『宇宙塾』主宰・元日本テレビディレクター矢追純一さんディレクターとしてバラエティー番組を制作し続け、次々に高視聴率をたたき出してきた、矢追純一(86歳)。51歳で日本テレビを退職してからもフリーとして活躍。今日でもUFO、超能力の第一人者として活動を続けているが、「自分はただ流れに身を任せただけ」と笑い、飄々(ひょうひょう)と語る。しかし、その半生は波乱に満ちていた―。常識では説明できない“超常現象”この記事の読者は圧倒的に女性が多いです─と伝えると、矢追純一は「なるほどね」と相づちを打ち、こう述べた。「女性にはね、説明がつかない超能力的な素質があるんですよ。生まれつき宇宙そのものを持っているというのかな。男性は何でも論理的に考えるから弁が立つけれども、物事は言葉だけで理解しようとすると本質を見失います。その点、女性は言葉にできないことまで感じ取れる。そもそも子どもを産めるのは、目の前で起こるあらゆるものを受け入れる包容力があるからで、物事の本質を見る力は男性よりも女性のほうが優れているように僕は思いますよ」常識では説明できない不思議な世界─いわゆる“超常現象”に興味を抱いたことがある人なら『矢追純一』の名前は聞いたことがあるだろう。齢86。現在の矢追の活動を追って、2つのセミナーに足を運んだ。1つ目は、2022年1月22日の『開星塾―ADVANCE』(夢源樹主催)。矢追は対談のゲストとして登壇。ホストを務める高野誠鮮さん(66歳)は、石川県羽咋市の臨時職員だった1984年に「UFOでまちづくり」を仕掛け、’96年には総工費52億円をかけた宇宙科学博物館『コスモアイル羽咋』の構想を実現させた人物。対談は、高野さんのこのひと言で始まった。「ご存じだろうとは思いますが、矢追さんは日本におけるUFOや超能力のテーマに先鞭をつけ、切り拓いてきた草分け的な存在です。歴史に残る人だと僕は思っています」UFO問題の対談に興味を持つのは男性が多いだろう……、という予想は当たっていなかった。定員70名の会場は老若男女で埋まっていた。2つ目は、矢追自身が主宰する『宇宙塾』。2月26日の「自由コース」も参加者のほぼ半数が女性だった。宇宙塾の運営を担当する小川正喜さん(53歳)に聞くと、2015年ごろから女性の塾生が増え始めたという。もしかすると、東日本大震災のような人間の力が及ばない現象─矢追の話になぞらえれば「言葉だけでは本質を説明しきれない出来事」を多くの日本人が体験したことも一因だろうか?続けて問うと、小川さんも同じような印象を抱いていた。「たしかにそれもありますね。実際に福島から宇宙塾に参加された方もいて、震災を伝えるメディアは都合のいいところだけを切り取って、被災者の現実を伝えてくれないという声も聞きました」風評被害などは、その典型だろう。考えてみれば、私たちが暮らす世の中は見えないものに動かされている。例えば、世界中を混乱に陥れた新型コロナウイルス。あるいは、社会のインフラとなったインターネットもそうだ。開星塾の参加者の1人は、こんな思いを口にした。「ネットにはフェイクニュースがあふれ、何がホントで、何がウソか、わからなくなっていますよね。僕は学生時代から矢追さんのラジオを聴いていて、当時は信じられないような話がたくさんありましたけれども、最近になって全部それがホントだったとわかってきました」(グーガさん=仮名・55歳)ちょうど1年前、4月27日にアメリカ国防総省は3本のUFO映像を公開した。さらに同年6月25日には、軍が把握しているUFO目撃情報に関する公式な見解として、「地球の外から来た可能性を排除しない」と結論づけた。この件について、高野さんは開星塾の対談でこう話した。「アメリカ政府は1969年12月をもって、宇宙人の存在を示すUFO情報は1つもないという理由で、UFOの調査から手を引くと発表しました。ところが今回、“完全否定”から一転して“可能性”にまで言及した。これでUFO問題は、一気に百歩も前進したと私は思っています」“UFO”の3文字は、日本人なら迷わず「ユーフォー」と読むだろう。この呼び方を、カップ焼きそばやピンク・レディーの歌で知った人もいるかもしれないが、軍事用語のUnidentified Flying Object(未確認飛行物体)を、1960年代に自らが手がけた日本テレビの番組の中で初めて「ユーフォー」と呼んだのが矢追だった。以来、UFO情報は人々の好奇心を大いに刺激し、放送された矢追の企画は高視聴率をたたき出した。自らも番組に出演し、秘密情報を次から次へと紹介する矢追自身も“UFOディレクター”として一躍有名人となった。ホントかウソかは問題じゃない科学の常識を超えたUFOの存在は、子どもたちに「夢」を与えた。一方で、アカデミズムなどの大人の世界からは「オカルト」的なものとして徹底的に無視されてきた。しかし、いまやUFO情報は国家の安全保障の観点から排除できない「事実」になりつつあるというのがUFO研究者たちの見方だ。開星塾の対談で矢追の口から淡々と語られるUFO情報も、「これから何かが起こる」と予感させるものだった。「2013年のダボス会議でロシアのメドベージェフ首相が、宇宙人に関する秘密を公開しようとアメリカのオバマ大統領に迫り、共同発表できなければロシア単独で暴露すると公言しました。メドベージェフ首相の発言はプーチン大統領の意向と見ていいので、ひょっとすると早晩それが実現するかもしれません」単刀直入に矢追に聞いてみた。宇宙人がUFOに乗って地球に来ているというのはホントなのか?「ホントか、ウソかは、僕にとってたいした問題ではなくてね。地球の常識では説明できない現象が“ある”ということが重要なんです。そもそも僕はUFOだけに興味があるわけではない。いままでUFO問題を追いかけてきたのも“成り行き”なんですよ」さらに、成り行きで生きてきた自らの人生を、矢追はこう言い切った。「仕事がなくなったことも、お金に困ったこともありません。僕が人生で思ったことは、ほとんど実現しています。人生はね、“こうありたい”という目標さえ決めておけば、思ったとおりになるんですよ」実は、矢追こそが宇宙人なのではないか?そんな噂もかつては囁かれ、『宇宙人』は矢追の渾名にもなった。矢追自身も1991年に『宇宙人・矢追純一の「地球人」へのメッセージ』という本を書いている。念のため「矢追さんは宇宙人ですか?」と確認すると、「戸籍はちゃんとありますから日本人だし、地球人ですよ」と本人も笑った。が、矢追の過去は人間離れしたエピソードに事欠かない。「自分が生きてここにいると気がついたのは、7歳くらいのときなんです。両手をポケットに突っ込んで歩いていたら、雪道ですべって顔面から凍った地面にぶつかった。そこから僕の人生の記憶は始まっているんです」矢追は1935年に満州国の新京で生まれた。しかし、幼いころの記憶はほとんど残っていないという。「僕には思い出というものがないんです。終わったことはどんどん記憶から消えていくので、常に“いま”しか見えていない。過去を懐かしむような情緒的な感情がないという意味では、僕は人間らしさに欠けているんでしょうね」自著『真・ヤオイズム』などには、満州での体験が活写されている。が、それらの記憶は「妹から聞いた話だったりします」と話す。矢追には2人の妹がいる。4歳離れた長妹の千草さんと、6歳離れた次妹の三恵さん。2012年に三恵さんが著した『もやし』という自分史がある。そこには兄である矢追が共有しているはずの故郷・満州での思い出が生々しく記されていた。例えば─、《鼻水もツララになるマイナス二十度の町中で着物を片手にかけて、片言の中国語で売り歩いた》矢追の生い立ちはまさに波瀾万丈だ。両親と妹たちとの5人家族は、新京の日本人居住区で暮らしていた。父の又三郎さんは満州国建設省の役人で、政府の建造物の設計にも携わった。三恵さんの本には《父が自分で設計施工した、当時珍しいコンクリート造の白亜の洋館に一家幸せに暮らしていた》とある。豪邸には何人もの使用人が住み込む裕福な暮らしぶり。だが、兄の幼少期は病弱で、しかも《対人恐怖症で今で言う引きこもりだった》と綴られていた。10歳の少年が衣類や家財を売り歩く大黒柱の父が急逝したのは、矢追が9歳のときだった。その翌年、戦争が終結。満州国は一夜にして消滅し、矢追一家の生活は一変する。白亜の豪邸は使用人だった中国人たちに乗っ取られ、家族は住む場所を失った。路頭に放り出された家族を支えたのは母の清子さんだった。新京、奉天、大連と居を転じながら、幼い3人の子どもたちに教えたのは自立して生きる術。満州国の紙幣では米一粒も買えない。清子さんは自分の着物を矢追に持たせ、「売ってきなさい」と命じた。昨日まで引きこもっていた10歳の少年が、言葉の通じない米兵やソ連兵、果ては日本人を目の敵にする中国人を相手に、母の衣類や家財を売り歩く。それが、なぜか、売れた。高価な着物だけでなく、使い古しの絵葉書までが使えるお金にかわった。満州での体験を、矢追の口から直接聞いたことがある人もいる。プライベートで20年近い付き合いがあり、2021年から矢追の仕事のマネージメントを担当している河原邦博さん(57歳)はこう話す。「2人で食事をしたり、お酒を飲んだりしているときに、ふと昔の話をされることがあったんですが、もう私の想像をはるかに超えていて、そんな壮絶な体験を、なぜ彼はこんなにも淡々と語れるのだろう、と。そういうところは宇宙人みたいですよ(笑)」例えば、無法地帯となった満州では犯罪も茶飯事。矢追が友達と道端に座っていると、ソ連兵が日本人の住居を襲って家財を盗み、トラックで逃げていく。素行不良のソ連兵を取り締まるのは同胞のGPU(ソ連の秘密警察)。サイレンを鳴らし、ピストルを乱射しながらGPUのサイドカーが逃げるトラックを追う。まるで映画の一幕。カーチェイスの末にトラックは矢追の目前で横転。血だらけではい出すソ連兵。歩み寄るGPUの将校。銃声。頭を撃たれたソ連兵は即死。おい、いまの、見たか!興奮しながら横にいる友達に目をやると、流れ弾に当たって息絶えていた─。こんなエピソードが『真・ヤオイズム』には克明に描かれている。人間の“死”と隣り合わせの日常に身を置きながら、矢追は“生きる”ことの本質を体感した。「自分の命も含めてあらゆるものへの執着が消えたのが12歳のときでした。執着心がなくなれば人間は不安や恐怖も感じなくなります。自分が歩んできた過去に縛られることもないし、これから訪れる未来を思い煩うこともない。いま、この瞬間だけに集中して僕は生きてきたんです」前出の高野さんは日蓮宗の僧侶でもあるが、矢追のイメージを「仙人みたいな人」と述べていた。矢追の生き方は、極限の精神状態に至った者だけが知る境地のような気もしてくる。だが、矢追本人が抱く実感はいたってシンプルだった。「たしかに浮世離れはしているんでしょうけれども、仙人というより、動物ですよ。将来どうなるんだろうとか、動物は考えない。意識にあるのは“いま”という現実だけです。僕も動物と同じように、何のビジョンも持たずに、ただ生きているだけなんです」ビジョンは「展望」や「理想像」などと訳される。頭の中で未来を予測し、行動する前に計画を立てる能力は、動物よりも脳が発達した人間ならではの知性だろう。しかし、知性と引き換えに人間は原始的な生命の源泉─知識や情報に支配されることのない生きる力─をおろそかにしてしまっているのかもしれない。「考えたことはなかったけれども、そうなのかな。僕としては“勘”で動いているだけなんですけれどもね(笑)」引きこもりだったひ弱な少年は、自らの勘に従い、目の前で起こるあらゆるものを受け止めた。終戦から2年後、矢追はどんな現実も「楽しい」と言える人間に変わっていた。「3階くらいの高さの階段を上って下をのぞき込むと、数え切れないほどの人がズラーッと並んで雑魚寝をしていた。その光景は覚えているんですよ」12歳の矢追が見たのは貨物船の船底の様子だった。1947年12月、矢追一家は大連の港から引き揚げ船に乗り、佐世保港に到着。そこから父の親戚がいる奈良県へと向かったが、母の清子さんには親戚を頼って生活するつもりはなかった。ほどなく一家は東京に移り住む。妹2人を育てる暮らしところが、満州での心労で清子さんは心臓弁膜症を患い、入院。3人の子どもは病院の母のベッドの下に寝泊まりし、そこから学校へ通った。母の退院後は、国が建てた世田谷区の母子寮(現在の母子生活支援施設)に入ることができた。《六畳ひと間に一畳ほどの台所がついていて、トイレ、風呂は共同だった》と三恵さんの本にはある。矢追は中学生になっていた。「僕がまともに学校に通った記憶は、中学校の3年間しかないんです」と記憶をたぐり寄せるが、同級生たちの日常とは少し違った。家で勉強していると、母に叱られた。本を読んでいると、取り上げられて捨てられた。学校できちんと勉強していればテストで100点取れて当たり前。学校から帰ってきたら、外に出て身体を鍛えなさい─。自立して生きるための母の教育は、矢追をたくましく成長させた。病弱だった肉体は頑健になり、授業だけで100点を取れる驚異的な集中力が身についた。そして高校進学。2つの理由で矢追は神田にある電機学園高等学校を受験した。1つは卒業してすぐに飯が食えること。もう1つは、特待生試験に合格すれば入学金も学費も免除になるという条件。人並み外れた集中力を発揮し、矢追は試験に合格。そこからの記憶は、もっぱら学び舎の外での体験だった。「渋谷に出て、地下鉄の銀座線に乗って、神田では降りずに終点の浅草まで行くんです。一日に映画を3本も4本も見たりして、毎日浅草をうろついていましたね」高校2年の春。自らの意志で成した自立とは違う意味で、矢追の人生には自立のときが訪れる。母の清子さんが48歳の若さで他界。三恵さんの本には《母の遺言には、「親戚を頼らずに三人で生活するように」とあった》と記されている。だが、3人の兄妹は未成年。保護者がいなければ孤児院(現在の児童養護施設)に送られる。親戚が集まり話し合いが持たれ、矢追と三恵さんは世田谷の親戚に、千草さんは長野県の叔母に預けられることになった。母亡き後の人生を、どう歩むか?実業高校の卒業生には就職先がいくらでもあった。ところが矢追の選択は大学受験。しかも中央大学法学部という超難関に挑んだ。“常識”で考えれば無謀でしかない。その進路を矢追は“勘”で決めた。そして合格。「人生で思ったことはほとんど実現しています」という矢追の話は、決して“未確認”な情報ではない。大学生になった矢追は、三恵さんを連れてアパートを借り、長野にいる千草さんも呼び寄せた。母の遺言どおり、親戚を頼らずに3人で生活するために。それにはお金がいる。高校時代からやっていたアルバイトは3つに増えた。日中は建設会社の事務や現場の雑用。夕方からは日比谷にある市政会館でエレベーターボーイ。夜になると生演奏がある銀座のクラブでバンドボーイとして働いた。深夜、クラブが閉店するとジャズバンドのメンバーが遊びに連れて行ってくれた。飯は食えるし、こっそり酒も飲めたが、寝る間がない。それでも矢追は必ず帰宅していたことが、三恵さんの文章から伝わってくる。《兄が毎日百円置いていってくれる》という朝の点描。中学校に通う次妹に食費を渡してからアルバイトに出かけるのが大学時代の矢追の日課だった。《みかん箱の倍もあるような木箱で、Hi-Fiの大きなスピーカーを作ってくれた。この音響機器はわが家でただひとつの『家具』だった》という一文もある。まだテレビが贅沢品の時代。安いラジオでも立派な再生装置につなげば高音質で聴ける。矢追が高校で電気技術の基礎を習得していた証だろう。兄の手作りスピーカーは2人の妹にとって、狭い部屋を劇場に変える魔法の箱だった。長兄としての自覚、責任、苦労、愛情……。それらの言葉で表す感情を、矢追は当時の記憶にとどめていない。「たぶん、放っておいて気になるのが嫌だったのかな。お金やモノを与えて、これで妹は大丈夫だなと安心して遊び回っていたんでしょうね」記憶にあるのは「楽しかった」という印象だけ。恋人もできた。一方で、同世代の友人は少なかった。大学にはほとんど行かなかったからだ。授業で教わる内容は、本を読めばわかった。だったらアルバイトをしながら遊び回っていたほうがいい。楽しい大学生活は4年生になっても続いた。いまを楽しく生きる矢追は、将来を考えた就職活動もしなかった。しなくても幸運のほうから矢追に近づいてくる。映画会社から「俳優にならないか」と声をかけられたこともあった。「映画は好きでしたけれども、役者をやる気は全然なくて。むしろ監督とか、作る側に興味はありました」夏のある日、市政会館のエレベーターでよく見かける紳士が話しかけてきた。就職は決まったの?「まだです」と答えると、日本テレビの見学に誘われた。紳士は同局の著作権課の課長だった。法科の名門に通う学生はダイヤの原石に見えたのかもしれない。後日、社屋の見学に訪れた矢追に、紳士は感想を求めた。ここで働いてみたいか?「はい」と返事をすると、入社試験を受けることになった。いまも、当時も、キー局への就職は狭き門である。しかし、矢追が思ったことは実現する。試験から数日後、家には合格通知が届いていた。テレビ局に入って、すぐに楽しい仕事が待っていたわけではない。配属は演出部。出勤初日からドラマの制作に携わるが、映画で目の肥えていた矢追には、黎明期のテレビドラマは好奇心を満たすものではなかった。「歌謡番組だの、寄席の中継だの、いろんなことをやらされたけれども、みんなおもしろくなかった。もう、辞めようかなと思っていたら、イレブンが始まったんです」1965年11月。型破りな娯楽番組が誕生した。『11PM』だ。硬派なネタからお色気まで、自由な企画で勝負ができる深夜の解放区。「プロデューサーをつかまえて、イレブンに入れてくださいと、自ら志願したんです。自分の人生で、自分の意志を発揮したのは、その時が初めてだったかな(笑)」何でもやれたが、何をやるかは決めていなかった。アイデアの発端は偶然の出合い。たまたま入った書店で『空飛ぶ円盤』と書かれた本が目に入る。何だろう?立ち読みすると、宇宙人が地球に来ていると書いてある。おもしろい。そして閃いた。「空を見せてやろう」高度成長の真っただ中にあった日本の大人たちはモーレツに働いていた。欧米から“エコノミックアニマル”と揶揄されたその姿は、矢追にはうつむいて視野狭窄になっているように見えた。未来に抱くのは期待感のみ視聴者が空を見上げる企画に、空飛ぶ円盤は格好の題材。屋上にカメラを配置し、夜空の飛行物体を探して実況中継する。本邦初のUFO番組が放送されたのは1968年のことだ。本番中にUFOは現れなかったが、視聴者の反響は大きかった。「また、やれ」と、プロデューサーの業務命令が下る。成り行きで、矢追は次のUFO番組を企画する。深夜枠の11PMだけでなく、1970年代にはゴールデンタイムの『木曜スペシャル』でも矢追の企画は放映された。超能力者のユリ・ゲラーを日本に呼び、生放送でスプーン曲げをやらせたのも矢追だった。超常現象番組にとって、矢追はディレクターであると同時にプレゼンターだった。自ら出演した理由は「人件費が節約できるから」だったが、映画会社の目にも留まったルックスと、感情を表に出さないクールな口調とに、視聴者はドキドキしながら未知なる世界へといざなわれた。そんな番組を作れるのは矢追だけだった。前出の高野さんも若いころにテレビの前に釘付けになり、多大な影響を受けた1人である。「衝撃的だったのは、UFO事件に遭遇した本人が再現映像に出てくることです。超常現象がブームになって、研究家を自称する人もたくさん出てきましたが、多くは現地にも行かない文献主義者でした。現場主義者でジャーナリストの矢追さんに追いつける人は、当時は世界中を探しても見つかりませんでしたよ」再現VTRに役者を使わず本人を登場させる手法には、人件費の節約だけでなく、実は矢追の勘も働いていた。「証言が事実なら何度でも躊躇なく再現をやってみせてくれます。作り話だったら、不自然になるから見抜けるんですね。ただ、再現してくれたことがホントかウソかは、僕が判定する問題ではない。その人が信じているものは、その人にとっては事実です。人間はね、誰もが同じ世界を見ているわけではないんです」番組の台本はほとんど白紙。何が起こるかわからない。楽しさを追求するエンターテイメントでありながら、起こったことをそのまま切り取るドキュメンタリータッチの番組には、まさに矢追の人生観そのものが投影されていた。「計画どおりにやろうとすれば、つまらないものしかできません。僕の番組には結論がないんですよ。これから起こることが現実だし、その現実も、次の瞬間には変わっているかもしれない。人生と一緒です。わからない未来に対して、こうだろうと予測し、こうあるべきだと決めつけて、妄想した未来に執着するから、計画どおりにならない現実に不安や恐怖を抱くんです。だけど、いまだけに集中して生きていれば、未来に対して抱くのは期待感しかないんですよ」UFO番組を手掛けてから約20年後。矢追に訪れた未来は「退職」という道だった。1986年9月。51歳で日本テレビを退社。そのきっかけとなった出来事の1つが社内の新入社員歓迎会だった。余興で中堅ディレクターがコントを演じる。内容は現場でこき使われるADの悲哀。仕事の厳しさを伝えるための誇張した演出。これを見ていた幹部が激怒、そして新入社員たちに詫びた。キミたちは管理職になるエリートだ、現場であくせく働くために採用されたのではない……。テレビ業界は成熟し、番組制作会社の台頭でキー局の社員にはマネージメント能力が求められるようになっていた。現場は管理され、自由奔放な番組作りはどんどんできなくなっていく。その現実を受け止め、矢追は思った。「僕には管理職は務まらない、会社の期待には応えられそうにないな、と。それも勘です。ここはもう自分のいるべき場所ではないと思いました」迷わず辞表を提出。名物ディレクターの辞意を会社は全力で慰留したが、矢追に未練はなかった。そして、辞めた後の計画もなかった。「田舎の鄙(ひな)びた温泉地でしばらく遊んでいようと思ったんだけれども、3日で飽きちゃったんです(笑)」東京に戻ってくると、さまざまなオファーが待ち構えていた。確実に視聴率を稼げる矢追を業界が放っておくわけがない。わが身の明日を成り行きに任せる矢追も頼まれた仕事は断らない。番組制作会社と組んでUFOディレクターは再始動した。立場はフリー。テレビ番組制作以外の仕事も引き受けた。1987年には『(財)地球環境財団』の設立発起人となり、財団の理事として各方面で環境問題について語る機会も増えた。あの矢追純一が環境問題?驚いた人もいた。が、当時の著書に残した“地球人へのメッセージ”には、家電リサイクルやレジ袋の有料化といったアイデアが、法整備される以前に提言されている。地球の“いま”を受け止める矢追には、人間が成すべきことの本質も見えていた。趣味を活かして事業も興している。銀座のクラブで毎晩のようにジャズの生演奏を聴いていた矢追は、CDの音質に物足りなさを感じていた。「こうありたい」と願えば、必要な情報は向こうからやってくる。音源をデジタル化してもライブ感を損なわない技術と出合い、音響装置の製造会社『イマジェックス』を設立。開発した機器には、かつて2人の妹のために作った魔法の箱と同じ思いが込められていた。「いまでも僕のラジオ番組ではイマジェックスの機器でジャズを流しているんですよ。だけど、見ている世界と一緒で、“いい音”っていうのも人によって違うのでね。音響業界は僕の事業に興味を示さなかったです」地球環境財団もイマジェックスも後に解散し、いまはもうない。世の中が矢追に求めたのは、やはりUFO問題の先駆者という役割だった。UFO番組不動のトップランナー1990年代に入ると映画『ゴジラvsキングギドラ』(1991年公開)の出演依頼がくる。役どころは“UFOに詳しい矢追純一”。ゴジラはフィクションだが、矢追は映画の中でも実在のUFOディレクターだった。1990年11月には、石川県羽咋市で『宇宙とUFO国際シンポジウム』が開催。米ソの宇宙飛行士が来日し、開催国の海部俊樹首相が公式メッセージを寄せた国際会議は世界中から注目を集めた。実現させたのは高野さん。そして、シンポジウムに日本代表として登壇したのが矢追だった。「矢追さんのほかにはいませんでしたよ、この会議で日本……、というより世界を代表して話ができる人物は。世界中で制作されるUFOコンテンツは、みんな矢追さんの番組をお手本にしていたんですから」(高野さん)UFO番組は世界中のテレビ局で作られるようになっていた。UFOの事案が発生するたびに海外の取材班は先駆者の矢追に意見を求めてくる。必然的に矢追の元には世界中の最新情報が集まった。一方で、日本では矢追の手を借りずにUFO番組を作る人たちも出てきた。そこには構成作家として放送業界に関わった高野さんもいた。「矢追さんと現場でばったり会ったときに、オレの目の前をチョロチョロするなと怒られたこともありました」と高野さんは苦笑するが、UFO番組を作る次世代のライバルたちにとって、矢追は不動のトップランナーであり続けた。2009年8月には、本物の宇宙船を展示しているコスモアイル羽咋の名誉館長に就任。このとき矢追は74歳。就任を要請した高野さんは、この時期に矢追の意外な一面を見ている。「有名な女優さんが孤独死したニュースを聞いて、『僕もあんなふうに死ぬのかな』と、ポツリと言われたことがあったんです。私は矢追さんらしくないなと思いながらも、一瞬“人間・矢追純一”を見たような気がしました」一般の人は、矢追のどんな私生活を想像するだろうか。マネージャーの河原さんは、「仕事とプライベートは分けておられるようですね」と言いながらも、古くからの友人として仕事を離れたときの矢追の姿も見知っている。「数年前まで大みそかは矢追さんの自宅で一緒に蕎麦を食べて年越しするのが恒例でした。私からすると矢追さんは父親の世代で、大先輩であり、よきメンター(影響力を持つ人)なんですが、常に1人の人間として対等に接してくれます。時々、生き方や考え方について話してくれることはありますけれども、普段は食べ物のことだったり、大好きな温泉のことだったり、たわいない会話ばかりです。プライベートでUFOや超能力の話を聞いたことはほとんどないし、仕事やお金に関しても細かいことは一切口にしない。本当に“欲”というものがない人なんだなと感じます」宇宙塾の運営をサポートする小川さんも、10年ほど前に家族で熱海の温泉に招待されたことがあった。自分の孫の年ごろに当たる小川さんの子どもとも、矢追は楽しそうに話していたという。アットホームな雰囲気の中でくつろぐ、そんな当たり前の時間が、矢追には非日常なのかもしれない。矢追は25歳で結婚したが、長くは続かずに離婚した。以後、家庭は持たず、いまもひとり暮らし。浅慮を承知で矢追に質問してみた。“孤独”は感じませんか?「僕には家族という概念が希薄でね、母親の死もショックではなかったし、1人でいて寂しいと感じたこともない。人間は1人で生まれてきて、1人で死んでいく。それが現実ですから、むしろ孤独でいることが自然なんです。人とのつながりの中でしか幸せを感じられないのだとしたら、そっちのほうが現実離れした考えだと僕は思います」どんな状況にあっても“いま”を楽しみ、幸せを感じることができる─そんな自立した生き方を多くの人たちに身につけてもらうために、矢追は宇宙塾を主宰している。取材で訪れた「自由コース」は誰でも参加できる入門編。会場で矢追はこう切り出した。「今日は秘密の話も用意しています。だけど、この塾で僕がしゃべるのはみなさんが退屈しないためのサービスなので、興味がない人は寝ていてもかまいません」塾生はボーッと座っているだけでいい。矢追が伝えるのは人間が生きていることの本質。言葉で教えるわけではない。矢追は温泉にたとえる。効能のある湯に浸かるだけで身体も心も癒される。それが宇宙塾という“場”であり、“効果”なのだという。会場には、すでに宇宙塾の全コースを修了した人たちの姿もあった。卒業生が母校を訪れるように、多くの元塾生が気軽に矢追に会いに来る。Tさん(男性・62歳)は、「間違いなく言えるのは宇宙塾に来てから人生が変わったことです。もちろん、いい方向に」と話した。15年前に塾を卒業したSさん(女性・39歳)は、2歳下の妹と一緒に訪れていた。「学生時代に自分のやりたいことを書いたメモが出てきたんです。世界遺産に行きたいとか、好きな作家に会いたいとか……。そういう夢が、宇宙塾に来てからいつの間にかみんな実現していました」元塾生たちの証言は、矢追と同じ生き方が誰にでもまねできることを物語っている。だが、見える世界は人によって違う。宇宙塾で起こる現実を信じられない人には、矢追の考え方や生き方こそが超常現象に感じられることだろう。宇宙塾では自由に矢追に質問ができる。折しも世界情勢はロシアのウクライナ侵攻が始まった時期。自らも戦禍を生き延びた体験を持つ矢追は、この現実をどう考えているのか?平和を願い、戦乱に巻き込まれた人々を案じながらも、個人の生き方に対する矢追の答えは明快だった。「いろいろな情報に右往左往せず、どういう自分でありたいのかを忘れずにいることが大事であってね。流れに逆らってジタバタすれば溺れるけれども、流れに身を任せていればラクに遠くまで行けます。どんなに大きな変化に遭遇しても、自分は宇宙という大きな流れの中で生かされていると自覚して、自然体でいればいいんです」苦しい“いま”を耐えれば、楽しい未来が待っているわけではない。“いま”を楽しめる人間に、期待どおりの未来が訪れるのだと矢追は言う。そして、自身の未来に期待を込めて、矢追はこう話した。「僕も人間ですから、いつかは死にます。だけど、あと何年生きられるかとか、そういうことに心を煩わされたことはありません。“いま”を大切に生きていれば、自分の人生が終わる瞬間さえも楽しく迎えられると、僕にはわかっているのでね─」〈取材・文/伴田薫撮影/北村史成、佐藤靖彦〉はんだ・かおる ●ノンフィクションライター。人物、プロジェクトを中心に取材・執筆。『炎を見ろ赤き城の伝説』が中3国語教科書(光村図書・平成18~23年度)に掲載。著書に『下町ボブスレー世界へ、終わりなき挑戦』
2022年05月07日西ゆり子ドラマスタイリストとして活躍するほか、バラエティー・歌番組・CMとジャンルを問わずに活動。個人向けに、理論と実践で「着る力」を学べるスタイリングレッスンも展開。年を重ねるにつれて「ファッションが楽しめない」「何を着たらいいのかわからない」と感じる女性が多い。「そんな大人の女性こそ、服を着ることを楽しんでほしい」とは長年スタイリストとして第一線で活躍する西ゆり子さん。「おしゃれはとびきりのサプリメント。憂鬱な気分を吹き飛ばしてくれますよ」と話す。服には着る人の人生を輝かせるパワーがある西さんは数々のヒットドラマでヒロインの衣装をスタイリング。45年以上この仕事をしてきて、つくづく感じるのは“服にはパワーが秘められている”ということ。「女優のオーラと服のパワーがひとつに溶け合ったときは圧巻。それぞれのパワーが倍増し、驚くほど輝きます」(西さん、以下同)例えば『セシルのもくろみ』(’17年、フジテレビ系)というドラマで、ファッション編集部デスクを演じた板谷由夏さんには、普通の女性では着こなせない柄物トップスに柄物スカートという組み合わせをスタイリングした。「柄を着こなせる強い女性という思いを託しました。服に負けない存在感ある演技は、見た方ならうなずいていただけるはず」また『家売るオンナの逆襲』(’19年、日本テレビ系)でヒロインを演じた北川景子さんには、赤のロングコートに黒と黄色のスヌードを合わせ、色鮮やかな衣装に。天才肌で豪快なヒロインとして輝きを放った。「ファッションは役柄や人間性をわかりやすく表現するもの。それは女優だけでなく、人生というドラマを生きる一般の方も同じ!」自分に何が似合うのかわからないという人は“手に取ってワクワクするもの”を、まずは着てみてほしいと西さん。「赤い服は着たことないけど、このニュアンスの赤はきれいだな……と思ったら、思い切って買っちゃって。自分が惚れ込んだ服を着ていると、『私ってすてき!』とテンションが上がるはず」自分の人生を表現しよう加齢やコロナ禍で気分が落ちている今こそ、服のパワーが必要なのだ。「色合わせ、体形とのマッチなどあれこれ悩むことでおしゃれの感覚が鋭くなっていきます。少しずつでもクローゼットに心ときめく服が並び始めたら、見るたびにすごくワクワクします」特に年をとってからの服選びは、自分の人生を表現するためのものだ。「大事なのは未来に向けて、前向きに“着ることを楽しむ”。なんとなくだけじゃつまらない!あなたというヒロインを輝かせる服探しを、ぜひ楽しんでください」人生輝く!西さんのおしゃれ格言12自分の個性に合った服を着ると顔つきが明るくなって生き方までもが前向きに。1. “服”と“心”は密接な関係50代のころ、一時、暗い色の服ばかりを着ていたら徐々に気力がダウン……。コレではいけないと、再び元気が出る色やデザインの服を着るように。すると、たちまちパワーがみなぎってきたのです。年齢とともに体力や気力がダウンしていくからこそ、アドレナリンを注入してくれるビビッドカラーの服が必要です。2. 洋服は“毎日、考えて着る”ことその日に着る服を選ぶことは“今日の自分をプロデュースする”こと。何をするのか、誰と過ごすのか、そのために何を着たら楽しいのか。毎朝考えることで、感性も磨かれます。年をとっても感性だけはシュッととぎすまされていたいものね。3. 50歳からはおしゃれの第二幕家庭や仕事での役割が一段落。自分を見つめる余裕ができ、この先の人生について考え始めるタイミングが“50歳”。これからの人生の主役は私と自分に言い聞かせて、気になっていたブランドの服を手に取ってみたり、新しい小物を身に着けるなどして殻を破って。4. 似合わないと思っても3回は着てみる初めて挑戦した服で、「やっぱり似合わない?」と1回目は違和感を覚えても大丈夫。2回目には抵抗感が薄れて、3回目には「似合ってる?」と前向きに思えることがよくあるからです。見慣れてしまえば「似合わない」なんてないのです。5. 好きな服は似合う服「好きな服が自分に似合うとは限らない」と心配される方がいます。でも私の経験からいって、好きな服に、似合う似合わないはありません。「似合う、似合わない」の固定観念は不要で“好きだから着る”でよし!6. くつろぎ服こそ自分のためにコロナ禍となってホームウエアを見直しました。おしゃれをして出かけることもできず、ここで手を抜いたら何の楽しみもない。日ごろは着ないような色柄の服など、自分が楽しくなる部屋着を選んでみましょう!7. 手持ちのアイテムと合うかで、服を選ばない便利で着回しがきくというのは、その服が凡庸で無難な証拠。せっかく買うなら着回しよりもトキメキを優先すべし。お金を出して買ったかいがあるというものです。8. 服にはパワーがある素材や縫製の悪い服ではパワーも半減。ファストファッションもいいけれど、服からパワーをもらいたいときは、自分にとって少しだけ背伸びした価格のものをチョイスして。あなたを一段上のステージに引き上げてくれます。9. 10年後の自分をイメージして服を選ぶ「まだバリバリ働いている」「のんびり余暇を楽しんでいる」……どんなところでどんな服を着ている姿が浮かびますか?未来の自分をイメージすれば、今選ぶべき服が見えてくるはず。ちなみに私は80歳になったら、ゆったりとしたワンピースを着ようと思っています。エレガントで仕事場でもなじむと思うから。今からいろいろ目星をつけて、新しい服を着た自分に出会えるのを楽しみにしています。10. 「これでいい」から、「これがいい」へ“好きな服を選べ”と言われても思い浮かばないとき。心躍る服はどれ?今着たいのはどんな服?と、真剣に考えてみます。すると、さびついていたセンサーが、徐々に機能回復!お店に入った瞬間に好きな服が目に飛び込んでくるように。11. 白は、大人を輝かせる最強カラー白は無難で簡単だと思っている人が多いけど、白は着た人をセンターに押し出す「勝負な色」でもあるんです。シャキッとしたオーラが出るから、勝負時には白い靴がおすすめ。トップスに白を選べば顔色が明るく見え、パンツに白を選べば背筋がシャキッと伸びる。大人世代を輝かせる色なのです。12. 今しか着られないと思って“攻め”の服を私は「来年は着られないだろう」と、毎年自分的に“攻めてる服”を着るようにしています。ショートパンツもノースリーブも今年が最後と思いつつ、実際は20年くらい着てますが(笑)。現在の自分を思い切り輝かせる服を選んで楽しんで。お話を伺ったのは「西ゆり子」さん●テレビ番組におけるスタイリストの草分け的存在で、現在もドラマスタイリストとして活躍するほか、バラエティー・歌番組・CMとジャンルを問わずに活動。個人向けに、理論と実践で「着る力」を学べるスタイリングレッスンも展開。<取材・文/樫野早苗>
2022年04月26日篠原勝之さん撮影/伊藤和幸「クマさんの話は、とにかく面白いんですよ」コピーライターの糸井重里さん、イラストレーターの南伸坊さん、俳優の麿赤兒さんら著名人が口をそろえ、そのひょうきんな口ぶりをまねてみせる。新宿の飲み屋から業界に噂が広がり、いつしか「クマさん」の愛称でお茶の間の人気者になった篠原勝之さん。テレビから姿を消したクマさんは、ゲージツ家として新境地を開き、現在80歳。周囲を笑顔に変える話術は健在で、日々の小さな失敗にも笑いをまぶしていた。「ゲージツ家のクマさん」坊主頭で目を細め、周りをパッと明るく照らすこの笑顔に見覚えのある人は『笑っていいとも!』を見ていた世代だろう。粋な着流しに派手なマフラーがトレードマーク。下駄を鳴らしてテレビをにぎわせていたあの「ゲージツ家のクマさん」こと篠原勝之さんだ。タモリや明石家さんま、ビートたけしなど、当時ビッグ3といわれた大物芸人とも共演し、独特の話術でたちまち人気者となったが、いつからか、その姿をテレビで見ることはなくなっていた。今年3月、篠原さんは東京・恵比寿のシス画廊という小さなギャラリーで個展を開催した。ずっしりと重そうに見えるが、持てばすっと手のひらになじむ器が並んでいる。その名は『空っぽ展』。「こりゃナ、茶碗ではなく『空っぽ』だ。何も茶を点てなくたっていい。猫の飲み水入れたっていいゾ。手に入れた人が好きなように使えばいい」取材陣が「空っぽ」の意味を尋ねると、すかさずこう返ってきた。「みんな、なんでも意味を求めるんだ。でもナ、たいてい意味なんてねえんだよ。生きてることだって別に意味はねえ。かといって早く死ぬこともねえ。ただ生きてるから生きてンだ」作品には、番号がふってあるだけ。タイトルも銘もない。「銘なんてつけねえヨ。『空』とか『無』とかしゃらくせえ。だからどれも『空っぽ』だ。土くれをひと握りつかんでナ、丸めて団子をつくってヨ。そのど真ん中に親指を突っ込む。そしたら穴があくだろ。ここに水が溜まる。ホラナ、これが『空っぽ』の始まりだ。目をつぶって指でその穴を広げるうちにオレの中が見えてくる。自分の中が『空っぽ』になっていく気がするんだナ」30年近く山梨の甲斐駒ヶ岳の麓に作業場を置き、「鉄のゲージツ家」として世界中で作品をつくってきた。美術館には収まりきらない、大地に根を下ろす巨大な鉄のオブジェ。だが、3年前に向き合う物質が鉄から土にかわり、1年前に住まいも奈良に移した。ふと思い立って新しいことを始めるのはいつものことだという。「今から陶芸家になろうなんてかけらも思っちゃいねえ。オレは昔っから教わるのが嫌いでナ、誰かがやってるのを見はするが、やるときは自分のやりたいようにやるんだ。気に食わなければつぶして次の土にまぜりゃいい。穴があけば埋めりゃいいだけだ」そう言って穴のあいた素焼きのわんに、半透明のシーグラスを当ててみせる。「普通はこんなデカイ穴があいたら失敗だと思うだろ?でも穴があいたのも何かの導きと思えばいい。こうして、シーグラスをはめ込めば、茶を点てたときに光がスッと差し込む。ほら、おもしれえだろ」30代のころから篠原さんをよく知るイラストレーターの南伸坊さん(74)は、個展の初日にギャラリーを訪れた。会場は、クマさんと話す人たちの弾けるような笑顔に満たされていた。「クマさんは昔も今も変わらない。一緒にいるとみんな朗らかになる。テレビのイメージそのまんま。それにね、ホントにゲージツ家なんです。何かのためでも誰かのためでもなく、自分の中にある『つくりたい』という思いで何かをつくり続けてる」篠原さんは、今年4月で80歳を迎えた。「80歳は未体験ゾーンだな。まあ、幾つでも刻一刻が未体験だ。オレの人生は人から見りゃ失敗ばかりだが、人生も土くれと一緒でナ、わざとやったみたいな顔してりゃ、失敗なんてねえんだナ」失った左耳の聴力と嗅覚昭和17年に札幌市で生まれ、製鉄の街、室蘭で育った。1歳でジフテリアにかかり、隔離病院に入院。太平洋戦争が始まり、物資も不足していた。高熱が出ても病院に抗生物質はなかった。「お袋はオレに死んでほしかったって言ってた。親父は戦争で満州に行ってたから、女手ひとつだったしナ。高熱で頭をやられたら不憫だと思ったらしい。なのに、オレはなぜか生きて帰ってきちまった」奇跡的に助かったものの、後遺症で左耳の聴力と嗅覚を失った。気がついたのは随分たってからのことだ。においがしないのも左耳が聞こえないのも、不便ではあっても、当たり前だった。小学校に上がる前、拾ったガラスのかけらを机に擦りつけ、においを嗅ぐ遊びが流行ったことがある。「リンゴのにおいがするぞ!」と近所の子どもたちが騒ぐ。リンゴのにおいとは何だろう。花の香りや、雪解けの春のにおいもわからない。「トレーシングペーパーを通して世間を見てるみたいな距離感があるんだ。身体だけ大きくて、いつもボーッとして。授業も聞こえねえから勉強も面白くねえ。壊れたやつだと思われて仲間はずれになってたな」外で活発に遊べなければ、ほかにすることもない。手先が器用な母親の内職を手伝った。編んだセーターをほどいて毛糸を丸め、半端な毛糸玉の残りをもらう。編み物や縫い物に夢中になった。父が3交代制の製鉄所から帰ってくる夕刻は、家の空気が一変した。「男が女の腐ったようなまねをするな」元警察官、しっかりした身体つきで力も強い。満州から戻って以来、父の機嫌がよかった記憶がない。家にいる間はとにかく大声で怒鳴りつけられ、力任せに張り飛ばされることもよくあった。「その当時は鬼のようなやつだと思ったが、今考えると、親父も戦争に負けてつらかったんだろう。とにかく、長男が男らしくないのが気に入らないんだ。俺はただやられっぱなし。ぶたれてメソメソしてるだけ。叩かれて痛いのはどうってこたあない。これから叩かれるぞ、という時間が怖くて痛えんだ」安心できる唯一の場所は、社宅の裏の大きなゴミ収集箱。その中にすっぽり入って隠れると、自分だけの特別な空間になった。「入っちまえばこっちのもんだ。節穴だらけで光があちこちから入ってくる。その光を頼りに編み物するんだ。ゴミ箱の内側の壁の光が目の端で動いててよ、ふっと見ると、外の景色が逆さまに映ってた。俺はピンホールカメラの中で編み物してたんだナ」小学校6年生までおねしょが治らなかった。「目が覚めると、また寝小便したなと親父に怒られる。毎日ただ怯えてた。朝が来ても俺には楽しいことなんてひとつもない。生きてることがハナから面白くなかった」その思いはどんどん大きくなり、中学のころ、1人で地球岬へ向かった。「死んでみよう」室蘭駅からバスに揺られて50分。展望台の先に進み、崖っぷちで足元を覗き込むと、100メートルの断崖絶壁。太平洋から押し寄せる波が岩礁にぶつかっている。「ここに落ちたら痛えだろうな─。すぐにおっかなくなって、バスに乗って帰ってきちまった。身体はでかくなったのに、とにかく気が弱いんだ。親父にも反抗できなけりゃ死ぬのも怖い。だから死なずに今まで生きてる。気が弱いのもいいことあるもんだナ」「死ねないなら家を出る」と決心し、学校が終わると室蘭港やセメント工場で土方仕事を始めた。稼いだ小銭の一部を画材に使い、美術部で油絵を描いた。港や工場で働く人を描いたら地元の新聞に掲載された。高校卒業前、3年生の冬休みに家を出た。母親は家の玄関で、内職で稼いだヘソクリをそっと持たせてくれた。「見送りは行かないよ。アンタは泣き虫だから、悲しくなったら手を動かすんだよ」室蘭駅から1人汽車に乗り、函館駅で降りる。冬の津軽海峡を渡り、初めて本州に向かう。上京して何ができるか、先のことはわからないが、あの父親に怯えなくていいことだけは確かだった。「青函連絡船の船底、3等船室に転がり込んだとき、生まれて初めて、晴れ晴れとした愉快な気持ちになった」坊主頭はヘタレの決意それからお金を工面して、東京で美術大学に入った。夜は土方で学費を稼いだ。「高い学費払ってヨ、入ってからもデッサンをさせられる。そのうちにバカバカしくなってやめた。教えられるのも好きじゃねえしな」大学をフェードアウトしてデザインの会社に勤めた。結婚して子どももできたが、会社員が性に合わない。1年で会社を辞めて、その足で理髪店へ行って頭を剃った。「オレが家出したのは、親父から離れて自由に好きな絵を描きたかったから。会社員になりたかったわけじゃねえ」当時、坊主頭はファッションではなかった。道を歩けば大抵の人は目をそらす。「頭剃るのはヤクザか坊さんと決まってた。オレはヘタレだからヨ。またゼニがなくなったら血迷うかもしれねえ。会社員に戻らねえようにって決意だよ」30代半ばまで土方で稼ぎ、売れない絵を描き続けた。6Bから6Hまでの鉛筆を、濃くて芯のやわらかい6Bから順に押さえつけるように塗り重ねていく。小さくなって持てなくなるまで使い切った。「鉛の漆黒が好きだった。鉛筆なら画材も安い。絵を描くことと物語をつくること。それが自分にできる精いっぱいだったから、それをやったんだ」絵本を描いて複数の出版社に持ち込んだが、連絡がない。仕方がないから自費出版で絵本を3冊つくった。街で売り歩いたがまあ売れない。新宿で安酒を飲み、カツアゲされて殴られ、たまに売れた絵本の稼ぎでまた飲んだ。そのうちの1冊の絵本『珍怪魚アニール』が、ある人物の手に渡り、声がかかる。当時、新宿で状況劇場を主宰し、アングラ演劇の旗手と呼ばれていた唐十郎さんだ。状況劇場は根津甚八さんや小林薫さん、佐野史郎さんなどの名優を輩出している。「次の『海の牙』って芝居のポスターを描かねえか」1973年、31歳。そこから6年間、状況劇場でポスターを描き、舞台美術や客入れも担当した。コピーライターの糸井重里さん(73)は数年後に新宿ゴールデン街で篠原さんと仲よくなるが、それ以前に状況劇場でその姿を目にしていた。「坊主頭の男が棒を持って立っててね、『そこ地面が見えてるゾ。詰めろ』って言うんです。紅テントは椅子がないから客を多く入れたいんですよ。そりゃもう、コワかった」唐十郎さんの生み出す戯曲は篠原さんを魅了した。「俺の知らない不思議な世界だ。戯曲ができると唐さんが役者の前で読み上げる。そのイメージでオレがポスターを描く。『ポスターは紅テントの旗印。それをもとに進んでいくんだ』と言われてその気になったんだ」一方、家庭には鬱々とした空気が漂っていた。状況劇場だけでは食っていけない。土方仕事も続けていた。絵で食っていくと腹を括ったもののうまくいかない。「ヨメと子ども2人もいるのによ。稼ぎが足りないのはわかってた。ヨメは普通の人で、働き者だった。オレは、うまくいかねえ自分にずっとイライラしてたんだ」小学校に入り野球をやりたいという息子に中古のグローブを買った。あるとき、そのグローブが庭に放り出してあった。聞けば「野球をやめたい」と小さな声で言う。地元の野球チームは父親が関わらないと試合に出られないと聞いていた。つまらない慣習だった。「やめたい?じゃあ、グローブももういらないんだな」自分の中の衝動が抑えられず、大声を出した。気づけば息子を張り飛ばしていた。「衝動的に息子に手をあげた。オレのいちばん嫌いな親父みたいな部分がオレの中にあったことにハッとした。これ以上一緒にいると家中が壊れてしまう」再び1人で家を出た。最低限の家財道具と、小さくなった鉛筆を入れた箱。段ボール1つに荷物はまとまった。ケンカが強くて面白いやつ糸井重里さんも南伸坊さんも、新宿の飲み屋で篠原さんと親しくなった。土方仕事で筋肉隆々、坊主頭にいつも革ジャン。「ケンカがすこぶる強くて話が面白いやつがいる」と有名だった。糸井さんは初めての会話が印象的だったと話す。「オレに奢る権利がある人間はそんなに簡単にはいねえ。そういう失敬なやつはちょっとぶってやったりするときもあるんだがナ、ま、手が痛くなるから下駄でナ。でも、おまえはオレに奢ってもいいぞ」それを聞いて、糸井さんはすぐに興味を持った。「誰に奢られるかはオレが決めるって、めちゃくちゃカッコいいなと思いましたね。僕はお許しが出たようで、光栄なことです(笑)。それに、ただの暴れ者じゃない。変なやつに因縁をつけられ言いなりになっていた時代があって、“このままじゃダメだと必死で抵抗したら、オレ、案外強かったんだヨ”って笑ってました」南さんも篠原さんの第一印象は怖かったという。「初めて同じ店で見かけたときは、話しかけられませんようにって背を向けてビール飲みました(笑)。でも、ちょっと話せば、みんなクマさんが大好きになりますよね」篠原さんと飲み会を共にした数日後、こんな電話がかかってきたことがある。「この間、深沢(七郎)さんの家で飲んでるときにヨ、南がテーブルの端っこにクリスタルの高いコップを置いてたんだよ。俺はヒヤヒヤしてそっと中のほうにずらしてんのにヨ、南が笑いながら酒飲んで、また際に置くんだナ。参ったヨ。ワハハ」今も時々電話で話をするが、お互いにバカをやってた昔話をして「別に用はないんだがナ」と切るのが常だ。「おおらかに見えるけどこまやかですよね。僕が気づかないようにコップの位置を直して、その場で言わないんだもの。その場のみんなが楽しく過ごせるよう、誰も気づかないように気を遣える人。いろんな人の気持ちがわかる人。だから話も面白いんだろうな」ひとり暮らしとなった篠原さんの家で、南さん、糸井さん含め数人で飲んだこともある。古くて底冷えする家だった。飲み始めてしばらくすると、篠原さんが突然、こう切り出した。「寒いときには火を焚くとかナ、いろんな方法があるもんだ。でもな、この家は構造的に寒い。どこから寒さがきてるかというと地面からだ」酒を飲みながら、みんな真剣にふむふむと聞いている。「畳と地面の間には空間があって、そこに寒さのもとがあるから、畳を剥がしてナ。そこにワラを敷くんだナ」みんなで顔を見合わせ畳を持ち上げ見てみると、本当にワラがぎっしり敷き詰めてあった。「うわ、ホントだ」「すげえな、ワラだ!」と大笑い。「これでだいぶ違うんだ」と篠原さんもドヤ顔だ。「暑いとか寒いとかつらいとか、どんな状況でも面白がる。“この家は寒くて頭にくる”って文句言うのは簡単だけど、そこに腹を立てない。何もしないで嘆くんじゃなくて、自分で手を打って、笑いにもかえる。ネタ作りでわざとやってるんじゃないかと思うくらいです」(糸井さん)篠原さんは飲み屋に行くたびに新しいネタで場を盛り上げ、新宿界隈で飲み歩く作家や編集者、いわゆる業界人の間で評判になっていた。糸井さんは、その座持ちのよさについて、こんなエピソードも教えてくれた。「CMディレクターが、クマちゃんに仕事の依頼をしたんです。出演者でもスタッフでもなく、『ムーダー』で、と言うんですよ。撮影現場の緊張やムードをほぐす『ムーダー』という肩書をクマちゃんのために作ったの。見た目が怖いから意外性もあって、より効果的なんだよね(笑)」篠原さんはそうした日々を『人生はデーヤモンド』というエッセイ集に書いた。タイトルを考案したのは糸井さんだ。篠原さんの話の面白さは、新宿の飲み屋街から飛び出して、たくさんの人の手に届くようになった。『笑っていいとも!』出演秘話「『人生はデーヤモンド』を読みました。面白かった。ぜひお会いしたい」フジテレビ『笑っていいとも!』の名物プロデューサー横澤彪さんから突然、電話がかかってきた。とりあえず会って軽く話をした後、銀座のクラブに連れていかれた。「これがナ、ただ飲ませるだけじゃねえんだ。ホステスとのやりとりを見て話が面白いか確かめてるんだナ。やり手だと思ったよ。オレも偉そうに、“金が欲しいわけじゃねえ”とか“オレはマネージャーです。クマさんは家で寝てます”なんて煙に巻いて帰ったんだ」家に帰ると留守番電話に早速メッセージが入っていた。「横澤です。銀座でマネージャーさんにお会いしました。ご出演お願いできますか」篠原さんはそのころ、日雇いのアルバイトをしながら売れない絵を描き続けていた。ギャラを日払いにすること、肩書を「ゲージツ家」にすることを条件に、『笑っていいとも!』3分のコーナーのテレビ出演が始まった。そのキャラクターと話術はすぐに話題となり、出演番組はどんどん増えた。『ビートたけしのTVタックル』『なるほど!ザ・ワールド』『たけしの誰でもピカソ』─。テレビが元気な時代だった。「いろんな芸能人と共演したけど、収録以外の付き合いはほとんどなかった。テレビでゲージツ家ですって言えば目に留まって依頼が来るかもしんねえだろ。確信犯だヨ。あのころは、チヤホヤされて多少調子に乗ってたナ。でもよ、美術関係のやつらからはちっとも相手にされねえんだ」テレビに出るようになって2年ほどたったころのことだ。大久保通りを歩いていると、解体現場で「羊羹みたいに」バーナーで溶断される鉄を見て衝撃を受けた。厄年、42歳の夏だった。「室蘭は製鉄の街だったから、鉄は大嫌いだったんだけど、“そうか、都市は鉄でできてんだ”と思ったんだ。バブルで街がどんどん解体されて鉄のスクラップがゴロゴロしてた。材料に困らねえ。これだと思って溶接機を買って、自転車を試しにバラバラに切って、鉄の犬をつくったんだ」初めての立体作品だった。スクラップでつくる彫刻に目覚め、借家から倉庫、自動車修理場と場所を移し、墨田区に工場を建てた。美術界から声がかからなきゃこっちから仕掛ければいい。鉄の巨大彫刻をつくるフィールドはサハラ砂漠やモンゴル草原、ダラムサラ─。世界のあちこちで彫刻をつくり映像に残す。それが発表の場だった。自ら企画を立て、テレビ局に持ち込み、番組にした。番組をきっかけに、あちこちから声がかかった。ミュンヘン、ミラノ、北京、ベネチア、ニューヨークでも作品を発表した。北海道から九州まで、今も国内のあちこちに巨大な鉄の彫刻がある。テレビ番組のギャラは海外の特番でも100万円程度。そこに材料費も含まれる。鉄は運搬や設置解体にもお金と人手がかかる。お金は回るが一向に貯まらなかった。隅田川のほとりに10年住んだ後、1995年に山梨の甲斐駒ヶ岳の麓に溶解炉付きの工場を建て移り住んだ。華やかに見える一方、2億円の負債は一向に減らなかった。世界を見る視線がすでに文学者『骨風』という自伝的小説で泉鏡花賞を受賞したのは2015年のことだ。幼少期の父親との葛藤、その父親の最期、認知症の母とのやりとりや、時折金の無心をされていた弟の死、山梨での暮らしなどが記されている。糸井さんはそれを読んで衝撃を受けた。「人が年をとっても、ちょっとずつ斜面を登るように成長していることがその本にあらわれていて、ジンときたの。なんとかしてこれを、みんなに伝えたいって思ったんです」タイトルも表紙も隠して販売する天狼院書店の特別企画で、「糸井重里秘本」として取り上げたところ、1つの書店で1600冊近くを売り上げた。その後『骨風』は、泉鏡花賞を受賞した。「僕は、クマちゃんのつくるものの中で文章がいちばん好きです。クマちゃんは世界を見る視線がすでに文学者。そうやって生きてきた人なんです。そのうえで、昔なら笑いを取ってサービスして、面白い話でおしまいにしていたことを、ちゃんと真顔で文学にした。そのことに感動したんですよ」篠原さんは、「『骨風』は森くんっていう20年来のトモダチにそそのかされて書いた」と言う。篠原さんがトモダチと呼ぶ森正明さん(55)は、文藝春秋の担当編集者だ。「作品も小説も、理屈でつくってないから嘘がない。世間の枠組みや利害関係にとらわれないクマさんと一緒にいるだけで、私も世の中のくだらないことを忘れられる。クマさんに会うと僕が解放されるんです。たぶんクマさんは、たまたま『小説おもしれえな』って思ったタイミングで書いただけ。思惑はないんですよ」『骨風』が形になるまでに10年の月日がたったが、篠原さんにとっても自分を捉え直す機会になった。「『骨風』はオレにとってエポックなんだ。親父が死んで、お袋が死んで、あれを書いたことで何かが大きく転換して今日がある。オレと親子ほども年が違う森くんがよ、オレが書いた原稿を読んで“カッコつけすぎです。腹くくってください”なんて言うんだヨ。でもな、そうして『骨風』を書いて、ウダウダしてたことがやっと吹っ切れたんだ。それによ、賞金で奥歯のインプラントも入れられた。それも森くんのおかげなんだヨ」突然の脳梗塞で救急搬送坊主頭の同い年。篠原さんが「キョーデー」と呼ぶ、今最も親しい人がいる。俳優・舞踏家の麿赤兒さん(79)だ。2人が親しくなったのは10年ほど前のこと。麿さんが主宰する大駱駝艦(だいらくだかん)の公演を、篠原さんが見に行ったことがきっかけだった。「意味は全然わからんが、一生懸命やってるのはいいな」篠原さんはいつもまっすぐにものを言う。それ以来、稽古場にも訪れるようになった。「うちの若いやつが悩みを相談すると、ネガティブなことも一挙にポジティブに転換してしまう。舞台前にコンプレックスで悩んでるやつには“そりゃ財産だなあ”なんて言うし、親が死んだやつにも“いいとき死んだなあ”って背中を叩くようにふっと言葉がかけられる。あれは天性のものだね。相当人を救ってきてるんじゃないかな」2017年、大駱駝艦の45周年記念公演『超人』『擬人』で、篠原さんの巨大なガラス作品を舞台美術として設置することになった。「このガラスが割れたら大変だから、付き添いで来て、ついでに舞台にも出てよ」麿さんの突然の誘いに「踊りは無理だ」と篠原さんは断った。それでも、「歩くのも踊りだ。身体が踊ってる。存在も芸術だぞ」と口説かれ、やってみるかと引き受けた。役柄はマッドサイエンティスト。白塗りにスーツを着て、杖をついて舞台を歩く。「カッちゃん(篠原さん)が舞台を歩く背中には、彼が今まで生きる中で背負ってきたことが滲み出ていた。かっちゃんが“失敗なんかない”と言うのも、僕の“ダメならダメなまま存在させる”というコンセプトに重なります」その舞台をきっかけに、2人はさらに仲よくなった。70歳を越えてからの友人だ。「年をとってから『キョーデー』と呼んでもらえると、絆が固い気がするね。2人して幼児に戻ってふざけたり、時には宇宙論のような深い話をしたりもできる。朝起きてSNSでほかの人と楽しそうにしている写真を見ると、嫉妬してしまうくらいです(笑)。お互い、いい年だ。大事なキョーデーですから、身体も大事にしてもらわないと」元気に見える篠原さんだが、3年前、77歳のころに脳梗塞を経験している。「一歩間違えたら死んでたなと思うよ」新宿で軽く飲みながら仕事の打ち合わせをしているとき、呂律が回らなくなった。「珍しく酔ったね」と言われたが、酔うほど飲んでいない。おかしいなと思いながら2軒目に移動した。そこでも「呂律が回ってないよ」と言われた。そのまま寝たが、朝起きてもまだうまく話せない。休日だった。あいていた近くの脳神経外科にタクシーで飛び込むと、「脳梗塞」で救急搬送された。もう少し遅ければ危ないところだった。場所が少しずれていたら、手足も動かせなかったかもしれない。翌年、経過を検査すると、不整脈の一種である心房細動が見つかった。その血栓が飛んで詰まったのではないかと心臓も手術した。「そのときがきたらジタバタしねえ」2億円の借金は8年前に完済した。脳梗塞をやって、心臓の手術をして、自然に「鉄はもういいかな」と思うようになった。大きすぎると感じていた山梨の工場を引き払い、奈良に移った。鉄、ガラス、土、小説、すべての篠原さんの表現や舞台での存在感に通底しているのは「もののあはれ」だと麿さんは言う。「砂漠に置いた鉄のオブジェはいつか錆びて朽ちていく。それが土にかわって、今回の個展の『空っぽ』というコンセプトになった。彼自身が空っぽになって無に帰するようなところもあるでしょう。そこに、彼のものの見方が貫かれているんだと思います」長年住み慣れた山梨を離れることも、狙いはなく、導かれるように決めたという。「オレは昔っから流浪する要素を持ってんだナ。行く場所行く場所でなじむけどヨ、あるとき風のように去っていく。寂しさもねえんだよ。昔は死ぬことが怖かったけどヨ、このごろは、そのときがきたらジタバタしねえと思うナ。生きている間にどこまで面白いことができるかなと思ってる」個展で数日間東京に滞在していた篠原さんは、奈良に戻ったその足で、鹿野園(ロッキャオ)の作業場に向かった。早速、陶芸窯や土、釉薬についていつも相談している「クサくん」に来てもらう。草葉善兵衛商店という老舗の陶芸専門店、12代目社長の艸葉典久さん(51)だ。「クサくんヨ、この辺りの田んぼの土で焼きたいんだ」「普通はそんなこと考えませんけどね(笑)。そのまま1200度で焼いたら溶けちゃいますから、ブレンドの割合高くせんといてくださいよ」「溶けちゃうか。それもいいナ。失敗しますと言われると、そこにおいしいところが落ちてると思うんだナ」「あはは。普通じゃ考えつかへんことをいつも一緒に考えさせてもらえて新鮮ですわ」「人の話は一応聞くけどナ、言うとおりにはしねえんダ」奈良に住んでまだ1年だが、篠原さんを親しみを持って「クマさん」と呼ぶ知り合いがどんどん増える。東大寺長老とは唯識論の話を交わし、茶の湯が趣味の飲み屋の店長と仲よくなって、隣の無口なお百姓に「鶏をつぶすから食べにきませんか」と誘われる。「オレは鼻も耳も利かねえけどヨ、その分目玉がすげえんだ。砂漠に住むやつらが砂嵐が来るのがわかるように、チラ見で人を見分けられるゾ」前出の自伝的小説の中で「人と暮らす能力に欠けていると薄々思っていた」と綴った篠原さんだが、今、「カカア」と呼ぶ女性がそばにいる。23年ともにした愛猫よりも長い時間を過ごしている。「オレの逃げ足が衰えたんだろうナ(笑)。逃げるってのはエネルギーいるんだよ」土と戯れ夢中になると、作業場に泊まり込む。2、3日家に帰らないことも多い。「いい具合に離れてそれぞれに生きるスタイルなんだ。毎日家に帰らなきゃなんねえなんて、誰が決めたんだろナ」毎日のスケジュールは決まっていない。1日1個はわんをつくり、眠くなったら寝床に入る。3時間寝ると目が覚める。トイレに行くのが面倒で、中庭に立ち小便。「小便しながら見上げるとヨ、満天の星があるんだ。宇宙ってなんだろって考えたりしてナ、それでまた空っぽのわんをつくりながら、宇宙の果てまで飛んでいくんだ」自分の身体と世界の境がなくなり、宇宙と一体化するような感覚だろうか。土をこね、また眠くなれば寝る。朝起きると茶を点てる。空に向かってポカーンと口を開けた中庭には、春の花が次々と咲きはじめ、空からツバメが舞い込んで玄関口に巣をつくりはじめた。「オレのつくるわんなんかより、ツバメの巣のほうがよっぽどすげえ。こうして中庭を見てるとナ、ああ、いいなあと思うんだ。80歳にしてようやく、朝起きるのが楽しみになったヨ」〈取材・文/太田美由紀〉おおた・みゆき ●大阪府生まれ。フリーライター、編集者。育児、教育、福祉、医療など「生きる」を軸に多数の雑誌、書籍に関わる。2017年保育士免許取得。Web版フォーブスジャパンにて教育コラムを連載中。著書に『新しい時代の共生のカタチ 地域の寄り合い所 また明日』(風鳴舎)など
2022年04月24日比留間榮子さん撮影/伊藤和幸「榮子先生と話すと元気をもらえるんですよ!」かかりつけ薬局として利用する多くの常連客が口をそろえる。カウンターに座る比留間榮子さんの姿を見つけてうれしそうにする客、握手をしてパワーをもらって帰るという客などファンも多い。家族のこと、不調、孤独感……薬剤師として、人生の先輩として、どんな相談事にも耳を傾け、“言葉のくすり”で客の心をほぐす。榮子さんが孫とつくり上げた、「峠の茶屋」のような憩いの薬局を訪ねた。“世界最高齢の現役薬剤師”98歳の今も、薬剤師として働く比留間榮子さん。薬剤師歴はなんと、77年の長きにわたる。“世界最高齢の現役薬剤師”として95歳のときにギネス記録にも認定された。榮子さんが働いているのは東京都板橋区のヒルマ薬局小豆沢店。都営三田線の志村坂上駅近くにある調剤がメインのこぢんまりとした店だ。榮子さんの孫で、薬剤師の比留間康二郎さん(42)が店長を務めている。奥のレジにいちばん近い席が榮子さんの指定席だ。カウンターをはさんだ向かいに座る高齢女性に、榮子さんは落ち着いた口調で話しかけた。「自分で歩けるうちは、杖をついても何を使ってもいいから歩かないと。ずっと寝ていたらダメよ」この言葉には榮子さんの実感がこもっている。3年前、骨折して入院。長いリハビリを経て復帰したのだ。「コロナで出歩かなくなったら、日一日と足がダメになっちゃって。歩くのがしんどいんです」女性がそう嘆くと、榮子さんは繰り返し励ます。「私も同じよ。でも、ダメだダメだと思わずに、時間をかけてもいいから一歩一歩ね。ただ、転ばないように無理はしないで」女性は77歳。骨を強くするための薬を受け取りにきた。榮子さんと話すと元気をもらえるので、長年通っているという。「榮子先生は100歳近いのに、お店に出てこられるでしょ。“あー、頑張っているんだ”と思うと、“自分も頑張らねばな”と(笑)。先生を目標にさせていただきます」薬剤師の役目は、処方された薬がこれで本当にいいのか判断しながら、お客様の相談に乗っていくことだ。ただ、薬は日進月歩。しかも、1つの薬に3つの名前がある。先発薬、後発薬、成分名だ。医師が処方箋に書く名前はまちまちなので、すべて覚える必要がある。よく似た名前の薬もあるし、分量を間違えたら命に関わるので、気が抜けない。榮子さんはパソコンやスマホも普通に使いこなす。Zoomで会議に参加したり、LINEで薬局のスタッフと連絡を取り合ったり。IT機器の使い方は、孫の康二郎さんに一から教えてもらったのかと思いきや、みんなに聞きながら自分で覚えたというからビックリだ。「康二郎に何か教えてもらって、また聞くと“この間も教えただろう”って言われちゃうから(笑)。あの人は口が達者だからケンカするときもあるけど(笑)、仲直りもすぐしますよ」お互いに何でも言い合える関係なのだろう。榮子さんが席から立ち上がり歩行器を使って店内を移動する際は、康二郎さんがすっと手を貸すなど、仲のよさがうかがえる。仕事に復帰後、榮子さんが担っているのは接客と服薬指導だ。まず症状を詳しく聞いて、薬の飲み方を伝える。生活を送るうえでの注意も細やかだ。お腹の痛みを訴える若い女性にはこう話していた。「身体を冷やしちゃダメよ。冷たいお水は美味しいでしょうけど、お茶とか温かいものを口にして。ちょっとした気遣いが大事よ」そして、最後にこんなひと言を添える。「何か気になることがあったら、いつでも相談に乗りますからね」いつも明るく前向きな榮子さんには何でも話したくなるのか。薬に関することはもちろん、全く関係のないプライベートな悩みを相談されることもあるという。「娘さんがご主人と仲が悪いとかいろいろ。そんなこと、私だってどうしていいかわからないけど、誰かに言えば気がせいせいするじゃない。だから黙って聞いています。この人、また同じことをしゃべっているわと思うこともあるけど(笑)。でもね、どんな話でも聞いてあげるのが大事なの。高齢で夫婦のどちらかが欠けて1人になると、話し相手がいなくなるでしょう。言葉も忘れちゃいそうだという人は多いもの」薬局で湿布や塗り薬を処方されても、患部が背中や腰だと手が届かないと悩むひとり暮らしの人は多い。そんなときは、「ここで湿布を貼っていきますか」と声をかけ、手伝うこともあるそうだ。地元の人から必要とされる場所にヒルマ薬局の入り口には暖簾がかかっている。道行く誰もが立ち寄って休んでいける“峠の茶屋”みたいな場所になれたら─。そんな思いが込められているのだという。薬局が茶屋なら、榮子さんはさしずめ看板娘か。長年のファンもたくさんいる。「おばあちゃんさ、シュークリーム買ってきたから食べて」榮子さんに差し入れを持ってきたという男性(77)がいた。糖尿病と心臓の薬をもらいに何年もヒルマ薬局に通っている。楽しみは榮子さんに会うことだと笑う。いつも榮子さんとどんな話をしているのかと聞くと、男性は少し考えてこう答えた。「僕は糖尿だから、“(食事制限があって)かわいそうだけど、好き嫌いはしちゃダメ、ちゃんと3食食べなさい。好き嫌いをしていると心臓にも悪いよ”と。ニラが嫌いだったけど、健康にいいんだよと言われて、食べるようにしました。僕にそんな話をしたことは、もう忘れていると思うけど(笑)」忙しそうな榮子さんの様子を見て、男性は持参したお菓子を康二郎さんに渡した。そして帰る前に、カウンター越しに榮子さんの手を握ると、明るく声をかけた。「また来るから。元気でね」取材に訪れたのは土曜日。午前中から昼過ぎまでは処方箋を持った人が次々やってきて、榮子さんも接客に追われていたが、近隣の病院が閉まる午後になると、店内は落ち着きを取り戻した。人波が途切れても、康二郎さんやほかの薬剤師たちは薬の調合をしたり電話の応対をしたりと忙しい。仕事をするうえで、どんなことを心がけているのか聞くと、康二郎さんは丁寧な口調で説明してくれる。「新しい薬が追加されたときは飲むのが不安になる方もいるので、“体調はどうですか?”とこちらから電話やメールをして、フォローするようにしています。複数の診療科にかかっていて薬がたくさん出ている方は、飲み間違いや飲み忘れがあったりするので、1回分ずつまとめる“一包化”の提案もします。飲み合わせの悪い薬もあるので、お薬手帳は持ってきてくださいと声をかけています」丁寧な対応が信頼され、かかりつけ医ならぬ、“かかりつけ薬局”として通う人が多い。常連客の中にはお礼にと、旅行のお土産や段ボールいっぱいのジャガイモを持ってきてくれた人もいるそうだ。「私たちにとっては当たり前の対応をしているだけなのに、それを喜んでくださるお客様が多いので、すごくうれしかったし、薬剤師をやっていてよかったなと思いますね」夕方4時。認知症の母親の介護について相談があるという女性がやってきた。対応するのは康二郎さんだ。話は1時間近くに及んだのに相談料などはもらっていないという。その理由を康二郎さんはこう話す。「次回は処方箋を持ってきてくださることもあると思うし、認知症の相談をきっかけに、つながりができればいいのかなと。この地域になくてはならない、地元の人たちに必要とされる場所になりたいと思っているんです」「東京の空が真っ赤だった」まさに峠の茶屋と駆け込み寺がミックスされたような、ぬくもりと安心感のあるヒルマ薬局。実は、創業100年近い老舗だ。榮子さんの父が大正12年(1923年)に豊島区で開業。同年に生まれた榮子さんは薬剤師である父の背中を見て育った。4人姉妹の長女の榮子さんは女学校を卒業し、’41年に東京女子薬学専門学校(現・明治薬科大学)に進んだ。その年の暮れに日本は真珠湾を攻撃し戦争に突入する。「当時は女学校を出るとお茶やお裁縫を習ってお嫁に行くのが普通だったけど、軍需工場ができて女性も勤めるようになってきたの。それで私は漠然と、薬のことを勉強したら何かの役に立つかなと。父に薬剤師になれと言われたことはないけど、自分で決めたんです」’44年に卒業して製薬会社に勤めたが、戦争は激しくなる一方。米軍爆撃機B29が頻繁に偵察に飛んでくるようになり、父の故郷である長野県上田市に母や妹たちと疎開した。ぎゅうぎゅうの信越線に乗り6時間かけて父の実家に到着。その2日後、夕飯を食べて妹と外に出ると、東京方面の空が真っ赤だった─。「夜なのに星も見えない。オレンジっぽいようなきれいな赤一色なの。音は何も聞こえないから、まさか東京への空襲とは夢にも思わなくて……。そのとき父はまだ東京にいたんです。逃げる途中で目の前に焼夷弾(しょういだん)が落ちて、もろに当たった人がバタッと倒れたけど、助け起こす人は誰もいない。みんな自分が逃げるのに必死だったと言ってました。戦争は本当に怖い。二度と起きてほしくないと思います」そのまま終戦を迎える。お金があっても役に立たず、食料は物々交換でしか手に入らない。薬品のサッカリンは砂糖の代用品として使われていたので米と交換したり、慣れない畑仕事をして野菜を作ったりして、日々生き抜くのに精いっぱいだった。「薬剤師の父が目標だった」疎開先で結婚した。相手は7歳年上の従兄で、榮子さんは22歳だった。幼いころから夏休みに上田に帰郷するたびに一緒に遊んでいて、気心も知れていた。終戦の翌年には父や夫と東京に戻る。池袋に小さな家を建てて自宅兼店舗にして、ヒルマ薬局を再開した。「父はどこで材木を探してきたのかと思うくらい、周りはきれいに焼けちゃって何もなかったの。遠くに焼けずに残った緑が見えて、おそらく皇居や上野の森あたりでしょう。その間からチラッチラッと海が見えたの。嘘みたいだけど、本当の話よ」榮子さんの夫も薬剤師で、3人で休むことなく働いた。当時は体調を崩すと、まず薬局に来る人が多かった。「熱が出た」「頭が痛い」「吐き気がする」など症状を聞き、調合した薬を薬包紙に包んで渡す。それを3日間飲んでも症状が改善しなかったら、また来るように伝え、必要があれば病院を紹介した。「そのころは今のように、お医者さんがたくさんいるわけじゃないから、病院を紹介するのも薬局の役目でした。近所の人が相談に来ると、父は親切に話をよく聞いてあげていましたね。だから、みなさんからとても頼りにされていたの。そんな父を尊敬していたし、父が目標でした」まさに今の榮子さんと同じだ。そう言うと、榮子さんは「自分はそこまでは」と控えめに笑う。近くに戦犯を収容した「巣鴨プリズン」があり、薬を届ける父についていったことがある。一緒に中に入り、診療所で父と医師が話している間、榮子さんが廊下に目を向けると、囚人が2人1組で歩いているのが見えた。「お巡りさんが付き添って手錠をはめられていたけど、堂々として、いい顔をしているのよ。あんないい顔をしているのに、どんな悪いことをしたんだろう。そんな変なことを考えながら、眺めていましたね」激怒した客も放っておかない23歳で長男を、26歳で長女を出産。母になった後も、育児は住み込みのお手伝いさんに任せて、榮子さんは店に出て働いていた。長女の山口啓子さん(72)に寂しくなかったのかと聞くと、「全然!」と笑って否定する。「私が小さいころは母の3人の妹たちも一緒に暮らしていて、とっても可愛がってくれたので、私は叔母さんたちに育てられたかなーと思うことがあります(笑)。家の中をお掃除しながら、みんなで合唱したりして、にぎやかで楽しかったですよ。父も温和な人だったので、私は自由気ままにやっていました(笑)。母たち4人姉妹は今でも仲がよくて、大阪に嫁いだ私が年に何回か帰省すると、母の鶴のひと声でパッと集まってくれます」子どもたちに薬剤師になれとは一度も言わなかったが、長男の英彦さんは薬剤師になった。英彦さんの妻の公子さん(74)も薬剤師だ。’78年に創業者の父が亡くなった後は、夫や息子夫婦と池袋本店を切り盛りしてきた。事業拡大のため、’91年に英彦さんが小豆沢店を開店。公子さんと交代で通うようになった。ところが、オープンして間もなく、予期せぬ事態に見舞われる─。働き盛りの英彦さんが脳溢血で倒れて救急搬送。命は取り留めたが、介護が必要な状態になってしまったのだ。当時、69歳だった榮子さんは池袋本店を公子さんに任せて、自分が小豆沢店に通うことにした。「パパ(英彦さん)が倒れたとき、下の孫の康二郎はまだ中学1年生でした。学校から“ただいま”と帰ってきたときに“おかえり”と言ってあげるのは、お母さんじゃなきゃいけないと思って、自然に店を入れ替えちゃったのよ。孫たちのことがいちばん気がかりだったから、それでよかったと思いますよ」あっさり言うが、相当な苦労があったはずだ。乗り越えられたのは榮子さんのおかげだと、公子さんは感謝を口にする。「お義母さんがいなかったら、うちはやっていけなかったと思います。それまで私は店の経営には全然タッチしていなかったので、当時の決済に必要だった小切手の切り方も知らなくて(笑)。いろいろな方に教わりながらどうにかこなしましたが、夜遅くまでかかってしまって。お義母さんが小豆沢店を閉めて帰ってきて、私がまだ仕事をしていると、“手伝ってあげるわよー”と疲れ知らずにやってくださったので、本当に助かりました」息子が倒れた3年後には夫が逝去。榮子さんはスタッフの助けも得て、それ以前にも増して精力的に仕事をこなした。あるとき、高齢の男性客が怒って帰ってしまったことがある。朝、処方箋を出して後から取りにきたが、店内が混み合い、すぐ薬を出せなかったのだ。榮子さんは自宅まで出向いて謝ったのだが、追い返そうとする。何か事情があるのではと粘り強く話を聞くと、「数か月前に妻を亡くした寂しさと慣れない家事でイライラしていた」と打ち明けてくれたそうだ。責任感が強く中途半端なことが嫌いな榮子さんらしいエピソードだが、決して仕事一辺倒ではなかった。息を抜くのも上手だったと話すのは、長女・啓子さんの夫の進さん(74)だ。「仕事が一段落したときには、少々ぜいたくなものを食べに行ったり、買い物をしたり。啓子を連れてヨーロッパなど海外にもよく旅行に行っていましたよ。義母は仕事も息抜きも、振り幅が大きいというか、そうやって自分にごほうびを与えて楽しむことで、大変な仕事を長年続けることができたんだろうなと、サイドから見ていて思います」被災地ボランティアで決意榮子さんが必死に守ってきた小豆沢店で、孫の康二郎さんが働き始めたのは15年ほど前だ。康二郎さんにとって、幼いころは薬局が遊び場だった。スタッフの人たちとご飯を食べたり、遊んでもらったりするのが楽しかったという。「調剤室には入るなと怒られましたが(笑)。両親は自分のことを医者にしたかったみたいだけど、高校3年のときに家を継ごうと思ったんです。父が倒れて母親とおばあちゃんが女手だけで頑張っているのをずっと見てきたので」現役のときは医学部も受けたが不合格。浪人して東京薬科大学に進んだ。卒業後は日本大学医学部附属板橋病院に研修生として10か月勤務し、国立成育医療センター(現・国立成育医療研究センター)に就職した。1年半たったところで榮子さんが体調を崩し、ヒルマ薬局に戻ってきてほしいと頼まれた。小豆沢店で働き始めて3年後、31歳のときに東日本大震災が起きる。宮城県気仙沼市の被災地で薬剤師のボランティアが必要だと、康二郎さんに声がかかった。「うちの両親からは、何があるかわからないと止められたんですよ。でも、おばあちゃんだけが、“別に戦争みたいに死ぬために行くわけじゃないんだから、行ってらっしゃいよ”と応援してくれて」現地では40代後半の女性看護師とともに被災者の対応に奔走する。1週間の支援活動を終える日に、看護師が泣きながらあいさつに来た。その日の朝、行方不明だった夫が生きていると連絡があったのだと涙の理由を明かしてくれた。「残念ながらお子さんは亡くなっていたんですけど、自分も被災して家族の生死がわからない中で、なんで看護師として働けたのかと聞いたら、“自分は看護師という資格を持っている以上、何かあったときはきちんと力を尽くせる自分でありたい”とサラッと言われて。その言葉を聞いて、自分はそれまで薬剤師として何をしてきたんだろう。薬剤師として何ができるんだろうと考えるようになったんです」東京に戻ってからも模索を続けていると、薬局のスタッフから「ドリームマップ」というものがあるから、やってみないかと提案された。ドリームマップとは、それぞれの夢を写真やイラスト、文字を使ってビジュアル化することで、夢を実現しようというもの。まず個人のマップ作りをしてみたら思いのほか楽しかったので、みんなで店用のドリームマップも作ることに。「広い休憩室が欲しい」「お店を改装したい」など、たくさんの夢が書き込まれた。その中にあったのが、「榮子先生をギネス記録に」という夢。康二郎さんもそれはいいとすぐ賛同したそうだ。「自分たちのような一般人が一つの仕事を長い間やっても称賛される機会って、そうそうないじゃないですか。でも、うちのおばあちゃんがギネス記録に認定されたら、世の中にたくさんいる、頑張っているおじいちゃん、おばあちゃんたちを元気づけられるかなと。それに、薬局ってこういうところなんだと全国の方に知っていただけるいい機会になると思ったんですよ」そのとき榮子さんは88歳。ギネス記録を調べてみると、南アフリカに92歳の現役薬剤師がいた。榮子さんもあと5年働けば記録更新できたが、申請するだけで100万円以上必要だと知り、さすがに無理だと一度は諦めた。クラファンでギネス挑戦へ「クラウドファンディングで申請資金を集めたら」たまたま教えてもらった方法で、ギネス記録への夢が再び動き出す。申請資金として寄付を募ってみると、全国の人たちから寄せられたお金は182万5千円に!そして、2018年11月23日。榮子さんは95歳17日で、世界最高齢の現役薬剤師と認定された。反響は大きく、テレビや新聞などの取材が殺到。一躍有名になり、エッセイ『時間はくすり』も出版した。《「ありがとう」は最高のくすりです。「ありがとう」が幸せを連れてきます》《生きる意味を考えなくてもいい。どの命も、生まれただけで尊い》《いきいきと過ごす姿を見せる。それが先を生きる者の責任かもしれません》本に書かれている言葉は、榮子さんが薬局でいつも口にしている言葉でもある。「本当に当たり前のことしか書いていないのよ」と謙遜するが、多くの人の心に届いた。ところが、ギネス記録に認定された翌年、榮子さんに大きな試練が訪れる─。池袋の自宅から板橋の薬局への行き来は、近所に住む康二郎さんがタクシーに乗って迎えに来て、帰りは送ってくれる。その日も、いつものようにシートに座ったら、榮子さんの足に痛みが走った。「あーまたやっちゃった」その瞬間は、そこまで大ごとだと思わなかったのだが、右股関節にひびが入っており、もともと入れていた人工股関節を取り出す手術を受けた。リハビリ専門病院に転院し、入院は3か月に及んだ。ベッドに横になりながら、榮子さんはつくづく実感したそうだ。「働けるってことは幸せなんだなー」退院して自宅に戻った後もリハビリは続く。《歩くときはお腹に力を入れて》《(ケガをした)右足を着くときは、かかとから足の先まで全部に力を入れて》理学療法士の指示を紙に書いてもらい、歩行器を使って廊下を何回も往復した。「最初はお食事も部屋まで持ってきてもらったけど、歩けるようになってからは自分で階下に食べにいくようにしました。面倒くさいと思うけど、やっぱり歩いてあげないとね。足のほうも言うこと聞いてくれないもの」退院して1年8か月後には仕事に復帰。最初は週1日から始め、今は週2日のペースで出勤している。そばでずっと見守ってきた公子さんは、榮子さんが弱音を吐くところは一度も見たことがないという。「義母はお店が大好きだから(笑)。康二郎さんも、お客さんも待っているし、お店に行きたいという思いで頑張ったのだと思います」横で聞いていた榮子さんは唐突に不満を口にする。「長靴を買ってと言っても、公子さんは買ってくれないのよ」公子さんは笑いながら、その理由を教えてくれた。「雪の日もお店に行こうとするから(笑)」「私が転んだら周りの人が大変だものね」榮子さんは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。認知症家族の夢を叶えた教室ドリームマップの導入をきっかけに、ヒルマ薬局で新たに取り組み始めたことは、ギネス挑戦以外にもいろいろある。その1つが5年前に始めたフラワーアレンジメント教室だ。講師の資格を持つスタッフの渡邊清子さん(58)が書いた夢を、康二郎さんが後押しして実現した。毎月第4土曜日の午後3時から店内で行われている教室を見せてもらった。この日の参加者は3人。76歳の女性は3回目の参加だという。「たまたま土曜日にお薬を取りにきたら、お教室をやっていて、まあ素敵!と。上達とかよりも、楽しく気軽にできるのがいいわよね」渡邊さんが用意した桃の花やチューリップ、ガーベラなどを思い思いにアレンジしていく。30分ほどで華やかな花籠が完成した。認知症カフェを兼ねているので、当事者やその家族が参加することもある。榮子さんと康二郎さんは、ある高齢女性の喜ぶ姿が忘れられないと口をそろえる。その女性は、夫が認知症になってから怒りっぽくなり悩んでいた。康二郎さんたちはお客にもドリームマップへの参加を呼びかけており、女性はこんな夢を書いた。「お父さん(夫)ともう一度笑顔で食事をしたい」あるとき、女性は薬を取りにきたついでにフラワーアレンジメント教室に参加。その花を持って帰ると、夫に変化が表れた。「どこに行くんだ」それまでは女性が出かけようとすると束縛するので外出もままならなかった。そんな夫が花を見て笑顔を浮かべて喜んだのだ。夫は自分で花に水をあげるようになり、それ以来、女性がヒルマ薬局に行くときは快く送り出してくれるようになった。昨年、夫は亡くなったが、「ちょっとでもお父さんが笑顔を取り戻せてよかった」と女性は感謝を口にした。「本当は涼しいところに置くとお花が長持ちするんだけど、お仏壇の見えるところにお花を飾っているのよ」今も女性はほぼ毎回、教室に参加して、講師役の渡邊さんにこう話しているそうだ。渡邊さんは喜んでくれる人がいる限り、教室を続けていきたいと張り切っている。「美味しいものが食べたい」ドリームマップにこんな夢を書いた女性客もいる。89歳の女性は夫を亡くしてひとり暮らし。歯が悪くて食べ物をうまく噛めないが、どこの歯科医に行っていいのかもわからないという。康二郎さんたちが歯科医を紹介して治療を開始。長い時間がかかったが、また好きなものを食べられるようになり、とても喜んでいたそうだ。理想の生き方、理想の死に方ドリームマップでお客との距離を縮めて、創業以来の親身な応対で心に寄りそう。そうした努力の積み重ねで、地域の人たちに愛される場所になってきたのだろう。これらの取り組みが評価され、’17年に「第1回みんなで選ぶ薬局アワード」で最優秀賞を受賞した。同賞は創意工夫している薬局を表彰するもので、全国からたくさんの応募があった中から、ヒルマ薬局が選ばれたのだ。「おばあちゃんが100歳を超えたら、もう一度ギネス記録に挑戦したい」康二郎さんは新たな夢を抱いている。だが、当の本人は記録にも長生きにもあまり興味がないようだ。「私はここまで長生きしたんだから、もう明日でも、いつ死んでもいいのよ。行きたいところにも行ったし、後悔は何もないもの。家族が朝起こしにきたら、もう一生を終えていた。そういう死に方がいいなーと思う(笑)」老後を心配して、くよくよ悩んでいるお客がいると、榮子さんはこんな言葉をかけている。「先のことは、どういうふうに変わるか。それこそ、地震でもくればわからない。戦争でも起きればわからない。今だってロシアとウクライナは、どうなっちゃうか……。考えてもわからないのだから、今のことを考えて幸せに暮らせればいいんじゃない」一日が終わったら、ごほうびのビールを飲むのが、今の榮子さんの楽しみだ。そして、次の朝、目が覚めたら、今日もまた生かされていることに感謝して、みんなが待つ薬局に向かう。〈取材・文/萩原絹代〉はぎわら・きぬよ大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。’90年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。’95年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。
2022年04月17日日本臓器製薬「コフト顆粒」CMより 「風邪に効くゥ!!」でおなじみの日本臓器製薬『コフト顆粒』のCM。誰もが一度は目にしたことがあるのではないだろうか。外国人のタレントを起用、セリフはたったひとことだけ、音楽は一切なし……と数多く流れる製薬会社のCMの中でも“どシンプル”かつ、独特な雰囲気を醸し出している。他社では有名女優や一流スポーツマンを起用したりしているが、あの「風邪に効くゥ!!」で有名なあの人はいったい誰なのかーー。キムタクのドラマにも出演していた!「弊社の CM に起用させていただいているタレントさんは、オーストラリア出身のウォルターアントニー(Walter Antony)さんです。木村拓哉さん主演のドラマ 『HERO』にも出演されていました。弊社以外にも『日清焼きそば UFO』 や『カビキラー』といった CM に起用されたご経歴をお持ちの方です。弊社のCMには2012年よりご出演いただいています」そう話すのは、日本臓器製薬の広報担当者。アントニーさんは、『ザ!世界仰天ニュース』(日本テレビ系)の再現VTRでおなじみ、ドラマでは『義母と娘のブルース』(TBS系)ほか、UVERworldのPVなどにも出演したこともある。そして日本臓器製薬のCMには10年も出演しているというから驚きだ。なぜ、アントニーさんが起用されたのか?斜め上を行くCMの秘密を聞いた。* * *CM業界全体を見渡せば、外国人のタレントが出演していることはもはや当たり前のこと。だが、製薬会社のCMに絞ってみてみると、なかなか珍しい。なぜ“あえて”の人選としたのだろうか。「海外のタレントさんはジェスチャーなどを織り交ぜて痛みや症状改善シーンをより分かりやすく自然に表現されるからです。その中でも、ドラマやバラエティー番組でご活躍されているアントニーさんにご出演いただくことで、視聴者様の興味や関心を惹きつける狙いがありました」(同・広報担当者)その狙い通り、ツイッターなどでは「クセになる」「シンプルなのにインパクトすごい」「あの俳優さん誰なんだろ?」との反響がみられる。一方、放映開始当時の社内での評判はとういうと、「社内においても、一時は“あのタレントさんはどなた?”という話題はありました。しかし、その意図が明確であったことや、インパクトがあるCMだったため、今ではみんな納得して誇らしくCMを見ています」と担当者。実はCM放映当初から、タレントはアントニーさんを起用しているという。だが最近、SNSでは「CMが変わってしまった!」という声がチラホラ。CM終了の声も聞こえてくるがーー。「CMの内容は放映当初より変更しておりません。アントニーさんには『コフト顆粒』のほか、『ラックル速溶錠』『漢方ラックル顆粒』の CM にも出演していただいています。おそらく他の製品の CM をご覧になられた視聴者様が、変わったと思われたのではないかと思います」(以下、同・広報担当者)なんとアントニーさん、さらに2製品のCMにも出演していた……!さらに最近では、女性の外国人タレントの起用も。担当者は「症状や薬の効果をより分かりやすく伝えるための表情や、迫真の演技に注目していただければ」と話す。また、アントニーさんのCM撮影では、こんな微笑ましいエピソードも。「“風邪に効く”のシーンを撮影したときのことです。アントニーさんがドアを開けて“風邪に効く”と言うのと同時に、サッカーボールを蹴るジェスチャーをされました。元気になったことをイメージされているのかと思ったのですが、やはり違和感があるので、アントニーさんにジェスチャーの意味を尋ねてみたんです。すると、アントニーさんは“効く”を“Kick”だと思われ、風邪を蹴り飛ばしておられたとのことでした(笑)」結局、そのジェスチャーは採用されなかったが、撮影現場はなごやかな雰囲気に包まれたという。「BGMなし」の理由そしてこのCMのもう一つの特徴といえば、音楽が一切ないこと。CMといえば、BGMがつきものだが、これらCMは「無音」。字幕と音声のみだ。ある意味、かなりシンプルでわかりやすい。「そうおっしゃっていただけて光栄です。15 秒という限られた時間の中で、視聴者のみなさまにお伝えしたい情報に限定して表現する、という方針で CM を制作しております。どういった症状に効くか、製品名は何か。どのような効果が得られるかということについて、音声と文字、イメージ画像で表現しますので、BGMはあえて使用しないことにしているんです」さらに、CM制作にあたっては、こんな「こだわり」も。「CM は構想の段階から、撮影・ナレーション収録・編集にわたるすべての段階で、視聴者のみなさま、そして弊社の製品を使用してくださるお客様の目線に立って、伝わりやすさやインパクトを突き詰めて、何度も調整を行いながら制作しています。お薬を使用される方は、少なからずお身体がつらい状況で、さまざまな不安を抱えておられます。弊社の製品を手に取っていただくからには、ご自身の不調に対して安心してご使用いただけるよう、明確に使用目的をパッケージに記載し、それが伝わるということをモットーにしているんです。CM においてもこの考えのもと、社長はじめ社員一同、制作に携わっております」 「風邪に効くゥ!!!」のシンプルかつユニークなCM。たった15秒の映像だが、そこには製薬会社としての思いが秘められていた。流行りや目立つことにとらわれない、今後も“逆に目立つCM”を期待したい。
2022年04月11日吉岡祐一さん撮影/齋藤周造4月4日に一周忌を迎えた脚本家・橋田壽賀子さんの代表作で、NHK朝ドラの金字塔『おしん』。その国民的ドラマで活躍した実力派俳優が今、60代にして再び夢を追いかけ、役者の道を歩み始めている。極貧農家の長男、青年将校、お堅い銀行員……、さまざまな役を演じ、見るものに鮮烈な印象を与えてきた吉岡祐一さんは、行列のできるクレープ店の経営者という異色の経歴を持つ。表舞台から姿を消してなお、芝居への情熱を絶やさなかった吉岡さんの「諦めない生きざま」に迫る。* * *東京・西新宿。高層ビル街を抜け、山手通りの清水橋交差点に達する少し手前、大きな建物が立ち並ぶ通り沿いに、キッチンカーを改造した小さなクレープ店がある。『クレープリー シェルズ・レイ』だ。経営する吉岡祐一さんが窓から顔をのぞかせ、笑顔で「いらっしゃい」と声をかける。注文を受けると吉岡さんは最高級の小麦粉を使った生地を専用の焼き器の上にのせ、クレープ用トンボで手早くのばしていく。そして、ミルキーでなめらかなクリームや新鮮なフルーツを薄く焼き上がった生地の上にのせ、慣れた手つきで熱々のクレープをたたんで紙製の容器に入れ「はい、どうぞ」と客に手渡す。香ばしく焼けたクレープの表面はサクサクとしていて、内側はふわふわ、モチモチ。中に入れるカスタードやチリソースなども手作りし、普段使っている材料が手に入らないときは店を休んでしまうこともあるという。食の安全とおいしさに妥協しない姿勢は、吉岡さんのポリシーだ。おいしいクレープを受け取った客はみな、笑顔になる。しかし、それを焼いた吉岡さんが、NHK連続テレビ小説の名作『おしん』で、主人公の兄・庄治を演じた実力派俳優であることに気づく人は、ほぼ誰もいない。それもそのはずだろう。吉岡さんはあるときを境に、表舞台から姿を消したのだ。サッカー少年を魅了した演劇との出会い吉岡さんは1955年、熊本県熊本市で生まれた。水前寺公園にほど近い場所で育ったわんぱく少年は、中学からサッカーを始める。「高校1年生でレギュラーに選ばれて、インターハイの県予選でいいところまで行ったら、なんだか飽きてしまって。ボールを追いかけて泥まみれになるの、嫌だなと思って、やめてしまったんです」部活をやめた原因はもう1つあった。両親の離婚だ。「練習が終わって、疲れて家に帰ってくると、親父が不貞腐れて寝ているんですよ。それを見るのが嫌で」父と2人暮らしとなり、家に帰りづらくなった吉岡さんは、あり余る時間をつぶすため映画を見るようになる。「あるとき、リバイバル上映で『戦場にかける橋』を見たんですよ。そしたら映画館を出たあと、わけのわからない感動が込み上げ、涙もバーッと出てきた。それで演劇をやりたい、と思ったんです」吉岡さんには年の離れた姉が3人いて、すぐ上の姉が高校卒業後、役者を目指し上京していた。「姉は演劇の本を読み、日本舞踊や琴をやったりしていて、“私は芝居の世界に行くんだ”っていう意識が子どものときから強かったんです」そんな姉が残していった、名優・宇野重吉の著作『新劇・愉し哀し』などを読んで、演劇の世界を知った吉岡さん。すぐに自作自演の一人芝居を手がけ、高校生が対象の演劇コンクールに出場する。「そうしたら審査員の先生方がビックリして。それで熊本で活動する劇団『石』に入って、大人に交じって芝居をやるようになったんです。夜中にジャズ喫茶でチェーホフの戯曲をやったこともありました。ませていましたね」さらに吉岡さんが演劇へ傾倒する体験もあった。劇団『文学座』が巡業で熊本へ来て、テネシー・ウィリアムズの戯曲『ガラスの動物園』を上演したのだ。吉岡さんはこのとき、知り合いから頼まれ、出演者の手伝いをするなど身近なところで演劇に触れた。のちに『おしん』で共演する高橋悦史さんの演技には、特に心を打たれたという。ますます芝居にのめり込み、所属する劇団の公演で観客からたくさんの拍手をもらった。周りの大人たちからは「吉岡くんすごいな、役者に向いているよ」と褒められた。気持ちは固まった─。東京へ行って、役者になりたい。高校3年生になった吉岡さんは、思い切って正直な気持ちを父親にぶつけた。「役者になりたか」「なんば言うとか」「やりたかけん」「おまえがやったところで、ものになるような世界じゃなかろうが」「それはわかっとうばってん、やりたかけん!」……。3時間粘ったが結局、許してもらえなかった。高校卒業を間近に控えたある日、父親が再婚した継母と些細なことから衝突した。吉岡さんはバッグひとつで家を飛び出し、熊本から電車を乗り継ぎ、東京の姉のところへ身を寄せた。このまま東京で役者になる……、そう決意した矢先、実家から謝罪の電話があり帰郷することにした。「それで大学の試験を受けさせてもらえることになって、たまたま受かって。だから僕、高校の卒業式には出ていないんですよ」(吉岡さん)上京、入学、中退……本格的な役者の道へ1974年、18歳の吉岡さんは桐朋学園短期大学に演劇専攻9期生として入学する。「西調布にあった安い風呂なしアパートを借りて、仙川の学校まで通っていました。僕はそれまで大人に囲まれて芝居をやっていたから、学校でもひとりだけ生意気で。そんなに周りとペラペラしゃべらなかった」吉岡さんの2期上には、俳優の観世葉子さんが在籍していた。観世さんが振り返る。「私の仲のよい同級生が吉岡くんと親しくて、その関係で知り合いました。とても自然体で、最初からお互い気を遣わずに接することができた、気持ちがいい人。それは今も変わらないです」自主公演で折口信夫の『死者の書』を企画した観世さんは、吉岡さんに声をかけた。「“やってくれない?”と頼んだら、すぐに“うん”と引き受けてくれて、道具を組むのも吉岡くんがやってくれたんです。でも若さの勢いとはいえ、よくあんなわけのわからない作品をやってくれたなと(笑)。吉岡くんはキリッと演じてくれましたよ」卒業後は音信が途絶えたが、のちに『おしん』で共演することに。観世さんは、おしんの夫の兄嫁・田倉恒子を演じた。「まったく違うパートだったので撮影では会わなかったけど、名前を見て、芝居をやってるんだなと安心しました。吉岡くんの芝居は理屈でこね回したりしないで、自分の感性でスッと素直に役に入っていけるんです。だから最近、再会して役者をやめていたことを知って、ずっとやっていけそうな人だったのに、と思っていました」1年生のときから学内で注目されていた吉岡さんは、自主公演で安部公房の作品『時の崖』を取り上げる。主人公のボクサーが、試合でKOされてしまう一人芝居だ。「役作りで3か月、ボクシングジムへ通いました。結構強かったみたいで、ジムの人に“プロテストを受けないか?”と言われ、あわててやめたほど(笑)。『時の崖』は練習風景から始まって、ずっとシャドーボクシング、試合のシーンまで舞台に出ずっぱり。40分の間、衣装はグローブとパンツとシューズだけで《向うの崖を落ちるか、こっちの崖を落ちるか、それだけのちがいじゃないか……》などと延々言い続けるんです。いやあもう、キツかったぁ」舞台は成功。先輩たちから激賞され、打ち上げ後も興奮冷めやらず、学校のグラウンドを雨の中、ワーワーと吠えながら走り回ったという。「濡れた服を着替えて、雨のグラウンドを見つめていたら、本当にシュウッと音がするような感じで精気が抜けていきました。それで、もういいかなぁって」役にのめり込みすぎて、燃え尽きてしまったのだ。「いつもそうなんです。何か役をもらうじゃないですか。そうすると四六時中、そのことしか考えてないから、飯は食べなくなるし、その代わりに酒飲んで。周りが見えなくなっちゃうんですね」引き止める先生たちを振り切って大学をやめた吉岡さんは、尊敬していた演出家・竹内敏晴さんの門を叩いた。「夜中に竹内先生の自宅を訪ねたんですよ。すると、優しく受け入れてくださって“ご飯食べたか?”と。そのうえ“今度、芝居やるから、よかったらのぞきにこないか”と誘ってくれたんです」独自の身体論をベースにした『竹内レッスン』で教え込まれた吉岡さんは、「芝居ってこんなにキツイのか」と痛感したという。「セリフってただ言葉を発するだけじゃダメで、“僕はこうしたい”ということが自分の身体の中に今、生まれたものじゃないといけない。それが相手に届いて、反応して、積み重なってドラマになっていく。竹内先生の著書『ことばが劈かれるとき』にも書かれていますけど、口先だけだと徹底的に見抜かれる。だから芝居って、嘘がつけないんですよ。深いところで人間性が出てしまう。僕は不器用だから、いっぱいに想像の翼を広げて、自分にできるだろうかといつも悩みながら稽古していました」そんな吉岡さんを劇作家の清水邦夫さんが目に留める。1976年、渋谷ジァンジァンでの二人芝居『花飾りも帯もない氷山よ』に抜擢。吉岡さんは「苦い思い出です」と述懐するが、竹内門下生として頭角を現していく。同年、渋谷ジァンジァンのすぐ近くで創業したのが、吉岡さんが長年にわたってアルバイトをしていた『マリオンクレープ』だ。紙の容器に入れて片手で食べるスタイルを考案、日本にクレープという食べ物を根付かせた創業者の岸伊和男さんは「吉岡は最初からすぐに陣頭指揮を執って、威張っていた」と笑う。「クールだけど芯は熱い男でね。すぐ店長をやってもらったんだけど、やる気のあるやつを使うのがうまかったな。『おしん』で吉岡は意地悪な兄を演じていたけど、店でも同じくらい迫力があったし、アルバイトを働かせるため、少々芝居がかったところもありました」(岸さん、以下同)当時、マリオンクレープには役者や歌手などを夢見る人が多く働いていた。突然入るオーディションや、いい役に決まったらシフトを融通してもらえる文化があったからだ。それは「おもしろい人を集めて、おもしろいことをやるのが好き」という岸さんの考えによるもの。吉岡さんはさまざまなアイデアを出し、クレープを効率よく提供できるスタイルを確立。吉岡さんが叩き出した1日の売り上げ記録は依然破られていない。「吉岡は次の世代へいい影響を残してくれた存在。喜怒哀楽が強いタイプでね、しょぼくれると、すごくしょぼくれるんだけど(笑)。僕にとってはカンフル剤みたいな、元気をくれるおもしろい男だね」夫役に挑んで兄の役を射止めた『おしん』20代前半は演劇の情報を得るため劇団俳優座の映画部に仮所属し、オーディションを受ける日々が続く。すでに出演者が決まっている“出来レース”の現場に足を踏み入れ、心を打ち砕かれることもあった。だが、25歳になった吉岡さんは平岩弓枝原作のNHKドラマ『御宿かわせみ』のオーディションに合格、ゲスト出演したことがきっかけとなってディレクターに気に入られ、同局のドラマに出演するようになる。さらには、さだまさしさんの主演映画『翔べイカロスの翼』やテレビドラマ『特捜最前線』にも出演するなど、活躍の場を広げていく。そうしたなか、「正式に事務所に所属したほうがいい」とすすめられ、姉の伝手で俳優・伊藤榮子さんに相談することになった。「私のお友達と当時、結婚していたのが祐ちゃんのお姉さんでした。その弟さんのことだったから相談に乗って、私がお世話した事務所に所属することになったんです」(伊藤さん)1981年、NHK大河ドラマ『峠の群像』に出演した吉岡さんは、演出を担当していた小林平八郎さんから「朝ドラのオーディションへ行ってこい」と声をかけられた。どんな内容かも知らず会場へ行くと、多くの人が集まっている。売れっ子の役者もいたため「どうせ、もう決まっているんだろう」と腐りそうになったが、「小林さんから言われたんだし、とにかく思いっ切りやろう」と、3ページほどの台本をすぐに暗記した。役名は竜三。「おしんさんは、いい人だな」というセリフがあった。─のちに社会現象にまでなった、NHK連続テレビ小説『おしん』のオーディションだった。とにかくやり切った。ほかの人の演技を見ても、自分が勝ったと思った。しかし、結果はまさかの落選。「竜三はおしんの夫で戦後に自殺する役なので、スタッフから“演技はよかったけど、とうてい自殺しそうにないから”と言われて。そうか、ダメだったか……と思った1週間後、“おしんの兄役をお願いできないか”という話が来たんです。想像もしていなかった、まさかの兄役ですよ!」マリオンクレープの配送車でNHKへ行き、台本をもらったものの、「自分が出るところしかもらえないので、最初はどんな人物かわからず、手探りで無我夢中でやってました」という、おしんの兄・谷村庄治。山形の寒村の小作農家の長男で、選択の余地なく貧乏な家を継がされ、外の世界で生きるおしんに「おまえはいいな」と事あるごとにつらく当たる敵役だ。セリフが長いことで有名な脚本家・橋田壽賀子さんの作品だったが、「僕は一人芝居もやっているから特に長いとは思わなかった」という吉岡さんは、方言指導のテープを聴き、山形弁のセリフを頭に叩き込んだ。「最初の撮影は、製糸工場へ奉公に行った妹が結核で帰されてきたシーンでした。大声で“働かねえで銭ばっかし食うんだから!”とセリフを言ったら、父役の伊東四朗さんに“そんな大きな声でしゃべったら、病人が起きてしまうだろう”と言われて。でも、演出の小林さんに相談したら“おまえはそのままで行け!”と(笑)」そんな吉岡さんと共演したのが、庄治の妻・とらを演じた山形県出身の俳優・渡辺えりさんだ。当時を振り返って渡辺さんはこう話す。「おとらは当初、前半だけの出演予定だったんですが、橋田先生が気に入ってくださり後半まで出ることになったんです。田中裕子さんのおしんをいじめて、乙羽信子さんのおしんに謝りました(笑)」渡辺さんが吉岡さんに抱いた第一印象は「暗い感じの個性的な演劇青年」だったそうだが、「演劇の話で気が合ったので、皆でよく飲みに行くようになりました。『おしん』の収録が夜中に終わって、演出家たちも含めて飲みに行って、芝居の話をして。でも翌日は皆、ちゃんと朝8時にスタジオに入っていましたね」 『おしん』は演技をするときに音楽も流して一緒に収録する「同録」だった。そのため芝居できる尺が決まっており、NGを出さないよう本番前、吉岡さんとNHKの廊下でよく一緒に稽古をしたという。「吉岡くんは熊本の人だから、山形弁独特の“ん”の発音ができなくて、それをよく教えていましたね。泉ピン子さんら主役の方たちがたっぷりと演技をなさると時間が少なくなるから、吉岡くんと私でワーッと早口で演技をして収めましたが、かえっておもしろくできました」撮影終了後、渡辺さんが「吉岡くんを想定して書いた」という役で舞台『小さな夜とはてなしの薔薇』で共演した。「その後も吉岡くんをドラマなどで見かけて、キリッとしていて目に狂気がある、いい役者だなと思っていました」また『おしん』では、吉岡さんを高く評価した演出家・望月良雄さんとの出会いもあった。望月さんはのちに、1990年放送のNHK大河ドラマ『翔ぶが如く』に吉岡さんを抜擢している。「望月さんは熱い人で、演技指導で“祐一、おまえならもっとできるだろ!”と言ってくる。こっちもやるしかないじゃないですか。何をしていいのかわからないけど、何度もやってると、違う自分が出てくるんですよ。そうすると大きな声で“OK”って。そうやって、僕の力を引き出してくれる方でした」父のがん発覚で訪れたクレープ店開業の転機その後も役者とアルバイト、二足のわらじを履く生活は続く。所属事務所を辞めてフリーとなった35歳のとき、同じマリオンクレープで働いていた女性と結婚、子どもも2人できた。順風満帆と思われた役者業に陰りが見え始めたのは、バブルがはじけたあと、平成不況の時代に入ってからだ。「強い事務所であったり、劇団の後ろ盾がある人は大丈夫でしたけど、役者個人でやっていくのがツラい時期で、食えない役者がどんどん増えていって。でもアルバイトをしながらなら、なんとか好きな芝居を続けていけたんです」ところが1997年1月、思いも寄らないことが起こる。熊本の父親が倒れたという連絡が入ったのだ。「膵臓がんでした。それで僕はマリオンから1か月半の有給をもらって熊本へ行って、ありとあらゆる手を尽くしました。でも、大腿部に転移したがんがどうしても取れなくて……。12時間の予定の手術が2時間で終わったので、ああ、ダメだったんだなと」失意のうちに東京へ戻った吉岡さん。この先、熊本と東京を行き来する生活が続いて迷惑をかけるかもしれないうえ、長期休暇のこともあって居づらくなり、長年勤めたマリオンクレープを辞めてしまった。前出の演出家・望月さんから請われて、NHK連続テレビ小説『ひまわり』に出演したが、それだけでは食べていけない。役者は続けたい、でも……吉岡さんは悩んだ。失業保険をもらおうとハローワークにも出かけたが、「“父がまたいつ倒れるかわからないので、すぐに定職につけるか、わからないんです”と相談したら、職員さんから“これは職業を探している人のための保険だから、嘘でもいいから仕事を探していると言ってください”と言われて。だけど、どうしても、その嘘が言えなくて……」仕方なく家に帰ろうとすると、偶然通りがかった区役所で「中小企業基金による融資」の文字が目に飛び込んできた。「受付で、どんな人が融資の対象なのか聞いたら“それ、僕です!”という内容で。父がいつ逝ってしまうかわからないから、自分で店を持ってやるしかないんです、クレープならうまく焼けるんです、と説明をして……。すると担当してくれた初老の男性が、“じゃあ、とにかく店をやれる場所を探しましょう”と言ってくれたんです」店を開く場所も見つかり、無事融資を受けられることになった。店名の『クレープリー シェルズ・レイ』を考えたのは、吉岡さんの妻だ。「おもてなしの意味でかけるハワイのレイみたいに、お店に来てくれたお客さんにレイをかけるというのっていいなぁと思って主人に言ったら、いいね、と言ってくれて」吉岡さんが独立して店を出すことに、不安はなかったのだろうか?「半分半分、ですね。子どもも2人いて、生活していかないといけない。役者だとそんなにもらえないし、この先、生活が厳しくなるだろうということもありましたから。主人もそうだったと思います」その年の10月26日、渋谷スペイン坂に店をオープンすることが決まった。熊本に報告の電話をすると、父親の面倒を見てくれていたおばが「お父さんね、おめでとうって言ったよ」と伝えてくれた。しかしそのわずか2日後、父親はこの世を去った。「28日の夜8時ごろに雨が降ってきて、漠然と“亡くなったな”と思ったら、姉から電話があって。翌日から店を閉めて、熊本へ帰りました。いちばん親父に苦労かけた僕だけが、立ち会えなかった。でも、親父のそばでひと晩中、ロウソクの火を絶やさない寝ずの番をやったら、心の重荷が少しだけ減りました」重い気持ちを引きずったまま帰京した吉岡さんは「この先、店をやっていけるのか」と心配したという。しかし、それは杞憂だった。すぐに行列ができる人気店となった。「仕事が終わると身体中に乳酸がたまって、両手両足が動かないほど疲れて。でも休んじゃいけないと、正月以外は店を開けて働きました。忙しい中で父親を亡くした悲しみは癒えていきましたが、今度は忙しすぎて、芝居からだんだん離れていってしまって」侍に幕末の偉人、地上げ屋のヤクザから銀行員まで、ありとあらゆる役を演じてきた。だが、忙しさを理由に断るようになると、出演依頼は途切れがちになった。芝居を続けたいがために始めた店なのに、と吉岡さんは気を揉んだ。「もう役者をやりたいという思いは頭の中から消さないといけないのかな、と。ただ、そんなときでも望月さんは“おまえは芝居なんだぞ”と言葉をかけてくれて、何かあると呼んでくれていたんです」店は忙しくなる一方だった。1999年、望月さんが演出したNHK時代劇『加賀百万石〜母と子の戦国サバイバル』で戦国武将の増田長盛役が最後の出演となった。だが、「役者をやりたい」という気持ちは絶やさず、埋み火として心の中で静かに燃やし続けよう……、吉岡さんはそう誓った。「俳優・吉岡祐一」の顔を取り戻した夜クレープ店が軌道に乗ると、役者への思いは再び熱を帯びるようになる。しかしすでに芝居と疎遠だった吉岡さんは、学生時代から付き合いのある、役者の友人に相談をした。「もう1度、芝居をやりたいと思うんだと言ったら、彼にすっごい怒られて。悔しかった。その晩は泣きながら帰りましたね。俺が何のために東京へ出てきたと思っているんだよ、と……」努力して役者を続けてきた友人の言うことも一理ある。だが、芝居を続けていくために開いた店が、まさか“諦め”のように受け取られるとは……。悔し涙で、埋み火が消えそうになった。でも、完全に断念することはできなかった。「いつでも役者に復帰できるよう、ジムで鍛えて、走って、体形だけは維持し続けました。火を消しちゃいかん、という思いだけでしたね」吉岡さんの妻も、一緒にテレビドラマなどを見ていると「自分だったらこう演じたいな」と言っていたのを覚えている。また時々、夫がポツリと「こんなことやるために東京に出てきたんじゃないんだよな」とこぼしている姿を見て、「本当は演じたいんだろうな」と感じていたという。渡辺えりさんは、吉岡さんの噂を聞きつけ店を訪ねたり、街で偶然会ったりして飲みに行くこともあったが、「吉岡くんと会うと演劇や芝居の話をしていたし、情熱の濃い人だから、ずっと役者をやっていると思っていた」と驚く。あわただしく切り盛りしていたスペイン坂の店だったが2005年、突然立ち退かねばならなくなった。そこから下北沢、幡ヶ谷、栃木県の那須へと移転、沖縄料理店なども手がけたが、2011年には東日本大震災の影響で那須から撤退。吉岡さんに残ったのは、2014年に手作りした現在の店舗だけとなった。さらに追い打ちをかけるように、いつも気にかけてくれていた演出家・望月さんの訃報が届く。吉岡さん自身、60代になった。残されている時間は多くはないんだという思いが強くなり、役者をやりたい、芝居をやりたいという埋み火は火勢を増しつつあった。吉岡さんは勇気を出して電話をかけた。その相手は、俳優の伊藤榮子さんだった。伊藤さんは言う。「演劇って、芝居がうまいことも大事だけど、うまくても嫌だなと思う人もいるし、うまくなくても好きと思える人もいますよね。それって、その人の生き方が画面に出てしまうからなんですよ。普段のその人の生の部分が出る。まじめに生きている祐ちゃんなら、機会があればきっといい演技ができる。だから日々の生活を守りつつ、自分なりに勉強してくれたらいいなと。役者に必要なのは集中力。いかにその人物になるか、ということ。祐ちゃんには、そんなことくらいしかアドバイスできなかったけれど」2019年、NHK連続テレビ小説100作放送を記念して『おしん』の再放送がBSで始まり、初めてドラマを見た人たちが「おもしろい!」とネット上で盛り上がりを見せていた。そんな年のある日、吉岡さんは店へ来た客から、「人違いでしたらすみません、『おしん』に出ていた吉岡祐一さんではありませんか?」と声をかけられた。店で役者と気づかれたのは人生初のこと。戸惑いを隠せなかった。話を聞いてみると、『おしん』好きが集まるトークイベント『おしんナイト』への出演依頼だった。役者として人前に出るのは約20年ぶり。吉岡さんは出るかどうか悩み、伊藤さんに再び電話をかけた。すると伊藤さんは、「祐ちゃんに、という話をいただけたことがいいじゃない。自分に好意を持ってくれる人は大事にしないと。人前に出られる、数少ないチャンスなんだから!」と背中を押した。イベント当日、緊張で身体が震え、怖くて「帰りたい」と何度も思った。だが、ふたを開けてみれば、その夜は久々の興奮を味わった。人前に出て、拍手をもらう喜びを思い出したのだ。吉岡さんと一緒に『おしんナイト』に登壇した、脚本家でドラァグクイーンのエスムラルダさんは、こう述懐する。「最初はかなり緊張されていたんだけど、お客さんが笑ったり、リアクションするたびにどんどん目が輝いていって……。最後は完全に役者の顔に戻っていましたね」消えかかっていた埋み火に薪がくべられ、真っ赤な炎が上がった。店もステージも、毎日、幕は開いている2020年には伊藤榮子さんの紹介で所属事務所も決まり、役者としての窓口ができた。そんなとき、高校生が作る映画に参加しないか、と声がかかった。タイトルは『弾丸』。吉岡さんは冷徹な編集者役だった。「台本の読み合わせが初対面だったんですが、もう役を整えられてきていて、俳優としてのオーラに高校生たちは圧倒されていました」そう語るのは、脚本を書いた川口光透さん。「相手が高校生でありながら真正面から真剣に向き合ってくださって、私は感動していました。スタッフや作品の意図について傾聴される姿勢や裏での気遣いなど、吉岡さんのような存在になりたいと思います」(川口さん)大人に交じって演劇を志した吉岡さんが、65歳で再び演劇の世界に戻り、あのころと同じ世代の青年たちと一緒に演技をする……。『弾丸』は大切な作品となった。しかし完成した作品を見た吉岡さんは、「そこそこ頑張ったな、と思ったんですけど、いやいやいや、もうガチガチになっていました」と笑う。そんな吉岡さんの復帰にエールを送るのが、『おしん』で八代圭を演じた俳優・大橋吾郎さんだ。10年ほど前から共通の知人の集まりで旧交を温めるようになった。大橋さんは、吉岡さんが芝居の情報を欲しがっているように感じ、会うたびに自分なりに得た情報を話してきたという。「また役者をやりたいんだなと思ったんだけど、僕はそれを1回、スルーしたんです。そんなに甘い世界じゃないし、本気かどうかもわからなかったから。でも、本気とわかったからには止めるよりも応援したい。祐ちゃんは大丈夫。役者をやめてからの20年、クレープ屋さんをやってきて、彼にしかできない勉強をしてきた。それは僕らにはない経験。だから挑戦すればいい。そして一緒にやれたら、楽しめたらいいなと思うよ」(大橋さん)吉岡さんは今年の4月21日で67歳になる。「うちの店は都会に乗り出した一艘の帆船、小さなヨットだと思っているんです。今はガラクタを寄せ集めて作った筏みたいなもんですけど、いずれは6000トン級の安全性を持つようなものにして自立させたい。そして僕も役者として自立したい。僕はもともとステージや舞台装置をみんなで作るのが好きだったんです。そう考えると、店もステージを作るのと同じ、毎日芝居の幕が開いているようなもの。だから僕としては、そんなにかけ離れたことをやっている感じはないんですよ」店主と役者の二足のわらじを履く生活は今、再び始まったばかりだ。〈取材・文/成田全〉なりた・たもつ1971年生まれ。イベント制作、雑誌編集、漫画編集などを経てフリー。幅広い分野を横断する知識をもとに、インタビューや書評を中心に執筆。「おしんナイト」実行委員も務める。渡辺えりさんが作・演出を手がける音楽劇『私の恋人 beyond』が6/30から7/10まで、東京・本多劇場で上演。チケットは4/1より先行予約開始
2022年04月10日社会起業家加藤秀視さん撮影/伊藤和幸父親からの虐待を機に施設で育ち、ヤクザの世界へ。元暴走族総長で、2回の逮捕歴がある。だが、24歳で更生を決意して以降、非行少年3500人以上の更生や被災地支援などを精力的に続けてきた。今やJR、コカ・コーラなど有名企業に招かれて人材育成を行う立場だ。誰かの活動を支持して見守るのではなく、おのおのが使命を見つけ、「その道のリーダーになれるはず」と熱弁する社会起業家・加藤秀視さんの原動力とは―。子どもたちが通いやすい学校に立春前、北風の吹く東京・町田駅。いじめ問題に対する教育現場の隠蔽や不正撲滅を訴えて、憲法16条「請願権」の改正を求める署名を募る人たちがいた。その老若男女の輪の中心に、熱く語りかける男性の姿がある。「大きな声を出してすいません!誰かを助けたいと思ったら、具体的に動かなければいけないんです!それが署名なんです。署名を100万人集めて、いじめを隠蔽しない仕組みを作りましょう!」黒いキャップを被ったちょっと怖そうな風貌のその人は、加藤秀視(しゅうし)さん(45)。元暴走族の総長で、現在は非行少年たちの更生を目的に開業した建設会社を営む社会起業家だ。数多くの更生・指導の実績が評価され、「文部科学大臣奨励賞」や「衆議院議長奨励賞」などを受賞している。加藤さんがいじめに関する署名活動を始めたきっかけは、北海道旭川市で昨年3月、中学2年の廣瀬爽彩(さあや)さん(当時14歳)が凍死体で発見され、市教委が事実確認を進めている問題にある。「爽彩さんはネット上に拡散された自身の画像のことで悩んでいました。学校側がいじめを正式に認めずに、きちんと調査をしないでいるうちに悲劇は起きてしまったんです。全国で起きているいじめ問題は、学校や教育委員会の隠蔽体質と関係性が深いこともよくわかりました。この問題の真相究明といじめ防止対策推進法の徹底した遂行を断固として求めていきます」だが、学校関係者への誹謗中傷がネット上で広がっていることについては「全く意味がない」と言う。個人的な攻撃が目的ではないからだ。「誰かを責めて誰かが潰れれば、Twitter上じゃOKなんでしょうけど、そんなこと繰り返していたって、何の解決にもならないんですよ。子どもたちが通いやすい学校にして、同じような犠牲者を出さない仕組みを作るために動こうって決めたんです」加藤さんに賛同するさまざまな立場の支援者が、全国各地で署名活動を展開している。この日、街頭演説に参加した社会派ユーチューバー・令和タケちゃんこと後藤武司さん(27)もその1人。加藤さんがこの問題の焦点を教育に当てるのに対し、後藤さんは政治に焦点を当てている。「考え方の違いはあっても、目指すゴールは一緒であるため、協働している」と加藤さんは言う。ほかにも、中高生の親たちや20~30代の若者たちも署名を呼びかけていた。参加者の大寳(おおだから)直人さん(26)は、加藤さんのような起業家を目指しているという。「ご自分が虐待を受けたりしたバックグラウンドがあるので、こうした問題にも本気で寄り添って、上っ面じゃないんですよ。署名活動の結果を報告するといつも“ありがとうございます、引き続きお願いします”と言ってくれます。われわれスタッフに対する尊敬の気持ちがすごくて、上から目線じゃないんです」街頭演説に加え、オンライン署名も行い、12万人ほどの署名が集まっている(3月15日現在)。歌手でEXILEのメンバー、ATSUSHI(41)も共感し、自ら加藤さんに連絡を取り、ユーチューブチャンネルで約4000人の署名を集めた。ATSUSHIは加藤さんとの対談の中で、「自分の影響力をこのような活動に使ってもらうことが本望」と語っている。「街頭で声を枯らしても、正直、そんなに数は集まらないんです。本当は有名な方とユーチューブでコラボしたほうが、効率よく署名も集まりますし、チャンネル登録者数も伸びて、プラスになるんです。それでも街頭演説を続けるのは、無関心な通りすがりの人たちに誰かが何か騒いで訴えてるってことを感じてほしいから。多くの人を巻き込みたいという思いでやっています」SNSを通じ、加藤さんのもとにはいじめの悩みを持つ子どもや母親たちからたくさんの相談が寄せられる。緊急性やリスクが高い場合は、現地に赴き問題解決に向けたサポートをすることもある。昨年10月、いじめを苦に自殺を図った中学1年生の娘を持つ母親のAさんが取材に応じてくれた。大阪在住のAさんは学校が自殺未遂といじめとの因果関係を認めず、調査や指導も行わないことに苦慮していた。「自治体の相談窓口や支援団体にも相談に行きましたが、真剣に聞き入れてもらえなくて……。そんなとき、偶然、加藤さんのユーチューブを見てメッセージを送りました」2月末、加藤さんは学校との協議のため、正式にアポイントを取った。だが当日、学校側が弁護士以外の同席を認めず、校門前で足止めされる事態となる。加藤さんは「僕は中に入れなくていいので、絶対解決すると約束してほしい」と訴えた。Aさんと娘が校内に入り、話し合いは5時間に及んだ。結果、初めて同席した校長がいじめの調査を改めて行うことを誓ったという。「校門前で私たちを待っていてくださった加藤さんは、娘に、“生きていてよかったと思える人生を送ってほしい”と話してくれました。それは本当に大切なことだなぁと。この先、たとえ学校に行けなかったとしても、きっと娘にはいろんな出会いがあって、あんなことがあったけど、生きててよかったと思ってくれたらいいなと思っています」更生した非行少年の10年後加藤さんが暴走族の仲間とともに資金、人脈、社会経験すべてゼロで、ボロボロのスコップ1本から立ち上げた建設会社『新明建設』は、今年で創業22年を迎える。今では多くの有資格者を抱え、公共事業も受注する栃木県でも有数の企業となった。10代だった部下たちも幹部となり、後輩を育てている。起業した当初から、子育てに悩む親や非行少年少女、ひきこもりや自傷行為に苦しむ若者から多くの相談が寄せられていた。加藤さんは独自の教育メソッドで、これまで約3500人以上の更生に携わった。「非行少年たちとの間に信頼関係を築きます。フレンドリーすぎるのはダメで、ちょっと怖いお兄さんという立ち位置ですね。働きながら、お客さんのことや同僚の仲間のことを日々考えさせて、価値観を変えていく。一緒に目的を持って協働して、目的を達成した感動を味わう。その繰り返しが大事なんです」少年たちの気持ちを理解するため、海外で心理学を学んだ時期もあったというが、途中でやめてしまったという。「指導する先生に、僕のやり方が心理学的に気に入らないと言われたので、じゃあやめますと(笑)。先生は相談者の話を聞いてあげればよくて、僕みたいに問題解決に導くのは強制だとおっしゃるんです。でも僕からしたら更生が目的なんで、そんなクソみたいな心理学だったら要らないですねと。やっぱり直接人と向き合ってるほうが強いなと感じたんです」かつて通貨偽造で罰せられ、加藤さんのもとで更生プログラムを受けたレオナさん(33)は、母親に連れられて新明建設に来た日のことをこう振り返る。「なんでこんなところへ来なきゃいけないんだ!俺の人生なんだから勝手にさせてくれ!って啖呵切って、母親を泣かせていました。初めのうちは会社のルールも職場の人間関係もわからず、なかなか溶け込めずにいましたね」ところが次第に仕事のおもしろさがわかってくると、働くことの大変さやお金を稼ぐことの有り難みが感じられるようになった。「携わった土木工事や舗装工事は地図に残る仕事でしたから、できあがったときの達成感も大きかったんです」レオナさんはアパートを借り、ある程度自由の利く生活を送ることができていた。しかし加藤さんとの間に、“昔の仲間との付き合いを断つ”という絶対的な決めごとがあった。その約束を守れず、勘当を突きつけられたこともある。「悪の道からなかなか抜け出せなくて、突き放されそうになって……泣いて謝りました。でも、加藤さんが“俺は信じるから”って言ってくれたんです。加藤さん自身も、もともと悪い世界にいて更生した人なので、自分の若いころを思い出して、情熱を傾けてくれたんじゃないかと思います」自らが変わっていく中で、昔の仲間も離れていき、関わらずにいるうちに、興味がなくなっていったという。「普通の生活のほうが楽しいなって。逆になんであんなことやってたんだろうって不思議に思うようになったんです」レオナさんは現在、6歳の息子を育てるシングルファーザーだ。大型トラックの運転手をして生計を立てている。週末、仕事を終え、実家の母親に預けた息子を迎えに行き、共に過ごすのが何より幸せな時間なのだと語る。実はレオナさん、10年前に正式な退職届を出さずに加藤さんのもとを飛び出したことをずっと悔やんでいた。今年2月初旬、レオナさんは遂に意を固め、息子を連れて加藤さんを訪ねたという。「僕たちが来たことを喜んでくれて、僕の謝罪を受け入れてくれました。“お前、守るべきものができたんだろう?悪いことももうやってないんだろう?じゃあ更生したんじゃんかよ”って言ってもらえました。加藤さんは自分にとって、恩師であり兄貴みたいな存在で、更正するきっかけをくれた大事な人です。これからは自分も、過去のことがあってもやり直しがきくし、変われるんだよってことを若い子に伝えていきたいと思ってます」加藤さんは頼もしくなった弟分の言葉に目を細める。「更生はキレイに終わるなんてことはなくて、キレイさは求めていないんですよ。大事なことは、本人がしっかりと自分の人生を歩んでいくことなんです」施設で育ち、暴走族総長へ1976年10月6日、栃木県で2人兄弟の長男として生まれる。父は腕のいい板前だったが、酒を飲むと母親と加藤さんに暴力を振るい、放蕩の末、女性と借金を作った。「小さいときは苦しい思い出しか記憶にないですね。母を殴る父親への憎しみが強かった。さぞかし母はつらかったろうと思います。その矛先が自分に向いて、少しでも母が助かればいいと思っていました」小学校に上がると、母親はホテルのフロントで日中働き、夜はホテルのクラブで働くようになった。忙しい母親に甘えることができず、愛情に飢えていたという。真夏の昼下がり、弟と母親をはさんで、寝そべっていたときの記憶が蘇る。「寝息を立てている母に腕枕してほしい、抱っこしてほしいなと思った覚えがあります。近づきたいけど恥ずかしくてできなかった、そんな思いでした。こんな初老の俺が言うのもおかしいんですけどね」そうおどけながら、一瞬しんみりとした表情を覗かせた。小学校2年生になると、母親と加藤さんに対する父親の暴力がますますひどくなり、養護施設に預けられた。はじめは弟も一緒に行く予定だったが、加藤さんは幼い弟が不憫で、「一緒に来たら邪魔だ」と言い張り、弟は祖母と家にいられるようにした。施設では消灯時間になると、布団が敷き詰められた広い和室のあちこちから、親の迎えを待つ子どものすすり泣く声が聞こえてきたという。「夜の託児施設で一緒の仲間は、放課後の遊び仲間になりました。小2のころからタバコ屋でくすねたタバコを一緒に吸ったりしてましたね」中学に上がるころ、両親は離婚。たまり場でシンナーを吸い、毎晩夜遊びをするようになる。3年のときに先輩に誘われて暴走族に入った。その後、傷害、恐喝と非行をエスカレートさせていく。高校を4か月で中退後、北関東を中心とした暴走族の総長になった。同時に裏社会での駒を進めていく。パチンコの偽造カードで得た玉を換金し、シンナーを夜の街で売りさばいた。上納金として、暴力団に還元するためだ。「育った環境が施設だったんで、周りを見たらヤクザしかいなかったんですね。家でも施設でも虐待されて褒められたことがなかったんで、悪いことをしてすごいねって褒められたとき、初めて認められた気がして、ここが自分の居場所だと思ってしまったんです。裏社会は上下関係が厳しくて、親分に対するコミットは凄まじいものでした。そういうのも自分の中で響いたんです」武闘派と呼ばれた親分を守るために、ボクシングや空手など格闘技はほとんど身に付けた。親分に仕え、暴力で権力をつかみ、ついてきた仲間たちといい生活を送ること、それが自分の目的で、その先にしか幸せはないと信じてしまったという。20歳を過ぎたころ、栃木県の地元だけでなく、歌舞伎町でも幅を利かせるようになっていた。覚醒剤と暴走族同士の抗争に明け暮れ、2回逮捕されている。「21歳で2度目の留置所送りにされたとき、今のまま生きていたら、必ず刑務所を出たり入ったりするのを繰り返すことになるだろうと思いました。自分の仲間も同じ道を進んでしまう……そう思ったら、それまできちんと働いた経験はありませんでしたが、出所したら仲間と仕事を始めようと思ったんです」頭を下げて謝り倒す屈辱24歳のとき、暴走族の後輩7人に声をかけ、新明建設を立ち上げた。土木業を選んだのは、スコップ1本で始められて、体力が活かせるからだった。「建設現場に人を供給する仕事から始めました。最初は派遣した後輩たちの仕事ぶりが評価されなくて、“お前らカカシか?” “使えない”とクレーム処理に追われました。それまで人に謝ったことがなかったので、頭の下げ方から学びました。辞書を買ってビジネス用語を覚えたりもしましたね。くそみそに文句を言われるもんだから、“この野郎、ふざけんな!”って言いたくなるんですけど、それをやっちゃったら、その子たちの仕事がなくなって、またヤクザに戻っちゃうんで。堪えましたね」「お願いします」「ぜひ使っていただけませんか」と交渉する営業のやり方も身に付けていった。非行少年たちが働ける受け皿をつくりたいという一心でやっていくうちに、大手会社との取引も舞い込むようになる。「お客から、お前んとこ使いたいんだけど、有限会社じゃあ使えないよって言われて。資金も貯めて、2年後に株式会社にしたんです」仕事が順調にいく一方で、加藤さん自身は相変わらず裏社会とつながっていた。昼間は土木会社の営業をし、夜は裏社会の関係者と飲み歩く。「会社の売り上げから自分の取り分を減らしても、親分に上納金を届けました。どちらの世界にも義理を尽くし、表と裏の顔を使い分ける自分の在りように酔っていたんですね」そんなある日、部下が飲酒運転で民家に突っ込み、即死する事故が起きた。自分と似た境遇で育ち、「社長のようになりたい」と信頼を寄せてくれていた仲間だった。加藤さんは指導する立場の自分の甘さを痛感し、自責の念に駆られる。時を同じくして、暴力団の組織が抗争事件を起こし、業界にいられなくなる事態も起きていた。「それを機に親分がヤクザをやめたので、僕もやめました。親分に惚れてヤクザになったので、もう裏社会にいる理由がなくなったんですね。その方も身の安全は確保されているはずですよ。出家されてるんじゃないですか。親分は、裏社会の人でしたけど、人間味のある人でした。口癖のように言っていたのは、極道とは、“道を極める”ということだったんです」どんな世界でも、堅気の世界であっても、道を極める人間はプロで、尊敬に値するのだと。「それから自分は表の世界で道を極めようと思いました。社員全員にどんな仕事でもこなせるような技術を身に付けさせて、人から求められるような人材に育てよう、そのために自分も社長として、人としてもっと成長しなければならないと決意したんですね」26歳で裏社会との付き合いを断ち切ると決めてから、完全に絶縁するまで、3年の年月がかかった。右翼から嫌がらせを受けたり、地域のチンピラにからまれたり、トラブルが絶えなかったのだ。そのたびにやり直したい、表社会で上を目指したいと自分を奮い立たせたと話す。同時に常習していた覚醒剤も断った。「26歳のときに強いのを打ち込んじゃって、死ぬような思いをして、このままでは自分がダメになると、本気で思ってやめたんです」覚醒剤依存をやめるには、「生きたい」と思える動機を見いだすことが重要だという。「集団生活をしたりして環境や習慣を変えても、そこを出てしまえばまたやってしまう可能性があります。だから、薬物依存も更生も立ち直る中で、大事にしたい人や愛する人など、動機となる人間を見つけることが大事だと思っているんです。その信頼関係があれば、基本的に立ち直れます。でも人間関係が壊れると、どうでもいいってなっちゃうんですよ。孤独になると、ほとんどまた戻っちゃいますね。だから人間関係の力がとても大きいんです」被災地支援で出会った子どもたち加藤さんの支援活動は、更生だけにとどまらず、震災被災地にも波及していく。東日本大震災では、震災2日後に現地入りし、炊き出し10万食以上、物資100トン以上の支援を行った。「千葉の学校の講演会へ向かう途中、首都高の上で地震にあって、そのまま首都高で降りられなくなった人たちの手助けをしました。ニュースで仙台空港が流されている映像を見て、これは早く東北へ行かなきゃと、すぐに水を積んで向かったんですね」当初、現地は本格的に自衛隊が入る前で、壮絶な光景が広がっていた。あちらこちらに横たわる遺体の収容から始めたという。加藤さんのツイッター投稿に感化され、雑誌対談で面識のあったタレントの麻木久仁子が現地入りするなど、支援の連鎖も生んだ。本腰を入れて支援しようと思ったきっかけは、ごみ袋を持って、食べられる物を拾い集めていた2人の子どもを保護したことだと話す。「子どもたちは家が流されてしまって、どこだかわからないので探していると言いました。そのとき、自分が養護施設を抜け出して、家に帰ったときのことを思い出したんですよ。結局、中に入れずに、親父とおふくろと弟が話しているのを外から聞いてただけだったんですけど。大人になってから、どうして親父にあんなに殴られたのに、家に戻ったりしたんだろうって考えたんですが、やっぱり家に帰りたかったんだろうなと気づいて。その子どもたちも自分の家に帰りたいんだろうと思ったら、もう絶対見過ごすわけにいかないと思って、南三陸に入って活動することにしました」それから数か月後、『はまなす学習塾』を開き、学校を失った小中高生に学びの場を提供した。新明建設も東北に拠点を移し、被災者50人以上を採用し、5年間、土木工事や建設工事を行った。震災の日から行動を共にした前出のレオナさんが言う。「地震があったとき、一緒に車に乗っていたんで、これから行くぞって有無も言わさず連れていかれる感じでした(笑)、でも、人を助ける側に回れたらいいなと思っていたので、迷うことなくついていきました」宮城県南三陸町に空き家を借りて、大人数で住み込みをしながら、支援活動を始めた。被災現場を目の前にして仕事をする中で、人々のつらさが身に沁みたという。「被災者の方が、家とか形あるものは何もなくなっちゃったけど、生きているだけで幸せ、みたいなことを話していて、メンタルの強さを見習わなきゃいけないなと思いましたね」瓦礫を撤去していると、お年寄りに感謝され、“私たちもまだ頑張るから、君たちもまだ若くてこれからの人だから、頑張ってね”と言われたことが忘れられないと話す。「加藤さんが非行少年たちをそうした現場に連れていって、いろんな人と関わらせたことにどんな意味があったのか、今となってはよくわかる気がします。そんな機会を与えてもらえたことに感謝しています」被災地は極限状態に置かれた人々の間でさまざまなトラブルが生じることもあった。時として、加藤さんはその調整役も担ったと話す。「最初に避難所の学校に入った人が先住民で、たまたま入れなかった人が部外者という扱いになってしまっていました。もうこれ以上入れないからと誰かが仕切って閉めてしまって、学校に入れないで潰れた家で寝ている人たちもいました。物資を渡しても、いっぺんにたくさん持っていっちゃう人もいて。そうならないように、僕らがちゃんとたくさん物資を持って来週も来ますからと約束をして、安心してもらうようにしたんです」被災者たちに乱暴に物資を放り投げるボランティアもいて、叱りつけたこともあった。「ふざけんじゃねーぞ、この野郎と。優越感に浸ってちゃダメだよと。だんだんと大事にしなきゃいけないものが何なのかもわかってきて、東北の方たちともつながって、チームができあがっていきました」現場の声を吸い上げて、1000件以上のボランティアマッチングも行った。そうした活動が高く評価され、’12年5月に内閣府や国土交通省などが後援する社会貢献支援財団より、社会貢献者表彰を受賞している。’16年4月の熊本地震の際は、発生したその日に、34台の空っぽのトラックで現地へ向かった。「今度は行く先々で物資を積み込んで、熊本に着くころにトラックがパンパンになるようにしました。自分たちで準備していると遅くなってしまうんで、3・11で学んだことを活かしたんですね。Facebookで呼びかけて、調達しながら行きました」熊本へ行くまでにたくさんの飲食物や生活用品が集まったという。憎んでいた父親からの謝罪裏社会と訣別したころ、没交渉だった父親と再会した。父が働いていた料理店のオーナーから、父の容体が悪いと知らせを受けたのだ。その人は母をはじめ親戚筋に引き取ってもらえないかと頼んだようだが、すべて断られていた。「父に会うまでは殺したいほどの憎しみが強かったんです。せっかく裏社会をやめたのに、今、親父を殺したらとんでもないことになるからと、一応自分が暴れたら止めてもらうように、信頼のおける社員2人についていってもらいました」ひとり暮らしをしているという木造のアパートを訪ねると、病気でやせ細った父がパイプ椅子に座っていた。「まずその姿を見て衝撃を受けて、“親父何やってんだよ”って言ったら、親父は“ごめんな”と言ったんです」その言葉を聞いたとき、それまで持っていた怒りや憎しみが消え、「一緒に帰ろう」という言葉が出たという。「あー俺はこのひと言が欲しかったんだって、そのときわかったんです。ずっとおふくろを痛めつけて、俺たちを苦しめて、何でこんなことするのかなってわからなかったんですけど、そのときに、この人、自分が悪いっていう認識があったんだなって知ったんです。俺も甘いですよね、そのひと言で許しちゃったんですから」父のことはその後3年間介護して見送った。母も最後のころは見舞ってくれたという。父の身体を拭いてあげたとき、足の形まで似ていて、自分の身体を拭いているような気持ちになった。一緒に暮らした思い出は少ないが、やっぱり親子なのだと実感したという。「僕も子どもが2人いるんですけど、離婚してるんですよ。奥さんを幸せにできなかったという点では、親父と一緒だなと思っています。大学生になった子どもたちとは交流があって、仲いいですよ。まじめで素直に育ってて、それは元妻に感謝しています」幼いころ、両親の愛情を感じることができなかった加藤さんだが、深い愛情を周囲に注ぐことができるのはなぜか。「親から得られなかった分、やっぱり仲間の存在があったことが大きいですね。小さいころから一緒に寂しさや苦しさを紛らわす仲間がいたからこそ、やってこられたのかなと。中でも新明建設の仲間たちが自分を信頼してついてきてくれたことが大きいです。多くの人から愛をもらってきたことが、今、すべての活動の動機になっています」いじめに関する署名運動も、自分がやりたいと思ったことで、誰かに頼まれたことではない。人を救いたいと思うこと、形にしたいと思うことが大事なのだという。深く結びついた仲間たちと活動する中で、それまで目を背けてきた親との関係にも向き合えるようになった。「おふくろは僕を養護施設に入れたことで、僕を捨てたと思っているみたいで、すまないという気持ちが拭いきれないようです。僕はおふくろにそんなこと気にしなくていいって思っていますし、この人が僕のことを産んで本当によかったって思ってもらえるように、まぁ頑張ろうという気持ちがあります」「誰でもリーダーになれる」’17年、加藤さんは少年更生の経験を活かし、人財育成研修とチームビルディング支援のエキスパートカンパニー『マーヴェラスラボ』を設立。JRやコカ・コーラといった大手を含む500社以上の企業と、学校の人材育成支援を行ってきた。同社の事業部長で、管理者層の研修を手がける日高心陽さん(34)が語る。「50代の経営幹部の方たちが相手だと、最初は腕組みして、どうせいつもの研修なんでしょって感じなんですよ。でも加藤が自分のことをさらけ出して、おひとりおひとりに“人は変われる”ということをお伝えすると、ふんぞり返っていた方たちも、次第にふんふんと聞いてくださるようになるんです」加藤さんは「人はいつからでもどこからでも変われる」と力強く唱えている。「僕みたいに育った環境も悪くて、特別に何かを持っているわけでもないクズが変われたわけですから、誰でも変われます。みなさんそういう環境にいないから、変われるということがわからないんですね」年齢のせいにしたり、絶対無理だと思っている人が多いが、その固定観念を壊すところから始めるという。「僕の使命は努力するすべての人に勇気を与えることだと思っています。人の可能性を最大限に引き上げたいんですよ。一方で、社会の裏側で起きていることにも目を背けてはいけないので、その可能性を奪うような隠蔽や誹謗中傷といった障害物をどかす活動もしています。その両輪で動いている感じですかね」前出の日高さんは、「困っている人を見ると、じっとしていられない人」だと明かす。「自分が幼少期に救われたかったという思いがあるからでしょうかね。仕事でどんなに急いでいても、交通事故があったりすると、すぐ手を差し伸べます。そんなとき、事故現場で動画を撮っている人を見つけると、即行で注意しにいきますね。見た目が怖いんで、みんなすぐ逃げていっちゃいますけどね(笑)」誰にでも自分に与えられた使命があり、それを見つけて追求することが生きる意味だと加藤さんは言う。“一生付き合わなければならない自分”を信じて愛することができたら、必ずその使命に気づけるはずだと。「そうしたら人はいつでも変われます。今はフォロワー量産社会のようで、それはおかしいんじゃないかって思っているんです。みんな顔も性格も違って、それぞれに役割も違うはずなのに、なぜか人と同じことをやりたがるでしょう?誰かを支持するフォロワーになるんじゃなくて、みんながおのおのの使命のリーダーになれるはずなんですよ。自分の人生は自分のものですからね」こわもての元武闘派のカリスマは、やり直しのきく人生を体現している人。人の弱さも痛みも知っているから、やさしさを極めることができる。困った人をほっとけないリーダーが育てたリーダーたちが、次のリーダーを育てていく。〈取材・文/森きわこ〉もり・きわこ ●ライター。東京都出身。人物取材、ドキュメンタリーを中心に各種メディアで執筆。13年間の専業主婦生活の後、コンサルティング会社などで働く。社会人2人の母。好きな言葉は、「やり直しのきく人生」。
2022年04月02日女優・藤間爽子(右)ならびに紫派藤間流家元三代目藤間紫(左)撮影/伊藤和幸※舞台写真は『紫派藤間流藤間事務所』提供東京都千代田区の『国立劇場』大劇場。1600席を前にして白拍子として軽やかに舞い、静御前として鼓を打ち、踊る―。祖母が名乗り、市川猿翁の預かりとなっていた日本舞踊の名跡『藤間紫』の三代目として、無事に襲名披露を終えた彼女には舞台やテレビで活躍する女優・藤間爽子としての顔もある。長い歴史と描く未来。伝統の継承という運命を受け入れながらしなやかに自らの道を模索する、その視線の先にあるものは―。劇場の舞台で難役に挑戦屋根に打ちつける雨音と、やや遅れて響く雷鳴─。その日の空模様はぐずついており、日中から突発的な豪雨に見舞われていた。あいにくの悪天候が、寓話的な物語をよりイノセントに際立たせる。東京・下北沢の劇場『ザ・スズナリ』。木造アパートの2階部分を改装した同劇場は、多くの演劇人がその舞台に立つことを夢見る場所であり、目の肥えた演劇ファンが足しげく通う下北沢の象徴的存在でもある。’21年3月、藤間爽子(ふじまさわこ)は舞台『いとしの儚』で、鬼によってつくられた絶世の美女・儚という難役に挑んでいた。博打好きの鈴次郎は、鬼との勝負で儚を手に入れる。100日たたずに儚を抱くと、彼女は水となって消えてしまうという。儚とともに生きようと決心する鈴次郎。真の人間になりたいと願う儚。ふたりの愛がファンタジックに描かれ、儚の繊細な美しさとダイナミズムが、空間全体に広がっていた。20年以上にわたってたびたび上演されてきた本作は、「スーパー歌舞伎」の劇作家としても知られる横内謙介による戯曲だ。祖父である二代目市川猿翁(当時・三代目市川猿之助)とタッグを組んで仕事を重ねてきた横内の代表作に、孫の爽子がヒロインとして出演した。舞台のクライマックス。そんな瞬間の雨音と雷鳴。偶然がもたらした音響効果は、作品に付加価値を与えた。物語の悲恋に空も泣いたというのは、あまりに劇的な解釈だろうか……。新型コロナウイルスの猛威は世界を一変させた。演劇界も大打撃を受け、公演中止や延期が相次いだ。上演そのものが危ぶまれるなか、『いとしの儚』はかろうじて中止をまぬがれた。感染拡大によって、日常は蝕まれる。何げないことが、困難になった。映画館に行くことも、舞台を見ることも、あるいは外食や旅行に出かけることも、いちいちセーブするようになった。あらゆる行動に対して立ち止まり、いったん躊躇する習慣を私たちは身につけてしまった。’22年を迎えた今も、同じ課題を抱えていることに茫然とする。少しまばらな客席で、劇場の熱気に立ち会えたことは、記憶の中心部に今もしっかりと焼きついている。藤間爽子本人が振り返る。「『いとしの儚』は、コロナ禍で先が見えないままの上演でした。子どものころ、軽井沢にある祖母の別荘にいらしていた横内さんに遊んでもらった記憶があります。そのときはもう『スーパー歌舞伎』で祖父の猿翁さんに台本を書き下ろしていましたが、子どもの私はそんなことも知らず、遊んでもらっていました。まさか、横内さんの作品に出演するなんて思ってもみなかったです」7歳で初舞台、後継者に指名’94年8月3日、東京都生まれ。梨園や狂言の世界と同様に、幼少のころからその将来が決定づけられていた。祖母は初世・藤間紫(むらさき)。女優としても昭和芸能史に名を残した偉大な日本舞踊家だ。映画やストレートプレーにも多数出演し、主演舞台『西太后(せいたいごう)』は夫の猿之助が演出を手がけ、好評を得た。また、『ぼく東綺譚(とうきだん)』『父の詫び状』で第1回読売演劇大賞最優秀女優賞を受賞している。父は俳優として活動したのち、三代目猿之助が出演するスーパー歌舞伎のプロデュースなどを手掛けている藤間文彦(ふみひこ)。母はかつて劇団『昴(すばる)』に所属し、舞台や映像で活躍した元女優の島村佳江。日本舞踊家の兄・貴彦(たかひこ)はかつてジャニーズJr.の一員として、大学進学まで活動していた。まぶしくなるほどの芸能一家だ。爽子は7歳で初舞台を踏む。会場は、高層ビルに生まれ変わる前の歌舞伎座。そのころから初世は爽子の舞踊センスを高く評価し、後継者に指名した。昨年『三代目藤間紫』を襲名。日本舞踊『紫派藤間流』の家元を継いだ。一方、本名の藤間爽子名義で、女優業を続けている。ドラマや舞台で、頭角を現す若手俳優のひとりだ。初世の夫である市川猿翁は、紫の死後、『二代目藤間紫』として家元となり、流派の存続に尽力した。三代目を爽子に譲ったのが、昨年2月のことだ。幼いころから日本舞踊家としての素養を買われた爽子だが、周囲から絶賛され、将来を嘱望される愛孫に対して、初世は評価しつつも、「私が爽子と同じ年のころだったら、もっと上手に踊れたわ」と、ライバル心を隠さなかったという。才能と才能は、しばしばぶつかり合い、その運動と摩擦が新たな着火剤となり、互いを刺激するようにできているのかもしれない。もっとも、幼かった爽子にとっては、自身の才覚を認識することなどなかっただろう。「祖母はやっぱり天才だったと思います。踊り手として、あくまでプレーヤーでいたい人。どちらかというと私もそういうタイプで、ずっと踊っていたいんです。今後の流派のことを考えると、お弟子さんたちに稽古をつける仕事はとても大切ですが、私も自分の踊りを追求するほうに目がいきがちなんです。天才型の祖母は、教えるのは下手だったと聞いています。天才だから、うまく踊れない理由がわからないんでしょう」『紫派藤間流』は、’87年5月に創立。宗家藤間流から分派した。初世・藤間紫の世界観を継承する歌舞伎舞踊の一流派だ。翌’88年1月に大阪新歌舞伎座、’89年3月に歌舞伎座で紫派藤間流主催による公演が開催された。一方で女優・藤間紫として映画『極道の妻たち』や’95年の大河ドラマ『八代将軍吉宗』などの話題作にも出演し、お茶の間でも親しまれた。初世が天賦の才に恵まれた日本舞踊家だったことは、論を俟たない。夫の猿翁は、初世の著書『修羅のはざまで』(婦人画報社)にこんな文章を寄せている。《紫さんに、人間に対する鋭い洞察力、人の心を的確に読む力があるということは、紫さんの中にさまざまな人間の心や、人間というものに内在するあらゆる要素といったものがあり、それを己の心でしっかりとつかみとっているからに他ならない》猿翁からも激しく称賛される天才を、幼い爽子は嫉妬させた。それが持って生まれた才能によるものか、環境と積み重ねによるものか、それは本人にもよくわからないらしい。従来のファンは、爽子に初世の遺伝子を感じるのだろう。しかし、初世の舞踊を知らない世代も、爽子の舞に心躍らせるはずだ。それはつまり、爽子本人が持つ魅力のひとつに違いない。兄と二人三脚で流派を守る初世が病に倒れ、帰らぬ人となったのは、’09年3月27日。爽子が訃報にふれたのは、中学3年への進級を目前に控えた、14歳のときのことだった。「生前、祖母とふたりきりで会うことはあまりありませんでした。お弟子さんたちに囲まれていて、いつも大勢の人がいたことを覚えています。それでも、軽井沢の別荘で静養するときは、一緒にパンを作ったり、ご飯の準備をしたり、折り紙をしたり、兄と一緒に遊んだ時間もありました。稽古場にしても、とにかく人が多くて、祖母はみんなのためにご飯を作るんです。戦争を経験していることも影響しているのか“食べられるぶんはたくさん食べなさい”と言っていました。料理が好きで、いっぱいご飯を作ってくれました。猿翁さんには、独特の雰囲気があります。舞台上で飛んだり跳ねたりして、空中を漂っているような感じがする不思議な人。兄とチャンバラごっこをすると、迫真の演技で負けてくれるような優しい人でもあります」初世による直接指導を受ける機会は、さほどなかった。ベテランの弟子たちが初世からの教えを伝える。伝え聞いた紫の舞踊観を断片的に取り込んでいくことは、爽子にとって孤軍奮闘の作業だった。「たった1人の師匠からのマンツーマン指導でなく、初世に学んだお弟子さんたちの捉え方をいろんな角度から教えてもらって、そこから初世の“紫像”を自分でイメージしながらできあがったような気がします」爽子が三代目紫を受け継いだ際、兄の藤間貴彦も師範『初代・藤間翔』を襲名した。若い家元は、3歳上の兄の力を借りて二人三脚で流派を守っている。翔は、爽子にとって気を許せるもっとも身近な存在であり、仲間でありながらライバルでもあると語る。プライベートでも、時々食事に出かけるほど仲がいい。翔が言う。「とはいえ、いろいろ言い合いになることはありますけど(笑)。ケンカになったとしても、たいてい妹が勝ちますね。もちろん、基本的に仲はいいと思います。踊りに関して言っても、やっぱり誰よりも息が合うのは妹です。これから家元として背負うものは計り知れないくらい大きいと思いますが、僕は妹と流派を支える側として、盛り上げていきたい」エスカレーター式から別の学校へ総務省が発表した平成30年(’18年)度版の『情報通信白書』によると、’08年をピークに日本国内は人口減少の一途をたどっている。戦後の復興により中間層の生活水準が向上し、ピアノや書道の習い事が一般家庭に普及していく。華道や日本舞踊は明治以降から発展を遂げていたが、昨今の人口減少は大きな痛手だ。伝統的な文化資本の源流にとって、人口減少問題は対岸の火事ではない。さらには晩婚化や正規雇用率の低空飛行も追い打ちとなり、“踊り手”の獲得も、分母のあり方次第で存続の方法を変えていかなければならない。令和の時代の家元は、きわめてアクチュアルな課題に直面している。「日本舞踊は、プロとアマチュアの境界線が曖昧なんです。名取になってお名前をもらって、さらに師範になってからお弟子さんに教えることができるようになるんですけど、先生のお仕事と、上演して入場料をいただくプレーヤーとしてのお仕事は少し違いますよね。お弟子さんにはさまざまな人がいます。別の仕事を持って、趣味として続ける人もいれば、師範になりたい人もいる。もちろん、流派にとって、運営を続けていくにはどちらも大切。“競技人口”を増やすのと、観客を増やすのは、別のテーマです。今は、日本舞踊の面白さを知っていただけるように、見にきてくださる人を増やしたいという思いが強いです」自身を「優等生タイプ」と分析する爽子。やわらかい人当たりも、何げなく他人の話に耳を傾けて会話を楽しむ姿も、常にナチュラルだ。どんな相手とでも仲よくできるのは、爽子の人徳によるものでもあるだろう。それでいて、表現者としての芯の強さもあり、物事に対する柔軟性も持ち合わせている彼女は、周囲からすると「明るい人柄」として認められているし、実際に取材中も終始楽しげに語り、不愉快な態度を見せることはない。飾りけのない雰囲気が、場を和ませる。「しっかり者の優等生」という言葉がぴったりだ。けれども、多感な年ごろを過ごした中高生時代は、思い悩むことも多々あったという。「他人から見たら、明るくて普通の子だったと思います。悩んでいることをあまり外に見せないタイプかもしれません。無理をしているわけじゃないけど、だいたいのことは自分で解決しちゃう。ただ、根が内弁慶なので、家族にはワーワーと言いたいことを言っています。優等生タイプでちゃんと勉強するんですけど、唐突な行動をとって周囲を驚かせてしまうんです」爽子が通学していた都内の私立小中学校は、高校、大学までエスカレーターで進学可能な名門一貫校だった。成績も優秀だった彼女にとっては、そのまま高校に進むのが既定路線だったが、優等生はちょっとした“路線外の将来”を思い描く。別の高校への受験を決めたのだ。家族の想像とは異なる道。初世紫が亡くなり、自分が後継者として位置づけられていたことも、少なからず関係している。同級生たちが猛勉強している間、「自分はどのみち舞踊を続けるしかないんだ」という思いが頭をもたげ、人生のルートがすべて定められてしまったかのように思えた。すると、別の道を歩いてみたくなった。どうやら爽子は、敷かれたレールと異なる道筋の存在を知ると、そこに舵を切ってみたくなるようだ。系列の高校でなく、都内の私立高校に入学した。「中学から高校の間も日本舞踊は続けていました。だけど自分は、本当に舞踊が好きなのか、わからなくなった時期でしたね。お弟子さんたちの中には、ほかの仕事をやりながら、踊りが大好きで習っている人もたくさんいました」誰だって、今まで歩いた道とは別の人生を思い浮かべることがあるものだ。この両親のもとに生まれなかったら。きょうだいがいなかったら。別の国で育っていたら。性認識が異なっていたら……。いずれにせよ、自分の意思では選べないことばかりで、思いどおりには運ばない。なのに、やたらと考える。キリがないことなのは承知しつつ、人はいたずらに想像をたくましくする。恵まれた家庭環境も、本人の努力も、他人はそんな縦軸と横軸を無視して一方的に評価する。“第三者の座標軸”によって、自己評価がゆがむことだってある。だから、私たちは非現実的な想像を働かせ、できるだけ傷つかないよう、自身のコンプレックスをやわらげようとするのだ。「私がもし、別の家に生まれていたら、こんなに日本舞踊を好きでいられるのか、悩んだことがありました。それでも、なんだかんだ舞踊は続けていたんですよね。本当に嫌いになったということではないと思います」家元襲名は伏せて劇団に応募大学進学においても、家族を驚かせた。東京藝術大学には能楽や狂言、日本舞踊の家庭に生まれた子弟が通う『邦楽科・邦楽専攻』がある。しかし、爽子は別の進路に興味を抱く。実技や実演を中心とした大学生活ではなく、芸術を体系的に学びたいと考えるようになった。青山学院大学・文学部比較芸術学科は、美術、音楽、映像・演劇の3領域の鑑賞や歴史的背景を学ぶというもの。新設されて間もない学科だったことも好奇心に火をつけた。爽子が選んだ学問は、現在の仕事でプラスに働いている。単位取得が滞ることもなく、「優等生」らしく4年で大学を卒業した。日ごろの環境とは異なる場所に身を置きたいという願望は、「自分とは何者か」という問いが出発点だった。家元として次世代を継ぐのは、自分のみの力ではない。自分の力で何かを試してみたい─。だんだんと、女優業への思いが胸の中に膨らんでいった。兄の翔は、役者を志していることを事前に聞くことはなかったと話す。「妹が女優になると言いだしたとき、家族は突然のことで驚きました。母も役者でしたから、まったく想像がつかないということはありませんでしたが、『阿佐ヶ谷スパイダース』の劇団員になると知ったときのほうが驚きでした。しかも、劇団のメンバーは錚々たる人ばかり。やっていけるか心配でした」何かを始める際、周囲を驚かせるのは進学のときも同じだが、女優業への憧れは、少しずつ、彼女の心に積み重なる将来の夢だった。大学を卒業後、NHK連続テレビ小説『ひよっこ』への出演はオーディションで勝ち取った。現在、爽子が所属する『阿佐ヶ谷スパイダース』も’18年の劇団員募集のオーディションで加入した。阿佐ヶ谷スパイダースとは、長塚圭史が率いる劇団。長塚に加えて、中山祐一朗、伊達暁の3人による演劇プロデュースユニットとして、’96年に結成。現代劇からサスペンス、不条理劇などで人気を博し、’17年に劇団化した。長塚は現在『KAAT神奈川芸術劇場』の芸術監督を務め、劇作家・演出家・俳優として日本の演劇シーンにおける重要人物のひとりだ。劇団化によって、俳優だけでなく、スタッフや学生、主婦もメンバーに迎える阿佐ヶ谷スパイダースのスタンスに、爽子は強く惹かれた。「最初は書類審査で、《匂いについて》という課題の作文を提出しました。父のタバコのにおいが嫌だなあ、みたいな内容。そこから何度か実技オーディションがあって、奇跡的に合格しました。そのころ芝居の仕事は、ほとんどしたことなかったですから」舞台の稽古場では、時おり『シアターゲーム』が取り入れられる。互いの名前を呼びながらボール回しをする遊びのようなものだが、ヨーロッパの演劇の現場では、こういったゲームを用いて俳優同士のコミュニケーションを図ることが多々ある。主宰の長塚は英国での留学経験を活かし、そこで培った方法論を劇団でも応用している。爽子はオーディションの場でカルチャーショックを覚えたという。「このオーディション、落ちたとしても別にいいや。今がすごく楽しい!」そんな思いで挑んだ結果、爽子は阿佐ヶ谷スパイダース入りを果たした。『紫派藤間流』の家元を継ぐ予定であることは伏せたまま、劇団に応募書類を送った。長塚もオーディションの途中まで、爽子の履歴は詳しく把握していなかったようだ。「日本舞踊をきちんとやっている人なのはわかりましたが、紫さんのお孫さんであることは、オーディションの最終局面まで知りませんでした。だけど、やっぱり舞台に立って場数を踏んでいるのは、現場で伝わってきましたね。それなのに芝居は慣れておらず、あまり会ったことのないタイプ。未知数の魅力というか、原石のような光るものを感じました」伝統的な日本舞踊と現代作家が主宰する小劇場の劇団。対照的な存在にとらえられがちだが、流派と劇団には共通点があった。みんなで席を囲み、食事をともにする。子どものころから門弟たちと文字どおり“同じ釜の飯”を食ってきたように、劇団でも稽古の休憩時は一緒に食事をとる。劇団が白米を用意し、おのおのがおかずを持ち寄るといった具合だ。爽子が稽古場の炊事係を務めたこともあった。もっとも、現在は感染症対策によって稽古場での飲食はできなくなってしまった。「紫派も“阿佐スパ”も、すごく家族的だなと感じるところが、とても似ているんです。けれども、それぞれは自立しています」自宅にいるような居心地のよさと、ほどよい緊張感の共存する稽古場が、彼女の活動に相互的な刺激を与えているのだろう。拍手が鳴りやまなかった襲名公演三代目藤間紫を襲名し、1年越しの披露公演が実現したのは、’22年1月30日。東京メトロ『半蔵門』駅から地上に出て、白い息を吐きながら『国立劇場』へと急ぐ。前をゆく着物姿の女性たちが、横並びで談笑しながら、巨大な建物の中に吸い込まれていく。歌舞伎公演や日本舞踊を催す大劇場は、2~3階を合わせると1600席以上を擁する国内屈指の大型ホールだ。皇居を囲む内堀通りに面し、真横には『最高裁判所』もそびえている。爽子は、襲名前から『国立劇場』の舞台でたびたび踊ってきた。桁外れに間口の広いステージで堂々と舞踊を披露してきた彼女にとっても、襲名披露公演では特別な緊張感に包まれていた。「本番が近づくにつれて、舞台の夢ばかり見るんです。前日は眠れなくて、初めて寝酒に手を出しました。家にあった梅酒を一気に飲んだけど、結局一睡もできず、目がバキバキのまま楽屋入りしました(笑)。本番が終わった夜、ようやく熟睡できました」公演は昼夜2部制。1部のトリは『京鹿子娘道成寺』。爽子がメインで、ほぼ1人で45分間を演じる。女方舞踊の最高峰とされる本作は、「安珍・清姫」の悲恋物語をベースに、その後が描かれている。白拍子の花子が鐘供養に訪れ、舞を次々と踊るうちに、清姫の怨霊である蛇体となってしまう。ケレン味ある衣装替えもさることながら、恋心の変化を見せていくところが醍醐味だ。「道成寺物」の代表的作品でもある。可憐さと色気がまじり合う少女のうつろいに、客席の拍手は鳴りやまなかった。「清姫の執念をいかに見え隠れさせるか、そのバランスを保つのがむずかしかった」と、爽子は言うが、身体から発する磁力に引き込まれる。『義経千本桜』の名シーンであり「吉野山」とも称される『道行初音旅』は第2部のトリ。翔との共演だ。静御前と家来の佐藤忠信の道行(旅の過程)で、忠信は狐の化身だとわかる。義経に思いを馳せる静御前、狐が化身して護衛する忠信の舞がスペクタクルに表現される演目だ。流派の踊り手が総勢40人以上も出演するなか、コロナ感染者を出すことなく、無事に公演を敢行。大仕事を終えたばかりの爽子は、胸を撫で下ろしていた。祖母の名を受け継いだ特別な公演であること、それを無事に開催すること。二重の不安がついてまわったという。「上演中止のリスクもある時期に、本当に開催できるのか?踊りがきちんとできるのか?常に2つの課題がありました。劇場に足を運ぶことは、お客様にとっても不安要素ですよね。いろんな壁にぶち当たって、私は天国の祖母を思って踊り切ることだけに集中するよう考えを切り替えました。幕が開いたときは涙が出そうになりました」芸事とは無縁の友人を大切に日本舞踊、劇団内外の舞台出演のほか、映像分野にも活躍の場が広がっている。’21年7月期の日本テレビ系ドラマ『ボイスII110緊急指令室』で初の連続ドラマレギュラー出演を果たす。元恋人からのDV被害にあっている警察官・小松知里役を演じた。劇団公演としては3回目の参加となった『老いと建築』では、離れて暮らす父親の経営による飲食店でアルバイトをする26歳の喜子を演じた。映像や舞台で等身大の役柄を担うことに対して「少し照れる」と本人は笑う。日本舞踊では人間を超えた存在を舞うことが多いだけに、現代人を演じるのは少々の戸惑いがある。前出の長塚も爽子を「フィジカルな俳優」と評している。「いわゆる会話劇的な作品で現代人を演じることには、本人も苦労したはずです。ただ、公演の稽古を重ねていくことで、踊りと異なるアプローチの仕方に発見があったんじゃないかと思いますね。僕らの劇団は、あまりメンバー間でベタベタしないんです。創作のときには協力し合い、普段はそれぞれが自分の責任で取り組むので……。僕も代表として、劇団員に対してはほぼ放任主義です。爽子は、劇団という集まりに、かなりクリアな視線を持っています。阿佐ヶ谷スパイダースという劇団が自分にとってなんなのか、彼女自身もはっきりと認識しているのでしょう」集団への向き合い方は、紫派藤間流でたくさんの大人たちに囲まれて育ってきたことが影響しているかもしれない。集団の中に属することで、むしろ個人のあり方が問われることもある。だから、人間関係において率直に対峙し、きわめてフラットに振る舞うことができる。プライベートの時間では、芸事の世界と無縁な友人たちとの交流が多い。映画も舞台も、日本舞踊も、それを楽しむのが一般人であれば、自分にも一般感覚が必要だと感じている。「日本舞踊と芸能のお仕事だけだと、普通の生活の感覚がずれてしまう気がします。今、27歳で、まわりの子たちは結婚が現実的になっている。こういう世界だと結婚や出産をしない人もいるけど、普通の生活を営む人たちの存在は、私にとってすごく必要なのかもしれないです。お芝居をあまり見ない人には、藤間紫という名前を知らない人もたくさんいます」爽子が関心事の領域を外に向けようすることは、長塚も劇団に招き入れた当初から察知していた。次のように指摘している。「彼女は視界を広げたいんだと思います。日本舞踊の世界から、僕らの劇団に入ろうと志願することもそう。どんどん見えるものが増えていけば、すごく武器の多い俳優になれるんじゃないかと期待しています」強く爽やかな人であってほしい人生はまだまだ続く。「日本舞踊家として未完成」とたびたび口にする爽子だが、個人としての幸せを考えることは苦手だ。まだ将来を現実的にイメージできないからだという。日本舞踊に関わるときの鋭敏な表情とは対照的に、着物を脱いだ爽子には気取ることのない20代の女性らしさがある。フレンチブルドッグの愛犬・晴男と過ごすのが日々の楽しみで、好物は台湾発祥のイチゴ飴。稽古終わりに、お気に入りの店に1人でまぜそばを食べに行くこともあるそうだ。父・藤間文彦は、娘の将来について「完全に本人の自由意思」を尊重すると話す。「息子にも言えることですが、とにかく本人が自由にできればいいと思います。結婚にしてもそう。責任を果たす大人として行動できれば、僕は何も言いません。そして、他人に優しい人間であってほしい。親として望むのは、それだけです」当面、ダブルネームでの活動が続く。三代目紫と爽子。藤間紫の名で統一することも将来的には考えているものの、あまりにも大きい名前を背負うことにプレッシャーを感じている。本名も気に入っている。劇団の先輩たちや俳優仲間の多くは、彼女のことを「爽子」と呼ぶ。母の佳江が命名したものだ。「人に優しく接するためには、自分自身が常に変わらず強く爽やかな人でなければならない……。そんな思いも含まれています。僕の名前が『文彦』で、息子は『貴彦』。左右対称の文字を用いているので、娘の字も左右対称にしてもらえるよう、妻にリクエストしました」門弟に稽古をつける家元としての日々。日本舞踊家としての自分。役者の活動。コーチとプレーヤーを並走させながら、頭の中は芸に関することでいっぱいだ。生活のあらゆる場面が、芸につながる。日本舞踊のステージを終えるたびに、すぐに踊り始めたくなるという。芸事を嫌いになりそうだった高校時代。悩みの多かった少女もあと2年半で30代に突入する。思い描く将来は楽しみだが、どうにも具体的な予想がつかないらしい。「自分でも自分がわからないんです(笑)。極端な人間ではないと思いますけど、電撃婚して“専業主婦になります!”と宣言するかもしれません。私、いつもやることが唐突ですから」そう遠くないうちに、周囲をうんと驚かすような出来事が待ち受けているかもしれない。それはどんな報告だろうか。本人ですら予想がつかないのだから、聞かされる側はただドキドキしながら待つしかない。(敬称略)〈取材・文/田中大介〉たなか・だいすけ ●1977年生まれ。映画雑誌編集者などを経て書籍編集者に。演劇ライターとして『えんぶ』『週刊現代』などの雑誌や、演劇DVDのライナーノーツ、プログラムの執筆や編集に携わる。下北沢・本屋B&Bで舞台にまつわるイベントも企画・出演中
2022年03月26日誠実で愛情深くて、一見誰が見ても素敵な男性っていますよね。しかし、そんな男性のなかには、女性を泣かせる危険な人物もいるようです。そこで今回は、ダメ男かイイ男かを見極めるポイントをご紹介します。■ すぐに謝るけど…「彼氏は、すぐ『ごめんね』『気をつけるね』と言ってくれるので、最初はいい男を捕まえたと思っていました。でも、彼って謝るだけで改善はしないんです。『こういうところを直してほしい』『ごめんごめん』で、何もしない……この繰り返し。話し合いができないので早く別れたいです」(27歳/女性)「とにかくこの場を丸く収めたい」という気持ちで、とりあえず謝っている男性もいます。一緒にいてもストレスがたまるだけでしょう。■ 愛情表現が派手だけど…「愛情表現が派手な男性と付き合ったことがあります。最初は『愛されて幸せだな』と思ってましたが、だんだん彼が、仕事中でも何度もLINEを送ってきたり、私のスマホを見たりするようになって……。私が友達と約束してても『彼氏なんだから俺を優先しろ』ってデートしたがったり、振り回されるのに疲れて別れることに。別れ話の最中さえ『でもまた会えるでしょ?』と言ってて、私の気持ちなんて最初からどうでも良かったんだな……と目が覚めました」(29歳/女性)分かりやすい愛情表現をしない男性も多いなか、情熱的に見える男性に魅力を感じてしまう人も多いでしょう。しかし、愛情表現が派手=愛が深いとは限りません。彼女の気持ちや予定を考えない男性には注意してください。気持ちのキャッチボールができているか、振り返ってみましょう。■ チャラそうに見えないけど…「友達が『マッチングアプリって全然いい出会いがない』と嘆いているので見たら、結構なイケメンからたくさん『いいね!』が来てるんです。これでもダメ?と聞いたら『だって私にこんないい男が来るわけないじゃん』と。いい男は全部サクラで、モテなそうな地味な男性や、おじさんだけが本気と思っているみたい。チャラそうに見えなかったら誠実というわけじゃないんですけど、説得するのも難しいですね」(32歳/女性)チャラそうに見えない男性が、必ずしも誠実だとは限りません。「男ウケを狙って清楚に」という女性がいるように、計算であえてもっさり見せている男性もいます。思い込みによる警戒心は、早めに捨てた方が吉です。■ 不幸になる前に素敵な彼だと思っていても、違和感がある場合は要注意です。小さな違和感を無視していると、不幸な結末を招いてしまうかもしれませんよ。(中野亜希/ライター)(恋愛メディア・愛カツ編集部)presented by愛カツ ()
2022年03月20日※画像はイメージですコロナ禍でバイトやパートのシフトが減らされた──。月々の収入がグッと減り、このままでは生活できないかも……!?そういった状況に陥る人が増える中、なんと都内に月収10万円生活を満喫する女性がいるという。その名も「月収10万円 豊かな生活。」というブログを運営するのは、現在東京でひとり暮らしをする30代の女性、miさんだ。東京で月収10万円でも豊かに暮らす「仕事がある日は、朝起きたら家事をして、お腹がすいたらご飯を食べ、時間になったらバイトに行きます。決まったルーティンはなく、その日過ごしたいように過ごしています」外でバリバリ仕事をするより、家でのんびりマイペースに暮らしたいというmiさんは、1日6時間、週4日程度、ひと月の労働時間は100時間ほどという働き方をしている。すでに10年ほどこのスタイルを続けているそうだが、月によっては給料8万円でも生活には困らないというから驚きだ。都内在住で収入は平均10万円──。毎月の支出はどうなっているのだろうか?家賃は5万3330円と月収の約半分。+αで光熱費やネット・スマホ代などがかかり、それらを合わせると、ひと月の固定費はだいたい7万6000円程度。余ったお金を食費や日用品、趣味のものを買うのに充てているそうだが、驚くことにお金が足りなくなることはなく、むしろ少し余ることがほとんどだそう。月収10万円といっても、決して生活の質を落としてはいない。例えばデパートコスメを買うこともあればカフェでお茶をすることもあるし、湯船にはほぼ毎日つかっているという。意外にも想像以上の豊かな生活を送っているmiさんだが、この生活を始める10年前までは月に25万円稼いでいた時代もあったそうで──。「飲食店のバイトを掛け持ちし、1日12時間近く働いていました。月に25日間くらいは出勤していましたね。ただそのぶん自由に遊んだり買い物したりする時間はなく、1日中休みなく働くのは正直しんどかったです。しかも当時はこんなに働いて稼いだお金が減るのが不安で、外食などもあまりできませんでした」生活費は最低限15万円必要。遊ぶとなるとさらにお金がないといけない……。そのような固定観念にとらわれ、当時は時間のある限り必死に働いていたのだという。辛い中で見つけた今の生活スタイルそんな中、就職しようと思い立ってバイトを整理したものの、仕事探しがうまくいかず、しばらくの間、つなぎとして始めた5万円のバイトだけが生活の糧になった。しかしこれが現在の月10万円の生活を始めるきっかけになったという。「月収5万円になったときは家賃を払うのでいっぱいいっぱいでした。日雇いバイトをして補っていたこともあります。そこからようやく月収10万円くらいになったとき、25万円稼いでいたときみたいな生活はしんどいから10万円のままでいいかなと思い、今の生活に落ち着きました。ひと月5万円の生活から始まったので、10万円はむしろ余裕を感じるくらいです(笑)」働き方が変わっていちばんよかったのは、自由な時間が増え、心にも余裕が生まれたことだという。「欲しいものがあるけどお金が足りないというときは、もともとが時間に余裕がある働き方をしているので、『今月は働く時間を増やしてお金を稼ごう』と考えられるんです。だから生活を切り詰めたり、欲しいものを我慢したりする必要もありません。働いてお金を貯めてるうちに気持ちが落ち着いて買わないこともあるのですが(笑)」「お金がなくなったら人生詰む」とさえ信じていた月収25万円時代。精神的な余裕がなかったため、自分が困ったときにも助けは求めづらかったとmiさんは話す。「今はバイト先でシフトに穴があいたときも、自分が代わりに入って周りの人を助けられるようになりました」買い物をするのはスーパーよりは米屋さんや魚屋さんなどの個人商店。店員さんとたわいのないおしゃべりをしながら、のどかな時間を過ごせるのが醍醐味だそうだ。今でこそ心にも金銭にも余裕を持てるようになったmiさんだが、初めから上手にお金をやりくりできていたわけではなかった。試行錯誤しつつ、豊かに暮らせる方法を見つけてきたという。節約しない節約術食費や日用品、趣味などに使える金額は1か月で2万円程度。その中でやりくりする秘訣、それは「自炊をすること」。毎日の食事はもちろん、漬物や梅干しなども自分で作ってしまうそう。「昨年末、添加物が入っていないキムチが食べたくて自作しました。市販で買うのと同じ金額でも、自作すれば5倍くらいの量が作れるんです。決して、節約しようと思って作ったわけではないのですが、結果的にそうなっていましたね」市販の約5倍もの量ができあがったというキムチの材料費はなんとたったの600円。白菜1玉分のボリュームだというからこれはかなりお得だ。miさんのお金のやりくり術、それは買い物の仕方にもコツがあった。彼女の財布に入っている金額はいつも1000円ほどで、クレジットカードは持ち歩かないという。「いつも必要最低限のお金しか持ちません。もちろん予定にはなかった食材を買いたくなったり、欲しい洋服などを見つけてしまったりすることはあります。ただそんなときは一度銀行に行かなければならない。そうすると、銀行に行ってまで欲しいものなのか? と冷静な判断ができるんです」この方法のおかげで衝動買いをしなくなったそうだが、それでも欲しいと思ったら、買うことを躊躇(ためら)わないのがmiさん流。「自分が本当に欲しいと思ったものは、その気持ちを否定せずに買います。もし買った後に失敗だと思っても、自分を責めません。無理や我慢をしてストレスをためたり、できない自分を否定したりするほうがよくないと思っています。無理せず自分の心に従う、これが豊かに暮らし続けられる秘訣なのかもしれません」〜miさんの1か月の収支(2022年1月)〜●収入約12万円●支出家賃5万3330円通信費1万2141円ガス 3493円水道 3768円電気 1646円食費・日用品等1万9000円合計9万3378円★余った2万円は貯金に回す!昨年の12月は年末で忙しかったため、普段よりも収入の多い月。miさんは家計簿をつけていないので、支出額はおおよそだという。収入が少ない月は貯金をしないこともあるそう。ゴミを減らすことで節約につながったさらにもうひとつ、節約術の幅を広げているのが「ゼロウェイスト」という、ゴミをゼロにすることを目標とした活動をすることだ。例えば、ゴミはゴミ袋を使わずに何かのパッケージ袋などにまとめて出す。そうすることでゴミ袋を買う必要がなくなり、ゴミ袋代が浮くようになった。ほかにも、傷んだバスタオルは台所の手ふきに、さらに傷んだら食器洗い用に……と、最終的に掃除用雑巾になるまで使い切るようにしている。もともとはゴミを減らしたいと思って始めたことだが、今あるものを使えば新しいものを買う必要がなくなり、結果的に節約につながる。このように、miさんが行う節約術は、自分がしたいことや自分に合うものを探した結果、それが節約になっていた……というパターンばかりだという。「私自身、向いてないな、合わないなと思ったことはやめてもいいと思っています。そして本当にやりたいことはお金がかかったとしても我慢しない。そうやって無理なく自分に向いているものを選んでいくことが、無理せずこの暮らしを続けていくコツではないでしょうか」朝から晩まで仕事詰め。もうそんな生活を離れてマイペースに生きていけたら─。現代社会でこそ増えた悩みを持つ人が、miさんのような生活を始めるとするならどうすればいいのだろうか?「周りの人と比べないことですね。この人は◯万円で生活できてるのになんで自分はできないのか、と自分を責める必要はありません。自分に合った満足できるスタイルは必ず見つかります」miさん流お金との付き合い方■(1)「値上げ」につられて買いだめはしない→スーパーやドラッグストアではいつでも「安売り」を行っている。いつも買っている店の価格を定点観測して“本当に安いとき”を見計らって買う。■(2)「使う量」は適正か、常に見直す→例えば洗濯用洗剤や柔軟剤、トイレットペーパー。なんとなく使っている日用品、消耗品の使用量に目を光らせてみるだけで、年間数千円のコスト減に。■(3)「お給料まであと〇日」とカウントしない→お給料日を見張っていると、“お金がない”と思う回数が増えてしまう。「今これくらい残っているから、こういう買い物にしておこう」とお金をコントロールする気持ちが精神的なツラさを生む。■(4)「暖房を使わない暮らし」になれる→暖房を使うと狭い部屋が乾燥して肌やのどの調子が悪くなる。厚着をしてカイロを貼って過ごすくらいでちょうどいい。“使わない”を前提にした暮らしに慣れていくことで、自分の健康や地球にもやさしい生き方に。■(5)“自分の出したゴミ”を数えてみる→ゴミのカウントはペットボトルからスタートした。「どこに行くにも水筒を持ち歩いているつもりだったのに、1年目は50本も出していてびっくりしました」。ゴミの量をチェックしていると、無意識に何をどれだけ買っているかを見直せる。PROFILE●miさん●ブログ「月収10万円豊かな生活。」を運営する都内に住む30代の女性。月に100時間程度働き、月収10万円で豊かに暮らす生活をつづっている(取材/オフィス三銃士)
2022年03月19日原発事故後、福島県いわき市から東京へ避難した鴨下全生さん。11年たち、現在は大学生に撮影/齋藤周造東日本大震災と福島第一原発事故の発生から間もなく11年がたつ。当たり前だった光景や生活は一変し、いまだ日常を取り戻せない住民も少なくない。とりわけ原発事故に翻弄され続けてきた子どもたちは、この11年、何を思い、どう生き延びてきたのか。未曽有の事故は何をもたらしたのか―。大人になった3人の体験や言葉を通して、今、考える。9歳の願いは「天国に行きたい」「よかった、(取材時に息子は)これからの話なんてしたんですね。数年前のあの子は、そんなことは考えることもできなかったから」前を歩く鴨下全生(まつき)さん(19)を見ながら、母・美和さんはそう言った。原発事故後、都内に避難をした全生さんは、避難先でいじめに遭い、過酷な少年時代を過ごしていた。空き地のツクシを佃煮にして食べたり、かるがもの子どもの迷子を助けたりするような自然豊かな暮らしが一変したのは、2011年3月11日。東京電力・福島第一原子力発電所の事故が打ち砕いた。当時、福島県いわき市に住んでいた全生さんは8歳。母と習い事に出かけようとしていたところで地震が発生した。家の前で、母に抱きかかえられたまま、長い揺れがおさまるのを待った。母とすぐに保育園にいた弟を迎えに行き、いわき駅に出かけた祖父を探しに出た。駅前は地震で混乱していると見込んだ母は、全生さんと弟の2人に「必ず帰るから、絶対に車から出てはダメだからね」と少し離れた駐車場に残し、駅へと走っていった。しかし、いつまで待っても母は戻らない。余震は続いていた。そのうち弟が「トイレに行きたい」と言い出し、全生さんは母との約束を破って、弟を近くのガソリンスタンドのトイレに連れていった。1時間半ほどで、母が戻ったとき、全生さんと弟はわんわん泣いていた。「弟は心細かったから泣いていたかもしれないけれど、僕は約束を破っちゃったという気持ちで泣いていた」と、全生さん。当時8歳の自分には、地震や津波で人が亡くなるということも「ピンときていなかった」と言う。翌朝5時ごろ、「避難をするよ」と両親に言われ「おもちゃを3つ選んでいいよ」と言われた。弟が4つ持っていきたいと言うので、全生さんは1つ分の権利を弟にあげて車に乗り込んだ。移動中は、いつ寝て起きたのか覚えていないが、母が原発から放射性ヨウ素が放出されるのを懸念し、大量の海苔を食べさせられたことは覚えている。甲状腺の被ばくを避けるためだ。政府からの避難指示はなく、いわゆる「自主避難」だった。このころ、次々と爆発する原発の状況に不安を感じた福島県の多くの人が、県外へ避難をしていた。19時間半かけてたどり着いた横浜の親戚の家で、全生さんは驚いた。外は暗いのに時計が1時を指していた。「1時は明るい時間のはず!」しかし、夜なのが不気味だった。親戚の家には長居はできず、数日で別の親戚のところに身を寄せた。避難先を転々とする中で、全生さんの学校生活も始まった。そこで、いじめられるようになった。全生さんは言う。「本当は、思い出さなくていいなら、思い出したくない」私物に落書きをされたり、一方的に暴力をふるわれたり、“菌扱い”をされたりすることも当然つらかったが、いちばんつらかったのは人間扱いされないことだった。「いじめられているうちに、“自分が悪いんだ”と思い込まされてしまったんです」と、全生さんは当時を振り返る。9歳の願い事は「天国に行きたい」だ。そのいじめの構造について、こんなふうに話してくれた。「最初のころは、いじめはなかった。僕が“避難しているかわいそうな子”だったからです。でも、だんだんほかの子たちと同じように過ごすようになると─、例えば、支援物資をもらっていた僕が、同じような生活ができるようになると“社会的地位が下だったはずなのに”という感情が起きるんじゃないでしょうか」当時はひたすらつらさに耐えていたが、次第に、「なぜ差別やいじめが起きるのか」と考えるようになったという。激しいいじめから逃れるために中学受験をした。中学生になってからの全生さんは、避難者であることを隠して生活した。それ以降は友達も増えて、楽しい生活だった。だからこそ、隠すことはつらかった。全生さんが言う。「ポスターなどでも“思いやり・仲よく”といった言葉でいじめをなくそう、と謳っています。でも、そうじゃない。どんな理由があろうといじめはダメ、だけでいい。どんな人間も、たとえ最低なヤツでも、守られるんだという考え方が必要だと思う。だから、人権の問題だと思います」ローマ教皇への手紙原発事故から時間がたつにつれ、「自主避難者」への風当たりも強くなっていった。2017年には、福島県は避難住宅の提供を打ち切った。被害が残っているにもかかわらず国も福島県も「風評被害対策」には力を入れ、原発事故は終わったかのように振る舞うことで、被害を受けた人々の口をふさいだ。そんな中、全生さんに転機が訪れる。2018年の秋。自分の苦しみを手紙に書き、ローマ教皇に送ったのだ。「ローマ教皇には、世界中から手紙が届くんです。だから、読んでくれたらラッキーだね、という感じでした」美和さんも全生さんも、それほど期待はしていなかった。その手紙が奇跡的にローマ教皇に届いた。実はこのとき、心に決めていたことがある。「もしもローマ教皇から返事が来たら、僕は顔も名前も出して自分の思いを社会に訴えよう」と。そして、全生さんの覚悟が決まった。2019年3月20日、バチカンで全生さんはローマ教皇に会い、思いを伝えた。その8か月後には、カトリック中央協議会主催の「東日本大震災被災者との集い」でも再会した。そのとき、全生さんは参加者の前でスピーチした。原発事故、避難、いじめの経験、避難住宅の提供打ち切り、原発が国策であったことや国によってつくられた分断。そして、放射能汚染と被ばくの問題、さらに世界から被ばくの脅威がなくなるようともに祈ってほしいと─。その集いが終わると、1人の青年が全生さんにくってかかった。「“避難ができた僕らは、まだ幸せだった”とは、どういう意味だ!私は今も福島に住んでいる!」全生さんは相手が納得するような返事ができなかった。その日、帰宅すると急性胃炎になり、39度の熱が出た。「その人もつらい気持ちがあったのだと思う。その痛みに耳を傾けるべきだったと今でも後悔している」と、全生さんは言う。市井の人の分断を生んだのは国の施策だ。福島県に住み続けていても、ふとしたときに原発事故の被害を実感し、今なお回復していないと思う人もたくさんいる。「庭の山菜はあきらめたよ」「汚染水放出したら海釣りできないな」など、何げない会話に原発事故が潜む。あるいは、はなから救済されないとあきらめ、放射能汚染を忘れようと努めた人もいる。本来は、国が汚染を矮小化せず、被害に対して十分に賠償すれば、分断もなかったはずだ。その後も、全生さんは顔も名前も出して発信をし続けた。母・美和さんは「何度も止めていた」と話す。美和さん自身もつらい思いをし続けていた。嫌がらせなのか、車のタイヤに傷を付けられ、バーストしたことも何度かある。「あなたまでつらい思いはしないで、と思っていました」だが、全生さんは、話すことで世論を変え、原発事故が終わっていないことを伝えられると信じていた。「自分と同じくらいの世代で、原発事故について発信をしている人が、当時は少なかったからやるしかないな、って」最近は同年代の発信する仲間が増えてきたことがうれしい。だけど、「安心して話して」とは誘えないと言う。「公の場で話してくれる人が増えたことはうれしいけれど、積極的にはすすめられない。うまく伝わらないストレスも、誹謗中傷もあるから……」今でも胃薬を飲みながら講演をすることがある。それでもなお、全生さんは発信し続けている。この11年を生き抜いて、原発事故について思うことを聞くと、「復興したかのような風潮に違和感があります。国がやらなくてはならないことがたくさんある中で、報道が少なくなると、解決したことのようになってしまう。だから、言い続けないといけないと思っています」理知的な目で真っすぐにそう語る。そんな全生さんに、これからのことを聞いてみた。「本当は、僕が話さなくていいなら、話すのが得意な人にまかせたいけど、やらないと日本が壊れてしまいそうで。原発事故のこととは別に、音楽を作ったり、3Dモデルとか、イラストを作ったり、創作系のことをやってみたい」一方、ロシアによるウクライナ侵攻のことも全生さんは気にしていた。チェルノブイリ原発の周辺で戦闘があり、原発内部もロシア軍に占拠された。軍事行動で原発が攻撃対象となるリスクもあらためて明らかになっている。「国の安全保障を語るとき、原発どうするの?と思います。近隣国の脅威は強調するのに原発について触れないのは、理屈が通っていない。僕は日本が好きだから、この健全ではない状態を変えなきゃ……と思っています」被害を訴えると「加害者」に2022年1月27日、甲状腺がんに罹患した当時6歳から16歳の子どもたちが原告となり、甲状腺がんは原発事故の影響だとして、因果関係を明らかにするよう東京電力を提訴した。事故後11年を経て初めて、放射線被ばくの影響について東京電力を訴える集団訴訟だ。原告全員が甲状腺の摘出手術をし、6人のうち4人は再発、2度以上の手術を受けている。また、全摘した4人はホルモン剤を一生飲み続けなくてはならず、肺への遠隔転移を指摘されている子どももいる。この11年、「誰にも言えずに苦しんできた」理由のひとつは「風評加害者」と言われてしまうからだ。「風評加害者」とは、原発事故の「風評被害」を撒き散らす人のことらしい。環境省が開催した『対話フォーラム』(2021年5月)では、環境大臣(当時)の小泉進次郎氏や学者も「風評加害者」について強調していた。そうした安易にレッテルを貼る言葉が、ひそかに苦しむ人の口を塞いでしまっている。原告弁護団団長の井戸謙一氏が会見で「原告は重い決断をした。つらい場面も出てくるだろうけれど、攻撃する人がいても、何十倍の人が支援していると実感すれば頑張れる」と語ったように、残念ながら、実際に被害者に心ない言葉を投げかける人もいる。だからこそ、そんな中での提訴には勇気が必要だった。原告のひとり、森山詩穂さん(仮名=25)は、福島県中通りで被災した。彼女が仮名でなければならないことも、この国の生きづらさを象徴している。3月11日は、15歳だった詩穂さんの卒業式だった。卒業式が終わり、家族と自宅に戻ったところで被災。「大きな揺れで、長くて、怖かった」という。揺れがおさまり外に出ると、晴れていたはずの空が重い雲に覆われ、吹雪いていた。その異様な雰囲気を詩穂さんは鮮明に覚えている。翌日は朝から、地震で全壊してしまった親戚の家の片づけを手伝った。庭に家具を運び出す作業をしていると、家の前の道路が、渋滞を起こしていた。「普段は車が多くない道なので不思議でした。あとから考えたら、原発に近い浜通りから避難していた車だった」当時は、何が起きているのかわからなかった。12日の早朝には、原発から10km圏内に避難指示が出され、その後20km圏内にも拡大した。10万人近い浜通りの人々が散り散りに避難していた時間と重なる。被害を免れた離れの部屋でテレビを見ていた祖母が「原発が爆発したみたいだよ」と教えてくれた。雨も降り始め、両親は「詩穂はもういいから、おばあちゃんと家の中にいて」と言った。その後、両親はチェルノブイリ原発事故の話をした。放射性物質が飛んできたら、健康被害があるかもしれない。食べ物にも気をつけたほうがいいと聞かされた。3月16日は、県立高校の合格発表だった。すでに、福島原発の1号機と3号機が爆発し、2号機や4号機も危ない状態だった。母は「行かないほうがいい」と言ったが、合格者に出される課題を取りに行かなくてはならず、自転車で出かけた。それからは、ほとんど外に出ない生活だった。スーパーで「1人1個」という制限があるものを買うときだけ、母の買い物に付き合った。近所の人たちも「井戸水はやめよう」と話し合い、日常的だった自家栽培の野菜の交換もやめた。母は詩穂さんの身体を気遣い、ミネラルウォーターを買い、牛乳は産地を選んだ。4月になり、高校が始まった。詩穂さんは運動神経がよく、スポーツが好きだった。入りたい部活は屋外競技。しかし、母からも「絶対に屋外の運動部はやめて」と心配されていたのであきらめた。「でも、今思えば、やりたかったなーと思うんです」入学当初は、みんながマスクをしていたが、ある日、「マスクしなくてもよくない?」という誰かのひと言がきっかけで、マスクを取り始めた。詩穂さんは最後までマスクをしていたが、夏にははずした。校庭には、近隣の小学校を除染した土が入ったフレコンバッグが1年ほど置かれていた。側溝やベランダ、自転車置き場など、放射線量が局所的に高いホットスポットの周りは三角コーンで注意を促していたが、そこを通らないといけないこともあり、気にしないようにしていた。1年目はマラソン大会が中止だったが、2年生からはほとんど通常どおりだった。ある日、先生が校庭で放射線量を測っているところに詩穂さんは通りかかった。「あ、超えてる。まぁいっか」そんな言葉を聞いてしまった。当時、校庭の利用は、毎時3・8マイクロシーベルト(事故前の100倍)以下と決められていたが、それを超えていたようだった。「当時、体育の先生はずっと授業の遅れを気にしていたんです。授業をしなくちゃ、とあせっていたのかも」自宅では、祖父が放射線量計を購入して測ってみると、部屋の中でも、毎時1〜2マイクロシーベルトあり、ベランダや花壇はさらに毎時3〜4マイクロシーベルトもあった。市の除染は放射線量の高い地区から順番に行われていたが、待っていられず、祖父は高圧洗浄機で除染した。甲状腺がんを打ち明けなかった理由運動部に入らなかった詩穂さんは、「都内の大学に行く」と目標を定め、高校生活は勉強に打ち込んだ。そして、晴れて希望の大学に合格。憧れの都内で、入学を機にひとり暮らしを始めた。遊ぶところやおいしい食べ物屋もたくさんあり、バイトも始め、楽しい東京での生活がスタートした。しかし、少しずつ身体に異変が起きていた。1か月で10kg太り、身体がむくんだ。生理不順や肌あれも悪化した。最初は、自己管理できていないからかな、若い女性によくあることなのかな、と思ってやり過ごした。しかし、今度は水や唾を飲み込むと、のどに違和感が出始める。気になって母に話すと、「甲状腺系の病状だと思うから、早めに検査を受けよう」と言った。詩穂さんは、福島県立医大が行っている甲状腺エコー検査の2回目を、忙しくて受けないままだった。大学が休みの日に、大きな会場で行われた甲状腺エコー検査を受けるために詩穂さんは都内から福島県内に戻って、受検した。並んでいる人たちはみな1分ほどで終わるのに、詩穂さんのときだけ、その流れが止まった。医者がしきりに首を傾げている。「ほかの人と違う。何かあったのかな」と感じた。再検査の通知は母が受け取り、県立医大からは急かす電話もかかった。学校を欠席して再検査を受けるころには、「自分は甲状腺がんかもしれない」と思い始めていた。2015年の秋、19歳の詩穂さんは甲状腺がんだと医師に診断された。「そのとき、原発事故との因果関係はない、とその場で言われてしまったんです。なぜわかるの?と思いました」何とも言えない気持ちと、母の涙は忘れられない。大学のテストの最終日、その足で病院に入院して手術を受けた。目覚めたとき、首から下の感覚がなかった。手術の影響で免疫力が下がり、2か月ほどは体調が回復しなかった。少しずつ回復してからは、大学生らしい生活も過ごせたが、立ち仕事のアルバイトは辞めざるをえなかった。詩穂さんは「差別」を気にしていた。自分が甲状腺がんになったことを知れば「被ばくした人」と思われる。避難先で差別された話や、婚約を破棄された話も聞いていた。親しい数人には甲状腺がんの話をしたが、みな、やさしい言葉をかけてくれた。「思ったほど差別されない」と詩穂さんは感じた。一方、悪気なく「甲状腺がんは予後がいいんでしょう」と言う人もいた。以前と同じ暮らしではない詩穂さんには残酷な言葉だった。就職活動では、がんに罹患したことを言わずに通した。しかし、嘘をついているような罪悪感も付きまとった。2019年に就職したが激務で甲状腺の数値が悪化、体調を崩したため、退職した。「本当は、やりたい仕事があったけれど、今は事務の仕事をしています」母は、ある日、誰に言うのでもなく「あのとき、ああしておけばよかった」とつぶやいた。両親は詩穂さんの身体を心配している。「いま、福島県立医大の甲状腺エコー検査は、縮小しようとしています。そして(手術しなくていいがんを手術した)過剰診断だと言って、原発事故との因果関係はないと言います。なんでそうなるの、という憤りがあります」自分だけではなく、声をあげられない年下の子どもたちのことが気がかりだ。「これから検査を継続して、予後が本当にいいのかも調査してほしい。私たちが声をあげることで、ほかの人も声をあげられる状況になってほしいと思います」11年、周囲に言えずに生きてきた詩穂さんの実感のこもる言葉だ。また、裁判を通して知り合った同じ境遇の仲間の姿に、詩穂さんは胸を痛めている。「私もいろいろなことをあきらめたけれど、がんに罹患した年齢が低いほどあきらめるものが多い。身体と心に負担を抱え、恋愛も結婚もしない、1人で生きていく、と」大学進学も就職もあきらめ、生命保険にも入れないと話す原告の仲間。せめて相談し合えること、共感し合えることの意義は大きいと詩穂さんは改めて感じている。「裁判を通して(事故とがんの)因果関係を明らかにしてほしいし、乏しい医療支援も改善してほしい」そして、同じように苦しんでいる、福島県の300人近い甲状腺がんの子どもたちを勇気づけたい─、そう願っている。詩穂さんは、何度も「私より若い人」「私より病状が悪い人」「まだ1人で苦しんでいる人」を慮っていた。県外避難で生じた罪悪感画面越しに、わかなさん(26)は静かに呼びかけた。「つらくても、生きていてください」2021年12月、ある大学で開かれた、震災を経験した人から学ぶオンライン授業での最後の言葉だ。コロナ禍で学生たちは生きづらさを感じているかもしれない、とわかなさんは心配したのだろう。モニターの向こうにいる180人の学生に向けて、その言葉が発せられるまで、わかなさんの11年の道のりは苦しみの連続だった。絞り出された言葉には、重みとやさしさがあった。福島県伊達市で被災したわかなさんは、当時15歳。卒業式の日だった。震度6弱の揺れに、「この世の終わりだ」と思った。空が真っ暗になって雪が降り、雷まで鳴ってカラスが飛び回る。天変地異のようだったとわかなさんは思い返している。ラジオで原発が爆発したことを聞いたとき、ピンとこなかった。母が「このままだとチェルノブイリみたいになる」「逃げなきゃ」と言い、一方で父は「国が大丈夫だと言っているんだから大丈夫だろう」と言っていた。しかし、父が折れ、3月15日には母の実家がある山形県に避難をした。3月16日の高校の合格発表に、山形県に避難をしていたわかなさんは行けなかった。この日の福島市の記録を見ると、一時は毎時20マイクロシーベルト(事故前の666倍)。わかなさんは、のちに避難したことに負い目を感じるようになる。友人たちは高い放射線量の中、知らずに被ばくしてしまった。「私だけ逃げた」という思いにとらわれてしまう。父は仕事のために福島に残り、母と弟の3人で、山形県に1か月ほど避難していた。わかなさんの高校入学と、弟の学校が始まる4月に伊達市に戻ったが、それからも家族会議は続いた。両親が喧嘩になることもあり「どっちについていくの」と母に言われた。最後の話し合いの日の、母の言葉が忘れられない。「あなたはどうしたいの」「私はせっかく今の高校に合格したし、行きたいよ。でも……高校3年間と私のこれからの人生を天秤にかけたら、どちらが大切か明白でしょ」わかなさんはそう答えた。このころ、さまざまな場面で「大人もただの人間なんだ。何が正しいか大人も判断できない」と気づき、愕然としていた。合格した高校の入学式の日には、家族会議で山形県への避難が決まっていた。「家族で自主避難をすることになったので、編入手続きをしてください」と先生に伝えると「これを読め。安全安心と書いてある」と原発安全神話の本を差し出された。また別の先生には「おまえが行く(避難する)と風評被害が広まる」と言われてしまう。わかなさんは唖然とした。これまで筆者は、母子避難の母親を取材する中で「歩く風評被害と言われた」「気にしすぎなんだよと笑われた」「避難するなら離婚だと言われた」など、つらい経験をたくさん聞いた。しかしまさか子どもに向かってそんな言葉を投げかけた教師がいたとは、驚く。一方、別の先生は、教壇で泣きだし「3月16日の合格発表で、みんなを被ばくさせてごめんなさい」と話したという。わかなさんは、約10年間のそういった経験を克明に綴った『わかな十五歳中学生の瞳に映った3・11』(ミツイパブリッシング)という本を出している。「多感な時期の子どもたちは、自分たちの意見も感情も、誰にも話すことさえできず、ただ沈黙させられるという状況でした。私たちが怖いとか、嫌だとか言えば周りの大人を困らせてしまうだろうと“忖度”して、感情を押し込めて生活していました。そして、いつしか感情を閉ざすことに慣れていき、感覚が麻痺していくようでした」そうした内面が率直に綴られている。たくさんの大人に読んでほしい1冊だ。当時、そんなふうに過ごしていた子どもたちに対して、誰もケアに回ることができなかった。死ねないのなら、生きる方法を探そう「私だけ逃げた」という思いを抱えて、山形県で高校生活をスタートしたわかなさん。山形県の生徒や先生にとって、原発事故が他人事であることを突きつける言葉に傷つき、心を閉ざしていく。入学から2か月がたったころには、授業中に自然に涙が出てくることも増えた。3・11から泣いたり怒ったりすることを、まともにしていなかった。その後5年間、体調不良が続き、精神状態も悪化した。朝は起きられず、夜は眠れない。気力がなく、その日を生きるだけで精いっぱい。高校2年のころに心療内科に通うようになり、PTSDとパニック障害ではないかと言われた。「命を守れない社会にしたのは誰なのか」と、わかなさんは高校時代に考え続けていた。家族ともうまくいかず、誰もわかってくれないという思いも募った。その負の感情は、自分に向き、自傷行為がひどくなった。とうとう高2の冬、雪の降る日に、死に場所を探して屋外をさまよった。しかし、死ねなかった。「私はものすごく死にたいって思っていたけど、ほんとはものすごく生きたいんじゃないかなって、そのとき思ったんです。死ねないのなら、生きる方法を探そうと思った」そのころ始めたSNSで、自分の避難の経験や体調について語ると、温かいメッセージが届くようになった。なぜか北海道在住の人が多く、いつしか「北海道なら生きていく場所があるかもしれない」と思うようになった。高校3年生になり、少しずつ「生きたい」と思うようになった。わかなさんは本の中で《真っ黒な高校3年間》と表現しているが、「生きる覚悟」を決めるために必要な時間だった、とも書いている。そしてわかなさんは6年前から北海道で暮らしている。2018年から原発事故後の経験について講演をするようになった。始めた当初、「子どもがそんなふうに感じていたなんて知らなかった」と支援者からも、避難していた大人からも言われ、ショックを受けた。「私が話すことの必要性はある」と思うものの、「当時を思い出すのはしんどいと思うことが増えた」とわかなさんは言う。だからこそ、本に書き切って少し楽になった。すべてを語れなくても、「この本を読んでください」と言える。「伝えることはやめないと思うけれど、この子(本)に頼りながら、この子と一緒に歩んでいきたい」そう話し、笑顔で本を抱きしめる、わかなさんの思いが詰まっている。原発事故から11年の間に、国は避難区域を縮小し、「復興」と銘打った五輪も強行。避難住宅を打ち切り、除染で出た汚染土は再利用を目論む。原発事故が終わったかのような風潮に、「被害を受けた人、土地、傷を負った人に失礼だし、責任放棄だと思う」とわかなさんは言う。為政者が語る「絆」や「寄り添う」という言葉も「パフォーマンスでしかない」と事故当時から見抜いていた。その一方で、こんなことも話してくれた。「未来はもう少しよくしていけるんじゃないか、とも思います。原発事故でもそうでしたが、コロナ禍でひとりひとりが考えないと生きられない世界になってしまった。気候変動などにしても、考えて動かなきゃ状況を変えられない。“どうせ社会なんて、私なんて、こんなもん”とあきらめないで生きていけたらいいなと思います」インタビューのあと、わかなさんがメールをくれた。そこには、こう書かれていた。《つらかった当時の15歳の私を助ける(助けるというか、抱きしめる?)ために、いろんな人に経験を伝えているんだとも思います。“わかってくれる人もたくさんいるから大丈夫だよ” “生きててくれてありがとう” “生きててよかったよ”と自分自身に伝えたいのかもしれないです》森山詩穂さんが原告となっている「311子ども甲状腺がん裁判」では、裁判費用をまかなうための寄付をネット上で募っている。「311子ども甲状腺がん裁判」を支援してください!〈取材・文/吉田千亜〉よしだ・ちあ ●フリーライター。1977年生まれ。福島第一原発事故で引き起こされたさまざまな問題や、その被害者を精力的に取材している。『孤塁双葉郡消防士たちの3・11』(岩波書店)で講談社ノンフィクション賞を受賞
2022年03月11日竹田淳子さん撮影/渡邉智裕父親はヤクザの組長、母親はストリッパー。家庭に居場所はなかった。13歳で覚醒剤に溺れ、どん底まで転落。刑務所を出た後、ほとんど一緒に暮らせなかった息子のひと言で更生を誓い、“支援者”としての道を歩み始める。「命さえあれば、いくらでもやり直せる」 と証明するために―。4年間の服役経験「昨日の夜から入居者さんが帰ってこなくて、電源は切れたまま、LINEも既読にならない。一睡もできなかったんですよ……」取材の日、竹田淳子さん(51)は、スマホの画面をしきりに気にしながら現れた。竹田さんは自立準備ホームの寮母を務めている。刑務所や少年院から出所後、帰る家のない人々が自立できるまで一時的に住むことができる民間の施設だ。現在の入居者は外国籍の未成年の少女。薬物や窃盗の罪で、少年院を経て、保護観察中だという。「ウチに来て3か月になりますが、無断外泊は今回で2回目。今日は保護司さんとの面談が入っていたのにドタキャン。さっき慌てて電話で謝り倒したところです。これ以上、保護観察所の心象を悪くしたら、ひとり暮らしもできなくなってしまうから」少年院に入所中、高卒認定試験に挑戦し、合格。出所後は、竹田さんの目の前で昔の仲間たちの連絡先をみずから消去してみせた。そんな少女を信じ、竹田さんは知人の運営するカフェでアルバイトができるよう頼み込んだ。勤務態度はまじめ。カフェで働きながらお金を地道に貯めていた。海外のラッパーに憧れ、ダンスを習いたいと夢も語っていた。「私にとっては、まだ3か月。彼女にとってはもう3か月頑張った……なんですよね」寂しそうにつぶやく竹田さん。ひと晩中、心配していたのだろう。疲労が滲む表情で力なく笑った。◆◆◆2019年8月、竹田さんは一般社団法人『生き直し』が運営する自立準備ホームの女性寮の寮母に立候補した。出所者のほか、執行猶予や罰金刑も含む有罪判決を受けた人、不起訴などで釈放され帰住先がない人も対象にしている。個々のケースにもよるが、平均して2~3か月以内に仕事を見つけるなど自立の準備をサポート。1人あたり1日1000円の食費が法務省から支給されるという。これまで埼玉県にある竹田さんのホームには6人が出入りしてきた。「最初の入居者は、統合失調症の40代の女性でした。ほかの施設で断られて行くところがなく、クリスマスイブの夕方にやってきました。もしウチが断っていたら、ホームレスになるしか……」それがどれだけ心細いことか、身をもって知っていたからこそ、受け入れようと決めた。だが、年明けにホームで暴れ、警察に通報せざるをえなかったという。2人目は、傷害事件を起こして保護観察中の20代女性。ホームで包丁を持ち出し、事件を起こす危険を感じて、またしても警察に通報した。3人目は、薬物所持で執行猶予中の20代の女性。売春で生活費を稼いできたため、働いた経験はなかった。「身体のあちこちに刺青があり、付き合う男はホストか半グレばかり。麻雀店でバイトしても“かったるいから”とすぐ辞めてしまいました」妊娠して寮を卒業したが、今も彼氏とケンカをするたび連絡が来る。ホームを出た後も、“真の自立”を願い、見守り続けるケースもある。「10人に1人、生き直しできればいいほうです。女性は特に厳しいですね。金銭面や精神面で男性に依存していた人の場合、出所後にゼロから生活力をつける必要があります。その弱さに付け込んで再び犯罪の道に引きずられ、搾取される標的にもなりやすい。何度も騙されて“やっぱり私は幸せになれない”と自己否定感が強くなると、“何も考えたくない” “刑務所の中のほうがラクだ”と思ってしまうんです。私もそうでした」竹田さん自身も詐欺未遂と覚醒剤取締法違反で34歳から4年間、刑務所に服役した経験を持つ。「私は出所後にアパートの部屋を借りることができず、ホームレスを経験しました。ビルの階段で一夜を明かしていたら通報されて。警察官に覚醒剤をやっているのではないかと疑われ、留置されたこともありました。していないのに!」刑務所を出所した後こそが地獄─。どんなに心を入れ替えようと、風当たりは強く、一度罪を犯した者への差別や偏見は容赦ない。だからこそ、竹田さんは「更生」への意欲が削がれる前にホームで「生き直し」のきっかけをつくりたいと必死なのだ。「出所後にうちのホームで問題を起こして、また刑務所に入ることになれば、次に出てきたときは、一度関わった私とはコンタクトがとれない。ただでさえ少ない“味方”が減るんですよ。もったいないと思います」親身になって心配をしても、なかなか思いは届かない。それでも、更生に向かう人の気持ちに寄り添える自負がある。「この仕事は、今の私にできる天職ですね。あ、あの子から連絡きました!“ごめんなさい”って(笑)」スマホの画面に目を落とす竹田さんの顔がパッと華やいだ。無断外泊していた外国籍の少女からのLINEだった。前科者に厳しくしない理由「うまくいかないことも多いけど、ちゃんとホームから卒業できた人もいるんです」竹田さんが紹介してくれたのは、三浦加奈さん(仮名=51)。私立の中高一貫校で教師をしていたが、父親をがんで亡くし、母親の介護のために30代で辞職。三浦さんの人生は一転した。「自分の意思で決めたことなのに、ものすごい挫折感を味わい、19歳のころから悩んでいた摂食障害が悪化して……万引きを始めました」パン1つから始まった万引きも、気がつけば大きなバッグを担いで洋服や靴やバッグまで盗む重症のクレプトマニア(窃盗症)に陥り、現行犯逮捕。懲役2年の実刑を終える目前、一度は身元引受人を申し出た姉が辞退。唯一の身内に縁を切られてしまう。民間の自立準備ホームはどこも満室で『順番待ち』だったが、依存症治療を担当していた精神保健福祉士の紹介で竹田さんのホームへの入居が決まったという。そこでの生活は三浦さんの想像とはまったく違っていた。「竹田さんは温かい笑顔をされる方だなぁというのが第一印象。同い年ということもあり、親しみやすかった。おそれ多いんですけど、お友達と2人暮らしをさせていただいているような。刑務所のようにルールがたくさんあるのかと思ったら、夢のような条件でびっくり。韓国風焼き肉とか、きのことたまごのスープとか、栄養がありそうなものを作ってくれて。食事の時間は楽しみのひとつでした」規則が厳しいホームもあるが、竹田さんは、入居者に細かいルールを強制しない。いずれは1人で世間の荒波を乗り越えていかなくてはならない。自分の甘えに負けてはいけない。だから自主性を尊重するのだという。竹田さんと何げない日常を過ごす中で、「自立」のコツを教わったと三浦さんは振り返る。「かつての私は、“摂食障害です”と言い訳して、自分のことができていなかった。0か100で、思いどおりにならないと自虐的に自己否定する。誰かに何かをしてあげたら、見返りを求めて、他人の評価が価値基準になっていました。でも、淳子さんはどんなに忙しくても優先順位をつけ、取捨選択して、息抜きも上手。見返りを求めず、人のために動ける。その堂々とした姿を見て、私も自分で自分を評価できるようになりました。それが大きかったですね……。ちゃんと私を信じてくれた淳子さんに応えるのがせめてもの感謝。そんな気持ちが私の中に芽生えました」三浦さんは、1か月でホームを卒業。週に2度仕事をして、ひとり暮らしをしている。通信講座で「児童心理カウンセラー」の資格を取り、困っている子どもに寄り添いたいと夢への一歩を踏み出した。更生への厳しい道のりはまだ始まったばかりだ。ホームを出る日、竹田さんは笑顔でこう見送ったという。「いつでも来ていいんだよ。1人で寂しかったら、ご飯を食べにおいで」竹田さんが所属する一般社団法人『生き直し』の代表・千葉龍一さんは「困ってる人を放っておけないタイプ」だと語る。「真冬に出所したおばあちゃんが、矯正施設から放り出されそうになったところに出くわしたとき、“ここから出たら死んじゃう!”と矯正施設の人に掛け合っていた姿が忘れられませんね。入居者と下の名前で呼び合うなどコミュニケーションのとり方もうまい。でも、怖いもの知らずで、困った人のためならどこへでも行ってしまうから、ハラハラすることもあります」竹田さんの支援活動は、公益社団法人『日本駆け込み寺』のボランティア活動から始まった。毎週土曜日夜8時から新宿歌舞伎町で、相談窓口の電話番号を書いたティッシュを配って歩いた。やがて個別の相談をLINEでも受けるようになると、少女たちからSOSが届いた。竹田さんは彼女たちを救うためなら、大胆な行動も躊躇わなかった。少女を性虐待から守りたい!「お前は誰だ!! 帰れ!!」「お父さんが怒ることじゃない。怒りたいのは、娘さんのほうだと思いますよ」怒りに震える父親に対して、竹田さんは冷静だった。「とにかく、娘さん妊娠しているから、堕ろさないと間に合わなくなります」実の父親から性虐待に遭い、妊娠6か月だった17歳の少女の自宅に乗り込むと、父親は竹田さんの靴を玄関の外に投げ捨て、殴りかかろうとする勢いで拒絶した。「あなたを告発しようとしてるわけじゃない。でも次、娘さんに何かしたら警察に訴えます」竹田さんは彼女を救うことだけを考え、説得に臨んだ。「少女から最初の連絡をもらったのはツイッターのダイレクトメッセージ。“交通費を払うので、カウンセリングに来てください”と。“未成年だからお金はとらないよ”と返信して事情を聞きました」母親が出ていった小学2年生のころから性的虐待が始まった。中学生になり、少女はそれがレイプだと初めて知った。そして妊娠─。事情を知った竹田さんは、じっとしていられず自宅に乗り込んだ。「父親に二度と手を出さないと約束させ、環境を変えることはできました。でも、堕胎の段取りを進めていた矢先、父娘ともにコロナに感染して、自宅で出産してしまいました。出ていった母親に連絡を取り、事情を伝えて、今は母親と2人で子どもを育てながら生活しています」一刻を争う事態だった。彼女を性虐待から救えたものの、「もっと早くSOSを受け取れていたら……」との思いが込み上げる。「父親は小学校の教師で、“いい先生”と呼ばれていることを知って愕然としました。実の父親から性被害に遭った例は、報道されないだけで山ほどあります」ほかにも母親の彼氏にレイプされた少女から相談を受け、竹田さんが母親に手紙を書いて男と別れさせたこともある。性的虐待の相談は、今も数多く寄せられ、竹田さんはそのたび、怒りに震えている。「私、魔女になりたいんですよ。こういう男たちのチンコを爆発させる薬が開発されればいいと本気で思う!」そう話す竹田さんにも、長い間、人に話せずにいた壮絶な過去があった─。性被害の末、母に捨てられて1970年、暴力団員の父親とストリッパーの母親との間に竹田さんは生まれた。「生まれてすぐに生存率50%の難病・結核性髄膜炎にかかっていることがわかり、入院。生死の境を彷徨いました」退院後、預けられたのは父方の祖父母の家だった。「母は全国を旅するストリッパーだから会えても月に1度くらい。父は刑務所を出たり入ったりしていて、ほとんど会えませんでした」小学校の連絡網に両親の仕事を書く欄があり、父が暴力団関係者で母がストリッパーであることが知れると、学校では壮絶なイジメに遭う。1年生から不登校になった。「小1のとき、和式のトイレの掃除をさせられ、汚い水の中に頭を突っ込まれました。悲しくて家にあった置き薬を全部飲み、自殺を図ったこともありました。小2になって、勇気を出して学校に行くと、クラスメートに教科書を隠されて。“忘れました”と先生に言うと、冷たい廊下に正座させられました。トイレに行きたくなり先生に言っても“我慢しなさい”と叱られ、粗相して。みんなに笑われたときは、生きた心地がしませんでしたね」それ以来、祖父母は「学校に行かなくてもいいよ」と家庭教師をつけてくれた。孫に甘い祖父母だった。小学4年生のとき、両親は離婚。ストリッパーを引退した母親との同居生活が始まる。「母が呼び寄せてくれたときは、本当にうれしかった。母は華やかできらびやかでアイドルみたいで憧れていました。当時は“私も母の後を継いでストリッパーになりたい”と密かに思っていました」しかし、母との同居生活中、性虐待に遭う。「ヒモらしき男が母のいないときを見計らってやってきていたずらされたときはショックでした。ヒモにぞんざいな態度をとると“なんで愛想よくできないの” “パパになるかもしれないんだよ”と言われ、“なんでこんな男といるんだろ。お母さん早く気がついて”と心の中で叫んでいました」そしてある日、母親が突然失踪してしまう。事情を知らない竹田さんは家で不安を抱えたまま数日間を過ごした。「帰りが遅くなったり、帰ってこない日もあったので、最初のうちは気がつきませんでした。ところが、怖いおじさんが家に来るようになり、母が借金取りに追われていなくなったことを知りました」母親はストリッパーを引退した後、劇場の経営に携わったが、火の車。周囲からお金を借りて、蒸発した。「最初は母がさらわれたんじゃないかとか、母はご飯をちゃんと食べてるのか、とか心配していたんです。でも、日がたつにつれ“私は捨てられたんだ” “お母さんに愛されていなかったのかな” “大病したのも、いじめられたのも生まれてきてはいけない子だからかな”と悲しい思いがこみ上げてきました」1人になった竹田さんは、母親の妹夫婦の家に預けられた。しかし、子育てをしたことのない夫婦は、反抗的な態度をとる竹田さんにどう接していいのかわからず、飼っていた猫ばかり可愛がる。竹田さんのイライラは頂点に達しつつあった。「私は母に捨てられたかわいそうな子ども。なのに、みんな私を無視する。もっと私を見て、私と喋って。そんなやり場のない怒りから、私は飼っていた猫を高いところから落としてしまいました」取り返しのつかないことをしてしまった竹田さんは、家を追い出され、親戚中をたらい回しにされた。暴力事件を起こし、教護院(現在の児童自立支援施設)に預けられたのは小学5年生のとき。施設でも荒れに荒れ、問題を度々起こした。覚醒剤、レイプ、自殺未遂中学1年のとき、再婚をきっかけに迎えにきたのは父親だった。「暴力団の組長になっていた父は、親分として一家を構え、違法なポーカーゲーム店も何軒か経営して羽振りもよかった。家と棟続きの事務所では賭場が開帳され、丁半博打に勝ったお客さんからお小遣いをもらえた。私は毎晩のように友達を引き連れて、渋谷のディスコまでタクシーを飛ばして遊びに行きました」横浜市内から10万円のお小遣いを握りしめて渋谷へ。中1にもかかわらず、ディスコだけでは飽き足らず、ホストクラブに入り浸ることもあった。「ファミレスに行ったら、友達が遠慮するから“なんでも好きなもの食べな”と言ってメニューを上から下まで全部頼む。ホストクラブでは、財布ごと渡してお会計をする。みんな私がお金を持っているからついてくるのに、偽物の優越感に浸っていました」初めて覚醒剤に手を出したのも中学1年のときだ。事務所に行くとパケに入った覚醒剤が無造作に置いてある。ある日、ひとつくすねたら、若い衆に「やったら死んじゃうんだよ」とたしなめられた。しかし、組長の娘は一歩も引かなかった。「くすねたのがわかったら、あんたが殺されるよ」そう脅して、初めて身体に入れた。「ほんの好奇心から手を出しましたが、打った瞬間に両親に会えなかった悲しみや、いじめられたこと、母に捨てられたこと、母のヒモにいたずらされたことなど、嫌なことを全部一瞬で忘れられた。すごい薬だと思いました」竹田さんは、あっという間に覚醒剤に溺れ、依存─。転落の始まりだった。「中2のとき、不良仲間にレイプされ妊娠していることがわかりました。堕ろしたくても親を連れてこいと言われる。でも、そんなこと、口が裂けてもウチの両親には言えない。衝動的に家にあった漂白剤を飲んで自殺を図りました」一命はとりとめたものの、胃洗浄の衝撃で赤ちゃんは流産。2週間ぶりに家に帰ると、両親は捜索願を出すどころか、「おかえり」の言葉ひとつかけてこなかった。「私が自殺するほど悩んでいたのに、私の姿が見えているのかな?と……。この家にも居場所がないと思って、高校を2週間でやめ、家を出て水商売の世界に入りました」継母の紹介で住み込みのパブクラブで働き始めた。16歳のとき、店の関係者と結婚。夫は束縛が激しく、何度も暴力を振るわれた。その夫から逃げるため、今度は店舗型の風俗店で働き始めた。竹田さんにとって風俗の世界は「私の居場所」と思えるほど居心地のいい場所だったという。「風俗はお客さんが私を求めて来てくれる、私を必要としてくれる。すぐにお金になるし、頑張れば頑張るほど自分の価値が上がる世界に私はやりがいを感じるようになっていきました」もう親戚をたらい回しにされたり、束縛や暴力に苦しめられることもない。ヘルスを皮切りにソープやデートクラブなどの風俗店で働くようになり、2度目の結婚。やがて、子どもを身ごもったことに気がつく。「もう妊娠はできないかもしれないと思っていましたから、一切ドラッグをやめてこの命を育てていこうと心に決めました。覚醒剤依存の夫婦の間にまともな子どもが生まれるのか、不安で仕方なかったですね」22歳のとき、一粒種の旭彦さんを無事に出産。この子のために生きていこうと誓った。しかし2番目の夫は薬物依存から抜け出せず、家の中で花火を何発も打ち上げて自宅が全焼。乳飲み子を抱いて竹田さんは裸足で逃げ出した。離婚を決め、ひとり親になると、昼も夜も働き詰めの生活が待っていた。竹田さんは疲労をごまかすように、また覚醒剤に手を出してしまう。「早朝から風俗で働き、夜遅くまで水商売で働く生活は睡眠もまともにとれず、気づけば、子育ての忙しさを理由に覚醒剤を打つようになっていました」28歳のとき、3度目の結婚。夫婦そろって薬漬けの日々が続いていたある日、職務質問され、覚醒剤不法所持で逮捕。初犯のため執行猶予がついた。だがその矢先、2人は中国窃盗団の片棒を担ぎ、詐欺を手伝ったことで現行犯逮捕。34歳のとき、笠松刑務所で懲役4年の刑に服することになった。前科者への冷たい仕打ち刑務所の中で過ごした4年の間に、竹田さんは病を発症した。腹痛と出血に苦しみ刑務官に訴えたが、「詐病でしょ」と言って取り合ってもらえなかった。半年後、懲罰になっても構わないと思った竹田さんは、「検査しろ!」と刑務官につかみかかった。結果は、子宮がんで全摘出。帰りの車の中で泣く竹田さんを見て、刑務官は、「嫌だったら、こんなとこ来なきゃいいんだ」と吐き捨てた。医療刑務所に移送され、手術と治療を終えた半年後、4年の刑期を終えて出所。待ち受けていたのは厳しい社会の現実だった。「地道に昼の仕事をしないと“普通の人じゃない”という感覚があって。やり直そうと思って、スーパーのレジ打ちのアルバイトを始めました。でも、1か月たったころ、店長から“隠していることがあるよね。前科あるでしょ。そういうのウチいらないから”と突然言われてクビになり、バイト料ももらえませんでした。仕事にも慣れて、顔見知りのお客さんができてきたころで……悔しかったですね。生き直そうとしても、働かせてもらえない……愕然としました」その後、クラブでママの仕事を始めた。水商売に戻っても、覚醒剤や犯罪には手を染めたくないとの思いで、仕事は慎重に選んだという。6年後、風俗店で働く女性の相談に乗る「ラブサポーター」に転身。占い師に弟子入りし、勉強も始めた。友人の佐野さん(仮名=53)が当時を振り返る。「出所後に知り合ったのですが、自分のことよりも人のために何かをするとなるとすごいエネルギーが出る人でした。“仕事は人を喜ばせること。その喜びを得るチケットを私から買ってもらった。だから、私は頑張る”と言っていたことをよく覚えています」仕事が波に乗ってくると、竹田さんは服役中の夫と離婚。夫の詐欺事件に加担した罪を償うため、弁護士を通して弁済を申し入れた。「ヤクザの世界では“夫に言われたことはやるのが当たり前”で、善悪の判断がつかなくなっていた。すごく後悔しています。ただ、弁済を申し出ても“気持ちが悪い”と受け取らない方もいて……。服役したから、罪を償って終わりだとは思っていません」新たな一歩を踏み出した矢先、摘出した子宮がんが卵巣に転移していたことが発覚。再び試練に直面する。息子が語る、母への想い「どうして、こんなつらいことばかり起きるのか……」竹田さんは自分の人生を呪った。唯一の心残りは、ひとり息子の旭彦さんのことだった。出所後、息子に会いに行き、「お母さん、もう長くないかもしれない。ごめんね」と詫びた。中学生になっていた息子は、ただひと言つぶやいた。「長生きしてな」竹田さんはわが耳を疑った。「“えっ、私長生きしていいの?”と……。自分の存在を肯定された気がして、じゃあ、しっかり生き直そう。覚悟を持って生き直そうといった思いが湧き上がってきました」この息子のひと言が、本気で生き直すきっかけを与え、竹田さんは、少女たちの相談事業や自立準備ホームの寮母など「支援活動」に精を出していく。息子の旭彦さんは母親をどう思っているのだろうか。「僕にとって母は、たまに帰ってくる人で、世間でいう“単身赴任中のお父さん”みたいな感じでした。実の父親と暮らしていましたが、まわりの友達もひとり親が多く、みんな家族のように育ちましたから、寂しさはありませんでしたね。小3のときに一緒に暮らした時期があり、楽しかったことを覚えています。僕は朝が苦手で、毎朝母にフライパンを叩いて起こされたのが思い出かな(笑)」現在、29歳の若さでリフォーム会社の社長を務める旭彦さん。「グレずにまっすぐ育ったことが不思議……」と母親である竹田さんが漏らしていたことを告げると、こう笑い飛ばした。「中学生のとき、付き合った彼女のお父さんが配管工で、住み込みで働き始めたんです。その職場が昔気質の超スパルタ教育!仕事が厳しすぎて、グレる暇もありませんでした。この師匠のおかげで誰よりも早く一本立ちすることができました」中学2年生のとき、長く会えずにいた母親から一通の手紙が届き、刑務所に入ったことを知ったという。《会えなくなってごめんなさい》そう手紙に綴った竹田さんは、「私を捨てた母親と、自分も同じことをしている」と猛省していた。「私は母が借金取りに追われ失踪したときに“捨てられた” “母に愛されていなかった”と思い、母のことを恨みました。ところが息子は私が刑務所にいたときも“なぜ?”と責めず、恨み言ひとつ言わない。そんな息子を見て、私も母を恨んではいけないと思うようになりました」2019年11月、数えで50歳を迎えた竹田さんは、生前葬を行った。生きているうちに、出所後に出会った人々へ感謝の気持ちを伝えたい。そんな思いから、誕生パーティーも兼ねて開いたという。会場にはおよそ80人の友人が集まった。喪主を務めた息子の旭彦さんが挨拶に立ち、「母の子どもに生まれてよかったと思います」と話すと、竹田さんは大粒の涙をこぼした。旭彦さんはその日のことをこう振り返る。「出所後にたくさんの人と出会って、母のために集まってくれるって……それだけ今の母は愛されてるってことじゃないですか。それが、すごいことだなと思って。薬物で捕まっていたような人がちゃんと立ち直れた。そこを尊敬していますね」旭彦さんの誕生日には、毎年「生まれてきてくれてありがとう」のメッセージが母親から必ず届くという。「黒い世界には戻れない」現在、竹田さんは、風俗店で働く女性の相談に乗る「ラブサポーター」の仕事や、占い師の仕事で生計を立てる傍ら、自立準備ホームの寮母や相談事業もこなし、全国で講演会も行っている。今年1月、神奈川県・横浜市で竹田さんの講演会が開かれた。非行少年や子どもの支援活動に携わる多くの人が、竹田さんの言葉に耳を傾けていた。「どん底まで落ちても命さえあれば、いくらでもやり直すことができる。今朝起きられたこと、ご飯を食べられたこと、そんなことにも感謝して生きていけたら幸せ。そう思える人を1人でも増やせるように、この仕事に携わっていけたらと思っています」元受刑者で、現在は出所者の支援に携わる30代男性は、講演会の感想をこう話す。「自分も虐待を受けて育ち、施設生活が長かった。ケンカが原因で少年院に入った経験もあります。出所後、社会に出ていくことがいちばん大変というところに共感しました。味方になってくれる人がいたら、その人を裏切らないために、自分もちゃんと生きようとまじめになれる。僕もそんな存在になりたいですね」竹田さんが講演会で必ず、投げかける言葉がある。「みなさん、私と同じ環境で生きてきたら、私のようにならない自信はありますか?」前科者をひと括りに“自業自得”と切り捨てず、罪を犯す前の境遇にも目を向けてほしい─そんな思いが込められている。「黒歴史を語ると、批判されるし、最初はしんどかった」と前置きし、竹田さんは罪を犯した過去を赤裸々に語る理由を話してくれた。「今を見てほしいんです。過去のことに囚われるだけなら、前に進めない。私は私の黒歴史を変えたい。禊というか、白い修正ペンでちょっとずつ白い面を多くして、生き直せることを証明するために話しているんです。真っ黒を真っ白にすることだってできると。だから黒い世界に戻ることは絶対できないんです」その言葉には、いまだ竹田さんも「更生」の最中であるような気持ちがうかがえた。出所者を自立準備ホームに迎え入れるたび、「竹田さんを裏切れない」と語り、自立していく人が1人、また1人と増えていく。そのたびに、「私もこの人たちを裏切れない」という竹田さんの誓いも強くなっていく。先を歩く、生き直しの先輩として─。【個人相談窓口】相談できる相手がいない方、苦しくなったらツイッターからDMください。竹田淳子@lovesapojt1101〈取材・文/島 右近〉しま・うこん ●放送作家、映像プロデューサー。文化、スポーツをはじめ幅広いジャンルで取材・文筆活動を続けてきた。ドキュメンタリー番組に携わるうちに歴史に興味を抱き、『家康は関ヶ原で死んでいた』(竹書房新書)を上梓。
2022年03月05日自虐とみせかけて自慢するのはNGイラスト/上田惣子人と話すことが減っている今こそ、勘違いされないコミュニケーションが必要だ。うっかり使ってしまいがちな言葉、クセになっている言い方。自分では気づかないうちに相手の心証を悪くしていることも多い。ちょっと変えるだけで、よりよい人間関係を築ける言い方をプロが伝授。大人としての配慮が印象を悪くする原因に「会話をするときはシンプルでストレートな言い方を心がけると、印象もよく、誤解も生まれにくいですよ」と話すのは、心理カウンセラーの五百田達成さん。人は年齢を重ねるにつれ、回りくどい表現や押しつけがましい言い方、リスクを回避するような言葉選びをしてしまいがちだという。「気遣いや責任逃れなどからくる処世術でもあるのですが、かえって悪印象を与えることが多いです」(五百田さん、以下同)原因となるのは、大人特有のいくつかの心理的原因。「まずは見栄や自意識からくるもの」例えば「私なんて学歴もないのに、うちの子は有名大学に入れたのが不思議で~」という会話。「ここでいちばん言いたいのは、わが子が有名大学に入ったという点。直接自慢するのは憚られるけれど、うらやましがられたい……。それゆえ“自虐”に見せかけて“自慢”をする、いわゆる自虐自慢になります」聞くほうとしては真の狙いが透けて見えるので、聞いているだけでうんざりしてしまう。「気を遣っているようですが、好感度はダウンします」2つ目は、嫌われるのを恐れての気遣いのしすぎや、空気の読みすぎ。メールの文章を深読みしたり、よかれと思ってアドバイスしたりすることがそれに当たる。「旅行のお土産を友達に渡したときに、メールで“ありがとう”と送られてきたとします。このとき“いつもなら!マークがついているのに今日はついていない。気に入らなかったのかな……”と気をもみ、“口に合わなかった?”などと探りを入れるようなパターン。相手からしてみれば、“ありがとうって言ったのに何?”と面倒に感じます」また女性によくありがちなのが、「〇〇したほうがいい」という押しつけ。相手を思って「冷たい飲み物はやめたほうがいいよ」などとアドバイスするのだが、言われたほうとしては余計なお世話。人によっては「説教された」と捉えられかねない。最後は自分の立場を必要以上に気にすること。「立ち位置を意識しすぎて、上から目線の言い方をしたり、へりくだった言い方をしたりすることです。女性は“私はしょせんパートだから”のように、卑下するパターンが多いです」謙虚にへりくだっておけば、敵をつくることはないが、相手にしてみれば「そんなことないよ」とフォローを入れなければならず、面倒な人と思われがち。「経験値を積んだ大人だからこそ、ストレートな言い方ができない人が多い。シンプルな表現は、一見すると配慮がないようですが、相手に伝わりやすく、好感度も高いんです。会話術でよく言われる、悪口や噂話をしない、人の会話を横取りしないなども、当然気をつけてくださいね」ミドル女性は要注意!好感度ダダ下げワードワースト5人間関係は話し方ひとつでよくも悪くもなる。ここで紹介しているNG表現を多用している人は、「得する話し方」にチェンジして、ぜひ人生を好転させて。(NG)自虐とみせかけて自慢する(OK)「1分だけ自慢していい?」「あからさまな自慢は嫌われるのでは?」と思われがちだが、ほめてほしいときは、ストレートに「自慢していい?」と言ってしまおう。聞くほうも「ほめられたいのね」と素直に聞くことができる。例えば「みんなに童顔って言われるの。私って子どもっぽいのかな~」と言うより、「ちょっとだけ自慢していい?この間、街で娘と姉妹に間違われたんだけど~」とシンプルに表現を。自虐しつつ自慢をするのは、まわりくどく、かえって悪印象だ。(NG)「〇〇したほうがいいよ」(OK)「〇〇してみて」「この本は読んだほうがいい」「身体は冷やさないほうがいい」などの言い方は、単なる自分の意見を「あなたのため」というスタンスで押しつけている印象に。「この本、読んでみて!」と気持ちをまっすぐに伝えるほうが好印象。また、この表現に似たセリフで「私はいいんだけど、(ほかの人は)~」も。こちらも相手に偽善的な印象を与える。勇気がいるかもしれないけれど、素直に「私はこう思うよ」と伝えるほうがいい。大切なのは“気持ちに寄り添う会話”(NG)「若~い!」(OK)言わない例えば、ママ友同士で話しているとき、ひとりだけ世代が違うママに「え~30代なの?若~い」などと言うのはNG。若さへの憧れを含んでいるとは思うが、言われた側にしてみれば、「私たちとは別」と一線を引かれたような拒絶感を覚えてしまう。さらに「私が30代のころは、毎日忙しかったな~」などという昔話も避けて。昔話はたいてい自慢話となりやすく、聞き手をうんざりさせてしまう。(NG)「要するに○○なんでしょ」(OK)「そうなんだ」人の話を聞いて「それって、こういうことでしょ」と要約できるのは、頭の回転が速いともいえる。けれども相手は「ただ悩みを聞いてほしい」「たわいのない会話をしたい」と思っているのに、要約をしてズバッと解決策を提案してしまうと、「共感してくれない」「自分の頭のよさをアピールしたいの?」と不快に思われがち。「そうなんだ」「大変だったね」と気持ちに寄り添う会話を心がけよう。相手からの信頼度もアップするはず。(NG)「私なんて」(OK)「私は」「私なんて顔が大きいからショートヘアは無理!」「私なんて仕事が遅いから、みんなに迷惑かけてばっかり」など、自分を卑下する言い方は要注意。「そんなことないよ」とフォローを期待した言い方でもあり、聞き手はそれを感じて「面倒くさい……」と疲れてしまう。「私なんて」と言いそうになったら「私は」に変換を。「私は仕事が遅いかもしれませんが、頑張ります」というように最後はポジティブに締めるとグッと好かれる話し方に。●自慢だけじゃない!自分の話をしないのも悪印象「あなたはどう思う?」と意見を求められたり、プライベートな質問をされたりしたときに、答えをはぐらかすことはありませんか?自分の話や自慢話ばかりする人は嫌われるが、逆に自分のことをひた隠しにするのも損な話し方。「自分のことはあまり明かさないよ」という防衛反応は、相手との距離を広げてしまうことに。適度に自分の話をすることで、「あなたを信頼しています」というメッセージが伝わり距離が縮まりやすい。お話を伺ったのは……五百田達成さん作家、心理カウンセラー。人付き合いやコミュニケーションに関する実践的なアドバイスが評判で、メディア出演や講演など多方面で活躍。近著に『超話し方図鑑』(飛鳥新社)《取材・文/樫野早苗》
2022年03月04日枝元なほみさん撮影/伊藤和幸週女読者におなじみの「エダモン」こと料理研究家・枝元なほみさんには、「食」を通じて社会の問題に取り組み続けてきた、もうひとつの顔がある。ホームレスや被災地への支援に続いて、コロナ禍で始めたのは、週3日、夜にだけ開くパン屋さん。都内を中心に、全国のパン屋さんから売れ残りそうなパンを買い取り、販売するプロジェクトだ。店頭に立つのは、就職氷河期世代のホームレス、シングルマザー、バイト先を失った大学生……。「食べるのに困る人がいる一方で、フードロスが起きる現実」に立ち向かう、枝元さんの挑戦の日々を追う。2月9日午後5時過ぎ。東京タワーにほど近いJR田町駅のすぐそばで、『夜のパン屋さん』の開店作業が始まっていた。猫のイラストが描かれたベージュのキッチンカーが止められ、その横にテーブルクロスがかかったテーブルが並ぶ。子どもの背丈ほどの青い光のツリーと、立て看板が目印だ。テーブルの上のかごにパンやマフィンが並べられると、あっという間に人だかりができた。料理研究家の枝元なほみさんは2020年10月、コロナ禍で夜のパン屋さんをオープンさせた。パン屋さんから売れ残りそうなパンを買い取り、それを販売する仕組み。店頭に立つのは、ホームレスの男性、シングルマザー、コロナ禍でアルバイト先を失った大学生など、さまざまな事情で職を失った人たちだ。田町店は、神楽坂、飯田橋に続く3号店になる。「普段はリモートワークだけど、出社するたびに買ってます」「妻に買ってきてと言われて」「いろんなお店のパンが買えるから楽しみ」「ここって枝元さんのやってるお店ですよね?」「会社帰りに結構、立ち寄るんです」……。老若男女、さまざまな人たちが買いに訪れる。この日も、70〜80個ほどあったパンは、すぐになくなる人気ぶり。枝元さんも販売に立ち、お客さんと笑顔で会話していた。「パンを売るってすごくいいな、と思うの。食べ物を人と人との間に置くって、敷居が低くなるというか、ドアが軽く開くというか。食べ物っていいな、とあらためて思った」ふんわりした笑顔でゆったり話す枝元さん。しかし、枝元さんのそばにいる人たちはみな、そのやさしい雰囲気の奥にある、熱い思いや行動力に圧倒されていた。夜のパン屋さんに至る背景には、枝元さんのどんな思いがあるのだろうか。「初の営業」から始まったホームレス支援夜のパン屋さんは、ホームレスの人たちの自立を支援するため、雑誌販売の仕事を提供している『ビッグイシュー日本』が手がけるプロジェクトだ。枝元さんは関連団体のNPO法人『ビッグイシュー基金』で共同代表を務める。枝元さんがビッグイシューに関わるようになったのは、同誌でスローフード特集の取材を受けたときに、「何か手伝わせてください」と自ら言ったのがきっかけ。人生初の「営業」だった。「日本型のお金のシステムはおかしいな、と思い始めていたころだったの」とあるニュース番組でお弁当を作る仕事を受けた。枝元さんの自宅を撮影場所に使い、タレントもやってきて、大変な仕事だった。しかし、謝礼は1万円。おかしいと思い、ディレクターに伝えると「僕もそう思います。でも、会社のシステムでそう決まっているんです」と言われた。また別のあるとき、自治体の料理教室の講師を依頼された。枝元さんが材料を用意し公民館に運んだ。しかし担当者に「公共事業なので、ギャラが出ないんです」と言われてしまう。「おかしいと思っているのに仕方ない、というのが嫌で、もやもやするんです」一方、みぞれの日にホームレスの人を見かけ、お金を渡そうとしたら、断られてしまった。「どうやったら関係を持てるのだろう」と枝元さんは悩んだ。そんなころに出会ったビッグイシューは、お金ではなく、雑誌販売という仕事を提供することでホームレスの自立を支援していた。そこに共感した。「相手のことを“かわいそうな人”と思っていては、つながれない。フラットな関係がいい」と枝元さんは言う。当初はビッグイシューの誌面で、料理とエッセイのコーナーを担当していたが、現在は姿を変え、『ホームレス人生相談×枝元なほみの悩みに効く料理』として連載が続いている。夜のパン屋さんが誕生したのは、’19年の暮れに『ビッグイシュー』に託された寄付がきっかけだった。「ただ配って終わるのではなく、循環を生み出す使い方をしてください」と、寄付した篤志家の男性は望んだ。’20年初頭は、東京オリンピックが開催される予定だった。オリンピックが終わると、経済も気分も冷え込む。枝元さんは、その9月を狙った。「ビッグイシューはやる気だよ(支援するよ)、とアピールしたかったんです」寄付の使い道を考えるなかで、チェーン展開する店で売れ残ったパンを本部に集め、夜間に安く販売する北海道・帯広のパン屋さん『満州屋商店』の取り組みが思い浮かんだ。それを参考に夜のパン屋さんの企画が立ち上がった。フードロスを解消できるだけでなく、ビッグイシューの販売者の仕事づくりにもなる。キッチンカーは、枝元さんが車を見に行ったその日に即決。ちょうど新型コロナ禍で「ロックダウン」がささやかれていたころだ。外出自粛の影響で、飲食店の人たちが移動販売を始めるかもしれないと思い、「急がなきゃ」と枝元さんは考えていた。協力してくれるパン屋さんを探し求め、1軒1軒回った。「これが人生2度目の営業でした」と、枝元さんは振り返る。「ビッグイシューで関わる人たちは男性が多かった。でも(年末年始に生活困窮者への支援を行った)『年越し大人食堂』をやってみて、ホームレスが女性の問題にもなっているんだな、ということがよくわかったんです。田町のお店は、フードロスをなくすということだけではなく、女性の仕事になるようなことをやりたいと思って」’21年12月にオープンさせた田町店のスタッフは、みな女性だ。そのひとり、宮高未有さん(※宮高さんの高は正しくはハシゴ高)は、山梨県で子育てをしていたが離婚し、子どもを抱えて東京の実家で暮らし始めた。仕事を探している最中に、友人の紹介で夜のパン屋さんと出会った。現在、キッチンカーを運転するのは宮高さんの仕事だ。「枝元さんには、女性の仕事を作りたいという考えがあって、スタッフひとりひとりの働き方を考えてくれます。私も子育てをしているので融通がきかないんですが、子どもが病気をして仕事に行けなくなったとしても、気負わなくてすむような、働きやすい雰囲気をつくってくれています」(宮高さん)氷河期世代の青年がホームレスになった事情枝元さんが長く取り組んでいる貧困の問題。今年で3年目を迎えた新型コロナウイルス禍は、私たちの生命や暮らしに大きな影響を与えている。枝元さんが話すように、女性をはじめ多くの人たちが仕事を失った。困窮して家賃が払えなくなったり、炊き出しで飢えをしのぐ人もいる。路上生活はしていなくても、住まいをなくし、インターネットカフェなどを泊まり歩く「ホームレス状態」にある人も珍しくない。ビッグイシュー日本の東京事務所で所長を務める佐野未来さんは、コロナ禍の現状をこう話す。「これまでビッグイシューの販売者は50〜60代が多かったんですが、コロナ禍で30〜40代が増え、中には20代もいます。リーマンショックのときも20~30代の人がたくさんやってきて驚いたんですが、再び増えている状況です。コロナで働き口を失った人も多いです」ホームレスの人たちが販売する雑誌、ビッグイシュー。定価450円で、1冊売れると、仕入れ値を除いた230円が販売者の収入になる。路上で販売される雑誌ゆえ、リモートワークは不可能だ。ところが、最初の緊急事態宣言が出された’20年4月、街頭から人の姿が消えた。ビッグイシューの売り上げにも影響が出始め、販売者は厳しい状況にさらされていた。どうやって販売者の命をつなぐのか、喫緊の課題だった。「そこで、『コロナ緊急3か月通信販売』という取り組みを始めました。緊急通販に多くの申し込みをいただいて、販売者に販売協力金として現金を提供したり、販売応援グッズを配ったりしながら、この2年間を乗り切ることができたんです」(佐野さん)また、路上生活者には、ビッグイシュー基金でホテルやシェルターを用意した。NPO法人『つくろい東京ファンド』と連携し、2年間無償でスマートフォンを貸し出すプロジェクトに参加、販売者に携帯電話も支給できた。「昔は夜回りや炊き出しに行って(ビッグイシューの販売をやらないかと)声をかけていたんですが、最近は路上生活よりネットカフェ暮らしの販売者のほうが多いです。所持金が尽きて、明日は泊まれないかもしれないという人がネットカフェで検索すると、すぐにできる仕事としてビッグイシューが出てくるようで、それをきっかけに東京事務所へいらっしゃる方が増えていますね」(佐野さん)販売者の西篤近さん(43)も路上生活をしながら、お金があればネットカフェで寝泊まりする暮らしを続けてきた。所持金が尽き、「3週間、水しか飲んでいなかった」ときにビッグイシューが作成した『路上脱出ガイド』を読み、東京事務所へつながった。自身を就職氷河期の影響を大きく受けた「ロスジェネ(ロストジェネレーション)世代」と呼ぶ西さんは、なぜ路上生活を送るようになったのだろうか。西さんは佐賀県の大学を中退後、陸上自衛隊の自衛官として13年勤めた。東日本大震災では、南三陸町に災害派遣され、「責任感の塊」だったという。しかし─。「被災地で子どもたちとキャッチボールをすると、新聞はそれを悲惨な状況の中のハートフルな記事にします。でも見る人によっては、自衛隊が遊んでいるように見えて批判の声も出る。当時もよく“自粛”と言われましたよね」(西さん、以下同)上司にはやめておきなさいと言われる一方で、「子どもと遊ぶくらい、いいのでは?」という思いがあった。だが、世間の目がある。そんな板挟みの状態に窮屈さを感じつつ、被災地から帰った。“このまま野垂れ死んでもいい”そんなころ、沖縄のあるバンドと出会った。音楽とダンスを通じ、いろんな人たちが楽しむ仕事に憧れていた西さんは、自衛官を辞め、ダンサーとして歩むことにした。しかし、ダンスの世界も厳しかった。バンドの人たちは応援してくれたものの、なかなか稼げない。心機一転、借金をして地域の人々が交流するコミュニティールームを作ってみたが、それもうまくいかず、最終的に家賃を払えなくなった。「大学も辞め、自衛隊も辞め、みんなに期待されていたダンサーも辞め、ちょっと感覚がおかしくなっていたんですかね。今思えば、追い詰められていたのかもしれない」あるとき、知人に会うために上京した際、沖縄に帰る飛行機に乗りそびれ、そのまま東京で路上生活を送ることになった。24時間開いている施設、公園、路上を転々とし、フリーWi-Fiのある場所で日雇い求人を探して働いた。「何も考えられなかった。不安も希望もありませんでした」2020年東京オリンピックに向けてか、居場所はどんどん減っていき、一文無しのまま新宿のバスターミナルで過ごす日々が続いた。デパートで水を飲んでしのぐ生活。“このまま野垂れ死んでもいい”とすら思った。「空腹は、3日過ぎると痛みに変わるんです。痛みに変わると、そんなに苦じゃないんですよ。結構耐えられたりするから」水だけで3週間過ごしたが、3週間を過ぎたときに、急に眠れなくなった。追い詰められたとき、目にしたのが前出の路上脱出ガイドだった。「緊急シェルターとか生活保護の情報も書いてあったんだけど、ピンとこなかった。でも、ビッグイシューは、1冊売ったら現金が入る。イメージしやすかったんです」西さんは、ビッグイシューに来て初めて、自分がホームレスだと自覚したという。「僕はそう思って気が楽になりました。それまでは逃亡者みたいで、よくわからない生活をしていたから」前出の佐野さんも言う。「例えば、ネットカフェや友達の家で暮らしていたらホームレスじゃないですか。でも、まだ自分はホームレスじゃないとか、路上の人よりは大丈夫だから頑張れます、と言う人は少なくない。もう十分に頑張っているし、すでにそこから頑張るのはかなり厳しいという状況でも、自分でなんとかしなきゃいけないと考える人もいるんです」西さんは、その後、ビッグイシューの販売者をしながら、現在は『夜のパン屋さん神楽坂かもめブックス前本店』のスタッフとしても働いている。神楽坂から自転車で15〜20分圏内のお店を回り、売れ残りそうなパンをピックアップし、販売する。お客さんにパンの感想を聞きながら、次のお客さんにもつなぐ。「僕らもパンのプロではないから、お客様と一緒にパッケージを見ながら、味や評判について話すことが多いですね。食べたことがあるという人の情報を聞いたり、お客様にこれがおいしかったのと言われたことを覚えていて、それを伝えたり」そんな西さんに、枝元さんの印象について聞いてみた。「存在が大きいですよね。感性がすごい人だなと思います。熱くなるところもあれば、冷静なところもあるし。結構、おっちょこちょいなところもあったりして。でも、大きな人だなと思いますね」“何かあれば、最後は私が責任を取る”という枝元さんの姿勢に、安心感がある。「今までの職場で、そういうタイプの上司はなかなかいなかった。バンドで言うとバンドマスター?いや、プロデューサーかな」生産者の思いをつなぎ、被災地へ届ける支援料理研究家という職業柄、おいしくて安全な食べ物をつくる農家など、数多くの志のある生産者と出会ってきた枝元さん。そんな生産者と消費者を結び、距離を近づける取り組みにも励んでいる。料理研究家は生産者と消費者の間にいて、その両者とつながっていると思うからだ。’11年1月、枝元さんは農業支援団体として一般社団法人『チームむかご』を結成。そのころ、「食べ物のシステムも硬直している」と枝元さんは考えていた。どうやれば食べ物を大切にしていけるのか。そんな関心があった枝元さんは、「むかご」を商品化する活動をはじめていた。むかごとは、長芋と一緒に発生し、捨てられてしまうものだ。そのむかごを、岩手県のとある村まで拾いに行き、それを商品化する。「むかごはネットごと洗って塩ゆですると、おいしいの。子どもたちも一緒に拾ってくれて、むかご食べながら、歩くたびにプップッってオナラするの。超かわいいの(笑)」子どもがジャンクフードを食べるより、むかごを食べてくれるほうがいいじゃん?と枝元さんは話す。そんなチームむかごを立ち上げて2か月後に起きたのが、東日本大震災と原発事故だった。スタッフの柳澤香里さんは2011年3月11日、東京の枝元さんの自宅で打ち合わせの最中、激震に見舞われた。「私は妊娠8か月だったんですが、枝元さんと2人で抱き合いながら揺れがおさまるのを待ちました。その後、しばらくしてから、枝元さんが土鍋でご飯を炊いてくれたんです。白いご飯にのりをぎっしり巻いたおにぎりを作ってくれて。本当においしかったのが忘れられません」その後、枝元さんは、チームむかごで『にこまるプロジェクト』を立ち上げ、被災地支援の活動を始める。被災地で『にこまるクッキー』を作り、それを被災地以外の人が購入する。さらに購入した人が作った人へメッセージを送るという取り組みだ。売り上げが被災地に届くだけではなく、心もつなぐ、枝元さんらしい温かい支援の形。枝元さんは言う。「そういうメッセージって、もらったらうれしくて2か月は生きられたりする。避難所とか仮設住宅に“いま、○○人の人がいます”って報道されたりするけれど、そこにいるのは数ではなくて、人なんです。そのひとりひとりの名前になっていることが大事で、メッセージで、(にこまるプロジェクトなら)それが実現できると思って」思えば、ビッグイシュー販売者の西さんが自衛官として東日本大震災の被災地にいたころ、枝元さんも同じ被災地で活動していたのだ。さらに枝元さんは、こんなことも話している。「3・11のあと、ホームレスの概念を考えたの。仮設住宅で暮らす人も家をなくしたんだから、本当はホームレス。そして、困っている。でも、仮設暮らしの被災者をホームレスとは言わない。みんながイメージしているホームレスは、外で寝ている人。ある特定のイメージになっている」枝元さん自身、ホームレスを他人事とは考えていない。自分もなりうるし、周りの女友達の中にも生活が苦しい人はいる。また、「ロス」という言葉にも枝元さんは抵抗がある。「売っているパンも、売れ残ったパンも同じパンなのに、残るとフードロス。“ロスパン”って呼ばれちゃう。残っちゃうのは人の都合じゃん。同じパンじゃん。ロスジェネと呼ばれる人たちも、それと同じだなって。そうやって人の都合で何かの価値が決まるのが、おかしい」そんなふうに、やさしい語り口で鋭いことを言うのが、枝元さんの魅力でもある。前出のチームむかごの柳澤さんはこう話す。「枝元さんは、熱量があるから、人を惹きつけます。周りから見ていて“できるのかな?”と思うことも、やり通してしまう。にこまるプロジェクトは東北でクッキーを作ってもらうんですが、当初、被災地では作る場所がなかったんです。そういう課題をひとつひとつクリアしていっちゃう。枝元さんの作る料理と同じように、アイデアやひらめきがすごい」のんびりした人なのに、仕事になるとシャキッと機敏になる姿を柳澤さんは見てきた。スイッチの切り替え、集中して料理をするときの手際なども感嘆してしまうと話す。「すごい人なのに、見返りを求めていません。やりたいことを貫き通すことは大切にしているけれど、枝元さんは“みんなに行き渡ればいいね”と言うんです。夜のパン屋さんも、みんなのお給料が出ればいいよね、売れ残らなければいいよね、という感じ。自分の利益は後回しなんですよね。いつも自分に何ができるのか考えているんです」(柳澤さん)チームむかごでは、柳澤さんがマフィンを作り、「夜のパン屋さん」に商品を出している。そのマフィンのレシピにも、枝元さんのこだわりがある。「材料を大量に仕入れるわけでもないから、お金がかかっちゃうけれど、枝元さんの理想とするマフィンがあるんですよね。大きさもこだわっていて、“小さすぎる。大きなきのこみたいなマフィンを作りたい”って、どんどん大きくなっていったんです(笑)」実際、田町店のお客さんの中には「このマフィンがおいしいの!」と話しながら買っていった女性もいた。そのこだわりは伝わっている。「人を絶対に裏切らないと思うんです」一方、夜のパン屋さんに参加するお店は、どんな思いで枝元さんの活動に加わったのだろうか。参加店のひとつ、『ラトリエコッコ』は、国産小麦を使い100%天然酵母にこだわるパン屋さんだ。オーナーの高田麻友美さんは枝元さん同様、以前からフードロスに問題意識があった。「フードロスを問題視していましたが、自分たちの活動だけだと限界もあって、結局はロスが少し出てしまう状況でした」(高田さん、以下同)そんなとき、夜のパン屋さんに誘われ協力することにしたものの、どのようにして販売されるのか、一抹の不安があった。「食品ですから、やっぱり衛生は大事。パンを扱う販売員の方がどういう様子なのか気になったので、ためらうことなく枝元さんに事前に聞きました。どんなお洋服で販売するんですか?正直、においとかはあるんですか?と」枝元さんは、高田さんの質問に誠実に答えた。「“お洋服は支給します” “においは若干あるけれど、お手伝いしてくれる方々はそんなことないです”などと、率直にお話ししてくれました。あとは、やっぱりピックアップに来る販売員さんに実際にお会いして、安心したところもあります。生活困窮者の問題がちょっと近しい、自分事になりました」枝元さんの姿勢から、学ぶこともあったという。「枝元さんは、生活困窮者の方たちと対等にお話をされるので、その関わり方を見て、偏見が消えました」夜のパン屋さんの参加にあたっては、「枝元さんだから大丈夫だろう」という安心感も影響したと話す。「人を絶対に裏切らないと思うんですよね。ずる賢いこともしないと思う。例えば、預かったパンは2日(たったものは)売っていませんと枝元さんが言うなら、絶対に売っていない。売ってしまった場合は正直に言ってくださると思うんですね。それは長く付き合ったからどうこうという話じゃなくて、枝元さんのお話しぶりから伝わってくるものがあるので。飾らないし裏もないし、絶対嘘はつかないだろうなって」パンは半額から55%ぐらいで夜のパン屋さんに売り、夜のパン屋さんではラトリエコッコのほぼ定価で販売している。その日、余りそうなパンを冷凍し、空き時間に夜のパン屋さん用に数種をまとめ、袋詰めしておく。「うちが夜のパン屋さんに参加していることをご存じのお客様が、あえて田町へ買いに行ってくださったそうで。もちろん貢献の気持ちもあるのだと思いますが、いろんなパンがあって、選べて楽しいっておっしゃっていました。夜のパン屋さんで買っていただくと、そのお金はラトリエコッコだけではなく、生活困窮者の方にも届く。貢献できるので、うれしいです」夜のパン屋さんであえて買ってくれるお客さんは1人だけではなく、何人もいる。パンを通じた思いやりの循環が街角に生まれている。泊まる場所がない女性の支援に取り組みたい精力的に活動する枝元さんには、その人柄をよく知る古くからの友人がいる。詩人の伊藤比呂美さん(66)だ。夜のパン屋さん田町店の販売スタッフには、伊藤さんの“教え子”がいる。昨年まで講師を務めていた早稲田大学で、伊藤さんの講義を受けていたのだ。「伊藤さんの紹介で、彼女がコロナの影響でアルバイト先を失い困っていると聞いて、販売を手伝ってもらうようになったんです」(枝元さん)伊藤さんと枝元さんの出会いは23歳のとき。お互い忙しく、めったに会えないが、伊藤さんいわく「かわいい動画を見つけると、何も言わずに送りつけたりするような仲」。それに対し返事がなくても、気にならない。「普通の友達より一歩進んで、もう家族のような意識ね。付かず離れず生きてきました」(伊藤さん、以下同)女の友達は執着しないし、楽でいいと伊藤さんは言う。「最初に会ったときはね、何言っているのかわからない不思議な人だな、という感じだった。親元から離れて暮らしていたし、万事において私より自由でうらやましかった」現在、熊本県に住む伊藤さんは、東京に来るたびに枝元さんの家に泊まるのが常だ。若いころ、泊まる約束をしていた日に枝元さんが忘れてしまい、伊藤さんは赤ちゃんを抱いてベランダから侵入したこともあるという。枝元さんの家では、「何か(食べるもの)ある?」「あるよ」。そんな自然なやりとりを交わす。「白菜の古漬けを使ったスープがおいしかった。20年くらい前になるけど、当時は試作品を作っていたのね。あれは1回きりだったかなぁ。あと、ゴボウと牛肉と、卵をオムレツにして、丼にしてくれるんだけど、ほうきの実(とんぶり)を散らすの。すごくおいしかった。私、牛肉は嫌いなんだけどね」一見、おっとりした雰囲気の枝元さんだが、「人の知らないところで集中している時間がある」と指摘する。「昔からぽーっとしている感じだし、それは地なんだと思うけれど、1日に何十品も料理を作ったりするでしょう。その体力、気力はすごいと思う。話し方もゆるやかなんだけど、聞いていると、これ、おもしろいなと思うことを言う。頭は堅くて、いったんこうだと考えると離れない。でも、それがいいふうに動いていて、いろいろな活動につながっているのだと思う」◆◆◆コロナ禍の中で歩みを進めてきた夜のパン屋さん。枝元さんには、まだまだやりたいことがある。「夜のパン屋さんの田町店は女性スタッフで運営しています。同じ場所で、今日、泊まる場所がないという女性のための支援も、一緒にできないかなと考えています」困窮する女性の中には、女性限定の相談会でないと行きにくいという人が少なくない。それが昨年、女性有志による「女性のための生活相談会」が開催された理由でもある。昨年から、都内では何度も女性向けの支援事業や相談会が開かれている。枝元さんも、そこに関心がある。「田町店では、昼間にもパン屋さんをやってほしいという話が来ています。夜のパン屋さんのお客さんが、昼ごはんにも食べたい、と言ってくれて。フードロスの解消だけじゃなくて、もっと仕事づくりの場として考えられたらと思っているんです。例えば、福祉作業所と連携するとか。今、どうやったら実現できるかなと考えています」取材が終わるやいなや、枝元さんは、にこにこおしゃべりをしながら、いつの間にかキッチンにいた。パンの仕入れに同行するためにカメラマンが車を用意している、ほんの10分ほどのことだ。いざ出発というときに「はい」と筆者たちに渡してくれたのは、知らぬ間に冷蔵庫にあるもので作ってくれたサンドイッチ。ゆでた鶏むね肉と色とりどりの野菜が詰まっていた。食べ物を余らせたくない。誰ひとり飢えさせたくない─。そんな愛情が枝元さんの活動にはあふれている。〈取材・文/吉田千亜〉よしだ・ちあ ●フリーライター。1977年生まれ。福島第一原発事故で引き起こされたさまざまな問題や、その被害者を精力的に取材している。『孤塁双葉郡消防士たちの3・11』(岩波書店)で講談社ノンフィクション賞を受賞
2022年02月26日80代のインスタグラマー角野栄子さんインスタグラムやメディアへの出演などでカラフルなファッションを披露している角野栄子さん。華やかで目にも楽しいそのファッション、実は娘でありイラストレーターのくぼしまりおさんが私生活での装いを含め、トータルコーディネートをしているという。服選びで関係がよくなった「母はもともとおしゃれを楽しむことが好きで、ファッションに対して自分なりのこだわりがありました。でも80歳を過ぎたある日“毎日のお洋服を考えるのが面倒になっちゃった”と突然、言われました。“代わりに考えてくれないかしら?”と(笑)」(くぼしまさん、以下同)それ以降、くぼしまさんが小物にいたるまですべての洋服選びを担ってきた。「気づいたのは、母はおしゃれ自体が面倒になったわけではなかったということ。シニアになるとお洋服を買いに出かけたり、何度も試着をするのは体力的にも厳しくなります。そして、コーディネート自体、けっこう頭を使うから疲れてしまう。以前のように自分で選ぶというパワーが、年齢とともに落ちてきてしまうんです」日々のコーディネートを始めてはや6年。2人でコーディネート談議に花が咲き、親子げんかも少なくなったかも、と笑うくぼしまさん。母親のスタイリングで母も娘も笑顔になるオレンジやピンク、赤といったカラフルなコーディネートの背景には、お母様に対するくぼしまさんの思いがある。「年をとると疲れやすいし、どこかしら身体の不調もあるでしょう。でも、カラフルな洋服を着ると顔色が明るくなり、元気な人に見えるんです。何よりも、明るい色の洋服は着ている本人を楽しい気持ちにしてくれます。私自身、母のカラフルなコーディネートを考えることが好きですし、『このワンピースに合う色の小物を見つけよう!』とふたりで家中を探し回るのも楽しいです。宝物探しのようで童心に帰りますよ」お母様のスタイリングをすることは、やがて将来やってくる自分自身の老後の装いの勉強にもなるとも話すくぼしまさん。年齢を重ねた女性だからこそ似合う、気分が上がるファッションとおしゃれのコツをこの機会に習得したい。欲しい洋服がなくワンピースを手作りくぼしまさんは、お母様が着る洋服を求めて多くのデパートや路面店を巡ったが、その過程で大きな壁にぶつかった。「母が望んでいるのは、きれいな色で軽くてシワになりにくい、動きやすいシンプルなワンピースでした。年齢とともに体形は変わり、関節の可動域が狭くなってしまうというのに、色味がすてきな服は細身のお嬢さん用のものばかり。加齢によって生じる身体の変化を考慮していて、なおかつ着ていて気分が華やかになるお洋服は、見事に見つからなかったんです」色や柄の選択肢の少なさに、愕然としたのだそう。「いわゆるシニア向けのお店では、形は合格でも茶色や黒、グレーといった地味な色の服がほとんど。華やかさを求めたら、スパンコールがギラギラとついていたり。年齢問わず女性はお洋服を買うことが好きだと思うんですが……アイテムがとにかく少ないんです」シニアの洋服事情を目の当たりにし、怒りすら湧いてきたというくぼしまさん。既製品を探すことはあきらめて、お母様の洋服を手作りすることに。「洋裁ができる知り合いにお願いして作ってもらうことにしたんです。母が着やすいと言っているワンピースをもとに、試行錯誤を繰り返して、今のワンピースの型ができあがりました」年齢とともに変化する姿勢や体形、身体の機能などを考慮したワンピースには、さまざまなこだわりポイントがある。「身幅や肩幅はもちろん、着心地や見た目を左右するのがアームホールです。年齢とともに二の腕はサイズアップするものなので、アームホールは50cm程度あるのが理想的です。ひじが出ていると身体全体が冷えてしまうので、真夏以外は十分丈が好ましいです」首回りにも見た目と機能性を配慮した工夫がなされている。「年齢を重ねると首回りがやせて貧相に見えてしまうので、首元がある程度詰まったクルーネックに落ち着きました。また、腕が上がりにくくなっても簡単に閉められるように、留め具にはボタンを採用しました」色柄だけでなく、生地の素材選びも重要なポイント。「洋服にアイロンをかけるのはけっこうな重労働ですから。シワになりにくく、洗濯機で洗って干すだけでシワが伸びるような生地を使うことも大切です。これまでの経験上、綿にポリエステルなどの化学繊維が少し混じっているものがおすすめです。寒ければインナーやネックウォーマー、小物で調整するのでオールシーズン使えます」洋服を着ることには色のパワーを借りるという意味も含まれる。体力も気力も衰えがちの年代にこそ明るくカラフルな色の服を着て内側から元気もチャージ。赤やオレンジ、ピンクなど原色や明るい色の洋服がくぼしまさんのスタイリングの基本。「例えば、春になるとお店にはパステルカラーのお洋服が並びますよね。でも、私は母にパステルカラーはあまり着せないようにしています。なぜかというと、パステルカラーはもともと原色をくすませた色なので、母くらいの年代の人が着ると肌もくすんで見えてしまうからです」原色や明るい色の洋服にはうれしい効果があるのだ。「明るい色を着ると肌がきれいに見えるんですね。母の場合、春にはビビッドなピンクやオレンジの洋服を選ぶようにしています。まわりの人たちに“元気なおばあちゃま”と思っていただけるよう、明るい色の洋服を着て、色の持つパワーを借りるんです」原色や明るい色の洋服を着ることで、予想外のメリットを享受できることも。「シニア世代が明るい色を着るだけで“おしゃれに気を使っているんだな”と思わせることができますよね。それがコミュニケーションツールのひとつにもなるんですよ。実際、母は外出先で女子高生に『おばあちゃん、かわいいね』と声をかけられたそうで、1週間くらいご機嫌で過ごしていました(笑)」ワントーンにまとめてかわいくおしゃれにくぼしまさんいわく、カラフルな洋服をおしゃれに見せる秘訣は“ワントーンでまとめる”こと。「母がお気に入りのオレンジ色の花柄のワンピースには、オレンジ色の無地のロングカーディガンとオレンジ色の靴下を合わせます。全身をオレンジ色でまとめてもそれぞれの色合いや質感が違えば、奥行きのある着こなしになるんです」“いきなり明るい色のワンピースはちょっと……”という人には、次のような着こなしがおすすめ。「手持ちのグレーなど落ち着いた色のシンプルなワンピースに、赤やビビッドなピンクの靴下を合わせると、それだけで小じゃれて見えます。まずはカラフルな靴下から挑戦してみてください」ほかにも、ショールやスカーフ、バッグなどの小物も明るい色で合わせれば黒や茶系などの暗い色の洋服が生き生きとしてくる。「黒ならグリーン、茶系にはオレンジを合わせるのもおすすめ。メインのワンピース以外を明るい色のワントーンでまとめることを意識してみて」ちょっと派手な靴下やカラフルなネックレスなど、小物類は人の目に留まりやすいアイテムをチョイス。オトナ女性のファッションの質がよりグレードアップします。「安いから」「なんとなく気に入ったから」といった理由で洋服や小物を買ってしまうと、結局はコーディネートに悩んでしまうことに。ワンピース同様、着回しを想定した小物を買い足そう。「前で結べるタイプのカーディガンは持っておくと便利です」腰回りが暖かいだけでなく、結び目があるだけで、ウエスト位置が高く見える。「伸縮性の高い素材のタートルネックもおすすめ!年齢が如実に表れる首回りのシワを隠し、さらに冷えやすい首元をカバー。水玉模様などの柄物や原色をもってくると着こなしのポイントにもなります」顔に近い首元には目が留まりやすい。そこに明るい色や柄物をもってくることによって顔がぱっと華やかに引き立つのだ。まずは手ごろな値段のカラフルな靴下をくぼしまさんがおすすめするファッションアイテムで、手軽にトライできるのが先にも触れたカラフルな靴下。お母様には、あえて花柄や水玉、ストライプなど明るく派手な靴下を選んでいるという。「靴下はワンコインで買えますし、たとえ失敗したとしても家の中ではけばいいので気軽に挑戦できるんです。気をつけたいのは、くるぶしから上の部分がちゃんと明るく派手に見えるものを買うということです」顔の印象を左右するメガネもカラフルなものをチョイス。「メガネにもいろいろな色や柄がありますが、シニア世代の方はピンクや赤といった明るい単色のフレームを選ぶといいと思います。カラフルなメガネが初めての方にはオレンジがおすすめ。お洋服にも合わせやすいですし、肌がきれいに見えます」首や手の周りをカラフルに明るく彩る首回りを彩るカラフルなネックレスも、持っていると便利。「母のアクセサリーは軽くておもちゃのようなものばかりです。年齢的に重いものをつけていると疲れてしまうので、1グラムでも軽いものを好むんですね。例えば、グレーのシンプルなワンピースでも、カラフルなネックレスをつけるだけでハイセンスな装いに見えます」ネックレスの場合、気をつけたいのが紐の色なのだとか。「紐の色とお洋服の色がちぐはぐになるとコーディネートが崩れてしまうんです。母のネックレスの紐のほとんどは、使い勝手のいい黒にしています」また、ネックレスと同様に、カラフルでかわいい指輪もおしゃれの必需品。「手のシミやシワ、くすみなんか気にならないぐらい存在感のあるカラフルな指輪をつけてみては。母は指輪もプラスチックやゴムのものがほとんど。海外で購入した数百円のものもあるけれど、どれもかわいくて、軽くてつけていて疲れにくい」シニア向けの枠をはずして、つけ心地と、おしゃれを追求したあなたなりのお気に入りのアイテムを探してみては。角野栄子さんスタイルに変身!ワンピース設計図をご紹介。(身長:158cm)人は年齢とともに身体に厚みが出て関節の可動域が狭くなってしまいます。ワンピースは着やすくてスタイルよく見えるカタチのものを。肩幅は42cmくらいがスッキリ見える。着丈はひざ下7~10cm程度に。ひざには老いが表れるのでひざ頭が見えない丈が理想的。身体に厚みが出るので身幅は53cm程度と余裕を持たせ、ちょっとしたものを入れられるようサイドにポケットを。首元の後ろ側。留め具をボタンにしてインナーに着るもので調整しやすいように。【シニアの服は袖や裾の形状に配慮して】シニアの洋服に意外に多いドルマンスリーブ。肩回りがゆったりしていて着やすいという利点はあるものの危険が潜む場合が。ドアノブや手すりなどに引っかけて身体のバランスを崩し転倒につながることも。裾が長いと階段などで転倒の原因に。お話を伺ったのは……くぼしまりおさん●1966年東京生まれ。文化学院美術科卒業。子どもの本の創作や翻訳に意欲的に取り組み、イラストレーターとしても活躍。著作に「ブンダバー」シリーズなど、訳書に『チビねずみくんのながーいよる』などがある。著書『50代になった娘が選ぶ母のお洋服魔法のクローゼット』(KADOKAWA)より(取材・文/熊谷あづさ)
2022年02月26日「松之助N・Y」代表 平野顕子さん撮影/伊藤和幸お見合い結婚で歯科医の夫と結婚。医師の妻として、母として、目立たぬように求められた「役割」を全うした20年―。だが、40代で離婚を決意。一度は諦めた夢、留学に再挑戦する。多くの「縁」がつながり、たどり着いた第二の人生が「ケーキ職人」だった。「人生はシナリオどおりにいかない」と語る平野さんのパワフルな開拓ライフに迫る。■人生シナリオどおりにはいかない甘酸っぱい紅玉(こうぎょく)がたっぷり入ったビッグアップルパイにサワークリームアップルパイ、自家製カスタードが入ったカスタードアップルパイにメープルアップルパイ……。甘い香りに包まれたここは、アップルパイを中心にアメリカンベーキングのパイやケーキを販売する『MATSUNOSUKE N.Y.』。東京代官山にある店内にはカフェも併設され、材料を厳選し、りんごをひとつひとつ人の手でカットしたこだわりのアップルパイをいただくことができる。食のセレクトショップ『ディーン&デルーカ』でも販売され、殿堂入りした人気商品だ。オーナーの平野顕子さん(73)は、45歳で離婚したのを機に一念発起。アメリカの大学へ留学し、現地で出会ったお菓子を今後の生きる糧にしようと決意。帰国後、お菓子教室からスタートした『松之助』を一代でここまでにした人物だ。プライベートでは、60代でひとまわり年下のウクライナ出身の男性と再婚。よく通る声で朗らかに話す平野さんからは、陽のオーラがあふれ出ている。「よくこんな人生を歩んできたなと思います。ひとつ言えるのは、人生はシナリオどおりにはいかないということ」現在、ニューヨークと日本を行き来する2拠点生活を謳歌する平野さんだが、20代~40代までの約20年間は絵に描いたような専業主婦だった。■45歳のときに離婚母親の強いすすめで歯科医の男性とお見合い結婚。福井県に嫁ぎ、嫁として、一男一女の母として、求められた役割を忠実にこなしてきた。京都の本店と西陣のパンケーキハウス、代官山店の3店舗をどれも人気店に育て上げた今の平野さんからは想像できない過去だ。「小さな田舎町だったので、とにかく目立たぬように、目立たぬように過ごしていました。娘と息子が1歳半しか離れていなかったので、神経が子育てにいってしまったこともあります。子どもの教育をし、食事の用意をするのが私の務めだと考えていました。今考えると結構、教育ママだったと思います(笑)」夫は歯科医としては優秀だが、ワンマンなタイプだった。姑(しゅうとめ)も舅(しゅうと)に仕えるタイプの人で、それは当時の地方都市では当たり前の光景だった。結婚3年目のある日、平野さんの心にしこりを残す出来事が起きた。友人が初めて2、3歳の男の子を連れて自宅に遊びに来たときのこと。その年ごろの男児はやんちゃ盛りで、食事中もぽろぽろと食べ物を床に落としてしまう。「それを見た元夫が友人に向かって、“あなたね。人の家に来て、子どもが落としたものの始末ぐらいしたらどうです?”と言うんです。彼女は謝っていましたが、泊まる予定だったところをその日のうちに帰っていきました。後から“ああいったことは、後でやるものだから”と言っても、“そんなことはない。すぐに拾うのがあたりまえ”と、こうなんです。人の気持ちには配慮しないタイプだったのかなと思います」子どもの進学先をめぐり、大きく意見が食い違ったこともある。日々のすれ違いが積み重なり、子どもたちが巣立った後、夫とふたりきりで残りの人生を過ごすことが少しずつ想像できなくなっていった。娘の裕季子さん(47)は当時をこう振り返る。「もし私が母の立場だったら、もっと早くに離婚していたんじゃないかと思います。今はモラハラだ、パワハラだといった言葉もありますし、社会もそういうことに対してわりと厳しい時代じゃないですか。けれど、当時は“俺が稼いでやっているんだから、おまえは文句なんか言える立場じゃない”というスタンスの男性が多かったように思います。母も自分のためというより、家族のために生きているような印象でした」ひとりで生きる人生を選んだのは45歳のとき。2人の子どもが大学生になり、子育てにひと区切りがついたタイミングで離婚を切り出した。◆◆◆家を出て転がり込んだのは、東京の大学に進学してひとり暮らしをしていた長女のマンション。それまで働いた経験は一度もなかったが、やっかいになり続けるわけにもいかない。そこで、平野さんは個人宅を一軒一軒回り、地図と住所を照合する地道なアルバイトを始めた。「新聞の求人欄を見ても、今まで働いたことがない40代の女性ができる仕事はビラ配りとかレジ打ちのようなものしかなかったんです。これで残りの人生がすべて終わってしまうのはいささかつらいな、どうしよう……と思っているときに、志半ばで諦めたアメリカ留学が頭をよぎりました」最初にアメリカに憧れを抱いたのは、子ども時代のある出会いにあった。幼稚園で、アメリカから客員教授として来日していた父を持つ女の子と出会い、親友になったのだ。「ロビン・ウッドという名前でね。当時の日本は食品を貯蔵するのに氷で冷やす“氷冷蔵庫”を使っていたんやけど、ロビンちゃんの家には見たこともない大きな冷蔵庫があるし、最新式の家電がそろっている。アメリカってすごい!どんな国でどんな生活をしてはるんやろ?一度見てみたいというのはそのころからありました」20歳になった平野さんが、留学を計画し始めた矢先、40代の若さで父が夭折(ようせつ)。アメリカ行きは夢に終わってしまう。「うちの母というのが女学校に行くにもお手伝いさんがついてくるような田園調布のお嬢様。父と舅から“これをやってください”と言われたら、“はい”と従う人で、とにかく主体性がない人やった。時代もあったやろうし、母もそういうものやと思って受け入れていたのかもしれません。母はもともと留学に反対していたこともあって、“私を残して行くの?”と言うんです。一家の大黒柱を失って経済的な余裕もなくなるでしょうし、そんな母を振り切ってアメリカに行く気にはなれませんでした」幻に終わったアメリカ留学。息子を後取りに、娘を嫁がせるのが仕事と思っていた母にお見合いをすすめられたとき、こんな言葉をかけられた。「“馬には乗ってみよ、人には添うてみよというでしょ。まずは結婚して、それから相手のことを知ればいいじゃない?”って。私に断る選択肢はありませんでした」専業主婦をしていた20余年、英語嫌いの夫の前で英語を使う機会はなかった。晴れて自由の身になったとき、アメリカへの思いが再燃したのだ。■40代、米国留学に再挑戦!早速調べたところ、私立は無理でも州立の学費なら贅沢をしなければ貯金で何とかなりそうだとわかった。四季があるエリアがよいと東海岸の州立大学をピックアップしていく。入学には各大学が独自に設けているTOEFLの基準点を満たす必要がある。そこで、神田外語学院に通い、いくつかの大学に願書を送った。「そのとき、いちばん最初に“受け入れます”と、お返事をいただいたのがコネチカット大学だったんです。これもご縁だと思って、コネチカット大学に決めました」生計を立てる算段より、まずは果たせなかった夢を追う選択をした平野さん。帰国後、どうやって生活費を稼ぐかを考えないわけではなかったが、生来の能天気さで、「まあ、なんとかなるでしょう」と前向きに捉えた。この時点では、自分がケーキ職人になるとは夢にも思っていなかった。アメリカに行く前に、平野さんがどうしても了承を取っておきたかった人物がいる。2人の子どもと母親だ。「息子は堅実で、“留学に800万円もかかるの?そんな無謀なことはやめて僕に投資すればいいのに”と言っていましたが、自分の思いを話したら“それだけの決心があるならしょうがないね”と納得してくれました。娘は“行ってらっしゃい。卒業できたら快挙じゃない。卒業できたらね”と賛成してくれて。意外なことに、母は離婚も反対しなかったし、留学の話をしたときも渋々賛成してくれたんです。母も元夫の態度を見たり、いろいろ経験したりで、思うところがあったんでしょう」念願のアメリカの地を踏んだ平野さんは、キャンパスライフにも慣れ、充実した日々を送っていた。そんな矢先、悲しい出来事が起きた。同じ寮内で暮らす25歳の中国人留学生の女性が急死したのだ。「最初はただの腹痛だと思って我慢していたみたいです。けれど、その後も痛みが続き、大学の診療所に行ったときはもう手遅れでした。大学側の処置の仕方によっては助かったんじゃないか……と、留学生対大学の大論争に発展したんです。彼女は英語もペラペラで、とても優秀な子だったんですけどね。やりきれないし、アメリカという国は大げさに物事を伝えないと応えてくれないんだと思いました。と同時に、誰も頼る人がいなかったこともあって、初めて強烈な孤独を感じたんです」孤独だったこの期間、これから自分はどうやって生きていきたいのかを深く見つめ直したことが、その後の縁を引き寄せる大きな契機になった。最初の出会いはジャック・ケルアックをはじめとするビート文学に通じ、英文学の基礎クラスを持っていたアナ・チャーターズ先生だ。18、19歳ばかりの学生の中でひとり40代だった平野さんはアナ先生と年が近く、すぐに親しくなった。それまでは大学の寮に住んでいたが、「ウチに来ない?」と声をかけられ一時的に下宿していたほどだ。「料理もお上手な方で、たまに食事をご一緒すると食後は毎回手作りのケーキが出てくるんです。特にポピーシードケーキが何ともいえないプチプチとした食感で、ものすごく美味しくて。あるとき、“帰国後は英語で食べていこうと思っていましたが、勉強すればするほど自分程度の英語力では無理だと思うんです”と相談したら、“ニューイングランド地方のデザートを勉強したら?”とおっしゃって。しかも、“アメリカンケーキと謳っても日本では流行らないだろうけど、ニューイングランドとはイギリスの迫害を逃れた清教徒が移り住んだアメリカ北東部6州のことで、移民たちは自生していたりんごでアップルパイを焼いていて……ってストーリーを語ることができるじゃない?”と言うんです。賢い人は考えることが違いますわ」アメリカには“As American as apple pie” という表現がある。「アップルパイの如くアメリカ的」という意味だ。これほどアメリカを象徴し、親しまれている食べ物もないだろう。「これだ!」と思った平野さんは、すぐに先生を探し始めた。■この道と決めたケーキ修業時代最初に師事した先生は、キャンパス内でアップルパイやパンを販売しており、生徒たちの間でも「美味しい」と評判だった。「その人に師事しようと工房を訪ねてみたら、“あなたに捧げる時間はないわ”と言われたんです。『三国志』の三顧の礼じゃないですけど、3度、4度と訪ねてみたら、ものすごく雪深い地域だったこともあって、“雪の間は構内での販売ができないから、その間の3か月なら毎日あなたに1時間半取ってあげられるわ”と言っていただいて。アップルパイとそのほかのケーキを少し習ったんですけど、結局1か月ぐらいだったかな。短いし、それだとディプロマ(卒業認定)も取れないわと思って」次に見つけた先生の教室は料理が主体で、ケーキもヨーロッパのものが多かった。目論見がはずれた平野さんは、ほかの生徒に「ニューイングランド地方のケーキを教えてくれる先生、誰か知らない?」と聞いて回り、ひとりの生徒から有力情報を得た。「そこで出会ったのがシャロル・ジーン先生です。“あなたは日本に帰ったら、ケーキのお店をやるのね。私の夢はB&B(小規模の食事付き宿泊施設)をやることなの”とおっしゃって。かわいい教会を買って、彼女の旦那さんがそれをリノベーションしている最中だったんです。オープンしていたら私に時間を割くことはできなかったでしょうし、タイミングもよかった。すごく素敵な先生で、今もレシピを習い続けています。師匠であり、親友です」授業がない日は高速で片道1時間半の距離を車で飛ばし、朝から夕方までレッスンを受けた。その後、少し早めに卒業できそうなこと、先生の家により近いことからイースタンコネチカット州立大学に転校。先生の手が空いたときに飛んでいって教えを乞うことができるようになった。プライベートをほぼケーキの習得に費やした9か月の集中授業で、アメリカンベーキングの基礎はもちろん、お菓子教室での会話の仕方や間の取り方まで学ぶことができた。気がつけば、更年期の症状も消えていた。「帰国しても何の後ろ盾もないし、これを習得したからといって何の保証もありません。だけど、これで暮らしを立てていくと決めた以上、できることはやろうと思いました。シャロル先生は、材料や準備をきちーっとする人で、“オーブンを休ませないこと”も教わりました。ケーキにはオーブンでしばらく休ませたほうがよいものと、すぐに取り出したほうがよいものがあります。“あれが何分後に焼き上がるから、次はこれの準備をして……”と効率を考えるようになり、自分でお店を始めたときに役立ちました。今の仕事があるのは彼女のおかげだと思います」■ひとりで生きると決めた猪突猛進の50代アカデミックガウンを着て、角帽を投げる─。まるで、映画のような卒業式を終えた平野さんは日本に戻り、お菓子教室を開いた。場所は実家のキッチン。ひとりでいることが嫌いな母も、多くの生徒が出入りすることを気持ちよく了承してくれた。「ニューイングランドのケーキなんだから、開拓時代の格好をして教えては?」アナ先生からアドバイスを受け、レッスンは金髪のウイッグをつけて行った。開業当初の生徒は2、3人だけ。しかし、家の外に看板を出しておいたところ、京都新聞の記者が面白がり、紙面で大きく取り上げてくれた。その効果は絶大で、一気に150人もの生徒が押し寄せた。ひとりでも生きていけると手ごたえを感じたのはこのころだ。一方で、母のキッチンを借り続けるわけにはいかないという思いもあった。1クラスで6人、1日3クラスで週に5日教えており、多くの生徒から「こんな美味しいケーキだったらお店をやりはったら」という声も上がっていた。「それで、その気になって、京都に教室兼店舗のお店を出すことにしたんです」京都の中心地・高倉御池に出した『Cafe&Pantry松之助』は町家を改装したもの。大好きだったニューヨークの『ディーン&デルーカ』にならい、白、黒、グレーを基調にしたモダンなデザインにした。京都の店が安定したのを機に、母が生まれた東京に店を持つ夢をかなえるべく上京。目黒のアパートで住居兼教室をスタートさせた。そのころの生徒のひとりが、現在、平野さんの右腕として「平野顕子ベーキングサロン」で講師を務める三並知子さん(52)だ。「新聞の見出しが、“おかし(菓子)な英会話教室”で、アメリカンケーキを作りながら英語を学べるというものだったんです。興味をそそられ、すぐに予約を取りました。先生の教え方はとにかくテンポがいいし、美味しいケーキを作ってほしい!魅力を伝えたい!という熱量がハンパなく強いんです。生徒さんの手元、ボウルの中の状態を瞬時に見て、どんなに離れた場所からも檄が飛んでくる。先生の観察力はすごいです」お菓子作りの道具を車に積み込み、片道8時間かけて東京・京都間を往復する日々が何年も続いた。小売店としては、横浜のアウトレットモールに出店。昼間はお菓子教室をこなし、夜にケーキを焼いて、朝売り場に持っていくハードスケジュールをこなした。店名はまだ『松之助』ではなく、『ミセスコネチカットケーキハウス』だった。「ニューイングランドのケーキだから店名は横文字だろうと思っていたら、弟が『じいさんの名前をつけたらどうや』と言うんです。インパクトがあるし、誰にでも覚えてもらえるやろって。これには感謝ですね」その後、知人3人と赤坂に共同経営の店を出すが、意見が合わず、袂を分かつことになった。そして巡り合ったのが、今の東京店がある代官山の空き物件だ。申し分ない物件だったが、その家賃は分不相応に思われた。「開高健さんってもともとサントリーの社員だったじゃないですか。そのエッセイに、サントリー創業者・鳥井信治郎さんの“やってみなはれ、やらなわかりまへんで”という言葉があって、印象に残っていたんです。鳥井さんは大阪の方ですから、京都出身の私が言うなら、もう少し柔らかい響きの“やってみはったら”。この言葉が浮かび、一昼夜考えてその物件を借りることにしました」新しい店舗は、いつか大好きなニューヨークに店を持ちたいという願いを込めて、『MATSUNOSUKE N.Y.』と名づけられた。■ニューヨークに拠点を移し、再婚60歳になった平野さんは、さらに大きな夢への一歩を踏み出すことにした。「それまで直感というか肌感覚を信じてやってきたので、このときも“いよいよNYにお店を出そう”と物件を探しはじめたんです。と同時にアパートも借りて(笑)」自分らしく、本音でいられるニューヨークが最も自分に合っていると語る平野さん。幸い、ニューヨーク大学の近くにこぢんまりしたよい物件を見つけてそこに決めた。しかし、賃料月80万円と高額なわりに人通りが多いわけではない。貯金を崩しながら補填するも、毎月、100万円近い赤字が積み上がっていく。「“石の上にも3年”ってことわざもありますし、3年は続けたいと思っていたんですけど、仕事をするうえで“撤退の時期は間違えない”と決めていたので、2年でお店を閉めました。もっとリサーチしておけばとか、あのときのお金があったらこんなこともできたなとか後悔がないと言えばウソになります。けれど、過ぎ去ったことを考えても仕方がないし、今では挑戦してよかったと思っています。考えてみたら、バカですよね。日本人がアメリカでアメリカのケーキのお店をやろうやなんて。えらい高い授業料になりました(笑)」仕事に没頭し、夢を追いかけた45歳から20年近い独身時代。これからはひとりで生きていくと決めていた平野さんは、ゆっくり朝風呂を楽しみ、大好きな洋画を見るなど暮らしの中に楽しみを見いだしながら日々を過ごしていた。当時を知る編集者の本村のり子さんは次のように語る。「もともと『松之助』のアップルパイの大ファンで、初めてレシピ本のお仕事をご一緒させていただいてから15年のお付き合いになります。ニューヨークにお店を出す直前あたりで日本に戻られたときにお会いしたんですけど、法律について書かれた昔の電話帳ぐらい分厚い書類を読んでいらして。ものすごく集中されているのも、念願だったんだなということも伝わってきました。うらやましいぐらいキラキラされていて、こんな60代を過ごせたらステキだなと思いました」ニューヨーク暮らしを始めてしばらくたったころ、友人宅の庭でホットドッグを食べる小さな集まりがあった。そこで出会ったのは、ウクライナ出身のイーゴ・キャプションさん。住まいが近く、スーパーマーケットなどでたびたび顔を合わせる機会があった。連絡先を交換し、お互いの家族のことや近況を報告しあううち、ひと回り以上年下のイーゴさんとの交際が始まった。「年齢はただの数字。それより相性のほうが大事」と語るイーゴさんから見た平野さんの第一印象はこうだ。「チャーミングで、芯のある女性だなと思いました。英語で言うならdecisiveな女性(決断力のある女性)。その印象は今も変わりません。バイタリティーあふれる彼女ですが、穏やかな面や出すぎない控えめな面もあると思います」あるとき、こんなことがあった。気分が悪くなった平野さんが嘔吐すると、イーゴさんが「洗えばすむこと」と両手で受けとめたのだ。ひとりで走り続けてきた平野さんが、弱みをさらけ出しても大丈夫な人がいると感じたその出来事は、結婚を意識する要因のひとつになった。娘の裕季子さんは交際中の2人をこんなふうに見ていた。「結婚する前に一度、イーゴさんと日本に来てくれたことがあるんです。日本にまで来てくれるんだから誠実な人だなと思いました。母は結婚したそうでしたけど、相手から言ってもらうのを待っていたのかな?こんなことを言うと、余計なことをバラすなと怒られそうですけど(笑)」出会いから5年後にふたりは結婚。20年余りの結婚生活と20年近い独身生活を経て、60歳を過ぎてからのニューヨーク再婚生活が始まった。■「程よい距離」が長続きの秘訣「とにかく売り上げを伸ばさんと」再婚するまでの平野さんは、必死で数字を追いかけていた。スタッフ個々に生活があり、その生計を担っているのだからという思いもあった。しかし、起業家が書いた本を読むうち、ある女性経営者の「数値化できないものも大事」という記述がふと目に飛び込んできた。「接客の上手さや、ケーキをキレイにカットする技術は数字に表れません。だけど、その子たちがいるから、お客様にとってまた来たいと思えるお店になっているわけで。やっぱり人が大事なんやと改めて気づいてからは、前よりみんなに声をかける機会が多くなったかな」人が財産というだけあり、『松之助』にはもともとお菓子教室に通っていた生徒だったという長い付き合いのスタッフが多い。代官山店に勤めて7年目という小田桐道代さん(49)も、そのひとり。「先生のレッスンを受けていたころ、うまくできなくてみんなの前で檄を飛ばされていたAさんという方がいたんですね。それが何度か続いて、ある日先生が“私はよかれと思って言っているけれど、あなたを傷つけているのであればこれ以上何も言いません。あなたはどうしたいですか?”と質問されたんです。私は先生のその熱意と優しさと正直さが大好きで」何をするにしても手を抜かず、失敗しても引きずらない。そんな平野さんを慕うスタッフは多い。娘の裕季子さんは言う。「生徒さんは母からエネルギーをもらっているのかもしれませんが、母も“若い世代の方からパワーをもらっているのよね”と言っていました」前述の編集者である本村さんも同じく、平野さんからパワーをもらっているという。「レシピ本の撮影のときなども、ご自分の手が空いたら率先して洗い物をして、私が立っていたら椅子をすすめてくださって、常に周りに気を配ってらっしゃる。『松之助』のスタッフのみなさんもそんな方ばかり。先生の一歩踏み込む力もすごいですよ。気になる人がいたら有名・無名にかかわらずすぐにお手紙やインスタのDMからご連絡するんです。そして、どんなに相手が有名な方でも“私なんて……”と卑下することなく堂々としている。それが気持ちいいんです」気遣い上手で、好奇心に忠実。バイタリティーの塊のような平野さんだが、ニューヨークでは、イーゴさんの好きな釣りやスキーを共に楽しむ穏やかな日々だという。「主人は釣りに行って大物が釣れると、満面の笑みを浮かべて持って帰ってくるんです。そのときの感触や手ごたえについて事細かに話してくれるので、こちらまで感動が伝わってくる。それを捌いて、3日ぐらいかけて食べるんです。些細なことなんですけど、1匹の魚で何日も幸せが続く。そういう感性が芽生えたのは彼のおかげです」実は、平野さんは能装束の織元の家の生まれ。高価なものにはそれだけの意味と価値があると考える平野さんと物質的な欲が薄いイーゴさん。異なる価値観から議論になることも多いが、それでも関係をうまく続けていけるコツがあるという。「私は靴が大好きなのですが、主人は900円のスニーカーでいい人。高いものは縫製がいいでしょ?と言っても、高いものが必ずしもいいものではないでしょ?と返ってきたりするんです。まあ、人の価値観も幸せも人それぞれ。それでケンカしても意味がないから、そんなときは『チェンジ、サブジェクトしましょう』と言っています。それも、関係を構築していくうえで大切なことかなと思いますね」実り多き2拠点生活を送る今、この先も元気で年を重ねていくことが希望だという平野さん。「先日、テレビで70代の方の事件を取り上げていて、見出しに“高齢者”と書いてあったんですよ。70代は世間では高齢者なのか……と、もうびっくり!初めて認識しました。でも、主治医の先生は“年齢は見た目ですからね”とおっしゃっていましたし、私は、60歳から年齢を数えないことにしています。年々歳々、どこもかしこもガタがきてしまって、もうグラビテーション(重力)には逆らえませんけどね(笑)」取材後、人数分のコーヒーカップをサッと下げ、「これで大丈夫かな?では、私は先に失礼させていただきますね」と去っていった平野さんの足取りは、重力を振り切ったかのように軽やかだった。〈取材・文/山脇麻生〉やまわき・まお ●ライター、編集者。漫画誌編集長を経て’01 年よりフリー。『朝日新聞』『日経エンタテインメント!』などでコミック評を執筆。また、各紙誌にて文化人・著名人のインタビューや食・酒・地域創生に関する記事を執筆。
2022年02月20日ピップエレキバン130。永久磁石を使い、絆創膏部分も肌への負担が少ない素材(管理医療機器認証番号:225AGBZX00030000)肩、腰、背中で起きるコリトラブル。コリとは生活習慣による緊張や疲労が蓄積し、筋肉が収縮して太く、硬くなった状態のことをいう。『ピップエレキバン』はそうした症状を改善してくれる磁気治療器のことだ。使い方は筋肉がこり固まっている患部に貼るだけと簡単。磁気の力が血管を広げ、血行をよくすることで老廃物を流してくれるのでコリに効果があるといわれている。大人から子どもまで、幅広い層に使用されており、今年で誕生から50年を迎える。そこでピップ株式会社商品開発事業本部の伊賀遥香さんに聞いた。ピップエレキバン開発のきっかけは一粒の米ピップエレキバン誕生のきっかけは’68年、商品開発の部署が立ち上げられたことにある。開発担当者が注目していたのが当時、流行の磁気を使った健康アイテムだった。「磁気の力で血行、血流を改善するというものでした。アイデアはよかったのですが、課題はその形状。主流だったのはブレスレットタイプだったため、“もう少し使いやすくできないか”と考えていたそうです」(伊賀さん、以下同)ヒントはとある社員が行っていた民間療法にあった。「身体のこっている部分に絆創膏で米粒を貼り、ツボを押していました。そこから磁石を粒状にして直接、身体に貼ったら面白いんじゃないか、とひらめいたそうです」そのアイデアは採用され、商品化を目指した。臨床試験を重ね、約2年の歳月を経て1972年に誕生した。効果的な使い方はあるのだろうか。「こった場所に2、3個を2〜5日、貼り続けていただくことです。貼る時間帯は朝でもお風呂上がりでもいつでもいい。コリを感じたときに使ってもらうのがベスト!」平賀源内が名づけ親!?発売当初は『恵麗喜絆』という漢字表記だった。名づけのヒントは江戸時代の奇才、平賀源内とか!?「商品名は開発担当者が読んでいた平賀源内の本がもとになっているといわれています。そこに書かれていたエレキテル(静電気発生装置)のエレキ、から磁気を連想。商品の効能とエレキの意味は結びついていませんが、イメージ的に似たようなものとして提案したそうです」ちなみにバンは『絆創膏』のバン。エレキとバン(絆創膏)で『エレキバン』という商品名がつけられた。ヒットの鍵は地道な努力「弊社はさまざまなメーカーの商品を取り扱っているため、取引先とかぶらない、ほかと違う商品展開が求められていました。そこでニーズの隙間を縫うようなニッチなアイテムを企画していったんです」ちなみに最初に誕生したのがシャンプーハット。これもピップが考案したものということはあまり知られていない。そしてピップエレキバン。今では肩コリ改善におなじみのアイテムだが、発売直後は知名度は低く、売り上げは伸びなかった。そのため、営業マンが小売店を一店一店、回り、売り込んでいった。「売れないからと商品を撤退させるのではなく、せっかく作ったものはあきらめずに育成していこうという気持ちだったそうです。そしてもっと世の中の人にその存在を知ってもらうことが必要では、との結論に至りました」名物会長と樹木希林さん’73年、最初のテレビCMが放送された。’77年に故・横矢勲会長が自ら出演し、商品をPRしたCMが大ウケした。内容は横矢氏がエレキバンの箱を持って机に座り「ピップエレキバン!」と言うシンプルなもの。だが、素人っぽさや横矢氏のコミカルな動きが視聴者に響いた。さらに横矢氏が女優の故・樹木希林さん(享年75)や故・藤村俊二さん(享年82)らとも共演したCMは軒並み大人気。商品の知名度はアップし、売り上げにつながった。特に樹木さんは出演期間が長く’79年〜’96年までの登場。横矢氏とのコンビはシリーズとなり、どのCMも話題に。中でも「この、しぶとさが会社を繁栄させるワケですね」との樹木さんが横矢氏に言ったセリフは当時の流行語にもなったほどだ。’86年4月、横矢氏は82歳で死去。告別式で同氏を偲び、樹木さんが弔辞を読み上げた。CMが地域おこしにも!CMで印象深いのは、北海道比布町で撮影されたシリーズだろう。駅や神社などさまざまな場所が登場し、同町は一躍脚光を浴びた。「あるラジオ番組でリスナーが“北海道に比布町がある、そこでロケをしてほしい”と投稿したことがきっかけでした。それを社員が聞いていて“面白い”と採用、撮影に至ったようです」歩く広告塔横矢会長の人柄「ひと言で言い表せば、動く広告塔。その自覚と責任を常に持っており、“外に優しく、内に厳しく”を徹底された方でした」自社製品には絶対の自信を持ち、ピップエレキバンを常にポケットに入れて電車の中でも乗客に配って歩いたというエピソードは有名な話だ。さらにその温和な人柄でも多くの人々に愛された。’86年1月、横矢氏はオーストラリアで新作のCMを撮影していた。だが、同年に死去、そのとき撮られた3本のCMは放送されることはなく、幻となったという。商品は進化し続ける「時代とともにコリの理由も多様化。今は仕事でも日常生活でもPCやスマホなど画面を見ている時間が増えました。そのため、眼精疲労や姿勢からくる肩コリに悩む人も多いんです」座っている体勢が長くなったことから腰や背中のコリに悩む人も増えているという。そこで、現代人のニーズに合わせた商品開発も盛んに行われている。「足裏に着けるバンドタイプ、ブラジャーの紐に挟むインナークリップといったアイテムも誕生しています」磁石を絆創膏で貼るものがベーシックなタイプ。だが、最近では肌に負担がかかることを懸念する人やコスパを考え、繰り返し使いたい、という要望も増えており、違う形状のアイテムが誕生している。「これまでは中高年が使用しているイメージを持っている人が多かったかもしれませんが、今は20代、30代からも注目されています」ボツになった商品のその後新商品が誕生する一方でボツになる商品も……。「印象的だったものはブラジャーの紐そのものに磁石が入った商品。ただ、これは短命で終わってしまいました」自分では貼りにくい背中もケアできるという発想はよかったものの、商品は紐をつけ替えて使わないといけなかった。そのためつけ替えのハードルが高く、あまり受け入れられなかったという。ただし、その発想はピップエレキバンインナークリップへと受け継がれた。ユーザーのエレキバン愛「発売当初のCMは確かにインパクトがありました。ですがただの一発屋で終わらず、リピーターも多く、暮らしに根づいたのは、使用感はもちろんですが、手軽さが取り入れやすかったと考えています。それと口コミ。売り上げに苦戦していた時期でも“効いた”という声が数多く届けられ、お礼の菓子折りを送ってくれる方もいました」熱いファンの存在は冬の時代、ピップエレキバンを存続させるというモチベーションにつながっていったという。「50年間愛され続けてきたアイテム。そこから商品への自信や利用者への感謝の思いを感じています。商品は常に進化を続け、新たな時代でも暮らしに欠かせないアイテムになれるようにアプローチを続けていきたいです」
2022年02月19日授業中も笑顔が絶えない子どもたち(撮影/渡邉智裕)「お餅も自分たちで作ることに決まったけど、全員で作ったほうがいい?それとも、チームに分けて作る?」「お餅を作るチームと鳥取のお雑煮を作るチームを一緒にしたほうがいいと思う」「鳥取のお雑煮ってあんこが入ってるけど、そのあんこは作るの?」「調べたんだけど、あんこは小豆から煮て作るみたい」ホワイトボードに、日本各地の雑煮の材料や特徴が書き出されていく。山梨、東京、鳥取、香川、岩手、奈良の雑煮を作ることになり、ミーティングが行われていた。■山梨県のとある小学校教室には小学校1年生から6年生まで26人の子どもたちが入り交じり、座る場所も自由。議長はやりたい人が自主的にするクラスもあれば、順番に担当するクラスもある。それも話し合って決める。教室の入り口には『おいしいものをつくる会』という手作りの看板が掲げられていた。山梨県にある南アルプス子どもの村小学校。この学校の教員は「先生」ではなく「大人」だ。子どもとの関係は対等で、校長もカトちゃん、あべちゃんなど名前やニックネームで呼ばれている。創設者で、学園長の堀真一郎さん(78)の思いがここに強く表れている。「子どもが笑う。大人も笑う。これがよい学校のしるしです。教師に権威はいりません。学校や教育の常識からも自由で、謙虚に子どもと歩みます。教師はどこにいるかわからないくらいがいいんです」各クラスの担任は2人だが、大人の声はあまり聞こえてこない。何をするにも、まずは子どもたちの話し合いから。大人は見落としていることに気づくきっかけを投げたり、議題に挙げたりするだけだ。一方的に教え、指示することはない。大人が意見を言うときは、そっと控えめに手を挙げる。大人が大切にしているのは「子どもが自分で気づく」こと。隣のクラスの『クラフトセンター』では、毎年少しずつ古民家のリフォームを続けている。取材当日、「今日は冬休み明けなので古民家を見にいくと担任が言っていました。いい写真が撮れそうですね」と校長から聞いていたが、どうやらミーティングが白熱している様子。「学校のパソコンは数が限られているから、図書館にも行くといいと思うんだけど、どうやって決める?」「土間のことは左官屋さんに聞きたいから、ネットじゃないと調べられないんじゃないかな。本で調べられることは図書館でいいんじゃない?」リフォームに関連する“学びの旅”の下調べをどう進めるかが議題だ。知りたいことがあれば、実際の場所に足を運び、職人にも話を聞く。子どもたち自身で電話をかけ、会いにいく約束もする。テーマも幅広い。「ちきゅうのしくみ」「おしろ」「にんじゃやしき」「むかしのたてもの」「きのかこう」「くぎ・ねじ」──。1年生も読めるよう、ホワイトボードにひらがなで書かれている。クラスの半分が町の図書館に出かけることに決まり、子どもたちは声を上げ、上着を手に教室を飛び出していった。古民家での作業をシャッターチャンスとして楽しみにしていた取材陣がガックリ肩を落としている傍らで『クラフトセンター』の担任あべちゃんは、予想外の展開を楽しんでいるように見えた。「今日は古民家には行かないみたいですね。大人の予測どおりに進まないのも、子どもの村ではよくあることです」校庭からも楽しそうな声が聞こえてくる。校舎を出ると、真っ青な空を背負った富士山が正面にあった。校庭にある遊具は、子どもたちの手作りだ。甲府盆地を吹き抜ける冷たい風の中を『わくわくファーム』のクラスの子どもたちが転がるように走っていく。その先には鶏と豚、羊たちがいた。「羊の糞を掃除してこの箱にためるの。肥料にするから」「小屋も作ったんだよ」「風が強いから、屋根の波板が飛ばされて、何度もやり直して大変だった。小屋ごと横に倒れたこともあったよ」初めて会う取材陣にも子どもたちは詳しく説明してくれる。「せっかく作った小屋が倒れちゃったの?大変だったね」と声をかけると、すぐにこう答えた。「倒れたら、今度はもっと工夫して、風に倒されない小屋を作ればいいんだよ」子どもたちの笑顔は、自信に満ちてたくましい。■『本物の仕事』に取り組む南アルプス子どもの村小学校の母体は、和歌山県のきのくに子どもの村学園だ。1992年、1つの小学校から始まった学園は、小中学校各5校、高等専修学校1校、全部で11の学校に広がっている。学園長の堀真一郎さんは、和歌山、福井、山梨、福岡、長崎にある5校すべてを、自ら運転する愛車のパジェロとフェリーを使って毎週欠かさず日替わりで回る。この全校を回る生活を20年間続けているというから驚く。「子どもの村に学年ごとのクラスはありません。工務店、ファーム、料理、ものづくり、劇団などのプロジェクトごとにひとクラス20〜30人。毎年、子どもたちが自分の関心で自由に選ぶため、過去には、希望者がたった3人というプロジェクトもありました」ある年の3月、4年生の男の子が堀さんに相談に来た。「あのな、堀さん。来年度のクラスやねんけど、僕が選んだ料理店は希望者が3人しかおれへんねん」「え、3人だけか」「このままでは担任の大人がやる気をなくす……」その男の子は、大人のやる気を心配していた。堀さんはしばらく考え、鶏を飼うことを提案。希望者は20人に増え、卵料理をテーマに据えて活動は盛り上がったという。「プロジェクトは子どもが主人公の知的探究です。学ぶ楽しさ、仲間と触れ合う喜びをたっぷり味わいながら、『衣食住』や『いのち』をテーマに活動します。活動を通して知性と手と身体が鍛えられ、いろんな学びが広がります。『ままごと』ではなく、『本物の仕事』に取り組む。子どもは、面白いと思えば熱中することができるんです」それぞれのテーマは入り口が異なるだけ。子どもたちの話し合いを軸に学びはどんどん展開していく。大人たちは展開しやすいテーマを十分吟味して準備している。例えば『わくわくファーム』では、羊の世話というテーマから、その小屋を建て、羊の世話をする。羊の毛を刈り、羊毛から毛糸を作って織物を作る。モンゴルのことを調べ、モンゴル料理を作る。台風がくるときは天気について学んで対策を考える。そしてプロジェクトで調べ、活動したことを原稿にして冊子を作り、劇にして発表する──。「多くの学校では、知識や技術を覚えることが『目的』になりますが、プロジェクトでは知識や技術はすぐに役に立つ『道具』や『手段』になる。自分で体験して技術を手に入れ、大きな発見をすることもあります。活動を通して問題を見つけ、観察し、仮説を立て、結論を導き、実行して確かめる。高度な知的探究の繰り返しです」この学校ではチャイムも鳴らない。子どもたちは自分で時計を見て自主的に動く。2コマ100分をセットにしているため、とことん集中して取り組むことができる。1日中プロジェクトに取り組む曜日も週に1日設定されている。基礎学習の時間には、プロジェクトと連動した学習や子どもたちが楽しめるオリジナルのプリントで個別に学ぶ。算数や国語、英語などの問題文に、校長や堀さんの名前を登場させたり、子どもたちが手作りする遊具の建設に必要な計算が例題になったりする。堀さんは現在、全学校の小6と中3の英語の授業を担当。6年生の英語の授業は、例えばこんな調子だ。「じゃあ、今から日本語で言うから、英語にしてや」「やあ元気?」「How are you?」「なんかあかんわ〜」「I don’t feel well」「どうしたん、眠いんか?」「What’s wrong? Are you sleepy?」「ちゃうねん。風邪ひいてん」「No,I’m not. I have a cold」和歌山の学校では関西弁。ほかの学校でもそれぞれの土地の言葉で、日常会話にできるだけ近づける。子どもたちは笑いながら、英語に訳して大きな声で一斉に答える。堀さんに手渡された学校のパンフレットを開くと、1ページ目に大きな文字でこんな言葉が印刷されていた。「たのしいから学校。たのしくなければ、学校じゃない」■卒業生のたくましい活躍教科書にとらわれない学びが中心で、宿題もテストもない。通知表は数字による評定ではなく、その子の伸びているところを文章で記述する。職員室にはいつも子どもたちが自由に出入りし、大人のひざの上に座る子もいれば、おんぶや肩車をしてもらう子も珍しくない。学園長の堀さんを堀ジイと呼ぶ子だっている。見学者からはこんな質問が出る。「子どもたちは元気で楽しそうですが、学力は大丈夫ですか。進学できますか」「厳しい社会でうまくやっていけるんでしょうか」入学を検討している保護者も、教育関係の見学者も、未来の心配をする。開校3年目には、「受験指導をしてほしい」と一部の保護者から声が上がったこともあった。しかし、「受験指導はしない」という方針は全く揺るがなかった。例えば、2020年度の南アルプス子どもの村中学校の卒業生を見てみると、外部の私立高校4割、公立高校2割、きのくに高等専修学校3割、通信制高校1割と、全員が高校に進学。子どもたちは自分で高校について調べ、進路を決める。大人は、相談があれば話を聞き、情報提供、情報収集を手伝うだけだ。推薦で進学する場合もあるが、作文や面接は特別な対策をしなくても、素直に答えているだけで十分に関心を持たれることが多い。わからないことは「それはわかりません」と正直に答える子もいれば、「なんか、話したらめっちゃ笑ってくれた」「ほかの人の3倍くらい長かった」と言って楽しそうに帰ってくる子もいる。卒業生の禰津匡人さん(29)は大人になった今、当時をこう振り返る。「子どもの村では全部子どもが決めて自分たちでやっていました。だから、高校や大学、社会に出てもなんでもできる自信があった。相手が教授でも偉い人でも臆せずに質問したり意見したり、対等に話せるんだと思います」選んだ進学先で学びを深め、好きな分野を突き詰めて活躍し、高校卒業時には代表で答辞を読む子も多いと堀さんは言う。「高校で何か困っていないかと尋ねると、ほとんどの子が“高校のほうが子どもの村よりずっとラクだ”と言います。理由を聞くと、“だって、先生の話聞いてるだけでいいもん”と言う。子どもの村では何を学ぶかも自分で決めますし、話を聞いているだけじゃ何も進みませんからね」昨年の春、中学を卒業し、山梨の私立高校に進んだある卒業生は、小学校4年生のとき、割り算でつまずいた。保護者のFさんは“他人と比較しない校風”に救われたと話す。「本人が割り算がわからないと言って学校で大人に相談したら、ひとケタの掛け算まで戻っておさらいできたようです。九九を覚えていないから割り算が難しかったみたい。でも、誰かと比べて評価されることが全くないので、できないことがあっても卑屈にならないし、わからないと言える。それは今も強みだと思います」その子は、現在通う高校で上位の成績を収め、演劇部に所属。学校以外でもアプリ開発をするオンラインイベントに参加するなど、自分で熱中できることを見つけている。「卒業生には本当にいろんな子がいます」と堀さんは誇らしげだ。「医者になった子もいるし、子どものころ食が細くて心配していたら無農薬野菜の店を出した子もいる。数学で素晴らしいひらめきを見せて、数学者になるかと思ったら現代バレエのダンサーになった子も。小学校でたんぽぽの研究に夢中だった子が環境関係の大学に進学し、卒業後にはなぜか花火を作る会社を自分で立ち上げた子もいます」学校を始めた当初は、“このやり方でもいけるんじゃないか”くらいの気持ちだったが、卒業した子どもたちの姿を見るたび、自信は増した。「このほうが絶対にいいという確信に変わりました。私たちが目指すのは、いい成績を取ることでも受験に成功することでもない。どんな状況でも、幸せに生きられる人になってほしいのです」■少数意見にも耳を傾ける全校集会学年に関係なく仲がいい友達ができる。休み時間に中学生にピッタリとくっつく低学年の小学生に「仲よしだね」と声をかけると、「寮で一緒やねん!」とうれしそうだ。家が遠い子どもたちは、小学1年生から寮に入り、週末は自宅に帰って家族と過ごす。入学前に2泊3日の体験入学をして、子ども自身が「ぜひ入りたい」と思うことが入学の条件だが、それでもホームシックになる子がいる。そんなときは、年上の子どもたちがそっと寄り添う。「寮に入っている子のほうが人間関係の発達は早いと思います。24時間一緒にいれば、トラブルやもめごともたくさん起きて、その都度みんなで話し合う。失敗を繰り返しながら、人との距離の取り方を自然に学ぶんです」卒業生も保護者も、教員である大人たちからも出てきた言葉がある。「子どもの村は大きな家族みたい」保護者のAさんは、子どもの雰囲気が変わったと話す。「息子は保育園時代、帰宅後、怒りに近い不満を抱えていることが多かった。子どもの村に入学してから嘘のようになくなって毎日ご機嫌に。大人が子どもを信頼し尊重してくれているからだと思います。大人と子どもの関係ってこれだよなって感じます。とにかくみんな笑顔!」この学校に「校則」はないが、子どもたちが話し合って決めた「約束」がいくつかある。それはいつでも話し合って見直すことができる。週に一度、小・中学生、大人たち全員が参加するミーティングという名の全校集会。議題は「ミーティング・ボックス」に入れて提案でき、議長はミーティング委員会の子どもが交代で務める。運動会や遠足などの行事や、社会問題、人間関係、いじめもみんなの問題になる。「〇〇くんが、僕にいつも嫌なことを言ってくるのでやめてほしい」誰かがそんな声を上げたときは、現場を見た子や、状況を知る大人がみんなに話し、誰がいいか悪いかではなく、もう一度起こらないようにするにはどうすればいいかをみんなで考える。話し合いが進まないときや、誰かがみんなに責められてしまうときは、大人が小さく手を挙げる。「〇〇くんは、言いたいことがいっぱいあるけど、気をつけるって言っているね。それについてはどう思う?」ミーティングの途中で全体に挙手で意見を問うこともあるが、小さい子も大きい子も、少数意見にしっかり耳を傾ける。その場で解決するのではなく、1週間、2週間と時間をかけてみんなで見守り、また話し合う。堀さんはこの時間がとても重要だと考える。「大人も沈黙はしません。ただし、権威は振りかざさない。子どもと対等の立場で参加し、脱線したときは、その場を整理します。ミーティングは教育活動として重要で、アイデアや思いを披露し合うことで、自分以外の人がそれぞれ違って存在することを身体で感じることができる。それは、自分自身を強く意識することにもなるんです。大人は、煮詰まってきたときにふっと笑わせて場を和ませることも大事かな」学校では意見をあまり言わない子も家では盛んに話し合う。保護者の藤原さんは、子どもたちの変化に驚かされた。「猫の世話でもめたとき、きょうだいで感情的にならずにやりとりしていました。今、何が問題?こういうルールにするのはどうかな?って。夫婦ゲンカも横で聞いていて、パパは本当はこんな気持ちだったんじゃないかな、と後で言ってくれることがあります。驚きますよね。膨大なミーティングの体験が積み重なっているんだなと思います」そんな子どもたちから保護者が学ぶことも多い。「大人になると、組織で何か問題があっても、政治家や上司のせいにして、どうせ変えられないと諦めてしまう人が多い。だけど、子どもの村では、学校は自分たちで話し合ってつくることが当たり前になる。きっと、社会も自分たちでつくっていこうという姿勢につながるんだと思います」(保護者・木村さん)■母が勤めていた山奥の学校に憧れて学園長の堀さんは、1943年、福井県奥越地方の農村に生まれた。現在の勝山市だ。父も母も教師だった。父は地元の本校に、母は少し山に入ったその分校に勤めていた。「私が小学校3年生から5年のころに母が勤めていた分校に、ときどき遊びに行きました。子どもは全部で30人ほど。先生と子どもが仲よく、大きい子が小さい子の面倒を見て、近くの山や川に出かけ、とても楽しそうに遊んだり学んだりしていました。いいなあと思って、分校をまねして学校ごっこをして遊んだものです。私はだいたい教師役をしていましたね。あの分校のイメージが、具体的なアイデアにつながっています」小中学校のころは先生にも憧れたが、途中からそんなことはすっかり忘れていた。「高校では数学が肌に合わず赤点ばかり取っていた」が、時代のブームに流され一時は理系への進学を希望。だが、直前になって「やっぱり、子どものころ遊んだ分校のような、山奥の教員になろう!」と思い立つ。京都大学教育学部に入学したときには「卒論は僻地教育について書く」と決めていた。その後、アメリカの哲学者でもある教育学者ジョン・デューイの研究を進めていたが、21歳のとき、イギリスの教育学者ニイルの著書『ニイルの思想と教育』を手にして衝撃を受ける。そこには、ニイルがつくったイギリスの学校、サマーヒル・スクールの様子が書いてあった。「世界で1番自由な学校」として知られる学校だ。「授業に出る出ないは子どもが決める。全校集会では校長も5歳の子も同じ1票。大人と子どもがファーストネームやニックネームで呼び合う。最初はそんなアホな!という驚きや疑問ばかりでしたが、次第になるほどと納得できるようになっていったんです」堀さんは、傾倒していたデューイとニイルの思想を「実践で統一したい」と考えるようになる。大阪市立大学で教育学や心理学の研究を進める傍ら、仲間たちと学校づくりを目指し、動き始めた。■学園長は「好奇心旺盛な少年のよう」堀さんと初めて出会った日のことを、現在の南アルプス子どもの村中学校の校長、カトちゃんこと加藤博さん(51)は鮮明に覚えている。当時、岐阜大学の学生だった加藤さんは、堀さんの論文「オルタナティブ教育の構想」を読み、堀さんのもとで研究をしたいと大学の研究室を訪れた。学園設立の直前、1991年のことだ。「ああ、よく来た、よく来た。まあ座って」堀さんにそう言われ、目の前の椅子に腰かけると、何の前置きもなくビデオデッキのコードを渡された。「そのコードで“もやい結び”できる?」加藤さんは大学で山岳部に所属していることを事前に伝えていたが、志望理由など一切話す間もなく、もやい結びを求められたことに驚いた。が、とにかく言われるままに、もやい結びを作った。「よし!これで子どもと崖の工事を進められる!」堀さんはうれしそうに笑って続けた。「面接ではただ笑っていなさい。大丈夫だから。よし、うまいコーヒー飲みにいくか」早足で車に乗り、どこに行くのかと思ったらわずか1分の距離にある喫茶店。コーヒーが出てくるとひと啜り、「おっと、行かなくちゃ!」とお金を払い、あっという間にいなくなってしまった。加藤さんは、そんな堀さんの存在が子どもにも大人にも影響を与えていると言う。「なんて忙しい人なんだ、と思うと同時に、落ち着きがなくて、好奇心が旺盛で、思い立ったらあれもこれもしたい人なんやなあと思いました。著書や論文の文章はとても緻密で非の打ち所がないのになあと衝撃を受けました。子どもたちのそばにいる大人が堀さんのようにイキイキしていることは、とても大事だと思っています。堀さんは、大人にも好きなことをさせてくれるんです」加藤さんが働き始めて1年目、「カルコルムの未踏峰に登りたいから2か月半休ませてほしい」と申し出たことがある。さすがに許してもらえないだろうと、辞める覚悟もして伝えにいった。「ああそう。いいよ。だって、子どもにいいやろ」堀さんはあっけなく許してくれた。加藤さんは自分が山に登ることしか頭になく、何を言われているか最初はわからなかったが、あ、そういう考え方があったのかと気がついて、便乗することにした。「そうなんです。子どもにいいと思います。手紙も書くし、写真も撮ってきます。話もたくさんできると思います。それと、またいつか仕事を休んで山に行きたいです!」加藤さんは20年前、2回目の休暇を取り、チベットの8000m峰の頂にも立った。子どもの村で夫婦共に教員をしていた加藤さんは、学校に生後2か月の赤ちゃんを連れてきていた時期もある。それも、堀さんは「子どもにいい」と言った。子どもたちは休み時間になると赤ちゃんの周りに集まり、泣けばあやしてミルクをあげ、両親が手が離せないときはおむつを替えてくれた。大人の手つきを見て、勝手に覚えていた。しかし、時に、大騒動が起きることもある。加藤さんが担任し、1年かけてプロジェクトで作った竪穴式住居が火事で全焼したこともあった。加藤さんは申し訳なく思ったが、堀さんはこう言った。「チャンスだ。こういうことがあるから学ぶんだよ。僕の実家も火事になったことがある。誰もケガしなくてよかったよ、カトちゃん。あはは」大人のチャレンジも、大人の失敗も、子どもにとっては学びのチャンス。大人が堀さんに信用され、安心して楽しんで活躍できることで、子どもたちにもその安心の場が保障されている。■子どもに任せる機会を増やすきのくに子どもの村学園ができて30年がたった。今では、子どもの村で「大人」として働く卒業生もいる。前出の卒業生、禰津匡人さんもその1人だ。卒業後は埼玉県の私立高校、山梨県の公立都留文科大学の社会学科で環境教育を学んだ。そして、徳島県上勝町へ。ごみの80パーセントをリサイクルしているゼロ・ウェイスト宣言で有名な町だ。合同会社パンゲアに就職し、環境教育のツアーに3年従事したが、継続的に子どもたちに関わりたいと、2019年から子どもの村の教員になった。「子どものころは、『大人』はぼーっとして何もしてないじゃんって思っていました(笑)。でも、自分が『大人』として戻ってくると、裏で綿密なミーティングをしているし、子どもたちのひとりひとりを本当によく見ている。そのことを子どもたちに悟られないように見守っている。授業の準備もとても時間がかかります。『大人』って大変だったんだな、でも楽しいなって毎日感じています」堀さんは、子どもが自由に学びを深めるため、大人が引き受けるべきことがあると考えている。「大人はよく子どもに、“自由にやってごらん。でも責任は自分で取るんだよ”と言います。それは、ある意味脅し文句でもあるのです。子どもの村では、“自由にやってごらん。責任は大人が取るから”と言うのです。子どもなりに考えて、勇気を出してやったことも、うまくいかないことだってあります。そこで、“自分で決めたんだから”“一体何やってるの”と言うのは、“どうせ失敗すると思って見ていた”のと同じことです。子どもの自己決定権を認めることは、失敗を許すこと。失敗は子どもの基本的人権の1つと考えています」子どもの村学園は、設立当初より、学校教育法の第一条に定められた学校だ。学習指導要領にも準拠した私立学校として認可され、文部科学省からもクレームは一切ない。堀さんはいつも子どもたちにこんなふうに話している。「子どもの村は、君たちだけのものじゃないよ。こういう楽しい学校もありうる、そして実際にうまくいく。そのことをたくさんの人に知ってもらうための学校でもあるんだ。でもね、こういう学校のほうが楽しくて中身もいいんだということを証明するのは、君たち自身なんだよ」子どもたちは実際に社会に飛び出し、好きなことや好奇心をエンジンに突き進み、そのことを証明している。保護者や公立、私立の教員、自治体の職員などが噂を聞きつけ、毎週のように全国から視察や相談にやってくる。「北海道に新しい学校を作りたい」と堀さんに相談していた団体は今年、30年越しの思いを叶えた。『まおい学びのさと小学校』が2023年に開校するニュースは全国的にも大きく報道された。子どもの村のようなプロジェクトを中心とした学校だという。子どもの村のような教育は家でも実践できると南アルプスの校長・加藤さんは言う。「答えを教える子育てや教育じゃなくて、不思議だね、わかんないな、面白いねって一緒に楽しみながら、子ども自身が選択する機会や、子どもに任せる機会を増やすことです。子どもたちが本当に大事にされている、大人に信頼されていると実感できれば、それだけで幸せに生きていく力を手にすることができると思います。それは、どんな場所でも、今すぐにでもできることだと思うんです」昨年の卒業生の保護者、石垣さんが、「子どもの村で9年間育った娘に、最近ふとこんなことを聞いてみたんです」と教えてくれた。「世の中に絶望することはある?」その卒業生は、こう答えた。「ニュース見てると世の中に絶望しちゃうけど、その中でも自分で希望を見つけることができる。それが、子どもの村に行ってよかったこと!」どんな場所でも、どんな環境でも、希望を見いだし、幸せに生きていくことができる。自分を信じることができる。きのくに子どもの村学園の小中学校は、そんな子どもたちを育てる場所だった。「それぞれの学校で授業をするのも楽しみですが、いちばんの喜びは、子どもたちが“ほりさ〜ん!”と言って手を振って寄ってきてくれること。子どもたちから元気を吸い取っているんですよ。あはは。ああ、もう行かなくちゃ」堀さんはニヤリと笑い、去っていった。今日も明日も、明後日も、愛車のパジェロを運転し、子どもたちのもとへと走り続けているはずだ。【info】本校に密着した映画『夢みる小学校』が現在公開中()取材・文/太田美由紀(おおた・みゆき)大阪府生まれ。フリーライター、編集者。育児、教育、福祉、医療など「生きる」を軸に多数の雑誌、書籍に関わる。2017年保育士免許取得。Web版フォーブスジャパンにて教育コラムを連載中。著書『新しい時代の共生のカタチ 地域の寄り合い所 また明日』(風鳴舎)
2022年02月12日エッセイストの小笠原洋子さん(撮影/廣瀬靖士)エッセイストの小笠原洋子さんは、必要のないものを省き、シンプルな暮らしや生き方を追求している。■「ケチ上手」を楽しむ生活「両親は倹約家でしたし、子どものころから貯金は好きでした」(小笠原さん、以下同)27歳で京都の画廊に就職。給料がよく、収入の3割以上を預金に回していた。「こんなことは長くは続かないと思っていました。30代半ばで私立美術館の学芸員に転職すると、給料は画廊の3分の1に。もともと勤め人は45歳まで、その後はフリーランスで好きなことをすると決めていたので、将来のお金に対する不安感は強くありました」預金をもとに40代の初めには民間の個人年金にも加入。65歳から受け取り、70歳まで受給できるように設定した。「てっきり自分は70歳くらいで死ぬだろうと思っていたんです(笑)。でも思いのほか長生きして60代後半になったとき、70代からは公的年金だけで暮らさなくてはいけないことに愕然としました」さらに出費を抑えるため、身近にあるものをフル活用し、ケチを磨くようになる。「生活の無駄を省き、気取らず心豊かに暮らすことが私にとっての幸せ。例えば私の住んでいるところはゴミ袋が有料なので、出すゴミの量をできるだけ減らし、袋代を節約。燃えるゴミは週1回、5リットルの袋に入れて出すだけです」お金をかけない生活がおのずとエコな生活になっていることがおもしろいと話す。現在の家賃の安い高齢者向け賃貸団地を終の棲家に選んだのは、周りに緑が豊かで街並みが気に入っているから。「30歳を過ぎたころに土地を購入し、数年後にその土地を売却したお金で郊外の分譲団地を買いました。いちばん感じたのは、家を所有すれば固定資産税がかかってしまうという不満。ケチな私はそれを受け入れられず、その家を売って現在の団地に移りました」部屋の間取りは3DK、家賃は5万5000円ほど。今の家に引っ越す際には不用な家具や服、食器などを思い切って処分した。「所有しすぎることは結果的に無駄だと考えるようになりました。物が減ると片づけしやすくなり、生活空間がシンプルになります。新しい服はもう何十年も買っていません。その代わり着回しを楽しんでいます。昔の服や家族から譲り受けた服をリメイクするのも好きですね」質素だけどおしゃれに、清々しく暮らす。それが小笠原さん理想の「ケチ上手」だ。「1日のルーティンを繰り返すことで、無駄な時間やお金を省くことができます。不要な医療費はかけたくないので、健康のためにもルーティンは続けたい」朝食は基本パン食に決めておけば余計な食材を買う必要がない。昼食はキッチン、夜はリビングと、食べる場所を変えて気分転換を図る。「午後は買い物を兼ねて3~4時間散歩に出かけます。自治体の無料講座に申し込んで受講をすることも。ひとりでも暮らしを楽しむことは十分にできる。自分なりに充実した日々を楽しんでいます」ケチ上手になるための節約ポリシーお金を貯められる人は自分軸をしっかり持っている。心豊かに楽しく暮らすためのマイルールを教えてもらった。■節約をゲームに! 使えるお金は1000円「買い物をするときはゲーム感覚で、食費や日用品などを含めて1日1000円以内に収めています。使いすぎたと思ったら、翌日は買い物を控えるか、前日使いすぎた分の金額を差し引きします」そうすると買う前にきちんと吟味するので自然と無駄買いが減る。保存期間を考えて値引き品はあまり買わない。「ほとんどの食材は購入後、すぐ一部を冷凍。食材が残っていれば気持ちに余裕が出る」最近ではポイントがつくのでクレジットカードで払うこともあるが、財布の中の現金は使っていい1000円札以外のお金はクリップで留め、セーブしている。「使いすぎないコツは、財布の中を頻繁に見ること」■家計簿をつけずに生活費をコストカット財布はこまめに整理し、レシートを取り出して月ごとにまとめて保管している。「家計簿はつけていませんが、毎日の支出額はノートにメモしておきます。月末には1か月分のレシートを合算し、日数(30)で割って1000円以内なら節約成功です」お金が残っていれば小笠原さんがゲームの勝者だ。「生活費の節約には振り返りがいちばん大事。ケチを究めるには無駄な出費をあぶり出す必要があるから。『今月はこれが失敗だった』と反省することもありますが、うまくいったときは素直に喜びます」古いレシートも簡単には捨てない。裏の白い部分をメモ帳代わりにしている。■シンプルな生活で無駄な出費が減る小笠原さんの部屋は物が少なくいたってシンプル。「たくさんの物に囲まれた生活は豊かかもしれませんが、うまく活用できなければ物が家を侵略していくことになります。人にはそれぞれ限界がある。私には“小さな庵”のような住まいが合っている」買えばお金がなくなり物が増えるので、目指すのは「物を持たない究極の贅沢」だ。「例えばクローゼットが洋服でいっぱいになれば取り出すのが面倒になる。それに時間と場所、労力をとられるのは無駄です。持ってないも同然」片づけは好きなのでこまめに整理整頓をする。無駄をできる限り省いた結果、生活空間がすっきりしたと話す。「事前に片づける範囲を決めておくと無理なくこなせます。最近では物の保管場所を忘れることも増えたので、探しながら整理することも」家事を行うときにも手順を決めているという。「食器洗いなら洗剤をつけた後、どの順に食器を重ねればより節水できて、効率よく洗えるかを考えます」地球にも健康にもやさしい!暮らしを楽しむ節約術7今あるものを最大限に生かす。小笠原さんの姿勢が表れた節約術をご紹介。■【節約術1】買わないものを決めておくお金だけでなく資源の節約にもなるので、ペットボトルや缶の飲料は基本買わないと決めている。外出するときは小さめでバッグに入れやすいボトルに飲み物を入れていく。また、化粧水をつけるとき、コットンは吸収率が高いのが気になるので使わない。ティッシュペーパーも来客用には用意しているが、自分では使わない。代わりにデスクにはトイレットペーパーを常備。使ったあとはトイレに流せるのでゴミも減る。■【節約術2】食べきる工夫をするとゴミが激減する滋養があるので野菜は皮をむかずに調理する。ピーマンの種やかぼちゃのワタ、栄養豊富なキウイなどフルーツの皮もむかずに食べる。魚も骨まで食べるので生ゴミはほとんど出ない。また、生ゴミを出すときは、水分を絞ってからスーパーでもらうポリ袋に入れて小さく丸め、最後に食品などについていたテープで封をする。再利用できそうなテープはまとめて冷蔵庫に貼っておくと、すぐ使えて便利。■【節約術3】「リメイク鍋」で食材費を節約いろいろな具材をとれる鍋料理は栄養的な観点から便利なメニューだ。食べて残った汁を捨てず、鍋も洗わずに、翌日はそのだしを生かして新たな具材を投入すれば、新しい鍋料理になる。それを繰り返せば、わずかな具材でも濃厚なだしの鍋料理に。これを名付けて“永遠のひと鍋料理”。入れる具材によって味の変化も楽しめ、無駄なく食べられて、お財布にもお腹にもやさしい料理になる。■【節約術4】プラスチック容器でスッキリ収納環境問題でたびたび問題になるプラスチック容器。透明できれいで案外丈夫なので、できるだけ無駄にしたくないもの。お菓子のケースは薬入れに、豆腐の容器は、使い切らなかった納豆の小袋タレ(煮物の調味料として使う)などを入れて再利用。もずくの容器は歯磨き用のコップにも使える。容器が古くなったり汚れたら、そのまま捨てられる手軽さもうれしい。■【節約術5】リユース&リメイクでとことん使い倒すゴミでも捨てる前に、何かに再利用できないかと常に考える。お菓子の包装紙は、ランチョンマットに。食後にテーブルを拭く手間も省けて便利。昔の洋服や和服は質がいい生地を使っているものが多いので、手縫いでリメイクしている。作り替えれば新しい気分で着直すことができる。破れた衣類は四角く切って雑巾代わりにしてから捨てる。いつも発想の転換を心がけ、ケチを楽しむのが小笠原さんの節約だ。■【節約術6】健康法は温活中心お金をかけずに寒がりで風邪もひきやすいので、冷え性対策はマスト。冷えの防止に古着が大活躍している。家にいるときは着なくなったロングカーディガンのベルトを首に巻いている。健康のため、ほとんど毎日外出し、1時間以上は散歩するのが習慣。また、人との会話が少ないと言葉が出にくくなったり脳の劣化が進むと知り、自治体がやっている無料の講座を探して参加することも多い。いろいろな経験ができるのでおすすめだ。■【節約術7】シンプル美容で今の自分を生かす50代頃から白髪染めをやめ、白髪を引き立てる装いをすることにした。白いハイネックのカットソーを着たり、ベレー帽、真珠のイヤリングをすることが多い。美容費の節約のため、美容院ではなく1100円の格安のヘアカット専門店を利用。還暦を迎えたとき、思い切って基礎化粧品を低価格品にチェンジ。安くても成分をチェックして良質なものを選ぶように。段階的に価格を下げ、お肌の状態を確認しながら現在はワンアイテム千円以内のものを使っている。教えてくれたのは……小笠原洋子さん●エッセイスト。1949年生まれ。東洋大学文学部卒。京都で画廊に勤務後、東京で美術館の学芸員、成蹊大学非常勤講師を務める。退職後、フリーキュレーター、美術エッセイストに。著書に『おひとりさまのケチじょうず』(ビジネス社)など。(取材・文/松澤ゆかり)
2022年02月12日1999年、都庁に初登庁する石原慎太郎さん昨夏開催された東京五輪・パラリンピックの“言い出しっぺ”は石原慎太郎さんだった。当初は2016年開催を目指して招致活動を展開し、リオデジャネイロに敗れると、涙を流して悔しがった。国内の招致機運を高めるためならば……と、アイドルグループ・AKB48や漫画家・蛭子能収さんと一緒にオリジナル体操をしてみせるパフォーマンスもいとわなかった。1964年の東京五輪を会場で観戦している石原氏は、感動したシーンについてこんなふうに述べている。「“東洋の魔女”と呼ばれたバレーボール女子日本代表が宿敵・ソ連(現ロシア)に勝って金メダルを取った瞬間、大松博文監督はすーっといなくなって、遠くから壁にもたれて選手たちが喜ぶ様子を眺めてニコニコ笑っていた。あのとき、男って美しいなと思ったね」■北島康介さんと約束した“焼き肉3年分”口数が少なく“鬼の大松”の異名をとる厳しい監督で、選手との距離感は、昨夏の五輪でバスケットボール女子日本代表を銀メダルに導いたトム・ホーバス監督とも、’11年のサッカー女子W杯でなでしこジャパンを優勝させた佐々木則夫監督とも異なる。世界で活躍する男を評価し、競泳男子金メダリストの北島康介さんの選手時代には、活躍のご褒美として「焼き肉3年分をおごる」と約束も。「世界選手権の優勝を喜んで言い出したんですが、そもそも北島さんの実家は精肉店なのでうれしいかどうかは微妙なところ。当時控えていたアテネ五輪でも金ならば……とご褒美を3年分までつり上げた」(当時の都政担当記者)ところが、都民である北島さんにポケットマネーで焼き肉をおごると有権者への利益供与とみなされるため、おごりたくてもおごれない事実が発覚。それでも「約束は守ります。違うかたちであっても」などと言い張り、都民栄誉賞を贈る際に副賞を20万円増額した。■「いまさら西部警察じゃねえだろう」1999年の都知事選で初当選すると、応援してくれた俳優・渡哲也さん(故人)や舘ひろしさんら“石原軍団”とともに弟・裕次郎さんの墓前に勝利報告した。故人の眠る場所で鏡割りやバンザイをするなどいささかやりすぎた感もあったが、選挙戦で弟の力を借りたのは確か。街頭演説では、裕次郎さんの代表作のひとつである刑事ドラマ『西部警察』のテーマ音楽を流し、聴衆に向かってマイクを握ると、「裕次郎の兄です」と挨拶してつかみはOK。都知事就任後、折に触れて「俺のほうが裕次郎よりも歌がうまい」「のどを痛めたが、本当は裕次郎よりいい声」などと張り合うように話した。2003年夏、裕次郎さん没後も制作が続いていた『西部警察』のロケで事故が起きると、都庁の定例会見でこう述べた。「石原プロの幹部が来て“裕次郎さんに怒られたんだと思います”と言うから、そのとおりだと言っておいた。昔のマネばかりせず、新しいことを考えたほうがいいよ。いまさら西部警察じゃねえだろう」テーマ音楽を使っているわりに、それは棚にあげて言いたいことを言う。さらに、「それじゃあって、いまのスタッフが『東部警察』にするかどうかは知らないけどさ」と笑いを誘った。■通ったあとには高級ブランドの残り香が政治家を引退してからも物議を醸す発言は収まらず、「暴走老人」と自嘲するように話し、態度を改めることはなかった。在職中から女性や外国人を差別しているととられても仕方のない発言を繰り返し、世論を敵にしそうになると、都合のいいところだけ切り取った報道だとメディア攻撃も。小池百合子都知事に対して“大年増の厚化粧”と言い放ち、対立候補を応援する選挙戦でむしろ逆効果になった。おそらく、敵に回して反発されなかったケースがひとつだけある。「カラスです。もともとゴルフ場でアイアンを投げつけたら頭をつつかれてカラスが嫌いになったそう。2001年に都内のカラス撲滅を宣言し、プロジェクトチームまでつくって撲滅作戦を遂行した。石原さんは“東京名物としてカラスの肉のパイを作ろうと思う”と話したが、カラスは利口でなかなか捕獲できなかった。しかし、徐々に成果を上げ3年後には約3割減らすことができた」(当時の都政担当記者)カラス肉のパイ販売は実現しなかったが、石原さんとカラスが対峙するイラストがパッケージに描かれた東京限定サブレ『カラスの勝手はダメ!ダメ!』を都庁内の売店で販売した。人間を襲ったり、ごみ集積場を荒らすカラスの天敵でもあった。■酒好きだったのにいちご牛乳を欲して長身でダンディー。スケジュールどおりに動くとは限らず、番記者たちが石原さんに話を聞こうと待ち構えていても、居場所が特定できないことも。そんなときは……。「通過予定のルートを歩いてクンクン匂いをかぐしかない。高級ブランドの香水をつけているので、石原さんが通ったあとは独特な残り香がある。もう来たか、まだ来ていないか判断できる」(同・都政担当記者)懐かしい思い出という。健康には人一倍、気を使っていた。都知事在任中、高齢にもかかわらず、シュノーケルを装着してスポーツクラブの15メートルプールを何回もターンしていたという。「1200メートルは泳いでいるからね」と番記者に胸を張った。石原結實医師の『断食道場』(静岡県伊東市)に毎年のように通い、記者団に向け、「だいぶスマートになっただろう?」などと笑みを浮かべながら確認した。父親に買ってもらったヨットに裕次郎さんとのめり込み、大きなレース中に自分の位置がわからなくなり死にかけたこともあった。「3~4年前、石原さんとヨットに同乗する機会があり、下船後に“いちご牛乳を飲みたい”とおっしゃったのでコンビニまで買いに行ったことがある。以来、ヨットにいちご牛乳を常備するようにしたんです」と面識のあるヨットマン。酒を好んだ石原さんがいちご牛乳好きとは意外だ。海を愛した石原さん。生前、神奈川県・葉山の沖合に海の男らを見守る“裕次郎さんの灯台”を建立している。死後、その隣に“慎太郎灯台”を建てるようにと、息子たちに命じてあるという。
2022年02月08日『はまじ』のモデルとなった浜崎憲孝さん。著書に『はまじとさくらももこと三年四組』(青志社)、『僕、はまじ』(彩図社)などがある1986年から連載がスタートした漫画『ちびまる子ちゃん』。今では『サザエさん』に並ぶ国民的アニメだが、今年、原作35周年を迎えた。これを受け、アニメで『ちびまる子ちゃん原作35周年!あなたの好きな“神回”さくらももこ原作まつり~』が昨年12月5日から今年1月30日まで放送されていた。30日には視聴者投票のランキングが発表され、これを見た視聴者たちはネット上で、《今日のちびまる子、神回やん……。原作でも本当に泣かされたやつ》《ちびまる子ちゃん神回ランキング第5位永沢君の家火事になるで笑ってしまった》《原作祭りがほんっと神回だらけで面白いし泣ける》《ランキングわたくしもおかあさんの日の回が大好き。漫画でも大好き泣ける》など、自身の“神回”を思い出しながら楽しんだようだ。同作は原作者のさくらももこさんの体験をもとに作られているが、本当にあったことなのか?■たまちゃんは“ショートヘア”!?漫画の登場人物である“はまじ”のモデルとなった浜崎憲孝さんに、その裏話を聞いてみると、「1位の『南の島へ行く』など、小学3年生がひとりで海外旅行なんて難しいですよね。時系列や事実とは違うお話も多いのですが、ここ静岡県清水市(現・静岡市)でさくらが過ごした思い出を盛り込んで、話を作っていたんだと思いますよ」(浜崎さん、以下同)もちろんフィクションなのは承知のうえだけど、実際はどうだったのか、気になるのがファン心理。2位にランクインしたのは『たまちゃん、大好き』。藤木君「僕らって友だちになってずいぶんたつよねぇ」永沢君「うん。長いよね」藤木君「長けりゃいいってもんかなぁ、友情って」まる子のクラスメートである藤木君と永沢君のこんな会話から始まるが、まる子は親友の穂波たまえと、ちょっとしたボタンの掛け違いからケンカをしてしまう。浜崎さんは、「たまえは本当にいたんですが、小学生のときは眼鏡をかけてなかったし、ショートカットでした。小学校を卒業後は私立中学に進んで、さくらと別々でしたが、高校で再会したと聞いています。今は海外に住んでいるそうですよ。さくらの仲のいい友だちには、アニメにも出てくる“かよちゃん”もいました。大人になってからも、さくらとは年賀状のやり取りをしていて、さくらが売れてから仕事場にも行ったことがあったそうです」この話では20年後の自分たちに向けてタイムカプセルを埋めるのだが、まる子は大人になって“はまじ”とお笑い芸人をやっていることを妄想する場面もある。さくらさんは漫画家となったけど……。「僕は若いころに東京に出て、ビートたけしさんや西川のりお師匠に弟子入りをお願いしたことがありました。出待ちして頼み込んだのですが、断られてしまって(笑)」4位にランクインした『まるちゃんお化け屋敷に行く』について。デパートのイベントで行われていた“お化け屋敷”に、父親のヒロシとまる子が遊びに行くという話。「市内にあったデパートの催事にお化け屋敷もよく出店していましたよ。入場料は1人300円とかでね。そこにさくらも行ったんじゃないかと思います。ほかにもお墓で肝試しをするエピソードもありましたが、さくらの家の近くには確かに墓があって、そこで僕も中3のときに男友だちと肝試しをしたことがありました」お化け屋敷といえば遊園地のイメージだけど、当時はデパートでも行っていたようだ。当初は「本当にコレが怖いと思うか?」と妖怪を指さして余裕のヒロシだったが、お化けにおびえる場面もあった。そんなヒロシの姿は本当だったかも。■家が火事になった永沢君は…5位にランクインした『永沢君の家火事になる』は衝撃的だった。「あぁぁぁ!僕の大切な本が、おばあちゃんからの手紙が……。みんな燃えてなくなっちゃうよぉぉぉ」タイトルどおり、まる子の同級生である永沢君の家が全焼するのだが、燃えていく家を前にして絶叫する永沢君の姿に、胸を痛めた人も多いはず。ただ、浜崎さんは、「永沢君みたいな同級生は、いないはずです。“あいつだ!”って、モデルと思える同級生がまったく思い当たらない。火事もなかったと思いますよ」実際にはなかった出来事だったのだ。彼の中学時代を描いた漫画『永沢君』が誕生するほど、人気キャラの永沢君。ホッとしたファンも多いだろう。1974年に発売されて爆発的なヒットとなったオモチャにまつわる『まる子、ローラースルーゴーゴ―がどうしてもほしいっ!!』は14位。劇中では“はまじ”が親にローラースルーゴーゴーを買ってもらったと自慢する。しかし、お願いして貸してもらったまる子が壊してしまうのだ。「実は、僕は買ってもらえなかったんです。ローラースルーゴーゴーに乗って遊ぶ友だちがすっごく羨ましかったっけ。僕も貸してもらって乗ったことがありますが、後ろのペダルを踏んで、前に進むんですよ。今のキックボードは地面を直接蹴るけどね。すごい人気でしたよ」壊したローラースルーゴーゴーを祖父の友蔵が、泣く泣く貯金をはたいて弁償するのだが、涙を流した友蔵はいなかったようだ。当時、日本中で話題となった未確認生物のツチノコ。30位には、まる子たちがツチノコを探しに行く『まぼろしの「ツチノコ株式会社」』がランクイン。「小学校5~6年ぐらいだったと思います。クラスでも“100万円もらえるんだってよ!?”ってすごく話題になっていました。僕も友だちと探しに行きましたから(笑)。さくらも穂波と探しに行ったんじゃないかな」■モデルはあの有名人!個性的なキャラもたくさん出てくる。26位には、大食いの小杉君が主役の『小杉みんなによけいな心配をかける』がランクインした。大食漢の小杉君を心配したお母さんが、彼を病院に連れて行くのだが、その姿をクラスメートが目撃。小杉君が大病を患っているのではないかとみんなが心配するという話だけど、そもそも小杉君っていたの?「大食いといえば、プロサッカー選手になった長谷川健太がモデルだったと思います。同じ班だったのですが、給食に嫌いなものがあると、よく健太にあげていました。ほかの同級生もみんな健太に渡していたんです。カレーは超大盛りだし、パンは6枚置いてあったり、彼の机は食べ物でいつも隙間がない状態で……。ただ、小杉君みたいに“もっともっと”って感じではなく“健太、これ食べてくれ”と言うと“いいよ”という感じでした。昨年末には名古屋グランパスの監督に就任したけど、凄いよね」アニメでは丸刈りでサッカー好きの同級生として登場する“ケン太”も長谷川健太監督がモデルとされるが、彼からはふたつのキャラが誕生していたというのだ。ほかにもこんな逸話があるという。「健太は給食中も足元でボールを転がしながら食べていました。サッカーの朝練があって、昼休みは友だちと、夕方は部活。クラブチームにも入っていましたから、ずっとサッカーをしていました。あるとき友だちと野球をやろうって話になったんですが、ダメもとで健太にも声を掛けたんです。忙しいから来ないと思ったら“行くよ”と言うから“えぇ!健太が!?”ってビックリ。サッカー漬けの健太が野球をするって、僕らにとってもニュースだったんです。ただ、野球はあんまりうまくなかった(笑)」1位に輝いた『まる子南の島へ行く』には後日談がある。『まる子はまじとウワサになる』で、まる子が南の島のお土産を同級生に渡すのだが“はまじ”には『I love You』と書かれたバッジを渡していた。翌日、まる子が学校に行くと、黒板には相合傘が書かれ、《スクープ!“まる子”と“はまじ”ねつあい!!》と記された怪文書が出回るなど、すっかり噂になっていたのだ。小学生ならよくある話のような気もするが、そんな恋愛エピソードも本当にあったの?「そんな浮いた話はありません(笑)。ただ、中学時代だったか、さくらがなぜか僕をジッと見つめてくることがあったんです。気があるとかそういう感じではなく、観察していたんだと思います。そのころから、さくらの中では“ちびまる子”の構想があったのかもしれませんね」こんなこぼれ話も。「実際にいた教師の戸川先生は、オレンジのTシャツに浅黒く、色の入ったサングラスのような眼鏡をかけていました。めちゃくちゃ怖かったので、僕は学校に行きたくなくて、不登校になったぐらい。1年で別の学校へ異動したときは、“4年生は一緒じゃないんだ。やった!”と思ったのをよく覚えています」ランキング外ではあるけど、『先生の家に遊びに行こう』では、まる子らが戸川先生の家に遊びに行く話。最終的に“はまじ”は戸川先生の家に泊まることになり、翌日に先生と登校するシーンも描かれる。「先生が本当に怖くて僕は学校に行ってなかったのですが、朝に戸川先生が迎えに来て、連れていかれることもありました。だから朝6時45分ぐらいに家から逃げ出していたんですよ。アニメのような優しい先生はいないんです……」戸川先生と登校する浜崎さんを、さくらさんは見ていたのかも。2018年に53歳という若さで他界したさくらさん。彼女が過ごした子どものころのたくさんの思い出は、今も色褪せず多くの人に愛され続けているのだ。
2022年02月06日渡邉格さん麻里子さん撮影/伊藤和幸「うちが貧乏なのは社会のせいだ」学生時代に資本主義社会を否定する気持ちを抱き、パンクロックでその怒りを爆発させた。だが後に、パン屋を志して人生は一変。鳥取県智頭町で「カビ」を採取して食べながら研究を重ね、日本で初めて“野生の麹菌”だけでパンを作ることに成功する。パンを作れば作るほど地域も環境もよくなる最先端の「地域循環型」モデルとは―?■14年かけて「ホンモノ」に「天然酵母のパンが好きで、週末はふたりで食べ歩きをしているんです。ここはネットの評判を見て以前から気になっていて、今日、初めて来ることができました」兵庫県から車を走らせて来たというご夫婦は、パンの包みを抱えながらそう話してくれた。店の前に清らかな小川を、背後には山を抱く『タルマーリー』には県を跨いで訪れる客も多く、駐車場には他府県ナンバーが並ぶ。店頭販売のみならず、感度の高い小売店での委託販売や通販も含めると、その顧客は全国に及ぶ。『タルマーリー』店主の渡邉格さん(50)は、29歳で社会に出て、勤めた会社を早々に退職。突如、パン職人を志す。つらい修業を重ね、14年かけて「ホンモノ」と胸を張れる製法にたどりついた。パンを作るには小麦、水、塩、菌といった最低限の原材料が必要になる。市販のパンの多くはそこに卵、バター、砂糖などの副材料を加えるが、一切使わない。グルテンが少ない国産小麦を自家製粉して使用するためサクッと歯切れもいい。よって、合わせられる料理の幅も広くなる。最大の特徴は野生の菌のみで作ること。特に主力商品の酒種パンには酵母、乳酸菌、麹菌と3種の菌が必要だ。野生の麹菌を採取するのは難しく、クリアな里山環境が必須となる。格さんは、参考文献が一切ない中、独学で天然の麹菌を採取することに挑戦。菌の世界にのめり込んだ。「いろんなカビを採取して、それが麹菌なのか確かめるために味見を繰り返したんです。“父ちゃんはカビを食べる人”と子どもたちに面白がられました。まさか自分でもカビを食べる人生を送るとは思いもしませんでした(笑)」舐めた途端に身体中を寒気が走る“ヤバい味”に遭遇したことも1度や2度ではない。結局、野生の麹菌を採取するまでに数年を要した。格さんが菌の研究とパン作りに没頭できたのは、店の経営と子育てを妻・麻里子さん(43)が引き受け、支えたからだ。「まぁ、好きにさせてあげたといいますか。そこで、妻への感謝の言葉なんかがあるといいんですけどね」「妻には感謝しています、って書いておいてくださいね」格さん、麻里子さんが漫才のような会話を繰り広げる傍らで、製造・販売合わせて8人のスタッフと4人の研修生がいきいきと働いている。驚いたことに、彼らは週休2日で年に一度は1か月の有給休暇がとれる。店では、週の初めに1週間分の生地作りをまとめて行い、時間をかけて発酵させる“タルマーリー式長時間低温発酵法”を採用。野生の菌の力を借りた仕込み法が、スタッフの十分な休暇にもつながった。現在、パン作りの中核を担う境晋太郎さんは、格さんの本を読んで感銘を受け、1週間もしないうちにクライミングのインストラクターを辞職。講演会に足を運び、「ここで働きたい」と直談判の末、妻子をともない北九州から移住してきた。タルマーリーで働き始めて6年目になる。「野生の菌って毎日違う動きをするので飽きないんですよね。だからこそうまくいかないことも多いのですが、“失敗しました”と格さんに報告すると、“お、これはチャンスだ!”って感じで楽しんでいるように見えるんです。だから前向きに原因を追究したくなる。毎日が楽しいですね。お店を海賊船にたとえるなら、格さんがやんちゃな船長で、麻里子さんはルートを読む航海士って感じでしょうか。無謀に思えることも少しずつ実現していっているのは麻里子さんのおかげだと思います。たまに格さんが調子に乗りすぎて、スタッフの前で麻里子さんにすごく怒られているのが面白いです(笑)」◆◆◆■バンドを組んで自分を解放「格さんの作業はとにかくキレイ。無駄な動きがなく、周りも自分も汚さないんです」境さんが感嘆する格さんのパン作りだが、もともとパンに興味があったわけではない。生まれは1971年、東京都東大和市。生家の団地があった多摩地区には、まだ里山の自然が残っていた。「父は僕が高校生のときに大学の教授になるのですが、それまでは塾の講師をしながら食いつないでいて、家は貧乏でした。その時代の小学生って4年生ぐらいまでは男女同じ教室で着替えるじゃないですか。そのとき、女の子たちに『それ、女子が着るものよ』と指摘されて、初めて自分が女もののシュミーズを着ていることに気づくわけです。それは姉のおさがり。ちなみにパンツは父のおさがりでした」時は高度経済成長の真っただ中。ザリガニが釣れる池は埋め立てられ、造成された土地に家が建ち並ぶ。両親は仕事で帰ってくるのが遅く、子どもたちだけで過ごす時間も多かった。そんな原体験から、格少年は「うちが貧乏なのは社会のせいだ」と、資本主義社会への怒りやお金を否定する気持ちを育んでゆく。中学2年になると、学校や社会に対する怒りを熱量高く放出するパンクロックに出会った。「初めて(バンド)LAUGHIN’NOSEを聴いたとき、自分が抱いていた怒りはこれだ!と感じて、高校に入ってすぐバンドを組んだんです。それが自分を解放する初めての体験だったかもしれません」高校3年生のとき、文化祭でゲリラライブを敢行した。参加者は7名。綿密に計画を立て、演奏担当と消火器を噴射する係に分かれた。盛り上がるかと思いきや、ほかの生徒からわき起こったのは歓声ではなく「帰れ!」コール。停学を言い渡された格さんは、謹慎明けにヘアスタイルをモヒカンに変えた。「当時はなぜそうしたのか言語化できませんでしたが、怒りもありましたし、他者と自分を隔てるものを見つけてアイデンティティーを確立したかったんだと思います。そのまま身を持ち崩し、高校卒業後はパチプロになりました」しかし、生来の気の弱さと飽きっぽさから、すぐに自堕落な生活がイヤになった。数か月後に運送会社で働きはじめ、バンドも復活。高円寺や新宿のライブハウスに立つ一方で、クルマのチームに出入りするようになった。仲間たちと夜な夜なクルマを転がし、そのまま仕事に向かう日々。「こういうのを刺激が刺激を食うというんですかね。そんな暮らしをしていると、社会に取り残された感があって、何をしてもつまらなくなって、死にたくなるんです。でも、気が弱いから死ねなかった。これってとても大事なこと」状況を打破したくて、仕事でハンガリーに行く父親についていった23歳のとき。1年間のハンガリー生活がもたらした影響は大きかった。「向こうでオリンピックの強化選手やバレリーナなど、自分の夢に向かって打ち込んでいる同世代に出会い、みんながよくしてくれたんです。一方の自分には何もない。みじめでしたね。意識してそうしたわけではないのですが、化学物質をとらない生活をしていたのも大きかった。健康になって、感覚も鋭くなって、初めて身体は嘘をつかないと知りました。それに、貧乏でもみんな幸せそうで、1日1本のビールでずっと笑っているオジサンとかいるわけです。それって、食が豊かだからなんですよね」帰国後、空港で缶コーヒーを飲んだ格さんは、まるで絵の具を飲んでいるように感じて驚く。バンド時代はタバコと缶コーヒーがステータスだったのに、だ。そこで身体に興味を持ち、医者になりたいと思い立つ。しかし、高1から勉強はしたことがなく、英語のGirlも「ギルル」と発音していたほど。猛勉強の末、2年後に千葉大学の園芸学部に入学。健やかな身体を保つには食べ物が大切だと痛感したからだ。卒業後は農家になろうと考えたこともあるが、父やゼミの教授に就職をすすめられ、有機農産物を扱う企業に入社。20代最後の年、格さんはそこで運命の人と出会う。■新婚生活と暗黒のパン屋修業「優秀な学生をとったので、残念だけど君は無理だな」会社の採用面接で、格さんに放たれたのは驚きのひと言だった。その優秀な学生こそが麻里子さんだ。結局、大学のサークル活動の経験を活かし、会社が主催する若者向けの農業振興イベントでも多くの学生を集めた手腕を買われ、格さんも無事に就職。「そのイベントでマリと一緒に司会をしたとき、こっちはノリでいいじゃんみたいな態度でいたら、向こうは何時何分に何を話すみたいな進行表をきちんと作ってきたんです。真逆ですよね。だけど、話すうちに共通項が多いこともわかってきました。自然が好きで、お互い社会に対する怒りみたいなものも持っていて」東京生まれの麻里子さんも、いつか家族でできる何かを生業にしながら田舎で暮らしたいというビジョンを昔から持っていた。ふたりの距離は徐々に縮まっていったが、正義感の強い格さんには社会に出て初めての洗礼が待っていた。産地偽装などの不正がどうしても許せず上司にたてつき、社内で孤立していったのだ。「パンクスって見た目は怖いけれど、中身はキレイなやつばかりなんです。パンクの世界にこんな悪いやつはいなかったのに……と思って、当時は本当にイヤでしたね」過度のストレスから、突然、鼻血を出すなどの体調不良が続く。そんなある日、格さんの夢に祖父が現れ、「おまえはパン屋をやりなさい」と告げた。パンの作り方など何ひとつ知らなかったが、その道があったかと腹を決めた。麻里子さんが当時を振り返る。「学生時代はサークルのトップで仕切っていた人が社会に出て現実に触れ、撃沈。でも、この年になって会社を辞めたら俺の人生どうなるんだろう?とかなり滅入っていましたね。この人が元気になるんだったら何でもいいと思って、“パン屋さんいいじゃん。やりたいことやりなよ”って」会社を辞め、同棲を始めたふたりは人生の舵を大きく切った。しかし、最初の数か月は地獄だったと口をそろえる。「まずは修業だと、朝5時から17時までのパン屋で勤め始めたんです。ところが、初日に“明日から2時に来て”と言われ、17時になっても帰れない日々がしばらく続きました。休憩時間もなく、作業をしながら持参のおにぎりを食べるだけ。いま思えば、段取りが悪くて仕事ができない自分のせいなんですけどね」甘い新婚生活とは程遠い日々。その後、自家製天然酵母を使ったパン屋で学ぶ機会を得たが、シェフが体調を崩してあえなく閉店。生活の安定も考えて、フランチャイズのパン屋に勤めたこともある。店長を任されたが、製造工程がオートメーション化されており、毎日同じ時間に同じパンを焼く日々。「生地だけ作ったら、あんこなどの副材料は袋を開けて詰めるだけ。分業の一部を担っているだけで、全く面白くない。それで、やはり自分は天然酵母のパンでいこうと。飽きない生き方をするのは、すごく大事だと思いましたね」麻里子さんから見て、「パン修業の中では、そのころがいちばん病んでいた」という。4軒目に勤めた『ルヴァン』は、天然酵母パンの草分け的存在。常に生地が変化するため失敗もあったが、仕事が楽しくて仕方なかった。しかし、2年で辞めようと決めていた。いよいよ自分たちの店を持つためだ。その間、徹底的に努力して、パンに関するあらゆる知識を身につけた。4軒にわたるパン屋修業は5年に及ぼうとしていた。■バイク事故で砕けた「3億円の価値」実は修業中、渡邉家に最大のピンチが訪れていた。バイクで通勤中の格さんがトラックに左肩と肩甲骨を轢かれ、複雑骨折する大ケガを負ったのだ。「事故に遭ったとき、なぜかすぐ立ち上がって“ラッキーだな、俺”と思ったのを覚えています。その後、すぐにひざから崩れ落ちましたけど」格さんが一瞬でもラッキーと思ったのにはわけがある。’90年代、ネット上の設問に答えて人間の価値を算出するゲームが大流行。テレビでは錚々(そうそう)たる著名人が「俺は2億円」「こっちは1億8千万円」とはしゃいでいる。大学時代、同じゲームをやってみた格さんの結果は日本第1位。なぜか運だけが特出しており、その価値は3億円を超えていた。「ただのゲームですが、運だけは最後の自信としてずっと持ち続けていたんです。みじめな思いを抱えた一方で、いつか自分はいっぱしのものになるという根拠のない自信も持っていて。それがこの一件で、自分は事故るし、死ぬ可能性もある。運だけではやっていけないと思えたんです」ここで努力して根を広げなければと奮起するきっかけになったバイク事故。「自分にとっていちばんいい経験だった」と格さんは語る。入院中は乳酸菌の専門書を読み込み、1か月で職場に復帰した。並行して製パン理論を丸暗記。日本酒の醸造方法も学び、まだ見ぬ自分の店で将来的にエースになる酒種パンも開発した。2008年、千葉県いすみ市に念願の天然酵母パンの店をオープン。ふたりで貯めた500万円を軍資金に、足りない部分はDIYで補った。名前の『タルマーリー』は、イタルとマリコから取った。少しずつ取引先も増えていったある日、自然食品店『ナチュラル・ハーモニー』の開発担当者が店を訪れた。そこで、「純粋培養した麹ではなく天然麹菌でパンが作れたら日本初になりますよ」とハッパをかけられる。「俺はこれを成し遂げるために生まれてきたんだ!と思いました。けれど、そこからが大変だったんです」それまで、酒種パンの製造に必要な3つの菌のうち酵母と乳酸菌は野生のものを採取し、麹菌は購入していた。すべてを野生の菌にするために、まずは老舗の味噌屋から天然麹を分けてもらう。ところが、野生の菌は純粋培養の菌とまるで勝手が違い、今まで作っていたパンが全く膨らまない。試行錯誤を繰り返すが、納得のいかないパンができてしまうことも多かった。「落ち込みましたね。自分ひとりだったら、値段を下げていたと思います。作り手にとって金額のプレッシャーってものすごいんですよ。いい原材料、高い技術で値段に見合った商品を出さなければいけませんから」その重圧を抱えながら、菌を探して野山をうろつく。1年目はダメで、似た菌は採取できたものの2年目も野生の麹菌には出会えなかった。「うちは野生の麹菌を使っているので、図らずも欠品してしまうこともあります」問い合わせがあると、まず丁寧にそう伝え、理解してもらえる取引先だけが残った。欠品の際は、酒種以外を使ったパンで急場をしのいだ。それでも麻里子さんは、頑として値段を下げなかった。「天然の麹菌を使うようになって、欠品も増えました。でも、天然ってそういうものだし、わかってもらえるまで相手に伝えるしかない。そこで自信を持って“欠品です。なぜなら……”と言えるのが私の特殊技能らしいと最近わかりました(笑)」試行錯誤しているうちに、無肥料無農薬の自然栽培米を使って酒種を作るとうまく膨らむことがわかった。しかし子どもは小さく、パン作りもまだまだ不安定な状態……。そんな若夫婦に手を差し伸べたのは、東京に住む麻里子さんの母・利恵子さん(74)だ。しばしば千葉まで足を運び、家事や育児をはじめ、麻里子さんが息子のヒカルくんを自宅で出産したときも手伝った。ふたりのことを「お互いが影響しあえるいい夫婦」と温かく見守る心強い存在だ。野生の麹を採取するためには、よりクリーンな環境に移る必要があることに気づいていたものの、この場を離れるなんて考えられない……。そう思っていた矢先、東日本大震災が起きた。子どもたちが小さいこともあり、放射性物質も気になる。2012年、一家はより水のきれいな環境を求め、親戚も知り合いもいない岡山県勝山に移り住んだ。■主力スタッフの辞職で移転を即決「菌を採るのは虫を獲るのと似ているんです。自然のない都会でカブトムシを飼おうと思ったらお店で買うしかないですが、郊外に行ってメロンを置いておけば、カナブンやコクワガタが飛んでくる。さらに田舎に行けば、よりレアなミヤマクワガタやカブトムシが飛んできます」勝山では、ついに野生の麹菌の採取に成功。初めての著書『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』も好評で、韓国では翻訳本がベストセラーに。2014年、フジテレビ『新報道2001』で特集を組まれたときは、店の前に連日行列ができ、開店からわずか2時間ですべてのパンが売り切れたほど。しかし、渡邉夫妻の心中は穏やかではなかった。その1週間前、主力だった女性スタッフから、「おふたりのやり方には、もうついていけません」と告げられ、ほかのスタッフもそれに続いたのだ。「いま考えると、そのころは原理主義者になっていました。パンの材料は自然栽培でなければならないし、スタッフにも、あれはするな、これをしろとエゴを押しつけていたんです。僕自身に余裕がなく、怒鳴ることもありました」麻里子さんも当時を「未熟な組織でした」と振り返る。この反省をもとに、少しずつ勤務体系を改善してきた。自家製粉するための機械を導入するも、不具合から小麦が漏れ出し、ネズミが集まってしまったこともある。「うつっぽくなったときも、バイク事故でケガしたときも、変化することでよりよい方向に進んできました。それと一緒で、根元が腐っていると思ったんです。何かの警告だという思いもあり、1日で勝山の店を閉めようと決めました」テレビ放映直後、繁盛している店を閉めてイチから出直すのは容易いことではない。庭を整備し、ウッドデッキを作るなど環境を整えてきた麻里子さんはなおさらだろう。「いいえ、移転に完全同意でした。パンだけでなくビールも作りたいという格の夢と、子育て環境をなんとかしたいという私の思いは、移転しないと実現できないと直感していたんです。でも周りの人にとっては突発的で意味不明な行動に映ったと思います」2015年、元保育園だった可愛らしい建物をまたもやDIYで改装し、鳥取県智頭町での生活がスタート。智頭に移ってから格さんは、培ってきた醸造知識をもとにビールを造ろうと、晴れて酒造免許を取得。自身はビール職人に転向し、先の境さんほかスタッフにパン作りを任せるようになった。このとき、ビール酵母を使ったパン作りにも挑戦し『タルマーリー式長時間低温発酵法」を開発。1週間分の生地をまとめて作り、時間をかけて発酵させる製法で、生地作りの頻度は減り、パン職人の働きやすさにもつながったのは先述したとおり。「野生の菌の生命力って本当にすごいんです。純粋培養の酵母は長時間、低温にさらすと死にますが、野生の酵母は冷蔵庫に入れても死なない。ですから、うちの生地を冷蔵庫から出して温度を上げてあげると、ちゃんと発酵してパンになるんです」実は麻里子さん、格さんが天然の麹菌を探し続けていたときも、野生の菌だけで作るパンやビールに挑戦し、何度も失敗したときも、「もうやめたら?」と思ったことはないという。「あ~……なんででしょうね。私たちは単なるパン屋さんになりたかったわけではなく、かといって名を挙げたかったわけでもなくて。パンとビールを作れば作るほど、地域社会と環境がよくなるような社会モデルを世の中に打ち出したかったんです。だから、麹菌探しやパン作りを諦めるという選択肢はなかった。格は気力も体力も半端なかったと思います」そうやって生み出した大切なパンが、大雪や大雨で客足を阻まれ売れ残ることがある。ここ2年はコロナ禍もあり人の流れが読みにくかった。そこで「パンが売れ残ったら、うちに送っていいよ!」という応援者を募るレスキュー制度を作ったのも麻里子さんだ。現在、登録者は1000人を越えている。■「なんでも見せる」渡邉家の子育て格さんがパン作りに集中できるよう、曰く「鬼の形相で」それを阻害するすべての要素と闘ってきた麻里子さん。と同時に、移転に伴う子どもたちの教育や環境の変化は長年の懸案事項だった。「高学歴を目指してほしいわけではないのですが、『田舎にいたから教育機会が少なかった』というのを言い訳にしたくなかったんです」特に子どものうちは自然の中でのびのび遊ばせたいと思っていたが、現代の保育園は安全を重視し、子どもを危険から遠ざける傾向にある。そんな中、見つけたのが「智頭町森のようちえん まるたんぼう」だ。園舎のないこの幼稚園では、野外で身体を動かし、自然に学び、自分の頭で考えることをモットーとしている。ぽっちゃり体形だったヒカルくんも、森で遊ぶようになってから徐々に身体が引き締まっていった。「高い木に登れるなど身体能力が上がり、食べられる山菜などの知識も増えました。『森のようちえん』に行けて本当によかったと思います」幼すぎたヒカルくんが、千葉や岡山でのことをあまり覚えていない一方で、東京生まれの長女・モコさんは物心がついてから3度の大きな移住を経験してきた。「岡山時代は暗黒でした。2人が食の安全性を気にして、給食の時間に私だけ持参のお弁当の日もあったんです。それがつらくて、そのころはなんでこんな家に生まれたんだろうと思っていました。だけど智頭に越して以降、その気持ちは消えました。徐々に、親がやりたいことが理解できてきたんでしょうね」その思いは行動にも表れた。モコさんが自ら編入を希望した青翔開智中学の試験には、面接とプレゼンがある。テーマは「あなたが考える鳥取県の課題とその解決方法」。そこで、両親がなぜ智頭にやってきたかや智頭の美しい環境を保全していくことの大切さを語り、将来は自分がやりたい分野でそれを表現していきたいと締めくくったのだ。無事に合格し、いまは中高一貫の同校の高等部に通っている。「人間力を試す授業が多い学校なので、最近はこの家に生まれてよかったと思うことが多いです。何度も転校したおかげで都会と田舎のいいところもそうでないところも見ることができたし、お父さんの仕事に一緒に行けて、いろんな人と関われたので」編入試験のプレゼンは、麻里子さんにとっても忘れられないものになった。「転校ばかりで、モコに苦労させちゃったことがずっと気がかりだったんです。でも、足りないことがあればどう補えばよいかを自分で考えられる逞しい子に育ってくれました」渡邉家では、食卓ではみんなで話をする。夫婦ゲンカも隠さない。国内外で行われる格さんの講演にも子どもたちを連れていく。そうやって幼いころから社会に触れてきたからだろうか。モコさんもヒカルくんも、大人相手に物おじせず、自分の言葉でしっかり話す。ヒカルくんは、小6にして将来、自分の店を持ちたいと考えている。「お父さんもお母さんもずっと一生懸命やってきたから、今の店があるのだと思います。だから僕も『タルマーリー』を継ぐのではなく、イチから積み上げてみたいんです」■菌が教えてくれた「共生」「お父さんとお母さんの成長に合わせて、どんどん大きくなっているお店」とモコさんが語る『タルマーリー』は、いまなお拡大中。年商6900万円まで成長した。今年4月の開業を目指し、智頭で2軒目の店も絶賛DIY中だという。新しい店舗は長期滞在者用のホテルとビアバー、ミニシアターを兼ねている。面白い場を増やし、特技を持った面白い人たちが集まってくれば、地域内の経済循環とともに活気が生まれ、理想の町モデルを地方から発信していけるという思いがあるからだ。麻里子さんにも大きな変化があった。これまで店と子育てに奔走する中で自分の時間を持つゆとりはなかったが、ここにきて志を同じくする友人ができたのだ。そのうちのひとり竹内麻紀さんは、カフェ&ゲストハウス『楽之』を営んでいる。「麻里子さんは、地元生まれの私が今まで気づかなかったけれど、聞くと“そうだ、そうだ”と思えることを簡潔に言葉にしてくれる人。媚びないし、芯があってぶれないところを見ると、自分も頑張ろうと思えます。“私は愛想笑いできない”というけれど、彼女の自然な笑顔が好きです」意気投合した女性4名と、「智頭やどり木協議会」を立ち上げた。人口減少や産業の衰退、空き家問題といった社会課題に取り組んでいる。「今までの私は格に前に出てもらって、あくまで『私はサポーターです』って姿勢で逃げていたんです。自分中心に物事を考えたことがなかったし、自信もなかった。一方、『タルマーリー』が認知されていくなかで、世間が渡邉格しか認識していない状況に嫉妬もしていて。そこはズルかったと思います」智頭に移った当初は従業員が安定せず、自分がお店を取り仕切るのははたしていいことなのか?と自問したこともある。自分が店を辞めるか、夫婦を辞めるかとまで思いつめたこともあった。「どちらも続けていこうと思えたのは、子どもたちの成長のおかげで自信が持てるようになったのもありますが、自分が何をしたいかを意識的に考えるようになって、人に責任を押しつける体質から抜けられたのが大きいと思います。智頭って本当に素敵なところなんです。だけど、過疎化が進んで消滅してしまうかもしれない。だから、誰にとっても楽しく暮らせる場所にしたい。お店や子どものためではなく、これは自分がやりたくてやっていることなんです」格さんは、智頭を自分のようにバカな青春を送ってきた若者が開花できる場にしたいと考えている。「いま、日本中から若い人が、ウチの技術を身につけたいと集まってきています。私自身も、パンやビールはもちろんDIYで培った大工仕事など生きる技術すべてを彼らに渡したいんです。智頭町には空き家がたくさんあります。そこに共有地を作り、若い人にどんどん来てもらえれば、生活が安定して、やりたいことにチャレンジしやすくなる。彼らの才能を開花させやすくなるじゃないですか」超合理化社会は、画一化した価値観や考え方を推し進める。しかし、それぞれ異なる考え方や能力を持った人間がいて、みなが活気を持ってその能力を発揮できる仕事に就き、緩やかに影響しあえる場こそいま必要なのではと格さんは考えている。それらはすべて、“あらゆる存在は意味があって存在している”と教えてくれた菌から学んだことだ。子どもたちから「気の抜けたヤギみたい」と言われるほど穏やかになった格さん。菌に学んだ今、社会に対する怒りは影を潜めているのだろうか?「いいえ、丸くはなりましたけど、今のほうが怒っています。産地偽装とか嘘をついている個々のお店や会社に対する怒りではなく、そうせざるをえないような社会にしている仕組みや制度に対して。この年で再モヒカンにしようかなと思うぐらいに(笑)」〈取材・文/山脇麻生〉やまわき・まお ●編集者、漫画誌編集長を経て’01年よりフリー。『朝日新聞』『週刊SPA!』『日経エンタテインメント!』などでコミック評を執筆。また、各紙誌にて文化人・著名人のインタビューや食・酒・地域創生に関する記事を執筆
2022年02月05日■前回のあらすじ娘が誰かにいじめられているというリコちゃんのママ。むーちゃんは、その犯人が誰かわかったと言います…。悪口で繋がった友情は脆いな、と感じました。まさえさんはさえちゃんに一体何を言うのでしょうか。次回に続く 「私なにかしましたか? ママ友の闇」(全35話)連載は21時更新!
2022年01月30日常連客の田中さんと本の話題で盛り上がる二村さん撮影/渡邉智裕シンクロ日本代表として活躍後、娘を連れてシングルマザーとなり、パニック障害を発症。25年苦しんだ。生きる自信をなくし絶望していた彼女を救ったのは、書店で出会った客だった。以来、客と対話を重ねておすすめの本を手渡す時間が生きがいとなる。町の小さな書店が次々と消えゆくなか、大型店やネット書店に負けない努力と、気骨のある姿勢で闘う書店――そこは、本を介して人がつながり、心を通わす場所だった。■1500人のお客の好みを覚えている「いらっしゃいませ。どんな本をお探しですか?」わずか13坪。店内はぐるりと15歩で回れるくらいの狭さ。そこが、二村知子さん(61)の“闘いの場”だ。大阪市中央区の地下鉄谷町六丁目駅のすぐそば。オフィスビルが林立する大通り沿いに隆祥館書店はある。二村さんの父・善明さんが72年前に母と創業し、今は2代目の二村さんが切り盛りしている。手書きのポップが本棚のあちこちに張られ、壁には過去のイベントの写真やチラシが何枚も張られている。どこか懐かしい感じがする店内にお客が入ってくると、二村さんは明るく声をかける。雑談をしながら仕事や好みを把握し、これぞと思った本をすすめる。大阪市内で小さなスポーツ用品店を営む田中敬人さん(67)は書店の近くに問屋があり、常連になった。「二村さんはね、テレパシーで心を読まれてんのん違うかなーと思うくらい(笑)。すすめてくれるのは私にぴったりな本ばかりです。初めて来たときも、親父が亡くなって落ち込んでいたんです。西国のお寺回りが好きだけど、コロナでどこにも遊びに行かれへんし。そんな話をしたら、大阪を舞台にした『幻坂』(有栖川有栖著)を紹介してくれて。読んでみたら、遠くに行けなくても、近くにこんないいところがあったのかと」店内の本棚には足元から天井近くまで本がぎっしり。そこを見て回るのも楽しいと田中さんは顔をほころばせる。「ジャングルで宝物を探し出すみたいで面白い。しかも二村さんのフィルターを通した本ばかりやから、何を買ってもハズレがないんです」二村さんは相手が子どもでも、満足できる本を見極める。中学1年生の男の子が子ども向けの歴史の本を買いに来たときは、話を聞いてかなりの歴史好きだと感じた。「あなたはこの本では満足しないんちゃう?」すすめたのは『ミライの授業』(瀧本哲史著)だ。その本を読んだら面白かったと、男の子から経緯を聞いて、祖母の黒田美砂子さん(69)も書店を訪れた。中学校の国語教諭だった黒田さんは本好き。だが、大型書店では欲しい本がなかなか見つからず辟易していたと話す。「それがこの店に入った瞬間にね、“読みたいと思ってた本がいっぱいあるわ”と。あー、これも、これもと10冊以上買ってしまって(笑)。家にはまだ読んでない本がいっぱいあんねんけど、ここに来たら、また買ってしまう。二村さんは、おすすめ上手やから(笑)。『典獄と934人のメロス』(坂本敏夫著)なんか自分では絶対に選ばない本だけど、すすめられて読んだら、うわ、こういう事実があったのか。全然、歴史を知らなかったなと」同書は関東大震災で火の手が迫った獄舎から、囚人を信じて一時的に解放したという史実を基に元刑務官が書いたノンフィクションノベルだ。タイトルからは何の本かわかりづらいので、丁寧に内容を説明して、1年間で500冊売ったという。二村さんがすごいのは、話をしたことがあるお客なら顔を見れば、どんな本が好みか大体覚えているところだ。その数は1500人を超えるというから驚く!■父親に大反対された積極的な接客かつて二村さんはシンクロナイズドスイミング(現・アーティスティックスイミング)の日本代表選手だった。引退して結婚、出産を経て、実家の隆祥館書店に戻ったのは1995年。その翌年をピークに出版不況が始まり、ずっと右肩下がりが続いている。二村さんが両親の営む書店を手伝い始めて間もなく、中年の男性客に「おすすめの本は?」と聞かれ、自分の好きな『鉄道員(ぽっぽや)』(浅田次郎著)を挙げた。それをきっかけに、積極的にお客に声をかけるようになったが、当初、父には「一介の本屋が大それたことを」と反対された。それまでは黙っていても本や雑誌が飛ぶように売れた時代だったのだ。「父には、正直、そんなん言ってる場合ちゃうでと。売り上げはどんどん減る一方で、小さな本屋にとっては、もう毎日が生き残るための闘いみたいなものでしたから」本をすすめたお客が次に来店したとき、「ものすごいよかったわー」と言ってくれ、二村さんは心の底から喜びが湧き上がってきた。「実はここに帰ってきたときは、自分に対する自信もなくなって、生きていても価値がないわと思っていたんです。本屋には立てるんやけど、パニック障害で地下鉄にも乗られへん状態で……。それが、私のおすすめした本を喜んでもらえて、ちょっとずつ、ちょっとずつ、自信を取り戻せていけたんですよね」二村さんは出版社から送られてくるプルーフという見本や新刊本を読み込んで、いい本を探した。閉店後は寝る間を惜しんで本を読むのが日課で、もう25年続けている。だが、時間も読める量にも限りがある。興味の幅も簡単には広がらない。助けてくれたのも、お客だった。百貨店勤務の岡住容子さんは大の日本映画好き。5年前、「タイトルを度忘れしてしまった」という本を二村さんが探し出したのを機に、ほぼ毎週来てくれるようになった。ある日、岡住さんから『活動写真弁史』という分厚い本の注文が入った。二村さんがツイッターで「活弁の本が売れました」とつぶやいたら、著者で活動弁士の片岡一郎さんがフォローしてくれた。しかも、関西に行く用事があるから、隆祥館書店に来てくれるという。「岡住さんに教えていただいたおかげです。うちのスタッフも活弁が好きになって、活弁関係の本を置きだしたら、片岡さんともご縁ができた。めちゃくちゃ感謝してます」店で片岡さんのサイン会をやると知らせを受けた岡住さん。当日は信じられない思いで駆けつけたそうだ。「いつもステージで見ていた、私にとっては雲の上の人がここに来るの?とすごくビックリしました。ここで買った本はどれも、“こんなおしゃべりをしながら買ったなー”とか、思い出が残っています。大きな本屋さんや、ネット注文ではありえないですよね」二村さんが作り上げたのは、本というモノを売買するだけの店ではない。本を通して、教えたり、教えられたりする、かけがえのない場所だ。■井村コーチの言葉が人生の指針に誰にでもにこやかに話しかける二村さんからは、想像もできないが、幼いころは人見知りで気が弱かったそうだ。「2歳下の妹は寅年で負けん気が強くて、長女の私はいてるか、いてへんか、わからへんくらいやったって(笑)」水泳を始めたのは小学2年生のときだ。勉強はできるのに体育はダメ。しかもプールが怖くて、お腹が痛くなるほど。無理やり、浜寺水連学校に連れていかれた。「母は“水に放り込んでやってください”と言うたらしいけど、私はもう、イヤでイヤで。母が怖かったから、しぶしぶ泳いでいたけど、本当は好きじゃなかった(笑)」同校は日本のシンクロの発祥地であり、日本代表選手を輩出している。中学生になるとき、友達に「一緒にやろう」と誘われて始めた。最初は楽しかったが、徐々に厳しさを増す。チームはA~Eまであり、二村さんはCチームで3年ほど足踏みした。「そのころ白髪がブワーッと出てきたんです。プールのカルキの影響もあるかもしれないけど、精神的にすごく追い詰められていたんやろうね。約4分間あるチームの演技は全員で絶対に合わさないといけない。水中でグッと息を我慢せなあかんときに、苦しくて自分だけ“ハアーッ”と水面で息を吸ってしまう。そんな夢を見て夜中に目が覚めるんです。選手をやめてからも、その夢は何度も見ましたね」それほどつらい環境下でもなぜやめなかったのか。答えはシンプルだった。「上に上がりたいという気持ちもあったんですよ」Bチームに上がると、井村雅代コーチの指導を受けることができた。後にシンクロがオリンピック種目になると、日本代表を率いて何度もメダルを獲得し「シンクロ界の母」とも称された人だ。「私は身長158センチと選手の中では低いから、先生には“人の倍、努力せなあかん”と。母も100点取ろうと思ったら120点の勉強せなあかんという人だったけど、母より怖かったですね、井村先生は(笑)。でも、頑張ったら報われるというか、公平なんですよ。みんなを平等に見てくれるので、うれしかったですね」それでも、高校1年生のとき、年下の選手に激しく追い上げられ、一度だけ引退を申し出たことがある。「先生、もう私は限界やと思います。もうやめます」返ってきた言葉は想像を超えていた。「あんたの限界は、私が決める」自分で諦めて逃げてはいけないと諭された。恩師のこの言葉は、その後、二村さんの生きる指針になる──。間もなく二村さんはAチームに上がり、日本代表選手に選出される。チーム競技のメンバーとしてパンパシフィック大会に出場。2大会連続で3位になった。■学生結婚からパニック障害へ高校卒業後にシンクロを引退。大学在学中に学生結婚した。相手は初めて付き合った8歳年上の男性だった。「うちの両親、特に父は、もっと社会を見てから結婚したほうがいいと反対しました。反対されるとね、余計に家を出て自由になりたいと思ってしまって。だけど結婚後は、もっと自由がなかった……」引退後もシンクロはコーチとして続けていたが、23歳で長女を出産してやめた。子育てが一段落して再開したいと思ったが、夫や姑にいい顔をされなかった。やがて夫婦仲はギクシャクするようになる。夫の裏切りが間もなく発覚。ほかに恋愛経験がないまま結婚した二村さんは夫とうまくいかないのは自分のせいだと、自分を責めた。まじめで努力家だから自らを追い込みすぎたのだろうか。ある日、地下鉄に乗っていると、突然、冷や汗がバーッと出てきた。ドオーッと動悸が始まり、「私、このまま死ぬんかな」と恐怖にかられる。そのまま意識を失って倒れた。「それがトラウマになって、1人では地下鉄に乗れなくなったんです。これは経験した人にしかわかれへんと思うけど、ほんまに怖いんですよ。地下に下りようとしただけで、“アー、ダメダメ、ムリムリ”と。美容院にも銀行にも怖くて行けなくなって」そのころはパニック障害という病名は知られておらず、本を何冊も読んで、ようやく自分の病気はパニック障害だとわかった。娘の宝上真弓さん(38)は当時、小学2年生だったが、母親の苦しむ姿をよく覚えているという。「グッと強く踏ん張っているときもあるけど、それ以外はメソメソしていて(笑)。食事をしても、すぐお腹を壊してガリッガリでした。車の運転はできたけど1人でいるのを不安がったので、どこに行くにも一緒についていくのが当たり前になっていましたね。母は私をしっかり育てることが使命になっていたところもあるので、何とか気持ちを保っていたと思うし、私もそんな母を励まして支えることが、生きる目的みたいなところもあったので、長い間、支え合って生きてきたなーと。私が大学生になって、デートとかで家を留守にするのも、気を遣いましたから」■心の再生に「書店」が必要だった夫と離婚して、35歳のときに娘と2人で実家の近くに引っ越した。「私の人生はもう終わった」絶望感に駆られながらも、毎日、店頭に立った。書店にいる間だけは、しんどくならなかったのだ。父は何も言わずに見守ってくれたが、母にはパニック障害を理解してもらえず、こう言われた。「あんた、それ怠け病やで」ある日、二村さんは1冊の本にたまたま目が留まる。一読して、号泣した。それは、口に筆をくわえて絵を描いている星野富弘さんの『愛、深き淵より。』だった。「事故で頸髄を損傷し口しか動かない。自分で死ぬこともできない人が本当に絶望の淵から這い上がって、感動できる絵を描いてはる。その本を読んだときにね、ほんまに自分の甘えというか、私はこのままではあかんなって、気づかせてもらえたんですよね。偶然、神様が会わせてくれたとしか、考えられへんねんけど……」説明しながら、当時の気持ちが蘇ったのか、二村さんはこらえきれず、そっと涙を拭いた──。パニック障害の症状は発症から25年以上の長い年月をかけて少しずつよくなっていった。一度だけ精神科医に診てもらったが、薬にはできるだけ頼らず克服したという。真弓さんは母親がリラックスできる方法などを調べるうちに心理学に興味を持ち、臨床心理士になった。プロとして「母の心の再生プロセスには書店が必須だったのでは」と推測する。「母の場合、ただ流行っているからではなく、自分の感性とか信念に基づいた本をすすめています。それを相手が受け取ってくれて、“すごくよかったよ”とフィードバックをもらえるということは、自分の存在を肯定されることにつながったのだと思います。祖父と祖母が築いた本屋というあの場所に、ずっと守られていたんだと思いますね」■町の小さな書店はなぜ潰れるのか書店の仕事にも慣れたころ、理不尽な制度に直面した。小学館から『人間まるわかりの動物占い』という本が’99年に刊行され、当時大ブームになった。「欲しい」という客が次々来店するが、注文を出してもほぼ入ってこない。大型書店には何十冊も平積みされているのに、おかしい。二村さんは納得がいかず、問屋である取次に電話をした。押し問答したあげく、冷たく告げられた。「ランク配本だから無理です」取次では、大型書店から小さな書店まで月商でランク分けし、配本数を決めている。つまり、ランクが下の小さな書店には初めからほとんど入ってこない仕組みなのだ。電話を切って悔し涙を流していると、父に一喝された。「なに泣いてんねん。闘わなあかんやろ!」二村さんは出版業界誌の編集長を呼んだ勉強会に参加し、懸命に窮状を訴えた。すると数日後、手紙が届く。差出人は編集長の知人で当時、小学館の雑誌販売部長だった黒木重昭さん(78)だ。隆祥館書店は小さいが販売実績のある書店だと判断した黒木さんは、指定配本という別ルートを使って本を届けたそうだ。「二村さんのことはまったく知らなかったけど、業界内の事情は見当がつくから本当に特例で。二村さんはどこでも何でも扉を叩く人だったので(笑)、たまたま叩いたところに、僕のような人間がいたということです。欲しい本がある都度、同じようにほかの出版社の扉も叩き続けたけど、なかなか開いてくれないところもあったと思いますよ。ほとんどの小さな書店は、最初から諦めているんじゃないですか」実は黒木さんはそれ以前から、出版業界の未来を案じていた。「どこの書店が何をどれだけ売っているのか」データをとり、データに基づいて配本するように流通を改善しようと、ほかの出版社の仲間とも勉強会を重ねていた。「ランク配本は取次の作業が楽になるだけで、弊害のほうが大きい。小さな書店はいくら努力しても報われないんです。こんな業界はもうダメだと思って子どもには書店を継がせないから、どんどん消えていく。特に地方では書店がある意味、町の文化的な広がりを担っている面があるので、悲しいですよ」実際に、’99年に約2万2300軒あった書店は、’20年には約1万1000軒にまで減少。インターネットの普及やアマゾンの台頭など原因はほかにもあるが、ランク配本のせいでやる気を失った書店はたくさんあるに違いない。IT化が進んでも、本の流通は驚くほど変わっていない。典型的な例を挙げよう。’15年に『佐治敬三と開高健最強のふたり』(北康利著)が出ると、二村さんは発売前から客にすすめまくった。店の顧客は6割が男性、しかも中小企業の経営者が多いため、サントリーを支えた2人の物語は共感を呼ぶのではないかと感じたのだ。発売から数日後、出版元の講談社の担当者から電話があった。「二村さん、隆祥館書店が販売日本一ですよ!」たった13坪の書店が、千坪を超える数多の大型書店に勝ったのだ。その後も4週にわたって1位をキープし、計400冊を売った。それだけの実績を挙げたので、5年後に同作が文庫化されたときは何冊配本されるか楽しみにしていた。だが、結果は、まさかのゼロだった。■作家と読者をつなぐイベント「この作家さんに会うて、直接話を聞いてみたいわ」あるとき、常連客から言われ、二村さんは「これだ!」とひらめいた。アマゾンが本の通販だけでなく、電子書籍端末「キンドル」の販売も開始。書店の経営は苦しくなる一方で、何か手を打たないといけないと悩んでいた。「ただのサイン会とも違う、作家が書ききれなかった思いを読者が聞ける場をつくろう。それはリアルの本屋でないとできないことだと思ったんですよ」父とは意見がぶつかりケンカになることも多かったが、イベントをやることは賛成してくれた。’92年に書店が入る建物を9階建てに建て替えており、上階のワンフロアを会場に使うことにした。そうして’11年から始めたのが「作家と読者の集い」だ。この10年間で開催した数は280回に及ぶ。有名作家から無名の新人まで多くの人が来てくれたが、二村さんが忘れがたいのは第2回。藤岡陽子さんのイベントだという。「藤岡さんはどんな仕事でも、縁の下で頑張っている人に光を当てたいという話をされて。会場にいてる人も、身を乗り出して聞いてましたね。イベントの手伝いに藤岡さんの本『トライアウト』の営業担当の方が東京から来てくれたんですが、会が終わった後、“実は会社を辞めようと思ってたけど、今日の話を聞いて、辞めるのをやめました”と言ってくださって。私も、ものすごい勇気をもらったんですよ」イベントにどんな作家を招くのか。二村さんが決める基準は明確だ。「ものすごくいい本に出会ったときは、本当に身体の中からね、グワーッとマグマみたいに湧き起こってくるんですよ。これは伝えなあかんっていう気持ちが」例えば、在宅での終末医療の現場を長年にわたって取材した『エンド・オブ・ライフ』(佐々涼子著)。最後まで家族と過ごした末期がんの若い母親など何人もの看取りの様子が書かれており、二村さんは読みながら何度も号泣した。こういう最後なら、死にゆく人にも希望を与えられると感じ、すぐ佐々さんにイベントへの登壇をお願いした。もともと病院での死に疑問を持っていたことも、背景にはある。常連客で看護師の飯田公子さん(61)に「必要以上の点滴をせず、枯れるように亡くなるほうが本人もつらくない」と聞き、“死の迎え方”を考えることは誰にとっても大事だと思っていた。飯田さんは同書をはじめ、二村さんにすすめられた本はどれも感動的で、一気に読んだと話す。イベントにも何度か参加したが、母を介護中の飯田さんには、医師で作家の久坂部羊さんの話が興味深かったそうだ。「『老乱』を読んで、認知症の人の気持ちが何でこんなに鮮明にわかるんだろうと思っていたんですが、患者さん本人が書いた日記を後から見せてもらったと聞いて、なるほどと。それから1週間もしないうちに、自分の母親に同じようなことが起きて、なんか小説の続きみたいだとびっくりしました」■父母の介護と書店存続の危機隆祥館書店が最大の危機に瀕したのは今から7年前、’15年のことだ。2月に父の善明さんが肺を患って逝去した。その前に母も脳梗塞で倒れており、父が亡くなる直前は、2人の介護に追われた。「店の仕事もあるし、本も読まなあかん。でも、夜中は両親をトイレに連れていくでしょう。もう自分の身体が悲鳴を上げるような感じで、ドクドクドクと心臓の鼓動が速くなったりして。それが、父が亡くなって余計に余裕がなくなったんですよ。母に認知症の症状も出てきて、目を離せなくなって」介護に加え、二村さんを悩ませたのが書店の存続問題だ。建て替えたときの借金も残っており、心配した妹と弟に「ビルごと売ったらええやん」「1階だけコンビニにしたら」と口々に言われた。「大型書店に比べたらすごく冷遇されているのに、何でこの本屋をやりたいんやろ」二村さんは眠れず、3日くらい考えた末に気づいた。「自分はやっぱり、本を通じて、人とつながりたかったんや」2人にそう話すと、弟にはこんな条件を出された。「3か月あげるわ。5月までに黒字にならへんかったら、続けるのはなしやで」それまで収支には波があり、父の亡くなった2月は赤字だった。「結果を出さなあかん。イベントを増やすしかない」二村さんは毎週土曜日にイベントを開催した。夜を徹して本を読んで、作家に交渉して告知する。ろくに寝る間もない日々が続いた。そんな書店の状況を、歯科医の高山由希さん(58)は二村さんから聞いていた。あるとき高山さんが店に顔を出すと、二村さんの弟を見かけたので、こう話しかけたそうだ。「ありがとうございます。私、近所に住んでいるんですけど、こういう本屋さんが1つあるかないかで全然違うので、すごく助かっています」高山さんは10年来の常連だ。生前の善明さんのこともよく覚えていると言う。「お父さんは物静かなんですけど包容力があって、そこにいらっしゃるだけで癒される感じの方でした。娘さんはもっと積極的です(笑)。これ、すごく勉強になるからとすすめられて、社会派の本もずいぶん読みました。『軌道福知山線脱線事故JR西日本を変えた闘い』(松本創著)は、めちゃくちゃ感動しましたね。イベントには遺族会代表の方も来てくれて。JR西日本の安全政策まで変えた素晴らしい方やなと思って、あの方と同じ部屋にいられたことが、光栄でした」努力のかいがあって年間の決算も黒字になり、危機を脱した二村さん。開催頻度こそ落としたものの、その後もイベントには力を入れている。妹が途中で母の介護を代わってくれ、’16年に母は亡くなった。身体は楽になったはずなのに、ひとりで書店と借金を背負う重圧もあるせいか、たびたび心臓がおかしくなった。頻脈になったり、貧血になったり。3年前に手術を受け、ようやく症状が治まった。■「本は毒にも薬にもなる」仕事と介護に追われ、睡眠不足でヘトヘトだったとき、二村さんを支えたのはシンクロだ。28歳のときにマスターズクラスのコーチを再開して以来、ずっと続けている。「唇ヘルペスに2度もなって病院に行ったら、身体が悲鳴を上げてると言われました。でもね、そんな状態でもプールに向かうと元気になるんですよ。その時間だけは仕事のことも考えない。プールでは無になれるんです」窮地に立たされるたびに心を奮い立たせてくれたのも、恩師の「自分で限界を決めるな」というメッセージだった。「欲しい本が入ってこないとか、アマゾンという黒船が来たとか、これでもかー、これでも本屋をやめへんかーって試練が続くでしょう。“あー、もうあかんかなー”と思ったときに、後ろから井村先生の言葉がドーンときて、そのたびに何とか乗り越えられた。ずっと、そんな感じでしたね」再び、闘わざるをえない事態に直面したのは、今から3年前だ。取次から、差別を扇動するいわゆるヘイト本が何冊も送られてきたのだ。見計らい配本といって、書店が注文していない本が見本として送られてきて、即入金を請求される。本は基本的に委託販売なので、返本すれば後日返金されるが、小さな書店にとっては負担が大きい。「本は薬にも毒にもなる。この本が売れるからといって、人を差別する本は売ったらあかん。本を商業主義の餌食にしたらあかんで」父は常々そう口にし、差別を扇動する本は置かないことをポリシーにしていた。そんな父の教えを守ってきた二村さんは、思い切って声を上げることにした。自分のためだけではない。疑問を抱きつつも、棚に並べている書店は多いのではないか。このまま偏った思想の本が一方的に日本中にばらまかれたら、本の信頼が損なわれると心配したからだ。「欲しい本はこないのに、注文していない本はくる」Facebookに詳細を投稿すると、週刊誌やウェブ媒体から原稿依頼がくるなど大きな反響があった。店に脅迫めいた電話がかかってきて「怖かった」と言うが、弁護士などが相談に乗ってくれた。作家を招いたイベントのほかにも、二村さんは新しいことにチャレンジしている。そのひとつが『1万円選書』だ。店に来ることができない遠方のお客の役にも立ちたいと昨年6月に始めた。事前にメールでお客にアンケート(カルテ)を送り、その回答に合わせて選書した1万円分の本を配送する。「私という人間を信じて書いてくださった、お客様の状況や悩みを読むと、情景が浮かび胸にしみます。それぞれの悩みや葛藤に寄り添うため、おひとりの選書に何日もかかることがあります。それでも、配送後に“読んでよかった”というメールをいただくと、涙があふれるほど幸せな気持ちになりますね」申し込みが殺到したため、現在は抽選で続けている。7年前から、本を通して育児を応援するイベントも始めた。結婚して母になった娘の真弓さんと赤ちゃんを連れて外出するたび、子どもに冷たい社会だと実感。憤りを覚えたのがきっかけだ。毎月第3水曜日に行っている「ママと赤ちゃんのための集い場」を見せてもらった。この日集まったのは、生後3か月から2歳5か月までの子どもと母親の7組。光の降り注ぐ明るいフロアを、子どもたちが元気よく歩き回る。臨床心理士の真弓さんが中心になって、絵本の読み聞かせをしたり、歌を歌ったり。紙コップにドングリを入れて作った楽器で合奏もした。最後は「お悩みシェア」の時間。1人ずつ困っていることを話していく。「イヤイヤがひどくて」1人の参加者がそう話すと、ほかのママたちから「うちもそうやった」と声が上がる。真弓さんはアドバイスをし、親向けに書かれた本『子どもの心の育てかた』(佐々木正美著)と『子どもの「いや」に困ったとき読む本』(大河原美以著)を紹介した。1歳7か月の息子と参加した母親(34)は、子どもと2人きりでずっと家にいるのがしんどくて、4か月のときから毎回通っているという。「常にここで悩みを話させてもらっていて、スッキリして家に帰れるから、また頑張ろうと思えます。紹介してもらったイヤイヤ期の本は2冊とも読みましたよ。知識があるだけで、なんかうん、うんって、自分に言い聞かせられるから、本って、大事やなーと」書店には常連客だけでなく、新しいお客も次々やってくる。「二村さんに、自分に合う本を教えてほしくて、愛知県から来ました」そう声をかけてきた男性客は、自分が過去に読んだ本をズラリと書いたリストを手にしていた。二村さんは現在61歳。70歳になるまで、あと10年は頑張ると公言している。自分を救ってくれた本と書店という場所を守るため、そして、ひとりでも多くの人にこれぞと思う本を届けるため、今日も笑顔で店に立つ。(取材・文/萩原絹代)はぎわら・きぬよ大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。’90 年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。’95 年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。
2022年01月29日森絵都の小説「カラフル」を実写化したAmazon Original映画『HOMESTAY(ホームステイ)』より、謎を解くためのカギを握る重要人物たちの場面写真が公開された。本作は、一度死んでしまった高校生・小林真の身体に乗り移ることになった魂・シロが、100日間という期限の中で真の死の真相を探っていくミステリー作品。「なにわ男子」長尾謙杜が演じる、爽やかな笑顔を覗かせるシロは、死の淵から目覚めると、真の身体に乗り移ることになり、半ば強制的に本当の死の原因を突き止めなければ死、という究極のクイズを課される。そんな難役に挑戦した長尾さんは「シロは自分自身、そして真のことは大親友のような存在だと思って演じました。そうすることで真が傷つけられると本当に腹が立つし悲しみを感じるようになり、役を演じようとするのではなく、自然と役が近づいてきてくれました」と演じる際に意識したことを明かしている。また、制限時間を告げる砂時計を手に、怪しい笑みを浮かべるのは、濱田岳扮する“管理人”。シロの前に突然現れ、究極のクイズをあっけらかんと告げる謎の管理人は、今回公開された看護師だけでなく、学校の先生やストリートミュージシャン、小さな女の子など、様々な人物に姿を変えてシロの前に現れる。一方、物憂げな表情を見せているのは、実は真のことを気にかけている真の幼馴染み・晶(山田杏奈)。途中で正体がバレたらクイズ終了となってしまうシロにとっては、気を付けなければいけない相手だが、幼いころから真を知る晶の存在は、シロが本当の真の姿を知るためには欠かせない。橋の上で笑顔で電話をしているのは、真の学校の先輩・美月(八木莉可子)。真は密かに憧れを抱いており、真の死に隠された真相を握る重要な人物でもある。シロは美月との関わりを通して、真が知りえなかった大切なことに気付く…。さらに、何か思いつめた表情を見せるのが真の家族。仕事が忙しく、なかなか家族との時間がとれない父・治(佐々木蔵之介)と、母・早苗(石田ひかり)、兄の満(望月歩)の3人は、真が元気に学校に通うようになったことに安堵しつつも、どこかぎこちない態度。シロは、少しずつ膨らむ疑念を胸に秘めながら、やがて真の部屋で“真の記憶の断片”と思しき重要な発見をすることになる。Amazon Original映画『HOMESTAY(ホームステイ)』は2月11日(金・祝)よりPrime Videoにて世界独占配信。(cinemacafe.net)■関連作品:HOMESTAY(ホームステイ) 2022年2月11日よりPrime Videoにて配信©2022 Amazon Content Services, LLC OR ITS AFFILIATES. All Rights Reserved.
2022年01月29日神田明神文化交流館『EDOCCO』に奉納した『光の森』の前で撮影/伊藤和幸在仏50年。かの地でその実力と貢献が認められ、芸術文化勲章とレジオン・ドヌール勲章を受章した松井守男さん。失意からの渡仏、才能ゆえに巻き込まれた度重なる嫉妬の渦、希代の天才芸術家・ピカソとの交流━。日本滞在中にコロナ禍で戻れなくなり、その間、彼が母国に対し何ができるか考えたこととは。『光の画家』の軌跡と今後を見つめる━。■「光の画家」と称されたピカソの愛弟子2016年、フランス最高の勲章であるレジオン・ドヌール勲章を北野武が受章した。北野は1999年と2010年にフランス芸術文化勲章も受章しており、それもあって大きな話題を呼んだ。しかし、その13年前、北野とは違い、フランスに根を張り活躍したうえで、芸術文化勲章とレジオン・ドヌール勲章を受章している日本人がいる。彼の名は、松井守男。「光の画家」と称され、天才芸術家ピカソの最期の時代、彼のアトリエに5年間通い続けた“愛弟子”でもある。ウソのようなホントの話。そんな日本人が存在していたにもかかわらず、なぜ私たちは今まで知らなかったのか?「僕は、ここ日本で画家として認知されるために欠かせない『美術年鑑』に載っていないんだよね。日本では煙たがられているんだろうなぁ。だから、僕の存在はまるで都市伝説のようになってしまった!」ケラケラと笑う姿からは、まったく巨匠らしさを感じない。むしろ、チャーミング。威厳とは真逆にあるだろう愛嬌たっぷりに話す様子が、なおのこと「本当にこの人はすごい人なんだろうか?」という邪推につながる。「僕は権威とか大嫌い(笑)。日本にいると、『先生、もう少し大物らしく振る舞ってください』って言われるんだけど、余計なお世話。権威こそ、ものの見方を狂わせ、正しい評価を失わせる魔物なんだ」松井は現在、フランス皇帝ナポレオン1世の出身地として知られるコルシカ島にアトリエを構え、暮らしている。在仏50年。柔らかい口調は、女性的なフランス語の語感が、癖として日本語に伝染してしまったせいらしい。長崎県五島列島に小学校の廃校を改修して作り上げたアトリエがあるが、ほとんどの日々をフランスで過ごしている。ところが、日本に帰国した際、新型コロナウイルスが世界的に大流行する。日本とは比較にならないほどの感染者数を記録したヨーロッパでは、ロックダウンをはじめとした徹底的な対策が行われた。松井は、愛してやまないフランスへ帰ることができなくなった。「自分の中で置き去りにしていた母国・日本と、結果的に向き合う時間になった。ピカソはよく言っていた。『人間というのはそんなに変わらない。大事なのは環境なんだ』と。導かれるために何をやるか。ゴッホの『ひまわり』は南仏、ミレーの『晩鐘』はパリ郊外。どちらもなんてことのない場所。ピカソは、『その場所に導かれた彼らがすごいんだ』と話してくれた。日本での長逗留(とうりゅう)は、導かれたものだったのではないかと思うんだ」日本滞在中、松井は精力的に動き続けた。京都にある黄檗山(おうばくさん)萬福寺では襖絵を制作し、東京の神田神社(神田明神)ではライブペインティングをはじめ数々の創作活動を行った。自らの半生と思考を綴った書籍『夕日が青く見えた日』(フローラル出版)を上梓(じょうし)し、’21年1月には『日曜美術館』(NHK)にて特集が組まれ、高視聴率を記録した。「ようやく日本でも知名度が上がってきたかも。ハハハ!」“日本で最も知られていないだろう最も偉大な日本人画家”─、松井守男はなぜ今まで知られていなかったのか。彼の画家人生は、先入観や偏見を破壊し刷新する一筋の光から始まる。■“権威嫌い”を作り上げた学生時代松井は1942年、愛知県豊橋市で7人きょうだいの6番目として生を受けた。父は孤児だったといい、実家は鮮魚店を経て仕出し店になった。「裕福な家庭じゃないから絵なんて飾ってない。小学校のころは仕出しの配達を手伝っていたくらい」と語るように、芸術とは無縁の幼少期を過ごす。当時の様子を、6歳上の姉・千恵子さんは次のように振り返る。「子どものころから絵を描くのは好きでしたね。知り合いの家に行くと、守男はささっと似顔絵を描いたりして、みんなを喜ばせていた。器用なところがありましたね」松井に「子どものころの夢は?」と聞くと、特になかったと返ってくる。家業を長男が継ぐことが当たり前だった時代。次兄以下、堅実な仕事をすすめられ、彼もまた銀行員になるため、言われるがまま勉強した。その最中、14歳のときに母を失う。「高校2年生のときだったと思う。当時の担任の先生から『お前はひとり親だから銀行に入ることはできない』と伝えられた。何のために勉強してきたんだと思ったよね。それで、歌に自信があったからオペラ歌手になってやろうと思ったの。ところが、音楽は子どものころから英才教育を受けている人のほうが圧倒的に有利。これは無理だと思って、もうひとつ得意だった絵であれば何とかなるんじゃないかと考えた」長兄は映画業界に入ることを諦め、家業を継いだという。その兄から「絵は貧乏するからデザインをやれ」とすすめられたが、頑なに絵にこだわった。「デザインをするとなると、会社勤めになる。そうすると、またひとり親がハンデになると思った」通例にならうことを嫌った松井は、東京藝術大学のデザイン科をわざと落ち、武蔵野美術大学で油絵を学ぶことになる。「わが家の恥だ」。兄からは、そう罵られた。だが、「父は応援していたと思います」とは、千恵子さんの弁だ。「父は前向きな人で、真新しい地球儀を買ってきて、私たちに『日本というのはこんなにも小さい。広い目を持つように』なんてことをしきりに言う人でした。外国語にも関心が高い人で、教科書や持ち物に名前を書く欄があるでしょ?父はローマ字で記入して、私たちに持たせたものです。今から70年くらい前に、そんなことをするなんて珍しいですよね」松井の、武蔵野美術大学への入学金は、父がこっそりと貯めていたへそくりだった。「どこかで影響されていたんだろうなぁ」、松井は遠い目をしながら、ポツリとこぼす。「ぼんやりとだけど、『何者かになりたかった』のだと思う。今思えば、若気の至りとしか形容できないが、芸術の都・パリで挑戦したいと思い立ち、留学を決意したんだよね。ところが、留学先のパリは国立美術学校。釣り合うようにするためなのか、日本は国立大の学生しか認めなかった。つまり、東京藝大の学生のみを対象にしていた。でも、フランスの留学試験は政府の試験にさえ受かれば、フランス政府の留学生として迎え入れてくれる。だから私は武蔵野美術大学でも、フランスへ留学することができた」フランスのアートに対する寛大さの一例だろう。同時に、日本の権威主義は、昔も今も変わらない。松井は、「僕の権威嫌いはこのとき決定的になったな」と豪快に笑う。■絶望から出発したフランス留学渡仏前、日本を去る彼を惜しむように、松井の人生に大きな影響を及ぼす出来事が2つ起こる。ひとつは、卒業作品を展示していた新宿の画廊での、ある出会いだ。「当時は学生運動もあって、とにかく私は新しいものを求めていたんです。 何かすごいものに出会いたい。そう思って画廊に入ると、縦に三原色を叩きつけたような作品の前から動けなくなった」何げなくふらっと立ち寄った画廊で、松井の作品に衝撃を受けた。そう当時の思い出を語るのは、世界的ジャズピアニストの山下洋輔さんだ。松井とは50年来の莫逆の友である。「これは誰が描いたんだろうと思って、作者と住所を調べ、松井さんに会いに行った。すごい絵を描く方とは思えないほど、とても温厚な青年だった。ただ、絵のことになると、一変して情熱的に話す姿が印象的だった」当時の出会いを松井も鮮明に覚えているという。「だって、有名人の山下洋輔がいきなり訪ねてくるんだよ!(笑)洋輔さんからはたくさん刺激をもらったなぁ。ともに世界を目指す同世代のアーティストの言葉は響いた」筒井康隆、タモリを見いだした先見の明の持ち主・山下洋輔から見て、渡仏直前の松井守男は、どう映ったのか。「一途に自分の絵を信じてやり遂げる人だとわかりました。こんな人はめったにいないという意味では、彼らと同じものを感じましたね」山下さんは、フランスに向けて出航する船を見送るため、横浜港まで見送りに出かけたという。しかし、この直後の船内で、松井は失意の底に沈むことになる。そしてもうひとつ。少し時計の針を巻き戻そう。出発前の状況について、松井はこう説明する。「大学時代は阿佐ヶ谷にある良家に下宿していたの。当時、日本は少し豊かになりだしていたから、良家のお嬢さんが絵を学ぶことが流行っていた。僕ら美大生は人気があったから、ともにフランス留学する僕の友人─仮にヒロシとしておこうか、ヒロシも僕の下宿先によく遊びに来て、お嬢さんたちと交流を深めていた。そういう中で、僕は下宿先のお嬢さんと仲よくなり、 恋仲になった」留学の期間は、最長2年。それまでは国からお金を保障してもらえるが、3年目からは自費となる。そのため、日本に戻ってくるケースが多いという。まだ寒さが残る3月下旬、横浜港には山下さんや松井の恋人など、別れを惜しむ多くの見送り客であふれかえっていた。松井は、いかにも良家らしい南部鉄器の茶器を、彼女から餞別の品として渡された。「出航から少しして、おもむろに茶器のフタを取ると、中に手紙が入っていた。『守男さん、2年後に結婚します。パリか東京かご指示ください』と書かれていた。感慨にふけっているとヒロシが、『俺ももらったよ』なんて呑気に言い出した。ヒロシの茶器にも同じように手紙が入っていて、2人で見たら『守男と結婚するけど、本当に愛していたのはあなたです』と。まさか僕が見るなんて思わなかったんだろうなぁ」絶望からの出発。そう笑うが、松井の表情には哀しさも漂った。「母もいない、恋人とも心が通じていなかった。日本を恋しく思う理由がなくなってしまった」■“出る杭”として打たれ続けた日々政府奨学生として松井に託された期間は2年。それまでに画家として食べていけるまでに成長しなければならない。パリ国立美術学校への入学は10月。松井がパリに到着したのは3月末。時間が空くため、肩慣らしとして「アカデミー・ジュリアン」という誰でも入れる美術研究所に入所した。「度肝を抜かれた」と、松井が当時を振り返る。「毎週、絵の評論をするんだけど、僕の絵なんて話題にすらならない。危機感を覚えた僕は、入学資格のあるパリ国立美術学校を、あえて自主的に受験してみた。すると、補欠扱いだった。自分のレベルを知ったことで、入学後は廊下で石膏のデッサンから学び直した」10月に日本から留学してきた学生たちは、そのままいちばん上の油絵クラスで、悠々自適にキャンパスライフを送っていた。その後、“パリ留学”という看板を土産に、日本でもてはやされる。その道を嫌った松井は、ひたすら現実と向かい合った。「結果的に、それが基礎体力を作り上げてくれたんだと思う」着実に、堅実に腕を磨くことで、次第に学内でも頭角を現すようになる。しかし、「『出る杭は打たれる』というけど、これはどこの国も同じだったなぁ」と苦笑いを浮かべる。「あるときは、僕の絵がトイレに釘で打ち付けられていた。政府の役人を親に持つ学生が、僕を学校から追い出そうと画策したこともあった。極めつきは、教授の嫉妬を買い、プロジェクトに参加させてもらえず、放校させられたこと。フランスまで来て、なんでこんな仕打ちをされなきゃいけないんだろうね」妬みを通り越したような嫌がらせの数々。フランスが嫌いになることはなかったのか?「僕の座右の銘のひとつに『捨てる神あれば拾う神あり』という言葉がある。確かにとんでもなく嫌なこともあったけど、それ以上に素晴らしい体験をさせてくれる。頑張っている人や真剣な人に対して、手を差し伸べるのもフランスという国。だから、嫌いになりそうになっても、また好きになっちゃうんだよね」放校され、打ちひしがれていた松井は、偶然、自身も出展したグループ展を訪れた老紳士から声をかけられる。身の上を話すと、『モリオ、すまない。フランス人はそんな人間ばかりじゃない。このまま日本に戻ってしまうのは、あまりにもったいない。何か1つ、望みを叶えてあげたい』と言われた。拾う神の名は、エドゥワール・ピニョン。画家であり、ピカソの親友として知られる人物だった。「『ピカソに会わせてほしい』。気がつくと、そう口にしていた。畏れ多くて、本来であればそんなお願いはできないよね。でも、それほどまでに絶望していたんだろうな。これ以上、落ちることはないだろうって」■孤高の天才画家・ピカソとの交流1968年春。松井は南仏のアトリエでピカソと対面する。南仏らしい乾燥した空気が辺り一帯を包む、光が差し込む、よく晴れた日だった。ピニョンの後についていくと、「ここから先は君1人で行きなさい」と伝えられた。扉を開けると、じっと松井を見る、ピカソがいた。「お前に会うためにとった時間で、本来なら残せた傑作が、この瞬間に消えているかもしれないんだ。私に会うというのは、そういうことだ」開口一番、そう言われた。圧倒され息を呑む松井をしり目に、ピカソはこう続けた。「私の絵を、どう思う?」と。「背筋が凍って、頭の中が真っ白になった。懸命に彼の傑作群を思い浮かべ、僕は『形も色も見えない。光しか見えません』と答えていた。すると、ピカソの表情が徐々に柔和になって、『よし、明日から来なさい』と言われた。対面した時間は、とても長く感じたけど、とにかくピカソの目が忘れられなかった」亡くなる1973年まで、天才芸術家との交流は続いた。ピカソとの思い出。一例を挙げて懐かしそうに振り返る。「彼は、いつもゆるゆるのTシャツに、ステテコのような大きなパンツをはいて絵を描いていた。天才芸術家とは思えないほどラフな姿で、まるで風呂上がりのおじさんのよう(笑)。親しくなってから、『絵を描いているときは鬼気迫るものがあるけど、描き終えると普通のおじさんですね』と言ったことがあった。するとピカソは『俺は絵描きだから絵にすべてを捧げている。あとはどうでもいい』と笑っていた。 生きているときに好きなように生きたい、それが彼の哲学だった」90歳近い晩年のピカソは、大きな絵が描けなくなっていた。はしごに上ることが難しくなっていたからだ。その姿を見て、松井は若い時代にこそ大きな絵を描こうと決意する。パリで再会した山下洋輔さんは、当時の松井の暮らしに目を見張ったという。「絵描きになるといって渡仏しても、結局は街中で似顔絵を描いているレベルで止まっているケースも多いもの。ところが、松井さんはパリ十六区にある最上階の日当たりのよい、天井が高く大きな部屋にアトリエを構えていた。一目で、結果を出しているとわかり、安心しました。しかも、ショパンとジョルジュ・サンドが同棲していたというアパルトマンだったんです」とはいえ、稼ぎのほとんどは家賃と光熱費に消えていったが、どうしても大きな絵を描きたかった。夜遅くまでキャンバスと向き合うため、部屋の電気を共用部分から拝借し、大家に見つかってしまったこともあったという。「泥棒扱いされ責められるかと思ったら、僕が画家だとわかると『絵を見せてほしい』と言う。部屋に招くと、大家は『このままここにいてほしい』と言うんだ。驚くことに、僕が大成すれば、この部屋に箔が付く。だから追い出すことをしなかった。芸術が経済原理の大きな一翼を担う。それがフランスという国なんだ」■試行錯誤してたどり着いた究極の細筆現在、松井のマネージャーを務めるロベール・ショージニキさんも、彼の絵に魅せられた1人だ。「最初はマツイの仕事を手伝いたくてアトリエに出入りしていましたが、ピカソのように初期からすごい芸術家だとわかり、生涯にわたって彼の仕事を支えたいと思いました」ロベールさんは、当初はテロ対策の警察官として松井のアトリエに出入りし、アパルトマン周辺の警護にあたっていた。3年後、「一緒に仕事をしたい」と伝えたロベールさんは、警察官から画家のマネージャーに転身した。出会いから5年、ピカソは泉下の人となる。大きな喪失感を覚えながらも、薫陶を受けた松井は、ピカソの意志を継ぐものとして油彩筆を握り続けた。だが、「焦りがあった」と吐露する。「有名になろうと気張りすぎていた。印象派を生み出したパリのベルネイム=ジュンヌ画廊からは、『お前はすごい。でも60歳まで絵は買わないだろう』と言われた。うまい下手ではなく、感動させるための経験が僕には足りないと指摘したんだよね」天才たちに負けないためには、どうしたらいいだろう。そういえばフランス人たちは、食事の際に僕のソースをかけるしぐさを見て「珍しい手の使い方をする」と驚いていたっけ。漢字の“八”を描くような手の動かし方は、フランス人にはなじみがないようだ。そういえば、フランスでは細い筆を使って絵を描かないな。むしろ、とてつもなく細い筆を使って、自分の中にある感情を描いてみたらどうなるだろう─。たどり着いたのは、人形の顔を制作する際に使う日本画用の面相筆。くしくも、生まれ故郷・豊橋の名産品だった。日本から大量の面相筆を送ってもらうと、油絵に対応できるようロベールさんたちが改良を重ねた。「これを描ききったら死んでもいい」─。『遺言』と名づけられた215×470cmのキャンバス。松井は、ほかの絵は一切描かず、その絵だけと向かい合った。「これ以上描くと気がおかしくなる」。完成した絵を見上げると、2年半の月日が流れていた。■世界中のセレブたちと直接交渉する今回の取材中、松井が絵を描く姿を見学させてもらった。キャンバスを見つめながら、「コントロールするなよ」、「いいぞ、いいぞ」と自らに暗示をかけるかのように呟きながら、面相筆で色を重ねていく。特徴的なのは、漢字の“八”をなぞるように色を重ねていく点だ。「フランス人は『愛』という漢字を見たときに、究極の抽象画だと言っていた。僕も、当初は絵の中で人間を描いていたんだけど、その人間をどんどん小さくしていったら、『人』という字ではないけども、自然とそういう表現にたどり着いた。ある意味では、この手法は松井守男の出発点。『人』は、『遺言』で到達した濃縮なんだ」圧倒的なスケール、面相筆で幾重にも描かれた緻密かつ重厚な色の輝き。まるで光が爆発し、その光が降り注ぐような『遺言』は、完成するやフランス国内で激賞され、松井は「光の画家」と呼ばれるようになる。「みんなが僕を主役にするために頑張ってくれたんだなと思う。それに応えるために僕も頑張れたんだと、改めて思う」何者かになりたかった青年だった松井は、今、そう静かに微笑む。’03年、レジオン・ドヌール勲章を受章したことで、松井の絵は、死後、ルーブル美術館に展示されることが約束されている。松井が描いた絵は、高価なものであれば数億円の値がつく。アラブの王族、F1の会長……小説にしか登場しないような人物たちが、モリオ・マツイの絵を求めて、アトリエのあるコルシカ島まで来訪する。本当に、都市伝説さながらだ。コルシカ島のアトリエを訪れたことがあるコメディアンで俳優の大村崑さんは「こんなおもろいおっさんいませんよ」と語る。「面白い人じゃなくて、おもろい人。喜劇人の専門家である僕が言ってるんですから、素人さんが松井さんを見たらもっとおもろいはずですよ。昔はもっと、優しさとおもろさが備わったおっさんやおばはんがいた。そういう懐かしい雰囲気もあるんです」大村さんは、コルシカで見た朝日と夕日が忘れられないという。「朝早くに、突然松井さんが『お祭りに行こう』って言うんです。ロベールさんが運転するんだけど、これがまた荒い!(笑)僕らが必死になってシートを握っている姿を見て、松井さんはケタケタと笑っていたんです」丘の上に到着すると、現地のフランス人が大勢出迎えてくれた。「こんなにフランス人から愛されている日本人がいるんだと驚きました。祭りに行くときに見た朝日、帰るときに眺めた夕日。僕は絵のことはわからない。でも、誰もが人間・松井守男に触れると魅了されてしまうのはわかります」絵の魅力に加え、その人柄に惚れて絵を買う者もいる。松井は、画廊や画商を介さず、購入意欲のある者と直接、相対で絵の取引を行うという。ピカソに倣ってのことである。「自分の価値を自分で決めることの大切さも、彼から教わったことのひとつ。そうすることで、人や物を見る目が養われ、真剣さが増すんだよね。自分で決めるからこそ、購入者が単なるコレクターではなく、お客様であり、友人になりうる。信頼関係が生まれる」60歳までは買わない、そう釘を刺されたベルネイム=ジュンヌ画廊からも口説かれた。だが、「(アンリ・)マティスもこんなに安く契約したんだぞ」と言われて断った。そんな説明をするような人に、自分が一生懸命描いた絵を預けることはできないと思ったからだ。「絵は、わが子のような存在。自分が気に入らない人とは結婚させたくないでしょ?逆に言えば、気の合う人であれば、喜んで絵を差し出しますよ」ロベールさんは松井の人となりについて、「何事も絶対にやり通す人間」と答える。裏を返せば、頑固。それゆえ、アンチ権威の態度は、いまなお徹底して変わらない。ここに、錦を飾れるはずの松井が、日本では不思議なほどに知られていない要因がある。「過去に何度も日本の有名画廊からオファーを受けたことがあるけど、僕は日本の美術界の杓子定規な考え方がどうしても好きになれない。わかりやすい例が、『美術年鑑』に掲載されている、サイズあたりの絵の価格。1号いくらという具合に、サイズによって価格が決められている。芸術家ファーストではなく、ビジネスファースト。つまり、アーティストよりも、値付けをする画廊や画商のほうが偉くなっているの」■日本人のアートの価値観を変えたい日本の美術界にアンチテーゼを唱える異端者─。それゆえ松井は、母国である日本ではペルソナ・ノン・グラータ、“好ましくない人”となる。「自分で価格をつけ、フランスで自由に生きている私の存在が面白くないんだろうね。僕が『レクイエム・ヒロシマ』という作品を描いたとき、平山郁夫さんに会ったことがある。彼は広島出身。会うなり、「おいキミ、原爆を体験していないのになぜ描こうというのだ?」と言われた(苦笑)。体験していなければ描いてはいけないの?しかも、“キミ”呼ばわり。四六時中、マウンティングをしている日本美術界を象徴するような言い回し。そんな偉ぶっている画家も、裏では画廊や画商に頭が上がらない。だから、僕は嫌気がさして、日本とは距離を取っていた」だが、予期せぬ日本での長期滞在が、松井の心境に変化をもたらす。「自分の経験をもっと伝えていかないといけないなって。それにフランスでけっこう頑張ってきたつもりなのに、『お前みたいな画家は知らない』って、まるでホラ吹きみたいに扱われるんだよ(笑)。悔しいじゃない」松井の心は、フランスにある。だが、国籍は日本のままだ。何度もフランス人から国籍取得をすすめられた。それでも、日本人であることにこだわった。コルシカ島で日本国籍の住人は、松井ただ1人。頑固。だからこそ、コロナ禍によって帰れなくなったこの1年半を、「天啓だったんだなぁ」と噛みしめる。松井に期待する声も大きい。’18年12月に誕生した、日本文化の新たな発信拠点となる神田明神文化交流館『EDOCCO』。ここに松井の作品を展示することを決めた同神社の名誉宮司である大鳥居信史さんもその1人だ。「神田明神は、伝統と革新を掲げています。伝統は不変を守ろうとするだけでは枯渇してしまいます。そこで 『EDOCCO』では、松井先生に、これからの伝統を作っていただく、革新の領域を担ってほしいとお願いしています」「スタイルを持たない僕にはぴったり!ありがたい」そう言って松井も破顔する。ピカソは、青の時代、キュビスムの時代、新古典主義の時代という具合に、1つのスタイルにこだわることを嫌った。その教えを松井も貫いている。「つねに変化をしていかないといけない。それが成長なんだよね。日本に滞在している間は、大きな絵を書くことができなかったから比較的小さなサイズの絵を描いていた。小さい絵だからこそ想像、空想する力が求められる。また、湿気の多い日本は、油絵を描いてもフランスのようには乾かず、発色のある色になりづらい。そこでフリーズドライをした野菜を粉末状にして油彩絵の具に混ぜてみた。日本古来の草木染めから着想したんだけど、日本にいることで新しく得たことも多いんだ」自らの革新を怠らない松井が、どうしても塗り替えたいことがあるという。「日本人のアートへの接し方」だ。「僕は子どもたちに絵を教えるとき、『利き手ではないほうの手で描いてごらん』と提案する。面白いもので、利き手ではないほうの手で絵を描くと、子どもたちはのびのびと絵を描き始めるの。利き手ではないから、誰しもうまく描くことはできない。そのため、絵に自信がない子でさえも、まわりを気にせず、自由に描こうとするの。これこそがアートの素晴らしさ。うまい下手や、周りの評価を気にしたりすると、人は自由さを失ってしまうんだ」大人であってもそれは同様だと付言し、「ときにはペンを利き手ではないほうで持つように、反対のことをしてみるといい」。そう松井は教える。「アートは心の癒しであると同時に、資産でもある。このバランスが大事。幾度となく戦火に見舞われたフランスでは、国が混乱に陥れば、紙幣は紙切れになる。そこでアートに価値を見いだした。ものの価値というのは、自分で基準を決めなければいけない。でも、日本ではお墨付きをもらわないと価値を見いだすことができない人が多い。それだと自分にとっての癒しと財産のバランスを欠いてしまう。自分の心が癒される所に価値があると自分で言い切れる。そういったマインドを伝えていきたいんだよね。審美眼が養われれば、よいアーティストもたくさん生まれると思うから」現在、松井の作品は、『EDOCCO』のほか、上賀茂神社(襖絵)、そしてホテルアークリッシュ豊橋で見ることができる。姉の千恵子さんは、「まずはたくさんの人に守男の絵を見てほしい」と願う。誰かがよいと言っていたからではなく、自分の感性で松井の絵と向き合ってみる。すると、いかに自分が、誰かの、何かの評価を気にしているか、気がつく。なぜ今まで私たちは、この画家を知らなかったのか。その問い自体が、われわれの常識や先入観を疑わせてくれるのだ。幾重にも重ねられた松井の絵。松井守男は、フランスで日本人の常識を塗り替え、戦い続けてきた。今度は、私たちがこの日本人の絵から学び、これまでの常識に、新しい常識を上書きする番だ。〈取材・文/我妻弘崇〉あづま・ひろたか ●フリーライター。大学在学中に東京NSC5期生として芸人活動を開始。約2年間の芸人活動ののち大学を中退し、いくつかの編集プロダクションを経て独立。ジャンルを限定せず幅広い媒体で執筆中。著書に、『お金のミライは僕たちが決める』『週末バックパッカー』(ともに星海社新書)がある。
2022年01月23日須合美智子さん撮影/矢島泰輔初心者からマニアまでトリコにする、いま注目の都市型ワイナリーが東京・御徒町にある。微笑みを絶やすことなく店を切り盛りする須合美智子さんは、ワインの世界では珍しい女性醸造家。しかもワイン造りに身を投じるようになったのはわずか6年前、45歳のときだったという。コネなし、知識なし、経験なしのパート主婦は、いかにして道を切り開いたのかーーその軌跡を追う。■気軽に立ち寄れるワイナリー日中の冷たい雨が上がったかと思いきや、再び雨脚が強まった12月18日の夕方17時。東京・御徒町の都市型ワイナリー『BookRoad(ブックロード)~葡蔵人~』にポツポツと人が集まり始めた。この日は毎月恒例、角打ちスタイルの「月いちバル」の開催日。20時までの3時間限定で、「オレンジデラウエア」や「富士の夢」など多種多様なオリジナルワインを、1皿300円のおつまみとともに1杯300円という手ごろな値段で楽しめるとあって、ワイン好きの老若男女が目をキラキラさせて集うのだ。床面積がわずか10坪ほどしかない店先に設置されたカウンターの前に立つのは、ワイン醸造家の須合(すごう)美智子さん(51)。’17年11月のオープン時からすべてを切り盛りしている。個性豊かなワインはもちろんのこと、ホンワカした雰囲気と柔らかい笑顔の彼女に惹きつけられ、来店する人も少なくない。千葉県市川市在住の今井さんは、開店当初からの常連客の1人である。「須合さんに最初に会ったのは、’17年の上野公園のお酒のイベント。ワインコーナーに彼女がいて、店をオープンさせたばかりだと聞いた。そこで『月いちバル』に足を運んだら、楽しくてハマった感じですね。毎回、ほぼ全種類飲みますけど、同じブドウの品種でも仕込むたびに味が違って興味深いです」と話し、バルでしか飲めない「アジロン2019」をじっくりと味わっていた。さいたま市在住の菅ひとみさんは今回が初参加。2日前に来店し、購入したというが、バル開催を聞きつけて再びやってきた。「10~11月ごろに近所の酒屋で『オレンジデラウエア』を見つけて飲んだところ、香りとスッキリした味わいが気に入り、醸造先を探してここまで来たんです。以前はドイツなどのワインをよく飲んでいましたが、“日本を応援したい”と国産に目を向け始めたときに出会ったのが、こちらのワイン。ブドウの個性を生かした香りと味わいが自分にはすごく刺さりました」彼女のような「おひとりさま女性客」はかなり多く、同日も女性比率が圧倒的に高かった。それだけ気軽に立ち寄れる空気が漂っている。ワインに詳しくないビギナーが困らないように、商品に合う食べ物の絵をラベルデザインに採用しているのも須合さんならではの工夫と気配り。細かい配慮とやさしさが心の奥底に染みてくるからこそ、一見さんが2回、3回と繰り返し訪れるのだ。通ってくれる人々に対し、須合さんは常にフレンドリーに接している。「おかえり!元気だった?」「ただいま~!」こんな微笑ましいやりとりも見受けられ、自分の家に帰ってきたかのような安心感を与えてくれる。都心にある隠れ家的ワイナリーが人気を博す理由がよくわかるだろう。「店名のブックロードは、葡萄と蔵と人がつながって、繁栄していけたらいいという思いで名づけました。ワインを飲みながらお客様がつながり、楽しみ、笑顔になっていただきたい。それが私のいちばんの喜びです」静かにこう語り、はじけんばかりの笑顔を見せてくれた須合さん。そんな彼女がワイン造りの世界に飛び込んだのは6年前、45歳のときだ。パート主婦から一念発起して醸造家の道を歩み始めた、驚きの人生をひも解いていこう。■おもしろそう!と思ったらすぐ動く性分三陸海岸を代表する都市のひとつであり、本州最東端の町としても知られる岩手県宮古市。2011年3月11日の東日本大震災では津波で大きな被害を受けた。今も復興中のこの地で、須合さんは1970年12月に生を享けた。家族はサラリーマンの父とパート勤務の母、3つ年下の弟。幼いころから活発で、野球好きの父が仕事から帰ってくると、毎日キャッチボールをするのが日課だった。三陸海岸でとれたカニやウニなどの魚介類、タラの芽など山の幸といったおいしいものの多い土地柄で育ち、味覚もおおいに鍛えられたという。小学校入学時に盛岡に引っ越してからも元気はつらつ。病気ひとつしなかった。両親からは「悪いことをしちゃダメ」と言われるくらいで、「やりたいことは伸び伸びやらせてもらえる環境で、ごく普通に過ごしてきた気がします」と、彼女は柔らかな笑みをのぞかせる。そんな中にも、今に至る行動力と積極性をうかがわせるエピソードがあった。小学6年生のとき、須合さんは児童会役員に自ら立候補し、選挙戦に打って出たのだ。「推薦責任者を立てて、画用紙に“(旧姓の)佐藤美智子”とデカデカと書いたポスターも作って貼り、体育館で演説会をしました。当時は1学年3クラスで120人くらいいましたから、6学年で700人超の生徒を前に壇上でスピーチしたことになりますね。動機は単にやってみたかったから。“学校をよくしたい”といった大層な考えがあったわけじゃない。おもしろそうと感じたから、すぐに動いた。それが自分なんです」と、彼女は言う。やがて中学、高校へと進むにつれ、看護師になる夢を抱くようになった。「真剣に考えていましたが、受験科目に苦手な理数系があり、断念せざるをえなくなりました。大学進学も考えていなかったので、就職しようと思い立ったんです」両親は岩手県内、遠くても同じ東北地方の仙台での就職を希望した。しかし、目ぼしいところがなく、少し視野を広げた。そこで浮上したのが、東京・台東区に本店を構える朝日信用金庫。銀行業務にはさほど興味はなかったが、「堅い就職先のほうが親も安心するだろう」という理由から選択し、無事に内定を得た。「東京は遠いな」と嘆く両親に申し訳なさを覚えつつ、須合さんはバブル絶頂期の’89年春に上京。女子寮で生活しながら、銀行に通う新たな日々をスタートさせた。「担当したのは預金係。窓口業務もやりました。当時はそろばんを使っていた時代で、1円合わないと最初からやり直しになったりして本当に大変でした。銀行の裏側を知れたことは楽しかったですね。平日は22時が寮の門限。仕事が長引いて遅れそうになると上司が電話で事情を説明してくれたんですが、寮監さんに嫌な顔をされるのが日常茶飯事でした」と苦笑する。模範的な若手行員生活を4年ほど続けたころ、窓口近くのATM両替機のところにやってきた1人の青年と目が合った。挨拶を交わし、何度か会話するようになったある日、こんな誘いを受けた。「今度、バーベキューがあるんだけど、一緒に行かない?」男性は近所の中華料理店の2代目である後継者。3つ上の未来の夫との出会いである。これを機に交際が始まり、1年ほどたったころ、プロポーズを受ける。「田舎の友達も何人か結婚しているし、今くらいのタイミングでお嫁に行くのは普通かな」と、すんなり寿退社を決意。いつか岩手に戻ってきてくれると信じていた両親は落胆したようだが、反対することなく、快く娘を送り出してくれた。「サラリーマン家庭で育ち、東京で5年働いて、23歳で結婚と、ここまでの私は平凡な人生を送ってきました。それに対して何の疑問も抱きませんでした」と、須合さんは若かりし時代の偽らざる本音を打ち明ける。■「自分らしい生き方」への思い義父母の営む中華料理店は常連客が多く、多忙を極めた。ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』に登場する『幸楽』のような家族経営。とはいえ姑に悩まされることもなく、義父母はやさしく接してくれた。店の手伝いも「嫁いだ以上、やるのは当たり前」と思っていたので、須合さんは毎日せっせと店に通い、注文を取り、ラーメンを運び、どんぶりを洗った。夫婦で一緒に働ける喜びを感じながら、順調な新婚生活のスタートを切った。’96年には長女・里緒さん、’99年には長男・圭吾さんが誕生。2人の子宝に恵まれた後も、保育園に預けながら中華料理店で働き続けた。あわただしい生活を送りながらも、おもしろそうと感じたらすぐに動く性分は変わらない。保育園のママ友・辻喜恵子さん(61)に誘われて始めたママさんバレーにも熱心に取り組んだ。「『竹町アタック』というチームで、みっちゃんは未経験者なのに、ものすごく頑張ってくれました。ポジションもレシーバーからアタッカー、セッターと全部こなしていましたね。運動神経がよく負けず嫌いで、上達も早い。最終的にキャプテンをやるまでになりました。練習や試合で納得いかないことがあれば、コーチや先輩にも平気でぶつかっていく。“これは違うんじゃないですか” “もっとこうすべきです”と正面切って意見を言うし、忖度も一切しない。その勇敢さは本当に頼もしいと感じていました」ここ一番でギアがグッと上がる須合さんの奮闘もあり、「竹町アタック」は下町家庭婦人杯という大会に台東区代表で出場するまでになったという。そのうえで、家族の面倒を見て、中華料理店の仕事もフルでこなしたのだから、体力と気力は想像を絶するレベルだったと言っていい。ハードな生活を10年あまり続けたころ、義両親の意向で家業の中華料理店が閉店。生活は大きく変化する。夫は外で働き、須合さんも近隣の病院で夕方から夜までの看護助手のパートに出た。もちろんママさんバレーも可能な限り、参加した。そんな2012年のある日、練習会場の近くにあった飲食店『地鶏城梵厨(ボンズ)』に立ち寄った須合さんは、ふと耳寄りな話を聞きつけた。「別店舗でランチ営業を手伝ってくれる人を探しているんですけど、誰かいないかな」と。同席していた辻さんに「あなた、昼は暇なんだからやっちゃいなさいよ」とすすめられると、須合さんはその気になり「やらせてください」と、すぐさま手を挙げていた。「梵厨の接客が好きだったんですよね。お客さんひとりひとりの性格や嗜好を瞬時に察知し、その人に合った対応をしていることがひしひしと伝わってきて、感銘を受けたんです。よく考えてみると、中華料理店での義母の接客もそうだった。“来る人みんなを家族だと思って接すればいいんだよ”と嫁いだころから言ってくれて、どれだけ救われたかわかりません。だからこそ、こういう店で働きたいなと感じた。運命のめぐり合わせでした」個人個人と向き合った丁寧な接客というのは、経営者である大下弘毅社長(43)のモットーでもあった。もともとホテルオークラで働いていた彼は’05年に有限会社K’sプロジェクトを起業。飲食店事業に乗り出した当初から「ホテルで学んだきめ細かい対応を居酒屋でも続けたい」と熱望。オークラのスタッフ数人を引き抜いたほどだった。須合さんは、その心意気に魅了されたのである。ちょうど子どもたちも中高生になり、子育ての手が離れた時期でもあった。結婚から長い年月がたち、「ひとり暮らしがしたい」という願望が浮かんでは消えていた。そんな彼女にとって、この出会いは大きな転機となった。「“自分らしい生き方をしたほうがいいんじゃないか”という思いは結婚生活を送る中で年々、高まっていきました。子どもたちにも“早く独立して家を出なさい” “自分の足で立って歩けるようになりなさい”と口を酸っぱくして言い続けていました。私自身は1度もひとり暮らしをしたことがないまま結婚し、妻として母として暮らしてきたので、自分の足で歩ける独立した人生への憧れが強かった。そのことを子どもたちにもしっかりと伝えたかったんです」それからは「梵厨」でランチタイムに働き始め、夕方には看護助手の仕事をこなした。数年後、「子どもたちが20歳になったら家を出よう」と決意を固めていた須合さんは、予定より早くひとり暮らしを実行に移した。大下社長がワイン事業に参入しようとしている話を聞いたのは、まさにそんなころ。国産ワインは輸入モノに遅れをとる時代が長く続いたが、’10年代に入ってブドウの品種や栽培法にこだわる造り手が増え、品質が一気に上がった。’15年には国内で栽培されたブドウだけを使って国内で造ったワインを「日本ワイン」と定める法律ができ、国際コンクールで受賞する製品も相次ぐなど、ステイタスは急上昇していた。こういった社会的背景も踏まえ、敏腕社長は「多くの人が楽しめるワインを世に送り出したい」と考えたのである。須合さんも、その考えに賛同。役員選挙に立候補した小学生のときのように「やってみたいです」と迷わず手を挙げた。当時45歳。ワインはたまにたしなむ程度で、ブドウの種類はもちろん、産地や銘柄もロクに知らない。そんな状態で醸造家になりたいと志願するなど「無鉄砲」と言われても仕方なかった。それでも、大下社長は「この人なら任せてもいいかな」と直感したというから、驚きだ。「実を言うと、最初は私自身がワインを造りたいと考えて、’’15年の1年間、長野県のワイナリーで修業していたんです。でも、別の飲食店経営や建設業など複数の仕事があり、社長の自分には難しかった。そこで一緒にやってくれる人を探そうとしたときに須合さんが“私にできることはありませんか?”と声をかけてくれました。彼女は店でも常にお客様第一で気配りしていたし、楽しんでもらおうとしていました。信頼できる人だとわかっていたので、ワイン造りを任せても大丈夫だと確信を持てましたね」(大下社長)この日を境に、須合さんはワイン醸造家として新たな人生の扉を開けることになったのである。■アポなし訪問したワイン研修迎えた’16年。パートから正社員になった彼女は臨戦態勢に入った。が、ワインを造ろうにも、勉強をする術もなければ、教えてくれるアテもない。都内の試飲会に出かけてみたが、丸々1本出されても飲みきれないし、テイスティングの目的すら果たせない。そこで、国産ワイン最大の名産地である山梨県勝沼町に赴くことを決意。約40軒あるワイナリーを自分なりに事前調査し、家族経営をしている『マルサン葡萄酒』をアポなしで訪問。試飲しながら世間話に花を咲かせた。そして2度目の訪問でこう切り出した。「東京でワインを造るんですけど、教えてもらえませんか?」予期せぬ打診に社長の若尾亮さんは面食らったが、「いいですよ。8月から来てください」と、いつの間にか快諾していたという。若尾さんが当時を振り返る。「ウチは家族4人とバイトの5人でやっている小さい会社。研修を受け入れる余裕もなく、過去に1人も取っていません。それに夏場は観光ブドウ園をやっていて、接客時にものすごいパワーを使う。負のオーラを漂わせる人とは一緒には働けないんです。その点、須合さんの話し方や接し方が明るく、プラスのオーラがあった。“この人なら大丈夫かな”と思えました。また僕自身、婿養子で12年前に別のワイナリーで一から修業した経験もあったんで、そこまで本気なら教えてあげてもいいなと感じた。即決でしたね」第一関門を突破し、須合さんはまずは安堵した。が、繁忙期には週2~3回のペースで勝沼に通わなければならなかった。ブドウ園は公共交通機関では行けない場所にあり、車の運転は必須だ。免許こそ持っていたが、都心暮らしでほとんど乗る機会のなかった彼女は奮起し、ペーパードライバー講習を受講。2~3日かけて教官とともに上野界隈を走り、首都高速にも乗り、スーパーの駐車場で車庫入れの練習に励んだ。そのうえで、指定された日の朝4時半にレンタカーを借り、おそるおそる中央道を走って、2時間半かけてマルサン葡萄酒の工場へ向かった。「最初は80キロ制限のところを50キロくらいで走っていたんじゃないかな」と本人も苦笑する。なんとか約束の朝8時前に若尾さんと合流。作業を開始した。ワイン製造工程を簡単に説明すると、ブドウを収穫し、工場に搬入してバラバラにするところから始まる。これをつぶし、搾って果汁にするのが第一歩。その後、樽に入れて発酵させ、一定期間熟成し、仕上げをしてから瓶に詰めるというのが一連の流れだ。マルサン葡萄酒の自社畑は4000平方メートル。1万7000本のブドウの木があり、「シャルドネ」「メルロー」「プチヴェドー」などの複数品種を栽培している。畑が広いと同じ品種でも日照時間や風の強さなど生育環境に差が出て、香りや甘みも微妙に異なってくる。畑のあちこちを回り、さまざまなブドウをとっては種までしっかりと食べ、味を確認し、仕込み方を考える若尾さんの一挙手一投足を目の当たりにした須合さんは、必死でメモに取り、動画に撮影し、見よう見まねでひとつひとつの仕事を頭に叩き込んでいった。仕込みの期間は8月~11月頭の約3か月。合計25万トンのブドウを連日、果汁にする作業を続ける。その間はワイン造りに10年以上、携わってきた若尾さんもナーバスになりがちだ。細かいことに神経を使ううえ、観光ブドウ園の仕事なども重なるため、研修生にいちいち説明することはできない。「最初は正直、でっかい仕事が増えたなと。受け入れなければよかったなと後悔したこともありました」と若尾さんは本音を吐露する。そんな空気を須合さんも察して極力、負担をかけないように気配りしつつ、情報をインプットしていった。仕込みが終わり、11~1月までは発酵・熟成期間に入る。その間も醸造家は特殊機器を使ってアルコール分や糖度や酸味、濁度など分析を続ける。須合さんはその時期も要所要所で車を走らせ、勝沼に通い、懸命にノウハウを体得した。翌年2月からは瓶詰めの作業に入る。これも身長158cmの須合さんのように小柄な女性にとっては、重労働にほかならない。盆地特有の寒さも重なり、かつて中華料理店でどんぶりを運んでいた彼女も堪えたに違いない。それでも「自分でワイナリーを切り盛りできるようになるんだ」と闘志を燃やし、決して弱音を吐くことなく作業を続けた。マルサン葡萄酒の1万本を超えるワインを出荷できる状態になるまで、無心で若尾さんを手伝ったという。全工程を終え卒業の段階を迎えた3月。須合さんは若尾さんに笑顔で送り出された。「何事も基本が大事。教科書に沿ったスタンダードなワイン造りを大事にしてください。応援してます。わからないことがあったらいつでも聞いてください。ただし、1日に電話は3回まで。メールは5回までですよ」と。須合さんは師匠の言葉を噛みしめた。「“トラブルが起きたときが大変だし、もう1年、ウチでやったらどうか”とも言われました。でも’17年11月にはブックロードのオープンが決まっていて、修業の傍らで店舗探しや開店準備も進めていたので、そうするわけにもいかなかった。泣く泣くお断りして、車を走らせ、東京に向かいましたね」■努力で成し遂げたワイナリー開所式師匠から学べることはすべて学んで、須合さんは帰京。勝沼を筆頭に長野や茨城のブドウ農家数軒と契約を進めるなど、前だけを見据えて突き進んだ。会社がリスクを冒して巨額を投じていることも、もちろん理解していた。ワイン造りには、ブドウをバラバラにする除梗機、つぶすためのプレス機、醸造用のステンレス製タンク4台など、数々の特殊器具が必要だ。その購入だけで多額の費用がかかる。御徒町の物件、店の内装、瓶やラベル、ブドウ入手も含めれば、トータルの投資額は相当な額に上るだろう。「ワイン事業はすぐに成果を挙げられるものではありません。10年間は認知度を高める期間で、それからやっと回収期間に入る。非常に長丁場のビジネスなんです」と、大下社長自身も神妙な面持ちで語る。本当に利益を出せるか否かは、彼女の双肩にかかっている。絶対に失敗は許されなかったのだ。ブックロードの仕込みは同年8月からスタート。「富士の夢」を造る日であれば、茨城県八千代町の契約農場に朝5時に出向き、2トンのブドウを16キロごとに計量。合計125ケースをトラックに積み込んで御徒町まで自ら輸送する。輸送時間やコストがかかるのは都市型ワイナリーの宿命だ。到着したブドウをアルバイトスタッフとともに店舗内に運び込み、狭さと格闘しながら茎を取り除く。さらに「醸し」と呼ばれる皮や種から渋みを抽出する作業を経て、果汁を搾り出し、タンクに入れる。その後の分析作業は昼夜関係なし。親友の辻さんは「寝食惜しんでワインにつきっきりで、前よりやせて心配になりました」と気遣った。猛烈な努力が報われ、11月には10種類の銘柄が完成。なんとか開店にこぎつけた。「開所式を開いたんですが、ほとんど記憶がないんです(苦笑)。うれしいというより、とにかくホッとしたという感じでしたね。同時にもっと頑張らないといけないと思いました」と、須合さんは4年前の記念すべき日を振り返った。彼女が願い続けてきた「自分の足で歩ける独立した人間」になったことを、大下社長も若尾さんも辻さんも認めたのは間違いない。■前進し続けたい女性醸造家として力強い一歩を踏み出した須合さん。だが、1回目が順調な滑り出しだったからといって、その後もコンスタントにうまくいく保証はない。天候不順が続けば、ブドウが思ったほど収穫できなかったり、甘みや香りが十分に出ないケースもある。オープン2年目の’17~’18年には案の定、トラブルに直面した。当時の状況を大下社長が説明してくれた。「『サンジョベーゼ』の仕込みをした後、タンクで発酵させている間に異臭が出て、須合さんが困り果ててしまったんです。朝方まで一緒に様子を見て、いろいろ手を尽くすんだけど、解決策が見つからない。“どうしよう、どうしよう”とオロオロして涙を流す彼女の姿を初めて見ました。仕方ないので私自身も1000本分の商品化をあきらめて、自分たちで消費することにしたんです。その後、しばらく時間を置いたら味が変わり、少し飲める状態になった。この時点で欲しい方にお知らせして、500本は売り、残り半分はわれわれで飲みました。“ワインは生き物”ですし、こういうこともある。私も須合さんもあらためて再認識した出来事でした」若尾さんによれば、異臭というのはよくあるトラブルのひとつだという。勝沼のワイナリー40社では頻繁に勉強会を開いてさまざまな情報交換をしているが、須合さんから問い合わせがあればネットワークに当たって解決策を見いだし、伝えたことも何度かあったようだ。「実際、私なんかも何千本というレベルのワインをダメにしたことがありました。生き物を扱う以上、ミスは起こりうる。お客さんには謝ったり回収したりとその都度、対処法を考えていくしかない。彼女もトライ&エラーを繰り返して年々タフになり、たくましくなっているなと感じます。この仕事はそうやって成長していくしかないんですよ」(若尾さん)師匠の力強い言葉を糧にして、苦難を乗り越えた須合さんは、3年目の20年には高品質の国産ワインの証である『日本ワイナリーアワード』で3つ星を獲得。4年目を迎えた今は、ブックロードでは「富士の夢」「アジロンダック」「甲州」など7種類のブドウを駆使して、新たなワインを次々と発売している。販路も順調に拡大。今では全国100以上の百貨店や小売店で取り扱いされている。辻さんも「伊勢丹や東京駅の大丸でみっちゃんが造った『アジロン』を見つけたときは本当に感動しました。自分も喜んで飲んだし、プレゼントもしました」と声をはずませた。さらに、’20年には台湾でも取り扱いがスタート。「海外で自分の造ったワインを飲んでもらえるなんて夢のよう」と、須合さんも喜んでいる。そのすべては質の高いブドウがあってこそ。「ワインは9割9分がブドウ次第」と若尾さんも強調するが、香りのないブドウからいい香りは出ないし、糖度の低いブドウから甘みが出ることもない。常に味わい深いワインを作り続けるためにも、ブドウを育ててくれる契約農家との良好な関係は欠かせない。須合さんは頻繁にコンタクトを取り、可能な限り足を運び、感謝の気持ちを示す。真摯な姿勢で得た信頼関係は大きな財産になっている。一方で複数の自社農園も確保。’22年1月からは東京・八王子の新農園を稼働させ、3~4年後にはリアル東京産ワインの生産を目指す。’20~’21年にかけては「ワイン造り体験」も実施。15万円で1樽造る参加型イベントは参加者に大好評だった。生産者の「顔の見えるワイン」の素晴らしさを伝えるべく、彼女は工夫を凝らし、貪欲に走り続けていく覚悟だ。「何もないところからブックロードを立ち上げ、ひとつの形になったことで、もっと先へ進みたいという意欲と勇気が湧いてきたんです。今、あらためて感じているのは“1回きりの人生、やりたいことをやったほうがいい”ということ。数年前に念願だったひとり暮らしを始めましたが、ワイン造りを続けている以上、私の周りにはいつもたくさんの人がいる。関わってくれる人のためにも、さらに前進し続けたいと思っています」自立した女性として邁進する須合さんを、20年来の友人・辻さんは心から誇りに感じているという。「私自身も55歳で早期退職し、お好み焼き店を母たちと開業したんですが、人間、何歳でも再出発できると思うんです。みっちゃんや私を見たママさんバレーの若い後輩も“何歳だからダメってことはないですね” “いくつになってもやれると自信になる”と言ってくれています。醸造家としての今のみっちゃんの姿は、彼女の勲章。これからも身体に気をつけて、素敵なワインを造り続けてほしいと願ってます」(辻さん)1人、また1人と応援してくれる人を増やしている須合さんとブックロード。その存在がより多くの人に知られ、味わい深いワインが日本を飛び越え、世界中に広がっていく日が訪れることを強く祈りたい。〈取材・文/元川悦子〉もとかわ・えつこ ●ジャーナリスト。長野県松本市生まれ。サッカーを中心に、スポーツ、経営者インタビューなどを執筆、精緻な取材に定評がある。『僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン)ほか著書多数
2022年01月09日家森幸男撮影/渡邉智裕健康長寿と食生活の関係性を研究するため、世界中の人々の血液と尿を採取。研究のためなら命がけで少数民族の村にも入る調査スタイルで、いつしか“冒険病理学者”と呼ばれるようになった。大ブームを巻き起こしたあのカスピ海ヨーグルトを日本に持ち帰ったのも家森さんだ。研究ひと筋の人生を支えてきた家族の思いと、情熱の原点に迫る―。■現地調査のパイオニア医食同源というけれど、世界中を飛び回って、それを立証した研究者がいる。病理学者・家森幸男(やもりゆきお)さんだ。御年84歳。現在も京都大学名誉教授、武庫川女子大学教授をはじめ、数々の要職を兼任。紫綬褒章などいくつもの勲章を受章した、日本屈指の研究者である。高名な先生ゆえ、近寄りがたい雰囲気かと思いきや、京都のオフィスを訪ねると─。「えらい遠いところから、ありがとうございます」拍子抜けするほど、屈託のない笑顔で迎えてくれる。時折交じる京都弁にも、やさしい人柄がにじむ。それにしても、80代とは思えない若々しさだ。「ヨーグルト効果ですか?」、水を向けると、「きなこやじゃこを混ぜて、毎朝食べてます」と家森先生。日本でもおなじみのカスピ海ヨーグルトは、長寿で知られるコーカサス地方を調査したとき、家森先生が“種菌”を持ち帰ったことが始まり。自宅で増やして食べていたが、知人に分けると「粘り気のある面白いヨーグルトで、身体にいい」と評判が広まり、日本中でブームになった。「ヨーグルトに限らず、世界各地には、昔からの食文化が根づいています。長寿の地域と短命の地域では、食生活にどんな違いがあるのか。現地の人々から血液や尿を採らせてもらいながら、健康状態と食事の関係をひもづけていく。そういう調査を長年、続けてきました。世界中の人が面倒なことに協力してくれたからこそ、私には今、研究データという宝の山がある」30年にわたり、訪れた国は25か国、61か所。1万6000人もの人を調査した。それも、都市部だけでなく、アフリカ、インド、チベットの奥地に暮らす少数民族のもとにも、積極的に足を運んだ。「アフリカのマサイ人を最初に調べたときは、血圧を測りながら、私の血圧が上がりっぱなしでした(笑)。みなさん、槍を手放さないので、刺されたらいかんと。チベットでは鳥葬といって、亡くなった人を鳥に食べさせて弔う習わしがありますが、ご遺体を調べるために近づいたら、石を投げつけられまして。あわてて日本に電話して秘書に頼みました。調査チーム全員分の保険をかけてくれ!と」まさに、命がけの調査だが、その口調に悲愴(ひそう)感はみじんもない。「家森先生は、当時は誰もやっていなかった現地調査を、先陣きって始めたパイオニアです」そう話すのは、琉球大学大学院医学研究科第二内科教授・益崎裕章さん(58)。「私が京都大学大学院時代にお世話になった教授が家森先生で、当時から学生にとても慕われていました。高血圧研究の世界的権威ということもありますが、何より人間として魅力的だからです。世界を回る調査は、ご苦労も多かったはずです。でも愚痴ひとつ言わない。それどころか、苦労の過程も楽しんでおられる。あのとおりの明るい人柄ですから、行った先々で友達をつくり、ネットワークを広げていく。そのパワーは驚嘆に値するほどです」インドのバラナシにたったひとりで調査に行ったときは、「天ぷらの屋台で使い古した油にあたって、腸が動かなくなった」と大ピンチに。それでも最後まで調査をやりとげ、帰国後は空港から病院に救急搬送されたという。「水一滴受けつけないから、重度の脱水状態で、脈拍は300を超えてました。いやあ、危なかった」大まじめに振り返るものの、「成分を調べないかんと、屋台の油は持ち帰りました」と当然のようにつけ加える。骨の髄まで研究者なのだ。体調が戻れば、懲りることなく新たな調査に出発する。そんな家森先生は、いつしか“冒険病理学者”と呼ばれるようになった。■京大を首席で卒業し、学生結婚1937年、京都生まれ。医師の父親と教師の母親のもと、3人きょうだいの次男として育った。「私は日華事変の直後に生まれまして、父はすぐに軍医として中国に徴兵されたそうです。以来、6年間、戦地の父に代わって、母が女手一つで育ててくれました」戦時下で食糧が乏しく、栄養状態も悪い時代。ジフテリアや疫痢、コレラなどの感染症で命を落とす子どもが後を絶たなかった。家森先生も、生後間もないころに感染症を患い、命を落としかけたという。「肺に膿がたまる、当時は助からん病気でした。母は、なんとかせなと駆けずり回り、ようやく勤務先の学校に保健指導で来ていた京都大学のお医者さんにたどり着いたんです。それで、ドイツから入った試薬を使ってみましょうと。このお薬が効いて、命拾いできました」母親は折に触れ、命の恩人の医師の話、医学の素晴らしさを家森少年に聞かせた。「医者になって、人を助けたい」、少年はごく自然に医学の道を志し、初志貫徹で天下の京都大学医学部に合格した。それも、「入試のときに2番だったのが悔しくて、首席で卒業した」ほどの、頭脳明晰ぶりで。学業だけでなく、大学、大学院時代は、馬術部に所属し、キャプテンも務めた。そして、ここで運命の出会いを果たす。「私の命の恩人である、お医者さんのお嬢さんが入部してきたんです。それが、うちの家内です」1960年代の当時、最難関の京都大学に女性が入学すること自体珍しい。馬術部でも紅一点の存在だったという。妻で医師の、家森クリニック理事長・家森百合子さん(80)が話す。「当時の馬術部は、オリンピック選手を輩出するほどで、指導も兵隊さんの馬術みたいにスパルタでした。女性部員はみな、落馬すると怖がってやめてしまったんです。でも私は、男とか女で線引きされたくなかったので、朝から馬の寝藁(ねわら)を準備する力仕事も平気な顔でやってましたね」負けず嫌いで、自立心旺盛。そんな百合子さんに魅かれたのは、偶然目にした献身的な一面だったと、家森先生が照れながら話す。「馬術部は男所帯で、宿直室の布団もボロボロでした。それを家内がせっせと繕っていたんです。その姿を見て、まあその、なんといいますか、結婚するならこの人だと」一途な思いは百合子さんに届き、家森先生が大学院を卒業するころに結婚した。百合子さんに決め手を問うと、「そうですね」、しばし考え、ざっくばらんに答える。「誠実さ。それから、並外れた研究への熱意ですね」そう、研究に明け暮れる家森先生は、誰よりも心強い理解者を得たわけだ。家森先生が話す。「3人の子どもにも恵まれましたが、私はまったく子育てをしていません。脇目もふらず研究に没頭できたのは、家内のおかげです」■研究と開発に没頭する日々病理医として、京都大学の病理学教室で研究を始めたのは、大学院を卒業後、1年間のインターンを終えたころ。「高度な医療を尽くしても、担当した患者さんは次々と亡くなりました。厳しい現実を目の当たりにして、たった一つの病気でも、“かからないための予防”に力を注ぐことで、人助けができないかと考えたんです」当時、日本人の死因の1位は脳卒中だった。祖父母もこの病気で亡くした家森先生は、脳卒中の予防に焦点を当てた。「それで、手始めに動物実験で使う、脳卒中ラットを開発しました」さらっと言うが、このラット(ネズミの一種)の開発だけでも、10年を費やしたほど。道のりは険しかった。長女で医師の家森クリニック院長・岩見美香さん(54)が、幼かった当時を振り返る。「父は研究室で寝起きして、ほとんど家に帰ってきませんでした。今でも覚えているのは、夏の大文字焼きの送り火を病理学教室の屋上で家族で見た帰りに、父の研究室に寄ったこと。何千匹ものネズミが入ったケージが並んでいて、まだ小学校にも入っていなかった私は、父はネズミのお医者さんだと思ったほどです。今と違い、オートメーションで温度管理ができない時代、膨大なネズミの飼育だけでも、父の苦労は大変なものだったと思います」冬場は早朝4時にオイルヒーターを確認し、夏場は飼育小屋のトタン屋根に水を撒く。飼育員のようにラットとの同居生活を送りながら、ようやく世界初となる、“遺伝的に脳卒中を100%起こす”ラットをつくりだした。さらに、島根医科大学に移ってからは、この脳卒中ラットを使って、「食と脳卒中」のメカニズムを突き止めた。「このラットに1%の塩分を与え続けると、100日以内に脳卒中になります。ところが大豆や魚などのタンパク質を与えると、見事に脳卒中が減りました。つまり、遺伝で100%脳卒中になるラットでも、食事によって発症を防げるとわかったのです」満を持して、実験の結果を学会で発表した。しかし、反応は冷たいものだった。「それはネズミの話で人間には当てはまらないと。むろん、人体実験で脳卒中を起こすわけにはいきません。そこで、WHOの専門委員会に、脳卒中予防のために、世界中の食と健康の関係を調べたいと提案したんです」WHO(世界保健機関)は強い関心を示し、1983年に調査は承認された。ところが、大きな壁が立ちはだかった。「WHOから出された条件のひとつが、調査費の100万ドルを日本で負担することでした。これには参りました」当時、1ドルが280円の時代。100万ドルは2億8千万円という大金だった。それでも家森先生は、あきらめることなく、全国を講演して回り、調査の必要性を訴えた。「どれだけ歩いたことか。靴、3足に穴があきました。そのかいあって、だんだんみなさん興味を持ってくださって。講演会などで、コーヒー1杯程度の会費を払ってくれたんです。おかげで、2年間で1億円以上が集まりました」同時進行で、健診で使う、採尿カップの開発も行った。「尿には、塩分、マグネシウム、カリウム、タンパク質など、食べたものの成分がすべて排出されます。正確に測定するために、丸一日分の尿の採取が必要でした」とはいえ、一日分の尿となると、かなりの量になる。そこで、試行錯誤の末に完成したのが、「ユリ(尿)カップ」。プラスチック製の容器に排尿し、付属のボタンを押すと、40分の1の量が底にたまる仕組みだ。残りの尿は捨てるので、ラクに持ち運べる。着々と準備は整い、残すは調査資金のみ。目標額には遠く及んでいなかった。ところが─。「神風が吹いたんです!」家森先生が身を乗り出す。「円高が急速に進み、1ドル150円になって。一気に目標額を達成できたんです!」こうして、世界を股にかけた調査がスタートした。1985年、家森先生、48歳のときだ。■いざ!世界の食と健康調査へ世界調査の旅は、長寿で知られ、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス地方のグルジアから始まった。「海抜が1000メートル以上もある高地で、冬場は気候が厳しく、塩分の多い保存食に頼っていました。なのに脳卒中が少なく、100歳以上の元気なお年寄りがごろごろいる。なぜや?調べてみると、野菜やくだものをどっさりとることで、カリウムや食物繊維が塩の害を消しているんやとわかりました」家森さんの調査は、「なぜや?」の問いに、答えを出す旅でもあった。「中国のウイグル自治区では、なぜ種族ごとに、長寿と短命に分かれているのか。ネパールのチベット人は、なぜ突然死が多いのか。現地に行って、食事と健康状態を調べることで、その理由を突き止めていったわけです」調査方法は、大きく分けて2つ。現地の人の食生活を聞き取る。そして、健診を行う。健診は、食生活の影響が出始める50代前半を対象に。血圧測定、採血、24時間分の採尿を行った。「調査が順調に進んだのは、家森先生の人柄があってこそ」、そう話すのは、調査チームの一員として同行した、福井県立大学生物資源学部教授・村上茂さん(64)。「家森先生は現地に到着すると真っ先に、地域の代表者や医師会に挨拶に行き、協力をお願いしていました。誠実に筋を通すだけでなく、コミュニケーション力も実に高い。ブラジルのお酒の席では、お土産に持って行った阿波踊りのはっぴを着て、現地の関係者と楽しそうに踊りだして。こうやって信頼関係をつくることがスムーズな調査につながるのだと感じました」この性格ゆえ、現地の家庭でも歓迎された。もっとも、「困ったこともあった」と、家森先生は笑う。「遊牧民のカザフ人とはテントで車座になって食事しましたが、お客さんやからと羊肉のいちばんええところを振る舞ってくれて。ところがこれが、10センチもある座布団みたいな脂の塊。断れないから死ぬ思いで食べました(笑)」中国・広州ではコオロギやゲンゴロウをありがたく食し、チベットでは塩とバターたっぷりの“高血圧のもと”のようなお茶を死ぬ気で飲んだ。「文化も食習慣も違う地域の人と親しくなるには、相手がおいしいとすすめてくれるものを、おいしそうに食べるのがいちばん。そうやって親しくなることで、気持ちよく調査に協力してもらえます」採取した血液と尿は日本に持ち帰り、研究材料にするだけでなく、結果を必ず被験者に報告した。結果がよくない地域には、改善策を提案することもあった。「チベットは塩漬けの食生活のため、健診した4割の人が200を超える高血圧でした。突然死が多いのは、脳卒中が原因と考えられました。脳卒中ラットの研究では、魚に含まれるタウリンで高血圧が改善しました。同じ研究を、この地域で試せないかと」調査は、ネパールのヒマラヤ登山口にある小さな山村で行われた。同行した、前出・村上茂さんが話す。「その村は標高3400メートルの高地にあり、空気が薄いので20メートルも登ると息が切れるほどでした。帰りは悪天候で医療機器を乗せたヘリが飛ばず、3日も足止めされたのですが、食料や水も乏しい中、家森先生は電気も通っていない部屋で村長さんと酒を酌み交わしていました。何があっても動じない。タフな精神力があるから、冒険家のような調査ができたのだと思います」船便で送った医療機器が別の港に陸揚げされたり、採取した血液を帰りの空港で没収されたり、トラブルは尽きなかった。それでもへこむことなく、乗り切れたのは─。「大変な思いをしたぶん、充実感もひとしおです。ネパールの調査では、魚介類に多く含まれるタウリンを2か月飲んでもらって、見事に全員の血圧が正常値に下がった。こういう結果が出ると、苦労も吹き飛ぶわけです」■マサイ人の調査は命がけ!世界各地を回った中でも、特に思い出深いのは、マサイ人との出会いだという。「マサイ人は強健で、高血圧の人がいないと聞いていたので大変興味がありました。ただ、広大な範囲を遊牧しながら移動していることも多く、簡単には接触できません」ところが、幸運に恵まれた。1986年、タンザニアの田舎町で健診を行っていたときのこと。武者修行で故郷を離れたマサイの青年2人と偶然に出くわした。「彼らが健診の様子を興味深そうに見ていたので、血圧を測ってあげると、たいそう喜んで。“これはすごい!マサイの村にも来んか”と定住する村に案内してくれたんです」青年たちから事情を聞いたマサイの首長は、意外にもあっさりと健診を許可した。少人数だが、血液と尿を採取して、持ち帰ることもできた。ところが、翌年のこと。調査結果を持って、再び訪問したときに問題が起きた。「前回の調査で通訳を務めた人が、“絶対行くな、マサイの人は、あの健診のあと憤慨していた”と言うんです。なぜなら、わけのわからん日本人が、自分らの血液を採って、黙って持ち帰ったと。マサイ人にとって血は魂です。採血のあとに、親や子が死のうものなら、“あのとき魂を抜かれたせいだ!”と仇討ちされてもおかしくない。槍でひと突きされたら命はないと」むろん、すごすごと引き返すわけにはいかない。家森先生はよくよく考え、決死の覚悟でマサイの村に入った。首長は怪訝な顔で迎えた。その手には槍が握られている。恐怖で身がすくんだ。それでも、家森先生は果敢に話を切り出した。「前回のマサイ人の検査結果だけでなく、世界と比較したデータを見せたんです。ひと目でわかるグラフを。それで、マサイ人は塩の摂取量が少なく、血圧の値も素晴らしいと説明しました。ピラミッド型になったグラフの頂点を指して“この山はキリマンジャロや!マサイが世界のトップ!マサイ・イズ・ナンバーワン!”と精いっぱい伝えました。そうしたら、首長がニコーッと笑って、“明日から村の全員をやれ!”と。もう、全身から力が抜けました。いやあ、うれしかったですね」首長も、世界のトップだと褒められて、誇らしかったに違いない。なんと愛用している槍を家森先生にプレゼントしたほどだという。こうして十分なサンプルを持ち帰り、分析した結果は、驚くべきものだった。「高血圧の人はほとんどいないし、コレステロール値も低い。まさに健康体そのものでした。彼らの食生活には“塩”が存在しません。ミルクやヨーグルトを何リットルも飲んで、そこに含まれる自然の塩分を取り入れていたのです。しかも、食物繊維を補うために、“ウガリ”というトウモロコシの粉を混ぜて飲む。実に理にかなった食生活をしていました」しかし、強健のマサイ人は、決して長寿ではないという。「マサイ人は、ひょうたんにミルクと牛の血を入れて飲む習慣があります。栄養満点で、女性や子どもが優先的に飲むのが掟です。お客さんやからと、私もすすめられましたが、これだけは断りました。牛の生き血を飲むと、狂牛病など感染症にかかる危険があります。マサイ人が長寿でないのは、感染症で亡くなるリスクが高いからです」その土地ごとに食文化をすくい上げ、丁寧に調査を続けること30年。移動距離は、地球3周分にもなった。「調査でわかったことは、食塩の摂取量が少なく、大豆や魚、乳製品、野菜、くだもの、海藻をよく食べる地域では、脳卒中や心臓死が少ない。長寿だということです。そう、脳卒中ラットの実験と同じ結果が出たわけです」節目ごとに学会で発表したデータは、説得力を持って受け入れられた。そして、ここが家森先生らしいのだが、全国各地を回り、お世話になった人々にも報告を欠かさなかったという。「コーヒー1杯分の会費を納めてくれた方々は調査の行方を気にかけてくれていました。きちんと報告することが、恩返しになりますから」■妻の理解で全収入を研究費に家森さんの昼ごはんは、いつも愛妻弁当だ。「今日は、これですね」、スマホで撮った写真を見せてくれた。焼きサバ、煮豆、卵焼き、きのこ類、蒸しキャベツなど15~20品目。玄米ごはんにはとろろ昆布がのっていて、栄養バランス満点。実においしそうだ。「お弁当は主人と2人分を、毎朝5時半に起きて作ります。それから30分、ウォーキングするのが日課です」そう話すのは、妻の百合子さん。夫婦で歩くのかと聞けば、「一緒はダメ。自分のペースで歩かないと運動になりませんから」ときっぱり。結婚から55年─。夫婦は、人生の道のりも、自分のペースで歩いてきた。家森さんが話す。「家内には感謝しています。子どもたちを育て、父や母の介護も11年にわたってしてくれました。それもお医者さんしながら。おかげで私は、給料を全部、研究に使えました」思わず、「全部!?」と聞き返すと、「えへへ」と照れ笑いを浮かべ、「事前調査の旅費など、お金はいくらでもかかりますから」と屈託ない。驚くことに百合子さんも、「それが逆によかった」と、前向きにとらえているのだ。「子育ては主人の母や私の母、お手伝いさんなど、6人の助っ人に協力をお願いして。たくさんの手で育てられたおかげで、子どもたちはいろんな経験をさせてもらいました。私自身も、お手伝いさんを雇うには勤務医のお給料では足りないので、休みの日は保健所や病院で健診のアルバイトをさせてもらい、多くの出会いに恵まれました」中でも、先輩に教えてもらい参加した、ボイタ法の講習会では、「すごい衝撃を受け、これ絶対やりたい!」と心を揺さぶられたという。ボイタ法は、当時ドイツから入ってきたばかりの脳性麻痺の運動障害に対する治療法。小児科医の百合子さんは、この出会いを機にボイタ法の勉強と臨床経験を重ね、日本で第一人者となっている。「本場のドイツで直接先生から指導を受けたいと、主人が共同研究でオランダに行くのに合わせ、2か月留学したこともあります。まだ小さい子どもを主人のお母さんに預けましたが、お母さんも主人も理解を示してくれて。ほんと、ありがたかったですね」現在、百合子さんは開業医として発達障害児を対象に、リハビリを中心とした治療を行っている。その話題のなかで、「これ、自閉症のお子さんが撮った写真なんです」、1冊の写真集を取り出した。百合子さんが話す間、ひと言も口をはさまなかった家森先生が、写真集をのぞき込む。「自閉症の子は、いいところをクローズアップすることで、自己認識が変わる、つまり自信がつくんです」百合子さんの説明を聞きながら、家森先生は写真をじっくり見て、時折「ほーう」と感心したり、「これなんかすごくいい」と、静かに感想を口にする。その姿からは、言葉にしなくとも、妻の仕事への敬意が感じられた。前出・長女の岩見美香さんが話す。「きっと父は、好きなように泳がせてもらったんだと思います。母は、夫や父親の役割をいっさい求めませんでしたから。でも、母も子育てしながら、自分のやりたいことを貫いて、結果を出してきた。苦労して研究してきた父は、母の大変さを誰よりもわかっているんですね。お互いの仕事を認め合える、娘から見てもいい夫婦だと思います」■頑張らなくていい食育を指導ファストフードにコンビニ弁当─。便利になった食生活と引き換えに、失うものは大きいようだ。長年、調査を続けてきた家森先生は、近代化による健康長寿の崩壊を目の当たりにしてきたと話す。「長寿で有名なアンデスの山村では、健診に行くたび、肥満と高血圧の人が増えていました。アメリカ人の別荘地になり、食習慣がすっかり変わってしまったんです。もう長寿地域の面影はありません」強健のマサイ人の村も、文明に染まっていた。「村はすっかり観光地化され、マサイ人は食塩の味を知ってしまいました。焼いた肉を塩で食べればおいしいですからね。残念ながらコレステロール値が上がり、高血圧の人が増えています」日本も他人事ではない。顕著な例が、沖縄県だという。「かつて沖縄は、日本でトップの長寿県でした。それが、2000年に47都道府県中、男性が26位に滑り落ち、2010年には30位まで転落した。基地があるので、アメリカの食文化の影響を受けやすかったことが原因です」危機感を募らせた家森先生は、2019年に『元気沖縄プロジェクト』を発足。2040年までに、沖縄の長寿を取り戻す活動を始めた。調査を実施した、前出・琉球大学の益崎裕章さんが話す。「次世代の健康長寿を育てる目的で、沖縄県内の学童期の子どもを対象に健康調査をしました。その結果、外食やコンビニ食が多い子は肥満度が高く、生活習慣病予備軍になり始めていることがわかりました。しかし、私たちはこの結果を悲観することなく、逆にチャンスだととらえています。学童期から食生活を見直すことができれば、将来的に健康長寿県として復活できると考えるからです」さらにもう一つ、興味深い結果が出たと益崎さん。「検査は、月曜日と木曜日の朝一番の尿を採取する方法で行いましたが、明らかに木曜の結果がよかった。これは給食の影響です。1日1回でもバランスのいい食事をとることは意味があるわけです。調査の結果を受け、家森先生は沖縄だけでなく、全国を回って食育の大切さを伝えています。あのとおり、先生の言葉は説得力がありますからね。波及効果が高いんです」『世界健康フォーラム』では、毎年パネラーを務め、昨年はオンラインで5000名が視聴した。今年5月には、『遺伝子が喜ぶ「奇跡の令和食」』(集英社インターナショナル)を出版。学会や講演会、著作物で積極的に発信を続ける。家森先生が話す。「どういう食生活をしたらええかを知ることは、言ってみれば病気を予防する“知識のワクチン”になります。塩分を控え、和食中心の食事を1日1食、心がける。私も1日の中で理想的な食事は、家内のお弁当だけです。それでも、このとおり、血圧もなんとか正常で大きな病気とも無縁です。人生100年時代を元気に生き抜くためにも、これからも食の大切さを伝えていくつもりです」2時間半に及ぶインタビューの間、水も飲まずに熱く語る。知識の豊富さと使命感の強さは舌を巻くほどだ。「1日、何時間くらい研究のことを考えてますか?」、思わず尋ねると、「そうですね、寝てる時間以外はずっと」、ちょっと照れながら答える。そのやりとりを横で聞いていた妻の百合子さんが、タイミングよく口をはさむ。「この人から研究を取ったら、なーんにも残りません。昨日まで研究してて、今日亡くなったくらいでちょうどいいんです(笑)」まさに、生涯現役!84歳の冒険病理学者は、枯れない好奇心で、前へ、前へと進み続ける。〈取材・文/中山み登り〉なかやま・みどり ●ルポライター。東京都生まれ。高齢化、子育て、働く母親の現状など現代社会が抱える問題を精力的に取材。主な著書に『自立した子に育てる』(PHP研究所)『二度目の自分探し』(光文社文庫)など。大学生の娘を育てるシングルマザー。
2021年12月25日堀之内九一郎さん撮影/齋藤周造総合リサイクルショップの経営で大成功を収め、人気番組『¥マネーの虎』の名物社長として一躍有名に!何度も倒産を経験しながら不屈の精神で這い上がった波瀾万丈な過去を持つ社長は、コロナ禍でも新たな挑戦と中古業界の改革に燃えていた。元妻との息子、元恋人やその夫とも良好な関係を続ける、物も人も「捨てられない」独特の人生観とは―。■9人兄弟の一人息子で可愛がられた幼少期「見てください、この洗濯機の排水ホース。めちゃくちゃきれいでしょ!」排水が通る内側が見えるようにホースを持ちながら、そう話すのは、静岡県浜松市に本社がある、総合リサイクルショップ「創庫生活館」代表の堀之内九一郎(きゅういちろう)さん(74)だ。店内奥の作業場には中古の洗濯機が所狭しと並んでいるが、ドラムやホースといった部品が取りはずされている。「お店に陳列する前に、全部きれーいに掃除しますから。ドラムもほら、ぴっかぴかでしょ。破損した部品があれば、きっちり取り替えますよ」取材したのは10月だったが、半袖のTシャツとデニム。ロッカーのようないでたちの堀之内さん。かつては人気テレビ番組『¥マネーの虎』の“虎”(出資者)を務めたプロ経営者だ。毎回、やりたい事業をプレゼンする人が出演し、事業家たちがこれぞという人に出資する番組。堀之内さんは出演回数が最多だった。現在、全国に直営店19店舗、フランチャイズ店80店舗を持ち、年商は6億円にのぼる。最近は、社内にスタジオを設け、自身のYouTubeチャンネルを更新する。一見、順風満帆に見える堀之内さんだが、不遇の時代があった。自殺を考えるほど借金まみれになり、一時はホームレス同然の状態だった。どのようにどん底から這い上がったのだろう。◆◆◆堀之内さんが生まれたのは、戦後間もない1947年10月。鹿児島県鹿屋市である。太平洋戦争中は特攻隊の基地があり、多くの若者がここから飛び立ち敵の軍艦などに体当たりし、命を落とした。9人きょうだいの末っ子。9人目に待望の男が生まれたので、「九一郎」と名づけられた。菜種油などを作る製油所を営む父親は一人息子を可愛がった。「真冬でもオムツも全部はずして素っ裸で抱いていたみたいです。素肌で温めてあげたいと思っていたんでしょうね」わるさをしても叱られることがなかった。幼いころから機械いじりが大好きで、当時高級品だったラジオや自転車を分解してそのままにしても、おとがめなし。手先が器用で、なおかつ機械が動く仕組みに興味があったのだ。小学5年生の夏休みの宿題には忘れられないことがあった。自ら切り出した木でお盆を作り、盆の真ん中には写実的な海老の絵を描いた。自信満々の作品だっただけに、先生の言葉に耳を疑った。「お前の作ったもんじゃない。大工さんに作ってもらったんだろ」と叱られたのだ。がっかりして、ことの顛末(てんまつ)を父親に話すとこう褒められた。「それはよかったな。プロが作ったみたいだと言われる、そんな名誉はなかなかない」それを聞いて、自分の腕はすごいのだ、俺はできると「自信」を持てるようになったという。この自信が、その後の堀之内さんを支えていく。高校は機械科のある県立鹿屋工業高校を志望する。先生に「絶対に無理だ」と言われたが猛勉強をして合格した。高校卒業後は、大阪の堺化成工業に入社。得意の機械メンテナンスの部署に配属され、やりがいを感じて仕事をしていたのだが、4か月後、父親が亡くなる。急きょ実家に戻り家業を継ぐことになった。家業は製油所だけではなく、雑貨店、数百頭はいる養豚所も営んでいた。「ただ、私の夢は鉄工所を開くことでしたからね。製油所も養豚も面白みを感じないし、しんどいだけ。だから両方売り払ってしまいました」売却して得たのは、いまの価値に換算すると、2億円。それを鉄工所につぎ込んだが、経営のイロハもわからない若造には荷が重かった。早々に暗礁に乗り上げる。それ以降、いろいろな事業に挑戦するが失敗ばかり。家電販売業を3年間営むが、不渡りを出して倒産。太陽熱温水器の販売もした。オイルショックの影響で高くなった石油を節約したいニーズが高く、最初の数年は売り上げ好調だった。しかしそれで楽勝と思ったのか、遊びの虫がうごめき始めた。ラジコンにハマったのだ。1機10万円ぐらいするラジコンを買っては飛ばしに出かけた。「面白くて、仕事なんか手につかなくなってしまってね。仕事は社員に任せて遊びほうけているうちに、気がつくと仕事はにっちもさっちもいかなくなっていました」遺産は事業の失敗、飲み食いにも費やし、あっという間に食いつぶしてしまった。■40業種で失敗、負債約2億円にそんな激動期の真っただ中に、堀之内さんは結婚している。21歳のときだ。相手は、小学校からの同級生。家も建てた。ただ、お金がなかったので先輩の大工に頼み、自分も手伝いながら完成させた。普通は、結婚すれば少しは落ち着くものだが、堀之内さんの場合はそうはいかない。ボイラーマンとして就職した地元のラドン温泉で知り合ったAさんと恋仲になり、2人で鹿屋に食堂を開いた。「妻も知っていた」と言う。店の売り上げは、いいときで月に約120万円と繁盛していたが、懲りずにラジコンを続けていた。おまけにアマチュア無線にも凝るようになる。Aさんは言う。「当時彼は30代でしたけど、子どもの部分をずっと残していたような気がします。そういうところに私は惹かれていたかもしれないですね。でもひとたび仕事になると、トラブルが起きてもいつも冷静で肝がすわっている感じで、そのギャップも魅力でした」しかしAさんは、突然店を辞めて姿を消す。「私も若かったので」と言葉を濁すが、急なことで堀之内さんは呆然。食堂は閉めることにした。堀之内さんはそれ以外にもさまざまな仕事にチャレンジするが、失敗を繰り返した。機械修理、自動車修理、住宅修理、中古車販売、学習用品販売、自動車セールス、化学薬品販売、婦人服製造販売、メリヤス製造、ミシン修理、運転代行、ダンプ・トラック・ブルドーザー運転、生コンクリート運搬、自動車教習所、能力開発教育、古紙回収業、海の家、風呂洗浄……。大きな負債を抱えたきっかけは健康食品販売だった。好調に契約は取れていたのだが、客がローンを組むとき、ほかに保証人がいない場合、堀之内さんが連帯保証人になっていた。契約者が払えず、返済が滞るケースが相次ぎ、堀之内さんが支払わねばならなくなったのだ。負債は一時2億円近い額に膨らんだ。「返済するためにありとあらゆるサラ金から借りたので、負債は雪だるま式に増えていきました。事業は終了。バイトをしていたら、そこにも取り立て屋が来て、怒鳴るのでクビになりました」稼ぐこともままならず、借金も返せない。未来が描けず、死ぬしかないと思いつめた堀之内さんは、JR鹿児島本線の線路に身体を横たえる。だが怖くて途中でやめた。「鹿屋を出よう。ここでやっていてもラチがあかない」堀之内さんは鹿屋を出る前に、妻に離婚届を書いて渡した。「自分で判を押して役場に出してほしい」と言い残して。妻は何も言わなかったというが、当時中学1年生だった息子の健吾さん(50)によれば、「父は出稼ぎに行ってくるという感じだったけど、母親は、『お父さん、たぶん戻ってこんよ』と言っていた」という。’85年、都会で勝負したい─そう思い、車で東を目指した。傍らのシートには女性が座っていた。健康食品会社で一緒に働いていた女性だった。のちに2人は夫婦となるのだが、それは先の話だ。車を走らせながら、堀之内さんは何を考えただろう。「当時を振り返って思うのは、良くも悪くも自分はビジネスの才能があると思っていたことでしょうね。少しでも“反省”というものをしていれば、まだ事業は続いたと思うんだけど、若かったんですね」■ゴミを「宝」に変える商売落ち着いた先は浜松市。「所持金が少なくなったのが浜松。お金を使い果たしたら生活できないからね」ただ、知人など1人もいない場所で、仕事の糸口がつかめない日々が続く。最低限生活できる場所は確保していたが、お金が足りなくなる。「車に敷いてあるマットを剥いで100円を見つけて、それでキャベツを買って、小麦粉を混ぜてお好み焼きのようなものにして1週間しのいだこともありましたね」そのうち料金が払えず電気や水道が止められることが増えた。さらには家賃の支払いも滞り、家を追い出され、車中泊することもあった。いくつかの仕事にトライするも、最初はうまくいっても長続きしない─デジャブのようだった。ところがある日、運命を変える店に出会う。浜松市内の道を車で走っているときだった。道ばたにゴミをたくさん積んである店があった。何だろうと思い店内に入ると、中古品店だった。電気製品や日用品など中古品が無造作に並べてある。店主に「儲かるの?」と聞いた。すると、「この商売はいちばん儲かるな。小汚いところだけど、よく売れるんだよ」直感的に、“この仕事、なんか面白そうだ”と思った。以前中古車販売をしていたので、古物営業許可証を持っていた。“すぐ商売を始められる”─そう思ったら次の日には、粗大ゴミ置き場にいた。テレビや冷蔵庫、ガスコンロ、ストーブ……。「宝の山だ!」と思った。まず手をつけたのは、錆びたストーブの修理。懸命に磨き、悪いところは修理し、きれいなピンクに塗り替えた。新品同然になったストーブは、市価で2万3000円のところ、1万8000円で販売し、すぐに売れた。商品の幅を広げ、冷蔵庫や洗濯機も同じカラーバリエーションにして3点セットで売ると、これも見事に売れた。所持金40万円をはたいて18坪の店を構え、堀之内さんのリサイクルショップ「生活創庫」がスタートした。’88年、堀之内さん40歳のときだ。売れると、自分だけでは商品集めが追いつかなくなる。ゴミ拾いをしていたときに知り合ったホームレスの人たちに声をかけ、集めてもらうことにした。あなたは炊飯器を、別の人はガスコンロを……というふうに、担当を決めて、中古品を集めてきてもらったのだ。常時7人ぐらいが稼働していたという。「例えば扇風機1台を200円で買ったとして、日によっては10台集まることもある。2000円ですからね。そうなると、彼らのやる気も出るわけです。だから中古品はどんどん集まりました」■ライバル社も仲間にする方法同業他社は、一般家庭などから不用品を買い取るので、どうしても経費はかかるが、この「堀之内方式」であれば、経費は格安。他社の半額にしても儲けが出るため、生活創庫の評判は口コミで広まった。そのころ、大口の顧客が現れる。浜松市内の、ある人材派遣会社だ。従業員寮に必要な家電一式を探していた。そのとき安く家電製品を調達できる生活創庫の評判を聞いた。照明器具、テレビ、冷蔵庫、炊飯器、洗濯機などを10セット発注した。この派遣会社社長の娘Bさん(50代)は、当時のことを覚えている。「ほかの中古品店だと、10台欲しいと言っても店に3台しかなければそれっきり。でも堀之内さんは、足りない7台を必ずかき集めてきてくれるんです。自社の在庫で足りない場合には、同業他社から買ったり、それでも集まらなければディスカウントストアで買うこともありました。損してでも次の発注をもらったほうが得と考えたんでしょう。発注する側としては生活創庫に頼めば、いろんな店に頼む必要がなく楽なんです」生活創庫は通常、他社よりも安く売る。同業他社が嫌がらせをして売ってくれないことはなかったのだろうか。堀之内さんが言う。「ありません。私は修理などの技術があるものだから、同業の店の商品も修理してあげていました。メーカーに修理を頼むより安いですから」ギブ・アンド・テイク。市内の中古品店との関係はバッチリ築いていたのだ。前記の派遣会社は大口の取引先だったので、よく会社に堀之内さんが現れたという。Bさんによれば、当時の堀之内さんのファッションと車は衝撃的だったという。「ケミカルウォッシュのジーンズにタンクトップ、そしてスリッパ。本当にスリッパなんですよ、トイレなんかにあるビニール製のあれ。あと愛車が軽トラックで、助手席の足を置くところに穴があいていました。私たち、彼のことを“キューちゃん”と呼んでたんですけど、ほんとにお金がなかったんだと思います」それでも、堀之内さんはこの商売は「超面白い、最高だ」と思っていた。「なぜって、飽きないから。毎日違う商品を修理できてそれを売る。機械いじりが好きな私にとっては仕事をしている感覚なんてないですから。遊びに近い感覚です」しかし困ったことはあった。資金繰りだ。中古品の買い取りはすべて現金払いだった。口コミで発注が多くなると、それに応えたいから仕入れる数も多くなる。するとそれ相応の資金が必要だった。しかし銀行はお金を貸してくれない。Bさんが続ける。「私の母にも借りていましたね。私が初めてもらった20万円ほどのボーナスさえも貸してくれって家に来ました。だから相当、いろんなところから借りていたと思いますね。ふつうお金なんてみんな貸さないんだけど、堀之内さんに貸すのは、あのキャラクターかな。憎めないんです。それに借りたら必ず返すから」店を開店してから2年もたつと店が手狭になり、80坪という、浜松市内でもトップクラスの大規模店をオープンした。’90年のことだ。そこで目標にしたのは、年商1億円。当時社員は6人。かなり難しい目標のように思われるが、わずか2年で達成した。それにしても、なぜこれほど売れたのか。まず前記したように必死で発注者の要望に応えたこと。また、昔ながらの野暮ったい中古品店のイメージを一新し、明るい店にしたことだ。「以前は値札がついていなかったり、接客もなっていなかったりする店が少なくなかった。そこで女性が子ども連れで気軽に来られるような店にしよう、丁寧に挨拶をして接客もちゃんとしようとしたのです。いまでも挨拶を怠った社員はクビですから!」さらに品質管理。冒頭でも書いたが、中古品を整備してきれいにして売る。専門の技術者を雇い、電気製品別に専門の工場もつくった。もうひとつは売り方。堀之内さんが例としてあげたのは、使って短くなった鉛筆。1本だけだと誰も買わないけど、いろんな種類の鉛筆を100本集めたら売れる。なぜかといえば、面白いから。実用として売れるのではなく面白いから。使い捨ての割り箸でも、使っていないものならば、1本ならば売れないが、束にしたら売れる。工作に使ったり、園芸の副え木として使ったりするのだという。「売れない商品はない。売るための工夫さえすればいい」これを鉄則にしたからだ。■謎の老人客がやがて師匠に次なる野望は、「全国制覇」「100店舗達成」とした。フランチャイズの募集をかけると、「年商1億円」の実績はPR効果抜群だったのだろう、問い合わせが相次ぎ、1年で100店舗を達成した。年商は10億円になった。100店舗達成パーティーには、デビュー間もない歌手・水森かおりさんをゲストに呼んだという。穴のあいた軽トラからいきなりベンツになり、身に着けるものも、ジーンズ・タンクトップからアルマーニのスーツ、スリッパから革靴に変わったのもそのころである。ただ、急成長しすぎると組織に歪みが出るのは世の常。その流れを修正してくれる人が現れた。常連客で当時70代のXさんだ。あとでわかることだが、彼は地元の実業家で、各方面に太い人脈を持つ、泣く子も黙る存在だったのだ。しかし店にふらりと現れたときの印象は、ブランドものの服や時計を身に着けるわけでもない、普通のおじいさんだった。だが、ただ者ではないと思ったのは、100店舗になったと喜んでいるときに、堀之内さんに放った一言。「(フランチャイズの店)うまくいってねーよ。そうに決まっている。お前、小さいころ、砂で川を作って、水を流したことあるだろ。最初はきれいに流れるけど、何回もやると流れなくなっただろ。砂山をしっかりコンクリートで固めるのがお前の仕事だよ」まさかと思って全国の店舗をチェックすると、図星だった。以降店に足しげく通い、営業指導をし、また売り上げで店舗同士を競わせながら優秀店を表彰するというモチベーションアップ法も導入した。堀之内さんは、社員を自宅に呼ぶこともあるという。取締役の安西範泰さん(50)によると、社長直々に料理を作ってくれるのだという。「大勢の社員を呼んでバーベキューをやるときは、社長が肉を焼いてくださることもありますが、少人数の場合は創作料理みたいな、手によりをかけた料理をいただけるんです。そうしたことで仕事へのやる気は確実に上がります」普段でも午前中、朝ご飯代わりにマクドナルドのハンバーガーを若い独身社員に振る舞ったり、焼き芋を自分で焼いてすすめたりする。会社や店の中に、和気藹々(あいあい)とした雰囲気が流れるという。日本テレビの『スーパーテレビ』で密着取材を受け、視聴率20%を超えたときも、「見てくれましたか?」と有頂天になる堀之内さんの姿を見て、Xさんはこう言った。「お前、豚になるなよ、猿でいような」意味がわからずポカンとしている堀之内さんに、Xさんが説明してくれた。「豚は人の力で木に登らせてもらっても自分で降りてこられない。でも猿は自分の力で降りてこられる。お前は猿のようになれということだ」テレビで有名になったからといって、舞い上がるなということを言いたかったのだ。「はっきり言ってくれないことが多いんです。いつも禅問答みたい。でもわかれば、すごく深いことだなと。私にとっては“師匠”です」Xさんの助言のおかげもあり、順調に成長を遂げる。最盛期には350店舗、年商120億円を稼ぎ出す堀之内さんは、メディアにたびたび登場する有名人になっていく。■『¥マネーの虎』の舞台裏ある日、日本テレビから出演依頼がくる。連絡をしてきたのは、番組を担当するプロデューサーだった。「聞いて呆れました。われわれに出資しろというのに、テレビ局はギャラも交通費も出さないっていうんだから。この男、こんな依頼を平然としてきて、勇気のあるやつだな、こいつと付き合ってみたいと思ったんですよ」 『¥マネーの虎』は、’01年10月から番組が始まった。自分が、安易にカネを手にしても成功しないということを身をもって経験しているからだろう、厳しい意見を言うことが多かった。また登場回数は“虎”の中でいちばん多かったが、出資金額が少なかったことでも知られる。「番組で出資を勝ち取れなかった人でも、なんとかしてその事業を成功させている人もたくさんいるからです」番組では気に入らないことが1つあった。“虎”同士のバトルである。「『あなたの考えは間違っている』とか私に面と向かって言う。あれをやられると、会社の看板に傷がつくし、従業員も『うちの社長、大丈夫かな』と動揺しますよ。だからやめようと言ったんです」番組の効果は絶大で、全国各地から講演の依頼が舞い込む。商工会議所、青年会議所、学校、婦人会などで1800回もしゃべった。しかし好事魔多し。仕事が忙しすぎたのかもしれない。2005年、胃にがんが見つかったのである。しかも医師からは「3年もたない」と宣告された。「俺の人生も終わったなと思いましてね。すると食事ものどを通らなくなって、80キロあった体重は73キロになりました。死の恐怖というのを味わいました」しかし幸運にも腕利きのスーパードクターの手術を受けられることになる。手術は成功し、いまも再発はない。「人生観が変わりましたね。何も怖くなくなりました。売り上げが悪いとか、日々問題はあるけど、屁みたいなもんですよ。命までは取られない」■「会社差し押さえ」噂の真相3年後の’08年には、会社が仮差し押さえされる問題が起きたときも、堀之内さんは冷静だった。ネットニュースにはネガティブな臆測が流れたが、店は営業していた。事の真相はこうだ。生活創庫は三洋電機クレジットから融資を受けていたが、三洋電機が倒産したため、同クレジット会社はアメリカのGEに買収された。しかしGEは金融業から撤退することになり、お金をすぐに返せと主張するようになった。「こちらは約束どおり返済しているのに、いきなり全額を返せと言われても無理だと言うと、裁判を起こし仮差し押さえしてきたんです。そうなると金融機関からの信用はなくなるので、いったん生活創庫を閉じ、新しい会社を作ることになったのです」そう話す堀之内さんだが、当時はいろいろな感情が渦巻いていたようだ。前出のBさんは当時、社長秘書として働いていた。車やさまざまなものが差し押さえされ持ち出されたが、堀之内さんは、「何でも持っていけ!なんとかなるわ、大丈夫!」と言っていたという。しかし1つだけこだわっていたことがあった。クレジットカードである。個人の民事裁判や自己破産をしたほうが楽にはなるのだが、絶対にしないという。理由を聞くと、「クレジットカードがなくなるから」の一点張り。前出のBさんが言う。「バカじゃないの?と思って。詳しく聞いたら、過去に商売をしてローンを返せなかったりして信用調査会社のブラックリストに載ったことがあって、長くクレジットカードが持てなくて悔しかったらしいんです。当時も60枚近く持っていて、年会費だけでも100万円ぐらいかかるから解約したほうがいいと言っても、“嫌だ”の一点張り。人間って、そういうときに隠しおおせない過去が出てくるんだなと思って」そこまで話してBさんが思い出した。堀之内さんの妙なこだわりのことだ。それはベンツのダッシュボードに置かれた使用ずみ爪楊枝、後部座席に無造作に置かれた何十本もの飲みさしのペットボトルと鼻をかんだ、ティッシュペーパー。汚いからBさんが捨てようとするとダメだという。「ペットボトルも水を飲むためじゃないんだ。いつか役に立つかも知れないから」Bさんによれば、とにかく捨てられないタイプだという。中古品を扱う商売柄ではなく、ここにも人生観のようなものが垣間見える。■切り捨てない人間関係実は、人間関係も決して切り捨てないのが特徴だ。取締役の安西さん(前出)によれば、過去にソリが合わずに辞めていった社員であっても、会えば「元気か」と声をかけたりするのだという。「会社を大きくするには、いろんな人に支えられてきているので、人とのつながりを大事にするということが身に染みているんでしょうね」その生き方は、プライベートにも及ぶ。いまは浜松に一緒に出てきた女性と結婚生活を営んでいるが、堀之内さんには最初の妻との間にも2人の子どもがいる。そのうち息子・健吾さん(前出)は創庫生活館で働いている。健吾さんは言う。「私が20代のころ、鹿児島にフランチャイズ店がオープンしたときに父に久々に会ったんです。私が勤めていた会社が連鎖倒産した後だったので、父親の会社で働いてみようかなと。母親は『(テレビで放送されているのは)本当かどうかわからないよ』と言っていましたけどね。父親に行くよと言ったら、すごい喜んでくれました」わだかまりは、「なくはないです」という。「運転免許を取っていざ車をローンで買おうとしたら、ブラックリストに載っていて買えなかったですから。父親が地元で商売していたとき、私の名前でローンを組んでいたのかもしれません。あのときは“クソ親父”と思ったし、母親は昼も夜も働いて私たちを育ててくれたから、いろいろと感情はありましたよ。でも父親は自分のカネ儲けというより従業員のために働いていることがわかりました。父親を見直しました」一緒に食堂を営んでいた前出の元恋人Aさんも、約20年前に堀之内さんと再び連絡をとるようになった。「主人が勤めていた会社が傾いてきたので相談したら、堀之内さん、『うちの仕事を勉強したらどうか』と言ってくれて、彼の店で研修させてもらったんです。研修後、フランチャイズをすすめられるのかと思ったら、自分で独立したほうが儲けがいいと言われて、ありがたかったです」その店が繁盛していることを堀之内さんは喜んでいたが、Aさんの夫は数年前に死去。「そのときも店の片づけや在庫を全部引き取ってくれて助かったのを覚えています」Bさんによると、堀之内さんは、どんな大変なときでも、弱音を吐く姿を1度も見たことがないという。「すべて自分で引き受けて問題に立ち向かっている。あの姿は本当に尊敬します」経営危機を乗り越え、「生活創庫」から「創庫生活館」に社名変更して5年間、堀之内さんは代表を離れたが、いまは返り咲いている。堀之内さんは、次のステージを見すえている。特筆すべきは、「バイバイ」というスマホアプリの開発だ。中古品を売りたい人がスマホで写真を撮って出品する。そこまでは既存のフリーマーケットサイトと変わらないのだが、違うのは、古物営業許可の資格を持つ専門業者が入札すること。業者は専門家なので、売る側は安心だ。「メルカリとかヤフオクに勝とうとはしていない。違う種類のお客さんが使うでしょう。例えば会社の場合、明日までに机と椅子を50個売りたいといったオファーがくる。こういうのは業者が得意です」堀之内さんはこのアプリによって、ネットにおける全国制覇を果たせるのではないかとも考えている。「口幅ったい言い方だけど、リサイクルショップのブームは私が牽引してきたという自負があります。今後はこのアプリで日本の中古業を変えてやるという思いがあります」絶体絶命のピンチを何度もクリアしてきた堀之内さんの人生。いったい何が支えてきたのだろう。「“自信のカケラ”ですよ。子どものころ、夏休みの工作で作った盆を父親に褒められた話をしました。あれがあったおかげで、いまは芽が出ていないけど、俺はできるんだという気持ちになれたんです。いま落ち込んでいる人も、自分を振り返って、運動会で一等賞をとった、絵を褒められた、笑顔がいい……、なんでもいいから、人より優れていたこととか、褒められたことを思い出してみてほしい。すると自信がわいてきます」磨けばもう一度復活できる。商品に新たな命を吹き込んできた堀之内さんらしい言葉だ。〈取材・文/西所正道〉にしどころ・まさみち奈良県生まれ。人物取材が好きで、著書に東京五輪出場選手を描いた『東京五輪の残像』など。2015年、中島潔氏の地獄絵への道のりを追ったノンフィクション『絵描き-中島潔地獄絵一〇〇〇日』を上梓。
2021年12月04日椎名誠撮影/伊藤和幸小説にエッセイ、ルポ、写真集の撮影に映画製作……、多彩なジャンルで活躍してきた椎名誠さん。文筆生活40年を超え、著作の数はもうじき300冊。いつも傍らにあるのは、旅とビールと仲間たち。アルゼンチンの山で置いてけぼりをくらうなど、「九死に一生」の体験をしたのも1度や2度ではない。好奇心に突き動かされるまま、「流れるようにここまでやってきた」人気作家の軌跡をたどる!■「シーナワールド」でファンを虜に東京・新宿三丁目。緊急事態宣言が明け、徐々に活気が戻り始めたこの街に、30年以上の歴史を持つ老舗居酒屋「池林房」がある。そこへ作家・椎名誠さんが現れた。心なしか足取りがおぼつかないように見える。屈強な肉体の持ち主だったはずだが、だいぶやつれた印象である。開口一番、椎名さんがボソリと言った。「食欲が落ちましたね。体重も7キロぐらい減ってしまいましたよ」実は、椎名さんは今年6月下旬、新型コロナウイルスに感染してしまったのだ。自宅で気を失っているところを家族に発見され、救急車で搬送された。高熱が続き、10日間の入院を余儀なくされた。「退院してもう4か月がたちます。入院中は、ただベッドに寝て個室でうめいていましたね。コロナだから面会もできないしね」今困っているのは、その後遺症だという。「いつもの体調には戻っていない。後遺症があくどく、しつこいんですよ。人によってさまざまらしいんですが、僕はね、甲高い金属音、お皿とお皿がぶつかる音とか、そういう音がダメになった。普段ならそんなことに頓着する体質じゃなかったんだけど、人が変わったみたいに気になったりしてますね」入院と同時に多くの連載はストップ。最近になり、ようやく執筆活動を再開した。椎名さんの著作は、エッセイ、小説、写真集から対談・座談集、絵本にいたるまで多岐にわたる。本人は「粗製乱造の極致をいっている」などと自嘲ぎみに話すが、創作活動を始めた1980年代から現在に至るまで年間6~10冊も本を出し続けてきた、名実共に超のつく人気作家だ。「いろいろたくさん書いてきましたね。僕は数えてなかったけど、今年出た本で290冊を超えたそうなんです。あと4、5冊で300冊になるのかな。書きに書いてきたなあという思いですね」汲めども尽きぬ創作意欲は、どこから湧いてくるのだろうか?「原動力?何だろうね。周辺にいる編集者とか、時の流れとか、そういうものに常に煽られて、気づいたらまた1冊書いちゃったみたいな。書くスピードが速いというのもあったし、書くのが好きだったというのもありましたね」椎名さんのフィールドは文学だけにとどまらない。写真も撮れば、映画も作る。冒険に明け暮れた日々もある。アウトドアという言葉が広く知られるようになる前、椎名さんと仲間たちとのキャンプに憧れ、辺境での冒険の様子に目を輝かせた読者も多いことだろう。仲間といっても文壇でも業界でもなく、ただの釣り好き、酒好き、野外好きの“おっさん”たちである。あるいは、海辺でうまそうにビールを飲み干す、椎名さんのCMを覚えている人もいるかもしれない。好奇心に突き動かされるまま、世界中を旅しながら紡ぎ出された物語は、いつしか「シーナワールド」と呼ばれるようになり、多くのファンを虜にしてきた。「もともと深く考える体質じゃないんで。流れるようにして、この50年やってきたというのが正直なところ。気がついたら物書きになっていて、その延長線上に今がある」旅とビールと仲間が似合う作家・椎名誠。インタビューを受けるときにはビールを欠かさない。そして、こちらにも決まってすすめてくる。病み上がりのこの日も、ビールをグビリグビリと飲みながら話してくれた。そして、段々といつもの調子を取り戻していったのだ。■鮮烈デビューを飾るまで椎名さんは1944年、東京都世田谷区三軒茶屋上馬に生まれた。公認会計士の父・文之助と、母・千代の三男だった。6歳で千葉県・酒々井を経て幕張に転居。そこで過ごした少年時代を新刊の『幕張少年マサイ族』で描いている。作中にこんな描写がある。《あのころのぼくたちも浜番(浜を見張る老人たち)みたいにみんな竹の棒を持っていた。[略]後年、作家の取材仕事でアフリカに行ったとき、ケニアやタンザニアなどでマサイ族をよく見た。彼らは背が高くて鋭い目をしてみんな長い槍を持っていた。それはすぐに少年の頃に常に恐怖のマトでもあった海の浜番の記憶につながっていった。》「これは東京新聞の千葉版に3年近く連載したものをまとめた一冊で、続編の連載が始まっています。中学のころを書いているんだけど、いちばん思い出したくない、荒くれた時代。誰でも中学時代というのは定まらない、苛立たしい時代じゃないですか。それを今、書いているんです」地元の幕張中学校を経て、千葉市立千葉高校に入学。そこで同じクラスになったのが後年、コンビを組むことになるイラストレーターで絵本作家の沢野ひとしさんだった。18歳のころから8ミリカメラを手にし、友達を集めてニュース映画を作るようになった椎名さんは、’64年、東京写真大学に入学。沢野さんの紹介で、友人で弁護士の木村晋介さん(76)と初めて会ったのも、このころだ。木村さんが振り返る。「沢野が僕に会わせたいやつがいると言って、連れてきたのが椎名でした。彼の第一印象は、天然パーマ、色黒で野性的。僕らみたいな色白もち肌の東京モンからすると異質な存在でしたね。でも魅力的なやつで、人集めがうまい。50人くらい集めていろんなイベントを考え出して遊んでいました。幕張の埋め立て地で地域対抗野球大会をやったり、文化祭みたいなこともやってたね」1年で写真大学を中退、椎名さんは江戸川区小岩のアパートで、沢野さん、木村さんらと共同生活をするように。木村さんが続ける。「陽がまったく当たらない暗いアパートでしたね。6畳一間に4人で雑魚寝してました。僕は本来、司法試験の勉強をしなきゃならなかったんだけど、椎名たちと一緒にいるのが楽しくて、つい同居しちゃった(笑)」そして、椎名さんはのちに妻となる渡辺一枝さんと出会う。仲を取り持ったのは、木村さんだった。「彼女は僕と高校の同学年で、隣のクラスでした。3年のとき、僕が生徒会長で彼女は副会長だったんです」(木村さん)’66年、椎名さんは流通業界専門誌で働き始める。2年後の’68年、一枝さんと結婚。椎名さんが少し照れたように言う。「彼女は、中学では山岳同好会、高校では山岳部でした。あだ名は、ヤマンバやチベット。その当時からチベットに憧れていたんですね。山の話や冒険、探検などの話が合ったんで、なんとなく……」会社勤めの傍ら、沢野さんらと野外天幕生活団「東日本何でもケトばす会=略称・東ケト会」の第1回合宿を行う。これが、椎名さんの代表作のひとつ、「怪しい探検隊」シリーズの発端だった。’69年には、百貨店業界の専門誌『ストアーズレポート』を創刊し、編集長に就任。その年に入社してきたのが、椎名さんの“盟友”となる目黒考二さん(75)だった。目黒さんが打ち明ける。「初めて彼と会ったのは、銀座の喫茶店。三つ揃いを着た大男でとても堅気には思えなかった(笑)。僕は数か月で会社を辞めちゃうんだけど、椎名とは読書の趣味が合ったんですね。2人ともSF好きで。SFの話がしたくてよく会ってしゃべってましたよ」目黒さんは、『ストアーズレポート』に書いた椎名さんの文章に衝撃を受けたという。「破茶滅茶なショートショートで、題名は今では出せない『キ○ガイ流通革命』。抜群におもしろくて、“この人は作家だな”と思いましたよ」’76年、『本の雑誌』を創刊。書評を中心に、活字にまつわるさまざまな話題を扱い、注目を集めた。そして’79年、そこに連載していたエッセイをまとめた『さらば国分寺書店のオババ』を上梓、鮮烈なデビューを飾る。椎名さんによれば、「出版社は思いきって新聞に全面広告を出して、それで売れて増刷が続いた。あの本は物書きとしてのデビュー作であるだけでなく、初めてのベストセラーになったんです」このデビュー作をきっかけに、さまざまな雑誌から原稿依頼が殺到するようになった。’80年、15年勤めたストアーズ社を退職しフリーになると、本格的な作家活動を開始する。「ずんがずんが」「ガシガシ」……。軽妙な口語調の文体は「昭和軽薄体」と呼ばれ一大ブームを巻き起こした。■「体力作家」が打ち込んだ映画製作作家活動のスタートは、同時に取材旅行の始まりでもあった。’84年、水中写真家の中村征夫さんと、オーストラリアのグレートバリアリーフで1か月間、生活を共にした。「彼とは出会ったときから意気投合しましたね。乗船した船は、フランスのダイビングボートでね。乗員は30人くらいで、僕ら以外はみな、フランス人。出てくるメシがフランス料理なんですよ。俺たち肉体労働だから腹が減って、“こんなもの食ってられねえ”って。それで2人で船室を漁ったら、米が見つかった。キッコーマンの醤油を誰かが持っていて、もっと探したら生卵が見つかった。2人で米を炊いて、卵かけご飯を食べましたよ。“やっぱ、米だよな”なんて言いながら握手したのを覚えてます(笑)」テレビのドキュメンタリーとして放送されたこの出会いは、’91年公開の映画『うみ・そら・さんごのいいつたえ』につながっていく。椎名さんの映画作りは、年季が入っている。’75年以降、16ミリの記録映画を数多く作ってきた。’90年の『ガクの冒険』でメジャーデビュー。さらに『うみ・そら〜』には、余貴美子さんら本職の俳優陣が出演。それでも、撮影監督は中村征夫さんが務めた。「中村征夫の写真集を原案にした映画だったし、彼は陸上(撮影)はやってなかったんだけど、“陸も海も一緒だよ”と僕が言って、無理やりやってもらったんです」石垣島での撮影は1か月半。作品は、北海道から沖縄まで全国で巡回上映し、口コミで評判が伝わり15万人以上の観客を動員した。「最初は学生映画みたいなものだったけど、勢いというのはすごいもので、『ガクの冒険』が大手配給系の劇場でガーンとかかったんですよ。そのツテがあるから、『うみ・そら〜』では、最初から1週間やったら結構客が入って、3週間のロングラン上映になった。池袋と渋谷、それから大阪にものびていってね。それでガンガン勢いづいて、『ホネフィルム』という会社まで作っちゃった。僕はあのころ、社長だったんですよ。とてもそんな柄じゃないから秘密にしてたんだけどね」とはいえ映画だけに専念していたわけではない。雑誌連載、さらには新聞連載まで抱えていたのだ。「朝日新聞で『銀座のカラス』を連載してました。石垣島のロケ現場にゲラ(校正刷り)が届くんですよ。40度近い暑さの中で毎日毎日、原稿を書いて、3日くらいするとゲラが来る。1度も穴をあけずにやりました。あのころの俺ってまじめだったんだなって。でも、結構楽しんでいましたね。若さもあったし、僕は“体力作家”と言われてましたからね」撮影現場には、100人ものプロの映画スタッフがいた。彼らの目には、「モノカキ」は、あまりいい印象には映っていなかったようだ。「演出部なんかは特に、僕が原稿書いたり、ゲラ読んだりしてるのが嫌いでね。自分たちの映画に全部打ち込んでほしいわけ。映画の現場は体育会系が多いですから、結構荒っぽいやつらもいる。結構こっちも場数を踏んでいるんで、おかしな自信があって、“いつでもやってやるぞ!”というような感じでした、常に。だから、当時はむき出しの狂犬みたいで怖かったという人もいますね(笑)」その後、椎名さんは’93年にモンゴルとの合作映画『白い馬』で日本映画批評家大賞最優秀監督賞を受賞、さらにフランス・ボーヴェ映画祭でグランプリを獲得する。ところが’96年の『遠灘鮫腹海岸』を最後に、映画製作の世界に別れを告げた。「ちょっとアクシデントがあって、嫌気がさしてやめようとなった。やっぱり映画界というのはね、外側から入ってきて、僕みたいに暴れ回るとね、そういうのを嫌う気配があるんですよ。それは今になるとわかるんですけど“何だ、このトーシロは”みたいなね。古い業界だから。映画ってみんなハングリーだから、僕みたいなのは羽振りがよく見えたんでしょうね」面と向かって誰かが言ったわけではないが、椎名さんはそうした「気配」を感じ取ったという。もちろん、「新しい作品を」という声もあった。「ポーランドで撮らないか、ハワイでこんな企画でどうか、という誘いはいくつかあったんだけど、結局、話が大きすぎて手に負えなかったり、ほかの仕事ができなくなるので断りました」■キャンプ人気の先駆け「怪しい探検隊」一方で、テレビのドキュメンタリー番組からはオファーが相次ぐ。「TBSの開局30周年番組かな、これがシベリアでロケをするという全5時間のドキュメンタリー。こんなことができるんだ、とまだ勢いがありましたからね。やりましょうという話をしたんですよ」遭難の末、ロシアへたどり着いた江戸時代の漂流民・大黒屋光太夫の足跡を追って、シベリアを旅する内容だ。「マイナス40度のところを馬で走ったりしましたね。僕が乗ったのは黒い馬だったんだけど、30分走ったら、馬の汗が凍って白馬になってしまってね。まるで氷の鎧を着ているみたいに神々しいんですよ。凍傷になりかけながら旅をしましたね」また「怪しい探検隊」シリーズは椎名文学の中でも人気の作品だが、テレビのドキュメンタリー番組としても新たなファンを集めた。「テレビ局がシリーズでやってくれないかということで、10数本作りましたね。で、俺たちみたいなズッコケの、探検隊とはいっても、怪しいですからね。テレビで持ちますかね?と言ったら、テレビ局の人に“大丈夫ですよ。あれは朝の6時にやりますから、誰も見てませんよ”と励まされてね(笑)」’80年に始まった「怪しい探検隊」の活動は、アウトドアのプロたちを集めた「いやはや隊」、そしてここ10年ほどは「雑魚釣り隊」と名前を変えて存続している。「雑魚釣り隊というのは、本当に釣りが好きで酒が好きで、あとはまったく有名でもなんでもないという30人くらいのグループ。大体15人ほどが、月1回のキャンプに来るんですよ。20代から60代までいて、結構統制がとれていましたね。釣りは必ずするんだけど、カツオだサバだというのは当たり前で、最近ではマグロを釣ってましたね。1メートル半くらいの。それも海外まで行って合宿してね。大盤振る舞いの宴を続けていますよ」「雑魚釣り隊」については、『週刊ポスト』で10年にわたって連載している。「体育会の合宿みたいですよ。僕はいちばん年上で隊長ですから、みんな下にも置かないというふうに敬ってくれて、いい椅子なんか与えてくれてね。マグロを釣ればいちばん最初にいいところをもらったりして、バカ殿様みたいで、あの組織は大好きですね(笑)」「雑魚釣り隊」の参加者の1人、スポーツライターの竹田聡一郎さん(42)は’05年から知人の紹介で隊に加わり、以来、欠かさず参加している。「最初は、千葉・富浦でのキャンプでしたね。隊の中に暗黙の“隊長トリセツ”みたいなものがあって、隊長は虫除けスプレーが嫌いだとか、お酌されるのは嫌だとか。僕は自由にバンバンビールを飲んでいたんですが、椎名さんに“おまえ、ビールすげえ飲むなあ。いいやつだな。次もまた来いよ”って言ってもらえたんですね。椎名さんは、たくさん酒を飲むやつが好きなんですよ。令和に残ったバンカラみたいなところがある(笑)。シンプルでやさしい親分ですね」(竹田さん)この「雑魚釣り隊」にしても「怪しい探検隊」にしても集まるのは男どもばかり。なぜ、女性は参加できないのか。椎名さんに聞くと、「昔からそうなんだ」とひと言。「1度、女性が来たことがあったんだけど、男どもがカッコつけて、ギクシャクしちゃってダメダメで(笑)。丁重にお引き取りいただいた」「雑魚釣り隊」で前副隊長を務めた西澤亨さん(54)は、広告代理店に勤務していたころに椎名さんと付き合うようになり、その後、雑誌『自遊人』の副編集長として椎名さんを担当、現在は沖縄に移住している。椎名さんとは25年来の仲だ。「毎年、年末の数日、椎名さんとみんなで一緒に過ごしていたんです。ある年に僕が、その集まりに仕事で参加できなくなったと連絡したら、椎名さんから折り返し電話がかかってきました」そのとき、西澤さんは吹雪の中にいたが、椎名さんから怒られたという。「椎名さんに“遊びの約束を守れないやつとは遊べない。おまえが来ないなら俺も行かない”って怒られました。吹雪の中、直立不動で。でも、おっしゃるとおりなんです。普通は“仕事ならしょうがないね”と言うところだけど、椎名さんは違う。そこは曲げないんです。超越している。結局、仕事をキャンセルして参加しました」(西澤さん)■死んでもおかしくなかった辺境の旅再び新宿・池林房。ビールのお代わりを頼むと、椎名さんは旅の話を始めた。「チリにホーン岬という岬があってそこを回航するのが命がけなんですよ」南アメリカの最南端である。南極との間の海峡はドレーク海峡と呼ばれ。世界で最も荒れる海峡といわれる。「そこをね、チリ海軍のいちばんちっちゃな駆逐艦に乗って行ったことがある。死んでもおかしくなかったね。低気圧がやってきて、軍艦といっても鉄の塊ですから、案外もろいんですよ。僕は船室に入っていた。すると音がいろいろ聞こえてくる。その戦艦のスクリューが空中に上がって、ガーッと空回りする音が聞こえてましたよ。つまり波の上に乗っちゃったわけ。ドレーク海峡は“吠える海峡”といわれ、そこで何艘沈没して何人死んでいるかわからないという、危険な海なんです」アルゼンチンのパタゴニア地方、世界自然遺産にも登録されているロス・グラシアレス国立公園でも、椎名さんはとんでもない体験をした。「アルゼンチンはものすごく風の強い国なんですね。そこをローカル飛行機、双発機でね、10人乗りくらいの。それであちこち乗り継ぎで旅したことがある。地方の、建物なんかまったくないような、それでも空港というんですけどね。飛行機が降りてくると係員がダーッと走ってきて、みんな鎖を持っていて、その鎖で車輪から翼から何から飛行機を留めるんですよ。風が強いから、そうしないと飛行機がひっくり返っちゃう」そこにはフィッツロイ山という標高3405メートルの、嵐でいつも荒れている山がある。「フィッツロイ山へ飛行機で行こうとしたら、すごい勢いで飛び上がるんだけど、窓から見ると、いつまでたっても空港や滑走路が小さくならないんですよ。空中で止まっているんでしょうね。強風で」その旅からの帰りの飛行機で、椎名さんは尿意を催した。「けれども10人乗りの飛行機にトイレはついてない。で、あちらでは、平らな草っ原があると、飛行機を着陸させちゃうんですよ。降りて、みんながあちこちで小便したり大便したりするんですね」用をすませた椎名さんが周りの草原を見渡すと、珍しい花がたくさん咲いている。椎名さんは、接写レンズでそんな花々を撮影し始めた。「飛行機からだいぶ離れちゃったんですね。そしたら、飛行機のプロペラの回る音がする。あれ?と思って見たら、飛行機がそろそろと動きだしているんですよ。パタゴニアの連中はのんきだから、数も数えないで、みんな乗ってると思ってるわけ。僕は走って行って、飛行機のプロペラの前に立って、“おーい!”と叫んだんだけど、聞こえもしないし、見えもしないんですよ。あんまり近づくと危ないんで、どうしようかなと思っているうちに飛行機は飛んでいっちゃったんですね。置いてけぼりですよ」困ったなあと思ったが、日が暮れるまでには時間があった。とにかく道を探そうと歩きだし、どうにか見つけて、さらに歩いていくと湖があった。そのそばから煙が立ち上っているのが見えた。「それは誰かがいるということ。行ってみたら、森林審査官の家庭だった。そこで事情を話したんですよ。といっても、スペイン語しか通じないから、うろ覚えのスペイン語と英語を交えながらね。そしたら少しわかったようで“あ、こいつ、置いてけぼりになったんだ”と。パタゴニアでは珍しくないみたいなんですね(笑)」そして町までの道を聞いたのだが、馬でも1時間かかる距離。親切にも馬を貸してくれ、ようやく町にたどり着き連絡が取れたのだった。旅の話は、ビールを片手にまだまだ続く。南米のパンタナルという世界一の大湿原でカウボーイに弟子入りし、380頭の牛を2泊3日で送り届けたときの過酷な仕事と、落馬して肋(あばら)を折り湿原に取り残された話。ドキュメンタリーの撮影で、007よろしくヘリコプターから酸素ボンベを背負って海へ飛び降りた話……。■冒険家の妻と家族のものがたり椎名さんは、’68年に一枝さんと結婚した際、渡辺家の籍に入った。’70年に長女の葉さんが誕生し、’73年には長男・岳さんが誕生している。渡辺一枝さんは’87年までの18年間、東京の近郊の保育園、障害者施設で保育士を務め、退職の翌日に初めてチベットに出かけて、その後に作家活動に入っている。チベットについてだけでなく、原発事故後の福島に関する著書も多い。「うちの“おっかあ”は僕よりもすごい冒険家で、いっぱい本を書いてます。それを読んで驚いたんですよ。チベットを馬で行くという本で、彼女が5か月間、実質的に行方不明になっていたことを知りました。知り合いのチベット人3人と一緒に、チベットを馬でずーっと駆け回って一周する冒険旅行なんですね。3回、死にそうになっていました。すげえ旅をしてたんだなって。そんなのが伴侶でいますからね。僕なんかは、どっかでいつか帰ってこなくても全然不思議じゃないな、と思ってるんですよね」椎名さんの代表作のひとつ『岳物語』は、息子の岳さんの子ども時代のエピソードを書いた私小説だ。後年、成長した岳さんはこれを読んでずいぶん怒ったらしい。「自分のことを勝手にあれこれ書かれているのだから、怒っても当然なんだけど、当時は距離を置かれましたね。でも、彼も年をとってきて、人の親になって段々気がつくことも多くなったようで、今はいい関係ですよ。彼は17年間、アメリカで暮らしていたんだけど、3人目の子どもが生まれるタイミングで日本に帰ってきて、今はテレビ局に勤めています」長女の葉さんはニューヨーク在住だ。エッセイスト、翻訳家として活躍していたが、最近、もうひとつの肩書を持った。「数年前、向こうで司法試験に受かって弁護士になったんですね。いきなり聞きましたからびっくりしましたね。ロースクールに通っていることも知らなかったものだから。あんまりそういうことは言わないんですよ。今は、弁護士として仕事してますよ」また、3人の孫についても『孫物語』で書いている。「高校生の男、中学生の男と女ですね。上は大学受験ですよ。孫ができておおいに変わりましたね。ある種、彼らの先々を見届けたい、というね。簡単には死ねない。生きる力の糧になりましたね。それに、子どもって活躍をしてくれるものでね。僕は孫たちを“3匹のかいじゅう”と呼んだんだけど、どんどんじいちゃんになっていく僕から見れば、何をしでかすかわからない別宇宙の生き物なんです」■これからの「シーナワールド」は?77歳になった“作家・椎名誠”は、これからどこへ行くのだろうか。親友の木村さんは言う。「椎名の書くものは段々難しくなってきたからなあ(笑)。あんまりカッコつけないで、もっと笑えるエッセイやユーモア小説を書いてほしいなあ。年とったなりの生き方がにじみ出るようなね」目黒さんは、椎名さんにはまだ書いていないことがあると言う。「あの人は、作家の前に生活人だから、どうしても手をつけないことがあるんですね。例えば惚れた女性のこととか、きょうだいの話とか。そんな路線にも期待したいですね。椎名のすごいところは、資料を読み込んで特徴をつかみ取ること。すごくうまい。なるほどなぁ、とうなずいています」さて、本人はどう思っているのか。「小説のテーマというのは、どこからともなく湧き上がってくるもの。求めれば出てくるというわけではないんです。それでも結構ね、神の啓示のようなものがあって、それを“お!”と思って突き詰めていくと、最終的には1つの本になっていく。そういう経験も何度かありましたね。これからどうなっていくのか、自分でもまあ見当もつかないね。何かおもしろいものを見つけたら、そこに夢中になっていくでしょうね。まずは体調をよくしないとね。だって、物心がついてから、こんなにわけのわからない不調の中にいるなんてこと、今までなかったですから」今回の新型コロナ感染で、椎名さんは死んでもおかしくなかったという。「病院に運ばれて、気がついたときは3日後だった。息子が言うには、病院から電話があって、“お父さんをベッドに縛っていいですか?”と言われたらしい。点滴を剥がしちゃうから。それはまずいからね。記憶にはないけど、ヤバかったんだなあと知りましたよ」ただし収穫もあった。蟄居(ちっきょ)せざるをえなくなり、これまで読めなかった本をじっくり読む機会に恵まれたことだ。「いま読んでいるのは、広野八郎さんという人の作品。外国航路の貨物船の底辺で、石炭夫だった著者が虫ケラのように働いている話。昔の日本人は強かったんだなということを思い知ったり、封建時代の掠奪(りゃくだつ)というのは酷いものだったんだな、などと発見がいっぱいありますね」 「体力作家」と呼ばれ、次から次へと新しい遊びを考えだし、多彩な活動でファンを魅了してきた椎名さん─。「おれ、結構生き長らえてきたじゃないですか。修羅場に強いんだなあ、と。それもネタになるし。まあ、持って生まれた作家魂なのかもしれないけどね(笑)」そう言って微笑むと、作家はビールをグビリと飲んだのだった。〈取材・文/小泉カツミ〉こいずみ・かつみ ●ノンフィクションライター。芸能から社会問題まで幅広い分野を手がけ、著名人インタビューにも定評がある。『産めない母と産みの母~代理母出産という選択』『崑ちゃん』(大村崑と共著)ほか著書多数
2021年11月20日