●イジメられていた時代に感じた“お笑いの力”『さんまのお笑い向上委員会』や『水曜日のダウンタウン』などで強い存在感を示しているお笑い芸人・チャンス大城。そんな彼の半生を綴った自伝『僕の心臓は右にある』が発売された。学生時代の壮絶なイジメからNSC(吉本総合芸能学院)入学、さらに芸人になってからの数奇な出会いが綴られた本書を読むと「人生はなにがあるか分からない」と言いたくなるほどドラマチックだ。いまや街でも多くの人に声を掛けられるようになったという大城だが、自身のなかでの変化をどのように感じているのだろうか。○■間寛平、ダウンタウン、さんまのラジオが心の支えに大城の出身は兵庫県・尼崎。引っ込み思案で人と話せなかったという大城は、幼少期からイジメられていたという。そんななか、間寛平やダウンタウン、明石家さんまのラジオが心の支えになっていた。なかでもダウンタウンの松本人志が話していた「面白い奴はイジメられない」という言葉は大城少年の心に強く残っていた。「ずっと人前でしゃべれない人間だったので、自分でも暗い奴だと思っていたんです。でも小学校5年のときにF1カーのモノマネをしたら、友達が笑ってくれて。担任の先生も『お楽しみ会などでやってみて』なんて言ってくれて、一瞬人気者になったんです」。それでも中学生になると、周囲にはいわゆる不良と呼ばれる人間が多く“お笑い”を封印していたという大城。そしてまたイジメに合い、暗黒の時代がやってきたという。そんななか大きな転機が訪れたのが、中学2年生のとき。「ダウンタウンさんが司会を務める『4時ですよーだ』という番組のなかに素人が一発芸をやるようなコーナーがあったんです。そこでF1のモノマネをして優勝したんです。そこでいろいろな人に声を掛けてもらったり、不良に呼ばれて『ギャグやってくれ』って言われたりして、イジメが減ったんですよね。そこで松本さんが言っていた『面白い奴はイジメられない』というのを再認識できた気がしました」。○■死ぬまでの時間稼ぎ的な感覚で過ごしていた売れない時代そこからお笑いの力を信じ、中学生ながらNCS大阪校に8期生として入学。千原兄弟やFUJIWARAらの同期となるが中退。その後も紆余曲折しながら芸人として活動を続けるが、まったくと言っていいほど目が出なかった。「途中事務所にも入れなくて、まったく売れる気配すらなかったんです。こんな言い方するものどうかと思いますが、死ぬまでの時間稼ぎ的な感覚で過ごしていました。テレビなどメディアには出られない。でもインディーズファンっているもので、まったくお金になりませんでしたが、その人たちを笑わすことだけが生きる目的みたいな感じでした」。それでも飲みに行ったりすると、つい自分の生い立ちを面白おかしく話してしまう。どうしても誰かを笑わせたいという衝動に駆られる日々だった。「どんなに食べられなくても、やっぱり好きなんでしょうね。僕はいま47歳ですが、普通ある程度の年齢になれば、居酒屋をやったり、なにか違うことをすると思うんです。でも僕は正直、中学生のときとまったく変わっていない。悪く言えば成長していない。僕はおつむが弱いので、いまどきの人みたいにYouTubeをやったりとかもできない。もう人を笑わせたいという思いしかないんです」。●全国放送で知名度アップ! 風呂&冷暖房付きの生活に○■お酒で大失敗! そこからさらに芸人道にまい進純粋な思いを抱きながらも、なかなか目が出ない芸人人生。大きな転機となったのが2017年に出演した千原兄弟が定期的に行っているトークイベント「チハラトーク」への出演だ。「もともとNSC8期生の同期という繋がりがあったのですが、2013年にある芸人さんのきっかけで、千原せいじさんにお会いする機会がありました。そのとき僕の『オッヒョッヒョ』というギャグを覚えていてくれたんです。そこでせいじさんの居酒屋で働かせていただくようになったことから、縁が繋がって……。そこで『チハラトーク』に出させていただいたことで、その後『人志松本のすべらない話』や『とんねるずのみなさんのおかげでした』の“細かすぎて伝わらないモノマネ選手権”に出られることになりました」。どちらもしっかりと結果を残し、“チャンス大城”の名前は徐々に浸透していく。しかし『人志松本のすべらない話』で、大城はお酒による失敗をしてしまった。「打ち上げで大酒を飲んでしまい、松本さんに絡んだりして、やらかしてしましました。もう本当にすべてが終わったと思うぐらい。これまでどんなことがあっても辞めなかったお笑いを辞めようと思いました。松本さんに失礼なことをしたのはもちろんですが、『すべらない話』に僕を推薦してくれた千原兄弟の顔にも泥を塗ってしまったので。もう全員に謝りました。まあ暴力とか暴言とかではなかったので、皆さんとても寛大だったのですが、そのときお酒はやめよう、絶対お笑いを頑張ろうと誓ったんです」。○■風呂&冷暖房付きの部屋に喜び「それだけでうれしかった」お酒を断ち、住んでいた家を出て改心した。そして誰かの役に立とうという思いで「吸殻拾い」を毎日行った。「毎日欠かさず吸殻拾いを続けていくなか、ある日空に向かって『吸殻拾い続けるので、ちょっと仕事をいただけませんか?』とお願いしてみたんです。すると千原せいじさんから『さんまのお笑い向上委員会』に出てみたらと紹介していただいたんです。そこからさんまさんにも少しずつ呼んでいただけるようになって……」。2018年当時、風呂なしアパートに住んでいたという大城。現在は風呂と冷暖房がついた部屋に引っ越すことができたという。「もうそれだけでうれしかった。クーラーのある部屋に住めるようになったのは、ここ2年ぐらいなので。夏にクーラーのなか、高校野球を見ながら寝るというのが僕の憧れだったので」。街でも声を掛けられることが増えたという大城。しかし「お金持ちになりたい」や「良い車に乗りたい」など、ある意味で俗っぽい夢は一切ないという。「レギュラーがあるわけでもないですし、来月仕事がゼロになる可能性だってある。努力を怠ったらどうなるか分からない世界。まあ長くこの世界でやっているので、自分のポジションというのは分かっているつもり。限りなく素人に近い芸風なので、そんな大層な生活なんて望んでいません(笑)」。●すべてが不思議な縁で繋がっている人生○■さんま、ダウンタウン、千原兄弟を笑わせることが目標ある意味で欲がないように感じられる大城。彼の芸人としてのモチベーションはなんなのだろうか――。「僕にとって恩人である千原兄弟さん、さらに素人のときからの憧れであるダウンタウンさんや明石家さんまさん、いまこのお三方とお仕事をご一緒しているということが、自分でも信じられないことなんです。そんな方々を僕のギャグで笑わせることができたら……こんなに幸せなことはないですし、大きな目標です。まあ『水曜日のダウンタウン』は笑かしているというよりはドッキリ仕掛けられているだけですが(笑)」。『水曜日のダウンタウン』のリアクション一つをとっても、これまでの大城の経験は大いに役に立っているという。「まあ雑草魂ではないですが、僕がイジメられていた学生時代の経験が、いろいろなところで活きていると思います。もし尼崎でイジメられた青春時代ではなく、田園調布などで平々凡々に暮らしていたら、こうはなっていなかった。その意味で、昔の自分を肯定できるというのはお笑いという仕事の素晴らしさなのかなとも思うんです」。イジメにより、お笑いのラジオが拠り所になっていた幼少期。素人として出た番組でダウンタウンと出会い、さらにNSCに入学したことで、千原兄弟とも接点ができた。そのときはまったく先に繋がらなかった事象だが、俯瞰でものを観ると、すべてがいまの大城に繋がっている。「本当にそう考えると人生って不思議ですよね。中学生のときNSCに入ったときは、挫折して辞めてしまいましたが、それがなければせいじさんに後々声を掛けてもらえることもなかったと思うと、梅田花月に行ってNSCの募集を見たときから、すべてが始まっていたんだなと思います」。○■映画化するなら――理想のキャスティング像を明かす■チャンス大城本名は大城文章。1975年1月22日生まれ、兵庫県尼崎市出身。1989年、中学3年で大阪NSCに入るが退所し、定時制高校に通う。1994年、再び大阪NSCに入るも、また退所。上京後、地下芸人時代を経て、2018年3月よりデビュー時に所属していた吉本興業に復帰。座右の銘は「おまえ、その執念、忘れるなよ」。
2022年08月08日「やった……。なんとか……ヒマラヤ、自分の足で立ちましたぁ」息も絶え絶えになったイモトアヤコは、その瞬間の表情を視聴者に届けるべく、顔全体を覆っていた酸素マスクをかなぐり捨てた――。現在も高視聴率を誇る人気番組『世界の果てまでイッテQ!』(日本テレビ系)が、’13年秋に敢行したヒマラヤ山脈のマナスル登山(登頂まで約1カ月間。標高8,000メートル)のクライマックスシーンである。折しも登山ブームが盛り上がっていた時期。『イッテQ!』のすさまじい挑戦に、多くの人が山の驚異と魅力にふれた。「イモトさんは、ほんとうによくがんばったと思います。挑戦を前に、日本でしっかりトレーニングを積んできていたんですね」5年前の当時を懐かしそうに振り返るのは、チームドクターとして同行した大城和恵さん(51)だ。「私は、歩くスピードや水分調整、酸素ボンベの残量チェックなどでケアをしました。登頂を成し遂げたときはうれしかったですね」大城さんは、世界中の名峰を登ってきた国際山岳医である。札幌市にある勤務先の北海道大野記念病院を訪ねるまで、記者は“日に焼けた山男のような女性”を勝手にイメージしていたが、まるで違った。紺色の医療用スクラブに白衣を羽織って現れた大城さんは、身長153センチほど。人なつこい笑顔を絶やさない。「撮影には白衣を着ていたほうが、それらしくていいですか」と気遣ってくれ、すぐに周りをほんわかと和ませる。毎年夏の3週間は、富士山の8合目にある「富士山衛生センター」に勤務しているという。「登山初心者がほとんどの富士山では、1日に20人くらいが具合を悪くして訪ねてきます。白衣姿で外に出て、目の前を通る登山家たちに高山病や脱水症、低体温症の怖さを伝えることも。山岳医療は、予防してナンボですから(笑)」大城さんが登山そのものを意識したのは、31歳のとき。選んだのはアフリカの最高峰、キリマンジャロ(標高5,895メートル)だった。高山病の危険もあるこの登山の経験が、その後の大城さんの生き方を決めた。「登頂まで7日がかりでしたが、4,700メートルあたりで息が苦しくなって、トイレにもゆっくりしか行けないんです。自分の脈を取ろうとしても、なかなか見つからない。高所で起きる自分の体の変化が興味深かったですね。とくに、酸素が薄いとどれだけつらいかを痛感しました」当時、日本大学医学部附属板橋病院・第一内科に所属していた大城さんは、慢性呼吸不全の患者を診ることがあった。「肺の悪かったあの患者さんは、いつもこんなしんどい生活を送っているのか、と理解できた気がしました。患者さんのなかには診察時に着替えがゆっくりとしかできない人もいる。医師によっては『遅い』とペン先をコツコツさせていたけど、あのイライラは患者さんの身になっていないよな、とか」キリマンジャロに登頂したときの晴れやかな充実感は忘れられない。そしてこみ上げてきた感動も。「それは、5,000メートルという標高でも人間は生きていけるんだということ。厳しい環境の変化にも、体は順応していくんですね。人間の能力はスゴいなと。これは新鮮な発見でした」大城さんは、目を輝かせながら語る。生きることそのものを、実感しているようだった。キリマンジャロ登山後、まとまった休みがあれば、海外の山にも出かけるようになった。35歳のとき、日大板橋病院を辞め、現在の勤務先である北海道大野記念病院(当時の名称は、心臓血管センター北海道大野病院)に就職。山岳医療にのめり込むきっかけは、ネパールの標高4,500メートルをトレッキングしていたときのことだ。意識が朦朧としていた日本人と出会い、診察すると高山病と脱水症にかかっていた。「私の持っていた水を飲ませ、努力呼吸(意識的な深い呼吸)をさせることで血中の酸素レベルは回復しました。無事に下山したと知ったときは安心しましたが、でも私は、自分の対応に自信が持てなかったんです。それが本当に嫌で、山岳医療について本格的に勉強しました」41歳のときのことだ。大城さんは、山岳医療について系統立てて学べる国際認定山岳医の資格講座を知り、迷わず申し込む。しかし、ハードルは高かった。なにしろ当時の日本に講座はなく、英語でのプログラムが受けられるのはイギリスだけ。季節ごとに1年をかけて4回、各1週間行われ、山岳医療についての講義だけでなく、高い登山技術が求められる実習もあった。合間に国内外でトレーニングするため、なんと大城さんは大野記念病院を退職してしまった。ほかの病院で泊まり込みのアルバイトをしながら、受講料と旅費を捻出。「お金がなくて、電気代が残るかどうか、という1年でした」かくして’10年、大城さんは日本人初の国際山岳医になった。さっそく無料のウェブサイト「山岳医療情報」を開設し、’11年には大野記念病院に非常勤医師として戻り、これも日本で初めての「登山外来」を設立。山岳での3大死因――外傷、心臓突然死、低体温症を未然に防ぐために、登山者に健康・安全のためのアドバイスや指導を始める。そんな大城さんに、登山家でプロスキーヤーの三浦雄一郎さん(86)から連絡が入ったのは’12年春のこと。翌年4月に、80歳という世界最高齢のエベレスト登頂に挑むので、チームドクターとして同行してほしいというのだ。「さっそくお会いして診察したんですけど、当時の三浦さんは高血圧症、脂質異常症、狭心症、不整脈、白内障。身長164センチに体重85キロと、筋肉質だけど体重オーバー気味で、高所では心筋梗塞や脳梗塞のリスクが高まることが考えられました。ただ、不整脈はいわば善玉で、登山を断念するようなものではなかったんですね。それに『人間の可能性を1ミリでも押し上げたい』『世の中の高齢者に夢と希望を与えたい』という登山にかける情熱がすごかった」大城さんはチームに帯同することを決めた。そして、’13年5月23日、三浦さんは見事、標高8,848メートルのエベレスト登頂に成功。世界最高齢記録を打ち立てる。今年10月30日、三浦さんは新たな挑戦について記者会見を行った。来年1月に、南米最高峰のアコンカグア(6,960メートル)登頂に挑む。チームドクターはもちろん大城さんだ。「最近“恩送り”という言葉を知ったんです。親や先輩から受けた恩を、直接その人に返すのではなく、別の人に送ること。安全で健康な登山のお手伝いをすることが、私の恩送りなんですね」
2018年11月11日登山ブームといわれて久しい。週末になると、若者から高齢者まで自分たちのスタイルで、山を楽しんできた姿を電車などで見かける。山の魅力を知ってほしいからこそ、“山の主治医”は講演などで、初心者にも山の危険性や怖さを教えている。「遭難なんて自分には関係ないと思っている人が少なくないんですね。でも山の高さや登山経験に関係なく、誰にでも起こりうることです。私は、山で助かる命をひとつでも多く救いたいんです」大城和恵さん(51)は、世界中の名峰を登ってきた日本人初の国際山岳医である。札幌市にある勤務先の北海道大野記念病院に日本で初めての「登山外来」を設立。山岳での3大死因――外傷、心臓突然死、低体温症を未然に防ぐために、登山者に健康・安全のためのアドバイスや指導をしている。また、無料のウェブサイト「山岳医療情報」を開設。毎年夏の3週間は、富士山の8合目にある「富士山衛生センター」に勤務しているという。ここ数年、日本ではとりわけ中高年の登山愛好家が急増。そのぶんだけ山岳遭難件数も増えている。昨年の遭難者は3,111人(うち死者・行方不明者354人)。「登山初心者がほとんどの富士山では、1日に20人くらいが具合を悪くして訪ねてきます。白衣姿で外に出て、目の前を通る登山家たちに高山病や脱水症、低体温症の怖さを伝えることも。山岳医療は、予防してナンボですから(笑)」大城さんは、『世界の果てまでイッテQ!』(日本テレビ系)が、’13年秋に敢行したイモトアヤコのヒマラヤ山脈・マナスル登山(登頂まで約1カ月間。標高8,000メートル)にチームドクターとして参加。登山家でプロスキーヤーの三浦雄一郎さん(86)が、’13年5月23日に世界最高齢記録を打ち立てた、標高8,848メートルのエベレスト登頂にも同行した。「イモトさんは、ほんとうによくがんばったと思います。挑戦を前に、日本でしっかりトレーニングを積んできていたんですね。私は、歩くスピードや水分調整、酸素ボンベの残量チェックなどでケアをしました。登頂を成し遂げたときはうれしかったですね」大城さんは、今年5月17日、世界最高峰のエベレスト登頂に挑み、成功した。まったくのプライベートであり、総額700万円の費用の一部は借金しての挑戦だった。ルートは難易度の高い中国・チベット側からだ。「生きていく限界の高所で酸素ボンベをどう使えば、トラブルなく登頂できるか――。治療のためにも、自分の体で試したかった。山頂に立ったときは、とにかくうれしくて。山岳医として、エベレストに登っていないという物足りなさもようやく解消されました。それにエベレストというのは、ちょっとミスをすれば死が待っているんです。生きていることのありがたさを心底感じましたね」1年の3分の1は山に入っているという大城さんは、いつだってエネルギッシュだ。「遭難情報があると、その原因を確かめるために山に行くこともあります」’09年夏に北海道大雪系トムラウシ山で8人の登山者が低体温症で死亡したときも、どのような状況だったかを検証しに現場に行った。「山にいると、どこまでが仕事で、プライベートなのか自分でもわからないんですけどね」自ら危険な山で研さんを積み、今まで誰もできなかった医療を実現する大城さんは“山の主治医”として今日も命を救い続ける。
2018年11月11日