その霊能力のために、楽屋では霊視を求める先輩芸人たちが行列をつくることもあるという、吉本興業所属の“霊がよく見える”芸人・シークエンスはやとも。『ポップな心霊論』は、そんな彼が人生で見てきた霊たちや霊現象などを紹介していくコラム連載!【リサイクルショップで見つけた激安のブランド食器】最近、新居の家具やインテリアを揃えようと、リサイクルショップめぐりをしています。先日行ったお店には食器も売っていたので、なんとなく見て回っていたら、僕でも見たことのある超有名ブランドのお皿がひっそりと置いてあったんです。中古でもきっと高いんだろうなと値段を見てみると、なんとたったの90円!周りの普通のお皿でもそんな激安価格のものはなかったので、なんだか不思議に思いました。そこで店員さんに「なんでこんなに安いんですか?」と聞いてみると、「それ、なぜか3回くらい戻ってきてるんですよね。だからその値段なんです」とのこと。なんでも売れたと思ったら、新しい持ち主がまたすぐ買い取りに出しに来るんだそうです。霊的な何かがあるのかもと、そのお皿を霊視してみたんですが、まったく何もついていません。とくに嫌な感じもしないし、僕には何度も売りに出される理由がわかりませんでした。ただ、わからないのが逆に怖くて。お金を払って自分のものになった瞬間、何か恐ろしいことが起こるかもしれないですし。一瞬、買って検証してみようかとも思ったんですが、僕には勇気が出ませんでした……。【PROFILE】シークエンスはやとも1991年生まれ。吉本興業所属。『ホンマでっか!?TV』(フジテレビ系)などで見せた芸能人の霊視も話題に。自身のYouTubeチャンネルでも心霊話を配信中。昨年8月には本連載をまとめた初の著書『ヤバい生き霊』(光文社)が発売された。
2021年10月10日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラム「石井ゆかりの幸福論」。 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。今回は、第12のテーマ、「幸福」とは何か。(前編)をお届けします。12.「幸福」とは何か。(前編)第12ハウスのテーマから「幸福とは何か」を考えたとき、私は2つのことを思い浮かべました。ひとつは、「人間が最も大きな幸福を感じるのは、どんなときか」ということです。これは、このシリーズでも何度か書いたように思いますが、「心配事が解決したとき」「心待ちにしていた人が帰ってきたとき」「辛い病気が快癒したとき」「苦しみが終わり、安らぎが来たとき」なのではないかと私は考えています。何か辛いこと、悲しいこと、強い制限やガマンしている状態があって、それが「解除」されたとき、私たちは雨上がりの虹と青空を見上げるように、突き抜けるような「幸福だ!」という思いを味わいます。たとえば恋人に愛を伝えたり、生涯のパートナーとなってくれるようにプロポーズしたりする時でも、思いを伝える側は極度に緊張し、「もし受け入れてもらえなかったらどうしよう」という恐怖を感じます。申し出を受ける側も、それを期待している場合は特に「このまま相手が態度をハッキリさせなかったらどうしよう」という深い不安や孤独感を抱くものだろうと思います。こうした暗い疑念や不安が深ければ深いほど、「告白」が受け入れられたときの喜びが大きくなるものではないでしょうか。もうひとつは、「主体感」「自己効力感」というようなもののことです。「自分の力でやった」「自分の判断でやった」「自分の意志でやった」という手応えは、幸福の重要な条件ではないでしょうか。たとえば、自分が取り組んだゲームがうまく行ったときでも、それが全くの偶然でうまく行ったときと、自分自身の創意工夫、技術などでうまく行ったときとでは、喜びの質が異なります。「自分が頑張って成し遂げたのだ」「自分の力で出来たのだ」と感じる時、私たちはその喜びを受けとる「正当な権利を持っている」と思えます。たとえば、自分で首や脇の下を触ってもなんともないのに、他人が触ってくると「くすぐったい」と感じます。同じように同じ部位を触っても、「自分で触った」のと「他人が触った」ので感じ方が変わります。私たちは「自分がやったこと」と「他人がやったこと」を、こうした感覚レベルでさえ、細かく区別しています。苦しみが解決したとき。そして、自らの行動で良いことが起こったと感じたとき。この条件が「幸福」を生み出すのではないか、と私は想像しました。たとえば、保険会社やハウスメーカーの「幸福な家族」のイメージを思いえがいた時、「彼らは生まれつき裕福な家庭に生まれ、何の問題もなく育ち、特に挫折することもなく出会い、子供を持ち、みんな健康で、引き続き問題なく裕福に暮らし続けている」と考えると、なんとなく薄ら寒いような、リアリティのなさを感じてしまいます。もちろん、そういう家庭も存在するかもしれませんが、それが「幸福の究極の形」と言えるかというと、頷けない気持ちになります。一方でもし、その家族は実は、破産を乗り越えてもう一度再生した家族だったとか、家族の誰かが重病から回復したとか、そういった「苦労した過去」があったなら、「この人達は今現在の幸せの価値や意味を、誰よりも知っているのだろうな!」と想像したくなります。また、「ギフトを受けとる側と、ギフトを贈る側では、どちらが幸福か」というテーマがあります。ずっと欲しかったものや憧れていたもの、見た瞬間に気に入るようなものを「プレゼントされる」のは、確かに嬉しいものです。でも、自分が贈ったギフトを大喜びして受けとり、ずっと大事に愛用してくれている、といったことのほうが、喜びの「重み」は大きいのではないかという気がします。これは「自分の力でよいことが起こった」という喜びに属するはずです。「石井ゆかりの幸福論」という壮大なお題をいただいて、ホロスコープの「12のハウス」をそのまま章立てにして、ここまで「幸福」とは何かを考えてきたわけですが、最終章である「第12ハウス」は、現代的には「無意識、過去、秘密、自己犠牲」などを象徴する、とされます。ただ、古い時代の占星術では、このハウスはあまり良い象意を与えられていません。その解説には「悪い予兆、不運、自己破壊、奴隷、使用人、危険、外国、敵、隠れた敵、魔女、犠牲、国外追放、自己犠牲、幽閉、隠遁、恐れ、病」などというキーワードが並びます。どれも「幸福」のイメージからはほど遠い言葉たちです。実は、これらのキーワードには、第6ハウスと共通するものが少なくありません。第6ハウスは現代的には「雇用関係、仕事の状態、家事、健康」ですが、伝統的占星術では「使用人、奴隷、病気、敵、不運」などが当てはめられるのです。12室と6室は向かい合っていて「ポラリティ」で結ばれています。対岸のハウスはその意味合いにつながりがあり、あるいは「反転」しているのです。たとえば第1ハウスは「自己」で、第7ハウスは「他者、パートナー、相手」です。第3ハウスは「基礎的学習、兄弟姉妹、短い旅」、第9ハウスは「専門的な学問、遠い親戚、長旅」となります。「自分」の対義語は「他者・相手」、「近い」の対義語は「遠い」だとすると、向かい合ったハウスは対義語の関係になっている、と言えるかもしれません。第6ハウスと第12ハウスの意味合いが似ているのは、両者に割り当てられた惑星がともに「凶星(マレフィック)」、すなわち火星と土星だという点に関係があるのかもしれません。古い時代の星占いでは吉凶がかなりはっきりと語られる傾向があります。一方、現代的な占星術の世界では、「吉凶とはそもそも、なんなのだろう?」という掘り下げが行われますので、「幸運・不運」だけをバッサリ決めてしまうような考え方は、あまりしないように思われます。……後編へ続きます。>>次回もお楽しみに(2021年10月25日更新)
2021年09月25日その霊能力のために、楽屋では霊視を求める先輩芸人たちが行列をつくることもあるという、吉本興業所属の“霊がよく見える”芸人・シークエンスはやとも。『ポップな心霊論』は、そんな彼が人生で見てきた霊たちや霊現象などを紹介していくコラム連載!【ヤバい心霊スポットを見つけてしまいました】心霊スポットめぐりのロケで、森の中にある祠を訪れました。そこは昔、息子が父親を鉈で切り殺した事件の現場になったとされている場所。噂の真偽は不明ですが、心霊スポットであることは間違いありません。だって、その祠の周りには、ものすごい数の幽霊が集まっていましたから。まるで満員電車のような混雑具合で、思わず手でかき分けながら歩いてしまったくらいです。今までいろいろな心霊スポットをまわってきましたが、あんなに大勢の幽霊がいた場所はほかにないですね。もしも長時間とどまっていたら、精神的におかしくなってしまいそうな雰囲気でした。実際、スタッフさんのなかには具合が悪くなった人もいましたし、さすがの僕も、ちょっと圧倒されましたね。ただ、もし冒頭で紹介した殺人事件が実際に起きていたとしても、それが原因で心霊スポットになったというわけではなさそうです。むしろ、あの祠の影響を受けて凶行に及んだと考えたほうが納得できます。もし、場所に心当たりのある方がいても、興味本位で近づかないようにしてくださいね。どうしても行きたいということなら、自己責任でお願いします……!【PROFILE】シークエンスはやとも1991年生まれ。吉本興業所属。『ホンマでっか!?TV』(フジテレビ系)などで見せた芸能人の霊視も話題に。自身のYouTubeチャンネルでも心霊話を配信中。昨年8月には本連載をまとめた初の著書『ヤバい生き霊』(光文社)が発売された。
2021年09月05日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラム「石井ゆかりの幸福論」。 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。今回は、第11のテーマ、「友」と「希望」。(後編)をお届けします。11.「友」と「希望」。(後編)私は自分が愛読する本の作者を、勝手に友だと感じています。でも、生身の彼らに会って友達になれるか、というと、絶対になれないだろうな!とも思います。人間は色々な部分でできていて、その部分のいくつかで友情を交わせれば、それでいいのではないでしょうか。毎日挨拶をするお店の店員さんも、家に帰れば全く違った表情をしているかもしれません。でも、その人の全てと友情を交わすのでなくとも、たった一瞬の積み重ねで、温かな細い糸が紡がれていく、ということで、十分だという気がするのです。夢も同じです。庭の花を育て、窓ガラスを拭き、食事を支度し、書類のブランクを埋め、ダンボールをまとめてしばり、といった具合に星屑のようにたくさんの日々の夢が散らばっていて、その小さな星屑を一つ一つ集めて、それで人生の道筋ができていく、ということではないかと思うのです。たった一つの巨星を追いかけつづけるような人生もあれば、星屑で出来た天の川を歩き続けるような人生もあるのだと思うのです。全ての瞬間の中に、11ハウスのテーマがきらめいている。そんな生き方ができれば、すばらしいだろうな、と思います。そしてそれは、けっして、それほど大それたことではないだろうとも思うのです。本稿のタイトルは「友」と「希望」としました。「希望」と「夢」は、似ているようで違います。「夢」はビジョンですが、「希望」には、絵面はありません。「希望」とは、「なにかはわからないけれど、なにかきっといいことがある」という信念のことだと思います。「夢」は持てなくとも、「希望」は持てます。「希望」は、人が生きていくためにどうしても必要な思いであり、他者と関わる時にも絶対に必要な合い印です。希望を失った人は、いわゆる「セルフ・ネグレクト」のような状態に陥ります。自他を破壊するような衝動、自分を放棄するような衝動に駆られます。絶望と孤独は密接につながっています。そこは、光の射さない、深い洞窟のような場所です。現代社会において、社会生活の大部分は「ルール」と「ビジネス」でできています。「仕事だからやる」「ルールだからやる」ということだらけです。仕事でもきまりでもないけれどもやる、という活動は、「個人的な趣味」と見なされがちです。11室のテーマは「友」と「夢、希望」で、これらはルールでもビジネスでもありません。ゆえに現代的な目には、これらは「個人的なテーマ」と映ります。でも、11ハウスは本来、プライベートな世界ではありません。この場所は世の中そのもの、社会そのものです。「一人の人間として、自由な気持ちのもとに社会参加する」ということは、特殊な活動と考えられがちです。でも、本来はもっと自然なことであり、多くの人が願い目指すことであり、もっと祝福された活動なのではないか、と思われます。たとえば日本では選挙の投票率がなかなか上がりませんが、投票行動は11ハウスのテーマと考えられます。もちろん、自分一人だけの利益を追求するために投票に行く人もいるかもしれませんが、多くの場合はどんな立場であれ「みんなが幸福になるためには、こんな状況はおかしい」「もっといい世の中にしたい」というビジョンを抱いて投票に臨むはずです。そこには希望があり、同じ社会を構成する他の人々との、友愛の感情があります。11ハウスの対岸には、5ハウスがあります。5ハウスは個人としての愛や歓びを象徴します。対する11ハウスは、自分を取り巻くこの世の中への愛や、社会的な喜びを象徴します。11ハウスの「公共性」のイメージが、両者の対比で際立ちます。人間は個人的にも、社会的にも、「自分さえよければいい」という具合にはいかないのだろうと思います。愛する人が、ひいては全世界の人が幸福になってくれなければ、自分自身も本当に幸福にはなれない。そういう思いが、この5ハウス-11ハウスのポラリティに示されているような気がするのです。>>次回もお楽しみに(2021年9月25日更新)
2021年08月25日その霊能力のために、楽屋では霊視を求める先輩芸人たちが行列をつくることもあるという、吉本興業所属の“霊がよく見える”芸人・シークエンスはやとも。『ポップな心霊論』は、そんな彼が人生で見てきた霊たちや霊現象などを紹介していくコラム連載!【人気番組で怪奇現象が起きた四国のお寺に行ってきました】僕が大好きな番組内で、怪奇現象が起きたのを見たことがあります。お遍路でめぐる四国八十八ヶ所霊場のひとつでロケをしていたとき、急にカメラの調子が悪くなって、出演していた俳優さんの姿が、糸がほどけるようにちりちりと消えていったんです。その真相をこの目でたしかめたいと、先日実際にその場を訪れてみました。すると、いい気にあふれていて、ほかの霊場と比べてもパワーが強いように感じたのですが、祀られていたのが日本三大怨霊の一人、崇徳天皇だったんです。彼の生涯はとても不遇で、最後には罪人として島流しにされ、憤死したような人。今でこそ神様として祀られていますが、亡くなった当時は数々の災いを引き起こした怨霊だと恐れられていました。そういう過去を考えると、崇徳天皇はたぶん、馬鹿にされるのが大嫌いなんだと思います。実は、さきほど紹介した番組では、出演者がこのお寺をちょっと茶化すような雰囲気で紹介していたんです。だから、崇徳天皇が怒ってしまって、怪奇現象を起こしたんじゃないでしょうか。たしかに、不憫な人ではあるんですが、器はかなり小さめのようです(笑)。【PROFILE】シークエンスはやとも1991年生まれ。吉本興業所属。『ホンマでっか!?TV』(フジテレビ系)などで見せた芸能人の霊視も話題に。自身のYouTubeチャンネルでも心霊話を配信中。昨年8月には本連載をまとめた初の著書『ヤバい生き霊』(光文社)が発売された。
2021年08月22日yama(ヤマ)が新曲「希望論」を発表。映画『DIVOC-12(ディボック-トゥエルブ)』の主題歌となる。yamaの新曲「希望論」yamaは、2020年4月にリリースした自身初のオリジナル楽曲「春を告げる」がヒットを飛ばした人気アーティスト。9月1日(水)に発売される自身初のCDアルバム『the meaning of life』や、9月29日(水)よりスタートする全国ライブツアーも注目を集めている。そんなyamaが新曲「希望論」を発表。同曲はCDアルバム『the meaning of life』に収録される予定だ。yamaは新曲について、「この曲に込めた思いは『この歌だけ僕の本当だ』と歌にある通りです。正解か不正解かは問題ではなく自分だからこそ見える景色を作品として残し続けること。それが自身の存在証明であり真実です。『希望論』という曲が皆さんに少しでも伝われば嬉しいです」とコメントしている。横浜流星や松本穂香ら出演映画『DIVOC-12』主題歌になお「希望論」は、10月1日(金)公開の映画『DIVOC-12』の主題歌となる楽曲。映画『DIVOC-12』は、『新聞記者』で第43回日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞した藤井道人、『カメラを止めるな!』の上田慎一郎、『幼な子われらに生まれ』の三島有紀子に加え、公募で選ばれた新人9名を含む12人の監督が、12の物語を紡ぐ共同制作プロジェクトだ。キャストには、横浜流星、松本穂香、小関裕太らが集結する。【詳細】yama 新曲「希望論」※2021年9月1日(水)発売CDアルバム『the meaning of life』に収録。※配信未定。■映画『DIVOC-12』公開日:2021年10月1日(金)キャスト:横浜流星、松本穂香、小関裕太、富司純子、藤原季節、石橋静河、小野翔平、窪塚洋介、安藤ニコ、おーちゃん、清野菜名、高橋文哉、蒔田彩珠、中村守里、中村ゆり、髙田万作、笠松将、小川紗良、横田真悠、前田敦子監督:藤井道人、上田慎一郎、三島有紀子、志自岐希生、林田浩川、ふくだみゆき、中元雄、山嵜晋平、齋藤栄美、廣賢一郎、エバンズ未夜子、加藤拓人製作・配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント©2021 Sony Pictures Entertainment (Japan) Inc.
2021年08月19日その霊能力のために、楽屋では霊視を求める先輩芸人たちが行列をつくることもあるという、吉本興業所属の“霊がよく見える”芸人・シークエンスはやとも。『ポップな心霊論』は、そんな彼が人生で見てきた霊たちや霊現象などを紹介していくコラム連載!【霊能力があっても幸せになるのは難しいものです】先月、30歳になりました。実は、誕生日にはあまりいい思い出がないのですが、数年前に当時の彼女に祝ってもらったときのことは今でもよく思い出します。お互いお金がなかったので、豪華なデートはできませんでしたが、彼女が料理を作ってくれたり、ケーキを分け合って食べたり、すごく満ち足りた時間でした。今は多少お金も持っていますが、あのとき以上に幸せな誕生日を過ごすのは、意外と難しい気がしています。僕は霊能力のおかげで、周りの人を霊視して人間性を見抜くことができますが、かといって簡単に幸せになれるわけではありません。生き霊チェックも万能ではなくて、ものすごく思い込みの強い人とか、自分の非をいっさい認めないような人は、本性を見破るのが難しいんですよね。本人が自分の悪いところをまったく認識していないと、魂にも反映されないみたいです。ものすごくレアなケースですが、実は1度だまされた経験があって。それ以来、人間関係に対してさらに慎重になってしまいました……。めずらしく、しんみりしたことを語ってしまいましたが、30代のシークエンスはやともも、どうぞよろしくお願いします!【PROFILE】シークエンスはやとも1991年生まれ。吉本興業所属。『ホンマでっか!?TV』(フジテレビ系)などで見せた芸能人の霊視も話題に。自身のYouTubeチャンネルでも心霊話を配信中。昨年8月には本連載をまとめた初の著書『ヤバい生き霊』(光文社)が発売された。
2021年08月15日8日に閉幕を迎えた東京オリンピック。約2週間の開催期間中、SNS上では「マツケンサンバ」待望論があふれ、関連グッズが完売する事態となった。7月23日に行われた開会式前後から注目を集め、一時はTwitterのトレンドに「マツケンサンバ」が急上昇。世界に誇る日本の武士をモチーフにしたキャラクターということもあり、「早くマツケンを呼んでくるんだ!」「松平健にマツケンサンバ踊ってもらおうよ!」などの投稿が相次いていた。そんなマツケンフィーバーに呼応するように、“マツケングッズ”への注目度が一気に上昇。19年1月9日にリリースされた「マツケン・アスレチカ」の記念グッズとして数量限定で販売されていた「マツケン・アクキー(アクリルキーホルダー)」へのアクセスが急増し、瞬時に完売となった。完売後も購入できなかったユーザーから2,000件以上の再入荷希望が寄せられる事態となり、この反響を受けて販売元の徳間ジャパンストアでは急きょ期間限定で予約販売の追加受付を13日18時まで受け付ける対応を取ることになった。商品の発送は、9月上旬以降を予定しているという。
2021年08月09日その霊能力のために、楽屋では霊視を求める先輩芸人たちが行列をつくることもあるという、吉本興業所属の“霊がよく見える”芸人・シークエンスはやとも。『ポップな心霊論』は、そんな彼が人生で見てきた霊たちや霊現象などを紹介していくコラム連載!【余命宣告された芸人の最後の願いはかなったけれど……】ある芸人さんの先輩が、重い病いに侵されて、余命を宣告されてしまったといいます。でも彼は「最後まで舞台に立っていたい」と、その後もライブに出続けました。ただ、売れない芸人のライブなので、客席は半分も埋まりません。それなのに、あるときからその先輩が「最近は満席続きでうれしい」と言い出したそうです。周りの芸人はおかしいと思いつつ、病気のことがあるので、はっきり否定もできません。すると先輩はこう続けました。「でもいつも1人だけ、絶対に笑わない女のコがいるんだよね。あのコを笑わせるまでは死ねないわ」。もちろん、そんな女のコは実在しないのですが、それが生きる活力になるならと、みんなで口裏を合わせてだまっていたそうです。そして1カ月ほど経ったころ、出番が終わった先輩が「あのコが初めて笑ったよ」と、満面の笑みで楽屋に戻ってきたといいます。その日はみんなで喜びあい、幸せな時間を過ごしたのですが、数日後に先輩の容態は急変し、亡くなってしまったそうです。この話をしてくれた人は「そのコは笑わせちゃいけなかったんだよ」と悲しそうにしていました。たぶん彼女は死神だったんでしょうね。【PROFILE】シークエンスはやとも1991年生まれ。吉本興業所属。『ホンマでっか!?TV』(フジテレビ系)などで見せた芸能人の霊視も話題に。自身のYouTubeチャンネルでも心霊話を配信中。昨年8月には本連載をまとめた初の著書『ヤバい生き霊』(光文社)が発売された。
2021年08月01日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラム「石井ゆかりの幸福論」。 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。今回は、第11のテーマ、「友」と「希望」。(前編)をお届けします。11.「友」と「希望」。(前編)友達がたくさんいる人、夢を持っている人。この2種類の人々は、もしかすると現代社会でもっとも「肯定される人」なのかもしれません。「友達がいない」「自分が何をしたいのかわからない」と悩んでいる人は、現代社会にはたくさんいます。人間がかかりうる最も大きな病が孤独と絶望なのだとすれば、「友達と夢があればとりあえず大丈夫」と言えるのかもしれません。先日、ヘミングウェイの名作「老人と海」を再読していたのですが、たった一人で漁に出て行く老人サンチアゴには、少年マノーリンという友があり、大物を釣り上げようという夢があります。この2つの条件によりサンチアゴは、認知症の影を見せ始めていながらも、とても充実した人物に見えます。ホロスコープの12の「ハウス」のうち、第11ハウスは最も祝福されたハウスと言っていいかもしれません。そこには古く「友、希望、贈り物、才能、将来の夢」といったテーマが並べられ、大吉星である木星が、ここに位置するとき喜ぶ、とされています。人間が人生において望みうるもののうちもっとも大きなものが、この11室という場所に関連付けられています。どれもお金では買えないもの、「授かる」しかないものたちです。こう考えてみて、自分自身を振り返ると、「私には、仕事以外でマメに連絡を取り合うような相手はいないし、これを目指しているとはっきり言えるような夢もないな」と、苦笑したくなります。ただ、それで自分がとても恵まれない不幸な人間だと感じるか、と言えば、そうでもないように思われます。「夢」と言えば「人生を賭けるような夢!」のイメージが浮かびます。「友」と言えば「終生信頼し合い、支え合い、いつでも何でも相談できる親友」を想像したくなります。でも、もしかすると、「夢」や「友」は、そんなに大それたことでもないのかもしれません。たとえば「日々の夢」は、そんなに高く輝かしいものではなくて、ただ「今日やるべきこと」「やってしまいたいこと」程度のものなのかもしれません。しばしば仕事を引退した人たちが「やるべきことや通う場所がなくなると、一気に老いる」と語ります。「夢」は、ここから一歩でも二歩でも先に進んだ場所にいる自分のビジョンだと考えると、このことはしっくりきます。日々のタスクは、ごく小さな単位の「夢」なのです。「友」も、「ズッ友だよ!」というような「友」だけが友ではありません。日々挨拶する隣人や顔見知りのコンビニの店員さん、行きつけの店のスタッフなど、「知人」レベルでもうっすらとした親愛の情が存在するもので、それで十分「友」なのかもしれません。たとえば災害に見舞われたようなとき、そうした「顔見知り」とは、すぐに声をかけ合ったり、助け合ったりできるでしょう。外国で孤独を感じているとき、自国の人に出会うととても嬉しくなる、といったことがあります。人間同士の心の距離とはそんなもので、お互いをわずかにでも「知っている」と思えれば、それで十分なのかもしれません。純粋で、完璧で、絶対的な「友」「夢」というのは、たしかにそうしたものを持っている人もいますが、多くの場合は幻想なのではないでしょうか。更に言えば、人間は成長し、変容します。それとともに、夢も友も、変わっていくものです。11ハウスで力を持つとされる星は前述の通り、木星です。木星は、射手座と魚座の支配星です。両者は柔軟宮、変容を司る世界です。夢も友も、変化の中にあるのです。「永遠の友」は、もしかしたら、存在しないかもしれません。でも、「この瞬間の友」は、いつでも作り得ます。先日、ある人がこんな話をしていました。「子供を自転車に乗せて走っていたら、後ろから走ってくる人がいて、見れば脱げ落ちてしまった子供の靴をとどけてくれようとしていた」というのです。走ってきてくれた人は「この瞬間の友」です。その靴が落ちるのを見たのは、走ってきてくれた人だけではないかもしれません。同じように拾おうとして、先を越されたので立ち去った、という人もいるかもしれません。みんなが「その瞬間の友」です。もしあなたが今、この稿の中に共感できる部分を見いだして下さったなら、あなたは私の「この瞬間の友」です。でも、さらに成長を遂げた未来のあなたは、この稿を振り返って、とても幼稚で陳腐だと感じるかもしれません。友情は、変化していきます。とはいえ、たとえば幼い頃に読んだ絵本を愛する気持ちが終生変わらないなら、その絵本は、瞬間の友であったと同時に、永遠の友です。……後編へ続きます。>>次回もお楽しみに(2021年8月25日更新)
2021年07月25日白髪はどうして生えるのか???日本人の髪はほとんどが黒色です。世界的に見れば、金髪や茶色などさまざまです。これ実は!!!!頭皮の中の細胞が、色をつけてくれているのです!!!!なので、実は最初は白髪なのです。白髪に色つけるのを何かしらの理由でやめてしまったのが白髪として生えてくるのです。働きをやめてしまう原因ですが!!やめてしまう理由はさまざまです。老化 ストレス 遺伝 栄養障害など阻止するにはバランスの良い食事と睡眠といったお医者さんがいいそうなことは除き!!!まず、頭皮マッサージ!!!血流をよくしてあげてください!!それから、白髪予防の頭皮用美容液みたいなものもおすすめです!!一夜にして白髪になるのはフランス王妃マリーアントワネットは一夜にして白髪になったというが生理的に見れば、何か薬品でも浴びない限り、ありえないです。急激なストレスがあったとしても一晩で全ての色をつける細胞がなくなることはありませんおそらく偶然、白髪が目立ったのか王宮時代に隠していた白髪が牢獄で乱れた為に多く見えたかだと思われているそうです。
2021年07月12日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラム「石井ゆかりの幸福論」。 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。今回は、第10のテーマ、「自己実現」とはなにか。(後編)をお届けします。10.「自己実現」とはなにか。(後編)学業を修めて社会に出て、ひとつの仕事に就き、その仕事を定年まで続けて、引退後は晴耕雨読でのんびり暮らす。たとえばこのような人生を送った人には、第10ハウスのテーマ「キャリア、社会的立場」は、ごくわかりやすいものに思えるかもしれません。一方、様々な事情から社会的に複雑な道のりを歩んできた人、若いときに学びの機会が得られなかった人、結婚して仕事を辞めて家庭に入った人、「ヤングケアラー」のような立場に立たされ、ほとんど仕事を選べなかった人などの中には、「自己実現とは何か」というテーマの前で、怒りや痛みを抱きながら立ち尽くす思いをしている人が少なくありません。人に誇れるような社会的立場、収入がなければ、人生は失敗なのか。自分は幸福では無いのか。昨今では「承認欲求」という言葉が一般的になりました。「マウンティング」「キラキラ」といった言葉もよく見かけます。人から、社会的存在としてどう見えているかということを、だれもが気にしています。古い時代の第10ハウスのテーマに「評判」があります。社会的評判。人間が人生を賭けて目指す、最も高いところにあるものは、「社会的評判」なのでしょうか。社会的に評判がよければ、それこそが人生最大の幸福なのでしょうか。どんなに人からうらやましがられても、個人として幸福でなければ、なんにもならない。そう考える人もいます。パートナーや子供達から愛され、人から尊敬され、たくさんの友に囲まれることこそが人生の幸福であり、金や立場、名誉などはどれほどあっても意味がない、と語る人もいます。そうした話に耳を傾け、深く頷きながら、「そんな風に割り切れるのは、老人か宗教家だろうな」とシニカルに考える人がいます。「やりたいことをやるのが、一番だ」と言いきる人もいます。その「やりたいこと」がなんなのか、まるで解らずに、「やりたいことのない自分」を責めている人もいます。「やりたいこと」と言われて、ゲームをしたり遊びに行ったりすることを思い浮かべる人がいます。一方、「なんらかの活動をして社会的に名をなす」「儲かるビジネスをする」ことを「やりたいこと」と捉える人もいます。所属する組織の中で、どんどん地位を上げ、大きな権力を持とうとする人もいます。その権力をもって「世の中をよくしよう」と考えていたのに、いつか、権力を持って維持することだけが喜びとなっている人もいます。社会的に大きな力を持てば持つほど、それを失うことが怖くなり、自分の内側に閉じこもってしまう人がいます。自己実現とは、何なのでしょうか。社会的な成功や幸福とは、どんなものなのでしょうか。この問いへの答えは、たぶん、生きている人の数だけ存在するようにも思われます。私の知人に、生まれつきの重病と闘いながら生きた人がいます。その人は幼い頃「そう長くは生きられない」と言われながら、何度も危険な橋を渡りつつ、なんとか大人に成長しました。20代の頃、比較的病状が安定していたときに障害者採用で会社勤めをしましたが、数年で体調が悪化し、退職せざるを得ませんでした。病気のため、結婚したり子供を生んだりすることもありませんでした。退職した後、体調のよいときはボランティアをしたり、町内会の資料作成などの仕事を引き受けたりしました。老いた両親の体調が悪くなると、自分も辛い中で、なんとか面倒を見ました。たくさんの本を読み、映画を見、世の中のことを知ろうとしていました。病気のために足が悪くなっても、出かけるのが好きなお母さんを、色々な場所に連れ出しました。やがて病状が悪化し、50代の若さで亡くなりました。私たちは、自分の人生の全体を知ることはできません。いつも途中までしか解りません。もとい、死ぬ間際に「これが自分の人生だった」と総括することができる人もいるでしょう。ただ、私が知人の人生をこんなふうに短くまとめたようには、本人が捉えることは難しいのではないかという気がします。素晴らしい頭脳の持ち主だった知人が、「もし、病気がなかったら、どうだっただろう」と想像したくなることはありました。でも、病気のせいで知人の人生が「自己実現」を阻まれたのかというと、それはちょっと違うのでは無いかという気もするのです。もちろん、本人の思いと、他人の認識は全く異なります。知人自身は、自分の病を恨んでいたかもしれません。ただ、私から見れば、知人の人生は本当に力強く、ひたすら尊敬に値するものでしかありません。どんな有名人の人生、どんな成功者の人生とくらべても、知人の人生はなんらひけをとるものではありません。それどころか、私の目には、だれの人生よりもたちまさって感じられます。ドラッカーは「なにをもっておぼえられたいですか?」と問いかけました。たとえば自分が死んだ後で、自分のことを思いだしてくれた人が、「あの人はこんな人だった」と語るとして、それはどんな表現だったら満足か、というのです。「あの人は野球の名選手だった」「あの人は名監督だった」などと言われたい人もいるでしょう。「あの人は素晴らしい職人だった」「ユニークな芸術家だった」「多くの人の命を救った医師だった」などと言われる人もいるでしょう。「情熱的な営業マンだった」「誰よりも愛されたガイドだった」「最高の父親だった・母親だった」「かけがえのない親友だった・恋人だった」等と言われたい人もいるかもしれません。人の人生は一言でまとめられるようなものではありませんが、その人と関わった人には、なんらかの記憶と印象が残ります。私は知人の印象を、「誇り高く、強く、人間として限りなく尊敬できる人生を送った人だった」と記憶しています。第10ハウスがもし「評判」ならば、ドラッカーの問いは正鵠を射ています。「なにをもって記憶されたいか?」という問い、そしてそのあとには「そう記憶してもらえるような生き方をしているか?」と続きます。その答えこそが、第10ハウスの幸福の答え、なのだろうと思うのです。……後編へ続きます。>>次回もお楽しみに(2021年7月25日更新)
2021年06月25日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラム「石井ゆかりの幸福論」。 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。今回は、第10のテーマ、「自己実現」とはなにか。(前編)をお届けします。10.「自己実現」とはなにか。(前編)「私は今、子育て中なので、占いに『仕事』と書いてあっても、関係がありません。どのように読んだらよいでしょうか?」「今は仕事をしていないので、占いに『目標達成』『ミッションのスタート』『社会的立場やキャリア』などの表現が出てくると、自分のことではないと思ってしまいます」過去にこうしたご質問を、しばしば頂いてきました。「仕事」か、「家庭」か。現代ではかなり変化も出てきましたが、それでも尚、この命題が多くの女性の目の前に置かれる状況は、少なくとも日本の社会では、続いていると言わざるを得ません。星占いで用いる第10ハウスは、一般には「仕事」「キャリア」「職業」などを象徴するといわれます。実際、「私の適職は何ですか?」などのご質問があればまず、第10ハウスに注目する占い手が大半だと思われます。もちろん、それ「だけ」では回答できませんが、まず最初の一歩として第10ハウスの様子を見るのは王道です。雑誌の記事等で占いを執筆する上でも、第10ハウスに星が入れば「目標達成」「仕事が忙しくなる」「キャリアの転機」などと書くことになります。では、第10ハウスは本当に、「子育てや介護で、主に家庭の中のことを担っている人」には、「関係がない」のでしょうか。ホロスコープの円で、第1ハウス-第7ハウスカスプのライン、これは言わば「地平線」、あるいは「地面」です。ゆえに、第1ハウスから第6ハウスの半円は、「地面の下」です。一方、第7ハウスから第12ハウスは「地面の上」です。ホロスコープを読む上で、地面の下にあたるハウスは「内側の世界、プライベート、原点、個人」を象徴し、地面の上にあるハウスは「外界、他者、パブリック、世の中、集団」を象徴する、と大きく捉えることができます。もちろん、各ハウスの機能を細かく見ていけば、12ハウスのテーマには「隠遁」があったり、6ハウスは「義務、責任」だったりと、簡単に「プライベートか、おおやけのことか」というふうに割り切ることは難しいのですが、ハウスのイメージを掴む上では、「見えている空は外界で、見えない部分はインナースペース」と捉えると、だいぶ解りやすくなります。そう考えると、9、10、11ハウスあたりは、ホロスコープにおいて「もっとも広い場所」「最も遠い場所」です。一人の人間として生まれて、成長とともにどんどん行動範囲を拡大した結果、たどり着くのが9ハウスから11ハウスあたりというわけです。12ハウスになると、第1ハウス、つまり「スタートライン」が視野に入ります。私たちはぐるっと世界を巡って、最終的にはなんらかのかたちで、またもとの世界に戻ろうとするものなのかもしれません。人生において目指していく、一番遠い場所。人生でたどり着ける、一番高い場所。これが第10ハウスのイメージです。とするなら、たとえば幼い頃から「結婚して温かい家庭を作り、子供を育てる」ことを夢見ていた人は、第10ハウスは「自分が創り上げた家庭」であっておかしくありません。実は、古い時代のホロスコープ解釈では、第10ハウスのテーマとして「子供」が置かれていたこともあるのです。かつて、各種産業の家族経営や世襲が一般的だった時代には、家を継いでくれる確かな子供を持つことは、社会的使命に近いものでした。場合によっては、その人自身の社会的評判や地位に直結することだったのです。いまだに「家の跡継ぎを産み育てること」を子供に要請する人々は存在します。子供を育てることは、社会的なテーマだったのです。一方現代では「子供を持つことは、あくまでプライベートなこと」なのでしょうか。そう考えている人もたくさんいますが、本当は、そうではありません。もし本当に子育てが個人的生活だけに帰属するテーマであるなら、たとえば義務教育という考え方や子供のための各種施設、青少年を保護するための法律などは、存在しなくてもよいはずです。子供は未来の大人であり、社会の構成員です。どんなに親子が親しく深い愛情で結ばれていても、親と子供は別々の人間であり、子供には子供の社会的権利があります。子供もまた「他者」です。子供と関わるということは、個人としての情愛の問題だけに留まりません。それは、かつて以上に社会的な活動なのです。会社で同僚や上司や顧客と関わるのと同じように、社会的関わりという側面を多量に含んでいるはずです。……後編へ続きます。>>次回もお楽しみに(2021年6月25日更新)
2021年05月25日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラム「石井ゆかりの幸福論」。 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。前回に引き続き、第9のテーマ、遠く仰ぎ見て「わたしとは何か」と問う。(後編)をお届けします。9.遠く仰ぎ見て「わたしとは何か」と問う。(前編)はこちら >>9.遠く仰ぎ見て「わたしとは何か」と問う。(後編)「自分は誰なのか」、すなわち「アイデンティティ」は、とても危険な概念でもあります。なぜなら、簡単に差別意識やナショナリズム、排外主義などに結びつくからです。特に、ごく狭い視野の中で、小さな世界だけの経験で生きている人は、「他者」「異邦人」が理解できず、ゆえに「怖ろしい」「危険」と感じ、ほとんど無意識に排除しようとします。人間は「わからない」ものは、幽霊から虫から、すべて「こわい」のです。でも、ごく広く旅をした人なら、「アイデンティティ」の捉え方も変わります。日本にいる間は「関西の人は苦手」「九州は怖い」などと感じている人も、遠く海外に旅に出て、現地で日本人に出会ったら、相手がどこ出身だろうと「仲間!」と感じられます。同じく、宇宙人の集団に囲まれたとき、地球の人間に出会えたなら、「仲間!」と思うはずです。広く旅をし、深く学んだ人は、「わからない」を「わかる」に変えていきます。更にそのプロセスで、「わからない」ものとのつきあいかたを身につけていきます。どんなに賢くても、どんなに多くを学んでも、全てを知り尽くすということはできないでしょう。ゆえに、この世界には常に「わからないもの」が残っているわけですが、そうした「わからないもの」も、いつか「わかるようになる」可能性があります。むやみに恐れたり排除したりするのではなく、「わからない」という状態を受け止め、「わかるかもしれない」道を探すのです。広い世界を旅し、深く学んだ人は、差別や排外主義的な観念に陥りにくくなります。「理解できる」と思える範囲が広く深くなるからです。「私は何者か」を、限りなく広い世界のなかで捉え直し続ける作業は、自分以外の人々を幸福にする力を授けてくれます。なぜなら、誰も排除されたり、差別されたりしたくないからです。人間は「自分だけが幸福ならそれでいい」とは、いかないのです。開きなおってそう思ってみても、心のどこかに罪悪感がうずきます。自分が誰かを、特に相手の行為とは関係なく「怖い、いやだ」と感じたとき、そう思われた相手は、多少なりとも傷つくのです。学ぶこと、旅することは、それ自体が本来、楽しい体験です。ですがさらにここで、第9ハウスのテーマとして、「なぜ学び、なぜ旅をするのか」という問題が出てくる気がします。この「なぜ」は、おそらく倫理や道徳といった、私たちが社会集団を作って暮らす上で欠かせない概念、「善」というものと結びついているのではないかとも思います。本稿のテーマである「幸福」について考えると、第9ハウス的「幸福」は、ただ自分一人の幸不幸に留まらないように思われます。「道徳的であろう」「善くあろう」とすることは、他者の存在が前提となっています。たいていは、「自分以外の誰かのために」、道徳的であろうとするのです。つまり、第9ハウスの「旅、学び、宗教、法律」というテーマには、「集団の中で生きるにあたり、いかに他者の幸福を大事にするか」という観念が組み込まれています。徳の高い人は、幸福なのです。そして、徳の高い人とは、他者に対して誠実に、真実に振る舞える人のことを意味します。「自分とは誰なのか」を探しに出かけたとき、究極には「自分は結局、善い人間であり、正しく生きようとしている人間だ」という答えにたどり着かなければならないはずです。もし「自分は弱く卑怯で、クズのような人間だ」という答えにたどり着いたとしたら、まだ旅が終わらないでしょう。そこから「では、どうすればいいのだ?」という問いが生まれてしまうからです。第9ハウス的な幸福とは、社会集団の中で生きる上で、より「善いもの」はなんなのかを探し当てる、ということに結びついている気がします。利他心、集団性、アイデンティティ。社会の中で何を「崇高なもの」とするか、そしてそこにどう到達するかということが、一つの大きなテーマとなっているのです。「古代の人類は、ある場所に住んで一定期間を過ぎると、その場所を捨てて別の場所に移動していくという生き方をしていたのだ」という記事を読んだことがあります。一つの場所に住み続けた後では、ゴミや排泄物などが蓄積されます。そのうち住環境が悪くなってくるので、その場所をあとにして移動していった、というのです。現代にも、似たようなことはあります。たとえば、ある土地や集団において、嫌な辛いことが起こると、私たちはその場所から遠く離れたところで「人生をやりなおす」ことができます。そこでは、自分自身というものを「生まれ変わらせる」ような体験をする人もいます。「長距離の移動」はこんなかたちでも、人間のアイデンティティと結びついています。第9ハウスは、ホロスコープの中でもっとも「広い世界」「遠い世界」を象徴しています。この世界がどんなに大きいか、ということは即ち、一人の人間がどんなにちっぽけか、を実感することに他なりません。その上で尚、何か高く善いものを求めて生きようとする人間の不思議な指向性が、第9ハウスという場所にぎゅっと詰まっている気がします。もし、科学技術が発達した遠い未来、「人間とは/私とは何か」が、完璧な形でわかってしまうような時代が来たら、人間はもはや、誰も旅をしなくなるかもしれません。星占いもまた「私とは何か」「人生とは何か」を問いかける道具となることがあります。ゆえに「自分とは何か」が判明するような時代が来たら、星占いも、消えてなくなるのかもしれません。>>次回もお楽しみに(2021年5月25日更新)
2021年04月25日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラム「石井ゆかりの幸福論」。 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。今回は、第9のテーマ、遠く仰ぎ見て「わたしとは何か」と問う。(前編)をお届けします。■9.遠く仰ぎ見て「わたしとは何か」と問う。(前編)これを書いているのは2021年3月ですが、「旅行」を考えるのがまだまだ難しい状況です。でも、今回のテーマ、星占いでの「第9ハウス」は、「旅と学びと宗教の部屋」なのです。どうしても「旅」を語らないわけにはいきません。いわゆる「コロナ禍」で、私たちは「不要不急の外出を避ける」ことを求められています。「楽しみのための旅行」は、不要不急の最たるものです。少なくとも今の社会で「旅」は、人間が生きていく上で、絶対必要なものではない、とされています。ですが、長い人間の歴史を考えると、「旅=長距離の移動」は、また別の意味合いを持って見えてきます。というのも、私たち「ホモ・サピエンス」は、アフリカに起源を持ち、そこから世界中に広がったのです。祖先の長旅の結果として、私たちは今ある場所に住んでいる、と言えます。もとい、人間がどこで発生してどう拡がったか、という問題には諸説あるようですが、とにかく大陸や海を越える「移動」は起こっていたのです。私たちの祖先が「旅をした」理由は、これまた諸説あるようです。食べものを求めてなのか、気候変動のためなのか、集団同士の闘争・戦争のためなのか、疫病から逃れるためなのか、etc,.とにかく人間はごく古い時代から、山を越え海を渡り、長い長い距離を超えて、今のように世界中に住まうようになりました。もし宇宙人が地球にやってきて、人間を長期的に観察したなら、「旅は人間の習性だ」と考えるでしょう。「フンコロガシはフンをまるめる」のと同じように、「人間は旅をする」のです。なぜ、現代を生きる私たちもまた、旅をするのでしょうか。異文化に触れ、しばしば不自由な思いをし、時には身を危険にさらしても、「どこか知らない世界に行ってみたい」と考えるのは、なぜなのでしょうか。第9ハウスの向かい側は、第3ハウスです。第3ハウスも、「旅と学び」がテーマになっています。ただ、第3ハウスはコミュニケーションやショートトリップなど、比較的「近距離・身近」な世界間の移動を担います。それに対して第9ハウスの移動は、宇宙旅行まで管轄するような、ごく遠くまでの旅です。第3ハウスの記事()で、私は大阪大学の仲野先生へのインタビューのエピソードをご紹介しました。「なぜ学ぶのか」「なぜ旅をするのか」という疑問に、仲野先生は「知ることが楽しいから」と応えられたのですが、さらに私が執拗に聞いていったとき、こう仰いました。「自分が生きてる世界を知りたい、っていうことでしょうね。世の中ってどんなもんか知りたい。好奇心でしょうね。それは、自分というものがどういうものが知りたい、ということでもあると思います。納得して死んでいきたい。」私たちは「自分がなんなのか」を知るために、常に外界に答えを求めます。自分が「何と同じ」で、「何と違う」か。その情報を集めることで、次第に「自分」の像をつくっていきます。友だちと遊ぶとき、しきりに「○○ちゃんと同じ!」「○○ちゃんは違う」というふうに、自分と他人の一致/相違点を探していく幼児をよく見かけます。親と自分が似ていることを無意識に確認し、そこで見つけた特徴が、自分のアイデンティティに組み込まれます。一方、親と全く違う性質を見つけたら、それもまた、自分自身の個性としてアイデンティティの部品となります。ある集団の中で「自分だけ違う」ことを痛烈に恐れるのは、大人になってからも続く傾向ではないかと思います。一方で「自分探し」をするために、あえてハデな格好をしてみたり、際立った行動を取ってみたりする人もいます。帰属意識と、差異を見いだして独立しようとする気持ち。その両者が複雑に絡み合って、「自分はこういう存在だ」という思いが形成されます。「自分がなんなのか」を知るためには、私たちは常に外部にコンタクトを取らねばなりません。よその家に遊びに行って初めて「自分の家とは違う文化」に出会います。自分が住む地域を離れて少し離れた場所に出かけたとき、新しい方言に出会い、自分の話し言葉の特殊性に驚かされます。さらに遠く海外に出ると、自分が日本人であるということを発見します。人類が宇宙旅行を夢見、宇宙人を探しに出かけたいと考えているのは、自分がどんな宇宙人と同じで、どんな宇宙人と違うかを知りたいからではないかと思います。つまり、「人間とは何か」が知りたいのです。今は地球上の動物との比較でしかわかりませんが、「他の星」の知的生命体と人間を比べたら、「人間ってこうなのか!」と、その時初めてわかることがあるはずです。私たちには「自分が誰かを知りたい」という願いがあります。「自分が何者なのか」がよくわからないとき、私たちはそれを必死に探そうとするだろうと思います。たとえば、親を「知る権利」ということが、昨今問題になっています。自分の産みの親が知りたい、という切なる思いは、否定できるものではないように思われます。第9ハウスのテーマに「宗教」があります。古い時代、庶民が旅に出る理由として、ごく一般的なのが宗教的な「巡礼の旅」でした。これだけでも、宗教と旅が密接に結びつくのは納得できます。さらに、いくつかの宗教は「人間とは何か」「わたしとは何か」に、ある程度の答えを与えてくれます。世界の創造神話にはじまり、その神を信仰する者だということ自体が「アイデンティティ」になり得るのです。「クリスチャン」「ムスリム」などの呼称が、即「わたしは何者か」という問いへの、ひとつの答えになります。遠く高い知恵に触れて、地上の自分のなんたるかを知る、ということは、「宇宙人に出会って、人間とは何かを(より深く)知る」ということと、わずかに通じるものがあるような気もします。……後編へ続きます。>>次回もお楽しみに(2021年4月25日更新)
2021年03月25日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラム「石井ゆかりの幸福論」。 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。前回に引き続き、第8のテーマ、自分の人生は「自分だけのもの」なのか。(後編)をお届けします。■8.自分の人生は「自分だけのもの」なのか。(後編)必要なものを、必要なだけ受けとる。リスクは最低限に抑える。いつも冷静に、自分の欲望に振り回されることなく、自分の損得をきちんと考えて行動する。こうした態度は確かに、大人として望ましい生き方です。ただ、ここには、ある視点が欠けています。それは、人間を生かしている「生命力」の視点です。幼い子が力の限り、長い時間泣き叫びます。じっとしていることができず、常に走り回っている子供がいます。若いときは何でも大笑いし、大興奮し、妄想を膨らませ、バカなことをたくさんしでかします。大人になってからも突如、自分の燃えるような衝動を抑えられない瞬間が訪れます。損をすると半ばわかっているのに自分の全てを賭けてしまう人がいます。ちょっとした好奇心から、違法なものに手を出してしまう人がいます。愛したものにのめり込み、没頭し、耽溺し、おぼれこんで生活が破綻する人もいます。明日早起きしなければならないとわかっているのに、深夜になってもゲームをやめられない、本を閉じられない、ドラマを見ずにいられない、といった経験に、心当たりはないでしょうか。カッとなって怒鳴り散らして後悔したり、勢いで告白してやっぱり後悔したり、職場で号泣して後悔したり、上司を殴りつけて後悔したり、といったことは、珍しいことではありますが、現実問題「よく見る光景」です。こんなふうに、私たちは自分で思う以上に、限りなく激しいエネルギーを生きています。若いときほどそれはむきだしに表れます。一方、大人になってうまく制御できるようになったと思えた瞬間、びっくりするような内なる荒波に飲み込まれてしまうことも、よくあるのです。人生の「出入り口」のリスクの問題は、私たちのこうした「生命力」に直結しています。なぜなら、外界との「出入り」が発生するのは、私たちが生きているためだからです。死んだら、呼吸も、食事も、すべての「出入り」が止まります。私たちは冷たくなり、もう、エネルギーの激しい燃焼と、それにともなう「出入り」は起こらないのです。もとい、人生にはもうひとつの「出口」があります。それは「出産・育児」です。自分の生命力は、自分という個体の中ではかならず終わりますが、新しい人間に燃え移って、継承されていきます。一人の人の人生から、もう一つ別の新しい人生が「放出される」のです。子供を生み育てることもまた、大きなリスクを引き受ける営為です。でも、私たちの内なる激しい生命力は、そのリスクを負って、命を次世代につなげていきます。こうして考えてみると、「幸福」とは、かなり複雑なものであることに気づかされます。というのも、多くの人が「しあわせになりたい」と願うとき、最初に念頭に置くのは、自分自身の幸福であるはずです。ですが、「自分の幸福とは何か」を考えていくと次第に、愛する人や子供の幸福が最大の条件となることは、珍しくありません。さらに、「幸福とは何か?」という問いの答えが「苦しみや悲しみが訪れないこと」となる場合もあります。これは、ここまで長々と述べてきた「ゲートの開閉」の問題です。喜びやゆたかさが私たちの生活に入ってくるとき、責任や義務、罪悪感などが一緒に流れ込んでしまうことも、よくあります。幸福は、自分一人だけの世界では、完結しないのです。私たちの人生は、常にいくつもの「出入り口・ゲート」によって、外界と繋がっています。ゆえに、私たち自身の幸福を考えるときはいつも、その出入り口から出入りするものに考えが及ぶのです。出入りするものは、完全にはコントロールできず、出入りの際には常にリスクが伴います。そのリスクが現実のものとなったとき、多くの人が自分を責めますし、他人が自分を責めてくることもあります。でも本当は、それを「責める」ことは、ナンセンスなのです。ゲートの開け閉めを失敗して、受け入れるべきではないものを受け入れてしまう経験を、ほとんど全ての人が持っているはずです。一方、ゲートの開け閉めの賭けに運良く勝っただけなのに、「自分は自力で成功したのだ」と信じ切っている人は、少なくありません。時限爆弾の青い線と赤い線のどちらを切るか、ノーヒントで決めなければならないような瞬間を、私たちは人生の中で、けっこうしばしば、経験しているのです。そこで爆弾をバクハツさせてしまったとして、その人の責任を問えるでしょうか。法的にはもちろん、そこがしばしば、問われます。裁判の場では、それこそが「争点」になります。でも、私たちが自分個人としての人生や幸福を考える場合は、どうでしょうか。あるいは、自分にとってごく大切な人の人生について考えるときは、どうでしょうか。かけがえのない大切な人が、赤か青か、間違ったほうを切ってしまったなら、私たちは基本的に、全力で相手をサポートしようと思うはずです。自分もまた、同じ目に遭わないとも限らないことが、わかるからです。幸福がもし、人間の心の中に生まれるものだとするなら、私たちが幸福になるにはまず、「ゲートの開け閉めの失敗について、自他を責めるのをやめる」ことが必要なのかもしれません。人生には、誰のせいでもないことが、たくさんあります。新型コロナウイルスに感染した人を責めるのがナンセンスであるのと同じように、そこで犯人捜しをするのは、無意味なのです。もちろん、たくさんの警告を受けながらも「自分だけは大丈夫」「このくらいは大丈夫だろう」といった無根拠な自信で行動し、感染してしまった人々に、医療従事者の方々などが苛立ちを感じるのは当然だと思います。ただ、失敗は誰にもあります。それをどのように反省し、他の人々への教訓とするかは、また別の問題と言えるでしょう。ひとつだけたしかなのは、「リスク管理」と、「失敗した人を直接的に非難する」こととは、別のことだという点です。世の中には、取り返しのつかない失敗というものも、存在します。人間は、そういう失敗を「する」のです。「絶対にやってはならない!」と声を上げるのも大切ですが、「そもそも、人間とは、そういうことをする生き物なのだ」というところから思考を始めるほうが、近道なのではないかと思うのです。いいことも悪いことも「誰のせいでもなく」起こります。そのことを引き受けてどう生きるか、ということが、第8ハウスの幸福のテーマなのではないかと、私は思っています。>>次回もお楽しみに(2021年3月25日更新)
2021年02月25日個性を楽しみ、活躍する人の、自分らしく輝くハッピー人生論とは?アナウンサー・弘中綾香さんに、自らの人生論を語っていただきました。「周りの方から『すごく楽しそう』とか『言いたいことを言えてすごい』なんて言われるんですが、ずっと自分の意見を言い合う環境で育ったので、自分では自分を特別だと思わないんです」歯切れ良い物言いと愛らしい顔立ちで、絶大な人気を集めている弘中さん。少し前は「嫌われない」ことが美徳と言われがちだったアナウンサーの世界で、「嫌われても仕方ない」とはっきり開き直る弘中さんは異彩を放ち、2年連続で「好きな女性アナ」1位に。好感度の高さは群を抜く。「しなくてもいいと思ったらしないし、意見を曲げない頑固なところもあったりして、自分に正直に生きているとは思います。ただ、自分勝手に発言したり、わがままにやっているわけではないんです。自分を起用してくれた人には、期待以上で応えたい。お互いに有意義に進むことを第一に、最初に『私はこう思います』と言うようにしています。疑問を感じてモヤモヤしながら仕事をしても、いい結果にはならないと思うから」そう考えるようになったのは、テレ朝の老舗番組『ミュージックステーション』のサブMCに抜擢された経験が大きいという。「入社して半年のことでした。ちょっと前まで大学生だった私が、タモリさんの横に座る…。なんでここにいるんだろう、もっとふさわしい人がいるんじゃないか…そう思って、プレッシャーや重圧を感じました。でもやるって決まっちゃったんだから、自信がないとか言っていられないですよね。そこからはもう空自信です。時間は戻せないし、“if”の世界もない。つべこべ言わずにやろうって。誰かと比べて何点取れるかじゃなくて、自分なりのベストを尽くそうって、腹をくくりました。今じゃ完全に開き直っています(笑)」人と自分を比べない持ち前の性格が、アナウンサーという職業で唯一無二の存在感を光らせた。「嘘はつきたくないし、思ってもいないことは言いたくない。さらに、誰にでも言えることを言っていても、制作者が私を選んでくれた意味がないと思うんです。そういう気持ちでオンエア上で発言してたら、『毒舌』とか言われちゃうんですが(笑)。でも当たり障りのない70~80点のコメントで、置きにいきたくない。やらせてもらうからには、自分にしかできないこと、自分にしかできない発言をしたいと思っています。その結果嫌われてしまっても、仕方ない。私の意見は、数あるバリエーションの1つでしかありませんから」勇気のある心意気で、自分らしさを武器に変え、今では4本の番組MCを任され、エッセイの執筆などその活躍は多岐にわたる。「やりたいことをやるためには、口に出すようにしています。ただ、私がやることでどうメリットがあるのか、どう仕事に還元できるのか、アピールすることも大事。会社と自分も、win‐winの関係が一番いいじゃないですか」Hironaka Ayaka’s History・22歳…アナウンサーとしてテレビ朝日に入社。『ミュージックステーション』のサブMCに抜擢。・26歳…深夜バラエティ『激レアさんを連れてきた。』でMC助手に抜擢。・29歳…MCに抜擢された新番組が3つスタート。私をつくるキーワード1、仕事「アナウンサーの仕事にかかわらず、自分の可能性やキャパシティは自分ではわからない。だからもっと自分を最大限使って、仕事していきたいと思っています」2、友人「学生時代から付き合ってきた大切な友達が数人。この人たちがいなかったら、ここまで来るのは本当にムリだったな、って感謝しています」3、ごはん「今は外出できないので、自炊やテイクアウトですが、食べることが大好き。朝昼晩、毎日ちゃんと食べるし、ずっとごはんのことを考えて生きてます(笑)」ひろなか・あやか1991年2月12 日生まれ、神奈川県出身。テレビ朝日のアナウンサーとして『あざとくて何が悪いの?』などの人気番組のレギュラーをいくつも持つ。雑誌『Hanako』(マガジンハウス)で連載中の『弘中綾香の純度100%』が書籍化されて発売中。※『anan』2021年2月24日号より。写真・宮崎健太郎取材、文・若山あや(by anan編集部)
2021年02月21日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラム「石井ゆかりの幸福論」が11月から連載再開! 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。今回は、第8のテーマ、自分の人生は「自分だけのもの」なのか。(前編)をお届けします。■8.自分の人生は「自分だけのもの」なのか。(前編)人間のからだには様々な「門」「出入り口」があります。口や鼻の穴、目や耳、汗腺や尿道、肛門、膣など、私たちの身体にはたくさんの入り口や出口があって、外界と常になにかしら、やりとりしています。この「口」がふさがってしまうと、命が危険にさらされます。それに似て、生活・人生にも、様々な出入り口があります。たとえば「がま口」がそうです。お金が入ってくる口と、出て行く口です。性交によって「他者を受け入れる」ことも「ゲート」のテーマです。「入学」「入門」「入居」など、どこかに自分を丸ごと預けるような「入り口」もあります。一方、古来「脱出」「出奔」「脱獄」「家出」など、穏やかでない「出口」の使い方もあります。「コロナ禍」で私たちは、マスクで口を塞ぎ、ウイルスの出入りに常に気を配る状態になりました。出口や入り口は、出入りしてほしくないものが出入りしてしまう危険をはらんでいます。しっかり閉めておかなければ、望ましくないものが入ってきますし、中からどんどん大事なものが流出してしまう場合もあります。とはいえ、閉めっぱなしでは使えないのです。どんなにマスクをして気をつけていても、食事をするときには、マスクを外さなければなりません。マスク自体、呼気と吸気を通すように作られていなければ、私たちは窒息死してしまいます。星占いで用いる第8ハウスは、ホロスコープの「出入り口」のような場所です。その対岸の第2ハウスもまた、ゲートです。実際、古く第2ハウスは「ハデスの門」などと呼ばれました。金庫も財布もきちんと閉めておかなければなりませんが、開かなければ用をなしません。厳重に管理されなければならない「ゲート」のイメージは、古くから星占いの世界に刻み込まれていたようです。私たちの人生は、外界に向かって開かれなければなりません。でも、無防備に開かれっぱなしの状態では、容易に傷つけられ、大切なものを奪われてしまいます。人生の玄関、人生の裏口、人生のがま口。こうしたものを、危機感をもって管理する姿勢を、誰もが持っています。ただ、その危機感の「強弱」は、人によって振り幅が大きいものでもあります。警戒心の強い人もいれば、ユルユルの人もいるのです。また、経験によって、その管理運用の方針は大きく変わります。たとえば、子供の頃の経済的な環境は、大人になってからのその人の経済活動を大きく左右します。性的な問題で傷を負わされた人は、その後長く、「ゲートを閉ざした状態」になることは珍しくありません。外界に向かってデリケートな部分を「ひらいた」とき、私たちは傷を負うリスクを引き受けることになります。そして、実際に、傷を負ってしまうことがあるのです。これは、若いうちだけでなく、いくつになっても起こりえます。ゲートから何が入ってきて、何が出て行くのか。私たちは、ゲートの開け閉めだけはある程度自分でできますが、「門をたたいてくる相手」を、管理することはできません。どんな人に愛を告白されるのか、いつどんな人がオレオレ詐欺の電話をかけてくるのか、自分を口説いている相手は本気なのか遊びなのか、そうしたことを「コントロール」することはできないのです。「何が来るか」ということ自体は、制御不能なのです。私たちにできることはただ、「ゲートを開くかどうか」の判断だけです。オレオレ詐欺の被害に遭った人や、性犯罪の被害者などに「警戒が足りなかった」「やられるほうが悪い」という言葉を投げかける人がいます。「自分さえしっかりしていれば大丈夫」「他の人が引っかかっても、自分は冷静で賢いから、決して引っかからない」と考える人は、驚くほどたくさんいます。でも現実には、そうではありません。人生の「ゲート」を自ら開くとき、私たちは一様にリスクを負うのです。そして、人生の「ゲート」を開かないときも、私たちは人生のチャンスを逃し、ひとりぼっちで苦しみながら生きることになるリスクを負うのです。リスクは、どちらにも存在します。「ノーリスク」で生きることはできないのです。第8ハウスから「幸福」を考えたとき、まず「リスク」というテーマが浮かびます。自分の人生に何を容れ、何を拒絶するか、という判断がそこにあるからです。たとえば、親族からの莫大な遺産を、あえて「受けとらない」という判断をする人がいます。全額を寄付したり、誰かに譲ったりする人は、少なくありません。「受けとることによる、なんらかのリスク」を回避するための判断だったのでしょう。厳しい親の言うことを聞いて、恋愛を一切拒否して育ち、大人になった人がいます。既に十分いい大人になってしまってから、この人は親に「早く結婚しなさい」と言われ、激しい戸惑いと怒りを感じたそうです。一切のリスクを回避するために、「ゲート」を完全に閉ざして生きてきたため、それをどのように開けばいいのか、わからなくなってしまった、ということなのだと思います。ゲートの開き方は、経験によって学び取られなければならないのです。一方、育った環境からの影響で、自尊心が非常に低く、「何でも受け入れてしまう」という人もいます。人からの「求め」や人からの褒め言葉を、渇いた人が塩水を飲むように、ずっとごくごく飲み続けてしまうのです。渇きはおさまらず、心には痛みが蓄積していきます。ゲートが開きっぱなしで、「受け入れることのリスク」が一切回避されないまま、傷つき続けてしまう人は、決して少なくありません。……後編へ続きます。>>次回もお楽しみに(2021年2月25日更新)
2021年01月25日せっかく好きな人と恋人になれたら、出来るだけこの恋を長く続けたいと願う人が大半かと思います。では、長続きするような「大人の恋愛」をするにはどうすれば良いのでしょうか。ここではそのコツをいくつか取り上げて見ていきます。要求ばかりを押し付けない恋愛が短命に終わる人の特徴のひとつに、「自分の要求ばかりを押し付ける」という点があります。思い当たることはないか、振り返ってみると良いでしょう。例えば、「仕事より自分とのデートを優先してほしい」「誕生日には素敵なレストランを予約してほしい」。相手が自分の期待どおりに動いてくれないと、不満が募ってしまうタイプの人です。こういう人は要求が多い分、どんな相手と付き合っても決して満たされることがないんです。「ああしてくれない」「こうしてくれない」、その挙句「私のこと好きじゃないんだ」と勝手に解釈し、自分から別れを切り出したりします。相手には相手の都合がある、自分の都合どおりに動いてくれるわけではない、ということを認識し、要求する前に「自分が与える」努力をしてみましょう。そうすることで、これまでうまくいかなかった関係がぐっと改善される可能性があります。自分とは違う人間だということを認めるこれは今に始まったことではないですが、結婚しているカップルの別れた原因で真っ先に挙げられるのが、「価値観が違った」という問題です。もちろん、恋愛に発展する男女だったら、何かしらの価値観が合っているからこそ、付き合いがスタートしたのでしょう。しかし、付き合いが長くなるにつれ当然、「違う」部分は出てきます。相手が変わったのではなく、もともと違う価値観も持っていた結果です。ですが、それを知ったとたん「価値観が違う」で別れてしまっては、誰と付き合っても同じことの繰り返しです。元々、別個の人間ですから、そもそも「価値観がすべて合う」などということはないでしょう。その点、長続きする大人の恋愛は、「違う価値観も認めて尊重する」ことが出来ています。「変化」を受け入れていく恋愛中でも、結婚して夫婦になっても、「前はこうだったのに」と言いながら、不満を言っている女性がいるものです。例えば「付き合って最初の数年は優しかったのに、最近かまってくれない」、「話していても私のこと見てくれなくなった」などです。このように、二人の関係性が変化していくことを受け入れられないと、相手に不満ばかりが募ってしまいます。また、勝手な思い込みで「寂しい」「愛されてない」という気持ちが大きくなって、恋愛も結婚生活も、ひたすらつらいものになってしまうでしょう。自分にとって大切な相手のはずなのに、そうなってしまったら、あまりにももったいない話です。大人の恋愛は、「変化を受け入れる」ことが大切です。相手も自分も、そして関係性も、ずっと変わらないものはないということを受け入れて、関係を育てていくことを心がけるようにすると、きっとうまくいくでしょう。大人の恋愛は人間関係のコツと共通するここでは、長続きする「大人の恋愛」をするための、いくつかのポイントを見てきました。これらは、恋愛だけでなく人間関係をうまく続けるためのセオリーと共通する部分もあります。これらの点を意識してみることで、これまでうまくいかなかった人でも、今後の恋愛は長続きする可能性が高まるでしょう。
2021年01月06日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラム「石井ゆかりの幸福論」。 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。前回に引き続き、第7のテーマ「パートナーシップ」と幸福。(後編)をお届けします。▼ 7.「パートナーシップ」と幸福。(前編)はこちら■7.「パートナーシップ」と幸福。(後編)「私は結婚に向いていない」「結婚に興味がない」と言いつつ占いを求める人の言う「結婚」は、「世間的に言う結婚」のことだろうと思います。「世の中一般にイメージされるような『結婚』」「保険やハウスメーカーのCMに出てくるような、ステレオタイプの『結婚』とその役割概念」に、「興味がない」のでしょう。「自分に何らかの形で『合う』と思える誰かと、人生の一部を共有して、助け合って生きていく」ということなら、もしかしたら、「興味がある」と感じられるかもしれません。心の片隅にそうした関心、あるいは仮説があるからこそ、こうしたご質問を寄せられたのではないかと思うのです。もちろん、全ての方がそうだというわけではないと思います。ご相談にはそれぞれ、共通する部分がある一方で、まったく誰のものとも重ならない、とても深いものが含まれているからです。たとえば「同性愛でなくとも同性同士で結婚できる世の中になるべきだ」という考え方があります。これは、結婚制度というものを考える上で、とても大事な発想だと思います。パートナーシップとは、ただ、人が人と、協力し合って生きていくことです。そのことに、部外者が何の意見をはさめるものでしょうか。パートナーシップは、「創造」されねばならないのです。どこかにあるテンプレートに、無自覚に自分をはめ込むような「結婚」は、危険なのです。サイズも見ず、試着もせずに、かたい革靴を買うようなものです。パートナーを得ても、ちっとも幸福になれない人もいます。いわゆる「モラハラ」や「DV」「ワンオペ育児」など、パートナーによって不幸になる人も、たくさんいます。その一方で、パートナーと生きていることがなにより幸福だと感じる人もいます。この違いは、どこにあるのでしょうか。パートナーシップを結ぶことで幸福になるには、おそらく、いくつかの条件が必要なのだろうと思います。そして、その条件もまた、全ての人に当てはまるというものではないでしょう。「誰にでもぴったり合う靴」が存在しないのと同じです。ただ、こんなことを私は想定します。パートナーシップによって幸福になる条件のひとつ、それは、お互いの関係の中で、「缶詰が開く」体験があることです。人の心の中には、固く閉じている場所がたくさんあります。でも、閉じた場所の中に格納されたものは、そのままでは成長しないのです。ナカミが腐敗して膨張し、どうにもならなくなることもあります。そして、その「閉ざされた場所」「缶詰」を、一人で開けることは、なかなか難しいのです。ある人と出会い、生きる時間を共有する中で、その「缶詰」のようなものが開きます。中にはそもそも「隠しておきたかったもの」「触れたくなかったもの」が入っているので、ちょっと困った事態になる場合も、よくあります。自分一人では状況を収拾できず、出会えたその人に手をかしてもらうことになります。そのとき、幸福に向かうためのパートナーシップが結ばれます。白雪姫のガラスの棺が壊れる瞬間、鉢かづき姫のかぶった鉢が壊れる瞬間、シンデレラの片方の靴が脱げてしまう瞬間などは、まさに、「缶詰が開く」瞬間です。これらは初潮や破瓜のメタファーだと解釈されることも多いようです。でも、それ以外にも「バランスが崩れる」「缶詰がふくれてはじける」瞬間は、人生の中でたくさんあります。私たちが成長を重ね、他者と巡り会ったとき、なんらかのきっかけで、心の中で閉ざされていた部分が開かれます。それは一見、トラブルのように見えることもしばしばです。ですがその瞬間にこそ、奇跡のような「関わり」が生じ、新しい人格と関係性が生まれ出すのです。こうした体験は、人生の中でたった一度のことではなく、何度も繰り返されていくことなのではないでしょうか。「美女と野獣」で野獣の顔から王子の顔に変わる瞬間や、おやゆび姫が死にそうなツバメを介抱するくだりなどは、「一人では収拾できなくなった状況を、助けてもらう」体験に重なります。内なる弱さや醜さが現れ出ても、それに向き合ってくれる「誰か」が現れたとき、私たちは相手を初めて、「もう一つの自分の生命」として認識し始めるものなのかもしれません。そんなことは怖くてできない、と思われるでしょうか。でも、時々「心の機が熟す」と、そんなことが自然に起こる場合も、少なくないようです。>>次回もお楽しみに(2021年1月25日更新)
2020年12月25日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラム「石井ゆかりの幸福論」が11月から連載再開! 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。今回は、第7のテーマ「パートナーシップ」と幸福。(前編)をお届けします。■7.「パートナーシップ」と幸福。(前編)「私は結婚できますか」。占いの場で、もっともよく投げかけられる問いです。更に言えば、このバリエーションほんとうに多岐にわたります。「いつ結婚できますか」「あの人と結婚できますか」は当然ながら、最近はそれ以上に、こんな問いかけが目立ちます。「私は結婚に向いていないのですが、結婚すべきなのでしょうか」「私は結婚とは縁がありませんし、諦めていますが、このまま仕事で生きていくだけなのでしょうか」「恋愛をしたいとは思わないのですが、この先、一人なのも寂しい気がします」「結婚や恋愛に全く興味が持てません、これは問題がありますか」これらはみんな、結婚やパートナーシップと「自分」とのあいだに、ある距離を置いた問いかけです。特に「私は結婚に向いていない」「興味が持てない」という問いかけは、意味深です。というのも、もし本当に結婚に向いていなくて興味がないなら、なぜその「占いへの問いかけ」がなされたのでしょうか。もちろん、「周囲から結婚を勧められるが興味が持てない、どうしたらよいか?」という悩みもあるでしょう。でも、この悩みは、決して「周囲を黙らせるにはどうすればよいか」ではないのです。「周囲がこんなに言うのに、自分が結婚に興味を持たないのは、自分が間違っているのだろうか」という悩みになってしまうのです。世の中には生まれつき、恋愛感情を持たない人もいます。また、恋の感情はあっても、傷つくことを恐れて誰も愛そうとしない人もいます。その判断を責めることは、誰にもできません。一方、世の中には「恋愛感情」以外のもので結びついているパートナーシップもたくさんあります。たとえば、子供を持つために結婚する、子供を育てるためにパートナーシップを維持している、という人は、たくさんいます。「恋愛をしていなければ結婚できない」という風潮は、歴史的に見れば、ごく最近のものです。むしろ一昔前は、お見合い結婚が「ふつう」でした。恋愛して結婚をすることは、ちょっと「変わったこと」だったのです。一昔前の「夫婦」は、恋愛感情ではないもので結びつくことが前提でした。それは、信頼や尊敬、そして、生活を営む上での役割分担の了承、さらに「家業」や「家」を運営し継承していくという責任感、現代で言えばビジネスパートナー的な感覚も強かったはずです。自分とぴったり合った人間、一緒にいて限りなく楽しい人間、自分を全面的に肯定し、味方になってくれる人間。決して自分の邪魔をせず、迷惑もかけず、いつでも受け入れてくれる人間。その人の周りの人間関係が自分を傷つけず、経済的にも負担をかけてこない人間、そしてなにより、自分も好意を持てる人間。もしそんな完全な相手がいたなら、ほとんどの人が「一緒に暮らしてみたい」「一人でいるよりずっといい」と思うのではないかと思います。もちろん、現実問題、そううまくはいきません。「好き」と思う気持ちさえ、時間が経てば変わってしまうのが人間です。好きで結婚したはずなのに、いつのまにか長いことパートナーを毛嫌いして生きている人もいるほどです。「恋愛感情」はたいてい、4年程度で消えてしまうものだ、と言われています。「パートナー」という言葉自体が何を表しているのか、それは人によって、千差万別です。「恋愛をして結婚をする」ということと、「人生を共に生きるパートナーを得る」ということは、部分集合的にしか重ならないのではないか、という気がします。結婚という形をとらずにパートナーシップを結ぶ人たちも、最近は増えているようです。また、結婚していても一緒には暮らさない、というカップルもあります。一人で生きることは古来、決しておかしなことでも、めずらしいことでもありません。さらに、「性」は2つだけではない、ということは、昨今常識として浸透しつつあります。こう考えていくと、「パートナーを得る」「パートナーと生きる」ということは、世の中の「結婚」という形式に自分を当てはめていくようなこととは、大きく違うのだと思います。世の中で一般的に言われる「結婚」という枠組みに、むりやり自分を当てはめようとする必要はないはずなのです。親や親族が「結婚しろ」「なぜ早く結婚して子供を持たないのだ」と急かすとき、彼らは「世間的な結婚の枠組み」のイメージしか、抱いていません。でも、その枠組みに自分をムリヤリ押し込むようなことは、おかしな話です。「自分」は、彼らのものではないからです。自分は自分のものだからです。もちろん、社会的責任を思って「結婚」に身を投じる人もいるかもしれません。それは、その人自身の価値観で、尊重されるべきです。ただ、それを他人に強要したり、その価値観が「善」で、他は悪であると主張したりすることは、間違っているはずです。……後編へ続きます。>>次回もお楽しみに(2020年12月25日更新)
2020年11月25日自分は恋愛上手!と自負できる人はなかなかいないかもしれません。みなさん何かしら恋愛に悩みを持っているものです。今回は中でも「恋愛が上手くいかない」とか「彼氏ができない」とか、恋愛をスムーズに運べない人に対するお話しをさせていただきます。恋愛に自信のない方はぜひ読んでみてください。恋愛下手な人の特徴恋愛下手な人には共通点があるんです。恋愛が上手くいかない人の特徴をいくつかご紹介します。自分に当てはめて考えてみてください。(1) 恥ずかしがり屋で消極的恥ずかしがり屋さんは恋愛下手に入るかもしれません。恋愛とは二人でするものです。恥ずかしいから行動できないという主導権の放棄は、ときに無責任と取られてしまう可能性もあります。何でも受け身になっていませんか?好きな人がいるならなんとかして仲良くなるべきです。お付き合いをしている相手にはその権利が与えられているわけですから、自分をさらけ出していいんです。恥ずかしいからといって行動できないのが一番もったいないことだということを、心に留めておきましょう。(2) 経験が少なく理想が高い失恋ばかりしてしまう、付き合っても相手の言いなりになってしまう…なんて人は、自分の理想が高いのかもしれません。自分に釣り合った人と付き合うのは簡単なことではありませんが、相手に寄せていくことはできるのです。恋愛経験が少ないと、「自分が異性から見てどれくらいの価値があるのか」を正確に捉えられず、理想が高くなってしまいがちです。自分を客観的に見たときに、どれほど魅力的なのかが分かれば、自分と釣り合う異性はどんな人なのかが分かってくると思います。(3) 女性としての魅力が足りない男女でものの価値観は違います。性別が違うのですから当たり前ですよね。しかし大幅なズレがあるのは問題です。そこで正しい「男性ウケ」を知ることが大切なんです。「男性ウケ」というと露骨ですが、男性から好感を抱かれる女性になるということです。自分ではモテると思ってやっていることも、男性からは酷評の嵐なんて場合もあります。キレイな人は確かにモテますが、重要なのは何も見た目だけではありません。年齢とともに見た目に価値を見出す人は減っていきます。つまり、生まれ持った見た目を活かしつつ中身が魅力的な人になることができれば、男性ウケのいい女性になることができるというわけです。男性からの需要を高める男性ウケをきちんと理解できれば、「あなたと付き合いたい!」と思う人も増えていきます。あなたと付き合いたい人が増えれば、自然とモテます。モテれば自信を持って相手と向き合うことができます。ただ見た目にこだわり過ぎると、いつか限界を迎えます。大切なのは中身です。男性からの需要を高めるために、モテる女子が押さえている内面的なポイントをご紹介します。(1) 自分をまっすぐ好きになろう自分を好きです!と胸を張って言える人って少ないと思います。でも、自分が嫌い!という人より、自分が好きな人の方が絶対に魅力的に見えます。自分を愛する、というより自分を「受け入れる」ことが大切なんです。自分とはどんな人間なのか?自分の長所短所は?それを知った上で、「それでも自分は変わらず自分」だという受容をしましょう。ここをクリアできれば、行動1つ1つが変わってくるはず。自分を受け入れ、「良いところも悪いところも含めて、まっすぐに自分が好き」と言える人を目指しましょう。(2) 失敗は経験であるということを忘れないもし失敗したらどうしよう、と考えてしまうクセついてませんか?これはショッキングな出来事に直面したときに、「やっぱりね」と思うことで自分の心が壊れるのを守る“防衛機制”の1つです。失敗するかどうかはやってみなければ分かりません。考えるだけムダと言ったら言い過ぎかもしれませんが、失敗から得られることもあるということを覚えておいてください。デートに誘って断られたら?LINEが返ってこなかったら?それもこれもやってみなければ分からないのです。失敗を恐れないようになれば、どんどんポジティブな自分になっていきます。もし失敗してしまったときは「次はここをこうすればいいんだ」という風に肩の力を抜いて考えましょう。(3) 男性と接点を持とう男性と積極的に接点を持っていけば、男性と話すことに抵抗が少なくなっていきます。さまざまな男性とコミュニケーションを取ることで、「異性が求めているもの」が分かってきます。あなたはそれを遂行すればいいのです。また、友達の輪が広がると出会いの場も増えます。付き合いがいいのも、モテる女性の特徴です。恋愛下手は努力次第で卒業できるここまで読んでみていかがでしたでしょうか?自分を少しだけ変えることで、世界は大きく広がるんです。自分で自分を好きになること、異性に好かれるように振る舞うこと、男性との接点を増やすこと。この3つを守れば恋愛下手から卒業できるはずです。続けていれば、恋愛マスターになる日も近いかもしれませんよ。
2020年05月02日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラムが登場! 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。前回に引き続き、「石井ゆかりの幸福論」」第6のテーマ、自分の心身に必要なこと、必要とされること(後編)をお届けします。■6.自分の心身に必要なこと、必要とされること。(後編)「幸福」を考えたとき、まず始めに思い浮かぶのは、自分自身の心がほんわか満たされているようなイメージではないでしょうか。では、どんなときにそんな状態になるでしょうか。たとえば、「人のためにがんばって取り組んでいることを、『よくやっているね』『いつもありがとう』など、心から褒められ、感謝されたとき」、あたたかく充実した気持ちになるものではないでしょうか。でも、この喜びを「追求しすぎる」と、たいへんなことになります。たとえば「任務のためにムリやガマンをかさね、過労の果てに体を崩す」ということになってしまいます。どんな喜びも、依存の対象となることがあります。人に褒められる喜び、人に感謝される喜びもそうです。その喜びに依存しすぎると、心身の健康をすり減らしてまで働き、自分をダメにしてしまう結果につながります。「人のため」と「自分のため」のあいだを、私たちはゆらゆらとゆれ動きながら生きています。完全に自分のためだけに生きることも、完全に他人のためだけに生きることも、どちらも不可能です。おそらくそのあいだのどこかで、一番バランスのいいポイントを探して、私たちはあっちに振れ、こっちに振れと、試行錯誤を続けて生きていくのかもしれません。もとい、生まれたばかりのときや介護状態では「完全に人の世話になる」ことがありますし、子どもを育てるときや職場で一大事が起こったときなどは、「完全に自分を捧げる」ような場合もあるかもしれません。そうした極端な状態は、人生の全体を覆うのではなく、人生のひとつのシーンとして体験される場合がほとんどだろうと思います。働きすぎの状態が続き、大きく体調を崩してしばらく休み、生き方をガラッと変えた、という人のエピソードをしばしば見かけます。これはまさに、第6ハウス内での「幸福へのシフト」です。第6ハウスの対岸の12ハウスは「犠牲の部屋」ですが、第6ハウスは「管理の部屋」でもあります。自分が「毎日」をどのように配分して生きるか、ということは、自らある程度以上に管理できることです。もちろん、上記のように人生の局所では、管理や調整が全く不能になることもあるでしょう。ただ、そのあとで、あるいはその前に、「自分の生きる時間をどう配分するか」は、多少は考える余地があることが多いだろうと思います。生きるために働いているのに、その仕事のせいで死にそうになるのは、理不尽です。でも私たちの多くが、その理不尽の落とし穴に、かなり簡単に落ちます。そうならないためには、どうすればいいのか。「人から褒められ、感謝されること」に依存しすぎていないかどうか、確かめねばなりません。「人から叱られないために、嫌われないために行動する」ことも、行きすぎると同じ結果にたどりつきます。第6ハウス的な幸福は、「調整できる幸福」「工夫できる幸福」とも言えます。どの程度相手に与え、どの程度を自分に残しておくか、ということです。「自分のための自分」であることと「人のための自分」であることを両立させることも、幸福のための重要な条件です。働き方や仕事の内容を考えるとき、「何をするか」ではなく「何をしないか」が重要だ、という考え方があります。たとえば「テレビには出ない」と決めているミュージシャンがいます。「これは自分の仕事ではない」「これは自分の責任ではない」というふうに、日々の活動に「一線を引く」ことは、とても大事なことです。これは、第6ハウスのひとつのテーマだと思います。すなわち「何をするか」ではなく、「何をしないか」です。さらに、自分で決めたことが「やっぱり、何か違うぞ」と思えたなら、これを柔軟に変えることも大切です。第6ハウスは「調整の部屋」でもあります。つねに試行錯誤し、他者と調整しながら、お互いのニーズを満たして叶う幸福が、第6ハウスのテーマなのです。*********************~お知らせ~いつもご愛読いただき誠にありがとうございます。2020年2月~10月まで『石井ゆかりの幸福論』をお休みさせていただきます。楽しみにしてくださっていた読者のみなさま大変申し訳ありませんが、連載再開をお待ちください。よろしくお願い申し上げます。*********************プロフィール石井ゆかりライター。星占いの記事やエッセイなどを執筆、「12星座シリーズ」(WAVE出版)は120万部のベストセラーに。Twitterのフォロワー数は30万を越える。著書多数。
2020年01月25日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラムが登場! 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。今回は、「石井ゆかりの幸福論」第6のテーマ、自分の心身に必要なこと、必要とされること(前編)をお届けします。■6.自分の心身に必要なこと、必要とされること。(前編)「タイムスリップもの」のSFがお好きな方も多いでしょう。私も時々、自分が遠い過去の世界に飛ばされたとしたら…、と妄想するのですが、多分、生きていけない気がするのです。ある村にポンと放り出されたとして、そこにいる人々は私に「おまえはどこの誰か」「どこからきたのか」と尋ねるでしょう。運よく誰かに後見してもらえるようなことがなければ、怪しいヤツとして、村からはじき出されます。他の集落に向かっても、同じようなことが起こるでしょう。街に入るには旅券のようなものが要るかもしれません。後見者や旅券は、「縁」です。タイムスリップもののSFで、主人公は飛ばされた先で何かしら、運よく「縁」を手に入れます。運がなければ、縁なきものとして放り出され、餓死するしかないのです。「人間は社会的存在である」という言い方があります。血縁や地縁、身内としての愛情などの結び付きはその最たるものですが、仕事やお金を通して社会につながっている部分もあります。親として子を育てたり、親族の介護をしたりすることも、一つの「社会的結び付き」、つまり社会との「縁」と言えます。自分以外の人に対してなんらかの役割を得るとき、私たちは社会につながって、そこから、生きるための血流を受け取ることができる、というイメージです。社会で「役割」や「つながり」を得れば、その場所で暮らしていけます。それが得られないとき、タイムスリップで放り出されたときのごとく、私たちは路頭に迷います。「人の役に立ちたい」「必要とされたい」「責任を果たしたい」。これらは、多くの人が抱く気持ちです。単なる「願い」ではなく、生きていくための切実な心の叫び、と言ってもいいかもしれません。これらの願いが叶わないとき、私たちは社会との「縁」を失い、路頭に迷って、生きていけなくなるかもしれません。もとい、現代の日本では誰もが、憲法により「健康で文化的な、最低限度の生活」を保証されています。それでも、そうした制度に頼ることを恥じる人が少なくありません。実際「誰からも必要とされず、誰の役にも立っていない」という思いに傷ついて、死を選ぼうとする人さえいます。世の中から必要とされたい。他者の役に立ちたい。こうした思いから、私たちは社会に必要とされるべく(つまり仕事を獲得すべく)、ごく若いうちから勉強し、あるいは心身を鍛える努力を重ねます。「がんばる」ことは、この世界において、とても価値あることと見なされています。ですが、この「必要とされる」「役に立つ」ことを目指し、完遂した先には、何が待っているのでしょうか。ホロスコープで「役割・任務・就労条件」などを象徴するのが第6ハウスです。これは古くは「奴隷の部屋」でした。たとえば「逃亡した奴隷を探してほしい」などの依頼には、第6ハウスの様子を見たわけです。現代的には「就労関係」がここに当てはめられるのが面白いところです。また、「病気」もこの部屋の管轄で、現代的にも「健康状態」を見るときは、6ハウスを用います。「健康管理も仕事のうち」と言いますが、第6ハウスは継続的な労働の状態、ひいては生活のあり方や引き受けている任務の内容、任務のこなし方などを管轄しています。他者から自分に寄せられるニーズに応えることと、自分自身の心身のニーズに応えることは、強く結びついています。自分自身のニーズが満たされていなければ、他人のニーズに応えることができないからです。>>次回もお楽しみに(2020年1月25日更新)プロフィール石井ゆかりライター。星占いの記事やエッセイなどを執筆、「12星座シリーズ」(WAVE出版)は120万部のベストセラーに。Twitterのフォロワー数は30万を越える。著書多数。公式モバイルサイト「石井ゆかりの星読み」
2019年12月25日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラムが登場! 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。今回は、「石井ゆかりの幸福論」第5のテーマ、愛と創造について(前編)をお届けします。■5.愛と創造について。(前編)星占いの「ハウス」に沿ってお題を決めて書いている本稿ですが、今回は「愛と創造」がテーマです。星占いで「第5ハウス」と言えば恋愛のハウス、ということになっています。恋愛は占いの場で、もっともよく話題にのぼるテーマです。多くの人が恋に悩み、愛に傷ついて、占いに手を伸ばします。一般に、人が「占いをしたい」と思うのは、「自分の力ではどうにもならないと思えること」に直面したときだろうと思います。「自分の力ではどうにもならないこと」、その最たるものが恋愛です。意中の相手の心を自分の思い通りにできたら、どんなにいいでしょうか。でも、そうはなりません。そうはならないからこそ、恋愛が素晴らしい、と言うこともできるかもしれません。もし、自分の意思で他人の気持ちを自由自在に変えられるならば、「人から愛される」ことは、そんなに貴重なことだとは思えないはずです。自分の思い通りにはならないはずの「他者の心」が、自分という存在を強く求めてくれる、というところに、愛の神秘、愛の奇跡的な感動が生まれるのだと思います。恋の前では、人はどこまでも無防備です。とても傷つきやすくなりますし、感情は揺れ動き 、ほかのことが手につかないくらい、感情に支配されてしまうこともあります。こうしたとき、「占いをしたい!」という気持ちになるのは、当たり前です。星占いで「恋愛を見てください」と言われたら、まず第5ハウスの状態(とそのルーラー※)を見るはずです(人にもよりますが)。でも、実はほかにもいくつか、見るべきところがあります。まず第7ハウス、次に金星、火星、そして第8ハウスや第11ハウスも見たりします。さらに月と太陽、土星、などと、まあ複合的にどんどん見ていくわけですが、特にこの5・7・8・11の4つのハウスは、それぞれ担当が分かれています。第5ハウスは「与える愛」、第7ハウスは「パートナーシップ、結婚」、第8ハウスは「性愛」、第11ハウスは「受け取る愛」をそれぞれ、検討できる場所なのです。第5ハウスが「愛と創造の部屋」であることが、これで少し、ピンときます。愛は愛でも、第5ハウスの愛は「愛する」愛なのです。自ら生み出す愛、行動する愛、注ぐ愛が、第5ハウスの愛です。「愛するだけが愛でしょうか?愛されるのを望むのは、ワガママなのでしょうか?」と時々、質問されます。「愛されたい」という願いは、本当に多くの人が胸に抱いている、切実な願いです。ワガママ、ということではないと思います。でも、これだけ多くの人が「愛されたい」と思っているならば、裏を返せば「愛することのできる人」こそが求められている存在だとも言えます。愛情深い人、愛することのできる人を、みんなが待ち望んでいるのです。ならば、「愛することができる人」こそが、「必要とされる人」なのではないでしょうか。占いの場で問われるのは、「私はあの人に愛されますか?」「私を愛してくれる人が現れますか?」が圧倒的に多いように思います。とにかく「自分の思い通りにならない・コントロールできない」のは、自分の心ではなく、自分以外の他人の心のほうなので、そういう問いが前に来ます。でも、本当にそうでしょうか。誰かを好きになる、愛する、ということは、どんなに努力しても、なかなか、できることではありません。もとい「頑張って好きになる」「相手のいいところを見つけようとする」ことは、できます。でも、「辛抱してつきあってみたら、相手がいい人だということはわかったし、仲良くもなったけれど、でもどうしても、愛情を持つことができない」というのは、よくあることです。こう考えると、「頑張ってもできない」「コントロールできない」のは、本当は「自ら愛すること」のほうなのかもしれません。何かを好きになること、夢中になること、愛すること。これは、とても大変なことです。※ルーラー:占星術では、12星座それぞれが「王様」のような惑星を持っています。それを支配星という呼び方のほか、ルーラー、守護星とも呼びます。>>次回もお楽しみに(11月25日更新)プロフィール石井ゆかりライター。星占いの記事やエッセイなどを執筆、「12星座シリーズ」(WAVE出版)は120万部のベストセラーに。Twitterのフォロワー数は30万を越える。著書多数。
2019年10月25日「私自身が70代に入って感じたことですが、現代の70代は、人生でいちばん美しい“黄金期”。かつては還暦が人生の節目とされましたが、今は70歳が新たな人生のステージへの出発点です」こう語り満面の笑みを浮かべるのは『70歳のたしなみ』(小学館)が15万部のベストセラーとなっている昭和女子大学理事長の坂東眞理子さん(73)。’06年に女性の振舞い方を説いた『女性の品格』(PHP新書)が330万部を突破し社会現象となった。本書にも、人生100年時代の後半を楽しみながら希望を持って生きるヒントがあふれている。「現代は、自分の年齢について20年前のマイナス10〜20歳と考えていい気がします。50代の皆さんも、“もう年”だから、“今さら遅い”と考えるのはもったいない。70代を“黄金期”にするために、今から始めて遅すぎるということはありません」そう話す坂東さんに、70代の黄金期を迎えるために「55歳からするべき準備」について聞いた。生き生きとした70代を迎えるには、心の持ちようが大事。一朝一夕にはできることではないので、今から心がけるべきだと坂東さんは言う。■“上機嫌”を心がける「私が好きな哲学者のアランは『上機嫌を実行していると、いっさいの事柄の展開が違ってみえてきて、いのちが活気づき人生がよいものに感じられる』と言っています。上機嫌でいることが周囲への礼儀だけではなく自分の“癒し”になります」(坂東さん・以下同)■ポジティブなことを思い出し、感謝する時間を持つ「上機嫌で生きるためにポジティブなことを思い出す時間をつくりましょう。私は毎朝、大学までの通勤途中に、神社でお参りするときに、一つは健康や仕事への感謝を込めて、もう一つ、その日思い浮かんだ、これまでお世話になった人へ『ありがとう』と手を合わせます。お寺でもいいし、お風呂でもいい。いい経験を思い出して感謝する時間を持ちましょう」■「人は人、自分は自分」「情報があふれている時代。みんな発信するのは“いいこと”ばかりです。でも人生には誰しも光もあれば影もあります。人のSNSなどを見て、『私ってダメ』と落ち込むのはバカバカしい。『人は人、自分は自分』と意識して口にすることで、自分を否定したり卑下するのをストップさせることができます」■「おめでとう。私もうれしい」と人を祝福する「身近な人にうれしい出来事があったときには、私は『おめでとう。私もうれしい』と言うことに決めています。周りの人を祝い、喜びを言葉にすることで、言葉の力が自分に還ってきて、逆に力づけられていくんです。心からじゃなくてもいい。ポジティブな言葉の力を信じて試してみては」■ネガティブになったら「今日が人生でいちばん若い日」と言い聞かせる「新しいことを始めようとすると、必ず、『遅すぎる』『私には才能がない』とネガティブワードが現れて、冒険をさせないための言い訳が目の前に立ちはだかります。私もこの春から、歌人の馬場あき子さん(91)が主宰する短歌の同人誌に参加を始めましたが、始める前には『今さら』『遅い』と、ネガティブな言葉が出てきたんですよ。そんなときこそ、『今日が人生でいちばん若い日』と思い出して自分に言い聞かせて、一歩を踏み出しました」毎朝、健康のために大学まで歩いて通勤しているという坂東さん。「歩くことは健やかに暮らすために必要です。また月に1度は使わなくなったものをリサイクルし、ため込まないことで気持ちもスッキリできます。身も心も軽くさせて上機嫌で過ごしましょう」70歳の黄金期に向けて、55歳から準備を始めませんか!
2019年09月12日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラムが登場! 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。今回は、「石井ゆかりの幸福論」第4のテーマ「帰るべき場所」と幸福(前編)をお届けします。■4.「帰るべき場所」と幸福。(前編)「家」は、「帰るべき場所」です。私たちは自分の人生において、一体どこを目指しているのだろう、と考えると、この「家」という概念は、ひと味違ったイメージを帯びてきます。たとえば、人間が赤ん坊として生まれ、成長し、一人で世の中に出られるようになろうとし、世に出てなんとか社会的立場を獲得しようとし、多くの場合、自分なりの「成功」を目指して頑張ることになります。受験や就職、結婚や出産、昇進や独立など、人生の各段階において「目指すもの」はどんどん変わっていきます。5年前に目指したものと今目指しているもの、10年後に目指しているものは、たとえ同じ仕事をし、同じ立場にあったとしても、「完全に同じ」ではあり得ないでしょう。私たちは人生の中で、実に様々の細かいゴールを設定し続けます。そのゴールという点を、線で結ぶようにして生きている、と言えるかもしれません。では、そんな人生の物語は、最終的にどこにたどりつくのでしょうか。少なくとも星占いの世界では、それは「家」を扱う場所なのです。このコラムでは、星占いの「12ハウス」という技術を下敷きにして「幸福」について考えていますが、基本的に星占いの技術自体には触れないで稿を進めるつもりでした。「12ハウス」はあくまで、テーマ設定のためのヒントとして使うつもりだったのです。でも、この第4回、つまり「第4ハウス」を下敷きにする回について考えていたとき、どうしても他のハウスに触れたい気持ちになったので、少しその話をします(といっても、星占いの仕組みに全く興味がない・知識がない方でも、お楽しみいただける内容になっている、はずです!)。星占いの「第4ハウス」のテーマは、一般に「家」です。居場所、住処、家族、親、地元、などを司るのが第4ハウスとされています。ただ、第4ハウスにはこのほかに、ちょっと興味深い「担当分野」があるのです。それは、「死」「物事の最終的な結果」「本心」です。「死」は一般には第8ハウス、「結果」は第10ハウス、「本心」は(異論はありそうですが)第12ハウス的なテーマと言えそうです。「隠れた問題」というテーマも第4ハウスに関連づけられることがありますが、これも元々は第12ハウスマターです。つまり第4ハウスは、8、10、12ハウスという3つのハウスを分かち合っているようなところがあるわけです。特に第4ハウスが「死」と関連づけられたのはごく古い時代で、「第8ハウスが示すのは『周囲の人々の死』で、『自分自身の死』は第4ハウスで読む」という説もあります。成功を求め、愛を求め、仲間を求め、やりがいを求めて生きて生き続けた結果、最終的に到達する場所が、「死」です。死ぬ時にどんな気持ちでいるか、本当に欲しいものはなんだったのか、最後の瞬間、幸福でいられるか。第4ハウスが「家」であり「死」であり「最終的な結果」であり「本心」の場所である、ということが、こう考えると、とてもしっくりくるように感じられます。第4ハウスの「家」は、日々帰る場所であると同時に、人生という旅の最終的な「帰着点」でもあるわけです。以下は、以前noteに書いたコラムの一部を改稿したものです。「人生の終わり」が私たちにとってどんな意味を持つのか、ということについての、ある調査のお話です。*******************次の2つのシナリオを比べてみて下さい。“シナリオ1:ジェンという女性がいる。ジェンには子どもがなく、独身で、30歳のある日、自動車事故で少しも苦しまずに即死する。彼女の人生はとても幸せなもので、仕事や旅行を楽しみ、趣味もあり、友人もたくさんいた。シナリオ2:ジェンという女性がいる。ジェンには子どもがなく、独身で、35歳のある日、自動車事故で少しも苦しまずに即死する。彼女の30歳までの人生はとても幸せなもので、仕事や旅行を楽しみ、趣味もあり、友人もたくさんいた。が、30歳から35歳までの最後の5年間は、そこそこ楽しいが、30歳までほどではなかった。”さて、どちらが「より幸せな人生」でしょうか。この2つのシナリオは、心理学者エド・ディーナーによる実験の素材です。実験の被験者は、上の2つのシナリオを読み、以下の質問に答えました。“「ジェンの人生を全体として見たとき、どのくらい好ましく感じますか?」「ジェンが人生で経験した幸せまたは不幸せの総量はどの程度だと思いますか?」”シナリオ2は、シナリオ1に、「そこそこ楽しい5年間」を足しただけのものです。ゆえに、幸せの「総量」は、2つのシナリオで一致するはずです。ですがなんと、被験者の回答では、シナリオ2のほうで「幸せの総量」が大幅に減らされていたのです(!)。“少しばかり幸せでない5年間を付け加えただけで、まともな人たちがジェンの人生の評価を大幅に下げるとは思っていなかった。だが私はまちがっていた。大半の人が、この5年間のせいでジェンの人生は台無しになった、という直感的な判断を下したのである。-ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』(ハヤカワノンフィクション文庫)より”*******************「最後の瞬間に、幸福でいられるかどうか」。このことは、多くの人にとって人生全体の価値を左右する、大問題であるらしいのです。多くのドラマや物語にも、そのことはよく表れています。たとえば前掲書では、オペラの『椿姫』が例に挙げられています。高級娼婦ヴィオレッタと青年貴族のアルフレードは恋に落ちますが、アルフレードの父はヴィオレッタに別れるよう要請し、ヴィオレッタは恋人を思って身を引きます。事情を知らないアルフレードは激怒しますが、最後には事情がわかり、彼女のもとに駆けつけます。ヴィオレッタは病で死の床にありましたが、死の直前に最愛の人に再会が叶ったのでした。この物語は「ハッピーエンド」であり、最後に恋人の腕の中で死んでいけたヴィオレッタの生涯は「幸福だった」と感じる人が多いのだと言います。ヴィオレッタの人生を冷静に客観的に考えると、全体としてはかなり辛いものだったろうと思われるのです。娼婦として不名誉を背負って生きざるを得ない苦労、最愛の人と引き裂かれる苦悩、若くして病に倒れた苦しみなど、あまりいいところがありません。ですが、この物語に触れた人の多くが、最後のただ一瞬の逢瀬によって、彼女の人生の全体が光に照らされ、「彼女は幸福だった」と感じるのです。このオペラの原作小説、小デュマの『椿姫』では、エンディングが大きく異なります。ヒロインの高級娼婦マルグリットと青年貴族アルマンがその仲を引き裂かれるまでは同じですが、アルマンはマルグリットの死に際に間に合わないのです。マルグリットの生きている間には誤解の解けぬまま、二人は死に別れてしまうのです。こちらはまったくの「バッド・エンド」です。死に際の一時間が幸福だったかどうか、それだけで物語全体の印象が大きく変わってしまうのです。これは「物語の印象」だけの問題ではないのかもしれません。私たちの多くが抱く「人生観」と直結しているのかもしれません。すなわち「死に際が幸福な人生こそが、真に幸福な人生と言える」という人生観です。※ヴィオレッタ(オペラ版)=マルグリット(原作小説版)アルフレード(オペラ版)=アルマン(原作小説版)>>次回:4. 「帰るべき場所」と幸福(後編)(9月25日更新)プロフィール石井ゆかりライター。星占いの記事やエッセイなどを執筆、「12星座シリーズ」(WAVE出版)は120万部のベストセラーに。Twitterのフォロワー数は30万を越える。著書多数。
2019年08月25日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラムが登場! 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。前回に引き続き、「石井ゆかりの幸福論」第3のテーマ“「知る」という幸福”の後編をお届けします。~ 3. 「知る」という幸福・後編~■生きるための知、純粋な知的好奇心私たちは社会生活を送り、自分を守るために、多くの知識や情報を必要とします。生活の基本を学び、世の中の仕組みを学び、仕事のやり方を学び、人との関わり方を学んで、私たちはやっと、この世界でなんとか生きられるようになります。これらは、幸福に生きるための「土台」のような学びです。さらにこの競争社会では、多くを知り、人を出し抜くようなアイデアを持つ者が勝利する、ということになっています。なにかを知らなければバカにされ、バカにされないために学ぶ、といった小競り合いがあちこちで起こっています。こうした競争の中で多くの人が疲れ、傷つき、人を信じられなくなって、孤独に陥っているようにも見えます。「学ぶ」ことは、この辺りまで来ると、幸福への道から大きく逸れています。一方で、私たちには「閉じられた箱の中に入っているものを、どうしても見たい」と感じるような「好奇心」が備わっています。「古代文明の謎」「古城の開かずの部屋」「この村の秘密」「徳川埋蔵金」などという言葉に、私たちは敏感に反応します。このときの「知りたい」という思いは、「マウントをとりたい」「ビジネスに役立てたい」などという思いとは関係がありません。純粋な楽しみのための読書、お気に入りの散歩道を歩く時間。その中にあるとき、私たちの魂は誰にも傷つけることのできない状態になっている、と悪魔は言います。そのような状態の魂は、誘惑も脅迫も受け付けないからです。仲野先生(※)は、「世界を知りたいと思うのは、その世界に生まれた自分自身を知りたいということでもあるだろう」とも言われました。自分が生きているとはどういうことか、死んだらどうなるのか、この世界はそもそも、なんなのか。私たちは「自分」について、よく知っているようで、肝心なことを知りません。それはまさに、大いなる謎です。自分自身と直接関係のある謎です。それを「知りたい」という思いを、誰もが心の片隅に抱えているのではないでしょうか。※仲野徹先生(大阪大学)『3. 「知る」という幸福・前編』にも登場誰にも命令も強制もされないのに、ちいさな子供が言葉を覚えるのは、なぜなのでしょうか。2つか3つの子が「これなあに?」「なんで?」ばかり繰り返すのは、なぜなのでしょうか。「ほめられたいから」ではないだろうと思います。「知りたい」という欲求は、私たちの中にもともと、食欲のように強く備わったものであるようです。どんなに食欲旺盛な人でも、お腹がいっぱいのときには、なにも食べたくないのが当然です。情報の大洪水のようなこの世の中で、私たちの「知りたい」という欲求は、お腹いっぱいなのにもっともっと食べさせられようとしているような、危機的な状況にあるのではないか、という気もします。なんでも読まなくちゃ、知らなくちゃ、と焦っているうちに好奇心自体が鈍磨し、摩滅してしまうとしたら、それは怖ろしいことです。最近の私は、悪魔が警戒する「純粋に自分を楽しませるためだけの読書、楽しみのためだけの散歩」を、もっと増やしたい、と思っています。C.S.ルイスの考えた「悪魔の意見」は、この点では、正しいような気がするのです。>>次回もお楽しみに(8月25日更新)プロフィール石井ゆかりライター。星占いの記事やエッセイなどを執筆、「12星座シリーズ」(WAVE出版)は120万部のベストセラーに。Twitterのフォロワー数は30万を越える。著書多数。
2019年07月25日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラムが登場! 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。今回は、「石井ゆかりの幸福論」第2のテーマ「お金があれば、幸福になれるか?」についてお届けします。2.お金があれば、幸福になれるか?お金と幸福の関係は、もうあらゆるところで語り尽くされていて、今更私がここで何か付け加えることもないようにも思われます。ですが、「幸福」を語る上では、避けて通れないところでもあると思います。お金は、現代社会を生きていく上でどうしても必要なものです。お金がなければ生活できない、食べていけない、ということになります。キリストは「人は、パンのみにて生くるにあらず」と言ったそうです。そうなのです。「パンだけで生きていけるわけではない」のですから、「パンなし」では、やっぱり生きていけないのです。お金があれば幸福になれる、と考える人は少なくありません。お金がないときは特に「お金さえあれば!」と思えます。たくさんお金を持っている人でも「これでは足りない」と思い続けている、という話を聞きます。たとえば、20代の頃よりも30代のほうが給料は多くなったけれども、お金に対する心配はむしろ、強く大きくなった、という人がいます。持っているお金の多寡によらず、お金は「常に何となく足りない」ものなのかもしれません。「お金さえあれば幸せになれる」へのアンチテーゼも、古来、普遍的に語られ続けています。『ヴェニスの商人』や『クリスマス・キャロル』など、お金を持つ人々が決して幸福ではない、というハナシはずっと愛され続けています。サスペンスドラマなどでも、「根深い愛憎ゆえの凶行」と「金目当ての犯行」とは、おそらく同じくらいの割合なのではないでしょうか。他人に殺されるのはたいがい、お金持ちです。あまりハッピーではありません。最近では「ミニマリスト」「こんまりメソッド」など、物質的な条件に縛られないで生きることを模索する人々が増えてきているようにも思われます。生活の豊かさイコール、お金で買えるものをゆたかに持っていること、ではない、という考え方です。たくさんお金を稼いでも、時間が仕事で埋め尽くされて疲れ果て、日々に何の喜びも感じられないなら、それは幸福とは言えないでしょう。最低限の収入で営まれる真の幸福な生活とは何か、を考えるために、小屋に住んだり、できるだけお金を使わない生活を試みたりと、言わば「実験的生活」をしている人のルポルタージュをしばしば、みかけます。こう考えていくと、お金はとても妙なものです。なければ困るし、あっても困るのです。皆が欲しがるものなのに、悪いもののように言われるのです。お金持ちになりたい人がたくさんいる一方で、お金持ちは一般に悪党扱いされるのです。宗教的な考え方では、お金は大抵、悪とされます(で、寄付が求められます)。■お金と、危険と、死と。学校の授業で「お金とは社会を流れる血液のようなものである」と教わったことがあります。社会を生かし、財を動かし、新陳代謝を促すお金と血液の比喩は、さらりと納得できるものでした。しかし、最近別の意味で、この比喩に「なるほど」と思うこともあります。というのも、私たちは誰もが体の中に大量の血液を持っているのに、血液自体を目にすることは「非日常」なのです。いつでもここにあり、指先を温めているのに、それがちょっとでも表に出ると「さあ大変!手当てを!」となります。「血を見る」ことは、ゾッとするような怖いことなのです。昨年、海外でビルの上からお札を撒いた人がいて、ニュースになりました。お金を見ても「ゾッと怖くなる」ことは無いかもしれませんが、たとえば現金がその辺にポンと放り出されていたら、何となく落ち着かなくなります。「はやくしまったほうがいい」と感じるものではないでしょうか。この点でも、お金と血液は、ちょっと似ていると思うのです。私は、ディズニーランドのアトラクションの中で「カリブの海賊」がいちばん好きです。船に乗って眺めてゆく光景の中に、「洞窟の中で、金貨や財宝の山の上に座っているガイコツの海賊」というのがあります。おそらく飢えて死んでしまったのかなと思うのですが、それでも尚、彼は自分の戦利品である宝の山を守り続けています。あの光景は、滑稽でもあり、恐ろしくもあります。彼を見ると、悲しく切ない気持ちになることもあります。限りない満足と果てしない孤独、奪われることへの恐怖など、激しい感情が彼の中に渦巻いたことでしょう。その感情に窒息するかのようにして、彼は死んだのかもしれません。彼は幸福だったのでしょうか。もし「お金があれば幸福になれる」のであれば、彼ほど幸福な人間はいないでしょう。巨万の富の上に座って死んだのですから。そう思って見てみれば、確かに、幸福そうに見えないでもありません。でも、自分も彼のようになりたいかというと、そうは思えません。お金は、使えば消えてしまいます。でも、使わないでおいても、骸骨の守る金貨のように、意味をなさないのです。お金は、考えれば考えるほど、不思議なものです。■お金と、幸福と、「罪悪感」と。東日本大震災の時、普段とは違った光が、お金を照らし出しました。ひとつは「寄付」、もうひとつは「経済を回す」という言葉です。あの時は、多くの人が当たり前のように寄付をしました。海外からも寄付金が集まりました。被害を被った人々への共感、何とか助けたいという思いがそこに詰まっていたのは確かです。その一方で、「申し訳ない」という言葉を口にする人がいました。方や、全てを奪われて苦しんでいる人々がいる。その一方で、特に何も奪われなかった自分がいる。このことに「罪悪感を持った」人がいたのです。そこで、まるで負債を返済するかのような気持ちで、「寄付をした」という人がいました。寄付をすると、罪悪感が軽くなったのだそうです。勿論、被災地の人々は、被災しなかった人に罪悪感を持ってほしいなどと思わなかったはずです。でも、被災しなかった側では、自動的に罪悪感に苛まれた人がいたのです。そこでは、お金は確かに「正しいもの」として扱われていました。「経済を回す」という言葉もまた、多くの人が口にしたフレーズでした。これもまた、被災地ではない地域での言葉でした。大きな災害が起こったけれども、ほぼ普段通りの生活をし、普段通りに仕事をすることに、多くの人が違和感を持ったのです。「苦しんでいる人がたくさんいるのに、私たちは『普段通り』でいいのだろうか」。この問いの中で出てきた答えが、「普段通りに生活し、仕事をするということは、つまり世の中の経済活動をいつも通りに回していくことであり、間接的には被災地の人々の助けにもなるのだ」という考え方でした。「自分の生活・仕事」という狭い経済活動の範囲が、「世の中の経済」という視野へと、一気に拡大したのです。震災時、多くの人が「経済的な視野の広がり」を得たのではないかと私は想像します。お金はここでも「善」そのものでした。私たちは、幸福になろうとするとき、目に見えない他者への負債を抱えるものなのでしょうか。親が子どものためにお金を使うこと、介護のためにお金を使うことは、非難されることはほぼ、ありません。一方、自分のための贅沢は、人からもあれこれ言われますし、自分でも「これは贅沢かな」と罪悪感を抱かされたりします。他者のためにお金を使うことは善で、自分のためにお金を使うのは悪である、という考え方は、どうも「生きているということはそれ自体、なにかに・誰かに借りがある」というような考え方に繋がっているのかもしれません。「感謝」は、この世の中ではとても重要な思いとされています。「感謝を忘れないように生きています」「いちばん好きな言葉は『ありがとう』です」と言う人はたくさんいます。一方で、「ありがとう」が好きではない、という人もいます。お礼や感謝は「負債を精算したいという気持ち」に通じ、よそよそしく失礼な感じがする、というのです。昨年『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』という本が話題になりました。強く結びついた人間関係や共同体においては、「感謝の表現」は異質なものになることがあるようです。お金の問題が難しいのは、人が幸福になることや満たされることの土台に「善・悪」という概念が横たわっているからなのでしょうか。多くの人は満たされることを願っているわけですが、そのことが果たして「善いこと」なのかどうか、というところで、立ち止まらざるを得ないのかもしれません。「頑張った自分への御褒美」というフレーズがごく一般的に使われるわけですが、そもそも自分で自由にしてもいいお金であれば、好きに使っていいのです。「頑張った自分」というエクスキューズがどうして必要なのか。ここにもうっすらと、お金にまつわる倫理観のようなものの影が見えるのです。私たちが満たされることは、そんなに悪いことなのか。「過剰に満たされるのは善くない」という考え方もありますが、そこには自分の体や心を害する恐れがあるという意味の「良くない」に留まらないものが含まれています。私は個人的に、「そんなに申し訳ながる必要は、無いのではないか」と思っています。罪悪感というのは、確かに誠実で清らかな、人として正しい感情かもしれません。でも、本当に感じるべき罪悪感と、そうでもないものがあると思います。少なくとも「被災しなかったことへの罪悪感」は、私にはとてもよく理解できる感情なのですが、同時に、とても理不尽な感情でもある、と思えます。それは、被災した人々の苦悩への共感とは、別のものです。私たちはそんなにも、多くを「負って」しまうのか。満たされることに罪悪感を抱き、蕩尽する人々に嫌悪を感じる世の中は、なぜそうなっているのだろうか。幸福とお金の関係を考えると、どうしても私は、その疑問にたどりついてしまうのです。>>次回もお楽しみに(6月25日更新)プロフィール石井ゆかりライター。星占いの記事やエッセイなどを執筆、「12星座シリーズ」(WAVE出版)は120万部のベストセラーに。Twitterのフォロワー数は30万を越える。著書多数。
2019年05月25日大人気のライター・石井ゆかりさんによる連載コラムが登場! 占いを通して、数々の人生や幸せのあり方を見つめてきた石井さん自身の言葉で紡がれる「幸福論」をお楽しみください。今回は、3月に行ったTwitterアンケートの結果について、石井さんのコメントをお届けします。■あなたにとって「幸福」とは?第1回目の公開後、ココロニプロロさん のtwitterアカウントで「幸福」についてのアンケートをお願いしました。ご回答くださった皆様、誠にありがとうございました!『#石井ゆかりの幸福論 』連載スタート!あなたは今、幸せですか?もし「いいえ」なら、何が足りないと思いますか?RTもしくはコメントをお寄せください!#ココロニプロロ— cocoloni_PROLO (@cocoloni_portal) 2019年3月25日4000以上のお応えを頂き、半数近くが「幸せです」を選ばれたのには少し驚きました。もっとも、「幸せ」の定義は人によって大きく異なります。また、このアンケートがタイムラインに流れた時間帯や、このアンケートが目に止まる方々が私かココロニプロロのフォロワーの方が大多数であること、また、そもそも「回答するかどうか」の判断がこの手前に含まれているなど、様々なバイアスがあります。『幸せじゃない人は心理的に「押したくもない」ってなりそう@TeteGift0727さん』(※Twitterの引用は全て原文ママ)というご意見もありましたが、たしかにそういう気持ちになる方もあるだろうと思います。ゆえに、これだけでわかることはそれほどないわけなのですが、それでも「幸せ」について様々な関心があり、ご意見がある、ということは、感じられる気がしました。■お金、健康、愛が足りない!コメントの中には「お金や愛などが足りない」との声が多く見られました。確かに、生活が安定していて孤独でない、ということは、幸福の最大の条件だと思います。『幸せではない方に入れました。他人の幸せを羨むのではなく喜ぶような心の余裕がないといくら周りがあの人は幸せそうだと思っても当人は幸せだとは思えなくて。そんな心の余裕は経済的余裕や健康な体があってこそ生まれると思っています。@bisco_mItSUyoさん』お金が欲しい、愛されたい、健康になりたいという望みは決して、利己的なだけのものではないと思います。自分以外の人も幸せになってほしい、でも、それを祈れるようになるには、自分自身の生活の余裕が必要だ、という意見は、納得できます。確かに、世の中には自分のことなど構わず、他人を気遣うことができる人もいます。私自身、そういう人に出会ったことがあります。その人は余命一週間ほどだった病床でも、世話をしに来た家族を気遣って、楽しませようと、冗談を言ったりしていました。ですがその人もまた、他者からの愛の記憶に守られていたのではないかと思います。受け取ったものの大きさ、与えるものの大きさは、客観的に量れるものではありません。人が別の人からどれだけの喜びや庇護を受け取ったのかは、当人にしかわかりません。与えた側さえ、それはわからないものだろうと思います。■自分のものの考え方・思い方『40過ぎてやっとこさ「幸せはなるものじゃなくて気づくもの」って意味が分かってきたような気がします……@Shuto_Kaito_Momさん』『10年ほど前「しあわせになれない理由は私にはなにひとつないのに、自分が自分をそうしたくないんだ」と気づき、長い旅をして、「しあわせ」の定義が変わりました。しあわせって調和なんだ。四方が合っている、wholeであるということ。実は常に成就していることで、ただ認識の問題なんだなって、今は。@atohchieさん』自分だけが幸せではいけないのでは、という思いを持たれる方もいらっしゃいました。『ただ、自分が幸せでもつらい人がいる状況が目に入った時、私だけが幸せではいけないのでは、と思っているフシがどこかあります。@havingfun724さん』「幸せである」と認めることを怖れるような思いを持つ方は、結構いらっしゃるのではないかと思います。「幸せだ」と認めてしまうことが悪いことのような気がしたり、「幸せだ」と認めてしまったらもうそれ以上のものは手に入らないように感じたりする、ということもあるのかもしれません。たとえば、「これでおなかいっぱいです、満腹です」と言ったら、もうおかわりはもらえません。神様のような存在がいるとしたら、「まだまだ、おなかに余裕があります」と言っておきたい気がするわけです。満足することが、向上心を失わせる、と考える人もいます。あくなき努力を続けていくためには「まだまだ足りない」というハングリー精神が必要だという考え方です。こうした考え方を採る人にとっては、「幸福だ」と感じることは害悪となることもあるようです。「自分以外の誰かが幸福だからといって、その人に怒りを感じるのはばかげている、その人が私から何か奪ったわけでもないのに!」。これは、ある小説の中の一節です。この言葉はまるで正しいのですが、これを口にした人物は確かに、身近にいる人の幸福を妬んで、その人を遠ざけようとしていたのでした。この言葉は、自戒、反省の言葉であり、自嘲の言葉でもあったのです。私たちは他者の幸福を羨まずにはいられませんし、特に、自分が傷ついて苦しみや悲しみを抱え、不安に苛まれているときは、そうした思いを抱きがちです。それを知っている人々は、幸福なときでも、「自分が幸福だ」とは言わないようにします。無用の悪意から身を守るためです。「あなたは幸福ですか?」という問いの前で立ち止まり、口を閉ざしたくなるとすれば、それは「他の人々は幸福だろうか?」という問いが心の中に渦巻くからなのかもしれません。■幸福かどうかわからない。幸せになるための条件がわからない、何かが必要な気がするが、それが何かわからない、といったご意見も多かったように思います。『「いいえ」にしました。このところ「幸せ」についてずっと考えていたので思わずリプライしてしまいました。私の場合は幸せになりたいとは思っているものの自分が「どうしたら」や「何があったら」幸せを感じるかがはっきり認識できてないのが原因かなと思ってます。@love_toucanさん』『私は幸せかどうか分からない。何の不自由もなく生活できているのだから幸せなのかもしれないけど、幸せを感じる実感はなくて。分からないのでその他で。@neeze37さん』『恵まれているとは思うけれど、それがイコール幸せではない気がして。@naokosunsky1973さん』『何をしたらいいのか、何をしたいのか、歳をとるだけで先に光が見えない。@kakailuさん』幸せ自体の感じ方が時間によって変わる、というご意見もありました。『幸せだと思っていても後になってみると幸せではなかったと思う事もあるし、幸せじゃないと思っていても後になってみると幸せだった事もあり、「幸せと感じる事」には時間が経てば訂正が入ります!今の感想はあてにならないです。@horeisyouさん』幸せには常に「比較」がつきまといます。他人と自分の比較、過去と現在の比較、過去の2点間での比較などを通して「あの時は今よりは幸せだったな」「今にして思えばアレが幸せだったのかも」などと考えることも確かに、あります。「幸福」ということを、リアルタイムの感情・感覚として捉える方がいる一方で、ある種の価値判断・評価のようなものとして捉える方もいらっしゃるのだと思いました。また「自分は多分、幸福なんだろうと思う」というようなご意見もたくさんありました。これは、「感情や感覚ではよくわからないが、客観的に自分の生活を眺めると、いろいろな条件が調っているなあ」ということなのでしょう。「あたりまえだと思っていた条件を失って初めて、幸福だったのだとわかる」という言説は、ごく一般的なものです。だとすれば、私たちは「幸福」に関して、感情や感覚の上では、かなり鈍感だということなのかもしれません。少なくとも、そう自覚している方が少なくないんだな、という印象を受けました。「幸福ではない」を選んだ方のコメントの中で「お金が足りない」「仕事がない」というご意見がたくさんありました。次回、「幸福論」第2のテーマは、その「お金」についてです。>>次回もお楽しみに(5月25日更新)プロフィール石井ゆかりライター。星占いの記事やエッセイなどを執筆、「12星座シリーズ」(WAVE出版)は120万部のベストセラーに。Twitterのフォロワー数は30万を越える。著書多数。
2019年04月25日