株式会社レクビィ(本社:愛知県瀬戸市、代表取締役:増田 浩一)は、ハイエースベースのキャンピングカー「プラスMR キャンピングカーランド名古屋1周年車」を、2021年10月9日(土)からの「名古屋キャンピングカーフェア」で発表・発売いたします。詳細URL: 人気の2人旅に特化したセパレートタイプベットを装備した「レクビィ・プラスMR」の機能をそのままに、キャンピングカーランド名古屋の営業スタッフと共に、名古屋のお客様の趣向に合わせたシックな内装と、ちょっとお得に感じる装備をプラスしました。販売は、日進市のキャンピングカー専門店「キャンピングカーランド名古屋」(愛知県日進市岩崎町向イ田61-2、電話:0561-75-4188)のみで購入可能で、通常モデルの納期(12ヵ月前後)より早めになっています。購入問い合わせは、店頭とメールにて受け付けます。(メールアドレス: nagoya@campingcarland.co.jp )プラスMR キャンピングカーランド名古屋1周年車外観(オプション装着車)プラスMR キャンピングカーランド名古屋1周年車内装(オプション装着車)【キャンピングカーランド名古屋について】日進市に昨年リニューアルオープンしたキャンピングカー専門店で、ほぼ全ての種類のキャンピングカーを複数展示可能な巨大なショールームと車中泊設備、ドッグラン、キャンピングカーやトレーラー保管などのサービスを提供している。【「プラスMR キャンピングカーランド名古屋1周年車」概要】■主要諸元ベース車 :トヨタ ハイエース ロングワゴンGL全長 :4,840m全幅 :1,880m全高 :2,105m乗車定員 :名5名就寝定員 :3名登録ナンバー:8ナンバー■当社希望車両本体価格(税金・保険・登録手続き費用を除く)「CCL名古屋 1周年記念特別仕様車」消費税抜き:5,471,000円~消費税込み:6,018,100円~(エンジン、駆動方式、装備内容により変わります)■CCL名古屋1周年記念特別仕様車の主な装備・名古屋専用キャンピングカーランド名古屋1周年記念特別刺繍・名古屋専用特別内装色「ボルドー」・名古屋専用特別仕様フラットセンターボード「ボックスタイプ肘置き(運転席側)・ポケット付き肘置き(助手席側)」・名古屋専用アイボリー化粧パネル・ハンドル&シフトノブ特注レザー巻き・セパレートタイプベッド・ベンチシート・室内断熱(天井・側面・床面)・19型TVモニター・電気冷蔵庫(49L)・ツインサブバッテリー・AC100V入力&充電システム・充電装置(25Aに変更)・12Vソケット、USBソケット2か所・レース、遮光カーテン【会社概要】商号 : 株式会社レクビィ代表取締役: 増田 浩一所在地 : 愛知県瀬戸市品野町3-3設立 : 1984年資本金 : 2,000万円事業内容 : キャンピングカーの製造及び卸し、販売等従業員数 : 51名URL : 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2021年10月06日プラネタリウムドームシアター「コニカミノルタプラネタリウム満天NAGOYA」が、2021年秋より、愛知県名古屋市のイオンモール名古屋ノリタケガーデンにオープンされます。日本初LEDドームのプラネタリウム愛知県名古屋市に新しくオープンする「コニカミノルタプラネタリウム満天NAGOYA」は、日本初のLEDドームシステム"DYNAVISION-LED"を導入したプラネタリウムドームシアター。スクリーンに映像を投影するのではなく、ドーム型のLEDディスプレイから直接星空が映し出されるため、より高画質で臨場感あふれる"星空体験"を楽しむことができます。オープニング作品『Dog Star 君と見上げる冬の星座たち』オープニング作品として、星と関連したプラネタリウム作品『Dog Star 君と見上げる冬の星座たち』が上映されます。脚本は「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」や「心が叫びたがってるんだ。」で知られる岡田麿里。冬の星座をきっかけに運命を変えてゆく、対照的な男子高校生2人の姿を描いた完全オリジナルストーリーとなっています。<『Dog Star 君と見上げる冬の星座たち』あらすじ>星の好きな少年・晄介は、高校受験に失敗。不本意に通うことになった滑り止めの学校で、陸上部の夏樹と出会う。華やかで賑やかな夏樹の輝きを、苛烈に輝く一等星のシリウスになぞらえる晄介。存在感の薄い二等星の自分とは違うのだと……しかし。瞬く星たちの運命は、がらりと変化する。主題歌に須田景凪イラストレーターのRellaがキャラクターデザインを務め、繊細なタッチと色使いで描かれる主人公たち。島崎信長や内田雄馬といった豪華声優陣が息を吹き込み、ボカロP・バルーンこと須田景凪による主題歌が物語にさらなる彩りを加えられます。聴覚や視覚を存分に使って、世界観に浸ることが可能。葉加瀬太郎が音楽を手掛ける"第2の地球"への旅さらにもう一つのオープニング作品として、世界的ヴァイオリニスト・葉加瀬太郎とコラボレーションした『宇宙のオアシスを探して―奇跡の星への旅― Music by 葉加瀬太郎』も上演。太陽系の外にある系外惑星"第2の地球"を探し、宇宙にある地球の美しさを最先端デジタルシステムによる8KのCGと音楽で伝える作品です。360°の全天周映像や満点の星空を堪能できる「コニカミノルタプラネタリウム満天NAGOYA」。癒しや心地よさ、感動体験を叶える"エンタメ系プラネタリウム"を楽しめます。【詳細】コニカミノルタプラネタリウム満天NAGOYAオープン予定:2021年秋場所:イオンモール名古屋ノリタケガーデン住所:愛知県名古屋市⻄区則武新町3丁目席数:一般シート157席、プレミアム4シートドーム径:15m※オープン時期、デザイン、サービス内容は都合により変更の場合がある。
2021年09月21日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。第15回は、『素直な子供』について。また、誰もが持っている劣等感について、きしもとさんが持論を展開します。第15回『気休めだけど、持ってってや。』レジャーシートを広げてごっこ遊びをしているところに、フリスビーが飛んできた。遊んでいた女の子たちは突然飛んできたフリスビーに驚きはしたものの、特に迷惑そうにすることはなく、不安定に転がるフリスビーの行く先を見つめていた。レジャーシートから少し離れた、手を伸ばしても絶妙に届かない辺りでフリスビーが止まる。拾ってあげようかそのままにしていようか迷っている。一人の子が立ち上がりフリスビーの方へ歩いて行ったが、案の定というか、拾おうとした女の子と取りに来た見知らぬ男の子とほぼ同時にフリスビーの元に辿り着いた。お互いに気まずそうにしながらも「せっかくだから」という雰囲気で、女の子が拾って渡してあげた。男の子が「ありがとう!」と思いのほか大きな声でお礼を言ったので、素直な子だなと感心する。女の子は返事をせずに戻っていった。素っ気ないなと思う。普段はおちゃらけて僕たちを笑わせてくれるような、天真爛漫を絵に描いたような子なので不思議に思う。それでも、知らない子に親切にしてあげているのを見て嬉しかったので、僕はその子の側に行き「ありがとうって言ってもらえたなあ」と声をかけた。褒められるためにやったわけではないだろうから、偉いとかすごいとかではなく、喜んでもらえて嬉しかったねという気持ちをただ共有するつもりで、話しかけた。少し照れながら、まんざらでもない顔をする。返事をしなかったのは照れ臭かっただけなのだと思い「答えてあげたらよかったのに~」と、助言をするいうよりはどちらかというと調子付かせる感じで言った。するとその子は笑いながら「わたしの声へんやから」と答えた。思いもしない言葉だったので「ん?なんで?変じゃないで?」と間の抜けた返答をしてしまう。「こないだ友達に、笑い声が変やって言われたから声聞かれたくないねん」言う。そんな一言で声を出すことを躊躇するようになるなんて悲しすぎる。けれど、その場で「誰やそんなこと言ったん!許せへん!」と息まくことができないのは、僕自身もその一端を担っていたかもしれないと思ってしまったからだ。いつも変な顔をしながらみんなを笑わせていたその子が、笑われることに本当は傷ついていたのかもしれない。なにも知らずになにも考えずに笑っていた僕は、大きな間違いを犯していたんじゃないか。「まったく変なんかじゃないし、君の楽しく話す声も元気に笑う声も好きやで」と伝えたけれど、その言葉は不安を打ち消す魔法の言葉ではなく、ただの気休めにしかなっていないような気がした。気の弱い、控えめな女の子がいた。その子には仲のいい友達が2人いて、その日も、その2人に付いて遊んでいた。自分の意見をあまり言わずに2人の言いなりになっているように見えて、その子がひとりになったときに「嫌なら嫌って正直に言っていいんだよ」と、声をかけた。「僕はあなたの気持ちに気づいているからね」という風に、救いの言葉として伝えた。するとその子はしばらく黙ってから涙を流した。残念ながらその涙は、理解者が現れた感動からではない。「怒られた」と思って泣いていた。「嫌って言っていいんだよ」という言葉が、嫌だと言えない自分が悪いのだと思わせてしまっていた。そんなつもりじゃないんだよ、と言っても遅い。自分の思いに正直になっていいよっていう言葉で僕は、嫌と言えないその子自身を否定しまっていたのだ。その子は、仲良しの2人に付いて遊ぶことを嫌とは思わず、もしくは自分で嫌だという気持ちに気づいていない中で、外側から「嫌って言えない自分はダメなのだ」と、元々は持っていなかった不安を持たされたことになる。素直な子と聞いてどんな子を思い浮かべるだろう。気持ちよく「ありがとう!」と言えたり、悪いことをして「ごめんなさい」と言える子を見て素直だなと感じる。なにかお願いをして「うん!」とか気持ちよく返事してくれると素直ないい子だなあと思う。けれどそれは、子どもに素直になることを求めているんじゃなくて、聞き分けが良くて可愛げがあることを求めているのかもしれない。僕が求めている姿や正しいような姿だから素直だと感じているのかもしれない。以前、ある保育士さんが「子どもに注意した時、すぐにケロっとしていると馬鹿にされている気になったり、もっとしょんぼりしろよ…と思ってしまう自分がいる」と言っていたのを思い出す。言い返してきたり、嫌がったりしても、それがその子の率直な思いなら「素直」ということのはずなのに、「素直じゃない」と思ってしまう。そんな風に思ってしまう自分に気づいて、自分はダメだなあって落ち込む。じゃあ、「嫌だ」とはっきり言えることが素直なんだろうか、と考えてみる。いや、自分の気持ちを表せられたらいいけれど、表さないのもその子の表現であるなら否定しちゃいけない。自分の気持ちを真っ直ぐ表すことが素直であることならば、恥ずかしくて黙ってしまうことも、嫌って言えないのも、その子のそのままの気持ちでそのままの姿だ。その子の「素直な姿」を僕が勝手に、「自分の思いが言える子に」と理由をつけてひねくれさせているだけだ。もちろんうまく自分を表せられなくてしんどい思いをしている場合もあるだろうから、ほっとけばいいわけじゃない。素直であることを大切にしたいなら、その子の素直な気持ちを「自分の気持ちを素直に表そうよ」なんて矛盾した言葉で否定してしまわないようにしたいということ。その保育士さんは「自分が言っていた素直な子って、自分が保育しやすい子どもなんじゃないか、そこからズレた素直さが受け入れられないんだろうな」と葛藤を見せながら言った。そして「その子の素直さって「価値」ではなくて、ただ守られるべきもののはずなのに」と続けた。本当だな。素直であるかどうかを測っている時点で、その子の本当の気持ちなんて見ることができていないのかもしれない。それでも、僕は子どもに本当の意味で素直な気持ちでいてほしいから、間違えて傷つけてしまわないように向き合っていたいんだ。そのためにできることはなんだろうって考えたら、その子がどう感じているんだろうって思いを巡らせることしかないのかもしれないけれど。小学生のときに「笑い方気持ち悪いな」と言われたことがある。たったその一言だけで、それから20年以上経った今でも、自分が笑っている顔を写真で見たり、ビデオ通話をしていて視線の端に入ったりするのも嫌だ。きっと言った子は覚えてないだろうから、同じようなことを僕も誰かに言っていて、同じように僕も覚えていないんだろう。あからさまに意地悪で言っていることもあれば、全く悪気がなく言っていることもある。自分にそんなつもりがないのに相手を傷つけてしまうことも、相手にそんなつもりがないって分かっているのに自分が傷ついてしまうこともある。自分の笑顔をまじまじと観察して嫌いになったわけじゃないのに、なんとも思っていないそいつに言われたその一言で、なんで自分で自分を嫌いにならなきゃいけないんだろう。「お前に言われたないわ」と一言返せばよかったのに、と思いながら、一言返したとしてもきっと傷ついていただろうし、ずっと心に残っている。それは、人格を揺るがすような大袈裟なものだけでなく、例えば好きなお菓子なんかを「そんな味が好きなの?」と馬鹿にされたりしても、「大きなお世話じゃ」とは言えず、言えたとしても心のどこかでは「自分は変なんだろうか、劣っているんだろうか」って思ってしまうだろう。いま抱いている不安や劣等感はどこからやってきたんだろうって改めて考えてみると、もしかしたら自分で見つけたものではなく、僕じゃない誰かが作ったものを持たされているだけかもしれない。僕は頭髪が薄くおデコが後退している。いわゆるハゲだ。ただ僕がハゲていることを喜べないのは髪型でオシャレができないからではない。なぜか劣っているように感じるからだ。ただ、冷静になってみたら髪の毛が少ないだけでなんで劣ってるってことになるんだ。ならないだろう。悪口で「ハゲ!」とか言われるけど、誰が言い出したんだ。あれ悪口じゃなくてただの事実やからな。事実を言うだけやったらこっちだって言ったるわ!イケメン!ハンサム!いかん、取り乱してしまった。劣等感を刺激して、さも正しい姿があるように見せて、そうでなければ劣っている、と感じさせる物を社会の中では多く目にする。戦略的な商業広告から、普段の生活の会話まで、なにかしら「こうあるべきなんじゃない?」という感情を持たされている。小学生のまだ低学年の子でも「太ってるからおやつ食べない」とか「足の毛が濃いから見せたくない」と言う子がいる。周りと自分との違いに気づいて自分の身なりなどが気になっていくことは発達の過程で見られる育ちのひとつだ。だけどこの場合は違うだろう。その子が自分とほかの子を見て気づいた違いではなく、自分ではない誰かから持たされた劣等感だ。そしてそれはとても悲しくてしんどいことだ。「素直になろう」とか「元気でいよう」という言葉も、もしかしたらそうなっているのかもしれない。子育てでしんどいことや不安に思うことも、自分で考えて生まれた不安ではなく、周りから持たされた劣等感ということも多くあるんじゃないか。「子どもがかわいそう」「親として」「愛情が」そんな言葉なんか「大きなお世話じゃ!」と一蹴すればいいのかもしれないけれど、そう思おうとしても心の奥底では「自分はできていない」と思ってしまう。子どもたちと楽しく過ごしたいと思っていても、行儀良くさせなきゃ、好き嫌いさせない、手抜きしちゃいけない、そんなことを考えてしまうと、なぜだか楽しく過ごしているだけではダメな気がしてしまう。逆に「心の余裕があることが大切です」「楽しんだほうがいいです」なんて言葉を聞いても、楽しめていない自分がよくない気がするし、さらに余裕がなくなっていく。そのしんどさは、もしかしたら誰かに持たされているのもかもしれない。その子の姿を見て不安になっていると思っていても、どこかで聞いた正しい姿ではないから不安なのかもしれない。自分とその子の関係が苦しいように見えて、誰かが言っていた形にならないから苦しいのかもしれない。その子と自分との関係は、ふたりにしか分からないのに。色んなしんどさがあるけれど、その子と自分との関りだけで両手はいっぱいなんだから、誰かに持たされた不安はその辺に置いとけたらいいな。いや、この言葉もまた僕が誰かに不安を持たせているかもしれないから、置いておけなくてもいいなとも思えたらいいなって書き足しておこう。余談ですが「笑い声が変だと言われたから」と言っていたその子が、その後声を出さなくなったり話さなくなったりすることは、少なくとも一緒に過ごした一年程の間には、なかった。相変わらずおちゃらけている姿を見てそんな大げさに考える事ではなかった、と思いたいけれど、それはできない。もしかしたら、あれからずっと気にしているかもしれないし、忘れていたとしても何かのきっかけで思い出すかもしれない。みんな何かしら誰かから持たされた不安を抱えているのだと思う。「そんなことないよ」って言われても、きっと残念ながら、その呪いみたいなものはずっと無くならない。けれど、そのたびに「そんなことないよ」って言ってもらえたことも思い出して、どうにかやっていけるのかもしれない。「大丈夫やで」「そんなことないで」そんな言葉は気休めのように聞こえるかもしれないけれど、僕もその気休めの言葉に救われていたりする。誰かに言われたしんどい言葉を捨てられないなら、ついでに別の誰かが言った気休めもカバンにぶち込んでおくのはどうだろう。なんとなく取り出してしまったしんどい言葉に絡まって「そんなことないで〜」と出てきてくれ。僕がかけた言葉も「でも、あいつはそんなことないでって言ってくれてたよな」って、しんどい言葉に釣られて思い出してくれたらいいな。「なんて言ってたか覚えてないけど、そんなことないでって言ってくれてたような気がするな」って。「どこの誰やったか覚えてないけど」って。きしもとたかひろ連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年08月14日青柳総本家は、「ケロトッツォ」をKITTE 名古屋店と守山直営店で期間限定発売する。「ケロトッツォ」は、「青柳ういろう」「きしめんパイ」などの菓子を製造・販売している青柳総本家のロングセラー商品「カエルまんじゅう」をローマの伝統菓子“マリトッツォ”にアレンジした期間限定スイーツ。名古屋土産の定番としても知られる、にっこり笑うカエルの愛らしい顔が特徴の「カエルまんじゅう」に切り込みを入れ、クリームをたっぷりと詰め込んだ。こしあんがたっぷりと入った薄皮生地に、生クリームとクリームチーズをミックスしたクリームがマッチ。レモン果汁をプラスすることで、甘すぎない和洋のエッセンスが詰まった味わいに仕上げている。【詳細】ケロトッツォ 350円/3個セット1,050円販売期間:2021年7月22日(木)~9月下旬(予定)販売店舗:KITTE 名古屋店(名古屋市中村区名駅1-1-1)、守山直営店(名古屋市守山区瀬古1丁目628-1)※11:00~の販売。※水曜日の販売はなし。
2021年07月29日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。第14回は、つい他人と比べてしまうことについて、きしもとさんが持論を展開します。第14回『みんな頑張ってて、みんな怠けてる。』梅雨なのに何日か気持ちのいい晴れた日が続くことを梅雨の中休みというらしい。カラッといい天気だったので、7歳の友人を誘って少し遠い普段行かない公園に行くことにした。宿題を持ってきたので公園へ行く前に済ませることに。二桁の足し算をする横で応援しながら、学校楽しい?なんの授業が好き?と、邪魔もしていた。邪魔されているのに律儀に「国語と道徳が嫌いかなー」と答えてくれたので理由を聞いてみると、道徳の授業で聞いたらしい物語を話してくれた。サルくんがロボットを作って学校に持ってきました。みんなが「すごーい」と言ってサルくんの周りに集まってるのを見て、クマくんは「僕も作ったことがあるよ」と言いました。そしたら、みんなから「持ってきて見せてよ」と言われました。クマくんは急にお腹が痛いと言ってどっかに行ってしまいました。クマくんの気持ちはどんなだったでしょうか?伝聞調ではあるけれど、しっかり話を聞いて理解しているのが分かる。伝わるように話をしてくれたのを聞いて、むしろ国語得意なんじゃないかと思ったが、得意だからといって好きだとは限らないか、と思い直す。ほんでほんで?って続きを聞くと、「どう思うか聞かれてんけど、うまく答えれへんかってん」と、その時のことを思い出すのかしょんぼりしている。「どう思ったの?」と尋ねると「ズルイと思ったって思ってん」と小さな声で自信なさげに応えてくれた。的外れな答えとは思わない。「みんなにすごいなーって言われてるサルくんをクマくんはズルいって思ったんか」と、言葉を補足しながらその「ズルい」の意味を汲み取ろうとしてみる。自身が友達をみて「ズルい」と思うことがあるのかもしれないな、と学校生活を想像する。その「ズルい」が、羨ましいなのか妬ましいなのかは分からないけれど、自分にとって知っている感情で、それがその言葉なのだろう。「あの子だけズルいなーって思うことあるもんなあ。クマくんもサルくんみたいにみんなからすごいって思ってもらいたかったんかもしれへんなあ」と、何かの答えに誘導するわけではなく、例えば映画を観ながらヒロインの心情を考察するくらいの気軽さで、話してみた。「うんうん、そやろそやろ」と頷いてくれる。「けど、みんなの答えは違っててな」と、また急にトーンが下がる。「自分だけ間違えてると思って泣きそうになってん」と。発表してみんなから非難を浴びたんだろうか。発表する前にみんなの答えを聞いて自分は間違っていると思って自信をなくしたんだろうか。「それは辛いなあ、けど間違ってないと思うで」と伝えると、「あ、泣きそうになったってのは言い過ぎやったわ!」と急にケロっとするので、思わず吹き出してしまった。泣きそうになってないんかい!とツッコミながら、けれど、と思う。具体的な辛さは分からないけれど、その泣きそうになるっていう気持ちは分かるような気がする。僕も同じような思いになったことが、いつかあったかもしれない。自分の感じたことや考えたことは間違っているかもしれない。みんなとは違うかもしれない。みんなは分かっているはずなのに自分は分かってないかもしれない。そんな漠然とした不安で苦しくなることがある。答えのないものを答えられるか試されているような、自分の考えがあるのか試されているような。正解がないというのなら答えさせないでおくれよ、と愚痴りたくなる。夕方18時前に電話がなる。僕が体調を崩してから、ドイツにいる友人がほぼ毎日同じ時間に電話をかけてきてくれる。少しだけ世間話をした後で将棋のネット対戦を3局だけ楽しんで、ではまたと電話を切る。だいたい僕がうっかり飛車を取られてそのまま負ける。心配してくれているのと、息抜きなのと、将棋で僕をぶちのめしたいのと3:3:3くらいの割合だろう。残りの1割はなんだろうな。その日電話に出ると、開口一番「よくない話があったんだけど聞いてくれる?」と、尋ねられた。海外映画では「いい話と悪い話どっちが先に聞きたい?」というような台詞を聞くけれど、日本では先に断ることってあまりないよなあと、どうでもいいことを思いながら「聞こうか」とそれっぽい返事をする。「ドラッグストアに石鹸とスマホ用のプリペイドカードを買いに行ったんだけど、買うもの2つだけだからメモせずに行ったのね」ドイツのドラッグストアはコンビニみたいな感じなのかな、と想像する。「で、プリペイドカードはすぐ見つかって、あと、最近おじさんになってきたからか肌荒れひどいしYouTubeでビタミン入りの美容液がいいって見たのを思い出して、せっかくドラッグストアに来たからと思って買ったんだよね」急におじさんのお肌事情の話に飛ぶ。お肌にはビタミンがいいのか。ビタミンてのは何にでも効くんだな、YouTubeはなんでも教えてくれるんだなと、またどうでもいいことを考える。「買うもの2つだから満足して帰ってきたんだけど、家に着いて手を洗おうとした時にさ」と話したところで、「あ、石鹸」と、思わずオチを言い当ててしまった。これもまた映画っぽいやりとりだなとくだらないことを考えていると「ほんま自分が嫌になるわ〜」と、オチを横取りされたことを気に留めずに自身の失態に落ち込んでいる。「あるよなあ」と共感する。「あるんや」と意外そうだったので、そんなきっちりしてるように見えるのかな?と思いながら「うん、毎日のようにあるで。毎日というか、1日に何度も」と返すと、「俺はたまにでこれだけ落ち込んでるのに、それが毎日なんて、生きてるの嫌になれへん?」と心配された。ものすごい勢いで失礼なことを言うな。「けど安心したわ」と続けたので、失礼には目を瞑ることにした。ダメな自分と同じような姿を他の人にも見えたら安心する、その気持ちはとても分かる。それは、蔑んだり見下したりするという意味ではなくて、この人も完璧じゃないんだと思えて、同じ人間なんだと思えるからだ。自分は人と比べてできていないなあ、と思うことはよくある。僕はとくに、よく忘れ物をするし、優柔不断だし、うっかりミスもする。大人になってもできないことだらけだ。だから、きっちりしてる人と話す時はいつも心なしか緊張する。ズボラだとか雑だとかダメなやつだとか思われてるんじゃないかと不安になる。逆に、きっちりしている人からすれば、ゆるい人と話すときには、「柔軟で臨機応変に対応できる人との会話は緊張する」と思っているかもしれない。いや、それは都合よく考えすぎか。僕はいつもどこかで、自分はダメだなあと思っている気がする。ただ人と比べてダメだなあと思うだけならいいんだけど、しんどいのは自分が頑張りたいのに頑張れない時だ。これじゃダメだと分かっているのにできなくて情けなくて、でもどうしたらいいか分からなくて頑張れない自分を責めてしまう。こんな風にできたらいいなって前向きに思えたらいいけれど、それじゃダメだぞ、としっかり後ろ向きに考えてしまう。几帳面できっちりしているのと、ズボラで優柔不断なのとだったら、どっちがいいだろう。感情的な人と理性的な人とどっちがいいだろう。自分がなれない「それ」になろうとすることはいいことかもしれないけれど、その前に「それになれない自分」を責めてしまって潰れてしまいそうになる。「自分を責めちゃダメだよ、自分はそのままでいいって思おうよ」って言葉で、さらに自分を責めて抜け出せなくなっていく。どちらが善くて、どちらが悪いって思ってしまうけど、きっと本当はどちらも悪くない。その人はたまたまきっちりしていて、僕はたまたま忘れっぽいだけ。ズボラなことで誰かに迷惑をかけることもあれば、きっちりしていることで誰かを傷つけることもあるかもしれない。几帳面なことで助かる人がいるかもしれないし、ゆるいからこそ救われる人もいるかもしれない。都合よく考えすぎかもしれないけれど、そういうことにしようと思う。できている人とできていない人を分けて「できている人が正しくて、できていない人が間違ってる」ってしてしまうのは、とってもしんどいもの。こんな人間でいたいな、と思うことがある。子どもと関わる時にこんなことに気をつけたいな。と思うことがある。けれどできなくて、自分はできないなあって思ってしまう。もしかしたら、みんなが「自分はダメだなあ」と思っているかもしれない。そんなふうに思ってみると、少し気持ちが楽になる。みんな頑張ってて、みんな怠けてて、みんな自分はこんなんじゃダメだって思ってて、頑張りたいけど頑張れなくて、みんな怠けてて、みんな頑張ってる。やっぱりそれも都合よく考えすぎかもしれないけれど、そういうことにする。余談ですが無事宿題を終わらせて、少し離れた広い公園へ来た。芝が傾斜になっていて、その芝を上下に挟むように細い歩道がある。子ども連れが数組レジャーシートを広げている。「そういえば小さい頃ここで転けたことあるねんで」と、芝を指差し、スマホに保存されている動画を見せてあげる。当時2歳の友人の手を握って芝の坂道を登っているときに、僕の方が足を滑らせて転んでしまい、その勢いで一緒に転んで大泣きしてしまったのだ。大の大人がひっくり返る動画を見て声を出して笑ってくれたので、どさくさに紛れて「ごめんね泣かして」と7歳になった本人に改めて謝罪した。「悪くないよ!」と返ってきた。「でも、巻き込んじゃったからさ、悪いのは悪いねん」と説明しても、「悪くないってば!」と強めに返してくる。気を遣わせてしまったかなと思いながら、身軽に大型遊具を登るのを離されないように追いかける。なんて言えばいいか分からないから「許してくれてありがとね」と伝えた。すると「好きな人のこと悪いって言いたくないし、自分が悪いんやって思ってほしくないもん」と小さな声で言うのが聞こえた。大事な人のことを悪いって言いたくないし、大事な人には自分が悪いって思ってほしくない。こんなにシンプルなことを、僕は言葉にされてようやくなにより大切なことだと気づく。優しさとか慈しみとか凡庸な言葉しか浮かばない。分かっているのに、僕はあなたに自分が悪いって思わせているかもしれない。分かっているのに、僕は自分で自分のことを悪いって思ってしまっているかもしれない。また自分はダメだなあって思いそうになっている。けれど、君がそう言ってくれるなら、自分で自分のことを悪いって思わないことにするよ。長いローラーすべり台を滑り降りながらそんなことを思って泣きそうになった。いや、泣きそうになったってのは言い過ぎやったわ。きしもとたかひろ連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年06月27日フレンチ【四間道レストランMATSUURA】うなぎ料理【うなぎ家しば福や】イタリアン【TRATTORIA FRATELLI GALLURA】和食【満愛貴】フレンチ【鉄板フレンチPivote(ピヴォーテ)】フレンチ【四間道レストランMATSUURA】土蔵を改装した風情あるお店で色彩豊かなテリーヌを堪能できる約380年に建てられた土蔵をリノベーションしたお店。レストランの入り口は石段の先に江戸時代の風情をそのまま残した土蔵と町屋が建ち並ぶ「四間道(しけみち)」は、カフェや雑貨店が多く、デート散策にぴったりなエリアです。【四間道レストランMATSUURA】は、約380年前に建てられた土蔵をリノベーションしたフランス料理店。石段をのぼった先に入り口が見えてくる演出で、料理への期待感を高めてくれます。野菜の風味が活きる『農園野菜のテリーヌ』はやさしい味わいが魅力的三河湾で獲れた新鮮な魚や、地元の旬の食材をふんだんに使い、繊細で深みのあるフランス料理を堪能できます。スペシャリテは、和だしで炊いた野菜のまろやかで深い味わいの『農園野菜のテリーヌ』。絶妙なバランスで盛付けられたテリーヌは、まるで絵画のよう。テリーヌは月ごとに替わるので、いつ立ち寄っても飽きることがありません。四間道レストランMATSUURA【エリア】名駅【ジャンル】フレンチ【ランチ平均予算】3000円【ディナー平均予算】10000円【アクセス】国際センター駅 徒歩5分うなぎ料理【うなぎ家しば福や】最高級青鰻に舌鼓。定番の一品からワインに合う斬新なメニューまで味わえる女性建築家がデザインした木を基調とした店で肩ひじ張らずにくつろげる国際センター駅から徒歩6分、古民家をリノベーションしたお店が【うなぎ家 しば福や】です。定番のひつまぶしから、名古屋では珍しい鰻重までバラエティーに富んだ日本料理をいただけます。趣のある暖簾をくぐると、木を基調とした和モダンな空間が広がり、落ち着いた雰囲気の中で食事を楽しむことができます。最高級青鰻を使用した『ひつまぶし』5100円最高級で希少、泥臭さの少ない青鰻の中でも大きいサイズのものを使用した鰻料理をいただけます。脂ののった鰻と、自家製のタレの組み合わせが絶品の『ひつまぶし』は、熟練の技が光る定番メニューです。このほか、白焼きを塩とブラックペッパーで豪快に仕上げた『スタミナまぶし』や、ワインにも合う『肝のアヒージョ』など、斬新なメニューが味わえるのも魅力的。うなぎ家しば福や【エリア】名駅【ジャンル】和食【ランチ平均予算】3500円【ディナー平均予算】5000円【アクセス】国際センター駅 徒歩6分イタリアン【TRATTORIA FRATELLI GALLURA】名古屋(名駅)で名店の味を。地元の食材をふんだんに使ったトラットリア名古屋が誇る名店をアクセスしやすい名駅駅近くで。店舗のオリジナルメニューも愛知・八事日赤に店を構える名古屋の名店【クッチーナ イタリアーナ ガッルーラ八事】の味を受け継ぐトラットリア、【TRATTORIA FRATELLI GALLURA】。本店の人気メニューからオリジナルまで幅広くいただくことができます。女性が入店しやすいウッド調の開放的な店内で、デート中の会話もはずみそう。本店でも人気のメニュー『フォアグラのスモークとマンゴーはちみつのソース』本店【クッチーナ イタリアーナ ガッルーラ八事】のスペシャリテ『フォアグラのスモーク』や『玉ねぎのフォカッチャ』などの人気メニューから、シェフの地元で仕入れた豊橋産「三河山吹うずら」や「あいち鴨」など新鮮な食材を使用したオリジナルメニューまで、季節を感じる上質なイタリアンを堪能できます。TRATTORIA FRATELLI GALLURA【エリア】名駅【ジャンル】イタリアン【ランチ平均予算】3500円【ディナー平均予算】5000円【アクセス】名古屋駅 徒歩3分和食【満愛貴】特別な日に! 1日1組限定で行うランチコースは型破りな創作和食店大正4年(1915年)に建てられた蔵には東南アジア系の家具を配置名古屋市の認定地域建造物資産に指定されている古い蔵に店を構える、創作和食の【満愛貴】。メニューは、昼・夜共に1組限定のコース料理のみで特別な日に訪れたい。蔵の中に一歩入ると、そこは異空間に迷い込んだかのよう。東南アジア系の家具で揃えた店内と、独創的な創作和食との調和が美しく、心に残るひと時となるでしょう。さまざまな季節の野菜をゼラチンや葛で寄せた『先付』は、五感で楽しめる型にはまらない独特の色、味、形を提案するメニューには、シェフが海外へ食べ歩いたことにルーツがあります。客から見えるところで点てる『抹茶』や、タラヨウの葉にメッセージでお祝いするなど非日常のおもてなしも必見です。和食の域を超えた型破りな逸品を、二人きりでじっくり堪能してみては。満愛貴【エリア】名駅【ジャンル】和食【ランチ平均予算】6000円【ディナー平均予算】12000円【アクセス】国際センター駅 徒歩7分フレンチ【鉄板フレンチPivote(ピヴォーテ)】和のテイストを織り交ぜた鉄板フレンチをリーズナブルにカウンター席では、シェフが目の前でつくるライブ感を楽しめます国際センター駅から徒歩5分、路地裏にひっそりとあるお店が【鉄板フレンチPivote(ピヴォーテ)】。国産にこだわった厳選食材を使い、和・洋の枠を超えた大人の鉄板フランス料理をリーズナブルな価格でいただけます。カウンター席では、シェフの調理する姿が見えるライブ感も味わえて格別。信頼できる生産者、味のよさを重視した食材選びに注力ミシュラン三ツ星のお店でも愛用されている「尾崎牛」や、信頼できる農家で仕入れる、新鮮かつ他では見かけない珍しい地野菜など、希少性の高いメニューをいただくことができます。記念日や誕生日にはメッセージを添えたバースデープレートも用意してくれるので、思い出に残る演出も。鉄板フレンチPivote(ピヴォーテ)【エリア】名駅【ジャンル】鉄板焼き【ランチ平均予算】6000円【ディナー平均予算】15000円【アクセス】国際センター駅 徒歩5分
2021年06月20日日本最大級の文具の即売イベント「文具女子博petit(プチ)名古屋2021」が、2021年7月9日(金)から11日(日)まで愛知県名古屋市の吹上ホールにて開催される。文具の祭典「文具女子博」が名古屋で初開催2017年12月にスタートした「文具女子博」は、老舗の文具メーカーから気鋭メーカー、オリジナル商品が充実する文具店が一堂に会する文具の祭典。今回は、コクヨやミドリなど「文具女子博」で人気のメーカーや作家を中心に、全67の出店者と約20,000点以上の文具が集結する。シヤチハタブースでは限定アイテムも毎回人気を集めるシヤチハタブースでは、限定アイテムを用意。2020年7月に登場したカラフルな朱肉「わたしのいろ」の第2弾となる「わたしのいろ-ときのながれ-」からは、 刻々と変化する時の流れと共に変わりゆく色をテーマにした4種類の朱肉を限定販売する。また、シヤチハタの歴代スタンプ台のデザインを取り入れたマスキングテープや、日本の伝統色からセレクトしたスタンプアート用スタンプ台「いろもよう」、「ステーショナリーコスメ」とシヤチハタ「ネーム9」のコラボレーションコスメ「シヤチハタチーク」「シヤチハタリップ美容スティック」など人気商品も取り揃える。人気の「マスキングテープくじ」や「アクリルキーホルダーコレクション」も「文具女子博」の定番となっている体験ブースにも要注目。当たりが出れば、好みの柄のマスキングテープ(約500種類)を専用台紙に巻いて持ち帰れる「テープビュッフェ」に参加することが出来る「マスキングテープくじ」、お馴染みの定番文具がミニチュアサイズになった「アクリルキーホルダーコレクション」も併せてチェックしてほしい。名古屋だけの特別企画ブース「#文具喫茶」また、名古屋だけの特別企画として、喫茶店をイメージした商品が並ぶブース「#文具喫茶」が登場。クリームソーダやナポリタン、ホットケーキなど、喫茶店と聞いて思い浮かぶようなモチーフをデザインした色とりどりの商品が用意されている。名古屋パルコには「文具女子博Cafe」がオープン本イベントの開催を記念した「文具女子博Cafe」も、8月9日(月・祝)までの期間で名古屋パルコにオープン。今回の「文具女子博」のテーマ“ときめきの文具旅”をテーマにした装飾が施された店内では、各種コラボレーションメニューやオリジナルグッズが販売される。開催概要■「文具女子博petit(プチ)名古屋2021」開催日時:・2021年7月9日(金)12:30~19:00まで(最終入場18:30)・2021年7月10日(土)12:30~17:00まで(最終入場16:30)・2021年7月11日(日)12:30~17:00まで(最終入場16:30)会場:吹上ホール 第1ファッション展示場・第2ファッション展示場(愛知県名古屋市千種区吹上2-6-3)入場料:650円/現金もしくは交通系ICカード使用可※「文具女子博petit名古屋2021」では、 前売入場チケットの販売はない。入場料の支払いは当日会場にて行う。※入場人数に制限を設けて開催。定員に達し次第、入場を一時中断する場合あり。■先行イベント・プレミアムタイム開催期間:2021年7月9日(金)〜11日(日)時間:9:30入場開始〜12:00まで(最終入場11:30)入場料:1,210円 ※発行手数料別。チケット:2021年6月5日(土)10:00〜ローソンチケットにて一般販売開始。※日付指定制。※「プレミアムタイム」は、事前に入場チケットを購入する必要あり。■文具女子博Cafe期間:2021年7月1日(木)~8月9日(月・祝)営業時間:11:00~20:00(カフェのラストオーダー 19:30)場所:Carlova360 NAGOYA(名古屋市中区栄3-29-1 名古屋パルコ東館4F)※情勢によりイベント内容・営業時間に変更が生じる場合や、休業となる可能性あり。詳しくは名古屋パルコおよびCarlova360 NAGOYAの公式WEBサイトを要確認。
2021年06月04日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。子供の成長は、とても喜ばしいもの。ですが結果だけに目がいってしまい、大切なものを見落としてしまっているかもしれません。第13回『すこしずつ、変わっていくだけ。』こないだ、ピーマンを生で食べた。7歳になった友人と食事をしている時に、学校の給食でピーマンが出るとテンションが下がるという話になった。面白半分で「そういえば、こないだピーマンを生で食べてんけど、意外とこれが美味しくて」と話をすると「食べてみたい!」と言い出した。間違いなく好奇心だけで言っている。その好奇心を取りこぼさないように冷蔵庫からピーマンを取り出し、手渡して種をとる方法を教えてあげた。流水で洗って塩をかけると、嫌いだと言っていたのに好奇心の方が勝ったのか勢いよくかぶりついた。パリッと“美味しそうな”音が鳴る。もぐもぐと味わいながら笑顔になったので「おいしい?」と尋ねると、表情を歪ませてお皿に吐き出した。美味しいのは音だけだったらしい。苦い後味を紛らわすために白米を口いっぱいに含む。「出しちゃったけどさ、学校のみんなには食べたって言おう」と笑っていた。「味はどうでしたか?」という質問には「まずかったです!」と元気に答えたのに、しばらくしてから「もう一回食べてみる」と言い出した。クセになるのだろうか。せっかくなので次はマヨネーズをかけてみることにした。すると、さっきより苦味が少ないのか、一口食べて「これはイケる」とばかりに追いマヨネーズ。二口三口と食べ進め、「食べてみて?美味しいわ」と嬉しそうに勧めてきた。それから面白くなって、ケチャップやソースでも試してみた。「ケチャップが美味しいって思ったけど、やっぱりマヨネーズが一番やわ。そのままで食べるのは苦いので0点です!」と、ゲラゲラと笑いながら、結局1人でまるまる一個食べてしまった。僕はピーマンを見るたびにその時のことを思い出しては、パリパリッという心地いい音とゲラゲラと笑う声が耳に蘇ってつい口元が緩む。ピーマンは子どもの嫌いな食べ物の代表格だ。子どもの舌は苦味を感じやすいから無理に食べさせることはないと聞いたことがある。好き嫌いが多くて不安だという子育て中の悩みはよく聞くけれど、ピーマンに限らず嫌いなものを無理に食べることはない。好き嫌いはよくない、という価値観は根強いけれど、無理に食べさせようとすることで、逆に食べること自体が嫌いになっては元も子もない。まず食べることを楽しむことができたら、いつか食べられるようになるかもしれない。もちろん食べられるようにならないかもしれないけれど、ピーマンを食べられなくても生きてはいける。嫌いなものを克服できた。それはきっと本人にとって喜びだろうし、大人にとっても何か成長の瞬間に立ち会ったようで嬉しく感じる。だけどなぜだか、この生ピーマンを食べた話を「苦手を克服した話」にすると、違和感がある。なんでだろうと考えて出た答えは単純明快で、僕が伝えたいと思ったのはその子が苦手を克服したことではなくて、まずそうな顔をしたり美味しそうな顔をしたりして笑い合ったその時間なのだ。ただ楽しく食事をした。いろんな調味料を出してきて、半分遊びみたいだから行儀が悪いかもしれないけれど、とにかく楽しかった。それを伝えたいのに「苦手を克服した」というレンズ越しに見ると、途端にそのおもしろさが見えなくなる。できなかったことができるようになった。それがとてもいいことのように感じる。もちろん、いいことなんだろうけれど、そればかりに目がいってしまって大切なものを見落としてしまっている。そんなことって意外と多くあるかもしれない。同僚が「去年やんちゃだった子が、今年に入ってから落ち着いて過ごしているんです」と話していた。何気なく「成長ですね」と答えた。すると「本当にそれが成長なんですかね」と返ってきた。僕の言葉への批判という感じではなかった。自問するように「大人しく過ごせるようになった、トラブルを起こさなくなったということが成長なんですかね」と考えを巡らせているようだった。何年か前に訪問した保育園での出来事を思い出す。子どもたちが整列して朝の会をしていた。その横で、ひとり、でんぐり返りをしている子がいた。僕が笑って見ていると、それに気づいて嬉しそうにまたでんぐり返しを見せてくれた。周りの子どもたちがその子に「ちゃんと並びや!」と注意をしているのを聞いて、僕も空気を読んで、みんなと一緒に並ぶよう促した。その後も何度かそんな場面があり、その子はじっとしていたりみんなと同じ行動をすることが苦手なんだろうということが見て取れた。別の日に、体育館のようなところで音楽会の予行演習があった。本番を想定して舞台に上がって演奏していて、緊迫した雰囲気が漂っていた。その子はというと、でんぐり返しはしていなかった。普段の姿とは別人のように、かしこまって楽器を演奏していた。その時の僕は、どんなことを感じたんだっけ。「やればできる子なんだ」とか、その子の良い姿を見たような気がしたのだと思う。演奏の途中でその子がトイレに行きたいと言ったので僕が付き添った。手を洗うその子に、僕は「上手に演奏してたね、楽しかった?」と尋ねた。するとその子は、少しムッとしたような顔で「楽しいとかちゃうねん」と答えた。予想もしない返事で戸惑ってしまった。「頑張ってんねんから、楽しいとか言わんといて」と言われた。この言葉を聞いて、「協調性が育まれている」とか「責任感を持っている」なんて的外れなことを思いたくなったけれど、それはさすがに自分のエゴだと思い直す。僕は「やればできる子」なんて言葉を使って、その子のしんどさを見ようとすらしていなかった。自由奔放に見えていたその子は、みんなの中で普通になるために頑張っていたのだ。やればできるのではなく、やるしかなかったのだ。成長したように見えるその姿は、追い込まれて苦しみながらギリギリで頑張っていることなのかもしれない。逃げ道を無くして克服することは成長ではない。ましてやその頑張りを求めて喜ぶなんて、なんだかおかしいような気がしたのだった。毎日わがままを言っていた子が、ある日を境に何も要求をしなくなったとして、そんな時に僕は、聞き分けが良くなったとか自制が効くようになったとか、勝手に成長だと思ってしまう。けれど、その実は「言っても無駄だと悟ったから」かもしれない。自分の思いを伝えるエネルギーがなくなったからかもしれない。社会では、言っても無駄だからと諦めて黙ることを、「大人になる」と表現する。けれど、それは成長して大人になったのではなくて、身を守る術を身につけただけだ。僕は子どもの何を見ているんだろう。できているように見えるその姿は、みんなから外れないように、こぼれないように、少しでも普通になるために必死にしがみついているのかもしれない。僕自身がまさにそれで苦しんでいるのに、子どもの姿となると、みんなと同じようにできて、トラブルを起こさないでいられるようになったそれを、成長だと感じてしまう。学校に行けるようになった。ピーマンが食べられるようになった。友達と仲良く過ごせるようになった。落ち着いて話が聞けるようになった。聞き分けが良くなった。じゃあそれで、その子は生きやすくなったんだろうか。それで一つ問題が解決したように感じるけれど、その子のしんどさは「できなかったことができるようになった」という姿に隠れただけで、ずっと深くに残ったままかもしれない。子どもの育ちを見守って、その育ちに喜びを感じる立場だからこそ、その成長した姿に喜びを感じる。それは悪いことではないけれど、それと同時に、無理していないだろうか、しんどさを抱えさせていないだろうかと、見えない部分にも目を向けていられたらと思う。できなかったことができるようになって生きやすくなることもあれば、しんどくなることもきっとある。僕がほんとうに大切にしたいことは、できなかったことができるようになることではない、もっとほかの何かだ。見栄えのするものに覆われてしまってその大切にしたいことが見えなくなる前に、ちゃんとそれに気づけるようにしていたいな。去年と今年を比べて、先月と今月を比べて、昨日と今日を比べて、子どもができるようになったことは、きっとたくさんある。その分、サボるようになったとか片付けをしなくなったとか、やらなくなったこともきっとある。その度に、一喜一憂する。「成長というよりも、変化しているだけなんですよね」とその同僚は言った。昨日と比べてしまうけれど、日々の姿がその子の姿で、それは成長でもなく後退でもない。ただ、移り変わっているだけなのだと。僕はどこかで、子どもの育ちは右肩上がりで、多少の浮き沈みがあったとしても、伸びていくもの。そんな風に思っていたのかもしれない。できるようになることも、できなくなることもある。その変化の中で、その時のその子が生きやすくなる方法を、その都度見つけていけたら。それは、見栄えしなくて不安になるかもしれないけれど、そうやってとどまることなく心配事が見えている方が、いいのかもしれない。子どものしんどさに気づけなくなるよりかは、もしかしたらその方がいいのかもしれない、なんて思う。余談ですが手巻き寿司の正解ってなんだろう。シンプルに刺身だけを巻くのもいいし、胡瓜や大根を添えて巻くのも飽きない。何も考えずに目についたものを乗せて、巻ききれず溢れそうになったのにかぶりつくのも、何味かわからないけれど美味しい。大葉なんか入れると最高だ。そういえば、僕は子どもの頃から、シソ(いわゆる大葉)が嫌いだった。独特の香りが苦手で、素麺つゆに間違え入れて勢いよくすすってしまい、勢いよく吐き出したことがある。シソはシソでも、ばあちゃんが作るシソジュースだけ飲めた。原液を水で薄めて飲むんだけれど、きれいな薄い紫色でシソ独特の香りがしない。大人になっても嫌いだったんだけれど、いつからか食べられるようになっていて、気づいたら好物になっていた。今では素麺にも手巻き寿司にも欠かせない。僕はシソのことを好きになってよかったって思うけど、だからと言ってシソが苦手な人に勧めたりはきっとしない。苦手なものは、苦手なままでいい。もし、いつかそれを好きになったなら、それは「克服した」のではなくて、ただ「きらい」が「すき」に変わっただけなんだろうなって思う。苦手なままなら、それは成長していないのではなくて、ただ、そのままなだけ。克服するのではなくて、おもしろそうだから試してみる、そんな感じで楽しめるのなら、嫌いなものも試してみようかなって思えるのかもしれない。例えばやったことない組み合わせで手巻き寿司にしてみて、色んな味を試してみるように、あんまり美味しくなくても食べられるようにならなくても、それでもいいかって思えるような気がする。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年04月09日「ムーミンマーケット2021」が、2021年4月3日(土)から25日(日)まで名古屋パルコで開催される。2021年も名古屋パルコに「ムーミンマーケット」がオープン1945年に最初の小説『小さなトロールと大きな洪水』が発表されて以来、絵本・コミックスなど様々な作品を通して、幅広い世代に愛され続けているムーミン。日本では2019年にその世界観が体験できるテーマパーク「ムーミンバレーパーク」がオープン。昨年はムーミン75周年を迎え、現在も変わらぬ人気を誇っている。名古屋パルコ恒例のイベントとなっている「ムーミンマーケット」には、イベント限定商品をはじめ、ムーミンとその仲間たちの魅力が詰まったアイテムの数々が集結。屋敷の中を覗いたり、写真を撮って楽しめる毎年人気の展示物「ムーミンやしき」も展示予定だ。開催概要「ムーミンマーケット2021」期間:2021年4月3日(土)〜4月25日(日)会場:名古屋パルコ南館7F・イベントスペース時間:11:00〜20:00 ※営業時間は名古屋PARCOに準ずる。※最終日は18:00閉場入場料:無料©Moomin Characters™
2021年03月26日・ルパン三世か!?それともキャッツ・アイの仕業?・すごい瞬間!貴重な写真ですね。・ルパン三世のワンシーンみたい!きっと銭形警部が追いかけてるぞ。そんな声がたくさん寄せられた2枚の写真が、ネット上で話題となっています。モンキー・パンチさん原作の『ルパン三世』といえば、連載開始から50年以上経つ、昔から愛されている漫画・アニメ。主人公のルパン三世は大泥棒として有名です。そんな『ルパン三世』を彷彿させるような写真が、愛知県にある名古屋城近くで撮影されました。脳内BGMにあの有名なテーマ曲を流しながらご覧ください!目撃!名古屋城の金のシャチホコ、取られとるでー pic.twitter.com/oi9XS8sbTl — TWU⚽️ (@TWU20180401) March 7, 2021 大胆にヘリコプターで名古屋城の金シャチを強奪しているようです!しかし、ご安心を…。これは、新型コロナウイルス感染症で落ち込んだ地域経済を元気づける目的で、展示するために下ろされたのだそう。ルパン三世の仕業でもなければ、事件でもありません。名古屋城から金シャチが地上に下りるのは、16年ぶりのことだといいます。名古屋市内で展示された後は、長野県や岐阜県の道の駅を巡回し、2021年7月中旬頃に再び名古屋城天守に戻る予定です。金シャチは、約2.6m、重さ約1.2tあるとのこと。また城外での長期展示は約150年ぶりだそうです。近くに行った際は、ぜひ間近で金シャチを見てみてはいかがですか。[文・構成/grape編集部]
2021年03月10日動物をモチーフにしたデザートブッフェ「FUN! FUN! ZOO春まつりデザートブッフェ」が、名古屋・星ヶ丘アートグレイスクラブにて開催されます。実施日程は、2021年月3月7日(日)から5月30日(日)までの土日祝の特定日。動物モチーフのデザートブッフェ「FUN! FUN! ZOO春まつりデザートブッフェ」では、人気の動物をモチーフにしたスイーツを提供。ライオンのたてがみを生クリームで立体的に再現した「ライオンさんのマンゴータルト」や、キリンの模様をイメージした「キリンのキャラメルロールケーキ」、プチスイーツの「ゴリラとラーテルのブラックシュークリーム」「いちごうさぎ」「黒ゴマコアラ」などユニークなデザートを味わうことができます。“レッサーパンダ”ショートケーキ&柑橘ムース注目は、星ヶ丘アートグレイスクラブに隣接する「東山動植物園」に近日オープン予定である“レッサーパンダ舎”のレッサーパンダをモチーフにしたデザートです。レッサーパンダのフェイスモチーフをたっぷりの生クリームで表現したショートケーキや、縞々のしっぽをイメージした柑橘ムースが並びます。チキンウイング&ドライカレーなど食事メニューもスイーツの他にも、チキンウイングの醤油麹マリネや、スパイシーなドライカレーなど満足感のある食事メニューを用意。また、隣接する「東山動植物園」では同時期に春祭りも開催しているので、動物との触れ合いを楽しみつつ、アニマルスイーツを堪能できます。【詳細】FUN!FUN!ZOO春まつりデザートブッフェ開催日:2021年3月7日(日)、3月13日(土)、3月21日(日)、4月4日(日)、4月11日(日)、4月25日(日)、4月29日(木・祝)、5月1日(土)、5月4日(火・祝)、5月5日(水・祝)、5月23日(日)、5月30日(日)開催時間:1部11:30~13:00(受付11:15~)/2部14:00~15:30(受付13:45~)※5月4日(火・祝)は2部14:00~15:30のみ開催開催場所:星ヶ丘アートグレイスクラブ(愛知県名古屋市名東区名東本町180)料金:大人 4,800円/小学生 1,500円/未就学児(3~5歳) 500円/2歳以下無料※消費税・サービス料込み※支払いは、現金またはPay Payで対応※一部店舗の営業休止・営業時間変更等を実施する場合がある。■メニュー内容デザート:<ホールケーキ>レッサーパンダのショートケーキ/ライオンさんのマンゴータルト/キリンのキャラメルロールケーキ<ガトー>いちごうさぎ/蜂蜜レモンチーズ/ローズフランボワムース/黒ゴマコアラ/ゴリラとラーテルのブラックシュークリーム/植木鉢ショコラ/レッサーパンダのしっぽ・柑橘ムース/ほんのり桜のシフォンケーキ/ベイクドチーズケーキ<ジュレ>アセロラシャンパンジュレ/蜂蜜オレンジジュレ/桜のブランマンジェ<その他>プチ・マドレーヌ/FUNFUNサブレ/ケイク・サレ/キノコメレンゲフード:チキンウイングの醤油麹マリネ コンフィ仕立て 黒胡椒の辛味/スパイシーなドライカレー サルタナレーズンと彩野菜と共に/カラフルなポテトの味わい 辛みとレモンの酸味でドリンク:紅茶(ホット/アイス)/コーヒー(ホット/アイス)/オレンジジュース/アップルジュース/ウーロン茶など※メニューは一部変更となる場合がある。※ホールケーキは切り分けて席まで提供。ブッフェ台のスイーツは全て個々盛りで提供。【予約・問い合わせ先】TEL:052-789-1868(営業時間:12:00~19:00/定休日:毎週月曜日・火曜日 ※その他弊社指定日)
2021年02月14日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。「つらい環境でも耐え忍べば報われる」という意味を持つ『石の上にも三年』という、ことわざ。ですが、長く続けることよりも難しいのは…。第12回『石の上にも、三日坊主。』始めることと続けることって、どちらが難しいんだろう。興味を示したけれど輪に入らずに、あそびに参加しない子がいる。そのあそびに興味がないのかといえばそうではなく、観戦しながら一緒に楽しんでいるので仲が悪いというわけでもない。むしろやりたそうにはしているけれど、誘ってみると「やったことないから」と断られる。「教えるよ」と声をかけても頑(かたく)なで、あまりしつこく誘うと逆に離れてしまうので、一歩を踏み出すきっかけを見逃さないように見守るくらいしかできない。保護者の方にお話しすると、家では興味深げにそのあそびについて話しているらしい。やってみたい気持ちはあるようだ。じゃあ、なんでやらないんだろう。やってみたいのにやらない。どうしてだろうって考えてみる。無理にそのあそびをさせたいわけではない。したいならしたらいいし、したくないならしなくていい。「見ているだけ」も、その人の楽しみ方だ。サッカーをしたことがなくても観戦は楽しめるし、経験者よりも劣っているということもない。実際にプレーしている人と見ている人、そこに優劣はないのだから。ただ、なにかが足枷になっていて一歩を踏み出せないのであれば、その足枷を外してあげたいなと思う。もちろん、その子と自分は違う人間だし場面も違うから、正しい答えが出るとは限らない。けれど、分かるわけないからといって開き直ってしまったら、分からないままだ。想像したり思いを馳せたりしていれば、すこしでもなにかのヒントが見つかるかもしれない。5年くらい前、友人に誘われてボルダリングを始めた。室内の壁に打ち付けられた、岩のでっぱりやくぼみを模した“ホールド”というものを登っていくスポーツクライミングと呼ばれるものだ。初日はペットボトルの蓋も開けられないくらい腕がパンパンになったんだけど、何度か通っていると筋肉痛も心地よく感じるようになり、日ごとに登れるようになっていった。競技自体も楽しいんだけれど、目に見えて自分の成長が感じられるのも嬉しかった。大人になってのびしろを感じる機会って少ないもんね。ある程度技術がついてきたあたりから、初めは見えなかった面白さを感じるようになってきて、一層楽しめるようになった。そのものの本質的な面白さがわかるまでには時間かかる。あそびもスポーツも仕事も同様だろう。時間をかけてこそ見えてくるものは確かにあるよね。三日坊主という言葉がある。物事が続かないことを揶揄(やゆ)する言葉だ。逆に、辛抱強くいればうまくいくかもしれないという意味として、石の上にも三年ということわざがある。初めは冷たい石の上でも、長く座り続ければいずれ温かくなるということだ。継続は力なりというように、三日で辞めるより続けられた方がきっといい。途中で投げ出さずに粘り強くやり抜くことって、何かを成し遂げるためだけではなく、楽しむためにもとても大切なことだろう。子どもたちにも、やり始めたことは途中で投げ出さずにやり抜いてほしいと思う。今は面白さを感じなくても、続けていれば楽しくなってくるよって。根気強く続けた先に見える面白さや追求することの楽しさを知ってほしい。壁にぶち当たっても乗り越えてほしい。そのときに味わう達成感は格別だ。けれど、と少し考えてみる。何気なく腰掛けて、なんとなく座っていただけなら三年座っていられるかもしれない。けれど、あらかじめ石が温かくなるまでは何年もかかりますよ、と言われていたら、そんな石には座らないんじゃないだろうか。どうしても座らなきゃいけない状況はあるかもしれない。そんな人にとっては、「いつか温かくなるかもしれない」という見通しがあれば安心する。だけど、それは座り続けるための理由ではなく、あくまでも我慢を続けるための慰めだ。そうやってやっとのことで温まったお尻に感じるのは、きっと達成感ではなく、辛かったことから解放された安堵だろう。少し走ってみようかなと思ったときに、遠くにあるゴールにたどり着くまで走り続けないといけないとしたら、ましてや、周りのみんなはその道のりを悠々と走っているのを見たら「今回はやめておこうかな」と、スタートを切ることさえしないんじゃないか。そうしたら、そのまま「興味はあるけれどやっていないリスト」に追加されることになる。続けたら花が咲き、実がなるかもしれないけれど、そもそも始めなかったら芽さえも出ない。なんとなく始めてみて、一歩ずつ進んで、気づいたら遠くまで来ていた。座っていたらいつの間にか温くなっていた。それくらいでいいのなら、最初の一歩も気軽に踏み出せそうな気がする。どうして僕はその面白さを知れるくらい続けられたんだろう、と考えた時に思うのは、同じように下手くそな友人がいたからではないだろうか、ということ。もちろん、上手い人に憧れて鍛錬して上達する人もいるだろうけれど、自尊心の低い僕の場合は、周りの人たちが板チョコのような薄さのホールドを掴んで身軽に登っているのを見て、憧れよりも惨めさを感じた。僕だけが、バナナみたいなデカいホールドに不格好にしがみ付いている。身軽さなんて微塵もなく、ナマケモノのように壁にへばりついて腕をプルプルさせたあげく引力に負けてマットの上に落下する。初心者なんだから当たり前だし、恥ずかしがって楽しめないのはもったいない。そんなこと分かっているけれど、やはり恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。だから僕は、慣れるまではひとりで行けなかった。一緒に通う、同じタイミングで始めた同じように下手くそな友人がいたから、その恥ずかしさが紛れていた。自分より下手だから安心できるのではない。「失敗しても大丈夫だ」と思えるから安心できるのだ。持つべきものは偉そうに教えてくれる熟練の友ではなく、共に失敗する未熟な友だった。そんなことを思い出しながら思う。興味を持ったあそびに参加しないその子は、新しいことに挑戦することが嫌というよりは、「みんなができていて自分だけできない」のが嫌なんじゃないだろうか。「失敗するかもしれない」という気持ちが足枷となっているんじゃないだろうか。なんとなく始めて、なんとなく覚えて楽しんでいる間に上達することってある。特に幼少期はそういうことが多いだろう。自分が人よりも劣っているかも、そんなことを思うとはじめの一歩は踏み出せない。大人なら子どもよりも上手にこなして「やってみなよ、教えてあげるよ」って、色んなことを教えてあげたい。けれど、未熟な友として共に失敗しながら成長していくのも良いのかもしれない。簡単に投げ出したり、逃げ出したりしないでほしい。けれど、途中で辞めることを「悪いこと」にしてしまっては、その経験はきっと「あの時も投げ出してしまったし、今回もどうせ続かないからやめておこう」になる。投げ出さないように嫌なことに耐えて育つのは、根気強さではなく我慢強さだ。根気強さや粘り強さはきっと、「もう少し続けたら面白くなるんじゃないかな」という期待のもとにあるんじゃないかな。それはきっと、与えられるものではなく、気軽に始めてたまたま続いた、そんな経験の積み重ねから生まれるんだろう。だから、途中で投げ出さずに続けてほしいなら、途中で辞めても大丈夫って思いたい。いつ立ってもいいからこそ、気負わずに安心して座り続けられるのだ。身になりかけたものを途中でやめそうになったときに「もったいないな」って思ったりもする。こんなに勉強してきたのに生かせないのはもったいないな。この資格取ったのに、別の仕事するなんてもったいないな。ここまで原稿書いたのに、ボツにするのはもったいないな。そんなことを大人になっても、いや、大人になったからこそ思ったりする。きっと、これまでそれに注いできた時間が無駄になるようで嫌なんだと思う。けれど、これまでの時間はこれまでの時間で、これからの時間はこれからの時間だ。ちなみに、これまで注ぎ込んだものを無駄にしたくない!という思いで損をすることが分かっていてもそれを続けてしまうことを、コンコルド効果っていうらしい。博打好きの同僚が教えてくれた。博打と一緒にするなよ、と思うけれど、同時に納得もしてしまう。未来のためにやってきたことを間違いにしないために、これからを犠牲にしているならそれは、未来ではなく過去のために生きているということになる。きっと誰だって、失敗するのは嫌だ。けれど、それが失敗じゃないとしたらどうだろう。「やるなら途中で投げ出しちゃダメだよ」「どうせ続かないんだからやめときなよ」って言葉は減るかもしれない。飽きたなら途中で辞めればいい。しんどければ逃げればいい。簡単に投げ出せばいい。そんなことを言葉にするのは憚られるけれど、それが許されるなら、大人も子どもも、少し肩の荷が降りるような気がする。甘いんじゃないだろうか。その子のためにならないんじゃないだろうか、と思ってしまうかもしれない。途中で辞めてしまう子を見て、歯痒い気持ちになるかもしれない。けれどそれは失敗じゃないし、無駄なんかじゃないとすれば、育んでいるものに目を向けられる。新しいことに挑戦できた。別のことに興味を持てた。できない自分を受け入れられた。全部大成功だ。何にも見つからなくても、自分の気持ちに正直になれた、無理しなかった、だけでも十分だ。それを失敗にしなければ、次の挑戦ができるかもしれない。気軽に、なんとなく興味を持って、なんとなく始められるかもしれない。そんな一歩が積み重なって、気づいた頃にどこか遠くまで来ているかもしれない。もちろん、どこにも辿り着かないかもしれないけれど、それはそれでいいじゃない。活発な子に育ってほしいなら、元気がなくてもいいよって言ってみる。なんでも食べる子に育ってほしいなら、無理して食べなくてもいいよって言ってみる。強い子になって欲しいなら、泣いてもいいよって言ってみる。今と未来は地続きだけれど、今のこの時間を、未来の何かにつなげるために無理しなくていい。「こんなんじゃダメだ」ではなく、「できなくても大丈夫」って安心できたなら、どこかの何かのきっかけでなんとなく「もう一歩踏み込んでみようかな」って思えるのかもしれない。余談ですがこの連載コラムは、月2本くらい書くつもりでスタートした。次第に月1本くらいのペースになっていった。1月から始まり12月にちょうど第12回の原稿を書き始めた。三日坊主の自分が月一を継続したと喜んでいたら、八割方書けたくらいで手が止まってしまい、結局予定より2ヶ月遅れた。初めは、「続けられるか分からないけれどとりあえずこの一本を」と書いていたのに、過去に積み上げたものや達成しそうな何かを見た途端、身動きが取れなくなったのだ。けれど、書いた。今までのものなんて忘れて、次のことも考えないで、目の前のことだけ考えて、ちゃんとできた。えらいな、自分。結局、ボルダリングは2年ほど続けたけれど、引っ越してアクセスが悪くなったことで足が遠のき、そのまま辞めることになった。せっかく鍛えたのだから衰えないようにと通い始めたフィットネスジムは、2、3回通って飽きてしまった。かと言って一度始めたのに途中で辞めるのもなんだかやはりダメな気がして「今月は月謝も払ったし…」と先延ばしにし続けていたら、結局1年間ほとんど通わないのに毎月月謝が引き落とされていた。これがコンコルド効果か、と無表情で納得した。始めたいけれどきっかけがない、ということもあれば、続けたいけれど途切れてしまうこともある。やめたいのにダラダラと続けていることもある。三日坊主が石の上に座っているのを想像してみる。ただの坊主なら修行っぽいけれど、三日坊主が座り続けているのならば、よほど居心地のいい石だろう。そんな石が見つかればいいなって思う。いつか見つかるかもしれないから、そんな石が見つかるまでは、少し冷たいお尻ももう少し我慢してみようかな、なんて誤魔化してみたりする。座っているのがしんどいならば、寝転んででもへばりついてでも居心地いい姿勢を見つけてやろうか。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年02月06日名古屋駅前に環境配慮型オフィスと商業施設で構成される大型複合ビル「名古屋三井ビルディング北館」が開業。商業エリアは、2021年3月下旬より順次オープン予定だ。名古屋駅、地下街直結の大型複合ビル「名古屋三井ビルディング北館」「名古屋三井ビルディング北館」は、名古屋駅と地下街直結で徒歩4分以内の好立地にある、地上20階・地下2階、延床面積29,450㎡の複合施設。地下1階から地上2階は商業施設、3階から5~19階はオフィスで構成される。商業施設は、ラグジュアリーブランドが軒を連ねる名駅通のハイエンドなブランドストリートに面し、さらに地下街と直結したエスカレーターとエレベーターを設けることで周辺回遊性を向上させる。グッチの旗艦店がオープン商業施設には、約13店舗が入る予定。中でも目を引くのが、1階と2階の2フロアにわたって展開される、ラグジュアリーブランド「グッチ(GUCCI)」のフラグシップショップだ。店内では、メンズおよびウィメンズのハンドバッグ、ウェア、シューズをはじめとする豊富なカテゴリーのアイテムを取り揃える。なお、開業は3月下旬を予定している。2階には、トータルな美しさを提案するビューティ&リラクゼーションサロン「資生堂ビューティサロン名古屋店」も2021年秋に開業予定。また、地下1階には、旧「新名フード地下街」と「本ビル地下 1階の商業部分」をデザイン的に融合した「キタチカ」が誕生する。【詳細】名古屋三井ビルディング北館商業エリア開業予定時期:2021年3月下旬住所:愛知県名古屋市中村区名駅四丁目8番18号用途:事務所、店舗、駐車場敷地面積:約2,248㎡(約680坪)延床面積:約29,450㎡(約8,900坪)規模・高さ:地上20階/地下2階 約100m構造:S造 一部SRC造竣工日:2021年1月31日(日)竣工
2021年02月04日インフルエンサーの美容情報も発信美容医療の検索サイト「Capital(以下、キャピタル)」がオープンした。キャピタルは名古屋市の情報に特化し、名古屋出身のインフルエンサーが発信する美容情報や、愛知県にあるクリニックの情報を収集・公開している。美容医療を検討するユーザーが美のお手本とするインフルエンサーの美容情報を得ることで、綺麗・カッコいいの理想型により一層近づく手助けをするサイトだ。男性・女性の垣根なくこれまで美容医療に関する情報サイトはユーザーを女性に限定したものが大半であったが、キャピタルでは美容=女性の常識を取り払うため、性別にとらわれず男女両方に向けた情報発信を目指す。今後はヘルスケア、トレーニング、食品・サプリメント、化粧品の販売にも取り組み、ユーザーの目指す「綺麗」「カッコいい」を多角的にアシストするということだ。(画像は「Capital(キャピタル)」公式サイトより)【参考】※「Capital(キャピタル)」公式サイト
2020年10月30日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。まだ感情のコントロールが苦手で、癇癪(かんしゃく)を起こしてしまう子どもたち。他人の苦しみや欲求は、どうすれば理解できるのでしょうか。第10回『同情するならお湯をくれ。』「怒りたくて怒ってるんじゃないよ」と言われて「なら怒らなければいいじゃないか」と思ったことがあるのは僕だけではないだろう。学校からの帰り道、歩きながらノートを広げている子がいた。「危ないからノートしまって歩きなよ」と声をかけると「だってー」と返してきた。「危ないことは危ないからやめてね」と口答えを制した。理由があろうと危ないことは危ないのだ。しばらく歩いたところでお茶を飲みながら、またノートを広げていた。「しまっときって言うたやろー!」と少し語調を強めると、注意されて落ち込むというよりも楽しみを邪魔されたというような表情をした。心配していることを伝えるつもりで言い訳のように「怪我したらあかんからな。ほんで、暑いから水分しっかり取ってな」と言うと「だから飲んでてんやん」と言い返してきた。なんだかやけに反抗的だなと思いながら視線を落とすと、広げたノートに地図のようなものが書かれているのが見えた。スタートらしき場所には「がっこう」と記されており、路線図のようにいくつかの四角を線で繋げていて、ところどころに手書きの星マークがつけられていた。双六のようにも見える。「なに見てたの?」と、指摘としてではなく興味本位で尋ねた。「帰り道に暑くてお茶飲まなあかんから、飲むポイントを書いてんねん、いまここ」と言って[学校]と[学童]の間にあるチェックポイントの一つを指した。「真夏の水分補給」も子ども達に指導している交通ルールと同じく大切なことだ。それを自分たちで工夫して実践できるようにしていることに感心しながらも「いいことやけど、危ないからノート広げて歩くのはやめような」と伝えた。しばらくしてから、「おもろいなあ」とそのノートのことを思い出していた。自分たちで相談して書いたんだろうか。決められためんどくさいことも、あそびに昇華してるなんてすごいじゃないか。「いいことやけど」ってなんやねん。ただただめっちゃおもしろいやん。「いいことや」って取ってつけたように言ったけど、あの子たちには「怒られた」ってことだけが残っているんじゃないかと少し後悔した。自分で自分に「怒りたくて怒ったんちゃうねん」と言い訳した。「なら怒らなければいいじゃないか」と子どもの頃のぼくが顔を出す。危ないことは危ないからやめてもらわなきゃいけない。けれど、もっとほかに伝え方があったんじゃないか、間違いを指摘することをそんなに焦らなくてもいったん話を聞くことくらいはできたんじゃないか、と何度も考えていた。思い通りにいかないときに癇癪を起こしてしまう子がいる。諭すように話したり、思いに寄り添うように声をかけたりしてみても全く応じることはなく、言葉をかければかけるほど興奮したり、脱力して床に寝そべり駄々をこねたりする。腫れものを触るように接していき、癇癪玉が爆発したら最後「鎮まりたまえ!」と災難が過ぎ去るのを待つようになだめ、根負けして思い通りにさせるか、そうでなければ開き直って強引に言うことを聞かせるしかない。その子は好きなあそびを中断されるたびに駄々をこねた。みんなで遊んでいるときには機嫌よく過ごしているけれど、終わってしまったり中断されると手をつけられなくなっていた。ある日、その子は好きなあそびをせずに一人で過ごしていた。ひとりでのんびり過ごしているのかといえばそうではなく、かと言って別のあそびに夢中になっている訳でもなさそうで、あえてそのあそびから離れているように見えた。何かあったのか尋ねてみると、その子は少し黙ってから「もう、ああなるの嫌やねん」と小さく言った。「ああなるの」とは「キーーーッ!」ってなること、つまり「癇癪を起こしてしまうこと」だ。「思い通りにいかないことがあったら癇癪を起こす子」ぼくはそんな風にその子のことを見ていた。思い通りにいかないことを押し通そうとする姿は、半ばわがままにも見えた。その子にも制御ができないのだ、とそのときに初めて気が付いた。本人が苦しんでいるなんて思ってもいなかった。癇癪を起こさないようにしたり、それを鎮める方法を話し合いもした。けれど、それは「その子がしんどいから」ではなく、「僕たちがしんどいから」やっていた。その子が癇癪と戦っているのに、僕とも戦わなきゃいけないなんてそりゃあしんどい。僕には見守るか支えるしかできなかったのだ。もしかしたら、わがままな姿や怠慢に見える姿が、ただ気に食わなかったのかもしれない。誰も困りはしないのに何故だか許せない、そんな感情ってあるんだよね。その子が感情をコントロールできなくて、うまく表現できなくて苦しんでいるかもしれない。それを分かっていても、それでもやっぱり「自分の言う通りにしたいだけじゃないか」とか「ただのわがままなのではないか?」と感じてしまう自分がいる。考えてみれば、その子が癇癪を起こさずに言うことを聞いて欲しい、と望んでいる僕の考えも、自分の思い通りにしたいというわがままだよね。僕たちはなんで、人がわがままに振る舞っていたりサボっているように見えたりするのが許せないんだろう。たとえば危険があるとか誰かの迷惑になるとかなら分かるけれど、誰に迷惑をかけるわけでもないのに、手を抜いていたりサボっていたりズルをしていたりすると許せない。気に食わないな、と思うだけなら勝手だけれど、「その子のためにならない」というもっともらしい理由をつけて厳しくしてしまうこともある。親を甘やかしたらいけないという価値観も、保育や教育の業界から聞こえてきたりする。「気に食わない」だけで批判するのは理不尽だって誰でも分かるけれど、それが「教育」とか「当たり前」という仮面を被ってたら、そういうものなのかもと思ってしまう。しんどい人は救われるどころかさらに追い込まれていく。しんどいのなら、甘えてもいいんじゃないのかな。なんで、甘えたり手を抜いたりすることが許せなくなってしまうんだろう。あ、例えば、狩りで生きてきた時代には、サボってしまったら生死に関わるから本能的に「サボるのは許せない」と感じるのかもしれないな。とか適当なことを考えてみたけれど、「サボりたい」「休みたい」も生きるために必要な心の声じゃないか。「何個しんどかったら帰れるんですか?」中学校に勤めている友人が、保健室で生徒に聞かれたらしい。熱は無いけれどアトピーの調子が悪いし具合もよくないので帰りたい。けれど、サボりだと思われて帰らせてもらえないとのこと。甘やかしてクセになってもいけないし、だからって子どものしんどさに寄り添えないのもつらいものだ。僕は子どもの頃からアトピーなんだけれど、痒いとか痛いとかだけでなく、向けられる視線やかけられる言葉に傷付いたり、自分は頑張りたいのに頑張れないしんどさもある。学童でも身体が痒くて目の前の宿題に集中できない子がいて、それを見て「集中力がないな」と思ってしまいそうになる。けれど、絶対に「集中しなよ」と声をかけることはしない。だって、集中できるならしてるもんね。痒いから集中できなくて、集中できないからまたイライラして掻いちゃって、終わりが見えなくてボーッとしてしまうんだ。荒れた肌は見た目も良くないし、フケが服についたりするから清潔感がないとか言われる。清潔にしていないとすぐに悪化するから、一度来た服を洗わずに着ることはないしシーツだってしょっちゅう洗う。その辺の清潔感のあるイケメンよりも、きっと清潔であることを心がけているけれど、見た目の清潔感は伴わない。食生活が良くないんじゃないかとか生活習慣が悪いんだよって言われることもある。怠慢だから、サボっているからだよと病気をその人のせいにしたがる。しんどくてエネルギーを使いすぎて、いつもなら容易にできることが、ガス欠でできないこともある。当たり前にできるべきことができていないから、またやっぱりサボってるって思われる。その人のしんどさはその人にしか分からない。同じ痛みでも、平気な人もいれば、動けないくらい苦しむ人もいる。その人にしかその苦しみはわからない、という至極当たり前のことを忘れて、苦しむ人が弱いのだと、それを悪いことのようにしてしまう。忍耐力が足りない?みんな我慢してる?その事実があったとしても、それでしんどさはなくならないのに。病気に限らない。健康でも、その時の環境や状況でしんどい人はきっとたくさんいる。家族がケガをしたり、飼っている猫が病気だったり、失恋したり、推しが引退したり。病気だからとか障害だからとかではなくて、なにもなくてもそのしんどさに目を向けていたい。「そんなことくらいで」なんて他人が言っちゃいけないんだよね。みんなは大丈夫なのに自分がしんどくても、「そんなことくらいで」って自分で思ってしまうことも、もうやめたい。みんなしんどいことは嫌なはずだよ。そのしんどさから逃げたり解放されることを望んだりするのって悪いことじゃないはず。みんながしんどくなくて、みんながサボれる社会の方が断然生きやすいやんか。「なぜしんどいか」なんて関係なくて、そこにしんどさがあるのなら、それをまずは解消したい。甘えてなにがいけないんだろう。弱くてなにがいけないんだろう。教育というモノを言い訳に、育てるという名目のもとに、その子のしんどさを否定してはいないだろうか。まっとうに生きる。勤勉に生きる。それが幸せになるためではなく、ちゃんとした大人として見られるためなのであれば、もうそれにならなくてもいいやって思うの。ちゃんとした大人、を目指すなら、人のしんどさを自分の尺度で測らずに、想像したり寄り添える大人でありたいと思う。「正しいこと」よりも先に「生きやすいこと」を大事にしてみようよって思う。他人が大切にしているものを否定しないのと同じように、他人のしんどさを否定しない。それができたならきっと、自分の大切にしているものもしんどいことも、自分で否定しないでよくなるんだと思う。子どもの育ちを見守る立場である僕が、こんな風にサボることを肯定したら、それで不安になる人もいるかもしれない。けれど、ぼくははっきりと言いたい。一個でも十分しんどいよ。みんながしんどくないことでも君がしんどいのならしんどいんだよ。休んでいいんだよ。手を抜いていいんだよ。苦しみを我慢して厳しくされた分だけ辛抱強くはなるかもしれない。けれど、その分相手にもその強さを求めてしまうのであれば、自分のしんどさに気づいて誰かに甘えられるほうが、その誰かもまた誰かに甘えていけるほうが、みんながしんどくないんじゃないかな。少なくとも、相手には相手のしんどさがあることを知れるから、強さを求めて追い込んだり傷付けたりすることは減るだろう。みんなが強いことを望んで傷つけ合うよりも、弱さを認め合って支え合えたら。甘いと言われようと、僕はそうありたいと思うのだ。余談ですが別の日の帰り道に、「泥棒って、ご飯食べてるんかなあ」と尋ねてきた。不意に問われたその意図が分からなかったので、なるべく断定するような答えにならないように「どうやろうなあ」と返すと「食べてないんやったら、カップラーメンにお湯入れてあげたいわ」とその子は言った。ただカップラーメンをあげたい、ではなく「お湯入れてあげたい」という具体的な優しさが、哀れみとか同情ではなくその子の本当の思いであることを感じさせた。「泥棒ってお金ないんやろ、だからカップラーメンに」と繰り返す。生まれながらに悪い人、ではなく、お金がないから悪いことをしてしまう。そんなふうに考えられる人がどれだけいるだろう。悪い人の代名詞である泥棒だけれど、その子にとっての泥棒は悪い人ではなく困っている人なのだ。犯罪を犯すのはその人のせいで、貧乏なのは自己責任だと叩かれるこの社会で、この子は泥棒のカップラーメンにお湯を入れてあげたいと言っている。それを聞いてぼくが抱いた感情を、なぜだろう、うまく言い表せられない。考えを巡らせすぎたのだろうか、「あーーー」と叫んで「あかん、ほんまに泥棒にお金配りたくなってきた」と泣きそうな顔で呟いた。もしぼくが泥棒なら、って少し想像したら、泥棒でもないぼくが何故か救われたような気持ちになった理由が分かった気がした。ぼくが泥棒だったなら。きっと、そのもらったお金でカップラーメンを買うだろう。ビールを飲んだり美味しいお肉も食べたいけれど、餃子やお寿司も食べに行きたいけれど、でもきっとカップラーメンを買うだろう。そして、その子がお湯を入れてくれるのを待つのだ。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2020年10月27日駅から3分。非日常空間を演出するホテル愛知県名古屋市の「ストリングスホテル名古屋」が、2020年11月10日から2021年1月14日までの期間限定で「プリンセスアフタヌーンティー~ローマの休日~」を販売します。あおなみ線「ささしライブ駅」から徒歩3分の場所にある「ストリングスホテル名古屋」は、ビジネスホテル・シティホテル・リゾートホテルといった既存のホテルカテゴリーを超えた新しいカテゴリーを提供。客室には世界的ブランド「ミキモトコスメティックス」のシャンプーとトリートメントを完備。保湿作用・浸透作用にすぐれたナノ・ウォーターが流れるレインシャワーは、包みこむような心地よさで疲れを洗い流します。昭和西川株式会社との共同開発による寝具やテンピュール社のマットレス、加湿機能付き空気清浄機なども備え付けられています。王女をイメージした、見た目にも優雅なメニュー今回開催の「プリンセスアフタヌーンティー~ローマの休日~」は、季節のビューティースープ、シェフ特選本日のセイボリー3種、特製スコーン、スタンド、ドリンクからなるスペシャルメニュー。イタリア王女が過ごす、ローマでの休日をテーマとしています。スタンド上段にある「ヨーグルトジェラートのミニパフェ」は、イタリア名物であるジェラートを使ったメニュー。グラスには王女をイメージしたティアラをあしらっています。中段にはベルガモットオペラとパンナコッタ ロゼシャンパンジュレ。下段の自家製ティラミスにはイタリアのオートバイ「ベスパ」をデザインしています。ドリンクは挽きたてのコーヒーのほかフランスの老舗紅茶ブランド「マリアージュ フレール」や日本茶フレーバーティー「おちゃらか」などをお好きなだけ楽しめます。(画像はストリングスホテル名古屋より)【参考】※ストリングスホテル名古屋
2020年10月19日豊かな自然にあふれたリゾートで、忘れられない1日を株式会社ベストブライダルが運営する結婚式場「名古屋港セントグレース大聖堂」(愛知県名古屋市)が、2020年10月14日より2020年10月から11月の特定日に施設を一般開放。「Gracefultime グランピングBBQ~」を開催します。名古屋市臨海高速鉄道あおなみ線「野跡」駅から徒歩1分の場所にある「名古屋港セントグレース大聖堂」は、3000坪もの広大な敷地に荘厳なゴシック様式の大聖堂とガーデン付きの貸切邸宅3軒を完備した結婚式場。19世紀に英国教会で実際に使われていたステンドグラスを備える大聖堂での挙式後は、名古屋最大級の規模を誇る大階段で映画のようなフラワーシャワーを楽しめます。異なる個性を持つ3軒の貸切邸宅では、専属シェフが心を込めて作ったコース料理やすべての人を笑顔で包み込むウェディングケーキでゲストの心に残る最高のおもてなしを実現可能です。組数限定の完全貸切空間なので安全・安心「Gracefultime グランピングBBQ~」は2020年10月14日・15日・16日・11月1日・11日・12日・13日・15日・23日・28日・29日に開催。専属のシェフが目の前で調理したできたての料理を楽しみながら、グランピングをテーマにした優雅な空間で特別な時間を過ごせます。BBQのメニューはサーモンカナッペ・バーニャカウダ・ブロシェット・ハーブソーセージ・グリルチキン・じゃがバターコーン・肉巻きおにぎりタコ焼き風の7種類。このほか「海老とアボカドのホイル焼き」などのオプション料理やホールケーキなどのデザートもも注文可能です(要予約)。営業時間はランチ(11時30分・12時・12時30分)とディナー(18時・18時30分・19時)の2部構成。料金はいずれも3980円(消費税・サービス料込み)となっています。※11月1日以降はディナータイムのみ。(画像はプレスリリースより)(画像は株式会社ベストブライダル公式サイトより)【参考】※株式会社ベストブライダル公式サイト
2020年09月20日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。保育の授業である質問をされた、きしもとさん。これを読んでいるあなたにとって『子供』とはなんですか?第9回『ちょっとずつやさしくて、ちょっとずつかなしい。』「子ども」を一言であらわすとなんという言葉を思い浮かべますか?保育の授業でそんな質問をされた。はしの席から一人ずつ「かわいい」とか「純粋」とか答えている中で、ある男が「邪悪」と答えた。その言葉は一際目立っていて、ぼくは「たしかに子どもには邪悪な一面もあるかもしれないな、おもしろい視点だなあ」と感心していた。一方、教壇でその質問をした先生は憤怒していた。憤怒なんて言葉を初めて使ったけれど、大げさではなく噴火する勢いで声を荒げて怒っていた。「子どもに悪の心なんてありません!」と。その男の言葉が宙ぶらりんになっていた。なんで「邪悪」と言ったのか、どんな想いや考えがあるのか聞こうとしないその姿勢はいかがなものかと思ったが、必要以上に怒られている当の本人は言い返すことはなく「そんな変なこと言った?」と困惑していた。どこかに隠れてしまったその男の本心を知りたくて、授業が終わってからどういう意味でその言葉を使ったのかを尋ねた。「子どもって悪気なく嫌なこととかするやん?人叩いたり悪口言ったりさ」と、いまだ怒られたことに納得しない表情で話してくれた。「それ、無邪気ちゃうん」と尋ねると「あ、それやわ!」と合点がいったようだった。まわりが子どものキラキラしている姿ばかりを言っている中でその視点を提起したのは素晴らしいなという尊敬の気持ちと、どんな言い間違いしてんねんアホやなという気持ちが入り混じり、「じぶん邪悪やな」と返すと、どう受け取ったかわからないけれど「ほんまや、邪悪やわー」と笑っていた。子どもの言葉と向き合うときに「子どもの言動をどこまで注意したらいいかわからない」という相談を受けることがある。小学生にもなると、どこで覚えたのか耳を塞ぎたくなるような暴言を、たとえば「しね」とか「ころすぞ」とか言うような言葉を軽はずみに使うようになる。そんな言葉を子どもから聞くと、ヒヤリとする。純粋無垢だったはずのその子が、悪に染まっていくようで不安になる。純粋なまま育ってほしい一心でその言葉を禁止したり、その言葉を使ったその子を咎めたりしてしまうけれど、子どもが本当に殺意を持ってその言葉を使っているのかと言えばきっと大体がそうではない。「きらい!」であるとか「むかつく!」であるとか、関西人の使う「あほか!」くらいの軽いノリの時もあるのかもしれない。どこで覚えたのかと書いたけれど、思い当たる節はいくつもある。テレビやネット動画だけでなく、日常で大人も使っていたりする。それこそ軽いノリで。自分の思いを言葉にしようとしたというよりは、まだ語彙の少ない中で相手を攻撃したり、自分のイライラする感情を表す言葉として、どこかで見聞きしたその乱暴な言葉を使うこともあるだろう。ぼくはそんなとき、自分が嫌だなって思ったことなら、それをそのまま伝えるようにしている。子どもの育ちのために、とか躾のためにとかは考えず、ひとりの人としてどう感じたかをそのまま伝える。言われたことが嫌だったなら、「傷ついたよ」と伝えればいい。誰かを傷つけるようなことをしていたら「見ていて気分が悪いよ」と自分の気持ちを話せばいい。必要以上に断罪はしない。表現の方法を間違えているだけだから、その言葉を肯定はしなくても否定もしない。否定したり禁止するということは、その子の感情に蓋をするということかもしれないからね。整理できない思いがあるのならそれを使わないようにするのではなく、その思いを表す言葉を知ることや、その感情との向き合い方を知ることの方が必要だろう。あわせて、その言葉の本心を理解しようとしてくれる存在と、受け止めてもらう経験も。それでもやっぱり根っこの感情が本当に「殺したい」のであれば「死ね」という言葉で正しいんだろうし、もしそうならば、その言葉を他人が否定することはできない。僕たち大人も自分の思いや感情を普段からちゃんと言葉にしているだろうか。そう考えたら、できていることの方が少ない気がする。「仕事いきたくなーい」ってよくいうけど、みんなは言わないかもしれないけど僕は言うんだけど、本当に仕事に行きたくないかといえば実はそうではなく「もうちょっとゆっくり寝たーい」とか「のんびり映画見てすごしたーい」とかだったりする。「細かい雑務がめんどくさーい」とか「あの上司と顔合わせたくなーい」とかかもしれないし、言葉にできなくてなんとなく言っていることだってきっとある。その感情をそのまま言葉にするのって実は難しくって、複雑に絡み合った感情を何か言葉にしたくて目の前のことにそのまま表出したりする。自分の感情をうまく言葉にできないだけでなく、自分の感情自体を正確に理解することもままならないときもある。子どもに「あっちいって!」とか「きらい!」とか「死ね!」と理不尽に言われたときに、本当はチクっと傷ついているのに、どうしてか怒ってしまったり。そもそも、感情を正確に言葉にすることなんかできるのかな。なんだかルンルンしている気持ちを「楽しい」という言葉にするから「楽しい」になる。そもそもルンルンってなんの音かわからないけれど、楽しいという言葉よりもルンルンの方が伝わることもあるかもしれない。もやもやしている気持ちを「悔しい」とか「むかつく」とかいう言葉にするからその感情が形になる。どの言葉にするのか適切な言葉をまだ知らないから、その感情からまっすぐ「死ね」とか「きらい」いう過激な言葉になるんじゃないか。その「死ね」や「きらい」は、「悲しい」かもしれないし「寂しい」かも「痛い」かも「虚しい」かもしれないし、「もやもや」とか「いらいら」とかかもしれないし、この世界の言葉にはない感情なのかもしれない。そんなときに、あなたはそんなこと言う子じゃないって言われたら、そんな思いを持つことはいけないことだって否定されてその思いに蓋をされたら、ぎゅーっと苦しくなる。それはきっと大人も同じだ。たとえばなにかお願い事をされたときにも、大人だから付き合ってあげないとって思わなくても、自分がそれをしたくないのなら断ってもいいのだ。ぼくは仕事だから子どもにお願いされたらよほど無理なことじゃなければ断らないようにしているけれど、仕事じゃないならその断る理由が「疲れた」とか「めんどくさい」でも悪いことではないと思う。ただ、そのときに「断られることも覚えないと」だとか「思い通りにいかないときの折り合いの付け方を学ぶ」とか、その子の育ちのためになりそうな理由を探しそうになるんだけれど、それは必要はない。むしろ、「相手のため」という言い訳は本質を隠すし、本心でもない。自分を守るために相手を引き合いに出す必要はない。相手のためではなく、自分のために自分を守ればいい。「いまは私が使っているから貸したくない」「疲れているから応えられない」ときちんと伝えればいい。「それはやめてね」「傷つくからね」そうやって伝えるだけでいいんだと思う。それでその子のなにかが育つとか考えるのは少し傲慢なんだ。意見の表明をして相手はそれを受け止めた。できる限り自分の本心に近い部分を伝えて、できる限り相手の本心に近い部分を受け取る努力をした。ただそのやりとりが人と人との関係なんだと思う。優しい人だねと言われたら、「そうなのかな」と思うと同時に、期待に応えようと思う。強い人だねと言われたら、弱音を吐いてはいけないような気がする。本が好きだもんね、勉強好きだもんね、優しいもんね、子どもが好きだもんね。その言葉に励まされることもあるし、道を踏み外しそうになるのを踏みとどまらせてくれることもある。けれど、その言葉が呪いとなることもきっとあるんだろう。期待に応えたいという思いとあわせて「そうある自分に価値がある」と思ってしまっていたりもする。言いかえればそれは、期待を裏切らないように、価値がないと思われないように、ということ。自分の役割に徹していると、自分の気持ちが疎かになる。そんな自分の気持ちをなおざりにしていることに気づいていなかったりもする。大人だから、子どもの言うことには傷ついたりしない。親だから、めんどくさいこともきちんとやる。長男だから下の子に優しくする。上司だから、部下だから…それぞれの立場でそれぞれの役割を演じるために、ときに頑張りすぎたりする。それってやっぱりしんどい。だから、優しくない自分もいて良いんじゃないかな。頑張れない自分も、意地悪な自分も、ネガティブな自分も、期待を裏切る自分も。「相手はどんな言葉を望んでいるんだろう」それを考えることはきっと優しさなんだけれど、本当の思いを伝えることでお互いが救われることもきっとある。それは、自分を大切にするということでも、相手を大切にすると言うことでもあるよね。子どもも同じだ。ぼくたちが抱く「子どもは純粋であってほしい」とか「子どもに邪悪なところなんてない」という期待が、子どもも大人もおいつめてしまう。自分にどんな役割があったとしても、自分がしたくないことやできないことは「したくない」と言っていい。それは、自分もひとりの人間であるという、自分が自分であるということ。命を危険に晒すとか突き放すのでなければ、相手を故意に傷つけたりするのでなければ、大人も子どもも一人の人間だ。子どもに対してだけでなく家族にでも友人にでも職場でもそうなんだと思う。当たり前にそれを我慢する必要はない。そんなこと言ったらできる人にしわ寄せがいくとか、みんなわがままになってしまう、と言われるかもしれない。「それはしたくないな、嫌だな」と思っても、それを伝えても、結局はやらなきゃいけないことはある。けど、だからって黙ってなきゃいけないとは思わない。部屋の掃除をしたくないし、洗い物がめんどくさい。だからって「掃除めんどくさーい!やりたくなーい!」と言っちゃダメかといえばそんなことないはずなんだよ。いい大人なんだから掃除するの当たり前でしょう。文句なんか言わずにやれよ。なんて言わないでほしいし、自分が自分をそうやって追い込むのももうやめたい。「めんどくさいよね、明日にしよっか」「まあでもやろっか」「だれかにたのもっか」でいいんじゃないかな。絶対に手を抜けない消毒とかもさ、やるのが当たり前でしょうではなく「めんどくさいよね、けどやらなきゃね」って自分で自分を慰めながらやってる。伝えることって立場によってはとても勇気のいることだから、言えないことが悪いことだということではなくて、自分を大切にするために、自分を追い込む必要なんてないってこと。近しい人に話したり、帰って独り言でも、SNSに吐いてもいい。「ほんとは嫌だったんだよね」「悲しかったんだよね」「むかつくんだよね」とほんとの気持ちを言葉にするだけで、自分の気持ちを大切にできるような気がする。その言葉が少し乱暴でもいいのかもしれない。もしかしたら相手も自分の感情を正確に言葉にはできていなくて、悲しませるつもりはなくて、まっすぐ正確に言葉にすれば関係が良くなることだってきっとあるんだろう。もちろんそんな簡単なことではなくて悪化することだってあるけどね。自分が誰かのその心の言葉を聞いたときに、「なら代わりにぼくがやりますね」って言うかもしれないし、「キツイですよね」って共感するだけかもしれない。けれど「あなたはこうなんだから」「あなたの役割なんだから」「あなたが言ったんだから」って、その思い自体を批判して突き放さなしたりしないように気をつけていたいなと思う。自分の思いや価値観は、人を叩くためのものではなく自分を守るためのものだ。そうやって考えるだけで、少なくとも自分の言葉で誰かが傷つくことはあっても攻撃するという事は減るのかもしれない。僕の文章も、誰かの心に突き刺さる言葉としてではなく、そこらに生えている草花を眺めるような、たまに気になったら摘むような、そんな感覚で読んでもらえていたら嬉しいなと思う。余談ですが子どものころ、たまに会いに来てくれるじいちゃんは、いつもアンパンを買ってきた。ぼくの2つ上の兄の好物だったからだ。じいちゃんがアンパンを買ってくるたびに、ぼくの中でアンパン好きの兄ちゃんというイメージが確立されていき、兄のなかでも「自分はアンパンが好きだ」という意識が強化されているようだった。兄の喜ぶ姿を見てじいちゃんは「やっぱり好きなんだな」と満足げにまたアンパンを買ってきた。そのままいけば相当なアンパン好きになるんだろうと期待できたが、意外にもそうはならなかった。ある日当たり前のようにアンパンを取ってあげたら、「おれ、あんまりアンパン好きちゃうかも」と遠慮気味に兄は言ったのだ。「自分は本当にアンパンが好きなのか、君はアンパンが好きだねと周りに言われるからそんな気がしていたのか、本当は好きじゃないんじゃないか」そんな葛藤があったかは知らない。自分が本当に好きなのはアンパンではなくアンパンが好きな自分なんじゃないかなんて悩む姿を想像すると微笑ましいけれど、当時の幼いぼくはなにか不安な気持ちになった。たしかに好きだったはずなのに飽きてしまったんだろうか、もともと好きじゃなかったんだろうか、じいちゃんはどんな気持ちになるんだろうかと、誰も悪くないのに、寂しいような切ないような言葉にできない気持ちになっていた。その事実がじいちゃんの耳に入ったのかはわからない。そのあとじいちゃんが変わらずアンパンを買ってきていたか、買ってこなくなったのかも覚えてないくらい曖昧な記憶だ。けれどたまに、嬉しそうにアンパンを買ってきたじいちゃんと、突如アンパンに別れを告げた兄を思い出す。みんなが優しいのになぜか悲しい。なんだか少し切ないけれど、誰かひとりがしんどいではなく、みんなが優しいからみんなが少しずつ悲しいのなら、そのほうがいいのかもしれない。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2020年09月13日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。ふとした瞬間、大人は子供から『気付き』を得ることも。きしもとさんは、子供たちと触れ合っていろいろなことを学んだといいます。第8回『とけたアイスは 冷たいジュースに。』子どもが折り紙をしていた。何を作っているのか聞けば「まだわからん。折ってたらなんかできるかなと思って」と返ってきた。折り紙というのは完成形があってそれに向けて折るものだと思っていた。「なんかできるかな」と当てもなく折って楽しむのか。自由でいいなと思った。同時に、野暮なこと聞いたなとも思った。子どもの活動を深めようとしてかけた言葉が逆に邪魔しているような気がして、言い訳するように「いいね、何ができるか楽しみやね」と返した。しばらくしてから「ほらな、適当にやったらなんかできる思ったら、やっぱなんかできたわ」と出来上がったものを見せてくれた。たしかに適当に折ったとは思えない、それっぽいものができていて感心した。なんだろう?ヨットのようにも見えるしリボンのようにも見えるな…と正解を探しそうになって慌てて「ほんまや、すごいなあ。適当にやったらなんかできるんやな」とその子の言葉をそのまま借りて、本心を伝えた。隣で見ていた子が「それなに?」と尋ねた。やっぱり気になるよね、と耳をそばだてていると、その子は「なんか!」と答えた。なんだ、なんでもない「なんか」だったのか。ああ、やっぱり僕の想像なんか飛び越えてて素敵だなとあらためて思った。折り紙や工作をしていると、その作ったものでごっこ遊びが始まったりする。お店屋さんをしたり、学校ごっこをしたり。そのごっこ遊びが発展するとそれを広げるためにまた、例えばお金だったりバッグだったり、さらに新しいものを制作していく。小学生にもなってごっこ遊びというと「幼稚っぽい」と心配されるけれど、意外とそんなことはない。子どもの発達や育ちに大きく関係していて、社会性や創造性を育む重要で質の高いあそびだ。学童で過ごす時間は短いため、あそびが盛り上がり始めたタイミングで帰る時間になることがある。そんなときには、次の日に続きをする。しなかったりもする。ある年、2、3年生の子たちがやっていたごっこ遊びが半年ほど続いた。学童にある本を並べて本屋を開いたり自分たちで本を作ったり、絵を描いたりそれをお面にして売ったり、折り紙やイラストを並べてお店屋さんごっこをすることもあれば、レジ自体を作って遊ぶ日もあった。その日その日で、やりたいことや思いついたあそびをして、次第に周りを巻き込んでいく。関係ないあそびをしている男子たちが、手を止めて色紙で作られたバッグを持ってお店屋さんで買い物をする。そんな不思議な風景が見られるようになっていった。ある子が、そのごっこ遊びをそのまま生かして夏祭りをすると言い出した。日程を決めてポスターを貼り、ダンボールで作ったモグラ叩きや輪投げを制作して、景品も折り紙などで大量に作った。僕はといえば、手出し無用とばかりに買い出しリストを渡されて、仕入れ担当に任命された。たまにお面の色ぬりをさせてもらって褒めてもらった。当日は大盛況だった。普段ごっこ遊びに興味がない子でもノリノリで楽しんでいた。お店に並んでいる子が「楽しみすぎてばくはつしそう!」と笑顔を爆発させていた。「ポイントカードはお持ちですか?」と聞かれて、接客応対まで本物みたいだなと感心しながら「持っていません」と答えると「ではお作りしておきますね」と、お洒落なカードを渡された。素晴らしい接客。僕がパン屋の店長だったらバイトに引き抜いているところだ。面白いのが、みんながみんな接客をしたがるわけではなくて、裏で景品を制作したりゲームの仕込みをしている子たちもいたこと。こんなこと言ったらまじめに働いている人に怒られそうだけれど、考えてみれば僕たちが生活している社会も、それぞれの役割になりきっていろんな役を演じている、ある意味ごっこ遊びみたいなものだよな、なんてことを考えたりしていた。あそびがこま切れにならずに地続きであることや、発展して周りを巻き込んでいくことは保育の一つの理想だ。といってもなかなかそんなに上手くはいかず、それは大人の都合の時もあれば移り気な子どもの気分によるところもある。無理に続けさせるようなことはしないから、自然とこんな風に行事に発展したのはすごいと思ったし、次の年に子どもたちが「今年も夏祭りしよう!」と言い出して、下の代に受け継がれながら毎年の恒例になったことも、なにか成功しているように感じた。そうすると、どのあそびもなにか成果の見えるものに向けてされるべきなんじゃないか、と期待してしまうようになる。ゴールに向かってやらないと意味のないような気がする。子どもたちが意味のわからないあそび(あくまで僕には意味のわからないという意味)をしているのを眺めながら、どこに向かって行くんだろう。と考えていた。どこに向かうにしても楽しそうだなあと思った。あれ?どこかに向かわなければいけないんだっけ?と考えた。そもそもあの夏祭りが完成形なんだろうか?夏祭りがゴールで、そこに向かうまでの活動は「準備期間」なんだろうか。きっとそうじゃないよね、と思い直した。はじめの折り紙でもう完成しているんだ。その日その時に夢中になっているその瞬間が、どこに向かっているでもないけれど、そのいまで完成している。それがどんどん広がって形を変えていく。あの夏祭りは、その日々がたまたま積み重なって、たまたま目に見えるものになっただけだった。未完成のものを完成に近づけようとすると足りないピースを埋めることを考えてしまうけれど、もう完成しているものが形を変えて育っていくと思うと、その時その時の姿を大切にできるような気がする。夏祭りが恒例となった何年目かの夏、進捗を尋ねると「まだ全然準備できてへんねん、へへへ」と笑っていた。それはサボっていたのではなく、いま楽しいことに忙しいのだろう。自分にできないことは、足りていないのではない同僚から「仕事できる人を見て、自分は全然できていないなって思うんです」と相談を受けた。その「仕事できる人」といわれている職員も、同じようなことを言っていたのを僕は知っている。隣の芝を見て羨ましがるというよりも、引け目を感じることのほうが多いらしい。あの人にできていることを自分はできていない。自分には持っていないものを持っている人を見ると、それが正しい姿のように感じて自分ができていないように思ってしまう。もともといる自分に足りてないものがあるような、例えるならパズルのピースが一つ欠けているような気がしてしまう。あの人は持っているけれど自分は持っていない。できていない。そんなことを思い始めたら、いろんな人と自分を比較して、パズルにはどんどん虫食いが増えていく。子どもを見る時もそうだ。ついついできないところに目がいって、足りないように感じて、それを埋めることや隠すことに必死になる。それが成長や教育と呼ばれたりもする。それってとてもしんどいことだよね。だからね、少し見方を変えようと思う。もともと完成していて、なにか特別にできることはトッピングみたいなものなんだと。仕事が早い、コンピュータに強い、英語が話せるとか足が速いとか。いや、特別にできることだけではないかもしれない。言葉を喋れるとか、歩けるとか、もっと当たり前だと思っている、耳が聞こえるとか目が見えるとかもそうかもしれない。うまくできるようになって完成するのではない。もう完成している。何かできることは特別なことで、それができないからといってダメなのではない。仕事が早い人を見て、「自分はなんで仕事が遅いんだろう」ではなくて、あの人は特別な力を持っているのだと思うようにする。誰かの得意を自分ができないからと言って、それは自分の「苦手なこと」ではないのだと。ただその人の得意なのだと。自己肯定感って、できる自分を誇れることでも、できない自分を認めることでもなく、今の自分の姿をそのまま肯定できることだ。難しいけれど、それができるようになりたい。あの人はなんでできないんだろう、と思ってしまう時も、「あいつ出来ないな」ではなくて、自分やるやんって思えたら。自分が当たり前にできていることでも自分が少し特別なのかもしれないと思えたら、自分も相手もしんどくないよね。今までの時代は、みんなができて当たり前だった。同じことを同じように。だから、できないことを欠点と呼んでいた。けれど、これからの時代は「みんなができなくて当たり前」でいい。みんなができなくて当たり前というのはできない状態が普通だということ。そしてそれぞれの「できること」は優れていることではなく、その人の一部として認めていく。みんなができて当たり前のことなんてないんだって知ると、できている人を見て同じようにできていない自分に引け目を感じることは少なくなるんじゃないかな。ぼくはあまり何かに挑戦したことはない。就活も受験勉強もほとんどしてこなかった。だから、何かに向けて必死になることも何かに失敗して絶望することも、それをしてきた人と比べて経験が浅いと思う。それでも、こんな未来のはずじゃなかったのになって思うことはある。失敗とまではいかなくても、思っていた未来とは違っていると、やっぱり落ち込む。その先に見ていた世界が見られないことはやっぱり悲しい。あるかもしれないと思っていた道がないことを知ると、みんなは進んでいるのに自分には進めないのかと、希望を持っていた自分は大した人間じゃないんだと思ったりする。「けれど、今の目の前のことは何も変わっていないじゃない」と友人が言った。挑戦して失敗したとしても、思っていた未来にならなくても、いま十分生きていて幸せで、それはなにも失くならないじゃないかと。たしかに、これから期待する未来がこなくても、いま大事にしてるものや幸せであることは変わらない。挑戦して失敗しても、減りはしないのかもしれない。ならなおさら、いま充たされていることが、なにかになるための、どこかに向かうための大きな礎となるのだろう。余談ですが子どもがアイロンビーズを作っていた。なにを作っているのか気になって見ていると、それを察したのか「イヌ作ってるねん」と教えてくれた。しばらくして完成したものを見せてくれた。「イヌ、かわいく作れたやん」と伝えると「ネコやで」と返された。あれ?イヌって言ってなかったっけ?と思っていると「イヌ作ってたけどネコみたいになったから、ネコにしてん」と教えてくれた。自由で素敵だなと思った。そんな風に生きていけたらいいな、とネコになったイヌを見て思う。目指したり憧れていた人生でなくても、思いもしない生き方になっても、「イヌを目指してたけどネコもいいかなって思ってん」と生きていけたら。そうやって生きていけるように子どもたちを受けとめられたら。「これ、あげるわ」と、さっきのネコと同じサイズのアイロンビーズを手渡された。ぼくが異動で会わなくなるから餞別らしい。ピンクの顔に耳が生えていて目と鼻が色を変えてつけられている。ウサギだな、と思っていたら「ウサギを作っててんけど、ブタみたいになったからブタやで」と、面白いのか照れてるのかわからない笑顔で教えてくれた。「ウサギに見えるよ」とは言わなかった。ウサギのつもりがブタになった。それを知ったらなんだか、そのピンクのブタが急に愛らしく見えてきた。先日、6歳の友人と出かけた時に、暑かったので自販機でアイスを買った。17種類ある中からソーダ味のシャーベットを選んだ。吸って食べるタイプのやつだ。はじめのうちは固くて出てこないからと絞り出すようお願いされた。しばらくしたら暑さでとけてほとんど液体になっていた。「溶けちゃったね」と言うと、「溶かしてジュースになるのが美味しいねん」と言っていた。アイスを食べてるつもりだったのに途中からジュースを飲んでいた。ぼくはなぜだか、ブタになったウサギのことを思い出した。空になった容器をゴミ箱に捨てるよう促すと、「こんなにきれいなのに捨てちゃうの?」と悲しい顔をした。ぼくが笑っていると、容器にキスをしてゴミ箱に勢いよく放り込んだ。意味がわからないけどおかしくって、ぼくはきっとずっと忘れないだろうなと思った。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2020年08月15日【RHUBARBE(ルバーブ)】フレンチ【ROASTER(ロースター)】イタリアン【鶏とおとうふ福福】和食【和食・酒亭 神田さくま】和食【ローマ三丁目 大名古屋ビルヂング店】イタリアン【RHUBARBE(ルバーブ)】フレンチガレットやビストロ料理が味わえる、カジュアルレストランオープンテーブルもある広い店内は、落ち着いたおしゃれな空間名古屋駅から徒歩3分、大名古屋ビルヂング内にあるカジュアルフレンチのレストラン。本場フランスのガレットやクレープ、ビストロ料理などを、オープンカフェスタイルで楽しめます。開放的な広い店内は、フランスの街中のカフェにいるかのような気分に浸れます。『そば粉のガレット サラダ付き』1,200円0サラダはスープ、または自家製田舎風パテに変更可能(+500円)ランチタイムのメニューはガレットがメイン。フランスのブルターニュ地方発祥のそば粉を使ったガレットは、ヘルシーで女性におすすめです。また、ガレットやサラダに使う野菜も身体に優しいものを中心に選んでいるので、健康志向の方にぴったりのヘルシーなランチが楽しめます。RHUBARBE【エリア】名駅【ジャンル】フレンチ【ランチ平均予算】2000円【ディナー平均予算】4000円【アクセス】名古屋駅 徒歩3分【ROASTER(ロースター)】イタリアン五感を刺激する炭火焼きダイニングで、上質な食のひとときを非日常を味わうことができるスタイリッシュな空間で、優雅なひとときが過ごせます駅から徒歩1分、名古屋駅のランドマーク「ミッドランド スクエア」にある炭火焼ダイニングの【ROASTER】。地場の食材を中心に、良質な素材を炭火焼でシンプルに味わうことができます。店内は石や木目など自然の素材を生かした、観葉植物が並ぶくつろぎのスペースです。炭火が素材の旨みを最大限に引き出す『選べるメイン料理 スタンダードランチ』 1,580円ランチメニューの『選べるメイン料理 スタンダードランチ』は、本日のスープとサラダ、本日のお魚料理又はお肉料理、天然酵母パン、コーヒーまたは、ほうじ茶がセットに。カウンター席では、臨場感満点の“炎と香り”のパフォーマンスが楽しめます。ROASTER【エリア】名駅【ジャンル】イタリアン【ランチ平均予算】1000円【ディナー平均予算】6000円【アクセス】名古屋駅 徒歩1分【鶏とおとうふ福福】和食完全個室でこだわりの鶏料理と手づくり豆腐が味わえる全席個室の店内は、明るい木目調で温かな雰囲気名古屋駅から徒歩8分のところにある、鶏料理とヘルシーな手づくり豆腐が味わえる和食店【鶏とおとうふ福福】。店内はふすまで仕切られていて、全席が完全個室なので周りを気にせずプライベートな空間で食事ができます。掘りごたつ式で足を伸ばせるのも嬉しいポイントです。お豆富、赤だし、香の物がセットになった『三河地鶏 親子丼』950円ランチは平日、休日で内容が変わります。平日は三河地鶏を使用した御膳や丼が楽しめ、『三河地鶏 親子丼』はお豆富、赤だし、香の物がセットになったメニュー。休日限定のランチメニューは、『鶏ひつまぶし御膳』や平日より少しリッチな『福ぶく御膳(松)』が選べます。また、平日休日問わず『ランチ会席』もあるのでお昼の接待や会食、顔合わせにもおすすめです。ランチはお弁当のテイクアウトもおこなっています。鶏とおとうふ福福【エリア】名駅【ジャンル】和食【ランチ平均予算】1000円【ディナー平均予算】6000円【アクセス】名古屋駅 徒歩8分【和食・酒亭 神田さくま】和食愛知近海や全国直送の、鮮度にこだわった魚介料理人気の座敷は風景が見える開放的な空間。落ち着いた雰囲気の完全個室も完備名古屋駅から徒歩3分、大名古屋ビルヂング内にある和食店【神田さくま】。愛知近海でとれたおいしい鮮魚や、選りすぐりの日本酒が堪能できます。大人の雰囲気が漂う落ち着いた店内空間に、旬の素材をいかした多彩な料理が華を添え、贅沢な時間を過ごせます。たくさんの料理を少しずつ楽しめる、数量限定『おばんざいセット』 1,380円魚介は愛知・日間賀島から水揚げされたばかりのものや、全国の漁師や漁港から直送の鮮度にこだわった刺身を提供しています。数量限定のランチ『おばんざいセット』は、色々なお料理を少しずつ味わえる贅沢なセット。茶碗蒸し、ご飯、留椀、香の物付きで、昼間からリッチな気分が味わえます。和食・酒亭 神田さくま【エリア】名駅【ジャンル】和食【ランチ平均予算】1300円【ディナー平均予算】6000円【アクセス】名古屋駅 徒歩3分【ローマ三丁目 大名古屋ビルヂング店】イタリアン本場の空気感で旅行気分が味わえるイタリアンバールイタリアを感じさせるスタイリッシュな空間名古屋駅から徒歩3分、大名古屋ビルヂング内にあるイタリアンバルの【ローマ三丁目】。イタリア各地から集めた生ハムやサラミ、ブラックアンガス牛を用いた肉料理など、本場さながらのイタリアンが味わえます。店内は、赤い壁にシャンデリアが飾られたおしゃれなスペースと、白の木目のカジュアルなスペースの2つで構成されています。有機野菜のサラダとバケット付き『日間賀島 蛸とじゃが芋のオイルソースバジルを練り込んだ生パスタ タリアテッレ』 1,380円有機野菜から厳選食材まで、丁寧な下処理や調理をしたイタリアンが楽しめます。平日限定の選べるパスタランチは、有機野菜のサラダとバケット付き。『日間賀島 蛸とじゃが芋のオイルソースバジルを練り込んだ生パスタ タリアテッレ』は、蛸とじゃが芋、バジルのトリプルマッチ。ドライトマトがアクセントになった一皿です。ローマ三丁目 大名古屋ビルヂング店【エリア】名駅【ジャンル】イタリアン【ランチ平均予算】1300円【ディナー平均予算】4000円【アクセス】名古屋駅 徒歩3分
2020年07月29日佐藤二朗と斎藤工、圧倒的個性を放つ2人の俳優が、独自の文化を育ててきた名古屋の楽しみ、さらに名古屋でドラマにも挑戦…見どころ満載の「佐藤二朗と斎藤工の名古屋でやりたい放題~グルメも人もクセ強すぎSP~」が5月23日(土)オンエアされる。大学卒業後会社員として就職するも初日で退職。その後俳優を目指し演劇活動を続け、様々な作品に出演するなかで「勇者ヨシヒコ」シリーズや「スーパーサラリーマン左江内氏」、人気コミックを実写化した『銀魂』『斉木楠雄のΨ難』などの福田雄一監督作で、個性的なキャラが開花。大きな注目を集める一方「シロでもクロでもない世界で、パンダは笑う。」などのシリアスな演技でもその実力を発揮する佐藤さん。幼少期から映画に親しみ、モデルから芸能界に足を踏み入れ、『SPACE BATTLESHIP ヤマト』や「花ざかりの君たちへ~イケメン☆パラダイス~2011」「最上の命医」シリーズに出演。実績を積み上げていくなかで昼ドラ「昼顔~平日午後3時の恋人たち~」で人気に火がつき、「BG~身辺警護人~」、大河ドラマ「いだてん」などのドラマや『シン・ゴジラ』『Diner ダイナー』などの映画まで幅広く活躍する斎藤さん。そんな個性派俳優の2人が名古屋の地へ。新幹線を途中下車してまで味わう県外客が続出しているという、10日間かけて煮込む味噌おでんの老舗や、ホットとアイスが両方出てくるコーヒースタイルに驚く名古屋名物モーニングに、ディープスポット・大須では謎の100円珍品を発見。高級住宅街の喫茶店ではありえないスパゲティに驚愕し、名古屋の新名物(!?)夏に食べたくなる○○麺など、名古屋の街を堪能。最後には佐藤さんと斎藤さんによる名古屋の魅力がたっぷり詰まったコメディドラマにも挑戦する。実写化不可能と思われた超人気コミックをドラマ化した「浦安鉄筋家族」で主演を務め、強すぎる原作のキャラを見事に吸収昇華して演じ、多くの視聴者に改めてその実力を知らしめた佐藤さん。来年2021年には庵野秀明、樋口真嗣ら『シン・ゴジラ』スタッフが再集結、日本を代表するヒーローを改めて映像化する『シン・ウルトラマン』に主演することが決定している斎藤さん。“おうち”で2人と名古屋旅が楽しめる「佐藤二朗と斎藤工の名古屋でやりたい放題~グルメも人もクセ強すぎSP~」は5月23日(土)16時~テレビ東京でオンエア。(笠緒)
2020年05月23日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。第5回は、きしもとさんが人それぞれ異なる子育ての価値観について考えます。第5回『知らないからこそ、間違うからこそ。』年度の変わり目、一年が過ぎようとしているこの時期にようやく気づく子どもの姿がある。3月の初め、ある高学年の男の子と公園で遊んでいるのを見て「楽しそうですね」と同僚から声をかけられた。その子を見ると、いつにない笑顔ではしゃいでいた。「いつにない?」本当かなとふと思った。自分が気づけていなかっただけでいつもこんな風に楽しんでいたんじゃないか。高学年の男の子たちは、大人にはあまり依存せず自分たちの世界であそびを楽しんでいる。家でゲームをしたり公園で同年代の子達と遊ぶ方が楽しいんじゃないかと感じることもある。もちろん一緒に遊ぶことはあるけれど、低学年のようにずっとくっついてくるようなことはほとんどない。すると、自然とこちらから声をかけるのが、危険なことやよくないことをしたときに偏ってしまう。楽しんでいる中で「注意してくる人」とだけ認識されたら、話もまともに聞いてくれない。危険なことなら聞いてもらわないといけないから遠慮なく伝えるのだけれど、ふてくされた態度や反論があるとこちらもつい強い語調になってしまう。そんなやりとりが多い男の子だった。あんなに毎日会っていて、この楽しそうにしている姿にぼくはどれだけ目を向けていたのだろう、と思った。全然見れていなかったかもしれないな、と。荒い口調で怒ってしまったり否定するような言い方をしたりした、思い出したくない記憶が蘇り、後悔した。「もう少し優しく接したらよかったなあ」と同僚にこぼすと、「まだありますよ、接する時間」と返された。うんそうだよなと思った。あと一ヶ月、できなかったことを嘆くにはまだ早い。いまからでもできることをしよう、と気持ちを立て直した。子どもとの関わりや子育てについての発信をしていると、共感してくれる人や参考にしてくれる方たちがたくさんいる。ありがたいことに、すごいねと言ってもらえることもある。けれど、その度に自分はそんな人間じゃないんだと逃げだしたくなる。「よく綺麗事が言えるよね、そんな清廉潔白な人間じゃないだろう。今までの失敗が無かったことにはならないぞ」ともう一人の自分が責めてくる。「あの人は間違っている」というような誰かを批判する言葉を聞くと、他人事ではなくその言葉はそのまま自分にも突き刺さる。浅はかな偏見で人を差別したことや傷つけたことがある。保育でも、強い言い方をしたり怒鳴ったり、言うことを聞かせようとしたり、そういった「適切ではない関わり」をしたことがある。体罰を与えて大怪我を負わせたことはなくても、そうなっていたかもしれない状況はいくらでもあったと思う。思い出すだけでこの仕事から離れたくなる。ぼくが今どんな人間になっていても、そのときのその人の傷はきっとそのままだ。なかったことにはできない。たまたまなのだ、いま何もない顔をして保育を語れているのは。当たり前のように子どもたちと毎日関わることができているのは。ぼくの知っているそれと、違うものたちぼくが育った家庭は、父がお茶をくれと言えば母はお茶を淹れる。返事をする母は、どちらかといえば嫌そうな顔をしているので、それはそれで嫌だろうから自分で淹れれば良いものを、父は半ば意地のように自分では淹れない。それについての是非は語れないし語るつもりもない。それは本人たちにしか分かり得ない二人だけの関係だ。ただそういう環境で育ったということは、ぼくも「それがふつう」という感覚を少なからず持っているということだ。良いとか悪いとかではなく、そこから自分の偏見が生まれていたりする。そう自覚しだしたのは成人してからだった。友人の母親が好きな歌手のライブに一人で行くというのを聞いて、不思議に思った。「母親が夜一人であそびにいくの?」と否定的な感情を僅かながら持った。恥ずかいしいことに、その時のぼくはまだ未熟で思慮が浅く世間知らずだった。なにも変なことじゃないのに、自分の知っているそれと違うというだけで違和感を感じてしまったのだ。保育や保護者支援について学んでいたし、実習にも行っていたけれど、自分の偏見や世の中の当たり前と向き合う機会はあまり持たなかったのだろう。ぼくの実家のおでんにはニンジンが入っている。小学校の頃に他の家ではニンジンが入っていないことに衝撃を受けた。そして、大人になってからタケノコのおでんを食べてさらなる衝撃を受けた。自分の経験がすべてで、それが当たり前だと思い込んでしまう。食事は手作りで手間をかければかけるほどよくて、共働き家庭もあるけれど父親が養って母親は家にいるのが普通で、子どもには両親がいて、休日は家族と過ごして、おでんにはニンジンが入っていて。なんとなくそれが当たり前だと思っていた。けれど、こういった「自分の当たり前」って、いろんなことを見て考察して考え抜いた先に見つけた揺るぎない価値観とか考え方ではなく、ただ「ぼくが知っているそれ」ってだけなんだよね。だから、そんな中で感じる他人の「間違い」は「ぼくが知っているそれではない」というだけなんだ。それは、偏見にまみれたものに限らず逆も然りなんだろう。ジェンダー意識が高くて多様性を尊重する環境で育ったとしても、そうでない人を見て「あの人は間違っている」と感じてしまうなら。「自分の知っているそれではない」という、ただそれだけの感覚が偏見となり、気づかぬうちに誰かを追い込んでしまっていたりする。だから、自分の当たり前で人を潰してしまわないように、人の当たり前で自分が潰れてしまわないように気をつけていたいと思うのだ。いろんな方法を、いろんな人がいることを、いろんな考えがあることを、完璧じゃなくていいことを、自分が知らないことがたくさんあることを、まず知ることができたら。多くのことを知るたびに知らないことがどんどん増えて、自分が知っていることは米びつの中にある米粒一粒くらいなのだと知れたら、きっと他の米粒を見て簡単に批判はできなくなる。当たり前だと思っているものに潰されそうになった時に、実はそれは当たり前ではないのかもしれないと知れたら、少し気持ちが楽になる。もし間違っていると感じる言説に触れて許せなかったり、自分は間違ってばかりだと感じて落ち込みそうになったら、「まだ知らないのだ」と思えたらいいな。その人がまだ知らないのかも知れないし、自分がまだ知らないのかもしれない。それは、卑下するという意味ではなくて。「タコは食べものではない」と言う人に「タコを食べないなんておかしい!」なんて怒ったりしないように。ただ、文化が違うのかな、食べたことないのかな、おいしさを知らないだけなんだろうなと思うように。そこでもし、食べてみてほしいなって思ったら、あなたは間違っていますよ、とはきっと言わずに「タコパしようよ」って誘うよねきっと。他のもの入れても美味しいから、一回やってみて気が向いたらタコ焼き食べてみようよって。あ、おでんにしても美味しいよね。生まれたばかりの、まだ価値観とも呼べない感覚を正面から否定されたら、自分の全てを否定されたと感じて防御反応としてその「なんとなくの価値観」に固執してしまうんじゃないかな。いろんなものを見て考えて価値観を作り上げていくのはやめて、自分が「間違い」にならないように「ぼくが知っているそれ」を正解にするための答えを探していくんじゃないのかな。そうなったらきっと、永久に考えが変わることはないんだろう。だから、批判をするなら丁寧にしたい。なんのために、どこに向いてそれを批判するのかをちゃんと考えたい。それは、いい人でありたいからではなく、間違っている自分と、これから間違うかも知れない自分のために。もし「許せない」と思いそうになったら、タコパに誘ってみれたらいいなと思う。いまの自分が10年前のぼくを思い出してそう思うように、これを書いている現在の自分もまた10年後の自分から見たら未熟で、やはり気づかぬうちに自分の当たり前で誰かを傷つけたり追い詰めてしまったりしているのだと思う。自分がもともとどんな人間かを気にしてしまったらもう人生を諦めてしまいそうになる。だから、どんな人間でありたいか、そのために今から何ができるのかを考えることにする。子どもたちを大切にできる保育者でありたいし、みんながしんどくないようになればいいなと思っている。うまくできなくても、その思いは本当なんだ。自分がした言動を変えることはできないけれど、だからこそ何度も間違う自分とともに、埋まることはない穴を自己満足で埋めることはなく、愚直にユーモラスに、できることを重ねていきたいな。いい親でいることはできないかもしれない。いい保育者であることはできないかもしれない。けれど、それでもいいじゃないか。完璧にできないし、100点を取ることはできないけれど、その時その時に最善だと思うほうを選んでいければ。その方法をみんなで出し合えたら。その中から選ぶのは、自分を追い詰めるためのものではなく、追い込んでしまう自分を救うためのものであればいいなと思う。余談ですが冒頭の話から一ヶ月経った3月の末のある日の夕方、公園から学童に戻るときにその子が「まだ遊びたい」と伝えてきた。幸い人手があったので小一時間その子と走り回った。二人で遊ぶこと自体はそんなに楽しくないはずなのに、ゲラゲラと笑っていた。「帰りの匂いがするわ」公園を出た時に、その子がふと呟いた。わかるような、わからないような、けれどその子のそのままの言葉なんだろうな、ああ、いいなあと素直に思った。意味を聞くのは野暮だとわかっていながらも、やっぱりどうしても聞きたくなって尋ねてみた。「終わったなあー寂しいなあーけどまあ明日も学童あるしなあって感じの匂いやな」と返ってきた。ぼくの目に写っているのは生意気なその子ではなく、今日を思いきり楽しんで明日に期待して充たされているような、そんな顔だった。「まだありますよ、その子と接する時間」一ヶ月前に同僚からかけられた言葉を思い出した。穴は埋まっていないかもしれないけれど、救われた気がした。ふいになにかが溢れ出しそうになり、それがこぼれないように、その「帰りの匂い」を思いきり鼻から吸いこんだ。「金曜日の夕方と日曜日の夕方、どっちが好き?」と続けるその子に、そりゃあ金曜の夕方やな。とだけ答えた。君たちのおかげで日曜の夕方が憂鬱になることはほとんどないけどね。【コラム第1回】子育てで『正解』に苦しめられたら保育者が大切にしたいこと【きしもとたかひろ連載コラム】【コラム第2回】子供を注意して「しまった!」保育者が気を付けていることは…【きしもとたかひろ連載コラム】【コラム第3回】「ヘタだからやらない」という子供その理由に考えさせられる【きしもとたかひろ連載コラム】【コラム第4回】子育ての『手抜き』で大切なこと「手を抜いてもいい」ではなく…【きしもとたかひろ連載コラム】[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2020年04月16日本年度の名古屋シティマラソンは、場所の制限なくどこからでも参加できる「オンライン名古屋シティマラソン」として実施される。名古屋シティマラソンはナゴヤドームをスタート地点に、白川公園フィニッシュのハーフマラソン、パロマ瑞穂スタジアムフィニッシュのクオーターマラソン、ナゴヤドーム敷地内の特設コースを走るチャレンジランが予定されていた。今年は新型コロナウイルスによる感染症(COVID-19)の拡大・感染を防ぐため、オンラインマラソンとして実施する。参加者は専用スマートフォンアプリを使用し、実際の距離を走る。なお、今回実施するオンラインマラソンは、名古屋ウィメンズマラソン2020一般の部および、名古屋シティマラソン2020にエントリーしたランナーのみが参加できる。オンライン名古屋シティマラソン
2020年03月07日中部地区最大の自動車イベント“第21回名古屋モーターショー”が21日(木)から24日(日)まで、ポートメッセなごやで開催される。本イベントは名古屋高速道路が開通した1979年に吹上ホールで第1回が開催されて以降、中部エリアの自動愛好家に愛され続ける巨大イベント。2年に1度開催されており、今回で21回目を迎える。会場には、国内外の参考出品車(コンセプトカー)や最新市販車が展示され、自動車関連装置やサービス、カスタムカーなどのメーカーもブースをかまえる。来場者は試乗会に参加したり、未来の自動車について情報収集したり、様々なジャンルから集まった豪華ゲストが登壇するトークショーを楽しむことができる。また会場内ではタミヤRCカーフェスティバルや、地元の有名和洋菓子店が集結するナゴヤスイーツサーキット、第7回「全国高校生コマ大戦」名古屋モーターショー場所、小さな子どもたちが遊べるキッズランドも開催。高校生以下は入場無料で、家族そろって楽しめる内容になっている。なお、前回に続いて、SKE48の松井珠理奈がアンバサダー(広報大使)を務めており、公式サイトでは就任メッセージ動画が掲載されている。第21回名古屋モーターショー11月21日(木)から24日(日)までポートメッセなごや(名古屋市国際展示場)当日券:1700円高校生以下は無料
2019年11月21日ビームス(BEAMS)は、「大名古屋展」を、2019年7月20日(土)からビームス 名古屋、東京・新宿のビームス ジャパン、ビームス ニューズの3店舗にて開催する。「大名古屋展」では、ビームスと名古屋の地元企業・事業者がタッグを組み、コラボレーションアイテムを通じて名古屋の魅力を紹介。さらに、自動車メーカー・トヨタとコラボレーションし、名古屋のおすすめアドレスが揃う名古屋ガイドや、名古屋巡りが楽しくなるコラムを収録したフリーペーパーも配布する。コラボレーションアイテムとして登場するのはユニセックスのTシャツなど。東海地方のご当地調味料「献立いろいろみそ」で知られる食品メーカー・イチビキの「みそ」をグラフィックで表現したTシャツや、「クッピーラムネ」のポロシャツ、スジャータのイメージキャラクターである「スジャータ坊や」を配したTシャツなどを用意する。「スジャータ坊や」Tシャツは、遊び心に溢れたレトロな「ターャジス」ロゴのバックプリントにも注目だ。さらに、「名古屋グランパス」をフィーチャーしたTシャツや、マスコットキャラクター「グランパスくん」初のソフビ人形、名古屋城の金のシャチホコをオマージュした「まねき金鯱」、英語、中国語、韓国語など、9ヶ国語の苗字をスタンプにした「シヤチハタ 万国Shachihata」など、名古屋発のユニークなアイテムを揃える。また、「大名古屋展」に連動したイベントとして、名古屋グランパス主催の「鯱の大祭典」も7月20日(土)から8月30日(金)まで開催。ビームスデザインのユニフォームを着用して名古屋グランパスが試合を行い、一部試合日程の来場者には、レプリカユニフォームが配布される。その他、ビームス ビューズを除く2店舗では特別企画を実施する。ビームス ジャパンでは名古屋の市章「八」にちなんで先着88名に「名古屋ソフト」を無料配布。ビームス 名古屋では、商品購入者を対象に「クッピーラムネ」のつかみ取りを行うほか、イチビキ「献立いろいろみそ ミニパック150g」の無料配布、イチビキ「献立いろいろみそ」と三ツ山猫ストアのコラボコッペパン無料配布などを実施する。【詳細】大名古屋展期間/場所:・2019年7月20日(土)〜8月12日(月・祝) / ビームス 名古屋(愛知県名古屋市中区栄3-29-1 名古屋パルコ南館1F)・7月20日(土)〜9月3日(火) / ビームス ジャパン(東京都新宿区新宿3-32-6)・7月20日(土)〜7月31日(水) / ビームス ニューズ(東京都渋谷区千駄ヶ谷5-24-55 ニュウマン 2F エキナカ)・7月20日(土)~9月3日(火) / BEAMS公式オンラインショップ■商品例 ※ウェアはユニセックス・イチビキ Tシャツ 3,500円+税・クッピーラムネ ポロシャツ 4,800円+税・スジャータ 「スジャータ坊や」Tシャツ 4,500円+税・グランパスくん 各4,500円+税 ※ビームス 名古屋、公式オンラインショップにて5月13日(火)14:00~予約受付開始。・グランパスくん × ドアラ × 大名古屋展 Tシャツ 3,500円+税・大人のクッピーラムネ ピュア 30連 550円+税■鯱の大祭典開催期間:7月20日(土)〜8月30日(金)ビームスデザインのユニフォーム着用試合:・7月20日(土) vs ガンバ大阪 @豊田スタジアム・8月10日(土) vs 川崎フロンターレ @豊田スタジアム・8月24日(土) vs 横浜F・マリノス @パロマ瑞穂スタジアム・8月30日(金) vs FC東京 @パロマ瑞穂スタジアム※7月20日(土)、8月24日(土)の試合では来場者へレプリカユニフォームを配布■特別企画・ビームス ジャパン開催日:7月19日(金)内容:名古屋の市章「八」にちなんで先着88名に「名古屋ソフト」を無料配布・ビームス 名古屋開催日:7月21日(日)内容:「クッピーラムネ」のつかみ取り(商品購入者のみ)、イチビキ「献立いろいろみそ ミニパック150g」の無料配布、イチビキ「献立いろいろみそ」と三ツ山猫ストアのコラボコッペパン無料配布、「グランパスくん」グリーティング(実施詳細は特設ページを確認)、名古屋グランパス 秋山選手1日店長(実施詳細は特設ページを確認)
2019年05月16日「ビニール・ミュージアム(VINYL MUSEUM)」が、名古屋・大阪で開催。名古屋会場は、三井ショッピングパーク ららぽーと名古屋みなとアクルスにて、2019年3月9日(土)から28日(木)まで。大阪会場は、大阪のMBS本社ビル1Fにて、3月16日(土)から4月7日(日)までとなっている。「ビニール・ミュージアム」は、“インスタ映え”する写真を撮ることだけを目的としたアート展。カラフルな壁や大量のヒヨコが入ったプールなど、普段体験できないフォトジェニックな空間が広がる。これまで銀座・表参道など、都内のみの開催だったが、今回待望の東海・関西地方への進出が実現した。2会場での展示には、お花見やイースターといった、春らしいパステルカラーやカラフルなモチーフをメインとした10のブースと5つのウォールを用意。大人から子供まで楽しめるファンタジックな空間で、自分だけの1枚を残してみて。【詳細】ビニール・ミュージアム■名古屋開催期間:2019年3月9日(土)~28日(木)開催場所:三井ショッピングパーク ららぽーと名古屋みなとアクルス1Fセンターコート住所:愛知県名古屋市港区港明2丁目3番2号■大阪開催期間:3月16日(土)~4月7日(日)時間:11:00~21:00(50分入替制・各回定員50名)開催場所:MBS(毎日放送)本社ビル1F「ちゃやまちプラザ」住所:大阪府大阪市北区茶屋町17番1号入場料:前売券 1,500円 当日券 1,800円【チケット情報】■大阪チケット販売日:2019年1月16日(水)販売場所:・ローソンチケット Lコード:54443・イベントレジスト ※前売券・当日券ともに、上記プレイガイドより購入可能※会場でも当日券を販売(支払いは現金のみ)
2018年11月16日こんにちは。料理研究家の越野美樹です。暑かったりジメジメしたり、お天気が不安定だとご飯が喉を通らなくなってくるお子さんもいますよね。今日はあっさり食べられる「きしめんトマトソース」をご紹介します。きしめんはうどんの一種で、平たい麺が特徴です。ひらめん、ひもかわなどとも呼ばれています。うどんよりも薄いのでゆで時間が短く、つるつるの食感が楽しめます。きしめんは、めんつゆで温かくしていただいたり、ザルきしめんなどにするのが一般的ですが、今回はあっさりトマトソースと合わせてみました。フェトチーネやタリアテッレ、リングイネなどの平打ちパスタのように、トマトソースとの相性も抜群です。和麺であるきしめんには、おみそを隠し味に加えたトマトソースがぴったり。つるつるっと喉越しが良く、いくらでも食べられそうです。きしめんはあっという間にゆでられるので、ゆでている間にパパッとトマトソースが作れちゃいます。子どもの好きなえびとコーン入りで、パクパク、つるつる、あっという間になくなってしまいますよ。■きしめんトマトソース調理時間 15分レシピ制作:藤野料理教室にじ 越野美樹<材料>2人分きしめん 200gオリーブオイル 適量えび 6尾とうもろこし 50gトマト缶 300gみそ 大さじ1 <作り方>1、鍋にたっぷりの湯を沸かし、きしめんを袋の表示通りの時間ゆでる。2、フライパンを中火に熱してオリーブオイルを加え、海老の表面を焼き、トマト缶をつぶしながら入れる。3、海老の色が変わったらみそを加え、1のきしめんととうもろこしを加える。海老のだしがきいていて、みそときしめんの相性もぴったり! 肌寒い日にはゆでたきしめんをトマトソースの入ったフライパンで温めて。日差しが強く暑い日にはトマトソースをあらかじめ冷やしておき、ゆでたきしめんを和えて冷製パスタ風にいただくのがオススメです。路地のトマトが出まわって来たら、フレッシュトマトでもどうぞ。きしめんが手に入らなければ、もちろん普通のうどんでも同じように作れますよ。■「きしめんトマトソース」のアレンジ例パパッと作れる「きしめんトマトソース」。休日のランチ用でたっぷり作って、夜にリメイクも楽しめます。●アレンジ例 「きしめんトマトソース」のラザニア「きしめんトマトソース」を耐熱皿に入れ、チーズをのせてオーブンで焼けばトマトマカロニグラタンのできあがり! トマトとみそがより濃厚になって、食べ応えがありますよ。「きしめんトマトソース」の間にミートソースをはさめば、さらにボリュームアップ! 人気の一品になること、間違いなしです。「きしめんトマトソース」のトマトソースを倍量で作れば、スープパスタのようにも楽しめます。また、「きしめんトマトソース」に溶いた卵を加えてフライパンで焼けば、オープンオムレツのできあがり!「きしめんトマトソース」のリメイク料理、楽しんでみてくださいね。休日のランチや、急なお客様のおもてなし料理に、すぐに仕上がる「きしめんトマトソース」をレパートリーに入れておけば、心強いですね。これからトマトの味がのってくる季節、リピ間違いなしです。
2018年06月13日駅前の再開発や名古屋城前の横丁オープンなど新しい話題が事欠かない名古屋。そんな名古屋というと、あんかけスパゲッティや味噌カツなど独創的なメニューで知られていますが、和菓子もユニークなものが続々登場しています。今回は新幹線に乗る前に駅ナカで買える、プチプラな和スイーツを3つ選んでみました♪アイスキャンディみたいなかわいいルックス♪《ウイロバー》名古屋銘菓のういろうの老舗〔大須ういろ〕。米粉とお砂糖で作られる、モチモチとした食感が特徴的なお菓子です。《ウイロバー》は従来の伝統的なパッケージデザインとは一線を画したクラフト紙の箱につめられた、見た目がまるでアイスキャンディーのようなういろうです。さくら、ないろ、まっちゃ、くろ、しろの5つのフレーバーでういろう独特のもっちりしっとりした食感はそのまま。食べるのがもったいないようなかわいさですが軽くつまむのにちょうどよい大きさなので、甘い物が苦手な人も買って帰りやすいのでは。名古屋めし「小倉トースト」を気軽に自宅で♪《小倉バター》独特な名古屋めしのひとつとして知られる小倉あんをトーストにのせた「小倉トースト」。豪華な名古屋流モーニングを味わうと、提供されるお店も多いので口にしたことがある人も多いのでは?そんな名古屋名物の小倉トーストを自宅でも食べられるスプレッドが〔コジマジャム〕の《小倉バター》です。餡をパンに塗っただけでは出せない、ご当地の味を持ち帰って再現できる便利なアイテム。まだ小倉トーストを食べたことがない人へもお土産として渡してもよさそうです。パンに塗って食べる以外にも、そのまま食べたりアイスにのせて食べるのもおすすめ。自分なりの楽しみ方を見つけてみてください。ベーシック派には、地元の英雄をプリントしたえびせんを♪エッジのきいた名古屋土産ではなく、万人受けするお土産ものならば、定番のえびせんはいかがでしょう。〔桂新堂〕の《名古屋三英傑海老武将》は、香ばしいえびせんべいに名古屋城のしゃちほこや織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑のかわいい似顔絵をプリント。小さい子どものみならず、歴史ファンなら大喜びすること間違いなしの一品です。いかがでしたか?SNS映えするものから、デイリーに使いたいもの、安心の定番のアレンジ商品まで、いろいろご紹介してみました。次の旅行や帰省のおみやげの参考にしてみてくださいね♪
2018年04月27日ポムポムプリンとぐでたまのコラボレーションメニューが、ポムポムプリンカフェ 名古屋店にて2018年2018年4月17日(火)より提供される。サンリオの人気キャラクター“ポムポムプリン”と、やる気のないたまごのキャラクター“ぐでたま”。人気者同士のコラボレーションはこれまでも行われてきたが、今回のコラボレーションでは、名古屋ならではのユニークなスイーツを提供する。注目は、ここでしか味わえない「ぐでたま&ポムポムプリン IN お城」。抹茶のパンケーキを3段に重ね、もなかを乗せることでお城に見立てたケーキに、ホイップクリームとフルーツをデコレーションした、迫力満点&食べ応え十分のひと品だ。そこには、お城の見物にやってきたマンゴーシャーベットの“ぐでたま”とバニラアイスの“プリンくん”の姿も。また、“ぐでたま”が戦国武将に変身した「やだー出陣~!ぐで天丼」も名古屋店限定でラインナップ。海老のてんぷらと、もなかの兜をかぶった黄色いライスの“ぐでたま”が嫌々出陣して行くというコンセプトで作られた本メニューは、7種類の具材のてんぷらが乗ったボリューム満点の仕上がりだ。その他、大阪「ぐでたまかふぇ」の人気メニューの一部や、ポムポムプリンカフェのメニューも提供される。【詳細】ポムポムプリン×ぐでたまコラボメニュー販売スタート日:2018年4月17日(火)提供場所:名古屋市中区栄3-32-6 ビーカム栄 2F営業時間:11:00~20:00(飲食 L.O. 19:30)(ドリンク L.O. 19:30)TEL:052-249-8320■メニュー例・ぐでたま&ポムポムプリン IN お城 1,290円+税・やだー出陣~!ぐで天丼 1,390円+税(名古屋店限定)・マウンテン!ローストビーフ丼 1,290円+税・ぱぁ~んなコッタ(マンゴー&ベリー) 850円+税・ピカピカまぶし~ぐでんきゅうソーダ(ブルーハワイ・マンゴー・いちご) 850円+税・どえりゃあ絶品!名古屋ご当地!ポムポムプリンのひつまぶし(名古屋限定) 1,590円+税・ポムポムプリンのまろやかビーフストロガノフ 990円+税・ポムポムプリンのチョコバナナパフェ 990円+税・マカロンのベリーグッド♡なヨーグルトシェイクドリンク 990円+税
2018年04月15日「Organic & Natural Marche」in名古屋2018年4月18日(水)から4月30日(月)の間、名古屋の星が丘テラス HACOにて「Organic & Natural Marche」が開催されます。同イベントは、有機野菜の宅配サービス「ビオ・マルシェの宅配」を運営する、株式会社ビオ・マーケットが主催するもの。ビオ・マルシェが提携する契約農家のオーガニック野菜をはじめ、加工食品、有機調味料、話題の発酵食品など、自慢の品々が集結します。コンシェルジュに相談しようイベント開催中は、オーガニック食品の専門家とも言えるビオ・マルシェのコンシェルジュが常駐。豊富な知識を元に、ヘルシーオーガニックライフを提案してくれます。「オーガニック食品に興味はあるけど、何からはじめたらいいのか分からない」という方は、この機会に相談してみてはいかがでしょうか。(画像はプレスリリースより)【参考】※株式会社ビオ・マーケットのプレスリリース
2018年04月11日