17歳の誕生日。炉端焼きを囲んだ場で、ケーキではなく鯛の活き造りで祝った(’76年1月)撮影/週刊女性写真班山口百恵さん(63)が、往年の大女優・原節子さんの存在に近づいてきた。いや、もう追いつき、追い越しているかもしれない。実力や実績などの比較ではない。伝説の人としての大きさである。“伝説の人”と言われる所以1935年に女優デビューした原さんは小津安二郎監督の映画3部作『晩春』『麦秋』『東京物語』に出演したことにより、確固たる人気と評価を得たが、42歳だった1962年に何のコメントも出さぬまま引退。以降、表舞台から去り、伝説の人になった。原さんが2015年に95歳で他界すると、新聞各紙は1面で報じ、テレビ各局のニュースもトップで報じた。引退から53年も過ぎていたことを考えると、超破格の扱いだった。なにしろ、訃報を伝えた記者の大半は原さんの引退後に生まれたのであり、原さんの現役時代を知る人も70代以上に限られていたのだから。伝説の大きさを物語っていた。一方、21歳だった1980年に引退した百恵さんも原さんに匹敵する存在と言っていい。引退から約42年が過ぎたものの、昨年から今年4月1日までの1年間に朝日、読売、毎日、産経の4紙は計82件も百恵さんに関する記事を掲載した。半面、引退した年に産声をあげた記者であっても42歳か41歳。記者の多くはその活躍を目にしていないのだ。記事を読む側も同じ。人口約1億2500万人のうち、百恵さんの現役時代を知らない45歳以下の人は5000万人を超えている。それでも百恵さんの知名度や人気、存在感は衰えを知らない。百恵さんの動向が報じられるたび、大きな話題になる。記者も読者も伝説を追い続けている。興味深い調査結果がある。日本生命が昨年、約1万7000人を対象に「母親になってほしい著名人は誰ですか?」というアンケートを行ったところ、百恵さんは4位だった。1位は吉永小百合(77)、2位は天海祐希(54)、3位は草笛光子(88)、5位は石田ゆり子(52)だった。みんな現役組である。ベスト10まで見ても引退しているのは百恵さんのみ。ドラマや映画などで頻繁に顔を見る多くの女性芸能人より百恵さんのほうが慕われているのだ。百恵さん本人がどう考えようが、伝説の人は強い。人々の記憶の中では姿を消した人気絶頂時のままだからである。輝いている。現役組にとっては同じ土俵で戦える相手ではないので、対抗するのが難しい。引退後は一切表に出ないよく知られている「理想の有名人夫婦」(明治安田生命調べ)アンケートでは夫の三浦友和(70)と共に2020年まで15年連続でトップ。V15を機に殿堂入りし、ランキングの対象外となったものの、そうでなかったら、ずっとトップを続けたのではないか。「母親になってほしい著名人」と「理想の有名人夫婦」に選ばれる理由に限ると、引退後のことも影響しているはずだ。1989年4月、このほど女児の父親になった長男・三浦祐太朗(37)の幼稚園入園式で、一家3人がカメラマンにもみくちゃにされると、百恵さんは必死の形相で祐太朗を守り続けた。その頑ななまでの対応を批判する取材者も一部にいた。だが、世論は我を忘れて子どもを守る百恵さんを圧倒的に支持した。伝説化は加速した。祐太朗に子どもができたので、ワイドショーは百恵さんを取材しようとしており、実現の可能性もあると一部週刊誌が伝えている。もっとも、現実的には可能性ゼロだ。自分の子どもが生まれたときや恩人の死のときすらコメントしていないのだから。昨年7月、歌手としての育ての親である元CBS・ソニープロデューサーの酒井政利さんが亡くなったときも沈黙を守った。引退したからには一切表に出ないのが百恵さんの流儀なのだろう。原さんも一緒だった。取材を申し入れられるたび、「そっとしておいてほしい」「これが私の選んだ生き方です」などと言い、ノーコメントを通した。小津監督と共に恩人である黒澤明監督、成瀬巳喜男監督の死去の際にもコメントしていない。なぜ2人の存在は色褪せないのか。無論、実力も実績も十二分にあったことが前提にあるが、日本人が潔さに強く惹かれるのも理由に違いない。桜が好まれる一因もパッと咲き、瞬く間に散ってしまうから。芸能人も人気絶頂期に姿を消すと、代えがたい美しさを感じるのだろう。きっかけは「家族のために」世代もタイプも違う原さんと百恵さんだが、共通点もある。原さんは2男5女の末っ子として生まれ、家庭の経済的な事情で女学校を中退し、映画界入りした。原さんは現役女優時代、周囲に「望んで女優になったわけではない」と語っていた。一方、百恵さんは1972年、13歳でオーディション番組の日本テレビ『スター誕生!』に出場し、翌1973年にデビューした。女手1つで自分と妹を育てていた母・正子さん(1989年死去、享年60歳)に楽をさせてあげたいというのが動機だった。原さんのデビューは15歳。百恵さんは14歳だった。昭和、平成、令和と時代が変わろうが、家族のために働こうとする10代を笑う人間はいない。応援したくなる。その後、見事に目的を果たし、引退したことも伝説化に拍車を掛けた。芸能界との決別を自分で決めたところも2人は一緒。原さんの引退は小津監督の死去と同時期であることから、その関連性を指摘する説も生まれたが、親族も映画関係者も口々に否定した。原さんの評伝の決定版と名高い『原節子の真実』を書いたノンフィクション作家の石井妙子さんも「女性が自分で下した大きな決断を、異性の影響だとして見ようとする傾向は、なんとも浅はかであるし、原節子に対して失礼」(2017年9月10日付産経新聞)と断じている。百恵さんも友和から引退を促されたわけではない。結婚を前に「芸能界を辞める」と言った百恵さんに対し、友和は考えた末に「よし、わかった」と答えた(三浦友和著『相性』)。自分の努力で登り詰めた頂点の座から、自ら降りたことも人々を引き付け続けるのだろう。原さんの伝説は本人の意向に関わりなく、引退から時が過ぎるほど大きくなっていった。本人の実像が見えないほど伝説は膨らむ。百恵さんの伝説が同じ道を辿るのは間違いない。高堀冬彦(放送コラムニスト、ジャーナリスト)1964年、茨城県生まれ。スポーツニッポン新聞社文化部記者(放送担当)、「サンデー毎日」(毎日新聞出版社)編集次長などを経て2019年に独立
2022年04月16日2021年4月、直撃取材に「ごめん」と謝る宮迫博之(左は宮迫のスタッフ)「蛍原さんの回しでおもしろかった部分ってあまりない。ぶっちゃけ、僕は蛍原さんがいなくてもアメトーークは成立するなと思った」8月20日、自身のYouTubeチャンネルで「雨上がり決死隊」の解散を語った、『2ちゃんねる』創始者のひろゆき氏。宮迫博之が“闇営業”騒動で『アメトーーク!』(テレビ朝日系)を降板した後、番組司会を1人で務めている蛍原徹をバッサリ切ってみせた。そして宮迫の行為自体は「よくない」としながらも、吉本興業を遠回しに批判しつつ、「別に宮迫さんそこまで悪いことしたの?っていうのと、蛍原さんってぶっちゃけ冠番組作る実力ないよね、っていうのがあるので、あの騒動はいかがなものか」終始、“宮迫側”に立った物言いを続けたのだった。「雨上がり」の解散後、YouTubeチャンネル『宮迫ですッ!』の更新をストップ(8月25日時点)している宮迫。今やチャンネル登録者142万人の人気ユーチューバーである彼の動画には、多くの芸人仲間やトップユーチューバーらがゲスト出演、またコラボしている。ひろゆき氏も6月に登場して《現在ボロ儲けしているビジネス》について話をしていたばかり。 両者をつなげているのが『株式会社ギルド』だ。ギルド社はユーチューバー向けのエージェント事業や動画制作を手がけているのだが、創業メンバーとして参画しているのがひろゆき氏。そして宮迫のチャンネル運営サポートをしているのが同社であり、代表取締役を務めるのがヒカルの“マネージャー”を名乗る高橋将一氏だ。■テレビや芸能人は眼中にない 2019年11月には創業記念レセプションパーティーを開催し、高橋氏とひろゆき氏が事業展開の説明をすると、ゲストのヒカルも登壇して3人でトークを繰り広げた。「これからのYuTube界は芸能人などの参戦で“ライバルが増えるのでは?”と質問を向けられたヒカルは、“僕と同じ量は努力しないと思う。僕ほどYouTubeについて考えないだろうし、真剣になれる人はいない”と自信をのぞかせて、“目標は日本一になること”とぶち上げていました。高橋さんも高橋さんで“テレビでやっているメジャーなバラエティー番組はおもしろいと思えない”と、2人して芸能人やテレビ界は眼中にないのでしょう」(Webメディアライター)この高橋氏は「雨上がり」解散後、自身のツイッターで《家族や名誉のために、プライドを捨てて数字が誤魔化せない世界で頑張ってきた宮迫さんを、これからも応援します!》と、今後もサポートしていくことを表明している。同様にヒカルも動画にて《ビジネスを超えた関係になってる》《一生関わりたい存在の1人》などと“生涯の仲”であると宣言してみせた。「吉本を追われた宮迫さんの“後盾”になっているのがギルドであり、彼ら3人の実業家なのだと思います。動画も高橋さんからのアドバイスによるものが多いそうで、まさに宮迫さんのブレーン的存在。ギルド社は視聴回数や視聴時間などの数字やデータを分析して、各クリエイターにアドバイスをするコンサル業も手掛けていますからね。もとより知名度こそあった宮迫さんですが、おそらく1人では数字を伸ばすことはできなかった。人気ユーチューバーとして成功を収めることができた背景には、同社のノウハウが生かされていることは間違いない」(前出・Webメディアライター)ユーチューバー業以外にも、今年6月にアパレルブランド『ZILVER』を立ち上げてデザイナーデビューをした宮迫。彼を全面協力しているファッション通販サイト『ロコンド』は、昨年にヒカルのブランド『ReZARD』とコラボし、宮迫もモデルとしてCM出演している。そして、現在進行中の2人によるプロジェクトが「焼き肉店経営」だ。今年2月に動画のドッキリ企画で始まった新事業への進出はトントン拍子にことが進み、あたかも前から展開が決まっていたかのようだ。「“絶対に成功できる”と豪語するヒカルとの共同経営になるそうですが、率先して動いているのは宮迫さんで、使用するブランド牛選びなどの過程も動画にアップしています。当初は8月〜9月のオープンを目標としていたようですが、コロナ禍で少々ずれ込むのかもしれませんね。そして店舗名ですが、動画ではヒカルの兄である“まえっさん”が名付けた、“雨上がり”の雨と、本名の“前田”の前からとった“雨前(あままえ)”が有力候補の一つとされています。が、これは動画がアップされた7月14日時点での話。雨上がりが解散した今となっては、“雨”を使うこと自体は何ら問題はなくとも、やはり解散したグループということで縁起がよくない。宮迫さん的にも未練たらたらな感じがしますし、“雨前”は候補から外れるのでは?」(前出・Webメディアライター)■コラボ動画ができなくなるそして「雨上がり」の解散は、“本業”のユーチューブにも大きな影響を与えそうだ。『宮迫ですッ!』スタート後は100万回再生オーバーの動画を連発してきた宮迫だが、中でもキラーコンテンツになっていたのが冒頭でも紹介したコラボ企画だった。中には『次長課長』河本準一、『極楽とんぼ』山本圭壱、“カジサック”こと梶原雄太、『ガレッジセール』ゴリ、『品川庄司』品川祐、そして解散発表で号泣した藤本敏史の『FUJIWARA』ら、多くの現役吉本芸人が、宮迫が吉本を離れた後も出演してきた経緯がある。しかし、「今後は勝手が変わってくる」とは芸能プロマネージャー。「少々、クセのあるメンツですが(苦笑)、彼らが出演を快諾したのは宮迫がいずれは“雨上がり”として復帰すると信じていたところがあったからでしょう。ところが、今年2月に大崎洋会長に“戻ってこんでええ”と言われ、ついには相方の蛍原にも三行半を突きつけられた。これで芸人仲間も動画出演に二の足を踏むのではないでしょうか。さらに言うと、ただでさえ最近は登録者数も頭打ち状態になり、“雨上がり”の看板が完全に外れてしまった宮迫に、ひろゆき氏や高橋氏がビジネスとしての利用価値をどれだけ見出しているのか。“生涯の相方”宣言をしたヒカルとて、焼き肉屋の出来次第では宮迫との関係を再考するかもしれません」芸人時代よりもヒリヒリしたプレッシャーを感じていそうだ。
2021年08月25日『裸の大将放浪記』で知られる山下清画伯女優・冨士眞奈美が古今東西の気になる存在について語る当企画。今回は、名だたる画家とのユニークな交友について。■日本洋画界の巨匠がモデルに指名年を重ねるにつれ、わかってくること、理解できることが増えていく。若い時分というのは、なかなかモノの価値というのがわからない。そのひとつに、絵の価値があるのではないかと思う。かつて、『週刊朝日』が多士済々の15人の画家に表紙を描いてもらい、読者による人気投票を行う「表紙コンクール」という企画を、定期的に開催していた。東郷青児さん、三岸節子さん、梅原龍三郎さんなど名だたる画家たちが表紙を描くのだけれど、条件として必ず画家自身が選んだモデルを1人だけ立てて表紙用に描く──。高峰秀子さん、原節子さんといった超有名な女優さんが選ばれる中、どういうわけかNHKに所属したばかりの新人女優である18歳の私に白羽の矢が立った。しかも、矢を立てたのは、日本の洋画界に多大に貢献された小磯良平さん。あの迎賓館の大広間の壁画「絵画」や「音楽」を制作し、後に文化勲章を受章する巨匠が、なぜ名もないひよこを選んだのか、今になってもわからない。当時の私は、もっとわからない。「小磯さんという先生はどうやらすごい人らしい」、その程度の理解しかない私は、言われるがままアトリエのある逗子に3回ほど通い、表紙はできあがった。「表紙コンクール」すらよくわかっていない私の心とは裏腹に、小磯先生が描いた表紙は1位に選ばれた。『少女像』という形で、今でも時折展示されていると仄聞(そくぶん)する。描き終わった後、画家の先生はそのデッサンをくださるとおっしゃったんだけど、価値というものがわからなかった私は、忘れていただかなかった。今だったら、飛び上がって、喜んでいただくのに。■山下清、鹿に乗ってはいけないと言われ……もうひとつ、絵にまつわる印象的な思い出がある。1960年から2年間、日本各地の民謡・舞踊・郷土芸能を、ミュージカルで紹介する番組『東は東』のホスト役を滝田裕介さんが、ホステス役を私が務めていた。毎週30分間、生放送する中で、山下清さんがガラス板に白いペンキで絵を完成させるというコーナーがあったので、山下さんとは2年間、いろいろな場所にロケでご一緒した。時には、山下さんと自衛隊を訪問して、一緒に戦車に乗ったり。奈良に行ったときは、マネージャーである弟さんが、「鹿に乗っちゃいけないよ」と注意したにもかかわらず、目を盗んで鹿に乗って、転倒したり。山下さんは、笑うととってもかわいくて面白い方だった。でも、最後まで私の名前を覚えてくださらず「お、沖縄の女だな」と言われたことを覚えている。静岡県・三島市出身なんだけど、山下さんはお構いなし(笑)。一度、山下さんのお誕生日に何かプレゼントをしたいと思って、「何が欲しいですか?」と尋ねると、「カラーテレビ」と即答されて固まったことがある。当時のカラーテレビは数十万円する超高級品。安月給の私にはとうてい手が届かない。そこで、「もしカラーテレビをプレゼントしたら、私には何をお返ししてくださる?」と聞いてみると、「色紙」とひと言口にして、マジックペンを取り出した。山下さんは、即興で色紙に花を描くと、「はい、これは3000円だな」といって私にプレゼントしてくれた。今や当時のカラーテレビよりも、はるかに価値がある色紙をいただいて、私はとてもうれしかった。大事に飾っていたのだけれど、色紙だから経年劣化する。どうしようと思っていたら、飲み仲間である東京・新宿「どん底」のオーナーの矢野智さんが、「いいんだよ、こうすれば」と言いながら、山下さんが描いた花の下に、勝手に道を書き足してしまった。文字どおりの“道楽”。色紙の価値はパッとなくなってしまったが、その色紙だって世界にたったひとつだけ。モノの価値って、結局は自分次第だと思う。冨士眞奈美●ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。(構成/我妻弘崇)
2021年05月12日「歌も踊りも初めてで、まだ真っ白な感じのする普通の小学5年生でした。ただ、何かをつかもうとする気持ちが強く、容姿のかわいさよりも芯の強さが印象に残っています。特別扱いはしませんでしたが、目の奥がほかの子と違って何か持っていると感じていました」教え子・浜辺美波(20)との出会いを語るのは同じ石川県出身の元タカラジェンヌ泉つかささんだ。’81年に宝塚歌劇団67期生として入団。黒木瞳(60)や真矢ミキ(57)と同期。泉さんは男役として17年間、オスカルの上官・ブイエ将軍や弁慶など数々の大役を演じ、結婚を機に退団した。現在は、歌手や俳優を目指す少女たちを指導していて、浜辺にとっては故郷の“恩師”に当たる。浜辺は3月にフォトエッセイ『夢追い日記』(北國新聞社)を出版。地元『北國こども新聞』での8年間の連載をまとめたもので、現在入手困難な人気ぶりだ。浜辺は10歳で、「東宝シンデレラ」オーディションのニュージェネレーション賞を受賞し、芸能界デビュー。同オーディションではその年、同じく当時10歳の上白石萌歌(21)がグランプリを、姉の萌音(23)が審査員特別賞を受賞した激戦の年だった。「全てが初めての経験で戸惑うことも多かったでしょう。東京でたくさんの刺激を受けたことと思います。自分の課題を一つ一つレッスンの中で乗り越えたことが今につながったのではないでしょうか」■平日は小学生、土日は女優…片道5時間の下積み時代そんな浜辺は、レッスンでは常に全力だった。「早口言葉を1つ考えてくるという課題を出すと、ほとんどの子は『カエルぴょこぴょこ』など誰もが耳にしたものを選んできます。でも、美波ちゃんは、プロを目指す人が滑舌練習で行うような、長くて複雑な早口言葉を用意してきたので驚きました」デビュー後は、東京と石川を行き来する多忙な生活だった。「平日はしっかり小学生として学び、土日は東京でドラマや撮影の仕事。北陸新幹線がない時代なので電車なら片道約5時間です。疲れてフラフラでも、自分の選んだ道だと頑張っていました。レッスンにはいつもご家族全員でお迎えにいらしている姿を拝見し、ご家族の支えは大きかったのではと感じていました」そんな浜辺が憧れるのは意外にも銀幕の女優・原節子だという。古きよきを尊ぶ感覚には、“宝塚の精神”も影響を与えたはずだ。「私は自分が美波ちゃんを育てたとか恩師だとは思っていません。私が教えられるのは、宝塚で培った『清く正しく美しく』の心です。自分に正直になって稽古を積めば舞台は裏切りません。堂々と舞台に立つには人一倍の努力が必要でした。美波ちゃんも、習い事感覚ではなく、毎回課題を見つけ、全てを次につなげようとしていました。当時は、そんな美波ちゃんが、宝塚時代の自分と重なって見えました」故郷で出会った恩師の教えは、今も生かされているに違いない。「女性自身」2021年4月27日号 掲載
2021年04月16日4月17日(土)より東京・ユーロスペースをはじめ、全国で公開される『ヒロシマへの誓い サーロー節子とともに』の舞台挨拶が公開初日に開催されることが決定した。サーロー節子、プロデューサーの竹内道、スーザン・ストリックラー監督の3人が舞台挨拶に参加する。本作は2021年1月22日に発効された核禁止条約締結を先導し、ノーベル平和賞を受賞した日本人女性・サーロー節子の平和活動を追ったドキュメンタリー。13歳で被爆し、これまで核廃絶を訴え続けてきた節子の力強い生きざまを追うとともに、同じく被爆二世であるプロデューサーの竹内が節子と出会い、自身の真実を見つける旅が並行して描かれる。日本公開初日は、核禁止条約の発効を受けて監督が追加編集した世界初公開となる映像を含めての劇場公開となる。核廃絶というゴールへ向けて世界はいままさに「終わりの始まり」というスタートラインに立った!というリアルタイム感が凝縮された映像を加えた映画を鑑賞するとともに、観客は今回の舞台挨拶で節子と同じ時間を共有。当日サーローは在住のカナダ・トロントから、竹内は本作の全国公開を前にニューヨークから来日後、実家で自主隔離中の福岡から、ストリックラー監督は在住のアメリカ・コネチカットからZoom参加となる。舞台挨拶は初日17日の10:30初回上映前、10:00からスタート。ぜひ、3人の生の声を聞いてほしい。『ヒロシマへの誓い サーロー節子とともに』4月17日(土)より公開
2021年04月08日2020年クリーブランド国際映画祭でワールドプレミアされ、コロナ禍で本国劇場公開が見送られていた映画『ヒロシマへの誓い サーロー節子とともに』が4月17日(土)より東京ユーロスペースほか、横浜、川崎、大阪、京都、神戸、名古屋、広島、福岡、札幌など全国主要都市の劇場で上演される。この度、2021年1月22日に核兵器禁止条約が発行されたことを受け、スーザン・ストリックラー監督が撮影した特別映像が本編に追加されたことが発表された。本作は、核禁止条約締結を先導した日本人被爆女性・サーロー節子の平和活動を追ったドキュメンタリー映画。広島女学院生徒だった13歳で被爆し、300数名ものの学友を瞬時に亡くしたサーローは、カナダ人と結婚した後、トロントに移住し国連や国政会議で被爆者としての体験を世界中の人々に語り伝え続け、条約の推進に貢献してきた。映画は彼女の力強い生きざまを追うとともに、本作のプロデューサーである被爆二世でニューヨーク在住の竹内道が、セーローと出会い自身の真実を見つける旅が並行して描かれる。2017年12月にICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)がノーベル平和賞を受賞した際には、ICANの一人として、そして何十万の被爆者の声を代表して受賞スピーチを行い一語一語力強く訴えかけたサーロー。その約3年後に核禁止条約が発効されたことは、ICNにとって大きな前身となった。そして、ストリックラー監督は4月17日(土)の日本公開に向けて、急遽1分45秒の映像を追加編集。映像は、ニューヨーク深夜の国連ビルにいるサーローの顔と、続いて「2021年1月22日、核兵器は常に非人道的、今日から違法」という文言が英語と日本語で投影されるシーンからスタートする。オーストラリア、ドイツ、エチオピア、ネパール、ベルギー、カナダ、ニューヨーク、広島など核禁条約発効を願ってきた世界中の人々が歓喜する姿、「最終目標である核廃絶まで条約批准国は増え続ける!」というサーローの力強い言葉をバックに羅列されるのは核禁条約に署名した86か国名。その86か国に日本は含まれてないという事実が余韻として残ると同時に、核廃絶というゴールへ向け、世界は今まさに「終わりの始まり」というスタートラインに立った!というリアルタイム感が、1分45秒のなかに凝縮された映像となっている。ぜひ、公開を楽しみに待ってほしい。『ヒロシマへの誓い サーロー節子とともに』4月17日(土)より公開
2021年03月26日展覧会「虹をかける:原美術館コレクション」が、群馬・渋川市の原美術館ARCにて、2021年4月24日(土)から2022年1月10日(月・祝)まで開催される。原美術館とハラ ミュージアム アークが「原美術館ARC」として集約40余年の歴史を歩んできた東京・品川の原美術館と別館のハラ ミュージアム アークが統合され、2021年4月、群馬県の地で「原美術館ARC」として再スタートを切る。豊かな自然の中にたつ「原美術館ARC」は、漆黒の建物それ自体が美術品のように美しく、館内には、書院造をモチーフとした特別展示室「觀海庵」などが設けられている。設計は世界的建築家・磯崎新が手掛けた。“虹”をテーマに、多彩な作品を紹介する最初の展覧会「原美術館ARC」としての初めての展覧会は、多様性や共存、平和の象徴ともいえる“虹”をテーマとし、現代美術を集めた「原美術館コレクション」と、国宝・重要文化財を含む東洋古美術からなる「原六郎コレクション」の中から、様々な国籍や文化を背景に持つアーティストたちの作品を紹介する。なお、本展は第1期と第2期に分かれており、各期で異なる作品に出会うことができる。約1,000点から構成される「原美術館コレクション」「原美術館コレクション」は、1950年代以降の世界各国の現代美術を、原美術館設立当初から収集し続けてきたものだ。理事長・原俊夫独自の視点で選ばれた絵画、彫刻、写真、映像、インスタレーションなど約1,000点で構成される。「虹をかける:原美術館コレクション」展では、2018年の「現代美術に魅せられて」展で出品されたものや、惜しくも中止となった原美術館最後の収蔵品展に展示する予定だった作品群を中心に紹介する。草間彌生、蜷川実花、荒木経惟、安藤正子、ジム ランビー、クリスチャン ボルタンスキーらに加え、原美術館でも人気を博した奈良美智や宮島達男の作品もリニューアルし展示される。狩野探幽や円山応挙らの作品が揃う「原六郎コレクション」一方「原六郎コレクション」では、明治時代の実業家である原六郎が収集した古美術から、中国陶磁の真髄を伝える国宝「青磁下蕪花瓶」、浮世絵美人図の先駆けとなる重要文化財「縄暖簾図屏風」をはじめとする近世日本絵画や書、工芸を所蔵している。本展では、近世日本の住宅に特徴的な書院造をモチーフとした展示室で、狩野派の日本絵画や円山応挙の大作画巻「淀川両岸図巻」といった作品と現代美術の競演を楽しむことができる。【詳細】展覧会「虹をかける:原美術館コレクション」会期:第1期 2021年4月24日(土)~2021年9月5日(日)、第2期 2021年9月11日(土)~2022年1月10日(月・祝)会場:原美術館ARC住所:群馬県渋川市金井2855-1TEL:0279-24-6585休館日:木曜日(祝日と8月を除く)、展示替え期間、1月1日(土)入館料:一般 1,100円、大高生 700円、小中生 500円、70 歳以上 550円※原美術館メンバーシップ会員は無料、学期中の土曜日は群馬県内の小中学生の入館無料※ぐーちょきパスポートを提示、障がいのある人は特別料金規定あり※団体については問い合わせ※伊香保グリーン牧場とのセット券(一般 1,800円、大高生 1,500円、中学生 1,400円、小学生 800円)※カフェ、ミュージアムショップのみ利用の場合も原美術館ARC への入館料が必要。【出品作家(予定)】全期:アニッシュ カプーア「虚空」、草間彌生「ミラールーム(かぼちゃ)」、宮島達男「時の連鎖」、森村泰昌「ロンド ネオ」(仮題)、奈良美智「My Drawing Room」、鈴木康広「日本列島のベンチ」、束芋「真夜中の海」第1期(春夏季)現代美術:艾未未(アイ ウェイウェイ)、カレル アペル、アルマン、今井俊満、トム ウェッセルマン、アンディ ウォーホル、エロ、河原温、工藤哲巳、篠田桃紅、篠原有司男、ジャスパー ジョーンズ、杉本博司、須田悦弘、ジャン デュビュッフェ、ルイーズ ニーヴェルスン、ナム ジュン パイク、ルチオ フォンタナ、ジャクソン ポロック、クリスト、三木富雄、ロバート メイプルソープ、ロバート ラウシェンバーグ、ジム ランビー、李禹煥(リ ウファン)、ロイ リキテンシュタイン、ジェームス ローゼンクイスト、マーク ロスコなど古美術:狩野探幽「龍虎図」、円山応挙「淀川両岸図巻」など第2期(秋冬季)現代美術:荒木経惟、安藤正子、アドリアナ ヴァレジョン、フランチェスカ ウッドマン、加藤泉、加藤美佳、アンゼルム キーファー、ウィリアム ケントリッジ、マリック シディベ、周鉄海(シュウ テイハイ)、崔在銀(チェ ジェウン)、ジェイソン テラオカ、ミカリーン トーマス、蜷川実花、クリスチャン ボルタンスキー、ジョナサン ボロフスキー、増田佳江、やなぎ みわ、柳幸典、米田知子、横尾忠則、ピピロッティ リスト、ジャン=ピエール レイノーなど古美術:狩野派「雲龍図」、狩野派「層嶺瀑布図」など
2021年03月25日東京・渋谷のユーロスペースほかで上演されるドキュメンタリー映画『ヒロシマへの誓い サーロー節子とともに』の公開日が4月17日(土)に決定した。本作は、2021年1月22日核禁止条約締結を先導した国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)を代表し、2017年ノーベル平和賞を受賞した被爆者サーロー節子の平和活動を続ける姿を4年間に渡って密着取材し完成させたドキュメンタリー。サーロー節子は広島女学院生徒だった13歳で被爆し、300数名ものの学友を瞬時に亡くした。後にカナダ人と結婚、トロントに移住し国連や国政会議で被爆者としての体験を世界中の人々に語り伝え続け、条約の推進に貢献してきた。映画は節子の力強い生きざまを追うとともに、本作のプロデューサーである被爆二世でニューヨーク在住の竹内道が、節子と出会い自身の真実を見つける旅が並行して描かれる。偶然にも広島女学院の卒業生であった二人の距離が縮まり、節子に励まされて、道は自分の家族の被爆の歴史に目を向け始め、広島赤十字病院初代院長時に被爆した祖父や入市被爆した母の語らなかった体験を少しずつ発見し被爆二世としての自身を見つめなおしていく。映画内で節子が語る被爆体験は、リアルで凄惨を極める。日本人の私たちでさえ改めて核の恐ろしさ、原爆の非人道性に恐怖と怒りを新たにするが、核を政治的均衡、国際間パワーゲームの道具として認識している多くの欧米人の心を動かしたのは、こうした節子の悲しくも生々しい言葉だったのだ。一方、日本人は今週3月11日(木)で東日本大震災そして福島原発事故から節目の10年を迎える。津波による悲劇を風化させてはならないと同時に、そのあと修復未だ半ばの原発事故による放射能汚染の恐怖も、決して忘れてはならない。まさに「今こそ観なければならない」ドキュメンタリー映画である『ヒロシマへの誓い サーロー節子とともに』を、ぜひ劇場で見届けてほしい。『ヒロシマへの誓い サーロー節子とともに』4月17日(土)より公開
2021年03月09日今週の「おとな向け映画ガイド」今週公開、小津安二郎を敬愛する海外監督ふたりの新作『天国にちがいない』と『わたしの叔父さん』をご紹介します。ぴあ編集部 坂口英明21/1/24(日)イラストレーション:高松啓二今週末(1/29・30)のロードショー公開は15本(ライブビューイング、映画祭企画を除く)。全国100スクリーン以上で拡大公開される作品は『花束みたいな恋をした』『名も無き世界のエンドロール』『ヤクザと家族 The Family』の3本、中規模公開とミニシアター系の作品が12本です。そのなかから選りすぐりの2本をご紹介します。『天国にちがいない』パレスチナ系イスラエル人の名匠エリア・スレイマン監督の作品です。パレスチナ、と聞いてあなたがイメージされることを、見事にくつがえしてくれる映画だと思います。主人公は映画監督。スレイマン自身が演じています。一見、松尾スズキさんのような雰囲気。ごま塩のひげ、下が透明なフレームのメガネをかけ、ハットをかぶり、ショルダーバックは斜めがけ。街を散歩して、カフェに入り、エスプレッソを飲みながら、ぼーっとする……。新作の出資者をもとめてパリとニューヨークへ旅に出るのですが、どこの国に行ってもこのスタイルは変わりません。旅の中で起こるあれこれをスケッチのように描いていきます。ワイドスクリーンいっぱいのシンメトリカルな映像。その中心に彼をおくと、これが不思議と落ち着く構図です。どれもが、どこかユーモラスで、ホッコリとしたもの。おそらく実体験に想像力をふくらませて作り出した彼独自の世界です。彼のセリフは全編通してふたつだけ。映像ですべて物語ります。例えば、パリのヴァンドーム広場に突然戦車が何台も現れたり、地下鉄では妙な男にガンを飛ばされてビビったり、救急車がホームレスに食事のデリバリー? をしたり……。ニューヨークでは、公園に天使がいたかと思うと、子連れの女性やスーパーの店員がカービン銃をまるでアクセサリーのように身に着けていたり……。パレスチナが危険だというのなら、世界こそパレスチナ化しているんじゃない? という彼のちょっとブラックな暗喩もあります。肝心の新作の売り込みがどうなったかというと……これも笑ってしまう結末です。来日したとき、まず墓参をしたという小津安二郎ファンのスレイマンらしい、とても上品な映像、ほのかなユーモア、よい後味の映画です。首都圏は、1/29(金)からヒューマントラストシネマ有楽町他で公開。中部は、2/6(土)から名演小劇場で公開。関西は、1/29(金)からシネ・リーブル梅田で公開。『わたしの叔父さん』一昨年の東京国際映画祭で最高賞である東京グランプリと東京都知事賞を獲得した作品。監督はフラレ・ピーダセン。彼もまた、小津安二郎を師と仰ぐひとりです。デンマークの農村で、初老の叔父さんとふたり、酪農を営む27歳の娘クリスの物語。静かなあたたかい映画です。小津の作品同様、大きな事件があるわけではありません。朝、足の不自由な叔父さんを起こし、服の着替えを手伝い、朝食の支度をする。叔父さんはパンにスプレッドを塗って食べる。クリスはシリアルに牛乳。仕事は、乳牛の世話、畑仕事も少し。訪れる人は牛乳の回収業者だけ。出かけるのも週に一度スーパーへ買物をするくらいです。その繰り返し。淡々とした穏やかな日々が続きます。ふたりの会話はほとんどありません。実の父娘のような絆で結ばれているがゆえ、のようです。中盤からドラマが動き出します。といっても少しだけ。牛の治療にやってきた獣医から仕事の手伝いを頼まれるのです。実は彼女、獣医を夢見たことがあり、もう一度その気持ちに火が灯ります。さらに、教会で出会ったマイクという青年とのほのかな恋。人生の新たな期待と不安の一方で、叔父さんと離れることにも辛さがあり、ゆれるクリスの姿は、小津の映画『晩春』の原節子を彷彿とさせます。実の叔父と姪が演じているそうです。姪のクリスは女優イェデ・スナゴ―ですが、叔父役のペーダ・ハンセン・テューセンは酪農家で演技未経験。監督が取材で彼の農場に滞在したときに、本物の持つ魅力はなににもに代えがたいと起用を思い立ったそうです。撮影も実際にその農場で行われました。まるでドキュメンタリーのような作り。ハンディカメラを固定し、引き気味の自然な映像は、まるで彼らの生活をそっと、横で見守っているようです。首都圏は、1/29(金)からYEBISU GARDEN CINEMA他で公開。中部は、2/13(土)から名演小劇場で公開。関西は、2/5(金)からテアトル梅田で公開。
2021年01月24日2017年にノーベル平和賞を受賞した国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)で活動してきた被爆者であるサーロー節子に4年間密着取材を行ったドキュメンタリー映画『ヒロシマへの誓い サーロー節子とともに』が、本日1月22日(金)に核兵器禁止条約が発効されることを受け、4月よりユーロスペースをはじめ全国で順次公開されることが決定した。1945年8月6日に広島市へ原子爆弾が投下され、わずか13歳で被爆し、300数名もの学友を瞬時に亡くしたサーロー節子。彼女は後にカナダ人と結婚し、移住先のトロントで全世界に向けて平和活動を続けてきた。本作ではその活動を4年間に渡って密着取材し、サーローの原点と軌跡を探る。同時に、プロデューサーである被爆2世でニューヨーク在住の竹内道が、サーローと出会い自身の真実を見つける旅が並行して描かれる本作。ふたりは偶然にも広島女学院の卒業生であり、竹内は節子に励まされ、自分の家族の被爆の歴史に目を向け始めて、広島赤十字病院初代院長時に被爆した祖父や入市被爆した母の語らなかった体験を少しずつ発見し、被爆二世としての自身を見つめなおしていく。監督は竹内と共同プロデュースも出がけるスーザン・ストリックラー。サーローと竹内のふたりの人生を重ねあわせる構成について「政治的ではなく個人の物語として描くことで、核廃絶運動には誰でも何かのきっかけがあれば関われることがより伝わる」と語っている。原爆投下から70年が経った2015年、ニューヨーク国連本部におけるNPT(核不拡散条約)会議の会場から撮影を開始。その後、広島、トロント、オスロとのサーローの活動の場をカメラは追いかけながら世界を駆け巡る。そして、核兵器を初めて非人道的で違法とする国際条約「核兵器禁止条約批准国」が、2020年10月24日に50か国に達し,本日1月22日に条約が発効されることになった。この条約締結を先導したICANは、2017年ノーベル平和賞を受賞。サーローはICAN発足当時から、国連や国政会議で被爆者としての体験を語り伝え続け、条約の推進に貢献してきた。映画内でサーローが語る被爆体験は、リアルで凄惨を極める。唯一の被爆国に生まれた日本人として、多くの欧米人の心を動かしたサーローの言葉に耳を傾けてほしい。『ヒロシマへの誓い サーロー節子とともに』2021年4月より、順次公開
2021年01月22日仏壇に手を合わせる宮沢みきおさんの母・節子さん「犯人逮捕をお土産に5人のお墓に入りたい……」東京都世田谷区の会社員、宮沢みきおさん一家4人が殺害された事件は、未解決のまま昨年12月30日で20年たった。ある日突然、被害者遺族になってしまった母・節子さんがこれまでの無念の思いを明かしてくれた──。(取材・文/水谷竹秀)■現場の家に近づくのが「怖い」20年ぶりに遠くから眺めた息子一家の自宅は、当時の記憶のままだった。「傷んでいるとか言われていましたが、そんなに変わっていないなあと感じました。事件の進展がない中、4人がいないのはすごく寂しい。そんな思いで見つめていました」東京都世田谷区上祖師谷にある区の施設で昨年暮れ、宮沢節子さん(89)は、その小さな身体から声を絞り出すように語った。節子さんのひとり息子、みきおさん(当時44歳)、妻の泰子さん(同41歳)、孫のにいなちゃん(同8歳)と礼君(同6歳)の一家4人は、2000年12月30日深夜から翌未明にかけ、この施設の近くにある自宅で、何者かに殺害された。最初に礼君が絞殺され、続いて、みきおさんら3人は柳刃包丁などで刺殺された。大みそかに日本社会を震撼させた「世田谷一家殺害事件」。犯人は現在も見つかっておらず、警視庁は有力情報提供者に懸賞金上限である2000万円をかけている。節子さんは毎年この時期になると、追悼集会のために自宅がある埼玉県から世田谷区へ足を運んでいたが、現場の家にだけは近づけなかった。「怖いんですよ。事件前、週2回、家に通っていたんですが、孫たちが『ちっちゃいおばあちゃん!』って飛んできていましたからね。必ず『ちっちゃい』ってつけるんです。その姿がもう見られないのを確認するのがつらくて」当時、泰子さんは自宅で塾を経営しており、塾の日にあたる月曜、木曜の週2回は、節子さんが孫の面倒を見ていた。「教室のほうへ泣き声が聞こえたりするといけないから、近くの公園まで行って2人を遊ばせていたんです。そのころの楽しい思い出が蘇ってくると、悲しくなっちゃう。だから家には近寄れない」昨年末はコロナで集会が中止されたため、施設では代わって、メディアへの個別会見が開かれた。主催した殺人事件被害者遺族の会「宙の会(そらのかい)」(東京都千代田区)の役員関係者がその日の朝、節子さんを家の近くまで連れて行ったのだ。「柵があって入れませんでした。だから中までは全然見ていません。ちょっと行って帰ってきただけです」あれから20年──。どれほどの歳月が流れようとも、まるで時間が止まったかのように、節子さんは変わらぬ思いを引きずっていた。■証拠多数残るも動機不明発生当時、現場からは犯人の指紋や血痕のほか、犯人が脱ぎ捨てたトレーナー、靴、帽子などの衣類一式、犯行に使われた柳刃包丁など多くの遺留品が見つかった。犯人はA型で身長170センチ前後の比較的若い男とみられている。DNA型鑑定の結果、父系が東アジア系民族、母系が欧州系(地中海)民族であることがわかっており、警視庁は、「アジア系含む日本国外の人」および「ハーフの日本人」の可能性も視野に捜査を進めている。犯行後、犯人はそのまま長時間現場に居続け、冷凍庫に入っていたカップのアイスクリームを素手で絞り出して食べたり、みきおさんのパソコンでインターネット検索をするなど、その異様な行動に注目が集まった。それだけ証拠が残っていながら、犯人の侵入経路はわかっておらず、事件は迷宮入りした。当時、捜査を指揮していた警視庁元幹部は語る。「普通の犯人ならば、現場に長時間居座るなんて考えられない。目的を達していないことの表れだ。そこには犯人しか知りえない動機があるのだが、それが解明されていないから、捜査に混乱が生じるのです」現場となった一軒家は現在、公園の側にぽつんと立っており、ひび割れなどの経年劣化がみられる。周囲にはフェンスが張り巡らされ、近くにある電話ボックス大の詰め所は昨年2月、捜査本部が置かれた警視庁成城署の署員が引きあげたため、中には誰もいない。公園でスケボーなどを楽しむ若者たちの声がこだまする中、その一角だけは、薄気味悪いほどひっそりしていた。息子をすべり台で遊ばせていた会社員の男性(40)は、こう素直な気持ちを語った。「あの家が事件現場だというのは知っていますが、公園に通ううち、その感覚は薄れていきました。取り壊すか否かの問題がありましたね。証拠はもう出てこないだろうから、何のために残しているのかという疑問はあります」現場の一軒家は昨年1月に取り壊される方向だったが、事件の風化を恐れた遺族の意向で、延期された。■事件後になくなった記憶あの年のクリスマスパーティーは、イブより1日早まり、12月23日に開かれた。世田谷の家に集まったのは、節子さんと夫の良行さん(享年84)、みきおさんをのぞく一家3人の計5人。外資系企業に勤めていたみきおさんは仕事で不在だった。節子さんが回想する。「いちごがのせてあった丸いデコレーションケーキを、にいなと泰子さんが作ってくれたんです。ごちそうになった後、おじいちゃん(良行さん)を頼むよって別れました」節子さんは、義兄の世話をするため、実家の岩手県に帰省した。良行さんは埼玉県の自宅に1人残されるため、面倒をみるようお願いしたのだ。年越しの準備をしていた12月30日夜、親戚の1人が突然、実家へ慌てて訪ねてきた。「すぐに帰る準備をしろ!」そう伝えられた節子さんは、何が起きたのかわからないまま親戚たちと一緒に急きょ、東京へ車で向かった。その途次、ラジオで事件の報道が流れた。「聞いているとうちのことじゃないかとは思ったんですが、車中でみんな黙っていて、ひと言も発しなかったんです」重苦しい空気が流れる長時間のドライブを経て、埼玉県の自宅に到着したのは、年が明けた後だった。そこに良行さんの姿はなかった。「2階の部屋でみんなが私を寝かせようとしたんですが、そこから何も覚えていないんです。お葬式もちゃんと参列してたよって言われるんだけど、全く記憶がないんですよ」親戚の1人が発生から1か月ほど自宅に残ってくれたが、その記憶もおぼろげだ。節子さんは、手帳に簡単な日記を毎日つけていたが、その年は白紙だったという。「夫は事件に関する話は家では一切しませんでした。私に考えさせたり、思い出させたりするのが嫌だったんじゃないかと思います」メディアへの対応を含めた対外的な用事は、良行さんがすべて対応した。講演などの行事には一緒についてはいくが、節子さんが表に出ることはなかった。2009年、良行さんを初代会長とする「宙の会」が結成され、翌年には公訴時効制度の撤廃を実現させた。ところがその2年後、良行さんが他界。その代わりを節子さんが務めると、隣近所から「お宅だったんですね」と声をかけられるようになった。「自分が対応して初めて、夫にだけ大変な思いをさせていたんだな、つらかったんだなって。その気持ちがようやくわかるようになりましたね」良行さんがいたころは毎月、4人が眠る墓に車で通ったが、現在は、良行さんを含む5人の誕生日に、電車を乗り継いで通っているという。■毎年行う「儀式」台所の冷蔵庫に貼ってあるカレンダーの日付欄には、ボールペンで斜線が引いてある。事件後しばらくしてから、節子さんが自宅で毎晩、行っている「儀式」だ。事件の進展を知らせる警察からの報告がないと、毎日午前0時を過ぎた段階で、その日にボールペンで斜線を引く。「警察から『今日捕まりました』という連絡が来るかなと思っている間に、夜更かしするようになり、それが習慣になって今は寝られないんです。そればかり考えて、待って待って待っているうちに、20年がたってしまいました」自宅には警視庁から返却された遺品など思い出の数々が眠っている。物作りが好きだったというみきおさんが小学生のときに作った瓶細工や恐竜のおもちゃ、孫2人と一緒に公園で拾ったどんぐりの瓶詰め、にいなちゃんの同級生から届いた手紙、一家4人の写真が描かれている食器……。にいなちゃんが直前まで使っていた赤い筆箱は、ところどころはげ落ちているが、開けると年明けの3学期を待ち望んでいたかのように、鉛筆5本がきれいに削られていた。「毎日学校へ行く前に削っていたんだなっていうのがわかりました。こういう遺品を見ていろいろ考えると、頭がおかしくなるっていうか、本当に気が狂いそうになります」仏壇のある和室の床の間では、長期休みで泊まりに来たにいなちゃんがよく歌を歌っていた。そこには今、片目だけ墨が入っただるまが5体、並んでいる。事件を担当した女性警官が退職後も嘱託で残ることになり、5年間、毎年だるまを持ってきてくれたのだという。しかし両目になる日は、ついぞ訪れなかった。節子さんが胸中を吐露する。「どうして子どもまでもが……。何でこんなことが起きたのか理由がわからない。教えてほしい。目的も全然わからない。せめて私が生きている間に、なぜ起きたのかについては知りたいです」節子さんはひとり暮らしを続けているため時折、思い詰めそうになるが、いつかの日を信じて、生き抜いていた。「私がくじけたらダメっていうか。犯人逮捕や事件が起きた理由を知って、それを土産に5人のお墓に入るのが希望なんです。せめて最後まで残った私が、それだけでも、あの子たちに報告できたらと。あんなに隠れてばかりいた私も頑張ったんだよって言いたいですね」そう語る節子さんの背中は小さく、すっかり曲がってしまったが、はっきり受け答えするその声色には、強い使命感のようなものが宿っていた。そんな「ちっちゃいおばあちゃん」は半年後に90歳。今日もまた、カレンダーの前で待ち続けている。水谷竹秀●ノンフィクションライター。1975年、三重県生まれ。上智大学外国語学部卒業。カメラマンや新聞記者を経てフリーに。2011年『日本を捨てた男たちフィリピンに生きる「困窮邦人」』で第9回開高健ノンフィクション賞受賞。近著に『だから、居場所が欲しかった。バンコク、コールセンターで働く日本人』(集英社文庫)など。
2021年01月07日井ノ原快彦が主演を務める、映画『461個のおべんとう』が11月6日より公開される。ヒップホップバンド・TOKYO No.1 SOUL SETの渡辺俊美によるエッセイ『461個の弁当は、親父と息子の男の約束。』(マガジンハウス刊)を映画化した同作は、長年連れ添っていた妻と別れることを決意した鈴本一樹(井ノ原)が、息子・虹輝(道枝駿佑)と「3年間、毎日お弁当を作る!」「3年間、休まず学校へ行く」という約束をし、お弁当を作り続けた日々を描いた心温まる作品だ。井ノ原と、後輩である道枝駿佑(なにわ男子/関西ジャニーズJr.)が親子役を務めたことでも注目を集めている同作。今回は井ノ原にインタビューし、作品の思い出や後輩の道枝についても話を聞いた。○■息子役・道枝駿佑17歳の叫びに感銘――原作者の渡辺俊美さんから、直接音楽やお弁当作りの指導をしてもらったり、息子さんのお話を聞いたりといったことはあったんですか?ギターの練習はスタジオで「一緒にやろう」という感じでした。全て俊美さんが作った曲なので、「ここはこうやって弾いた方がいいよ」といったアドバイスをいただき、そこからまた家で練習しました。お弁当作りに関しては、料理のアドバイスと言うよりも、俊美さんがどうやって作っていたのかというお話を聞きました。ちょうど僕がやっていた舞台を観に来てくださって、楽屋で話し込んだら長くなってしまって(笑)。でも、そこで息子さんとの関係についてのお話も聞けました。道枝くんと歌った「Lookin’4」という曲も、一緒にゲームをしていた時のことが元になってるんだ、とか(笑)。――息子役の道枝さんは18歳ですが、ご自身が同じくらいの時と比べたりすると、印象はいかがでしたか?会った時は17歳になったばかりだったんですが、とても礼儀正しかったです。KREVAくんとやついくんとバンド用のポスター撮影をしていたところに来てくれて、「東京に出てきたので……」と言って、「なにわ男子 道枝」と熨斗のついたお菓子をくれたんですよ。去年、舞台をやっていた時も、大阪公演に誘ったら熨斗をつけた差し入れを持ってきてくれて……お菓子屋さんに頼むのかな? ご両親もしっかりした方なんだなと思いました。僕は地元のゆるキャラのサブレしか持っていなかったから、恥ずかしくて(笑)。よく「最近の若いもんは……」と言うけど、いいことしか言えません!――井ノ原さんの青春時代は、けっこう破天荒だったんですか?バブル時代ですからね(笑)。周りに変わった方が多かったから、「そういうものなのかな」と思っていたら、だんだん時代が許さなくなってきて、今の若い子はそういうところで生まれた子たちなんだろうなと思うんです。道枝くんは東日本大震災も経験しているし、阪神大震災の話もずっと聞かされてるだろうし、それでコロナ禍もあり、色々と考えるだろうな、と。この作品についても、「当たり前の日常なのに、今では当たり前じゃないことばかりが詰まってる」と言ってて、本当によく考えてると思うし、その通りだと思います。――道枝さんとのセッションもすごく印象的でした。彼はハモったことがなかったみたいなんです。俊美さんにレコーディングについていただいたんですが、その前に何回か合わせたのに、なかなかうまくつかめなかったので、合間で一緒に練習しました。そうしたら飲み込みが早いから、僕がちょっと歌い出すだけで、彼のハモが途中から入ってくるようになって。ゲームみたいにチョコチョコと練習していました。――親子のシーンでは、どのようなところが心に残っていますか?一樹のいろいろな行動について、虹輝から「なんで?」と聞かれるシーンが多いんです。その度に一樹は「説明しなきゃダメ?」と返すんだけど、本人にとっては大きなことではなくて、単に「好きだから」とか、そういう理由。でもそれが虹輝にとってはすごく大きな問題で、そういう眼差しを受けた時に、一樹の気持ちで「あ、すいません」と思ってしまいました(笑)。「父さんがうまくいくのは、周りに甘えてるからだよ」と言われるシーンも、「ごもっともです」と思うし、息子の虹輝から強い眼差しを受けて、グッとくるところはたくさんありました。あとは、撮影が始まる時に「自分の中で大事にしてるシーンってどこなの?」と聞いたら、道枝くんが「浜辺で叫ぶシーン」と言っていたことが印象に残っています。初々しいのが、「あのシーンが大事だと思ってるんですよね」とかじゃなくて、「あのシーンが難しいと思ってる」「頑張りたいと思ってる」と言っていたところ。だから、「僕も見れたらいいな」と言っていたら、たまたま自分も撮影のあった日だったんです。道枝くんのそのシーンが見れて、「17歳の叫びって、すごいな」と思いました。そんな声はもう出ないと思ったし、感情の揺らぎもあって、彼の人間性が出るんだな、考えていることもいっぱいあるんだろうな……と思って。いいものを見せてもらったような気持ちになりました。最後のお弁当までの流れも、「人がものを食べている瞬間って泣けるな」と思ってグッときました。――KREVAさん、やついさんとは作中のバンド・Ten 4 The Sunsを演じられていましたが、ライブシーンもかっこよかったですし、結成20年という設定で、インタビューシーンなんかもすごくリアルでした。初対面だけど、2人とも最初からすごい話すから、ずっと会話していました。インタビューだと、テレビとまた違うところがあって、ちょっと素が出る感じ。でも20周年を迎えたバンドという設定だったので、ちゃんと話すことは話すという気遣いもあったり。やついさんもKREVAさんも、”お芝居”にならずに普通に話すから、「この人たち、すごいな」と思いました。本業だからこそ、リアルだなと思うところはあるでしょうね。同年代だし、それぞれいろんな形で音楽に携わってきたから、そういう部分が出ていてよかったと思っています。――今までのお話を伺っていても、テレビなどで拝見していても、井ノ原さんの意見や考え方がすごくフラットだなと思うんですが、どう培われてきたんでしょうか?徐々にだと思いますが、グループ活動して来たのは大きいかもしれないです。あとは、俳優というお仕事でも、例えば僕は今回母親役の倍賞千恵子さんのことをすごくリスペクトしていますが、それが演技に表れてしまったら元も子もないので、フラットにならないといけない。演技が終わった時に、きちんと人として尊敬しているという気持ちが出ればいいと思います。僕らの事務所の先輩や、役者としての先輩たちも「カットがかかるまでは関係ないから」と言ってくださっていたから、それが1番良い方法だとわかっていたんでしょうね。そういった先輩方から教わったことが、自分にも生きているんだと思います。■井ノ原快彦1976年5月17日生まれ、東京都出身。1995年にV6としてCDデビュー。以降、グループでの活動の見ならず、ドラマ、映画、舞台で俳優として、TVではMCとしても活躍の幅を広げ、老若男女問わず愛されている。主なドラマ出演作は、カンテレ開局60周年特別ドラマ『僕が笑うと』(19年)や、前シリーズを含めると15年にわたって出演している『特捜9』シリーズ(18〜20年)など。主な映画出演作は『天国は待ってくれる』(07年)、『FLOWERS』(10年)。昨年話題となった劇場版アニメーション『映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ』ではナレーションを務めた。
2020年11月06日お笑いコンビ・ロザンの菅広文と宇治原史規が先月25日、YouTube公式チャンネル「ロザンの楽屋」で、夢を持つことについて自身の考えを語った。「【夢があるかないか】で人の優劣を決めてはいけない」と題した動画内で、「夢を追うことって、そんなに素晴らしいことなのか。普通に淡々と暮らしていければええやん」と疑問をぶつけた菅。そのきっかけは、コンビニでの出来事だったそうで、「音楽やってるような感じの子おるやんか。『ここは俺の居場所じゃねーんだ』みたいな接客するやつおれへん? あれは夢の影響やと思うねん」「すごいふてくされてやってる子おるやんか。それがすごい嫌で」というエピソードを語った。芸人はもちろん、ミュージシャンもコンビニの店員も、「お客さんを楽しませる仕事」だという菅は、「本質としては一緒。お客さんに不快な思いをさせない。不快な思いをさせてしまってる段階で、音楽で成功するか? って」という辛らつな意見も。「そこまでの行程をサボるなよ! って思う。置かれてる状況を無視するなよって思う。自分の置かれてる状況をナシにするやん」と強い口調で諭した。そんな菅の考え方に、宇治原も、「『俺は夢があるから、これは腰掛なんだ。こんなことしてる人間じゃないんだ』っていうのが、一番間違えてる」と共感した様子。夢を持っている人が称賛されがちな世間の風潮についても、「色んな夢があるけども、一般的に語りがちな夢を、いいね! って言い過ぎやってことでしょ? 夢を持とうが持つまいが、持ってる人と持ってない人の間に優劣の差なんてない」と苦言を呈していた。
2020年11月02日結婚を機に女優を引退する山口のため、原の呼びかけで製作された映画『東京の休日』で共演したふたり。山口は米国帰りの新進デザイナー役、原はファッション界の重鎮役を演じ、上原謙、八千草薫、司葉子、宝田明らが出演した『東京の休日』(C)1958東宝ともに1920年に生まれた女優、原節子と山口淑子が生誕100年を迎えた。戦前、戦中、戦後の激動期を生き芸能史に残る、ふたりの軌跡――。■家庭の事情で女優に“永遠の処女”引退昭和を代表する2大女優、原節子と山口淑子の生誕100年を記念した特別展が、神奈川県の鎌倉市川喜多映画記念館で開催されている。原は、1920年6月17日生まれ。山口は、1920年2月12日生まれ。ふたりに共通しているのは、年齢だけではない。戦前に自らの意思ではなく芸能界にデビューし、戦中は国家に翻弄され、戦後は大女優として地位を確立する。しかし、原は42歳で引退宣言することなく表舞台から去り、山口は女優を引退し、ジャーナリスト、政治家の道を歩み、同じような境遇とともに、対照的な生き方をしている。原は、裕福な家庭に生まれたが世界恐慌のあおりで家業が傾き、女学校を中退して14歳で女優に。16歳でヒロインに抜擢された日独合作映画『新しき土』で一躍、注目された。戦時中は、政府に要請され供出運動参加や国策的な戦争映画への出演が増えた。敗戦後は、復員してきた兄弟や家族を支えるために女優を続けざるをえなかったが、黒澤明監督『白痴』、小津安二郎監督『麦秋』、成瀬巳喜男監督『めし』など巨匠の期待に応え、不動の大女優に。“永遠の処女”ともいわれ、42歳のときに映画『忠臣蔵花の巻・雪の巻』を最後に“引退”。再び表舞台に立つことはなく、2015年9月に95歳で亡くなった。■「李香蘭」として人気に司会者、政治家に転身日本統治下の満州で生まれた山口は、中国人歌手「李香蘭」として13歳でデビューし、日本の国策映画会社、満映から“日本語の堪能な中国人女優”として売り出された。日中戦争が勃発すると、日本の植民地政策のプロパガンダに利用されながらも東アジアのスターとして人気に。1941年に有楽町・日劇でのリサイタルではファンが押し寄せ劇場のまわりを行列が取り巻く“日劇7回り半事件”と報じられた。’45年に中国で終戦を迎えると売国奴を意味する漢奸を疑われたが、日本人であることが証明され翌年、帰国。本名の山口淑子として活動。黒澤明監督『醜聞〈スキャンダル〉』などに出演したほか、シャーリー・ヤマグチの名でアメリカでも活躍。 ’58年に2度目の結婚を機に女優を引退。’69年にワイドショー『3時のあなた』の司会者となり、 ’74年に政治家に転身。 ’92年に政界引退後も従軍慰安婦問題に取り組み、2014年9月に94歳で亡くなった。ふたりの歩みを知ることができる特別展には写真、ポスター、衣装など250点を展示。「時代に翻弄されながらも主体的に生きた、ふたりの女性の姿を感じてほしい」(同館学芸員の阿部久瑠美さん)【特別展開催中】特別展「生誕100年 激動の時代を生きた二人の女優―原節子と山口淑子」/鎌倉市川喜多映画記念館にて12月13日まで/特別観覧料:一般400円、小・中学生200円/開館時間9時~17時(入場は16時まで)/電話番号:0467-23-2500
2020年10月30日女優の原知佐子さんが1月19日に、上顎がんのため逝去した。84歳だった。原さんといえば、55年に新東宝ニューフェイスとしてデビュー。映画や舞台など幅広く活躍した。1970年代にはドラマ『赤いシリーズ』(TBS系)で、ヒロイン・山口百恵のイビリ役として存在感を発揮した。「原さんは『赤いシリーズ』で、百恵さんのファンが激怒するほどの意地悪な役を熱演しました。ですが演技以外では多忙を極める百恵さんを気づかって、食事に誘うといった優しい面もあったようです」(テレビ局関係者)最近の活躍では、映画『進撃の巨人ATTACK ON TITAN』(’15)や『シン・ゴジラ』(’16)にも出演していた原さん。『シン・ゴジラ』では、背負われて避難する老婆役を演じていた。「原さんの登場シーンはほんの数秒でした。そのため、エンドロールで原さんを発見した観客も多かったようです。注意深く探さないとわからないほどだったので、原さんを見つけようと再び観劇する人もいたようです」(映画関係者)そんな原さんといえば、『ウルトラマン』シリーズを手がけた故・実相寺昭雄さん(享年69)がご主人だ。実相寺さんは円谷プロ制作の『ウルトラマン』や『怪奇大作戦』といった怪獣・特撮番組の監督として有名で、多くの映像作家たちに影響を与えた。原さん自身も特撮番組に数多く出演し、実相寺さんが携わった特撮ドラマ『ウルトラマンティガ』(’96)や『ウルトラQ dark fantasy』(’04)などにも出演した。「原さんは実相寺さんの作品に出演するいっぽうで、互いを詮索しない自由な夫婦関係でした。とはいえ、原さんはお墓参りには必ず行っていたそうです。実相寺さんは先祖を大切にする原さんに感謝していました」(前出・映画関係者)しかし、’06年11月29日に実相寺さんは胃がんのため逝去した。「当時、原さんは愛知県で舞台に出演していました。その間に実相寺さんの容体が悪化したようです。実相寺さんが永眠したことを確認すると、原さんは直ぐ舞台に戻ったと聞きました。原さんはその時のことについて、『舞台があったから気丈でいられた』と振り返っていました」(舞台関係者)生涯にわたって女優魂を貫いた原さんに、追悼の声があふれている。《マザラス星人やマノン星人役の…実相寺監督の奥様、原知佐子さん亡くなったのですか…ショックご冥福をお祈りします。》《原知佐子さん。凛とした女性でした。実相寺監督が亡くなった後にもウルトラシリーズに出演されたりして嬉しかったです。「シン・ゴジラ」にも出演。ご冥福をお祈りします》《原知佐子さん 実相寺昭雄さんの奥さまであり、『シン・ゴジラ』やウルトラシリーズにも出演なさってた『ウルトラマンオーブ』最終回前編でも、「太平風土記」に纏わる大事な役を演じられておりましたね お疲れ様でございました》
2020年01月20日篠田節子さん撮影/矢島泰輔一昨年4月、ステージ1~2の乳がんで右乳房の全摘出手術をし、同年11月に無事その乳房再建を果たした、小説家の篠田節子さん。その最中にも認知症のお母様の介護、小説家としての本業を同時進行させていたのは驚きです。でも、もっと驚きなのは、その一部始終を綴ったこの本にまるで悲壮感がないこと。むしろテンポよくユーモア漂う文章で全体が構成されています。それは努めた部分なのでしょうか?■巷にあふれているがんの話と違う「いえいえ、特にそんなことはありません。いたってまじめに書いたんですけど、ステージ1~2ですし、“私死ぬの?”ってことはなかったので自然にこうなりました」でも、そもそもフィクションの小説家である篠田さんが、なぜ自身の病気や介護のエッセイを書こうと思われたのでしょうか?「一昨年発売した小説『鏡の背面』と関係があります。ちょうど検査だ入院だとなっているころに見本ができてきたんです。単行本を出すとたいてい出版社が特集を組んでくれるんですね。それでなんとなく調子に乗って“がんから生還しました系”の短いエッセイを書いちゃおうかな、と言ってしまったんです。私としてはせいぜい5~6ページでおしまいの宣伝広報活動ぐらいの気持ちだったんですけど、編集が“ウェブ連載にして一冊にしましょう”と言いだして……。“ちょっと待ってよ、それで一冊できるわけがないじゃない”となったんだけれど、言いだしっぺだし“しょうがない、一冊分書くか”と腹を括ったのです」小説家なら誰もが考えるという新刊の宣伝の話題作り。しかし“一冊分書くか”となったのには、それなりに理由があったようです。その本当の動機は何ですか?「乳がんが発見された段階から、巷にあふれているがんの話と違うな、と思ったんです。しこりもなかったし、乳頭出血といっても灰色のシミが少しブラジャーについたくらいだし。こういうケースもあるんだと思ったと同時に、初期の乳がんは今やありふれた病気でもあるのだから、その診断から標準治療の経緯をきちんと正確に書いたら、人の役に立つんじゃないかと思ったんです」■正確な情報をお知らせしなくちゃ確かに乳房温存や全摘出、乳房再建といった言葉は聞くものの実際どういうものなのか、詳しいことはあまり知られていません。「がんサバイバーなんて言葉が大げさなくらい初期の乳がん患者たちの大半は標準治療をして寛解して社会復帰しています。でも、そういう人たちの声はほとんど聞こえてこないでしょう。だから、がんという言葉だけで怖がって、疑いがあっても次の検査に行かないとか、手術をすすめられても嫌がる人が後を絶たない。はたまた、どうしても乳房の全摘出には抵抗があって、温存を希望する人が多いんだけれど、無理に残してもひどく変形してしまうこともあって、変形したバスト用のパッドがあったりするんです。そこらへんご存じなくて温存を選んでしまう人もいるんじゃないかしら。私も実際、乳がんになってみたらいろいろわかったので、みなさんも無駄に怖がったり、人生を悲観したりしてほしくないと思って、最新情報として正確なものをお知らせしなくちゃと思ったんです」認知症のお母様のこともずいぶんと赤裸々に描かれていますが、お母様の病状を書くことに迷いはありませんでしたか?「赤裸々にするつもりはなかったんですけれど、2年前に介護についての取材を受けたときがあって、気づいたら私“介護の人”になっていたんですね(笑)。介護って、映像的には車椅子を押したり、スプーンでご飯を食べさせたり、オシメ替えたり……ってイメージができあがってて、ライターさんも物語を作り上げているから、私が経験している介護とちょっと違うと思って、自分で書くことにしたんです(笑)」■施設や支援をどんどん利用するべき突飛な行動に振り回され理不尽な言動をなだめすかす認知症介護の忍耐とストレスは、スプーンでご飯……などとはまったく質の異なる介護。乳がんは、そのストレスにも原因があったと思われますか?「それは確実にあると思います。医師が診断時に予想した“がん発生時期”は、まさにこの20年の介護でいちばんきつかった時期。その後、いっそう母に手がかかるようになったので施設に入れてホッとしたら発覚ですから。介護で言いたいことは認知症の本人が身体的に元気であればあるほど介護者のストレスは長引き、しっかり者の人ほど自分を犠牲にして命を縮めてしまうので、抱え込まずに、施設や支援をどんどん利用するべきだということです」今、お母様は病院の認知症病棟に入院され、篠田さんは2、3日に1度通われているとのこと。まだまだ介護は続きそうですが、篠田さんに悲壮感があまり漂わないのはなぜでしょう?「これは小説家の言うことではないんですけれど、生きてりゃ困ったことは向こうからやってくるんです。それをひとつひとつクリアするしかありません。問題を探して見つけて解決していく、の繰り返し。無駄なことを考えないっていうのかしら。内省的になることなく、情緒的にもならないで、行動あるのみ、がいいのかも」目下の問題は汚物まみれの衣類の洗濯。「マンション住まいでの正解は?女性誌で特集してほしいです」ライターは見た!著者の素顔その華奢な身体のどこにそんなパワーがあるのかと思うほど、介護に闘病に執筆にと精力的な篠田さん。お話を伺いながらその源を探すと「作家根性」というワードが浮上しました。「この仕事じゃなかったら聖路加国際病院に入院しようなんてぜいたくは考えなかったです。聖路加の都市伝説はいろいろあるので興味津々でした。最低1泊3万円はホント。でも全室個室なだけで個室の差額ベット代はほかの病院もほぼ一緒なの。最上階に高級レストランはなかったわ(笑)」(取材・文/松永詠美子)●PROFILE●しのだせつこ1955年、東京都生まれ。’90年『絹の変容』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。’97年には『ゴサインタン』で山本周五郎賞、『女たちのジハード』で直木賞など、受賞作品多数。母親の介護と自身の乳がん治療の最中、2019年『鏡の背面』で吉川英治賞を受賞。
2020年01月20日井ノ原快彦’井ノ原快彦が主演を務めていたドラマ『特捜9 season2』(テレビ朝日系)が最終回を迎えてから約1か月が過ぎた7月17日。下北沢のライブハウスには、ドラマで井ノ原の部下を演じた田口浩正の姿があった。「田口さんは音楽活動もしているんですよ。高校時代の同級生たちとやっている『THE8343』(ザヤサシサ)というバンドです。東日本大震災の後、自分にできることはないかと考えて結成したそうです。最近は都内で演奏しています」(音楽ライター)そしてこの日のライブには、『特捜9』のキャストやスタッフたちが田口の応援のために集合したのだった。■井ノ原のドタキャンに──「『特捜9』は’18年に始まった刑事ドラマ。前身は’06年から’17年まで放送されていた『警視庁捜査一課9係』で、渡瀬恒彦さんが主演を務めていました。井ノ原さんは渡瀬さん亡きあと新たな座長となり、彼のポジションに寺尾聰さんが就いたんです。しかし、シーズン2でそれまでの監督を若い人に代えたことで現場がギクシャクしはじめ、一部のキャストとスタッフに不協和音が生じました。打ち上げに津田寛治さんが来なかったのも、それが理由のひとつだと言われています」(テレビ朝日関係者)田口のライブにも津田は姿を見せないのかと思いきや、なんと彼が会場に一番乗り。吹越満、羽田美智子、原沙知絵などの前作からのキャストや新メンバーの山田裕貴も次々と中へ入っていく。「田口さんは1曲目に『9係』のスピンオフドラマで使用された楽曲『THE8343』を披露。主演だった吹越さんをはじめ、見に来ていた共演者たちは大喜びでしたね。山田さんは最前列で大興奮していて、羽田さんと原さんは関係者エリアの近くで静かに見ていました」(ライブの参加者)ライブ終了後は、吹越が声をかけて近くの居酒屋へ。「ドラマスタッフも参加し、深夜近くまで盛り上がりました。田口さんは来てくれた人たちひとりひとりに感謝の気持ちを伝えていましたよ。ただ、最後まで座長の井ノ原さんは現れませんでしたね」(前出・テレビ朝日関係者)井ノ原は当日に急な仕事の都合で来れなくなってしまったという。「彼がドタキャンするとは思わなかったので、みんなザワついていましたね。でも、一部の出演者の中で監督や局の人事への不満が高まっていたので、撮影中はキャストと制作陣の間で井ノ原さんは板挟み状態だったそうです。ライブに来ていた『9係』からのベテランプロデューサーも、渡瀬さんへの思いが強すぎて井ノ原さんと折り合いがあまりよくないみたいで……。アウェーな雰囲気の中に来にくかったのかもしれません」(同・テレビ朝日関係者)次のライブのときは、全員集合……だよね!?
2019年07月26日GENERATIONS from EXILE TRIBEが、ニューシングル『Brand New Story』をリリース。メンバーの数原龍友さんが、今回の曲で表現したもの、そして、今後挑戦していきたいことについて語りました。30歳の時、圧倒的な輝きを放っていたい。新曲のデモテープを聴いた瞬間、探し求めていた曲と出合えた手応えがありました。ビートがあり今っぽいけど、温かみもあり、それがEXILEらしい。今作のように歌が前に出る楽曲は表現遊びが楽しいのですが、特に“歌は楽しいな、いいな”とあらためて強く感じられた作品です。今は、次のツアーで昨年の完成度を超えていくには何をすべきかと考えている時間が、すごく楽しい。想像を超えないと熱狂には繋がらないから、誰も観たことのないものを作りたいです。ファンの皆さんは、思わぬところで僕たちを包んでくれることもあれば、逆に、こちらの気持ちがうまく伝わらないことだってある。でも、その経験を生かし、次の僕たちの形として提示していくわけだから、今のGENERATIONSは、ファンの皆さんが構築しているところが大きいと思います。そう、今年27歳になるのですが、30歳になった時に圧倒的な輝きを放っていたいんです。やるべきことをやりながら余裕のある、窮屈じゃない男。後輩に“数原さんは働いているけど遊んでいるし、いつ寝てるんだろう。あんなふうに自由に生きていきたいな”と思ってもらえれば嬉しいです。かずはら・りゅうと1992年12月28日生まれ。兵庫県出身。ボーカリスト。今はマリンスポーツに夢中。サーフィンと、湖でレイクサーフィンをやることにハマっている。シャツ 参考価格¥150,000中に着たカットソー 参考価格¥40,000(共にヴァレンティノ/ヴァレンティノ インフォメーションデスク)その他はスタイリスト私物ジェネレーションズ フロム エグザイル トライブ2012年にデビューした7人組ダンス&ボーカルグループ。アニメ映画『きみと、波にのれたら』の主題歌「Brand New Story」を収録したニューシングルが発売中。今年は5大ドームツアーを予定。※『anan』2019年7月24日号より。写真・酒井貴生(aosora)スタイリスト・吉田ケイスケヘア&メイク・寺本 剛(JYUNESU)取材、文・菅野綾子保手濱奈美重信 綾撮影協力・アワビーズ(by anan編集部)
2019年07月21日’12年11月、優勝パレードに参加する原監督巨人・原辰徳監督が、選手のSNS上での投稿内容に苦言を呈した。プロ野球選手や芸能人、有名人のSNSでの投稿は、その発言内容や動画、画像一つでも今やニュースになるだけでなく、世論にも影響を与えるほどの力を持つ。最近でいえばタレントのローラが沖縄・辺野古への米軍基地移設計画に関するインターネット署名に対して協力を呼びかけたことで、「“政治的発言”でタレント生命に関わるのでは?」と指摘する声もあがった。「SNSは芸能人にとってはドラマや映画の宣伝をするだけでなく、自分の言葉でファンに直接伝えることができるツールの一つ。多くは、ファッションや食べ物、近況や他愛のない内容ですが、昨年末の吉田羊のように報道に対して否定する“場”として使われるケースもありますが」(スポーツ紙記者)プロ野球界でも、昨年はSNSが何かと話題に上った。6月には巨人の篠原慎平と河野元貴が不適切行為(裸になった篠原を同席の河野がスマホで撮影し、SNSに知人限定で公開)をしたとして謹慎処分(後に戦力外通告)になった。同8月には広島の薮田和樹が英語で投稿した内容が炎上。また10月には阪神から戦力外通告を受けた西岡剛が、球団が発表する前にSNSで公表してしまうという珍事もあった。こうした球界のSNSの事情に対し原監督は持論を展開した。1月3日の東スポWebは原監督のコメントを次のように報じた。≪「俺ね、有名人たちがSNSとかで自分で話すじゃない?あれダメだと思うね。あれは都合良すぎだよ。有名人ならば堂々といっとかなきゃな」(中略)「自分から発信するっていうのは、果たして有名人としてファンに対して、メディアの人に対してどうなのかなと思うね。基本的にやるべきじゃないよな」≫昨季、リーグ最多勝と勝率1位の2冠を手にした広島の大瀬良大地は、SNSをやめたことが好成績につながったという。「ただ原監督は一方では『何かに対しての反論だったら』ありと理解も示していますが、場合によってはナインに一定期間“SNS禁止令”を出すこともあるかもしれません」(スポーツライター)自然体の自分をファンに見せることでファンとの絆を深めたい、と考える有名人も多いが、プライベートを見せすぎて炎上するタイプもいる。「SNSがイタイと言われてしまうのがZOZOの前澤友作社長と剛力彩芽、浜崎あゆみや工藤静香です。サービス精神が旺盛すぎるので炎上しやすいのかもしれません」(ワイド―ショースタッフ)SNSが話題になるのも人気者ゆえではあるが、やりすぎには注意が必要かもしれない。
2019年01月06日女優を目指したきっかけは、新聞に出ていた新人募集の記事を読んだことだったという「私はいま、昔の撮影現場や監督さん、俳優さんのことを話し伝える語部(かたりべ)なんですよ。あちこちに出向いて話をしています。だから、けっこう忙しいんですよ」優しい笑みを浮かべながらこう語るのは、女優の香川京子。’50 年に公開された映画『窓から飛び出せ』でデビューを飾った後は数多くの作品に出演。今でも映画だけでなくドラマや舞台、CMなどで活躍を続けている。そんな彼女は今年、女優生活70年を迎え、それを記念して『凛たる人生映画女優香川京子』(ワイズ出版)を上梓した。■名監督と中華料理屋でバッタリくしくも、今年は名監督として名高い、小津安二郎監督の生誕115周年に当たる年。香川は小津監督の代表作と言われる『東京物語』に出演しているが、彼と初めて出会った日のことを鮮明に覚えているという。「監督さんがひいきにしていらした銀座の中華料理のお店に、私が映画会社に勤める叔父と一緒に行ったところ、たまたまいらっしゃっていて、叔父が紹介してくれたのが初めての出会いでした」そのときは挨拶だけだったというが、後に『東京物語』の出演オファーが来る。巨匠の作品に出演できるということで感激もひとしおだったと思いきや、意外にも、「小津監督は“大監督”でいらしたけれど、正直言ってあまりよくわかりませんでした。私は原節子さんに憧れていて、原さんとご一緒できるということがうれしかったんです」■「人間を描いていればテーマはちゃんと出てくる」大監督と駆け出しの女優では、なかなかその距離は縮まらず、話をする機会もなかったそうだが、あるときふたりきりになる時間ができた。「照明の準備を待っているときでした。監督さんが突然“僕はあまり世の中のことに関心がないんだよね”とおっしゃったんです。私は映画『ひめゆりの塔』の撮影が終わったばかりで、若くて感受性の強かった時期ですから、女優も社会人のひとりとして、戦争や平和をちゃんと考えないといけないと思い始めていたころでした。だから、おっしゃっている意味がよくわからなかったんです」彼女がその意味を理解したのは、それから何十年もあとのことだったという。「無理に表に出さなくても、人間を描いていればテーマはちゃんと出てくるという、そういう意味だったのがやっとわかりました。人間を描くということがいちばん大事だということを。演じる立場としても、そういう気持ちで演じなければならないんだということを教えられました」香川が若いころに一緒に仕事をした先輩俳優や監督、スタッフ、当時の現場を知る人たちの多くは鬼籍に入っている。そのため、彼女はいま当時を話し伝える役目を担っている。といっても、決して女優を辞めたわけではない。「みんな、意外だと言うんですけど、喜劇をやってみたいんです。ワァーッて笑うんじゃなくて、何となくおかしい、クスッとしてしまうような楽しい作品をね」瞳の奥がキラリと光った。“人間を描けば社会というものが自然と出てくる”という小津監督の教えは、今も彼女の胸にしっかり刻まれている。〈取材・文佐々木博之〉《イベント情報》6月16日〜22日/新宿ピカデリー6月23日〜7月7日/角川シネマ新宿7月6日〜12日/なんばパークスシネマ7月13日〜26日/ミッドランドスクエアシネマ8月10日〜23日/神戸国際松竹にて小津安二郎生誕115年記念企画『小津4K巨匠が見つめた7つの家族』が開催
2018年06月16日第70回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品された、アジアを代表する名匠ホン・サンス監督の最新作『それから』。主演をつとめるキム・ミニは、R18指定作品『お嬢さん』(パク・チャヌク監督)の妖しくミステリアスなお嬢さん役の大胆な演技で国際的に評価を高めた。現在ではホン・サンスの新たなるミューズとして、2015年の『正しい日 間違えた日』以降、4作品で主演を務めている。そんな彼女が監督のすごさを語るインタビューが、シネマカフェに到着した。いま世界から最も熱い視線を注がれる名監督×名女優コンビキム・ミニとホン・サンス監督の初タッグ作『正しい日 間違えた日』はロカルノ国際映画祭グランプリを受賞、続く『夜の浜辺でひとり』では韓国俳優史上初となるベルリン国際映画祭女優賞に輝く快挙を達成。また、『クレアのカメラ』ではフランスの大女優イザベル・ユペールとの共演を果たしており、いまキム・ミニには世界中から熱い視線が送られている。ホン・サンスとの4度目のタッグとなる最新作『それから』は、妻に浮気を疑われ、窮地に立たされている社長ボンワン(クォン・ヘヒョ)と、彼が経営する出版社に勤めることになったアルム(キム・ミニ)が織りなすヒューマンドラマ。出勤初日早々、社長の妻が会社を訪れ、アルムを夫の不倫相手と決めつけ騒ぎ立てる。同じ日の夜、彼女の前任者であり、社長の愛人であった女がひょっこり戻ってきたことで、事態は思わぬ方向へ…。カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、かつてロベルト・ロッセリーニとイングリット・バーグマン、ジャン=リュック・ゴダールとアンナ・カリーナ、小津安二郎と原節子といった名監督と名女優のコンビが生み出してきた名作に連なる作品として喝采を浴びた。キム・ミニ「本当に面白い」、予測不能の撮影を明かすキム・ミニは、「この映画は前作『夜の浜辺でひとり』とは全く違います。『それから』でのわたしは、ストーリーから一歩引いた観察者の役割です。一番はじめにストーリーを聞かされたとき、私の演じるアルムはそんなに重要な人物じゃなさそう、これって本当に主役といえるのかしら、と思いました」と言う。「ホン・サンス監督はシナリオをちゃんと書きません。ストーリーを聞かされてもこれから話がどう変わってゆくか予測もつかないし、そもそも監督にだって分かっていないんです。主役なのか、そうでないのかってことすら結局分からない。実は、アルムという人物にもっと重要性を持たせようと監督が決めたのは撮影がある程度進んでからなんです。彼がすごいのはそういうところなんですね」と明かすキム・ミニ。「最後のシーンでアルムが会社に戻って、ボンワン社長とのとあるやりとりですべてがひっくりかえる、まさにどんでん返しです。最後になって過去と現在が同時に立ち現われてくる。こういうところが本当に面白いんですよ」。シナリオを書かないホン・サンス監督と “あうん”の呼吸ホン・サンス監督が『それから』を撮るきっかけとなったのは、“家に帰りたくない男”の存在を知ったことから。昨今、日本でもまっすぐ家に帰らない“フラリーマン”が話題となっているが、本作の舞台に使った極小出版社の主人が「家から逃れるため」に早朝4時半に事務所に出勤し、深夜まで帰らない、という生活に監督が衝撃を受けたことからスタートしているという。監督といえば、場所と俳優だけ決めて、撮影する日の朝までシナリオを書かないことで有名。とはいえ、主演女優としてこの物語の真実を知っていたのか、それとも最後の瞬間まで、監督は主演女優にも映画の全容を隠していたのか、気になるところ。すると、キム・ミニからは「わたしが彼に質問しても決してはっきりと答えてくれません。いつも『どうなるかよく分からないな』と返ってくるだけ。彼自身が知らない以上、わたしが知っているわけはありません」と超然とした回答が…。毎朝、監督からはその日の撮影分のシナリオを渡されて、シーンについて少し話すだけで撮影に入るそうだが、『それから』にはワンシーン・ワンカットで撮られた長回しのシーンも多々。とくに、キム・ミニ演じるアルムとクォン・ヘヒョ演じるボンワン社長が、信仰や人生観について語り合う場面の撮影には苦労をしたらしい。「あの日、シナリオを受け取ったのは朝の10時。約5分間のワンシーン・ワンカットになる予定でした」とキム・ミニ。「陽が差している時間は限られていたので、結局そのシーンは2テイクしか撮れませんでした。私は監督に、演技に満足いかないのでもう一度やらせてほしいと頼んだのですが、『いや、これでいい』と言われました。翌日もう1回チャンスをくれることもあるのですが、このシーンに関してはダメでした。結局その2つのテイクのうち最初のものが選ばれました」と明かしている。本作の見どころ、たった2テイク!ワンカット長回しシーンの裏側は…しかし、この場面は、まさかそんな即興的に撮られたとは思えないほど完成度の高いワンシーンであり、『それから』の大きな見どころの1つともなっている。実生活でも恋人同士であることを公言しているキム・ミニとホン・サンス監督のこと、プライベートな会話が基になっているのではと邪推してしまうが…、キム・ミニは「こんな会話を交わしたことなど全くありません」ときっぱり。では、どうして、ごく自然な会話劇となったのか、その答えは監督の演出にあったようだ。「朝の10時にシナリオを渡されて『じゃあこのシーンについてちょっと話をしよう』ということになりました。日常の会話で話すような事柄ではないですから、当然覚えるのに相当苦労しました。信仰や神について監督はたっぷり1時間くらいかけて自分の考えを説明してくれました。内容を理解していないとセリフだって覚えられないですから」。これまでも優れたタッグ作を世に送りだしてきた2人だが、こうしたホン・サンス監督の丁寧な演出の積み重ねで、キム・ミニとの信頼関係は確固たるものとなったのだろう。公私にわたるミューズのキム・ミニを得た恋愛映画の名手は、最新作『それから』では人間ドラマの名手へと昇華したとの評価が高まっている。本作は、まさに監督と女優の幸せなコラボレーションから生まれた名作といえそうだ。『それから』は6月9日(土)よりヒューマントラストシネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国にて順次公開。(text:cinemacafe.net)■関連作品:それから(2018) 2018年6月9日よりヒューマントラストシネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国にて順次公開© 2017 JEONWONSA FILM CO. ALL RIGHTS RESERVED.
2018年06月04日東京・品川にある原美術館では、創業者であり館長の原俊夫が自ら選定した「現代美術に魅せられて―原俊夫による原美術館コレクション展(My Favorites: Toshio Hara Selects from the Permanent Collection)」を、前期と後期に分けて2018年1月6日より開催する。草間彌生「自己消滅」1980 年 ミクストメディア サイズ可変©Yayoi Kusama一つひとつ丹念に収集した1950年代以降の絵画、立体、写真、映像、インスタレーションなど所蔵作品約1,000点の「原美術館コレクション」から、館長の原俊夫が初めて自ら選びキュレーションするコレクションが揃う。1970年代後半より1980年代前半までの初期収蔵作品を主とする前期を2018年1月6日から3月11日まで、企画展の開催などをきっかけに収蔵された作品を主とする後期を3月21日から6月3日まで行い、約40年に渡る原美術館の活動の一端を紹介する。ナム ジュン パイク「キャンドルテレビ」1980 年 テレビ、ろうそく 33x41x24 cm©Nam June Paik前期は、アメリカの作家で戦後絵画に大きな影響を与えた抽象表現主義のジャクソン・ポロックやマーク・ロスコ、その後続世代を代表するロバート・ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズ、世界を席巻したポップアートの代表者であるアンディ・ウォーホルやロイ・リキテンシュタインなどの作品を展示。前衛的、実験的精神に溢れたヨーロッパの作家たちとして、絵画のジャン・デュビュッフェやカレル・アペル、彫刻のアルマンやセザール、ジャン・ティンゲリー。日本の作家からは、戦後日本美術を牽引した今井俊満、河原温、工藤哲巳、宮脇愛子などの作品が集結する。また、今も現役で活躍する草間彌生、篠原有司男、杉本博司、李禹煥、さらに世界に影響を与えたアジアの作家として、ナム・ジュン・パイクや艾未未(アイ・ウェイウェイ)などの作品が一堂に会する。蜷川実花「PLANT A TREE」2011 年 C プリント 48.5x72.8 cm©mika ninagawa Courtesy of Tomio Koyama Gallery後期は、安藤正子、荒木経惟、ヤン・ファーブル、加藤泉、ウィリアム・ケントリッジ、森村泰昌、奈良美智、名和晃平、蜷川実花、野口里佳、マリック・シディベ、杉本博司、束芋、ミカリーン・トーマス、アドリアナ・ヴァレジョン、やなぎみわの作品展示を予定。詳細は後日、ウェブサイト()にて発表する。原美術館の歴史を物語る作品が集結する貴重な機会、現代美術の魅力を存分に感じてみては。【イベント情報】現代美術に魅せられて―原俊夫による原美術館コレクション展会期:2018年1月6日〜6月3日(前期1月6日~3月11日/後期3月21日〜6月3日)会場:原美術館住所:東京都品川区北品川 4-7-25時間:11:00〜17:00(祝日を除く水曜は20:00まで)休館日:月曜(祝日は開館)、1月9日、5月1日(展示替え休館3月12日~20日)
2017年12月21日5月7日放送の『上沼・高田のクギズケ!』(読売テレビ系)で、4月19日に出資法違反で逮捕された山辺節子容疑者(62)の“常識外れな若作り”が取り上げられた。 50人以上の男性から少なくとも7億円以上をだまし取ったとみられている山辺容疑者。渡航先のタイで拘束され、日本に送還されて逮捕に至った。そして、だまし取ったとされる金額の大きさに加えて注目されているのが、“62歳の聖子ちゃん”と呼ばれる山辺容疑者の若作り。 なかでも話題を呼んでいるのが、その露出度の高いファッションだ。逮捕時の服装は、肩と生脚を露出したシャツにショートパンツというもの。 還暦を迎えているとは到底思えない過激なファッションに「痛々しい!」という批判的な意見が多いが――。 講談社の藤谷英志氏は「(山辺容疑者のファッションは)かなり計算高いなと思ったんです。というのが、露出しているのが“肩”と“太もも”じゃないですか。で、肩と太ももって一番シワとかが出にくいんですよ」と分析。さらに「二の腕は年がでやすいんです。だからちゃんと隠している」と続けると、スタジオでは「ほんとだ~!」と納得の声があがった。 医療ジャーナリストの森田豊医師も藤谷氏の見解に同調。森田医師によると、「最も魅力的な露出度は全身の40%」なのだという。肌の露出度が40%の女性は、全く露出をしていない女性に比べて約2倍モテるという研究結果があるらしい。そして、この“露出度の黄金比”が山辺容疑者にピッタリ当てはまる、というから驚きだ。 計算高いのは犯行の手口だけではないらしい――。
2017年05月08日小津安二郎監督の「東京物語」、尾道三部作と呼ばれる「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」の他、多くの映画のロケ地であり、「映画の町」として全国的に知られる広島県・尾道市。ところが、2001年に最後の映画館が閉館し、「映画館ゼロの町」になってしまいました。そんななか、NPO法人「シネマ尾道」を立ち上げ、「映画の町」を復活させようと奮闘する河本清順(かわもと・せいじゅん)さん。もともとはアパレル業界で働いていたという彼女がひとり、映画の世界に飛び込んで見えてきたものとは?「映画館ゼロの町」で映画を観たい──実は最初は、尾道が「映画の町」だと言われていることすら知らなかったそうですね?河本清順さん(以下、河本):そうなんです。高校まで尾道で過ごし、京都の服飾専門学校に進学しました。郷里から外に出て初めて尾道が「映画の町」だと多くの人に認知されていることを知りました。──映画館の支配人になる前は焼肉屋さんの経営に?河本:卒業後、京都のアパレル企業に勤めていたのですが、母が尾道で焼肉屋を始めることになり、実家に戻って、姉と一緒に経営に参加したのです。19歳から36歳まで足掛け17年間、焼肉屋で働きました。父親は鉄工所の経営者です。起業家一家ですね。──それがまたどうして映画館経営に?河本:2001年に最後の1館が閉館して、尾道は「映画館ゼロの町」になってしまいました。最初は単純に自分の町に映画館がほしいと思ったのです。映画館を1館維持していくには30万人以上の人口がないと無理だと言われていました。尾道の人口は当時15万人ほど。でも、調べてみると、埼玉県の深谷市のように、尾道と同規模の小さな町でもやっていけている例があることがわかり、だったら自分たちで何とかしなければという使命感が湧いてきたんです。シネマ尾道のエントランス開館から8年、ようやく軌道に乗り始めて──NPO法人による映画館っていうのがユニークです。河本:ただ映画館を復活させればいいのではなくて、それによって町の人の文化的なものに対する意識を再生するのが目的だと考えました。つまり町に貢献する、公益性のある事業だと。個人で商売するのとは違うということで、NPOとして始めました。2006年10月にNPO法人シネマ尾道を設立し、市民からの寄付を募って、2008年10月に開館の運びとなりました。オープンの時に全国ネットのニュースが取材に来て、初めて尾道に映画館ができるって、大変なことなんだなと実感しましたね。──開館から8年経ったわけですが、現在の状態は?河本:有給のスタッフは私を入れて4人。その他、15〜20人のボランティアの方に受付業務などをローテーションでお手伝いいただいています。数年前にデジタル化の問題(2014年4月でフィルムによる配給は終了し、全国の映画館が高額なデジタルシステムの導入を余儀なくされた)で経営危機になったりしましたが、そこはクラウドファンディングを募って乗り切りました。なんとかギリギリの線で経営できています。映画館は日銭が入るので、その点は強みと言えますね。一つの映画館で町が変わっていく──ご本人の働きか方に変化はありましたか?河本:シネマ尾道の開館から約4年間は、スタッフはほぼ私と副支配人の2人だけだったので無休で働いていました。約4年前からようやく週一で休みが取れるようになり、木曜日に休んでいます。でも、結局休みの日にも映画館に来て、お客さんと一緒に映画を観たりしていますけどね(笑)。もともとが映画マニアではなかったのですが、今は年間140本の上映作品を含め、試写用のDVDなどで年間400本くらいは観ています。それはまったく苦になりません。──「映画の町」の命運を背負ってしまったように見えますが、そのわりには楽しそうですね。河本:映画館ができて町が活性化したと言われるのが一番嬉しいですね。シャッター街だった駅前の通りにお店が新しく開店したり、近所のパンさんが映画にちなんだ新作パンを売り出してくれたり。介護関係の会社から上映映画の推薦があったことも。教育委員会と組んで、「東京物語」(1953年公開、尾道を舞台にした小津安二郎監督の名作。主演は笠智衆と原節子)を尾道の小中学生に観てもらおうという取り組みも始めました。現在年間1万5000人の来館者がありますが、ゆくゆくは地元の方全員に年に1回は映画を観に来てもらうようにしたいです。尾道水道。島々を結ぶ小型フェリーが行き交う。本町通り商店街。尾道の街並みを象徴する路地と坂道。尾道といえば猫。宝土寺入口にも。〈河本さんの1日〉朝7時に起床。9時出勤。ランチは、近所から買ってきて簡単に済ませたり、打ち合わせをしながら食事をしたり。夕食も外で会食することが多い。映画館を出るのは早くて18時、平均して19時。上映後に次の週末から始まる映画のテストをする場合は深夜0時まで仕事をしていることも。(浮田泰幸)
2016年10月31日東京・品川の「原美術館」にて、2014 年秋の「開館35周年記念 原美術館コレクション展」以来となる全館を使ったコレクション展示「みんな、うちのコレクションです」が、8月21日(日)まで開催中だ。「原美術館」は、もともと個人邸宅として 1938年に建てられたもので、西洋モダニスム建築を取り入れ、中庭を包みこむように緩やかな円弧を描いた空間デザインが特徴的。居間や寝室であったスペースは企画ごとに展示を入れ替えるギャラリーに変わった一方、浴室や洗面所などのユーティリティースペースは、アーティストに依頼してユニークな常設展示作品に生まれ変わっているほか、建物の中以外の、敷地内の庭にも、野外の常設作品が点在している。大規模な美術館とは一風異なり、作品と同時に、美術を鑑賞体験する“場”そのものも味わえる場所だ。1979年の創立以来収集してきたコレクションは、国内外の多彩な現代アーティストの絵画・彫刻・写真・映像作品など、現在約1,000点にのぼる。その中から、横尾忠則、加藤泉、クリスト&ジャンヌ=クロード、ウィリアム ケントリッジをはじめとする絵画・彫刻・ドローイング・映像作品を展示。今回は、中国を代表するアーティストであると同時に、積極的な社会活動でも知られる艾未未(アイ・ウェイウェイ)の貴重な初期作品や、日本から帰化してブラジル美術界の巨匠となり、昨年惜しくも亡くなったトミエオオタケ(大竹富江)の絵画も展示される予定だ。原美術館では、増築した多目的ホールや中庭を利用して多彩なイベントも随時開催されており、会期中には、8月13日(土)、14(日)に「トヨダ ヒトシ 映像日記・スライドショー」が行われる。また、日曜日と祝日には、同館学芸員による展示解説も行われる。展示解説は、14:30から約30分間で予約は不要。(text:cinemacafe.net)
2016年06月30日多部未華子が突然20歳の姿に若返ってしまった73歳のおばあちゃんを演じる、感動と爆笑のコメデイ『あやしい彼女』。多部さんが演じる最強にキュートでコミカル、そして破天荒なヒロインが魅了する本作は、Yahoo!映画レビューでは5点満点中4.21点(4月14日付)、ぴあ映画初日満足度1位(4月2日「ぴあ」調べ)を獲得。さらにSNSでも高評価を得て、公開中だ。実はこの『あやしい彼女』、2014年韓国版の『怪しい彼女』を皮切りに世界各国で製作され、多くの人の心を魅了し続けている。今回、その国ごとの“あやかの”を比較する特別映像が到着した。まず、ドラマ「のだめカンタービレ~ネイル カンタービレ~」や『サニー 永遠の仲間たち』のシム・ウンギョンをヒロインに迎え、「B1A4」のジニョン、イ・ジヌクらが出演した韓国では、865万人を動員し、社会現象を巻き起こす大ヒットを記録。次いで、中国では、『20歳よ、もう一度』というタイトルで製作され、人気女優ヤン・ズーシャンや元「EXO」ルハン、チェン・ボーリンなどが出演、その観客動員は1,160万人となった。さらに『ベトナム版怪しい彼女』(主演:ミウ・レ)は、同時期に公開された『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』を抑え、ベトナム歴代興行記録の第1位を樹立した。ほかにも、インドネシア、タイ、インドなどのアジア各国のみならず、ドイツでも製作されることが決定、そしてアメリカも名乗りを上げるなど、まさに世界中に『あやしい彼女』が広がり続けている。そんな各国の『あやしい彼女』は、やはりお国柄ともいうべき各国のエッセンスが絶妙に加えられている。日本版では多部さんが演じ、そのキュートな表情と透き通るような歌声で観客の心を虜にした主人公“大鳥節子”は、オードリー・ヘプバーンと原節子からその名を取っているが、韓国では同じくオードリーにちなんで“オ・ドゥリ”、そして中国ではテレサ・テン、ベトナムではタン・ガーと国民に愛される人物へのオマージュが込められているのがポイント。また、数々のシーンでも、その国ならではの魅力が盛り込まれている。例えば、すばらしい歌声のヒロインをスカウトするため追いかけてきた音楽プロデューサー(日本版では要潤扮する小林)を撃退するシーンでは、節子が握っていたのは“フライ返し”。韓国では“お魚”、中国は“大根”、そしてベトナムは“鶏の足”(!)と手にしているものも様々。日本版はもちろん、世界の“あやかの”を観比べてみるのも、楽しみ方の1つ。世界を魅了する『あやしい彼女』に、引き続き注目していて。『あやしい彼女』は全国にて公開中。(text:cinemacafe.net)
2016年04月17日女優の多部未華子が“若返り”をテーマにしたコメディ映画『あやしい彼女』(水田伸生監督)に主演し、“見た目は20歳、中身は73歳”という異色ヒロインを好演。演技派としての持ち味はそのままに、これまでのイメージを覆すコメディエンヌぶり、さらに圧巻の歌唱シーンも披露し、女優としての新境地を切り開いている。その他の画像毒舌が災いし、周りから煙たがられる瀬山カツ(73歳)が、見慣れぬ写真館でポートレイトを撮影されると、不思議なことに外見だけが20歳に若返った姿に大変身。あこがれだった往年の大女優、オードリー・ヘップバーンと原節子の名前を組み合わせた“大鳥節子”として、二度目の青春を謳歌しようと奮闘する。劇中では歌って、踊って、ときに“変顔”も披露する多部のコメディ演技が全開。夜明けの公園で生きる喜びを爆発させるシーンでは、クルクルパーマ&おばちゃんファッションで、滑り台を一気に駆け上がり、鉄棒で懸垂する姿まで披露するサービスぶりだ。「初めて着ましたが、この服装でどこにでも行けると思えるほど自分でも馴染んでいた」と声を弾ませる多部。コメディ映画の名手である水田監督とは初タッグながら「居心地のいい空間を作ってくださいました」と相性はバツグンだ。節子はその美声と歌唱力を見出され、孫が所属するロックバンドのボーカルとして脚光を浴びる存在に。多部は歌唱シーンについて「あまり自信がなかった」と振り返るが、約3か月の特訓を経て、ロックフェスの場面では1000人のエキストラを相手にコール&レスポンスを繰り広げ、TVの歌番組に出演するシーンではしっとりした歌声を聞かせている。「自信がなかった分、やり遂げた今は、私にとって大きな挑戦だったと言えます」(多部)。映画ファンならご承知の通り、原案は韓国映画の『怪しい彼女』。実はすでに中国、ベトナムでもリメイクされており、今後もタイ、インドネシア、インド、ドイツなどでも製作が予定される国際的コンテンツとして注目を集めている。もちろん、“日本代表”は多部が主演を務める本作『あやしい彼女』だ。「私なりに世界中で愛される理由を考えてみると、やはり家族がテーマになっているからだと思います。節子、というかカツさんは娘や孫が大の自慢で、本当に大切にしている。だから若返って青春を謳歌する分、家族に正体を明かせないもどかしさも感じているんです。私自身も役柄を通して、家族への思いが今まで以上に強いものになりました」『あやしい彼女』公開中取材・文・写真:内田涼
2016年04月01日単館系映画館の雄として約30年にわたり、ミニシアター文化をけん引し、来年1月の閉館が決まっている東京・渋谷のシネマライズで11月26日(木)、最後の上映作となる『黄金のアデーレ名画の帰還』のPRイベントが開催された。渋谷・スペイン坂上に1986年6月に開館し、国内外のエッジが利いた秀作を上映した同劇場。『アメリ』『トレインスポッティング』『ムトゥ踊るマハラジャ』『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』『ロスト・イン・トランスレーション』など“ライズ発”のロングランヒット作も多数生み出した。しかし、同じ渋谷エリアでのミニシアターの相次ぐ閉館、さらに向かいに立つ渋谷パルコの建て替えに伴う環境の変化が追い打ちとなり、2016年1月のシネマライズ閉館が決定した。そんな同劇場にとって最後の上映作となるのが、グスタフ・クリムトが描いた肖像画をめぐる、驚くべき実話を映画化したヘレン・ミレン主演の『黄金のアデーレ名画の帰還』。オーストリア政府を相手に、叔母をモデルにした名画<黄金のアデーレ>の返還を訴えた老婦人&新米弁護士コンビの奮闘を描いている。イベントにはタレントの中村玉緒とヒロシが、登場人物をイメージした衣装に身を包んで出席。自身も波瀾万丈の人生をおくる中村さんは「どんなに挫折しても、こんな風に忍耐強く生きる道があるんだなと思いました。私も生きがいを見つけたい」と最後まで戦い抜いた主人公に共感しきり。一方、ヒロシさんは「いま、辞め時を考えているところ。挫折し疲れました…」と自虐的に話していた。また、中村さんは9月5日に亡くなったことがわかった大女優・原節子さんを「あこがれと言うより、神様のような女優さん」と偲んでいた。この日はアート鑑賞が趣味の母親の指導のもと、子ども二人が名画をユニークに贋作する親子三人組ユニット「アーブル美術館」が描いた<黄金のアデーレ>がお披露目された。11月27日(金)から12月18日(金)までシネマライズで展示される。『黄金のアデーレ名画の帰還』は11月27日(金)よりシネマライズ、TOHOシネマズ シャンテほか全国にて公開。(text:cinemacafe.net)
2015年11月26日映画『二十四の瞳』や『楢山節考』など、数々の名作を世に送り出し、黒澤明と共に日本映画界の一時代を築いた映画監督、木下惠介。その木下監督の生誕100年を記念して、戦後の銀座を舞台にしたコメディ映画『お嬢さん乾杯』が2013年の初春新派公演で初めて舞台化される。10月18日、都内で会見が行われ、出演の水谷八重子、波乃久里子、瀬戸摩純、歌舞伎俳優の市川月乃助が登場した。1949年に公開された『お嬢さん乾杯』は、没落華族の令嬢と戦後成金の青年との不似合なふたりの恋を明るく軽快に描いた上品なコメディで、女優・原節子が唯一出演した木下作品としても知られている。また、今年5月に惜しくも世を去った新藤兼人監督が、映画脚本家としての地位を確立した作品でもある。今回の新派では成金実業家の青年・圭三を市川、没落華族の令嬢役で原節子が演じた泰子を瀬戸が演じる。また、本作が上演される来年は、新派にとっても創始から125年目を迎える節目の年でもある。劇団新派の要として長年劇団を支えてきた水谷と波乃は「来年も今年の続きとして、そのまんま走り続けていきたいです。『麥秋』『東京物語』(いずれも小津安二郎の名作を山田洋次が舞台初演出・脚本を手掛けた)に続いて戦後の昭和の姿を表現するという新しいジャンルを確立できれば嬉しいです」(水谷)、「その時代を感じさせるような劇団として、いい作品にできればと思います」(波乃)とそれぞれコメントした。物語の中心となる男女を演じる市川と瀬戸は「新派はまだ4度目ですが、新派125年の節目の公演に出させていただけて光栄です」(市川)、「劇団一丸となり必ず良い作品にしたいと思います」(瀬戸)と意気込みを見せていた。公演は2013年1月2日(水)から23日(水)まで東京・三越劇場で上演。チケットは11月30日(金)より一般発売開始。
2012年10月22日山田洋次監督の最新作『東京家族』の製作報告会見が30日に東京・成城の東宝スタジオで開かれ、山田監督をはじめ、橋爪功、吉行和子、西村雅彦、夏川結衣、中嶋朋子、林家正蔵、妻夫木聡、蒼井優が出席した。そのほかの情報名匠・小津安二郎の『東京物語』へのオマージュとして、現代を舞台に家族の絆を描いた、山田監督にとっては監督生活50周年を記念する作品。当初は 2011年4月にクランクインの予定だったが、東日本大震災の発生を受け、山田監督の意向によって、撮影が延期されていた。今年3月1日、正式にクランクインし、5月末に撮了を迎える。山田監督は「延期は正しかった。もしあのまま製作を続けていたら、とっても後悔していたはず。3.11という大惨事を無視することはできなかった」と断言。その上で「この国が今後どうなるのか。作品の最後に提示することができれば。本質的には人間喜劇で、キャストの皆さんの連帯と情愛のおかげで、楽しく仕事することができた」と手応えを示した。81本目のメガホン作だが「そもそも巨匠といわれる人は80本も作品を撮らないもの。今回、改めて小津安二郎がいかにすごいかしみじみ分かった」と語った。2012年5月の東京を舞台に、橋爪と吉行演じる老夫婦が、成長した子どもと会うため瀬戸内海の小島から上京する姿を通して、家族の絆や老い・死についてメッセージを投げかける。「思いもよらない大役。作品がダメだったら、監督のせいですけど(笑)」(橋爪)、「山田監督とは初めてのお仕事で、大緊張の毎日。同時に楽しく幸せな気持ち」(吉行)。老夫婦の次男・昌次(妻夫木)と、その恋人の紀子(蒼井)は被災地である福島でのボランティアで出会ったという設定。妻夫木は「親には面と向かって『ごめん』や『ありがとう』が言えないもの。橋爪さん演じる男親の厳しさ、吉行さんの女親の優しさが身に染みた」としみじみ。蒼井は大女優・原節子が演じた紀子役を受け継ぎ「大きすぎる役柄なので、意識してしまうと家から出れなくなってしまう(笑)。監督からも言われた通り、『感じること』を大切に演じたので、ぜひ寛大な心で受け止めてください」とアピールした。この日は日本映画界で最高齢の映画監督だった新藤兼人氏が100歳で死去したと報じられ、山田監督は「仰ぎ見る先輩がいなくなるのは、さみしいこと。地を這うような苦労をなさって映画を作った方」と追悼のコメントを出した。『東京家族』2013年1月全国ロードショー取材・文・写真:内田涼
2012年05月30日