中森明菜8月8日に『日刊ゲンダイDEGITAL』が驚きのニュースを報じた。なんと、今年で活動40周年を迎えた中森明菜が年末の紅白歌合戦に出場する可能性があるというのだ!同紙によれば今年の4月に放送された『中森明菜 スペシャル・ライブ1989 リマスター版』(NHK-BSプレミアムとBS4K)が放送後に大反響。再放送を望む視聴者からの声が多数寄せられたことでNHK総合テレビで放送されたという。高視聴率を受けたNHKがいま、“どんなスタイルでも構わないという条件”で『紅白』への出演を打診しているのだという。もし出演が決まれば日本中が大注目するイベントになることは間違いないが、昔の明菜を知る音楽業界関係者は「仮にオファーがかかっていたとしても、今さら表舞台に立つことはないのでは……?」と話す。『週刊女性』も40周年を迎える彼女の近況について取材を重ねていたが、そこでみえたのは“家族ですら連絡がつかない”という、光の見えない現実だった──。(以下は、2022年5月10日に配信した記事の再掲載です)◆ ◆ ◆「あっ、そうか……、40周年かぁ。もう、そんなに……」過ぎた時間の長さを噛み締めるように思いを馳せるのは、中森明菜の実兄だ。今年5月1日でデビュー40周年を迎えたが依然、表舞台からは姿を消したまま……。「2017年のディナーショーを最後に、活動を休止しています。その後もファンクラブの会報誌だけには直筆のメッセージを載せていますが、活動再開についての予定はありません。今は都内マンションに、恋人でもあるマネージャーと住んでいるといわれています」(スポーツ紙記者)都心の住宅地にある地上6階建てのマンション。近くにはスーパーやコンビニがあり、少しは目撃されてもおかしくないはずだが、「まったく見たことないんです。噂だけで、実際は住んでいないんじゃないかしら」と、近隣住民の女性。人前から姿を消したままの明菜は今、どうしているのか─。華々しく、輝く時期もあったが、これまでの彼女の歩みは不遇の連続だった。そんな明菜を今も心配し続けているのは、彼女の家族だ。「母の葬儀で明菜と会ったのが最後です」穏やかでありながらも、はっきりとした口調で語るのは、冒頭の3つ上の実兄だ。昨年末に起きていた実父の変化明菜は東京都清瀬市の出身で、6人きょうだいの上から5人目として育った。「明菜は母のことが大好きでした。小学4年生ぐらいまで母と一緒に寝ていましたから。鹿児島から歌手になるために上京した母は、明菜が歌手になったことをそれはもう、喜んでいました」(実兄、以下同)明菜がスターになることは、兄にとっても誇らしかった。「すっごくうれしかったですよ。明菜がデビューした当時は、知り合いからサインをよく頼まれました。レコードも明菜がくれるんですけど、妹を応援したくて自分でも買っていました」かつてを思い出すように目を細め、うれしそうに語るが、父親について話が及ぶと、表情が曇った。「昨年の暮れに父は入院したんです。耳が遠くなって、自宅でふさぎ込むようになったんですが“このままでは歩けなくなるから”と長女が散歩をさせていたんです。それが散歩中に転倒してしまい、肋骨と右手を骨折してしまって」これにより、新たな問題も起きた。「以前から認知症の症状は少しずつ出ていたんですが、入院したことで進んでしまって。なので今後は介護付き老人ホームに入所する予定です。サポートがないと生活が難しい状態。もう、家には戻れないと思います」明菜には連絡していないというが、これには複雑な事情がある。明菜とは年子の妹・明穂さんが2019年に病気で他界したときのこと。「明穂が亡くなったときに連絡しましたが、葬儀には来てくれなかった。だから、父の話を聞いてもお見舞いには来ないんじゃないかな……」静かにため息をつくと、こんな思いを続けた。「明穂も1987年にデビューしてテレビに出るようになったのを、明菜は好ましく思っていなかったようで、関係が悪くなっていました。それまではすっごく仲がよかったんですが。明穂本人の希望もあって、遺骨は山に散骨しました。お墓はありませんが、せめて実家の仏壇には手を合わせてほしいです」明菜が家族と距離を置いた理由1995年、明菜の母親はがんで他界し、彼女は中森家の戸籍から自ら籍を抜いた。それから27年間、家族との関係は“断絶”したまま。なぜ明菜は、父親やきょうだいとも距離を置いたのか。「明菜は、僕たちが彼女のお金を使い込んだと思っているんです。当時所属していた事務所の『研音』から税金対策で“お店を始めたらどうですか”と助言をいただいたんです。それでカラオケスナックを経営していましたが、明菜は私たちの給料に自分のお金が流れていると思っていたようで。実際は売り上げからごく普通の金額を給料としてもらっていただけなんです」1987年、中森家は埼玉県内に地上3階建てのビルを建てているが、これにも明菜は疑問を持った。「たしかに明菜のお金ですが、これは税金対策で建てたビル。そこで私たちが中華料理店などを開いたのですが、明菜はこの開店資金も自分のお金が使われたと思ったようです。でも、そうではない。父の実家は結構裕福な農家で、祖父が亡くなったときに多額の遺産が入りました。お店を作るのも備品をそろえるのも、全部遺産で賄っていたのです」さらにはこんな親心があったと明かす。「このビルは、いずれ明菜の手に渡る予定でした。芸能界で稼げていても、いつか歌えなくなって、売れなくなる日がくるかもしれない。父はそう思い、明菜が老後に家賃収入で生活できるようにと思って建てたのです。結局は売却してしまいましたが」娘を思う気持ちが裏目に出た。明菜は家族への“不信感”を募らせていくが、それを植えつけた“犯人”がいた。「事務所に聞いた話だと、最初のマネージャーが明菜のお金を持ち逃げしたそうなんですが、それを“家族が使い込んだ”と明菜に吹き込んでいたというんです」関係者は「明菜について話さない」当時の『研音』関係者に改めて聞いたが、「明菜には2人の現場マネージャーがいましたが、そんな話は聞いたことがありません。私が辞めた後のことだと思います。よっぽどやましいことでもあるのか、事情を知る関係者はみな“明菜については話さない”と言っています」と答えるだけだった。それでも兄は、幸せだった明菜の笑顔をよく思い出すという。家族が営むカラオケスナックに、当時恋人だった近藤真彦と訪れたときのこと。「僕が調理をしていて、ラザニアを作って出したんですよ。すると明菜は“おいしい!!”ってすっごく喜んでくれてね」(前出・実兄、以下同)結婚するかもしれない。そんな思いを持ったと話すが、現実は残酷だった。1989年7月、明菜は近藤の自宅マンションで自殺未遂を図った。「あのころマッチが明菜から別の女性タレントに乗り換えたようなんです。松田聖子さんではありません。明菜も最初は浮気だと思っていたのに、乗り換えられたとわかって刃物でひじの内側を……」自殺未遂をした年の12月31日、常連だったNHK紅白歌合戦の裏番組で緊急会見を開き、明菜はこう語っている。「私が仕事をしていくうえで、いちばん信頼していかなくちゃいけない人たちを信頼することができなくなってしまった」現在の明菜は「話したくない」家族や恋人に裏切られ、明菜は人間不信の螺旋に落ちていく。「今はもう、明菜と直接話すこともできていません。事務所に何度も連絡し、明菜と話したいと伝えても、一緒にいるマネージャーが“明菜が話したくないと言っているので”と繰り返すだけ。父は今も明菜のことを心配し“元気にしているのか”“ビルを売らなければよかったのに”と呟くように話しています」大好きだった母親の墓前には手を合わせているのか。「明菜はお墓の場所を知らないはずなので、行ってないと思います。母の死に目に会えていないんです。前日には来たのですが、当日は仕事で来られず、すごく悔やんでいました。だからこそ父には会ってほしい。入院中の父は今年88歳になりましたが、どこの病院にいるかも明菜は知りません。残された時間は長くないので、一度でもいいから来てくれればと思うのですが」家族なんだから─。そんな言葉が聞こえた気がした。「また明菜が元気に歌う姿を見られることだけは、いつも心から願っています」◆ ◆ ◆大晦日の紅白歌合戦で明菜が観られたら……一番喜ぶのは彼女の家族なのかもしれない。
2022年08月10日クロスメディア・パブリッシングは7月29日、「ほっこり心身をすこやかに整える55の小さなレッスン」(1,408円)を発売しました。■55種類の「ほっ活」を紹介発売したのは、ホルモン研究・長寿研究の権威である医学博士の伊藤裕氏が研究から導き出した、落ち込んでもだるくても、みるみる元気になれるシンプルな55のレッスンをまとめた1冊です。同書では、「ほっこり」する瞬間が身体の中にポジティブなエネルギーがあふれ出してくることをするものとし、「気持ちいい」「ほっこりする」と感じる事が元気がない時にパワーがよみがえってくるとっておきの方法であると解説。「鏡をピカピカに磨く」や「サラサラと流れる砂時計を見る」などすぐにできる、楽しく幸せな気持ちになる「ほっこり」を感じる活動(ほっ活)を55パターンにわたって紹介しています。何かをする気になれない場合にも、ぱらぱらとめくりながらイラストをぼーっとながめるだけでも有効とのこと。■書誌概要<書名>ほっこり心身をすこやかに整える55の小さなレッスン<著者>伊藤裕<定価>1,408円<発行>クロスメディア・パブリッシング(クロスメディアグループ)(フォルサ)
2022年08月04日「7月9日に放送された『中森明菜 スペシャル・ライブ1989 リマスター版』(NHK)は、デビュー時からのシングル曲だけを歌ったもので、ファンの間では“伝説のコンサート”といわれています。放送後、NHKにはお礼のメールが多数寄せられました。親子2代で視聴した人も多かったようで、明菜さんの圧倒的な人気を改めて感じました」(NHK関係者)5月1日、デビュー40周年を迎えた中森明菜(57)。“伝説のコンサート”は4.6%の高視聴率を記録。15日には『中森明菜スペシャルライブ 2009・横浜』(NHK BS)も放送された。しかし、当の明菜本人は’17年末から公の場に姿を現していない。「明菜さんは’10年に帯状疱疹で芸能活動を無期限休止しました。’14年末には『NHK紅白歌合戦』にサプライズ登場して歌手活動を再開させましたが、’17年末のディナーショー以降は再び活動休止しています」(スポーツ紙記者)現在でも思うように体調は回復せず、闘病生活は12年にも及ぶ。「病気のため精神的な不調にも見舞われ、人前で歌うどころか会うのさえ限られた人のみ。自宅からほとんど出ない生活が続いているといいます」(音楽関係者)中野皮膚科クリニックの松尾光馬院長は言う。「帯状疱疹は男性に比べ女性に1.5倍ほど多く発症します。85%の人は3カ月ほどで治りますが、6カ月以上長引く人は4%います。帯状疱疹が長期化するのは、神経障害性疼痛という神経が傷つく痛みが長引いたためではないでしょうか。最初の発疹が重症な人や、発疹が出る前の『前駆痛』という痛みが強い人が長引きやすい傾向にあります」しかし今でも明菜は歌への情熱を持ち続けていると、前出の音楽関係者は語る。「“いつか自分が歌うために”と歌詞を書きためているんです。これまでも明菜さんが作詞した楽曲はいくつもあり、20代のころには作詞家の先生のもとで本格的に学んだこともありました。’00年以降は『Miran:Miran』というペンネームで作詞をしています」明菜の復帰を望む声は、今も根強い。「今年は40周年とあって明菜さんのレコード会社には音楽番組から出演オファーがいくつも届いています。なかでも明菜さんサイドとつながりが強いNHKは『紅白』に出演してもらえないかと狙っています」(テレビ局関係者)歌姫が闘病の傍ら綴った作詞ノート。彼女の才能の一編をまた聴ける日をファンは待っている――。
2022年07月25日2022年7月26日(火)発売『ほねほねザウルス ビルドボードバトル』カバヤ食品株式会社(本社:岡山市北区、社長:野津 基弘)は、「ほねほねザウルス」シリーズでの、本格的ボードゲーム玩具菓子『ほねほねザウルスビルドボードバトル』の第2弾を2022年7月26日(火)に発売しますのでお知らせします。『ほねほねザウルスビルドボードバトル』(左:パッケージ、右:玩具画像)商品特長1.『ほねほねザウルス』玩具とゲームボード、カード、サイコロがセットになった、ほねほねザウルスの本格的ボードゲーム玩具菓子の第2弾です。2.プレイヤーはトレジャーハンターとなって、ゲームボード上のほねほねザウルスパーツを集めていき、バトルカードを駆使して白熱のバトルを繰り広げます。すべてのパーツが集まれば最終決戦!ゴールにたどりついて、復活させたほねほねザウルスを手に入れるのはだれか?プラくみたてを楽しむことはもちろん、みんなでゲームが楽しめる商品です。3.パッケージは玩具とゲームボード画像で、遊びの魅力をアピールしています。正面の丸窓から中に入っている玩具の番号が見えるようにしています。4.前弾より、玩具がよりカラフルになり、ゲームボードのグラフィックがより派手にカッコよく、カードバトルがより直感的でエキサイティングになりました。5.玩具は全3種類あります。6.バナナ味のチューインガム1枚が入っています。全3種類のデザイン商品概要商品名ほねほねザウルス ビルドボードバトル種類別名称チューインガム<玩具菓子>内容量1枚価格(税込)550 円発売日2022年7月26日(火)「ほねほねザウルス」について『ほねほねザウルス』は、カバヤ食品オリジナルの玩具菓子として2002年に登場し、今年20周年を迎える人気ロングセラーブランドです。「ほね」「恐竜」というモチーフと、「組みかえ自由」、「暗闇で光る」、「全種集めて完成する合体モデル」等の豊かな遊び性で、累計販売数量は4000万個を突破しています。オリジナルの『ほねほねザウルス』作品を紹介する「ほねほねザウルススペシャルサイト」には、毎月1000通を超える投稿が寄せられています。現在発売中の「ほねほねザウルス」第39弾ほねほねザウルスブランドサイト : 「ほねほねザウルス」スペシャルサイト毎月、オリジナル作品を募集、発表しています。ほねほねザウルススペシャルサイト : 児童書「ほねほねザウルス」について2008年5月に岩崎書店により児童書として登場。現在まで第25巻まで刊行されており、累計230万部を突破しております。2022年に開催された「第3回小学生がえらぶ!こどもの本総選挙」にて9位入賞を果たしました。主人公は、ティラノサウルスの「ティラノ・ベビー」、親友のトリケラトプスの「トップス」、ステゴザウルスの「ゴンちゃん」。最新25巻は、舞台を宇宙に飛び出しての大冒険ストーリーです。児童書「ほねほねザウルス」スペシャルサイト : 詳細はこちら プレスリリース提供元:NEWSCAST
2022年07月19日中森明菜6月19日の夕方、SNSにこんな嘆きの声が投稿された。《楽しみに帰ってきたら、放送延期になっていた(涙)》《午後はこれを観るために予定を空けていたのに》《仕方ないってわかっているけど呟かずにはいられない。見たかった……》嘆きの理由は、NHK総合で放送される予定だった『伝説のコンサート 中森明菜 スペシャル・ライブ1989 リマスター版』が、石川県能登地方で発生した地震の影響で、放送が急きょ延期となったからだ。「4月にNHK BSプレミアムとBS4Kで放送したところ“再放送をしてほしい”という視聴者からの要望に応えた放送でした。しかし、最大震度6弱の地震が発生。災害ですから、放送休止を理解しつつも、嘆く声が多数あがったことで、いまも明菜という“歌姫”の人気は健在だと再認識させられました」(スポーツ紙記者)番組は、7月9日に改めて放送することが発表され、ファンたちもひと安心。ただ、明菜はもう5年、公の場所に姿を見せていない。今年でデビュー40周年を迎えたが、これまで彼女は何を思い歌ってきたのか――。明菜が語っていた「自分は二の次でいい」「小学1年生のとき“将来の夢”を題にした作文で、明菜さんは“かしゅ”と書いていたそうです。母親の千恵子さんは美空ひばりさんに憧れ、歌手になるため鹿児島県から上京。しかし、21歳で結婚をし、歌手の道を諦めざるを得なかった。だからこそ、その夢を娘の明菜さんに託したのでしょう。明菜さんは“お母ちゃんが歌手になれなれって言ってたから”とよく話していたそうですから」(スポーツ紙デスク)幼いころから歌手を志した明菜だが、こんな思いも抱えていた。「2男4女からなる6人きょうだいの5番目だった明菜さんですが、小さいころは、すぐに熱を出す病弱な女の子だったのです。決して裕福ではない家庭で、自分が家族の“お荷物”だとも感じていた。大好きだった母親に認めてもらうため、家族の一員になるために歌手を志した……という気持ちが大きかった」(同・前)明菜は過去の雑誌インタビューで、歌手になりたかったわけではないと話している。《私、本当は保母さんになりたかったんです》《誰かのために、私が裏方になって頑張る。そんな仕事が好きなんです。ほんとはね、歌を歌うのは緊張するし、根っから好きというわけではないの。だけど、私の歌を聴いて幸せになるって言う人がいるから、私は歌っている。自分は二の次でいいんです》(『SAY』2003年7月号)誰かの役に立てるなら……。それこそ彼女が見出した存在意義だった。当時の明菜を知る、元マネージャーの男性はこう証言する。「デビュー当初はキャンペーンで全国を飛び回り、毎日のように各地で歌っていました。でもね、全然嫌がらないんです。16歳の少女にはそうとう負担の大きい過密なスケジュールだったのに、ですよ。本当に人前で歌うのが好きな子なんだな……と感心しました」明菜は1982年5月に『スローモーション』でデビュー。オリコンの最高順位は30位。大ヒット……というわけではなかったが、すでに多くの人を魅了していた。「実際に『スローモーション』のときから人気はすごかった。確か……栃木県宇都宮市で行ったイベントだったと思います。デパートの屋上にステージを作って歌う予定だったのですが、ファンが1000人以上詰めかけてしまい中止になったことがありました」(同・元マネージャー)私は誰からも必要とされていない――そんな苦しい思いを抱えていた病弱な少女は、もういなかった。1982年7月にはセカンドシングル『少女A』がヒット。同年11月にリリースしたサードシングル『セカンド・ラブ』では、オリコンランキング1位を獲得。一躍、スターへと駆け上がる。しかし、念願の歌手となった明菜の心は満たされない。《歌手になりたいって思ってるときは“今が幸せ”って全然思わなかったのね。“歌手になったら幸せなんじゃないかな”ってずっと思ってたの。でもなってみて初めて、あのときが幸せだったってわかるの》(『JUNON』1989年9月号)なぜなのか。「朝から晩まで働いて、夜に自宅に帰って自由になるのは2~3時間ほど。ひとたび外出すれば、ファンに囲まれて大騒ぎに。自分の意見をしっかりと持っている子でしたから、いろいろと提案していましたが、マスコミには“ワガママだ”と書かれてしまう。そんな自由のない生活にうんざりしていたのかもしれないね」(元レコード会社関係者)活動休止と再開を繰り返し…1989年7月には、7年間にわたって交際していたマッチこと近藤真彦の自宅マンションで自殺未遂を図る。近藤の裏切りによって終わった恋が、明菜を長らく苦しめた。「マッチに裏切られ、芸能界から離れたいという思いが強かったんじゃないかな。明菜さんは“歌をやめて家庭に入りたい”ともよく言っていました。自分を求めてくれる、たったひとりの人を探していたと思います。ただ、みんなで食事をしているときにテレビにマッチが写ったら、明菜さんは必ず席を外していました。平気なフリをしつつも、ずっと引きずっているんだなとは感じました」(ファッション誌編集者)1990年代には連続ドラマにも出演してたが、最愛の母親の死、度重なる裏切りに遭い、家族とも距離を置き、孤立していく。「1991年にリリースした『Dear Friend』や1993年の『愛撫』などがヒットしましたが、80年代のような勢いはありませんでした。事務所の移籍を繰り返し、レコード会社からは契約解除を言い渡されて……。自分自身を模索する時期でもあったのでしょうが、彼女はずっと空虚な思いを抱えていたように感じます。なんで幸せになれないのか。なんでうまくいかないのか……と」(音楽ライター)葛藤する明菜の心情はこんな言葉になって表れていた。《タレント・中森明菜を続けているせいで、隅に押しやられた本当の明菜は、夢を持てないまま、ぼんやりしているんです》(『JUNON』1995年9月号)母親に褒められたい。認められたい。そんな思いから出発した歌手活動だったが、目標を見失っていた。だが、2000年に入ると少しずつ歌うことへの新たな意味を見出していく。《今まで、本当に、歌っていて楽しい、と思ったことは一度もないんですね。人を喜ばせたい、喜ばせたいばっかりだった。でも、今は、私が喜んでいたら、自然とみんなも喜んでいく。そういうふうにできたら、本当の意味で、歌っていて楽しいだろうって思えるようになりました》(『コスモポリタン』2002年7月号)2002年の年末には、14年ぶりにNHK紅白歌合戦に出場。精力的にライブ活動などを行っていくが、またしても暗転する。「2010年に無期限の活動休止を発表します。2014年の紅白ではニューヨークからの中継で出場をして活動を再開。しかし、2017年に行ったディナーショーを最後に、また活動を休止します。2018年には新曲をリリースする……なんて話もあったのですが」(前出・スポーツ紙デスク)歌うことの意味を見出した明菜だったが、もはや身体がついていかなかったのか――。27年間、明菜と会っていないという3つ上の実兄は、こんなエピソードを明かす。「明菜は自分の曲の中で最初は『バビロン』がお気に入りだったようですが、途中から『ミ・アモーレ』の曲に違う歌詞を載せた『赤い鳥逃げた』が一番好きだと言っていました。もう何十年も前の話ですが、“歌詞がいいのよ”って明菜がよく話していたのを覚えています」鳥かごを抜け出し、私たちの前に姿を見せる日は訪れるのか。
2022年07月09日1986年、『DESIRE-情熱-』で日本レコード大賞を受賞した中森明菜6月19日にNHK総合での放送が予定されていた特別番組『伝説のコンサート~中森明菜』が、同日発生した石川県の地震による報道の影響で延期した。それを受けてSNSなどでは多くの人が事情を理解しながらも、残念がる声が数多くあがった。同番組は、1989年4月に開催された『中森明菜スペシャル・ライブ1989』のリマスター版。同ライブでは、1曲目に『TATOO』、続く2曲目で『DESIRE-情熱-』と、82年のデビュー曲『スローモーション』から、それまでにリリースされたシングル全曲をすべて披露したもの。明菜を知らない世代にも人気「デビュー9年目に突入し、2度のレコード大賞も受賞、歌手としての魅力がピークに達していた時期のライブですね。言うまでもなくほとんどの曲が大ヒットしたシングル中心の構成、独特の少しハスキーな低音の歌声や、ダンスの魅力、そして時折見せる笑顔。野外でのライブということで自然光の美しさも魅力で、ファンの間でかなり人気の高いライブです」と、ある芸能ジャーナリスト。DVDやブルーレイでも同内容の映像は発売されているが、明菜のデビュー40周年を記念して3月にBS4K、4月にBSプレミアムで放送され、今回地上波での初放送となる予定だった。「BSでの放送が好評だったことを受けての今回の地上波初放送ですが、その評判が拡散したことがある意味で期待値を上げることになりました。気軽に見られる地上波放送を楽しみにしている人も多かったようで、それが放送延期発表に大きな反響が出たことにもつながったようです」(同)現在、表立った活動をしていない中森明菜だが、なぜ過去のライブにこれほどの注目が集まるのか。「このライブが開催されたときには、まだ生まれていなかったような若い世代にも、中森明菜は人気があるようですね」と、前出の芸能ジャーナリストは言う。伝説のライブへの期待値時代と世代を超えて今もなお注目される明菜だが、どのような部分に普遍的な魅力があるのだろうか。アイドル事情に詳しいライターに聞いてみた。「1982年デビューの中森明菜は、小泉今日子、早見優、堀ちえみ、石川秀美、シブがき隊など豪華な顔ぶれと同期にあたり、“花の82年組”としても知られます。明菜は当時から突出した存在ではありましたが、当時を知らない世代にも響くのは、その存在感にあるのではないでしょうか」それは、明菜の2年前にデビューをして新しい“アイドル像”を確立し、アイドルブームを巻き起こした松田聖子の存在が大きく影響しているという。「聖子のデビュー以降、デビューする女性アイドルがみんなと言っていいほど“聖子ちゃんカット”をしていたほどで、明菜もデビュー直後はその1人でした。しかし、デビュー曲は来生えつこ・たかお姉弟のしっとりしたミドルテンポの『スローモーション』、そして2枚目が一転して不良少女の寂しさを歌う『少女A』で、これが大ヒットし、一気にブレイクします。最初からいわゆる“アイドル”とは違う存在、アーティスト性を秘めた存在でした」時代を超えて通用する楽曲の完成度、さらには明菜の高い歌唱力。そして何より事実上の活動休止状態が続き、生の明菜を見たことがない世代にとっては“幻の存在”になっていることが、さらに人気を集めている理由のひとつと言える。当時からのファン、そして当時を知らないファンの思いを、前出のジャーナリストが代弁する。「まさに“明菜世代”には、あのころ大好きだった明菜ちゃんの姿を見たい、という気持ちがありますし、若い世代にとってはウワサがウワサを呼んで“神格化”されている状態なので、実際に歌っている全盛期の明菜を見てみたい、という気持ちがあるのではないでしょうか。だからこそ伝説のライブがお茶の間で見られることの期待値がどんどん高まり、楽しみにしていた人は多かったため、放送延期の衝撃が大きかったんだと思います」またシティポップや昭和の歌謡曲が再注目されているいま、80年代の良質な音楽を楽しみにしている若者もいる。延期となったNHK総合での放送は、7月9日16時30分からに決まったと発表された。15日にはBSプレミアムで2009年のライブも放送される。延期によりますます期待値が上がる伝説の歌手による伝説のライブ。過去映像だけでこれだけ盛り上がる歌姫は、かつていただろうか。今度こそ無事に放送されることを願う。〈取材・文/渋谷恭太郎〉
2022年07月09日’87年、日本武道館で行われた『全日本歌謡音楽祭』で『難破船』を歌う明菜「母が亡くなり、明菜とも会えなくなって、もう27年になりますね……」中森明菜の母・千恵子さんが眠る墓に手を合わせた後、ゆっくりと目を開く。墓石を見つめ、そう静かに語ったのは、3つ上の実兄だ。「今年の5月1日でデビュー40周年を迎えた明菜さんですが、ご本人が出演するようなテレビ番組やライブなどの活動は何もありません。あるといえば、衛星放送で過去のライブ映像が流されたぐらいで……」(スポーツ紙記者)2017年に開催されたディナーショーを最後に、姿を消して5年。それでも明菜の復活を待ち望むファンの声は今も絶えない。それは、家族も同じでーー。1965年7月、東京都大田区で明菜は産声をあげた。「父が大森で精肉店を営んでいたころです。自宅にひとりでいた母を突然、陣痛が襲ったのです。自宅に電話がなかったので、母は助産師さんを呼ぶために急いで近所の公衆電話まで行ったんです。そうしたら、そこで半分ぐらい明菜が出てきてしまったみたいで(笑)」母が名付けた「明るい菜の花で、明菜」そう当時の状況を明かすのは、冒頭の実兄だ。「名前は母がつけました。生まれた時季の花ではないですが“明るい菜の花で、明菜”だと、母が言っていました」明菜が誕生した数か月後、一家は東京都清瀬市へ転居する。母親が名付けたとおり、明るい少女かと思いきや、幼少期はそうではなかった。「病弱だったんです。よく熱を出して、小学校も休みがちでした。プールに行くと、すぐに唇が紫色になっちゃって」2男4女からなる6人きょうだいの5番目だった明菜は、母親の千恵子さんが大好きだった。「もう母にベッタリでした。お出かけするときは母と手をつなぎたがって。母が出かけるときは、駆け寄って“私も行く!”と言ったりね」しかし、明菜としては自分が家族の“お荷物”という思いが強かった。過去の雑誌インタビューでも、このように語っている。《思えば私、デビュー以来ずっと誰かのために歌ってきたような気がします。最初は家族のため。小さい時から身体が弱くて迷惑ばかりかけていたから、「明菜、いいコだね、エライね」って、誉めてもらいたくて》(『SAY』2003年7月号)鹿児島出身だった千恵子さんは、歌手を目指して19歳で上京し、新宿・歌舞伎町のキャバレーで働いた。そこで明菜の父と出会い、21歳で結婚。家庭を持ったことで断念した夢は、明菜へと託された。当時を知る音楽プロデューサーによると、「お母さんは“明菜がお腹にいるときから歌謡曲を聴かせていたので、絶対に歌はうまいはずです”と言っていたのをよく覚えていますよ。お母さんは、明菜をなんとしてでも歌手にしたいという思いが強かったように感じました」だからこそ、母親の期待に応えようと明菜は必死だった。仲良し家族を引き裂いたカネ1981年、3度目の挑戦となった『スター誕生!』(日本テレビ系)で合格。1982年にデビューし、同年7月に発売した『少女A』がヒットして、スターダムへと駆け上がった。「母も明菜がデビューしたことはすごく喜んでいました。ただ、『少女A』については、少なからず不満があったようです。“あんな曲、歌いたくない”と明菜が言うと、母は“芸能界は甘くない。そんなワガママ言ったらダメ”とたしなめていましたが、実際は母も犯罪者を示すようなタイトルがあまり好きではなかったようです(笑)」(明菜の兄、以下同)スターになっても、母親に甘える姿は変わらなかった。「“この間、ステージで着た衣装は私が決めたんだ”とか“アルバムのジャケットでも私がこういうところを考えたんだよ”って、褒められたくて母に報告してましたね。母も“すごいね!”って返すから、明菜はうれしそうで。明菜の税金対策のためにオープンさせたカラオケスナックも、母がお店をやりたいと知っていたので、明菜もとても喜んでいたんです」しかし、少しずつ家族との間に亀裂が入る。明菜は、「家族が私のお金を使い込んでいる」と疑うようになっていった。「明菜は“この人”と思ったら、信じすぎてしまう面がありました。マネージャーか誰かに吹き込まれたんでしょうね。私たちは“人をあんまり信じたらダメだよ”と伝えてはいたんですけど……」それでも大好きな母親が喜ぶなら─そう思っていたであろう矢先の1988年、千恵子さんに“がん”が見つかる。「明菜は仕事が忙しかったこともあり、お見舞いに来たのは数回だけでした」このころ、明菜も仕事や私生活でゴタゴタが続く。1989年7月には近藤真彦との恋愛の果てに自殺未遂。事務所を退社し、年末には金屏風が飾られた“復帰会見”を行う。慕っていた人物による暴露本も発売され、大麻所持の疑いで自宅を家宅捜査。度重なる裏切りから人間不信に陥り、一部の人の言葉にしか耳を傾けなくなっていく。そう明菜が孤独を深めていくなか、1995年6月10日が訪れる。最も信頼していた千恵子さんが他界したのだ─。「お母ちゃんの遺体を見たくない」「明菜は母が亡くなる前日、病院に来たんです。目にいっぱいの涙をためて、こぼれ落ちそうになりながら“お母ちゃん、明菜だよ”と声をかけて、手を握ってね。ただ、母は痛みがすごくて大量の麻酔薬を打っていたので、意識はありませんでした。明菜は次の日に仕事があるので帰ったんですが、それが最後に……」家族も、このときが明菜と会った最後となった。「通夜も葬儀も来ませんでした。明菜の1つ上の姉が電話したときには“お母ちゃんの遺体を見たくない”と話していたと聞いています」ほどなくして明菜は中森家から籍を抜き、しばらくすると電話で話すこともできなくなった。2019年には妹の明穂さんが亡くなったが、明菜は葬儀にも現れず、今も家族との断絶は続いている。「母が大好きでしたから、亡くなったという事実を受け入れたくなかったのかもしれません……」家族との関係を断つことで、元気だったころの千恵子さんとの思い出だけを抱きしめて、記憶のふたを閉ざそうとしているのか……。「父はまだ入院していますが、健やかに過ごしていますよ。老人ホームに入所する予定ですから、誰も住まなくなった実家は売却することになりました。今、兄が手続きを進めています」過去の雑誌インタビューでは、母親の死についてこう語っていた明菜。《今もお母ちゃんは清瀬の家にいてね、黙って私のことを心配してくれてる。なんかそんな気がするんです…》(『JUNON』1995年9月号)最愛の母親と過ごした場所も、消えてしまう─。
2022年06月14日中森明菜「あっ、そうか……、40周年かぁ。もう、そんなに……」過ぎた時間の長さを噛み締めるように思いを馳せるのは、中森明菜の実兄だ。今年5月1日でデビュー40周年を迎えたが依然、表舞台からは姿を消したまま……。「2017年のディナーショーを最後に、活動を休止しています。その後もファンクラブの会報誌だけには直筆のメッセージを載せていますが、活動再開についての予定はありません。今は都内マンションに、恋人でもあるマネージャーと住んでいるといわれています」(スポーツ紙記者)都心の住宅地にある地上6階建てのマンション。近くにはスーパーやコンビニがあり、少しは目撃されてもおかしくないはずだが、「まったく見たことないんです。噂だけで、実際は住んでいないんじゃないかしら」と、近隣住民の女性。人前から姿を消したままの明菜は今、どうしているのか─。華々しく、輝く時期もあったが、これまでの彼女の歩みは不遇の連続だった。そんな明菜を今も心配し続けているのは、彼女の家族だ。「母の葬儀で明菜と会ったのが最後です」穏やかでありながらも、はっきりとした口調で語るのは、冒頭の3つ上の実兄だ。昨年末に起きていた実父の変化明菜は東京都清瀬市の出身で、6人きょうだいの上から5人目として育った。「明菜は母のことが大好きでした。小学4年生ぐらいまで母と一緒に寝ていましたから。鹿児島から歌手になるために上京した母は、明菜が歌手になったことをそれはもう、喜んでいました」(実兄、以下同)明菜がスターになることは、兄にとっても誇らしかった。「すっごくうれしかったですよ。明菜がデビューした当時は、知り合いからサインをよく頼まれました。レコードも明菜がくれるんですけど、妹を応援したくて自分でも買っていました」かつてを思い出すように目を細め、うれしそうに語るが、父親について話が及ぶと、表情が曇った。「昨年の暮れに父は入院したんです。耳が遠くなって、自宅でふさぎ込むようになったんですが“このままでは歩けなくなるから”と長女が散歩をさせていたんです。それが散歩中に転倒してしまい、肋骨と右手を骨折してしまって」これにより、新たな問題も起きた。「以前から認知症の症状は少しずつ出ていたんですが、入院したことで進んでしまって。なので今後は介護付き老人ホームに入所する予定です。サポートがないと生活が難しい状態。もう、家には戻れないと思います」明菜には連絡していないというが、これには複雑な事情がある。明菜とは年子の妹・明穂さんが2019年に病気で他界したときのこと。「明穂が亡くなったときに連絡しましたが、葬儀には来てくれなかった。だから、父の話を聞いてもお見舞いには来ないんじゃないかな……」静かにため息をつくと、こんな思いを続けた。「明穂も1987年にデビューしてテレビに出るようになったのを、明菜は好ましく思っていなかったようで、関係が悪くなっていました。それまではすっごく仲がよかったんですが。明穂本人の希望もあって、遺骨は山に散骨しました。お墓はありませんが、せめて実家の仏壇には手を合わせてほしいです」明菜が家族と距離を置いた理由1995年、明菜の母親はがんで他界し、彼女は中森家の戸籍から自ら籍を抜いた。それから27年間、家族との関係は“断絶”したまま。なぜ明菜は、父親やきょうだいとも距離を置いたのか。「明菜は、僕たちが彼女のお金を使い込んだと思っているんです。当時所属していた事務所の『研音』から税金対策で“お店を始めたらどうですか”と助言をいただいたんです。それでカラオケスナックを経営していましたが、明菜は私たちの給料に自分のお金が流れていると思っていたようで。実際は売り上げからごく普通の金額を給料としてもらっていただけなんです」1987年、中森家は埼玉県内に地上3階建てのビルを建てているが、これにも明菜は疑問を持った。「たしかに明菜のお金ですが、これは税金対策で建てたビル。そこで私たちが中華料理店などを開いたのですが、明菜はこの開店資金も自分のお金が使われたと思ったようです。でも、そうではない。父の実家は結構裕福な農家で、祖父が亡くなったときに多額の遺産が入りました。お店を作るのも備品をそろえるのも、全部遺産で賄っていたのです」さらにはこんな親心があったと明かす。「このビルは、いずれ明菜の手に渡る予定でした。芸能界で稼げていても、いつか歌えなくなって、売れなくなる日がくるかもしれない。父はそう思い、明菜が老後に家賃収入で生活できるようにと思って建てたのです。結局は売却してしまいましたが」娘を思う気持ちが裏目に出た。明菜は家族への“不信感”を募らせていくが、それを植えつけた“犯人”がいた。「事務所に聞いた話だと、最初のマネージャーが明菜のお金を持ち逃げしたそうなんですが、それを“家族が使い込んだ”と明菜に吹き込んでいたというんです」関係者は「明菜について話さない」当時の『研音』関係者に改めて聞いたが、「明菜には2人の現場マネージャーがいましたが、そんな話は聞いたことがありません。私が辞めた後のことだと思います。よっぽどやましいことでもあるのか、事情を知る関係者はみな“明菜については話さない”と言っています」と答えるだけだった。それでも兄は、幸せだった明菜の笑顔をよく思い出すという。家族が営むカラオケスナックに、当時恋人だった近藤真彦と訪れたときのこと。「僕が調理をしていて、ラザニアを作って出したんですよ。すると明菜は“おいしい!!”ってすっごく喜んでくれてね」(前出・実兄、以下同)結婚するかもしれない。そんな思いを持ったと話すが、現実は残酷だった。1989年7月、明菜は近藤の自宅マンションで自殺未遂を図った。「あのころマッチが明菜から別の女性タレントに乗り換えたようなんです。松田聖子さんではありません。明菜も最初は浮気だと思っていたのに、乗り換えられたとわかって刃物でひじの内側を……」自殺未遂をした年の12月31日、常連だったNHK紅白歌合戦の裏番組で緊急会見を開き、明菜はこう語っている。「私が仕事をしていくうえで、いちばん信頼していかなくちゃいけない人たちを信頼することができなくなってしまった」現在の明菜は「話したくない」家族や恋人に裏切られ、明菜は人間不信の螺旋に落ちていく。「今はもう、明菜と直接話すこともできていません。事務所に何度も連絡し、明菜と話したいと伝えても、一緒にいるマネージャーが“明菜が話したくないと言っているので”と繰り返すだけ。父は今も明菜のことを心配し“元気にしているのか”“ビルを売らなければよかったのに”と呟くように話しています」大好きだった母親の墓前には手を合わせているのか。「明菜はお墓の場所を知らないはずなので、行ってないと思います。母の死に目に会えていないんです。前日には来たのですが、当日は仕事で来られず、すごく悔やんでいました。だからこそ父には会ってほしい。入院中の父は今年88歳になりましたが、どこの病院にいるかも明菜は知りません。残された時間は長くないので、一度でもいいから来てくれればと思うのですが」家族なんだから─。そんな言葉が聞こえた気がした。「また明菜が元気に歌う姿を見られることだけは、いつも心から願っています」この一縷の望みが明菜に届けばいいのだが─。
2022年05月10日中森明菜のヘアスタイル、あなたの“お気に入り”は?「ここ何年も歌っている姿を見ることができないのは寂しいです。早く元気な明菜さんが戻ってきてほしい……」(東京都 53歳 専業主婦)最後に中森明菜が公の場に姿を見せたのは’17年のこと。デビュー35周年を迎え、全国でディナーショーを開催した。そして今年の5月1日、デビュー40周年─。しかし、本人を直接見られる公演などの発表はない。それでも彼女の復帰を待ち望むファンの声は多い。また、最近では’80年代、’90年代の音楽やファッションを好む『昭和レトロ』が、週女世代にとっては懐かしくもあり、思い出も多いことだろう。そこで全国の40代~50代1000人にアンケートを実施。中森明菜のヘアスタイルの人気ランキングを調査した。そして、ファッション誌や数々の広告でヘアメイクを担当してきたNAYAさんに明菜のヘアスタイルについて解説してもらい、その魅力に肉薄!◆◆◆320票を集め、トップに輝いたのは『難破船』のミディアムロング。「『難破船』や『TANGO NOIR』のロングヘアが、すごく色っぽくて好きです。まねをしたかったのですが、自分とは素材が違いすぎて……。できませんでした」(東京都 50歳 専業主婦)こんな声が届いたが、NAYAさんによると、「まねしやすい髪型」だそう。「『難破船』の髪型は、毛先だけをワンカールした、シンプルなヘアスタイルですね。作り方としては、全体をストレートアイロンでサラッと熱を通して、毛先だけ太めのコテで巻きます。『TANGO NOIR』のヘアスタイルは緩めなソバージュを全体にかけて、前髪を持ち上げる感じですね」(NAYAさん)プロだから仕上げられる“外巻き”298票と、『難破船』に迫ったのが、デビュー2年目にリリースした『セカンド・ラブ』のいわゆる“明菜ちゃんカット”のレイヤー。「デビュー当時の、黒ロングの外巻き髪がすごく可愛かったのが記憶にあります」(兵庫県 48歳 専業主婦)「小学生のとき、自分も含めて周りの友達はみんなサイドを流してまねしていました」(大阪府 48歳 専業主婦)と、当時を振り返る人が多い。「初代チャーリーズ・エンジェルの、ファラ・フォーセットを彷彿させる、女性らしさの中に強さも感じさせる髪型です。サイドを強くカールするのが特徴。少し大胆にコテでサイドを外巻きにします」(NAYAさん)いかにも“アイドル”的な可愛い髪型だが、このヘアスタイルをまねしたところ、こんな失敗談も─。「当時、サイドを外巻きにしてまねしていたのですが、コテの性能が今ほどよくなくて。髪の毛が傷んで茶色になってしまいました」(神奈川県 55歳 会社員)明菜もこの髪型で苦労していたのだろうか?「当時のインタビュー記事で明菜さんが“普段はパーマをかけている”と話していました。だから、ブローだけであの外巻きを仕上げることができたのでしょう。ストレートの髪の毛をコテだけで外巻きにしたら、かなり傷んでしまうと思います」(NAYAさん)この時代、同じようにトップアイドルとして活躍していた松田聖子の“聖子ちゃんカット”も人気があった。ぱっと見、似ているのだが、NAYAさんは「狙っているものの違いがはっきりしている」と、こう続ける。「改めて見て思ったのですが、聖子さんのヘアスタイルは“可愛らしさ”を重視しているんです。髪の巻き方も、深く巻いて全体的にカールを強めにしている。対して明菜さんは、ブローでサラッと仕上げる大きめのカール。シックな感じにまとめているように思います」下手すると“こけし”、高難易度の明菜ボブそして154票を集めたのは、リリース当時も髪型と衣装が話題になった『DESIRE─情熱─』。「あのカツラと衣装が衝撃的でした」(北海道 50歳 会社員)「小さいころ、『DESIRE』の衣装がどうしても着たくて、母にお願いして浴衣や着物をリメイクして同じようなものを作ってもらいました。それを着て明菜ちゃんごっこをしていたのがいい思い出です」(青森県 42歳 会社員)明菜自身が衣装などセルフプロデュースしたとも報じられ、バックダンサーも明菜と同じボブのウィッグをつけていた。「ミディアムボブで、一直線の前髪が特徴のウィッグですね。一直線のパッツン前髪が艶っぽい女性像を演出しているように思えます。この髪型を一般の人がやろうとすると、難しいというわけではないですが、かなり個性的な印象になると思います」(NAYAさん)この言葉のとおり、アンケートのコメントにはこんな声も。「彼女をまねて、前髪パッツンのおかっぱにしたら、周りからすごく不評で……。まあ、自分でも似合わないと思っていたのですけど」(千葉県 52歳 専業主婦)こんな声に対してNAYAさんは、「下手すると、こけしみたいになってしまいますよね(笑)。地毛でああいったきれいなボブに仕上げるのは難しいんです。明菜さんの場合も、ウィッグなのでうまくいってたのかもしれません。あと、あの衣装だから素敵に見えるという部分もあるのでは」そして122票の『禁区』と106票の『少女A』は、どちらもまとめ髪。しかし、ちょっと雰囲気が違う。「『禁区』のヘアスタイルは、髪全体をコテで巻いた後、高めの位置でラフにまとめて、前髪と顔周りをふんわりさせた、可愛らしいポニーテール。『少女A』は髪にボリューム感を出すだけの軽いパーマをベースに、毛先が外にはねるようにブロー。女の子らしさを出して、片側の耳上の髪の毛だけを縛ります。元気でやんちゃな感じが出ていますね」(NAYAさん)『禁区』のポニーテールにはファンの思い入れが強いようで、コメントも多かった。「ポニーテールの形が独特で可愛かった。合わせているイヤリングも特徴的で、友達とよく話題にしていました」(岡山県 47歳 教師)「明菜ちゃんのポニーテールが大好きで、髪型や洋服などをまねて休みの日にお出かけしていました」(岡山県 57歳 専業主婦)「高校時代、明菜さんをまねしてパイナップルポニーテールにしていました」(京都府 53歳 パート)高い位置で髪をまとめ、その形が似ていることから『パイナップルポニーテール』と呼ばれていたようだ。NAYAさんは「この呼び方は初めて聞いた」と笑うが、明菜のポニーテールは、今も撮影の現場で話題になるという。「最近、’80年代や’90年代のファッション人気が来ていて、撮影のときにポニーテールで高めの位置で髪の毛を結んだり、明菜さんが当時やっていたようなピンクパールのリップなども使ったことがあります」(NAYAさん)明菜と同時代を生きてきた人たちはもちろん、’80年代を知らない世代にも受け入れられる彼女のセンス。NAYAさんは、改めて明菜に対する印象をこう話す。「自立した女性というイメージを最初から作り上げているんだな、と。媚びてないですよね。デビューして、ポニーテールくらいまでは“可愛らしい”を意識していたかもしれませんが、かなり早い段階からご自身の意見をスタッフに伝えていた、なんて話を聞くと、自分が進みたい方向がわかっていたのでしょう」5年間、ファンの前に姿を見せていない明菜。彼女を慕うファンたちの声は、届くのか─。〈取材・文/蒔田 稔〉
2022年05月01日中森明菜(1989年)今年、デビュー40周年を迎える中森明菜。5年前から、公の場にはいっさい、姿を見せていない。公式HPには、デビュー記念日となる5月1日からWOWOWで過去のライブ映像を放送することが告知されているだけ。なぜ、彼女は姿を消してしまったのかーー。「彼女の歌を聴いたときは鳥肌が立ちました」そう証言するのは当時、レコード会社『ワーナー・パイオニア』で、明菜のプロデュースを担当した小田洋雄氏だ。明菜を初めて見たのは、桜田淳子や森昌子、山口百恵などを生み出した人気番組『スター誕生!』(日本テレビ系)だったという。「決勝戦の前に、関係者だけで行われる下見で明菜を見たのが最初です。歌詞に対する理解度が深く、歌に説得力がありました。彼女が持つスター性と歌唱の表現力は別格。天性の才能を持っている15歳だと強烈に感じました」明菜は、1981年7月に行われた『スタ誕』の決勝で合格。芸能プロダクション『研音』に所属し、『ワーナー』と契約を結んだ。“花の82年組”に埋もれた明菜1982年5月、ファーストシングル『スローモーション』でデビューを飾ったが、当初は思うようにいかなかった。日本歌手協会の理事長で音楽評論家の合田道人氏が語る。「今でこそヒットした曲のように思われていますが、『スローモーション』のオリコンランキング最高順位は30位。新人にしては十分な結果かもしれませんが、そこまで爆発的なヒットではなかった」アイドル豊作年である“花の82年組”のひとりとしてデビューした明菜の同期には、シブがき隊、小泉今日子、石川秀美、早見優、松本伊代など、そうそうたるメンバーがそろっていた。「みんな、明菜ちゃんよりも先にデビューしていたこともあり、すでにすごい人気だったんです。後発で、楽曲がヒットしたわけでもない明菜ちゃんの存在は、埋もれてしまっていました」(合田氏、以下同)しかし、ここで人気に火をつけたのが1982年7月にリリースしたセカンドシングル『少女A』。「これはオリコンランキングの最高順位は5位。人気アイドルとなっていくのですが、その年、レコード大賞の新人賞を明菜ちゃんは受賞することができなかった」そう話すと、合田氏は1枚の新聞の切り抜きを取り出した。そこには、《『少女A』で人気上昇中だった中森は、ヒット性、歌唱力以外の仕事に対する姿勢、将来性などの評価が低く、落選に繋がった》と書かれている。デビュー間もない明菜だったが、それだけ“素行”が悪かったのか。「これは明菜ちゃんが『少女A』を歌うのを嫌がったというエピソードが関係していると思われます。『少女A』は、当時のツッパリや暴走族を連想させるような楽曲でした。彼女としては清純な『スローモーション』でデビューしたのに、ツッパリの曲を“歌いたくない!”と反発したことが“新人なのにワガママだ!”となって、新聞に書かれたのでしょう」サードシングル『セカンド・ラブ』ではオリコン1位を獲得。トップアイドルへの階段を駆け上がった。が、次第に彼女への悪評も増えていく。「デビューしたての新人なのに、現場で気に入らないことがあるとふてくされ、スタッフの言うことも聞かないなんて話はよく耳にした。スタイリストが用意した衣装が気に入らなくて、自分で買いに行ったりとか」(芸能プロ関係者)“育ての親”が明かすの明菜の素顔人気が出て、慢心したのか。当時、明菜のマネージメントを担当し『研音』の部長でもあった角津(つのづ)徳五郎氏は、「確かに“明菜はワガママだ”とか“めんどくさい子だ”と言う人はいっぱいいましたけど、私はそう思ってはいませんでした。本人もそうとう勉強していましたから、いいモノを作ろうと一生懸命だったのです。はっきり意見を言う子でしたからね。“まだ小娘のくせに生意気だ”と思った人はいたかもしれませんが」明菜は自分がやりたいと思ったことを、強く主張してきた。時には言い合いになることもあったという。「だからといって関係性が悪くなるようなことはありませんでした。ただ、デビューしたてのころ、明菜がコンサートで自分が選んだ曲を歌いたいというので、許可したんです。しかし、当日になっても歌詞を覚えきれていなかったことがありました」(角津氏、以下同)角津氏が烈火のごとく怒鳴りつけると、明菜は会場から飛び出した。戻ってきたのは3時間後のことだった。「“どうするんだ?”と聞くと“歌う”と言うんです。歌詞も覚えてないくせに……と思ったら、ちゃんと歌えるんですよ。逃げ出したのかと思ったら、こっそり練習していたんです。海外の歌だったのですが、英語の発音もうまくって(笑)」デビュー当初から明菜が出演していた音楽バラエティー番組『ヤンヤン歌うスタジオ』(テレビ東京系)のプロデューサーだった丸山明慶氏も、当時の明菜を知るひとり。「『ヤンヤン』は歌だけではなく、コントやドラマなどのコーナーもありました。そこにさまざまな新人アイドルを起用していたのです。明菜もそのひとりでしたが、彼女の新曲は必ずどこよりも先に流すことにしていました」(丸山氏、以下同)画面には《独占!明菜の新曲》とテロップを流し、放送していた。「人気番組だった『夜のヒットスタジオ』を作っていたフジテレビは、怒り心頭だったと明菜の事務所からは聞いていましたが、絶対に譲らなかった。番組は毎週火曜日収録で日曜放送だったのですが、1回だけどうしてもスケジュールが合わず、他局に先に流されてしまいそうになったことがあったのです」そこで急きょ、土曜日に収録を行うことにしたという。「明菜は“どうしてほかのタレントはいないんですか?”と言うんです。説明すると、彼女はセットの真ん中で“お休みかもしれないのに、私だけのためにありがとうございます”と言って、スタッフひとりひとりに向かって頭を下げたんです。それを見て、本当にいい子だなと……」松田聖子の曲を披露した明菜明菜はそこで、ある曲を歌ったという。「セットチェンジの合間でした。スタジオの真ん中で松田聖子さんの曲を歌ったんです。それが本当にうまくって。うちにはモノマネのコーナーもあったので“明菜、今度番組でも歌ってよ”と言うと“あれは聖子さんの歌だから……。私が聖子さんの歌をステージで歌っちゃいけないと思ってます”と言うんです。なかなかしっかりしたことを言うなと思いましたね」『ヤンヤン』は、明菜のお気に入りの収録現場だった。コントではハリセンで明菜の頭を叩くことも。丸山氏は、「明菜みたいな売れっ子がよくやってくれたと思います。何も文句を言わず、逆に率先してやってくれたぐらいです」時には事務所から、「収録が入っていないから明菜が怒っている」と、丸山氏に電話があったほど。前出の角津氏も、こう証言する。「番組を見た他局のスタッフからオファーもありましたが、明菜は“そんなのやらない”と言うんです。コミュニケーションの問題だったと思います。『ヤンヤン』では、自分がとても必要とされていると感じていたのでしょう」ただ、『ヤンヤン』には近藤真彦が出演していたことも、明菜にとっては特別だった。「うちの番組は『学校の放課後』ともいわれていて、年の近いタレントがいるから、話せて楽しかったんでしょうね。なにより明菜は“マッチに会うために歌手になった”とも言っていました。コントでマッチを抱きしめる役のとき、明菜も顔がにやけていました」(丸山氏)近藤と少しずつ距離を縮め、ふたりはほどなくしてひそかに交際をスタートさせた─。が、幸せな時間は長くは続かなかった。近藤真彦との一件から周囲と距離1989年7月11日のこと。明菜は近藤の自宅マンションで手首を切って自殺を図った。当時を知る芸能ジャーナリストの石川敏男氏は、明菜の自殺理由についてこう話す。「同年2月、マッチが松田聖子とニューヨークで密会し、キスしている写真が週刊誌に掲載されたのです。明菜さんはそれでマッチと揉めた末、自殺を図ったのです」同年12月31日。NHK紅白歌合戦の裏番組で、明菜は復帰を報告する緊急会見を開いた。そこで、自殺理由について問われると、「なんて愚かな……、なんてバカなことをしたのか……」と、涙ながらに口にした。事情を知る、とある芸能プロの幹部は、「当時、マッチはモテ男でしたから、何人もの女性タレントとウワサがあった。破局のきっかけとなった報道の前からマッチの女性問題でふたりの関係はこじれていた。明菜には積もり積もったものが、あったのです」ここから明菜は、少しずつ表舞台から姿を消していく。「金銭トラブルや事務所との関係悪化、周囲の裏切りを受け、次第に人と距離を置くようになっていきます。1995年には実母が亡くなって、明菜さんは中森家の戸籍から自分だけ籍を抜いてしまう。“家族がお金を使い込んでいる”と思っていたようですが、一方で、明菜さんの家族は“事務所がそう吹き込んだ”と主張。しかし、真相はわからないまま。2019年には妹の明穂さんが病気で亡くなりましたが、葬儀にも姿を見せていません。25年以上、家族との関係は断絶したままです」(スポーツ紙記者、以下同)実父が昨年暮れに入院していたいちばん身近な家族とまで距離をとり、彼女はひとりになってしまった。狂った歯車は直らないまま、明菜は暴走していく。前出の石川氏は、「ファッション誌の撮影の際、明菜さんは編集者を高級ブランド店に連れていき、棚の端から端まで全部買い占めようとしたことも。仕事をドタキャンすることも増えていき、精神状態は悪化。悪循環に陥っていくのです」その後もドラマの主演を務めるなど、活動の幅を広げた時期もあったが、彼女の心は次第に壊れていった。「2010年に体調不良のため無期限活動休止を発表。2014年の紅白に出場してから、活動を再開するも、2017年のディナーショーを最後に、表舞台からは完全に姿を消してしまった」もう一度、彼女が歌う姿を見たい。なによりも、それをいちばん願っているのは、家族のはず。実父に話を聞こうと、都内にある実家を訪ねると、雨戸は閉ざされ、郵便物は地面に散乱している。引っ越してしまったのだろうか。近隣住民に話を聞くと、「お父さんは昨年暮れに体調を崩して入院されたそうです。明菜さんが来たかって?それは、わかりません……」80代になる実父が入院しても、彼女は会いに訪れることはないのだろうか─。
2022年04月30日抜群のセンスと数々のヒット曲で日本歌謡界のトップスターに君臨し続けた中森明菜(56)がまもなくデビュー40周年を迎える。ここ数年は公の場に姿を見せていないが、デビュー日の5月1日、並びに6月17日には40周年を記念してWOWOWで過去のライブ映像が配信されるなど、今もなおその人気は衰えていない。しかし、’89年に自殺未遂を起こして以降、90年代には事務所トラブル、’10年に無期限活動休止を発表するなど波乱の多い人生でもあった。’81年、15歳で『スター誕生!』で山口百恵の『夢先案内人』を熱唱したことをきっかけに芸能界入り。翌’82年に“ちょっとエッチな美新人娘”というキャッチフレーズでデビューし、同年発売した2枚目のシングル『少女A』ですぐさまブレイクを果たした。松田聖子を代表とするそれまでの可愛らしいアイドル像とは異なる、明菜の不良っぽい雰囲気と歌声は、多くの人を魅了。瞬く間にトップアイドルの座へと登り詰めたのだ。‘85年の『ミ・アモーレ』と、その翌年に発売した『DESIRE-情熱-』では、史上2例目となる2年連続の日本レコード大賞受賞の快挙を達成。その後も数々の賞を受賞し、明菜はアイドルとしての絶頂期を迎えることになる。何もかも順調に見えた明菜だが、プライベートでは悩みを抱えていたようだ。’89年7月11日、当時交際していた近藤真彦(57)の自宅で左肘の内側を刃物で切って自殺を図ったのだ。帰宅した近藤に発見された明菜は、病院へと緊急搬送され一命を取り留めた。明菜は近藤と共に’89年12月31日の大晦日に、一連の騒動に関する会見を開いたが、その会見は”結婚を連想させる金屏風の前での謝罪”という異様なものに。明菜の辛そうな面持ちに、世間からは心配の声が相次いだ。その後、近藤とは破局した。この件を境に、明菜の周りではトラブルやスキャンダルが多数報じられるようになる。女優として活躍したり、『Dear Friend』(‘90年)などのヒット曲を発売したりする一方で、事務所やレコード会社の移籍を繰り返す。その後、徐々に活動の範囲を絞っていった明菜。’10年には体調不良により無期限の活動休止を発表したのち、’14年末に『紅白歌合戦』に出演。’16年からはカバー・アルバムを発売するなど本格的に再始動したが、’17年のディナーショーを最後に公の場には一切姿を見せていない。デビュー40周年を迎える今年、明菜の歌声を聞くことはできるのだろうかーー。
2022年04月30日1982年5月1日にシングル「スローモーション」で衝撃のデビューを果たした中森明菜。数多くの名曲を世に送り出し、1985、1986年には2年連続で日本レコード大賞を受賞するなど、いまや日本を代表する伝説の歌姫となった彼女。MUSIC ON! TV(エムオン!)では、今年デビュー40周年を迎えることを記念して、過去のライブ作品から「ビター&スウィート(1985サマー・ツアー)」「Live in '87・A HUNDRED days」「Live in '88・Femme Fatale」「~夢~ '91 Akina Nakamori Special Live」の4ステージを4時間30分にわたって、デビュー日である5月1日に一挙放送!「飾りじゃないのよ涙は」「DESIRE-情熱-」「セカンド・ラブ」などのヒット曲の数々が、圧倒的な歌唱力で歌い上げられる華やかなステージをお見逃しなく!\4ライブ、4時間30分放送/■■番組情報■■M-ON! LIVE 中森明菜 「ビター&スウィート(1985サマー・ツアー)」<放送日時>2022/5/1(日)13:00~14:00<番組内容>1985年9月22日、東京・東京厚生年金会館で開催されたライブの模様を放送。代表曲「飾りじゃないのよ涙は」をはじめ、「十戒(1984)」など華やかなライブステージをお届け。M-ON! LIVE 中森明菜 「Live in '87・A HUNDRED days」<放送日時>2022/5/1(日)14:00~15:00<番組内容>1987年に行なわれたツアーより、10月17日の東京・東京厚生年金会館公演の模様を放送。アルバム『CRIMSON』『BITTER AND SWEET』『不思議』からの楽曲を中心に、「飾りじゃないのよ涙は」などのヒット曲も楽しめるステージをお届け。M-ON! LIVE 中森明菜 「Live in '88・Femme Fatale」<放送日時>2022/5/1(日)15:00~16:00<番組内容>1988年10月26日の東京・中野サンプラザ公演の模様を放送。「東京ブギウギ」「銀座カンカン娘」といった昭和懐メロや洋楽のカバー曲も楽しめる、バラエティー豊かな彼女のステージをお届け。M-ON! LIVE 中森明菜 「~夢~ '91 Akina Nakamori Special Live」<放送日時>2022/5/1(日)16:00~17:30<番組内容>1991年7月27日・28日に千葉・幕張メッセで行われたスペシャル・コンサート。「DESIRE-情熱-」「セカンド・ラブ」などのヒット曲を圧倒的な歌唱力でお届け。以上MUSIC ON! TV(エムオン!)は、スカパー!、J:COM、ケーブルテレビ、ひかりTVなどでご覧いただける音楽チャンネルです。詳しくは、MUSIC ON! TV(エムオン!)公式サイト( )まで。 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2022年04月26日2022年3月29日(火)発売『ダークメガほねほねザウルス』カバヤ食品株式会社(本社:岡山市北区、社長:野津 基弘)は、『ほねほねザウルス』シリーズから、通常シリーズの約2倍の大きさとなる玩具が楽しめる商品、『ダークメガほねほねザウルス』を2022年3月29日(火)に発売しますのでお知らせします。商品特長1.『ほねほねザウルス』の定番シリーズ(※)の約2倍、全長約140㎜のメガサイズ版の商品です。(※価格220円(税込)の『ほねほねザウルス』通常モデルシリーズ)2.『ほねほねザウルス』シリーズの特徴である「共通ジョイントでの自由な組みかえ」や「広い可動域」という遊び性を活かし、従来シリーズとも組み合わせて遊ぶことができます。3.玩具は全6種類です。全種に「スペシャルパーツ」が付属します。4.「スペシャルパーツ」を集めると、3形態に変形する「ダークメガほねほねタイタン」が完成します。5.『ほねほねザウルス』発売20周年記念として、「ミニ図鑑」になるリーフレットが1枚附属します。リーフレットはリバーシブル仕様で、表面は最新の第39弾までの歴代のスペシャルモデル玩具を、裏面は児童書ほねほねザウルスでのスペシャルモデルの登場シーンを特集した内容です。全6種類です。6.バナナ味のチューインガム1枚が入っています。商品概要商品名ダークメガほねほねザウルス種類別名称チューインガム<玩具菓子>内容量1枚価格440円(税込)発売日2022年3月29日(火)ダークメガほねほねザウルス「ほねほねザウルス」について「ほねほねザウルス」は、カバヤ食品オリジナルブランドの玩具菓子として2002年に登場した、人気ロングセラーブランドです。「ほね」「恐竜」というモチーフと、「組みかえ自由」、「暗闇で光る」、「全種集めて完成する合体モデル」等の豊かな遊び性で、累計販売数量は4000万個を突破しています。オリジナルの「ほねほねザウルス」作品を紹介する「ほねほねザウルス」のスペシャルサイトには、毎月600通を超える投稿が寄せられています。「ほねほねザウルス」38弾ほねほねザウルスブランドサイト : 「ほねほねザウルス」スペシャルサイト毎月、オリジナル作品を募集、発表しています。ほねほねザウルススペシャルサイト : 児童書「ほねほねザウルス」について2008年5月に岩崎書店により児童書として登場。現在まで第25巻まで刊行されており、累計230万部を突破しております。2021年に開催された「第3回小学生がえらぶ!こどもの本総選挙」にて9位入賞を果たしました。主人公は、ティラノサウルスの「ティラノ・ベビー」、親友のトリケラトプスの「トップス」、ステゴザウルスの「ゴンちゃん」。最新25巻は、舞台を宇宙に飛び出しての大冒険ストーリーです。児童書「ほねほねザウルス」スペシャルサイト : 詳細はこちら プレスリリース提供元:NEWSCAST
2022年03月24日東出昌大、中森明菜東出昌大が所属していた芸能事務所『ユマニテ』を2月14日付で退所していたことが明らかになった。退所にあたって所属事務所の出したコメントには“契約終了”とあったが、その内容と状況からみて、東出が“クビ”になったと感じる向きもある。『東出昌大についてお知らせいたします』というタイトルの付いた声明文には、唐田えりかとの不倫、そして元妻・杏との離婚後も支え続けてきたがゆえの、複雑な思いが込められている。《昨年秋、東出の配慮に欠ける行動でその再生への道は頓挫いたしました。その時私たちが感じたものは怒りというよりも、徒労感と虚しさでした。そして熟慮の末に、これ以上共に歩くことはできないという結論に達しました》“昨年秋”とは、『週刊文春』に報じられた「ロケ現場の広島にハーフ美女を呼びつけていた」ことであるが、この文面からは怒り以上の何かを読み手に感じさせる。これまで、不祥事を起こして契約解除になった芸能人は数あれど、退所発表で事務所がここまで感情を顕にしたケースはほとんどない。事情は異なるが、唯一思い出されるのは、中森明菜のケースだ。1999年11月、明菜が所属していたレコード会社『ガウスエンタテインメント』の斎藤至廣社長(当時)が記者会見を開き、前代未聞の“引退勧告”をしたことがある。タレントに非情な事務所のレッテル《これ以上の犠牲者を出してはいけません。中森明菜はこの業界に置いてはいけないタレントです》そんな衝撃的な言葉を放ったのにはワケがある。自殺未遂に暴力沙汰、宿泊先のホテル代を滞納、仕事の予定をキャンセルするなど芸能界の問題児だった彼女を周囲の反対を押し切り、『ガウス』が“引き取る”かたちで契約したのが1998年1月。中森明菜というアーティストの才能が埋もれてしまうのがあまりにも惜しい、と救済の手を差し伸べたのも束の間──宣伝担当者が新曲の宣伝のためにテレビ番組出演を決めても出たがらない、シングル『Trust Me』、アルバム『will』はレコーディングこそすれ、明菜がPVを撮るスケジュールを出さずに撮影ができないなど、トラブルが重なった。その後、連絡がとれなくなったことでついに、斎藤社長は怒りの会見を開くこととなった。「当時は、“やはりあの明菜をマネジメントすることはできなかったか……”と周囲やマスコミも同情する流れがありましたが、本来はそのような会見を開くことが自身にとってネガティブに働くところも大きい。“タレントに非情な事務所”とのレッテルを貼られてもおかしくないからです。所属するほかのタレント、今後新しく入ってくるであろうタレントの卵たちにもいい影響は与えないでしょう」(芸能プロ関係者)『ユマニテ』が東出に出した感情的な文書も、ネット上で大きな話題になった。もちろんそのなかには、同事務所にむけられた同情の声もあったが、《東出昌大、退所の事務所コメントが話題「ブチ切れ通り越してる声明で草」「ここまで赤裸々に書くってなかなか」》(中日スポーツ)《東出昌大 事務所からも絶縁通告…「ここまで書かれるなんて」と波紋》(女性自身)と、ネットニュース上で大いに物議を醸すことに。事務所社長があえて名前を出してコメントした“愛情”「ここの社長は職人気質で女性スキャンダルが大嫌いだと聞きました。また所属俳優をとても大切にしているからこそ、裏切られた感が強かったんでしょうね。それに東出さんは不倫騒動に関しては反省していたようですが、ロケ現場に恋人を呼んだことに関してはなぜ非難されるのか理解できていなかったそうです」(芸能プロ関係者)しかし、老舗芸能プロ幹部は『ユマニテ』のとった行動に対して、別の真意を受け取ったという。「あの社長の言葉は一見辛辣のように見えて実は愛があるようにも見えるのです。“契約解除の運びになりました”と簡潔な文書でまとめることもできるのに、あえて、《畠中鈴子(ユマニテ代表取締役)コメント》として、ネガティブな反響もあるような言葉を世に出した。あえてボロクソにいうことで、“そこまでいうことはないだろう。可哀そうだ”と東出を擁護する声も聞かれるようになりました。業界内からはきっと、ひとりで放り出された彼に“手を差しのべる人”も出てきやすくなる。他の事務所彼を拾うとして、きっと、“事務所を追い出されたから”という理由があったほうが行動に移しやすい。つまり、あのコメントは事務所社長の最後の親心なのではないでしょうか」(芸能プロ関係者)先の中森明菜の会見。斎藤社長はこう締めくくった。《明菜を潰してしまえとか、干してしまえなどという意味ではなく、半年くらい一人で考えて、更生して欲しいと思っています。ファンやスタッフがあっての自分だということに本人が気づいてくれたら、もう一度手をさしのべようと思っています》東出はもう一度立ち上がることができるか──。<芸能ジャーナリスト・佐々木博之> ◎元フライデー記者。現在も週刊誌等で取材活動を続けており、テレビ・ラジオ番組などでコメンテーターとしても活躍中
2022年02月20日「花の中三トリオ」(上段左から桜田淳子、森昌子、山口百恵さん)、下段は中森明菜とピンク・レディー山口百恵さん(63)、森昌子(63)、桜田淳子(63)、岩崎宏美(63)、片平なぎさ(62)、ピンク・レディー、石野真子(61)、小泉今日子(56)、中森明菜(56)……。彼女たちには共通点がある。ピンと来る人は多いだろう。全員、日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』(1971年~1983年)の出身者である。この番組へ出場を申し込んだ人は約200万人。その中からデビューを遂げた人は88組91人いる。終了から38年目が過ぎたものの、現在も現役で活躍する人が少なくない。これほど成功を収めたオーディション番組は後にも先にも存在しない。どうして数々のスターを生むことが出来たのだろう。また、どうして番組は消えたのか。■日テレと渡辺プロの“関係”当時の事情を知る元日本テレビ幹部と元大手レコード会社幹部に聞いた。まず、「『スタ誕』が生まれた経緯には大人の事情があるんです」と語るのは日テレ元幹部。背景には次のような話があったという。 『スタ誕』の誕生前、日テレには『タレントスカウトショー あなた出番です!』(1966年~1969年)というオーディション番組があった。制作に深く関わっていたのは当時の芸能界に君臨していた芸能事務所の渡辺プロダクション。ここで発掘された新人はすべて同社からデビューした。「ウチとしてはほかのプロダクションともお付き合いしたかった上、そもそも当時は渡辺プロへの不満が溜まっていた。そんな下地があったので、渡辺プロを除いた約40社のプロダクションとレコード会社に参加してもらい、『スタ誕』をつくったんです」(同・元日テレ幹部)ケンカを売られた渡辺プロも黙ってはいない。新しいオーディション番組をフジテレビと一緒につくった。『君こそスターだ!』(1973年~1980年)である。放送時間帯も『スタ誕』が日曜午前11時だったので、それより早い同10時からとした。 『君スタ』からは林寛子(62)、高田みづえ(61)、石川ひとみ(62)たちがデビューした。所属先は必ずしも渡辺プロではなく、さまざまだった。日テレと渡辺プロには確執が生じていたが、渡辺プロと大半のプロダクションにはわだかまりがなかったからである。当時の芸能プロには渡辺プロ出身者が多かったことが大きく影響した。日テレと渡辺プロの対立は図らずもオーディション番組の黄金期を招く。「審査員も張り合い、『スタ誕』の顔が作詞家の阿久悠さんだったのに対し、『君スタ』はライバルのなかにし礼さんを起用。充実していました」(同・元日テレ幹部) 『スタ誕』の場合、予選大会の通過者が決勝大会に進み、プロダクション、レコード会社が「獲りたい」と思うと、社名入りのプラカードを上げた。この仕組みが功を奏したとよく聞く。「視聴者が見ている前で獲得を宣言するから、みんな責任感が増すんですよ。視聴者が将来を期待した人を失敗させる訳にはいきませんから」(元レコード会社幹部)■アイドルが“儲かった”時代ちなみにもっとも多くプラカードが上がったのは桜田淳子の25本。1972年9月、4回目の決勝大会でのことで、当時の桜田は14歳だった。同い年の百恵さんが応募したのはその直後。自分と妹を1人で育てていた母親を経済的に助けようと考えてのことだった。百恵さんのプラカードは20本。7年間におよんだ百恵伝説の幕開けだった。透明性が確保された番組のようで、実は決勝大会前に下見の機会が設けられていた。ここでプロダクション、レコード会社は「あの子を獲り、こんな路線で売ろう」などと作戦を練った。また、プラカードが複数上がった場合、本人と家族が各社と面接し、待遇や条件を吟味。その上で所属先の最終決定は日テレ側が行なった。「この慎重さも結果的にはよかった。ミスマッチが極力防がれた。また、日テレが有望な人材を特定の会社に集中させなかったから、お互いにライバルなのに各社から不満が出なかった」(同・元レコード会社幹部)例えば1981年には3月に小泉今日子が決勝大会で合格。その4か月後の7月、中森明菜がやはり合格したが、日テレの意思によって2人は同じプロダクション、レコード会社にはならなかった。「本当は多くの社が2人とも欲しかったんです。図抜けた存在でしたから。けれど日テレがそれを許さなかった」(同・元レコード会社幹部)すべてはプロデューサーの故・池田文雄さんの考えだった。中学から大学まで慶応で音楽に没頭し、大学時代はダーク・ダックスと一緒に男性合唱団の活動をした人だった。時代も『スタ誕』に味方した。「くしくも1970年代、80年代は各社がアイドルに力を注いだんです。理由は単純明快。アイドルは絶好のビジネスでしたから。それまで主流だった歌謡曲の歌手や演歌歌手、フォーク歌手と違い、レコードが売れるだけでなく、ドラマや映画もつくれる。CMの仕事も来る。あの時代、芸能人でもっとも商品価値が高かったのはアイドル。各社とも『スタ誕』から目が離せなかった」(同・元レコード会社幹部)たしかに百恵さんはレコードが売れたのみならず、主演映画13本はすべてヒットした。1980年代から90年代の小泉今日子はCM女王の名を欲しいままにした。では、どうして『スタ誕』は消えたのか。「ホリプロ・スカウトキャラバンが1976年に始まるなど各社が自前でオーディションをやるようになり、『スタ誕』に出るメリットが乏しくなりましたからね。各社としてみたら、ウチに仕切られるより、やりやすいし、アイドル志願者もプロダクションやレコード会社のオーディションのほうが歌手デビューや映画出演などの近道と考えた」(同・元日テレ幹部)有望なアイドル志願者が流出したことが一番の理由になり、1970年代には15%を超えていた世帯視聴率が、80年代に入ると10%に届かなくなった。これでは存続が難しかった。役割を終えた『スタ誕』が消えるのは歴史の必然だった。高堀冬彦(放送コラムニスト、ジャーナリスト)1964年、茨城県生まれ。スポーツニッポン新聞社文化部記者(放送担当)、「サンデー毎日」(毎日新聞出版社)編集次長などを経て2019年に独立
2022年02月11日『ほねほねザウルス カードバトリング』カバヤ食品株式会社(本社:岡山市北区、社長:野津 基弘)は、『ほねほねザウルス』シリーズから、玩具とゲームカードがセットになったカードゲーム玩具菓子『ほねほねザウルスカードバトリング』を2021年11月30日(火)に発売しますのでお知らせします。『ほねほねザウルスカードバトリング』(左:パッケージ、右:玩具画像)商品特長1.『ほねほねザウルス』のくみたてプラキット玩具2個とカード28枚がセットになった、ほねほねザウルスのカードゲーム玩具菓子です。2.「神経衰弱遊び」をベースにした白熱のカードバトル!手札と場札の番号の組み合わせで「攻撃技」をつくって勝負し、役の強い方が勝ち!相手のほねほねザウルスのパーツをはずせます。パーツを5つはずすと勝利!「攻撃技」には組み合わせを作るのが難しいけど強力な「アタック」もあり、大逆転も狙えます!3.玩具は全4種類。プラくみたてを楽しむことはもちろん、みんなでゲームが楽しめる商品です。4.付属のカードには♠♦♥♣のマークも入っており、4種類中の2種類を集めるとトランプとして遊べます。例:①(♣♥)&②(♠♦)5.パッケージは玩具とカードゲームの画像で、遊びの魅力をアピールしています。正面の丸窓から玩具番号が見えます。6.バナナ味のチューインガム1 枚が入っています。商品概要商品名ほねほねザウルスカードバトリング種類別名称チューインガム<玩具菓子>内容量1枚価格(税込)440円発売日2021年11月30日(火)ほねほねザウルスカードバトリング「ほねほねザウルス」について「ほねほねザウルス」は、カバヤ食品オリジナルブランドの玩具菓子として2002年に登場した、人気ロングセラーブランドです。「ほね」「恐竜」というモチーフと、「組みかえ自由」、「暗闇で光る」、「全種集めて完成する合体モデル」等の豊かな遊び性で、累計販売数量は4000万個を突破しています。オリジナルの「ほねほねザウルス」作品を紹介する「ほねほねザウルス」のスペシャルサイトには、毎月600通を超える投稿が寄せられています。「ほねほねザウルス」38弾ほねほねザウルスブランドサイト : 「ほねほねザウルス」スペシャルサイト毎月、オリジナル作品を募集、発表しています。ほねほねザウルススペシャルサイト : 児童書「ほねほねザウルス」について児童書「ほねほねザウルス」【作・絵】ぐるーぷ・アンモナイツ【発売元】岩崎書店【対象】小学校低学年から2008年5月に岩崎書店により児童書として登場。現在まで第24巻まで刊行されています。主人公は、ティラノサウルスの「ティラノ・ベビー」、親友のトリケラトプスの「トップス」、ステゴザウルスの「ゴンちゃん」。最新24巻は、超古代のほねほねザウルスが眠る、マヨイの森の冒険に挑むストーリーです。 詳細はこちら プレスリリース提供元:NEWSCAST
2021年11月25日オリジナルダイカットプレートアプリ会員限定でブランケットが当たるキャンペーンも期間中は、ほっかほっか亭の「各種オードブル1台」「おかずトリオ」「ベジプラトリオ2台」「すみっコぐらしべんとう」(例:おかずトリオ10点・すみっコぐらしべんとう5点)などを購入し、20点分のシールを集めた先着合計4万名に、オリジナルダイカットプレート(全5種)のうちから好きなデザインのものを1皿をプレゼントします。プレートは、恐竜の着ぐるみを着たすみっコたちキャラクターがデザインされたほっかほっか亭オリジナル。オリジナルダイカットプレートの受け渡し最終日は12月31日です。なお、シール貼付用の台紙は店舗名印のないものは無効。台紙の店舗名印の店舗でのみ景品との交換ができます。また、ほっかほっか亭の公式アプリ「ほっかアプリ」会員限定企画も実施。オリジナルダイカットプレートの個装箱の裏側に貼付されている応募シリアルコードを、ほっかアプリの特設ページに入力し応募すると、抽選で50名に「すみっコぐらしオリジナルブランケット」をプレゼントします。※キャンペーン実施店舗:北海道、秋田県、宮城県、福島県、山梨県、関東地方、東海・北陸地方、大阪府、兵庫県(淡路島除く)、京都府、滋賀県、奈良県、和歌山県、中国地方、九州地方の各店ほっかほっか亭総本部(マイナビ子育て編集部)<関連リンク>→スターバックス リザーブ ロースタリー東京で2021のホリデーコレクションがスタート!満天のオーロラスターやツリーを堪能→豚汁定食専門店「ごちとん」に新グランドメニュー! 組み合わせ自由な豚汁定食が誕生→マクドナルド「ハッピーセット」にウルトラマンとプリキュアのおもちゃが11/19から登場
2021年11月17日アンケート調査実施の背景とは保育園や幼稚園など、たくさんの子どもたちが過ごす保育現場では、一歩間違えれば事故に繋がってしまうような「ヒヤリハット」が起こるケースも少なくありません。内閣府が公表している資料『令和2年教育・保育施設等における事故報告集計の公表について』によると、令和2年1月1日から12月31日の1年間に報告があった保育施設での重大事故の件数は2,015件と、年々増加の一途をたどっていることがわかりました。労働災害の調査から導き出された発生比率の法則「ハインリッヒの法則」によると、1件の重大事故の背景には29件の軽微な事故があり、300件の「ヒヤリハット事例」があると言われています。つまり、令和2年で起きた保育施設における重大事故2,015件の背後には、多くのヒヤリハット事例が発生している可能性があるのです。アンケート調査結果調査は『ほいくis』の公式Instagramアカウントで実施され、ヒヤリハット経験の有無を問う質問には1,593名、ヒヤリハットの事例を聞いたフリーアンサーには136名からの回答が寄せられました。ヒヤリ・ハット経験の有無について聞いた質問では、「ある」が1,516件(95.2%)、「ない」が77件(4.8%)という結果になり、実に95%以上の保育者に、ヒヤリハットの経験があることがわかりました。ヒヤリハットには、日々の保育の中で起こる子どものケガだけでなく、一歩間違えれば重大事故に繋がってしまうようなものまであります。もっとも多かったのは「転落」グラフは、フリーアンサーで寄せられたヒヤリハットのエピソードを、まとまったカテゴリーでグルーピングして集計その他、実際にどのようなヒヤリハットが起きたのかをフリー記述で聞いてみたところ、第1位が「転落(29件)」、第2位が「保育室/散歩からの抜け出し(19件)」、第3位が「挟まり(15件)」がトップ3にランクイン。特に多かった「転落」については、滑り台やブランコなど、遊具からの転落を挙げる保育者が多数いたことから、改めて子どもを見守る体制についての重要さを認識させられる結果となりました。<その他のヒヤリハットに関するエピソード>●大きな石を拾って急に投げた子がいた●枝豆ご飯の枝豆を鼻に入れた●おままごとで絵の具のジュースを飲む真似をしていて、ペットボトルのキャップが外れかけた●トイレに園児を置き去りにした先生がいた●子どもが机をひっくり返した家庭でも保育現場でも、「一瞬たりとも子どもから目を離してはいけない」ということは現実的に難しいものがありますが、日ごろから夫婦や園内でヒヤリハット事例を共有するなど、事故防止のためのリスク管理を事前にしておくことがより重要です。調査概要調査期間:2021年8月17日(1日)調査方法:公式Instagramアカウントでアンケートを実施調査対象:Instagramユーザー有効回答数:『Q 保育中に「ヒヤリ・ハット」した経験が?』1,593件/『保育中「ヒヤリ・ハット」したエピソードを教えてください(フリー記述)』136件ほいくis(マイナビ子育て編集部)
2021年11月08日(左から)中森明菜、堂本剛、薬丸裕英ある日突然、片耳が聞こえなくなる「突発性難聴」片側の身体に痛み、かゆみが生じる「帯状疱疹」コロナ禍でこんな症状が増えているという。この病気、治療にタイムリミットがあるんです。放置して重症になる前に知っておきたい初期症状。■ストレスが引き金!? 【帯状疱疹】コロナ禍で患者の急増が懸念されている2つの病気をご存じだろうか?いずれもストレスが原因。自粛生活を余儀なくされ、仕事や収入で不安を抱えている人が多い今だからこそ気をつけたい。気づいたころには手遅れの可能性もある、見過ごしたくない2つの病気に迫った。「子どもとプールで遊んでいたら、突然おでことまぶたがこれまで経験したことがない猛烈なかゆみに襲われ、その後、赤いポツポツが左半身のあちこちに出て、顔は『四谷怪談』のお岩さん状態。かゆみだけでなく痛みも伴うようになったので病院へ行ったところ、帯状疱疹と診断されました。そのころ会社で異動があり、慣れない仕事で忙しく、さらに子どもの学校のPTA役員にもなったので、疲れとストレスがたまっていましたね」そう語る30代のKさん。激しいかゆみと痛み、そして恐ろしく腫れ上がった顔は今も忘れられないと言う。「帯状疱疹は誰もが発症する可能性がある」と医師の秋津壽男先生は注意を促します。「帯状疱疹は小児期に感染した水疱瘡のウイルスが神経節に潜み続け、身体の免疫力が下がったときに暴れだすのが原因です。皮膚に赤い点のような水疱性の湿疹が連続し、帯状になることからその名がつきました。ちなみに歴史上の人物が何の病気で亡くなったのかを探る歴史病理学の研究者によると、お岩さんも帯状疱疹だったのではないか、という説もあるそうですよ」発疹に加えかゆみや痛みが出る帯状疱疹、どんな初期症状があるのだろうか?「帯状疱疹は皮膚の神経の病気なので、赤いポツポツが出る3日前くらいから、皮膚を触るとヤケド直後のようなピリピリ感があったり、その部分を押すと芯のあたりが痛いといった不快な初期症状が出ます。また人間の身体の神経は左右に分かれているため、右半身、もしくは左半身にだけ出るのも帯状疱疹の特徴で、脇や太もも、顔などは神経の幅が広く、幅20センチほどの発疹が出るので、症状の範囲がかなり広くなります。治療をせず放っておくと、ヤケドの痕のような状態になったり、帯状疱疹後神経痛になって、何年もペインクリニックへ行くほどのつらい症状が出ることもあります。さらに顔に出た場合、目の中にウイルスが入るとヘルペス性角膜炎を起こして角膜が壊れ、失明するケースもあります。もっと怖いのはウイルスが脊髄や脳に入って髄膜炎を起こし、身体にまひが残ったり、死に至ることもあるんです」(秋津先生)なんとも怖い帯状疱疹、予防する術はあるのか?「発疹が出たら、ブツブツが3つくらいまでの早い段階で病院へ行ってください。ウイルスを殺す薬(内服、点滴)があるので、早ければ早いほど効果があります。また昨年『シングリックス』というワクチンが出て、これを2回打てばかなりの確率で予防できるようになりました。ただ保険がきかないので1回2万円、それを2回なので4万円ほどと高額なのがネックですが、身近な人が帯状疱疹で顔が腫れ上がった状態を見て接種を決める方も多いですね」(秋津先生)帯状疱疹は免疫力が下がることが発症原因。疲れやストレスをためないことがいちばんの予防法なのだ。「ストレスをためないためにはどうしたらよいかとよく聞かれますが、私が患者さんにいつも言っているのは完璧を目指さず『100点を目指さず、60点でいい』ということ。そして『病気のときは人のことを考えずにわがままになりなさい。不義理をしなさい』と言っています。とにかく疲れをためず、適度にサボり、ポジティブシンキングをしてください」(秋津先生)●帯状疱疹(1)皮膚がピリピリするなど痛みや不快感があったら注意!(2)発疹が出たら、ブツブツが3つくらいまでの間に病院へ!(3)ワクチンで予防する選択肢もあり。とにかく疲れやストレスをためないこと!■原因はいまだ不明! 【突発性難聴】「朝起きたら右耳が詰まっている感じがあって、耳抜きをしても治らない。おかしいなと出勤途中にネットで調べると、どうやら突発性難聴の症状。ためしにイヤホンで右耳と左耳を聞き比べたら、やっぱり右耳がおかしい。打ち合わせをしたら、男性の声が聞こえづらい。これは変だと思い、会社帰りに近くのクリニックへ行ったところ、やはりそうでした。治療のかいあって、今では問題なく聞こえています。私はコンサートへ行ったりなど音楽を聴くのが大好きなので、本当に早く行ってよかった」そう語るのは40代のHさん。一方30代のAさんもHさんと似た不調に悩まされていたが症状を放置したため、今も左耳が聞こえづらい状態のままだそう。「おかしいなと思ったときにすぐに行けばよかった」と悔しさをにじませる。「突発と名前がついているとおり、昨夜までなんともなかったのに朝になったら片方の耳が聞こえなくなっていた、という方が多い病気です。原因はストレスや疲れではないか、耳の奥にある音を聞く蝸牛という器官の細胞が炎症を起こすからではないかなどといわれていますが、今の段階では不明です」(秋津先生)原因不明なので予防法もなし。片耳がおかしいなと思ったら、選択肢は「すぐ病院へ」のみ!■帯状疱疹と突発性難聴は一刻を争う病気「突発性難聴は、症状に気づいてから3日以内、遅くとも1週間のうちに治療を開始しないと、聴力がそのまま失われることがあります。治療をすると3分の1の人は元どおりになりますが、3分の1は前に比べて聴力が落ち、残り3分の1がまったく聞こえなくなってしまうといわれます。厄介なのは、耳は2つあるので、突然聞こえなくなっても気がつかない人もいるんです。なので『おかしい』と思ったら携帯電話を右耳と左耳交互に当て、音が聞こえるか試してみてください。片耳を手で押さえただけでは音が回り込んで聞こえる場合があるので、この方法がおすすめです」(秋津先生)初期症状には「耳鳴り」「聞こえにくい(高音から低音まで聞こえなくなる音の高さは人それぞれ)」「耳が詰まった感じ(耳閉感)」だそう。もし耳鼻科が近くにない場合は、内科などがある病院であれば薬で応急処置してくれる場合もある。「突発性難聴は誰でもなる可能性がありますから、とにかく早く気づくことが大事。余談ですが、片目が見えていないまま過ごしている人も多いんですよ。なので毎朝起きたら『右目OK、左目OK、右耳OK、左耳OK、はい、じゃあ今日も頑張りましょう!』と、目と耳を個別にチェックしてください。帯状疱疹も突発性難聴も、救急車を呼ぶ病気ではないけれど、『おかしいな』と思ったらすぐ、夜なら翌朝一番で、仕事を休んででも病院へ行ってください」(秋津先生)コロナ禍で病院へ行くのをためらってしまう人も多いが、帯状疱疹と突発性難聴は一刻を争う病気。もしこんな症状が出たら、何をおいても病院へGO!●突発性難聴(1)突然片耳だけ聞こえづらい、詰まった感じ、耳鳴りがあればすぐに病院へ!(2)症状が出たら3日以内、遅くとも1週間以内に病院へ!(3)予防法はなし!両耳が聞こえるかどうか毎朝チェック!■帯状疱疹や突発性難聴を患った芸能人◆突発性難聴●完治した人・相田翔子(51)26歳のころに発症。相田はメニエール病も発症したことがあり、完治したという●残念ながら……症状が残ってしまった人・堂本剛(KinKi Kids)(42)’17年に左耳に発症。「完全に治ることはない」とファンにコンサートで告白した・浜崎あゆみ(43)’00年に左耳に発症。コンサートツアーを延期したものの完治に至ってはいないという・藤あや子(60)’10年に左耳に発症。仕事をすべてキャンセルし治療に専念した・大友康平(65)’12年に発症。手術をしたというが症状は改善されていないという◆帯状疱疹●完治した人・薬丸裕英(55)今年に入り発症。左目の上部、下部の痛みがきっかけで早期に気づいたという・道重さゆみ(32)’14年に発症。背中と腹に赤いブチブチができたと報告。休養し完治したという●残念ながら……症状が残ってしまった人・中森明菜(56)’10年に発症。この病気がきっかけとなり無期限活動休止に入った・ハイヒールモモコ(57)’18年に発症。あごがピリピリしたことで気づいたという。3年たった今も症状は続いている教えてくれたのは……秋津壽男先生総合内科専門医。和歌山県立医科大学卒。品川・戸越銀座に秋津医院を開業、地域密着の診療を行っている。『主治医が見つかる診療所』(TXN系)にレギュラー出演中。著書に『放っておくとこわい症状大全―早期発見しないと後悔する病気のサインだけ集めました』(ダイヤモンド社)などがある。《取材・文/成田全》
2021年10月26日『夜のヒットスタジオ』に出演する中森明菜今年5月、デビュー40周年目を迎えた中森明菜。後に“花の82年組”と呼ばれる女性アイドル当たり年に『スローモーション』でデビュー。『少女A』『飾りじゃないのよ涙は』などヒット曲を連発し、1985年『ミ・アモーレ』、1986年『DESIRE‐情熱‐』で2年連続となる『日本レコード大賞』を獲得。女性ソロ歌手として史上初の快挙だった。■“現在の明菜”がいない記念ボックスそんな時代を代表する歌姫の、大切な節目の年にオープンした特設サイトには、40年分の楽曲やレコードジャケットなどのディスコグラフィーだけでなく、ライブ映像まで、明菜の華々しい足跡がまとめられている。6月には、デビューからの10年間に発売された全シングルレコードなど30枚をセットにした限定BOXも発売になった。「税込4万8400円という高額商品ですが、売れ行きは好調だと聞きました。いまだに根強いファンがついているのは“さすが歌姫”ですよ」(音楽誌編集者)だが、この5万円近い記念ボックスのどこを探しても“現在の明菜”はいない。収録されている楽曲はすべて過去のもの。7月に56歳になった明菜の近影やファンへのメッセージもない。いや、それどころか4年近く、明菜は人前で歌うことはおろか、人々の前に姿すら見せていないのだ。「2010年に芸能活動の無期限休業を発表して以来、心身ともに不安定な状況がずっと続いていますよね。2014年の紅白出演は、サプライズゲストという形の事前収録した映像でした。2016年と2017年と2年連続でディナーショーを行い“すわ完全復活か!?”と業界の人間は色めき立ったんですが、結局それが最後に。また、ひきこもってしまい、ほとんど消息不明に近い状態ですからね……」(前出・音楽誌編集者)40年来のファンだという女性も落胆する。「明菜ちゃんの大きな節目だったから“今年こそきっと新曲を出してくれるはず”“せめてディナーショーはやってくれるはず”と期待しているんですけど……」■自信がもてなかった中森明菜名実ともに時代のトップだった歌姫を、誰が壊してしまったのか――。当時の明菜をよく知るレコード会社関係者が振り返る。「所属事務所やレコード会社との相次ぐ移籍トラブル、信頼していたスタッフや身内に騙されたりなんてこともありました。もちろんマッチとの大失恋、自殺未遂騒動も大きなダメージだったと思います。もし、あんなことがなかったら明菜さんの歌手人生はだいぶ違っただろうと思いますしね」だが、いちばんの原因は、「いま思えば、明菜自身にあったんじゃないかという気もします。彼女はレコ大も獲って、どんなに売れても、どこまで人気者になっても、自信が持てなかったんだよね……」(前出・レコード会社関係者)それを感じさせる明菜の発言はいくつもある。過去の雑誌インタビューで、彼女は歌手という仕事に対する偽らざる気持ちをこう語っている。《目の前の人たちがうれしそうな顔をしているから、私は歌うだけ。(中略)仕事に対してすすんでトライしようとか、才能をどんどん伸ばしていきたいというのがないから》(『JUNON』1992年1月号)そもそも明菜が歌手になったのも、自分自身のためではなく“家族のため”だった。《歌手になりたい!っていう願望じゃなくて、タレントさんになればお金持ちになれると思ったから。小さいころから、みんなが「お歌が上手ネ」っていってくれたから、じゃあ“スタ誕”に出て歌手になって、家族に車を買ってあげようと、そういうことしかなかったの。(中略)後悔はすごいですよ。何で私、歌手になっちゃったんだろうって……》(同)別の雑誌では、6年に及んだマッチとの恋愛を振り返りながら、こう自嘲している。《結局、女としてっていうより、人間として自信がないのね。いつまでたっても自信が持てないもの、私。“有名になった明菜ちゃん”からは、そんなこと想像できないって言われる。でもホントにダメなのね。もう自信のなさが染みついちゃってる》(『with』1993年11月号)歌手としてだけでなく女優業にもチャレンジした1992年、フジテレビ系“月9”ドラマ『素顔のままで』に主演。最終回視聴率31.9%を叩き出してみせたアーティストとは思えない発言だ。「“23歳で結婚して25歳でママになったら、今の仕事なんてしたくない”っていつも言っていましたからね。そういう結婚願望……マッチとの恋愛も“自信がなくても歌い続けなくちゃいけない”っていう葛藤から生まれてきたのかもしれません」(前出・レコード会社関係者)その葛藤の中で、今も明菜はもがき続けているのかもしれない。だが、それでも“歌姫復活”を待ち続ける人たちがいる。「40周年は、やっぱり本人の姿を見られなさそうで残念ですけど、私たちは待つのには慣れていますから(笑)。きっといつか、また歌ってくれるって」(前出・ファンの女性)その日を信じて――。
2021年09月23日彼がほっこりするようなLINEを送りたいという女性の方。男性は、いったい女性からのどんなLINEに癒されるのでしょうか。そこで、癒されるんだよなあ…♡彼がほっこりする「彼女からのLINE」を4つご紹介します。(1)お疲れ様男性は女性から労いの言葉をかけられると、いくら疲れていても癒されるようです。疲れて帰った瞬間に、彼女から「お疲れ様」といったLINEがきたら、ほっこりするという人も。労いの言葉は、さりげなく言うことで思いやりが伝わります。そのため彼にLINEを送る際には、必ず労いの言葉を添えるよう心がけましょう。(2)頑張ってね男性は女性に応援されるとなんでも頑張ろうと思い、モチベーションが上がる傾向にあります。仕事が大変なときに、「頑張ってね」などと言われると癒されることも。とはいえ、プレッシャーになるような応援の仕方はNG。彼がほっこりするような応援で、癒しを与えるよう意識してみてはいかがでしょうか。(3)早く会いたいな男性は女性から「早く会いたいな」と言われると、思わずキュンとしてしまいます。好きな人からそんなことを言われると、無理をしてでも会いに行きたくなることも。彼を癒すような可愛いLINEを送りたいなら、素直な言葉で会いたい気持ちを伝えましょう。(4)可愛いスタンプ男性は、女性からのLINEで可愛いスタンプが送られてくると、ほっこりするようです。可愛いキャラクターのスタンプや、ハートのスタンプなどは男性を癒すためにぴったり。そんなスタンプで彼をあなたのトリコにしてみてはいかがでしょうか。彼を癒すようなLINEを送りたいなら、普段からほっこりさせるような内容を意識する必要があります。癒されるんだよなあ…♡彼がほっこりする「彼女からのLINE」を参考に、彼をLINEでメロメロにしちゃいましょう。(恋愛jp編集部)
2021年09月17日1984年に行われた第3回『メガロポリス歌謡祭』で見事ポップス・グランプリを受賞した中森明菜「『十戒(1984)』のメロディーには俺が作る前に、ユーミンが書いた歌詞が付いていたんだよ。すごくいい歌詞だったみたいだけど、方向性が違ったからボツにしたんだって。俺も(その歌詞を)見たかったんだけど、ディレクターがちゃんと読ませてくれなくて。どうしても、ってお願いしたら最初の1、2行だけ教えてくれた。『ガードレールに腰掛けて、ポニーテールをほどいた』みたいな歌詞だったかな。“中森明菜”を意識してカッコいいでしょ?」(売野雅勇・以下同)そう語るのは、作詞家の売野雅勇。『少女A』『1/2の神話』『禁区』など、中森明菜の初期のヒット曲を手がけた彼が、『禁区』以来3作ぶりとなる『十戒(1984)』を作詞したときのエピソードだ。当時、彼女のディレクターを務めた島田雄三からは、「次のシングルは強い女性路線で」と売野が発注を受けていたところ、作曲を担当した高中正義が、自身の判断で松任谷由実と話を進めていたらしい。つまり、発注の段階で何らかの誤解が生じ、作詞の依頼が重複していたそうだ。■“明菜ビブラード”が響く攻めの1曲売野が書いた『十戒(1984)』は、軽いノリの男子に対し《愚図ね》《過保護すぎたようね》《発破かけたげる》《限界なんだわ坊や》と歌い、ラストに《イライラするわ》でトドメを刺すという、現代ならパワハラだとも言われそうなほど攻撃的なフレーズが続く。ちなみに、タイトルを“じっかい”ではなく“じゅっかい”と読ませたのは、単に売野がそう読むのだと思っていただけで、特に思い入れはなかったとのこと。「これは、高中さんの曲に俺が後で歌詞をつけたんだ。ギターのインスト曲みたいなカッコいい作品がすでにできあがっていたから、言葉は当てにくかったかな。でも、『十戒(1984)』は強い言葉で相手を切り続けるようなサディスティックな内容だから、割とすぐに完成したよ。こういう路線はメチャクチャ得意なんだよね(笑)。実際、わずか2、3時間で書きあげちゃった。当時ちょうど、河合奈保子さんのレコーディングでロサンゼルスに連れていってもらったのだけれど、時間が余っていたからメキシコに遊びに行って、その滞在中に余裕で仕上げちゃったくらい。この歌詞に出てくるような言葉のアイデアは、コピーライター時代に鍛えられたのかもしれないね。もちろん、明菜ちゃんが歌う前提で書いたんだよ!」当の明菜も、いつも以上に緩急をきかせ「イライラするわ~~~!!」と強めのビブラートで熱唱。さらに、レースを基調としたスカートやノースリーブのシャツ、手袋にショートブーツなど全身黒づくめの衣装をまとい、あえて笑顔を封印してパフォーマンスするなど、当時19歳にして、その確かなセルフプロデュース力を最大限に発揮した。しかも、クールな雰囲気で歌い終わったあとに満面の笑みを見せる姿も、今ならば“ツンデレ”と言われそうなほど魅力的に映ったことだろう。その結果、発売1週目と4週目にオリコン1位を獲得し、レコード売り上げは累計61万枚以上で年間6位を記録。有線やラジオ、はがきリクエスト状況を総合して順位を決める『ザ・ベストテン』(TBS系)では5週連続で1位となり、年間8位にもランクインするなど、いずれも売野が手がけたシングルの中で最高レベルを誇る人気曲に。しかし、売野が明菜に手がけた曲はこれが最後となった。「明菜ちゃんがセルフプロデュースに目覚めてきたことで、コンセプト重視で進めてきたディレクターさんが、彼女のことをコントロールしづらくなってきたみたい。もちろん、その要因は、俺の歌詞にもあるんだろうね。でも『十戒(1984)』や、その前の『禁区』の歌詞も、本人は好きだと聞いていたよ。カッコいい曲ばかりだから、もちろん俺も大好きだね。自分の作詞曲を集めた35周年記念のCD BOX(『Masterpieces~PURE GOLD POPS~』)にもたくさん入れるつもりだったんだけど、レコード会社のスタッフ間で行き違いがあったようで、入らなかったのが残念で」■中森明菜に今だから書きたい曲はその後、明菜はそれまで自身のヒット作を支えた作家の起用を極力避け、異国情緒のある楽曲や、都会で暮らす大人の女性を象徴した楽曲などに挑戦する中で、衣装や振りつけも含めたプロデュース能力を発揮。女性アイドルというより、1人のアーティストとしての才能を開花していった。そこでの明確なコンセプト作りには、初期に売野作品を歌ったことも多分に影響しているだろうし、売野のほうも明菜作品を手がけたことで、荻野目洋子の『六本木純情派』『さよならの果実たち』など、女の子の孤独と純情が裏表一体となった作品でも成功を収めたのだろう。明菜のことを、売野はどう見ていたのだろうか。「彼女のような女の子は、ギリギリのところで生きていると思う。自分の許容量と振れ幅のバランスが取れていない部分があるから、かまってあげたくなるんだ。今50代となった明菜ちゃんに、また何か書いてみたいね。彼女はきっと、戦争みたいな日々もくぐり抜けてきたわけでしょ。さまざまなことを経験してきた彼女だからこそ、“人生には生きる価値があるんだ”というような歌詞を。明菜ちゃんは、俺が主人公(=明菜)を想像して書いた物語を遥かに超えていくからね。歌の中で1人の女性がリアルに動いているのが、声色や言い回しのひとつひとつから感じとれる。あれは、計算というよりも本能で表現しているんじゃないかな。天才的だよね」(取材・文/人と音楽をつなげたい音楽マーケッター・臼井孝)【PROFILE】うりの・まさお◎上智大学文学部英文科卒業。 コピーライター、ファッション誌編集長を経て、1981年、ラッツ&スター『星屑のダンスホール』などを書き作詞家として活動を始める。 1982年、中森明菜『少女A』のヒットにより作詞活動に専念。以降はチェッカーズや河合奈保子、近藤真彦、シブがき隊、荻野目洋子、菊池桃子に数多くの作品を提供し、80年代アイドルブームの一翼を担う。’90年代は中西圭三、矢沢永吉、坂本龍一、中谷美紀らともヒット曲を輩出。近年は、さかいゆう、山内惠介、藤あや子など幅広い歌手の作詞も手がけている。
2021年08月04日ステージで歌唱する中森明菜「『少女A』がヒットするなんて、当時はまったく想像できなかった。本当に数奇な巡り合わせで生まれた曲なんだ。でも、(歌詞をまとめた)原稿用紙の表紙に書いた初期タイトル『少女A(16)』が非常に強くて、あの言葉のパワーによって運命が決められていたのではないかと思うほどで、不思議でならなかった」(売野雅勇、以下同)■「じれったい」のサビは後から生まれた1980年代を中心に数多くのヒット曲を放ってきた中森明菜が、7月13日で56歳の誕生日を迎えた。デビュー40年目でもある2021年は、アナログレコード30枚をまとめたBOX『ANNIVERSARY COMPLETE ANALOG SINGLE COLLECTION 1982-1991』がオリコンアルバム週間98位にランクイン。また、日本テレビの音楽特番『THE MUSIC DAY』が実施した「1万人が選ぶ世代を超えた最強アイドルランキング」でも、松田聖子、モーニング娘。、AKB48に次ぎ第4位に。いずれも’17年以降は表立った活動がないことを考えると大健闘の数字で、まさに“記録にも記憶にも残る歌姫”と言えるだろう。彼女の最初のシングルヒットが、2作目の『少女A』(オリコン最高5位、累計約40万枚)。いわゆる“ツッパリ系”歌詞の歌謡ロックチューンで、当時、本人がレコーディングを嫌がったというのは有名な話だろう。とはいえ、その後2年間にわたって同じ作詞家の売野雅勇を起用することで『1/2の神話』、『禁区』、『十戒(1984)』と大ヒット曲を放ち、結果として、彼女がトップスターに躍り出る大きなきっかけとなった。その対極となる『スローモーション』『セカンド・ラブ』『トワイライト』といった来生えつこ・来生たかお姉弟コンビが描いた穏やかな路線も、彼女の大きな持ち味となったのだが、もし『少女A』でなく、当初に予定されていた来生姉弟による同路線の『あなたのポートレート』がシングルとなっていたら、続く2年間で彼女のファンはここまで広がらなかっただろう。売野が中森明菜に書いた9曲のうち4曲がシングルA面に採用されたことからも、それだけインパクト抜群の作品を書き上げたのだ。それにしても、冒頭の売野の言葉にあるように、この『少女A』は“さまざまな偶然が積み重なって生まれた”というのも興味深い。その経緯は売野雅勇の著書『砂の果実80年代歌謡曲黄金時代疾走の日々』(朝日新聞出版)に詳しいが、売野自身も、まるで運命に導かれるように作詞家人生がスタートしたことを明かしてくれた。◆ ◆ ◆1982年の3月、中森明菜が当時、所属していた事務所が新たな楽曲候補を募集していることを知った売野は、周囲の勧めもあり、初めてアイドルの歌詞を書いた。応募したのは、歌詞に曲もつけて提出する形式のコンペティションだった。「最初に、別の作曲家によるフォーク路線のメロディーをつけて出したものはボツになったのに、なぜか歌詞だけが生き残ったんだ。そこで、別のメロディーを詞に乗せて再提出することになり、同じ事務所だった芹澤廣明さんに頼む際、“一から作るのは大変だから、芹澤さんのストック曲の中から選んでみて”とマネージャーに言われて。ちょうどその中に、漫画家の先生が先に歌詞をつけていたものが残っていたんだ。その人も俺も、小節数を意識しない、作詞家としては素人の書き方をしていたから(笑)、Aメロがやたらと長い曲でね。メロディーが、僕の詞ともピタリとハマった。そして、元々あったサビの『ねえあなたねえあなた』という部分を『じれったいじれったい』という歌詞に変えたら、ほぼ完成形となったんだ」その後、タイトルの微調整や歌詞の1番と2番の入れ替え、さらに、(歌うことを嫌がった)明菜自身を説得することで、ようやく1度だけレコーディングを決行。CDジャケットに写る明菜も、当時の心境が顔に出たのか、やけにふてくされた表情となっている。それが歌詞の世界観をよりリアルに伝えることになり、『ザ・ベストテン』(TBS系)でも、新人アイドルとしては異例の11週連続ベストテン入りを記録したのだろう。しかし、そのランクイン中も明菜は「『少女A』よりも『スローモーション』が好き」と口にするほど、拒否反応を示し続けていた。「なにしろ楽曲が『少女A』に決まったときから、ピリピリしていたからね。確か、『キャンセル!』(『少女A』 の後に出た2ndアルバム『バリエーション〈変奏曲〉』収録曲)のレコーディングのとき、当時のディレクター・島田雄三さんが僕を気遣ってスタジオで彼女と会わせてくれたんだけど、本当に形式的にサッと一言二言、交わしただけで。目も合わせてくれなかったかな。“あっ、この子は俺のこと、キライなんだな”って(笑)。『少女A』も、シングルでヒットさせるためには仕方ないって思って、歌ったんじゃないかな。でも、悪い子だとはまったく思わなかったね。寂しがり屋というか、人懐っこいところが本当はあるんだと、なぜだかすぐに分かった。冷たいとか、意地悪な人という印象もなく、むしろ自分に近いものを感じたね。だから、嫌な思いは全然していないよ。あの対面で彼女の二面性や純粋な部分を感じられことが、『1/2の神話』の作詞につながったんだと思う」■『1/2の神話』『禁区』制作の背景シングル4作目となった『1/2の神話』は、しっとりとしたバラードの前作『セカンド・ラブ』とは打って変わって、激しいロックチューン。売野のワークショップ仲間で、まだデビュー前だった大沢誉志幸が作曲を手がけたが、売野にとっても大沢にとっても初のオリコン1位(6週連続)、『ザ・ベストテン』でも7週連続1位となった。「この『1/2の神話』は最初、『不良1/2』ってタイトルにしていたんだけれど、レコード会社から『1/2の神話』に変更されたんだ。でも、歌詞はそのままで、むしろ歓迎されたんじゃないかな。とにかくタイトルだけ変えたい、と。そういえば、『禁区』(シングル6作目)のときも、“明菜が拒否反応を出すだろうから、タイトルだけ変えてくれ”って。歌詞にこのワードが出てくるのはいいけれど、タイトルになったときに彼女が抱く印象が気になっていたみたい。それを恐れて、仮に付けさせられたのが『芽ばえ』だった。“発売する直前に、『禁区』にすり替えるから”ってディレクターに言われてね」ちなみに、売野が中国に行った際、倉庫に大きく書かれた“進入禁止”を意味する“禁区”という文字があまりに衝撃的で、タイトルに使ったのだという。その『禁区』がどのようにして生まれたのかも語ってもらった。「『禁区』を作ることになったときに、作曲を担当した細野(晴臣)さんと会って、詞を先に書いたものと、曲を先に書いたものをそれぞれ作って交換しようということになって。そのときに詞先で誕生したのが『禁区』。だけど、細野さんが曲先で作ってくれたものが、なぜだかボツということで、俺には渡してくれなかった。そのメロディーに松本隆さんが詞を付けたのが、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)が歌った『過激な淑女』だよ。だから、(ちまたでウワサされたように)松本さんが明菜向けに書いた歌詞が、明菜サイドの問題でNGになった、というわけではないんだ」この年は、YMOが春ごろに化粧品キャンペーンソング『君に、胸キュン。』で再ブレイクしたり、細野が作曲を手がけた松田聖子の『天国のキッス』や藤村美樹の『夢・恋・人』がヒットしたりと、細野晴臣らしいテクノポップスが大衆に受け入れられていた。そこに、売野雅勇が明菜に当て書きした、“強気さのなかに秘める純粋な部分”がよりクローズアップされた歌詞や、これまでよりも緩急を効かせた明菜の歌唱が意外なハマり方をして、従来のツッパリ路線ともテクノ歌謡とも一線を画する楽曲が生まれた。その結果、アイリーン・キャラの『フラッシュダンス』や杏里の『CAT’S EYE』など、その年に大ヒットした映画とアニメの主題歌がヒットするなかでオリコン1位を1週獲得、洋楽曲を含まない『ザ・ベストテン』では、返り咲きを含み合計7週1位に。■明菜と売野、実は近しい存在 !?なお、’83年から’84年にかけては『禁区』のほかに、『ルネサンス―優しさで変えて―』、『モナムール(グラスに半分の黄昏)』、『100℃バカンス』と合計4曲が、作詞・売野雅勇、作曲・細野晴臣のタッグで作られている。ここでの4曲は、それ以前の強さを押し出した歌唱から変化を見せているので、明菜自身もそれなりに理解を示していたのではないだろうか。「細野さんがメロディーをつけてくれたものは、デモテープの段階から“もろYMO”って感じがして完全な状態で、めちゃくちゃカッコいいんだよ!この時期の曲は、アルバム用に依頼されて、曲が先に作られたあとに詞を書いたんだと思う。でも、その前の『キャンセル!』や『思春期』(ともにアルバム曲)は、もともとはシングル狙いで書いたね。あと、レコーディングはしなくて幻になったけれど『接吻(キス)』という作品も、そのころに書いたよ」明菜自身は、この後『十戒(1984)』(1984年7月発売、シングル9作目)を最後に売野雅勇作品から離れていった。しかし、この2年間、“自分が好きな曲”と“ヒットする曲”の違いを認識することで、プロとしての自覚をより強く持ったのか、アイドルと呼ばれつつも自身の衣装や楽曲などをセルフ・プロデュースし始めるなど、本格的なアーティストとしての側面も垣間見えるようになった。彼女の新たな魅力が開花したという点から見ても、やはり、売野雅勇との出会いは大きいはず。そう考えると、中森明菜の『少女A』は、日本の歌謡曲史をひも解くうえでも重要な1曲と言えるだろう。「俺にとっては『少女A』がすべての始まり。明菜や俺、芹澤さんを始めとして、いろんな人の人生を背負った楽曲になったと思う。それと、俺はだいたい不良が好きなんだよね。決して本格的な不良じゃなくて、(心に葛藤を抱える)“不良っぽいやつ”が。周りの友達もそんなのばかりで、優等生はむしろ嫌いだったんだ。だから、明菜ちゃんの歌い方はすごく伝わるものがあるし、俺と彼女は、本当は近いものを持っている存在だと思っているよ。もし、中学のときとかに同じ学年だったら、告白していたかも……なんて(笑)」(取材・文/人と音楽をつなげたい音楽マーケッター・臼井孝)【PROFILE】うりの・まさお◎上智大学文学部英文科卒業。 コピーライター、ファッション誌編集長を経て、1981年、河合夕子『東京チーク・ガール』、ラッツ&スター『星屑のダンスホール』などを書き作詞家として活動を始める。 1982年、中森明菜『少女A』のヒットにより作詞活動に専念。以降はチェッカーズや河合奈保子、近藤真彦、シブがき隊、荻野目洋子、菊池桃子などに数多くの作品を提供し、80年代アイドルブームの一翼を担う。’90年代は中西圭三、矢沢永吉、坂本龍一、中谷美紀らともヒット曲を輩出。近年は、さかいゆう、山内惠介、藤あや子など幅広い歌手の作詞も手がけている。
2021年07月13日Hanakoママwebをご覧の皆様、こんにちは。つぶみです。3歳の息子、ほにゅのお喋りシリーズです。子どもとの会話はいつも楽しい!特に、ほにゅは長い会話をするというより戦いごっこテレビが大好きなので、あまりお話し合うという感じではなく……。たまにする会話にとても喜びを覚える私です。今回は、お風呂での会話です。分け目から見える白い頭皮が、ほにゅには骨に見えたようです(笑)。そこに「刺さっている」という表現をするほにゅに、んんんん間違ってはいないな……!とある意味感激しました。表現方法には様々あって、わたしもまだまだ言葉を学びたいとまで思ってしまいますね。
2021年06月28日中森明菜デビュー40周年を記念して、中森明菜のスペシャルサイトが5月1日に開設された。サイトは明菜がワーナーミュージック時代にリリースしたシングルやアルバムの解説や各ストリーミングサイトへのアクセス、YouTube上に公開されている動画、さらに「再生回数順ランキング」や「隠れ名曲」のプレイリストなど充実の内容だ。6月9日には、ワーナーから発売された7インチシングル(28枚)と12インチシングル(1枚)、カセットテープ(1本)を収録した全30枚のボックスセットが発売予定で、40周年を機に、中森明菜の魅力があらためて再認識されそうな雰囲気も漂う。■松田聖子とは好対照な存在「何度も休止と再開を繰り返しながら活動する明菜ですが、2014年『紅白歌合戦』にサプライズ出場し、その後も何枚か新作をリリースしましたが、2017年の全国ディナーショー以来、表立った芸能活動は行っていません。しかし、今も根強い人気を保っているため、第2のちあきなおみ(’92年に夫と死別して以降、活動休止をし事実上引退)になりつつある状態です」と、ある芸能ジャーナリストは言う。表舞台に立たなくなったいまでも作品は作られ、売れ続けている。また、以前交際していた近藤真彦が話題にあがるたびに明菜の存在も注目され、同情の声とともに歌唱力が賞賛されるという、不思議な“露出”を繰り返す。それは明菜にはいまでも魅力がある証拠とも言える。では、多くの人を惹きつけてやまないその魅力とは何なのか。「なんといっても数々のヒット曲、その多彩な曲調と世界観、そしてそれらを歌いこなす表現力と存在感ですね。ヤンキーブームの中、初期の山口百恵を彷彿させるようなセカンドシングルの『少女A』の衝撃、その直後に出した3枚目は、一転してバラードの名曲『セカンド・ラブ』をリリースし、現在のアラフィフ世代を中心に多くの人の心をつかみました。キラキラした永遠の王道アイドル・松田聖子と好対照な存在となったことも大きいですね。当時の十代は男女問わず『聖子派』『明菜派』でその魅力を競い合ったりもしました」(同ジャーナリスト)『北ウイング』『十戒』『飾りじゃないのよ涙は』『ミ・アモーレ〔Meu amor e・・・〕』『DESIRE-情熱-』『難破船』……多くの人に愛された中森明菜のヒット曲は数多い。「2000年代に入ってからは松田聖子や山口百恵の曲をカバーし、歌手としての実力を再認識されました。それらを収録したアルバムはシリーズ化されヒット。その後には、パチンコ台にも採用され、これがヒットしたことも、息長く、幅広い層に知られるひとつの理由にもなります」(同前)また、あるアイドルウォッチャーは同期である「82年デビュー組」を見わたして、明菜の魅力を力説する。「小泉今日子やシブがき隊、早見優、堀ちえみ、石川秀美など、中森明菜と同じ82年デビューのアイドルは、その活躍ぶりから“花の82年組”と呼ばれました。明菜はその中でも当時から実力が認められ、ひとつ飛び抜けた存在でした。実際に仲のいい同期のアイドルはいたものの、どこか孤高の存在のように見えたところがあるように感じました」■“悲劇なヒロイン”的な面も魅力的明菜の特異性は、歌手としての評価以外にも見受けられた。昨年11月、25歳年下の女性との不倫の末に活動自粛をし、そのまま40年以上在籍していたジャニーズ事務所を退所した近藤真彦との過去の交際だ。「その交際は常に注目されていました。その後に起こった数々の騒動の衝撃の大きさは、今もなお語り継がれるほどです。その大きさゆえに、自由奔放な芸能活動を送ることができなくなってしまったところもあるかもしれません。しかし、“悲劇のヒロイン”的な面に魅力を感じる人も少なくないと思います」(同前)実際、近藤真彦の話題が上がるたびに、明菜をあらためて扱うニュース記事も複数見受けられた。やはり明菜の注目度は今もなお、高いと言える。前出の芸能ジャーナリストが言う。「いまでも明菜の復活、また歌う姿を実際に見たいというファンはたくさんいると思います。この40周年を機に、配信でもいいから大きなサプライズを期待したいところです」明菜の数々のヒット曲に浸り、まずはその魅力に再び触れてみたい。〈取材・文/渋谷恭太郎〉
2021年05月16日中森明菜「世間は外出自粛で、人と会うのもはばかられる日が続きますが、彼女にとっては、どこ吹く風、なのかもしれませんね」(ワイドショーデスク)東京を含めた6都府県に5月末までの緊急事態宣言が発令される中、ひっそりと“メモリアルイヤー”を迎えた歌姫がいる。’82年5月1日に歌手デビューした中森明菜だ。「デビュー40周年目に突入ということで、レコード会社から過去作品を集めた豪華レコードBOXが発売されますが、当の本人は“消息不明”のような状態になっています」(前出・デスク)一方で、昨年から無期限謹慎になっていた近藤真彦が、GW期間中の4月30日に突然、40年以上も所属していたジャニーズ事務所の退所を発表。「その翌日が明菜の記念日というのは、ふたりの因果みたいなものを感じますよね……」(芸能レポーター)交際を公にしていたふたりだったが、’89年にマッチの自宅マンションで明菜が自殺未遂を図る。一命をとりとめた明菜だったが、同年の大みそか、ふたりは会見に臨む。「金屏風の前で“正式な破局発表”なんて、今でも日本の芸能史に残る語り草ですよ」(同・レポーター)■実父に聞いてみると……’10年から活動休止していた明菜だったが、’14年の紅白で復活。’16年と’17年にディナーショーを開催したが、再び姿を見せない日が続いている。明菜は今、どこで何をしているのか─。長年、宣伝担当を務めているレコード会社の幹部に聞いてみるも、「ディナーショーで会って以来、連絡はありません。40周年に彼女が何かするという話もありませんね」デビュー当時から衣装を担当し、公私ともに仲がよかったといわれるスタイリストにも近況を尋ねたが、「20年以上、私も会っていないんですよ」明菜の所属事務所で役員を務めている会計士に聞くも、「私は経理しか担当していませんので、わかりません」明菜が数年前から住んでいるという都内マンションは、’05年に新築された6階建て。1棟まるごとを明菜の所属事務所の社長でもあるマネージャーが所有。4階フロアにマネージャーが、5、6階に明菜が住んでいるというのだが、「長年こちらで暮らしていますが、中森明菜さんなんて1度も見たことありません」とは、近所の主婦。そこで、このマンションの管理会社に聞いてみるも、「4階から6階に、どなたが住んでいるかはお答えできませんが、同じ人が長らく住み続けているはずです」音信不通は家族であっても同様。20年以上、明菜と絶縁状態になっているという80代の実父が肩を落として明かす。「’19年に明菜の妹が亡くなったとき、姉が葬式の連絡をしたのですが、明菜からは音さたなしで……。いつから、こんな薄情になってしまったのか。兄も姉もあきれてますよ」明菜と会える日が“解除”されるのは、いつ─。
2021年05月13日Hanakoママwebをご覧の皆様、こんにちは。つぶみです。息子、ほにゅ、3歳。本日、子ども向け番組に出てきた3歳の女の子を見ながら、「まぁ〜た、ほにゅと同じ、さんさいかよおお」と言っていました。そういう番組ですからね。先日、鼻水が出て止まらないほにゅを病院に連れて行きました。それについてのお話です。ほにゅも赤ちゃんの時に比べ、病院がこわくなくなってきたようです。以前は口を開けるのもお腹を診せるのも嫌がっていたけど、泣かずにスムーズに帰れることにビックリしながらの帰り道でした。後日、児童館へ行くと、お医者さんごっこができるおもちゃを見つけたほにゅ。先日お医者さんに言われたこと、してもらったことをそっくり上手に真似が出来ていました。覚えようとしていたのかな?見たことをそのままできる、インプットしたことをアウトプットできるその能力におどろきました!子どもの学ぶ力、吸収する力にはいつも驚かされる私でした。
2021年04月26日筋膜と筋肉をほぐし鍛える「ほぐピラ」で痩せる!1月22日、ローラーで筋膜と筋肉をほぐし、体を鍛えるピラティスにより痩せようという新刊『ほぐピラWORKOUT 「ほぐす」+「ピラティス」がいちばん痩せる!』が講談社から発売された。同書には掲載のエクササイズの実演動画が見られるQRコードを記載。著者はパーソナルトレーナーの星野由香氏で、A5判、148ページ、価格は1,400円(税別)となっている。「スッキリ」でも話題の「ほぐピラ」フィットネスを通し、多くの人を元気で幸せな人生に導こうと活動している星野由香氏は、「ほぐす」と「鍛える」を同時に行う「ほぐピラ」を考案。ローラーなどを使用して体の深部までほぐし、ピラティスの動きで体の奥にある筋肉を鍛えていく。「ほぐピラ」は日本テレビ系のテレビ番組「スッキリ」でも採り上げられ、痩せるだけでなく、心身の不調も整えられるという。この新刊は同氏にとって初の書籍であり、美容家の神崎恵氏や、お笑いコンビEXITの「りんたろー。」氏、モデルの谷まりあ氏も登場。使用するローラーについては、手持ちのものが利用でき、タオルとラップの芯で手作りすることもできる。(画像はAmazon.co.jpより)【参考】※『ほぐピラWORKOUT 「ほぐす」+「ピラティス」がいちばん痩せる!』(星野 由香) - 講談社BOOK倶楽部
2021年01月29日出典: PRTIMESSNSで大人気!モデル、お笑い芸人、アーティストなどの著名人にもファンが多い「ほわころくらぶ」をご存知ですか?ほわほわした動物達が集まった町にある「ほわころくらぶ」。抱きしめたくなるほどキュートな動物達の小さな物語が癒されると話題です。今回、ほわほわ癒される動物たち待望の新刊絵本が2冊同時発売されたのでご紹介します。癒しパワー炸裂︎ポプラ社より、ほわころちゃんを寝かしつける「おやすみ ほわころちゃん」、しばころちゃんとごはんをさがす「いただきます しばころちゃん」の2冊が発売中です。「おやすみ ほわころちゃん」は、撫でられることが大好きな子犬のほわころちゃんを、実際にひたすらなでなでしながら寝かしつける絵本です。絵本を撫でるって不思議じゃありませんか?実は、絵本の中にほわほわの生地が埋め込まれており、まるで本当にほわころちゃんを撫でているような気分になれる絵本なんです。「いただきます しばころちゃん」も、絵本の中にいろいろな手ざわりの生地が埋め込まれています。ほわほわ以外の感触を楽しむことができます。触って癒される仕掛け絵本。子どもだけでなく大人もその感触に癒されるかもしれませんね。書籍概要タイトル:おやすみほわころちゃん作:えちがわ のりゆき定価:1,200円(税別)ほわころくらぶデパートでチェック:タイトル:いただきますしばころちゃん作・えちがわ のりゆき定価:1,200円(税別)ほわころくらぶデパートでチェック:出典:PRTIMES※出典:PRTIMES(株式会社ポプラ社)
2020年12月17日(写真左から)松田聖子、中森明菜2020年、松田聖子がデビュー40周年記念アルバム『SEIKO MATSUDA 2020』を発売。オリジナル作としては1996年の『Vanity Fair』以来、24年ぶりにオリコンのアルバムランキング週間TOP3入りを果たした。本作は『瑠璃色の地球』や『赤いスイートピー』などの名曲をリメイクしつつ、37年ぶりとなる財津和夫とのタッグ曲『風に向かう一輪の花』などの新曲も収録したアルバムで、その現役ぶりを見せつけた。その聖子とともに’80年代の音楽シーンを大いに盛り上げたのが、中森明菜だ。当時は現代のように、大物アーティスト同士が発売日をずらすといった忖度(そんたく)があまりない中で、聖子はシングルが24作連続でオリコン1位、明菜も’89年までにシングル19作品で1位を獲得。しかも、瞬発的な週間1位にとどまったのではなく、’80年代の年間シングルTOP10を見ると、聖子が5作、明菜は12作もランクインしている。名実ともに「日本を代表するアイドル」だったと言えるだろう。■聖子&明菜、翻弄された’90年代そのわりに、’90年代においては、聖子と明菜が音楽的に注目されることは少ない。彼女たちを特集する多くのメディアでも、この年代に関しては聖子が『あなたに逢いたくて』(’96年)で初のミリオンヒット、明菜はカバー・アルバム『歌姫』(’94年)がブームのパイオニアになった、などとひと言添えられる程度だ。だが、長年のファンの方ならおわかりのように、実際には2人とも’80年代だけではなく、この’90年代を乗り越えたからこそ、’00年代以降も活躍できたのだろう。そこで、聖子と明菜が時代の荒波にもまれながらこの10年間をどのように闘ってきたか、改めて振り返ってみたい。まず、’90年代は2人とも、スキャンダルやトラブルにもっとも翻弄(ほんろう)された10年間だったと言える。聖子は、語学教師との熱愛やダンサーへのセクハラ疑惑、神田正輝との離婚と翌年の歯科医師との再婚、そしてその2年後に再び離婚と、恋愛スキャンダルが多い。近年の穏やかな笑顔とは程遠く、当時は“魔性の女”といったイメージで頻繁に報道された。一方、明菜のほうは’89年7月に当時の恋人・近藤真彦の自宅で左手を切った自殺未遂騒動を経て、年末には近藤も同席し異例の謝罪会見(いわゆる“金屏風前会見”)を行った。’90年代に入った後は所属事務所との契約トラブルや間に入った自称ディレクターによる告発本の発売、さらに’99年には所属レコード会社から引退勧告を受けるなど、こちらはビジネスがらみのスキャンダルが音楽活動をも妨げている感じだった。今となっては、どこまでが事実でどこからが憶測による捏造(ねつぞう)なのか見当がつかない。ただし、上述の自称・明菜のディレクターだったという女性は著書にて、’91年のシングル『二人静』については“出荷”枚数(実売よりも多い)を記し、それを次のシングル『Everlasting Love』の “実売”枚数と比較して、いかにセールスを落としたかをわざと強調して書いていた。これを見る限り、彼女は明菜を思いやったのではなく、単に富や名声にあやかりたかったのだろうと直感した。きっと、聖子にもそういった思惑で近づいた輩(やから)が少なからずいたのだろう。重要なのは、これらのスキャンダルに対し、2人が音楽で奮闘したということだ。■転んでもタダで起きない’90年代の聖子まず、聖子は’90年にアルバム『Seiko』で全米デビューを果たした経験から、作詞や作曲にも積極的に関わるようになり、自立心が強く自信に満ちた歌詞や、それまで以上に華やかでゴージャスなサウンドの楽曲が増えた。’92年、5年ぶりに30万枚超のヒットとなったシングル『きっと、また逢える…』を発売して以降、ドラマティックなバラードが彼女の定番となり、’96年の『あなたに逢いたくて』におけるミリオンセラーにつながっていく。聖子は’89年にサンミュージックから独立しているが、’90年代にも前述の『きっと〜』やその翌年の『大切なあなた』が本人主演のドラマ主題歌になるなど、より踏み込んだタイアップを増やしていく。『ザ・ベストテン』や『ザ・トップテン』『夜のヒットスタジオ』などの主要音楽番組が軒並み終了してしまったことで、’90年代音楽のヒット構造が激変したわけだが、そこに当時、大手事務所に所属しドラマ出演をフックに楽曲のヒットを維持していた小泉今日子や中山美穂らに負けじと食らいついていったのがすごい。ちなみに、’90年代の聖子で『あなたに逢いたくて』に次いで2番目に売れたのは、’94年発売の『輝いた季節へ旅立とう』だ。オリコン最高12位とTOP10入りせずも、年間94位、累計売上は約37万枚というロングヒットに。カラオケでは年間18位とさらに人気で、《思い切り伝えたいあなたへのこの想い~》と、聖子よろしく勝気な笑顔で歌った女性も多かったのではないだろうか。さらに、追いかけるマスコミを逆手に取ってプロモーションに活用した。’96年末にシングル『さよならの瞬間』を発表した後に神田正輝と離婚。しかし、その3か月後にはシングル『私だけの天使~Angel~』を発表し、娘の沙也加に向けた愛情をリンクさせ、離婚のマイナス・イメージを一掃する。さらに、「会った瞬間ビビビッときた」ことから一般男性と再婚、ほぼ同時期にアルバム『Forever』を発表し幸せぶりをアピール。果敢に挑み続ける海外進出を含め、転んでもタダで起きないのが’聖子だ。その一方で、’99年末にアルバム『永遠の少女』を発表している。これは、’80年代を支えた松本隆が11年ぶりに多数の作詞を手がけ、かつての情緒的な楽曲がそろっていてコアなファンに人気の作品だ。セルフプロデュースだけに固執しない聖子の姿勢が、以降のYOSHIKIや竹内まりや、そして31年ぶりとなった松任谷由実からの楽曲提供にもつながったのではないだろうか。対する明菜も’90年代は、’80年代とは異なる作家やミュージシャンと新たにタッグを組んでいく。その代表作が、’93年のアルバム『UNBALANCE+BALANCE』に収録された『愛撫』だ。本作は、作詞を松本隆、作曲を小室哲哉が担当。翌年以降、TRFや篠原涼子、globe、安室奈美恵、華原朋美などを次々とプロデュースし、時代の寵児(ちょうじ)となった小室が得意としたのは高音ボーカルだったが、明菜は彼女たちとは対照的な低音ボーカルで小室サウンドに挑んだ。テレビ番組で《Lonely Night 人は孤独な星 Lonely Night 瞬いて消える~》と大きく手を振りながら、ビートに乗って妖(あや)しく歌う姿に「キター!!」と感じた人も多かったのではないだろうか。■『愛撫』と『帰省』、2つの名作が誕生その結果、アルバム曲ながら有線やカラオケでヒットし、その評判を受けて翌’94年には両A面シングル『片想い/愛撫』としてリカットするほどに。特に、有線では’93年の年間53位、’94年に65位と2年にわたって人気を博した。’80年代にも年間TOP10作が8作とメガヒット・アルバムが大量にある明菜だが、’93年の『愛撫』はアルバム曲として明菜最大のヒットとなった。’90年代は、この低く響く地声のほか、優しく繊細な裏声まで響かせるようになる。この裏声でのふわっと力を抜いた歌唱だからこそ、カバー・アルバム『歌姫』は、明菜のオリジナル曲とは別次元で各方面から評価されたのだろう。音楽情報誌『CDでーた』では当時《オリジナル以上に『女性・中森』がじっくり味わえるできである》と紹介されている。また、明菜も’92年に連続テレビドラマに進出。安田成美とのW主演だった『素顔のままで』は、口は悪いが世話好きで心優しい女性という絶妙な役を演じ、平均26.4%、最終回31.9%と、当時としてもかなりの高視聴率を記録。さらに主題歌の米米CLUB『君がいるだけで』も約290万枚というメガヒットとなった。このとき、明菜も他の女性歌手のように、挿入歌なりイメージソングなり、ドラマに絡めて発売できていたなら、’90年代の彼女はいくぶんスムーズに活動できたのかもしれない。トラブルに巻き込まれた10年間の中で、無事に主演ドラマと主題歌を手がけたのが、’98年の『冷たい月』。夫の自殺とそのショックによる流産から、不幸のキッカケを作った女性への復讐を企(くわだ)てるというサスペンスドラマだったが、当時の明菜がまとっていたダークなイメージも相まって見事にハマり、また、高い演技力も見せつけた。ドラマの主題歌となった『帰省~Never Forget~』で、地を這うように歌う出だしから始まり、サビで《せめて今を恥じないで負けないで生きている》と絶唱する様子は、まるで命を削るかのようなすごみがあった。模索し続けた10年間だったが、前述の『愛撫』とこの『帰省』の2作が生まれたことだけをとっても、決して無駄ではなかったと言えるだろう。このように’90年代の聖子と明菜は、それぞれの道を模索して’00年以降の活躍につなげた。より“人間味”が強く現れた作品が多い10年だったとも言えるだろう。余談だが、’05年にダウンタウンが司会を務めた音楽バラエティー番組『HEY!HEY!HEY!』の放送で、聖子と明菜がボウリング対決するといった夢のような企画があり、常に比較されてきた2人がはしゃいでいる姿がとても印象的だった。あんなふうに無邪気に共演する2人を、いつの日かまた見てみたい。(取材・文/人と音楽をつなげたい音楽マーケッター・臼井孝)
2020年10月10日