発達障害の治療、お薬はどんなときに使われる?出典 : 発達障害に対してお薬が使われるとき、それは全て対症療法として投与されます。対症療法とは症状を和らげることが目的の治療で、根治、つまり障害を治すための治療でありません。残念ながら現在の医学の水準では、発達障害を根治する治療はありません。ただ、適切なタイミングと種類、量のお薬を使うことで、その症状を緩和できる場合があります。どんな症状に対してお薬が使われるの?出典 : では主にどんな症状に対して、お薬が使われるのでしょうか。自閉スペクトラム症の場合には最も効果が確かめられているのは、その易刺激性、つまり刺激に対して反応しすぎる状態に対する投薬です。日本でもいくつかの抗精神病薬が、厚生労働省からその適応を正式に承認されています。こうしたお薬は自傷や他害といった攻撃的な行動がある際に用いられますが、その効き目の見極めには大事なポイントがあります。易刺激性に基づく攻撃的な行動、例えば嫌いな音を聞いた後のパニックやイライラする状況から逃れるために人を突き飛ばすなどの行動には、ある程度効果が期待できることがあります。一方で、遊びの目的、つまり「窓ガラスを叩くといい音がして楽しいから」とか、コミュニケーションや交渉の目的で「冷蔵庫を開けさせるために家族を叩く」とかの行動には、お薬の効果は期待しにくいのです。ここを上手く見極めて使わないと、無効なお薬を飲むことになったり、大量にお薬を使って、効果よりむしろ副作用が問題になったりすることが起こってきます。結局はお薬を使う場合にも、その標的となる行動の分析が必ず必要となるのです。著しい反復的な行動に対してもお薬が使われることがありますが、この場合もその背景が重要になります。遊びの性格が強い反復的な行動にはお薬はほとんど効果がありません。もしこれを薬で止めようとすると、大量のお薬を使って、眠くてだるくて遊ぶ元気もないという状態を作ることになってしまいます。一方で不安や強迫といった、「やらないと心配」「やらないと落ち着かない」からやむを得ずやっているという、繰り返しの行動には時にはお薬が有効な場合があります。その他、睡眠の障害やカタトニアなどの症状に対して、それぞれの状況にあったお薬が使われることがあります。これらの場合にも有効な場合とそうでない場合の見極めが必要ですので、主治医にご相談いただくとよいでしょう。また注意欠如多動症(ADHD)に対しても、お薬が使われることがあります。実はADHDの治療薬は、あらゆる精神科のお薬の中でも一番効き目が確かなお薬の一つです。投与するとかなり高い割合で効果を発揮します。しかしこれも対症療法に留まり、一方で副作用もしっかりあるので、使いどころを見極める必要があります。どんなときに「薬を使う」という決断をすれば良い?出典 : さてそれでは、どんなときにお薬を使うことを考えればよいのでしょうか。発達障害そのものへの投薬は常に対症療法であるため、発達障害があること、それだけでは投薬の対象にはなりません。必要な対応や環境の調整をして、それでも本人の苦しさが続くとき、またいろいろな対策を講じていてもどんどん環境との不適合が増しているときは、お薬をつかうことを考えても良いでしょう。自分の場合には、「人生の中で嫌いなもの・ことがどんどん増えているとき」というのを一つの基準にしています。またお薬以外の方法をとることがそもそも難しい場合も、投薬を考えることになります。家庭の状況に全く余力がないとき、家族に他の危機が訪れているときなどには、時期を限ってお薬を使うこともあります。もう一つ、これは発達障害に対する投薬ではありませんが、併存する他の精神疾患がある場合には、当然その治療薬を使うことになります。また最も大切で難しいのはお薬のやめどきです。これについては、常に止めることを考えながらお薬を使う、というのがおそらく正解であると思います。減薬や中止のチャンスを常にうかがっていないと漫然とお薬を使うことになってしまいます。・標的となっていた症状が改善してきたとき・環境との不適合が小さくなってきたと感じられるとき・他の支援がうまく回り始めたときなどが、お薬を減らす・止めるチャンスです。ただし急な中止や減量によって逆に有害な症状を来すお薬があるので、減量、中止の際には必ず医師と相談してください。
2016年10月14日発達障害の大人が医療機関を利用するとき、どんな問題が生じるか出典 : 児童精神科医の吉川徹です。これまでの連載では「発達障害と医療」をテーマに、医療機関や診断を受けるタイミングなど、様々な角度から執筆させていただきました。今回は、発達障害と医療の問題を考える際に特に悩ましい、成人された方の医療の利用についてです。この問題は大きく分けて、●子ども時代から大人への医療の引き継ぎ(移行医療)の問題●成人期になって初めて、発達障害を主なテーマとして医療を利用するときの問題の2つがあります。大人になってもスムーズに医療機関を受診し続けるには出典 : 近年では子どもの発達障害を診療できる医療機関はかなり数が増え、診断を受けている子どもも急増しています。こうした子ども達はいつ大人の医療に移行していくのか。これは遠からず全国的に問題になることは目に見えています。子ども時代に診断を受けた方のうち、大人になっても医療が必要な方は、実はそれほど多くはありません。ただ継続した投薬が必要であったり、前回の記事にあるような診断書が必要であったり、どうしても医療のサービスを継続して利用する必要がある方もいらっしゃいます。特に小児科で診断、治療を受けていた場合、必然的に移行が必要となることが多いです。児童精神科などの場合では、医療ニーズが高い場合には継続して診療を受けられることもあるでしょう。最近では発達障害の診療に対応できる、成人の医療機関も増えてきています。成人医療への移行に備えて、地域の医療事情について早めに情報収集を行っておけると安心です。移行が必要になる時期はおおむね15歳〜20歳前後であることが多いのですが、できれば20歳ごろ、総合支援法医師意見書と障害基礎年金の診断書が揃っていると、後の移行がスムーズです。その時期の移行が可能かどうか、通院中の医療機関に相談してみる価値はあります。大人になってから初めて発達障害がわかったとき、医師による診断が必要だとは限らない出典 : もう1つ悩ましいのが、大人になってから初めて発達障害をテーマにして、医療機関を受診する際の問題です。成人期の発達障害診療を受け入れていると広報している医療機関はまだ少なく、たどり着くのが難しい地域もあります。それ以外にも成人期の医療には様々な課題があるのです。まず、そもそも大人になった方の発達障害の確定診断を行うことは、医師にとってもかなり難しいという問題があります。発達障害の診断の多くの部分は、乳幼児期や子ども時代のエピソードの聴き取りに拠っています。成人するころまでには、養育者の記憶も曖昧になり記録も散逸しており、どんなに頑張っても診断を確定できるだけ根拠が得られないことがあります。こうなるとせっかく受診しても「特性はありそうだけれど、診断は確定できない」と伝えられてしまいます。特に専門性の高い医師ほど、正確な診断と診断基準を意識するので、このような伝え方が多くなります。乳幼児期の情報が充分得られない場合、発達障害診断のみを目的にした医療機関受診の効率は下がってしまいます。次に、不眠や不安などの発達障害以外の症状がなく、発達障害の疑いしか医療への「入場券」がない場合、医療機関への受診はそれほど実りのあるものにはならないことも多いという問題があります。成人になるまで診断を受ける機会がなかった方の場合には、当面の主要な問題は発達障害そのものよりも、不眠や不安、抑うつ、強迫症状や精神病症状などであることのほうが多いのです。このように他の精神症状がある場合には、むしろそれを入り口として、優先して相談、対応することが望ましいことが多いのです。その場合、受診できる医療機関の間口も広がるので、通える医療機関を見つけやすくなります。「発達障害の診療はしていません」というクリニックでも、通院中の患者さんの疾患の背景にある発達障害には、気づいてくれたり対応してくれたりすることもしばしばあります。この場合でも支援者の口コミなどで、発達障害の対応に慣れた医療機関を選んでおけるとなお良いですね。何のために受診するのかよく見定めて、効率的に医療機関を使おう出典 : 診断書や薬物療法が不要である場合、本人や周囲の人がその特性に気づき、実際に工夫しながら対応する中でそれを確かめることが可能であれば、発達障害の確定診断は、必ずしも必要ではありません。極めて限られた専門医療機関を別にすると、一般の成人精神科医療機関の診療の時間や構造は、障害特性そのものへの対応を相談するのには、あまり適していないことも多いのです。成人期の発達障害医療はまだまだ発展途上です、今後大きく状況は変わっていくかも知れませんが、現時点では医療機関を受診する目的をよく見定める必要があります。それは診断なのか、診断書なのか、薬物療法なのか。あるいは得意な医療機関は限られますが、自己認知の支援なのか。それともむしろ併存する他の精神疾患の診断や治療なのか。ご本人や支援者の方にはうまく見極めていただき、医療機関を効率よく使っていただけるとよいと思います。
2016年10月12日医療機関による受診が必要になる、「診断書」の取得出典 : 前回はいつ医療機関による受診をするのか・勧めるのか、というテーマでしたが、一方でどうしても受診、診断が必要なタイミングというのがあります。その代表的なものが、診断書が必要になる時期です。発達障害を持つ子どもや大人が健康に成長し暮らしていくためには、様々な支援が必要になることがあります。その入場券になることが多いのが診断書です。今回の記事では診断書が必要になる代表的な場面と、その時期を解説します。ただし、診断書を巡る状況は、地域によって少し異なることがあります。地元の支援者や先輩の親御さんにも確かめてみるとよいでしょう。18歳未満で診断書が必要となる場面出典 : 子ども時代には診断書が必要な場面は、実はあまり多くありません。知的障害を伴う方の場合、愛の手帳や療育手帳などと呼ばれる知的障害の福祉手帳の取得には、原則として医師からの書類は必要ありません。地域の役所の窓口から申請でき、その手帳があることで多くのサービスが利用可能です。以下では、医師の診断書が必要となる場面をご紹介します。知的障害の手帳の対象ではない場合、精神保健福祉手帳という精神障害の福祉手帳を取得することがあります。子ども時代の取得はまだ多くはありませんが、だんだんと取得する方が増えているようです。精神保健福祉手帳の取得には必ず医師の診断書が必要となります。子ども時代の取得にはそれほど多くの利点はありませんが、必要であれば診断書の発行を受けることが可能です。福祉手帳の取得をしていない場合、児童福祉法に基づくサービスを利用するための「受給者証」を発行してもらうために、医師の診断書が必要となる地域があります。制度本来の主旨からするといかがなものかと思うのですが、残念ながらそのような運用が広がってきているようです。また地域によっては、通級指導教室や特別支援学級などへの入級にあたって診断書を求められることがあります。幼稚園などの場合でも、園への助成金などの支給のために、診断書の提出を求められることがあります。これも文部科学省などが通達している特別支援教育の方向性からすると、本来あってはならないことだと思うのですが、残念ながらそのようなルールが設定されている地域もあるようです。また障害の状態によっては、特別児童扶養手当の支給対象となることがあります。やや厳しい世帯の所得制限などもありますが、支給にあたっては医師の診断書が必要です。18歳以上で診断書が必要となる場面出典 : 歳以上になったときに、障害者総合支援法による様々な福祉サービスを受けるためには、診断書ではないのですが、「医師意見書」が必要になります。また20歳になると、障害基礎年金の対象となる方も出てきます。障害年金の受給には必ず医師の診断書が必要です。この中で特に注意しなければならないのが、子ども時代に医療機関を受診し診断を受けた後、経過が順調な場合、特に身近で適切な支援が受けられている場合です。このとき、どこかの段階で医療機関の受診が不要になり、通院を止めていることが少なくありません。しかしその場合であっても、18歳以降に福祉サービスの利用の可能性がある場合、障害基礎年金が受給できる可能性がある場合には、それに備えて少なくとも1,2年前からは通院医療機関を確保しておいた方がスムーズです。初診でいきなり診断書の発行を受けることは困難です。16歳、17歳という年齢であれば、成人の精神科医療機関に受診できるので、通院先の選択肢は格段に広がります。初診には予約が必要であることもありますので、将来の診断書の発行に備えたいという受診の意図を伝えて、事前に確認しておくとよいでしょう。この他、就労支援を受ける際に医師の意見書を求められたり、障害が重度である場合には特別障害者手当の受給のためにも診断書が必要となったりします。必要な時期に診断書の発行が受けられるように情報収集しておけるとよいですね。
2016年10月10日発達障害の疑いがあるとき…医療機関を受診する適切なタイミングはいつ?発達障害の疑いのある方、またそのようなお子さんがいる保護者の方で、「医療機関をいつ受診するか」にお悩みの方もいらっしゃるかと思います。また、「発達障害の存在が疑われる子どもに医療機関の受診をすすめる際、どんなタイミングがよいのでしょうか」というのは、支援者の方もしばしば口にされるご質問です。発達障害のある子どもの場合であれば、保護者は様々なプロセスを経て、子どもの発達特性に気づき、その特性と長くつきあっていくための準備を進めます。その過程は男女が出会って、結婚に至るプロセスに少し似ています。Upload By 吉川徹このプロセスは、もちろん全てをたどっていく必要はありませんし、正しい道筋というものもありません。最近では結婚式を挙げない人も増えてきました。どうしても診断書やお薬が必要でなければ、かならずしも確定診断を受ける必要はないのです。ただ、もしできることであれば、発達障害の特性とずっとつきあっていく準備がそれなりに整った段階で、医療機関の受診ができると、きっとよい節目になるでしょう。医療機関を受診する前の大切なプロセス「障害とつきあう準備」は、どうすれば整うのか出典 : では、「発達障害とつきあっていく準備」はどうすればできるのでしょうか。前回の記事でも触れましたが、診断を受ける前の支援が大切になってくると私は考えています。最初に発達障害の特性に気づいた誰かが、診断を受ける前から上手く支援を始めて、医療による支援へと繋げてくれる。そうすると保護者は、子どもの特性に合わせた関わり方をすると、少し物事が楽になる、前に進みやすい、という感覚をもつようになります。このように、保護者が発達障害とつきあう準備ができていたほうが、診断は正確になり、その後も医療のサービスを最大限有効に使えることになります。もしもその準備が整っていない段階で、「あなたの子どもさんは発達障害の疑いがあるので病院に行って下さい」と言われてしまったら、何が起こるでしょうか。おそらく、一部の保護者は「絶対に障害だと言われたくない」と思って病院の門をくぐります。そうすると、「赤ちゃんの頃は?」「普通でした」「保育園では?」「年少さんは問題ありませんでした。年中になってから行くのを嫌がるようになりました」「ああ、それはきっと担任の先生が……」といった、診断に結びつかないやり取りになってしまいがちです。発達障害の診断には、もちろん子ども自身の状態の観察なども参考になりますが、それまでの発達の経過、道筋の情報が極めて重要です。ここが上手く聞き出せないと見落としや誤診に繋がってしまうのです。「『仮に』理解して、『実際に』支援する」。これはある児童精神科医が編集した書籍の副題ですが、とても良い言葉だと思います。支援を始める時に診断は不要です。まず特性に気づいた人がその「仮の理解」に基づいた支援を実際にやってみる。それが上手くいったときには、その子どもが少数派のものの見方、感じ方、考え方の道筋を持っていること、その理解に基づいた支援が上手くいったこと、その特徴がいわゆる発達障害の特性であることを保護者に伝え、専門機関を受診することで、より効率のよい支援ができる可能性があることを伝えます。準備段階の支援がうまくいかなかったときには出典 : もし最初の支援が上手くいかなかった場合はどうすればよいのでしょうか。その時には「仮の理解」に基づいて援助してみたが上手くいかなかったこと、更にほかの「理解」や援助の方法を見つけるために専門家への相談、受診が望まれることを伝えられるとよいでしょう。このときに必要なのは、受診を勧めようとする人が、子どもの特性を理解しようとしてくれて、実際に手を動かしてくれる、信頼できる人だと保護者に思ってもらうことです。診断を受けても、その支援者が引き続き関わってくれると安心できるとき、保護者は「本当は障害なんて言われたくないけど、あの先生が勧めてくれるなら」と思って、診察に臨むことができるのではないでしょうか。いつ受診を勧めるのか、その答えは、勧める人と勧められる人の間に少し信頼関係が出来てきたとき、ということになるのでしょう。
2016年10月07日発達障害の診療のための医療機関にはどんなものがある?それぞれが担う役割は?出典 : これまでの記事では、発達障害のための医療機関が少ない原因や、医療機関でできる支援についてお話させていただきました。今回は医療機関の種類をご紹介していきます。発達障害の診療に携わる医療機関には様々な種類がありますが、その分け方も色々あるのです。医療機関の種類というと、もちろん小児科や精神科などの診療科による分類が思い浮かぶのですが、今回の記事では別の切り口で分けてみたいと思います。いくつかの医療機関は日本の、時には世界の発達障害研究を担っていく役割を持っています。こうした先進的な医療機関にかかると厳密な手続きを経た診断が受けられたり、他では利用できない治療法が使えたりすることもあります。日本の、世界の発達障害支援の質の向上に貢献できる可能性があるというメリットもあります。一方でこうした機関の医療者は診療以外の業務が多く多忙です。また機関の数も限られるので、通院時間が長くなるなどアクセスも良くないことが多いでしょう。また研究途上の新しい治療には、確かめられていないリスクも伴います。良くも悪くもハイリスク、ハイリターンな選択です。その他に、地域の中核的な発達障害診療を担っている医療機関もあります。小児や障害者の病院、療育センターに附属している診療所などがこうした役割を担っていることが多いでしょう。こうした機関の専門性は高く、既存の診療技術に限って言えば、研究機関と比べても遜色がないことが大半です。また入院治療の機能を持っていることもあります。一方でこうした医療機関は比較的広域(都道府県単位)などから患者がきていることが多く、地元に密着した支援機関や学校の情報などはやや医療者に集まりにくくなります。また地域への医療サービス提供の責任を負っているので、新規患者優先、診断と投薬優先になりがちです。発達障害専門の小児科や児童精神科のクリニックなどを中心とした地域密着の医療機関も増えてきました。こうした医療機関は医師によっては、非常に高い専門性を持っていることもありますし、アクセスも良く比較的患者数も少なく、丁寧な診療が可能であることもあります。また何よりも地元の情報が集まりやすいことがメリットです。ただし地域によっては医療機関の不足のため、こうしたクリニックが中核的医療機関の役割を担わざるを得なくなっていることもあります。また最近では、地域のかかりつけ医、つまり一般の小児科医や内科医の役割にも注目が集まっています。こうした医療機関は、発熱やワクチン接種などの日常の身体的な問題に対応できるのはもちろんですが、典型的な事例の診断や専門的な医療機関での診断後のフォローアップなどが期待されています。平成28年度からは厚生労働省によるかかりつけ医向けの発達障害の診療研修も開始されました。こうした医療機関は極めてアクセスがよく、また発達障害の特性を知ってもらった上で、身体医療が受けられるという大きなメリットがあります。医療以外の支援者に恵まれている場合、医療の役割は限られるので、必要な時にかかりつけ医に相談するというスタイルでも、充分に対応が可能である場合があります。年齢の高い方の場合、成人の精神科医療機関も受診先の候補になります。現状では全ての精神科医療機関が発達障害の診療に対応できるわけではありませんが、着実にそうした機関は増えています。こうした医療機関のメリットはアクセスの良好さと、何よりも併存する他の精神疾患への対応への熟練度と手立ての豊富さです。ただし構造的に成人精神科の診察時間は短いことが多いので、それに合わせた受診の工夫を考えておく必要があります。医療機関に迷ったら、身近な支援者に相談を出典 : こうした分類は医療機関の看板に書いてあるわけではないので、利用者の方からは見分けにくいかもしれません。受診の前に保健センターなどの身近な支援者や、先輩の親御さん、ペアレント・メンターなどに受診先を相談するのはよい方法です。最後に、多くの種類の医療機関があるので、専門機関のいいとこ取りをしたい、かけ持ちをしたいという気持ちはとてもよくわかります。しかし極めて恵まれた一部の地域(ほんとにそんなのところが日本にあるのでしょうか……?)を除けば、現状ではそれはマナー違反であると考えるべきでしょう。必要な人が、少しでも早く、少なくとも正しい診断と診断書、時には薬物療法にたどり付けるような気遣いができる、余裕が持てるとよいですね。
2016年10月05日発達障害のある人のため、医療機関ができること出典 : 年現在、多くの地域で、発達障害の診療に携わっている医療機関は著しく不足しています。医療従事者、それを利用する他領域の支援者、時には本人やご家族も、限られた地域の医療資源をできるだけ効率よく活用することを考える必要があります。発達障害のある本人や家族には様々なサポートが必要です。その中には医療機関が提供できる、提供しているものもたくさんあります。その代表的なものを挙げてみます。Upload By 吉川徹けれどもこの中で、どうしても医療機関でなければ提供できない支援というのは、実はあまり多くありません。そして、医療以外でも提供できる支援は、実は他の領域の支援者の方が、有利であったり、得意であったりすることも多いのです。医療でなければできない発達障害支援は何か出典 : 医療でなければ提供できない支援の一つは「診断」です。一方で、広く診断といったときに、その人に発達障害の特性があるのかどうか、発達障害の特性を考慮に入れた支援が有効であるのかどうかという「見立て」は、必ずしも医療機関のみでなされているわけではありません。むしろ本来はこうした見立ては、保健、教育、福祉などの領域でも必要になってきますし、仮に医学的診断を後に受けるとしても、それより前から見たての作業が始まっていることが望まれます。また、「見立て」に限られた時間しか充てられない医療機関に比べて、生活を共にする時間が長い人は、そもそもとても有利でもあるのです。ここは医師の間でも見解が分かれるところなのですが、自分は発達障害のある人すべてが、医療による診断を受ける必要は必ずしもないと考えています。ただし見立てや診断において、どうしても医療機関が必要になる場面があります。それは、・患者の困りごとが、発達障害以外の他の疾患から起こっている可能性を見極め、排除する必要がある場合・患者の困りごとの背景にある疾患を診断する必要がある場合上記の2点です。特に生物学的な検査が必要である場合、医療抜きにこれを行うことはほぼ不可能です。発達障害によく似た状態を示す疾患はたくさんありますし、また発達障害のある人には、脆弱X症候群やダウン症など様々な障害が背景にあることも少なくないのです。このため、何らかの点で典型的ではない、他の際だった特徴のある人の場合、医療機関を受診しておくメリットは大きくなります。そして診断書の発行も医療機関の重要な役割であり、優先度の高い仕事です。一般に医師は診断書の発行を面倒がる傾向があるのですが、これはどうしても医師免許が必要であり、医師が(好まずとも)独占している業務なので、嫌がらずにやらないといけないと自分に言い聞かせています。そしてもう一つ、どうしても医療でないとできない業務は、処方箋の必要な薬物を使うことです。これは当然ですが、では処方箋のいらないお薬、サプリメントはどうか、ということになります。しかし、これらの中に現時点で効果と安全性が実証されているものは、ほぼありません。医師と相談せずに使うことは更におすすめしにくいので、できればそこも医師と相談できると手堅いでしょう。結局、どうしても医療でないとできない主な支援は、診断、特に診断書の発行と薬物療法ということになります。医療でも出来る支援には、他に幾つもありますが、その優先度は低くなります。医療機関が不足している地域では、医療資源はまず診断と投薬のために活用する、その姿勢が求められています。医師の側もその業務を独占している以上、優先的にそれを提供する義務があると言えるでしょう。医療の強みは、卓越した経験と専門性にある出典 : それでは診断や薬物療法以外には、医療のアドバンテージはないのでしょうか。医師の立場からすると「それはある」と言いたくなるのですが、実際にはどうでしょうか。一つには、医師、特に発達障害を専門とする医師は、他の領域の支援者と比べても桁違いに多くの事例に接しているということがあります。一人の専門の医師が同時に診療している発達障害の患者さんは、数百人から時には千人を越えることがあります。医師人生の中で会ってきた患者は数千人ということも珍しくありません。そして多数例の報告に基づいた研究論文がたくさんあるのも医療領域の大きな特徴です。また多くの医師は、ライフステージをまたいで、患者さんに関わり続けています。幼児期早期に受診した子どもが成人し、時には老年期まで診療することがあります。自分一人でそれを見届けることができなくても、連綿と書き綴られたカルテから、比較的若い医師でも目の前の患者の若い頃の姿を確かめることができるのです。多数の患者に関わる医師は、残念ながら養育者や他の領域の支援者に比べると「その子自身」の専門家になれる機会は限られます。そのかわり「自閉スペクトラム症」の専門家、「注意欠如多動症」の専門家などには、なりやすい立場です。多くの例に長く関わっているからこそ、行いやすい見立てや助言があります。それは例えば、・将来を見越して今優先すべき支援の領域を考えること・本人や家族のリソースの配分を考えること・進路の決定などの場面でのアドバイスです。このように医療による支援のなかには、医療でないとできないこと、医療でもできること、そして医療が得意なことと苦手なことがあります。皆さんにはこうした医療による支援の特性をうまく理解して頂いて、上手につきあっていただきたいと思います。
2016年10月03日世界三大ミスコンの一つに数えられる「ミス・ワールド2016日本大会」が5日、都内で行われ、東京都出身の吉川プリアンカ(22歳)がグランプリに輝いた。ミス・ユニバース、ミス・インターナショナルと並んで世界三大ミスコンに数えられる同コンテストは、1951年にイギリス・ロンドンで第1回大会が行われて以来毎年開催。世界三大ミスコンの中では最も歴史が長く、今年で66回目を数える。今年の世界大会は11月29日から12月18日にアメリカ・ワシントンDCで開催。その世界大会への出場権をめぐって、応募総数6,920人の中から選ばれた31人のファイナリストが選考会に臨み、東京都出身で通訳の吉川プリアンカさんが日本代表に選出された。自分の名前を呼ばれて思わず目頭が熱くなった吉川さんは「本当にありがとうございます。今、ここに立てているのは、ミス・ワールド事務局の皆さま、スポンサーの皆さま、そして家族や友人、私に関わってくれたすべての人のお陰だと思っています」と感謝の言葉。11月29日からアメリカで行われる世界大会に向けて「すごく楽しみです。身体作りも日本の和心もしっかりと世界に伝えて堂々とパフォーマンスをしたいと思います」と抱負を語った。ミスコン初めての挑戦で見事グランプリを射止めた吉川さん。「夢みたいで、まだ現実味ではありません」と驚きながらも「自分を信じ、いかに楽しむかということに集中しました。特別な工夫はしていません」と自然体でステージに臨んだことを告白。そんな彼女はインド人の父と日本人の母を持つハーフで、英語と日本語の通訳の仕事をしながらモデルも兼業しているという。「今後は国内だけでなく、グローバルに活躍したいので、インドでもお仕事ができれば光栄です」と世界にも目を向けていた。なお、準グランプリには山下ひまわりさん(22歳)、槙野美里さん(25歳)、ロバートソン夏妃さん(22歳)、審査員特別賞には小森しずかさん(26歳)、鈴木早紀さん(24歳)、如月さえさん(23歳)、林真由さん(27歳)がそれぞれ選ばれた。
2016年09月06日生田斗真が主演を務める大友啓史監督の新作『秘密 THE TOP SECRET』の追加キャストが発表になり、吉川晃司が28人殺しの凶悪犯、貝沼清孝を演じることが明らかになった。その他の情報映画は、被害者の脳の記憶を映像化する“MRIスキャナー”を駆使して脳内捜査を行う警察庁の特別機関“第九”が、迷宮入り事件を解決していくミステリー。『るろうに剣心』で鵜堂刃衛役を演じた吉川を起用した理由について大友監督は、「唯一無二の存在。それが吉川晃司を語る、それこそ唯一無二の表現であるように思います」といい、「原作の貝沼像以上に、作品の通奏低音を作り出す。この映画の世界観を決定付けるそんな存在を求めて、『るろうに剣心』でもご一緒した吉川さんに辿りつきました」とコメント。貝沼という人物は、第九が最大の闇として封印しているある事件と関連性があり、さらに生田演じる薪とは因縁もあるという。大友監督は「人の魂を鷲掴みにし、揺さぶり、その人の人生を大きく変えてしまう貝沼という男を吉川晃司がどのように演じたのか。この映画の、間違いなく大きな見所の一つです」と話す。このほど公開になった場面写真では、貝沼の表情をうかがい知ることはできないが、なにやら不穏な雰囲気を漂わせており、吉川が重要な役どころをどのように演じるのか、期待が高まるカットになっている。『秘密 THE TOP SECRET』8月6日(土) 全国ロードショー
2016年04月20日シンガーソングライターで俳優の吉川晃司が、生田斗真主演の映画『秘密 THE TOP SECRET』に出演することが明らかになり20日、新たな場面写真が公開された。原作は、清水玲子氏が漫画誌『MELODY』(白泉社)で連載していた同名コミック。映画『るろうに剣心』シリーズで知られる大友啓史監督がメガホンを取って、被害者の脳の記憶を映像化する「MRIスキャナー」を駆使して脳内捜査を行う警察庁の特別機関「第九」が、迷宮入り事件を解決していくミステリーを描く。昨年ヒットしたドラマ『下町ロケット』で財前道生部長役を務めるなど俳優としても存在感を見せている吉川が演じるのは、「第九」と相対する28人殺しの凶悪犯・貝沼清孝。「第九」最大の闇として封印されたある事件との関連性を持っており、物語の全ての鍵を握る重要な役柄だという。劇中では、生田演じる「第九」室長・薪剛(まき・つよし)との因縁の対決も映される。新たな写真では、そんな貝塚の姿が。フードで顔を隠しながらも、ただならぬ雰囲気を醸し出している。大友監督は、吉川を「唯一無二の存在」と表現。その起用の背景を「原作の貝沼像以上に、作品の通奏低音を作り出す。この映画の世界観を決定付けるそんな存在を求めて、『るろうに剣心』でもご一緒した吉川さんにたどりつきました」と明かす。続けて、「人の魂をわしづかみにし、揺さぶり、その人の人生を大きく変えてしまう貝沼という男を吉川晃司がどのように演じたのか。この映画の、間違いなく大きな見どころの一つです」と話し、自信をのぞかせた。(C)2016「秘密 THE TOP SECRET」製作委員会
2016年04月20日生田斗真を主演に、岡田将生、松坂桃李ら人気の俳優陣が集結した『秘密 THE TOP SECRET』。この度、本作の新たなキャストとして、吉川晃司が出演することが明らかになった。被害者の“脳に残った記憶”を映像化し、迷宮入りした事件を捜査する警察庁の特別機関「第九」。室長を天才・薪剛(生田斗真)のもとに、新人捜査官の青木一行(岡田将生)が配属された。全ては「犯人の脳の記憶を見て、行方不明の少女を探す単純捜査」から始まった。「第九」が脳内捜査を進めると、事件を根底から覆す“驚愕の真犯人”が現れる。さらに、事件は次々と連鎖し、決して触れてはならないとされる「第九」の闇、貝沼事件へとつながっていく。今は亡き薪の親友、元「第九」メンバー・鈴木(松坂桃李)との関係性まで浮上。そこには、命と引き換えにしてまで守ろうとした、絶対に知られたくない“第九最大の秘密”が隠されていた――。原作は、1999年より「メロディ」(白泉社)で連載された清水玲子によるミステリーコミック。「第15回文化庁メディア芸術祭」優秀賞を受賞するなど、高い人気を誇っている。現在では、スピンオフ・新シリーズ「秘密 season0」が同誌で連載中だ。本作の監督は、『るろうに剣心』 シリーズで興行収入3作合計130億円を超える大ヒットを記録した大友啓史。キャストには、主人公の「第九」室長・薪剛役の生田さんをはじめ、新人捜査官・青木一行役に岡田さん、元第九メンバー・鈴木克洋役に松坂さん、法医第一研究室監察医・三好雪子役に栗山千明といった人気俳優陣のほか、新人女優・織田梨沙が物語の鍵を握るミステリアスな少女・露口絹子役に抜擢されている。そして今回新たに本作に参加することが決定した吉川さんが演じるのは、「第九」と対峙する28人殺しの凶悪犯・貝沼清孝役。「下町ロケット」「精霊の守り人」など、ミュージシャンでありながら、役者として特別な存在感を放つ吉川さん。貝沼は物語の全ての鍵を握る重要な役柄であり、さらには、「第九」最大の闇として封印されたある事件との関連性も持ち、生田さん演じる薪との因縁の対決も見どころとなっている。『るろうに剣心』鵜堂刃衛役に続き、今回の出演が決定した吉川さん。大友監督は吉川さんについて「唯一無二の存在。それが吉川晃司を語る、それこそ唯一無二の表現であるように思います。原作の貝沼像以上に、作品の通奏低音を作り出す。この映画の世界観を決定付けるそんな存在を求めて、『るろうに剣心』でもご一緒した吉川さんに辿りつきました」とオファーの経緯を語り、また「人の魂を鷲掴みにし、揺さぶり、その人の人生を大きく変えてしまう貝沼という男を吉川晃司がどのように演じたのか。この映画の、間違いなく大きな見どころのひとつです。どうぞご期待ください」とメッセージを寄せている。今回併せて解禁された場面スチールでは、日食の光の下にあらわになる貝沼の姿。フードで顔を隠しながらも、ただならぬ雰囲気をたたえ、異彩を放つ様子が写し出されている。「貝沼事件」とは何なのか? 薪との関係とは?さらなる本作の謎が深まるばかりだ。『秘密 THE TOP SECRET』は8月6日(土)より全国にて公開。(cinemacafe.net)
2016年04月20日毎年4月にラスベガスで開催される興行主のコンベンション、シネマコンで、ジーナ・ロドリゲスが“明日の女性スター”を受賞することになった。授賞式は4月14日にシーザース・パレスで行われる。その他の情報ロドリゲスは、シカゴ生まれの31歳。プエルトリコから来た不法移民の両親は、ロドリゲスが若い時に強制送還され、離れ離れに生きるという苦労を体験した。2014年に放映開始したテレビ番組『ジェーン・ザ・ヴァージン』に主演し、ゴールデン・グローブを獲得。今年は、ピーター・バーグ監督、マーク・ウォールバーグ主演の『Deepwater Horizon』と、インディーズのコメディ映画『Sharon 1.2.3.』の北米公開が控えている。次には、アレックス・ガーランド監督のSFスリラー『Annihilation』の撮影に入る予定だ。共演はナタリー・ポートマン、ジェニファー・ジェイソン・リー、テッサ・トンプソン。文:猿渡由紀
2016年03月29日今年も日本から物理学、医学生理学の分野でノーベル賞受賞者が出た。日本の技術の底力を改めて感じさせられた。そのめでたい授賞式後の晩餐会の記事を読んでいてこの閑話を書くことを思いついた。西洋風のディナーでのマナーについてである。本連載はあくまで私がAMDに務めた経験を綴るものであって、テーブルマナーのいろいろな小難しいルールについて知っているという自信はないし、間違っているかもしれない。ただグローバル企業で長年働いた日本人として、現在現役で活躍している人たち、あるいは今後世界に飛び出す人たちに、失敗を通して学んだ私自身の経験から気が付いた点について脈絡なく書いてみようと思い立った次第だ。私が経験したディナーは主に米国でのものであり、マナーはヨーロッパの国々などであればそれぞれ微妙に違うのであろうが、基本は大方同じであると思う。マクドナルドでヘッドセットを付けラップミュージックを聞きながらハンバーガーを頬張るアメリカ人でも、ビジネス環境でのディナーでは一応のマナーをだれでも心得ていると分かったことは、かなり新鮮な経験であった。裏を返せば、自分が知らないことでいろいろと誤解を招いた、あるいは恥ずかしい思いをしたわけだが、知ることによってその後ディナーを楽しめる余裕ができた。さて、ノーベル賞の記事によれば、ストックホルムの市庁舎の大広間での晩餐会では、1350人のゲストが集まり、260人の給仕によって料理とワインが振舞われたという。これはたいそう大きなディナーである。しかも、出席者たちは皆選ばれた人たちであり、写真を見ると皆正装で、さぞかし華やかなのであったことが察せられる。私が経験したディナーはせいぜいAMDのカンファレンス、レセプションなどでのもので、ストックホルムでの晩餐会と比較できるものでもないが、基本的なマナーは心得ているつもりである。○大勢でのディナーの心得以前にAMDのセールスカンファレンスについての話を書いたが、私が経験したディナーの最大規模のものはハワイでのカンファレンス最終日のディナーである。600人の従業員が一堂に会して食事をするものである。まず服装であるが、会議初日に渡される日程表にはきちんとドレスコードが書いてある。ドレスコードというのはそのディナーあるいはレストランに来るゲストに前もって知らせる服装の指示書である。日本の場合ではだいたいその場のメンバー、雰囲気に合わせて"阿吽の呼吸"で判断して来るのでこんな指示書は必要ない、しかし米国などではそれぞれの人たちが違った解釈をするので収拾がつかなくなるのを避けるためにこれがある。大勢のディナーの場合一般的なのはビジネスカジュアルである。この場合は襟付きのシャツにジャケットというのが無難。要するにゴルフクラブに行く服装と考えればいい。ディナーの前に必ずカクテルがあるので、ちょっと前に現れ、できるだけ多くの人と知り合えるように積極的に話しかけよう。こういう場面は普段話せないようなお偉方に自分をアピールする絶好のチャンスである。臆せずに行きたいものだ。夕食会場のドアが開いて着席となる。よく知った人と同じテーブルになり、気楽に夕食を楽しむのも有りだが、せっかくのチャンスであるから全然話したことのないような人たちのいるテーブルに行くのも面白い。テーブルについて目があったらニコっとして自己紹介、社内のディナーなら名刺の交換などはちょっとダサいだろう。英語で、しかもいろいろな国の訛りで名前を(ファーストネームで)呼び合うのでワインを飲んで気が楽になってしまうと混乱してしまうこともあるが…大きな会食では丸テーブルなどで10人くらいが同席することになる。そこにまず給仕がワインを注ぎにくる。よく見ているとわかることであるが、必ず女性を先にして次々と回ってゆく。そう、ディナーではレディーファーストなのである。これはどこでも一貫していることなので間違えないほうが良い。前菜の前にパンがバスケットなどに積んで配られることが多いが、この場合は目の前にバスケットが置かれた場合でも自分の分を先に取るのではなく、周りの人に"パンはいかが?"と配ってから、最後に自分の分を取る。塩、コショウ、バターなどは目の前に置かれてない場合には近い人に"コショウを回して(pass)いただけますか?"と言って回してもらう。他人の面前で、いきなり自分で乗り出して取るのはお下品だ。前菜に続いてメインディッシュ(アメリカではEntreeと言うことが多い)が運ばれてくるが、自分のものが来たからと言ってすぐに食べ始めるのはやめよう。テーブルの皆の分が揃うのを待って手を付けるべきである。自分の分が遅い場合には"どうぞ先に始めてください"と言うくらいの余裕も必要である。いくつかの料理が運ばれる場合、おしゃべりに夢中になって自分の分を食べ終わらないでダラダラしていると、次の皿が運ばれる時間を遅らせてしまい、テーブルの皆が迷惑するということも覚えておこう。残す場合には給仕に言って下げてもらう。日本で和気あいあいの居酒屋では終わった皿を次々に積んで給仕に片付けてもらってゆくと効率的でいいが、これもご法度である。こんなことを気にしていたらディナーを楽しめないと思うかもしれないが、だんだん慣れてきて他の人が(特にアジア系の人たち)ただ知らないという理由で間違えをしているのを見ると残念だし、やはり"郷に入れば郷に従え"という格言がいかに意味深いかということがわかると思う。知っていれば自信がつき余裕をもってディナーを楽しめるというものだ。○レストランでのディナーの心得数が限られた人数でのレストランでのディナーは、アジェンダがあらかじめ決まっているような肩肘張ったビジネスディナーは別として、知った人たちでお喋りをしながらやるものは格別に楽しい。ホストが決まっている場合と、割り勘の場合があるが、払いをだれがやるか、ワインをだれが選ぶかなどが違うだけでマナーには大きく違いはない。まずレストランにつくと受付の人がいて、予約などを確かめたうえでテーブルに案内されるが、勝手にずかずかと入ってはいけない、どのテーブルに案内するかは、最初は店が決めるが、気に入らなかったらその理由を行って替えてもらってもいい。この受付のひとは注文を取らない。皆が着席すると、早速そのテーブル担当の給仕がやってきて飲み物の注文を取る。日本人だと大抵"とりあえずビール"となるが、たまにはおしゃれなものも飲んでみるのも良い。例えばジェームズボンドよろしく、"ボンベイサファイア(ジンの銘柄)のマーティーニをアップ(冷やしているが氷なし)で、できるだけドライ(ベルモットはごく少な目)に、オリーブは1つ"、などと気取って注文するとなんだか自分がかっこいい気分になってディナーがいよいよ楽しくなる。このドライマティーニはジンベースとウォッカベースがあるが、どちらも非常に強いので2つ以上飲まないほうが良い(自身の経験上の忠告である)。給仕について書いておこう。女性でも、男性でもまず"いらっしゃいませ、今晩あなたのテーブルを担当するXXです"、と自己紹介をする。テーブルを担当するというのはそのテーブルのお客へのサービスの全般に責任を持つということで、彼らにとっては腕の見せ所のまさに真剣勝負の仕事場なのである。と言うのも、基本給が低く抑えられている彼らは、お客のチップ(通常15-25%)で稼がないといけないからだ。実力主義でサービスの評価によってチップの額が決まるので、ひたすら客に尽くすわけである。思わず見とれてしまうような若いきれいな美人ウェートレスがウィンクをしたからと言って、あなたに気があるなどと決して思ってはいけない。あくまでビジネスなのである。日本の場合は、何か要望があると"すみません!"と言えば近くにいる給仕が対応してくれるのが当たり前だが、あちらではそのテーブル担当の給仕しか客の要望を聞くことはできない。最近知人に聞いた話だが、同じレストランに2日続けて行って(これも珍しいことだが)、前日の給仕と違う人がテーブルについてチップの額を前日より多くしたら(多分計算を間違ったのだろう)、店を出る時に前日の給仕が血相を変えてやって来て、"昨日の私のサービスに何か問題があったのですか?"、と聞かれ、あたふたしたという話を聞いた。一通りドリンクの注文が終わると、本日のお薦めの説明がひとしきり始まる。この説明は大抵の場合早口でまくしたてるので、英語をよく解さない人にとってはかなりきついプロセスであるが是非微笑をたたえながら少なくとも聞いているふりをしていたいものだ。できれば質問もしたい。慣れてしまえば、こんなやり取りもレストランでディナーをする時の大きな楽しみになるはずだ。話題については本当によく知っている仲間内で集まる場合以外は、宗教と政治の話は自分で切り出さないほうが無難である。何かとデリケートな話題が多い昨今は特にそうである。ディナーはいろいろな意味で究極のコミュニケーションの場であると思う。必ずしも高級レストランである必要はない。食べたもの、飲んだワインももちろんだが、その時の人々、その人たちとの会話を後になって思い出せるような意味深いものにしたいものである。まさに一期一会である。(次回に続く)著者プロフィール吉川明日論(よしかわあすろん)1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Device)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。現在も半導体業界で勤務。・連載「巨人Intelに挑め!」記事一覧へ
2015年12月21日○K6-2で復活したAMDK5の失敗で瀕死の状態にあったAMDのCEO、Jerry Sandersが起死回生を狙ったNexGen買収によって誕生したK6アーキテクチャは、初代K6それに続くK6-2の成功によってAMDが再びIntelの唯一の競合であることを証明した。Jerryは高らかに宣言した、"AMD is back !! – AMDは復活した"。AMDは黒字化し、当時は世界最大規模と言われた最先端の工場・Fab.25をテキサス州オースティンに建設するなど破竹の勢いであった。社内ではすでに次世代アーキテクチャによるK7プロジェクトが動き出し、Intel互換路線を捨てて独自路線を行くという大胆な戦略を着々と進めていた。一方、K6のロードマップには、K6、K6-2、そしてK6-3があった。K6-3は、K6-2でゲームアプリケーション用に登場したマルチメディア用の命令セット・3D-Nowを実装し、映画「ジュラシックパーク」をテーマにしたPCゲームを意識して、映画に登場したティラノザウルスの名前"Sharp Tooth"という社内コードネームで開発されていた。IntelもPentium IIの後継であるPentium IIIを用意していたし、AMDもK6ベースの3クラスのCPUで対抗する予定であった。時はパソコンの全盛時代、前述のようにパソコンの価値はほとんどCPUの周波数で決められており、233Mhzより266MHz、266MHzより300MHzという具合に、季節ごとに訪れるパソコンのモデルチェンジに合わせるようにCPUのクロックスピードを上げていったのである。しかし、K6のアーキテクチャは400MHzを超えたあたりで、次第に限界に近付いていた。K6-2のクロックスピードの変遷を追ってゆくと、特に450を超えるあたりから小刻みになっていったのにお気づきだろう。450、475、500、533、550MHzという具合である。当初は、K6-2はこれほど周波数を上げる予定ではなかったが、パソコン市場の要求と、旺盛なK6-2への需要に応えるためにAMDはK6-2の周波数をどんどんと上げていった。ロードマップ通りに行っていれば、400MHzくらいからK6-3が後継としてそれにとって替わるはずであった。K6-3は基本的にはK6-2のCPUコアを流用してデザインされたが、K6-2との大きな違いは次の通りCPUと同じシリコンダイに集積するキャッシュメモリのサイズである。K6-2一次キャッシュ:32+32KB二次キャッシュ:なし製造プロセス:0.25um搭載トランジスタ総数:930万個K6-3一次キャッシュ:32+32KB二次キャッシュ:256KB製造プロセス:0.25um搭載トランジスタ総数:2130万個CPUの総合性能を加速するために同じダイに集積するキャッシュメモリを大きくすることは大変に有効な手段である。しかし、そのためのペナルティーも大きい。K6-2との比較でも明らかな通り、二次キャッシュを集積することによって、搭載トランジスタ総数は2倍以上になってしまっている。キャッシュメモリは基本的には高速SRAMなので、製造プロセスが同じであれば専有面積は単純に2倍となるためである。Intelが初代Pentium IIIでは、このキャッシュメモリを同じシリコンダイに搭載することが困難と判断したためにSocketでなくSlotという方法をとらざるを得なかったのは前述した。○K6-IIIがあのまま発展していたら…K6-3はPentium IIIに対抗するために、K6-IIIと命名されて400MHz、450MHzの二つのバージョンが1999年2月に市場投入された。登場した当初はパソコン雑誌がこぞってベンチマークテストをしたが、K6-IIIの実性能は驚くほどに優れていた。何しろ256KBのフルスピード二次キャッシュがCPUにシリコン上で直結され、コアクロックと同じ速度でアクセスするのだから速いはずである。あるベンチマークのソフトなどは256KBのキャッシュにそっくり収まってしまう場合もあったので、とんでもなく速い結果も出た。そのため、K6-2の500MHzでもK6-IIIの400MHzに実性能ではかなわないような奇妙な状況が現出した。K6-IIIの登場に自作ユーザーは驚喜した。パソコンの競争がクロック周波数に支配されていた現象に食傷気味であった自作ユーザーは、CPUの総合性能は周波数だけではなく、他の要因にも大きく起因することを知っていて、AMDがその最適の解決を提示したからだ。秋葉原などで活動を展開した私としても大いに興奮を覚えた製品であったが、ある日、本社のマーケティングのVPからK6-IIIは450MHzでストップだという決定を知らされて非常にがっかりした。理由は次の通りであった。巨大な二次キャッシュを集積することによって歩留まりが非常に悪い。シリコンダイのサイズが二倍になってしまい、経済性が悪い。K6-2はそのまま周波数が550MHzまで上げられるので、大量に売れるパソコン用のCPUとしてはK6-2の高周波数製品で経済的優位性を維持したい。500MHz以降はIntelにはK7で対抗する。会社としては当然の決定であろう。AMDはIntel互換路線を捨てて独自のインフラを築き上げる大掛かりな仕事に備えて経済的体力を温存していたともいえる。技術的に大量生産することが難しく、ビジネス的にはK6-2をクロックアップするほうがAMDにとっては正しい決定であるのは十分に理解できたが、K6-IIIがあのままPentium IIIの対抗馬として発展していたら面白い展開になったであろうなと今でも思っている。(次回に続く)著者プロフィール吉川明日論(よしかわあすろん)1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Device)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。現在も半導体業界で勤務。・連載「巨人Intelに挑め!」記事一覧へ
2015年12月07日○K6の秘められたパワーがついに開花AMDはK6-233MHzを発表すると、ロードマップ通りにアップグレードをはかり、266MHzさらに300MHzと矢継ぎ早に高速版を市場に投入し始めた。以前、486からPentiumへの移行でやったように、Intelが市場をSlot1マザーボードベースのPentium IIへ力ずくで向かわせようとしているのは誰の目にも明らかであった。具体的には、Socket7用のPentium MMXの最後の製品は233MHzで打ち止めにし、その後の高速化はすべてPentium IIで行い、廉価版のCeleronで価格要求を満たすということだ。ユーザーは慣れ親しんだ、しかも価格的にこなれたSocket7を使い続けるか、それとも一気に高価なSlot1ベースのマザーボードに移行するかの選択を迫られた。これに対し、AMDは遂にNexGen部隊が数年前に組み込んでいたK6の秘められたパワーを全開にした。K6に追加された優れた機能は次のとおりである。外部バス(FSB)の速度を66MHzから100MHzに高速化し、それをSocket7ならぬSuper7と命名、これによってIntel陣営のシステムバス速度と互角となった。"3D Now!"とAMDが命名した21個のSIMD(Single Instruction Multiple Data)命令を追加実装、当時高速PCで使用されていたグラフィクス処理を多用するゲームアプリケーションに対応する。これらの優れたフィーチャーをインテル互換ではなくユーザーフレンドリーな高性能CPUとして前面に展開(ロゴマークを見ていただければわかると思う)。おそらくこの頃から、秋葉原のパーツショップにあるPC用のボードの棚に変化が現れ始めた。かつては1種類のインフラに多数のメーカーのマザーボードが展示されていたものが、いつの間にかSlot系、とSocket系に区別され、Intel系とAMD系という風に区別されるようになった。○進撃のK6-2K6-2の進撃は止まらなかった。300MHzを超えると、350、366、380、400、450、475、500、533、550MHzとアップしてゆき、立派にIntelのPentium IIに伍する勢力としての地位を打ち立てた。最後のほうは小刻みに上がってゆくのはご愛敬だが、これは大いにCompaqの年に3回あるパソコンのアップグレードと関係がある。500MHzと533MHzベースのパソコンでは実際の総合性能はほとんど変わらないだろうが、価格では100ドル以上の差がつけられていた。このころから、デジタル機器でエンドユーザーにはわけのわからない機能のアップグレードによる差別化が始まったのだと思う。半導体技術はコンピューターの能力をパソコンのような身近な機器に安価で提供したという点で社会に対し大きく貢献をしたと思うが、パソコンをはじめとするデジタル機器メーカーに対し大きなチャレンジを強いることとなった。半導体製品がコモディティー化し(これはメモリデバイスでは顕著である)、とてつもなく大きな容量、優れた性能も、次のバージョンが出るとくずのような値段になってしまう。ちょっとでも数字が大きいほうが価値がある。よって、差別化の大きな要因は値段になる。値段を下げるためには量を追わなければならなくなる、そのためには巨額の投資が必要とされる。差別化を図るもう1つ手段は新機能であるが、消費者はすでに必要な機能を手にしているので、追加機能の訴求ポイントが技術的なものになってしまい、なかなか理解されない。そのため、追加機能は値上げの武器にはならず、せいぜい値下げのヘッジにしか使われない。もっとも、当時のパソコン市場は多くのユーザーがまだパソコンの可能性に期待していたのでクロックスピードの上昇によって価値を上げるマーケティング手法が十分通用していた。K6-2は安価なインフラ(マザーボード)で高性能なパソコンを組み立てられるので、個人ユーザーの市場では大きな支持を得たし、ビジネスOEM(ブランドパソコンメーカーによる大量のパソコンへの組み込み)も飛躍的に進んだ。日本のパソコン市場でもほとんどのパソコンメーカーがIntel系のラインアップとともにAMD系のラインアップをそろえ、安価な価格帯にポジションしたので台数が飛躍的に伸びた。日本市場でK6ベースのパソコンの拡販にIBMの力を借りたマーケティングは間違いなく的中したわけだ。(次回に続く)著者プロフィール吉川明日論(よしかわあすろん)1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Device)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。現在も半導体業界で勤務。・連載「巨人Intelに挑め!」記事一覧へ
2015年11月30日T-Gardenはこのほど、カラーコンタクトブランド『Putia(プティア)』から、吉川ひなのさんデザインプロデュースレンズ<Elm hazel( エルムヘーゼル)、Palm brun (パームブラン)>の2色を発売した。「Putia(プティア)」は2014年1月に誕生したカラーコンタクトレンズ。新商品は瞳になじむぼかしフチがポイントで、カラコンを装着している感じをなくし、ナチュラルなのに印象的な目元になるようこだわったという。「Elm hazel エルムヘーゼル」は奥深い瞳になるよう、さりげなくヘーゼルカラーを入れた。「Palm brun パームブラン」は、繊細なフチのデザインが瞳に溶け込むあでやかなブラウンカラー。価格は1箱10枚入りがWeb・実店舗とも1,600円。1箱30枚入りがWeb店舗は3,123円、実店舗3,790円。プロデュースを担当した吉川ひなのさんは「大人の女性が使いやすいように自然なサイズ感と、ふんわりナチュラルなデザインにこだわりました。お洋服を選ぶみたいに、その日の気分で使い分けてもらえるとうれしいな」とコメントしている。※価格はすべて税別
2015年11月17日○AMDを振り切るお決まりの戦略を採ったIntelだったが…AMD K6の登場後、IntelはPenitiumでは当時PCソフトがコンシューマー向けの多種多様なアプリケーションに対応できるように、MMX(Multi Media eXtention)拡張命令を実装したほかは、クロック周波数を233MHzに上げたくらいで他にはアップグレードせずに、その軸足をPentium IIに早々に移していった。AMDを振り切ろうというIntelお決まりの戦略である。AMDを低価格帯に封じ込めるためのCeleronというブランドも用意した。しかし、もはやPC市場はIntelがなんでもスタンダードを決められる状態よりもはるかに規模が大きくなっており、カスタマーを含め、マザーボードなどのPCプラットフォームのインフラストラクチャ(このような言葉ができてきたのもこのころである)の人々は、多様化する市場ニーズに応えるため、性能とコストを極める過程において、Intelに十分対抗できるソリューションを求めていた。例えば、日本の周辺機器メーカーのメルコは、K6をCPUアクセラレーターとして製品化した。今までのSocket7マザーボードのPentiumを抜き取り、替わりにK6をソケットに差し込み多少設定を変えるだけで、233MHz以上の性能を持つアップグレードが可能となるというユニークな製品で、AMDとの協業を盛んに行った。当時のPCインフラがいかに成長していたか、またAMD K6の完ぺきな互換性を立証する製品として記憶にとどめたい。このような中で、Intelの驕りを象徴する大事件が起こった。Pentiumの大規模リコール事件である。○Intel、Pentium CPUをリコール"1994年6月14日、USバージニア州リンチバーグのある大学教授がPentiumを搭載したPCを使用し、かなり複雑な数理計算を行っていたがどう計算しても演算結果がおかしいことに気が付いた。自身も科学者であった彼はそれから4か月をかけて原因を追及した結果、問題はPentiumチップそのものにあるという結論に達した。そこでインテルに電話をかけた。インテルは200万人のPentiumユーザーの中でこの問題に気付いたのは彼だけだと回答し、情報を記録しファイルにしまい込んだ"(以上マイケル・マローン著、土方奈美訳の"インテル"からの略引用)。リコールと言うと通常、車とか家電製品というイメージが普通だが、IntelがリコールしたのはCPUである。しかも、この現象はほとんどのユーザーの通常のパソコンアプリではほぼ100%発生しない現象であったが、後のIntel自身の調査で明らかになったとおり、これは明らかなCPUのバグ(設計上の不具合)であった。田舎の大学の数学教授が発見したPentiumのバグ問題は、教授がこの事実とIntelの対応をインターネットで公表すると瞬く間に広がり、パソコンユーザー、メディアはヒステリー状態に陥った。この時点でも、Intelはこの現象の発生率は非常にまれで、次の製品で改善するのでリコールはしないという立場をとっていたが。 ユーザーやメディアのプレッシャーに押される形で、IBMをはじめとするパソコンメーカーがIntel Pentium搭載のパソコンのリコール交換に応じたことで、IntelもついにPentiumのリコールに踏み切った。パソコンの中に内蔵されているCPUのような通常人が目にしない製品のリコールでは最大規模のケースで、結果的にIntelの損金は数億ドルに達したが、巨大企業のIntelにとって最も痛かったのは損金ではなく、ブランドへのダメージであった。我々AMDとしては、この件について調子に乗ってIntel批判をすることを控える方針を決めた。当時、コンピュータの頭脳であるCPUの集積度はトランジスタ数で言えばすでに1000万個に達していた、そんな複雑な製品を何千万人に売っているという現実は我々半導体屋の想像をはるかに超えていた。明日は我が身の可能性もあったのだ。(次回に続く)著者プロフィール吉川明日論(よしかわあすろん)1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Device)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。現在も半導体業界で勤務。・連載「巨人Intelに挑め!」記事一覧へ
2015年11月16日ワタベウェディングとクラウディアはこのほど、吉川ひなのプロデュースによる国内向けウェディングドレスの新ブランド「alohina moe(アロヒナモエ)」の新作ドレスショーを開催した。ワタベウェディングは2013年より吉川ひなのプロデュースのリゾートウェディング向けドレスブランド「alohina」を販売しており、今回はドレス販売メーカーのクラウディアと共同で、国内レンタル専用ブランドを開発。「alohina moe」のブランド名はハワイ語で"まばゆい空"を意味する「alohirani」と"ひなの"を掛け合わせた「alohina」と、ハワイ語で"夢"を意味する「moe」に由来するという。プロデュースを担当した吉川ひなのは、大好きだという虹をドレスに表現するために苦労したことや、各ドレスについて花嫁をかわいく美しく見せるために工夫した生地やカラー、デザインのポイントについて語った。ショーでは自身もモデルとなり、フリルと花が付いた大人の雰囲気のブルーカラーのドレス(AH-0012 Blue)や華やかなフリルが重なったプリンセスラインのホワイトドレス(AH-0001 OW)、ハワイの虹を表現したというレインボーカラーが特徴のドレス(AH-0010 Pink)姿を披露した。その他、花やリボンをあしらったドレスなどを、さまざまなカラーで表情豊かにそろえている。価格は、30万円~を想定しているという。
2015年11月02日○画期的だったIntel Insideキャンペーンリテール市場の開拓はカバレージを広げることに焦点があったので、基本的には力仕事であったが、OEM市場の開拓にはかなり時間がかかった。AMDにとってOEM市場というのは簡単に言えば、AMDのCPUを日本のPCメーカーに売り込むことである。半導体メーカーの本来の仕事であり、ビジネスの根幹である。その時点で、Intelはエンドユーザーにそのブランドを直接売り込むという、それまで半導体メーカーで考えられなかったようなユニークでパワフルなキャンペーン、"Intel Inside(日本ではインテル入ってる)"をテレビのコマーシャルなどで強力に展開していて、これが我々AMDのPCメーカーへの売り込みに強力に立ちはだかった。通常、CPUも含めて、半導体製品は電気製品の中に搭載されているもので、消費者は全く目にしないし、気にもしないものである。極端な話を言えば、エアコンを買う人が、"このエアコンに搭載されている16ビットのマイクロコントローラーはどこの製品ですか?"、などと言う質問は全くあり得ないので(よっぽどの業界オタクでないと質問しないし、質問されてもその答えはだれも知らない)、そんな半導体の世界にブランドマーケティングが成立するなどだれも考えないものである。しかしIntelは違った。IntelはPCのマザーボードに搭載される半導体はメモリとアナログを除いてはすべて集積回路に取り込んでしまう(まさにムーアの法則である)という戦略であったのでそのうちPC自体がCPUと同義になると考えていた。とは言っても、多分この戦略は、PCが流行し始めたその当時でもIntelの中の限られた人間しか認識していなかったことだと察する。前述のIntelの本では、CPUを開発した当時創業者のロバート・ノイスが"Intelはこれからコンピューターの会社になる"、と言ったが、当時その言葉の意味を分かる人間はノイス以外にいなかったと書いている。逆説的に言えば、ノイスはその天才的直観でIntelが開発したCPUがその後どのような未来を構築するのかの可能性がはっきり見えていて、その未来をIntel自身がそのビジョン通りに創造したということであろう。Intel恐るべしである。しかも、AMDが低迷する中で、Intelは市場独占の力を強力に進めていったので、OEMカスタマ(PCメーカー)に対する影響力は絶大であった。何しろ、PCビジネスを優位に進めるためには唯一のCPU供給者のIntelからより有利な条件でCPUを購入するということが命題になる。Intelにとってみれば、同じようなPC製品を市場に供給する複数のカスタマーを相手にした場合、そのカスタマーの最重要部品のCPUの供給と価格を握っているのであるから、交渉を有利に進めることは至って容易である。"どちらが客かわからない状態"、というのがその状況であり、その状況はPC市場が指数関数的に成長し、競争が激化すればするほどIntelの独占的優位性は高くなる。Intelにとって最も重要な要件はPC市場がより性能の高い高付加価値品を目指して成長していくことであって、IntelのCPU製品を搭載した同じようなPC製品を大量に市場に売りさばくPCメーカーはもはや顧客ではなく単なるディストリビューターになっていたのだ。その当時、テレビのコマーシャルで頻繁に流れた"Intel Inside"キャンペーンは(PCの宣伝の後にタンタンタンタン~と流れるあの音を覚えている読者も多いと思う、私にとってはこの上もなく耳障りなものであった)そのIntelの独占的ポジションを象徴する代表的な例である。このIntelの市場独占については、司法当局が行き過ぎがあったと判断して、その後法的な争いに発展するが、これについては別の章で述べたい。○Piggy Back MarketingでIntelに対抗そんな中、私はAMD K6を日本のPCメーカーであるカスタマーに売り込むべく、いろいろな方法を模索していた。以前の386、486で経験したような互換性への問題はなかったものの、Intel独占の状態において"IntelではなくAMDを使うことに対する抵抗"を解決するのに大きな労力を使った。私にとってのチャレンジは大別して次の点である。今まで100%Intelであったところに、AMDを入れるとIntelがどういう反応をするかわからない、Intelが報復するのではないか?今やPC市場で"Intel入ってる"は常識になっている。そんな中で、IntelでないCPUを使ったPCがエンドマーケットで受け入れられるのだろうか?そんな状況でAMDを使うのであるから、それなりのメリットがないと使えない。ブランドの問題は特に厄介であった。単純にマーケティング的に言えば、大金を投入してブランドマーケティングを展開すればこの問題はある程度解消するが、そんな資金はもともとない。それならば、既に確立されたPCブランドに売り込んでその実績をそのブランドとともに普及させる、これはブランドマーケティングのイロハである、所謂"Piggy Back Marketing"- 他人のブランドの背中を借りて自分のブランドを売り込むという手法である。AMD本社もその辺はよく承知していて、AMDの営業たちは、"何が何でもとにかく大きなブランドを確保せよ"というサンダースの命令に全力で突っ走った。その結果、2つの大きなカスタマーを獲得した。1つは当時コンシューマーデスクトップPC市場でAptivaブランドを拡販し大きく勝負し始めたIBMと、企業デスクトップで大きな市場を獲得していたDEC(Digital Equipment)である。それまで、日本PC市場は日本メーカーの独占状態であったが、USのPCメーカーは世界で2番目に大きい日本市場への参入を虎視眈々とうかがっていた。そこで、コストパフォーマンスに優れるAMDのK6を使用したPCは強力な武器になった。特に、IBMのAptivaは日本IBMの強力なプッシュで日本のリテール市場で着々と実績を作りつつあった。日本AMDのK6のリテール市場でのプレゼンスを高めるためには完ぺきな商材であり、AMDは日本IBMのリテール担当の人々の強力なサポートを得て、リテールでの協業が始まった。その当時、私が手掛けたK6/Aptivaの広告があったのでここに掲載しておく。そのIBMも実はAptivaを市場投入するにあたってAMD K6が市場に受け入れられるかどうか自信がなかったので、初期の段階ではAMDとの合意のもとに、搭載CPUの表示を"IBM-K6"としていたほどである。しかし、この状況もAptivaが売れていくにしたがってAMDの認知度も上がっていったので解消された。今から思うと信じられない話であるが、当時はそれほどまでに深刻だったのである。我々AMDのリテールチームはAptivaを扱うリテーラーの接客対応員に対し勉強会などを積極的に行い、グラスルーツの活動を行った。私は北海道から沖縄までリテールめぐりの出張を繰り返した。スケジュールは大変忙しいものであったが、おかげでそれまで行ったこともない場所まで出かけてゆく機会を得、土地の人たちの話を聞いたり、ご当地のおいしい食べ物をいただく貴重な経験ができて今では楽しい思い出である。(次回に続く)著者プロフィール吉川明日論(よしかわあすろん)1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Device)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。現在も半導体業界で勤務。・連載「巨人Intelに挑め!」記事一覧へ
2015年10月26日○半導体業界の"ダビデとゴリアテ"K5の失敗で低迷していたAMDも、起死回生のK6の投入で息を吹き返した。そのタイミングは結果的には絶妙だった。というのも、K6が投入されたタイミングはマイクロソフトが1995年にWindows 95を発表し、PCが瞬く間に個人市場に拡大した後だったからだ。ユーザーインターフェースに優れたWindowsのおかげで、操作性が格段に向上し、誰でも容易に使えるアプリケーションが一気にリリースされ、個人ユーザーがPC(Personal Computer)をコンピューターであるということを全く意識せずに、当たり前のようにいろいろな用途に使える状態が現出したわけである。さらに、インターネットの普及で個人が扱うデータも膨大になり、動画、ゲームなどの用途に広がるにつれ、一般PCユーザーの関心はメモリの大きさとCPUの性能の良さ、それにかかるコストに向けられていった。しかも、前述のように、PCをブランドメーカー品だけに頼らず、自分で組み立てる"自作派"の出現がこれらの要件に関する知識を飛躍的に高めていった。こうしたパワーユーザー達の興味を満たす何十種類ものPC関連雑誌が刊行され、各種アプリケーションによるCPUのベンチマークテストが技術専門用語が飛び交う雑誌記事で大々的に報道されるようになった。従来IntelのPentiumが唯一の選択であった状況に、いきなりAMDのK6がそれを上回る性能で登場したことで、一般ユーザーの関心は一気に高まり、事実上AMDはIntelへの唯一の対抗勢力となった。それまで群雄割拠状態であったIntel互換CPUメーカーたちは次々と脱落していった。その後、Intel互換というアプローチと全く違うが、極端に消費電力の低いCPUをTransmetaという会社が開発し(2000年に発表されたCrusoeとその後継のEfficion)業界を賑わした時期はあったものの、それも短命に終わり、いつの間にか忘れ去られていった。 Trasmetaが採用したCode Morphyingというアプローチは、非常に革新的であったが、他のIntel互換メーカーと同じように、1作目のCPUは注目を集めたものの、その後の後継製品の投入がタイムリーになされなかったことが敗因であった。今や、電子業界、ひいては家電製品の中心アイテムとなったPC市場では、ソフトはマイクロソフトのWindows、CPUはIntel/AMD、という寡占時代が訪れたのである。寡占と言っても規模的にはIntelとマイクロソフトは巨大企業であり、ハードとソフトの両輪を各々市場独占するWintel(Windows + Intel)と呼ばれる無敵のビジネスモデルが出来上がり、その後この状態が10年以上にわたり継続されることとなる。興味深いのは、最近筆者が書評をした最近のIntelの本によると、この両社の関係はWintelという表現から想像される相思相愛の関係では決してなかったらしい(ちなみに、マイクロソフトもIntelも公式な場でWintelという言葉を使うのを筆者は一度も聞いたことがない)。そうした中で、ハード側の巨大企業Intelに小さいながらもむき出しの対抗精神で立ち向かうAMDという図式は、西洋風にいえば“ダビデとゴリアテ"、日本風にいえば“弁慶と牛若丸"の図式によく例えられた。○リテール市場での貴重な経験この状態はAMDで働く私にとっては悪いものではなかった、というのも、巨大企業Intelに孤軍奮闘で立ち向かうということには相当のエネルギーが必要であるが、やっている本人たちにはこれほどやり甲斐がある仕事はなく、市場からは判官びいきの応援などもあったりして、それは大きなモチベーションになっていた。その頃、私は成長しつつあったリーテールマーケット(CPUのリテールパッケージ営業)を開発する部隊を編成して、全国のリテール市場を回り始めた。半導体部品をソフトのパッケージに梱包して電気店で売るという今までには考えられないような展開で、しかも全く経験がなかったので何もかにも一から始め試行錯誤を繰り返した。その中でも、よく覚えているのは、AMDキャンペーンCarなるものを仕立て上げ、それにベンチマークデモなどをやる機材を積み込み秋葉原などの電気街に繰り出し、店頭イベントを開催したことだ。それまでB to Bのビジネスの経験しかなかった私にとって、店頭でエンドユーザーに直接話しかけるという行為は最初は恥ずかしくて多少抵抗があったが、次第に慣れてきて、だんだんエンドユーザーの直の声が聴けることに喜びを感じるようになった。この未知の分野での経験は、その後の私のビジネス感覚の醸成にとって大きな収穫であったと思う。B to Bのビジネスも結局はエンドユーザーが代金を払うのであって、最終の商流には必ずC(コンシューマー)がいる。商流の上流にあっても、下流で何が起こっているのかを把握することは非常に大切なことであるということを身をもって経験したと言えよう(そもそも上流、下流という言い方が誤解を招くと思うが、、、)。ある映画で熱血刑事が“事件は現場で起ってるんだ!!"と叫ぶ有名な場面があるが、まさにその通りだと思う。商品、あるいはサービスがエンドユーザーに届けられるその瞬間まで、ビジネスは完結しないのだ。その点で言えば、Intelは我々の2歩も3歩も先を行っていた。Intelは全国のリテールショップのPOSデータを買って、どこでどんなIntel製品が売れているか、完全に把握していた。そんなハンディを背負ってはいたが、幸い私がリテール展開を始めたころは、K6がブレークによってAMDファンが増殖していった時期だったので、まさに“ファンの皆様に支えられて"大きなモチベーションを感じながら大変良い経験をさせていただいた。(次回は10月26日に掲載予定です)著者プロフィール吉川明日論(よしかわあすろん)1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Device)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。現在も半導体業界で勤務。・連載「巨人Intelに挑め!」記事一覧へ
2015年10月19日というわけで、1986年1月にAMD日本支社に入社した私には、非常に具体的かつ喫緊の課題が与えられていた。1つ目は、AMDがそれまでUSでやっていた広告を日本の専門誌に日本流にアレンジして出すこと(これに関しては裏話があって、私が入社する前にUSの広告代理店に作らせてそのまま出稿した広告が顧客から大不評を買ったらしい…この辺については別途触れてみたい)、2つ目は、それまで英語でしか存在しなかった製品カタログ、データシートの類を日本語化することであった。私がAMDに入社した1986年の時期は米国以外の半導体市場では日本が突出して成長していた(ちょうど今の中国市場のようなものである)。それで、USの半導体各社は"Japan Focus"を次々に打ち出していた。AMDも例外ではなかった。そのために、日本支社の人員を急激に増やしていたのだ。私もその恩恵にあずかったということだ。確かに、その時期に採用されたエンジニア達は非常に優秀な人たちばかりで、日本の大手半導体メーカーから引き抜かれた人たちばかりだった。その時期、US半導体メーカーにとって日本市場は非常に魅力的であったが厄介な問題があった。それは、USの半導体メーカーが主要なカスタマとしている日本のコンピューター、通信機器、各種電子機器の大手電機メーカー(NEC、富士通、東芝、日立など)は、そのほとんどが半導体部門も持っていて、半導体の需要は旺盛だがその主要納入ベンダーはほとんどが同じ会社の半導体部門、もしくは他の日本大手メーカーの半導体部門という構造になっていた。しかも、その日本の半導体メーカーがUSでの市場拡大を狙ってDRAMのダンピングを始めた。これが、USにとっては大きな貿易障壁と映っていたわけである。これに業を煮やしたSIA(米国半導体工業会)はワシントンに働きかけ、この日本半導体市場での貿易障壁を日米政府間の貿易交渉のアジェンダに乗せることに成功した。いわゆる、日米半導体摩擦である(この件についても後の話で別途述べるつもりである)。○「明日ロサンゼルスへ行ってくれ」そろそろ今回の主題である私の2回目の出張の話をしよう。私は何とかして、入社2カ月くらいで(同時に入社した優秀なエンジニアの多大な協力を得て)AMDの主要製品の5種類の製品パンフレットを日本語化した。英語版と同じ写真を使ってテキストだけが日本語になっているカラフルなパンフレットを各5000部くらい印刷したと覚えている。出来立てのパンフレットを5部ずつ私の直属の上司である前述のDanに送っておいた。ある日の夕方(確か3月の10日あたりだと思う、なぜ30年も前の出来事を覚えているかは、この話を読み進んでいただければお分かりになる)、ちょうどカリフォルニアが出勤してくる時間にDanから電話があった。"日本語パンフレットを見た、素晴らしい出来だ、だがもっと部数が必要になった"、と言う。私は、何部必要なのか言ってくれたらDHLで次の便に乗せると答えたら、それは遅すぎるという。"25部ずつ持って、明日のロサンゼルス行きの便にとび乗ってそのままビバリーヒルズのWelshireホテルに届けてほしい、チケットは既にアレンジしてある"、と言う。なんでそんなに急にと尋ねると、"Jerry(Sanders)の指示だ、ホテルに行ったらJerryに直接手渡して指示を仰いでくれ、じゃあ頼むよ"、と言うと間もなく切ってしまった。第1回の出張の時の支社長秘書のところに行ったら、"吉川さんこれチケットです、リムジンもアレンジしています。空港に着いたら運転手がホテルまで案内します、大変ですね…"、と言うとにこっとしてまたビジネスクラスのチケットを渡してくれた。私は呆気に取られてチケットを手にすると、"これって、2か月前にもあったような…"と思いながら。資料室に行って出来立てのパンフレットを25部ずつつかむと、カバンに入れた。第1回目の出張では、ちょうど2カ月前にサンフランシスコへ向かったが、今度はLAだ。ただし、今回のミッションは非常に単純なハンドキャリーだったので気が楽だった。腑に落ちない気はしたが、いきなりCEOのJerry Sandersに会いに行くのだから緊張も少しはあった。LA空港につくと大柄な黒人の運転手がかしこまった制服を着て私の名前を書いたプラカードを持って待っている。近づくと、"あなたがヨシワか?AMDの?"、と聞くから、"ちょっと違うけど、まあそうだ"、と言うと"こちらへ"と言ってほぼ襟首をつかまれて連行されるような格好でリムジンに向かった。ハリウッドの映画でしかみたことがないような大きな黒塗りのリムジンが待っていて、だだっ広い客室に入るとすぐ走り出した。"今日は何かビバリーヒルズであるのかい?"、と運転手に聞くと、笑いながら、"あそこではいつもなんかやってるからね、わからない。でもよほど重要なんだな、あんたの雇い主から何度も電話があったよ"、と肩をすくめる。すると間もなく、目の前にある車載用電話が鳴りだした(携帯などない時代で、車載電話も珍しかった)。とってみるとDanだった。"予定通りついたんだな、ブツはもってるな?それをJerryに直接届けるんだよ"、と安心した声で言う。なんだかサスペンス映画のワンシーンみたいだなと思って車窓の外を見るとそこはまさにビバリーヒルズであった。○ドアの奥には伝説のあの人の顔がWelshireホテルは有名なロデオドライブ通りにある、言わずと知れたハリウッドのセレブ達が集まる超高級ホテルだ(もっとも、田舎者の私はそこへ行くまでそんなことは全く知らなかった…)。ホテルに着くと早速カウンターで"Mr.Sanderは何号室ですか、届け物なのですが"と聞くと、執事のような出で立ちの案内役が、"Mr.Sandersならちょうどその階段を上ってゆくあの人ですよ"と長身の紳士を指さす。まさに、AMDの創業者、CEOのJerry Sandersであった。いかにも高そうなピンストライプのスーツに身を包んだ見事な長髪プラチナブロンドの長身の男がさっそうと2階にある大会議室への階段を駆け上がっているところだった。"Mr. Sanders!!"と思わず声をかけると、Jerryが振り返って私を見ながらにっこりして、"君が日本支社に最近入ったマーケッターだな、今日は突然のハンドキャリー業務ご苦労様。しかしこれは大変重要な件なんだ。このリストにある日本から来たビジネスマンがこのホテルに滞在している。君は、ホテルの人に頼んで君が運んできた5種類のAMDの日本語製品パンフレットをこの私のメッセージを添えてそれぞれの人たちの部屋に届けてもらってくれ。それで、今日の君のミッションは終わりだ。あのリムジンは今日いっぱい借りているから君のものだ。ビバリーヒルズを楽しんでくれ"と言ってウィンクした。"AMD、Jerry Sandersより"というメッセージとともに渡された顧客リストには、日本の大手電機メーカーの社長クラスの名前がずらりと並んでいた。Jerryと話しながら階段を上がって2階にいくと、突き当りに大会議室があって中の様子が少しだけ見えた。長いテーブルの片側にUS半導体会社のCEO達とSIAの幹部が座り、向かい側には日本人のいかにも社長らしいビジネスマンがずらりと並んでいた。皆緊張した面持ちである。何か重要な会議が始まるらしい。重厚な扉が閉められる瞬間、そのテーブルの奥の真ん中の席に、両者を引き合わせるような仕草をした白髪の日本人紳士がニコニコして立ち何か喋っていた。どこかで見た顔だなと思っていたら、扉が閉まってしまった。そこで、はっと気が付いて思わず小さな声をあげてしまった、"Sonyの盛田昭夫さんだっ!!"。○日米半導体会議の裏でJerryが画策していたことその後新聞などを読んでようやく事情が呑み込めた。前述した日米の半導体貿易の摩擦問題は日米政府の通商問題にまで発展したが、これを見かねたSonyの盛田昭夫さんが、両業界の代表に働きかけ民間レベルの会合の招集を発案した。そのUS側のまとめ役がAMDのJerry Sandersだった。その日の会議は両業界の代表同士が一堂に会する歴史的な第1回会合であったのだ。その場にあって、抜け目のない営業マンのJerryは競合他社を出し抜いて、大切な日本のお客様のお偉いさんたちにAMDの売り込みを始めたかったということだ。場所がビバリーヒルズのホテルだったのは、それがUS政府があるワシントンDCの反対側の西海岸にあり、シリコンバレーに近いLAだったこともあろうが、もう1つの理由はJerryの自宅がビバリーヒルズの高級住宅街ベルエアにあったためかもしれないと思う。というのも、リムジンの運転手がビバリーヒルズを案内してやるよと言うので、その辺を走ってもらったが"あれが君の会社の大将の家だ、隣は俳優のピーターフォークの家だ、刑事コロンボ知ってるだろ? その向かいは女優のジェーンフォンダの家"、などと言いながらベルエアのメインストリートを走り抜けてJerryの邸宅の前を通った。残念ながら、Jerryの家に通ずるドライブウェイしか見えなくて、その奥にある家までは見えなかった。LAの日米半導体会議に出席中のJerryに届け物をするという"大役"を果たした私は、翌日サンフランシスコに飛びサニーベールのAMD本社に立ち寄った。面接のために訪れた日から2か月くらいしかたっていなかった。BenとDanが迎えてくれて、私がちゃんとJerryに渡したと報告すると、"それはよかった、ついでに主要なマーケティングの連中とのMeetingをセットしておいたから出てくれ"という。その後ろ側でBenのチームのマーケティングの連中が何かにやにやしながら会議室に入っていく、秘書たちがいそいそと何か用意している様子もある。Benの秘書がOKサインを出している。何なのだろうといぶかっていたら、Benがこっちにこいと会議室に招き入れてくれた。すると一斉にクラッカーが鳴り皆が"Happy Birthday!!"、と言って私を囲んだ。テーブルの真ん中には大きなバースデーケーキが置いてある。そういえば誕生日だったのだ、すっかり忘れていた。これがAMD入社後最初のUS出張だった。アメリカで食べるケーキの典型的な異常に甘い味とともに、非常に思い出深い出張だった。誤解のないように付け加えておくが、私のAMD出張でリムジンが用意されたのは後にも先にもこの最初の2回の出張だけであって、いつもは空港からのレンタカー運転だった。(次回は10月19日に掲載予定です)著者プロフィール吉川明日論(よしかわあすろん)1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Device)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。現在も半導体業界で勤務。・連載「巨人Intelに挑め!」記事一覧へ
2015年10月05日当サイトでAMDの歴史を振り返る連載「巨人Intelに挑め!」を執筆中の吉川明日論氏がインテルの歴史本をレビュー! 長年AMDの一員としてインテルと競合した経験を持つ吉川氏はインテル目線で語られる半導体業界史を読み何を感じたのか?○インテル担当記者の30年にわたる取材の集大成文句なしに面白い!! あまり面白いので500ページ以上の本なのに一気に読んでしまった。もっとも、評者はインテルのライバルAMDに長年勤務した経験があり格別な興味を持って読んだので、この書評は一般の読者には全くピンと来ないかもしれない。原文の題名は "The INTEL TRINITY How Robert Nocye, Godon Moore, and Andy Grove Built the World’s Most Important Company (ロバート・ノイス、ゴードン・ムーア、アンディー・グローブがどうやって世界で最も重要な会社を造ったか)"。Trinityというのは聖書の言葉で"三位一体"、いわゆる"父と子と精霊"の意味。役割で言えば父(ノイス)、子(グローブ)、精霊(ムーア)といったところか。カリフォルニアの半導体ベンチャーのメッカ、シリコンバレーに暮らしたことのある人はだれでも読んだことがある地方誌、サンノゼ・マーキュリー・ニュースでインテル担当記者として勤務したマイケル・マローン記者の、30年にわたる取材の集大成ともいえる力作である。○ストーリー満載ながら、技術情報も正確インテルに関する著書はアンディー・グローブ自身が著した経営リーダー書の類など多々あるが、この本はインテルという偉大な会社(この本では最も"重要な"会社と言っているところがミソ)を創り上げた3人のリーダーの個々の関係、愛憎などを絡ませて描いたところに大きな特徴がある。しかも、半導体技術の驚異的な発展をかなり技術的に正確に、しかし一般の読者にも比較的に解かりやすく書いている一方で、創世記の半導体産業、成長期、安定期におけるリーダーたちの懊悩を見事に描いているのはさすがに30年にわたるシリコンバレーでのキャリアのみなせる業か。インテルだけでなく、フェアチャイルド、AMD、ナショナルセミコンダクターなど、他の会社の著名人との生々しいやり取りなどを、実際の取材ノートに基づいて詳細を書いているので、かなり説得力がある。私の場合には、"やはりそうだったのか…"という感想が大きいが、インテル内部で起こっていたことなど、外部者には想像できないストーリーも満載で、いまさらながら、シリコンフィーバー(熱病)のような時代に生きた人たちのなんとエネルギッシュな生き方かと、一般のビジネス読者にも共通の興味、共感を持って読めるであろう。成長産業での先端企業を引っ張るリーダーたちの孤独、プレッシャーを痛々しいほど感じる。ただし、30年前からシリコンバレーに関わってきた人に共通する半導体(ハードウェア)信奉がベースにあるのは明らかで、その後に産業のリーダーシップを業界レベルで奪い取った、マイクロソフト、グーグルと言ったソフトウェア業界の主役たちに対する共感は全く存在しない。インテルを敢えて"世界で最も重要な会社"と位置付ける筆者のこだわりが強く感じられる。筆者の信奉する"Moore’s Law :ムーアの法則"の継続発展が疑問視される昨今、これからのインテル、ひいては半導体産業はどうなってしまうのだろうという将来に対する思いを馳せる人たちにとっては、歴史を認識するのも面白いかと。日本語訳が秀逸。○インテル 世界で最も重要な会社の産業史出版社:文藝春秋発売:2015/9/12著者:マイケル・マローン訳者:土方奈美ISBN:978-4-16-390331-6価格(税別):2100円出版社から:「半導体の集積密度は18~24ヶ月で倍増する」つまり「コンピュータの処理能力は指数関数的に向上していく」、1965年、インテルの創業者であるゴードン・ムーア博士が発表した論文に書かれていた半導体の能力に関する洞察は、「ムーアの法則」として、今日にいたるまで、情報産業にかかわるものが、逃れらない法則となった。その法則を生み出した「世界で最も重要な会社「インテル」の産業史である。ムーアの法則」の誕生のみならず、本書を読む読者が切実に感じるのは、今自分が努めている会社、業界のすべてに通ずる共通のテーマが、鮮烈なエピソードをもって書かれている点だ。すなわち、「技術力か営業力か宣伝力か」という問題。あるいは「才能か努力か」あるいは、「継承か革新か」あるいは「模倣か創造か」本書の中には、コンピュータの心臓部であるマイクロプロセッサ(CPU)を世界で初めインテルとともに開発した日本の電卓メーカーが、最後の最後で社長の判断から契約をキャンセル、結果的には、CPUの知的財産権を逃すという「史上最悪の経営判断」をしてしまう話や、あるいは、モトローラに劣るチップをインテルが営業力でもってシェアを逆転する様など、私たちの今日のビジネスの日々の判断に通じる血わき肉おどるエピソードが満載されている。著者はアメリカの新聞で初めてシリコンバレー担当をおいたサンノゼマーキュリーニュースで最初のシリコン・バレー担当となった記者。1970年代から今日まで、その有為転変を追い続けてきた。
2015年09月30日○パワーユーザーを歓喜させたK61997年4月、とある新宿のホテルで開かれたAMDの新製品記者発表会は補助椅子を用意しなければならない位の大盛況だった。そのころ、PCプラットフォームが個人ユーザーに拡大し、今まで完全にパソコンメーカー主導だったPCを、自分で組み立てる自作派が現れた。秋葉原に行けば、CPU、マザーボード、メモリ、グラフィクス、ケース、クーラーファンなどの各部品がバラバラで売っており、自分の好きな仕様の部品を買ってきてPCを組み立て、好きなソフトをインストールして楽しむという、今まで全く予想しなかった状況が現れた。その市場の成長につれてPC関係の雑誌が次々と創刊され、あっという間に拡大していった。そのころの本屋に行けば、一番入口に近い雑誌棚の一番先頭に、何十というPC、パーツ関連の雑誌が所狭しと並んでいたのだ。パワーユーザー(自作派などのハイエンドのPCを求めるユーザーをこう呼んだ)は自作の手段を手に入れると、「CPUはIntel」といった一元的な状況に満足しなかった。彼らは選択、差別化、個性を求めたのだ。その状況で、かねてから噂されていたAMDのK6がいよいよ発表されることになったのだ。しかも、今度のAMDの製品は、今までのIntel製品の後追いではなく、全く新しいアーキテクチャで、Pentiumよりも速いらしい…こうした大きな期待を一身に背負って、1997年4月2日初代K6は発表された。K6はそれまでに喧伝された期待を裏切らない仕上がりだったクロック周波数166・200・233MHz(Pentiumは最高で200MHz)パイプライン:6段ステージ、最大6命令を同時発行可能RISC86スーパースケーラーアーキテクチャPentiumソケット7互換(AMDではこれをスーパー7と呼んだ)0.35ミクロンプロセス技術、880万トランジスタ(K5の2倍以上)いきなり、233MHz品がリリースされたので、かなりのインパクトがあった。というのも、それまでのPentiumの最速製品は200MHzであり、Intelよりも速いCPUというのはいまだかつて誰も経験しなかった興奮だった。しかも、そのCPUはPentiumのソケットにそっくりはまる。K7の話で書いたように、チャレンジデモというのを始めたのがこの初代K6の最初の記者発表会である。外見は全く同じパソコンを2台用意して、"メモリ、HDD、などCPU以外のパーツは全く同じものを使用しています、右がAMDのK6、左がIntelのPentium。それでは「よ~いどん」でベンチマークソフトを走らせます、どちらが早く終了するかご覧ください"、という口上とともに2台のPCが表計算、描画、MP3による音楽圧縮、ゲームのシーン、などの実際のアプリケーションなどをつなぎ合わせたベンチマークソフトを次々に実行してゆく。基本アーキテクチャが違うわけだから、各アプリの処理速度を注意深く見ていると、確かにCPUによって得意、不得意はあるのだが、何しろクロック周波数が10%以上高速なので、結局K6が先に終了する。その優位性を衆目の前で比較しながら証明してみせる非常に解かりやすいものなので大変好評だった。しかも、IntelはAMDをまがい物だとして認めない立場をとり挑発に乗ってこないので、その後の活動にどんどん取り入れた。○予想を上回るK6の売れ行きK6開発の経緯はAMDのNexGen買収から知れ渡っており、市場はその到来を待っていた。K6はその後、ほどなくしてほとんどのパソコンメーカーが採用し、AMDは大量のK6を市場に出荷したが、集積度が非常に高度なCPU製品の宿命として、166、200MHzの製品は比較的容易に生産できたが、最高性能の233MHz品はその数に限りがあった。そういう状態であったので、私は最初のカスタマに、ある秋葉原のPCパーツ店と組んで、ショップブランドのK6パソコンを売り出してもらった。ショップブランドであるので有名電気機器メーカーのナショナルブランドパソコンよりも数が圧倒的に少ないと思った…ところが、私の思惑は外れた。発表と同時に用意した233MHzは予約販売で即座に売り切れてしまった。ショップはバックオーダーを抱え、毎日追加の催促をしてくる、"そのうちに歩留まりが上がって潤沢に出るようになりますから"、と言って初めのころはかわしていたのだが、それも限界になり、ショップの社長さんとともにUS本社まで行って、"いくつ出せるのか"、と直談判を行ったことを覚えている。パワーユーザーからの旺盛な需要は世界的規模だったので量を確保するのは大変であった。○「自作PCエキスポ」を開催秋葉原といえば、その後いろいろなお店にお邪魔し、イベントをやったりすることになるのだが、このころは何もかも新しい経験で、今から思えばまさに怖いもの知らずで、よくやったなと思うような貴重な経験をさせていただいた。その中でも印象深いのは、秋葉原始まって以来の"自作PCエキスポ"である。今日秋葉原の電気街側にあるUDXのビルのあたりは、その当時は大きな駐車スペース、空き地になっており、時折電機メーカーが展示イベントなどをやっていた。そこで、発案されたのが自作PCパワーユーザー向けの大イベントである。幕張などで盛んにおこなわれていたPCエキスポのようなものを、秋葉原で自作ユーザー向けにやってみてはどうかということである。何しろ何もかも新しい経験なのでどんなに大変なのか想像もつかない。ちょうどそのころ入社してきた自作派の新入社員を責任者にして、当時としては破格の予算をつけて2日間のイベントを準備した。会場に大きな天幕を張り、土日の2日間で、自作PC講座、マザーボード、グラフィックカードの各社からの発表、各種デモンストレーション、AMDのロードマップの説明、プレスを呼んでのパネルディスカッション、懸賞付きのじゃんけん大会、など頭をひねっていろいろな企画を考えた。そして、駅の前にはK6のロゴをあしらったコスチュームをまとったK6ガールズが宣伝用のビラを配る。真っ青に晴れた快晴の2日間で詳細は忘れてしまったが2000人くらいの人が訪れたと記憶している。その間に、振興会、お店などのお偉方も大勢来ていただいた。その中の一人の方が、"CPUのようなパーツでこんなに人が集まるような時代になったんだね"、と感慨深く感想を述べられていたのをよく記憶している。パワーユーザー向けのいろいろなアイテムが考案されたのもこの頃からである。その中でも、かなり成功したのがK6ロゴをあしらったエンブレムである。自作PCはデスクトップなので、PCケースの正面に正方形のエンブレムを貼り付けるスペースがある。ここに貼るちょっと厚手のロゴスティッカーは、その後、新製品が発表されるごとに新しいロゴとともに制作された。これが非常に受けたのである。もう1つのアイテムは、半導体チップの一片を透明のアクリル材に封止してストラップにしたもの。これは、工場に掛け合って、出荷検査で不合格になったものを送ってもらって日本で作成したもので、その後日本以外の国でも流行ったアイテムである。私も携帯などにつけていたものだ。当時は予算が潤沢にあったので、Tシャツなどもたくさん作った。Sales Conferenceの話でも出たように、当時のAMDではTシャツなどは新製品の出る度に、イベントの度に作るので24年も勤務した私は、未だにTシャツ、ポロシャツの類を自分で買ったことがない。現在着ているポロシャツももちろんAMDのロゴ入りである。(次回に続く)著者プロフィール吉川明日論(よしかわあすろん)1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Device)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。現在も半導体業界で勤務。・連載「巨人Intelに挑め!」記事一覧へ
2015年09月14日○K6登場までAMDを支えるアイディアが必要だったK5の遅れがはっきりした今、NexGen買収により入手した最新デザインNx686のバスを、Pentiumと互換(ソケット7)にするために、早速AMDのエンジニア達はNexGenから合流したエンジニア達と一緒にバス部分の再設計に取り掛かった。超特急でやれという指示であるが、早くても1年はかかる。その間も、IntelはPentiumを強化してくるし、その後継品第6世代とされるPentium Proが発表される(1995年11月)。K5プロジェクトの遅延に対しIntelの攻勢は容赦なかった。 Pentium Proは当初はサーバーなどのハイエンドを意識して投入されたが、その基本アーキテクチャには革新的な点が多く、その後のIntelの高性能の製品の基礎となったものである。事実上、この時点でIntelはAMDの2世代先に駒を動かしていたのである。 こんな状況であったので、設計チームはNx686のCPUコアの再強化にも取り組まなければならなかった。K5は、前述のように翌年1996年3月に何とかリリースにこぎつけたが、市場の反応は思わしくなく、AMDの屋台骨を支えるには力不足である。K6の到来を待つまで、何とかCPUビジネスを支えるアイディアが必要であった。そこで、AMDのマーケティングチームが頭を絞って考え出したのが、Am486の高速化を図り、Pentiumクラスでも低い価格帯でのビジネスを狙う戦略である。AMDはその時すでに、Am486のキャッシュメモリを強化(以前のDX4の2倍の16KBのL1キャッシュ)、クロック周波数を高速化(コアクロックを120MHzから133MHzにアップ)した製品の完成をみていた。いろいろな実際のアプリケーションを組み合わせたベンチマークをとってみると、かなり性能がよく、Pentiumともいい勝負をすることが分かった。CPUチップというものは大きく分けて次の3要素から成っている。CPUコア:これがCPUの性能を決定づける肝であるキャッシュメモリ:命令、データなどのCPUとのやり取りをいちいちCPU外部のメモリにアクセスするとシステム全体の性能が落ちるので、ある程度のメモリ容量を高速のSRAMなどで実現し、CPUと同じチップ上に集積するI/Oロジック:CPUがバスを通じて外部のメモリ、周辺装置などとやり取りができるデータの通り道を構成する部分、K6の場合は、主にこの部分の設計変更がなされたこれらの要素がすべてトランジスタの組み合わせで形成されて、1つのチップの上に集積されるのである。CPUに使われる半導体チップの大きさ(ダイサイズと言われる)には、経済的に大量生産できるためには制約がある。新しいCPUのコアロジック部分は、新たな機能を詰め込むために当初は非常に大きくなってしまう(トランジスタの数が多くなるので)、しかしCPUのシステム性能を上げるためには、できるだけ外部メモリにアクセスせずに同じチップに作りこんだキャッシュメモリを持っていたいので、全体の性能を上げるにはキャッシュサイズも非常に重要な要素となる。車に例えれば、エンジンとステアリングのような関係である。これらが最適化されてシステムレベルの性能が向上される。ということで、新製品ではよくあることだが、古いCPUコアでも、シリコンに集積するキャッシュメモリ(中身は高速のSRAMである)を増やすことにより、新しいCPUコアの製品よりも実際の性能が良くなることがある。○"なんちゃって第5世代"がAMDを救うAm486の最後の製品はPentiumと同じ16KBという大きな一次キャッシュメモリを内蔵していた。そこで、この製品をどういうポジションで売り込むかが重要になる。ここでマーケティングの登場である。IntelはPentiumの投入時に"第5世代"ということを全面的に押し出していた。その名前が示す通りPentというのはギリシャ語で5を意味する(アメリカのPentagonはその一例)。AMDのマーケティングチームは考えた。そもそも、パソコンの購入者はPCを買いに来るのであって、CPUを買いに来るのではない。彼らが購入決定の決め手とするのはPCのブランドであり、実際のアプリケーションでのコストパフォーマンスである。CPUのブランドではない。ただし、PCを買いに来る人たちは、店員に"このPCに使われているCPUは何というのですか? 十分な性能ですか?"くらいの質問はするだろう。そうであれば、実際の性能が十分なものであれば、CPUコアが4世代であろうが、5世代であろうが関係ないはずである。そこで考え出されたネーミングがAm5x86である。"中身は486コアなのに…結局、なんちゃって第5世代じゃないか"と思われる読者もおられると思うし、私も異論はない。しかし、Am5x86の性能は実際かなり良かったし、AMDにはそれ以外の選択は事実上なかったのだ。メッセージを確実なものにするために、その性能を証明するためのベンチマークの結果などを添えたマーケティングを積極的に行った。また、並行して販売されるK5コアの製品と取り違えないようにK5のほうはAm5k86とネーミングした(両者のネーミングで真ん中の文字がxとkと、小文字で表記されているのがなんとも奥ゆかしい…)。こうして、K6が発表されるまでの1年以上の間、AMDは既存の製品を何とか工夫してカスタマと市場との関係をどうにか維持することができた。その間、AMDと旧NexGenの混成チームのエンジニア達が昼夜を問わずK6の再設計に打ち込んでいたのは言うまでもない。(次回は9月14日に掲載する予定です。)著者プロフィール吉川明日論(よしかわあすろん)1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Device)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。現在も半導体業界で勤務。・連載「巨人Intelに挑め!」記事一覧へ
2015年09月07日○時代はコンシューマ市場へNeXGenの買収も発表され(発表は1995年10月、買収完了は1996年1月)、AMDが次期製品K6を出すということは周知の事実になったが、PC市場はIntelのPentium、MicrosoftのWindows 95(1996年の10月に発表)主導で飛躍的な成長を続ける。IntelはPentiumの大成功をさらに加速する形で、PentiumにMMX(マルチメディアエクステンション)という命令セットを追加し、今までは主にビジネスに使われていたPCプラットフォームをゲームなどの個人的な市場に展開するのに躍起だった。何しろ、ビジネス市場とコンシューマー市場とは規模の桁が違う。今まで、コンピューターだったものが、オンラインゲームのハードウェアになってしまうのだから…ビジネス市場の製品が一般コンシューマー市場に転換してゆく際に大きく立ちはだかるのは、コストである。ビジネス市場はあくまでも企業の生産性向上の投資対象であるが、コンシューマー市場は個人のポケットマネーから払われるのであるから、おのずとコスパ=コスト・パフォーマンス(このような言葉も、今から考えると電子機器の個人市場への拡大から生まれてきたのだと思う)を追求することとなる。家電量販店にPCが大きな棚スペースを獲得し始めたのもこのころだと思う。この動きに対応すべく、Intel互換のCyrixがMediaGXという統合チップを発表し、千ドルPCのコンセプトを発表した。こうした状況にあって、Intelから技術上の主導権を奪うことを主目的とし開発されたK5の完成は遅れに遅れ、結局は1996年の3月にようやく正式発表をみた。しかし、当初の市場からの高い期待に反して、K5としてAMDが発表した2製品K5 PR75/PR90はPentiumに対抗する性能を持ちえなかった。前に書いたように、K5は当時としては革新的な下記のようなアーテクチャを採用していた。複雑な処理を行う可変長のX86命令を実行するCISC(Complexed Instruction Set Computer)という従来の考え方に加え、アウトオブオーダーのスーパースケーラーのアーキテクチャの採用クロックあたりの命令処理能力を上げるために、X86のCISC命令を、Am29000で培ったRISC(Reduced Instruction Set Computer)風の短い固定命令に変換し、命令の順番に関係なく多数の実行ユニットを使って、複数命令を同時に発行する方法強化された命令キャッシュ、データキャッシュこれらのアーキテクチャ上の特徴はIntelが後に第六世代のPentuim Proで採用したものと似ている。ということは、AMDのエンジニア達が目指した方向は正しかったのだが、その優れたアーキテクチャを製品に反映する製造技術を持ち合わせていなかったので、市場の要求とずれが生じてしまい、発表された時にはごく"並の性能の"CPUとしか受け取られなかったということである。ハイテクの市場で一番重要な、Time To Marketの失敗例の典型といえよう。○K5は失敗ではなかったしかし、その後のAMDのCPU開発の動きを見てみると、K5はビジネス的には成功とはいえなかったが、革新的なアーキテクチャの開発、その経験で得た技術的知識・資産の蓄積、高いゴールに向かって果敢にチャレンジするエンジニアの情熱と結束、といった点では全くの失敗とは言えないのだと思う。というのも、K5の開発で培った貴重な経験と技術的資産は、本連載の一番初めで述べたK7:Athlonに明らかに引き継がれているからだ。K7が大成功を収めたころに、10年来の知己のAMDエンジニアと話した時に、"K5は失敗ではなかった、K7の中にK5が生きている"、としみじみ語ったことが懐かしく思い出される。実際、エンジニアがK5とK7の内部ブロック図を見比べるとK7の中にK5で開発された回路ブロックの痕跡が見られるという。初期のK5は430万トランジスタでできている。前回のシリーズでAm386のリバースエンジニアリングについて書いたが、当時の最新CPUのトランジスタ数はこの時点で既に10倍以上になっていた。CPUの開発は半導体の微細加工とCADソフトの飛躍的な発展により、人間がマニュアルで作り上げるという手法から、各機能ブロックの組み合わせで作られるようになったことがよく理解できる。拡大写真を目視で解析するなどと言うことは、もう既にできなくなっていたのだ。著者プロフィール吉川明日論(よしかわあすろん)1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Device)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。現在も半導体業界で勤務。・連載「巨人Intelに挑め!」記事一覧へ
2015年08月31日AMDでの経験を語るうえで、私がいつも思い出すのが、Sales Conferenceである。日本語に訳すと"営業会議"となるが、私が経験したAMDのSales Conferenceは、カリフォルニアでのし上がってきたシリコンバレーの半導体会社であったAMDの企業文化の集大成であり、ちょうど30歳で初めて外資系企業に就職した私にとってはアメリカという文化を体現していたものの1つであった。幸いなことに、私は入社する前から英語のスキルがあって、言葉の問題は全くなかった。その分、吸収も早かったし、AMDのコミュニティーに受け入れられ、溶け込んでいったのも非常に早かったと思う。どちらかというと、斜に構えるタイプであった性格の自分にとって、AMDでの経験は、性格やものの考え方に大きく影響を及ぼした転換点であったと思う。ちょっと文化論的になってしまったので、話をSales Conferenceに戻そう。数あるシリコンバレーの会社の中でもAMDは、"ド派手"な会社であった。創業者でCEOのJerry Sandersはシカゴの貧しい家庭に生まれ、30歳前後でシリコンバレーに会社を興し、ロサンゼルスに大きな家を構える億万長者(当時はMillionaire、今ではBillionaire)となった。いわゆる、American Dreamを地で行く、"カッコイイ"男であった。聞いた話では、当時、前述のCharlie Sporck率いるNational Semiconductorが良い決算報告をした後、金曜日の午後にOffice Partyを開き、ビールで乾杯したことを知ったJerryは、各拠点にシャンペンをケースでオーダーしたという。NationalがビールならAMDはシャンペンだという具合だ。AMDは毎年(とはいっても、業績の悪い年にはキャンセルとなったが…)USの従業員のために派手なクリスマスパーティーをサンフランシスコの有名ホテルで開くことでも知られていた。ゲスト出演にはBruce Springsteen、Rod Stewart、Kenny Logginsなど有名どころが来ていたのを思い出す(もっとも筆者は、案内状はもらったが、12月の忙しい時なので行けなかった…)。○他社の追従を許さぬ"使いっぷり"アメリカンドリームの体現者であったJerry Sandersにとって、自らの出身である営業部隊を世界中から集めて行うには特別な意味があったのだと思う。世界中の営業、技術サポート、本社のマーケティングなど総勢600人が一堂に集結し、延べ4日間を、ハワイの中心地にあるヒルトンハワイアンビレッジで過ごすという大きなイベントである。4日間で行われるイベントの内容は大別して下記のとおりである。全員が集まり巨大な会議室でExecutiveの話を聞くGenral Session(全体会):午前8時から自分のカスタマに最も関係のある製品のトレーニング自分で選んで受けるBreakout Session:午後Team Buildingイベント:各国がチームを組んでビーチで対抗戦を行うスポーツイベント、オフタイムにフィッシング、セーリング、ゴルフ、ハイキングなど、各人が選べるツアー毎晩開催される各地域、製品グループ主催のレセプション、各部門責任者のDinner、Jerry Sanders主催の幹部Dinnerその他に、これらのイベントの合間にスケジュールされる個別のMeetingこうしたイベントを通じて達成したかった目標は次の通りのことだと思う。世界中の拠点にAMDの現状、これからの戦略、製品知識を理解させる。各国の営業、技術サポート、マーケティング、幹部が一堂に会して縦横のコミュニケーションを図る。いろいろなイベントを通してチームの一体感を高め、AMDの成長に貢献した者を衆目の中で表彰し、世界中のAMD営業のやる気を高揚させる。ハワイの有名ホテルでどんちゃん騒ぎをして、とにかく楽しむ。それまで、アメリカという国を直に経験する機会が限られていた私にとって、AMDのSales Conferenceにはアメリカ文化のすべてが凝縮されていた。すなわち、強烈な個々人の主張、それに対するリスペクト、実力・結果主義、多様性、楽観性、リーダーシップ、一言で言えば"アメリカンドリームの追及"である。ヒルトンハワイアンビレッジというのは、ご存知の方も多いと思うが、ワイキキの一等地にあり、プライベートビーチ、隣接のビーチバー、20以上あるレストラン、100平米はあるだろう大きなゲストルーム、巨大会議場、を備えている。そこに600人のAMDの社員が世界各国から集結し、4日間ホテルは貸し切り状態になる(一般のゲストもいたであろうが、多分大変な迷惑であっただろう)。驚いたことに、その4日間はホテルの外に出て飲み食いするか、個人の買い物は別だが、ホテル内であればどのレストランでも、バーでもチェックの時に"AMD"と書くだけでいい。後で聞いた話だが、しばらくの間、金の使いっぷりにおいては、しばらくAMDのSales Conferenceは他の会社の追従を許さなかったらしい。チェックインすると、まず自分の写真をとられ、名前(ファーストネーム)を書いた個人票が渡される(この個人票を忘れるとどのMeetingにも入れない)。 ファーストネームだけなので、たくさんDaveとかBobとか、Johnがいてわからなくなるし、初めはあまりいいとは思わなかったが、やはりファーストネームで呼び合うのがアメリカ流。私が見ただけでも、CEOのJerryという名前の人は少なくとも他に2人はいた。個人票を受け取ると、その年のConferenceテーマが刷り込んであるTシャツ(事前に自分のサイズを知らせてあるのだが、USサイズのMは日本のLである)、と一緒に分厚いプログラムも渡され、自分がどの時間に、どの会議室に行くのかが書いてある。その時、部屋割りも渡される。管理職になってからは個人部屋であったが、最初のころはツインの相部屋である、それも各国の人間が入り交ざるようにとわざと他国の人間と部屋を共にすることになる(さすがに男女は別だが)。全体会は朝の8時から始まる。遅れるとドアを閉められてしまうので大変だ。キンキンに冷房の効いた(眠らせないように寒くしてあるということだった)大会議室に集まると、最前列にCEOのJerry Sandersが座り、その横に右腕のマーケティングVPのBen Anixterが座っている。その周りをVP連中が取り囲んでいる。みな非常にカジュアルで、会議室のそこかしこで握手しながら、“久し振り、ビジネスはどう?"、とか初めての場合は、”俺は日本の営業のXXです、君はイタリアから来たの?”とか挨拶が始まる。こういう場面になると日本人は本当に消極的だ。言葉の問題が一番だが、やはり日本人同士で一か所に固まってしまってあまり他国の人たちと交わらない。私はできるだけ幹部連中、他国の人などに積極的に話しかけ、自分の名前を覚えてもらうように努めた。これが後になって結構役に立った。(次回は8月24日に後編を掲載する予定です)著者プロフィール吉川明日論(よしかわあすろん)1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Device)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。現在も半導体業界で勤務。
2015年08月17日その時、AMDのCEO Jerry Sandersは腹心の部下で営業担当シニアVPのSteve Zlencikと一緒にAMDからそう遠くないMilpitasにあるNexGen社のCPUラボにいた(推測するに1995年の早い時期、あるいは1994年の後半のことであったと思う)。社内にも極秘の訪問であった。NexGen社はCEOのAtiq Razaが率いるファブレス(自社工場を持たず、設計専門の半導体デザイン会社)の会社である。総勢100人にも満たないエンジニア集団であったが、各企業から優秀なエンジニアを集め、Intel 互換のCPUの開発に的を絞っていた。驚異的成長を遂げていたパソコン市場に打って出るべく、AMDをはじめ、Cyrix、IDTなどIntel互換のパソコン用CPUメーカーが複数ひしめいていたことは前述した。NexGenもその中の1社であった。Intel互換CPUメーカーの中で、NexGenのデザインは非常に先進的で、技術的には先端を行っていたが、市場ではいささか分が悪かった。というのも、AMD、CyrixなどのIntel互換メーカーはあくまでもIntel製品にピン互換(Intel CPUをマザーボードから引き抜いて、替わりに差し込んでも問題なく動作する:ソケット7互換)であったのに対し、NexGenの当時の製品Nx586はピン互換どころか、チップセットもマザーボードも独自という方向性で、パソコンメーカーの支持を獲得するのに非常に苦労していた。そのNexGenのラボでSandersとZelencikが見ていたものはNexGenの次期製品Nx686の試作品であった。Nx686はIntelの初代Pentiumの次期製品、Pentium IIに対抗することを意識した製品であった。前述したように、Pentium対抗品、AMDのK5の開発は依然とし遅延を重ねていた、市場がPentiumに急速に移行してゆく中、悪戦苦闘していたAMDのCEO、SandersにはK5に代わる起死回生のプランがどうしても必要だった。Sandersの心はNexGenの買収に傾いていた。SandersはAtiq Razaの隣によりそう開発担当VPのVinod Dhamn(その年の初めにIntelからNexGenに移籍していた)に聞いた。"確かにNx686は優れたデザインだ、だがIntel品とピン互換でなければ市場では受け入れられないだろう。このCPUをPentiumとピン互換(ソケット7)に作り替えるのにどれくらい時間がかかるだろうか?"。AtiqとVinodは顔を見合わせたが、即座に答えた、"1年あれば…"。Sandersの腹は決まった。当時のNexGenはファブレスの小さな会社であったが、チップデザインと並行して、バグ(不具合)を割り出し、修正を同時に行うなど、デザイン手法にはいろいろ先進的な方法を取り入れており、AMDは第六世代のCPUの基本アーキテクチャを手に入れるだけでなく、その後のK7などの設計にも利する新たなデザイン手法も手に入れられるという利点もあった。○CEO、Jerry Sandersの起死回生のプラン話を1995年のハワイでのAMD Sales Conferenceに戻そう。このシリーズの冒頭述べたように、1995年夏のSales Conferenceで世界中から集結した600人のAMD営業、マーケティング、技術サポートの精鋭たちを前にして、SandersはK5の優位性を力説していた、しかし、同時にJerryの頭の中で実際に考えていたのはK6だったのだ。AMDのNexGen買収の手続きは最終段階に入っていたが、何しろ買収額が大きいので大株主たちの承認が必要だった。10月には発表できる予定だったが、8月のSales Conferenceで言うことはできなかった。今から考えるとJerryが本当に言いたかったことは、"誇り高きAMDの精鋭たちよ、K5は失敗だった。それはCEOの私の責任である。ただ、私はすでに手を打った。起死回生のプランがすでに進行している。AMDを、そして私を信じて突き進んでくれ!!"ということだったと推測される。我々各国の営業の連中はハワイのSales Conferenceから帰ったあとは、K5の進展の発表もなく、それに関しての何のアップデートもなかったことにがっかりした。中には、"そろそろ仕事替えを考える時期か"と思った者もいたと思う。そこに、10月、NexGen買収の発表が突然舞い込んできた。大きな発表であるが、PRの担当であった私も含め、社内のだれにも事前通告はなかった。発表文には、単純に"AMDはMilpitasにあるファブレスのCPUデザイン会社NexGenを買収。買収総額は約800億円"、と記されているだけである。早速、電話が鳴りだしプレスから質問されたが、こちらとしては事前のQ&Aもなく、何の対応もできない。そこで、私は日本AMDの技術部門のトップにこの発表の意味はどういうことなのかと聞いてみた。すると、彼は"これはJerryの頭がおかしくなったという意味だね。これでAMDも終わりだよ。そろそろ俺もヘッドハンターにコンタクトしようかと思っている"、ということだった。というのも理解できる。なにしろ当時総売り上げが2000億円以下だったAMDが、何の実績も上げていないNexGenという会社を800億円も払って買収するという話だ。しかも、IntelのPentiumに互換性(ソケット7)がないNx586をプロモーションしていたNexGenの技術に関する我々の情報は限られていた。これからNx586をK5の代わりに売ることになるのか?というのが我々の反応であった。全く訳が分からなかった。前述したNx686=K6という起死回生プランについての全容はほどなくして入ってきたが、それでもPentium互換のK6の完成は早くてもこれから1年。世界中のAMDの営業、マーケティングにとっては我慢の1年が始まった。しかし、すでに白けた雰囲気は消えていた。K6が1年後に来る。それまで何とかAMDを継続させるのだという決意であった。(次回は8月17日に番外編を掲載する予定です)著者プロフィール吉川明日論(よしかわあすろん)1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Device)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。現在も半導体業界で勤務。
2015年08月03日"K5 is a better idea !!(K5のほうが優秀なアーキテクチャだ!!)"。1995年夏、AMDのCEO Jerry Sandersは、ハワイのワイキキビーチにあるヒルトン・ハワイアンビレッジに世界各国から集結した600人の営業、マーケティング、技術サポート部隊を前に檄を飛ばしていた。その声は、時差ボケと、前の晩の遅くまでの(あるいは徹夜の)どんちゃん騒ぎですっかりエネルギーを使い果たし、うとうとしそうになっていた営業員の耳をつんざくような咆哮であった。AMD恒例のハワイでの4日間のSales Conferenceの最終アジェンダはAMDの総帥Jerry Sandersの30分以上にわたるスピーチで終わる。しかし、いつもは"いくぞーっ!!"、"やるぞーっ!!"といった雄叫びでエンディングを迎えるはずのCEOのスピーチに対し、今年のイベントに限り、多くの営業の連中の間には、お互い目配せを交わしながら"ほんとかよ…"といった一種白けた雰囲気が漂っていた。それも無理はない。その時のAMDを取り巻く状況は以下の通りである。マイクロソフトがWindows 3.1を発表(1992年4月)、いよいよPCがエレクトロニクス市場の中心に据えられ、マイクロソフト、Intelの独占体制が明確になる。Am386/486でカムバックを果たしたAMDであったが、そのAMDを振り切るようにIntelは第五世代CPU「Pentium」を発表(1994年3月)。巨額のマーケティング資金の投下によって、 "Intelが入ってなければPCではありませんよ"と言う強力なブランドマーケティングでPC市場をIntel一色に塗り替えようとする。巨大なPCのCPU市場に割って入ろうと、CyrixなどのIntel互換CPUメーカーが相次いで参入し(Cyrix Cx486SLCは1992年3月発表)、AMDのメインビジネスを脅かしてくる。AMDはこれらの状況に対抗すべく、いよいよ完全オリジナルのマイクロアーキテクチャに基づく高性能CPU、K5の開発を開始(1993年)するが、2年たったこの時点でも製品リリースがされていない。AMDの業績はみるみる下がっていった (1995年のマイクロプロセッサ事業部の売り上げは前年の半分に激減した)。前年までは、Am486製品でPCの顧客をサポートしてきたが、いよいよCPUの主流が第5世代のPentium(ソケット7)に移り、AMDの次期製品への顧客の期待はいよいよ高まる。顧客には386・486で経験したIntelの独占の時代がまた訪れることへの危機感がにじみ出ていた。AMDが巨額を投じて建設したテキサス州Austinの最先端プロセッサ工場Fab.25はK5の設計が遅れる中、Am486の需要が急減し稼働率が極端に下がり、AMDの全体の財務に大きな減価償却費がのしかかってきている。世界中のAMDの営業がPentium対抗製品を待ち望み、満を持して臨んだSales Conferenceであったが、毎日登壇するVP連中の誰からも製品リリースの話がない。そんな状況におかれた中でのSales Conferenceに臨んだ世界中の営業を相手にしたAMDの総帥Jerryの最終メッセージである。根っからの営業マンであるSandersには、そんな営業連中の気持ちが痛いほどわかっていたはずである。しかし、その時はK5のメッセージを繰り返さざるを得なかったJerryの頭に去来していたことを知っていたのはAMDでもごく限られた者であったはずだ。(次回は7月27日に掲載予定です)著者プロフィール吉川明日論(よしかわあすろん)1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Device)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。現在も半導体業界で勤務。
2015年07月21日モデルの吉川ひなのが7月20日(月・祝)、都内で行われた自身プロデュースのブランド「alohina」の新作ウエディングドレスお披露目イベントに出席した。新作ウエディングドレスを身にまとって登場した吉川さんは「ウルッとしちゃいました。本物の結婚式みたいな感じで…」と胸キュンしながら「トレーンがボリューミー。それが取れたり、リボンの位置も変えたりできる」とこだわりのデザインを紹介。“ベスト・ドレス・プロデューサー賞”が贈られると「インスタとかブログとかで“ひなのドレスを着たよ”とコメントをいただいたりして嬉しい。そういう時は“いいね!”を押しています」と自身のブランドの広がりに声を弾ませた。現在はハワイと日本を行き来する生活で、一児の母親でもある。「娘と真面目に遊んでいるので、コッペパンみたいな色の肌になっています。ハワイにいると日焼け止めも全然効かない」と苦笑い。愛娘の様子を聞かれると「娘と外に行ったらトカゲを10匹掴まえるまで帰れない。とにかく虫が大好きで、家の中に虫が入ってくると“任せて!”とか言う」とワイルドな性格を紹介した。娘さんの将来については「娘のやりたいことが見つかれば、何でも応援します。私と違う道を選んでくれても、それはそれで楽しいと思う」と成長を見つめるママの柔和な表情を浮かべ、第二子の予定を聞かれると「兄弟は絶対にほしい。そろそろ考えます」と意欲的だった。(text:cinemacafe.net)
2015年07月20日○シリコンバレーの風景シリコンバレーは私の仕事人生の心のふるさとである。別にシリコンバレーという名前の都市があるわけではない。サンフランシスコ・ベイエリアの南部に位置している、パロアルトからサンノゼに行く間の土地に、半導体業界で一旗揚げようという野心たっぷりのエンジニア達が集まってきて、会社を興し、急速に成長して、名だたる半導体企業が軒を並べるようになったので、いつの間にかこの地域がそう呼ばれることになったのである(半導体=シリコンの街)。サニーベールにあるAMD本社に出張する時には、まずサンフランシスコに降り立ち、レンタカーを借り、ハイウェイ101で100キロくらい南に下ることになる。今では羽田空港から日本を朝に出て、USに夜につく便もあるらしいが、その当時は大抵成田空港を夕方に出て、サンフランシスコに朝の10時くらいに着く便が主であった。夕方日本を出て9時間ぐらい飛ぶと、まず例外なく信じられないような真っ青なカリフォルニアの空が寝不足の目に痛いほどに迫ってくる。その青い空は"ようこそカリフォルニアに"と言うあっけらかんとしたメッセージと同時に、仕事モードに入るスイッチになる(私はいつかカリフォルニアに観光で訪れたいと思っているが、多分100回近く仕事で行っているのに一度も観光で訪れたことがない…)。レンタカーで日本ではめったに運転しない大きな車を慣れない右側通行で何とか走らせると、マチルダとか、モフェットとか懐かしいストリートの名が出てくる。Lawrence Expresswayという標識がでてきたら101号線を降りる。あのカリフォルニア特有の乾いた空気の匂いと突き抜けるような青い空は、シリコンバレーを訪れた人であればいつまでも忘れない独特の感覚であろう。○元々は小さなベンチャーの集まりせっかくAMDの話を書く機会を得たので、どうせなら、AMDを育てたシリコンバレーの簡単な歴史、またそれを築き上げたレジェンドたちの話も書いておこうと思う。この辺の話をすると、私的にはここに出てくる人物たちの名前を聞くだけである種の興奮を覚えるのだが、一般の読者にはなじみがないと思うので背景説明を記しておく。今は大企業となったけれど、当時は小さなベンチャーの集まりだったシリコンバレー企業の系譜である。それまではサクランボなどの果物の生産地でしかなかったカリフォルニアのサンタクララ周辺が、シリコンバレーと呼ばれる世界中のハイテクの中心地となった起源は、トランジスタの発明で知られるウィリアム ショックレーが開設したショックレー半導体研究所にある(ショックレーはベル研究所でトランジスタを開発した他の2人の科学者とともにノーベル賞を受賞した)。ショックレー半導体研究所は半導体製品を開発しビジネスにする目的で設立されたが、ショックレー自身は優れた科学者であったがビジネスマンではなかったらしい。そのうち、造反組8人がスピンアウトして作った会社がフェアチャイルド セミコンダクターである。半導体ビジネスの起源と言う意味では、このフェアチャイルドが本格的な起源と言えるかもしれない。かくしてフェアチャイルドはアメリカ全土から当時としては新興ビジネスであった半導体に惹かれる若い優れたエンジニア、マーケッターたちをシリコンバレーに結集させ、成長させる学校のようなものになった。これらの優れたタレントは、急速に成長する半導体産業で自分自身の夢を実現するべく、次々にフェアチャイルドを出て自身の会社を設立していった。その中でも、Intel、AMD、National、LSI Logicはその後も成長を続け大企業となり、シリコンバレーの老舗として数々の会社を増殖させていった。フェアチャイルドのチャイルド(子供)に掛けてこの4社がフェアチルドレン(子供の複数形)と言われる所以である。半導体業界にはこれらのシリコンバレーの新興企業がのし上がってくる以前から既に確立されていたテキサス州ダラスの雄・Texas Instruments(TI)、アリゾナ州フェニックスのMotorolaなどがあったが、シリコンバレーの企業はカリフォルニアの開放的な企業風土と言う意味ではかなり特殊なものであったと思う。○強烈な個性のぶつかり合いが原動力にいかにも個性の強い役者たちが揃っていた。私は、AMD入社当時から日米の半導体企業が日米政府レベルの貿易摩擦の話題の中心になった1986年頃から(この件については後程述べる)PRの担当として関わったので、幸い図に示した創業者たち(ショックレーを除いて)に実際会っている(会っているといっても、同じ部屋にいて彼らのやり取りを聞いている立場にあっただけの話だが…)のでこれらの名前を聞くだけで未だにちょっとした興奮を覚えるのである。あのころのシリコンバレーの名だたる会社のExecutive達がなんと格好良かったことか!!すべてのExecutiveが非常に個性的で、しかも自信に満ちていた。お互いライバル同士であっても共通の目的については非常にオープンに、しかもカジュアルに話し合っていた。私のその時の印象は、その後のこれら伝説的人物の記述の通りである。天才的で親分肌のNoyce、学者のようなMoore(あのMooreの法則で有名な)、製造プロのSporck、イギリス紳士のCorrigan、そして、根っからのセールスマンの伊達男、我ら愛すべき"Jerry" Sanders。これらの強烈な個性が、あるときには協力し合い、ある時はぶつかり合い、切磋琢磨してシリコンバレーの原動力を生み出していた。私は日本の半導体業界もある程度知っているが、シリコンバレーの会社と決定的に違うのはこの業界内のコミュニケーションのダイナミックさだと思っている。そして、それが両国の半導体業界の競争力に大きく影響したと思う。シリコンバレーのレストランでは隣のテーブルで、結構知られた人たちが、競合同士なのにビジネスの話を結構オープンに話しているのを見かけたことがよくあるし、技術者同士が素晴らしい半導体回路のアイディアをレストランのナプキンに書き記しているのをみたこともある。ある時、ふらっと立ち寄ったパロアルトのハロウィーン衣装の店で、突然Steve Jobsが娘に衣装を買っているところに出くわした時はさすがに驚いた…知らない人同士でも、目があえばにこっとしたり、ウインクしたりするあの雰囲気は、実際はしのぎを削り合い、ストレスいっぱいの仕事生活に身を置く人たちであるのに、人生を楽しむ余裕が感じられ、独特のものがある。著者プロフィール吉川明日論(よしかわあすろん)1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Device)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。現在も半導体業界で勤務。
2015年07月13日AMDはAm386の投入によって息を吹き返したが、既に次の製品の独自開発に着手していた。Intel80486互換のAm486である。トランジスタ数が120万と言うことはAm386の4倍以上である。その開発については、営業に忙しかった私にとってはAm386の時ほどドラマチックではなかったので(と言っても、設計エンジニアたちはさぞかし大変だったろうに…)、私自身はよく憶えていないが、1993年の4月にAm486が正式リリースされた。386の時にはIntelから5年遅れだったものを、4年遅れに縮めたわけである。Am386の販売の際に経験した"本当に互換なのか"というカスタマらの反応にAMDは非常に明確な形で答えた。Am486ではCPUのパッケージにWindowsロゴをあしらったのである。これはAMDが勝手にやるわけではないので、当然Microsoftが承認したわけである。このころから、AMDの中ではいよいよIntel互換路線を捨てるという方向性がはっきりしてきたのであると思う。それと同時に、Wintelと言われた無敵のビジネスモデルにも変化がでてきたのが読み取れる。MicrosoftにとってはPCがより売れるのがいいのであって、その中に使われるCPUはIntelでもAMDでもどちらでもよいということである。この考えはIntel側も同じであったであろう。つまり、Intelのハードであればマイクロソフトでも、Linuxでも、そのずっと後にスマートフォンのOSとして市場を席巻するGoogleのAndroidでも何でもいいということである。時代はいよいよ次の段階に入っていった。(次回は番外編を7月13日に掲載予定です。)著者プロフィール吉川明日論(よしかわあすろん)1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Device)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。現在も半導体業界で勤務。
2015年07月06日