気にしすぎるのではなく、楽しみを見つけて生き生きと暮らしていればNK細胞が活性化し健康な人生を送れることにつながる。フィンランド症候群の事実はそのように解釈することができるのではないか”いかがでしょうか。精神科の医師ならではの視点でとても参考になるのではないでしょうか。●フィンランド症候群に関連して筆者自身が思うことおしまいに、フィンランド症候群に関連して筆者自身が思うことについて、お話しさせていただきたいと思います。この原稿を書いている時点で筆者は56歳。もうすぐ57歳になりますが、ここ20年来ずっと健康診断を受けるたびに指摘される“検査結果数値が正常範囲を超えた項目”が3つあります。その3つの項目の数値が大幅に正常範囲外だと、そのことはとても珍しいある難病に罹患(りかん)している可能性を示唆するため、30代後半のころの筆者はこの検査結果数値のことを気にするがあまり、これといって気になる身体症状もないのに、うつ状態を呈するようになってしまったのです。学校も仕事も休んだことがないくらい丈夫な筆者が、健康診断の結果の数値を気にするがあまり心を病んでしまった わけです。筆者はその後、お酒もタバコもやめていわゆる“摂生”を心がけたのですが、その3項目に関しては数値はあまり改善しないまま今日に至っています。そうこうしているうちに40代に入ったころでしょうか。腹部にちょっとした違和感を感じてかかった都内内科クリニックの院長先生(50代男性)が、こう言われたのです。『血液検査の結果に3つほど気になる数値の項目はあるけれど、それ自体には腹部の違和感との関係はない。今、違和感がもう消えたのであればそれでけっこう。数値よりも症状が大事。仮に万が一、検査結果数値が警鐘を鳴らしているような珍しい病気が潜んでいたとしても、その確定診断を受けたところでその病気は癌などとは違って現時点の医学では完全には治せませんよ。癌なら早期に発見すれば大方治せますがね。だから診断を確定することに無為な時間を費やすよりは、仕事もプライベートも思い切り楽しんで天寿を全うすることの方がよほど素晴らしい生き方ではないかと私は思います』筆者は目から鱗が落ちるように気持ちが晴れ、うつ状態もこのお話を聞いた日を境に治りました。その内科医によると、おそらく腹部の違和感も心身症的なものであったのではないかということでした。現在でも3つの項目の数値は正常範囲外ですが、仕事も日常生活も何の問題もなく、一般的な50代の男性よりも健康だと自分では思っております。うつ状態に陥っていたころの筆者はフィンランド症候群でいうところの第1のグループ、すなわち“ガチガチの健康管理によって精神に大きなストレスを受け、心が健康でいられなくなった 人々”の類型に属してしまっていたのだろうと思います。もちろんだからといって健康のことを全く気にせず酒もタバコもやりたい放題でいいというわけではありませんが、人間にとって一番の健康法は健康を気にしすぎずに楽しく生き生きとした日常を送ることであることだけは間違いないようです。フィンランド症候群の事実がわたしたちに教えてくれていることも、そういうことなのだろうと思うのです。【参考文献】・『50歳からの活力人生』和田秀樹(著)・『安らかな死のための宣言』ロラン・ジャカール、ミシェル・テヴォス(共著)【参考リンク】・フィンランド症候群 | 菊川歯科()●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年10月11日