一般社団法人一乃会 (主宰:鈴木啓吾)主催、「第23回一乃会」が2022年9月25日 (日)に矢来能楽堂(東京都新宿区矢来町60)にて上演されます。チケットはカンフェティ(運営:ロングランプランニング株式会社、東京都新宿区、代表取締役:榑松 大剛)にて発売中です。カンフェティにて7月11日(月)10:00よりチケット発売開始 公式ホームページ Twitter(@yugaku_studio) 式子内親王と藤原定家の間に囁かれた忍ぶる恋の噂…。金春禅竹作の大曲!今を遡ること800年ほどの昔。 式子内親王と藤原定家の間に囁かれた忍ぶる恋の噂…。 それからおよそ200年ほどの後、世阿弥の娘婿である金春禅竹によって描かれた「忍ぶる恋の果て」の物語、それが能『定家』です。 現代において明らかにされている学術的な見解はさておき、中世という時代において共有された文芸上の解釈をもとに、式子内親王の心情に寄り添い、「忍ぶる恋」の執心に迫ります。【番組】狂言:『舟渡聟』善竹十郎・善竹大二郎仕舞:芭蕉キリ観世喜之、玉葛観世喜正能:『定家』シテ・鈴木啓吾、ワキ・福王和幸、ワキツレ・村瀬慧、矢野昌平笛・竹市学、小鼓・飯田清一、大鼓・亀井広忠後見・遠藤喜久、永島充、小島英明地謡・観世喜正、奥川恒治、佐久間二郎、長山耕三、坂真太郎、石井寛人あらすじ能『定家』初めて都を訪れた旅の僧が千本の辺りで雨宿りをしていると、一人の女が現れる。ここは藤原定家の「時雨の亭」、偽りのなき世なりけり神無月誰が誠よりしぐれ初めけんの歌が詠まれたのもこの所であると語るや、女はやがてそのまま式子内親王の墓所へと案内する。石塔に絡まる蔦葛…定家と内親王との忍ぶる恋の妄執、今も定家の執心が蔦葛となって這いまとわる苦しみから救済してほしいと女は訴える。不審する僧に女は自身が式子内親王の霊であることを明かし石塔へと消える…。狂言『舟渡婿』聟入りにと出かけ、途中の川で渡し船に乗ることとなった聟。聟の手にした酒樽に目をつけた船頭は、酒を振る舞うよう迫る。これを断ると船頭は漕ぐのをやめてしまうと思い、しかたなく聟は酒を振る舞うが……。船中で謡われる歌を、小歌「七つになる子」での上演。<仕舞>「芭蕉」キリ:観世喜之「玉葛」:観世喜正一乃会主宰鈴木啓吾観世流シテ方能楽師 鈴木啓吾(公社)観世九皐会所属、(公社)能楽協会会員重要無形文化財(総合)指定保持者一般社団法人 一乃会 代表理事一乃会 神楽坂 遊楽スタジオ代表観世九皐会、緑泉会での演能活動を中心に、自身の研究公演「一乃会」や「ことのは能」を主宰。能普及を目的としたイベント「ことのはかぜ」、テーマを併せた講談と能を一緒に楽しむイベント「古典をことばで旅する ことのはかぜ」などを企画・主催。さらに自宅でも楽しめるよう、各イベントのweb版をYouTube動画サイト[一乃会チャンネル]にて継続的に配信中。目の不自由な方でも能の舞台や謡曲を楽しんでいただけるよう、謡曲の専門古文点訳活動や視覚特別支援学校での総合学習の授業を定期的に実施。著書:「能のうた-能楽師が読み解く遊楽の物語-」「続・能のうたー能楽師が読み解く遊楽の物語ー」(ともに新典社刊)公演概要一般社団法人一乃会「第23回一乃会」公演日時:2022年9月25日 (日)12時30分開場/13時開演会場:矢来能楽堂(東京都新宿区矢来町60)■出演者鈴木啓吾 / 観世喜之 / 観世喜正 / 善竹十郎 / 善竹大二郎 / 野島伸仁 / 大藏教義 / 福王和幸 / 村瀬慧 / 矢野昌平 / 飯田清一 / 亀井広忠 / 竹市学 / 奥川恒治 / 佐久間二郎 / 坂真太郎 / 長山耕三 / 石井寛人 / 遠藤喜久 / 永島充 / 小島英明■チケット料金SS席:7,000円S席:6,000円A席:5,000円B席:4,500円学生(B席):3,000円(全席指定・税込)<カンフェティ限定>500円割引! SS席:6,500円500円割引! S席:5,500円1,000円割引! A席:4,000円1,000円割引! B席:3,500円主催: 一般社団法人一乃会 / 協力: 公益社団法人観世九皐会 詳細はこちら プレスリリース提供元:NEWSCAST
2022年07月10日本の中には、私たちの胸を打ち、励まし、時に道しるべとなる言葉がたくさん詰まっている。ここでは、詩人の最果タヒさんが“百人一首”の楽しみ方について語ってくれました。恋と共存していた時代好きと思う気持ちを伝えられるかどうか、ということを、今の人は考える。好きという気持ちを伝えられなくて、そのかわりSNSで呟いて、その気持ちをすこしだけ落ち着かせる人もいる。もちろん、伝えるために言葉を選んで、LINEしたり、直接言ったり。けれど、好きという気持ちを、「作品」として伝えるのが当たり前だった時代もある。歌で気持ちを詠み、伝えた平安時代のこと。百人一首を訳する仕事をしていたころ、この「当たり前」さについて、わかる気もしながら、どこか、簡単にわかってはいけないような気もしていた。気持ちを伝えるということにどうして「作品」という形を選んだのか、それは当時の人にとってはその方が自然だったからで、その自然さは突き詰めても、今の私には共感が難しい。気持ちを自分だけのものだと捉えて、それを相手にさらけ出すかどうかを悩む今の人と違って、もしかしたら彼らにとっての恋は、人と人の間に流れる水のようなもの、自分だけのものではなく、恋は人と人の間に芽生えて、人々の営みの一部として育っていくものだと捉えていたのかもしれない。恋心が歌によって詠まれることで、他者に知られること、しかも作品として鑑賞されることに、今なら恥じらいを感じる人が多いだろう。けれど、人が無数にいる中で、その社会に恋心もまた無数に流れている、当時は妖怪や幽霊といった存在が当たり前にいるとされたが、恋心もそんなふうに空間に潜み、当たり前にすぐそこにあるものとして捉えられていたのかもしれません。恋をする気持ちそのものは、無数に人がいれば当然芽生えていくはずで、そのことにはロマンを今ほど感じなかったのかもしれません。恋心が芽生えればそれだけでドラマとなる今とは違って、人は生きれば恋ぐらいするでしょうという、恋と共存する人々の姿があります。けれどだからこそ、ドラマチックな「作品」という形式がコミュニケーションに選ばれたのかもしれない。そして、今、千年の時を経ても、作品は作品という結晶のままでそのロマンを届けてくれる。恋そのものをドラマチックに捉える私たちだからこそ、ときめくものもそこにあるように感じます。いくつか、恋の歌をご紹介します。玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする恋愛を禁じられた立場であった式子内親王が詠んだ恋の歌。玉の緒とは自らの命と体を結ぶ緒のことで、「玉の緒よ、切れるなら切れてしまえ。このまま生きながらえれば忍んでいた想いも耐え切れず外へ溢れてしまうかもしれないから」。しかしこの歌は、ひそかに内親王が詠んだ歌でも、想い人に贈るために詠んだ歌でもなく、歌合で「忍恋」というお題を与えられて詠まれた歌です。それはこの歌がフィクションである可能性も示唆しますが、一方で、お題があってやっと詠まれた真実であると読むこともできます。詠まれた場を踏まえるとより深みが増す和歌です。筑波嶺(つくばね)の峯より落つるみなの川恋ぞ積もりて淵となりぬる川の変化を恋心に喩えた歌です。峰から流れる細く浅い川のように始まった思いが、恋心が募ることで深く底の見えない淵となる。淵とは、川の流れが穏やかで深いところのことを指します。流れが穏やかであるからこそ、淀む部分もあり、また深いからこそ光が届かない部分もある。この歌は陽成院が想い人に実際に送った歌とされています。歌そのものは、恋のあり方を普遍的に捉えた秀逸なもので、現代にも共感される方も多いかとは思いますが、この歌を、ひとりの愛する人に贈るという行為にはひとりの人間が生きた形跡を感じます。瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ崇徳院のこの歌が私はとても好きです。崇徳院は波乱万丈の人生を生きた人。父親には自分の子ではないのではと疎まれ、ついには地位も権力も奪われ、歌に没頭する生涯をおくります。この歌は、川の流れが岩によって二つに分かれても、また一つにまとまっていくように、私とあなたも今別れても、また必ず会おうじゃないか、というもの。背景を知ると、地位への執着とも読める歌であるけれど、やはり私はこれは恋の歌であると思う。そして、帝の地位を奪われた崇徳院にとって「また会おう」と思うことがどれほど難しかったかについて考える。人を信じることも難しく、敵ばかりがいる中で、切れていった縁もあり、阻まれることも多々あったでしょう。それでもきっと「会いたい人」はいて、その人に「また」と思うことは、もしかしたら彼にとって、すがることのできる唯一の希望であり、また希望として強く輝けば輝くほど絶望そのものを照らすものでもあったはず。それでもこの作品は美しく、悲しいほど貫かれる人の思いが結晶のように残されています。さいはて・たひ詩人。主な詩集に『夜空はいつでも最高密度の青色だ』、著書に百人一首の紹介エッセイ『百人一首という感情』や、百人一首を詩の言葉で現代語訳した『千年後の百人一首』(清川あさみとの共著、すべてリトルモア)。※『anan』2020年9月23日号より。文・最果タヒ(by anan編集部)
2020年09月22日