6月20日、日本芸術院賞授賞式に出席された雅子さま。初夏らしい白の装いで、受賞者と懇談された。皇后となられてからの装いを拝見すると、雅子さまは白がお好みのよう。ファッション評論家の石原裕子さんに、雅子さまの白の装いについて伺った。「日本芸術院賞授賞式のお召し物は、トランプ大統領夫妻の歓迎行事でもお召しになっていました。しかし、細やかなところに雅子さまのお心遣いが感じられます。元モデルのメラニア夫人のお迎えでは、アクセサリーを大粒パールのグラデーションネックレスにされるなど、小物でゴージャスさを演出されていますが、芸術院賞授賞式では控えめにされています。お会いになる方によって使い分けられているのです。また、白は最も高貴で皇后らしさを感じる色。“皇后として、身も心も清らかで純粋に”との思いが込められているように感じます」特に、蒸し暑い時期に白をお召しになることが増えた雅子さま。暑さを吹き飛ばす、爽やかな白コーデを振り返ります。【’19年5月27日】トランプ大統領夫妻の歓迎行事。ネックレスは芸術院賞授賞式のときよりもやや長く、豪華な雰囲気。【’19年6月17日】日本学士院賞授賞式にご臨席。ジャケットの襟、袖口にブレードを飾った華やかなセットアップ。お帽子のリボンにもブレードが。【’19年6月21日】ノーカラージャケットの丸襟に美しく沿う、パールのステーションネックレスを。優しい雰囲気の装いで港区の麻布保育園をご訪問。【’19年9月7日】秋田県で全国豊かな海づくり大会の絵画・習字優秀作品をご覧に。襟元や袖口、裾にフリルをあしらった女性的なジャケットで。【’19年9月24日】目黒区の高齢者センターへ。ノーカラーのツイード風ジャケットにややロング丈のフレアスカートを合わせられ、柔らかい印象を演出。【’21年9月6日】赤坂御所から皇居にお引っ越しの際はシャープなカッティングのセットアップを。ブローチとイヤリングはゴールドのものをお使いに。【’22年6月14日】沖縄本土復帰50周年記念特別展「公文書でたどる沖縄の日本復帰」に。パンツスーツに淡い色のスカーフを合わせカジュアルな装い。
2022年07月02日6月23日、幾多の惨劇を生んだ沖縄戦による犠牲者を悼む「慰霊の日」。天皇皇后両陛下と愛子さまは、御所で黙禱された。本土復帰50周年を迎えた沖縄への“祈り”を、天皇ご一家は上皇ご夫妻から受け継がれている。「両陛下は、今年10月に沖縄県で開かれる国民文化祭、全国障害者芸術・文化祭への出席に向けてご準備をされています。しかし、現在も新型コロナウイルスの感染を防ぐため、お出ましには非常に慎重にならざるをえません。愛子さまも、両陛下が感染することを防ぐために、侍医と相談されて、オンラインによる大学通学を続ける決意を固めていらっしゃいます」(宮内庁関係者)しかし、学習院大学に入学されてから27カ月もの長きにわたって、登校を“封印”されている愛子さまを心配する声もーー。「ご入学後に愛子さまがキャンパスを訪れたのは、新入生ガイダンスを受けるために登校された2020年10月24日のみです。一方で両陛下は、6月20日に日本芸術院賞の授賞式に出席するなど、都内へのご公務での外出は再開されています。愛子さまがオンライン授業を受け続けなければならないかといえば、状況は変化しているのです。学業ばかりでなく、さまざまな友人との交流も、大学生活を送る意義のひとつです。とくに、大学卒業後の進路をお考えになるためにも、秋学期以降に登校できる状況になればいいのですが……」(前出・宮内庁関係者)大学3年生にとって、夏休み前の時期は就職活動をスタートさせるタイミングだ。愛子さまの同級生の保護者はこう話す。「3年生でも、すでに企業のインターンに行っている子がいると聞きました。学習院大でも対面の授業に出席する学生が多くなっていて、学生たちは就活について話すことも増えています。愛子さまは登校されていませんが、親友方からSNSなどを通じて、卒業後の仕事についての話をお聞きになっていると思います」親友たちの“就職準備”に触発され、愛子さまも将来の勤務先について、真剣にお考えにーー。ただ、女性皇族にとっての就職先は限られている。「金融系など、利潤を追求する企業は適さないとされています。三笠宮家の瑶子さまは日本赤十字社に、高円宮家の承子さまは日本ユニセフ協会に就職されましたが、いずれも公益性の高い活動に取り組む団体です。また結婚するまで東京大学総合研究博物館に勤めていた小室眞子さんに代表されるように、研究者の道に進まれる方もいらっしゃいます」(前出・宮内庁関係者)■“お手本”は黒田清子さんそんななか、宮内庁関係者の間で、愛子さまの最有力の就職先として浮上しているのが、日本盲導犬協会だという。「日本盲導犬協会は、2009年4月に両陛下もご視察に訪れるなど、皇室との関わりが深い団体です。愛子さまは、学習院でアイメイト(盲導犬)に関するイベントが開かれるたびに参加されていました。会場では寄付され、グッズを購入されていました。そのうえ、天皇ご一家は保護された犬や猫を飼われています。そうした環境からも、愛子さまは動物愛護に強い関心を抱かれていたのです」(皇室担当記者)愛子さまは、今年3月のご成年にあたっての記者会見でも、動物への思いを明かされている。「盲導犬や聴導犬といった働く動物たちにも、学校主催のイベントや、動物についてのフォーラムの折などに触れる機会がございまして、動物好きの私といたしましては、心惹かれるものがございます」“働く内親王”の先駆けとなった叔母の黒田清子さんの存在も、愛子さまは強く意識されているという。皇室ジャーナリストの渡邉みどりさんはこう語る。「清子さんは学習院大学を卒業され、その後は非常勤研究員という形ながらも、山階鳥類研究所に13年間勤められました。皇族としてご公務に臨みながら、給料を得た初めての内親王となった清子さんを、愛子さまは“お手本”にされているのでしょう。清子さんも、盲導犬の育成に関わるチャリティイベントに携わられていました」昨年12月、愛子さまは成年式の正装でお着けになったティアラなどの宝飾品を、清子さんからお借りになった。それは、“天皇の娘”としてのご覚悟を受け継ぐことへの決意表明にほかならないーー。「動物愛護という分野のほかに、愛子さまは福祉分野にも強く関心をお寄せになっています。佳子さまが非常勤嘱託職員としてお勤めになっている全日本ろうあ連盟のような全国的なネットワークを持つ団体なども、就職先の選択肢としてはあると思います」(前出・皇室担当記者)コロナ禍のため、友人たちの就活を御所から眺めざるをえない愛子さま。しかし、すでにお心の内では夢に向かって歩まれている。
2022年06月30日担当者の説明にうなずきながら、沖縄返還にまつわる資料を真剣な表情でご覧になった天皇陛下と雅子さま。お二人が特別展「公文書でたどる沖縄の日本復帰」を鑑賞するために、国立公文書館に行かれたのは6月14日のことだった。雅子さまが同館を訪問されたことに、皇室担当記者は胸をなでおろしたという。「雅子さまの“腰のご不調”が大変心配だったからです。“腰の調子がよくない”という理由で、予定されていたご養蚕行事『初繭搔き』を取りやめられたのは6月8日のことでした。作業には腰をかがめる動作なども必要となりますので、それがご負担だったようです。雅子さまのご体調について、不良な体の部位が明確に公表されるのは大変珍しいことなのです」だが2日後の6月10日、宮内庁担当記者たちからの質問に、侍従次長はこのように答えるばかりだったという。「皇后陛下の腰のお痛みにつきましては、だいぶ落ち着かれたようです。ただ女性の体調に関わるお話ですので、どういった症状であるのかなどは、私のほうからお伺いすることは控えておりますので、詳しくはわかりません」ご不調の原因は明らかにされなかったのだ。さらに1週間後の16日になっても侍従次長は、「(皇后陛下の腰については)完全にお痛みがなくなったわけではないようです」と、コメントを……。前出の皇室担当記者が続ける。「実は4年前、’18年6月にも、当時皇太子妃だった雅子さまの“腰のお痛み”が公表されているのです。当時、東宮大夫は“車での移動をはじめ、立ったり座ったりする際にお痛みを伴う”と、説明していました。医師の診断は『腰椎ねんざ』。しかしこのときも原因は明らかにされず、東宮大夫は『お疲れもたまっていたと思うが、それが直結しているかはわからない』と、語っていました」“原因不明の腰の爆弾”を抱えられている雅子さま。腰や首の不調は、“皇后の職業病”とも言われているという。宮内庁関係者が解説する。「式典などで来賓席に一度座られたら、背筋を伸ばし身じろぎすることもできません。ずっと同じ姿勢を保つことは、腰や首にかなりご負担になっているはずです。また地方にお出かけになり、地元の人々とお話しになる際は、視線を相手に合わせるために、腰をかがめられています。皇后さまは東日本大震災の後に、避難所なども訪問されましたが、いつも床に膝をつけて、被災者と長時間にわたってお話しになっていました。さらに言えば、宮中祭祀も天皇陛下よりご負担が大きいといわれています。天皇陛下の正装は束帯、皇后さまは十二単をお召しになります。皇后さまの『おすべらかし』の御髪(おぐし)は首などに重圧がかかります。美智子さまも70代後半からは、お体への負担を考慮され、欠席されることも増えたのです」皇后になられて4年目、58歳の雅子さま。58歳というご年齢は“皇后の鬼門”なのかもしれない。「美智子さまが精神的なショックの積み重ねから、お倒れになったのが’93年10月、59歳のお誕生日のことでした。その後、しばらく声を出すことができない症状が続きました」(前出・皇室担当記者)■ストレスが腰痛を引き起こすケースも美智子さまが失声症を発症されたのは59歳だったが、58歳当時は被災地ご訪問などの過酷なスケジュールに疲弊し、またご自身への心ないバッシング記事に胸を痛めていらしたという。皇室ジャーナリストの渡邉みどりさんはこう語る。「バッシング報道は、皇室改革を進めてこられた美智子さまへ、保守派の反発が向かったことが原因だったといわれています」美智子さまが58歳といえば、皇后になられて4〜5年目。雅子さまも同様だが、一心不乱に邁進された心身のお疲れが蓄積してきた時期ということなのか。精神科医の香山リカさんは次のように語る。「雅子さまが腰に違和感を覚えられていると伺い、心配しております。実は整形外科の医師から受けたレクチャーによれば、腰の痛みの70%は原因がわからないというのです。さらに、原因不明の方の多くが、心因性によるのではないかとも指摘していました」確かに厚生労働省のHPでも、《ストレスが腰痛を引き起こすメカニズム》について詳細に説明されている。香山さんは、こう続ける。「60歳の手前である58歳ごろは、自分の人生を振り返り、やり残したこと、やれなかったことなどを思い出し、精神的な苦痛が生じやすい年齢といわれているのです」美智子さまが危機を乗り越えられたのは、長女・黒田清子さんの尽力も大きかったという。「清子さんが中心になって、御所に音楽家を招いて、美智子さまがお好きな作曲家のシベリウスの曲の演奏会を開かれるなど、お心安らかに過ごせるお時間を作ったのです」(前出・渡邉さん)すると雅子さまが現在の危機を脱するためにもご家族のサポートが必要となるのだろうか。「『初繭搔き』を取りやめられてから、3日後の6月11日、雅子さまは紅葉山御養蚕所に赴かれたのです。お痛みをこらえてのお務めを心配されたのでしょう。天皇陛下と愛子さまも合流され、作業をご一家で行われました。詳細は明らかにされていませんが、雅子さまが声を出して笑われる場面もあったと伺っています」(前出・宮内庁関係者)腰痛に悩まれる雅子さまにとって、陛下と愛子さまとお過ごしになるひとときが、何よりの癒しになっているのだろう。
2022年06月23日6月5日、天皇陛下と雅子さまは滋賀県甲賀市で開催された「第72回全国植樹祭」にオンラインでご出席。昨年に続き、中継で式典会場のスクリーンに両陛下の様子が映し出された。今年は会場の参加者と同時に緑化への願いをこめてハンカチを振る演出があり、両陛下は、皇居・御所の玄関前に設けられたお席で黄色いハンカチをお振りになられた。ハンカチ一枚一枚には滋賀県の子どもたちが書いた、「滋賀県は特別な自然や生き物がたくさん」などのメッセージが。コロナ禍で予定されていた生徒全員の参加がかなわなかったため、県庁が植樹祭に関する一言をお願いしたのだという。さらに、両陛下は記念にスギなどの苗木をお植えになり、コウヤマキなどの種を蒔まかれた。式典後、滋賀県に運ばれて植えられる予定だ。また、3年ぶりに緑化啓発ポスターの展示をご覧になり、植樹祭の参加者たちともご懇談。コロナ禍で直接のご交流はできないが、地方ご公務のオンライン参加にも両陛下らしい工夫がなされているようだ。
2022年06月18日1958年、NHK局員だった金子鮎子さん(88)は、ご婚約直前の美智子上皇后のお姿を撮影できたことが認められて、日本初の女性テレビカメラマンになることができた。順風満帆にみえた金子さんだが、紆余曲折を経て精神障害者支援への道を歩んでいくことになる。【前編】日本初の女性テレビカメラマン明かす「美智子さまご婚約直前の極秘撮影」秘話から続く■社会的に孤立していた精神障害者に寄り添いたかった念願のカメラマンになった金子さんは、事件があれば米国製の16ミリカメラを手に局を飛び出した。1964年の東京五輪では、女子選手村に入り、選手たちのプライベート映像をカメラに収めた。女性として第一線で働く金子さんの姿は、美智子さまと同様に時代の華として、週刊誌などでもたびたび紹介された。順風満帆に思えた金子さんのキャリアに転機が訪れたのは、カメラマン9年目の1968年。広報室へと異動になったのだ。金子さん35歳のときだった。「当時はまだ、労働基準法の保護規定で、女性の深夜労働が禁止されていたんです。キャリアを重ねたら多少お給料は上がるけれど、深夜労働ができない女性は、デスクとしては使いにくい。今なら問題でしょうが、当時は仕方ないと思いました」だが、転んでもただで起きない。これを機に、幼少期から関心があった心理学について学ぼうと、週に1度、仕事帰りに東京カウンセリングセンターに通い始めた。「そこの先生が、うつ病の当事者が集まる会を作ったというので、手伝いに行くようになったんです」ここで出会ったのが、心の病いに苦しむ当事者や、その家族だった。「幻覚や妄想などがある統合失調症は、10代で発症する人も多く、回復までに長くかかります。ひきこもりになると、本人も家族も苦しいし、家族間の関係性も悪くなってしまう。さらに、周囲からは偏見の目を向けられて、社会で孤立していました」幼少期の劣等感が思い出され、人ごととは思えなかった。「人は誰しも、深刻な出来事が重なれば心の病いになりかねません」金子さんは、知り合いの精神科医やカウンセラーなどと一緒に、1971年に障害当事者が集まる「日曜サロン」と、家族が集う「家族会」をオープン。「日曜サロン」は、現在までなんと50年以上も続いている。「心の病気のことって人に話しにくいじゃないですか。だから、心置きなく話せる場所を作れたらと思ってね。じっくり話を聞くだけでも、ご本人や、お母さんの表情が柔らかくなるんです。お母さんは、子どもにつらくあたったりしなくなるし。それだけでも、ずいぶん親子の関係性が変わるんですよ」■精神障害者でも働ける社会へーー株式会社を設立当事者やご家族から厚い信頼を得るようになった金子さん。NHKの勤務がない時間は、精神障害者宅を訪問して話し相手になったり、精神障害者を支援する会で病気のことを学んだり……。「仕事や勉強で手いっぱいで、結婚には前向きになれなくて」金子さんは、結婚より精神障害者と共に歩む道を選び取っていた。そんななか、「働いて自立したい」という精神障害当事者が多いことに気づく。「当時、NHKに入っていた清掃会社にお願いしてまわり、精神障害者の方を数名、雇ってもらったんです。いきなりフルタイムは無理でも、一日数時間から徐々に延ばしたら、長く働ける人もいてね。サポートすれば精神障害があっても、ご本人次第で働けると確信しました」NHKで働きつつも、金子さんの心には、「精神障害者と共に働く会社をつくりたい」という思いが年々膨らんでいった。「私は医師でも保健師でもない。だから“支援”なんていう上から目線じゃなくて、手助けしながら“一緒に”働きたい。ただそれだけでした」1988年、金子さんはおよそ34年勤めたNHKを55歳で定年退職。翌1989年、志を同じくする仲間と共に、精神障害者が働く清掃会社、株式会社ストロークを起業する。障害者は数百円の工賃しかもらえない時代、社会福祉法人などではなく、株式会社にこだわったのは「障害があっても仕事に見合う賃金が支払われるようにしたかったから」と金子さん。社名のストロークには、なでる、さするなどの意味がある。「赤ちゃんでも、スキンシップや周囲からの声かけが多いほどすくすく育つでしょう。そんなプラスのストロークを、もらうだけじゃなく、障害があってもこちらから発信して社会の役に立ちたい。社名にはそんな思いを込めたんです」金子さんの熱意を目の当たりにし、応援団は増えていく。「NHK時代の仲間や地域医療に関わってきた医師、たくさんの支援仲間、そして他界する直前だった父も株主になってくれて。起業を後押ししてくれました」一方、美智子さまは、1989年に昭和天皇が崩御し現在の上皇陛下が天皇に即位されたことで、初の民間出身の皇后になられる。新しい時代の扉は開きつつあった。■村木厚子さんらと実現した障害者雇用の道金子さんは、清掃会社でアルバイトをしながらノウハウを学んだ。しかし、簡単に事は進まない。「働きたい思いはあっても、社会経験がなかったり、薬を服用しているせいで朝起きられなかったりする人も少なくありません。『睡眠薬を飲んだので、明日は起きられません』と夜中に電話がかかってくることもあります。ですから私は事務所で寝泊まりして、急に休む人が出た場合は、代わりに現場に入る準備をしていました」事なきを得たからよかったが、金子さんは脳梗塞で倒れる71歳まで、事務所で寝泊まりする生活を送っていたという。みずからの命を削りながらも、金子さんは、精神障害者の人たちが働けるようになるまで「待つ」ことを諦めない。「一日数時間、週に数回のシフトから始めて、慣れたら入る時間や回数を増やしていく。そうすると、うまくいく場合が多い。調子が悪いときは、調子のいい誰かが入る。サポートがあれば、障害があっても職を失わず働き続けられるんです」金子さんの愛情は、障害当事者にもしっかり伝わっていった。勤続27年目のスタッフで統合失調症の持病がある只隈光人さん(65)は、こう振り返る。「入社してしばらくは、調子が悪いとすぐに仕事を休んでいました。でも金子さんは一度も怒らず、『仕方ないわね』とカバーしてくれた。でも、私が休むと、日ごろから無理をしている金子さんの負担がさらに増えてしまう。そう気づいてから仕事を休まなくなりました」とはいえ、一企業ができることには限界がある。金子さんの目標は、精神障害者の人たちが当たり前に働き、自立できる社会の仕組みをつくることだった。そのために、次々と各方面に働きかけた。「通称“職親会”といって、精神障害者の社会復帰のために働く場を提供してくれる小さな事業者(職親)の集まりがあるんです。こうした職親の取り組みを広く紹介したり、2000年からは2期にわたって厚生労働省主催の委員会の一員になり、どうやったら精神障害者が就労できるか、具体策を示して民間企業へ雇用を働きかけたりしました」当時から一定規模以上の企業は、身体・知的障害者を雇用せねばならない義務があった。しかし、精神障害者に関しては理解が進まず、雇用義務から外されていたのだ。さらに金子さんは、障害者雇用に道を開いた、当時厚労省の局長だった村木厚子さんの勉強会にも積極的に参加した。「いろんな障害者支援のグループの方々が夕方、厚子さんの局長室に集まって意見交換するんです。厚子さんは、こちらの意見にも熱心に耳を傾けてくださって、精神障害者の雇用を増やすために一緒に考えてくださいましたね」これらの勉強会を経て、2006年には「障害者自立支援法」が成立。障害者雇用促進法も改正されて、2018年ようやく企業での精神障害者の雇用も義務化されたのだ。「長い道のりでしたが、やっとスタートラインに立てた。そんな気持ちでしたね。私が起業したころは、ハローワークの人に『精神の病気を治してから来てください』と言われる時代でしたから」金子さんの脳裏には、これまで泣き笑いしながら共に働いてきた仲間たちの顔が浮かんでいた。■天皇皇后両陛下に謁見。陛下は驚かれて……64年前、正田邸で出会った若かりし日の美智子さまと金子さん。2021年12月20日、時代を経て2人の人生が再び“接近”する出来事があった。金子さんが、福祉の道で貢献した個人や団体に送られる「第73回保健文化賞」を受賞したのだ。同賞の受賞者は天皇皇后両陛下に謁見することが慣例となっており、金子さんは今上陛下と雅子さまにお会いすることができた。「陛下にこれまでの取り組みを申し上げると、陛下は、『それは大変でしたね……』と、私の話に熱心に耳を傾けてくださいました」天皇陛下の福祉へのご関心の高さは、母である美智子さま譲りなのかもしれない。ご成婚の年である1959年7月に、母子愛育会をご訪問されたときから、美智子さまの福祉施設へのご訪問は始まった。それから、半世紀以上にわたって、全国の福祉施設や病院を訪問され続けた。こうしたお姿が、国民にとって御簾の向こうにあった皇室を身近なものにしたことは間違いない。「美智子さまが訪問された病院を、直後に、厚労省の委員として視察に行ったこともありました。美智子さまも障害者の支援に、ずっと熱心でいらっしゃいました」お代替わりもあって、残念ながら美智子さまにお会いすることはかなわなかったが、お志を継がれた天皇皇后両陛下に、金子さんはこれまでの活動をご報告できた。「陛下には、美智子さまをご婚約内定前に撮影させていただいたお話もさせていただきました。そうしたら『ほぅ』と驚いていらっしゃったわね(笑)」皇室の扉を国民へーー。就労の扉を精神障害者へーー。64年前、夢と希望を胸に抱いて、同じ部屋でひとつの時を共有した2人の女性たちは、とびきりの勇気と優しさで、固く閉ざされていたドアを開いたのだ。
2022年06月12日「このコはよく食べますね」「こちらにも葉を置いたほうが食べやすいかも……」蚕たちが食べる桑の葉の置き方について相談される雅子さまと愛子さま。そしてお二人を、ほほ笑みながら見つめられる天皇陛下。天皇ご一家が、そんなかけがえのないひと時を過ごされたのは、6月1日午後のことだったという。皇室担当記者が次のように語る。「雅子さまが、皇居・紅葉山御養蚕所で取り組まれている養蚕の作業に、天皇陛下と愛子さまも参加されたのです。実は前日の5月31日に雅子さまが、蚕に餌となる桑の葉を与える『ご給桑』という作業を行われる予定になっていました。ご養蚕は明治以降、歴代皇后が受け継いできたお仕事です。天皇陛下の稲作とともに、皇室においては神事に近いお務めであり、雅子さまもとても熱心でいらっしゃいます。しかし雅子さまのご体調が思わしくなかったそうで、直前になっておとりやめに……。雅子さまが、事前に参加が発表された行事を欠席されるのは、最近では大変珍しいことですので、私たちも驚き、また宮内庁職員たちも心配していました」だが翌日の6月1日、体調が回復された雅子さまは、御養蚕所に赴かれたのだ。「天皇陛下と愛子さまも同行されたのは、雅子さまのお体を心配されたからかもしれません。愛子さまが御養蚕所で作業をお手伝いされるのは初めてのこと。詳しい経緯について宮内庁は明らかにしていません。しかし、ご家族3人で有意義で楽しい時間を過ごされたことは、記念日を目前に控えられた天皇陛下にとっても、“サプライズな出来事”となったことでしょう」’93年に結婚された天皇陛下と雅子さまは、6月9日に29回目のご結婚記念日をお迎えになる。お二人が出会われた当時、東宮侍従を務めていた竹元正美さんはこう語る。「’86年10月、スペインのエレナ王女が来日した際、東宮御所で歓待のためのお茶会が開かれたのです。エレナ王女と同年代の若い人も、ということで出席されたのが、外交官試験に合格したばかりだった“小和田雅子さん”でした」輝かしいキャリアを歩み始めた雅子さまが、お輿入れを決断されたのは、それから6年後の’92年。「皇室に入られることには、いろいろと不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」プロポーズのお言葉はあまりにも有名だ。そして陛下は、その誓いを守り続けてこられたのだ。■ご夫婦でのご公務を待ち望み続けられた天皇陛下天皇皇后両陛下の側近も務めたことがある元宮内庁関係者も感慨深げだった。「この30年の道のりはけっして平坦ではありませんでした。’03年12月に帯状疱疹で宮内庁病院に入院された後、翌年3月から雅子さまは、軽井沢にある小和田家の別荘で1カ月ほど静養されました。当時はまだ『適応障害』という診断が出る前で、このころがいちばん不安でおつらい時期だったと思います。そういった時期だからこそだったのでしょう。天皇陛下は多忙なご公務の合間を縫って、軽井沢に駆け付け、雅子さまに寄り添われたのです。また愛子さまが学習院初等科への登校に不安を感じられ、雅子さまが付き添われていたこともあります。そうしたときも天皇陛下は外では国民のために粛々とご公務に臨まれ、また東宮御所では、雅子さまと愛子さまを優しく支えていらしたのです」一時期は、雅子さまがご公務にほとんど出席されず、陛下の“単独ご公務”が続いた。元宮内庁関係者が続ける。「東京都内の式典でも、地方へのご訪問でも、陛下はいつも関係者に、このようにおっしゃっていました。『雅子も来たがっていましたが、今回は残念ながら……』『次の機会には、ぜひ雅子もいっしょに』こうしたお言葉は、お二人でのお出ましを願い出ていた式典の主催者らへのフォローという意味もありましたが、陛下の、“雅子さまとごいっしょに公務に臨みたい”という真摯なお気持ちの表れなのだと、私たちは感じていました」雅子さまとお二人でご公務に臨まれるとき、天皇陛下はとてもうれしそうにされているという。ある宮内庁関係者によれば“楽しいお気持ちが、お体全体から感じられる”のだという。「5月25日には、東京国立博物館で開催中の特別展『琉球』を、両陛下がご覧になりました。展覧会鑑賞などのために皇居からお二人で外出されるのは約2年3カ月ぶりのことで、このときも陛下のお気持ちが伝わってくるように思いました。展示物についてお二人が腰をかがめて、目を合わせながらお話しになるお姿、また説明担当者にそれぞれがタイミングよく質問される息の合ったお姿などからも、両陛下の仲むつまじいご様子が感じられました」■「次回は皇后を…」バイデン大統領への言葉に秘めたもの前出の元宮内庁関係者が明かした、「次はぜひ雅子も」と、お話しになっていたという陛下の“習慣”が、いまも変わらずに続いていることが最近判明した。「5月23日、天皇陛下はバイデン米国大統領と御所で会見されています。翌々日に、陛下に同行して特別展『琉球』を鑑賞することを決断されていたためか、雅子さまは接遇に参加されませんでしたが、会見では、雅子さまのことも話題に上ったのです。陛下が『皇后も高校・大学をアメリカで過ごし、たくさんよい思い出を持っています』と、お話しになりました。さらにボストン市郊外にあるベルモント・ハイスクールを卒業したことも明かされると、バイデン大統領は『それでは(皇后は)ボストンなまりの英語を話されるのですか?』と聞き返すなど、会話もさらに盛り上がったそうです。陛下としては、その場にいない雅子さまも、いっしょに会見に臨んでいるようなお気持ちだったのでしょうか。会見の最後には陛下が『次回は皇后を交えてお会いしたいです』と、挨拶されています。このやりとりを知ったとき、私は、あるエピソードを思い出しました……」(前出・宮内庁関係者)ご成婚後、天皇陛下と雅子さまは、忙しい日も朝食をともにすることを日課とされていた。しかし雅子さまが体調を崩されるようになり……。「雅子さまは、朝の起床も難しくなってしまったのです。それでも陛下は、テーブルの前で座ったまま、食事に手をつけることなく、静かに雅子さまをお待ちになっていました。ときには昼近くになったこともあったと聞いています。天皇陛下にとられて、雅子さまと“二人でいる”ということは、それだけ大切なことなのだと知りました。会見時の『次回は皇后を交えて』というご挨拶は、もちろんバイデン大統領に向けてのものなのですが、陛下にとっては『永遠に皇后と2人で』という誓いでもあったのでしょう。ご結婚記念日を前にした重要な会見の場での、そのお言葉は、雅子さまへの“再プロポーズ”ともいうべきものだと思います。雅子さまも、きっと感動されていたはずです」(前出・宮内庁関係者)コロナ禍も収束傾向にあり、両陛下のご公務も本格的に再始動しつつある。「国内では、今年10月から国民文化祭、全国障害者芸術・文化祭が沖縄県で開催されます。雅子さまも25年ぶりの沖縄再訪に向け、意欲を燃やされています。また海外については、’20年に両陛下でイギリスを訪問される予定でしたが、コロナ禍のために実現しませんでした。これは宮内庁も“延期”という認識ですから、近いうちに再検討が始まると思います」(前出・皇室担当記者)6月9日からご結婚30年目に入られる天皇陛下と雅子さま。きっと絹糸のように美しく、しなやかな絆を紡がれ続けるに違いない。
2022年06月08日夕暮れ時の東京・上野。報道陣が待ち受ける中、到着した車から天皇陛下に続いて、雅子さまが降りられた。5月25日、両陛下は特別展「琉球」をご覧になるため東京国立博物館にお出ましになったのだ。「報道陣にはもともと、天皇陛下お一人でご覧になるとアナウンスされていました。雅子さまも体調を整え、行かれることになったようです」(皇室担当記者)雅子さまのご同行は“サプライズ”だったのだ。両陛下は、15世紀に制作された「銅鐘旧首里城正殿鐘」という銅製の鐘について説明を受けた。雅子さまは、鐘の穴や凹みをご覧になって「やはり戦争の傷ですか」などと質問されていたという。この2日前、天皇陛下は、就任後初来日となったバイデン米大統領と御所で面会されている。だが、その席に雅子さまはいらっしゃらなかった。陛下はご自身と米国との関わりについて発言するなかで「皇后も高校、大学を米国で過ごし、たくさんよい思い出を持っています」と、雅子さまについても言及。さらに帰り際には「次回は皇后を交えてお会いしたいです」とお伝えになった。接遇の場に姿をお見せにならなかった雅子さま。だが、前出の皇室担当記者は「この選択に雅子さまの信念を感じる」と語る。「今回は、バイデン大統領は夫人を伴わない来日であったため、外交儀礼上、陛下との一対一の面会となったのは自然なことです。とはいえ、天皇ご一家のお住まいである御所での面会ですし、玄関での出迎えや見送りで雅子さまが挨拶される可能性は高いとみられていました。皇后となられて1年目に、当時のトランプ米大統領と通訳なしでお話しになる姿が話題になったように、国際親善は雅子さまの資質がもっとも輝くお仕事といっても過言ではありません。それでも雅子さまは、2日後にある琉球展に確実に同行したいとお考えになって、バイデン米大統領との面会を見送られたのではないでしょうか」雅子さまはいまだに適応障害の療養中であり、“体調の波”がある。短期間に複数のご公務に出席するのは大きな負担だ。そういった状況下で、沖縄関連の公務を優先するという選択の陰に、いったいどんな決意があったのか。■天皇陛下の目に光るものが…5月15日、沖縄復帰50周年記念式典に両陛下はそろってオンラインで出席されている。陛下は、お言葉のなかで沖縄の“犠牲”について言及された。「大戦で多くの尊い命が失われた沖縄において、人々は『ぬちどぅたから(命こそ宝)』の思いを深められたと伺っていますが、その後も苦難の道を歩んできた沖縄の人々の歴史に思いを致しつつ、この式典に臨むことに深い感慨を覚えます」さらに、沖縄の発展や県民生活の向上などに触れたうえで、次のように述べられたのだ。「一方で、沖縄には、今なおさまざまな課題が残されています。今後、若い世代を含め、広く国民の沖縄に対する理解がさらに深まることを希望するとともに、今後とも、これまでの人々の思いと努力が確実に受け継がれ、豊かな未来が沖縄に築かれることを心から願っています」 近現代の皇室に詳しい、歴史学者で名古屋大学大学院准教授の河西秀哉さんは「沖縄には『今も課題がある』と明確に述べたことは大きな意味がある」と語る。「政治的な発言ができない天皇の立場から、慎重に言葉を選んだのでしょう。『さまざまな課題』という言葉で、米軍基地問題などを私たちに思い起こさせたのだろうと感じます。今までの天皇のお言葉では、過去の沖縄の苦難については述べられていました。さらに踏み込んで、今も沖縄はたいへんな状況にあると述べたことは、政府や日本国民にその是正を求めたようにも感じました」お言葉を述べられているとき、陛下の感情があふれ出たように見える場面があった。宮内庁関係者が語る。「沖縄の“苦難の道”に言及されたあたりで、陛下の右目に光るものが見えました。陛下は涙を浮かべていたのではないかと、宮内庁内でも話題になっているのです。この50年の歩みを振り返り、感極まったのではないでしょうか。雅子さまも、陛下と同じ思いを抱かれたのでしょう。雅子さまも涙を浮かべんばかりの神妙なご表情で、陛下を見つめていらっしゃいました。両陛下は本土復帰50周年の節目に、沖縄へ心を寄せる活動にいっそう力を入れようと決意を固められたのではないでしょうか」
2022年06月01日5月25日、特別展『琉球』の会場である東京国立博物館へ到着された雅子さま「雅子さまをご案内したのは初めてでしたが、最初から最後まで熱心にご覧になっていました。染織品や漆の工芸品の技術にも興味がおありのようで、材質や重さについてお尋ねいただきました」天皇・皇后両陛下は5月25日、東京国立博物館 平成館で6月26日まで開催される沖縄の本土復帰50年を記念した特別展『琉球』を鑑賞された。案内人を務めた同館の三笠景子主任研究員は、冒頭のように振り返り、こう続ける。両陛下、地方公務はしばらく先か「特に印象的だったのは、重要文化財である『万国津梁の鐘』をご覧になった雅子さまが、“戦争の傷ですか”と、おっしゃったことです。両陛下は、限られた時間の中でもひとつひとつの展示物について、じっくり語らいながら回られており、“本当はゆっくり見たい”というお気持ちが感じられました。雅子さまは、陛下のご感想に対し、繰り返し頷いていらっしゃいました」展覧会鑑賞などで、両陛下がおふたりで外出するのは約2年3か月ぶりのこと。「世間では“脱・マスク”など、ポスト・コロナの動きが高まり、皇族方のお出ましの機会も日ごとに増えています。コロナ禍の約2年間、行事の中止やオンラインでの参加を余儀なくされてきましたが、皇室は“元の姿”を取り戻しつつあるといえるでしょう」(皇室担当記者)とはいえ、両陛下が地方へ足を運ばれるのは、まだ先になりそうで……。「イベントなどではいまだに人数制限などもあり、完全に規制がなくなったわけではありません。そんな中、皇室が率先して“脱・コロナ”の姿勢を示すことはありえず、社会の状況を踏まえて判断されるでしょう。式典での対策は主催者側の判断ですが、移動時などの対策は宮内庁が主体的に講じる必要があります。皇族方の地方訪問が再開しても、両陛下はしばらく先になるのでは」(宮内庁OBで皇室ジャーナリストの山下晋司さん)沖縄県が本土復帰してから50年の節目である5月15日に行われた『沖縄復帰50周年記念式典』にも、両陛下はオンラインでご出席。愛子さまが、テレビで鑑賞される中、陛下は同式典で次のおことばを寄せられた。「若い世代を含め、広く国民の沖縄に対する理解がさらに深まることを希望する」しかし、その実現は容易くないことが露呈した。「式典はNHKで中継されたものの、平均視聴率は沖縄地区で16・1%、関東地区で2・2%と、大きな差がありました」(前出・記者)雅子さまが慕われた“おじちゃま”この事実は、天皇ご一家に重くのしかかる。「宮内庁のHPには“忘れてはならない4つの日”として、広島・長崎の原爆の日、終戦記念日とともに、6月23日の沖縄慰霊の日が示されていて、天皇ご一家は、それぞれの日に黙祷を捧げられます。戦争体験を伝え、戦没者を慰霊することは、上皇ご夫妻から継承された“使命”であると同時に、その行動を国民に伝えることも重要なのです」(同・記者)『全国豆記者交歓会』の代表で、’63年から計100回以上にわたって皇室ご一家と交流してきたという山本和昭さん(92)はこう語る。「沖縄が本土復帰したとき、陛下は中学1年生でした。ただ、上皇ご夫妻のご意向により、物心ついたころから、沖縄の子どもたちや、豆記者として沖縄へ派遣された本土の小中学生と面会する機会が設けられていたため、沖縄の事情をよく理解しておられたと思います」本土との架け橋となることを目的として活動する沖縄の豆記者。昭和、平成、令和まで、交流は受け継がれている。「皇太子時代のご夫妻は、豆記者を東宮御所に毎年お招きになりました。雅子さまはもちろん、’16年には、当時中学3年生だった愛子さまも一緒に歓談されています。雅子さまは折に触れて沖縄に対する理解を深めてこられました。これからは沖縄を肌で感じていただきたいと願うばかりです」(山本さん)皇室と沖縄をつないできた人物は、豆記者だけではない。「雅子さまの“大恩人”といわれている野村一成さんです。’06年から’11年まで東宮大夫を務め、ご一家のオランダ静養を実現すべく奔走。雅子さまのお父さまである小和田恆さんがロシアの日本大使館に勤務していたときの部下でもあり、雅子さまは幼いころから“野村のおじちゃま”と、慕っておられました」(宮内庁OB)昨年7月に肺炎のため81歳で亡くなったが、晩年は、沖縄平和祈念堂を管理する『沖縄協会』の会長を務めた。「外務省の沖縄大使として、’00年の『沖縄サミット』に貢献して以来、長きにわたり地域復興に尽力なさったことは、言うまでもありません。雅子さまは、慰霊訪問を通じて、国母としてのお務めを果たす姿勢を、天国の野村さんに届けたいというお気持ちも強いと思います」(同・前)沖縄に対して並々ならぬ思いを抱かれる雅子さまに、“チャンス”が巡ってきた。25年ぶりの沖縄訪問実現へ「“四大行幸啓”の1つである『国民文化祭』が、今年10月から11月にかけて沖縄県で開催されます。そのときの社会情勢にもよりますが、現段階では、両陛下も足を運ぶ方向で準備を進めておられるとお見受けします」(宮内庁関係者、以下同)四大行幸啓のうち、ほか3つは、昭和時代から続く『植樹祭』と『国民体育大会』、平成時代に加わった『全国豊かな海づくり大会』だ。「国民文化祭は、浩宮殿下時代の陛下が“第1回”にご臨席したことを機に、平成時代は皇太子ご夫妻として出席されていました。雅子さまは、国民と深く交流できるこの行啓を大切にしています」’20年と’21年の同祭は、コロナ禍の影響を受けてオンラインでの出席となった。「思い入れの強い公務であるうえ、沖縄での開催ですから、“現地に赴きたい”と、お考えでしょう。本土復帰50年というメモリアルイヤーであることを念頭に、地方公務再開の最初の地に選ばれる可能性は高いと思います」両陛下がそろって沖縄を訪問されたのは、’97年7月の1度きりだ。「沖縄の本土復帰25周年の節目の年に、『全国農業青年交換大会』に臨席するタイミングで、沖縄戦没者墓苑や『平和の礎』を巡られました。その後、皇太子時代の陛下は’05年や’10年など、数回にわたり沖縄を訪問されているものの、療養中の雅子さまのお姿はありませんでした」移動時間が長く、地域住民や報道陣の注目を集める地方公務は、雅子さまにとってハードルが高いとされていたが、「令和になってからの雅子さまは、地方で行われた四大行幸啓に、すべて出席されました。予定に合わせて、何か月も前から体調を整えるように務めていると聞きます」前出の山下さんは、地方公務の重要性をこう説く。「主目的は式典へのご臨席ですが、地方の人々と直接ふれあう機会は、国民とともに歩む皇室にとって非常に大切です。できるだけ早く地方訪問ができるよう、宮内庁は方法を模索していると思います」雅子さまは“追憶の場所”で、新たな一歩を踏み出される─。山下晋司皇室ジャーナリスト。23年間の宮内庁勤務の後、出版社役員を経て独立。書籍やテレビ番組の監修、執筆、講演などを行っている
2022年06月01日強い日差しのなか、水色のシャツに長靴姿で水田に入られた天皇陛下。一株一株、丁寧に苗を植えられていく。天皇陛下は5月18日、恒例のお田植えに臨まれた。秋には実った稲穂を陛下が自ら刈り取られ、収穫された稲は伊勢神宮の神事や宮中祭祀に用いられる。雅子さまも11日、皇居・紅葉山御養蚕所で、御養蚕始の儀に臨まれた。儀式のあと、蚕を育てる蚕室を見て回った雅子さまは、稚蚕が餌となる桑の葉に張り付いている様子などを確かめられたという。「ご養蚕は明治以降、歴代皇后が受け継いできました。当初の目的は、生糸が重要な輸出品だった時代、養蚕業を奨励することでした。養蚕業が衰退した平成になっても、美智子さまがご養蚕を続けられたのは、この伝統文化を守っている人々に対する、強い共感と連帯のお気持ちを示すためでした。雅子さまも、そういった心を受け継いでご養蚕に取り組まれています。天皇陛下の稲作とともに、皇室において神事に近いお務めといえます」(皇室担当記者)実は、雅子さまが今年のご養蚕を始められるのと時を同じくして、愛子さまも御所で13年目となる蚕の飼育をスタートされたという。宮内庁関係者はこう語る。「愛子さまは学習院初等科3年生のころ、授業で蚕の飼育に取り組まれて以来、ずっとその子孫を飼い続けていらっしゃいます。卵を孵化させて成虫になるまでの全過程、愛子さまが自ら面倒を見ておられます。たとえば適切な時期に孵化させるには、温度管理を慎重にやらなければなりません。また、万が一の病気に備えて、2つのグループに分けて育て、次の世代を増やされているといいます。たいへん手間のかかる作業です。それを12年も続けていらっしゃいますから、驚嘆するばかりです」愛子さまは初等科6年生のころ、皇室と密接な関係があった藤原道長についての研究レポートを書かれるなど、皇室の歴史にも早くから関心をお持ちだった。「最初は蚕の幼虫が繭を作り、蛹となり、羽化するというプロセスに、生命の神秘を感じられたのかもしれません。ただ、12年も続けられている理由は、やはり歴代の皇后の仕事として受け継がれてきた歴史の重みに触れられたからだと思います。自主的に“神事”に取り組まれることで、皇室の一員としての自覚を強められたのでしょう」(前出・宮内庁関係者)■蚕を通じて学ばれた“苦楽を共にする”心昨年10月、秋篠宮家の長女・眞子さんは小室圭さんと結婚し、皇室を離れた。結婚を巡ってご両親と対立し、皇室と決別した眞子さんが、今後、皇室と関わりを持つことはないと思われる。「女性皇族が結婚後も皇室に残れるようにする皇室典範の改正も検討されていますが、佳子さまはその前に結婚し、皇室を離れてしまわれる可能性も十分にあります。愛子さまはそのような状況を理解されて、ご自身は皇室に残って両陛下を支え続けるご覚悟を固められたのでしょう。難しい蚕の飼育を12年も続けられた間に、皇室に生を受け、天皇の娘となった宿命から逃げないとの意志が芽生えたのではないでしょうか」(前出・皇室担当記者)愛子さまは今年3月の成年会見でも、皇室の一員としてのあり方についてこうおっしゃっていた。「私は幼い頃から、天皇皇后両陛下や上皇上皇后両陛下を始め、皇室の皆様が、国民に寄り添われる姿や、真摯に御公務に取り組まれるお姿を拝見しながら育ちました。そのような中で、上皇陛下が折に触れておっしゃっていて、天皇陛下にも受け継がれている、皇室は、国民の幸福を常に願い、国民と苦楽を共にしながら務めを果たす、ということが基本であり、最も大切にすべき精神であると、私は認識しております」蚕を自らの手で育てることで、養蚕を守る人々の苦労、そして伝統を守ろうとする強い思いを、愛子さまもお感じになっていたのではないか。まさに、蚕の飼育を通じて、愛子さまは小学生のころから、国民と“苦楽を共にする”経験を積まれてきたといえるだろう。精神科医の香山リカさんはこう語る。「愛子さまが中学生のころに書かれた文章には、愛子さまが看護師となって動物を救う物語や、広島への修学旅行を通じて平和や核兵器廃絶についてお考えになった作文があります。一般的に子供のころは、自分の家族や好きなものなど、自分を主語にした文章を書くことが多いですが、愛子さまの関心は他者、そして社会に向いています。雅子さまにも通じることですが、身の回りの人でなくても、遠い国の人々や、言葉の通じない動物といった存在にも、共感し、痛みを共有できる心をお持ちなのです。もしかすると子供のころ、愛子さまは大人びすぎていて、同世代とそぐわない部分があったのかもしれません。しかし高校生、大学生と成長され、成年皇族としてのお務めが始まり、愛子さまの責任感や社会への関心の強さを発揮できる機会も増えてきました。今後、本格的にご公務に取り組まれるなかで、きっと愛子さまの思慮深さは、これまで以上に発揮されるはずです」愛子さまは強い信念で、両陛下、そして皇室を支え続けるーー。
2022年05月26日今年生誕95年、在位70周年を迎えた英国君主エリザベス2世を追った初の長編ドキュメンタリー映画『エリザベス女王陛下の微笑み』の公開を記念して、エリザベス1世やエリザベス2世などを中心に英国王室を題材に描いた映画3作品と、BBCによるドキュメンタリーシリーズ『エリザベス1世と2世/偉大なる女王の共通点前編・後編』が「BS10スターチャンネル」にて独占日本初放送。あわせて「スターチャンネルEX」でも独占見放題配信する。★『クィーン』(2006)配信:6月17日(金)より/放送:【STAR1字幕版】6月2日(木)18時45分~ほかヘレン・ミレンがアカデミー賞主演女優賞に輝いた人間ドラマ。ダイアナ元皇太子妃の事故死という突然の事態に直面した女王エリザベス2世の苦悩を描く。エリザベス2世を演じたヘレン・ミレンは、ほかにヴェネチア国際映画祭女優賞ほか多数受賞し世界中から絶賛された。当時の首相トニー・ブレアやチャールズ皇太子など、実在の人物が多数登場。英国王室の裏側とそこで繰り広げられる人間模様を垣間見ながら、エリザベス女王の知られざる姿が描かれた。★『エリザベス』(1998)配信:6月17日(金)より/放送【STAR1字幕版】6月3日(金)18時45分~ほかケイト・ブランシェット主演の歴史ドラマ。16世紀イングランドの女王に即位し、宗教抗争を治めて黄金時代を築いたエリザベス1世。その若き日々と臣下との秘めた愛に焦点を当て、細部まで贅を凝らした美術でエリザベス朝を絢爛に描いた歴史大作。エリザベスが暗殺の危険に怯える少女から、政略結婚を拒み断固たる態度で敵対勢力を討つまでの過程をケイトが熱演。続編『エリザベス:ゴールデン・エイジ』も作られた。★『エリザベス:ゴールデン・エイジ』(2007)配信:6月17日(金)より/放送【STAR1字幕版】6月3日(金)21時~ほか女王の座を手にしたエリザベス1世が様々な試練や恋を経て、黄金時代を築いていく。英国女王エリザベス1世の苦悩や葛藤を描いた歴史劇『エリザベス』の続編。第1作に続いてケイトが主演し、威厳に満ちた君主と恋焦がれるひとりの女性という主人公の二面性を、卓抜した演技力で鮮烈に表現。また、豪華な衣装やスペイン無敵艦隊との対決をはじめとするスペクタクル描写も見どころとなった。★日本独占初配信&放送『エリザベス1世と2世/偉大なる女王の共通点前編・後編』(2020)配信:6月17日(金)より『前編』放送:【STAR1字幕版】6月3日(金)23時15分~ほか『後編』放送:【STAR1字幕版】6月3日(金)24時15分~ほか英国史上最も偉大な2人の君主、エリザベス1世とエリザベス2世。何世紀もの時を経たにも関わらず、その驚くべき共通点に迫ったドキュメンタリーシリーズ。前編では、無名から王位に就いた2人の共通の旅路に注目。王位を守るため、彼女たちが直面した戦いの数々を紹介。後編では、スコットランド女王メアリーとダイアナ妃という、2人のエリザベスを未知の領域に追いやった2人の女性の物語を紹介する。STAR CHANNEL MOVIES『エリザベス女王陛下の微笑み』は6月17日(金)よりTOHOシネマズ シャンテ、Bunkamuraル・シネマほか全国にて公開。(text:cinemacafe.net)■関連作品:クィーン 2007年4月14日よりシャンテシネにて、4月21日より新宿武蔵野館、シネ・リーブル池袋ほか全国にて公開©2006 GRANADA SCREEN (2005) LTD/PATHE RENN PRODUCTION SAS/BIM DISTRIBUZIONEエリザベス:ゴールデン・エイジ 2008年2月16日より日比谷スカラ座ほか全国にて公開© 2007 Universal Studios. All Rights Reserved.エリザベス 女王陛下の微笑み 2022年6月17日よりTOHOシネマズ シャンテ、Bunkamuraル・シネマほか全国にて公開© Elizabeth Productions Limited 2021
2022年05月10日「上皇陛下のご退位直前にお目にかかったときに、上皇后さまは『陛下のお心とお体のお疲れを、総合的にわかるのは私だけだったの』とお話しになりました。陛下を無事に赤坂にお連れしたいというお気持ちも伺ったことがあります」そう語るのは、美智子さまと交流のあるメディアプロデューサーの渡邊満子さん。4月12日から葉山御用邸に滞在されていた上皇ご夫妻は、4月26日に赤坂御用地の仙洞御所(旧赤坂御所)にお引っ越しされた。上皇ご夫妻が1960年(昭和35年)から33年にわたって暮らされていた思い出の家にお帰りになったのだ。「上皇后さまは平成最後の歌会始に〈今しばし生きなむと思ふ寂光に園の薔薇のみな美しく〉という御歌を出されています。これは、ご高齢になられて、ご自分の体も衰えてきたことを実感されている。こうしたときに庭のバラの花をご覧になり、もう少し頑張ろうと思われたという御歌でした。やはり、上皇陛下を支えていこうと思われたお気持ちを詠まれたのだと思います」(渡邊さん)引っ越しにあたって、エレベーターの設置などの改修工事が施された。ただ、私室部分こそ完成しているものの、すべての工事が完了したわけではないという。「それでも、美智子さまは“一日も早く上皇陛下と赤坂に”との思いを強く抱かれており、工事中のままの転居となりました。その思いの背景には、上皇陛下がご在位中から、認知症が疑われる症状を訴えていらっしゃったこともあったのではないでしょうか」(宮内庁関係者)上皇ご夫妻の側近も、その症状を明らかにしている。上皇陛下の87歳の誕生日(’20年12月)には、次のように近況を公表している。《お年を召され、上皇后さまにいろいろとお尋ねになることが多くなられたようにお見受けします。何度か繰り返されるご質問にもその都度丁寧にお答えになる上皇后さまと、それを聞かれご納得になるといつも明るい笑顔におなりになる陛下。時に、勘違いや戸惑いがあっても、一緒にお笑いになりながら、ご記憶を新たにされ、日々のご生活を確かなものとされています》翌年に、88歳の誕生日にあたって公表された文書にも、次のように記されていた。《ご高齢となり、時折お歳相応にお忘れになったり、ご記憶が不確かになられることはおありですが、いつも一緒にいらっしゃる上皇后さまにお尋ねになり、事実を確かめられては、「そうだったね」と笑顔で得心されるご様子をよく拝見します》上皇陛下は平成の終わりごろ、式典で原稿の読み飛ばしに気がつかなかったり、段取りを忘れて立ちつくされたりしたことがあった。美智子さまは、そういった事態にも即座に対応されてきた。退位後、“終の棲家”となる赤坂での穏やかな日々を心待ちにされてきた上皇ご夫妻だったが、想定外の事態が重なった。「当初の予定では、ご退位後すぐに皇居から高輪皇族邸に引っ越され、’20年中には赤坂御用地への転居が完了しているはずでした。ところが、膨大な荷物の整理は遅れ、上皇ご夫妻の体調不良もあって、ようやく高輪に移られたのが’20年3月。しかもコロナ禍が深刻な状況となり、お引っ越し後は外出もご友人を招くことも難しくなってしまいました」(前出・宮内庁関係者)美智子さまは上皇陛下のためにも、より多くの方々と交流する機会を持とうとされていたという。しかしコロナ禍で、外出も来客もない単調な日々が続き、上皇陛下の症状の悪化も懸念されたーー。「そこで美智子さまは、さまざまな日課を作られました。起床後はまず、お庭を一緒に散策。朝食後には毎日、お二人で本の音読をされます。一冊の本を、交互にお読みになるのです。これまで読まれたのは大岡信『折々のうた』、パスカル『パンセ』、山本健吉『ことばの歳時記』、寺田寅彦『柿の種』などです。夕方にも必ずご散策されます。上皇職や皇宮警察の職員と言葉を交わされ、周囲のマンションの住人と話されることもありました。ご夕食後には、上皇陛下は侍従とお話しになることを日課とされています。これは美智子さまの強いすすめで始められたそうです」(前出・宮内庁関係者)引っ越しも完了し、ようやく実を結んだ美智子さまの奮闘ーー。上皇陛下との“思い出の場所”赤坂での、穏やかな暮らしが始まる。
2022年05月02日上皇ご夫妻は4月26日、赤坂御用地の仙洞御所(旧赤坂御所)にお引っ越しされた。《先々には、仙洞御所となる今の東宮御所に移ることになりますが、かつて30年程住まったあちらの御所には、入り陽の見える窓を持つ一室があり、若い頃、よくその窓から夕焼けを見ていました。3人の子ども達も皆この御所で育ち、戻りましたらどんなに懐かしく当時を思い起こす事と思います》美智子さまが、赤坂へのお引っ越しを待ち望む思いを綴られたのは、’18年10月、84歳の誕生日のこと。それから3年半、上皇ご夫妻の体調不良やコロナ禍を乗り越えて、ようやく転居が完了した。引っ越しにあたって、エレベーターの設置などの改修工事が施された。ただ、私室部分こそ完成しているものの、すべての工事が完了したわけではないという。「それでも、美智子さまは“一日も早く上皇陛下と赤坂に”との思いを強く抱かれており、工事中のままの転居となりました。その思いの背景には、上皇陛下がご在位中から、認知症が疑われる症状を訴えていらっしゃったこともあったのではないでしょうか」(宮内庁関係者)上皇ご夫妻の側近も、上皇陛下の誕生日に公表する文書で《お年を召され、上皇后さまにいろいろとお尋ねになることが多くなられたようにお見受けします》《ご高齢となり、時折お歳相応にお忘れになったり、ご記憶が不確かになられることはおありですが》などと、その症状を明かしている。コロナ禍の、皇居よりずっと狭い高輪皇族邸での暮らしでも、美智子さまはこの2年間、精いっぱいの工夫で“対策”に奮闘されてきた。起床後はまず、お庭を一緒に散策。朝食後には毎日、お二人で本の音読をされる。夕方にも散策をされ、夕食後には上皇陛下は侍従とお話しになる。こうした日課の多くは美智子さまの提案で進められたという。パークサイド脳神経外科クリニックの近藤新院長はこう話す。「日常の中でお散歩をされたりするのはとてもいいことです。同じコースの散歩でも天候や季節の移り変わりなどが刺激になりますし、体を動かすことも大切です。心身への刺激を絶やさないようにすることが大切なのです。一般論としてですが、いわゆる認知症の方の場合ですと、環境が変わるというのは脳への刺激が加わるという点ではメリットがありますが、リスクもあります。心の部分で適応ができないということもまれに起きるのです」実は、美智子さまが、上皇陛下の“環境の変化”を懸念され、これほどまでに懸命に取り組まれた陰には、上皇陛下の母・香淳皇后の存在があった。30年ほど前に、美智子さまは当時交流していた親しい友人に次のように打ち明けられたことがあったという。「皇太后さま(香淳皇后)は、昭和天皇がお亡くなりになったことも、十分におわかりになっていない。それに生活環境が急に変わってしまえば、皇太后さまに大きな打撃を与えることになってしまう。だから皇太后さまには、いまでも皇后さまでいらっしゃるような気持ちで過ごしていただきたい」上皇ご夫妻は、’93年12月に皇居の吹上に新たに建設された御所にお引っ越しされたが、香淳皇后は昭和天皇とお暮らしになった御所に、そのままお住まいになった。このことは、“美智子さまが香淳皇后を古い建物に押し込めている”といった形でバッシング報道にもつながった。だが実際には“慣れ親しんだ場所で暮らし続けてほしい”という、香淳皇后への思いがあったのだ。懐かしい赤坂の地で、上皇陛下と美智子さまは穏やかな日々を過ごされることだろう。
2022年05月02日天皇陛下に続いて車から降りた雅子さまは、マスク越しではあったが、カメラに向かってほほ笑まれたーー。4月13日、天皇皇后両陛下は科学技術の進歩に大きく貢献した研究者に贈られる「日本国際賞」の授賞式に出席された。コロナ禍により’20年と’21年の授賞式が延期となっていたため、3年分がまとめて表彰された今回の授賞式。天皇陛下はお言葉のなかで、コロナ禍における科学の力への期待を示された。「現在、わが国を含め世界中の人々が、新型コロナウイルス感染症の影響により、さまざまな困難に直面しています。そのような状況の中で、科学技術が果たす役割は、さらに重要になってくるものと思われます。さまざまな分野の叡智を結集し、世界の人々が互いに力を合わせることにより、この困難な状況を乗り越え、希望に満ちた未来を築いていくことを願っています」陛下と雅子さまは式典のあと、受賞者との懇談にも出席されたという。お二人そろって外出を伴う公務に臨まれるのは、昨年8月の戦没者追悼式以来、8カ月ぶり。「事前の発表では天皇陛下お一人が出席されるはずでした。しかし雅子さまは1週間以上前から意識的に体調を整えられ、当日は式典に続き、外国人受賞者たちとの懇談まで完遂されたのです。今回、雅子さまにとって“勝負色”であるブルーのお召し物を選ばれたことからも、再始動への強い意気込みが伝わってきました。両陛下は、ご自身の活動が感染を広げたり、感染対策が周囲の負担になったりしないよう、外出をお控えになってきました。オンラインで式典に出席されたり、地方の福祉施設と交流されたりと、外出せずに“国民に寄り添う”務めを果たそうと工夫されてきました。今後は、引き続きオンラインを活用しつつも、式典会場などに足を運ばれることも増えるでしょう」(皇室担当記者)ただ、この数カ月にわたって雅子さまを苦しめたのはコロナ禍だけではなかった。体調が優れない日々が続いていたのだ。■大きなプレッシャーを克服されて昨年の秋から、雅子さまは体調不良に見舞われていた。誕生日写真の撮影を2度キャンセルされたり、2日に分けて行われた愛子さまの成年祝賀行事の1日目を欠席されたりした。年始の講書始の儀も、体調が整わず欠席されている。「愛子さまの成年行事や記者会見のために、雅子さまは数カ月前からご準備を続けていました。国民から大きな注目が集まり、愛子さまの人生を左右するだけに、雅子さまも大きなプレッシャーをお感じになっていたのではないでしょうか」(宮内庁関係者)しかし、昨年12月の成年祝賀行事で愛子さまが披露されたティアラ姿に続いて、3月の記者会見にも絶賛の声が集まった。「雅子さまにとっては、これまでの母としての努力がすべて報われたようなお気持ちだったでしょう。愛子さまの記者会見での立派なお姿によって、雅子さまは自信を取り戻されたのではないでしょうか。それゆえ、本格的に公務を再開するという大きな一歩を踏み出すことができたのだと思います」(前出・宮内庁関係者) 愛子さまは会見で、両陛下への尊敬の念を、率直に話されていた。「両親と話をしておりますと、豊富な知識や経験に驚かされることが多々ございまして、また、両親の物事に対する考え方や、人との接し方などからは学ぶことが多くございます」両陛下こそが、愛子さまにとって一番のお手本になっているのだ。両陛下からのどんなお支えや言葉があったのかとの質問には「何か問題に直面した時は、その問題に真剣に向き合ってくれまして、私の意見や考え、気持ちを尊重しつつ、的確なアドバイスをくれたように思います。そして、両親からもらった大きな愛情や励ましが、そのような時に私の支えとなっておりました」とお答えになった。会見が行われた大広間の隣の部屋では、雅子さまが待機なさっていたという。愛子さまの言葉をお聞きになった雅子さまは“私が愛子を導く”という思いを抱かれたのではないだろうかーー。精神科医の香山リカさんは、愛子さまの成長が雅子さまにも好影響を及ぼしていると語る。「成年皇族となられた愛子さまにとって、雅子さまは母親というだけでなく、先輩女性としてのお手本にもなります。今回の日本国際賞に関しても、どんな方が受賞したのか、懇談の場ではどのような話をしたのかなど、御所に帰られたあと愛子さまにお話しになったことでしょう。愛子さまにとっては、近い将来ご公務に出席される際の参考にもなりますし、大学卒業後の進路を考えるうえでも、世界的な研究者である受賞者の方々について知ることは有意義だったでしょう。たとえご一緒に公務に行かれなくとも、こうしたコミュニケーションによって、雅子さまは愛子さまと二人三脚で公務に取り組んでいるように感じられるのではないでしょうか」雅子さまは今月28日にも、陛下とご一緒にアジア・太平洋水サミットにオンラインで出席されることが発表されている。“母の自信”を取り戻された雅子さまのご活躍は続く。
2022年04月22日4月13日、天皇陛下と雅子さまは東京都千代田区の帝国ホテルで開催された日本国際賞の授賞式に出席された。両陛下がおそろいでお出かけになるのは昨年8月の全国戦没者追悼式以来、約8カ月ぶり。この日、ブルーのロングドレスに、和のテイストを感じさせる前合わせのジャケットをお召しになった雅子さま。日本国際賞は、科学の分野で貢献した研究者に贈られる賞で、このお務めは上皇ご夫妻から引き継がれている。今年は新型コロナウイルスワクチンの実用化に尽力したカタリン・カリコー博士らに贈られ、式典後、雅子さまは陛下とともに受賞者らとの懇談に臨まれた。
2022年04月22日ロジャー・ミッシェル監督によるエリザベス女王のドキュメンタリー映画『エリザベス女王陛下の微笑み』より新場面写真が解禁。また日本公開に寄せて、プロデューサーからのメッセージも到着した。本作は、今年で在位70周年となるイギリスのエリザベス女王の“初”の長編ドキュメンタリー映画。昨年9月に急逝した『ノッティングヒルの恋人』などのロジャー・ミッシェルが監督をつとめ、監督いわく「英国史上最高齢かつ最長在位の君主エリザベス2世。同時に世界において、もっとも在位期間の長い女性君主であり、存命の君主として世界最高年齢で最長在位でもある。いや、エリザベス女王はそんな肩書以上の存在」である“女王陛下”をテーマに選ぶにあたり、プロデューサーのケヴィン・ローダーとともに「既視感のある、ありきたりな王室ドキュメンタリー」ではなく、むしろ「機知の富んだイタズラ心とサプライズがあるものを作りたい」と取り組んだという。ロジャー・ミッシェル監督にとって本作が遺作となる。この度、4月21日のエリザベス女王の96歳の誕生日に合わせ、新たな場面写真5点が解禁となった。25歳の若さで即位した麗しき姿から、にこやかに公務を行う現在まで、様々な場面がとらえられている。「世界で最も有名な女性」と呼ばれるエリザベス女王の若き日の美しい横顔や、1952年、父であるジョージ6世(映画『英国王のスピーチ』で知られる)の崩御に伴い、25歳の若さで即位する戴冠式の様子、いまなお精力的に公務をこなす姿など華やかな場面が並ぶ。さらに21歳で結婚し、三男一女の母でもあるエリザベス女王が、フィリップ王配と仲睦まじく寄り添い、笑顔で見つめ合う姿も。一方1997年ダイアナ元妃が亡くなったあと、国民に語りかけた異例のビデオメッセージでの悲痛な表情もあり、波乱万丈な人生を垣間見られるシーンカットになっている。また、本作が日本公開になることを受け、プロデューサーのケヴィン・ローダーよりメッセージが到着。「日本の方々が私たちの女王についてどう思っておられるかは分からないのですが、日本も皇室、ロイヤルファミリーが存在する国です。エリザベス女王に関しては、他の国の方々からも非常に興味を持たれる存在でありますし、それとともに英国と同じくらい、セレモニー、意識であったり、フォーマルなバランスの物事のやり方を尊重する文化として、日本の皆様には面白く観ていただけるところがたくさんある映画になっているのではないかと思います。また、英語が分からなくても映像と音楽で出来上がっている作品なので、自分の母国語のように感じ、観てもらえるんじゃないかと。それもこの映画の見どころです」と、亡き監督に代わり、その思いを寄せてくれた。『エリザベス女王陛下の微笑み』は6月17日(金)よりTOHOシネマズシャンテ、Bunkamuraル・シネマほか全国にて公開。(text:cinemacafe.net)■関連作品:エリザベス 女王陛下の微笑み 2022年6月17日よりTOHOシネマズ シャンテ、Bunkamuraル・シネマほか全国にて公開© Elizabeth Productions Limited 2021
2022年04月21日4月、新年度を迎えて大学3年生になられた愛子さま。だが、いまだにキャンパスで授業を受けられたことはないーー。《愛子さま当面、オンライン授業へ両陛下への感染を心配大学に登校せず》(FNNプライムオンライン)そう報じられたのは4月7日のことだった。天皇家の側近幹部によれば「ご自身の登校が結果的に両陛下の感染につながってはいけないという強いお気持ちがある」という。天皇陛下は今年2月の誕生日会見で「愛子には、感染症が落ち着いて、いつの日かキャンパスに足を運べるようになると良いなとは思います」と語られていた。だが、3月下旬に“まん防”が解除され、多くの学生がキャンパスに足を運ぶようになった現在も、愛子さまは“登校自粛”を続けられるというのだ。皇室ジャーナリストの渡邉みどりさんは、この決断に愛子さまの“内親王の矜持”を感じたと語る。「両陛下のもとでお育ちになった愛子さまは、“天皇の娘”という立場を深く自覚されています。万が一にも天皇皇后であるご両親に感染させてしまったときの“事の重大さ”を、十分すぎるほどに理解されているのです。ご自身のキャンパスでの学生生活よりも、親孝行をとったということだと思います」愛子さまは3月の会見で「両親と話をしておりますと、豊富な知識や経験に驚かされることが多々ございまして、また、両親の物事に対する考え方や、人との接し方などからは学ぶことが多くございます」とお話しになっていた。「愛子さまはご自宅で、大学での専攻に加えて、日本の伝統や歴史の勉強もなさっているのでしょう。ご家族は仲がよいと聞きますし、天皇陛下から皇室に関する歴史なども教わっているのではないでしょうか」(前出・渡邉さん)愛子さまが自粛されているのは大学への通学のみではない。学習院女子高等科時代の愛子さまの同級生も、残念そうに話す。「1月には『二十歳の会』という同窓会が開かれたのですが、会場に愛子さまはいらっしゃいませんでした。それでも、会場に用意されたスクリーンに、愛子さまは振り袖姿で登場してくださったのです。映像でのリモート参加ではありましたが、愛子さまがお出ましになったことで会場も非常に盛り上がりました」■大学時代に「新しい発見と経験を」と陛下内親王として、キャンパスライフを諦めて両陛下に尽くされる愛子さま。ただ、天皇陛下は複雑な思いを抱かれているという。「皇族にとって、大学在学中こそがもっとも自由を謳歌できる時期。“国民に寄り添う”という姿勢を大事にするためには、ほかの学生と同じように授業やサークル活動に取り組み、ときには“羽目を外す”ことも大切だと、陛下はお考えなのです」(宮内庁関係者)陛下は2月の会見でも「私自身の大学生活を振り返ってみますと、気が付けばもう40年くらいも前になりますが、大学では様々な人たちと顔を合わせて授業を受けたり、放課後の部活動で一緒に参加したり、見ず知らずの人と学生食堂で隣り合ったり、新しい発見と経験の連続であったように思います」と回想されていた。音楽部の先輩や同級生に池に投げ込まれたという話も、陛下がよく話されるエピソードだ。「学習院は、中等科と高等科は男女別学です。そのため、大学での女子学生との交流は新鮮だったと、陛下は当時の会見でお話しになっていました。愛子さまも、初等科以来ほとんど男子学生との交流はありません。将来の結婚ということを見据えても、大学時代に“出会い”があれば……と、陛下も期待されているのではないでしょうか。皇族の恋愛には非常にたくさんのハードルがあることを、陛下は身をもって経験されてきましたから……」(前出・宮内庁関係者)実は、“恋愛よりも両親の健康”と、愛子さまが感染対策を徹底される陰には、ある“苦い記憶”があるという。「’11年の11月、愛子さまはマイコプラズマ肺炎で入院されたことがあります。その直後、上皇陛下も軽度の気管支炎で入院。同じくマイコプラズマによる肺炎の可能性が高いとの診断でした。感染経路は明確にはわかりませんでしたが、このとき、愛子さまから上皇陛下に感染したのではないかという見方もあったのです。上皇陛下は幸い大事には至りませんでしたが、そういった出来事を忘れることなく、愛子さまはご自身が感染症を持ち込まないようにと決意を固められたのではないでしょうか」愛子さまは会見で「新型コロナウイルス感染症の感染拡大が一日も早く収束し、このような厳しい状況が落ち着いた先に、少しでも不安の少ない環境で、皆が有意義な学校生活を送ることのできる未来が待っていることを願っております」と、全国の学生たちに向けてメッセージを送られた。大学生活は残り2年。学習院のキャンパスに、愛子さまの笑顔が花開く日が一日も早く来ることを願いたいーー。
2022年04月14日成年会見を行われた愛子さま(’22年3月17日)「3月24日、宮内庁の西村泰彦長官は定例会見で、愛子さまの成年にあたっての記者会見と悠仁さまの卒業式の日程が重なったことは“ミスだった”という説明をしました。愛子さまの会見の日取りを調整する過程で、悠仁さまの卒業式のことが思い浮かばなかったといい、“できれば別の日がよかった”とも吐露しました」(皇室担当記者)くしくも重なった、愛子さまと悠仁さまの“晴れ舞台”。「3月17日の午前8時過ぎ、秋篠宮ご夫妻と悠仁さまがお茶の水女子大学附属中学校に到着されました。卒業式に臨む前、悠仁さまは“充実した3年間になった”と、コメントされました」(同・前)ユーモアあふれるご回答愛子さまの初会見は、同日の午後2時過ぎから行われた。「前日の深夜に福島県沖を震源とする大きな地震が起こり、東北を中心に死者やけが人が出ました。両陛下と愛子さまは、地震による国民の安否を案じられており、会見を中止するべきか悩まれていたそうです」(宮内庁関係者)開始直前まで関係者と相談したうえで決行した会見。冒頭で被災者へのお見舞いの言葉を述べられた。宮内庁OBで皇室ジャーナリストの山下晋司さんは、こう振り返る。「ご立派な記者会見でした。緊張されていたようですが、お手元の紙に視線を落とすことなく、時折“え~っと、次は何だったっけな”という感じでお考えになっていたところなど、自然体でおおらかなお人柄が伝わってきました」宮内記者会が事前に提出した5問と、アドリブで出された3問の関連質問に回答された愛子さま。「両陛下のアドバイスを受けながら、ご自身のお気持ちに合う言葉を探し、推敲を重ねる過程で、自然と文章を覚えられたそうです。愛子さまは事前に両陛下とリハーサルを行われており、雅子さまは本番のとき、近くの別室で待機されていたそうです」(前出・宮内庁関係者)両陛下ゆずりのユーモアあふれるご回答が話題となった。「長所は“どこでも寝られるところ”、両陛下との思い出は“海にサーフボードを浮かべて、3人で座る挑戦をしたら全員見事に落下したこと”など、思わず微笑んでしまうようなエピソードが披露され、会見の雰囲気は非常に和やかでした」(前出・記者)象徴天皇制に詳しい名古屋大学大学院の河西秀哉准教授は、こう話す。「“まじめさ”も印象的でした。関連質問でウクライナ情勢について問われた際は、“メモを見させていただきます”と、断りを入れたうえで天皇陛下の記者会見の言葉を引用されました。その場で出される質問を予測し、準備されていたということですよね。綿密に考えられたのだと思います」前出の山下さんには意外だった点があるという。「短所として“小さいころから人見知り”とおっしゃったことです。分け隔てなく国民と接している天皇や皇族が、自ら“人見知り”とおっしゃることなどなかったと思います。同時に“克服できれば”とおっしゃっていましたが、公務に支障をきたすならまだしも、人見知りの一面も含めて愛子内親王殿下のお人柄です。ご無理なさらず、今までどおりマイペースでお過ごしになっていただきたいですね」「悠仁さま派」と「愛子さま派」会見は、約30分間にも及ぶ長丁場だった。「皇室の方々は、ご自身の考えを自由に発信することができません。特に女性皇族の場合は会見の機会が少なく、基本的には成年や結婚に際してのみ。国民にとっても、お人柄を知ることができる貴重な場なのです」(河西准教授)だからこそ、会見のご様子が比較されてしまうのだろう。「昨年秋に行われた眞子さんと小室圭さんの結婚会見は、事前に用意した文書を読み上げただけで質疑応答もありませんでした。10分程度の会見で、記者と目を合わせることもなかった……。会見に至る経緯が異なるとはいえ、愛子さまとの差は歴然です」(前出・記者)小室さん夫妻の結婚から5か月以上が経過した今もなお、秋篠宮家へ向けられる視線は厳しい。「愛子さまへの敬愛が膨らむのはうれしいことですが、ほかの皇族方と比較するきっかけになってしまうのは望ましくありません。皇族であろうと生身の人間。それぞれの個性やお立場がおありです。ただ、やむをえない部分があるのは理解できます。皇位をめぐっては“悠仁さま派”“愛子さま派”という見方をされることもありました。その中で、おふたりの立ち居振る舞いに耳目が集まるのは、仕方のないことなのかもしれません」(宮内庁OB)愛子さまの会見では、上皇さまや天皇陛下の言葉を引用される場面が多々あった。「皇室のあるべき姿を深く理解しておられる愛子さまに対し、ご即位を熱望する声が上がっています」(皇室ジャーナリスト、以下同)『毎日新聞』が昨年11月から今年1月にかけて実施した世論調査でも、7割超が女性天皇を容認。しかし、「愛子さまが天皇になられる可能性はゼロといっていいでしょう。皇位継承に関する有識者会議の報告書でも、悠仁さまの皇位継承は“ゆるがせにしてはならない”と明記されています。それにもかかわらず、折に触れて悠仁さまと愛子さまは比較されてしまうのです」愛子さまが「うれしかった」愛子さまの人生を大きく左右する議論は、現在進行形で進められている。「女性皇族が結婚後も皇室に残る案が検討されています。ただ、この法案が成立したとしても、対象となる女性皇族に“皇室に残ること”を強制するとは思えません。現行法下で皇族女子としてお生まれになった方々には“皇室に残るか、離れるか”の選択権が与えられて当然だと思います」とある秋篠宮家関係者はこう語る。「将来即位される悠仁さまを近くで支えるお立場として、もっともふさわしいのは姉の佳子さまでしょう。しかし、佳子さまは“自由がない”皇室から逃れることを願っていると報じられており、生涯皇室にとどまる選択をされるとは考えにくい。一方、愛子さまからは“これからも皇族として務めを果たしたい”というお気持ちが感じられます。両陛下、そして悠仁さまの“相談役”に名乗りを上げられることもあるのではないでしょうか」3月18日、悠仁さまは中学校を無事に卒業した報告のため、両陛下や愛子さまと面会された。「愛子さまは、新年行事ぶりに悠仁さまとお会いになったことに対し“うれしかった”と喜んでおられたといいます。悠仁さまも、皇居を後にされる際には車窓を開け、沿道に集まった人々が見えなくなるまで手を振り続けられた。その表情はとても晴れやかに見えました。皇室の中では、同世代のおふたりが心を通わせ合っているのかもしれません」(前出・記者)将来の皇室を支える、おふたりの“ポジション”が見えてきた─。山下晋司皇室ジャーナリスト。23年間の宮内庁勤務の後、出版社役員を経て独立河西秀哉名古屋大学大学院人文学研究科准教授。象徴天皇制を専門とし、著書多数
2022年04月01日世界でもっとも有名な女性である、英国君主エリザベス2世初の長編ドキュメンタリー映画『エリザベス女王陛下の微笑み』の公開日が6月17日(金)に決定し、ポスタービジュアルと予告編が解禁された。本作は、昨年9月に急逝したロジャー・ミッシェル監督が新型コロナウィルスによって次回作の撮影機会が奪われてしまったとき、「ドキュメンタリー作品を作ろう」とアイディアの一番手に女王陛下を挙げたことをきっかけに製作された。先日、エリザベス2世のコロナ罹患のニュースが全世界に配信されたが、現在は無事回復し、今月29日には昨年4月に崩御した夫フィリップ王配を偲ぶ礼拝に出席予定。夫を愛し、精力的に公務をこなす姿は昔から変わらず、その貴重な姿を改めて見られるのが本ドキュメンタリー映画の魅力のひとつともいえる。今回解禁された予告編は、25歳の若さで即位した姿とともに、「重い」「下を向くと首が折れそう」と王冠を前に語るエリザベス2世のチャーミングな言葉から始まる。そして英国出身のトム・グレナンの「Royal Highness」に乗せて、その知られざる素顔をテンポよく映し出していく。「皆様にお分かり頂きたいのです。女王も結構大変だと」というスピーチや、競馬で「ダメ、負けちゃう!」と言いながら興奮する姿は実にキュートで、ポール・マッカートニーが「若者にとってアイドルだった」と語る場面も。また愛するフィリップ王配との結婚25周年のスピーチで、「今日は『私は』ではなく『夫と私は』とお話します」と語ったエピソードなど、女王として、またひとりの女性としての生き方を垣間見ることができる。併せて解禁されたポスタービジュアルは、微笑むエリザベス2世の姿と「わたくしのすべてをご覧に入れましょう」というコピーが配され、本編へのワクワク感と期待感が高まる仕上がりになっている。『エリザベス女王陛下の微笑み』は6月17日(金)よりTOHOシネマズ シャンテ、Bunkamuraル・シネマほか全国にて公開。(text:cinemacafe.net)■関連作品:エリザベス 女王陛下の微笑み 2022年6月17日よりTOHOシネマズ シャンテ、Bunkamuraル・シネマほか全国にて公開© Elizabeth Productions Limited 2021
2022年03月23日愛子さま(’21年12月)「母の“生まれてきてくれてありがとう”という言葉にかけて、私も“生んでくれてありがとう”と伝えたいと思います。(中略)これからもどうかお体を大切に、これからも長く一緒に時間を過ごせますようにという言葉も添えたいと思います」ご両親である天皇・皇后両陛下にお伝えしたい言葉を聞かれ、このように述べられたのは天皇家の長女・愛子さま。3月17日の午後2時過ぎ、愛子さまが成年になられたことに伴う記者会見が行われた。しかし、実はこの会見を巡り、当日ぎりぎりの時間まで開催の可否が決まらなかったという。成年会見で問われた内容とは「会見前日の深夜に福島県沖を震源とする大きな地震が起こった影響で、東北を中心に死者やけが人が発生しました。愛子さまは両陛下から受け継がれた“国民と苦楽をともにする”精神をお持ちです。今回の地震による国民の安否を案じられており、会見を中止するべきかと悩まれていたそうです。そういった経緯で会見当日、それも開始時刻の直前まで関係者と相談しながら会見を決行することが決まったという経緯がありました」(宮内庁関係者)実際、最初の質問にお答えになる前の冒頭、地震の被災者に対するお悔やみのお言葉を述べられた。会見を決行された1つの要因として、学業優先である愛子さまにとって現在春休みに入られていることも影響しているのかもしれない。「愛子さまは昨年12月に20歳になられました。前例ではお誕生日の近くで会見を行うことが恒例でしたが、愛子さまは学業を優先されたいうことで、大学の授業やレポート提出などを終えて落ち着いた春休みの時期に行うことになったのです。この日のために、会見での回答内容や立ち振る舞いなども含めて、両陛下からもアドバイスを受けられていたそうです」(侍従職関係者)今回問われた質問は全部で5問。今回はそれらの質問の後、その場でアドリブで出される関連質問が記者から3問付け加えられた。成年を迎えられたお気持ちやご自身の性格、ご両親である天皇皇后両陛下との思い出、コロナ禍における大学生活をどう受け止めていらっしゃるかについて、記者から質問が出たのである。これらの質問事項はテレビ局と新聞社が事前に宮内庁を経由して愛子さまの手元にわたっており、会見当日までご本人が熟考なさるもの。愛子さまにとって初めての記者会見ということで注目度が高まっていたが、その中でも関係者の間でいちばんの注目を集めていたのは、最後の質問だったーー。「笑顔になれる関係が理想です」「事前に用意された最後の質問である5問目は、ご自身の結婚観や理想のパートナー像を問うものでした。これは成年会見において毎回聞かれる定番の質問なのですが、この後に“小室眞子さんの結婚の経緯をどのように受け止められているか”とも問われたのです」(前出・宮内庁関係者)2018年2月から3年半の婚約延期を経た昨年の10月末、小室圭さんと結婚された眞子さんは現在、アメリカのNY州で幸せな生活を送っている。以前まで、愛子さまと眞子さんは赤坂御用地内にあるそれぞれのお住まいに暮らしていたこともあり、普段から交流が深く、愛子さまにとって眞子さんは“姉”のような存在だったという。特別で大切な存在である眞子さんが直面した結婚問題に、愛子さまがどのようにお考えになっているのか、そのご回答に集まっていたのだがーー。「眞子さんの結婚の経緯につきましては、朝見の儀や納采の儀などの儀式を行わない運びとなったのは、天皇陛下や秋篠宮皇嗣殿下のご判断によるものと伺っておりますので、私から発言することは控えさせていただきたいと思います」と、結婚に関するご自身の思いを語ることは避けられた。続けて、「眞子さんは10歳年上でございますので、物心ついたときには、すでに頼りになるお姉さまのような存在で、周りを見渡し、自ら率先して手伝いされる姿が特に印象に残っています。また、私が生まれた当初から、同じ敷地内に住んでいらっしゃいましたので、赤坂のお庭で一緒に遊んでいただいたことや、折に触れて楽しくお話をさせていただいたり、ゲームで盛り上がったりしたことは、私の眞子さんとの大切な思い出です。幼いころから、いつも変わらず明るく優しく接していただいたことをありがたく思うとともに、いとことして末永いお幸せをお祈りしております」思い出を想起されながら、眞子さんの幸せを願われた愛子さま。理想のパートナー像については、「理想のお相手については、特別これといったものはございませんが、一緒にいてお互いが笑顔になれる関係が理想的ではないかと考えております」と明かされた。基本的に最後まで手元にある紙を見ずに回答され、立派に成年会見を終えられた愛子さま。今後は成年皇族として、より一層の活躍を期待したい。
2022年03月17日’19年10月に開催された即位の礼の晩餐会。天皇皇后両陛下と笑顔で握手していたのは、ウクライナのゼレンスキー大統領とオレナ夫人。オレナ夫人の装いは、晩餐会は青、即位礼正殿の儀では黄とウクライナ国旗色だったーー。ロシア軍がウクライナに侵攻を開始したのは、陛下が「人と人との交流が、国や地域の境界を越えて、お互いを認め合う、平和な世界につながってほしい」とのお言葉を公表された、天皇誕生日の翌2月24日。昨年の天皇誕生日には、親日家であるゼレンスキー大統領から手紙が届き、お祝いの言葉と両陛下をウクライナに招待したい旨が記されていた。両陛下はウクライナの人々を苦しめている戦闘の早急な終結を、強く願われているだろう。
2022年03月12日『珍スポット』という言葉があるように、世の中には珍妙な光景が広がるスポットが存在しています。静岡県伊豆半島の最南端に位置する石廊崎(いろうざき)を訪れた、あおすけ(@aosuke32)さんは『珍スポット』を目撃。Twitterに実際の写真を投稿したところ、面妖な光景に多くの人が驚く声を上げました。すごーい!石廊崎の断崖に和式便所があった!恐らく使われてないと思うが… pic.twitter.com/t4ccqIW9CL — あおすけ (@aosuke32) March 9, 2022 石廊崎の断崖にあったのは、和式のトイレ!ここでトイレを利用すれば、背後には海が広がっています。こんなにも開放感のあるトイレは、ほかにないかもしれません…!便器をよく見てみると、陶磁器製の染付古便器であることが分かります。こういった装飾の和式トイレは明治時代を中心に製造されていたのだとか。『開放的すぎるトイレ』の真相は…このトイレの近くにある石室神社に筆者が話をうかがったところ、このトイレは昭和天皇が訪れた際に用意されたものなのだとか。トイレが実際に使用されることはなかったそうですが、昭和天皇のお車が通れるように神社周辺の砂利道を整えるなどの用意もしていたそうです。また、当時はトイレの囲いもあり、開放的な造りではなかった様子。台風などで柵が壊れ、今の状態になったといいます。【ネットの声】・なんという秘境のトイレ…!使うのに度胸が要りすぎるだろ!・開放感がありすぎて爆笑した。ここじゃ出るものも出なさそう。・どうせなら海を見ながらしたいから、便器は逆向きがいいな。残念ながら実際に使うことはできませんが、多くの人が「自分がこのトイレを使うことになったら…」と想像した様子。「開放感があって気持ちがよさそう」と思うか、「落ち着いてトイレなんてできない!」と思うかは、性格によりそうですね。[文・構成/grape編集部]
2022年03月11日2月23日、62歳の誕生日を迎えられた天皇陛下は宮殿で催された祝賀の儀に臨まれた。ネイビーのロングドレス姿の雅子さまと並んで、お祝いの挨拶を受けられる陛下。多くの人が集う一般参賀や、飲食を伴う会は3年連続で中止となったが、昨年とは違い、誕生日の儀式に雅子さまとお二人で出席されたことで華やかな印象が残った。誕生日の会見で、陛下は雅子さまについて「私の日々の活動を支えてくれる大切な存在であるとともに、公私にわたり良き相談相手になってくれています」と語られたほか、「雅子は」「雅子と共に」「私たち」と繰り返し述べられ、お二人で歩むことを大切にしているお気持ちを表された。雅子さまの昨年末からのお疲れについては「感染症の感染拡大による活動への制約などから、体調を整えにくくなっている面はあります」とご説明。ご夫婦の絆を感じさせる会見となった。誕生日会見で語られたご夫婦の絆ーー陛下のお言葉と写真で振り返ります。■「雅子と共に、『平和の礎』を訪れ、二人そろって、沖縄戦で亡くなった全ての方々への思いを新たにいたしました」’97年、本土復帰50年にあたり沖縄への思いも述べられた。■「私は、雅子と共に、引き続き被災地に心を寄せていくつもりです」’17年、津波の被害が甚大だった宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区で供花された。■「新型コロナウイルス感染症の影響により、国民の皆さんと広く直接触れ合うことが難しくなっていることを、私も雅子も残念に思っています」オンラインで日本各地を訪問され、多くの人とご交流。そのメリットもお感じになっている。■「愛子と3人でいると、私たちの団欒は、笑いの絶えない楽しいものになっています」20歳になられた愛子さまと楽しそうに語らいを。お誕生日写真で、優しい笑顔で見つめ合われる両陛下。そんな写真からもお二人の心の絆が感じられる。
2022年03月05日2月23日は天皇誕生日。2022年、62歳の誕生日を迎えられた天皇陛下は、記者会見で2021年に成年を迎えられた愛子さまとの思い出などを語られました。「同じ親としてグッとくる」天皇陛下、愛子さまの印象深い思い出は…娘が「天皇陛下はどこに住んでいるの?」と聞いてきて…3人の子供を育てる、母親(@seikunnoouchi)がTwitterに投稿した、8歳の娘さんとのエピソードをご紹介します。天皇誕生日当日、娘さんが投稿者さんに「天皇陛下って、どこに住んでいるの?」と質問してきたそうです。投稿者さんは「東京都にある皇居に住んでいるよ」と教えてあげました。すると、自宅から皇居まで距離があることを悟った娘さんは、衝撃的な言葉を発したそうです。「じゃあ、遠いから誕生日ケーキ届けられへんわ…」なぜか、娘さんは天皇陛下に対し、友人のような親しみを感じていたのです!どうしてもお祝いがしたかったのか、ケーキを購入するよう投稿者さんにお願いした娘さん。その日の夜、主役を招待することはできなかったものの、投稿者さん一家は、自宅で天皇陛下の誕生日を祝ったのでした。投稿者さんによると「わりと盛り上がった」とのことです。娘に、天皇ってどこに住んでるのか聞かれ、東京の皇居ってとこだと教えたら「じゃあ遠いから誕生日ケーキ届けられへんわ…」と天皇陛下に対して友だち感覚すぎる。そして今日、天皇誕生日を理由にケーキを買わされ、今なぜかみんなでケーキを食べてる。主役はいないけども。わりと盛り上がってる。— *イケメン自閉症せいくん*ブログ更新中* (@seikunnoouchi) February 23, 2022 この投稿には「ほほ笑ましい」「娘さん、かわいすぎる!」などの声が寄せられています。・とてもほほ笑ましいですね!温かい気持ちになりました。・娘さんの気持ちがなんだかかわいくて笑っちゃいました。天皇陛下にこのエピソードが届くといいな~!・みんなで祝っている姿を想像すると癒されます!うちでもケーキを買ってお祝いしようかな。・会ったことがなくても、その人の誕生を祝えるって素敵です!娘さん、その気持ちを大切に育ってね。娘さんの温かい気持ちは、多くの人の心に癒しを届けたようです。[文・構成/grape編集部]
2022年02月26日好きな人ができれば、相手にも自分のことを好きになってもらいたいと思うはず。そして、最終的に両想いになれれば幸せですよね。でも、両想いにたどり着くのは、そう上手くはいかないもの。では、好きな人と両想いになるにはどうすればいいのでしょうか?そこで今回は男女に聞いた“好きな人と両想いになる秘訣”をご紹介します。「誰にも言っていないんだけど」を使う「今まで好きな人ができたときに使っていたのが、『誰にも言っていないんだけど』という言葉です。そのあとにちょっとしたことを打ち明けます。言われた相手は自分だけ特別なのかもと感じて、かなり嬉しいみたいですね。相手からも秘密を打ち明けられて、一気に距離が縮まることがあります」ナツキ(仮名)/27歳誰にも言っていないことを打ち明けるのは、特別なことであり嬉しいはず。秘密を共有している気分になりますよね。好きな人と2人だけの秘密で、心の距離を縮めていきましょう。持っているモノを褒める「気になる女性に対しては、その人の持っているモノを褒めますね。バッグや財布、スマホケースなどいろいろ。『それ、可愛いね』と伝えると、毎回すごく喜んでくれます。自然と会話も弾むようになり、付き合う確率はアップすると思いますよ」カズキ(仮名)/28歳褒められるのは誰でも嬉しいもの!特に持ち物はその人のセンスを反映しています。なのでそこを褒めるのは、内面を褒めることにつながるんですね。相手からすると、深い部分を理解してもらえている気分になるのでしょう。また、自分のことをよく見てくれていると感じて、相手を意識し始めるきっかけになるのかもしれません。会うたびに触れる回数を増やす「やっぱりボディタッチは有効だと思います。でも、相手に触れるのって緊張しますよね。なので最初のデートでは、まず1回触れることを目標に!そこからだんだんと数を増やしていきます。すると、相手も触れてきてくれるし、そのうち自然と手をつなぐ流れになることがほとんどです」ユズキ(仮名)/26歳カラダに触れることで、心の距離も縮まっていくのでしょう。勇気のいるアクションですが、最初の1回を乗り越えれば、少し気分も楽になっていくようです。あえて無茶なお願いをする「好きな人ができたら、いきなり誘うことがあります。『今日会えないかな?』とか、『今、〇〇にいるんだけど来ない?』と言って誘います。断られるんですけど、それでいいんです。『いきなり誘ってごめんね』と丁寧に謝ると、相手も『行けなくてごめんね』となりますよね。すると、次の約束がスムーズに進みやすくなるんです」ヒロシ(仮名)/30歳最初の段階での突然のお誘いは、ハードルが高くて断られることがほとんど。でも逆に、『次に誘われたら行ってあげようかな』という気持ちにさせることができるようです。高度なテクニックですが、好きな人とのデートの約束をするために一度試してみる価値はありそうですね。今回は、“好きな人と両想いになる秘訣”をご紹介しました。それぞれ自分なりの方法を持っているようですね。参考にするもよし、自分なりに工夫をして新たな方法を見つけるもよし!とにかくまずは、好きな人と接点を持っていくことが大切でしょう。©Anna Bizon/gettyimages©Commercial Eye/gettyimages文・塚田牧夫
2022年02月23日2022年2月23日は、天皇陛下の誕生日です。62歳の誕生日を迎えられた天皇陛下は、同月21日に記者会見に応じられました。天皇陛下、二十歳の愛子さまについて「感慨深い」2021年12月、純白の『ローブ・モンタント』を身にまとい、成年行事に臨まれた、天皇、皇后両陛下の長女である愛子さま。女性皇族の正装で、お姿を見せた愛子さま凛としたたたずまいに「お美しい」「素敵!」天皇陛下は記者会見で、成年を迎えられた愛子さまについて「感慨深く思いました」と振り返られました。いつの間にか20歳という年齢を迎え、大人の仲間入りをすることになったことを感慨深く思いました。日頃から、多くの人々に助けられ、支えられているということに、愛子が感謝の気持ちを持っていることを親としても嬉しく思っています。印象深い思い出については、学校の水泳の授業で、小さい頃にはビート板を使ってプールで短い距離を泳いでいた愛子が、女子中等科時代、静岡県の沼津の海で3kmの遠泳ができるようになった時や、中学の修学旅行で広島を訪れた際に強い衝撃を受け、平和への思いを文章にまとめた時などに成長を感じ、嬉しく思ったことを覚えています。また、コロナ禍で大学生活を送る愛子さまについて「たとえどのような環境にあっても、実り多い学生生活を送ることができればと願っています」とも語られました。2021年に結婚した、小室眞子さんについて一方で、同年10月に結婚した姪の小室眞子さんについては「今後幸せな人生を歩んでいってほしいと思いますが、同時に、この間、多くの方に心配をお掛けすることになったことを心苦しく思っています」と感想を語られています。また、記者会見では、小室さんの結婚を巡る週刊誌報道やインターネット上の書き込みについても質問が上がりました。天皇陛下は、憲法が保障する自由な表現は「尊重すべきもの」とした上で、一般論と前置きし、「他者に対して意見を表明する際には、時に、その人の心や立場を傷つけることもあるということを常に心にとどめておく必要がある」と述べられています。天皇陛下のお言葉に、ネットからはさまざまな声が上がりました。・天皇陛下、お誕生日おめでとうございます。・愛子さまについて、1人の親として言及されていて、同じ親としてグッとくるものがありました。・正直、小室眞子さんの結婚について発言されたことに驚いた。親族だもの。心苦しかっただろうな。天皇陛下が記者会見で語られた、親族への想いは、多くの人の心を温かくしたようです。[文・構成/grape編集部]
2022年02月23日’93年6月、雅子さまと結婚された際の祝賀パレード。沿道には19万人の国民が集まり、テレビ中継の最高視聴率は79・2%を記録した。2月23日、天皇陛下が62歳のお誕生日を迎えられた。いまだに新型コロナウイルスが日本中で猛威を振るい続ける中、陛下のお誕生日を祝う一般参賀は今年も中止となった。「国民の皆さん一人一人の努力を深く多といたします。長く困難な状況が続いておりますが、今しばらく、誰もがお互いを思いやりながら、痛みを分かち合い、支え合う努力を続けることにより、この厳しい現状を忍耐強く乗り越えていくことができるものと固く信じております」お誕生日に際する記者会見で、こう述べられた陛下。今年の元旦に配信された新年に際してのビデオメッセージでもコロナ禍で困難な状態にいる国民を案じられていた天皇・皇后両陛下。両陛下は、オンラインを通じて公務を行われているが、今年こそは少しずつ直接国民と触れ合われる機会が増えていくことを願うばかりだ。62歳のお誕生日を迎えられたこのタイミングで、『週刊女性』がこれまで撮りためてきた、陛下の幼少時代から今日までを秘蔵写真で振り返る。◆秘蔵写真で振り返る天皇陛下、天皇ご一家●’60年6月、浩宮さま(当時)が美智子さまにあやされるご様子。生後4か月に当たって、皇室の儀式のひとつである『お箸初めの儀』が行われた。●’63年2月、3歳をお迎えになった浩宮さま。鶴、橘、滝が刺繍でほどこされたお着物である『落滝津文様』の『黒紅綸子縮緬振袖』をお召しに。●’64年10月、東京五輪のマラソンを観戦される皇太子ご一家(当時)。この57年後、浩宮さまは天皇に即位され、東京五輪の開会式で宣誓を行われた。ごきょうだいで仲良くスケート●’67年5月、ご両親がペルーなどに海外訪問される際に泣かれてしまった礼宮さま(当時)を浩宮さまが優しくあやされた。●’69年8月、『軽井沢プリンスホテル』で静養されていた皇太子ご一家。浩宮さまは、まだ幼い赤ちゃんだった紀宮さま(当時)を抱っこされて。●’71年2月、浩宮さまが11歳のお誕生日を迎えられた際のお写真。東宮御所内のお庭で読売ジャイアンツのユニフォーム姿で野球を。ジャイアンツの長嶋茂雄のファンだった。●’80年2月、浩宮さまの20歳の成年式にて。『加冠の儀』で古式の装束に身を包まれた。●’81年2月、読売ランドのアイススケート場で滑られる浩宮さまと礼宮さまと紀宮さま。見つめ合われる2人●’86年10月、ファンだったという歌手・柏原芳恵のコンサートを鑑賞された浩宮さま。花束を用意して、柏原と懇談された。●’93年4月、皇太子さま(当時)と雅子さまが結婚される直前に宮内庁が公開したお写真。赤坂御苑を散策されるご様子からは、あたたかな家庭を築かれるであろう兆しが感じられる。●’93年6月、『結婚の儀』で皇太子さまが『黄丹袍』、雅子さまが『十二単』をお召しになられた。●’93年6月、皇太子さまと雅子さまのご結婚に際して行われた『宮中饗宴の儀』。皇居・宮殿で盛大に行われ、おふたりが仲睦まじく会話される場面も。両陛下の華麗なスキー姿●’94年11月、ご結婚から1年半後にサウジアラビアへ公式訪問。リヤド近郊の通称“赤い砂漠”でのおふたり。おふたりとも語学が堪能のため、現地住民と通訳なしで会話される場面も。●’98年8月、『全国農業青年交換大会』に出席するため石川県を訪問された際、加賀市にある『奥谷梨団地』でナシ狩りを楽しまれた皇太子ご夫妻(当時)。●コロナ禍になるまで恒例だった“スキーご静養”。長野県の奥志賀高原スキー場では、愛子さまがご幼少のころからご家族でスキーを楽しまれている(写真は’01年2月)●’02年2月、皇太子さまが42歳のお誕生日をお迎えになるにあたり撮影されたお写真。1歳となられた愛子さまを抱っこされる殿下は“パパの顔”に。12万人がお祝いに駆けつけたパレード●’07年10月、徳島県で藍染を体験された皇太子ご夫妻は、案内役の説明を熱心に聞かれていた。藍染体験で作成されたハンカチは愛子さまへのお土産にされたそう。●’16年8月、長野県で開催された『山の日記念大会』の式典に参加された皇太子ご一家。陛下は登山が趣味で、雅子さまと愛子さまとも度々山に登られている。●’19年11月、天皇陛下の即位を祝うパレードである『祝賀御列の儀』。燕尾服の陛下とローブデコルテにティアラ姿の雅子さま。およそ11万9千人の国民が沿道に集まった。●’20年1月、令和にお代替わりをしてから初めての『新年一般参賀』。皇居には皇室の方々をひと目見ようと、およそ6万9千人の国民が集まった。●’20年2月、天皇陛下のお誕生日に際して宮内庁が公開したお写真。『三の丸尚蔵館』の収蔵品を御覧になる両陛下。
2022年02月23日2月23日、62歳の誕生日を迎えられる天皇陛下。誕生日に公表される会見の回答では、成年皇族となられたばかりの愛子さまへのお言葉にも注目が集まる。現在学習院大学に通われる愛子さまと同じく、幼稚園から大学まで学習院で過ごされてきた陛下は、どのような学生だったのだろうか。大学の卒業アルバムをめくると、「徳仁親王」というお名前の下に「歴史の研究を続け、先人の足跡を学びながら未来への展望につなげたい」と陛下のコメントが添えられていた。学習院時代の印象をご学友に聞くと、「お人柄については、非常にいいやつの一言です」という。「今では『いいやつ』などとは決して申せませんが(笑)、当時の感覚ではこの表現がいいと思います」陛下と話し始めたきっかけは名前を聞かれたことだった。当初はどうお呼びしていいかわからず、「浩宮さま」と呼ぶと、陛下から「やめてよ、同級生でしょう。僕の名前は徳仁だからナルと呼んでほしい」と言われ、それ以来気軽に会話をするようになった。■散髪もお弁当作りもされていた美智子さま「高等科時代のことですが、『ナルは散髪行くのも大変だろ?』と尋ねると、『おふくろが切ってくれている。レザーカッターで』とおっしゃっていて驚きました。そしてお弁当は当時珍しかったフランス製の密閉容器に、おかずがきれいに入れられていました。そのお弁当も、おふくろ、つまり美智子さまが作られていたとのことでした」お弁当を召し上がらない日は、校内の食堂を利用されていたという。「陛下はカツ丼をよく注文されていましたね。食堂のトンカツはまるでハムカツのように薄かったので深く印象に残っています」大学時代のご学友からは、こんなエピソードも。「大学時代は、陛下が食堂で150円のきつねうどんを召し上がっていたのをお見かけしました。ほかの学生に交じり、順番に並ばれていましたね。学食にもお付きの護衛の方が一緒に来るのですが、護衛の方はガッツリしたものを食べているのに、陛下は割と少なめだなと思いました」■『平凡パンチ』『プレイガールQ』にご興味を示されて陛下と会話を重ねていくなかで、好奇心旺盛な一面が垣間見えることもあった。「友人グループで雑談をしているときに、『ナル、今いちばん何したい?』と聞くと、『みんなと茶店(さてん=喫茶店)でお茶したいし、本屋に行って“平パン”とか立ち読みしてみたい』とお答えになりました」“平パン”とは平凡出版(現・マガジンハウス)が発行していた、若者向けの週刊誌『平凡パンチ』のことだ。また、あるときには、陛下が「一度でいいから、『プレイガールQ』を見てみたいんだ」とおっしゃったこともあったという。少しお色気シーンもあり、高校生に人気だったアクション・ドラマだ。「陛下が最初に『深夜テレビ、見たことある?』とお尋ねになってから、21時枠で放送されていた『プレイガールQ』の名前を出されたので、陛下にとっては21時は深夜という感覚なのかもしれないと思いました」当時の東宮家(現・上皇ご一家)の方たちは、夕食の時間はご家族で過ごされ、20時になると私室に戻られていたのだ。テレビは、弟の秋篠宮さまが好まれていたウルトラマン・シリーズなどを一緒にご覧になっていた。その後は、陛下も私室に入られご自身のことや勉強などをされていたという。「学習院の教室や講堂には、警備のために外から中の様子がうかがえる覗き窓がありました。同じようにお住まいの東宮御所にも覗き窓があったそうです。そのうえ30分に一度、私室でのご様子を確認する見回りがきていたというのです。公人としては果たせない、普通の若者の日常への淡い憧れがあったのではと思います」大学卒業までを振り返り、ご学友は「ニックネームで呼び合い、友人たちと集まったときには、同じような感覚で会話に参加してくださる陛下に身近さを感じていました」と話す。学生時代からご友人たちと、フランクなご交流を続けられていた天皇陛下。ユーモラスで気さくなお人柄は、令和の「国民の中に入っていく」皇室の姿につながっている。
2022年02月22日「連日、日本人選手の活躍が続く北京五輪ですが、愛子さまも、天皇皇后両陛下とご一緒にテレビ観戦されていると聞いています」そう語るのは宮内庁関係者。天皇ご一家は、長年ウインタースポーツに親しまれてきた。本誌は、愛子さまにスケートを指導してきた長久保初枝さんに話を聞いた。長久保さんは、2大会連続で五輪入賞を果たした日本女子スピードスケートの黎明期の第一人者だ。「愛子さまがスケートの練習を始められたのは幼稚園の年長のころだったと思います。フィギュアスケートをされていた佳子さまに憧れて『ジャンプを飛びたい』とおっしゃったこともあったそうです。私が足をケガしたため、途中から直接ご指導ができなかったのは残念でした。高3の3月に最後の練習をする予定でしたが、それもコロナ禍でできなくなってしまいました。コロナ禍が落ち着いたら、立派に成人された愛子さまとリンクでお会いしたいですね」そんな愛子さまがとくに応援されているのが、フィギュアスケートの羽生結弦選手だという。ソチ、平昌に続く五輪3連覇に挑んだ羽生は4位に終わったものの、誰も成功したことのない「4回転アクセル」に挑戦。惜しくも転倒してしまい、2分の1の回転不足と判定されたが、史上初めて4回転半として認定される歴史的なジャンプとなった。「実は8年前に、愛子さまと羽生選手にはある接点がありました。’14年7月、ソチ五輪の入賞者を招いて皇居宮殿で開催された茶会に、羽生選手も出席しました。中学生だった愛子さまは出席されなかったのですが、天皇陛下(当時は皇太子)に質問を託されていたのです」(皇室担当記者)陛下が愛子さまから預かっていた質問は「得意なジャンプはなんですか?」だったという。羽生は茶会後の取材で、このときのやり取りを明かしている。「僕はアクセルジャンプが好きなので『アクセルジャンプが好きです、得意ですということを(愛子さまに)お伝えください』と言わせていただきました」その言葉通りに、羽生はアクセルジャンプをさらに極め、4回転半にまで挑んだのだ。「コロナ禍が落ち着いてからになりますが、北京五輪終了後にも、入賞者を招いた茶会が開かれるでしょう。成年皇族となられたので、今回は愛子さまも出席されます。羽生選手との“8年越しの対面”を楽しみにされているのではないでしょうか」(前出・皇室担当記者)夢の対面へ、愛子さまの胸も高鳴るーー。
2022年02月19日’21年の12月、お誕生日に際して公表された愛子さまのお写真“人生における夏休み”大学生活がそう謳われる理由の1つとして、休みの期間が長いことが挙げられる。学習院大学2年生の愛子さまは新型コロナの影響で、ほとんどキャンパスに足を踏み入れないまま、約60日間の春休みをお迎えになっている。「入学当初からオンライン授業に取り組まれている愛子さまは、その大変さを感じつつも、懸命に努力なさっていると、陛下から伺いました」そう明かすのは、15年近く天皇陛下にスペイン語を教えてきたスペイン語学校『アカデミア カスティージァ』のカルロス・モリーナ学院長。佳子さまの「理想の男性像」とは「陛下たっての希望で、当時6歳だった愛子さまにスペイン語の授業をしたこともあります。楽しく学習できるように、陛下と愛子さまが予習されていたのが印象的でした」(モリーナさん、以下同)その経験もあってか、愛子さまは大学の第二外国語としてスペイン語をご選択。「陛下経由で、愛子さまから文法に関する質問をちょうだいしたこともありました。スペイン語の履修は1年次のみとのことですが、ぜひとも勉強を続けていただきたいです。語学をマスターし、陛下をサポートされたり、日本とスペインの懸け橋となられたりすることを願っています」“恩師”の期待を背負い、成年皇族として邁進される愛子さま。3月17日には初めての記者会見に臨まれる予定だ。「記者からの質問にアドリブで回答する場面もありますので、立ち居振る舞いなどについても、雅子さまと準備されているそうです」(宮内庁関係者)’14年12月に行われた秋篠宮家の次女・佳子さまの成年会見では、公務への意気込みやご自身の性格などに関する質問が出された。結婚は「将来的にはしたい」、理想の男性像は「一緒にいて落ち着ける方」と明かされた一方、皇籍離脱後の女性皇族の役割については「実感として捉えることのできる段階ではございません」と一蹴されるひと幕も。「眞子さんの“類例を見ない”結婚のこともあり、女性皇族の結婚はよりシビアなテーマとして捉えられています。愛子さまも慎重に言葉を選び、ご意見を述べられるでしょう」(同・前)そのご見解は、昨年末に取りまとめられた『安定的な皇位継承策などを議論する有識者会議』の最終報告の内容とも結びつく。「喫緊の課題を“皇族数の確保”とし、女性皇族が結婚後も皇室に残る案と、皇統に属する男系男子を養子として皇族に迎えるという、2案について検討されています」(皇室ジャーナリスト)ここでいう“皇統に属する男系男子”とは、終戦後に皇籍を離脱した旧宮家などを指し、現存するのは5家。“政略的縁談”の危険性「これまで民間人として過ごしてきた当事者たちにとっても、旧宮家のことをよく知らない国民にとっても、皇室とのギャップが大きすぎることが懸念されます」(同・前)静岡福祉大学の小田部雄次名誉教授は、こう振り返る。「’11年の野田佳彦内閣下で同様の議論が進められていたとき、会議の席で“愛子さまが旧宮家の男子と結婚されれば、皇位継承問題は解決するのではないか”という質問を受けたことがありました」要するに、旧宮家の男子が“愛子さまの夫”になれば、2人の間に生まれた子は男系男子になり、皇位継承の問題は解決するという主張。それに対し、小田部教授は次のように反論した。「皇族であるがゆえに政治的な圧力で結婚相手を強いられるのは望ましくない」それから10年以上がたち、愛子さまの成人を機に、“お相手候補”として旧宮家の賀陽家が注目されている。「当主の賀陽正憲氏は、天皇陛下と学習院初等科から大学まで同級生で、宮内庁に勤めた経験もあります。正憲氏には26歳と24歳になる未婚のご子息がいて、愛子さまのお相手にふさわしいのではないかと一部で報じられています」(前出・皇室ジャーナリスト)堂々巡りの現状に、小田部教授は再び警鐘を鳴らす。「愛子さまのご意思や両陛下のご意向を無視した“政略的縁談”が進めば、国民の心は離れていってしまうでしょう」渦中の愛子さまはこれまで、政治的な思惑とはかけ離れた“淡い恋”を経験されてきた。「小学生のころは、ご学友との仲睦まじさが報じられました。家族ぐるみでお付き合いがあり、一部では『ドラえもん』の“のび太”に似ているとも言われた彼です」(皇室担当記者)愛子さまのSNSに寄せられたお祝いコメント夏休み中にご一家が那須で静養される際、現地で“のび太くん”と合流されることも多く、愛子さまは手をつなぎ、腕を組み、ハグされるシーンも目撃された。その後、学習院女子中・高校へ進まれた愛子さまは、文字どおり青春を謳歌される。「高校1年のころには、姉妹校である学習院高等科の野球部の試合を“お忍び”でご観戦。とある同級生選手の勇姿をデジカメで撮影しつつ、懸命にエールを送っていました」(同・前)年ごろの女の子らしい素顔や、ミーハーな一面も垣間見えるように。「当時、愛子さまは『スターバックス』でお茶をするのが好きで、プリペイド機能がついた“スタバカード”も使いこなしていました」(侍従職関係者)同級生とともにアイドルにゾッコンになられたことも。「元SMAPの木村拓哉さんが大好きで、密かに楽しまれているインスタグラムのアカウント名も“木村○○”にされているほど。7人組グループの『ジャニーズWEST』がお好きとも聞いています」(愛子さまの知人、以下同)女子校のため、男性との接点は減ったが、年に1度の文化祭では、周囲を驚かせるほどの積極性をお見せになった。「愛子さまは初対面の男性に連絡先を聞き、その後も連絡を取り続けておられたといいます。どちらかというとひと目惚れするタイプで“メンクイ”だとも聞きました」その男性かは定かでないが、高校時代から“特別な男性がいらっしゃる”とのウワサが。「18歳の誕生日を迎えられた時期には、ジュエリーブランド『4℃』のシルバーネックレスをプレゼントされたとか。ご自身のインスタグラムでそのことを投稿されて、ご友人から“お幸せに!”というコメントもありました」国民が親しみと共感を抱く“ロマンス街道”を歩まれてきたプリンセス。「きたる記者会見では、結婚観や理想の男性像について、初めて言及されることになります。眞子さんや佳子さまは言葉少なだった印象ですが、皇族という特別なお立場であっても身近にある“好き”を大切にされてきた愛子さまは、十分に咀嚼されたお考えを披露されるのではないでしょうか」(前出・宮内庁関係者)“意中のお相手”を想像しながら繰り出される赤裸々なお気持ちは、いかなるものでもご名答に違いない─。小田部雄次静岡福祉大学名誉教授。日本近現代史を専門とし、『皇族に嫁いだ女性たち』(角川選書)など著書多数
2022年02月17日「3年連続で、2月23日の天皇陛下の誕生日に予定されていた一般参賀は、感染拡大防止のため中止になってしまいました。残念ながら令和になって一度も天皇誕生日の参賀は開かれていません。祝賀行事も大幅に縮小されます。ただ、昨年とは異なる点があります。祝賀の儀に、雅子さまが出席されることになったのです」そう語るのは皇室担当記者。昨年は新型コロナ対策で、陛下が単独で出席されていた祝賀の儀。今年はお二人そろっての出席となり、総理大臣が代表でお祝いの挨拶をするという。「雅子さまは、昨年の11月ごろから体調不良が続いています。2日に分けて行われた愛子さまの成年行事も、1日目は欠席。年明けの講書始の儀も欠席されています。そういったなかで、陛下の62歳の誕生日に催される祝賀の儀に出席を決められた陰には、雅子さまの強い思いがあったのではないでしょうか」(前出・皇室担当記者)昨年12月のご自身の誕生日、雅子さまは陛下への感謝の思いをこう綴られていた。《天皇陛下には、コロナ禍の中でも引き続きお忙しい日々をお過ごしですが、変わらずお元気でいらっしゃることを何よりありがたく存じます。また、常に私の体調にお気遣いいただき、深く感謝申し上げます》いまだ体調の波を抱えながらも、雅子さまはできる限り陛下を傍で支え続けることを誓っておられるのだ。「陛下が雅子さまにプロポーズされてから今年で30年ですが、お二人の愛はまったく色褪せることがありません。雅子さまは、陛下へのバレンタインデーのプレゼントを欠かすことはないそうです。ご実家の小和田家も、海外生活が長く、また離れ離れになる時期もあったことから、クリスマスやバレンタインデー、お誕生日などの記念日の贈り物を大切にしていました。雅子さまはそうした習慣を引き継がれているといいます」(宮内庁関係者)■バレンタインデーにスイスチョコを天皇陛下の誕生日はバレンタインデーの直後ということもあり、誕生日会見で記者から、プレゼントについて質問を受けることもあった。婚約直後だった’93年の会見で陛下は「バレンタインデーについては非常に心のこもった物をもらいました。けれども内容については、二人の秘密にさせていただきたいです」と、おっしゃっていた。雅子さまが陛下にプレゼントされていたものの一つが、スイスの「ステットラー」というブランドのチョコレートだった。かつて東京・代官山にあった、ステットラーの日本代理店の元オーナーに話を聞くことができた。「雅子さまが天皇陛下のためにお求めになったのは、『ジュネーブの石畳(パヴェ・ド・ジュネーブ)』というチョコレートです。ヨーロッパの街並みの石畳を思わせる、キューブ形にカットされた生チョコです。現在ではこういった石畳形のチョコはさまざまなお店で見られますが、その発祥となったのはステットラーといわれています。ステットラーのチョコレートはもともと雅子さまのお父さまが、仕事の関係でジュネーブに住んでいたころからたいへんお好きだったそうです。ご結婚前に、雅子さまは陛下へのプレゼントとしてお求めくださいました。ご結婚後にも、侍従の方を通じて何度かご注文いただきました」■雅子さまへのねぎらいの言葉を忘れない陛下スイスのジュネーブは、雅子さまが2歳のころに短い間ではあるが滞在したことのある街。双子の妹・礼子さんと節子さんが生まれた、雅子さまやご家族にとって大切な場所だ。雅子さまは高校時代の夏休みにも、スイスを再訪されている。そんな少女時代の思い出がこもったチョコレートを、陛下にお渡しになっていたのだ。一方の天皇陛下も、雅子さまへのねぎらいの言葉を忘れることはない。昨年の誕生日会見ではこうおっしゃっていた。「雅子はいまだ快復の途上にあり、体調には波があり、大きな行事の後には、疲れがしばらく残る傾向があります。これからも、無理をせずにできることを一つ一つ着実に積み重ねていってほしいと思います」コロナ禍のため、引き続き外出を伴うご公務は控えていくことになりそうだが、両陛下は2月10日、島根県の障害者支援施設をオンラインで視察された。画面越しではあるが、子どもたちが音楽に合わせて体を動かす「ミュージックケア」をご覧になるなど、施設利用者と交流されたのだ。両陛下は感染拡大を予防しつつ、新しい形での国民とのふれあいを模索されている。困難な状況は続くとみられるが、これからも雅子さまは“一生お傍に”という愛情で陛下を支え続けられるーー。
2022年02月16日