元タレントの上岡龍太郎さんが5月19日に肺がんと間質性肺炎のため死去したことが2日、明らかになった。これを受け、間寛平と桂小枝が同日、所属事務所を通じてコメントを発表した。間寛平は「上岡さんにはすごくかわいがっていただいたので、訃報を聞いてショックでした」と心境を吐露。「『探偵!ナイトスクープ』でも大変お世話になりました。個人的には38年前に初めてフルマラソンを走ったホノルルマラソンでタイムが3時間13分57秒やったんですけど、上岡さんからお祝いをいただき、封筒を覗いたら3万1千357円入ってました。アースマラソンではゴール地点のNGKにそっと出迎えに来てくれていました。本当に残念です」と悼んだ。桂小枝は「信じられません、上岡さんはパーフェクトな人で死なないと思ってました」と驚きを隠せず。「怒りの上岡と言われましたがボクは怒られた事がありません、何でも自由にやらせて頂きました、今の桂小枝があるのは上岡さんのお陰です」と感謝し、「上岡さんが引退される前に弱ってからでは遅いので形見分けを下さいってお願いすると楽屋暖簾を下さいました。中に手紙が入ってました。上岡さん、本当に有り難うございました。これからも見守って下さい」と偲んだ。
2023年06月02日●「舞台には真実があるんだな」評価してくれたファンに感謝吉本興業110周年を迎えた2022年に、吉本新喜劇の初のゼネラルマネージャー(GM)に就任した間寛平が打ち出した「吉本新喜劇座員総選挙」。約2カ月に渡る投票によって集められた票数は77万184票。その中から3万9,405票を集め、見事1位に輝いたのが「いぃよぉ~」のギャグで人気のアキだ。1位になった瞬間「やっとスタートラインに立てた」という思いが胸に去来したというアキが素直な胸の内を語った。間寛平がGMに就任し打ち出した「吉本新喜劇座員総選挙」。上位30名が10月10日に大阪・なんばグランド花月で開催される「吉本新喜劇まつり」(チケット完売/オンライン配信あり)に出演するという試みだ。スタート当初はさまざまな意見が飛び交ったという。アキは「新喜劇っていろいろな笑いで構成されていますよね。オープニングで、1人で持っていかなければいけない若手もいれば、急に暴れまわる人間もいる。いろいろな役目を担った野球チームみたいな集まりなので、それを1つのベクトルで順位を決めるということに異議を唱える人もいました」と企画が上がったときの内輪の反響を明かす。それでもアキは「寛平師匠が言っているように、お祭りでいい。ワイワイ盛り上がって30位に入れなくてもいいし、不正してもいい。それを全部笑いに変えるようなお祭りなんだ」と理解を示すと、一方で「こういうものが見たいんだ」という新喜劇へのリアルな期待の表れでもあるという認識を持っていたという。そんななか、見事アキは中間発表から1位の座を守った。会見の席では得票してくれた年齢層など分析された結果が発表され、いろいろなことが頭のなかを巡ったというが「パッと浮かんだのが『これでようやくスタートラインに立てた』という思いなんです」と胸の内を吐露する。その真意についてアキは「びっくりされるかもしれませんが、2014年に大阪の新喜劇に入団させてもらってから8年、毎週昼間にやっている新喜劇のテレビ放送に、ほとんど出たことなかった」と語ると「僕は8年間、ほぼ劇場と営業でやってきた。だからまさか自分が1位になるなんて夢にも思っていませんでした」と本当に驚いたという。しかし一方で「舞台には真実があるんだな」としみじみ語ると、しっかりと劇場に足を運んで自分の笑いを評価してくれたファンに感謝する。「僕は1つの舞台を大切にやってきました。人によっては一生に一度の観劇かもしれない。特に子供はいまゲームやらなんやら遊ぶことなんていっぱいあるじゃないですか。そんななか、貴重な時間を割いて新喜劇に来てくださった人には、本当にぎっしりと詰め込んだものを見せたいと思ってやっていました」。○■間寛平GM就任で180度変化「風通しがよくなりました」総選挙一つとっても、寛平がGMになったことで、新喜劇は「180度変わりましたね」とアキは断言する。「とにかく、偏った体制というか、しがらみみたいなものを排除して風通しがよくなりました。僕としては、すっちーと一緒にやることで化学反応が起こるかもしれませんし、小籔(千豊)くんともなんかやりたいという思いもあります。アキ曰く「やっぱり面白い奴、才能のある奴が残っていく。新喜劇でも絶対そうならないとあかんと思っていますし、お笑いというのは本来ピュアなものでなければいけない。そこには忖度などはあってはならない。そういう部分は寛平師匠がGMになってからはとてもフラットになった気がします」と変化を述べる。さらにアキは「僕もいろいろ悔しさはありましたが、それを恨みに変えるのではなく、自分自身の学びとして変換していくことで成長させてもらった」と振り返ると「だからこそ、今回こうして1位に選んでいただけたことで、スタートラインに立てたと思っているし、いろいろな人とコラボしていって、60年間人々に愛されてきた新喜劇という歴史を汚すことなく受け継いでいきたいと思っているんです」と熱い思いを語る。●座長公演に意気込み「伝統を意識しつつも、新しいものを」今回の総選挙の1位を記念して11月29日~12月5日まで、大阪・なんばグランド花月にて座長公演を行うことも発表された。アキは「僕自身が、新喜劇全体をどうのこうのというのはおこがましいですし、そんな考えは一切ないんです」と前置きすると「東京の劇場ルミネtheよしもとでの10年間を含め、ずっとやってきていることなのですが、新喜劇のなかにちょっとした泣きやダンス、殺陣、そして音楽要素などを入れて、総合的なエンターテインメントとしてしっかり見せる。観終わったあと、笑いはもちろんですが、なにか生きるうえで大切にしなければいけないことが、ジワっと感じられるような……そんな“アキ色”を出していきたいです」と意気込みを語る。さらに今後の吉本新喜劇についてアキは「自分が求めているのは、常に見たことがないもの、新しいもの」と語ると「台本のない新喜劇や無観客でやることも批判はありましたが、行動することで何かが変わるんです」と持論を展開。自身の座長公演も「しっかりと伝統を意識しつつも、新しいものを提示していきたい」と意気込む。○■世の中が落ちついたら再び水玉れっぷう隊としての活動も吉本新喜劇の未来を担うキーマンのアキだが、お笑いコンビ「水玉れっぷう隊」というコンビの一員でもある。「僕らはルミネtheよしもとがオープンするときに、大阪から東京に移ったのですが、最初は『水玉れっぷう隊』として漫才やコントをしながら、今田耕司さんや東野幸治さん、木村祐一さんらが座長を務める新喜劇に出させてもらったんです。そのうちに、だんだんと舞台の面白さを実感して、その流れで2014年に吉本新喜劇に入団させてもらいました」。吉本新喜劇に入団することは「転職するようなもの」と語ったアキ。これまでのキャリアもゼロから再スタートするような感覚だったという。そんななか「水玉れっぷう隊」は解散するという前提だった。「でも会社に話したら『別に仲が悪いわけではないのなら、解散という言葉を使わずにいればいい』というアドバイスをいただいたので、お言葉に甘えて残させてもらったという感じなんです」。コロナ禍になる前は、それぞれ違う道に進んだ「水玉れっぷう隊」も、相方のケンとは、月に一回程度トークライブを開催していたという。「完全に違う道に進んでいるからこそ、すごく化学反応があって面白いんですよね」と語ると、また世の中が落ち着いたら「2人でやっていきたいですね」とファンにとってはうれしい言葉を残してくれた。アキがこれまでライフワークとして行ってきた「Joy! Joy! エンタメ新喜劇」。今回の座長公演では「これまで積み重ねてきたことをしっかり踏襲しつつ、きっと期待に応えられるようなものにしていきたいです」と抱負を語ってくれた。■アキ1969年8月22日生まれ、大阪府出身。高校卒業後、東映太秦に所属し、スタントマンとして活動。1992年より吉本興業に所属し、ケンとお笑いコンビ・水玉れっぷう隊を結成。そして、2014年に吉本新喜劇に入団。アキのみ大阪所属となるが、その後もコンビを継続している。
2022年10月07日●競争することで「若い子の目の色が変わってきた」今年2月、吉本新喜劇のゼネラルマネージャー(GM)に就任した間寛平。そこから約半年経過したが、どんな活動を行い吉本新喜劇にどんな変化が生じてきているのだろうか――率直な胸の内を聞いた。○■総選挙で確信「面白い奴はきっと売れる」吉本新喜劇GM就任会見で寛平は「必ず大スターを作ります」と宣言。数々の改革案を提示した。そのなかでも大きな話題となったのが「吉本新喜劇座員総選挙」を行い、上位30名が「吉本新喜劇まつり2022」に出演するという試みだ。「総選挙はすごく盛り上がっていただいていますね。すでに30万票ぐらい投票がありますよね(7月末時点)。僕の順位がちょっと(中間発表で7位)……なのは残念ですが(笑)。でも新しい劇場を作ってもらって、若い子らもネタをやる場も増えてきたのはいいことだと思います」寛平GMの誕生から半年。これまでおっとりとしていた若手にとっても、総選挙という場ではっきりと順位が出ることで、意識も変わってきたという。「もともと出番がなかった若い子たちのなかには、面白いネタをたくさん作れる子はいる。でもやっぱり今の子らは競争意識がない。僕らのときは『絶対座長になってやる! 売れてやる!』みたいな思いが強い奴らばかりだったんだけれどね。だからまず僕がすべきだったのは『頑張らんとあかん』と気持ちに火をつけること。実際若い子の目の色が変わってきたなと感じています。まだまだ僕に直接相談することは難しいかもしれませんが、マネージャーには若手からたくさん相談が寄せられているそうです。確実に変わってきていますよ」大がかりな総選挙を行ったことで見えてきたこともたくさんあった。最も強く感じたのが「面白い」ということの尊さ。「現在の順位を見ていて感じたのは、アキ、辻本(茂雄)、すっちー、内場(勝則)と上位にいるのはみんな面白い奴ら。面白い奴はきっと売れるっていうのは確信しました」○■「ほかの芸人には負けん!」という気持ちから変化寛平自身、GMという大役を担いながらも、芸人として舞台に立つ。いわゆるプレイングマネージャー的な立場だが、芸人としての心持ちに変化はあるのだろうか――。「大きく変わりました。これまでは舞台に立つときは『絶対ほかの芸人には負けん!』と強気で臨んでいたのですが、いまは劇場で笑いが起こっていたらめちゃくちゃうれしいんですよ。やっぱり新喜劇全体を見るようになってから、以前は『こいつ腹立つなー』なんて思っていた奴も、みんなかわいく見える。早く売れてほしいとか、仕事が多くなったらいいなってね」自身の順位(中間発表で7位)についても「まったく気にならない」と笑い飛ばした寛平だったが、そこには複雑な心境も見え隠れする。「正直な胸の内を明かせば、ちょっとは気になりますよね。(寛平の息子でありミュージシャンの)慎太郎がライブやったりすると『ファンに(投票を)入れとってくれって言っといてくれ』なんて言ったりね(笑)。なんかちょっとガツガツしてきたかな。でもやっぱりアキや辻本とか上位のメンバーは面白いから。負けたくないのは川畑(泰史)とかかな(笑)」吉本新喜劇のGMという大役。寛平自身は、まさに青天の霹靂だったという。「本当に社長はようこんなこと考えましたよね。なんで僕をこんな立場にしたんだろうなって。僕は本当になにも考えない人間。『いくつになっても甘えん坊』ってわけわからんことやっているのが好きな人間ですからね。自分でも似合わんことやっているなと思っています」●新喜劇は“大阪の宝”「若い人に受け継いでいってほしい」○■「とにかく売れてほしい」賞レースへの参加も呼びかけ慣れない仕事で毎日がしんどいことばかりだという寛平。それでも自分に期待をしてくれるという吉本興業の思いは意気に感じている。「僕なんて本当に会社に迷惑かけまくっていましたからね。横山やすしさんという芸人さんご存じだと思いますが、あの人も破天荒な人でしたが、僕も争うぐらいひどかった(笑)。それぐらい無茶苦茶やっていたのに、吉本興業には大事にしてもらった。ここで恩返ししなければという気持ちでいっぱいなんです」寛平いわく「面白い子はいっぱいいる」という。だからこそ「とにかく売れてほしい」と切に願っている。そのためにはどんな道を通っても構わないという。「若い子には、『キングオブコント』でも『R-1グランプリ』でも、どんどん出てみたらいいと話しています。そこで売れたら新喜劇にも良い相乗効果が生まれるだろうしね。でも『新喜劇のために頼むぞ!』とは言っていますが、もし『キングオブコント』で決勝に行ったり優勝して、新喜劇じゃない道に進みたいと言ったら、それはそれでいいと思っているんです。やっぱり悔いが残らない人生にしてもらいたいですからね」“新喜劇愛”を通り越して“人間愛”にまで発展している寛平。それでもやっぱり吉本新喜劇の未来には大きな期待を持っている。「僕は新喜劇って大阪の宝だと思っているんです。60年以上ずっとやってきて、テレビを含めれば何億人という人が観てきたと思うんです。こんなすごい劇団があるんだから、やっぱり若い人に受け継いでいってほしいという思いはあります。僕も吉本入って53年になりますが、当時の先輩は皆さん亡くなってしまった。もういま新喜劇で残っている先輩は、やなぎ浩二や池乃めだか、末成映薫ぐらいかな。僕もゆくゆくは死ぬだろうし、歴史は続いていってほしいですよね」○■“第二の明石家さんま”は無理だけど「面白い人間を」また「大スターを作りたい」と話していた真意について問うと、ある大物芸人の名前を挙げる。「社長から『頼んだ』と言われたとき、僕は第二の明石家さんまを作ろうと思ったんです。舞台上でも、舞台を降りてもキャーキャー言われる存在をね。でもすぐに無理だとわかりました。あんな男は絶対に出てこない。やっぱり特別ですよね。さんまちゃんを目指そうとした瞬間、ほとんどの人間はつぶれてしまう。それだけ特別な存在ですね」明石家さんまのようなスターは無理でも、この半年間のGM経験で実感したのは「面白かったら売れていく」ということ。だからこそ「面白い人間を作らなければいけない」と使命感に燃えていた。■間寛平1949年7月20日生まれ、高知県宿毛市出身。1970年に吉本新喜劇に入団し研究生となる。1974に吉本新喜劇の座長に昇格。「アヘアヘ」「ア~メ~マ~」「かい~の」などヒットギャグを続々と放ち、関西で絶大な人気を獲得する。1989年に退団し、東京進出。2008年12月~2011年1月、ヨットとマラソンによる地球一周「アースマラソン」を完走。2013年より「淀川寛平マラソン」を開催。2022年2月に吉本新喜劇GMに就任。■吉本新喜劇座員総選挙10月10日に大阪・なんばグランド花月で開催される「吉本新喜劇まつり」に出場する座員を決める総選挙。一般7500円、小学生以下3500円、オンライン2000円。一般投票で選ばれた上位30人がまつりに参加できる。投票は8月23日23時59分まで。
2022年08月13日6月12日(日)、大阪・味園 ユニバースにて赤犬のライブイベント『赤犬・間慎太郎・間寛平&エメラルドスターズの「なに調子にのっとんねん」』が開催される。ゲストは間寛平&エメラルドスターズとシンガーソングライターの間慎太郎。歌と笑いのコンツェルトをお楽しみに。赤犬 チケット情報チケットは4月23日(土)より一般発売開始。一般発売に先駆け、4月18日(月)23:59までオフィシャルHP先行(抽選)受付中。
2022年04月13日お笑い芸人の間寛平が3日、大阪・なんばグランド花月で開催された吉本興業創業110周年特別公演「伝説の一日」の千穐楽弐回目公演に出演後、報道陣の取材に応じた。大木こだまひびき、天才ピアニストとともに取材に応じた寛平。千穐楽壱回目公演では、大木こだまひびき、博多華丸・大吉とともに口上を務め、渾身の「アメマ~!」を披露したが、「すごかったよ。あんなに『アメマ』がウケることない。『アメマ』スベるねん。あんなにウケるって」と喜びを語った。寛平は今年2月に吉本新喜劇のGMに就任。「伝説の一日」のすべての新喜劇に出演し、自身のギャグもふんだんに用いて笑いを届けている。手応えを聞かれると、「僕はむちゃくちゃやっているんですけど、それを若い子が見て、こんなことをやってもいいんやっていう感覚になっていっている。みんなすごいやる気が出てきて、セカンドシアターに集中し出した。セカンドシアターを盛り上げようと、自分らも頑張らなあかんという雰囲気になってきました。若手がやる気になっているのがすごくうれしいです」と若手の変化を明かした。4月1日に創業110周年を迎えた吉本興業は、日頃の感謝の気持ちを込めて、なんばグランド花月にて創業110周年特別公演「伝説の一日」を4月2日、3日に開催。110年間“笑い”を発信し続けてきた同社が、“オールよしもと”豪華ラインナップで、伝統の「笑い」と最新の「笑い」を届ける。同公演のオンライン配信チケットは4月10日まで販売(視聴は4月11日12時まで可能)。
2022年04月03日間寛平が3日、大阪・なんばグランド花月で開催された吉本興業創業110周年特別公演「伝説の一日」の千穐楽弐回目公演に出演後、報道陣の取材に応じた。大木こだまひびき、天才ピアニストとともに取材に応じた寛平。満員の観客について「ギシギシやもんな」とうれしそうな表情を見せ、「お客さんあっての吉本興業だからありがたいです」と感謝した。また、大木こだまが「満員すぎて足が震えていました。それくらい緊張しました」と話すと、「膝悪いんちゃう!?」とツッコんで笑いを誘った。吉本新喜劇のGMに就任した寛平は、「伝説の一日」のすべての新喜劇に登場して笑いを届けているが、千穐楽壱回目公演では、大木こだまひびき、博多華丸・大吉とともに口上を務めた。口上では渾身の「アメマ~!」を披露し、爆笑を取った寛平。「すごかったよ。あんなに『アメマ』がウケることない。『アメマ』スベるねん。あんなにウケるって」と喜び、こだまも「爆笑でしたね」と振り返っていた。4月1日に創業110周年を迎えた吉本興業は、日頃の感謝の気持ちを込めて、なんばグランド花月にて創業110周年特別公演「伝説の一日」を4月2日、3日に開催。110年間“笑い”を発信し続けてきた同社が、“オールよしもと”豪華ラインナップで、伝統の「笑い」と最新の「笑い」を届ける。同公演のオンライン配信チケットは4月10日まで販売(視聴は4月11日12時まで可能)。
2022年04月03日お笑い芸人の間寛平が9日、都内で吉本新喜劇GM(ゼネラルマネージャー)就任発表会見を行い、意気込みを語った。新喜劇初のGMに就任した寛平は「吉本に入って今年で52年。去年50周年+1で全国を回ろうということで東京からスタートしたんです。そのときに社長が見に来てくださって『すごく面白い』と。ちょっと前の新喜劇をやっていたら、社長が『これや』と思ったんでしょう。嫁と一緒に会社に来てくれと。それが6月なんですけど、『GMをお願いしたい。若手も育ててほしい』と言われました」と経緯を説明。MCの未知やすえが「私、入ったとき寛平さんの座長組で始まったんですけど、何も教えてもらったことがない。なので、とても驚いています」とツッコむと、寛平は「確かに。今まで育てたことはありません。弟子に来た人間もほとんど育っていません」と笑いつつ、「『なんとか頑張ってやってもらえないですか』と言われて、僕もこの年ですから引退を考えていたときだったんですよ。でも僕でも必要なのかと。これだけ言ってもらえるんだったら頑張ってみようという気になって引き受けました」と語った。そして、「去年の6月から月に2回会議をして一生懸命頑張っている。任せてください、やります! 最近はずっと新喜劇を見ています。109人いてなかなか目が届かないんですけど、座長、リーダーに聞いて一生懸命勉強しています。必ず大スターを作っていきたいと思います。頑張ります!」と力強く宣言。「もしあれだったら僕のギャグを若手にあげます。いらん言うかもわからんけど」と話し、やすえが「いらんというか、できません」と指摘すると、寛平は「こすりつけるだけ」と言って「かい~の」のギャグを披露し笑いを誘った。また、今後の展望として「109人いますから、出たい思っても出られない子がいる。劇場を作りましょう。若い子が出られるような、もう1つ劇場を作りましょう」と新劇場の構想を明かし、「漫才劇場からみんな若い子が頑張って『M-1』じゃ『キングオブコント』じゃ出ていっている。新喜劇劇場を作ってあげたほうが若手の安らぎというか……。みんないっぱい悩んでいるから、ゆっくり会話をしようと。作ります!」と語った。間寛平は1849年7月20日、高知県生まれ。1970年吉本新喜劇へ入団し研究生となる。花紀京の付き人をしながら4年後の1974年に吉本新喜劇の座長に24歳の若さで昇格。「ア~メ~マ~」「アヘアヘ」「かい~の」などのギャグで人気爆発ののち、1978年に新喜劇の座員と結婚。1989年に退団し、東京に進出した。そして、2008年12月から2011年1月、ヨットとマラソンによる地球一周「アースマラソン」を完走。2021年には芸能生活50周年+1記念ツアー「いくつになってもあまえんぼう」を開催した。会見には、座長のすっちー、酒井藍も登壇。さらに、大勢の座員たちがZOOMで参加した。
2022年02月09日お笑いタレントの明石家さんまが6日、都内で開催された「間寛平 芸能生活50周年+1 記念ツアー『いくつになってあまえんぼう』」東京公演(2回目)にシークレットゲストとしてサプライズ登場した。昨年2020年に芸能生活50周年を迎えた間寛平。同ツアーは、寛平が座長を務める新喜劇と、寛平を慕う人気芸人たちによるネタで構成される寄席形式となっている。冒頭、寛平が51年間の芸能生活を詰め込んだ浪曲を披露。そして、かまいたち、千鳥、次長課長、中川家がゲスト出演し、それぞれネタを披露して笑いを誘った。その後、「間寛平座長新喜劇」を上演し、寛平をはじめ、内場勝則、辻本茂雄、未知やすえ、池乃めだからが「ハザマうどん」を舞台にした物語を展開。途中で、村上ショージが呼び込む形でさんまがサプライズ登場すると、会場からどよめきが起こった。ショージとさんまは旅役者役として参戦し、うどん屋の大将役の寛平と爆笑掛け合い。さんまは、寛平とショージに生き生きとツッコミを炸裂させ、笑いを誘った。さらに、ジミー大西も登場。さんまは予定していた出演時間を大幅に超え、30分も舞台に立って会場を盛り上げた。
2021年06月06日●「みんなに助けてもらって50年持ちました(笑)」「アヘアヘアヘアヘ…」「いくつになってもあまえんぼう」「ア~メマ!」「かい~の」など、数々の国民的ギャグを生み出してきたお笑い芸人・間寛平が、芸能生活51年目を迎えてなお精力的に活動している。デビュー後まもなく吉本新喜劇の座長に就任するという華々しいキャリアのスタートを切る一方で、先輩の借金の保証人やアメマバッジ負債による莫大な借金、阪神大震災による自宅全壊、地球一周企画「アースマラソン」途中のサンフランシスコでの前立腺がん治療、木から転落して肋骨9本骨折するなど、波乱万丈すぎる人生だ。それでも辛い顔を視聴者には一切見せなかった関西お笑い界のレジェンドは、半世紀以上のキャリアをどう受け止めているのか。間寛平は1970年に吉本新喜劇へ入団後、前述のギャグのヒットとともに吉本新喜劇のスターとして関西で絶大な人気を獲得する。1974年には吉本新喜劇の座長になり、バブル経済真っ只中の1989年に東京へ進出。それ以降の活躍は周知のとおりだ。本人はこれまでの軌跡を「ホンマにみんなのおかげやなあ、感謝、感謝です。それしかないもん。いろいろやってきたけれど、どれもみなさんに作り上げてもらったものやもん」と感謝する。そして数々の国民的ギャグは生み出そうとしてひねり出したものではなく、その多くが仲間のツッコミによって生まれたものだという。「『かい~の』はなんでできたん? て言うけど、新喜劇の本番中にちょっとかゆいなと思ったので、テーブルの角で体こすってたんです。それをたまたま池乃めだかちゃんに見つかった。『何してんの?』と言われた時に『かい~の』と言ったらドーン! とウケた。そういうもんなんです。そうやってみんなでツッコんでくれたりして、ここまでやってこられたと思うんですよ。みんなに助けてもらって50年持ちましたわ(笑)」。50年間でお笑いを辞めようと思ったことは、「まったくないです。めっちゃ幸せです(笑)」と一度もないと断言する一方で、適正については「わからないですねえ」と謙遜。お笑いがどうしてもやりたくて新喜劇に入ってきたわけじゃないから。自分にもできそうやな、やってみようかなという雰囲気で入り、それがどんどん面白くなっていった」と語る。20代前半は別の仕事をしており、交通事故で入院中に聴いたラジオの影響で、「なんとなくやってみようか」と思ったことがきっかけだった。「タイル張りの仕事では失敗で日々親方に怒られ、ちょうど仕事への意識が変わりつつあった時期だったかもしれない。それくらいなもんでした。見舞いに来た友人が誰か紹介してやると。だから今の若い子みたいにお笑いがどうしてもやりたい! で始まったんではないんです」。それでも24歳で吉本新喜劇の座長となるなど、キャリアの初期に早い成功を収めた。ただ、若手芸人のスターになるも、私生活では盟友の坂田利夫と安いラブホテルに寝泊まりするなど根なし草の状態で、「めちゃくちゃな生活だった」と当時の日々を述懐する。しかし26歳の頃、お笑いの仕事を強く意識しようと思う出来事が起こる。「先輩にダマされてすごく借金をしました。その先輩は逃げた。でも大好きな兄さんだったので、もしその先輩が『寛平、一緒に逃げよう』と言っていたら、逃げていたかもしれん。あれはギリギリのところでした。でももう今の嫁とも出会っていたんです。まだ結婚はしてないけど」。ギリギリの選択だった。しかし、人生の局面で選択肢を間違うことはなかったから今の間寛平があるのだ。「そうですね。ようついていけへんかったと思う。ばん兄さん。これはたまに思い出すんですよ。でもそのおかげで530万円を自分が払わなアカンことになったけれど(笑)」。それ以来、「お笑いに対しての姿勢が変わったというより、金を稼がな、というそれがまずあった」と言う寛平。この50年について「余裕などまったくなかった。無我夢中ですよ(笑)」と振り返り、「未だに余裕はない。今の若い子はエライですよ。子供もいるもん。何するかわからん連中ばっかりだから、余裕な感じでやっていたら負けてまう」とすべての仕事に全力で取り込んでいる。●ギャグのように「僕はずっと甘えていく」まだまだパワフルな寛平が、「間寛平 芸能生活50周年+1記念ツアー 『いくつになってもあまえんぼう』」を開催。5月30日の熊本公演を皮切りに全国10か所を巡り、笑いを届ける。その本質は「これが吉本新喜劇ですよ!」というもので、歌あり笑いありのライブツアー。コロナ収束を願う新曲「8、9、10の歌~BEAT THE CORONA(コロナに負けるな)~」(5月26日リリース)も披露する。「ちょっと落ち込んでいるから歌でも作って出そうかと。コロナ(5、6、7)で大変やから、その上をいく8、9、10でいいじゃないか」。そんな発想から生まれた、ユーモアあふれる楽曲だ。本人もコロナ禍では気持ちが落ち、武器を取られた感じだったという。「落ち込みますよ、そりゃ。芝居もロケも行かれへん。『探偵!ナイトスクープ』も全然ロケに行けてない。街ブラして『おっちゃん何してんの?』とか気軽にできないもの」。ただ、そんな中でも今回、劇場で舞台ができる。「一番の心配はお客さんやから、マスクして換気してね。この一年、劇場を開けたけれど、まったく問題なかったですよ」。公演のタイトルにもなっている「いくつになってもあまえんぼう」も、舞台では毎回のようにウケる鉄板のギャグだ。「これは僕がずっと甘えているから。自分の会社も作っているんですけど、あまえんぼうって名前ですよ」と誕生秘話を明かす。いくつになってもとは何歳までかと尋ねると、「死ぬまでです」と答え、「僕はずっと甘えていくんです。ただ、(終わり)は考えてはいますよ」とも。「吉本は大丈夫なんですよ。誰かいるんですよ。誰かが継ぐ。『行列のできる法律相談所』も紳助がいなくなったあと今田がやって続いている。吉本は兵隊がたくさんいてるから。さんまは辞めたらいけないと思いますね。若い子育てているから。『さんまのお笑い向上委員会』は、くすぶっているヤツに光を当てて、地下芸人を引き上げている。仕事も増える。あれはさんましかできない。ダウンタウンもね。よくやっているね」。もちろん、寛平の代わりもいない。唯一無二のレジェンドとして今後のさらなる活躍を期待したいが、「人は寛平ならやってくれると言いはるけど、今の子のみたいにいろいろできない。いやまあ、やるかなあ、なんかわけわからんことを(笑)」と明言は避けた。ただ、芸歴51年目のレジェンドには、負けられないライバルがいる。その壁を超えない限り、引退の二文字はなさそうだ。「以前、千鳥の大悟に(間寛平の芸で)『勉強せなアカンで!』と言ったところ、『僕ら、そんな芸はけっこうです』と言われました(笑)。なんでやと(笑)。ただ、世の中の流れと芸の流れもあるので、しょうがないこともある。若い子が出てきたら、どんどん好きなようにやりなさいと。そういう気持ちで、これからはいないといけない。そういうところではもう戦えないですよ。もう今は戦えるのはひとりだけ、坂田利夫。永遠のライバルよ、あれには勝てん(笑)」。■間寛平1949年7月20日生まれ。高知県宿毛市出身。1971年デビュー後、1974に吉本新喜劇の座長となり、「アヘアヘアヘアヘ…」「ア~メマ!」「かい~の」などヒットギャグを続々と放ち、若手スターとして関西で絶大な人気を獲得する。2008年、大阪のなんばグランド花月をスタートした地球一周企画「アースマラソン」では、2年1カ月、4万1000キロに及ぶ長い旅を終え、ランナーとしても人々に感動を与える。今年は、5月26日にCD「8、9、10の歌~BEAT THE CORONA(コロナに負けるな)~」をリリース。「間寛平 芸能生活50周年+1記念ツアー 『いくつになってもあまえんぼう』」も開催する。
2021年05月26日全ての人が笑顔になる大会サンケイスポーツ(産経新聞社発行)では、「フジパンPresents淀川寛平マラソン2019」を2019年3月2日(土)と3日(日)、大阪・淀川河川公園特設コースで開催します。間寛平氏が発起人となり2013年から始まったチャリティーマラソン大会で、参加費のうち1人あたり100円が、東日本大震災、熊本地震、大阪北部地震、西日本豪雨の被災地支援と、淀川の環境保全のために寄付されます。吉本興業のお笑いタレントが参加予定同大会は、1日目にプレイベントとして豊かな自然と水の恵みあふれる淀川河川公園歩くウォークの部が開催あい、翌日にマラソンを行います。マラソンの部は、男女フルマラソン、男女10キロ、ファミリー3キロ、駅伝の4種目を行います。マラソンコースは、アップダウンが少ないのでフルマラソン初挑戦など経験の浅いランナーでも完走できるコースです。また、駅伝には、吉本芸人がチーム寛平として参加が予定されています。(画像はプレスリリースより)【参考】※産経新聞社のプレスリリース※淀川寛平マラソン2019公式サイト
2018年09月07日マラソンとヨットで世界一周する「アースマラソン」に挑戦中で、今年1月に前立腺がんを患っていることを公表したお笑いタレント、間寛平が3月27日(土)、第2回沖縄国際映画祭特別上映作品の主演映画『ラン アンド ラン』の舞台挨拶に、現在地通過中のイラン・ダムガンから衛星中継で出演した。ビーチステージの大スクリーンに映し出され「ダムガンの砂漠にいて、サソリの毒すうてまぁーす」と第一声。「イランでいま一番ウケるのは『アヘアヘアヘアヘ…』。『かいーの』はダメ」などと解説しながら、ステージにいる司会を務めた後輩、お笑いコンビ、博多華丸・大吉にポーズをとらせて自身は声で「アヘアヘアヘアヘ…」を、同作のメガホンを取ったイランのカマル・タブリズィ監督に披露。「素晴らしい!」の反応を得て、「チャッチャマンボ」を見せると「ダメ―!」と“NG”を食らい、「なめなめくじくじなめくじくじ、塩かけないでね〜粗塩はいやよ」では「面白い!」と再び大爆笑させた。満場の観客も大いに沸いた。カマル監督はメガホンを取ったきっかけについて「寛平さんがいまチャレンジしていることは素晴らしく、特別なこと。マラソンでイランを走行する寛平さんをお招きするには、イラン映画を作るべきだと思った」と説明。間さんの人柄を「とても不思議な人。普通映画を作るには短くて6か月くらいは必要ですが、この映画は約1か月半で完成させることができた。それは寛平さんからエネルギーをもらったお陰です」と絶賛していた。(photo/text:Yoko Saito)沖縄国際映画祭現地レポート■関連作品:第2回沖縄国際映画祭 [映画祭] 2010年3月20日よりカウントダウンイベント開始、24日から28日まで映画祭開催■関連記事:【沖縄国際映画祭】黒沢かずこ主演『クロサワ映画』2冠!即興の歌で喜び表現【沖縄国際映画祭】キム兄、鈴木杏樹の天然トークに苦笑い【沖縄国際映画祭】ロバート秋山竜次、出演場面13秒の映画で舞台挨拶【沖縄国際映画祭】ナベアツの晴れ舞台でケンコバ暴走挨拶【沖縄国際映画祭】次長課長・河本が沢尻ネタで悪ノリ&大鶴義丹の衝撃NGを暴露
2010年03月28日