山口百恵作品の初のオーケストラ公演がいよいよ今夏、実現する。「西本智実『ノスタルジー』with三浦祐太朗-山口百恵名曲集-」公演では、西本智実指揮によるイルミナートフィルハーモニーオーケストラとヴォーカリスト三浦祐太朗が共演。「横須賀ストーリー」「秋桜」「いい日旅立ち」など、時代を彩った山口百恵の名曲が華麗で壮大なオーケストラサウンドと共に披露される。「懐かしい音楽を聴くと、瞬時に遠い記憶の光景が甦り、郷愁を覚えます。そして、音楽には喜びも悲しみも共感しあえる力があります。時代を超越して、歌い演奏される名曲集 本公演『ノスタルジー』が、皆様と共にその感動を分かち合い、共鳴し合うひと時となり、誰にとっても心豊かな時間となりますように」。2013年から10年余のヴァチカン国際音楽祭での活躍、そして2025年大阪・関西万博のイタリアパビリオン・アンバサダー就任など世界で活躍する西本智実が舞台への思いを示す。また、三浦祐太朗は、「西本智実さんをはじめとする素晴らしいミュージシャンの方々と、母・山口百恵の歌の世界を表現できる事、大変嬉しく思っています」と次代を担うアーティストとしての心情を語る。国内外の音楽ファン注目のもと、『ノスタルジー』の初演(7月21日)は日本のクラシック音楽の中心・東京オペラシティコンサートホールで開催。息子・祐太朗の熱い歌声と共に“山口百恵の世界”が真夏の輝きのなかで蘇る。本日(3月30日)、東京公演のチケット販売スタート。◆演奏曲ミュージカル/映画「キス・ミー・ケイト」より『So in love』(作曲:コール・ポーター)「横須賀ストーリー」(作詞:阿木燿子/作曲:宇崎竜童)「夢先案内人」(作詞:阿木燿子/作曲:宇崎竜童)「イミテイション・ゴールド」(作詞:阿木燿子/作曲:宇崎竜童)「ありがとうあなた」(作詞:千家和也/作曲:都倉俊一)「曼殊沙華」(作詞:阿木燿子/作曲:宇崎竜童)映画「ひまわり」より(作曲:ヘンリー・マンシーニ)「秋桜」(作詞・作曲:さだまさし)「プレイバック Part2」(作詞:阿木燿子/作曲:宇崎竜童)「心の花」(作詞: 渡辺なつみ、SIWOO/作曲: SIWOO、宇田川翔)「絶体絶命」(作詞:阿木燿子/作曲:宇崎竜童)「歌い継がれてゆく歌のように」(作詞:阿木燿子/作曲:宇崎竜童)オペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲(作曲:ピエトロ・マスカーニ)「美・サイレント」(作詞:阿木燿子/作曲:宇崎竜童)「JOY」(作詞:三浦祐太朗/作曲:高木博音)映画「ロミオとジュリエット」より(作曲:ニーノ・ロータ)「いい日旅立ち」(作詞・作曲: 谷村新司)「さよならの向う側」(作詞:阿木燿子/作曲:宇崎竜童)※曲目は変更される場合があります。【公演概要】RENAISSANCE CLASSICS西本智実『ノスタルジー』with三浦祐太朗 -山口百恵名曲集-◆主催:RENAISSANCE CLASSICS、(公財)埼玉県産業文化センター(大宮)◆後援:エフエム東京(東京・大宮)、FM COCOLO(大阪)、ラジオ関西(大阪)◆協力:ディスクガレージ(東京・大宮)、夢番地(大阪)◆企画制作:RENAISSANCE CLASSICS、オフィスTEN◆開催時期&開催会場2024年7月21日(日)開演14時、東京・東京オペラシティコンサートホール9月1日(日)開演14時、大阪・ザ・シンフォニーホール12月7日(土)開演15時、大宮・ソニックシティ大ホール◆音楽監督&指揮:西本智実◆ヴォーカリスト:三浦祐太朗◆管弦楽:イルミナートフィルハーモニーオーケストラ◆チケット:プラチナ:9,000円ペアチケット17,000円S:7,500円ペアチケット14,000円※税込、全席指定、特製プログラム付※9/1大阪公演はプラチナ完売◆一般発売:[東京公演]2024年3月30日(土)10:00〜[大阪・大宮公演] 発売中◆公演オフィシャルサイト: ◆お問い合わせ東京・大宮公演:DISK GARAGE 大阪公演:YUMEBANCHI(大阪)06-6341-3525 (平日12:00~17:00) 詳細はこちら プレスリリース提供元:NEWSCAST
2024年03月30日「百恵さんご自身は息子さん2人だったから、初孫が産まれたとき、女の子と聞いてかなりうれしかったみたいです。今はお孫さんにメロメロで、日々すくすくと育っていく姿を見て、喜びを感じているようです」そう語るのは三浦家を知る芸能関係者だ。百恵さん(65)、三浦友和(72)夫婦の長男・三浦祐太朗(39)の妻・牧野由依(38)が第1子である女児を出産したのは22年3月。もうすぐ2歳となる百恵さんの孫は健やかに成長しているようだ。「お孫さんの性格はおしとやかというよりもおてんばな感じで、“少し目を話すとちょこまか動き回って大変”と牧野さんは話していました。彼女が仕事の現場に連れてきて、スタッフがあやしてあげることもあるのですが、誰からもかわいがられていて、周りに愛されて育っているなあという印象です」(前出・芸能関係者)孫をかすがいに百恵さんと牧野さんの嫁姑関係は良好だという。「百恵さんは、妊娠中の牧野さんとLINEでやり取りをして、何を食べたらいいかなどの相談に乗ってあげていたそうです。お孫さんが生まれてからはミルクや離乳食の作り方、ベビー服についてのアドバイスもしていたとか。百恵さんは口を出しすぎることなく、ほどよい距離感で子育てのサポートをしていて、牧野さんもその気遣いに感謝しているそうです。2人は頻繁に連絡を取り合っていて、牧野さんはお孫さんの写真をよく送ってあげていると聞きました」(前出・芸能関係者)牧野から送られてくる写真の中でも、特に百恵さんが喜んでいるのが孫と動物のツーショットのようだ。「祐太朗さん、牧野さん夫婦の家では、トイプードルを二匹飼っています。22年、祐太朗さんはInstagramで『食後の娘と、寄り添う犬』という文章とともに、生まれたばかりの娘と愛犬を膝に乗せた写真を公開し、『かわいい!』と話題となりました。百恵さんも同じくトイプードルを二匹飼っていて愛犬家として知られていますから、大好きなお孫さんとワンちゃんという最高の組み合わせを見て、癒されているのでしょう」(前出・芸能関係者)しかし、孫は犬だけではなく別の動物も気になっているようで――。「牧野さんが一度、都内の猫カフェに連れていってから猫に夢中なようです。最近は猫と戯れるお孫さんの写真がよく送られてくるらしく、百恵さんは猫について調べることが多くなったのだとか。ネットでいろいろな猫の画像を検索しては『このコもかわいいわよ』などとお孫さんのために画像を送ってあげているそうです」(前出・芸能関係者)百恵さんが愛孫のために猫を飼い始める日も近いかも。
2024年03月02日「今日、たまたま実家から来たんですよ。朝、母がおにぎりにぎってくれて」そう語ったのは、百恵さん(65)の長男・三浦祐太朗(39)。2月9日、『生島ヒロシのおはよう定食/一直線』(TBSラジオ)に出演したときのことだ。ほっこりする親子話かと思いきや、百恵さんのおにぎりには変わったところがあるようでーー。「異様にデカいんですよ。コンビニのおにぎりを皆さん、想像していただいて、あれの2倍くらいあるんです」実際に持ってきたおにぎりの中身は、鮭マヨネーズ。昔はさらに大きく、なんとコンビニサイズの2.5倍はあったという。「百恵さんの“巨大”料理エピソードは数知れず。餃子も通常の2倍の大きさだったといいます。祐太朗さんは“お前の母ちゃんのおにぎりデカくね?”と友人に指摘されたこともあるとか」(スポーツ紙記者)この日、百恵さんが愛を込めた“巨大おにぎり”で息子を叱咤激励したのにはわけがある。21日に祐太朗が初のベストアルバムを発売するのだ。もちろん、『いい日旅立ち』など百恵さん楽曲のカバーも収録されている。「1週間前の出演回でもアルバムの話になり、パーソナリティが“百恵さんから歌のアドバイスはあった?”と質問を。祐太朗さんは『日本語をとにかく大切に』『歌謡曲はその日本語が伝わってなんぼ』と指導を受けた、と答えていました」(前出・スポーツ紙記者)さらに百恵さんからは、実践的なアドバイスも。祐太朗は前出のラジオでこう明かしていた。「日本語を伝えるっていう技術の一つとして、『鼻濁音に注意する』っていうことは言われましたね。“がぎぐげご”って発音するんじゃなくて、メロディの中でもちょっと鼻にかかるように発声するっていう」音楽関係者は語る。「15年以上音楽活動をしていますが、祐太朗さんは芽の出ない時期も長かった。百恵さんは今でも先輩歌手として、できる限りのことは教えたいのでしょう。彼がカバー曲を出したきっかけも、『祐太朗の声で、私の歌っていた曲を聴けるのはうれしいことだよ』という百恵さんの一言でした」同ラジオでは、子育ての話題でも盛り上がった。’22年、祐太朗夫妻に娘が誕生。百恵さんにとっての初孫だ。母からの子育ての助言について聞かれ、祐太朗は、「僕が異様に手のかかる子どもだったみたいで、片時も母親から離れなかった(中略)。『それに比べたら……』ってよく言っていましたね」と応じていた。前出のスポーツ紙記者は分析する。「祐太朗さんも40歳目前。とはいえ百恵さんにとっては、まだ“手のかかる子ども”なのだと思います。息子たちの独り立ちを期待しつつも、いろいろと心配して世話を焼いてしまうのでしょうね。母業からの“いい日旅立ち”はまだ先になりそうです……」4月に不惑となる長男を気遣い、おにぎりをちょっぴり小さくした百恵さん。アルバムがヒットしたら、また元に戻るかも……?
2024年02月23日「彼女は葬儀には出席していないと思いますが、“恩師”を失ったショックは大きいでしょうね」そう語ったのは山口百恵さん(64)が歌手時代にマネージャーを務めていた男性だ。10月8日、3人組フォークグループ「アリス」のメンバーでシンガー・ソングライターの谷村新司さん(享年74)が逝去した。百恵さんは谷村さんを“恩師”と慕っていた。「百恵さんのシングル累計でもっとも売れたのが、谷村さんが作詞作曲した『いい日旅立ち』です。この曲が縁で、彼女が’80年に芸能界を引退してからも家族ぐるみで交流があったと聞いています」(芸能ライター)谷村さんは’73年に百恵さんがデビューしたころから注目していたという。「当時はラジオ全盛期。谷村さんは’72年から人気深夜番組『セイ!ヤング』で火曜日のパーソナリティを務めていました。彼は番組中に共演者のばんばひろふみさん(73)と一緒に何度も『百恵ちゃーん!』と叫ぶほど、百恵さんのことを推していました」(前出・芸能ライター)その後、2人は音楽を通して出会う。谷村さんは初めて百恵さんと会ったときのことを、’80年10月11日放送の『ザ・コンサート』(TBS系)でこう振り返っている。「彼女と僕の照明チーフさんが同じ人で、彼の紹介で楽屋に挨拶に行きました。(中略)それで僕は一つすごく素敵だなと思ったのが、『今度電話します』って彼女が言ったんです。(中略)そしたらね、電話かかってきて。『山口です』って。びっくりしました。すごいうれしかったんです。ああ、もうこの人とは自分は結ばれるんじゃないかって(笑)」谷村さんは電話で運命を感じたが、名曲『いい日旅立ち』も2人の電話のやり取りから生まれた。《2時間ほどで作って、彼女に電話をすると、「聴かせてください、いますぐに」って。受話器を耳に挟んで、ギター弾きながら歌った。作ったときは、出来はまあまあかなって思ってたら、彼女、「素晴らしい!」。思わず僕も、「そうでしょう!」》(『週刊女性』’00年10月10日号)この名曲がリリースされたのは、’78年11月。当時、谷村さんは百恵さんの夫・三浦友和(71)や複数の男性スターとともに彼女の“恋人候補”と報じられた。「彼女が三浦くんとご婚約発表するまでにね、いろんな相手は誰かってありましたでしょ。私まで出てきたんですよ、週刊誌にね」(前出『ザ・コンサート』より)前出の百恵さんの元マネージャーはこう証言する。「恋人関係ではありませんでしたが、当時すでに大スターだった百恵さんに対して、ふつうの女性として接してくれる谷村さんを心の底から信頼していたと思います。彼女は幼いころから不遇な家庭環境だったこともあり、父性を感じさせてくれる10歳年上の谷村さんの優しい雰囲気が大好きだったのでしょう。谷村さんはテレビで見るイメージのままで、いつもニコニコしていて怒ったところを見たことがありません」■引退後も谷村さんを「パパ」と慕い…百恵さんと谷村さんの絆が伝わってくるエピソードがある。彼女の最後の舞台となった’80年の引退コンサートの構成を担当した演出家・宮下康仁さんは’21年、本誌の取材にこう明かしている。「中継元のTBSのプロデューサーが提案したコンサートの曲目に百恵ちゃんが猛反発したんです。そこで、TBSは谷村さんを介して彼女を説得しようとしました。すると、彼女が『私の大事な友達をなんだと思ってるの!』と余計に怒ってしまい、『もう放送はいらない』とまで言ったんです。最終的に私がなんとか説得し、収まりました」百恵さんの引退後も2人の交流は続いていたと谷村さんは語っている。《今でも時々連絡を取り合って近況を報告したりしていますが、普通の奥さん、お母さんだと思いますよ。ずっと僕のことをパパと呼んでくれて、『パパ、私いくつになったと思う?もう何歳よ』なんて、そういう会話をしていますね(笑)》(『週刊文春』’14年5月22日号)百恵さんは谷村さんへ欠かさず贈り物をしていたという。「自身のラジオ番組で、『毎年、夏ごろになると山口百恵さん夫妻からとてもおいしい桃をいただきます』と話しており、ブログでも写真付きで紹介していました」(谷村のファン)あの曲が再度2人を繋いだことも。’03年、谷村さんが鬼束ちひろ(42)に『いい日旅立ち』のカバーをオファーした際、百恵さんにはメールで報告したという。《(百恵さんからは)『彼女だったらいいと思う』と。鬼束さんのお母さんがモモ(百恵さんのこと)と同い年だと知らせたら、がく然としていましたけどね》(スポーツ報知’03年10月18日付)さらに、百恵さんの長男・三浦祐太朗(39)も同曲を通じて谷村と交流を深めた。「’15年、祐太朗さんは音楽番組で『いい日旅立ち』を谷村さんとコラボで披露し、それ以降ライブでも歌うようになりました。ヒット曲に恵まれていなかった彼と、息子を心配する百恵さんのために、谷村さんが一肌脱いだのでしょう」(前出・芸能ライター)谷村さんが生んだ『いい日旅立ち』は、親子2世代にわたる絆とともに永遠に歌い継がれるだろう。
2023年10月24日「昭和の歌姫・山口百恵さん(64)と、平成の歌姫・宇多田ヒカルさん(40)の初対面が、近々実現するかもしれません」こう語るのは音楽関係者。日本を代表する歌姫同士の“奇跡の対面”。その裏には大物歌手の存在がーー。事の発端は、宇多田がゲスト出演した8月20日放送のテレビ番組『まつもtoなかい』(フジテレビ系)。同番組で司会を務める松本人志(59)から、会いたい人を聞かれた宇多田は、「私、前川清さん(75)にお会いしてみたかったんです」と告白。さらに「母親が19歳のときに前川清さんと結婚されて、あっという間に離婚しちゃったんですけど。(お会いしたら)面白いかなと思って」と理由を語っていた。宇多田の母・藤圭子さん(享年62)の元夫だという理由でテレビ越しに対面を希望された前川。その胸中とはーー。「宇多田さんと一度も会ったことがない前川さんは、突然の“指名”に喜び、ぜひ会いたいと周囲に話しているそうです。前川さんと藤さんは、離婚した後も良好な関係でした。宇多田さんが世に出る前に、前川さんは当時再婚してNYにいた藤さんから電話がかかってきて『娘は天才なのよ』と“予告”されたこともあったとか。前川さんは、『宇多田さんと藤さんの声がそっくり』と言い、前々から機会があれば会ってみたいと思っていたそうです」(芸能関係者)’98年にデビューし、スターダムを駆け上がった宇多田。’10年に一度活動を休止するも、’16年に再開し、今も第一線で活躍している。そんな彼女がどうしても前川に会いたいのには訳が。「’13年に藤さんは自死しています。このとき、大変なショックを受けた宇多田さんは、自死遺族の集会に通うなどして、母の死と向き合い、前に進んできました。母がどういった人物だったのかを改めて知るためにも、 元夫である前川さんと一度、話がしたかったそうです。前川さんから見た母の姿や、思い出を聞くことで、母との日々を見つめ直すよい手掛かりになると考えているのではないでしょうか」(前出・芸能関係者)宇多田は8月22日に自身のXを更新。藤さんの自死から10年で学んだことをつづっていた。《人が亡くなっても、その人との関係はそこで終わらない。自分との対話を続けていれば、故人との関係も変化し続ける》宇多田から受けた“面会ラブコール”。その裏で前川がある計画を秘密裏に進めていると、前出の音楽関係者は明かす。「宇多田さんとの初対面を果たしたのちに、ゆくゆくは宇多田さんと百恵さんを引き合わせたいと考えているそうです。実は百恵さんと前川さんは家族ぐるみの付き合いなのです。百恵さんの次男・三浦貴大さん(37)と、前川さんの長男・紘毅さん(37)は中学校と高校の同級生で、親友だといいます。このため家族ぐるみで仲がよく、息子たちがバンドを組んで文化祭に出演した際には、百恵さんと前川さんの奥さんが並んで演奏を聴いたことも。百恵さんが前川さんの自宅に訪れたこともあり、今でも連絡を取り合っていると聞いています」百恵さんは現役時代に藤さんと歌番組で何度も共演している。「’70年代に音楽番組『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)で、百恵さんと藤さんは、たびたび顔を合わせていました。ポップスと演歌で、ジャンルは違いましたが、日本を代表する歌手同士、お互いに通じ合うことも多かったのではないでしょうか」(映像制作関係者)百恵さんの引退後も、2人の“絆”は途切れなかったようだ。「宇多田さんは幼いころから歌手になるのが夢でした。藤さんはそんな彼女に自宅で昔のラップミュージックから、クラシックまでさまざまな音楽を聞かせていました。そのなかのひとつとして、百恵さんの曲がたびたび流れていたようです」(前出・芸能関係者)宇多田は’16年9月に放送された音楽番組『SONGS』(NHK)で、藤さんから受けた影響をこのように語っている。「誰しも原点があって、私の原点は母だったから、私の世界、あらゆる現象に彼女が含まれてるのは当然じゃんと。私の体は親からきてるものですからまあ当然かと思えるように」■宇多田が伝説のパフォーマンスを百恵さんを藤さんから教わった宇多田。その影響はあまりに大きかったようだ。「’00年に開催された宇多田さん初の全国ツアーの際に、百恵さんの名曲『プレイバックpart2』をカバーしていました。また’10年12月に開催された活動休止前の最後のコンサートでは、宇多田さんはステージ上にマイクを置き、退場しました。これは百恵さんが引退コンサートで、マイクをステージに置いて去っていった伝説のパフォーマンスをオマージュしたものです」(前出・芸能関係者)百恵さんも宇多田の楽曲を好んでいるようだ。前出の映像制作関係者が明かす。「7月に宇多田さんが主題歌を担当した映画『キングダム 運命の炎』が公開されました。この映画には貴大さんが前作から出演しており、百恵さんは、宇多田さんが主題歌を担当することを知って、喜んだと聞いています」前川が2人を引き合わせようとするのには別の理由もーー。「今年は百恵さんのデビュー50周年ということもあって、前川さんとしてはお祝いの意味もかねることができればと思っているのではないでしょうか。また宇多田さんにとっても、百恵さんとの対面で、今後の音楽活動に必ずやプラスに働くと考えているのでしょう。天国の藤さんがそれで喜んでくれるなら……という願いもあるようです」(前出・音楽関係者)“奇縁”が結ぶ2大歌姫の初対面。百恵さんも藤さんとの思い出がプレイバックするはずだ。
2023年09月07日「百恵さんは3月下旬に3年ぶりにキルト展に新作を出展。同じころ、初孫が1歳を迎えるなど、充実した日々を過ごしているようです」(芸能関係者)この4月に、‘73年の映画『としごろ』でのデビューから50周年を迎えた三浦百恵さん(64)。相変わらず公の場に現れることはなく、芸能界との交流もほとんどない。ただ、そんな百恵さんにも芸能人の親友がいるという。「浅田美代子さん(67)です。‘73年2月にドラマ『時間ですよ』(TBS系)でデビューした浅田さんは百恵さんの同期。歌手デビューの時期も近く、当時は同じレコード会社に所属していました。浅田さんのデビュー曲『赤い風船』は週間売り上げ1位を記録し、“ミヨちゃん”の愛称で親しまれました。いっぽうで、百恵さんのデビュー曲はあまり売れなかったこともあり、当初は2人の間でライバル意識もあったようです。しかし次第に百恵さんは、天然で楽観的な性格の浅田さんを姉のように慕うようになりました。お互いに忙しすぎて、プライベートで交流できる時間はあまりなかったようですが、レコード会社の営業を一緒に回ったこともあったといいます」(音楽関係者)2人をさらに強く結びつけたのが、のちに百恵さんと結婚する三浦友和(71)だった。「浅田さんは‘75年に映画で友和さんと兄妹役で共演し、公私ともに親しくなりました。 百恵さんと友和さんのデートのカムフラージュとして、浅田さんが加わって3人で食事に行くこともあり、百恵さんと浅田さんの友情はより深まったそうです」(前出・音楽関係者)浅田は’77年に吉田拓郎(77)と結婚し、芸能界を一時引退(‘84年に離婚)。「拓郎さんが友和さんの憧れのミュージシャンだったこともあり、百恵さんと友和さんが‘80年に結婚した後は、家族ぐるみで付き合っていました」(前出・芸能関係者)その後、浅田は‘83年に芸能界に復帰。友和と同じ事務所に所属するようになったこともあり、現在まで百恵さんとの交流は続いているという。「百恵さんに子どもが誕生したときには、浅田さんは自宅までお祝いに駆け付けたそう。2人でカラオケを楽しむこともあるといいます。百恵さんもカラオケ好きで、自宅にはカラオケ機器があるほどですからね」(前出・音楽関係者)2人とも自分の持ち歌を歌うのかと思いきや……。「浅田さんのおはこは松田聖子さん(61)の『SWEET MEMORIES』。百恵さんのほうは、中森明菜さん(57)の『北ウイング』を、明菜さんのまねをして歌うそうです。近い将来、カラオケで2人の50周年を祝うこともあるかもしれませんね」(前出・音楽関係者)豪華すぎる2人のカラオケタイム。2人の“聖子vs明菜”の夢の対決はいつになるのかーー。
2023年04月21日「お孫さんは、もうつかまり立ちもできるようになったそうですよ。年始には新年の挨拶を兼ねて、友和さんと百恵さんに顔を見せに来てくれたようです」(芸能関係者)三浦友和(70)と百恵さん(64)夫妻の長男・三浦祐太朗(38)に、女の子が生まれてはや10カ月。3月には1歳を迎える初孫の成長に、百恵さんも顔をほころばせているのではないだろうか。ただ、祐太朗の妻で人気声優の牧野由依(37)には「育児ストレスがたまっているようだ」と話すのは、牧野を知る音楽関係者だ。「初の子育ての喜びをかみしめながらも、“疲れた”“自分の時間がない”と周りに弱音を漏らすことがあるんです。口ぶりは軽い調子ではあるんですが、彼女の場合、出産後すぐに仕事に復帰しているので、本当にたいへんなんだろうなと思いますね」牧野は出産の半年後にはミニアルバムを発売し、ライブもこなすなど、“働くママ”として奮闘中。「仕事があるときは、お子さんを保育園に預けてから仕事に行って、終われば保育園に迎えに行き、帰ったら家事をして、気が付いたら一日が終わってる……なんて生活だそう。料理も少しは手を抜けばいいのにと思うのですが、家族の健康のためにバランスのいいメニューを考えたり。牧野さんも“好きでやっていることだから”と考えてはいるようですが、両立は疲れるようです」(前出・音楽関係者)そして時折、夫への不満が口をついて出てしまうようなのだ。「祐太朗さんについて“もう少し家事や育児をやってくれたらいいなぁ”と周囲にこぼしていたことがあるのです」(前出・音楽関係者)祐太朗の父・友和といえば、元祖“イクメン”“家事メン”だ。「百恵さんが出産したころ、友和さんは仕事が少なかった時期だったこともあって、オムツ替えから離乳食づくりまで、子どもたちの面倒をよく見ていたそうです。また、いまでもふだんからトイレ掃除や洗濯をしていて、昔から夫も家事をするのは当たり前という考えです」(スポーツ紙記者)そんな家庭で育った祐太朗だけに、レギュラー出演するラジオ番組でも時折、子育てエピソードを語るなど、自分では育児に参加しているという思いはあるようだ。「牧野さんも、祐太朗さんは一生懸命協力しようとしてくれているとは感じているようです。ただ、夫が協力をしているつもりでも、妻から見ると十分でないと不満に感じてしまうのは“あるある”ですよね」(前出・音楽関係者)牧野は、義父である友和については「気配りがすごい」と話していたことがあるといい、「“お義父さんみたいに言わなくても自然にやってくれるようになるといいけどね”とも知人と話していたようです」(前出・音楽関係者)百恵さんも困惑しそうな祐太朗の新米パパぶり。“理想の夫婦”への道はまだまだ険しいようだ。
2023年01月27日「客席には、百恵さん(63)世代と思しきファンが涙している姿もありましたよ。懐かしさからなのでしょう」(ライブを訪れた観客)12月10日に開催したコンサートで『夢先案内人』や『イミテイション・ゴールド』など、母である“山口百恵”の名曲の数々を歌い上げた三浦祐太朗(38)。この日の会場は、三浦家の地元・東京都国立市に近い立川市のホール。地元に近いとあって長男の勇姿を見に、もしや百恵さんも?「百恵さんは、この日はいらっしゃらなかったそうです。“自分が行くと周囲に気を使わせるかもしれないから”と、舞台やライブなどは遠慮されることが多いと聞いたことがあります」(音楽関係者)ただ、意識はしていたようだ。自身が通っているキルト教室の仲間に「息子のコンサートがある」ということを話していたという。「『やる』ってことを聞いたので、『じゃあ(教室の)みんなで行くわ』という感じで見に行きましたよ」(キルト教室の関係者)会場に行けない自分の代わりに仲間たちが長男を応援してくれたのは、百恵さんにとってもうれしいことだっただろう。そんななか、最近、母子で盛り上がる“ある話題”があるそうだ。「祐太朗さんは最近マーベル作品にハマっているそうなんですが、実は百恵さんも大のマーベルファンだそうです」(芸能関係者)そもそも百恵さんは映画好き。本誌は三浦友和(70)との夫婦映画デートを目撃したこともある。ある映画ライターによると、「『スパイダーマン』や『アイアンマン』など、アメコミが原作のマーベル映画は、以前は男性ファンが多かった印象ですが、近年は女性ファンも増えています。熱狂的に夢中になる人も多いですね」実際、祐太朗は7月に自身のラジオで「めっちゃ熱く語り始めて」と、百恵さんのマーベル作品へのハマりぶりについて語っていた。「夏ごろに話をしていたのなら、ちょうど公開直後だった『ソー:ラブ&サンダー』の話で盛り上がったのではないでしょうか。『マイティ・ソー』シリーズの第4弾で、クリス・ヘムズワース(39)演じる主人公のソーはマッチョなイケメンで、女性人気が高いキャラクターです。百恵さんもソーが“推し”なのかもしれませんね」(前出・映画ライター)祐太朗の妻・牧野由依(36)を知る音楽関係者によると、「牧野さんもアメコミ好きと聞いたことがあります」というから、嫁姑の共通の話題でもあるのかもしれない。「’22年の三浦家は友和さんが3本、次男の貴大さん(37)が5本の映画に出演と大活躍。さらに2人ともドラマ出演もあります。百恵さんはご家族の映像作品はチェックされているといいますから、家族にスーパーヒーローにと“推し活”に忙しい1年だったのではないでしょうか」(前出・芸能関係者)’70年代にみんなに“推されていた”百恵さん。いまは“推す”楽しみに目覚めたのかもーー。
2022年12月24日今年3月、長男・三浦祐太朗(38)に第一子が誕生し、初孫ができた三浦百恵さん(63)。`80年に芸能活動から引退、三浦友和と結婚した彼女だが、今なお注目を集め続けている。このたび本誌は、彼女の担当マネージャーを`74~`75年に務めた長谷川和正氏にインタビュー。女優・山口百恵の仕事ぶりと、三浦友和の秘話を語ってもらった。(以下、カギカッコ内は長谷川氏)「百恵で最初に思い出すのは、“赤いシリーズ”と呼ばれたドラマの第一作『赤い迷路』(’74年)に出演したときのこと。撮影が始まったある日、彼女が俺に『ちょっと……』なんて呼んできた。何かと思えば台本を取り出して『このシーン、どう思います?』って俺に聞くから『百恵が泣く場面だよな』と答えたら、百恵は『(この台本で)本当に泣ける!?』って。まだデビュー2年目の新人なのにすごいなって驚いたのを覚えているよ。一方で、そのドラマには松田優作も出ていたんだけど、たびたび演出家とぶつかって大声をあげていたんだよ。百恵はそれを見て俺に『あんなに言わなくてもいいのにね』なんてよく言っていたよ。とにかく、まだ高校生だったのに大人びていたよね」仕事で手を抜くことは決してなかったという百恵さんだが、のちに夫となる三浦友和の百恵さんに対する第一印象は「決して良くなかった」と長谷川氏は言う。「2人が共演した映画『潮騒』(’75年)のロケが三重県の神島で行われたときのこと。友和は先に撮影に入っていて、あとから百恵も現場入りした。到着した日の晩に、友和や共演者たちと飲んでいると、友和が百恵のことをよく言わないんだよ。俺がなんで?って聞くと『アイドルは嘘つきだから』なんて言う。友和は役者という意識が強かったからか、上辺を取りつくろっているように見えるアイドルが苦手だったようなんだ。『島に来たばかりで、“街の人はあったかい”とか言うけど、街の人の人情なんか分かるはずないだろう』と。酔っぱらっていたからだろうけど、俺に言うなよって思ったね(笑)」しかし、その後の2人はご存じの通り結婚し、芸能界でも“理想の夫婦”と呼ばれて久しい。「俺が担当していた頃の百恵が憧れていたのは(西城)秀樹だったんだよ。実際に仲も良かったしね。どのようにして百恵と友和が交際するようになったのかは見てないけれど、友和はとっても真面目な男だから、百恵にとっても良かったよな。もし友和と会ったら、神島での夜のことを問い詰めたいよ(笑)」
2022年12月12日今も“伝説”としてファンの心に生き続けている山口百恵(63)。そんな彼女の全盛期に担当マネージャーを務めていた長谷川和正氏が、自伝『蒼い時』にも書かれていないエピソードを明かしてくれた。(以下、カッコ内は長谷川氏)「あの頃の百恵はまだ15、16歳だったけど、大人だったね。同期のアイドルを見回してもだいたいワガママだったりするのに、百恵は周囲への気遣いがすごいんだよ。普段の移動でも、百恵は自分の荷物は自分で持つ。そんなアイドルいないよ。だから、“マネージャー(長谷川氏)の方が偉そうだ”なんてよく言われてまいっちゃったよ(笑)。当時、営業で全国を巡っていて、北海道なんかもよく行った。札幌、旭川はもとよりいろいろ回るんだけど、夏だと北海道でもすごく暑い。そんなある時、みんなで一緒に食事を食べようと言ってたら、百恵がいない。どうしたのかな?なんて思っていると、どこからかアイスキャンデーをたくさん買ってきたんだ。スタッフをはじめ、バックバンド全員分だよ。すごいと思ったね」そんな百恵さんが唯一、長谷川氏に反抗したことがあった。それが彼女の知られざる“恋のエピソード”だ。「当時は今以上に男性アイドルの人気がすごかったけど、みんな百恵に近寄ってきたんだよ。なかでも、とあるアイドルグループのEさんが百恵と仲が良かったんだ。あるとき、彼がレギュラー出演していた番組に百恵がゲストで出たことがあった。その日にお互いが同じネックレスの色違いをつけていたんだけど、後日、それが入れ違っていることに気が付いてね。これは大変なことだと直感が働いたんだよ。2人が実際に付き合っていたかは分からない。俺は見ていないからね。ただマネージャーとして、ここで動かないとマズいなと思った。それで、まず俺はEに直接会いに行った。もちろん別れてもらうためだが、そこは言いようだよな。“せめて、今は熱くなるのをやめてくれ”と伝えたんだ。彼がそのことを百恵に伝えたのだろうけど、当然、彼女はカチンとくるよね。後日、俺は先日亡くなった、当時の上司だった小田(信吾)さんに呼ばれて、百恵の担当を外されることになってしまった。たぶん、百恵がそうしてほしいと言ったんだろうね。それでも、俺はあの時のことを後悔はしていないよ。百恵は(三浦)友和と出会って幸せになっているしね」こうして長谷川氏は、同じ事務所にいながらも百恵さんと仕事をすることはなくなった。それでも‘80年3月に彼女が芸能界引退を発表すると、ファイナルツアーを見に北海道の公演(9月30日真駒内真駒内屋内競技場)まで駆け付けたという。「楽屋まで挨拶に行ったよ。“百恵ちゃん、長い間お疲れさま”って。それが百恵との最後の会話になったな。結婚式?俺が呼ばれるわけないだろう(笑)」
2022年12月11日「俺はマネージャーだった頃、“ももえ”って呼んでいたから今日も呼び捨てで話させてもらうよ」こう話すのは、山口百恵(63)のマネージャーを務めていた長谷川和正氏。百恵が人気絶頂だった’74~75年頃に2年ほど担当した。風貌がタレントのせんだみつおに似ていることから、『週刊明星』に「山口百恵が“せんだみつお”と毎日デートを重ねている!」と報じられたこともある“名物マネージャー”だった。すでに“売れっ子”だった百恵さんの知られざるエピソードを、長谷川氏が47年ぶりに振り返ってくれた。(以下、カギカッコは長谷川氏)「俺と日本全国を一緒に回っていたころ、百恵はまだ中学3年とか高校1年だった。あるとき日本テレビで放送されていた『紅白歌のベストテン』に出演することになって、青森ねぶた祭から中継されたときがあったんだ。異様に活気づく街中でのロケとなったんだけど、スタッフは“大丈夫ですよ”なんてのん気に言っていた。ところがいざ中継が始まったらものすごい人が押し寄せて、てんやわんや。俺は“百恵、伏せろー”なんて言ってね。あまりにも危なかったからすぐにロケは中止になったよ。現場は混乱してパトカーまで出動する騒ぎになった。俺と百恵はパトカーで警察まで行くことになったんだよ。そんなときでも百恵は俺に“長谷川さん、大丈夫!?ケガとかしてない?”なんてこっちのことを心配するんだよな。普通こんなことあったら、タレントはマネージャーに怒るものだけど、彼女はまったく違ったね」数多の営業で全国を共に回っていた百恵さんと長谷川氏。スマホのなかった当時、移動中はもっぱら世間話をしていたという。「高村光太郎の詩集なんかも移動中によく読んでいたな。懐かしいよ。その頃のギャラは、俺の給料が当時5~6万円のところ、彼女は月30万円くらい。それが翌年には月に100万円を超えるようになった。うなぎのぼりだったね。あるとき富山県に営業で行ったときの合間、観光客向けに川で魚を取らせてもらえる場所に呼ばれたんだよ。そうしたら俺のネクタイがびしょびしょに濡れちゃって。そのネクタイを百恵の楽屋に置いたまま現場に出たら、帰りにネクタイが見つからない。ふと見上げたら、いつのまにかピンと伸ばして干してくれていたんだ。アイロンもきっちりかけられていた。その時は本当に感心しちゃったよ。百恵はそういうことがたくさんあったね」
2022年12月10日三浦友和(70)・百恵さん(63)夫妻の次男で俳優の三浦貴大(36)が30代の一般女性と交際していると、10月5日にNEWSポストセブンが報じた。記事によると10月初旬、三浦は水卜麻美アナ(35)似の女性と恋人つなぎで歩きながら都内のそば店へ。店を出ると、最後には女性のマンションへと帰っていったという。またふたりの知人は「半同棲のような状態」とも明かしており、所属事務所は「プライベートは本人に任せております」と回答したという。兄で歌手の三浦祐太朗(38)は2年前に結婚し、今春には百恵さんにとっての初孫となる子供も誕生した。だが貴大は過去にバラエティ番組で“高校時代に彼女を自宅に連れていって両親に会わせた”逸話を披露したことはあったが、芸能界入りして12年、熱愛現場をキャッチされたことはなかった。そのため記事はまたたく間にネット上で拡散されるなど、衝撃が広がっている。本誌は今年8月、貴大が同世代の男性4人と共同生活をしていることを報道。そんな生活ぶりも相まって、結婚願望の薄さを感じさせる貴大に、友和、百恵さん夫妻も心配を見せていたようだ。当時、制作関係者は「彼が独身なのをご両親は気にされているようでした。ご両親から結婚について『お前はどうなんだ?』と聞かれることがある、と貴大さんが知人に漏らしているんです。『ないかな~』という調子で返事をしているそうです」と明かしていた。また俳優仲間は「女性の影は見えない。彼は女性に対してあまり積極的なほうではないですね。女優さんでも一般の方でもご縁があればどちらでも、という感じではあるみたいですけど(笑)」と証言。そんな貴大に、ようやく“初ロマンス”がやってきたのだ。実は今年7月、貴大はサイトでの配信中に意味深発言をしていた。視聴者からの「(共同生活だと)家に彼女は呼べないですね?」という書き込みに対して、こう語っていた。「まあ、大丈夫じゃない?……いたとして」ひょっとすると、このときすでにAさんとは出会っていたのかも!?今後の熱愛の行方に注目が集まりそうだ。
2022年10月06日「百恵さん(63)も始球式の映像を見たそうで、『よかったよね』と喜んでいたそうですよ」(三浦家の知人)8月25日に東京・神宮球場で行われたヤクルト-広島戦で始球式を務めた三浦友和(70)。その姿に「相変わらず素敵」「こんなかっこいい70代になりたい」と反響が集まっている。「ヤクルトのオフィシャルスーツを手掛ける『洋服の青山』のイメージキャラクターを友和さんが務めているために、今回スーツ姿での始球式となりました。ノーバウンドで投球したこともそうですが、選手や審判らに丁寧に頭を下げる礼儀正しさや、70歳とは思えぬほど姿勢がよくビシッと決まったスーツ姿に、若い世代からもネット上で憧れの声が上がっています」(球団関係者)30代半ばだった’87年から今に至るまで「洋服の青山」のCMに出演し続けている友和。長きにわたる起用理由を「洋服の青山」を展開する青山商事の広報に聞くと、「いつも変わらぬ紳士たるその人間力へのみなさまからの信頼は、絶大だと思っています。三浦さんご自身のご活躍やご年齢とともにその魅力は増すばかりで、35年間、三浦さんと一緒に歩んできたからこそ当社としても成功してきたと思っています」と、その魅力にゾッコンの様子。ある映像制作関係者は語る。「80歳になってもかっこよくスーツを着こなすのが目標だと、友和さんが話していたそうです。“それまで生きてられるかなぁ”なんて冗談で笑っていたそうですが」スーツを着こなす若々しさは、日ごろの努力のたまものでもある。「昔から家庭では、妻の百恵さんが食生活の面で、友和さんの健康や体形管理を支えています。友和さん自身も、負担の大きな激しい運動こそしませんが、自宅で足腰や肩甲骨まわりのストレッチを欠かさずにされているそうです。仕事中も一見すると何もしていないようで、実は腹式呼吸を意識して腹筋を鍛えていらっしゃると聞きました」(前出・映像制作関係者)友和は、9月9日公開の『グッバイ・クルエル・ワールド』を皮切りに、『線は、僕を描く』『ケイコ目を澄ませて』と3作もの出演映画が年内に公開予定。70代に入っても俳優活動は精力的だ。そこには、ある人物の影響がーー。「友和さんは、’14年に82歳で亡くなった宇津井健さんをお手本にしているんです。昔から憧れを口にしていましたが、年齢を重ねて、その思いは増しているようです。宇津井さんも晩年まで背筋がピシッと伸びていらっしゃいましたし、偉ぶらず真面目で紳士的なところも友和さんと共通しています。宇津井さんは健康や体形維持にとても気を使っていて、太りやすいからと炭水化物は取らず、演技で白米を食べるシーンでは大根おろしで代用していたほど。現場にも鉄アレイを持ち込んで、撮影合間にもトレーニングで体を鍛えるなどストイックな方でした。“80代になっても俳優として活躍した宇津井さんのように、年齢に応じて必要とされる俳優でいたい”というのが友和さんの願いです」(芸能関係者)■「父親のように……」慕っていた百恵さんそもそも宇津井さんは、夫婦ともに親交が深かった人物。友和のデビュー作は宇津井さん主演のドラマ『シークレット部隊』(TBS系)であり、百恵さんも連続ドラマデビュー作で父娘役として共演。その後、百恵さんと友和が共演した『赤い』シリーズでも、宇津井さんが百恵さんの父親役を演じている。「宇津井さんは役を演じるうえで『僕を父親のように思って』と百恵さんに伝え、ご自身も本当の娘に接するように百恵さんを大切にしたといいます。そんな宇津井さんを百恵さんは当時、“理想の男性”と慕っていたそうです。友和さんと百恵さんの結婚式ではお2人たっての希望で宇津井さんが仲人を務めました。それ以来、互いに自宅を訪問し合う仲に。子供たちの誕生直後も宇津井さんに顔を見せに行くなど、かなり結びつきの強い間柄だったのです」そう話す前出の芸能関係者は「百恵さんの妻としての在り方にも影響があったのでは」と続ける。「宇津井さんは’06年に亡くなった前妻とは45年連れ添っており、『女房がカロリー計算してくれている』『女房の気配りがあるから役者生命を維持できる』とそのサポートにいつも感謝していました。百恵さんもその姿を知っていますから、同じように友和さんを献身的に支えているのだと思います」かっこよすぎる70歳のスーツ姿の裏側には、“理想の夫”宇津井健さんから学んだ、百恵さん夫妻の“折り目正しい”生き方があったーー。
2022年09月09日あの三浦友和&百恵さん夫妻も愛した味が復活するーー!老舗の和菓子店「紀の国屋」の“復活劇”が話題だ。創業から70年以上、東京都の多摩地域を中心に展開していた「紀の国屋」だが、5月16日突如廃業。ファンから惜しむ声が多く挙がっていたところに、スイーツのインターネット販売事業者「アイ・スイーツ株式会社」が5月26日、紀の国屋の元従業員20名を雇用して、「匠紀の国屋」として紀の国屋の和菓子の味を受け継ぐことを発表した。そして6月3日には「匠紀の国屋」として、国分寺店と東大和店の2店がオープン。当日、国分寺店に取材に訪れると、“復活”を待ち望んだお客さんたちが、朝9時半の開店前から行列をつくっていた。「アイ・スイーツ株式会社」の稲垣富之代表に話を聞いた。「いままでの店舗の工場などすべてなくなってしまって、小さなスペースで作っていますので、今はまだ商品も最中だけですが、今月中には『あわ大福』や『おこじゅ』も復活させることができるかと思います」『おこじゅ』は紀の国屋の和菓子のなかでも人気商品のどら焼き。実は廃業の発表があった5月16日に、ある芸能人が《もういちど、おこじゅ食べたかった…》とSNSに投稿したのだが、その芸能人というのが三浦友和&百恵さん夫妻の長男・三浦祐太朗(38)。三浦家でずっと食べていたとテレビ番組で紹介するほど、なじみの味だったようだ。前出の稲垣さんは言う。「国立のお店には、三浦友和さんにもよくお越しいただいていたと、従業員から聞いております。ただ、百恵さんもいらしていたそうなんですが、最後までわからずじまいだったそうで……。場所柄、素敵な方も多いせいかもしれませんが、街に本当に溶け込んでいらっしゃるというか(笑)。お恥ずかしいんですが、わからないものですね」祐太朗は、前出の投稿の翌日にも、《紀の国屋さん廃業の件、現実かどうか確かめたくて昨夜、谷保の店舗を見に。おこじゅ、あわ大福、最中などなど三浦家のソウルフードでした》などと、閉店した店舗の写真とともに投稿。実はこれが従業員たちの励みになったと稲垣さん。「廃業が決まり、新店舗がスタートするまでの間に、従業員みんなが祐太朗さんが上げてくださったSNSの投稿を画像で保存しているんです。いきなり廃業が決まり、働いていた従業員も心が折れかけていたときに、あの投稿があったので、みんな励まされました。わざわざ閉店しているお店まで足を運んでくださる気持ちがうれしかったんです。みんな、それを励みに新店舗のスタートの日を迎えることができました」稲垣さんは、祐太朗や、友和、そして百恵さんら、三浦家一家に新店舗を訪れてほしい、と話す。「以前の店舗より、利用していてだくには不便な場所になったのかもしれませんが、いつかまたお会いできる日を心待ちにしながら頑張っていきたいと思います」
2022年06月08日「婚約したころから、百恵さんの紹介で友和さんもウチの美容院に通うようになりました。彼女は芸能界から身を引く際、『これからも主人をよろしくお願いします』とわざわざお電話くださいました。同時に、店に来なくなりました。引退するから、ケジメをつけたんです」’78年から結婚披露宴の翌日までヘアメークを務めた司さとし氏(74)は彼女の律義さをそう証言する。今年3月に初孫が生まれた三浦百恵さん(63)は’80年の三浦友和(70)との結婚、引退以降一度も表舞台に現れないものの今も変わらぬ人気を誇っている。『スター誕生』から50年、3000号に達した本誌も注目し続ける国民的スターの軌跡を振り返る。〈登場におけるインパクトは、とても桜田淳子の比ではなく、後の百恵神話を予測させるものはほとんどなかった〉(『夢を食った男たち』/’93年6月発行)’72年、『スター誕生!』(日本テレビ系)で初めて百恵さんを見た審査員の阿久悠は、強い印象を受けなかったという。淳子は番組史上最高の573点をたたき出していたが、百恵は329点と平凡な得点での合格だった。ホリプロの音楽ディレクターとして楽曲制作に携わっていた川瀬泰雄氏(74)が第一印象を思い出す。「社内で初めて会ったとき、『地味だな』と思いました。ただ、とにかく一生懸命なコでした」’73年5月発売のデビュー曲『としごろ』はオリコン最高37位と売れなかった。所属事務所であるホリプロダクション創業者の堀威夫氏は将来的には歌手より女優として売り出そうと考えた。〈プロモーションに映画を組み込んでいたのは、デビュー当時はそれだけ歌唱力が弱かったためで、後年あれだけ歌唱力がつくとは当時、予想すらしなかった〉(『いつだって青春』/’92年11月発行)■「造花が勝手に水を吸い始め、偽物が本物に変わった」(川瀬氏)その方針が、彼女の人生を大きく左右する。’73年の『顔で笑って』、’74年の『赤い迷路』(ともにTBS系)というドラマに宇津井健の娘役で出演。そして、映画『伊豆の踊子』で友和と共演を果たす。川瀬氏は翌年、『ささやかな欲望』のレコーディングで衝撃を受けた。「歌がすごくうまくなっていて、きめ細やかな感情まで表していた。女優業で、表現の幅を広げたのでしょう。デビュー当初の曲は『こんなイメージの花がいいよね』と、きれいな造花を作る感覚でした。それが勝手に水を吸い上げ始め、偽物から本物に変わった」’76年、その花を大きく開かせる作家に巡り合う。作詞・阿木燿子、作曲・宇崎竜童の『横須賀ストーリー』で2度目のオリコン1位を獲得。このシングルは、百恵さんが「宇崎さんの曲を歌ってみたい」と希望したと伝えられている。宇崎竜童(76)は2010年に本人と再会したとき、意を決して尋ねた。「噂の真偽を聞くと、『そうです。私がお願いしたんです』と。当時17歳ですよ。セルフプロデュース力がただ者ではない。提案をレコード会社に伝えたチーフマネージャーの小田信吾さん(元ホリプロ会長)もすごい。普通のスタッフなら受け流しますよ(笑)」その後も阿木と宇崎の『夢先案内人』などが大ヒットし、歌謡界の頂点へ駆け上がっていく。’78年には、ファッション界で名を上げていた司氏をヘアメークに起用し、ビジュアルも磨かれていった。司氏は初対面で「日本の芸能界って、好きじゃないんだよな」と本音を明かし、間髪入れずにこう続けた。「もうちょっと、きちんとカットしたほうがいいんじゃない?」意外な言葉に彼女は「えっ……そうですかね」と戸惑いを見せた。「当時の芸能界は最先端のテクニックを歓迎しない保守的な傾向があったんです。とはいえ、僕も突っ張りすぎですよね(笑)。第一印象はとても悪かったはずです」それでも再び依頼が舞い込んだ。「賢くて冷静な人ですから、型にはまらないヘアスタイルにしてくれると判断したのかな。普通は10代で売れてしまうと、素直だったコもてんぐになって人の話に耳を傾けなくなるし、過度な要求をし始める。でも、彼女はまず『司さんはどう思いますか?』と聞いてくれたし、基本的に任せてくれました」■「まぶしすぎて近づけなかった」(新沼謙治)百恵さんは真摯な仕事で日々オーラをまとっていく。同じ『スタ誕』出身で’76年2月デビューの新沼謙治(66)はその輝きに圧倒された。「まぶしすぎて、近づけなかったですね。優しく話しかけてくれるんですけど、何げないフリをして『こんにちは』と言うのが精いっぱい。内心、ドキドキでしたよ(笑)」時折見せる素顔も魅力的だった。「雑誌の企画で、2人で餅つきをして百恵ちゃんが僕に『ア〜ン』する写真を撮った。あのときは照れましたね。でも、彼女も恥ずかしそうでした。ステージでは見せない、さりげないかわいらしさを感じました。『スタ誕』出身者やスタッフでハワイに行ったとき、百恵ちゃんは淳子ちゃんとか女のコ同士で話してて、男は常に眺めるしかない(笑)。電話番号の交換?とんでもないです。オーラに満ちあふれ、きちんとされていた方でした」’78年には、史上最年少の19歳で『紅白』の紅組トリを務め、『プレイバックPart2』を歌った。百恵さんは20歳を過ぎ、阿木と宇崎を「ごちそうしたい」と食事に誘った。「3人で西麻布のイタリアンに行きましたね。百恵さんはワインをテイスティングしていました。まだ成人したばかりの彼女がおごってくれたんですよ」(宇崎)人気絶頂の’80年3月7日、三浦友和との婚約を発表。10月5日、日本武道館の引退コンサートの台本の表紙には《MOMOE FINAL THIS IS MY TRIAL》と記されていた。『This is〜』は百恵さんの22枚目のアルバムの最後の曲だ。演出担当の宮下康仁氏(71)はかつて本誌の取材にこう答えている。「阿木燿子さんの詞に共感していた百恵さんは、『ひとりの女性として新しい人生を歩み始める』というメッセージを伝えたかったのだと思います」歌い終えると、ステージの中央に白いマイクを置いて立ち去った。「『宮下さんが考えたんですか』とよく聞かれるのですが、違います。僕らも驚きました。百恵さん自身の気持ちだったと思います」■「長い髪を短くした瞬間、山口百恵は三浦百恵になった」(司氏)一世一代の大舞台におけるビジュアルのポイントは“伏し目”と“かすみ草”だった。司氏が語る。「お化粧のとき、百恵さんは鏡に対して伏し目がちになる。それが、不思議な色気につながっていた。だから、ステージで照明を浴びて、少しうつむいたときに映えるメークにしました。純白の衣装に合わせた髪飾りに生花を提案しました。当時の流行では花は頭の片側だけに飾る。でも、大ぶりの花が2つ届き、周囲にかすみ草があった。とっさに両側につけ、ふだんなら添え物扱いのかすみ草を生かすアレンジにしました。表舞台から去る百恵さんの決意、ストーリーを盛り込みました」東京プリンスホテルで結婚披露宴が行われた翌日の11月20日の朝8時、司氏は2人の泊まるスイートルームを訪れた。「百恵さんに『新婚旅行の前に髪の毛をカットしてください』と頼まれていたんです。部屋に入って『本当にいいの?』と聞くと、キッパリと『はい。バッサリ切ってください』と。全身から覚悟を感じました。長い髪を短くし終えた瞬間、“山口百恵”は“三浦百恵”になったのだと思います」百恵さんはさっぱりとした表情で「じゃあ、行ってきます」と挨拶し、友和とドアを開けた。司氏はホテル最上階の部屋の窓から、2人の車が成田空港に向かう姿を見送った。余韻の残る一室で、「お幸せに」という言葉が自然と漏れた。「結婚から半年たったころ、友和さんがウチの美容院に来ました。百恵さんは『近くで買い物してたんで、寄らせていただきました』と旦那さんを迎えにきて、すっかり奥さんの顔になっていました」(司氏)婚約発表の直後、川瀬氏は「これほどの天才歌手と結婚できる器量の男がいるのか」という意味で、「クソ真面目な男との結婚はやめたほうがいいよ」と言った。すると、彼女は「あら、面白いところもあるんだから」と笑った。「百恵はその話を友和君にしたようで、ウチの家族で三浦夫妻の家を訪ねた際『川瀬さんは僕たちの結婚に反対だったんだよね!』と冗談を言われて(笑)。なんでも話をする仲よい夫婦だと思いました」前出の宮下氏も言う。「引退後、『三浦です』と言って、彼女が電話をかけてきたことがありました。僕を驚かそうと思ったのかな。女房が『三浦って人から電話よ』と言ってましたから(笑)」今年3月に長男・三浦祐太朗(38)に待望の第1子が誕生。その後、司氏の美容院に友和の予約が入った。「電話を取った家内が『おめでとうございます』と言ったら、彼は『ありがとうございます。でも、もう昔のことですから』と話したみたいです。それ以上、私たちは言及してません。過度に祝福してもらうと悪いと考えているのでしょう。百恵さんも友和さんも節度があって、常識のある社会人なんです」引退から42年間、何度となく復帰待望論が渦巻いても、彼女は決してステージに立とうとしない。「百恵は一度決めた『家庭を守る』ことにまい進した。その潔さが伝説になる。友和君もブレずに俳優を続けている。お互いに本当によい人と結婚したと思います」(川瀬氏)芸能界で燦々と輝く“ひまわり”だった百恵さんは主婦として夫を支える“かすみ草”になった。そして、今日も三浦友和という大輪の花を際立たせているーー。(取材:『女性自身』百恵さん取材班/文:岡野誠)
2022年06月04日「訃報を聞いた百恵さんはとても落ち込んでいるそうです」(百恵さんの知人)3月に長男・三浦祐太朗(38)のもとに第1子が誕生し、おばあちゃんとなったばかりの百恵さん(63)に悲しい知らせが届いた。“山口百恵”のマネージャーを務めた小田信吾さんが4月30日に急性心不全でこの世を去ったのだ。83歳だった。「小田さんは’68年にホリプロに入社し、百恵さんや和田アキ子さん(72)のマネジメントを担当し、スターにしました。’84年にはホリプロの社長に就任し、その後は会長として東証1部上場も果たしています」(芸能関係者)数々のタレントを育てた小田さんだが、百恵さんへの思い入れは特別なものがあったという。「当時は清純派の王道アイドルが全盛でしたが、小田さんは『ほかのアイドルにはない陰がある』とデビュー時から百恵さんの稀有な才能を見抜いていたそうです。そして、チーフマネージャーとして、阿木燿子&宇崎竜童夫妻が手掛けた『横須賀ストーリー』や『プレイバックpart2』といった代表曲を世に送り出し、百恵さんのカリスマ的な人気を作り上げたのです。百恵さんも自分らしさを尊重してくれる小田さんのことを誰よりも信頼していたといいます」(前出・芸能関係者)その後、’80年に三浦友和(70)と結婚し、人気絶頂のまま引退。芸能界復帰をかたくなに固辞し、関わりも極力断った百恵さんの“窓口”になったのも小田さんだった。小田さんと親交のあった芸能リポーターの城下尊之さんは言う。「百恵さんは引退後も小田さんとは交流を続けたそうです。テレビの映像使用や歌手関連の仕事の許可を小田さんが百恵さんに確認していたそうです。ただ、小田さんは仕事の連絡に徹し、引退後の生活には踏み込まなかったそうです。百恵さんはそうしたところにも信頼を寄せており、相談があれば二つ返事でOKをしていたと聞いています」引退後も心を許した数少ない“友人”を失った百恵さん。大きな心境の変化を迎えていると、前出の知人は言う。「一昨年に全楽曲をサブスクリプション配信で解禁、昨年も引退コンサートをテレビで再放送していましたが、その際も小田さんが連絡を取っていたと聞いています。そんな現役時代の生き証人でもある小田さんが亡くなったことで、今後の許可を断るということではないですが、百恵さんの中には“これで山口百恵はひと区切り”という思いもあるそうです」49年にわたって“山口百恵のマネージャー”として支え続けた小田さん。今度は天国から“三浦百恵さん”を応援し続けることだろう。
2022年05月19日「祐太朗さんが先日発売したカバーアルバムの一曲のミュージックビデオが撮影された場所は、百恵さんはじめ三浦家御用達の写真館だといいます」(音楽関係者)“思い出の場所”でMVを撮影した百恵さん(63)と三浦友和(70)の長男・三浦祐太朗(37)。撮影が行われたのは箱根・強羅にある「島写真館」。地元住民から愛される町の写真館だ。「1919年に創業し、現在は3代目の嶋陽一さん(73)とその息子の雄司さん(39)の2人で経営しています。10年ほど前から同じ敷地内でカフェも営業しています。陽一さんは’70年代から「マガジンハウス」のカメラマンとして、『anan』などの雑誌で活躍し、写真館には陽一さんが撮影した松田聖子さんといった有名人の写真も飾られています」(地元住民)島写真館での撮影は祐太朗の発案だといい、MV公開に際し、こうコメントしている。《昔から縁のある写真館でMVを撮影できたことに感謝しています》三浦家と島写真館の物語のはじまりは、百恵さんが“山口百恵”だったときまで遡る。三浦家の知人は言う。「マガジンハウス時代に陽一さんは雑誌の撮影で何度も百恵さんを撮っています。快活な性格で盛り上げ上手なカメラマンとして知られ、百恵さんも陽一さんが撮影するときにはいつになく楽しそうにしていたそうです」また、友和にとっても陽一さんは、苦楽をともにしたかけがえのない“戦友”だったという。「陽一さんが20代のころ、マガジンハウスが発行していたアイドル誌『平凡』で友和さんの専属カメラマンとして仕事をともにするように。すぐに打ち解け、夜な夜な語り合っていたそうです」(前出・三浦家の知人)陽一さんは雑誌『GINZA』’15年4月号で友和を撮影した際、当時をこう述懐している。《例年正月は海外でグリコのCM撮影・他社のスタッフとも仲良くなりお互い撮影を手伝ったり、夜は彼の部屋で飲み会。今でも彼を交えて年に一度は集まる仲間。気配りがすばらしく、一緒にいる人たちを楽しませてくれる人》’80年11月に友和が百恵さんと結婚すると、さらに絆を強めていくことに。友和は’16年6月17日放送の『A-Studio』(TBS系)で、百恵さんと結婚し、過熱する報道に頭を悩ませていた時期に、陽一さんが報道陣から百恵さんと友和を守ってくれたエピソードを披露。「今でも家族で仲よしです」と語っていた。そして、百恵さん夫婦と陽一さんの縁は2人の息子にも受け継がれていく。「陽一さんの息子・雄司さんは祐太朗さん&三浦貴大さん(36)と同世代ということで、幼なじみのような関係。雄司さんが祐太朗さんのライブの様子を撮影したり、貴大さんが写真館をふらっと訪れて雄司さんに撮影を依頼することもあったそうです」(前出・三浦家の知人)■「百恵さんも一緒に来てくれた」’20年6月に声優の牧野由依(36)と結婚した祐太朗だが、島写真館は“門出の瞬間”もフィルムに焼き付けていた。「祐太朗さんが牧野さんと結婚した際に公開したウエディングフォトは雄司さんが撮影したそうです。付き合いの長い祐太朗さんと雄司さんに囲まれて、非常に和やかな雰囲気で撮影が進んだと牧野さんは喜んでいました」(前出・三浦家の知人)当の牧野はウエディングフォトの思い出をインスタグラムでこうつづっている。《その場所にいる方々の温かいお気持ちが満ちたスタジオで撮って頂いた大切なお写真です》(’20年6月14日の投稿)本誌が島写真館を訪れ、雄司さんに話を聞くと、MV撮影の裏側をこう明かしてくれた。「祐太朗からウエディングフォト以来の連絡があって、うちでMVを撮ることになりました。“家族”というテーマでうちを選んでくれたみたいでうれしかったですね」百恵さんについて尋ねると、驚きの逸話がーー。「百恵さんも年に何回か来てくれています。祐太朗は結婚式を挙げないということで、うちで写真撮影だけ行ったのですが、百恵さんも一緒に来てくれました」百恵さんが引退してからも42年にわたって三浦家親子2代の写真を撮り続けてきた島写真館。祐太朗は今月に第1子の誕生を予定している。前出の三浦家の知人は“3代目”の写真も島写真館で撮るだろうと言う。「陽一さんは写真館の初代当主の初孫ということもあって、とてもかわいがられ、そのことがカメラマンを志すきっかけになったといいます。そんな陽一さんですから、親友である百恵さんと友和さんに初孫が生まれることを自分のことのように喜んでいるそうです。百恵さんと友和さんも長年、家族写真を撮り続けてくれた陽一さんに、三浦家3世代の家族写真も撮ってほしいと、心から願っていました。牧野さんが無事に出産し、落ち着いたころに、百恵さんと友和さんも一緒に島写真館で家族写真を撮影する日を心待ちにしているといいます」百恵さん夫婦から祐太朗へと、受け継がれてきた写真館との絆。今度は“初孫との家族写真”という形で、新たなアルバムの一ページに刻まれることだろうーー。
2022年03月19日モデルの岡本百恵が4日、芸能事務所のイマージュに所属することを発表した。MBS・TBS系のバラエティ番組『日曜日の初耳学』内のコーナー「アンミカ先生のパリコレ学」に出演していた岡本。イマージュ所属を契機に、東京でのモデル活動を開始する。岡本は、「『イマージュ』に所属することになりました」と報告し、「ずっと目標にしてきたコレクションへの出演をはじめ、ファッションに携わる活動の幅を広げるべく、東京にて本格的に活動をスタートすることにいたしました」と経緯を説明。「今後は、東京での活動を拠点に、海外での活動も視野に入れ、今までの活動での経験を大切に、自分ならではの個性を活かし、日々成長していけるよう努力と挑戦をしていきたいと思います!」と決意を新たにし、「応援のほど、よろしくお願いいたします」と呼びかけている。
2022年02月05日「百恵さんを知らない若い世代の来場者が、周りの年配の人から百恵さんのことを聞いて驚くという光景は毎年のようにありました。参加者の1人ではありますが、百恵さんの作品が展示され続けたことでイベントの発展に大きく貢献していただけたと思います」こう感謝を語るのは、’02年から約20年にわたって毎年1月に開催していた「東京国際キルトフェスティバル─布と針と糸の祭典─」の実行委員会。’80年に三浦友和(69)と結婚し、芸能界を引退してからは主婦、そしてキルト作家としても活躍する百恵さん(62)。しかし、百恵さんの最も大きな作品発表の場であった同フェスティバルが来年1月に開催されることはない。「毎年、東京ドームで開催していましたが、今年1月はコロナ禍で開催することができず、そのまま終了することが決定しました。百恵さんも第1回から参加しており、出品するのを毎回楽しみにしていました。イベントの終了を知った際は残念そうにしていたと聞いています」(キルト愛好家)本誌も会場に展示された百恵さんの作品の前に黒山の人だかりができる様子を何度も目撃している。数々の作品が展示された“思い出の地”を失った百恵さん。しかし10月、失意にくれる百恵さんに望外の喜びが訪れる。昨年に声優の牧野由依(35)と結婚した長男・三浦祐太朗(37)がついに“パパ”になることがわかったのだ。百恵さんにとって待望の初孫となる。出産は来年3月を予定しており、性別はまだ判明していないという。ラジオ番組で「両親に(赤ちゃんを)抱いてもらうのを想像しただけでもうれしい」と語る祐太朗には壮大な計画があるようだ。「祐太朗さんは昨年から実家のある国立市の観光大使を務めており、三浦家と地元との絆を守り続けていくためにも、いつかは実家に戻って両親と牧野さんと生活することも考えているそうです」(三浦家の知人)■百恵さんがキルトに込めてきた“祈り”そして、長男夫婦の妊娠報告をきっかけに百恵さんは“キルト人生の集大成”の製作に向けて動き始めていたという。「キルト展終了で落ち込んでいましたが、お孫さんの報せを聞いたころから気を取り直し、最近ではお孫さんに贈るベビーキルトの製作に取り掛かっていると聞いています」(前出・三浦家の知人)ひそかに出産祝いの準備を進めていた百恵さん。今年5月に発足した「一般社団法人日本キルト協会」に“ベビーキルト”について話を聞いた。「一般的に赤ちゃんの“おくるみ”のことで、ミニキルトの110センチ四方よりは大きいサイズの物かと思います。キルトをやっている人では、身近な人の出産祝いとして定番で、お子さんの名前を手縫いで入れる人も多いです。デザインにもよりますが、キルトに慣れている人であれば、1カ月ほどで作れると思います」次男の三浦貴大(36)を出産した2年後の’87年からキルト作りを始めたという百恵さん。これまで70作品ほど発表してきたが、そこにはいつも彼女の“祈り”がーー。「貴大さんの海外留学が決まったころに作った作品の解説には『未来へ』といった言葉がつづられていました。’17年のキルト展では子供部屋用のベッドカバーを発表しましたが、これには“いつかは孫の顔が見たい”という願いがあったそうです。東日本大震災が起きた際は、それまで作っていたキルトを手直しして被災者への鎮魂を込めたといいます」(前出・キルト愛好家)祐太朗が結婚した際、百恵さんは結婚祝いとして息子夫婦に7年前に製作していた純白のリングピローを贈呈。百恵さんのキルト作品集『時間の花束Bouquet du temps』に掲載されたリングピローの解説には《いつまでも末永く仲良く幸せに、の気持ちを込めて》とつづられていた。■キルトに導いた友人女性との“魂の約束”初孫のために精魂を傾けておくるみを作る百恵さんだが、実はベビーキルトには格別の思い入れがあるようだ。「子育てを始めたころ、友人の女性からお祝いとしてベビーキルトをプレゼントされたことをきっかけに、百恵さんはキルト作りに興味を持ち、教室に通うようになったそうです」(前出・知人)百恵さんは作品集のなかで、その女性についてこうつづっている。《彼女は、素敵な人でした。洗いざらしのコットンのように、せっけんの香りとお日様の匂いのする、笑顔の似合う手作りが大好きな女性で……》(『時間の花束』)キルトの楽しさに目覚め、作品作りに励む百恵さんだが、突如、大きな悲しみが襲う。「友人女性が若くして亡くなってしまったのです。百恵さんは当時、女性が息子さんのために製作途中だったキルトを引き継ぎ、完成させたといいます」(前出・知人)そして、現在製作中のベビーキルトには初孫誕生の喜びだけでなく、天国の友人との“魂の約束”も込められているという。「友人女性の息子さんが結婚し、女の子を授かった際、百恵さんは赤ちゃん用のおくるみとおままごとで使える女の子の人形も作って贈ったそうです。生きて孫のためにベビーキルトを作れなかった友人への鎮魂でもあるのでしょう。そんな百恵さんもついにおばあちゃんになります。友人と孫が生まれる喜びを分かち合うことはかないませんでしたが、初孫へのおくるみには、キルトの道に導いてくれた友人への感謝も込められているのでしょう」(前出・知人)百恵さんはキルトを始めた際の思いについてこうつづっている。《そのひと針は、とてもシンプルな思いから始まりました大切な家族のために、何かしたい》(『時間の花束』)34年間のキルト人生の集大成として初孫へのおくるみ作りに没頭する百恵さん。亡き友人への思いを胸に、百恵さんは今日も家族のために針を動かすーー。
2021年12月16日「マリトッツォ」や「イカゲーム」など、新たなブームが次々と起こった2021年。そんななか、異例の再ブームを巻き起こしたのが山口百恵だ。三浦友和(69)との結婚を機に、80年10月に芸能界を引退し、今は三浦百恵さん(62)として生活を送っている。しかし、今年1月30日に放送された『伝説のコンサート“山口百恵 1980.10.5 日本武道館”』(NHK総合)の視聴率が、再放送ながら8.6%と高視聴率を記録。その後、Spotifyといったストリーミング配信サービスでは再生回数が急上昇、映像作品などの売上も伸びるなど、令和でも改めて“百恵人気”の凄まじさを見せつけたのだ。本誌は1972年のデビュー時から百恵さんを追いかけてきた。そこで、秘蔵写真とともに令和でも人気を博す山口百恵の魅力の秘密に迫りたい。伝説のオーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ)で20社から指名を受け、73年に女優、歌手としてデビューした百恵。意外にもデビュー直後から順調だったわけではなく、翌年発売の過激な歌詞を題材にした「青い果実」や「ひと夏の経験」のヒットで、徐々に人気を集めるように。そして、74年に主演した映画『伊豆の踊り子』で運命の出会いを果たす。それが後に夫となる三浦友和だ。2人はTBSの『赤いシリーズ』や数々の映画で“ゴールデンペア”として共演を重ねていく。その後は女優だけでなく、歌手として『横須賀ストーリー』(76年)、『プレイバックPart2』(78年)と次々に代表曲を発表し、78年の『第29回NHK紅白歌合戦』では史上初の10代にして紅組のトリを務めるまでに。まさに、一挙手一投足が社会現象となる人気ぶりだった。しかし、79年10月、日本中に衝撃の報せが。コンサート中に突如、友和との恋人宣言を発表。それからわずか5カ月後の80年3月には、会見を開き友和との婚約を発表しただけでなく、その年をもって芸能界を引退することも宣言したのだ。そして、満を持して同年10月5日に行われたのが今年再放送もされた日本武道館での引退コンサートなのだ。大勢のファンはもちろん、西城秀樹さん(63)や和田アキ子(71)といった親交のある芸能人たちも続々と駆けつけたまさに“伝説の最後”。しかし、実は直前にあるトラブルが。ファンの間では都市伝説的に語られていることだが、網羅的にベストヒットを求めたコンサートのプロデューサーと、最新アルバムの曲を中心に歌いたかった百恵さんとの間で対立が起こっていたというもの。引退コンサートの構成を担当した演出家の宮下康仁さんは、「それは事実です」と認めた上で、今年1月、本誌にこう打ち明けていた。「百恵ちゃんは、『横須賀ストーリー』より前の歌はあまり歌いたくなかったんです。ですから当初、デビュー当時の曲はまったく入っていませんでした。そこでTBS側が百恵ちゃんと親しい人を介して説得しようとしたんです。すると百恵ちゃんを『私の大事な友達をなんだと思ってるの!』と余計に怒らせてしまって。百恵ちゃんは『もう放送はいらない』とまで言ったんです。最終的に私がなんとか説得して百恵ちゃんも『わかった』ということで収まりました」そんな騒動を乗り越え、コンサートではマイクをステージ中央にゆっくりと置き、悠然と舞台から去って自ら伝説の幕を降ろした百恵。しかし引退し、山口百恵から三浦百恵さんになっても、人気は衰えるどころかますます“憧れの的”として注目を集めていく。引退後もメディアからの出演オファーが殺到し、その度に固辞してきた百恵さんだが、公の場に姿を見せたことが。その一つが、1986年に行われた原辰徳(63)の結婚式。黒のシックなドレスで式に参加した百恵さんだが、久しぶりの公の場ということもあって取材陣も殺到するなど、大賑わい。19年7月に出版されたキルト作品集『時間の花束 Bouquet du temps』(日本ヴォーグ社)は異例の20万部を突破している。プライベートではおしどり夫婦として芸能界の頂点に君臨。明治安田生命が行っている「理想の有名人夫婦」では友和とともに15年連続で1位に輝き、殿堂入りする快挙を達成していた。本誌も04年に友和と相合い傘をしながらデートする姿や、今年1月には結婚した長男・三浦祐太朗(37)を実家で温かく迎え入れる姿も目撃している。昭和、平成、令和と3世代を跨いで愛され続ける百恵さん。その伝説はまだまだ終わらなそうだーー。
2021年12月10日令和の山口百恵ブームが止まらない。1月31日に放送された『伝説のコンサート“山口百恵1980・10・5 日本武道館”』(NHK総合)は再放送ながら8.6%という高視聴率を記録。往年のファンだけでなく、若者も魅了し、放送時にTwitterのトレンドでも関連ワードが1位に入る事態となった。さらに、09年に発売した引退コンサートを収録したDVDが2月15日付のオリコン週間DVDランキングで10年7カ月ぶりにトップ10入り。18年発売のBlu-ray版も自身初となるトップ20入りし、令和になった今も“伝説”を更新し続けている。引退コンサートが行われた80年10月5日、本誌も開演前から終演後まで現地で徹底取材を敢行。そこでの秘蔵エピソードを写真とともに振り返りたい――。■「友和さんと末永く!」会場を埋め尽くした横断幕約1万人の観客が目撃した百恵の引退コンサート。百恵の最後の舞台とあって、即完売するプラチナチケットに。惜しくもチケットを手に入れることができなかったファンも、会場に詰めかける事態となった。また会場外には親衛隊の面々や、百恵グッズを売るファンが集い、開演前から異様な雰囲気に。会場の中では有志のファンによる「友和さんと末永く!」「百恵ちゃん幸せになって!」といった横断幕がいたるところにかけられる熱気。公演中はほとんど席を立つことなく、百恵の最後の雄姿を見守っていた。■最後の舞台を見届けにきた豪華すぎるゲストたち同時代を生きた芸能人からも愛された百恵。当然、引退コンサートには親交のあった多数の芸能人も駆け付けた。和田アキ子(70)、岩崎宏美(62)、小柳ルミ子(68)、谷村新司(72)といった錚々たる顔ぶれが一堂に会したことからも、以下に百恵の存在が大きかったかわかるだろう。また、故人となった森光子さん(享年92)や西城秀樹さん(享年63)の姿もあった。涙ながらにラストの『さよならの向う側』を歌い上げ、マイクをステージに置いてファンの前から姿を消した百恵。そんな百恵を出迎えたのが、夫の桑名正博さん(享年59)とともに訪れていたアン・ルイス(64)だった。すべての人から愛されたまさに“伝説の最後”となった――。
2021年02月21日「百恵さん本人は口数が少なくて、僕ら自身もとても緊張してたといました。これまでいろんなインタビューで聞かれたのですが、実は百恵さんとどんな話したかなとかという記憶もあまりないくらいなんです」当日の様子をこう振り返るのは演出家の宮下康仁さん。宮下さんは山口百恵が80年10月5日に行った引退コンサートで、構成を担当していた人物だ。引退コンサートの様子をおさめた『伝説のコンサート“山口百恵1980・10・5 日本武道館”』(NHK総合)が1月31日に再放送され、8.6%という異例の高視聴率を記録。引退から41年経てもなお、色あせる様子はない。伝説的なエピソードばかりが取り上げられがちな百恵だが、一人の歌手としてもその実力は規格外だったと宮下さんはいう。「百恵さんはやっぱり歌が何よりすばらしい。今、いろんなアーティストさんが『秋桜』や『いい日旅立ち』をカバーしているけど、敵う人はいないと思ってしまいます。そういうことを考えると、本当にすごかったんだなと」引退コンサートでは曲目選びから舞台の構成まで企画段階から関わったという百恵。“演出家”としても百恵の才能は図抜けていたようだ。「衣装に関しては百恵さんが全部自分で決めてきて、僕らスタッフは一切タッチしなかったんです。当時のアイドルは演出家にすべて委ねるのが普通だったのですが、百恵さんは“最後は自分で”ということでいろいろ決めたのでしょう。引退コンサートには百恵さんがすべてのメッセージを込めて作ったのだと思います」やはり引退コンサートで特に印象的なのが、ラストとなった『さよならの向う側』を涙ながらに歌い終えた後、百恵がステージ中央にマイクを置いて去っていったことだろう。一部では、振付師が考案したともいわれている伝説の“マイクパフォーマンス”だが、宮下さんは“演出じゃない”と語る。「僕らがこうしろみたいに言った覚えがないんです。だから、僕らスタッフも“まさかステージ上に置いていくとは”という感じで、驚いた記憶があるんですね。よく“演出がそうさせたんですか?”と聞かれるのですが、『そうじゃない』と常に答えています。あれは“百恵さん自身の最後の気持ちだ”と、僕は今も思っていますね」最後に宮下さんは、今も消えることのない百恵への思いをこう口にする。「約50年、この世界にいますが、やっぱり本当に出会えてよかったと思います。百恵さんは年下ですが、本当に尊敬してます。僕が“今までに誰が一番印象に残ったんですか?”と聞かれたときに必ず、『百恵さんとユーミンです』と答えています。僕は2人がいちばん大好きです。本当に一緒に仕事ができて、40年経っても輝いてる百恵さんは自分の誇りです」
2021年02月20日1月30日に放送された『伝説のコンサート“山口百恵 1980.10.5 日本武道館”』(NHK総合)の視聴率が8.6%と高視聴率を記録するなど、今も日本中から愛される山口百恵(62)。73年にデビューしてから次々とスターダムを駆け上がり、78年の『第29回NHK紅白歌合戦』では10代で紅組のトリを務めるなど日本を代表する歌手に。この記録は未だ破られていない。しかし人気絶頂の80年3月、三浦友和(69)との婚約を突如発表し、芸能界引退も決断。冒頭の番組で放送された日本武道館でのコンサートをもって、表舞台から去っていったのだ。引退後は山口百恵ではなく“百恵さん”として、第2の人生をスタート。84年に長男・三浦祐太朗(36)、翌年には次男・三浦貴大(35)を出産。友和はもちろん、祐太郎は歌手、貴大は俳優業でそれぞれ活躍するなど、母親として家族の芸能活動を支えてきた。そこで本誌が目撃してきた百恵さんの姿を写真とともに今振り返りたい――。■数少ない公の場!原監督の結婚式に夫婦で出席引退後、幾度となく復帰説が囁かれた百恵さん。メディアの出演依頼もすべて固辞してきたが、報道陣の前に姿を現すことも。そんな貴重な機会の一つが、86年に行われた原辰徳(62)の結婚式だ。当時、読売ジャイアンツで不動の4番を誇っていた原とプライベートでも親交のあった友和と百恵さん。全身黒のシックな装いで出席した百恵さんは、友和とともに笑顔で報道陣の前に。百恵さんが公の場に久しぶりに現れるとあって、報道陣も殺到した大賑わいの結婚式となった――。■長男夫妻の正月帰省を笑顔でお見送り引退後の百恵さんの日常を彩った趣味がキルト制作。87年ごろからキルト制作をはじめ、キルト作家の鷲沢玲子氏に師事し、19年には作品集を販売するまでに。そんな百恵さんが手塩をかけて作ったリングピローを渡した相手が長男の祐太朗だ。昨年6月に祐太朗は声優・牧野由依(35)との結婚を発表。その際、発表した妻との2ショット写真では、百恵さんからもらったリングピローが大切に抱えられていた。牧野と頻繁にLINEをするなど、嫁姑関係も良好な百恵さん。そして本誌は今年1月、実家に帰省した祐太朗と牧野の姿を目撃。祐太朗夫婦の帰り際、百恵さんは玄関口まで笑顔で2人を見送っていた。
2021年02月11日1月30日に放送された『伝説のコンサート“山口百恵 1980.10.5 日本武道館”』(NHK総合)の視聴率が8.6%と高視聴率を記録するなど、今も日本中から愛される山口百恵(62)。73年にデビューし、次々とスターダムを駆け上がった百恵だが、80年3月に突然の芸能界引退を公表する。その契機となったのが、三浦友和(69)との結婚だ。74年の主演映画『伊豆の踊子』での共演以来、親交を深め次第に惹かれていった2人。79年10月にはリサイタル中に友和との“恋人宣言”を行い、世間に衝撃を与えた。そして、翌年3月には婚約会見を行い、引退興行を行うと発表した。その締めくくりが、冒頭の番組でも放送された日本武道館での引退コンサートだ。コンサートの企画からかかわった百恵は全30曲を披露。最後には、マイクをステージ中央に置いて去っていくという“伝説”を残して表舞台から去っていった。■1,800人が出席した“伝説の披露宴”引退コンサートから約1カ月後の、80年11月19日に百恵と友和は結婚式を執り行った。披露宴の会場となった東京プリンスホテル・鳳凰の間には約1,800人の招待客が出席。仲人を故・宇津井健さん(享年82)が務め、メイン司会は故・岡田真澄さん(享年70)、サブ司会に徳光和夫(79)という超豪華な面々が顔を揃えた。また披露宴の様子はテレビで生中継され、平均視聴率30%という驚異的な数字も記録していた。■空港にマスコミが殺到!超厳戒態勢の新婚旅行日本中の祝福を受けて新たな人生をスタートさせた百恵と友和だが、なんと披露宴の翌日に新婚旅行を敢行!2人が選んだハネムーンの行き先はハワイ。20日の出発日には披露宴の興奮も冷めやらぬマスコミ各社が空港に殺到することに。空港内で即席の会見が行われる事態となった。厳戒態勢のままハワイへ旅立った2人だが、マスコミ各社も現地へ大挙して追跡する。一生に一度の新婚旅行を守るべく、友和の事務所は“驚きの一手”を打つ。当時を知る芸能リポーターはこう語る。「ハワイにはマスコミが何十社も潜入していたので、すべての追跡から逃れるのはなかなか難しい。そこで友和さんの事務所は、マスコミ各社に『最終日に取材する場を設けるからそれまではそっとしておいてほしい。もし一社でも破ったら、取材はなしにします』と事前に告げたんです。2人の貴重な新婚旅行を正式に取材することができるわけですから、これにはさすがに各社も従いましたね」マスコミ対策も“伝説的”だった百恵と友和夫妻だった――。
2021年02月07日昭和を代表する伝説の歌姫・山口百恵(62)。1月30日に放送された『伝説のコンサート“山口百恵 1980.10.5 日本武道館”』(NHK総合)の視聴率が8.6%を記録した。昨年10月に同番組がNHK BSプレミアムで放送されるやいなや、大反響となった。そして、NHK総合に移す形で今回の再放送が実現し、異例の高視聴率となったのだ。芸能界を引退してから41年経った今も、日本中の人々を魅了し続ける山口百恵。本誌はデビュー当時から現在にいたるまで、数々の“百恵伝説”を目撃してきた。わずか7年半の芸能生活となった百恵だが、現役時代の彼女を支えた“キーパーソン”との思い出を写真とともに振り返りたい。■先輩・和田アキ子との絆72年12月にオーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ系)で注目を集め、73年にデビューを果たした百恵。そんな百恵の頼れる先輩として君臨していたのが、68年に同じ事務所からデビューした和田アキ子(70)だ。百恵のデビュー作となった映画『としごろ』では和田が主演を務め、右も左もわからない百恵を支えていたという。本誌も事務所のパーティで和田が百恵にケーキを食べさせる“愛の指導”を目撃している。■百恵を変えた夫・三浦友和との出会いデビューから破竹の勢いでブレイクしていった百恵。そんななか、74年に運命の出会いを果たす。将来の伴侶となる三浦友和(69)だ。同年、百恵が主演した映画『伊豆の踊子』で友和が相手役を務めると、次々と他の映画でも共演していき“ゴールデンコンビ”と呼ばれるまでに。次第に百恵も共演相手ではなく、友和を一人の男性として意識していくことに。80年9月に刊行された自叙伝『蒼い時』(集英社刊)で百恵は友和へのビビッドな気持ちをこう綴っている。《晴海埠頭のロケーションがあった時だった。彼の胸に顔を埋めるシーンで、厚手のセーターを通して、私の耳に響いてくる彼の鼓動を聞きながら、「この鼓動を特別の意識を持って聞くことのできる女性に……私がなれたら」と思った。それは、まぎれもない、恋の実感だった》
2021年02月06日昨年10月にNHK BSプレミアムで放送されるやいなや反響が殺到し、1月30日にNHK総合で異例の再放送が行われた『伝説のコンサート“山口百恵1980・10・5 日本武道館”』。わずか7年半の活動で芸能界を引退した山口百恵だが、その“伝説”は今も決して色あせていない。引退コンサートでは企画会議から携わったという百恵。なかでも、選曲には強いこだわりを見せていたという。当時、構成を担当した演出家の宮下康仁さんはこう明かす。「宇崎竜童さん(74)、阿木燿子さん(75)夫妻と初めてタッグを組んだ『横須賀ストーリー』ができたとき、百恵ちゃんが『宮さん、聞いて!次、すごい歌ができたから』って言うんです。百恵ちゃんはそこから変わっていきましたね。引退コンサートで百恵ちゃんが『とにかく私はこの1曲が歌えればいいの』と言っていたのも、宇崎さん夫妻が提供した『曼珠沙華』でした」その選曲を巡って、百恵ファンの間で噂されている“都市伝説”がある。往年のファンは言う。「引退コンサートで百恵さんは、デビュー曲から最新曲まで網羅した全30曲を披露しました。でもその裏で、ベスト盤的な選曲を求めた総合演出のTBS・山田修爾プロデューサーに対して’80年発売のアルバム『メビウス・ゲーム』の曲目を中心に構成したかった百恵さんが猛反発していたそうなんです」宮下さんは噂を「それは本当です」と認めたうえで、“開催危機”があったことまで明かしてくれた。■「私の友達をなんだと思ってるの!」百恵が激怒した理由「百恵ちゃんは、『横須賀ストーリー』より前の歌はあまり歌いたくなかったんです。ですから当初、デビュー当時の曲はまったく入っていませんでした。そこでTBS側が百恵ちゃんと親しい人を介して説得しようとしたんです。すると百恵ちゃんを『私の大事な友達をなんだと思ってるの!』と余計に怒らせてしまって。百恵ちゃんは『もう放送はいらない』とまで言ったんです。最終的に私がなんとか説得して百恵ちゃんも『わかった』ということで収まりました」語り草となっているのがやはり最後。ラスト1曲の『さよならの向う側』を涙ながらに歌い終え、深々とファンにお辞儀をし、ゆっくりとマイクをステージ中央に置く百恵。そして、悠然と客席を見回して、静かにステージから去っていった。この間、約150秒で百恵は永遠に人々の記憶に刻まれることとなったのだ。その場で目撃していた盟友・野口五郎(64)はそのときの様子を本誌にこうコメントする。「ラストコンサートの隣の席は(西城)秀樹でした。彼女が最後にマイクを置いたとき、僕も秀樹もアーティスト席の皆が、客席のファンの方たちより率先して、スタンディングオベーションをしたように僕は記憶しています」この“伝説の150秒”にも百恵の強い意思が込められていたのではないかと、宮下さんは言う。「よく『演出でマイクを置かせたのですか?』と聞かれるのですが、常に『そうじゃない』と言ってるんです。やっぱり百恵ちゃんの“最後の気持ち”だと私は思うんです。彼女のメッセージをあの舞台に込めて作っていたのでしょう。とにかく21歳にして心から尊敬できる女性でした」令和になった今も、百恵は日本の“夢先案内人”として導き続けていくことだろう――。「女性自身」2021年2月16日号 掲載
2021年02月03日《“山口百恵”という時代を作ってきた彼女の最後のステージ。同じ時間を共に出来たよろこびを感じながら武道館にいました。その存在感と圧倒的なオーラは今でも心の中にしっかりと残っています。その潔い去り方と共に彼女の存在は「永遠」になったと思います》本誌にこうコメントを寄せたのは、名曲『いい日旅立ち』の生みの親である谷村新司(72)。1980年に芸能界を引退してから41年。山口百恵(62)が令和に“奇跡の復活”を果たした。昨年10月にNHK BSプレミアムで放送された『伝説のコンサート“山口百恵1980・10・5 日本武道館”』が1月30日にNHK総合で再放送されたのだ。これは百恵の最後の舞台となった引退コンサートを収録したもの。往年の歌手のコンサート映像をBSから総合に移して再放送するのは極めて異例のこと。NHKの広報担当者は、こう明かす。「百恵さん最後のコンサートの再放送を希望される方々のお問い合せを200件あまり頂きました。20代以下の方も含めて、幅広い世代の方々からございまして、全世代の方々からお問い合わせを頂いたという形です」引退から41年たった今も人々の心をつかんで放さない百恵。令和の若い世代をも魅了する彼女の魅力について、当時、レコード会社で百恵の担当を務めた音楽プロデューサーの酒井政利さんはこう語る。「初めて百恵さんに接した若い人も彼女の表現力、品性に感銘を受けたのでしょう。素晴らしいものは時代を超えて伝わりますから」■久米宏を大慌てさせたハプニング’73年にデビューし、瞬く間にスターダムを駆け上がった百恵。しかし人気絶頂の’79年10月、ご存じ、三浦友和(69)と突然の“恋人宣言”。’80年3月には三浦との婚約を発表し、芸能界引退も宣言した。そして迎えた“最後のステージ”が10月5日に行われた日本武道館でのコンサートだった。酒井さんは当日の様子を興奮気味にこう振り返る。「あのときの百恵さんはいつも見ている何倍ものオーラがあふれ出していました。彼女は今、全身全霊を観客にぶつけて、さよならを告げているんだなと感じました」その様子はテレビでも生中継され、視聴率27%を記録。舞台裏で起こったハプニングを明かしてくれたのは引退コンサートの構成を担当した演出家の宮下康仁さんだ。「TBSで中継していたのですが、割とすらすら進んで予定より30分早く終わってしまったんです。司会の久米宏さん(76)が大慌てでつないでくれたのですが、終わったあとに『大変だったよ!』と笑いながらぼやいていました」百恵の伝説的な芸能生活を象徴するように“駆け抜けた”コンサートだったのだ。「女性自身」2021年2月16日号 掲載
2021年02月03日「僕もうれしいです。ああいう父母みたいな仲のいい夫婦になれたら本当にいいな、と僕らも思っているので」誇らしげにこう語るのは三浦友和(68)と百恵さん(61)の長男で歌手の三浦祐太朗(36)。友和&百恵さんは明治安田生命が行っている「理想の有名人夫婦ランキング」で15年連続1位に輝き、殿堂入りを果たしたのだ。11月下旬、パーソナリティを務めるラジオ番組の生放送後に両親の快挙について語ってくれた祐太朗だが、彼自身も今年6月に人気声優・牧野由依(34)と結婚したばかり。幸せな新婚生活を送っているようだ。「祐太朗さんのラジオ番組に牧野さんが出演したことで出会い、交際に発展。もともと祐太朗さんがアニメオタクだったこともあり由依さんにはベタぼれ。共働きではありますが、合間をぬって定期的にデートをしては2人の時間を作っていますよ」(祐太朗の知人)本誌も8月、仕事終わりに自宅近くのすし店でデートする2人の姿を目撃している。結婚後も着実に絆を強めている祐太朗だが、目標にしているのはやはり11月に結婚40周年を迎えた偉大な両親だ。「百恵さんは人気絶頂だったにもかかわらず、結婚を機に芸能界から完全に身を引いて主婦業に尽くしてきました。友和さんもそんな百恵さんへ感謝を常に伝えていますし、結婚してから1度も夫婦げんかをしたことがないそうです。また月に1回は必ず2人でデートに出かけるという結婚当初からの夫婦ルールもいまだ健在。祐太朗さんが奥さんと2人きりで食事に出かけているのは、間違いなくそんな百恵さん夫婦の影響でしょう」(芸能関係者)8月31日に放送された『徹子の部屋』(テレビ朝日系)に出演した際、祐太朗はこう語っていた。「『夫婦げんかは犬も食わない』と父がよく言っているので、その教えを忠実に守っていますね」結婚を機に芸能界から身を引いた百恵さんと、結婚後も精力的に仕事を続ける牧野。立場の違う2人だが、嫁姑仲は良好なようだ。「昔から子供の判断を尊重してきた百恵さんですから、働きながら家庭を支える由依さんのことも応援しているそうです。由依さんとよく連絡を取り合っていて、今ではLINEのスタンプを送り合う仲だと祐太朗さんも話していました」(前出・祐太朗の知人)今も寄り添い続ける両親の背中を追う祐太朗。しかし、かつては“百恵さんの息子”と呼ばれることへの葛藤を抱いていた。「歌手デビュー当時の祐太朗さんは、“七光り”と呼ばれることを嫌い、三浦という姓を隠して活動していました。大きすぎる両親の存在がプレッシャーになっていたそうです。しかし、年を重ねるにつれ両親のすごさを実感し、最近では百恵さんのカバーアルバムも発売。“百恵さんの息子”としての覚悟ができたのでしょう」(音楽関係者)今回、目撃した祐太朗の左手薬指にはきらりと光る結婚指輪が。実は、この指輪にも両親との絆が宿っているという。「祐太朗さんの結婚に際して、百恵さんは両家のイニシャルである“M”の文字がデザインされた純白のリングピローを手作りしてプレゼントしました。また、百恵さん夫婦は結婚10周年ごとにペアリングを作って贈っています。そんな姿を見て育った祐太朗さんにとって指輪というのは“家族愛”を象徴するものなのでしょう」(前出・芸能関係者)そして、祐太朗が両親から受け継いだものがもう1つあった。「10月20日に祐太朗さんは生まれ育った国立市の観光大使に就任しました。『国立の“落ち着き”と“品”というよさを発信できたら』と意欲を見せています。友和さんも地元への思いは強く、今年は国立市のシルバー人材センターの設立40周年を祝う記念冊子に登場して『しみじみいい所だよねって思うわけです』と“郷土愛”を語っていました。祐太朗さんとしては、これからは“父に続き、僕も国立を盛り上げていく”という思いなのでしょう」(前出・祐太朗の知人)最後に記者が祐太朗の“理想の夫婦像”について尋ねると、顔をほころばせながらこう語った。「両親が僕ら夫婦の手本ですから。本当に仲よしなんです」両親から“2つの愛心”を継承した祐太朗。祐太朗夫婦が、令和の「理想の夫婦」としてランキング入りする日を両親も願っているはずだーー。「女性自身」2020年12月15日号 掲載
2020年12月03日改札口から出てきた三浦祐太朗(36)の姿を見て、新妻は顔をほころばせる。2人は肩を寄り添わせながら夜道を歩きだした――。三浦友和(68)と百恵さん(61)の長男で歌手の祐太朗が入籍を発表したのは6月12日のこと。お相手は牧野由依(34)。「『ツバサ・クロニクル』のサクラ役をはじめ、話題のアニメ作品のキャラクターを数多く担当している人気声優です」(芸能関係者)本誌が東京都内で2人を目撃したのは7月下旬。この夜、祐太朗はレギュラー出演しているラジオ番組を埼玉県で収録し、東京へと戻ってきたところだった。「1時間ほどかかるはずですが、祐太朗さんはもっぱら電車通勤で、そのことを知ったときは少し驚きました。“二世タレント”というと派手な生活をしているイメージもありますが、祐太朗さんは全然違うようですね」(ラジオ局関係者)落ち合った祐太朗と牧野がデート先に選んだのは、駅の近くにあった、すし店。とはいっても、夜でも1人前3千円ほどのリーズナブルな店で、新婚夫婦の地に足の着いた生活ぶりが垣間見えた。実は“見えを張らずに、自分の身の丈に合った生活を”は、母・百恵さんのモットーでもある。友和は以前、本誌のインタビューに、仕事に恵まれなかった時期のエピソードを語っていた。バブル期に一軒家のために高額のローンも組んでしまい、「このままでは家を売るしかない」と、悩んでいた彼に、百恵さんは泰然自若とした様子でこう言ったという。「(収入が)10万円なら10万円の、千円なら千円の生活をするだけよ」そんな言葉に救われたという友和は最近、週刊誌のインタビューで長男の結婚についても言及している。《(お相手は)素敵な方でした。結婚式はしていませんが、やりたいでしょう。特に女性はね》(『週刊新潮』’20年7月30日号)挙式や披露宴について、本人たちはどう考えているのだろうか。本誌は祐太朗を直撃取材した。――ご結婚おめでとうございます。「ありがとうございます!」――牧野さんをご両親に紹介したのは3月と伺っていますが、お母さまからはどんなお言葉を?「そうですね。ふつうですが『おめでとう』と、言ってくれました」――挙式や披露宴については検討中と報じられていましたが?「実は考えていないんです」きっぱりと答え、その理由についても語る。「いちばんの理由は、こういった(コロナ禍という)時期だということです。皆さんに集まっていただくのも申し訳ないので、そう決めました」屈託のない笑顔を見せると、深々と一礼し、祐太朗は歩いていった。たとえ“逆境”にあってもめげず、動ぜず……。母の教えは、見事なまでに長男の血肉となっていた。「女性自身」2020年8月18・25日合併号 掲載
2020年08月11日今、SNSでは興奮した若者たちのメッセージが次々とつづられている。《百恵ちゃんの曲が好きすぎてダウンロードしまくってる世代というわけじゃないけど大好き!!!》《山口百恵がトレンド入りしてたからサブスクで聞いてみたけど、結構歌える曲があってビビる…音楽の教科書に載ってた曲もあったよね。私20歳なのに、、笑やっぱすごいや》5月29日、百恵さん(61)がこれまでに発表した600曲以上にのぼる楽曲のサブスクリプション配信が“解禁”された。若い世代から大きな反響を呼んでいる――。「サブスクリプション配信とは、定額制の音楽聴き放題サービスのこと。日本では10社以上の配信元があります。それぞれ配信曲数や内容は異なりますが、月額千円前後を支払うことで、数千万曲以上の世界中の楽曲がスマートフォンやパソコンでいつでも聴けます。若者の間で“サブスク”と呼ばれ、大人気のサービスです。今回の解禁で『秋桜』『イミテイション・ゴールド』といった全シングルからライブアルバムまで配信されました」(レコード会社関係者)なぜ、このタイミングで配信を開始したのか。その狙いについて音楽評論家の富澤一誠氏はこう推測する。「百恵さんサイドはこれまで、機をうかがいながら全集や映像作品を発表することで、“山口百恵の希少価値”を高め、往年のファンを大切にしてきました。サブスク全盛期の今、解禁することで若者たちにも販路を開き、マーケット的にも取り込みたいということでしょう」その狙いどおり、当時、熱狂した世代だけでなく、若者たちも殺到しているというのだ。「配信元の1つで、多くの若者が利用するSpotifyでは、百恵さんの人気曲ランキング1位が『プレイバック part2』、2位が『さよならの向う側』、3 位が『いい日 旅立ち』でした。すべての配信元の再生回数を合わせると解禁されてから3日間で100万回以上再生されたと聞いています。百恵さん世代の歌手では異例の数字です」(音楽ジャーナリスト)夫・宇崎竜童(74)とのタッグで数々の名曲を百恵さんに提供した作詞家・阿木燿子(75)も喜んでいるという。阿木をよく知る音楽関係者は言う。「百恵さんの時代から比べてCDの売り上げはかなり下がっています。しかし、こうした形で若い世代が百恵さんの楽曲に触れ、阿木さんも『本当にありがたいです』と言っていたそうです」サブスクが巻き起こす“令和の再ブーム”の要因について前出の富澤氏はこう分析する。「CDやレコードでは聴かないけど、“サブスクで昔の曲を聴いてみよう”という若者が増えています。百恵さんの楽曲を家や車で聴いていた親も多く、“ちゃんと聴いてみたらよかった!”という若者が続出していると思います」さらに、現在の人気楽曲との親和性も。「百恵さんは『横須賀ストーリー』や『プレイバック~』といった楽曲によって“歌謡ロック”を生み出しました。その流れが’80年代に入りアン・ルイスや中森明菜へ続き、さらには若者の間で支持を集める“Jロック”の基にもなっているといえるでしょう」(富澤氏)楽曲が破竹の勢いで再生回数を増やしていくだけに百恵さんへの“印税”も期待できそうだが……。「サブスク配信は1再生あたりレコード会社に1~2円ほど入ります。そこから作曲家などに分配されるのですが、歌唱のみの百恵さんに入るのは全体の約1%。3日間で100万回再生されたそうですが、百恵さんには1万円ほどしか入らないでしょう……」(前出・音楽ジャーナリスト)引退後、芸能界復帰を固辞し、沈黙を貫いてきた百恵さん。今回の解禁には、本人もかかわっているのだろうか?「契約的にはレコード会社とアーティストの所属事務所が了承すれば、本人の承諾がなくてもサブスク配信は開始できます。しかし、本気で嫌がっていればこう大々的に解禁されないはずでしょうから、本人も了承していると思います」(富澤氏)名実ともに昭和・平成・令和と“世代を超えたスター”となった百恵さん。今年の『紅白歌合戦』での劇的復活の声も上がりそう!?「女性自身」2020年6月23・30日号 掲載
2020年06月12日