明快な解説や柔軟な対応力など、アナウンサーとしての実力はさることながら、実直で親しみやすいキャラクターで番組を盛り上げている倉田大誠さん。担当するフジテレビ系情報番組『めざまし8』では、“わかりやすい言葉で説明すること”を心がけているそう。情報を正しく理解した上で自分の言葉に置き換える。「台本はあっても、僕はそこに書かれた整った言葉で話してはいません。視聴者に行間を含めて伝えるためにも、『ただね、ただ』というふうに接続詞を強めたり、口語体に直したり、わかりやすく伝える工夫をしています。そのためにはまず、自分がそのニュースの内容や正しい日本語を理解していることが大切。そうでないと、自分の言葉に置き換えることはできませんから一生勉強していく必要があると思っています」倉田さんといえば、この夏開催された東京五輪スケートボード競技における名実況も、大きな反響を呼んだ。取材時、おもむろに鞄から取り出したのは5cmを超える分厚い取材ノート。競技ごとに学んだ内容をまとめているという。「ただ、調べた知識はいったん捨てることが必要。そうでないと、視聴者目線に立った実況はできません。それから、競技をただ追うのではなく、そこに立っている人の思いや人となり、バックボーンを代弁するアナウンサーでありたいと思っています。そのためには現場に足を運び、生の声をしっかり聞くことも大事にしています」こんな話を聞いていると、いかにも“コミュニケーションのプロ”といった印象。しかし実は、「もともと人と話すことは苦手ですし、ネガティブで根暗なタイプ(笑)」なのだという。でもだからこそ、倉田さんの話の中には、会話力を鍛えるヒントがありそうだ。「喋り好きと会話上手は全然違うと思います。人の心を開かせるのって、とっても難しい。だからこそ、“喋り好きであるより、聞き上手であれ!”というのが、アナウンサーの大命題でもある。YES・NOで終わる聞き方だったら欲しい話を引き出せないですし、こちらがかしこまりすぎても、相手は心を開きにくいと思うんです」そこで倉田さんが意識しているというのがリアクションと温度感。「アナウンサーは相槌を声に出すと、相手の言葉尻とカブってしまって編集がしづらいということもあり、大きく頷く癖がついています。声には出さずとも相手には伝わるようにしたいので、リアクションは大きくしているし、顔芸にも長けている(笑)。相手が小さい声だったら自分も声を小さくしたり、テンションを合わせることも気をつけていることの一つです」倉田さんのように「もともと人と話すことが苦手な人でも会話力は鍛えられるか?」という問いには、「できると思います」と即答。「インタビューでもよく感じることですが、これ以上踏み込んではいけないなという一線を察することができないと、相手を傷つけることになるかもしれない。そこの嗅覚は鈍感でないほうがいいと思います。だから繊細な方や石橋を叩くタイプの方のほうがむしろ、相手の心を上手に開かせることができるのではないでしょうか」倉田さんの会話3か条1. じっくり話を聞いて、相手を引き出す。2. 大げさすぎるほど、リアクションをする。3. 相手とテンションを合わせて話す。くらた・たいせい1982年3月4日生まれ、長野県出身。フジテレビアナウンサー。2004年入社。現在は情報番組『めざまし8』(毎週月~金曜8:00~)や競馬中継『みんなのKEIBA』(毎週日曜15:00~)などを担当中。※『anan』2021年10月6日号より。写真・五十嵐一晴スタイリスト・伊藤省吾(sitor)取材、文・菅野綾子(by anan編集部)
2021年09月30日人気YouTuberグループ「東海オンエア」のリーダー・てつや(27)との交際が、9月17日に「文春オンライン」で報じられた峯岸みなみ(28)。同サイトによると、双方の所属事務所は《いいお付き合いをさせていただいていると聞いております》と交際を認めたという。そんな熱愛報道から一夜明けた18日。てつやがYouTubeの個人チャンネルを更新し、峯岸との交際について「事実です」と語ったのだ。高校1年生のころから峯岸が好きだったというてつやは、「メンバーのとしみつの紹介で、みなみさんとファンとしてではなく対等な立場で話させていただきました」と出会ったきっかけを告白。そして「長い時間をかけて少しずつ、テレビやインターネットではわからない性格だったり、考え方だったりを徐々に知っていくなかで、気づいたら芸能人としてではなく女性として好きになっていました」と明かし、沢山のコミュニケーションを重ねた上で交際に至ったと明かした。’14年6月にも《僕、大きくなったらAKBを卒業して恋愛解禁した峯岸みなみと付き合うんだ》とTwitterで宣言していたてつや。“高嶺の花”だった峯岸との交際について「僕にとって本当にもったいないぐらい素敵な方」と言い、「これからもずっと仲良くやっていきたいと思っておりますので、応援していただけると嬉しいです!」と呼びかけている。■峯岸が語っていた“理想の結婚相手5カ条”そんななか、5月6日に放送された『ダウンタウンDX』(日本テレビ系)で峯岸が語っていた“理想の結婚相手5カ条”が再注目されている。5月22日に開かれたコンサートをもって、AKB48を卒業した峯岸。番組で浜田雅功(58)から「卒業したら恋愛もできますから」と振られ、「結婚は1度はしてみたい」と語っていた。そして理想とする結婚相手について、「優しい、嘘をつかない、マジメすぎるよりは破天荒さもある、ケチじゃない、愛情表現やコミュニケーションをとってくれる人」と5つの条件を掲げていたのだ。SNS上では峯岸の“理想の結婚相手5カ条”に、《これまんまてつやだ》《なんだよてつや最高かよ》といった声が相次いでいる。「登録者数608万人を誇る東海オンエアは、バラエティに富んだ企画で視聴者を飽きさせないことでも知られています。リーダーのてつやさんは“人に優しく、自分にもっと優しく”を座右の銘にしているほど温厚な人柄。過去にしばゆーさん(27)から愛車のBMWを“痛車”に加工されてしまった時も、驚きはするものの『嫌いじゃない』と笑いに変えていました。そんなポジティブさや愛嬌たっぷりな性格は、多くのファンから支持されています。“理想の結婚相手”を明かしていた峯岸さんですが、てつやさんを指していたのかもしれませんね。’18年に参加したファッションイベントでも、峯岸さんは『自分のことが大好きな人』『30歳までには結婚したい』と語っていました。てつやさんの幸せそうな報告からも、ゴールインは近いかもしれません」(スポーツ紙記者)互いに“理想の人”と出会った峯岸とてつや。SNS上では2人の交際に、祝福の声が広がっている。《てつやと峯岸みなみは嬉しすぎるやんなにこれなにこれ嬉しいおめでとう》《てつやの部屋に峯岸みなみのポスター貼ってあるのも知ってたし好きだったのも知ってるから尚更驚いたしおめでとうが強い》《えーっ!!てつやと峯岸みなみちゃん!?!?おめでとう!!素敵…!》
2021年09月18日2021年9月19日(日)、9月20日(月)にトリエ京王調布C館「てつみち」にて、ヨガや呼吸法、リラクゼーションを通して、心と身体の健康を目指すヨガイベント「てつみちでヨガ」が主催YOGA STUDIOシュミッツの森(本社:東京都調布市、代表:シュミッツ千栄子)にて開催されます。スポーツ・健康用品の企画開発を行う株式会社ツインズ(本社:千葉県船橋市、代表:梶原 隆司)は、当イベントに日本発のヨガウェアブランドReal Stone(リアルストーン)含む商品を協賛いたします。トップ画像【開催概要】■会場■トリエ京王調布C館てつみち 「てつみち」とはてつみちとは京王線調布駅の地下化以前の鉄道跡地を活かし、実際に4本のレールが埋め込まれている広場です。木製の大型家具や人工芝のカーペット等でくつろいだり、子供たちが自由に遊んだり。「てつみち」は、トリエとあなたをむすぶ憩いの空間です。お散歩に、ショッピングの合間に、会社や学校の帰りみちに。思い思いのすごし方を見つけてください。■プログラム■9月19日(日)第1部 ~はじめてのヨガ~時間 11:00~11:30(10:30より現地にて受付開始)講師 シュミッツ茂仁香第2部 ~簡単ストレッチヨガとミラクル呼吸法(R)~※障がい者や車椅子をご利用の方も参加可時間 14:00~14:30(13:30より現地にて受付開始)講師 シュミッツ千栄子9月20日(月・祝)第1部 ~やさしいヨガ~時間 11:00~11:30(10:30より現地にて受付開始)講師 今田 直樹第2部 ~脱力ヨガ~時間 14:00~14:30(13:30より現地にて受付開始)講師 玉木 茜■参加費■無料※事前申し込み制で、既に募集を終了しています。■主催■YOGA STUDIO シュミッツの森所在地 :東京都調布市布田4-18-1 ハラビル3F電話番号:042-482-5755■協賛■有限会社 ヨガワークス株式会社ツインズBAJ株式会社(Real Stone)ヨガジャーナル日本版ヨガログ(yogalog)【会社概要】社名 : 株式会社ツインズ(TWINS CORPORATION)本社 : 〒273-0853 千葉県船橋市金杉7-1-9 ツインヒルズ西館3FTel : 047-449-8380Fax : 047-449-8381代表者 : 代表取締役 梶原 隆司設立 : 1999年4月8日従業員 : 60名(パート含む)公式サイト : 公式CATERPY: 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2021年09月16日繰り返される緊急事態宣言、コロナ禍終息の兆しが見えないなか開催に突き進む東京オリンピックなど、未だ混迷を極める2021年上半期。並行して芸能界でも数々の“事件”が――。本誌が目撃した“スクープ”から特に反響の大きかったものを今一度お届けしたい。今も多くのファンに愛される「仮面ライダーBLACK」で主役を演じた倉田てつを。かつては朝ドラで鈴木京香の相手役を務めるなど一世風靡をした倉田だが、呆れたトラブルを起こしていた。造形作家に依頼したBLACKのフィギュアを無断で商業利用していたというのだ――(以下、2021年3月9日号 掲載記事)※年齢は掲載当時のママ「倉田さんは『等身大フィギュアをもらってほしいというファンの人がいて、仕方なくもらって飾っているだけ』と、押しつけられたかのように言いふらしていると複数の人から聞いたことがあります。営業利用がひどく、ますますエスカレートしそうなので事実は違うとSNSにアップしたのです」そう話すのは造形作家のAさん。倉田てつを(52)といえば、30年前の朝ドラ『君の名は』(NHK総合)の主役に選ばれ鈴木京香(52)と共演。「’87年に『仮面ライダーBLACK』、翌年『仮面ライダーBLACK RX』(毎日放送)と2年連続で主役を演じたことでも有名です。’08年には都内のステーキ店のオーナーにもなっています」(映像関係者)Aさんは彼に頼まれ、「商業利用しない」条件で’18年に仮面ライダーBLACKの等身大フィギュアを制作。だが、3年後の今もステーキ店に飾られたままだ。Aさんはフィギュア制作の経緯を今年2月、こうツイートした。《非公認の造形物でお金を頂く訳にはいかないので、丁度、お店の〇周年記念と言う事もあり“運送費だけは着払で…”という事にしてプレゼントとして贈らさしてもらいました》《「少しだけ店に置いたら直ぐ家に持って帰ります」と約束してくれたのですが》Aさんは本誌にこう続ける。「知人の紹介で’15年に彼のトークショーに伺ったとき『造形作家です』と名乗ると、いきなり『仮面ライダーBLACKの等身大フィギュアを作れますか』と依頼を受けました。そこで『作れますが、店に置くなどしたら営利目的になるからダメです。自宅に置いて個人で観賞するだけなら』と答えたのです」会うたびに「お願いします」と頭を下げる倉田にAさんはそのつど著作権のことを説明。彼からの「店には置かず、自宅に持ち帰ります。もうすでに設置スペースやケースまで準備してるんです」との言葉を信じ、精魂込めた等身大フィギュアを無償で提供。大作だけに制作に1年以上を要した。「開店10周年の記念日に『取材カメラが入るので間に合わせてほしい』と催促が頻繁に入るようになりました。このときも私は『フィギュアを撮影させては著作権違反になりますよ』と忠告しました。記念日だけ店に置くぐらいならまだ許せます。しかし、3年間ずっと店に置いたままなのです」要望はこれだけではなかった。「’19年1月に『弟の飲食店にも今度は仮面ライダーBLACK RXの実物大フィギュアを置きたいので作ってほしい。60万円で』と金額まで指定してきたのです。お金をもらって作るのは違法だとあれだけ口を酸っぱくして言ったのに、まったく理解していないことにあきれました」Aさんは当然断った。それ以降、倉田とは交流はないと話す。■商業利用で著作権侵害の可能性も2月13日、彼の店で開店13周年の記念イベントがあった。厨房から倉田が現れ客前で挨拶すると、すぐに厨房に戻り姿を消した。会計後、配られたステッカーにはAさんのフィギュアと一緒に映った倉田の写真が。この種のステッカーがオンラインショップでは500円で販売されているという。「本来はプライベート扱いのはずが、倉田さんの店の客集めにフィギュアが利用されているわけで、違法行為になります」(Aさん)倉田を古くから知るBさんは、「倉田氏は一時期、オンラインショップで仮面ライダーを意識した『Black Tシャツ』を1枚5千300円で販売。SNSでの炎上後は名前を“オリジナルTシャツI”に変更。現在は販売を休止しています」と嘆く。知的財産法に詳しい松本賢人弁護士は言う。「等身大フィギュアについては、その写真を使ってDVDやステッカーを作った時点で著作権を侵害する可能性が。罰則は10年以下の懲役、1千万円以下の罰金です。ライダーのロゴマークを勝手に使ったグッズを販売しているとすれば、商標登録や意匠登録をしていなければ著作権の問題になります」前出のBさんは訴える。「倉田氏は著作権に対する意識が低いんです。たとえばイベントに“仮面ライダー”と入れると、著作権使用料を東映に支払う必要があります。だが彼は『俺には東映は一切何も言ってこない。2年連続でライダーを演じたのは俺だけだ!』と言い張っていました」2月中旬、出勤前の彼に話を聞いたが、「あっ、ちょっと、事務所を通してもらっていいですか?」と爽やかに返答。改めて事務所に質問状を送ると、「ノーコメントとさせていただきます」との回答が返ってきた。前出のBさんは肩を落とす。「彼にいま役者としての仕事が少ないのも、やはり言動に問題があるからでは。実際私もずっと前から縁を切っています。少しは反省していただきたいのですが……」倉田の“ブラックな態度”が改善される日は来るのだろうか――。
2021年06月25日’87年放送の『仮面ライダーBLACK』と翌年に放送された『仮面ライダーBLACK RX』(毎日放送)で、主役を演じた倉田てつを(52)。彼が4月3日に17LIVEで配信した動画での発言が、ファンの間で物議を醸している。奇しくも同日は、’71年に『仮面ライダー』が放送されて50周年にあたる記念日。歴代の出演者たちが、SNSなどで続々と祝福コメントを寄せている。さらにシリーズ作のリバイバル上映も予定され、白石和彌監督(46)のもと『仮面ライダーBLACK SUN』の制作も発表されたばかり。倉田も祝辞を寄せるものと思われたが、そうではなかったようだ。倉田は動画で、「俺は仮面ライダーの話は好きじゃないから」と一蹴。続けて、「50周年って言われてもね」「俺、仮面ライダーじゃねえし」などと述べた。そして最後は、「たまたま昔ライダーやってたっていうだけ」「仮面ライダーあんま好きじゃないから」と締めくくったのだ。この“放言”にファンからは、「ガッカリした」と非難の声が続出している。《倉田さん、何言ってるの?仮面ライダー好きじゃないって?信じてる人たくさんいるんだよ。もう幻滅した》《内心思うのは勝手だけど、その発言を何故よりによって仮面ライダー生誕50周年という節目の年に投下するのか……その神経を疑う》《失望して倉田てつをと彼が演じてるBLACKのファンをやめたわ》■店には仮面ライダーBLACKの等身大フィギュアが現在はステーキ店のオーナーでもある倉田だが、そこで「仮面ライダー」は重要な存在となっていたはずだった。本誌は今年2月、倉田に「BLACK」の等身大フィギュアを作った造形作家のAさんを取材。その経緯について、Aさんはこう語ってくれた。「知人の紹介で’15年に彼のトークショーへ伺ったとき、『造形作家です』と名乗ったらいきなり『仮面ライダーBLACKの等身大フィギュアを作れますか』と依頼を受けました。そこで『作れますが、店に置くなどしたら営利目的になるからダメです。自宅に置いて個人で観賞するだけなら』と答えたのです」Aさんは「商業利用しない」という条件のもと、’18年に「BLACK」の等身大フィギュアを制作。しかし倉田はその約束を破り、3年間も店に飾り続けていた。今年2月に行われた開店13周年の記念イベントでは、倉田がAさんのフィギュアと一緒に映ったステッカーが会計後に配られていた。倉田から裏切られたAさんは、こう憤っていた。「本来はプライベート扱いのはずが、倉田さんの店の客集めにフィギュアが利用されているわけで、違法行為になります」昨年11月6日に配信された『魂ウェブ』のインタビューで、倉田は「BLACK」への思いをこう語っている。「ステーキハウスを開業したら『BLACK』のファンの方々が大勢来てくれて、当時の感想や再演の希望を僕に伝えてくれるんですよ。そのような声を直接耳にする機会が増えたことで自分の中でも心境の変化が起こり、仮面ライダーBLACK=南光太郎であり続けるのは自分の宿命と思えるようになりました」「BLACK」の恩恵を受けていながらも、まさかの“放言”。支離滅裂ともいえる倉田に、ファンたちは気持ちを踏みにじられてしまったようだ。
2021年04月06日朝ドラ『君の名は』(NHK総合)、そして『仮面ライダーBLACK』(毎日放送)の主演として知られる倉田てつを(52)。ステーキ店のオーナーでもある彼に知人やファンとの“トラブル”が起きていた。主婦のCさん(35)はフェイスブックを通じて倉田と知り合った。昨夏、Cさんは倉田の配信ライブを見た。出演者に有料ギフトを送る課金制度(投げ銭)があり、彼から「ギフトのポイントが低いとやめないといけなくなる」と言われ3万円課金すると、ライブのたびに連絡が来るようになった。「深夜の配信では非常に不機嫌で、今にも怒りだしそうな表情の倉田さんが黙って映っているだけ。『コメントもギフトもくれないって何なの?本当に俺のファンなの?』と。ところが、課金した途端、機嫌がよくなってニコッとするんです。怖がらせてお金を出させる感じでした。抜けられない雰囲気を出され、脱出するまでの1カ月で30万円近くを課金してしまいました。やめた後も2~3カ月は下痢や突然気分が悪くなって嘔吐したり、体調を崩してしまいました」(Cさん)女性ファンDさんは店でメモを渡され、メアドを交換。再訪したとき、帰り際に店の外の通行人から見えない場所で抱きしめられた。それ以来、疎遠になると彼から「彼女のしつこい電話とメールに困っている」と吹聴されたという。倉田は10年前から定期的にファンとの国内バス旅行も実施。「1泊2日で2万円台。バスは補助席も使った満員状態で途中のランチも自腹。倉田さん側が直接、申込み受付けや宿の支払いに関わっていたようなので、代理店を通しているとは思えません」(元常連客・Eさん)旅行業法に詳しい谷口和寛弁護士は言う。「登録なく、複数回にわたり、広く参加者を募集する形でツアーを企画・販売していたのであれば、旅行業法違反の可能性があります」今回、取材したファンが口を揃えて言うのが、下記の証言だった。「倉田さんは自分の都合が悪くなると、突然やりとりしていたLINEをブロックしてしまうんです。同じことをやられたファンの方は少なくありません。そんな彼の態度から、倉田さんはいまや“仮面ライダーブロック”とも呼ばれているんです」倉田はこれらの声にもノーコメントだった。この異名を、どう捉えているのだろうか。「女性自身」2021年3月9日号 掲載
2021年02月24日「倉田さんは『等身大フィギュアをもらってほしいというファンの人がいて、仕方なくもらって飾っているだけ』と、押しつけられたかのように言いふらしていると複数の人から聞いたことがあります。営業利用がひどく、ますますエスカレートしそうなので事実は違うとSNSにアップしたのです」そう話すのは造形作家のAさん。倉田てつを(52)といえば、30年前の朝ドラ『君の名は』(NHK総合)の主役に選ばれ鈴木京香(52)と共演。「’87年に『仮面ライダーBLACK』、翌年『仮面ライダーBLACK RX』(毎日放送)と2年連続で主役を演じたことでも有名です。’08年には都内のステーキ店のオーナーにもなっています」(映像関係者)Aさんは彼に頼まれ、「商業利用しない」条件で’18年に仮面ライダーBLACKの等身大フィギュアを制作。だが、3年後の今もステーキ店に飾られたままだ。Aさんはフィギュア制作の経緯を今年2月、こうツイートした。《非公認の造形物でお金を頂く訳にはいかないので、丁度、お店の〇周年記念と言う事もあり“運送費だけは着払で…”という事にしてプレゼントとして贈らさしてもらいました》《「少しだけ店に置いたら直ぐ家に持って帰ります」と約束してくれたのですが》Aさんは本誌にこう続ける。「知人の紹介で’15年に彼のトークショーに伺ったとき『造形作家です』と名乗ると、いきなり『仮面ライダーBLACKの等身大フィギュアを作れますか』と依頼を受けました。そこで『作れますが、店に置くなどしたら営利目的になるからダメです。自宅に置いて個人で観賞するだけなら』と答えたのです」会うたびに「お願いします」と頭を下げる倉田にAさんはそのつど著作権のことを説明。彼からの「店には置かず、自宅に持ち帰ります。もうすでに設置スペースやケースまで準備してるんです」との言葉を信じ、精魂込めた等身大フィギュアを無償で提供。大作だけに制作に1年以上を要した。「開店10周年の記念日に『取材カメラが入るので間に合わせてほしい』と催促が頻繁に入るようになりました。このときも私は『フィギュアを撮影させては著作権違反になりますよ』と忠告しました。記念日だけ店に置くぐらいならまだ許せます。しかし、3年間ずっと店に置いたままなのです」要望はこれだけではなかった。「’19年1月に『弟の飲食店にも今度は仮面ライダーBLACK RXの実物大フィギュアを置きたいので作ってほしい。60万円で』と金額まで指定してきたのです。お金をもらって作るのは違法だとあれだけ口を酸っぱくして言ったのに、まったく理解していないことにあきれました」Aさんは当然断った。それ以降、倉田とは交流はないと話す。■商業利用で著作権侵害の可能性も2月13日、彼の店で開店13周年の記念イベントがあった。厨房から倉田が現れ客前で挨拶すると、すぐに厨房に戻り姿を消した。会計後、配られたステッカーにはAさんのフィギュアと一緒に映った倉田の写真が。この種のステッカーがオンラインショップでは500円で販売されているという。「本来はプライベート扱いのはずが、倉田さんの店の客集めにフィギュアが利用されているわけで、違法行為になります」(Aさん)倉田を古くから知るBさんは、「倉田氏は一時期、オンラインショップで仮面ライダーを意識した『Black Tシャツ』を1枚5千300円で販売。SNSでの炎上後は名前を“オリジナルTシャツI”に変更。現在は販売を休止しています」と嘆く。知的財産法に詳しい松本賢人弁護士は言う。「等身大フィギュアについては、その写真を使ってDVDやステッカーを作った時点で著作権を侵害する可能性が。罰則は10年以下の懲役、1千万円以下の罰金です。ライダーのロゴマークを勝手に使ったグッズを販売しているとすれば、商標登録や意匠登録をしていなければ著作権の問題になります」前出のBさんは訴える。「倉田氏は著作権に対する意識が低いんです。たとえばイベントに“仮面ライダー”と入れると、著作権使用料を東映に支払う必要があります。だが彼は『俺には東映は一切何も言ってこない。2年連続でライダーを演じたのは俺だけだ!』と言い張っていました」2月中旬、出勤前の彼に話を聞いたが、「あっ、ちょっと、事務所を通してもらっていいですか?」と爽やかに返答。改めて事務所に質問状を送ると、「ノーコメントとさせていただきます」との回答が返ってきた。前出のBさんは肩を落とす。「彼にいま役者としての仕事が少ないのも、やはり言動に問題があるからでは。実際私もずっと前から縁を切っています。少しは反省していただきたいのですが……」倉田の“ブラックな態度”が改善される日は来るのだろうか――。「女性自身」2021年3月9日号 掲載
2021年02月24日「松本零士×ちばてつや 巨匠漫画家2人展」が、2020年4月29日(水・祝)から5月5日(日・祝)まで大丸東京店にて開催される予定だったが中止となった。「銀河鉄道999」や「宇宙戦艦ヤマト」など、一大アニメブームを巻き起こした漫画会の巨匠・松本零士と、ボクシング漫画の金字塔として知られる「あしたのジョー」のちばてつや。本展は、そんな日本漫画界の歴史を変えた2人が初めてコラボレーションした特別展示販売会だ。会場では、それぞれの作品を目の前で鑑賞し、実際に購入することができる。松本零士は、直筆の水彩画や、メーテルなど「銀河鉄道999」の主要キャラクターの版画約100点を出展。また、「宇宙戦艦ヤマト」の貴重な初期の漫画原稿が特別公開される。ちばてつやは、「あしたのジョー」の矢吹丈、力石徹など、圧倒的な世界観で描かれた版画約40点を用意する。さらに、ポストカードやクリアファイルといったグッズの販売や、ちばてつやによるサイン会も実施。誰もが一度は目にしたことのある名シーンが実際に手に入る貴重な機会となっている。【詳細】松本零士×ちばてつや 巨匠漫画家2人展※大丸東京店が当分の間臨時休業の為開催中止。期間:2020年4月29日(水・祝)~5月5日(日・祝)場所:大丸東京店11階催事場住所:東京都千代田区丸の内1丁目9−1価格例:・メーテル 40×28cm版画 132,000円(税込)・遥かなるアルカディア 45×35cm 版画 165,000円(税込)・アルカディア号と999号(イラスト入り) 49×34cm版画 176,000円(税込)・スターシャ(II)48×36cm 版画 165,000円(税込) ・燃える闘志(ジョー) 42×30cm 版画 132,000円(税込)・矢吹丈(S) 45×32cm版画 176,000円(税込)・葉子像 31×25cm版画 77,000円(税込)
2020年03月14日「さぁ、実験を始めようか!」この一言で誰だかピンと来たあなたは、イケメン発掘の達人かも。今注目の若手俳優・犬飼貴丈(いぬかいあつひろ)さんが仮面ライダービルドを演じた際の決め台詞です。ちなみにイケメン俳優ランキングに殿堂入りしそうな吉沢亮さんが演じた仮面ライダーメテオの決め台詞は「お前の運命は、俺が決める!」。いやもう、かっこよすぎて…妄想が止まりません。■犬飼貴丈と吉沢亮が兄弟に!実は、4月1日スタートのNHK連続テレビ小説『なつぞら』に、この2人が兄弟役で登場します。「夢のライダー共演」ってことで、筆者の周りはこの話題で持ちきり。犬飼さんは初の朝ドラ出演で全国デビュー。となれば、吉沢さんや菅田将暉さん、竹内涼真さんなどのように、今後は大ブレイクする可能性大!ということで、今回は歴代の仮面ライダー俳優の運勢を占ってみました!■仮面ライダー22人の運勢をチェック先ほども少し名前を挙げましたが、昨今は『仮面ライダー』出身のイケメン俳優が大人気。ドラマや舞台、CMに引っ張りだこですよね。「あの子、誰だろう?」と検索したら、いつぞやの仮面ライダーだった!ということも多いのではないでしょうか?そこで吉沢さんと犬飼さんを含む、歴代の仮面ライダー俳優(1980年代以降生まれ限定)の今年の運勢とお仕事情報を星座別にチェック。以下の中に、気になる俳優さんはいるでしょうか?ちなみに誕生日別の「キャラ」は、使えば願いが叶うと話題の『超運ダイアリー』を参照しました。■牡羊座の仮面ライダー俳優◎佐藤健(1989年3月21日)【キャラ】誰も行ったことのない地へと旅立つ開拓者タイプ【運勢】準備に入るとき【仕事】2019年映画『サムライマラソン』に出演【出身】仮面ライダー電王(2007年)◎佐野岳(1992年4月3日)【キャラ】明るくユーモアがあり話術が巧みな人気者タイプ【運勢】新しい始まりのとき【仕事】2019年映画『超・少年探偵団NEO Beginning』に出演【出身】仮面ライダー鎧武/ガイム(2013年)◎水嶋ヒロ(1984年4月13日)【キャラ】セカセカせず流れに身を任せる気さくなタイプ【運勢】愛する者をサポートするとき【仕事】株式会社FIREBUGのコンテンツプロデューサーに就任【出身】仮面ライダーカブト(2006年)■牡牛座の仮面ライダー俳優◎竹内涼真(1993年4月26日)【キャラ】控えめだけれど情熱的で存在感のあるタイプ【運勢】信頼を集めるとき【仕事】2019年映画『初恋ロスタイム』に出演【出身】仮面ライダードライブ(2014年)◎山本涼介(1995年5月15日)【キャラ】意志が強く行動力があるパワフルなタイプ【運勢】ビッグチャンス【仕事】2019年映画『JK☆ROCK』、4月ドラマ『御曹司ボーイズ』に出演【出身】仮面ライダーゴースト(2015年)◎瀬戸康史(1988年5月18日)【キャラ】堅実で芯が強く探究心と向上心に溢れたタイプ【運勢】充実を得るとき【仕事】5月ドラマ『デジタル・タトゥー』に出演【出身】仮面ライダーキバ(2008年)■双子座の仮面ライダー俳優◎福士蒼汰(1993年5月30日)【キャラ】合理的で理解が早い知的なタイプ【運勢】愛する者をサポートするとき【仕事】2019年映画『ザ・ファブル』に出演【出身】仮面ライダーフォーゼ(2011年)◎半田健人(1984年6月4日)【キャラ】聞き上手で優しくみんなに慕われるタイプ【運勢】環境が整うとき【仕事】2019年映画『武蔵 -むさし-』に出演【出身】仮面ライダー555(2003年)◎犬飼貴丈(1994年6月13日)【キャラ】冷静で感情に流されない裏表のないタイプ【運勢】環境が整うとき【仕事】NHK連続テレビ小説『なつぞら』、2019年公開の映画『GOZEN-純恋の剣-』に出演【出身】仮面ライダービルド(2017年)■獅子座の仮面ライダー俳優◎白石隼也(1990年8月3日)【キャラ】可能性を信じて前向きに努力するタイプ【運勢】ビッグチャンス【仕事】2019年映画『東京喰種トーキョーグール2』に出演【出身】仮面ライダーウィザード(2012年)◎奥野壮(2000年8月21日)【キャラ】明るく才能豊かでサービス精神旺盛なタイプ【運勢】環境が整うとき【仕事】ドラマ『仮面ライダージオウ』に出演中【出身】仮面ライダージオウ(2018年)◎飯島寛騎(1996年8月16日)【キャラ】自然体で気負ったところのない気さくなタイプ【運勢】準備に入るとき【仕事】2019年映画『PRINCE OF LEGEND』、4月ドラマ『御曹司ボーイズ』に出演【出身】仮面ライダーエグゼイド(2016年)■乙女座の仮面ライダー俳優◎磯村勇斗(1992年9月11日)【キャラ】気持ちの切り替えが上手で穏やかなタイプ【運勢】ビッグチャンス【仕事】NHK連続テレビ小説『ひよっこ2』、 4月ドラマ『御曹司ボーイズ』に出演【出身】仮面ライダーゴースト(2015年)■天秤座の仮面ライダー俳優◎加藤和樹(1984年10月7日)【キャラ】人生を楽しむ前向きなタイプ【運勢】可能性が広がるとき【仕事】9月ミュージカル『怪人と探偵』に出演【出身】仮面ライダーカブト(2006年)◎岩永徹也(1986年10月16日)【キャラ】状況判断ができて頭脳明晰なタイプ【運勢】愛する者をサポートするとき【仕事】4月ドラマ『明治東亰恋伽』に出演【出身】仮面ライダーエグゼイド(2016年)■蠍座の仮面ライダー俳優◎渡部秀(1991年10月26日)【キャラ】果敢に挑戦するタイプ【運勢】可能性が広がるとき【仕事】4月ドラマ『科捜研の女19』に出演【出身】仮面ライダーオーズ/OOO(2010年)■山羊座の仮面ライダー俳優◎武田航平(1986年1月14日)【キャラ】強い意志と忍耐力で何事もやり遂げるタイプ【運勢】今が踏ん張りどき【仕事】2019年映画『GOZEN-純恋の剣-』に出演【出身】仮面ライダーキバ(2008年)、仮面ライダービルド(2017年)■水瓶座の仮面ライダー俳優◎吉沢亮(1994年2月1日)【キャラ】意志がはっきりしている知性的で素直なタイプ【運勢】信頼を集めるとき【仕事】NHK連続テレビ小説『なつぞら』に出演【出身】仮面ライダーフォーゼ(2011年)◎桐山漣(1985年2月2日)【キャラ】感受性に恵まれた感謝の心を忘れないタイプ【運勢】スキルアップチャンス【仕事】4月ドラマ『俺のスカート、どこ行った?』に出演【出身】仮面ライダーW(2009年)◎三浦涼介(1987年2月16日)【キャラ】思いやりとインスピレーションに溢れたタイプ【運勢】可能性が広がるとき【仕事】6月ミュージカル『エリザベート』に出演【出身】仮面ライダーオーズ/OOO(2010年)■魚座の仮面ライダー俳優◎菅田将暉(1993年2月21日)【キャラ】情熱的で人生に高い目標を持つタイプ【運勢】スキルアップチャンス【仕事】2019年映画『アルキメデスの大戦』に出演【出身】仮面ライダーW(2009年)◎井上正大(1989年3月20日)【キャラ】思いやりと気遣いに溢れた穏やかなタイプ【運勢】充実を得るとき【仕事】『神ノ牙-JINGA-転生~消えるのは俺じゃない、世界だ。』演出・出演【出身】仮面ライダーディケイド(2009年)、仮面ライダージオウ(2018年)■2月生まれはイケメンが多い?さて、気になる俳優さんはいましたか?本当はオダギリジョーさんとか、倉田てつをさんや藤岡弘さんなど、そうそうたる歴代ライダーも。あるいは、悪役キャラの綾野剛さんも…などと考えましたが、少し絞らせていただきました。月別で言うと2月生まれが4人も!2月生まれは、全体的に未来派で個性的なタイプが多いんです。個性の強さが仮面ライダー、強いてはイケメン素質だったりするのかも?■犬飼貴丈、吉沢亮の2019年は?筆者の見立てでは、犬飼さんは今年、認知度が安定していくので、1年後の2020年にいろいろな「○○ランキング」に入るんじゃないかと期待大。一方、吉沢さんは、これまでのイメージを遥かに超える演技を見せてくれそうです。まもなくスタートする『なつぞら』は記念すべき100作目の朝ドラ。犬飼さんと吉沢さんが演じる兄弟は、ヒロイン・なつ(広瀬すずさん)の人生に大きな影響を与える重要な役割のよう。広瀬さんとどんなふうに絡むのか…そこも楽しみですね!
2019年03月29日いよいよ妊婦さんとしての日々が始まり、出産の日を迎えたこてつさん。最後に改めて、3年間の治療を振り返って感じたことを綴っています。不妊治療を2005~8年に受けた中村こてつさんの体験談。最終回です。妊娠から出産までの日々2009年7月20日。干し梅のような姿だった透明の卵が、人間の赤ちゃんとしてこの世に現れました。4回目の移植で妊娠した私は、不妊治療中にもそうであったように、ネット検索魔に変身。妊娠中にとったほうがいいサプリメント、カフェインはどこまで摂取していいのか、おすすめ食材・おすすめしない食材、体重の増加について怒られないようにする方法(笑)、妊娠線の出ない方法、安産のためにやらねばならない運動など、ありとあらゆる方法を調べました。コーヒーを飲み過ぎではととがめるオットと険悪な雰囲気になったり、栄養士さんの話を聞いてから昆布やいりこでだしをとるようになったり、黒酢たくさん飲んだりしました。安産のためにとにかく歩こう! と愛犬と一緒に散歩しまくり、10km近く歩く日もありました。頭でっかち、おなかでっかちな妊婦になりました(笑)。 妊娠5カ月になってから周囲の人には伝えました。それまでは「何があるかは分からないから」とずっと秘密にしていました。マイナートラブルはあるものの妊娠経過は順調。力を合わせて産道をくぐり抜け、産声をあげる我が子と対面することを何度も想像し、安産に向けて毎日毎日歩きました。出産予定日。うんともすんともいいません。そのまま予定日を1週間超過しようかというとき陣痛がきました。陣痛は進みが遅く、徐々にひどくなる痛みに2日間耐え抜きました。子宮口がやっと全開近くになり、最後は先生におなかを押さえつけられながらいきんだものの…生めませんでした。不妊治療(特に体外受精・顕微授精など)で妊娠した子は「貴重児」と呼ばれていました。万が一のことがあったとき次の妊娠が難しい、妊娠するまでにかなりの労力を費やしている、という理由からそう呼ばれるようです。そのほか、不育症であった、流産・死産の経験がある、なども貴重児と分類されるとのこと。初めから帝王切開をすすめられるケースもあったと聞いています。バースプランを決めるとき、なるべく普通分娩で生みたいと言いました。さんざん人工的な不妊治療をしてきたのだから、出産くらいは自然な形で普通に生みたいと思っていました。だけど、自然に生むことが普通? 治療中も初めは「できれば自然に」と考えていました。自然=普通? なんで普通になりたいんだろう、私。…普通って、なんだっけ? 数人がかりでサポートされながらいきんだ後、帝王切開を提案されました。「せっかく不妊治療してまで授かった命だからこそ、最後の最後でリスクを背負うことはないよ」。先生が言いました。このまま頑張れば普通分娩で生めるかもしれないけれど、万が一のために帝王切開で安全に取り出したほうがいいとのことでした。手術が決まるとあれよあれよと準備が進み、私は手術台の上で張りつけの状態に。始まって数分、泣き声が聞こえました。「へその緒が2重巻きで回旋異常だったよ。だから出てこられなかったんだねぇ」と先生。あー、そうだったんだ~。帝王切開でよかった…無事でよかった…。出産くらいは普通がいい。そう思っていた気持ちはなくなっていました。(この後しばらくして、「おっぱいくらいは普通にあげたい!」となるのですが…こりない私。苦笑)視線の先に、助産師さんに体を拭かれながら泣きじゃくる声と我が子の足が見えました。まだ手術台に張りつけにされたままの私の手に頭が触れるよう、計測等をすませた赤ちゃんを連れてきてくれました。その頭は、まだシットリ湿っていました。「久しぶり~」心の中で声をかけました。なぜ「久しぶり」かというと、0.1mmの受精卵以来の再会だったから。こうして私の不妊治療は幕を閉じました。自分の中のさまざまな気持ちに苦悩し、はいつくばって進むような日々。夫婦で本音をぶつけ、泣いたり、笑ったりした日々。いろいろなことを知り、いろいろなことを感じました。女性として生む・生まないを真剣に考えること。子どもがいることだけで幸せか不幸せかは決まらないこと。自分の体を知ること。家族の体を知ること。心と体はつながっていること。妊娠は思い通りにならないこと。自分の気持ちを奮起させて挑戦すること。失敗が続くとどんどん落ち込むこと。周囲の何気ない一言に疲弊すること。人の感じ方は自分の感じ方と違うこと。赤ちゃんはキラキラしていること。他人を妬む私がいること。平静を装う私がいること。他人のことは他人のことだと割り切ること。流れに身をまかせること。命が止まること。悲しみは他人と比べるものではないこと。夫婦にとって一番大切なこと。自分の心を掘り下げてみること。自分を認めてあげること。想像力を持って思いやる心、人も自分も大切にする生き方。3年間の不妊治療の体験を通して知りました。はっきりと思います。私には必要なプロセスだったと。そして時々、妄想します。不妊治療に挑んだけれど、結局子どもを持たなかった私の人生を。その人生を生きている私も、きっと幸せであるだろうと。※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。
2019年01月23日3回目の受精卵移植失敗の後、心理カウンセリングを受けたことにより、新たな心持ちになれたこてつさん。4回目の移植に臨みました。不妊治療を2005~8年に受けた中村こてつさんの体験談。4回目の受精卵移植を行いましたカウンセリングを受けた後日、4回目の移植をしました。前回のように管が子宮に入らないなどのトラブルはなく、スムーズに終わりました。今回も2個移植で、受精卵(1)はグレードBB、受精卵(2)は「収縮中」。当時、担当してくださった培養士さん曰く、胚盤胞は収縮と拡張を繰り返しながら大きくなっていくとのこと。収縮したまま移植した卵は、時間がたてば普通の卵と同じようになるかもしれないし、ならないかもしれない。すでに移植して子宮の中なので見ることはできない、などの説明を受けました。そっか~…。残りの凍結卵は1回分です。それは今回のものよりも状態は良くないとのこと。グレードは関係ないというけれど、やっぱり気にしてしまいます。とりあえず、今回のものが着床してくれるよう、今は卵の持つ力を信じよう。その後、黄体補充の注射をして帰宅しました。4回目ともなると心穏やかに…待てるわけもなく、そわそわしながら迎えた判定日前日。夕方に出血しました。少量でしたが、見た瞬間ガーンとなって、冷静ではいられなくなりました。またか。なんで私だけ。そんな思いがグルグルと頭の中をかけめぐります。油断すると涙が出そうになりました。腹痛もありました。生理痛とにている痛み…。今までの移植でホルモン補充をやめる前にリセットすることは一度もなかったので、心の準備もできていませんでした。飲み会だったオットが帰ってきて、出血があったことを説明したら我慢できなくなって涙が出ました。そのまま翌朝になり、重い気持ちでクリニックへ。診察室に呼ばれ、ドクターから妊娠判定の結果が言い渡されました。 結果は「陽性」。え? 前日、リセットと思って泣いたはずが…。…そうか、よくよく考えたら着床出血とも考えられるんだよね。陰性続きで、まさか自分が妊娠するとは考えられずパニックになってしまい、その可能性を微塵も思い出しませんでした…(苦笑)。すっかり出血は生理だと思っていたオットも「ええっ!!」とビックリしていました(笑)。出血はこの時期よくあることだそうです。HCG(※)=78。まだ胎嚢すら見えません。次回は3日後、HCGがググっと上がっていなければなりませんが、今の時期はどうなるにしても卵の力次第。再び、妊娠しました。自分の中では、喜びもあるし、戸惑い・ためらいもあります。それは、妊娠で得るものもあるけれど、失うものもあるから。カウンセリングで教えてもらえていたので穏やかに受け止められました。どっちも自分の本当の気持ち。でも、それでいいんだよね。それが今の私。I'm OK. I'm OK.※=ヒト絨毛性ゴナドトロピン。妊娠中にのみ産生されるホルモン。※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。
2018年12月26日3回目の受精卵移植失敗後、心理カウンセリングを受けたこてつさん。深い自己分析をすることで、治療に対する意識にも新たな発見があったようです。不妊治療を2005~8年に受けた中村こてつさんの体験談。心理カウンセリングで見えてきた「自分の本音」前回のカウンセリングの続きです。姉弟間の関係で、両親から「必要とされていない感」をずっと感じていた私…。 高校での部活の話もしました。私はキャプテンでしたが、監督は厳しく、何かあると「お前にその資格はない!」とすぐにキャプテンを交代させられました。しかも私は上手いほうではなく、キャプテンなのに補欠というポジション。プレイが上手くないうえに、部員を力強く引っ張ることもできず、「監督は別の人に本当はキャプテンになってほしいんだろうな…」と、劣等感と自分が必要とされていない感を強く感じていました。実際、両親や監督がそんな風に思っていたわけではないのかもしれません。でも、私の受け取り方はそうであったことは事実。ずっと自分を必要としてくれる人、愛情に飢えていたのかもしれません。そんな中、オットに出会いました。年が一回りも離れたオットに対して、私はとても安心感を持ちました。自分に自信がないから、同年代と付き合うことはありませんでした。「若い」分、捨てられないはずという歪んだ考えがあったのです。愛情に飢えていた分、オットと出会ったことで今までの人生を『生き直して』いるのかもしれませんね、と心理士さんが言いました。だから、すごく2人の生活が幸せで、満足している。そんな中に、「赤ちゃん」という存在がやってきたら? オットはその子をとても愛するだろう。そしたら私は? 私の幸せな生活が壊れてしまう? せっかく私を必要としてくれる人が現れたのに…。…心理士さんは教えてくれました。妊娠することで喜びや希望を得る反面、失うものもある、と。それは、2人の楽しい生活だったり、経済的な余裕であったり、好きに人生を謳歌できる自由であったり。それを「喪失」と言うのだそう。「喪失」という言葉は「毎周期、妊娠できなかったときに感じる気持ち」としても以前学んでいました。でも、妊娠した場合も、喪失を感じるとは…。だから私は妊娠できたとき、激しく動揺し、怖かったのかもしれません。だから私は子どもを強く求めないのかもしれません。心理士さんから言わせれば、私が生まれて育ってきた環境を考えると、そういった思考になることは当たり前のことであるとのこと。妊娠して流産して、気付くことができたことは、かえって良かったのかもしれないと。ずっと、嫌われないように、丸く収まるように、気付かないうちに自分を犠牲にしてきたことも多かったのでは?あなたは他人にはOKを出すけど、自分自身にはOKを出さない人。他人にNOを出すことに罪悪感を感じる人なのでは? と聞かれました。本当にその通りです。だからイヤなことがあっても「でも、これがあるからいいか~」と、別の良い面でカバーしてイヤなことを放置してしまう。 イヤなことはイヤだなと感じることも必要。「○○がイヤだ~っ!」と思っていいんですよ、そこに罪悪感を感じる必要はないんですよ、と心理士さんは続けます。 良い面でイヤな面を隠すことは、見えなくなるだけで結局解決してはいないのです。争い事は嫌い。だから少しくらい自分が不満でも丸く収まるほうがいい。そうやって首尾よく生きてきたのに、不妊治療を始めたときに、頭では分かっているのに、心がついていかなかったのでしょう。初めて「なんだかイヤだな」とモヤッと思い、そこから矛盾を感じました。 「この時点で気付けたことは幸いだった。OKだった」と言われました。今後どうしていけばいいかには、まず自分をほめましょう。自分にOKを出しましょう、と。思考をプラスに変えていくことは、とても大事だと気づかされました。自分でも薄々感じていましたが、私はかなりのマイナス思考らしいです。それを隠したいので、反動でおちゃらけているのです、いつも。寝る前に、今日1日を振り返り、あんなことをした、これができた、OK! OK! よくやった自分! と、ほめることから始めてみてはと提案されました。寝る前に1日を振り返るのは私の癖です。けれども、今までは振り返って「あぁ言わなきゃよかった~」とか「あの行動はまずかったな…」など反省と後悔ばかりしていました。まったく真逆のことをしていたようです…(苦笑)。自分で自分にOKを出す。これまで30年間、マイナス思考で生きてきているから、案外難しい…。でも、過去と他人は変えられないけれど、自分は変えられるのだ…。それから「矛盾していると感じたままの治療には、旦那さんを理由にしてもいいんですよ」と言われました。「オットが欲しがっているから」と旦那さんのせいにしちゃえばいいんですよ、と。今まで私は、それは責任転嫁・罪悪だと感じていたのです。そっか、そういう理由があってもいいのか…。心にストンと落ちるものを感じました。40分の予定が結局、1時間30分くらい話しました。話しているうちにモヤッと感じていることが形になってきて、自分というものが少し理解できて、カウンセリングを受けてすごく良かったと思いました。心理士さんは、最終的に「今日は悩みはないんだけど~」と世間話に来てくれるのが理想。とおっしゃっていました。人に話すことって大事なんだなあとすごく感じました。このカウンセリングのおかげで、これまでとは少し違った心持ちで4回目の移植を受けられそうな気がしました。※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。
2018年12月12日3回目の受精卵移植が失敗。回を重ねるごとに気持ちが凹む。そこで、心理士さんにカウンセリングを受けたこてつさん。そこで納得のいく分析をしてもらい…。不妊治療を2005~8年に受けた中村こてつさんの体験談。心理カウンセリングを受けました3回目の受精卵移植が失敗に終わってから3日後。生理がきました。4回目の移植に向けて始動です。子宮内膜をふかふかにすべく、内服薬を飲み始めます。めそめそしている暇もない(苦笑)。でも、それくらいがちょうどいいかな…。前回の卵も「いい卵」と言われていました。その前も。その前も。子宮内膜も問題なく厚くなりました。それなのに、どうして上手くいかないのか。まだ3回しか移植していないのに、そんなことを考えるのは気が早いのでしょうか。1度は着床しているわけだし、回数をこなすしかないのかな。人工授精のときもそうだったけれど、回を重ねるごとに凹み方が激しくなります。この頃、心理士によるカウンセリングを受けました。病院と提携した先生だけど、希望がない限りクリニックには内容を伝えないとのことでした。40代くらいの女性の心理士さんでした。悩みというわけではないけれど…と自分の今の気持ちをポツポツと話しました。…なぜ自分が子どもが欲しいのか理由がないまま、すごく欲しいと思えないのに治療に通っている、それは矛盾しているのではと思う。前回、妊娠できたときにヤッタ! というよりどうしよう…という動揺の気持ちが大きかった。結局流産して、とても悲しい気持ち。欲しくないわけではない、生まれたらきっとかわいい。子どもを求める気持ちが100%ないのは、夫婦2人でも充分楽しいのに、その生活を否定するような気がするのかもしれないと思っている…。などなど、会話を挟みながら話しました。心理士の先生はそれを聞きながら、「今まで達成感を感じたことがないのでは?」と私に聞きました。たしかに、それはありました。成功したことでも何かしら後悔・反省点を見つけて、いつまでもマイナスな方にウジウジ考え続けるタイプです…自分に設定するハードルが高いのか、低いはずなのに高く見えてしまっているのか、どちらにしろ自分を過小評価してしまうところがあるようですねぇと先生。それを言われて、それなら思い当たることがあると自分の家庭環境を話しました。私は、姉・姉・私・弟の4姉弟です。両親は男児を切望していて、男の子が生まれるまで生み続けるつもりだったと冗談交じりに聞いたことがあります。加えて姉から、弟が生まれたとき母は泣いて喜んでいた、と聞きました。「あれ? じゃあ三女の私って残念な子…? ハズレだった?」 ずっとそんな気持ちを心の中に持っていました。「必要とされていない感」をすごく感じていました(だいぶ後に、そうではなかったと誤解は解けましたが)。それを聞くと先生は納得したようで、「きょうだい葛藤」という言葉を教えてくれました。生まれたポジションによって感じる私のような気持ちを、そう呼ぶのだそうです。長子は長子なりに、末子は末子なりに、間の子は間の子なりに、いろいろな葛藤があるそうです。長子は初めての子だからかわいがられる、末子はやはり一番小さいからかわいい。そんな中、中間子は、親になんとか注目されようと目立ちたがり屋だったり、変な子と言われるタイプが多いとのこと。当たっています(笑)。そして、よっぽど秀でた才能(一般的に認められる、勉強やスポーツなど)がない場合、「褒められた」と感じることが少ないそうです。カウンセリングは続きます。※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。
2018年11月28日2回目の受精卵移植が着床せず、続いて3回目にトライ。今回は2個を戻すと先生に言われたものの、見せられた写真には1個しか見当たらず、不安になるこてつさん。不妊治療を2005~8年に受けた中村こてつさんの体験談。受精卵移植3回目「初めての2個同時移植」前回の妊娠(その後、初期流産)から買い続けているものがありました。それは…「たまごクラブ」。バカだよなぁ~、と思いつつ買うのをやめられません。予習のつもりもありましたが、現役妊婦さんたちが1カ月ごとに妊娠経過を紹介する妊婦日記の企画があり、その方たちが無事に産めるのか、どんな名前をつけるのか。一番楽しみなページでした。この頃は妊活雑誌「赤ちゃんが欲しい」と「たまごクラブ」を両方購読していました。いつか、たまごクラブだけを買う日がくることを信じて。両方ともまとめて買うのは少し恥ずかしかった記憶があります。3回目の移植が始まりました。グレードの良い卵があと1個残っているけれど、これまでの結果から考慮して、3回目は少しグレードの落ちる2個を戻すことになりました。多胎のリスクもありますと言われ、「まぁそれも運命でしょう」と悟りきった老人のような返答をしてしまいました(笑)。これまで同様、薬で子宮内膜を厚くしました。加えて、今回は初めて子宮内膜刺激というものを行うことになりました。移植の2日前に子宮の壁に少し傷をつけ、その傷が修復する働きを着床にも利用するとのこと。傷をつけるといっても、移植のときのカテーテルを挿入するのと同じことで、痛みはほとんどないと言われました。実際、カテーテルを挿入し、つんつんと当たったな~と思ったらもう終了でした。その後も注射を続け、移植日になりました。昼過ぎ、クリニックに到着後、すぐに診察室に呼ばれます。ドクターから1枚の写真を見せられ、「これが今回移植する胚盤胞です」。見ると1個、すでに脱出中の卵が。…あれ? 1個???たしか前回の診察で、次回は2個って言われたよなぁ…。それとも2個融解したけど1個はダメだった?? でもそれならそう説明するよなぁ…。頭の中に「?」マークがたくさん浮かんでいるうちに、さっさと移植室に移動させられます。診察室を出たあと付き添ってくれているオットと「…1個だったね??」と言い合います。看護師さんに疑問をぶつけました。「今回2個と聞いてたんですが、私の勘違いだったんでしょうか?」それを聞いた看護師さんは慌てて確認をとりに行き…また診察室へ呼ばれました。どうやら私の勘違いではなく、病院の手違いだったようです。すぐにもう1個融解することになり、さらに遅い時間で移植をするはめになりました。しかも今度融解するのは2個同時に凍結している分で、ということは卵が1個余ります。「それはどうなるの??? 捨てられちゃうの???」と不安になりましたが、よい状態なら再度凍結するとのことでホッとしました。近くの電気店で時間をつぶします。テレビ、洗濯機、掃除機…欲しい。でも治療にお金がかかるから我慢我慢。電話がありクリニックに戻ります。今回移植する2個の卵の写真を見せてもらいます。1個は最初の胚盤胞、さっきより成長しています。後から融解した1個は、アシステッドハッチングをしているものの、まだ脱出していません。グレード「回復中(4割)」と書いてありました。凍結時にグレードABだったから、それよりちょっと悪いくらいなのかな。ちなみに今回移植しない胚盤胞は凍結時グレードCB。融解後の感じは、移植できるかどうか…というくらいの状態で、結局再凍結は無理でした。これで、3回目の移植で妊娠できなかったら、凍結胚は残り2回分です。消毒後、カテーテルを挿入…のはずが、子宮が左に曲がっているらしく(たまにあることだそう)、柔らかいチューブが入っていきません。なかなか長い時間グリグリされましたが、やはり入らなかったようで硬いチューブに変更しました。ちょっと子宮をひっぱりま~すと言われ、ピンセットみたいなもので引っ張られました。痛い…。ドクターがなにやら苦労している様子でしたが、ようやくチューブも入り、やっと胚盤胞を移植することができました。そんなこんなで普段より移植時間もかかり(約40分)、終了したのは19時前。下半身むき出しの体に、エアコンがガンガン効いた移植室は寒かったです。その後、注射をしてお会計をしました。約8万円也。電化製品はまだまだ新調できそうにありません(笑)。不妊治療、本当にお金がかかる!!初の2個移植、いろいろハプニングはありましたが無事にすみ安心しました。判定日までなるべく無理せず、ゆっくり過ごすことにしました。※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。【お知らせ】第38話 「不妊治療中「一生忘れない!」怒りにふるえたオットの一言」 の記事下アンケート「Q1. 夫の何気ない一言が「許せない…」と思ったことはありますか?」のアンケート結果はこちら↓≫ 「夫の気遣いの方向性完全間違ってます! 夫が妻に言ってはいけない一言」
2018年10月24日流産を乗り越え、2回目の受精卵移植にトライしたこてつさん。結果そのものよりも、オットの態度に落ち込んでしまい…。不妊治療を2005~8年に受けた中村こてつさんの体験談。2回目の受精卵移植「我慢の日々、かさむ費用…」2回目の移植に向け、準備を始めました。まずは子宮内膜を厚くするための投薬開始。今回、前回と続けて生理周期が普段より少し長めでした。まだ卵巣が回復していないのではと気になり、この状態で移植をしてもいいのかと質問しました。ドクター曰く、ホルモン補充していくので問題はないとのこと。それに、排卵までの期間が長くなるのは、PCOS(多嚢胞)の人にはよく見られる傾向だそうです。 「卵巣がサボりだしたんでしょうねぇ」とドクター。これからも段々周期が長くなる可能性もありますよ、とのこと。でも体質だからしょうがないですねと言うと、そうですねとの返答でした。移植予定日が決定しました。それにより、オットの会社のイベントに合わせ、ついて行こうと企んでいた旅行もキャンセルが確定しました。移植後の飲酒は禁止なので、夫婦で飲みに行きました。もし妊娠できたら2年近くアルコールとはオサラバか。参加予定だったスポーツ大会も移植後になってしまうので、キャンセルしました。今はすべてにおいて治療が優先ですが、悲しい…。いやいや、いっときの我慢。子どもができたら我慢することはもっとあるはずだしね。世の中のお母さんたちは本当にえらいなー。今は最優先すべきことに集中しよう…。そう自分に言い聞かせ、移植日を迎えました。移植前に融解した胚盤胞の写真を見せてもらいます。成熟胚盤胞グレードAA。おぉ、いい感じ。受精卵は優秀です、とドクター。アシステッドハッチング(胚を包む透明帯という膜を少し破ったり薄くしたりして、着床率の向上を図る生殖補助技術)をしているので、そこからドロリといった感じ(ただのイメージです)で中身が出てきていました。その部分から着床していくとのこと。子宮内を消毒します。これが毎回地味に痛いのです。看護師さんがおなかから超音波をあて、ドクターはカテーテルを使って子宮内へ受精卵を送ります。その様子は頭上のモニターで確認できます。管を通って前進する白い光が見えました。受精卵だ。まるで蛍みたい。 カテーテルが抜かれると、白く光る受精卵だけが子宮内に残りました。その輝きが続くのか、季節とともに去っていくのか、知っているのは神様のみ。1回目の移植を参考にお金を準備していました。が、料金が足りませんでした。クリニックの階下には銀行もあるけど、あいにくすぐに下ろせる口座の残金は480円…(マジです)。ということで1万円未納にしてもらいました。しかもお金のことで頭がいっぱいだったのか、座薬や飲み薬を入れた紙袋を置き忘れ、途中まで帰っていたのだけど、気づいて引き返しました。いろいろ恥ずかしい…。なんだかドタバタした移植後となってしまいました。そして、10日後の判定日。グレードAAの輝かしい胚盤胞は…着床していませんでした。2回目だし、本当はもっと凹まないはずだったのです。はずだったのに…。実際、家に帰るまでは、そんなに落ち込んでもいませんでした。それなのに、帰宅してオットと口けんかになりました。オットはなにをどう勘違いしたのか、「私が暗いのは、旅行に行けないことを不満に感じているのだ」と思ったのでした。それなのに(会社のイベントなので)自分は行かねばならないことに後ろめたさもあったのか、理不尽に怒っていました。 その怒りの矛先は私には向けられないので、物に当たって、すごい音がして、なんだか妙にそれがショックで…。どちらかというと着床しなかったことより、けんかのことがショックで、2日ほど思い出しては泣いていました。移植に失敗して暗いのは当たり前に想像がつくでしょ、普通…。私は凹んでいる(と気づかってくれてもいい)のに、そんな日になんでそんなにキレるんだよぉ。ダブルショックだよぅ。そんな思いでいっぱいで、さめざめと泣いた結果、まぶたがはれてひどい顔になりました。「今回は、残念ながら妊娠しなかったみたい」とドクターに言われ「まぁ、そういうこともあるだろうなぁ」と素直に受け止めることができました。判定後、今後の治療方針について看護師さんと話し合い、2回連続で移植しているし、しばらくお休みにしようと決めました。身体的には、すぐ次周期で3回目の移植をしても問題はないとのことでした。でも精神的に、少し休憩したい気分です。帰宅後のけんかでその思いはいっそう強くなった、というか、そのときは「もうやめたい」と思いました。旅行も大会もキャンセルしたのに、妊娠せず。オットにはキレられ、いい思い出のない2回目の移植は幕を閉じました。※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。
2018年10月10日子どもを授かるために、禁煙に努めていた夫。しかしある日、つらい治療に励むこてつさんにとっては聞き捨てならない言葉が飛び出し…。不妊治療を2005~8年に受けた中村こてつさんの体験談。「たばこは精子の運動率を下げる」とドクターに言われて以来、オットは1年近く禁煙をがんばっていました。杜仲茶(とちゅうちゃ)の葉を使ったニコチンレスのたばこを吸ってみたりしたけれど、完全にはやめられませんでした。「まず買わない」という作戦もとっていましたが、飲み会などではどうしても吸いたくなるらしく、同僚にもらっていました。また、私と口げんかをしてイライラしたときには吸っていました。採卵が終わったくらいから、徐々に増えてきているような気がしていました。自分の役割はもう終わったと?(怒)やめられるのは本人の意思のみだと思っているので、私もあえてやめてとは言いませんでした。そんな禁煙に努力している中、オットは私が一生忘れないであろう言葉を言ったのです。やめようやめようと努力しても、なかなかやめられず困っていたオットに、私は「病院に行ってみれば? 禁煙外来とかあるらしいよ」と提案してみました。すると、「それは絶対に嫌だ」と言います。「どうして?」と聞いて返ってきた言葉が…言葉が…今思い出しても腹が立ちます(笑)。オットは言いました。 「(通院するのは)ストレスになる!!」と…。 …絶句する私。数秒後、「なぁぁぁにぃぃぃぃ?! 今、何と言ったぁぁ、ごるぁぁぁ!」と、叫…べたらよかったのですが、あまりのショックに言葉まで引っ込んでいました。心の中で叫びます。「どの口でそんな言葉が言えるんじゃぁっ!? 毎日のように治療に通っている妻の目の前で! ストレスを理由に病院行かなくていいんなら、私だって行ってないわ!! このボケカスがぁぁぁぁぁっっ!!」この時は信じられない気持ちと怒り、ショックでぐっちゃぐちゃになり、私の思考回路はショート寸前(笑)。目を見開いたまま突っ立っていた気がします。言った本人は全く気にしていません。それは私が言わない・怒らないから当たり前なのですが。今思えば、この時に言葉にして言えばよかったのですよね。私の悪いクセです。嫌ならそれをすぐに伝えれば、相手に分かってもらえることは多いのに。しかし、怒らないけど忘れない。私はじっくり怒りを熟成させるタイプです(暗)。「このことは一生、絶対に忘れないからな! いつかこの仕打ちに対する仕返しはさせてもらうからな!」…と、心で叫んでいました。(笑)そして、10年後…。今、こうしてインターネットでオットをさらす私がいます。さらしてもなお、この一言は一生忘れないでしょう。※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。
2018年09月26日流産後の処置の話です。生理で体外に流れ出ることを待ったものの、胎嚢が残ってしまったため、そうは手術を受けることに。不妊治療を2005~8年に受けた中村こてつさんの体験談。初めての「そうは手術」を経験「だんだん効いてくるからね~」と先生の言葉を聞いて…次に目を覚ますと手術は終わっていました。初の、そうは(掻爬)手術。全身麻酔、日帰りです。家族の付き添いが必要ということで、オットに休みを取ってもらいました。いつもの不妊治療クリニックではなく、地元の産婦人科での手術となりました。朝9時に病院へ。子宮口をひろげるための処置をして、病室へ入院しました。血圧、熱を測り、点滴の針を入れました。途中、抗生剤などの液も入れるとのこと。 が、これが曲者でした。針は5cmくらい。それを全て血管に刺さなきゃいけないもよう。私はもともと血管の出にくい女。看護師Aさんは、初めから自信なさげ。「針が長いんですよね~」と言い訳(?)しながら、ぷすり。ぐりぐりと血管を探し、針を出し入れされます。痛い…。2回目も同じく、散々ぐりぐりしたあと、点滴を投入するも液漏れしてきて超痛い…。看護師Bさんにチェンジしました。おなじく失敗。右手に変えて4回目にチャレンジ。失敗。すでに不信感でいっぱいです(笑)。すると看護師Bさんは頭を使いました。洗面所にお湯をたくさんため、ここにしばらく手を浸けててくださいとのこと。温まって血行がよくなり血管が見えやすくなるという。なるほど。5度目の正直で無事成功! が、すぐに点滴につながなかったので血がタラタラタラと逆流してシーツを汚しました… 妊娠してかかるならこの病院かと思っていたけど、考え直そうと本気で思いました…。しばらく、テレビをみながら点滴を受けました。出産が控えているということで、予定より早めに手術台へ上がりました。足をくくられ、鼻に酸素チューブをさされ、口元に酸素マスクを当てられます。「だんだん効いてくるからね~」と先生の言葉を聞いて、返事をしたところまでは覚えています。次に意識が戻ったときは「終わりましたからね~」と言われた時でした。 朦朧とした意識の中で、病室で待っているオットのことを思い出したら、涙が出てきました。涙はとまらず、やがて号泣に。自分で拭くこともできず、涙と鼻水でぐしゃぐしゃな顔で病室に戻り、麻酔が覚めるまで横になっていました。経過は問題なく、夕方に退院できました。 術後は、たくさん泣きました。夜寝るときも涙があふれて止らず、オットがティッシュで何度も拭いてくれました。成長していないと分かった時点で、お腹にはもう赤ちゃん(の魂)はいないと思っていたので手術自体に抵抗はありませんでした。でも、それまでの「いろいろ」を思い出して泣きました。ごめん…ありがとう…ごめん…。泣きすぎて頭痛がひどく、痛み止めを飲みました。次は、1週間後に検査結果を聞きに手術をした産婦人科へ。そして1ヶ月後(もっと長い可能性もありとのこと)に生理がきたら不妊クリニックへ。そこで子宮鏡をして取り残しがないか、状態が正常に戻っているかなどをチェックし、さらに次の生理から2度目の移植の準備に入ります。不妊治療の長いトンネルはまだ終わりが見えませんでした。※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。
2018年08月22日待望の妊娠。しかし、まもなく流産とわかり、涙、涙の誕生日を過ごしましたが、夫婦の絆を再確認。その後日談です。不妊治療を2005~8年に受けた中村こてつさんの体験談。流産確定したけれど、つわりで気持ち悪い心拍が確認できなかった頃から、気持ち悪さを感じるようになりました。まさか、つわり?? 流産しているのにつわりがあるの? もういないのに、ただ気持ち悪いだけなのは辛い…。 その一週間後、再度診察をするもやはり赤ちゃんの姿はなく、流産確定となりました。この時期の流産は自然と体外に出てくることが多いとのことで、2週間、生理がくるのを待つことになりました。流産を伴う生理は重く、子宮の収縮の痛みが激しいかもしれないとのこと。そのときは生理痛止めを飲んでもいいと言われました。それでも出てこなければ、手術となるそうです。体温が下がってきたので、自然に出てきてくれるのかな~。「出てきたものから、その姿を見つけようとしてもムリです」と聞いてないのにドクターに言われました。僕ら医療者が探そうと思って探せば見つけられるかもしれないけど、普通一般的にはムリですと。そうか、ムリか…(←探そうと思ってた人(笑))そして、気持ち悪さはやはりつわりだそう。生理がくれば治まるとのことでした。何か食べていないとムカムカするので、グミなどを食べました。夜になると、ひどくなる傾向があるような気がします。ある夜はオットが背中をさすってくれました。優しさが嬉しくて、悲しくて、少し涙が出ました。 そして、生理が始まりました。「量が多いし、痛みもひどいと思います。」そう言われていたので、夜用のナプキンをつけました。つわりは生理が始まって、翌日にはほとんどなくなりました。初日、2日目の日中と、それほど量も多くないし、痛みもありませんでした。体調も問題なく、案外楽勝…と思っていたら、夜から痛みが徐々にひどくなりました。下腹部に重~い鈍痛が…。ずっと痛いわけではなく、波がありました。その波がかなりのビッグウェーブで、波がきているときは喋ることもできなくなるくらいでした。初潮が来てからこのかた、ほとんど生理痛はない私。たまにお腹が痛くても気にしなければ、忘れてしまう程度のものでした。あとから出産を経験して思ったのですが、このときの痛みの波の感じは陣痛に似ていました。流産もまたひとつのお産なのかもしれない。この当時の私は全くその考えには至っていませんでしたが。 出血は、黒に近い色の血の塊がガンガン出てきました。赤ちゃんのために用意したベッドがはがれて落ちてきてるんだなぁと思いました。赤ちゃんもどこかにいるんだなぁとも思いました。でも深くは考えません。もう実体はない。どこかで、空の上から?赤ちゃんの国から?きっと見下ろしている。どうも、ありがとう。ごめんね。・・・それから1週間、痛みをともなう塊の出血もあったので、おそらく赤ちゃんは流れ出ていったろう、とドクターも私も思っていました…。が…超音波にハッキリと映る胎嚢。まだ残っていますね~と、ドクター。さらに1週間様子を見ることに。う~ん、あの痛みはなんだった…今回の受精卵はとっても良い状態でした。だから流産してしまったことは先生も残念そうでした。さらに1週間後、胎嚢は残ったまま状態は変わっていませんでした。手術をすることが決まりました。※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。
2018年08月08日流産後、ありのままの気持ちをオットに話した中村こてつさん。その中で妊娠時に感じていた戸惑いの気持ちの理由に気づきました。不妊治療を2005~8年に受けた中村こてつさんの体験談。気持ちを吐露して、気づけたことビールを飲み切れず、涙が止まらなくなって、一睡もできずに夜が明けました。まぶたが腫れまくって、ひどい顔です。起床して、昨日眠れなかったとオットに言いました。やっぱり、けっこうショックみたいだ…と言葉にしたら、一度止った涙がまた止らなくなりました。そして、ケンカになる覚悟で自分の今までの感情を伝えました。本当に子どもが欲しい、という気持ちが湧き上がってこないこと。そんな気持ちのまま、覚悟しないまま、顕微授精に臨んだこと。妊娠することができて、嬉しいよりどうしようという気持ちのほうが大きかったこと。だから、お腹の子に優しい言葉をかけてあげなかったこと。今は、申し訳ない気持ちでいっぱいなこと。だからといって、この結果になったことは、自分の責任だと責めてはいない。自然淘汰だということは理解している。でも理解していることと受け入れることは違う…等々。オットは、よく分かったと言いました。移植してから、浮かない様子だったけど、妊娠すると女性はナーバスになるからかな。と思って、そっとしておいたと。そして、じゃあこれからどうしようか? と聞かれました。私はこれからも治療は続ける気だと答えました。子どもが欲しい気持ちが完全ではないことは解決していないけど、今回のことで自分の中に母性はなくないのだと分かった。産み育てていく過程で徐々に変わっていくことがあるのだと実感した、と。オットは、人と自分を比べることはないんだよ、と強調しました。私が、周囲の人に比べて自分の欲しい気持ちが小さいことを悩んでいると解釈しているようでした。そうではなくて、自分の中で子どもを欲しい気持ちが100としたら、私は100まではない。それなのに、高度生殖医療を受けていて、それは生まれてきてくれる生命に対して失礼なことだと思う。どうして自分が100になれないのか分からない…。そこまで話して、忘れていた気持ちを思い出しました。そうか、私は、自分が100%子どもを求めることは、子どもがいなかった今までの自分達を否定するような気になるんだ。今でも十分幸せなのに、子どもがいなくても幸せなのに、それなのに「治療してまで」子どもを求めるそのことに納得がいかないんだ。私たちは幸せなのに。治療して子どもを産むことを優先しなければならない。子どもは必要だから。子どもは幸せになるために必要だから。夫婦はないがしろにしてまで。そんな気持ちを吐露すると、オットは言いました。「ちがうでしょ。」君がいなきゃ、子どもはいない。俺がいなきゃ、子どもはいない。まず、俺達がいて、それから子どもなんだ。俺にとって、一番大切なのは○○(私)なんだよ。まずは俺達なんだよ、夫婦なんだよ。そんな簡単なこと忘れないで。泣きながら、オットが言いました。2人で抱き合って泣きました。子ども主体ではないんだ、夫婦主体なんだ。子どもを求めることは、今幸せじゃないから別の幸せを探すことではない。夫婦でいる幸せ。そこにもう一つ幸せが増えるだけ。オットの言葉を聞きながら、あぁ私は今までこんな簡単な答えを見つけられずにいたんだと思いました。オットに話したことで、答えを見つけられました。その機会を作ってくれたのは、お腹の子ども。もう帰ってしまうけれど、未熟な私に教えてくれた。もしかしたら、そのために来てくれたのかな…しばらくは、ときおり泣いていましたが、少しずつ元気になれていました。優しい言葉をかけてあげられなかったことについて謝り、気づきを与えてくれたことに感謝して、私たちの子どもに想いを伝えました。ありがとう。ありがとう。また会おうね。※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。
2018年07月25日受精卵移植によって待望の妊娠。しかし間もなくして、初期流産とわかり…。不妊治療を2005~8年に受けた中村こてつさんの体験談。流産後に込み上げる、申し訳ないという気持ち心拍確認の日、赤ちゃんは成長を止めていました。心拍は確認できず、初期の流産でした。超音波の画面を見ながら、私も気付きました。ドクターは無言で何度も何度も角度を変えてみています。その度に、浮き彫りになるのは胎嚢のみ。そういうこともあるのかも、と想像してはいたけれど。ぐりぐりと超音波の機械を押し付けられていたら、なんだか悲しくなってきてポロポロと涙がこぼれました。診察室に戻り、ドクターの話を聞くときもボロボロ泣きました。「原因はハッキリ言って分かりません。もともと染色体異常で自ら成長を止めたのかもしれないですね。」8週目までの流産は自然淘汰、どうあがいてもどうしようもないってことは知っています。でも、耳にガーゼをかぶせたみたい。ドクターや看護師さんの話が聞こえるけど、耳の上をなぞっていくだけで頭の中には入ってこない。けっこうショックなんだなぁ、私。妊娠できたことで、うろたえていたくせに。でも、どっちも本当の私なのか…。診察後、高校時代の友人たちと遊ぶ約束をしていたので向かいました。私以外の既婚者はみんな子持ちです。治療を始めたころは、友達の赤ちゃんと会うのに少し憂鬱になったりしたときもありました。でも最近は、友達の赤ちゃんも妊娠も、知らない妊婦さんも、ほとんど気になりません。気にしてもしょうがないことを学習したみたいです。人は人、私は私。大事な仲間なので、今までお互いに、どんなことでも話をしてきました。だから、今回のことも言おうと思っていたけど、なかなかタイミングがつかめずにいました…。と、いきなり、ケーキが登場。3日後が私の誕生日だったのです。サプライズで準備してくれていました。しかも手作り。嬉しかった。瞬間、自分の誕生とお腹の子の死を思い、正反対であるその出来事に込み上げるものがありました。我慢できずに泣きました。友人たちは嬉しくて泣いたと思ったようでした。(もちろんそれもありますが。)ケーキも食べ終わり、のんびりしたところで実は…、と今回の事を伝えました。なんとか、泣かずに喋ることができました。友人たちは、真剣に聞いてくれました。その後の労わりや慰めの言葉は、やはりガーゼの上を通り過ぎるように聞いてしまったけど…申し訳ないけど、しょうがない。素直にそれらの言葉を受け止めるには少し時間がいることなんだと思う。オットには病院を出た後、報告しました。しんみりしたけれど、やはりそういう可能性もあると構えているところもあったので、気丈に受け止めてくれました。しばらく休んで、また頑張ろうな。と。数日後、缶ビールを飲みました。すると、350mlを飲みきれませんでした。移植前は、1日数本を毎日平気で飲んでいたのに。なんだか苦くて、すぐに酔いが回って。体が飲まないことに慣れてきていたんだなぁ、けっこう母親らしくなってたんだなぁ、私。涙が出ました。一度涙が出ると止らなくなりました。まだお腹の中にいる。私の子ども。オットの子ども。子宮にしがみついて、成長してくれようとした私たちの小さな命。それなのに、自分が妊娠したことでうろたえパニックになっていた私は、ただの一度も、お腹に手をあてることも、話しかけることもしませんでした。全く愛情をもって接してあげることがありませんでした。本当に、ごめんなさい。こんな結果になってから、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。本当に私は、ただの一度も、お腹に向って話しかけなかった。子どもは気付いていたろうか。こんな母親の仕打ちを。一番もらいたかった母親の愛を感じられなかった。かわいそうな、私の子。※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。
2018年07月11日妊娠が判明したこてつさん。気持ちの整理がつかないまま、妊娠前と妊娠後のまわりの人の変化に驚きます。不妊治療を2005~8年に受けた中村こてつさんの体験談。妊娠後、変化があったのは…再判定の前日、実母から電話がきました。「赤ちゃん、どうだった?」と。母には移植前に、何日に結果が分かるということを教えていたら、ちゃんと覚えていたようで、なかなか私から連絡がこないので心配してかけてきたようでした。母にも言う気にはなれず「まだ分からない」と嘘をつきました。次はいつ病院か、と聞くので「明日、明日で分かるよ」と言いました。おどろくことに「一度でできなくても、何度か挑戦している人もいるから落ち込まなくていいんだよ」と優しい言葉をかけられました。病院通いを内緒にしていたころは「できないのはおかしい。病院に行け、検査しろ」「早く産まないと苦労する」などと、身内だけにストレートでデリカシーのない言葉で散々私をモヤッとさせてきた母でした。しかし、毎日注射だ薬だと通院する娘を見て、段々と心配になってきたようです。コロッと豹変した態度に笑ってしまいますが、やはり母親なんだなと少し嬉しくも感じました。そして、再判定の日。hcg値は増えていました。赤ちゃんを包むための袋・胎嚢も確認できました。小さな黒豆のようでした。次の週は心拍を確認することになりました。赤ちゃんは育っていました。この日も診察後、待合室で泣いてしまいました。自分の気持ちをどうすればいいのか分かりませんでした。少しずつ、変わっていってくれるのを待つしかないのかな…。実母と二人の姉にメールで報告しました。直後から何度も電話がかかってくるけれど「おめでとう」と言われたくなくて無視していました。おめでとう、と言われたら、今の私は返す言葉がありません。私が電話に出ないでいると、母からメールがどんどん届きました。階段を上がるな、酒はやめなさい、運転もダメ…次の検診日には迎えにいくから時間をいいなさい、とも。心配してくれるのは嬉しいけど、日常生活は普通でいいので丁寧にお断りします。それに毎日注射なのに運転しないのはムリですから~。診察後の支払いは、胎嚢が見えた時点から診察は保険適用になるとのことで、前より安くなっていました。妊娠したら、母親が優しくなって、病院代が安くなりました。不妊のうちは、母親はうるさいうえに、病院代は高いのです。妊娠したとたんに扱いが違います。やはり子どもは大事か、子どもがいないと社会には入れてもらえないのか。妊娠した身ながら、なにかを否定されているような気がして悔しい気持ちになりました。当時、県の予算が子育て支援に関してかなり増額されたとニュースで聞きました。が、不妊治療に関しては従来どおり、10万円の助成のみでした。少子化を改善したいなら、もう少し考えてほしいなと切実に思っていました。不妊治療は、精神的身体的な辛さと同じくらい、経済的にもとても辛いのです。※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。
2018年06月27日いよいよ判定日。ドクターから告げられた結果を前に、こてつさんは戸惑いで心がいっぱいになります。不妊治療を2005~8年に受けた中村こてつさんの体験談。判定の結果は…「妊娠の反応が出ています。」いつもの抑揚でドクターから結果を告げられました。判定にはオットも付き添ってくれました。血液検査の結果は、陽性でした。初めての顕微授精で妊娠しました。私は驚きませんでした。なぜなら、オットには内緒にしていたけれど、前日に妊娠検査薬でフライングをしていたからです。うっすらと現れた縦線を確認していました。正直に書きます。それを見たとき、私は思いました。「どうしよう…妊娠してしまった…」と。喜びは見当たらず、戸惑いで心がいっぱいになりました。どうしよう、どうしよう…。半ばパニックのように、検査薬を不透明のビニル袋に入れてゴミ箱に捨てました。覚悟もできていないのに妊娠してしまった。そう思いました。ドクターは結果の出た用紙を見せながら話を始めました。妊娠を判定するための基準となるhcg値は現時点で62だそうで、これはまだ安心できる数字ではないとのことでした。来週、再度血液検査をし、200近くに増えていれば大丈夫でしょうと言われました。ドクターから妊娠していますと聞いても、そうですか…と無表情な私。どうしても素直に喜べませんでした。嬉しい気持ちが沸き起こってきませんでした。移植直前に、神様に運命を任せよう、流されるままに現実を受け止めてみよう…そう決めたはずなのに。診察室を出ても、どうしよう…という気持ちが頭を離れず、そんなことしか考えられない喜べない自分が悲しくなって、ボロボロと泣いてしまいました。そんなことを知らないオットは、私が嬉しくて泣いているんだと思ったようでした。膝をポンポンと叩いて、何も言わずに横に座っていました。注射を続けながら次の診察日を待つことになりました。誰にも言えない気持ちを抱えたまま、毎日を過ごしました。オット以外には、陽性だったことは伝えられませんでした。安定期でないから・初期だから、という理由でなく、伝えて「おめでとう」と言われるのが怖かったからです。数日後、その気持ちを打破する方法はないかと、有名な妊婦さん向けの雑誌を買いました。普通は「やっとこれを買える~~!!」と感慨深く買うのだろうな。 たくさんの妊婦さん・赤ちゃんの写真を眺めてこれは幸せだよ~と自分に言い聞かせてみる…頭の切り替えを図ってみる…自分が情けなくなりました。こんなことをいつまで続けるつもりなんだろう。流されるままに現実を受け止めようとか未来を受け入れよう、なんて、格好つけた言い方をして、実は決心がついていないだけでした。決心することはとても難しいことだったから、それから逃げようとしました。そして結局、やってきた現実を受け止めきれないでアップアップしています。周囲に今の状態を話せば、あきれられてしまう。こんな気持ちは頑張っている治療仲間には絶対に話せません。子どもを望んでいたオットにも話せません。変な言い方だけど、私は私の中で落とし前をつけるしかないのだと思いました。正面から自分の気持ちに向き合うことを避け、いたずらに命を扱った落とし前。やって来てくれた命に申し訳ない、と思いました。再判定が翌日となりました。hcg値が増えていたら、ちゃんと着床して育ってくれていることになります。よい結果だったら、結果を心配してくれている周囲に報告しようと決めました。そしてそれを機に、変われたらと思いました。※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。
2018年06月13日移植終了から3日目。お腹の中に子ども(受精卵)がいる実感のないまま、こてつさんは静かに闘志を燃やします。不妊治療を2005~8年に受けた中村こてつさんの体験談。移植から3日目一日が過ぎるのをとても長く感じます。体調等に変化はなし。夫婦生活、下腹部に力を入れるような激しいスポーツなどを避ける以外は普通でいいとのことで、特に何に気をつけるでもなく、いつも通りに過ごしました。もちろん禁酒もちゃんと守っていました(当たり前)。毎日の晩酌が最高の楽しみであった私だったので、アルコールを我慢できるのか、これが最大の心配事でしたが、案外苦ではなく、ルイボスティーをガンガン飲んでしのぐことができました。 お腹の中に子ども(受精卵)がいるということが…信じられませんでした。信じられないので、ドキドキもしないし不安もほとんどありませんでした。つい、愛犬と本気で遊んでしまいそうになり「あ、そうだった…」と思い出す始末。それくらい体には何の変化もありませんでした。注射は近所の産婦人科で打っていました。産婦人科が休診日には、入院病棟の看護師さんに打ってもらいました。入院病棟のある2階に上がるとすぐにベビールームがあり、ホヤホヤと湯気の出そうな赤ちゃんたちが並んでスヤスヤと眠っています。大人はみ~んな、目じりを下げてガラス越しにその列を見つめています。一点の濁りもない幸せな空間。みんなを優しい気持ちにさせる赤ちゃんパワー。いつか自分の赤ちゃんもここに並べてやる~と、静かな誓いを立てながら、その横を通り過ぎます。ベビールームの前で闘志を燃やしているのは、おそらく私だけだったでしょう(笑)。空いている病室を使って注射を打ってもらいました。ここの産婦人科の看護師さんたちは筋肉注射は絶対痛い、と思い込んでいる? ようで(いや、本当に痛いのですが(笑))、私が表情を変えないので「強いですね~」と驚かれました。排卵誘発のときの注射に比べたらかわいいもんです、と答えるとナルホドと納得されていました。病室のベッドでお尻を丸出しにしながら横たわり、いつか自分もここに入院してやる~と、再び静かな誓いを立てます。入院するために闘志を燃やしているのは、おそらく私だけだったでしょう(笑)。予定していた注射が終わりました。両肩、両尻にローテーションで打っていましたが、やはり10日連続だと、段々と皮膚が痛くなりました。打ち身のような青アザができ、動かしたり物が当たると痛みました。そして、判定日がやってきました。※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。
2018年05月23日夢は時として不思議な体験を与えてくれます。いよいよ体外授精で移植が決定。中村こてつさんは赤ちゃんが出てくる不思議な夢を見ました。不妊治療を2005~8年に受けた中村こてつさんの体験談。落とさなかった赤ちゃんに会えるか『私は赤ちゃんを落とさなかった』いつ頃からそういう類の夢を見るようになったのか、定かではありません。不妊治療を始めてから? いや、それよりもずっと前から?毎日の夢を覚えているわけではないのですが。でも夢の中で、自分が赤ちゃんを抱いたシーンがあると必ずそうなっていました。抱いた瞬間、足に力が入らなくなってフニャフニャになる私。そしてとうとう踏ん張りきれなくなって、赤ちゃんを抱っこしたまま前のめりに倒れてしまうのです。「あ~!赤ちゃんがつぶれちゃう!」そう思ってガードしたいのに、体はいうことを聞かず、結構な勢いで倒れます。その後どうなるかは覚えていません。もう今までに何度も見た夢。始めの頃は「あーぁ。赤ちゃん、落としちゃったな…」という感想だけで気にも留めていませんでした。でも、あるとき、その夢と不妊を結びつけてしまいハッとしました。これは何かの暗示? または願望、それとも不安? 夢の真意(があるのかも分かりませんが)を読めなくて、その夢を見るたびに困惑していました。正式に移植が決まった日、またあの夢を見ました。クリニック帰りに実母とランチをしたせいか、実母も登場。なんと夢の中で私は双子を産んでいました(願望かな(笑))。母が1人目の赤ちゃんを連れてきて、ベッドで寝ている私に抱かせました。どこかで客観的な自分がいて、半分夢と分かっていて「あー…また落とすのかな」と思っていました。しかし今回は違いました。ベッドの中でその子を抱きしめました。起き上がることもなかったので、そのまま落とさずに抱き続けられたのです。もう1人の子は最後にチラッと見たような、見てないような。性別も不明。なんとなく女の子だったかなぁ…(今となっては完全にはずれ(笑))。なにはともあれ、今回の夢では赤ちゃんを危ない目に合わせなかったのです。赤ちゃんが出てきた夢で、こんなことは初めてでした。移植の日がやってきました。仕事を休んでくれたオットとともにクリニックへ。融解した胚盤胞は、すでに中身(赤ちゃんの部分)が脱出を始めている脱出途中胚盤胞でした。グレードはABと言われました。施術服に着替えて、台の上へ。採卵のときよりも部屋全体が明るく、下半身丸出しの自分の状況がとても恥ずかしい!「それでは卵を戻していきますよ。」ドクターが言いました。明るい天井を見つめながら、この前みたばかりの夢のことを思い出していました。あの子に…会えるのかもしれない…※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。
2018年04月25日不妊治療を2005~8年に受けた中村こてつさんが当時を振り返って綴る治療の体験談です。いよいよ移植となると注射やお薬、とさらに準備が進められるようです。移植日が決まる卵胞ホルモン剤(プレマリン)を服用しだして12日目、診察のためクリニックへ。子宮内膜が8mm以上あれば黄体ホルモンの投与を開始して、排卵後の状態に戻すそう。プレマリンは子宮内膜を厚くしていって着床可能な状態にする働きと、勝手に排卵しないようにする役割もあるとのこと。ジャスト8mm。合格です。4日後の移植が決定しました。初回はグレードが一番よかった凍結胚を一つ移植予定です。移植日のスケジュールとしては朝、凍結胚盤胞を融かし、昼過ぎに回復と生存確認をします(凍結・融解によってダメージを受ける場合があるため)。私の通っているクリニックでは生存率90%、10個に1個の割合でダメージを受けるデータとのことでした。融解に関しては同意書が必要になります。生存が確認できたら、午後に移植となります。移植後もプレマリン、黄体ホルモンは継続して投与します。黄体ホルモンは基本注射だけれども、希望すれば膣座薬に変更可能とのこと。1日4個、まあまあ多い…。しかし、クリニックに通う大変さ(片道1時間半)を考えると座薬のほうがよさそうです。移植後10日で血液検査によって妊娠判定を行います。そんなに早く分かるものなのねぇ。妊娠していれば更に黄体ホルモンとプレマリンは継続します。黄体ホルモンは妊娠8週まで、プレマリンは妊娠12週までとのこと。これは、自然妊娠の場合は、排卵した後の卵巣の黄体からホルモンが補充されるのだけど、わたしはプレマリンを使っているため排卵が抑えられており、その状態では黄体が作られないため、胎盤からホルモンが作られるようになるまで外的に黄体ホルモンを投与する必要があるとのことでした。ドクターにちゃんと聞けばよかったと後悔移植日が決まり、ドクターから「戻す卵は1個でいいよね?」と念を押されました。診察が終わり立ち上がっている途中だったので「あ、はい…!」と慌てて即答してしまいました。たしか前の診察でも確認をされたのでした。1個移植と2個移植とどういうメリットデメリットがあるか聞けばよかった…とあとで後悔しました。私のドクターは寡黙な方で、さらに方針なのか、治療に対しての説明は質問しないと詳しく話してもらえません。説明を聞いたうえで、それはどういう意味? とかじゃあこういう場合は…などの質問も生まれてくると思うのですが。最近はネットで情報が氾濫しているから余計な混乱は避けようという考えでしょうか。毎回、診察までに質問することを考えておかないと、あっという間に診察が終わってしまい、聞けばよかったぁ…と後悔したことがよくありました。私は頭がパパッと回らないほうなので余計にそうなのかもしれません。治療仲間は、毎回提出する基礎体温表に質問を書いたメモを挟んでいました。口頭でうまく伝えられない人にはよい方法かもしれません。また、ドクターには聞けないけれど、看護師さんには気軽に聞けるという人もいました。子宮内膜の厚みが基準に達したので、黄体ホルモンの投与が開始されました。その日は注射(プロゲストン50mg)でした。排卵誘発の注射ほど痛くはないけれど、よく揉まないと翌日にコリコリに硬くなりました。その後3日は膣座薬(朝夕2個ずつ)で、移植前日だけ地元の産婦人科クリニックで注射することになりました。注射&座薬以外に、錠剤のお薬(デュファストン)も毎食後、飲みます。プレマリンとバファリンもあるし、薬だらけです。飲み忘れないか不安になります。準備は整いました。次はいよいよ移植となります。とうとう、ここまで来たか…ここに辿り着くまでに、上がったり下がったり、自分の中の様々な感情を味わってきました。もう「頑張ろう」などそういう次元ではなく、来るべき未来がどんなものであろうと丸ごとそのままを受け入れようという心持ちです。心の中には凪いだ海がどこまでも続いています。※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。
2018年04月11日「子どもが欲しいという確信のないまま、妊娠してもよいのだろうか」そんなことを思うこてつさんですが、それは戸惑いの表れなのかもしれません。不妊治療を2005~8年に受けた中村こてつさんの体験談。移植直前、このままでいい…流されるままに移植直前の生理が始まりました。いよいよ移植に向けて始動です。生理3日目から、卵胞ホルモン剤(プレマリン)を服用します。自然周期に合わせたホルモン補助の役割をするとのこと。なので、段々と量が増えてきます。初めの4日間は1錠、次の4日間は2錠、最終的には4錠となり、就寝前に服用します。プレマリンには血液を固まりやすくする作用もあるので、抗血小板剤として、小児用バファリンも同時に服用しました。そうして、受精卵が着床する子宮内膜の厚みを作っていきました。ふかふかの暖かなベッドに潜りこむ赤ちゃんの絵が思い浮かびます。受精卵の写真を目にして以来( 第25話参照 )、ずっと考えていました。本当に子どもが欲しいと思っていないまま、移植して妊娠してもよいものだろうか。それは子どもにも失礼だし、そんな気持ちのまま育児してもよいわけがない…と。探していました。自分が子どもが欲しいと思える何かを。投薬が始まって、気持ちに整理がつかないまま飲み始めている自分。このままだと流されるままに移植することになりそうで不安でした。が、しばらく悩むうちに、「これでいいのかも」と思うようになりました。自然に妊娠して出産する場合、「妊娠したから産む」というシンプルな流れが多いはず。自分が子どもを本当に望んでいるのか…深く検討して結論を出してから妊娠する人ってそうそういる?本当に子どもを望む気持ちがあって妊娠した人だけが、ちゃんとした子育てをする?自然にまかせて・なんとなく・思わぬ妊娠をした人たちは、しっかり子育てできてない?そんなことは、ない。私の場合、不妊治療中という環境におかれていて、周囲の意見といえば、子どもが欲しくて頑張っていらっしゃる方々の言葉を聞くほうが多い。だから「心から子どもを欲しいと思っていない」自分が浮いた存在に見えてしまっていたのかな…不妊全体でなく、女性全体の中に身を置いてみれば、悩むべきことではないのかもしれません。違うのは、けっこうな金額をかけて、高度生殖医療を受ける。という事実だけ。まぁ、その違いが大きいのですが…(笑)体外受精・顕微授精だからといって必ずしも妊娠できるわけではありません。移植後はもう神様の領域です。その神様に運命をお任せして、流されるままに現実を受け止めてみよう…それでもいいのかも…これでいいのかも…※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。
2018年03月21日不妊治療を2005~8年に受けた中村こてつさんの体験談。お休み期間を経て、いよいよい移植へという時に「本当に私は子どもが欲しいの?」そんな心の葛藤が再燃します。本当に私は子どもが欲しいのか?新しい年を迎えました。予定では、1月半ばにリセットし、2月初旬に移植となります。「グレードの良い初期胚盤胞が3個あるので、そのうちの1個を移植することになります。」とドクター。写真を渡されました。凍結した受精卵の写真です。同じく顕微授精をした友人が、受精卵の卵の写真が可愛い! と言っていたので私も楽しみにしていました。が、いざ渡されてみると、その感情は湧かず…。だって、見た目干し梅みたいなのです(笑)(色は違いますが)。移植したら、だんだんと愛おしくなるのでしょうか。しかし、自分も昔はこんな姿だったんだなぁと思うと不思議でなりません。この干し梅が人間の形になっていくんだもんなぁ~。『イノチ』って本当に神秘的。単純に感動し、その日の受診は終了しました。…それから数日後、激しく気持ちが落ち込んでいる自分がいました。受精卵の写真を見たときに、嬉しい! かわいい! という気持ちは全くありませんでした。それに対して「やっぱり私は心底子どもが欲しいわけではないのでは…」という疑問が渦巻いて、そんな気持ちのまま移植を受けるなんて、やはりよくないのではないか…そう思うようになりました。でもこれは私1人の問題ではないし、そうそうゆっくりもしていられない…。ましてや1回で妊娠できると決まっているわけではないのだし…。でも無責任ではないだろうか、子どもに対して。将来、私は本当は欲しくなかったのよ。なんて子育てに対して言い分けを作らないだろうか…。そう考える一方で、何を甘えたことを言っているの? 本当は欲しいくせに。できなかったときのショックを小さくしようと、自分の気持ちをセーブしてるだけでしょう? 怖いだけでしょう? と怒る自分もいました。そうなのかなそうなのかな自分の気持ちが分かりませんでした。みんながいう「理屈じゃない子どもが欲しい気持ち」が私には湧き上がってこない。いや、気持ちはあるけど見ようとしていないのか。もうすぐリセット。そうしたら2月には移植。それまでに自分の気持ちを固めなければいけない…。落ち込んで、憤って、悩んで、焦っていました。※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。
2018年03月07日不妊治療を2005~8年に受けた中村こてつさんの体験談です。卵の移植まで待つ間、図書館で中村さんが手にした1冊は『産まない女」として生きるあなたへ』。産まない女として生きるか採卵後の生理予定日に、しっかり生理がきました。人生の中でイレギュラーな採卵を終えた後だったので、予定通りきたことにホッとしました。年明けの移植についてスケジュールを決める以外は、しばらく治療もお休みです。クリスマスもお正月も、おっと! 結婚記念日も(笑)、気楽な気持ちでのんびり過ごせそうでウキウキしました。読書は好きで、図書館にはよく通っていましたが、不妊治療を始めてからは、それに関する本も読み漁っていました。治療の休憩期間に借りた一冊。『産まない女」として生きるあなたへ』。理由はいろいろあれど、最終的に「産まない」ことを選択した女性が、どのようにして自分の人生を生きていくか。不妊治療後、自分自身もその人生を歩む著者が、多くの女性へのインタビューとともに、それらの人生を輝いて生きるためのプロセスが書いてありました。顕微授精で凍結胚移植を待つ身の私でしたが、なんとなくタイトルに惹かれて手に取りました。私はこの体験記を、当時の日記を読み返しながら書いています。その時に感じたり思ったりしたことを忠実に文字にしています。日記にはこう書いていました。『自分がそうなったときの覚悟?いや、まだそんなことは考えられない。でも、もしかしたらそうなるかもしれないという漠然とした不安はある。今読むのと、自分が決心したときに読むのとでは雲泥の差の感じ方があるかな。とりあえず今の私は、私にできることをやるだけだ。やるだけやったら、どっちに転んでも、自分の答えが見つかるだろう。本の中の女性たちは「あの時こうしていれば…」と悔やんでいる人も少なくない。どれだけ悔やんでも過去はかえられない。自分が後悔しないように。思いっきり、やろう。出来るときに出来る事を。』子どもを産み育てることへの願望が薄いことを悩みながらも始めた不妊治療でしたが、治療が進み、すぐにできるものではないのだという事実を知るごとに、「産めないかもしれない」と考えたときに得体のしれない恐怖も感じていました。この本を読んだ私は、いろんな不安をぶるぶるっとふるい落とし、「今、やるしかないのだ」と改めて気合いを入れたようでした。図書館で借りるときは、本のタイトルとともに貸出日・返却日・利用者番号などを書いた小さなレシートのような紙を渡されます。返却を遅滞しないようにという目的でしょう。この本を読んでいる途中、ひらりとその紙が落ちてきました。私のものではありません。貸出日は去年の同じ頃。借りた本の名前がつらつらと並んでいます。文字数に制限があるらしく、タイトルは途中で切れていましたが、「産まない女」として生・・・あきらめないであなたの・・・大人の刺繍バッグをつく・・・おそらく女性でしょう。私と一緒で不妊の人。『あきらめないであなたの…』の後に続くのはきっと『赤ちゃん』。彼女もまた、産みたい気持ちと産めないかもしれない不安の間で揺れていたのかもしれません。その答えをいろんな情報に求めている。ちくちくとバッグを縫いながら…勝手にそんな想像をしていました。自分の人生なのだから自分で決めていい。決めていいはずなのに、どうして思い描いたとおりに進むことが難しいのでしょう。子どもを持つ持たないに関しては、特に。それとも人生は誰かに与えられるものなのでしょうか。神様の領域なのでしょうか。あの女性が今、どの人生であっても幸せであってほしい、そう思いました。※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。
2018年02月21日不妊治療を2005~8年に受けた中村こてつさんの体験談をシリーズでお届け。採卵を終え一安心するも移植可能な胚盤胞がいくつできたか…ドキドキしながら結果を待ちます。移植できる卵はいくつできたか採卵の3日後、心配していた採卵後のOHSS( 第21話参照 )についてチェックするために、体重と腹囲を計測しました。採卵直後とあまり変わっていませんでしたが、内診してもらうと、少し腹水がたまっていました。残った卵胞たちもかなり大きくなっていました。それに伴い、卵巣も腫れているようです。言われてみれば、少し張った感じはありました。もう少し水が溜まってたら、かなり苦しかったと思うよ~とドクターに言われました。残った卵胞はもう排卵しないので、これ以上症状が悪化することはないとのことで、軽いOHSSとの診断です。これくらいで済んで本当に良かったです。しばらくは、飛んだり跳ねたりはNGです。卵巣がぐるんと捻じれると大変なのです。(余談ですがこの7年後、本当に捻じれてしまい(卵巣茎捻転)救急搬送されました。幸い手術は免れましたが、正直出産より痛かったです!二度と味わいたくない痛みです。)腫れた卵巣は1ヶ月で戻るのは難しいかもとのことで、移植は年明けになりました。年末はゆっくり過ごせるんだぁ~と嬉しくなりました。受精から5日経ちました。13個の受精卵のうち、いくつ胚盤胞になったか電話で確認します。高校受験のドキドキを思い出します。結果…10個!おぉ。想像していたより多い!4日目の夕方に初期胚盤胞になったものが4個。あとは5日目以降になったものが6個。私の場合はそれら全てを凍結し、OHSSが改善されてからの移植になります。4日目の4個は各1個ずつ凍結しました。5日目以降のものは各2個ずつ一緒に凍結しました。なかなかいい卵です。とドクター。とりあえず高校に合格したようです(笑)。あとは無事に卒業できるか…何はともあれ、移植できる卵が凍結できてホッとしました。最後に言われた、凍結料金9万円は悲しかったけれど…。※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。
2018年02月07日不妊治療を2005~8年に受けた中村こてつさんの体験談をシリーズでお届け。お腹の中で卵子を育てるために定期的に注射を続けるこてつさん。はたしてその結果とは…。お腹の卵は何パック?卵を育てるため、激痛の注射を打ちました。妊婦さんに囲まれながら、地元の産婦人科に通い、毎日打ち続けました。たくさんの卵が順調に育っているのか、お腹が張ってくるのを感じます。7日目、クリニックで超音波検査をしました。卵胞(卵子の入っている袋)の数は左右合わせて約30個ありました。そりゃ、お腹も張るわ。大きい卵胞で18mm程度になっていました。OHSS(卵巣過剰刺激症候群)の可能性も?採血の結果、2日後に採卵が決定しました。その後、看護師・培養士より説明を受けました。オットの精子は、人工授精のときと同じく自宅で採取します。てっきり病院で活きのいい精子を採るもんだと思っていたので拍子抜けしました。男性は、こんなときぐらいしか治療に関わっていると実感できる時はないのに、なんだか悔しくなりました。いやいや、採卵の日は、会社を休んで付き添ってくれるというオットです。ありがとうと言わねば(笑)。培養士によると、今回の私の場合、OHSSになる確立は高いとのこと。〔OHSS(卵巣過剰刺激症候群):卵巣が腫れたり、同時に排卵することで腹水がたまったり、重症になると胸水も溜まる。血液濃度が濃くなって、血栓(脳梗塞などの心配)ができやすい。※医者より説明された内容で筆者が記憶しているものです。〕30個近くの卵は採卵で全て採るわけではなく、未熟なものはそのまま残します。その残した卵が後々、排卵したりして腹水が溜まることがあるそうです。治療仲間で20個採卵した人はOHSSになった話も聞いていたので、ドキドキしてきました。そして採卵は、卵の数が多ければ多いほど時間もかかるし、角度を変えるため何度も針を刺し直すそうです。膣壁には局所麻酔をするけれど、卵巣には麻酔ができない…ということで痛いらしい。うーん、うーん。怖いよう。怖さから、オットへの恨み節が再燃しました。(笑)その日の夜、地元の産婦人科にて排卵させるための注射を打ちました。いよいよ採卵当日採卵日当日になりました。朝6時半に起床。採精のため、オットを一人寝室に残し、シャワーを浴びました。無事にオットの精子、確保。痛み止めの坐薬を入れて、クリニックへ向かいました。クリニックに到着後、ほどなくして看護師さんに呼ばれました。安静室と呼ばれる部屋で血圧を測定後、下半身裸になり、上から手術着を着用しました。歩いて隣の手術室へ移動します。足を台に乗せ、大股開きになります。普段の診察はカーテンがあるのに今日はありません。ドクターの顔が股越しに見えます。そして私のお股にはスポットライトが。…なかなか、いや、かなり恥ずかしかったです。いよいよ採卵が始まります。※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。
2018年01月10日