冨士眞奈美女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回はある流行作家との関係について。「侮辱罪」なんて罪状が厳罰化されたそうだけど、実は私、かつて某女性週刊誌を訴えたことがある。“冨士眞奈美、某流行作家と同棲中”なんて具合に書き立てられた。当時、私は20代の前半で独身、その人には妻子がいたから、世間的には不倫といわれる関係だった。事実無根な流行作家との不倫騒動実際のところは、私は若くてふわふわしていて恋愛気分だったから、彼に手紙ばかり書いていた。同棲なんかしていなかったし事実と違う。そこで私はその女性週刊誌に異議申し立てをするため、検察局に行ったというわけ。といっても、事の発端は作家自身の告白だからややこしい。私が「NHK3人娘」の仲間だった小林千登勢とともに、取材を兼ねた2か月間のヨーロッパ旅行をしていたときのこと。彼が私との関係を週刊誌の記者に話してしまった。それが記事になって過熱報道へと発展し、結婚するという事実無根な話になってしまった。当時は姉や弟と暮らしていて、家族を養っていた私はもうびっくり。女性週刊誌に記事が載ったとき、同じ号に女優の伊藤牧子さんとの熱愛をバラされた(同じ俳優座養成所出身の)加藤剛さんに「一緒に訴えましょう!」と持ちかけたものの、剛さんは「私は結婚しますからいいです」との返事。本当に伊藤さんと結婚した剛さんは、ずっとまじめな人だったわ。ある集まりでは、瀬戸内寂聴(当時は晴美)先生が寄ってきて、「ねえ、どうなのよどうだったのよ」と熱心に聞いてきた。なんでも瀬戸内先生は、誰それが恋愛してると聞くと、その当事者に聞き込むのがお好きだったみたい。そんな瀬戸内先生のお相手として知られていた井上光晴先生とは、新宿二丁目にある棋士がよく集まるバーで何度かお会いしたことがある。「君に小説の書き方を教えてあげよう」と声をかけてくださったが、瀬戸内先生がどうしてこのお方が好きなのか、その魅力がさっぱりわからなかったなぁ。亡くなる1か月前に「会ってほしい」それにしても騒動の渦中は、本当に大変だった。その流行作家はハンサムで恋愛体質だったので、私以外にもいろいろな女性と浮名を流していた。そんな関係に結局疲れてしまい、私のほうから離れてしまった。彼が亡くなる1か月前。共通の旧知の友人を通じて、突然、「彼が会いたいと言っている」という連絡を受けた。もう長くはないから最後に会いたいと。その連絡に驚いた。ほんと、男性のほうが思い出を美化しがちだと思うわ。あまりにも昔の話だしお断りしたのだけど「どうしても」と追伸が届く。どんな気持ちで会えばいいのかわからなかったけど、私は結局、銀座の割烹店で、約40年ぶりに彼と再会した。何を話しただろう。あれから年月が離れたし、男と女とでは年月の重ね方も違う。日々、いろんな現実が過ぎ去っていく。流れていくから、いろいろなことも忘れてしまう。私と同じように彼も忘れているものだと思っていた。でも、彼は忘れていなかった。以前、その流行作家の愛読者だった方が手紙で「今までで一番好きだった女性は誰ですか?」と尋ねたことがあったそうだ。彼は、私の名前を挙げ、「優しかった」と答えたという。私が優しかった?さっぱりわからない。私は、その銀座の会食では、優しく振る舞うことができたのだろうか。当時の彼に対して、私は子どもっぽすぎたのか。思えば私は恋愛体質ではなく、40代で離婚した後は一切恋愛経験はない。恋愛という滑稽なことに余計な時間を取られたくないから。私はひとりになりたくて、彼を残してお店を後にした。程なくして、名古屋のテレビ局で仕事をしているとき、彼の訃報がテレビで流れた。まだ70歳だった。私にとっても彼はいろいろな意味で忘れ得ぬ人だったと思う。〈構成/我妻弘崇〉
2022年08月05日多彩な才能で知られた大橋巨泉さん女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。故・大橋巨泉さんと、邦画の大巨匠たちについて振り返る。「それが田舎者の発想なんだよ」タレント、司会者、放送作家と、多彩な顔を持っていたのが大橋巨泉さん。巨泉さんにそそのかされて、オーストラリアに別荘を買わされた芸能人もたくさんいるのよ(笑)。でも実際は、お金にとってもシビアな人だったみたい。昔、元夫の林秀彦が3番目の奥さん……私と別れて、その後に結婚した女性とオーストラリアに住んでいたとき、巨泉さんから共同馬主にならないかと持ち掛けられたことがあったらしい。あるとき巨泉さんがその競走馬を使うと、なんと馬が骨折してしまい再起不能に。悲しいことに殺処分することになったそうで、元夫はその処理代半分を負担させられ、その後ずっとこぼしていたと、私と仲がよかった3番目の奥さんから聞いたことがある。でも、巨泉さんは私には優しくしてくれた。あるとき、仕事の合間に、巨泉さんから「住むなら都会の四畳半と田舎の豪邸、どちらがいい?」と聞かれたことがあった。「もちろん都会の四畳半でしょう」と答えると、「それが田舎者の発想なんだよ」と笑われた。確かに巨泉さんは海外で広いお屋敷に住んでいたけど、私はいま考えても都会の四畳半だと思うわ。年をとったら特に毎日刺激がないと!不思議な縁――と言っておこうかしら。巨泉さんの2番目の奥さまである浅野寿々子ちゃんは子役出身で、目がパッチリした、とてもかわいい方。『切られ与三郎』という映画に出演した際、私の役の少女時代を演じたこともあった。その後ご夫婦とはよくバラエティー関連で共演したから、巨泉さんは目をかけてくれていたのかもしれない。あるとき、巨泉さんとピアノのあるスタジオで共演した際、巨泉さんに「マナミはジャズではどんな曲が好きなんだい」と聞かれた。「フランク・シナトラの『I’m A Fool To Want You』よ」と答えると「渋いなあ」と言って、ピアノで弾いてくれたの。感動したのなんのって。先述した『切られ与三郎』は、監督・脚本を伊藤大輔さんが、カメラを『羅生門』などを撮影した宮川一夫さんが担当。主演は、市川雷蔵さんという名だたる方が参加された作品だった。当時の私はまだキャリアも浅い新人だったから、そのメンツのすごさにピンときていなかった。特に雷蔵さんは、あんな大スターだったのに、誰に対しても物腰が柔らかい紳士だった。 『切られ与三郎』が封切りされると、俳優座養成所の同期生で、佐分利信さんの息子・石崎二郎から電話がかかってきた。「マナミ、映画を見たけどお前はかわいく演(や)る必要なんてないんだよ。十分かわいいんだから」。褒めているのかけなしているのか、がっかりした。でも、カマトトっぽく演じすぎたかも、と私も自覚していた。というのも、伊藤大輔監督の撮影はおもしろくて、ワンカットが終わるたびに、監督が「はい、ただいまのは79点」なんて点数をつける。「85点ですね。結構でした」なんて具合。周りもすごく褒めてくれたものだから、調子に乗ってしまったのね。伊藤監督の伝え方は、淡々としながらも筋が通っているものだった。宮川さんも実に柔らかな方だった。少なくとも私が接してきた方々、例えば、伊藤大輔監督、五所平之助監督、木下恵介監督といった大巨匠たちは、役者をぞんざいに扱うようなことは決してなかった。厳しさはもちろんある。だけど、役者に対して敬意を持っていた。五所監督は、撮影中に父が重体という連絡が来て気を揉んでいた私に寄り添い、ずっと慰めてくださった。プロフェッショナルが多かった。監督だけじゃない。カメラ、照明、スチール、床山さん……裏方も職人というべき方ばかりだったから、偽物が入り込む余地はなかった。今と昔では邦画の世界も変わったと思う。パワハラ、セクハラ――、そんなニュースを聞くたびに、私は信じられない気持ちでいっぱいになる。ふじ・まなみ ●静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。〈構成/我妻弘崇〉
2022年07月22日渋い演技で知られる山崎努さん女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、大好きな野球の思い出について述懐する。少年誌『野球少年』で“野球女子”に大谷翔平選手、佐々木朗希選手─。今をときめく球界のスーパースターたち。でも、子どものころに魅了された往年の名選手も、今なお私の胸の中で生き続けている。古い時代の話をさせていただこうかしら。“沢村二世”と呼ばれた切れ味鋭いシュートが武器の中尾碩志さん、「エースナンバー=18」の起源になったといわれるナックルボーラー・若林忠志さん。さらには、「物干し竿」と呼ばれた長尺バットを使用し、初代ミスタータイガースと呼ばれる藤村富美男さん。日本球界初の本格的なフォークボーラーといわれるフォークボールの神様・杉下茂さん。今より娯楽が少ないこともあり、プロ野球には、庶民の期待を背負ったスター選手がたくさんいた。そんな伝説の選手たちの現役時代のプレーを、ラジオでリアルタイムで聴いていたんだから、われながらびっくりする。佐々木朗希選手のフォークも杉下茂さんのフォークも、ひとりの野球ファンとして体験しているんだから、ちょっと自慢できることかもしれない。アハハ。当時はテレビなんてないから、ラジオから聞こえてくる名選手たちの一挙手一投足に、必死になって耳を傾けていた。野球に関係するものは、身体が勝手に反応してしまう─、それくらい野球が好きだった。今もだけどね。どうして私が野球にのめり込んだのか?小学生のころから男の子たちに交じって田んぼの中で野球をやっていたってこともあるんだけど、さかのぼれば少年誌『野球少年』の影響が大きかったような気がする。この時代、実況といえばNHKアナウンサーの志村正順さん、解説といえば野球記者で評論家の大和球士さんによる黄金コンビが鉄板だった。音声だけのラジオというメディアにもかかわらず、2人の名調子は、映像が浮かんでくるほど臨場感のあるものだった。志村さんは、先述した『野球少年』誌上に、試合の経過を実況アナウンス風につづった自筆の誌上実況を連載していて、これが雑誌の目玉企画になるほど人気を博していた。まさに、私も夢中になって文字を追ったひとり。活字好きで野球が好き─という私の原点は、この『野球少年』の誌上実況によるところが大きいのかもしれない。野球好きが高じて、この連載でも触れたように(岸田)今日子ちゃんが主演を務めたドラマ『鏡子の家』の演者、スタッフによる野球チーム『鏡子の家 エロティックス』を作ったのはいい思い出。メンバーは、杉浦直樹さん、山崎努さん、テレビプロデューサーの大山勝美さん、当時まだアシスタント(演出助手)だった久世光彦さん。共演していた女優さんには、加藤治子ちゃんや藤野節子さんもいたけど、野球に関心がない。ないというか、“野球女子”な女優は、当時は私ひとりだけ。面白がり屋の今日子ちゃんは、ボールを握ったこともないから、放れば手先からゴロ。でも「野球やってみたわ」とノリノリだった。後楽園球場や神宮球場、中野の哲学堂の野球場などで試合をした。対戦相手の中にはシナリオライターで結成された『ライターズ』なんてチームもいて、放送作家の前田武彦さんが在籍していた。中でも、私と同じ俳優座養成所出身の山崎努も、子どものころからの筋金入りの野球好き。あまりに野球と巨人が好きすぎて、巨人の2軍が練習する多摩川のグラウンドまで行って、選手たちに交じって一緒に白球を追いかけていたことがあるというんだから、恐るべしよ。この連載の担当さんから聞いたのだけど、山崎さん、最近始めたツイッターで、野球がいかに好きかをたくさんつぶやいているんですってね。初志貫徹。朝早くから起きて、みんなで一生懸命に野球をやる。たわいないことだけど、それがいいのよ。あのころはホントに面白かったなぁ。ふじ・まなみ ●静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。〈構成/我妻弘崇〉
2022年07月02日料理が得意だった梅宮辰夫さん女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回はビートたけし、梅宮辰夫さん、山城新伍さんほか、シャイな男性について。シャイの塊のような人男性の魅力って、私は色気だと思う。色気を醸し出すためには、やっぱりシャイな部分が必要。シャイじゃない男性は、どこか魅力的には映りづらい。想像してほしいんだけど、いつも自信満々の男性ってイヤだと思わない?シャイな人。たくさん出会ってきたけど、ビートたけしさんもそうだった。たけしさんとは『浮浪雲』というドラマ(1990年・TBS系)でご一緒した。私は、たけしさん演じる雲と、かつて関係を持ったことがある遊女の役。たけしさんの腕に抱かれながら死んでいく─といういい気分な展開だった。撮影が終わって、「(このシーンが)男に抱かれた最後よ」とふざけて言うと、彼は終始照れくさそうに笑っていた。たけしさんは、照れ屋というか、シャイの塊のような人。その雰囲気が、演技を含めて、とてもいい空気感をつくり出しているのだと思う。梅宮たっちゃん(辰夫)や山城新伍ちゃんも、ああ見えてとてもシャイな人だったわ。新伍ちゃんに関しては図々しさもあったけど(笑)。『新伍のお待ちどおさま』(TBS系)でご一緒していたころ、新伍ちゃんが、私の誕生日にとても素敵なショールをプレゼントしてくれたことがある。でも、何やら様子がおかしい。「一桁間違えて女房が買ってきちゃったんだ!」惚れぬいていた奥さまであった花園ひろみさんに私あてのプレゼントを頼んだところ、値札を見間違えて10数万円のショールを買ってきてしまったそうで、後悔しながら照れくさそうに言ってきた。そんなプレゼントの渡し方、初めて見たわよ。たっちゃんと新伍ちゃんはとても仲よしだった。“破天荒”とか“夜の帝王”なんて言われていたけど、2人ともお父さんがお医者さま。実際は聞き分けのよいお坊ちゃんだったから、求められる演技をまじめにしていたんだと思う。そりゃあ、カッコいいからモテたのは間違いない。たっちゃんが付き合っていたある女優さんが結婚することになったとき、その人は新伍ちゃんとも同時に付き合っていたらしく……ホント、それもどうかと思うけど(苦笑)、たっちゃんが「結婚祝いに何でも買ってあげる」と伝えたそう。すると、彼女は歯医者の請求書を持ってきたんですって。「目玉が飛び出るような額だった」と、これは新伍ちゃんの代返。でも、全額払ったというからきっぷがいいわよね。餞別(せんべつ)で全面的に歯を治す─その選択をした女優さんもすごいけど。たっちゃんとは、ある作品でラブシーンを演じたことがあった。でも、彼は私にキスをしなかった。たっちゃんたら、私がNHK専属だったからって、「NHKの人に変なことできねえや」と、結局尻込みしてしまったの。演技なのに、まじめよねぇ。2人はよく仁侠映画に出演していたけど、プライベートであの人たちが声を荒らげているところなんて見たことがない。本当に優しい人たちだった。ラブシーンといえば、松本清張先生原作のあるドラマで西村晃さんと共演したときのことも印象的。そのころは、ドラマが生放送だった……んだけど、失敗できないから、舞台みたいな緊張感があった。ラブシーンのとき、西村さんは汗をかいていた。生放送だけど、思わず私は西村さんの水滴を拭こうとタオルを当てようとすると、「これが大切なんだ!」と手を振り払われ、怒られてしまった。実はカメラに映る前の一瞬で、西村さんは顔にスプレーをかけて汗を作っていたのよ。演技派で、芸に厳しかった西村さんらしい出来事だった。そういえば─。清張先生に「『けものみち』を読んでいます」とお話ししたことがあった。『けものみち』といえば、若い人妻が、不甲斐ない夫を捨てて極貧から這い上がるお話。すると清張先生は「あなたのような若い女性が、あんな小説を読んではいけません」と。そんな時代もあったなぁ。ふじ・まなみ ●静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。〈構成/我妻弘崇〉
2022年06月19日「ハンターチャンス!」でも知られた柳生博さん女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、柳生博さんらについて。球界の名士たちプロ野球が開幕して早々にロッテの佐々木朗希選手が完全試合という大記録を達成した。その後も、球審と一悶着あったりなど、あの若さで全野球ファンの注目の的になっているのはすごいこと。随分前、まだ佐々木選手と同じ年頃だった王貞治さんにインタビューしたことがある。「プロ野球選手として成功するのは、すごいばかか、すごく頭がいいか、どちらかですよ」王さんは当時まだ20歳だったのに思慮深い口調でこうおっしゃっていた。そのインタビューでは、読書が好きで、特に推理小説が好きだと教えてくれた。一方、長嶋茂雄さんは、本当に天然なお方。真正・長嶋主義者として何度かお会いしたことがあり、私の弟がとびきりの栄養剤をくれたので、長嶋さんに送って差し上げたことがある。「長嶋です」数日後、そう名乗る電話がかかってきた。「え?」、もしかして─、「あの長嶋さんでしょうか?」と聞き返すと、電話口の向こうから「そうです、あの長嶋です」と、明るく独特の口調で返ってきた。なんでも、奥さまと飲んでみようと思ったけれど、飲み方がわからないので直接聞きたくて連絡をしてきたのだとおっしゃった。飲み方を説明すると、そのお礼として、後日、立派な胡蝶蘭が届いた。いただいたのは美しい胡蝶蘭だったけれど、やっぱり長嶋さんは、ひまわりのような人だと思う。海の向こうでは大リーグが開幕し、大谷翔平選手の躍動感あふれるプレーを見るのが、日課になっている。私は一挙手一投足に注目し、ついには大谷選手が、「ブロッコリーと鮭を食べている」と聞いて、まねて食べるようになってしまった。どれだけ大谷選手が好きなのかと、自分でも呆れるくらい。どちらもアンチエイジングにもいいみたい。がんで亡くなる人が多いから、私も食生活に取り入れ、長寿を願いたいもの。大往生できたら大谷翔平サマサマ、よ。柳生博さん私は訃報欄で「老衰」という死因を見ると疑問を覚えてしまう。すっかり衰えて死んでしまう─そんな印象を覚える。天寿をまっとうしたとも解釈できるけど、「老」いて「衰」えるという文字の並びが、力尽きたという感じで寂しさを覚える。だから、「老衰」よりも「大往生」のほうがいい。そんなことをふと考えてしまったのは、俳優座養成所の同期生だった柳生博さんが、先日「老衰」で亡くなったからだ。奥さまであった二階堂有希子さんも同期。2人とは、気心の知れた仲だった。柳生さんは、船乗りになるため東京商船大学(現在の東京海洋大学)に入学するも、体調を崩してしまい中退。そして、役者の道を志した人。私が再独身となり、芸能界に復帰して、9年ぶりのドラマ出演となった『エプロンおばさん』(フジテレビ系)。その夫役が、柳生さんだった。柳生さんはいつもニコニコ。頼りない夫役がぴったり。私は元気な役だったから、2人の対照的なキャラが好評を得た要因だったと思う。柳生さんは、「僕は太らないんだ」と、よく自慢していた。変わらないスマートな柳生さんだったけど、俳優座時代を知る同期としては、まさかあんなに髪の毛が薄くなるとは思わなかった……。「これ誰かわかる?柳生博よ!」若い頃の柳生さんの写真を見せて、みんなを驚かせたこともある。あまりに人々のリアクションがよいものだから、その後も彼の写真を持ち歩いて、時折ネタのように写真を見せていたっけ。きっと笑って許してくれるだろうけど、柳生さん、ごめんね。奥さまである二階堂さんが認知症となり、園芸家だった長男は若くしてがんで亡くなった。愛妻の介護をしていた柳生さんは、最後まで立派で誠実な人生を歩んだんだと思う。だから、彼が「老衰」という力のない最期であったとは思えないし、思いたくない。ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。〈構成/我妻弘崇〉
2022年06月04日岸田今日子さん女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、女子3人旅のいきさつについて振り返る。私と吉行和子と岸田今日子。女3人─。気ままな自由旅は、予期せぬ形で始まることになった。きっかけは、この連載でもたびたび登場する新宿三丁目の名居酒屋『どん底』のマスターである故・矢野智さん。彼は、スペインのマドリードにも店を構えていた。ある日、今日子ちゃんと和子っぺが、「行こうよ」と言い出した。このお店は、三浦友和さんと山口百恵さんが結婚前に旅行で訪れたり、スペイン国王夫妻も来店したことで知られている。国王がどん底に行く─、そんなジョークみたいなマドリードの名店に惹かれるところはあったけれど、私はどうしても行く気になれなかった。極度の飛行機嫌いだったのだ。といっても、根っからの、というわけではない。何度も乗ったことはあったけど、事故が相次いだことで、私はすっかり空の旅に臆病になってしまったわけ。さらには、昭和57年の「日本航空350便墜落事故」(「機長なにするんですか」の日航機逆噴射事故)によって、私の飛行機に対する苦手意識は払拭されるどころか増長するばかり。飛行機に乗らなければいけない場所には、金輪際行くことはないと思っていた。ところが─。『どん底』で話を切り出した2人は、どんどんと目を輝かせ始める。「これだけ生きたんだからいいじゃない。怖くないわよ」なんて和子っぺが言ったかと思えば、「私はマジョルカ島に行きたいわぁ」と、今日子ちゃんはまるでウシガエルみたいなトーンで、青写真を描き始める。「マジョルカ島のインク壺が欲しいの」と。なんでも父親である岸田國士先生の愛用品だったそう。テレビ東京でまさかの番組化「冗談じゃないわよ」。そう頑なに拒んでいた私だったけれど、最終的に「1年後に行きましょう」と手打ちをすることで、2人に納得してもらった。腹の中では、「どうせ1年後なんてうやむやになって忘れているはず」なんて高をくくっていたわけだけど、立ち消えになるといった雰囲気は一切なく、私はズルズルと旅行へと引きずり込まれ、2人はワクワクと計画を練り始める。約束から1年後。私は、あれだけ拒んでいた機上の人になっていた。だけど、行ってみると、これが楽しいのなんのって。気がつくと私たちは、スペインの風に吹かれながら「また行こう」と、次の旅先をあれこれと妄想し始めていた。恐怖に打ち勝つために、楽しさってあるんだろうな。その後、テレビ東京で番組化の話が持ち上がり、定期的に3人で旅をするようになった。友情の企業化。旅には一切の台本はなく、好きなようにさせていただいた。中でも台湾は印象深く、すっかり私たちは魅了され、その後も足を運ぶようになった。台湾には、小説家、俳人、歌人といくつもの顔を持つ黄霊芝さん(1928年―2016年)という人物がいた。台湾俳句会の会長でもあり、私と和子っぺは何度か招待されたことがあった。黄さんは、主に日本語で創作活動をするため、台湾俳句会へ行くと、あちこちから日本語が聞こえてくる。川柳を詠んでいる人もいれば、詩を書いている人もいる。台湾にいるのに、とても不思議な空間。正しい日本語を教えてくれる会でもあった。黄さんは、別れ際、必ず私と和子っぺに日本語の手紙をくれた。でも、和子っぺの手紙は、「吉行和子様あなたは僕の宝庫です」なんて、完全にラブレター。「この差は何なのよ」なんて腹が立つやらおかしいやら。でも、私もハワイ島を訪れた際、村の首長さんから求愛されたことがある。首長は17人(!!)の孫がいるという。今日子ちゃんが「この3人の中で誰がいちばんいい?」と聞くと、迷いもなく私を指差した。2人はけらけらと笑って、「どうぞ差し上げますから」だって。思い返すときりがない珍道中ばかりだった。ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。〈構成/我妻弘崇〉
2022年05月21日公益財団法人 日本交通文化協会(東京都千代田区、理事長:滝久雄)は、第56期瀧冨士基金奨学生を2022年6月30日(木)まで募集いたします。対象は、JR鉄道、民営鉄道、その他陸運交通事業(左記の範囲内にある観光事業を含む)やそれに関連する事業に従事する方の子弟で大学、短大に在学する学生、ないしは陸運交通事業志望者を養成する大学に在学する方です。厳正な審査を経て20人から50人の奨学生を選定いたします。特に成績が優秀な学生には、奨学金の増額や返済免除を行います。第56期瀧冨士基金奨学生募集【瀧冨士基金について】瀧冨士基金は、日本の将来を担うリーダーの育成を目的に、学業に意欲を持つ学生の皆さまをご支援する育英制度で、1968年に創設しました。当初は「英才教育基金」の名称でしたが、1976年に協会創設者の瀧冨士太郎の名にちなんで現在の名前となりました。基金創設以来の受給者は1,951人、給貸与総額は22.9億円、うち給費生は255人で2億円となります。【第56期瀧冨士基金奨学生 募集要項】○募集人員20~50名○募集資格(1)JR鉄道、民営鉄道その他陸運交通事業(左記の範囲内にある観光事業含む)およびその関連事業に従事する者ならびにその子弟で、大学、短大に在学している者(大学院、通信教育の各学生は除く)(2)陸運交通事業志望者を養成する大学に在学する者○奨学生および奨学金(1)貸費生 修学中に次の奨学金を貸与(イ)大学生 国公立 月額 42,000円私立 月額 51,000円(ロ)短大生 月額 30,000円(2)特待生および給費生貸費生のうち大学成績が特に優秀な者に対して、奨学金の増額(特待生)または給与(給費生)を行うことがある(イ)特待生 修学中に次の奨学金を貸与国公立 月額 60,000円私立 月額 65,000円(ロ)給費生 貸費生、特待生の奨学金のうち一定額を給費○第1回の奨学金2022年10月分より貸与○貸費生・特待生の奨学金の返還奨学金は卒業の日の6カ月後または就職日より3カ月後から貸与を受けた月数の3倍の期間内にその全額を月賦、半年賦または年賦で返還しなければならない。利息は徴収しない○応募書類(1)奨学生願書 (2)推薦調書 (3)在学証明書 (4)高等学校3年間の学業成績証明書(大学1~4年生全員)*在学学校の学業成績証明書(大学1年生を除く全員) (5)健康診断書(在学学校で受診した方は、その複写でも可)(6)身上書 (7)推薦人(保証人)の源泉徴収票(1)奨学生願書 (2)推薦調書 (6)身上書は、以下URLにアクセスし、必要書類をダウンロードして使用 ※奨学生は毎学年末に学業成績証明書の提出が必須※応募書類は採否にかかわらず返却不可※個人情報は本事業の運営にのみ利用させていただきます○応募方法:必要書類を下記の住所まで郵送 *メールでの応募は不可〒100-0006 東京都千代田区有楽町1丁目1番3号 東京宝塚ビル8階公益財団法人 日本交通文化協会瀧冨士基金事業部 宛て○応募締切2022年6月30日(木)当日消印有効○選考方法本会の奨学生選考委員会において厳正なる審査の上決定○決定通知2022年8月~9月(予定)<一般からのお問い合わせ先>MAIL: nakayosi@jptca.org *ご返答までお時間がかかる場合がございます。あらかじめご了承ください。 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2022年05月16日2009年、58歳で亡くなった忌野清志郎さん女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、結婚観、夫婦観について述懐する。「男女関係は早く納得したほうがいい」前回もお話ししたように、私は結婚を機に、前夫であった脚本家の林秀彦の意向もあって芸能活動を休止した。女優としてもっとも脂が乗っていただろう35歳からの10年間を専業主婦として過ごしたため、女優仲間の野際陽子さんからは「もったいない」などと案じられたこともあった。芸能活動を休止できたのも仕事欲……というか、「欲」がなかったからだと思う。私は三島市の生まれだけど、伊豆の人間は、「そんなかてゃぁーこと言わねえで一杯やるべえ」という感じ。私もお酒が好きだったし、物事を深く掘り下げなかったから、前夫との結婚生活を楽しむことができたんだと思う。私からのアドバイス─なんて大それたものじゃないけれど、男女関係は早く納得したほうがいい。その人を好きか嫌いか考えたとき、自分が「好き」だったら諦める。私は面食いだったのでそれでOK。といっても、結果的に結婚生活に終止符を打ってしまった私が助言しても、説得力に欠けるわね。あはは。再独身後、私はすぐに仕事に復帰した。『エプロンおばさん』(フジテレビ系)の主演として、ドラマ出演をすることにした。だって生活をしなければならないんだもの。それまで彼から生活費をもらったことは一切なく、自分の貯金を取り崩して生活をしていた、なんとも奇妙な夫婦生活だったから。貯金が底をついてきたため、「あなたそろそろ苦しいわよ」と報告したこともあったけど、彼は外国のタバコをぷかぷかと優雅に吸い、原書を買い、コートもバッグも万年筆も舶来品が好き。節制という言葉を知らない。こだわりの強い人だった。そういえば、1976年1月8日、娘が生まれた日のこと。わが家には、前日から、遊び仲間のいっちゃんこと歌手の荒木一郎さんが、当時の女性マネージャーを連れて将棋を指しに来ていた。髪型や服装がとても個性的な女性でキュート。いっちゃんとその女性は1月8日が誕生日。結局その日3人の1月8日生まれがそろうことになった。ハットトリック。その席にうろうろしていた私は、明け方、陣痛が起きた。夫は泥酔していて全然役に立たない。「どこへ行くの」「病院よ」「え、何しに」という具合。仕方なくシャワーを浴び、タクシーを拾い、病院へ行って1人で手続きをして出産した。夫は結局、夕方ごろ、お姑さんに連れられて病院へ来て、遠巻きに私を見ていた。こうやって綴ると、なんだか彼がヒドい人のように見えるけど、「そんなかてゃーこと言わねぇで一杯やるで」気質の私に後悔はない。好きになったら諦める。そうでもないと、夫婦生活なんてやっていられない。そう思わない?いっちゃんは、とっても優しくていい人なんだけど、連れてくる人がコロコロ変わる。こちらは全然覚えられない。数年後、「その節はお世話になりました」と声をかけてきたキリッと地味な感じの女性がいて、どなた?と思ったら、1月8日生まれのいっちゃんのマネージャーだった。なんと、そのときは歌手の忌野清志郎さんのマネージャーさんになっていたの。雰囲気がまったく違っていたのでびっくりした。清志郎さんといえば、歌うときは派手なメイクで知られていたけど、映画でご一緒するととても気配りのできる優しい方だった。「冨士さん、ご機嫌いかがですか?」なんて、目線を合わせて話しかけてきてくれたりね。彼も若くして亡くなったのよね。5月2日がご命日だとか。中村勘三郎さんもだけど、神様はいい人って早く連れていってしまうのね。一方、いっちゃんは、まだとっても元気。得意のマジックでショーをしてるという噂。いっちゃんは、好きなことしかしないのね。それが元気のもと、魅力。昔の仲間がまだ元気なのはうれしいものよね。ふじ・まなみ ●静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。〈構成/我妻弘崇〉
2022年05月02日『悪魔のようなあいつ』(1975年 TBS系)に出演した際の荒木一郎女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、自身の不思議な結婚生活を振り返る。『細うで繁盛記』(1970年日本テレビ系)、『パパと呼ばないで』(1972年日本テレビ系)などに出演した後、私は脚本家である林秀彦(故人)との結婚を機に、芸能界を引退した。不思議な10年間の結婚生活当時、私は35歳。エッセイや小説の執筆といった活動は続けていたものの、10年後の1984年に離婚するまで、ドラマや映画には一切出演しなかった。句会も欠席。それまでいろいろな作品やCMに出演させていただいたこともあって、貯金もそこそこあった。「これだけあれば暮らせるだろう」。そんな考えもあって、私は表舞台から降りることを決めた。最も脂が乗るだろう時期に家庭へ入る。もし、このとき女優を続けていたら、また違った人生があっただろうなとは思う。実際、いい舞台や有名監督さんからお話をいただくなど、たくさんオファーがあった。親交のあったプロデューサーからは、「もうそろそろいいのでは」と家まで直談判されたこともあった。でも、夫が、私の芸能活動を嫌がったため、いざこざを恐れて私は結婚すると決めてからすっかりその気をなくしていた。確かに、そのときの私は娘・リズの子育てに夢中だったから、撮影のために何日も家を空けることはとんでもないことだった。でも、女優を続けていたらできなかっただろうPTAの役員など、新しい役柄を演じているようで楽しかった。生活が変わるということは、新鮮な時間を過ごすということ。だから、その選択に後悔はない。閉門蟄居の生活。ただ、前夫は後悔していたような気もする。脚本家である以上、多様な作品に出演することは、女優・冨士眞奈美の成長につながる─そうわかってはいたと思う。縁は異なもの味なものとはよく言ったもの。振り返ると、本当に不思議な奉仕生活、10年間の結婚生活だった。彼は、私が芸能活動を続けることは嫌がったけれど、俳優仲間の伊丹十三さんや石立鉄男さん、棋士の方々が遊びに来ることはまったくOKだった。むしろ、一緒に遊ぶことを楽しんでいた。そのため、ほぼ毎日、誰かしらが来訪する。多いときは20人くらいの人が集まるなんてことも。そのころ道でばったりお会いした大御所の長岡輝子さんが「あなた元気なのね。元気なときは遊ぶのがいちばん。病気になったら女優に戻っていらっしゃい」とおっしゃり、なるほど、と思った。リズは、学校の先生に「今朝は何を食べたの?」と聞かれたとき「ピーナッツと柿の種」と無邪気に答えたとか。お客さまにお出ししていたおつまみの残りを朝つまみ食いしていたというわけ。もちろん朝ごはんも作っていたのよ。それくらいひっきりなしに来客があった。中でも、いっちゃん(歌手の荒木一郎)は、しょっちゅう私たちの家に遊びに来ては、プロはだしの腕前のカードマジックを披露してくれた。あるとき突然、作家の森茉莉さんから電話がかかってきたことがあった。面識がなく、びっくりした。文豪・森鴎外の娘さんである森さんは、いっちゃんの大ファンでも知られていた。ある雑誌から「荒木一郎について寄稿してほしい」とオファーがあったとのこと。「私よりもあなたのほうが詳しいからあなたが書くべきだ」とおっしゃる。私は少し怯えながら「滅相もないです」と伝えると、次第に森さんは饒舌になって、笑い出したり、泣き出したり……大変だった。突然の電話、面識のない間柄。リズを幼稚園に迎えに行く時間が迫っていく。なのに、1時間以上長い付き合いの友人のように話し続ける。独特な感性を持つ作家として知られていたけど、電話口で大いに納得したのだった。それにしてもいっちゃんはすごい。私がいっちゃんについて書くことはなかったから、結局、森さんが書かれたのかなぁ。それすらもわからない、森茉莉さんらしい幻想的なお電話だった。ふじ・まなみ ●静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。〈構成/我妻弘崇〉
2022年04月18日※写真はイメージです女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、自身の愛車遍歴を振り返る。カーマニアになったきっかけこれまでいろいろな車を運転してきた。あるときは、歌手の荒木一郎さん……私たちは“いっちゃん”と呼んでいたけど、彼が大きなアメ車を楽しそうに乗っていたから、私も感化されて黄色いカマロに乗り換えたことがあった。リッター2kmほどしか走らないから燃費は悪い。でも、ひとたび高速道路を走るや、その気持ちのよさといったらない。車に乗っているのはもちろん、車を走らせているという感覚。だから私は、大きな外国車好きだった。それは、最初にお付き合いをしたボーイフレンドの影響が大きかったのだと思う。その人はちょっと名の知れた作曲家で、モダンジャズのピアニストでありながら、レーサーでもあった。自分のことについてあまりしゃべらなかったけど、後々、人づてに聞いた話では良家のおぼっちゃんだったらしい。家に真っ白なグランドピアノがあったから、言われてみれば普通の家庭じゃないわよね。彼は、イギリスのスポーツカーブランドであるMGの真っ赤な車に乗っていた。当時は1960年前後だったと思うけど、とても珍しかった。そのMGで、静岡県・三島にある私の実家まで乗りつけたことがあった。到着すると、あまりに物珍しい車で戻ってきたものだから、弟たちが騒ぎだす。それを察してか、彼はトランクを開け、クーラーボックスからコカ・コーラを取り出し、配りだした。弟たちが初めて見るコークに熱狂したのは言うまでもない。異国から来た人みたいだった。たしかに彼は、スコッチのことをスカッチと発音したり、石原裕次郎さんが経営していた東京・四谷のステーキハウス「フランクス」にたびたび連れて行ってくれ、ステーキのおいしさを教えてくれた。だけど、それまでウイスキーはサントリーでいちばん安い「シロ」の水割り一辺倒だった私は、あっけにとられるばかり。当時の私は、俳優座の養成所にいたからお金なんかまったく持ち合わせていない。俳優を志す若者たちは純朴な人ばかりだし、おまけにボーイフレンドがいる女の子なんてあんまりいなかった。私もその1人だったから、スカッチと発音し、MGに乗って颯爽と現れる彼に、どこかなじめなかったのかもしれない。でも、彼はとても熱心だった。スケジュールを伝えているわけでもないのに、ロケが終わると空港にMGを横づけして私を出迎えてくれたりした。いま思えば、それは恋愛と呼ぶにはバランスを欠くようなものだった。一度私が彼の家に電話をした際、彼のお母さんから「カマトトの彼女からお電話よ」と言われたことがあった。別に無知なふりをしていたわけじゃなくて、私は田舎っぺだから、本当にものを知らなかっただけなのだけど。そういえば、彼の仲間たちと軽井沢へ行ったとき、朝ごはんにオートミールが出されたことがあった。牛乳の中に動物の餌のような麦が入っているだけにしか見えなかった私は、「なんてものを出すの、失礼ね!」なんて怒ってしまった。そんな感じだったから、「カマトトの彼女」であるわけがない。でも、そんな彼のおかげで、だんだんとものを知るようになったところはある。そのひとつが、車の魅力だったんだろうなぁと思い返す。いろいろな車に乗り換えた。特に好きだったのはジープかな。ただ、ひとつだけ後悔していることがある。三島にいる母を送り迎えする際、私はジープに母を乗せて移動していた。気分よくハンドルを握っていると、「あなたはいいけど、私はつらいのよ」とたまりかねたような母の一声。車高があるから乗り降りするのも大変だったし、快適な乗り心地でもなかっただろうから、かわいそうなことをしていたと思う。いまだったらきっと静かな電気自動車に─。いや、乗れるなら、やっぱり私はスポーツカーか幌付きのジープを選ぶだろうなぁ。〈構成/我妻弘崇〉冨士眞奈美 ●ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。
2022年04月03日『火垂るの墓』はあまりにも有名女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、野坂昭如さんとの思い出を振り返る。奥さまについて話す姿も印象的野坂昭如さんとは、ともに『文春句会』で俳句を楽しんでいたお仲間だった。文壇界きっての犬猫好き、酒好きとして知られていたけど、冗談好きな人でもあった。「猫のチンチラを26匹飼っているんです。書斎の本棚にぎっちりと並んでいて、自分が執筆している姿を見下ろしている」なんてまじめに話す。チンチラがおとなしく書棚におさまるわけがない。信じてるふりをすると、野坂さんは楽しそうに話を続ける。「梅雨のときは、妻の手伝いをするため洗濯物を干すんだけど、妻と2人の娘の下着を万国旗のように、自分の書斎に干すんです。その様子を26匹のチンチラが見ている」どう考えたって作り話。26匹のチンチラなんて。私は大笑いしてしまった。だって、そんな書斎があったら見てみたいじゃない。奥さまである野坂暘子さんについて話す姿も印象的だった。きっと大好きだったんだと思う。「彼女が酔っぱらって帰って来て、犬小屋で寝てしまった。だからお姫様抱っこをして部屋に連れ帰りましたよ」などと嬉々として話すけど、いつも酔っぱらっているのは野坂さんのほうだし、細身の野坂さんがお姫様抱っこなんてできる気がしない。もしかしたら逆だったのでは─。どこまでが本気でどこまでが冗談かわからない。でも、話がとっても面白い。あるとき、野坂さんに「一緒に舞台に出ていた大空真弓さんの楽屋に、(セゾングループの)堤清二さんから大量のお花が届いたのよ」と話したことがあった。堤さんといえば、辻井喬の名前で作家としても知られている。すると、野坂さんは、「それは大変だ!冨士さんがかわいそうです」と言う。翌日私の楽屋に、どういうわけか大岡信さんや井上ひさしさんといった著名な作家の方々から、たくさんのお花が届いた。「あまり面識もない私にどうして?」と思いながらも、いただいた方々のご住所を調べて、お礼状を書いていると、「あ!」と気がついた。きっとお名前を借りているだけで、送り主は野坂さんひとりなのでは……。そのことを野坂さんに問うと、フフフと笑っていた。いたずらを楽しみ、飄々としている。それが野坂昭如という人だった。野坂さんは、作家、歌手、タレントと、多彩なキャラクターを持ち合わせていたが、若かりしころはCMソングの作詞家として才能を遺憾なく発揮していた。「伊東に行くならハトヤ、電話はヨイフロ」の名フレーズで知られるハトヤや、レナウン娘(レナウンワンサカ娘)といった昭和を代表するCMの歌詞を手がけ、後に『マリリン・モンロー・ノー・リターン』など数々の名曲を世に送り出す作詞家となる。『おもちゃのチャチャチャ』も、野坂さんの代表作。『火垂るの墓』の原作者というのはあまりにも有名だけど、戦争の現実はもっともっとひどかったみたい。いつだっただろうか。句会を終えて、野坂さんと一緒にタクシーで帰ったことがあった。そろそろ私の家に着くというとき、突然、野坂さんが「冨士さん、この近くに飲食店はありませんか?ちょっとしたものでいいんです」と口を開いた。句会ではごちそうが出たのに、彼は一切食べずに、お酒だけをぐいぐいとあおっていた。近所においしい焼きそばを出すお店があると言うと、タクシーを降りた。お店に入って焼きそばが目の前に運ばれるや、よほどお腹がすいていたらしく、野坂さんは一心不乱に焼きそばを頬張り始めた。妹さんを餓死させてしまったという慙愧の念があって、大勢の前では食べる姿を見せたくないのかも─。おいしそうに焼きそばをかき込む姿をながめながら、私は痛々しい気持ちになった。吉行和子いわく「『火垂るの墓』を見ると、野坂さんの傍若無人を許してしまう」。野坂さん、礼儀正しい人でもありました。〈構成/我妻弘崇〉冨士眞奈美 ●ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。
2022年03月11日仲よし3人組の旅のひとコマ女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、食にまつわる出会いと岸田今日子さんの食べっぷりについて言葉を紡ぐ。渡哲也さんとの相席いまから何十年前だっただろう、日活の食堂でのこと。1人でご飯を食べていると、向こうからザッザッと草履の音が聞こえてきた。突然、その音が私の前で止まり、「ここに座ってもよろしいでしょうか」と声をかけられた。食堂はすでに満席。どうやら2人席にいる私の前の席しか空きがないらしい。申し訳なさそうな声が印象的だった。声の主の足元からゆっくりとパンナップすると、草履なのにジーパン。そして、凛とした顔つきの男性が目に飛び込んできた。雑誌『少年倶楽部』の表紙みたいなお顔。まだ新人だったころの渡哲也さんだった。可愛らしさと精悍さがないまぜになったような。たとえるなら、私が大好きな大谷翔平選手のような印象。当然返事は「もちろんです」。といっても、実は渡さんに会ったことがあるのはその一度。昭和を代表する俳優のおひとりだから、お芝居の世界で顔を合わせていそうなものだけれど、不思議と日活の食堂で会ったきりお会いすることはなかった。一方、渡さんの実弟である渡瀬恒彦さんとは、山城新伍さんが監督を務めた『せんせい』という作品で共演したことがある。その撮影の合間、渡瀬さんが月島でもんじゃ焼きをごちそうしてくださった。上手に焼いて、同席している人全員にサーブする姿に感動してしまった。渡瀬さんは、ケンカが強いことから“芸能界最強”なんて噂もあるらしいけど、女性の前では紳士そのもの。どうしてそんな噂があったのか不思議でならないけれど、それも魅力かな。気持ちのよい人という意味では、中村勘三郎さんもその筆頭格だったなぁ。吉行淳之介さんが亡くなったとき、和子っぺ(吉行和子)を慰めようと勘三郎さんがお声をかけてくださり、私と、歌舞伎にまつわるエッセイを数多く執筆されている関容子さんと、朝方まで飲んだことがあった。またあるときは、私と和子っぺ、岸田今日子ちゃんの3人組に勘三郎さんご夫妻が参加する形で、オペラを見に行ったことも。勘三郎さんはとても人付き合いがスマートな人。記憶に残る気持ちのよい人だった。今日子ちゃんの名前が出てきたから、彼女にまつわるエピソードも披露しようかしら。彼女はとってももの静かな顔をしているけど、実はすごい大食漢。端から見ていると、あっという間に消え去るように、静かに品よく食べてしまう。私の記憶の中では、親しかった戦中生まれの友人は、食に関して敏感なところがあった。ある人は、食べることそのものに過度に意識を払い、ある人は貪欲に食を探求した。今日子ちゃんは、自分が気に入ったものに関しては、食べることに夢中になる人だった。彼女とは、和子っぺと私、3人でオーストラリアやハワイなど、いろいろなところを旅した。今でいう、女子旅のさきがけかもしれない。旅先で今日子ちゃんが、あの独特な口調で「あらぁ~おいしい」と言ったら、それでおしまい。そのお言葉は「これはみんな私のものよ」といった勅令のようなもので、誰もその料理に箸をつけられなくなる。でも、和子っぺは、本当におっとりしていて気にしない。「あらぁ~おいしい」と、飴を一袋取り上げられたこともあった。私は、その様子を面白がってしまったから、いつも楽しい3人組だった。台湾に行ったときは、とってもおいしい小籠包があって、今日子ちゃんがひと口ほおばるや、「あらぁ~おいしい」が発令してしまった。お肉と、細かく刻んだほうれん草がぎっしりと詰まった、熱々の汁がしたたる小籠包。ゆったりと微笑んで、それを次々に口に入れていく今日子ちゃん。あの小籠包は、私も思いっきり食べてみたかったな。〈構成/我妻弘崇〉冨士眞奈美 ●ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。
2022年02月27日冨士眞奈美女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、『細うで繁盛記』について振り返る。■嫌われ役が意外にも人気に私の思いがけない代表作のひとつに『細うで繁盛記』がある。原田正子に扮した私は、牛乳瓶の底のような眼鏡をかけ、伊豆弁で「おい加代!犬に食わせる飯はあっても、おみゃーに食わせる飯はにゃー!」なんてまくしたて、憎まれ役に徹した。本来であれば、視聴者からは疎まれ、嫌われる役のはずなのに、インパクトが強かったからか、意外なことに人気を得るまでになってしまった。原田正子をパロディーにしたテレビCMまで製作され、憎まれ役が人気者になることもあるんだなんて、びっくらこいただよ。憎まれ役にもかかわらず、みなさんから支持していただけたのは、主演の新珠三千代さんのおかげにほかならない。ドラマの中で、私は新珠さんをいじめる役だったけど、新珠さんはいつも私に対して、「いいのよ眞奈美ちゃん。もっとやってちょうだい。蹴ったっていいのよ、殴ってもいいのよ」なんて声をかけてくださった。いじめればいじめるほど視聴者が喜ぶから、新珠さんも「もっとやって!」とリクエストされる。まるでSMのような関係性よね(笑)。あのころはとても忙しく、現場に向かう際は、自分でジープを運転して向かっていた。あるとき、真夜中の甲州街道を走っていたら、おまわりさんに止められて、「いい車だけどスピードを出しすぎじゃないですか」と牽制された。事なきを得たい私は、すぐに「すみません」と謝ると、おまわりさんは冨士眞奈美だと気がついたみたいで、「新珠さんをいじめないと約束したら、今日のところは見逃してあげます」と、まさかのひと言。「はい!もういじめません!」と、その場では誓った私だったけど、その後も新珠さんをいじめ続けたのは、周知のとおり。あのときのおまわりさん、約束を破ってごめんなさいね。その昔、小沢昭一さんに、「長いこと俳優をやってきていちばんきれいだと思った女優さんは誰?」と聞いたことがあった。すると彼は、少し顔を赤らめて「新珠三千代」と口にしたことがあった。あの小沢昭一をもうっとりさせてしまう女優。それが新珠さんのすごさでもある。昭ちゃんは、俳優座付属俳優養成所の2期生で、私の大先輩。俳人でもあり永六輔さんらとともに「やなぎ句会」を発足したことでも知られる。男性ばかりの句会にもかかわらず、ときどき私をゲストで呼んでくれたりもして、公私ともに大先輩。だけど、私はいつも昭ちゃんと呼んでいた。昭ちゃんは競馬が大好きで、スポーツ新聞が真っ赤になるまで赤鉛筆で予想を書き込んでいた。その昔、昭ちゃんと一緒に優駿牝馬(オークス)を見に行ったことがあった。私を含め一緒に行った人たちがおけらになり肩を落とす中、昭ちゃんだけがうれしそうに笑みを浮かべていた。「昭ちゃん、いくら勝ったの?」と聞くと、「まず奥さんに電話をしてから。そのあと教えてやる」ってニカッと笑うの。彼は競馬に勝つと、まず奥さんに報告するらしく、「喜ばせたい」そうだ。こんな些細なやりとりひとつに、見識とユーモアと優しさを持つ活眼の士・小沢昭一の人間味が表れる。まさしく、『小沢昭一的こころ』。私は外国へ行くとき、必ず『小沢昭一的こころ』と池波正太郎さんの『剣客商売』を持参していた。外国で読むと、より味わいが深く、心がゆったりするのだ。ソダシという競走馬がいる。白毛馬として史上初めて芝の重賞勝利やG1勝利を達成した人気馬だ。私は、大谷翔平、藤井聡太、羽生結弦、そしてソダシこそ今の時代にときめく傑物だと思っている。強いだけではなく、その姿がなんとも色っぽい。負けても勝っても美しい。ソダシが馬群を白波のようにかき分けていく姿を見ると、昭ちゃんたちと競馬場で笑い合った記憶が、白糸をたぐるようによみがえる。冨士眞奈美 ●ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。〈構成/我妻弘崇〉
2022年01月28日故・瀬戸内寂聴さん女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、故・瀬戸内寂聴さんと、佐藤愛子さんについて言葉を紡ぐ。■今も恋人がいらっしゃるんですか?と聞くと作家・僧侶の瀬戸内寂聴先生が永眠された。枠にとらわれない破天荒な姿に魅せられた女性は、多かったのではないかと思う。親友の和子っぺ(吉行和子)とは、実は寂聴さんの原作ドラマ『妻と女の間』(1969年/毎日放送・現TBS)で知り合った仲だった。撮影は、現在は『レモンスタジオ』と呼ばれている砧にある撮影所で行われた。彼女とは姉妹という設定。私が入院をしているところに、和子っぺがやってきて、“ベッドの上で花札(こいこい)をやる”というシーンがあった。そのときに、「この人とは仲よくなりそうだな」と感じたことを覚えている。この作品は、毎日新聞社から’69年に刊行され、’76年には映画化もされている。発表された当時の寂聴先生は、まだ御髪を下ろす前。女性の情念を克明に綴った『花芯』という作品から“子宮作家”と呼ばれていた。ドラマの撮影が終わり、打ち上げパーティーのとき。寂聴先生は、渋く素敵な着物をお召しになられていた。私が「今も恋人がいらっしゃるんですか?」と尋ねると、寂聴さんはこともなげに「もちろんよ、当たり前じゃないの」と笑った。おそらくそれは、道ならぬ恋のお相手であった作家の故・井上光晴氏だったんだろうなって、今にして思う。■実生活を生きる寂聴先生は99歳で泉下の人となった。同じ時代を生きた作家のおひとり、佐藤愛子先生も’22年で白寿を迎えるが、「もうダメよ」とおっしゃるけれど大変お元気でいらっしゃる。今年は『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』(小学館)を上梓され、『増補版 九十歳。何がめでたい』(同)では対談をさせていただいた。愛子先生とは仲よくしていただき、お宅にも何度かお伺いしたことがある。愛子先生は、実生活を生きてらっしゃる。ご自身で料理を作る、電話が鳴ればすぐに取る、インターホンが鳴るとご自分で玄関まで行く──。実生活を生きているからこそ、日々の機微が鮮やかで、愛子先生の作品群は小説だけでなく、エッセイ集も面白いのだと思う。愛子先生の代表作のひとつに『血脈』がある。佐藤家の荒ぶる血をまとめた大河小説である。個性の際立った中心人物のひとりとして異母兄である詩人・サトウハチローさんの姿が描かれている。実は、私はハチローさんとも共演したことがある。日本各地の民謡・舞踊・郷土芸能を、ミュージカル仕立てで紹介する番組『東は東』(’60〜’62年/フジテレビ系)に出演していたとき。この番組では、画家の山下清さんも出演していて、山下さんと自衛隊を訪問して、一緒に戦車に乗った。おかげで私は長い間ペンフレンドだった御殿場の戦車部隊の隊員さんとお会いすることができた。その番組にハチローさんの詩『ちいさい秋みつけた』をバックにご本人が登場した。いま思えば、山下清さん、サトウハチローさんが出演する番組があったなんて、とても贅沢なことよね。’08年、私は『瀧の裏』という句集を上梓した。その記念パーティーに、愛子先生が駆けつけてくださり、スピーチまでしていただいた。ところが、いつもはお着物をびしっと着こなしている愛子先生が、そのときだけは、カーディガンにスカートという、ラフなスタイルでいらした。スピーチの後、なぜだろうと思って先生に尋ねると、元の旦那さんである田畑麦彦さんの病状が思わしくないと。愛子先生は、「これからまた病院に戻るのよ。ごめんなさいね」とおっしゃって会場を後にされた。私はありがたくて涙をこらえた。一刻を争う状況の中、私なんかのために駆けつけてくださって本当にうれしかった。鋭い観察眼があるから思いやりも深い。そんなところが、いつまでも愛子先生が愛される理由のひとつだと思う。これからもお元気でご健筆をふるってくださいね。冨士眞奈美 ● ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。
2022年01月15日冨士眞奈美女優・冨士眞奈美が古今東西の気になる存在について語る当企画。今回は、 京都撮影所での裏方さんとの思い出について振り返る。女性の社会進出が当たり前になって久しい。私の若いころは、結婚したら家庭に入るのが当たり前だった。それだけに、「昔の芸能界でも女性の立場は大変だったのでは?」なんて聞かれることがある。たしかに、世の多くの女性は、まだまだ苦労が絶えない時代だったと思う。だけど、女優さんは大事にされていた。蝶よ花よ──。とりわけ映画の世界ともなると、とても大切に扱ってくれていた。その分、きちんと仕事をしなければいけないという責任感も感じていた。お芝居の世界では、女優が主役という作品が多かった。それだけに軽々しく扱うことができなかったのかもしれない。そういう意味では、俳優業というのは早い段階から男女の活躍機会が均等化していた民主的な業界ともいえる。しかも、年をとっても続けることができる福利厚生にも優しい世界(笑)。個人的な嫌がらせはあちこちであるけれども(!!)、定年もなければ男女差別もない開かれた職業だと思う。ただし、実力が伴わなければいけないし、人間関係も大事。俳優という職業は、お呼びがかからない限り、無職と同じ。何の保証もない。自由業といえば聞こえはいいだろうけど、好きなだけ自由を謳歌していたら、声をかけられなくなり、手も差しのべてくれなくなる。自由業は、無職と隣り合わせ。■裏方さんに好かれるには…開かれた世界ではあったけど、結髪さんやメイキャップさんといった裏方さんたちに気に入られることが大切……というより、大変と書いたほうが正しいかもしれない。しかも、京都・太秦撮影所ともなれば、さらに厳しい。裏方さんの信頼を得なければ、役どころに近い雰囲気を、外見から作ることが難しくなってしまう。色っぽい役なら、より色っぽくしてくれる、というように。そうそう、色っぽい人といえば、山田五十鈴さんの娘である嵯峨三智子さんが忘れられない。21歳くらいのときの嵯峨さんにお会いしたことがあるのだけれど、目が細くておちょぼ口で色が白い。まるで、お人形さんのように可愛いのに、それでいて信じられないくらい色っぽかった。彼女は、岡田眞澄さん、森美樹さん、市川雷蔵さん……色とりどりのいい男たちと浮名を流したけれど、あの天性の妖艶さを間近で感じると、納得するしかない。その後、何があったか知らないけれど、整形手術で見た目をかなり変えてしまい、最後は滞在先のタイ・バンコクでくも膜下出血のために亡くなってしまった。瑠璃は脆し──、嵯峨さんはまさにそのような女性だった。■京都人は裏表がある?私は、撮影のために東京から京都に通っていた。京都人でもなければ、京都に根を下ろして活動していたわけでもなかったけど、裏方さんたちはとても可愛がってくれた。20歳のとき、京都で撮影をしている最中に父が亡くなると、みんなで慰めてくれたのを思い出す。「京都人は裏表がある」なんてことがよく言われているけど、双方間に関係性が育まれれば、過剰なくらい親切にしてくれる素敵な人たちばかり。きちんと挨拶をすること、伝統を重んじること、そんな当たり前のことをきちんと行えば、京都の人たちは受け入れてくれる。でも、京都人らしい言い回しをするのも事実。あるとき、私は京都の映画館に足を運んだ。京都で仕事があるときは、空いた時間に映画を見るのが日課になっていて、私にとって京都はそういう意味でも映画の街だった。次の日、撮影所へ行くと、「眞奈美ちゃん、昨日映画館にいたでしょう」と裏方さんから声をかけられた。「どうして知っているんですか?」と言うと、「あんな大きな笑い声で笑う人は京都にはいないよ」と言われた(笑)。嫌みと受け取るか、愛情と受け取るかは、考え方次第。でも、私はそんな京都の“らしさ”がとても好きなのだ。冨士眞奈美 ●ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。〈構成/我妻弘崇〉
2021年12月23日憧れの存在であり続ける美智子さま女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、皇室のご成婚について。■美智子さまは皇室の枠を広げた眞子内親王殿下と小室圭氏が結婚された。おふたりが婚約内定会見をされたのは、2017年の9月。以降、さまざまな報道が飛び交い、4年の月日が流れた。結婚に伴い、眞子内親王殿下は皇籍を離脱し、“眞子さん”となった。新しい道を歩む、彼女の前途が明るいことを願っている。皇室のご成婚で思い出されるのは、やはり1959年の上皇さまと美智子さまだろうか。私は、女優になったばかりのころだったけど、こんなに上品できれいなお嬢さまがいるのかと日本中が驚いたことを覚えている。松竹の時代劇に出演するために京都で撮影をしていたら、戦前から活躍する“歌う映画スター”と呼ばれた俳優の高田浩吉さんが、「こういう女性が女優になってくれたらなぁ」。そうしみじみと語っていた。大スターの目から見ても、美智子さまの存在は際立っていたようで、しきりに高田さんは「素晴らしい、素晴らしい」と繰り返していた。当時の美智子さまは、初めての民間出身の皇太子妃─。われわれ一般庶民が想像を絶するようなご苦労があったに違いない。でも、女性週刊誌の表紙は、いつも美智子さま。憧れやすく、まねをして取り入れたくなるようなファッションをされていたところも絶妙だったなぁ。例えば、ショールにしても、スカートにしても、お金を貯めればOLさんでも買うことができるスタイルのものをお召しになられていた。社長令嬢ではあったけど、親しみやすさがあったからこそ、「ミッチー・ブーム」という社会現象を生み出したのではないかしら。女性たちの憧れの的だった。なんでも主婦と生活社が2年前に発売した美智子さまの写真集は、とても好評だったそうだ。今なお、多くの女性から支持を集めているのだから、いかに色褪(あ)せていないかを物語っている。池田山にあった正田邸も古い洋館で素敵だった。建物の保存を求める要望書や署名活動が盛んに行われていたけど、最終的には解体され、今は「ねむの木の庭」という公園になってしまった。民間初のプリンセスがお住まいになられていた場所なのだし、形にとどめておくことはできなかったのか─などと思ってしまう。私の元亭主の脚本家・林秀彦は、学習院高等科を中退している。ほかの生徒たちに「町っ子」といわれ、おもしろくなかったらしい。でも、学友に上皇さまがいらして、将棋をさしたことがあるとジマンしていたっけ。その後、元夫は渡欧し、フランスのモンペリエ大学に留学する。この大学は、あのノストラダムスが卒業している母校でもあるため、彼はよく「ノストラダムスは自分の先輩だ」なんて、これまたジマン。話を戻しましょう。美智子さまが、公務に勤(いそ)しんでいた姿も忘れがたい。先の戦争で1万余の将兵が散華したという太平洋の島国・パラオのペリリュー島への慰霊など、ご高齢にもかかわらず各地を行脚するお姿を見ると、背筋がピンとなる。51歳のときには、子宮筋腫の摘出手術を受け、病名などを包み隠さず公表されたことにも驚いた。それまで皇室の方がそういったことを公にすることなんてなかったから。振り返れば、美智子さまは皇室の枠を広げていった存在だった。楽しそうなご一家の写真や、子育ての姿を発信したり、ときにはエプロン姿でお料理を作ったり。そう考えると、今の皇室って美智子さまのときより秘匿性が増しているような気がする。だから、国民が悪い意味で勘ぐってしまうのかもしれない。今回のご結婚に関しても、皇室の未来が心配になるような出来事が少なくなかった。美智子さまがご苦労を重ねて広げた可能性を狭めてしまわないためにも、宮内庁を含めもっと国民のために誠意を持ってオープンになっていくことが必要なのではないかしら。眞子さんは民間人となった。平穏な愛の暮らしが、長く続くことを祈っている。〈構成/我妻弘崇〉冨士眞奈美 ●ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。
2021年12月03日冨士眞奈美の旧知の仲である加賀まりこ女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、自閉症の息子との絆を描く映画『梅切らぬバカ』で主演を務める加賀まりこさんについて言葉を紡ぐ。先日、突然、加賀まりこから電話があった。ありがたいことにこの連載を読んだという。そのためにわざわざ連絡をくれるなんていい人ね、と言うと、私はもともといい人よ、って。コラムの中で、自分が主演を務める映画『梅切らぬバカ』について触れてくれと。よほど台本に感動したようで、内容について熱弁をふるう。この作品で監督・脚本を担当する和島香太郎さんって、北の富士の甥っ子さん。私も好角家のひとりとして応援したいから、11月12日から公開する『梅切らぬバカ』を見に行かなければ。■浅利慶太は劇団内に「恋人」がなんでも、まりこは54年ぶりに主演を務めるらしい。自閉症の息子(塚地武雅)との親子の絆を描く作品なんだけど、実際にまりこの義理(事実婚相手)の息子さんが自閉症ということもあり、彼女はとても熱を入れて撮影したと話していた。思い返せば、まりことの付き合いは長い。お互いに若い時分、日生劇場ができたばかりのころに、劇団四季ジロドゥの『永遠の処女』では共演した。主宰である浅利慶太さんの3人目の妻である影万里江さんと私、そして加賀まりこが三人姉妹という設定。影さんははかなげだけれど芯が強い人だった。すでに浅利さんとの関係は壊れかけていて、スリッパを投げつけられるなど怒鳴られながらの指導だった。トイレで泣いていた影さんに、見かねた私とまりこは「私たちも降りるから、あなたも降りなさい」なんてたきつけたこともあった。でも、影さんは決して屈しない人だったから首を横に振った。細い首とかわいい顔に強い意志がみなぎっていたことを覚えている。すでに浅利さんは、劇団の中に若い恋人がいて、私たちは影さんが気の毒でならなかった。■葬儀での忘れられない言葉浅利さんは、石原慎太郎さんと仲がよかったことでも知られる。1958年に若手芸術家らでつくった「若い日本の会」で浅利さんと意気投合し、その後、行動を共にして日比谷に完成する日生劇場の建設や運営に尽力した。強いリーダーシップを持っていた。慎太郎さんが、いつも演出する浅利さんのそばに座っていた。浅利さんがダメ出しをするたびに、熱心にメモをとる──といっても、意中の人が劇団四季の女優の中にいたからなんだけどね。とてもきっぷのいい女性。楽屋で水割りを飲んで、彼女の舞台がはねるのを待っている姿を見かけたこともあった。そんな若くてカッコよくて純情だった慎太郎さんの姿がよみがえる。その後結局、浅利さんと影さんは離婚してしまった。以前も、まりこと電話で話していると、影さんの話題になった。「よかったよね。晩年は彼女を崇拝する若い男の人がそばにいて、看取ってくれたんだから」などと話をしながら影さんを偲んだ。いまでも思い出す。私とまりこが、影さんの葬儀に参列したときのことを。劇団四季の関係者をはじめ、大勢の人がいる中で、突然まりこが大きな声で「浅利さんが殺したようなものよ!」と泣きながら叫んだ瞬間を。勇気がある。まりこの家にもよく遊びに行ったなぁ。彼女は、若いころからファッションセンスがとてもよくて、自宅にたびたび仕立て屋さんを招いては服を作っていた。私は、『太陽がいっぱい』のマリー・ラフォレが着ていたようなセーラー服を作ってみたかった。鮮やかなブルーに、白いラインが入ったセーラー服、そして白いパンツを合わせるファッション。まりこの家にお邪魔して、彼女が服を仕立てる際に、私のリクエストも聞いてもらった。そのセーラー服は、今も家に置いてある。パンツはとっくにはけなくなったが、きれいなブルーは、今なお色あせていない。昔を思い出してときどき着てみるの。現実を重ね合わせての自閉症児のお話で、さぞかし熱演しているでしょう。きっと拝見するわね。(構成/我妻弘崇)冨士眞奈美 ●ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。
2021年11月11日白鵬(2013年)女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、大相撲秋場所を制した照ノ富士、そして引退を表明した横綱・白鵬について思いを口にする。■好角家・冨士眞奈美が語る相撲の新時代大相撲秋場所は、照ノ富士関が史上9人目となる新横綱優勝を成し遂げた。新横綱になってどれだけ成績が残せるのか──、期待と不安が入り交じるなか、私は毎日見ていたが、横綱らしい威風堂々とした強さに驚いた。三役が誰一人として二ケタの勝ち星を挙げられないのはちょっと情けないけど、照ノ富士関の風格は別格だったと思う。それにしても、よくここまで戻ってきたなぁと感心してしまう。ひざのサポーターが痛々しいため、横綱として傷だらけの印象もある。でも、裏を返せば、その姿こそが照ノ富士関のどん底からの復活を物語っている。糖尿病も患っていたから、ケガも治りづらかったと思う。彼がまだ前頭だったとき、“相撲専門家”の内館牧子さんとお話をする機会があった。「最近、どんな力士が贔屓か」という話になり、私は照ノ富士関の名前を挙げていた。見る目があったみたい。今ではとても大きな存在。横綱としての強さも兼ね備えて、立派に舞い戻ってきた。横綱に求められる「心技体」でいうところの「心」に説得力がある。よく這い上がってきたなぁ。本当に、えらい人だ。秋場所後、さらに驚かされる出来事が起きた。白鵬関が引退を表明した──。史上最多となる45回の優勝を果たした大横綱。その強さは色あせるものではない。だけど……きっと多くの人が感じているだろう、「もったいない」という感覚。20歳くらいのときの白鵬関は、若くてとてもカッコよかった。そのときは、あんなにもふてぶてしく、相撲が意地汚くなるなんて思わなかった。勝利に貪欲と言えば聞こえはいい。たしかに、勝つために全力を尽くす姿は素晴らしいと思う。でも、あれだけ立派な体格を持ちながら、変化やエルボーにしか見えないかちあげ、手段を選ばない張り手といった奇策の数々は、どうなんだろう。絶対的に強い横綱だからこそ、そんなことはしてほしくなかった。取り組みの中で、とっさにそういった行動が出てしまうのであれば仕方がないし、理解もできる。ところが、ここ数年はあらかじめ用意して戦う、その用意周到な感じがとても嫌だった。私の目には、必死という姿ではなく、意地汚い姿に映った。強さもあったから“憎たらしい”と感じた人も多いはず。でも、同じく“憎たらしい”横綱だった朝青龍関には可愛げがあった。悪いことが“見え見え”だからよかったのかもしれない。それでいていさぎよく、強いときはとてつもなく強い。昔、テレビで朝青龍関が、裸馬に乗ってモンゴルの平原を駆けている姿を見たことがある。鞍がないのに難なく乗りこなすさまを見て、なんて足腰や下半身が強靭なんだろうと驚くとともに、子どものころから大平原を裸馬で駆け抜けているのだとしたら、モンゴル人力士が強くなるのも合点がいった。昔の日本にも自然との関わりが身近にあったから、昭和の力士たちには底力があったんだろうな、なんて思う。白鵬関は、万歳三唱や三本締めを観客に強いるなど、思い違いがもったいなかった。横綱に小芝居なんて必要ない。だけど、大横綱であることに変わりはないし、若貴ブームが去った後の相撲界を盛り上げてくれた大きな存在であることも間違いない。八百長や力士の不祥事が相次ぐ暗黒時代の中で、角界を牽引した功績も忘れてはいけない。その白鵬関が引退するということは、大相撲においてひとつの時代が終わることを意味すると思う。本当にお疲れさまでした。新時代を迎えるにあたり、どんな力士が活躍するのか。願わくば、ドキドキするような美しくて強いお相撲さんを見たい。男の中の男の出現を待ち望んでおります。ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。(構成/我妻弘崇)
2021年11月01日千葉真一さん、今年7月には『週刊女性』のインタビューに登場、元気な姿を見せていた女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、昭和の名優たちの話。■プライベートもアクションさながらに破天荒先日亡くなった千葉真一さんは、“明朗な破滅型”という言葉が似合う人だった。妻だった野際陽子さんは、千葉さんと結婚する前、文京区にある「川口アパートメント」に暮らしていた。「川口アパートメント」は、1964年に竣工(しゅんこう)された、当時の最新技術を採用して建築したモダンな高級集合住宅。直木賞受賞作家・川口松太郎さんの自宅建て替えを兼ねて建てられたアパートメントでもある。そんな最先端の集合住宅に、樋(とい)を伝って野際さんの部屋に侵入する男がいたらしい。目撃者は、同じく当時、「川口アパートメント」に居を構えていた加賀まりこさん。何を隠そうその男こそ千葉真一さんだった─というから、噴き出してしまう。さすがはスタントマンを使わずに自分でアクションをしてしまう人である。私生活でもキイハンターだったとは……恐れ入ります。また、千葉さんと野際さんの一家は、毎年、中原早苗さんの一家とともにスキーに行っていたんだけど、あるとき野際さんが宿泊先のホテルのある部屋のドアを何げなく開けると、なんと千葉さんと婚外恋愛の相手が─というのでびっくり。プライベートも、アクションさながらに破天荒。底抜けに明るい人だけど、破天荒は破滅と隣り合わせ。野際さんは、本当に大変だったと思う。昔の俳優さんは、豪傑な人が多かった。梅宮辰ちゃんや山城新伍ちゃん。千葉さん同様、松方弘樹さんも、もっと生きていてほしかったひとりだったな。華やかなりし昭和の東映を回想したとき、今でもお元気なのは北大路欣也さんだけになってしまった。松方さんのお父さまは、殺陣(たて)の達人・近衛十四郎さん。北大路さんのお父さまは旗本退屈男・市川右太衛門さん。昔、和子っぺ(吉行和子)が「二世の俳優はさすがに違う」と言っていた。クローズアップになったときオーラがあるのと、雰囲気がまったく違うと。二世といえば、三國連太郎さんのご子息である佐藤浩市さんが赤ちゃんだったとき、私は彼を抱っこしたことがある。尾崎士郎の「ホーデン侍従」を映画化した『欲』という映画で三國さんとご一緒した際、うれしそうに「子どもが生まれた」と話されていた。あまりにうれしかったんだろうな。私にも「見に来て」と声をかけてくださって、社交辞令みたいなもの。ところが、同席していたペコ(大山のぶ代)ったら、人懐っこいものだから「見に行こう」とノリノリになってしまった。ペコの勢いに押されて三國さんのお宅へ行くと、「ホントに来たの!?」と半ばあきれぎみに驚いていらした。お祝い品も持たず赤ちゃん見物……なんてばつの悪さを感じつつ、抱っこさせてもらった新生児のまばゆさといったら。その、玉のような男の赤ちゃんが、今では渋くて素敵な役者さん。時の流れをいや応なしに感じてしまう。昭和の名優といえば、高倉健さんを忘れるわけにはいかない。かつて私は、多岐にわたるジャンルの方々にインタビュー(対談)する胸躍る仕事をしていた。長嶋茂雄さん、北の湖さん、開高健さん、吉行淳之介さん─。ある号で、脚本家の倉本聰さんにお話を伺う機会を得た。お話の中で、倉本さんが脚本を書かれた名作に数多く出演されていた高倉健さんに対談をお願いできないかと尋ねたところ、「やめたほうがいい」と。どうしてと聞くと、「絶対に本当のことは言わない。高倉健であり続けるから面白い話を聞けません。がっかりすると思いますよ」と。たとえば長嶋茂雄さんだったら、“クリーニング店の前を通って「この服いいな」と買いそうになった”なんてエピソードがたくさん転がっている。でも、同じスターでも高倉健さんは、そういった話が転がっていない。スクリーンの高倉健のまま。孤高のスターを堅固に守る。それがファンに対する作法。思えば、昔の俳優さんは、唯一無二な人が多かった。冨士眞奈美 ●ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。〈構成/我妻弘崇〉
2021年10月14日冨士眞奈美(左)と渋沢栄一(右)女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、渋沢栄一邸の前で遊んでいたという子ども時代を振り返る。■この大きなお屋敷は何なんだろう私の出身地は静岡県三島─となっているけど、実は1歳から6歳まで東京育ち。当時存在していた滝野川区滝野川町一番地に家があり、なんとあの(!!)渋沢栄一さんの邸宅の真ん前に住んでいた。新しい1万円札の顔になる方のすぐ近くで幼少期を過ごしていたなんて、今考えるととても贅沢なことだったような気がする。その時代、すでに渋沢さんは泉下の人だけど、子ども心に覚えているのは「この大きなお屋敷は何なんだろう」ということ。渋沢邸は石の塀がずっと続いていて、お勝手口に石段があった。私は、よくそこで遊んでいたのだ。渋沢さんの親族だったのかもしれない。たびたびそこを通るきれいなお姉さんがいて、見かけるたびに「きれいなお姉さん、いってらっしゃ~い」なんて声をかけていた。するとお姉さんも「はーい」と返してくれて、童心ながらうれしかった。私は岩崎家の三女だが、その下に長男がいる。3人続けて女の子が生まれたため、母は長男の誕生をいたく喜んでいた。日曜日になると、決まって父と私を含む3人娘におそろいの服を着させて、近所の飛鳥山に遊びに行かせていたけれど、きっと長男と2人っきりになりたいから、邪魔者であるわれわれを家から追い出したに違いない(笑)。飛鳥山の甘味処で父と食べるみつまめは、とても美味しくて楽しかったけど、その間、ゆっくり長男を抱きしめ、母は幸福を味わっていたんだなって思うと、何だか少し複雑な気分になってしまう。両親は長男である弟を溺愛していた。当時、干飯といって、ご飯を干していり、おしょうゆの味つけを加えた保存食があった。ある日、私はその干飯とバナナがきっかけで、疫痢になってしまった。■意地でも生きてやる病院に連れていかれ、弟が「坊やも行く」と一緒についてきた結果、あろうことか弟に疫痢がうつってしまった。「喪服を用意した」と父が日記に記していたほどで、私たち姉弟は死のふちをさまよっていたらしい。父親は労働運動をしていたくらいだから、神様なんか信じないはずなのに、父の日記によると、このときばかりは神頼みをしたという。ところが、この神頼みがひどいのなんのって。「男の子はわれわれに授かった宝物ですから、この子だけは助けてください。連れていくならこの子にしてください」と、私を捧げようとしたというから、ひどすぎると思わない?私に意識はなかっただろうけど、「意地でも生きてやる」と三途の川の手前で思ったのかもしれない。私は生還し、弟も無事に寛解した。三島で暮らす祖父が急逝し、ひとり娘だった母と私たち家族は三島へ引き揚げることになった。健在であれば、私は滝野川小学校に入る予定だった─でも、人の歴史というのはわからない。私たちが三島に引っ越した翌年、昭和20年、東京は大空襲に見舞われた。滝野川の近くは、軍関連施設が偏在していたため甚大な被害を受けたことでも知られている。もし、あのまま滝野川で暮らしていたら、今の私はいなかったかもしれない。女優になって、随分たってからだったと思う。あるとき、姉とともに懐かしきあの土地に行ってみようという話になった。タクシーに乗り、「今もまだ渋沢さんのお屋敷はありますか?」と運転手に尋ねると、まだあるという。気持ちが浮き立ち、かつての滝野川町一番地を訪れると、私たちが生活していた木造の家はなくなっていたけれど、あの長い石の塀は健在だった。驚いた。子どもの時分は、あんなに長く、永遠に続いていると思っていた石の塀が、目を疑うほど短かった。「なんだこのくらいかぁ」。子どもの目には果てしなく続いているように見えたものも、大人になるとまったく違って見える。子どものころの体験は、尊いものだとつくづく思う。冨士眞奈美 ●ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。〈構成/我妻弘崇〉
2021年10月03日冨士眞奈美女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、昭和の社交場・文壇バーで巡り合った作家たちとの思い出について振り返る。■文壇バーでの出会い昭和の時代というのは、文壇バーが都内に遍在していた。私も野坂昭如さん、吉行淳之介さんなど、親しい作家とよく出入りしたものだけど、印象に残っているのは作家の川上宗薫さん。宗薫先生と初めてお会いしたのは、雑誌の対談だったと思う。途中、私が「佐藤愛子先生の作品が大好きです」とお話ししたら、大いに喜んでくださり、「あなたは趣味がいい」とお褒めにあずかった。以後、私のことを気にかけて、先生お気に入りの文壇バーへ誘ってくださるようになった。あるとき、扉を開けるとその店の常連だった池波正太郎先生がいらした。ちょうどそのころ、私は『鬼平犯科帳』で“おまさ”を演じていた。『鬼平犯科帳』と聞くと、多くの人がフジテレビ系列で放送されていた二代目・中村吉右衛門さんが主演を務めたシリーズ(1989年~2016年)を思い浮かべると思う。私が、出演していたのは八代目松本幸四郎丈(後の初代松本白鸚)が主演を務めた『鬼平犯科帳』。実は池波先生は幸四郎丈をイメージして鬼平を書いたとか。池波先生がおっしゃるには、おまさは木綿のような女性だ─と。私が木綿のような女性かどうかはわからないが、「あなたはぴったりだ」と言っていただけたことを思い出す。いつも池波先生は気さくに話しかけてくださる、とてもざっくばらんな方だった。当時の『鬼平犯科帳』は、脚本を新藤兼人さんや野上龍雄さんが手がけたり、ときには監督を『偽れる盛装』などで知られる“女性映画の巨匠”吉村公三郎先生が何本か手がけたりなさるなど、テレビドラマとは思えないような名だたる方々が参加されていた。監督がカットと言うまで、役者である私たちは演技をやめることができない。緊張感がピンと張りつめる。こうこうと光る照明。夏場ともなればかつらから汗がダラダラとしたたり落ちる。暑かったのなんのって。クーラーなし。でも、演技を勝手に止めることはできない。暑さの汗と冷や汗とで大変だった。■あのころ華やかだった“夜の世界”後年、吉村先生と、ある俳句のパーティーでご一緒する機会があった。「鬼平犯科帳ではお世話になりました」とご挨拶をすると、「私はテレビをやったことがありません」と毅然とおっしゃり、びっくりした。あのころ、テレビは新興の娯楽。まだ認められていないところがあるからこそ、巨匠である吉村先生は、ご自身の中で映画しかやらない、テレビはやっていないというポリシーがあったのかもしれない。そのテレビが、今や前時代のものとなってきているのだから、時代は移り変わるものだと、つくづく思う。宗薫先生に連れていっていただいた、あの銀座のバーはまだあるのだろうか。あの時代は、出版記念パーティーなどが催されると、必ずと言っていいほど文壇バーのママたちが華やかに参加していた。でも、どのママも作家たちの本を熟読していて、話を合わせられるだけの知性と好奇心を持っていた。担当編集Yさんによると、最近は夜の世界のママさんはおろか、ホステスさんを目指す子が少ないという。若い子たちは、スマホのアプリを介してお小遣いを稼ぐことができるから、わざわざ厳しい銀座のクラブなんかは選ばないそうだ。それこそ、松本清張先生の『黒革の手帖』みたいな、バーを拠点として野心を展開する男女はもういなくなったということかしら。そうそう。清張先生といえば、雑誌の企画で奈良の東大寺を2人で散策したことがあった。「最近どんな本を読みましたか」と聞かれ、清張先生の『けものみち』を上げたら、「あれはあなたのようなお嬢さんは読んではいけません」と叱られたっけ。コロナが落ち着いたとき、再び社交場として酒場が盛り上がってくれることを、ひとりの“元飲んべえ”として願っている。冨士眞奈美 ●ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。〈構成/我妻弘崇〉
2021年09月10日安住紳一郎女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、『ぴったんこカン・カン』でたびたび共演したTBSの安住紳一郎アナウンサーについて。先日、娘の(岩崎)リズとともに『徹子の部屋』に出演した。もう何度、徹子さんの部屋を訪れたか忘れちゃったくらい呼んでいただいている。だけど、徹子さんとお話しするのはいつも楽しくって。私は、どういうわけか骨折で入院することが多い。2020年の11月にも、胸椎を骨折して全治3か月を言い渡されてしまった。若いころは、これからロケでスキーをするシーンを撮るというのに、出発の上野駅の階段で転んで手を骨折したり、いろいろ迷惑をかけたなぁ。あるときは、骨折が治り私が退院というときに、あろうことか娘のリズが車にはねられ救急車で担ぎ込まれるなんてこともあった……。なんであなたまでお世話になるのよ!しかも、私を救急搬送してくださった救急隊員さんまで一緒!秋山隊員には、本当に親子ともどもお世話になりました。この場を借りて、お礼申し上げます。このお話は、TBSアナウンサーの安住(紳一郎)さんも気に入ってくれて、幾度となく聞いてくださった。安住さんはとても聞き上手の名司会者だと思っている。■いちばんの長所は、清潔感私と和子っぺ(吉行和子)がお世話になった、彼が司会を務める『ぴったんこカン・カン』が、9月をもって終了すると聞いて、とても残念。なんでも安住さんが、朝の帯番組の司会を担当するため番組は終了する─らしいけど、彼の司会力を考えれば納得。今まで多彩な司会者たちと出会ってきたけど、安住さんはとても才知に長けた人だと思う。それに、毎朝お目にかかれるのはうれしい。彼は、北海道十勝地方の芽室という田舎で育っているからか、まとっている雰囲気がとても心地よい。お姉さんはチアリーディング元日本代表で、地元でも有名な秀才だったそう。「自分の分を含めすべて才能を持っていってしまったと思った」なんて話してらしたけど、あなたも十分、才能にあふれたお人ですよ。最初に安住さんのことを知ったのは、明石家さんまさんの番組か何かで千鳥足のサラリーマンから軽妙洒脱に話を聞き出す姿だった。実際にお会いすると、やっぱり話を聞き出すのがとても上手。仕切る力も申し分なくて、途中で話を区切るにしても相手を不快にさせずに、その場を丸く収めてしまう。そして、何事もなかったかのように次の話を展開する。『ぴったんこカン・カン』で一緒にロケをしていて驚いたのは、カメラが回っていないタイミングで、次の構成や展開を教えてくれること。進行を先へ先へと想定し、私たちにわかりやすく伝えてくれる。アナウンサーであると同時にプロデューサーでありディレクターでもある。だから現場がスムーズに進行する。おまけに、いちばんの長所は、安住さんには清潔感がある。毒を吐くにしても外見的にも内面的にもまったく嫌みがないから耳を傾けてしまう。話を簡潔にまとめられる。それって大事な生命線なのよね。人気があって独立するアナウンサーが多い中、安住さんは欲がないからなのか、変わらない。人前でしゃべる仕事の人って、自分が前に出たりしようとする言動が多い。ところが、彼は前に出ようとせずに、周りの様子をきちんと考えて差配をする。そんな心構えが、彼のバリトンボイスに表れていると思う。私のように片方の耳の調子がよくない人間でも、彼の声はすべて聞き取れる。あの声のトーンが、人柄そのもの。心地よいのよ。バランス感覚がいいのよね。そんな安住さんだけど、自分がいちばん大切、いちばんかわいいと言ってはばからない。ほんと、面白い人(笑)。また、どこかでご一緒できる日を楽しみにしている。その際もまだ独身だったら、和子っぺ喜ぶだろうな。なにせ、安住さんは私たちのアイドルだから。冨士眞奈美 ●ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。〈構成/我妻弘崇〉
2021年08月28日冨士眞奈美女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、親友であり“かわいい弟”でもあった故・石立鉄男さんとの思い出を綴る。■北の富士と飲み仲間だった7月場所が幕を閉じた。6場所連続休場だった白鵬の全勝。そんな白鵬にはいつも苦言を呈するものの、軽妙な解説が面白いことでおなじみなのが北の富士さん。以前、お気に入りの宇良と炎鵬が顔を合わせたときには、「本妻と彼女の戦いを見る感じかもしれない」なんて表現していて笑っちゃった。“現代っ子横綱”と呼ばれた北の富士さんは、土俵を下りても面白くて洒脱な方。現役時代は、バンダナを巻いてハワイで遊んでいたりと話題に事欠かない関取だったけど、私の大親友だったてっちゃん(石立鉄男さん)と飲み仲間だったとか。よく銀座のバーで鉢合わせしたらしく、「『あの取組、あの足さばきは違うだろ~』なんてダメ出しをすると、あの大横綱の北の富士さんが涙ぐんじゃうんだよ、かわいいだろう」なんて、てっちゃんが(笑)。てっちゃんは、もともと俳優座養成所第13期生だから私の後輩にあたる。“かわいい弟”のような存在で、『おくさまは18歳』、『パパと呼ばないで』、『おひかえあそばせ』などで共演し、どういうわけか事あるごとに彼を追いかけまわす役だった。ああ見えて、てっちゃんがお酒を覚えたのは28歳のとき。それまで飲めなかったのだけれど、杉浦直樹さんが教えてね。でも、飲み方がわかっていないものだから、二日酔いを理由に、朝8時スタートの撮影現場に来られない……なんてこともあった。かくいう私も前夜に痛飲しているから、人のことは言えない。頭痛薬を口に放り込んで、眠い目をこすりながら自分で車を運転し、現場まで向かった。だけど、てっちゃんが来ないもんだから、撮影は中止になって、仕方なく郊外の現場から車で都心へ戻る─と、なんだか見覚えのある車が、高速道路の路肩に停車している。「あれ!?」と思って、よく見るとてっちゃんの車。その中で、ぐうぐうと気持ちよさそうに寝ている彼の姿が見えて。もちろん、怒る人は怒る。だけど、てっちゃんはあの風貌も相まって、憎めなくて、かわいい人間だった。■ブーゲンビリアを見て、てっちゃんを思い出す私が結婚するとき……私はその後10年間女優を休業することになるのだけれど、新宿の老舗居酒屋「どん底」で披露宴を開いた。多士済々の飲ん兵衛が集まるなか、てっちゃんも来てくれた。そのとき、彼は私の妹と弟を片隅に呼んで、「君たちはきょうだいなのになぜ反対しなかったんだ?ダメだよ、結婚なんかさせちゃ」。そう伝えたらしい。私は、そんな裏話があったなんて寝耳に水。つい先日、2人から「実はあのとき石立さんから……」と教えられた。どうやら元夫の女性関係について耳に入れていたらしい。実際、私は離婚をしたわけだから、その話を聞いたとき、空の上にいるだろうてっちゃんに、「なんで直接言ってくれなかったのよ」って、ぼやきたかった。でも、彼は本当に優しい人だった。私に子どもが生まれたときのこと。1人でやってきて、赤いカーディガンとブーゲンビリアの鉢をプレゼントしてくれた。一年もののブーゲンビリアといっていたけど、まったく枯れる気配がない。私は翌年、クリスマスのもみの木の鉢に植え替え、お米のとぎ汁なんかを注いでときどき、「てっちゃん、こんにちは」なんて声をかけて育てていた。気がつくと、毎年、たくさんの花を咲かせるようになって、今もまだ元気に花を咲かせている。もう40年以上はたつかしら。わっと咲いている根元に、どこからかやってきた鳥が播種したのか、いつの間にかブーゲンビリアを囲むように、色鮮やかにいろんな種類の花が1つの鉢に花笑んでいる。とってもにぎやかなブーゲンビリアたちを見ては、私はてっちゃんのことを思い出す。冨士眞奈美 ●ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。〈構成/我妻弘崇〉
2021年08月05日冨士眞奈美20代のころ女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、芸名の由来となった生まれ故郷・静岡県三島市、そして三島に魅せられた五所平之助監督との思い出を綴る。■デビュー当初の芸名への抵抗感と故郷への思い冨士眞奈美──。この芸名は、さまざまな富士山を眺望できる、私の出身地、静岡県三島市から名づけられたもの。デビューするにあたってNHKの芸能部長さんが命名してくださったのだけど、実は当初、私はこの芸名がとても嫌だった(笑)。だって、「富士食堂」とか「富士の湯」みたいじゃない?今でこそ左右対称でいい名前だなって思えるけど、当時はなんだか女優とはかけ離れた、大衆的なイメージを想起させる「富士」が、名前になることに抵抗感があった。ただし、富士山、そして生まれ故郷の三島は大好き。三島といえば、伊豆半島の入り口。清流、鰻が有名かしら。街並みはとてもきれいで、“静謐(せいひつ)”という言葉がよく似合う街だと思う。今昔が重なり合った様子は、きっと歩いているだけで気持ちが楽しくなるはずよ。三島の歴史は深くて、豊か。旧東海道で、小田原宿から箱根宿、三島宿までを『箱根八里』と呼び、“天下の険”と唱歌に歌われるほど。『三島女郎衆』は農兵節で有名。箱根峠を境に、小田原、箱根側を「東坂」、三島側を「西坂」というのだけれど、自然豊かな景観や杉並木、三島大社などの史跡が点在し、その文化の薫り高さは三島の市街地にも根づいている。三島は、戦災を免れた点も大きい。隣の沼津は空襲に遭い、真っ赤に燃え上がった地獄の花火のような空を子ども心に覚えている。ところが、三島はまったく被害に遭わなかったので、三島宿時代の面影が今に残っている。そんな三島の雰囲気に魅せられた人は少なくない。日本初のオールトーキー映画『マダムと女房』などを手がけた巨匠・五所平之助監督は、三島に惚れて、住み込んでしまわれたお方。■巨匠・五所監督からかけられた忘れられない一言五所監督とは、私がデビュー間もないころ、尾崎士郎の『ホーデン侍従』を映画化した『欲』という映画でご一緒させていただいたことがあった。実は、このとき私は父が危篤状態に陥ってしまい、ロケ先の島根県で、不安のあまり毎日泣いていた。そんな私に対して、五所監督は、「人はいずれ死ぬんだよ。君も僕も死ぬんだ。君が泣いていて仕事ができないと、お父さんも悲しむよ」としみじみ声をかけてくださった。父は、間もなく息を引きとったけど、その優しいお声が、いまでも忘れられない。20歳になるかならないかで出演した『欲』は、伴淳三郎さん、森繁久彌さん、三國連太郎さんといった、錚々たる俳優陣がキャストに名を連ねていた。私は、伴淳さんの娘役。そして、伴淳さんのお友達役として千田是也先生が出演していらっしゃった。千田先生は、東野英治郎さんらと俳優座を創立し、亡くなるまで同座代表を務めた方。つまり、俳優座養成所で教えをこうた私からすれば先生であると同時に、神様のような人だった。築地警察署で拷問死したプロレタリア作家の小林多喜二さんの遺体を引き取り、デスマスクを製作したことでも知られる御仁でもある。伴さんと私が一緒にいるところに、お友達である千田先生が訪れる──というシーンだったのだけれど、本番が始まる前にセットの隅で準備している千田先生を拝見すると、緊張でガタガタと震えているお姿が見えた。神様が震えている。その姿に衝撃を受けた私は、常に初心の気持ちを抱いて、現場に臨むことの大切さを、そのとき教えていただいたのだと思う。忘れられないお姿。感動した。私が生まれ育った生家が、年内中に取り壊しになるという。人が年老いていずれ死ぬように、ものもいつかは朽ちていく。でも、大切な三島の景色が、またひとつなくなってしまうのは、とってもさびしい。冨士眞奈美●ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。(構成/我妻弘崇)
2021年07月25日苦楽をともにした大山のぶ代女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、野球チーム『鏡子の家エロティックス』と、大山のぶ代との同居生活を振り返る。■『鏡子の家』出演者、スタッフと野球チームを作った大谷翔平選手の活躍が止まらない。彼の姿は、改めてさまざまな人々に刺激を提供しているのだと感じる。例えば、私の元夫の妹さん。結婚していた当時は、それほど親しいというわけではなかった。その義妹が、今では大谷選手に熱を上げてしまって、投打走で躍動するたびに電話やメールがあり、一喜一憂している。年を重ねたとき、スポーツ選手はもちろん、若い世代から明るい話題や刺激をもらうのはとても素敵なことだなって。興奮冷めやらぬ彼女の電話口に、私もうれしくて雄叫びを上げ、狂喜乱舞する。そういえば、かつては私もよく野球をしていたっけ。(岸田)今日子ちゃんが主演を務めたドラマ『鏡子の家』(1962年)の出演者、スタッフと野球チームを作ったのはいい思い出ね。杉浦直樹さん、山崎努さん、テレビプロデューサーの大山勝美さん、当時まだアシスタント(演出助手)だった久世光彦さん……今思えば名だたるメンバーが集まっていたけれど、『鏡子の家エロティックス』なんてふざけたチーム名で、後楽園球場や哲学堂の野球場などで試合をしていた。私が監督で投手。今日子ちゃんも投手だったけれど、彼女はボールなんて触ったことがない。投げるたびにボールがあっちこっちにいってしまうから、そのたびにみんなで笑い合った。当時、私はNHKの専属からフリーランスになったときで、番組に出ると、ギャラはその場でいただくのが習慣。野球ではチームメートなんだけど、局ではアシスタントである久世光彦さんから直接お金をいただく─なんてこともあったから、なんだかおかしな感じだった。そうそう。フリーになって、突然お給料が大幅に増えたことも思い出深い。NHK専属時代の月給は1万5000円だったのに、フリーになった途端にうん十万円にもなって飛び上がりそうだった。といっても、私は姉と一緒に迎賓館近くの新宿区若葉町に住んでいて、その後も上の弟が大学に入学したし、家族の生活は私が支えることに。思い返せば、故郷・三島から上京して、最初に住んだのは横浜のいとこの家。ところがしばらくして、俳優座養成所7期生の仲間、大山のぶ代から「私のところにおいでよ」と誘われ、東京で一緒に住むことになった。私より5歳年上だけど(私、顔の真ん中がへこんでいるからペコと呼んでいた)、とても人懐っこい。誰からも愛されるような人柄だった。■ペコとの3年間の同居生活ペコがそのころ住んでいたのは、ボロボロの木造のアパート。その2階に家賃を折半する形で彼女との共同生活が始まった。雨漏りする家だったから、2人して洗面器や鍋を置いて、ぽたぽたと天井からしたたり落ちる雨露をしのぐなんてこともあった。当時のペコは大人ぶって、「PEARL」(パール)という、当時人気のタバコを愛煙していた。私にも「吸いなよ」なんて声をかけてくれて、一緒に吸うマネをした。そんなたわいない日々が楽しかった。その後、2人してほど近い新築のアパートに引っ越した。といっても、電話もお風呂もない新しいだけの部屋だったから、よく2人で銭湯に通っていたっけ。「あなたのは広くて不公平ね」なんて言いながら、ペコの背中を流していたけど、まさか後年、ドラえもんになるなんて夢にも思わなかった。あのころは、養成所の男友達はいても、ボーイフレンドなんていない。デビューしたばかりで無我夢中。そのただ中、私が20歳のとき、父が結核で亡くなってしまった。まだ未成年の弟妹たちを引き受けるため、私は若葉町へ引っ越すことになったのだ。ペコとの3年間の同居生活は、長い人生で考えれば短い時間だったかもしれない。でも、一瞬だからこそ輝かしく、楽しく、忘れられない青春の入り口だったのかも。冨士眞奈美●ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。(構成/我妻弘崇)
2021年07月11日最後までダンディズムを貫いた故・田村正和さんの少年時代女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、4月3日に心不全で逝去した故・田村正和さんとの若かりしころの思い出を綴る。■高3のころ、撮影現場でシクシク泣いていた正和ちゃんが亡くなられた。多くの方は、古畑任三郎をはじめとした知的でダンディーなたたずまいの田村正和をイメージすると思う。でも、私は、まだデビューしたばかりのころの、身体が弱くて泣き虫で愛くるしい正和ちゃんの姿が忘れられない。初めて共演したのは、1962年に公開した、大女優の田中絹代さんが監督をされた『お吟さま』という映画だった。原作は今東光さん。千利休の娘・お吟とキリシタン大名の高山右近の悲恋を描き、お吟さまは大美人の有馬稲子さん、右近を仲代達矢さんが演じた。千利休を(二代目)中村鴈治郎さん、奥方を高峰三枝子さん、豊臣秀吉を滝沢修さん……錚々(そうそう)たる役者が集う中、私はお吟さまの女中役・宇乃。正和ちゃんはお吟さまの弟役として出演。新人若手はふたりだけ。お吟さまの女中だから、ずっと出番がある。長時間、現場にいる。その間、弟役である正和ちゃんと時間を過ごすことが多かった。彼は、前年の『永遠の人』で本格デビューを果たしたものの、芸歴はまだ浅く、当時は東京・世田谷の成城学園高校に在学する高校3年生だった。撮影場所は京都太秦。彼は、「家に帰りたい。学校に行けない。日数が足りないと受験ができない」と不安がつのり、いつもシクシク泣いていて。私は話し相手になって「大丈夫よ!」なんてなぐさめていた。撮影は半年もかかった。今だから話せるけど、実は『お吟さま』は製作の裏側がドタバタだった。正和ちゃんが、「家に帰りたい」と嘆いていた気持ち、それもわかるのよね(笑)。まず、監督である田中絹代さんに……申し訳ないけれど、監督としての才能に疑問符。もともと田中さんは、小津安二郎さん、溝口健二さん、成瀬巳喜男さんなど名だたる監督に重用された本当の大女優。だからといって、監督としての才覚があるかどうかは別問題。『お吟さま』は、田中さんの6作目にあたるわけだけど、撮影が全然進まない。私たちへの演技指導も不確かで自信がなく、振り付けで伝える。「ここで何歩か歩いて、振り返る」という具合に、踊りのようにディレクションなさるんだけど、よくわからないから私も正和ちゃんも困っちゃって。■「お坊っちゃま、ご立派になられて」なのに我を通そうとなさるから、新人ふたりはうさの捨てどころ。田中さんはベレー帽をかぶってブルゾンを着て、格好は超一流監督だったけど、中村鴈治郎さんや滝沢修さんを前にすると何もおっしゃらない。脚本やセリフの直しが多く、あまりに撮影が進行しないので、(『人間の條件』などを担当した)撮影監督の宮島義勇さんが「うーん、困った」とよく愚痴をこぼしていらした。おまけに、主役の有馬稲子さんは、萬屋錦之介さんと結婚したばかり。撮影には気分が乗らず、早くお家に帰りたいお気持ち。脚本もお気に召さず、有馬さんの気持ちも十分わかるけれど、撮影もままならなくて、正和ちゃんじゃなくても泣きたくなったわよ。かつらを使わず、すべて地毛で結っていたから、現場入りは朝の5時。せっかく早朝から待機していても、ヒロインが来ない!暇を持て余すと、私は髪を結ったまま撮影所でキャッチボールや野球をしていたから、一緒になって正和ちゃんも遊んでいたの。美少年だけど、おとなしくてどこか恥ずかしそうにしている、そんな姿が印象的だった。やっと撮影がアップすると、みんなで京都駅まで正和ちゃんを見送りに。ホームで「受験がんばってねー!」って大声を上げながら手を振ったことを覚えている。その後、正和ちゃんは本当にハンサムな、素敵な俳優になった。『古畑任三郎』(フジテレビ系)を見るたびに、あのときの弟役の姿を思い出し「お坊っちゃま、ご立派になられて」なんて、テレビの前で思っていたわ。冨士眞奈美●ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。(構成/我妻弘崇)
2021年06月25日冨士眞奈美女優・冨士眞奈美が古今東西の気になる存在について語る当企画。今回は、文豪・川端康成との思い出を綴る。■“面白い人たちが集まる会”先日、『高円寺純情商店街』などの著書で知られる作家のねじめ正一さんから電話があった。ねじめさんは、私が舌を巻くほどの熱狂的巨人ファン、そして『長嶋少年』という小説を書くほどの長嶋ファン。お互い長嶋さんが大好きということもあって、もっぱら野球談議をすることも珍しくない。この日は、二刀流で日米をワクワクさせてくれる大谷翔平選手について話をしていた。といっても、電話の趣旨は野球ではなく、俳句会について。ねじめさんは、父が俳人のねじめ正也さんであり、彼自身も直木賞作家にして“詩壇の芥川賞”といわれるH氏賞を受賞した詩人。さらには、私が参加している俳句会のリーダーでもあらせられるのだ。コロナ禍で停滞する句会。奥方とお嬢さんの助けを得てWEB句会を立ち上げ立派に主導してくださっている。この俳句会には私を含め10数人が参加している。編集者、アナウンサー、政治記者など垣根を越えた俳句好きが集まっては、投句し合う。これが月1回の刺激です。兼題といって事前に季語を5つくらい提示し、句会までに作ってくる。当日、無記名で投句し、誰の句かわからない自分以外の俳句を選び読み上げ、感想や批評し合った後に、自分の作品であれば名乗る。これが句会の大まかな流れ。こんなふうに書くとなんだか厳粛な会に思われそうだけど、実際にはたくさん無駄話も飛び出す“面白い人たちが集まる会”だったりする。少し前までは、私は月に3つほど句会に参加していたけれど、コロナが流行してからは少なくなってしまった。句会は“密”ですからね。みんなに会えません。俳句は、五七五のリズム。勢いも大事。月に3回くらいあるほうが、いつも俳句を作る気持ちになるから、思いがけなくよい句が生まれることもある。コロナ禍よ、いつになったら、終わるやら。今でこそ、いろいろな文化人の方と交流を重ねさせていただいているけど、デビュー時分は、こんな未来が訪れるなんて夢にも思わなかった。■美人というのはね、条件は猫背ですNHKの専属からフリーになったころかしら。後に、日本人として初のノーベル文学賞を受賞する川端康成先生とご一緒したことがあった。京都で講演の仕事が入ったのだけれど、その講師というのが、当時大人気だった俳優のフランキー堺さんと、川端先生。そして私。私のテーマは女性目線で野球を語るというものだった。いま考えると不思議すぎる面子よね。スタッフを含め、みんなで列車で京都に向かったのだけど、当時私は右も左もわからない新人だったものの、川端先生が偉大な方ということはわかる。『雪国』や『伊豆の踊子』なら私だって拝読している。全員がおそれ多いと敬遠して、誰も川端先生の隣に座りたがらない。というわけで、いちばん年の若い私が川端先生の隣に座ることになってしまった。車窓の風景が目に入ってこないくらい硬くなっていると、「美人というのはね、条件は猫背です」と、突然、川端先生が私に話しかけてくださった。「美智子さまをご覧なさい。あのたたずまいの美しさといったら」唐突な話題に面食らっていると、「あなたも少し猫背ですね」って。あとで思えば褒めてくださったのかもしれない。だけど、緊張してそれどころじゃない。フランキーさんの名ゼリフじゃないけれど、私も“貝になりたかった”……。なのに─。講演が終わると、川端先生とふたりきりで京都御所を散歩することになった。お相手のできる人がいないってことなんだろうけれど、私だっておそれ多くて話すことなんてない。私は、内心「生贄みたい」と思いながら、しとしと雨がちらつく中を相合い傘。無言で散策したことを、時折、小雨が降ると思い出す。冨士眞奈美●ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。〈構成/我妻弘崇〉
2021年06月12日『裸の大将放浪記』で知られる山下清画伯女優・冨士眞奈美が古今東西の気になる存在について語る当企画。今回は、名だたる画家とのユニークな交友について。■日本洋画界の巨匠がモデルに指名年を重ねるにつれ、わかってくること、理解できることが増えていく。若い時分というのは、なかなかモノの価値というのがわからない。そのひとつに、絵の価値があるのではないかと思う。かつて、『週刊朝日』が多士済々の15人の画家に表紙を描いてもらい、読者による人気投票を行う「表紙コンクール」という企画を、定期的に開催していた。東郷青児さん、三岸節子さん、梅原龍三郎さんなど名だたる画家たちが表紙を描くのだけれど、条件として必ず画家自身が選んだモデルを1人だけ立てて表紙用に描く──。高峰秀子さん、原節子さんといった超有名な女優さんが選ばれる中、どういうわけかNHKに所属したばかりの新人女優である18歳の私に白羽の矢が立った。しかも、矢を立てたのは、日本の洋画界に多大に貢献された小磯良平さん。あの迎賓館の大広間の壁画「絵画」や「音楽」を制作し、後に文化勲章を受章する巨匠が、なぜ名もないひよこを選んだのか、今になってもわからない。当時の私は、もっとわからない。「小磯さんという先生はどうやらすごい人らしい」、その程度の理解しかない私は、言われるがままアトリエのある逗子に3回ほど通い、表紙はできあがった。「表紙コンクール」すらよくわかっていない私の心とは裏腹に、小磯先生が描いた表紙は1位に選ばれた。『少女像』という形で、今でも時折展示されていると仄聞(そくぶん)する。描き終わった後、画家の先生はそのデッサンをくださるとおっしゃったんだけど、価値というものがわからなかった私は、忘れていただかなかった。今だったら、飛び上がって、喜んでいただくのに。■山下清、鹿に乗ってはいけないと言われ……もうひとつ、絵にまつわる印象的な思い出がある。1960年から2年間、日本各地の民謡・舞踊・郷土芸能を、ミュージカルで紹介する番組『東は東』のホスト役を滝田裕介さんが、ホステス役を私が務めていた。毎週30分間、生放送する中で、山下清さんがガラス板に白いペンキで絵を完成させるというコーナーがあったので、山下さんとは2年間、いろいろな場所にロケでご一緒した。時には、山下さんと自衛隊を訪問して、一緒に戦車に乗ったり。奈良に行ったときは、マネージャーである弟さんが、「鹿に乗っちゃいけないよ」と注意したにもかかわらず、目を盗んで鹿に乗って、転倒したり。山下さんは、笑うととってもかわいくて面白い方だった。でも、最後まで私の名前を覚えてくださらず「お、沖縄の女だな」と言われたことを覚えている。静岡県・三島市出身なんだけど、山下さんはお構いなし(笑)。一度、山下さんのお誕生日に何かプレゼントをしたいと思って、「何が欲しいですか?」と尋ねると、「カラーテレビ」と即答されて固まったことがある。当時のカラーテレビは数十万円する超高級品。安月給の私にはとうてい手が届かない。そこで、「もしカラーテレビをプレゼントしたら、私には何をお返ししてくださる?」と聞いてみると、「色紙」とひと言口にして、マジックペンを取り出した。山下さんは、即興で色紙に花を描くと、「はい、これは3000円だな」といって私にプレゼントしてくれた。今や当時のカラーテレビよりも、はるかに価値がある色紙をいただいて、私はとてもうれしかった。大事に飾っていたのだけれど、色紙だから経年劣化する。どうしようと思っていたら、飲み仲間である東京・新宿「どん底」のオーナーの矢野智さんが、「いいんだよ、こうすれば」と言いながら、山下さんが描いた花の下に、勝手に道を書き足してしまった。文字どおりの“道楽”。色紙の価値はパッとなくなってしまったが、その色紙だって世界にたったひとつだけ。モノの価値って、結局は自分次第だと思う。冨士眞奈美●ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。(構成/我妻弘崇)
2021年05月12日落合博満と信子夫人女優・冨士眞奈美が古今東西の気になる存在について語る当企画。今回は、元中日ドラゴンズの名選手、落合博満とその妻、信子さんについて。「悪妻」とも呼ばれた夫人との思い出とはー。■第5回中日ドラゴンズに浮気私は子どものころから巨人ファン。だけど、ドラゴンズに浮気をしていた時期があった。私の野球人生は、長嶋(茂雄)さんとともにあった─といっても過言ではないくらい巨人が大好き。’74年に長嶋さんが監督になると、選手時代とは違う長嶋監督の魅力に一喜一憂していた。ところが、川上(哲治)さんはじめ巨人のOBたちが不当な仕打ちをしていたことが発覚し、’80年に長嶋さんが解任されると、あまりのショックで半病人状態になってしまったほど。当時、私は女優を休業して専業主婦。楽しみといえば長嶋さんのお姿を拝見することだけ。巨人に対する失望は大きかったの。でも、プロ野球を嫌いになることはなかった。応援対象を失っていたとき、たまたま長嶋さんが、「中日の野武士野球が面白い」と書いていらっしゃるのを見て、以来ドラゴンズに注目し、すっかりファンになってしまった。スポーツ新聞も東京中日スポーツに変更。長嶋さんのおかげでもあるから、いわば“長嶋派ドラゴンズファン”……と、自分に言い聞かせているけど、巨人から浮気していたことは間違いないわね。現役時代の落合さんとも交流を重ねさせていただいた。とりわけ、奥様である信子さんとは楽しいひと時を過ごさせてもらいました。ナゴヤ球場で観戦。福嗣君出産直後の信子さんを名古屋のご自宅に慰問したり。今ではナレーター、声優として立派に活躍されている福嗣君、いや福嗣さんを見ると、私までうれしくなってしまう。■監督就任で固めた“黒子に徹する覚悟”信子さんの“男を育てる力”というのは、まさに感嘆もの。だからこそ、落合さんも信子さんのことが大好きなんでしょうね。旦那さんに大切にされている女性は、いくつになっても輝いている。反面、粗末に扱われている女性はどこかみすぼらしい。パートナーとの絆が強固だからこそ、肝も据わるのでしょう。落ち着いていて人情の機微あふれる落合さんだけど、実は大のヘビ嫌いなんですって。子どものころに大蛇が庭のニワトリを飲み込む姿を見てしまったらしく、以来、ヘビという言葉の響きさえ受け付けない─のに、信子さんは福嗣君が生まれた際に「福嗣のおむつ入れに」と、なんとパイソンの一枚革で大きなバッグをしつらえた。届いたバッグは見事なまでのヘビ革だったから、やっぱり落合さんが怖がってしまった。という理由で、私にその立派なバッグをプレゼントしてくれたの。今、私の自宅の居間に飾ってあるきれいな置き時計も、信子さんからいただいたもの。とてもきっぷがいい人よ。落合さんが、ドラゴンズの監督に就任すると、信子さんは表舞台に登場しなくなった。黒子に徹するという覚悟だったんだと思う。私は、彼女が身体を張って、選手時代から野球だけに専念できる環境をつくっていた姿を見ていたから、内助の功に徹する姿に、とても感銘を受けた。私も邪魔をしたくなかったから、以来、お会いできていない。野茂英雄さんが、「自分は“野球”が好きなんじゃなくて、“野球をするのが好き”だ」というすてきな発言をしていた。きっと落合さんも同じなんだと思う。再びユニフォームを着るということは、球団の上層部や玉石混交の関係者と、球場外でも関わることを意味する。さまざまな軋轢も生じるだろうから、信子さんは表に出ることを控えたのだと思う。いちファンとして、やっぱりもう一度落合さんの監督姿を見てみたい。そうなると、また信子さんと会うことができなくなるだろうから、その前に機会があるのなら、またお目にかかりたい。ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。《構成/我妻弘崇》
2021年04月30日長嶋茂雄女優・冨士眞奈美が古今東西の気になる存在について語る当企画。今回は、愛してやまないプロ野球について。数々の名選手と対談するなど、実は元祖“野球女子”でもある冨士さんが語る野球との思い出とは──。■第4回プロ野球の名選手球春、到来。昨年はコロナの影響で開幕が後ろ倒しになりましたが、今年は例年どおりオープン戦も行われ、野球ファンとしては心が躍ります。海の向こうでは、大谷翔平選手が143メートルの特大のホームランを打つなど、私もテレビの前で手に汗握って応援しています。今年の大谷選手は、ものすごく活躍するんじゃないかしら……なんて、贔屓(ひいき)の球団や選手に対してワクワクとドキドキが交錯する、この感覚こそ開幕直前の醍醐味(だいごみ)。野球との出会いは子どものころ。当時、野球中継はラジオから聞こえてくるのが当たり前。おまけに流れてくるのは、巨人戦と相場が決まっている。大多数の子どもが巨人ファンになるのは必然的で、気がつくと私も大の巨人ファンになっていた。私が子どものころの巨人軍には、川上哲治、青田昇、千葉茂、錚々(そうそう)たるメンバーが名を連ねていた。セ・パに分かれる前の「東西対抗」と呼ばれる時代のベースボール。私は、川上さんが大好きだった。当時、『野球少年』(芳文社)という雑誌があって、「今年も頑張ってください、応援しています」なんて雑誌あてに川上さんへお年賀状を送っていたほど。返事が届くかなと思って、毎日ポストを確認していたのは懐かしい思い出。返事は来なかったけど、「今年は川上選手への2万通の年賀状が届きました」と誌面で報告されているのを見て、子ども心に驚いたなぁ。返事が来ないのも納得。川上さんが監督になった後は、長嶋茂雄、王貞治のONに夢中になった。長嶋さんとは対談させていただいたり、お話しをする機会に恵まれることが少なくなかった。一茂さんが生まれる前から知っているんだもの。■長嶋茂雄さんの素顔世間一般では、長嶋さんといえば“突出している人”という印象が強いかもしれないけど、とっても思いやりの気持ちが強い、素敵な方。例えば相づちを打つとき、「そうなんですよね、冨士さん」と、必ずと言っていいほどセンテンスの最後に相手の名前をつける。自分の意見を述べるときも、「僕はこう思うんですよ、冨士さん」と相手をおもんぱかる。この会話術は、素敵。私にとって長嶋さんは神様のような存在。私は、誠実な長嶋主義者。長嶋さんの野球は「善意の野球」だと思っている。言葉遣いや立ち居振る舞い、そのすべてが善意で包まれているような印象を受けた。長嶋さんはもちろんだけど、プロ野球選手って、カッコいいのよね。田淵幸一さん、山本浩二さん、故・星野仙一さん。実物も素敵だけど、テレビにもかぶりつく。私が一時期、中日に“浮気”していたときは、落合博満さんとも。奥さんの信子さんとはとても仲がよくて、よくお会いしたわね。「福嗣のおむつ入れに買ったけど、使わなくなったから」って、特注のパイソン革の大きなバッグをもらったほど。詳細は、また今度。福嗣君も、あんなに立派になってね。話は戻って、長嶋さんが監督をなさっていた時代は、よく球場へ足を運んで、一喜一憂した。第2次巨人監督時代の2001年のペナントレースの終盤、東京ドームのラストゲームだった10対11で負けたスワローズ戦も現地で見ていた。スリリングで、魅せる野球。でも、その敗戦が響き、優勝を逃した長嶋さんは勇退した。長嶋さんのユニフォーム姿はもう見られないかもしれない。だけど、わが家のトイレにはその年のカレンダー─、松井、清原、マルちゃん(マルティネス)、由伸、清水らが長嶋さんを囲んで一枚に収まっている姿が、飾られたまま。野球にも、出会いと別れがある。だからこそ、応援のしがいがある。ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。《構成/我妻アヅ子》
2021年04月12日