皆さんは不思議な体験をしたことはありますか…? 原因がよくわからない何かに巻き込まれた、なんて経験した方も中にはいらっしゃるようです…。 今回は実際に募集した奇妙な体験エピソードをご紹介します。祖父の記憶…!?これは私が高校生のときのお話です。20年ほど前になります。私は当時風邪をひいて部屋で寝ていました。そのときに、夢を見たのです。夢の中で私は軍服を着ており、足のゲートルを巻き直している夢でした。しかしなかなかうまくまけずに上官と思われる人に手伝ってもらう夢でした。数日後その話を笑いながら祖父に話しました。出典:lamireすると祖父は真剣な顔で、それは俺がお前ぐらいの歳のときに経験したことだ、と言いました。夢の中の私は過去の祖父だったのでしょうか。(男性/会社員)正夢…?いつ頃と特定できるわけではないのですが、ときどき正夢を見ることがあります。これは姉妹共通らしく、姉も小学校のとき、正夢で次の年の担任の先生をあてるという体験をしていました。私は姉程のすごい体験をしたわけではないですが、小さい頃、とても上手い絵を描く夢を見たことがあり、「あー、私もこれくらいかけるようになったらなー!」と夢の中で思ったのですが、最近絵を描いていたらその絵が昔夢の中で見た絵そのものだったことがありました。完全に無意識で描いていたので、ちょっとびっくりしました。(女性/ライター)いかがでしたか?不思議な出来事が偶然なのか、はたまた“何か別のもの”なのかはわかりませんが…。誰かが実際に体験した話には、何か奇妙な説得力がありますよね。以上、奇妙な体験エピソードでした。次回の「体験談エピソード」もお楽しみに♪※こちらは実際に募集したエピソードを記事化しています。"
2022年07月07日「今の状況は戦時下とよく似ています」……夏に行ったインタビューでも、そう語っていた美輪明宏さん(85)。第3波が猛威を振るい、相変わらず収束が見えないコロナ禍のなか迎える新年を、私たちはどう生きればいいのだろう?美輪さんからの新しい1年に歩み出す希望の提言ーー。’20年は、世界中が新型コロナウイルスに翻弄され続ける1年となりました。ここにきて国内では東京、大阪、北海道、兵庫など各地で、一日での新規感染者数が過去最多を記録するなど、第3波の猛威は、すでに第1波、第2波を超える危険な状態だと感じております。それは第2波以降、政府が規制を緩め、街には多くの人があふれるようになったから。おそらく、長期にわたるコロナ禍の生活に慣れてしまい、“自分が死ぬことはない”と考える人が増えてきたからでしょう。とくに若い世代の人たちは、高齢者の方々と比べて、重症化するリスク、死亡率も低い。“自分たちは大丈夫”だと、楽観的な人たちの多いことが、感染拡大に歯止めがかからない要因の1つになっていると思います。私はコロナの収束が見えない今の状況は、戦時下と同じだと思っています。この状況ではとても怖くて出歩く気にはなれません。きっと戦争体験のある人なら、そう感じているはずです。戦時中は、爆弾よけの防空壕を一軒一軒が造ったり、山の陰に横穴式に掘ったりして、いざというときに備えていました。都会の場合はそういう場所がないから、家の床を剥がして防空壕を床下に造っていたのです。そして敵機来襲のサイレンが鳴ると、みんな防空壕に逃げ込んで、外には一切出ない。警戒警報の解除を知らせるサイレンが鳴るまでは、じっと息を殺して、その時を待つ。私たちはそういう体験をしてきたのです。敵がいつ襲ってくるかわからない……。今は、そのときと同じようなことが起きている、そう実感しております。「女性自身」2021年1月5日・12日合併号 掲載
2020年12月29日ヴィンテージ・コスチュームジュエリーやムラーノガラスなどのライフスタイル アイテムを紹介するショップ・ブランド〈 chisa(チサ) 〉は、カルティエやヴァンクリ―フ・アーペールにて活躍したアルフレッド・.フィリップが戦時下に手掛けた【トリファリ社】のコスチュームジュエリー約100点を展示販売するイベント「トリファリ展 - アルフレッド・フィリップに想いを馳せて -」を、7月29日から北参道 chisa 路面店にて開催いたします。カルティエ、ヴァンクリ出身のデザイナーが宝石から解放されたとき・・・トリファリは1918年、イタリアのナポリから渡米したギュスターフ・トリファリによって設立されました。写真:ムガル帝国をイメージして作られたシリーズ。クラウンのブローチ18万5,000円(+tax)など今イベントは特に、1930年にトリファリ社のチーフデザイナーに就任したアルフレッド・フィリップが戦時下にデザインした稀少な作品に中心にご紹介します。ハイジュエリーブランドの縛りから解放され、様々な素材をもちいて自由に伸びやかにデザインされたジュエリーの魅力、そして当時の職人たちの卓越した手仕事をご堪能いただける展示販売会です。(作品はすべて購入可能)※新型コロナウイルス感染拡大防止対策とし、スタッフ以外の在店人数を最大4名様までとさせていただきますので、混雑時は入場をお待ちいただく場合がございます。(その際、カフェのお客さまは数に入れないものとします)※期間内はchisaウェブサイトにてオンラインでも販売いたします。※イベント開催以降、混雑が続く場合はchisaHP並びに各種SNSにて告知の上、予約システムを導入いたします。開催概要タイトル:トリファリ展 -アルフレッド・フィリップに想いを馳せて -英文タイトル:TRIFARI - A.Philippe Design -開催期間:2020年7月29日(水) - 8月16日(日)開催場所:chisa 151-0051 東京都渋谷区千駄ヶ谷4-21-2営業時間:11:00 - 19:00(月・火は定休日、チサカフェL.O.16:30)お問い合わせ:03-6455-4546(chisa)写真:花かごのブローチ 50万円(+tax)見どころ ― 戦時下に限られた素材で作られた美しいジュエリーたち ―トリファリのコスチュームジュエリーの特徴は「リアル・ルック・ジュエリー」と称されるほどの精巧な作りとユニークかつ高級感漂うデザインです。それを実現させたのは、1930年にトリファリ社にチーフデザイナーとして就任したアルフレッド・フィリップに他なりません。彼はカルティエ、ヴァンクリ―フ・アーペールでデザイナーとして活躍し、その実力はアイゼンハワー大統領夫人が夫の就任式の為に2度に渡ってジュエリーデザインを任せたほど。またその裏には、現在では実現不可能な確かな職人の技術があったことも確かです。今回は特に、第二次世界大戦中に制作された特別な作品を中心にご紹介いたします。多くの金属が使用制限されていた当時、A・フィリップは、供出を逃れたスターリングシルバー(SUV925)をもちいた格調高いものや、クリアーガラスと見紛うジェリーベリーと呼ばれる自ら開発した樹脂を使用した作品など意欲的に制作を続けました。その稀少な作品たちは、戦争のさなかに作られたとは到底思えない程ユニークで、堂々とし、美しく輝いています。A・フィリップの情熱を感じつつ、今もなお美しく輝くコスチュームジュエリーは、トリファリ社が掲げていたキャッチコピー[ Jewels by Trifari ]というフレーズがまさにぴったりの、ファインジュエリーに劣らぬ、持つ人の一生ものの宝物になりうるのではないしょうか?関連企画◎ギャラリートークをライブ配信日本有数のコスチュームジュエリーコレクターであり研究家の小瀧千佐子によるギャラリートークを7月29日14時よりインスタライブにて配信します。配信後でも、公式インスタグラムアカウントやユーチューブにて視聴可能です。◎Nino Piacere!! ( ニーノ ピアチェーレ!! )写真:サッソ(小石)と名付けたヴェネチアンビーズ。プラチナ箔の上からガラスをかぶせて形成されている天然石より美しいガラスジュエリーを目指してヴェネチアのビーズ・マエストロたちと共にスタートしたchisaの新しいジュエリーライン[ Nino ]の2020年S/Sコレクションをはじめ、今回初公開となるA/Wコレクションを一堂にご紹介いたします。ビーズは、現在はビーズ制作をほとんどしていないアーティスト ダビデ・ペンソ氏を初め、老舗のエルコレ・モレッティなど、ヴェネチアンビーズ研究家でありコレクターの小瀧千佐子がクリエイティブディレクターだからこそ可能となる上質なヴェネチアンビーズの美しさを堪能できるデザインとなっています。◎スペシャル サマースイーツを期間、数量限定で販売A・フィリップがカルティエ時代にデザインし、トリファリでも制作した[ トゥーティ・フルーティ(全部フルーツ) ]シリーズにちなんで、イベント期間中、会場に併設するチサカフェにて、今回の為に開発された、さわのめぐみシェフによる「シャインマスカットと桃のトリファリパフェ」(¥1,800(税込))をchisaの新作ムラーノガラスのグラスにて一日4食限定で販売します。フレッシュなシャインマスカットと桃をアールグレイのゼリーと、レモン果汁をふんだんに使ったレモンカードでサンドし、パンナコッタの上にのせました。ライムと摘みたてのミントがさらに爽やかさを引き立てます。本展監修者:小瀧 千佐子 ( Kotaki Chisako)1947年東京都出身。20世紀のムラーノガラス、ヴェネチアンビーズ、コスチュームジュエリーそれら三つの研究家でありコレクター。元 北鎌倉小瀧美術館 館長。前勤務先であるエールフランス国営航空在籍時よりコレクションを開始し、コレクター歴は40年ほど。特にヨーロピアン・コスチュームジュエリーにおいては日本随一のコレクション数と知識量を誇る。2014年には自身がクリエイティブディレクターをつとめるショップ・ブランドchisa(チサ)をスタート。美しい文化とともに暮らすモダンライフスタイルを提案している。著書には「別冊太陽 ヴェネツィアン・ビーズ」(2001年 平凡社)TV出演 NHK「美の壺」などスイーツ開発:さわの めぐみ ( Sawano Megumi)1984年 神奈川県出身。フードディレクター。家族全員が料理人という家庭で育ち、物心が着く頃には同じ料理の世界に。2年間イタリアへ修行、帰国後、イタリア料理という枠から飛び出し様々な料理を楽しんでもらえるようお店を持たず、ケータリングという形で料理を提供している。「フルコースは物語に似ている」という発想から2014年[ものがたり食堂]をスタート。誰もが知るストーリーを料理で表現するそのイベントは大人気でいつも予約が取れない。近年ではトヨタ自動車など大企業からのイベントオファーも多く、今注目のフードディレクターである。レシピ監修には、『持たない暮らしの簡単つくりおきレシピ』、『こまったさんのレシピブック』などがあり、『わかったさんのこんがりレシピ』にて「料理レシピ本大賞 in Japan 2018」 絵本賞を受賞。chisa(チサ)ゆっくりと、じっくりと美しいものに触れながら過ごす毎日を提案するジュエリー&ライフスタイルアイテムのショップブランド。小瀧千佐子が総合プロデュースをつとめ2014年より東京 北参道にてスタート。ヨーロッパ各地から集められたヴィンテージ・コスチュームジュエリーをはじめ、ヴェネチア ムラーノ島からやってきたテーブルウエアやインテリアアイテムなどを扱う。Web:::企業プレスリリース詳細へ本記事に掲載しているプレスリリースは、株式会社PR TIMESから提供を受けた企業等のプレスリリースを原文のまま掲載しています。FASHION HEADLINEが、掲載している製品やサービスを推奨したり、プレスリリースの内容を保証したりするものではございません。掲載内容に関するお問い合わせは、株式会社PR TIMES()まで直接ご連絡ください。
2020年07月21日お盆には実家や義実家に帰省された方も多かったのではないでしょうか。自宅に戻ってきてまたいつもの日常が始まりましたね!子ども達の夏休みもあともう少しとなりました。 私が子どもの頃はお盆に数日間、父の田舎に帰省するのが恒例行事でした。父の兄弟も多いので、たくさんのおじやおばが祖父宅に集合し夜遅くまでお酒を飲んだり話に花を咲かせている中、私たち子どもはいとこたちと戯れながら過ごしていました。何をするわけでもないのですが、雰囲気だけで楽しいものでした。家族旅行に行った事がなかったので、唯一家族で遠出した思い出は「おじいちゃんおばあちゃん家」です。 しかし、現在。我が家の子ども達はというと親戚づきあいはほぼありません。定期的に会う親戚はわずかに存在しますが、そもそも親戚一同が集まる機会がないですし、人数自体もものすごく少ないので、もしかしたら我が子にとって「親戚」という概念すらないんじゃないかというぐらい疎遠な存在となっています。 それはそれで特に不自由はないのですが、子ども達にとって機会損失しているな~と思うことは、「お年寄りの昔話を聞けない」事です。 いまどきのおじいちゃんもおばあちゃんも若いのでまだまだ現役世代が多いですが、80代以上の方(父や母の姉妹にあたる年齢)の話って聞いた事ありますか?戦争や、戦後の混乱した日本を生き抜いてきた人達の昔話を聞くって、子ども達にとってだけでなく私たちにとっても貴重な機会だと思うのです。今から7年前、私の父の初盆の際に実家におじやおば(父の兄や姉に当たります)が集まったのですが、その時の話が私にとってはとても衝撃的でした。今日のテーマは子育てに関係ありませんが、何十年か前の日本はこんなんだったんだよ~~と子ども達に伝えたくて書く事にします。 あくまで私の親戚の体験談で、戦場に出向いて命がけで帰ってきたとかそういうエピソードではないのですが、戦争の時代に人々がどういう暮らしをしていたかという貴重な体験を聞かせてくれました。 ■謎の母乳神話…戦時中のトンデモ話何故 父(父は戦後生まれ)の初盆で戦時中の話になったのかというと、仕出し料理に入っていた「お麩」がきっかけです。 おじ(愛媛出身)がおば(大阪出身)と結婚した当初、おばがお味噌汁にお麩を入れたんだそうです。 そしたらおじが「麩なんて鯉が食べるもんや!!」とキレたってゆう話から始まったんです。 今の私からしたらお麩は立派な食材のひとつですが、当時のおじからしたらお麩は「鯉の餌」だったんでしょうね。 そこから、鯉の話題になりました。 昔、おじが小さかった頃は家の庭に池があり、100匹以上の鯉が泳いでいたんだそうです。そして、戦時中には、自分たちは食べるものもロクにないのに、家の中から庭の鯉に麩をやって鯉を愛でたらしく、ここからおじとおばの夫婦漫才かのような掛け合いが始まっていきました。 おば:「自分たちの食べるもんないのに、鯉かわいがっとってわけわからんやろ。ハハハ! 鯉とって食べたらよかったのに。ガハハ」 お…おばよ…(笑) 歯に衣着せなさすぎる…(笑) おば:「わたしら、鯉食べとったで」 がーーーん!笑大阪では鯉食べていたんだったら愛媛のおじも食べといたらよかったのに。おじ:「たまに近所の人が『病人がいるから鯉分けてくれ』って来たからあげたりしとったけど」おば:「昔(戦時中)は鯉の生き血が結核に効くっていわれてたんよ」鯉の生き血…!?(ゴクッ…) 結核に鯉の生き血が効く…。 今のご時世だったらどこに根拠あんねん! エビデンス出してこーーい! で一蹴される話ですが、当時は生き血で病が治すと信じられていた時代だったんですね。おば:「私の親戚のお姉ちゃんなんかは母乳の出が良くなくって、お乳が良く出るようにって、鯉の血絞って飲まされてはったで。あんな生臭い血!! かわいそうに」 母乳の出も結核も鯉の血頼み!!ひぃぃ…。 今なら母乳が出ないなら粉ミルクでぜんっぜんオッケーですが、当時のお母さんにとって母乳が出ないって死活問題ですよね。本当にワラにもすがる思いで鯉の血を飲んだんでしょうね…。さらに、おじが自分がひもじくとも愛でていた100匹以上の庭の鯉。 その後、どうなったかといいますと、おじ:「忘れもせん、小学2年のとき。学校から帰ってきたら、朝までおった鯉が1匹ものうなっててのー。どうしたんかと思うたら、”よかれん(※)”っつー兵隊のグループが、兵士の食料にするからっつーて根こそぎすくって持ってってしもた」※旧「海軍飛行予科練習生」の略ええええ…!!人の家の庭から勝手に鯉を根こそぎ!!おじ:「あの時代は、鍋やら金属やら、根こそぎ持っていかれても文句は言えんかったから」ひぃぃ…。 どうせ根こそぎ持っていかれるんなら、やっぱり食べてればよかったのに…。 おじ:「それが戦争が終わってしばらくして、新しくできたプールに行ったら、そこの池に、うちの鯉がおってのぉ。うちの鯉が泳いどんのよ。フォッフォッフォ…」何じゃそりゃ!! 鯉、生きとったんかーーーーい!! それじゃぁ、ただ家からプールに引越しただけじゃん!! いやいや、そうやって笑って済ませられるのも、混沌としたメチャクチャな時代だったからこそですよね。■戦時中に盲腸になったら…おじ:「昔は、何もかもがめちゃくちゃで、適当やったから。医者も役所も適当よ」おば:「そうよ、戦争中は、盲腸でよう人が死んどったわ」え!? 盲腸で!?盲腸で死んでたんですか!?おば:「よう死んではったで。なんてったって、手術するっつっても、麻酔なんてないから、意識あるまま、お腹切るんやで」 ヒーー!!!! もう、「ヒー!」しか出てきません。。。 おば:「押さえつけられて生きたままお腹切られて、消毒もなにもないから、化膿したり、術後の回復がよくなくってよう死んではったわ」 切腹じゃないですか!!こぅっわーーー!!!! おば:「私の親戚の兄さんも、盲腸になったゆうて、兄さんのお母さんが、リアカーに布団しいて、兄さん乗せて、茨木から、大阪城のとこまで押して歩いて運んどったわ」 ひーーー!! 大阪をご存じない方には分からないかもしれないけれど、茨木から大阪城まで歩く…。歩けない事はないのでしょうが、、ろくに整備されてない道をリアカーに人乗せて…とても行ける距離じゃぁありません。おば:「あのお兄さん、どうしはったんやろ。あ、でも、こないだ死んだから、生き残ったってことやろうな。ガハハ」 わ…わろてる…。 戦時中の話はメチャクチャすぎて、激動の中生きてきた世代の人たちの生命力が凄すぎる!! と、改めて敬意を払ったのでありました。■戦後復興を支えた人々に感謝せずにはいられない結局父の初盆なのに、父の話は一切出てきてないことに後から気づきましたが…(笑)鯉と盲腸の話はこの時の話のほんの一部です。 戦後の、日本全体が復興に向けて伸びていくまさにALWAYS(映画)の時代の話も聞きました。 今私たちが当たり前のように使っているトンネルだったり電線だったり高速道路だったり…。 今整えられているインフラは、昔の方々が必死に汗かいて働いて作ってきてくださったものだと考えると、感謝せずにはいられません(おじの話聞いてたら仕事が過酷すぎました。ブラックどころじゃない)。 いまのお年寄りたちが現在の日本の土台を作ってくださったからこそ、私たちは今こんなにも便利な生活を送れているんだと敬意を表しながら、カーナビ・ETC・Bluetooth搭載の涼しい車でバビューン! とトンネルくぐりたいと思います!(ほんっと…数十年後の日本がこんなになってるだなんて当時の人達は想像もしていなかったでしょうね)
2019年08月22日「本当に忙しかった。いつも新宿の劇場へ通う電車の中で台本を覚えて。舞台が終わると、雑誌や広告の撮影があって何本か映画にも出たわね。その合間に、母が私の手を引いて踊りや三味線のお稽古に連れていってくれました。若かったし、何より舞台が好きだったから、まるで苦にならなかったの」 こう語るのは明日待子さん(98)。日本の家庭にテレビがなかった時代に、レビューや軽演劇を上演していた「ムーラン・ルージュ新宿座」は若者たちの憧れの象徴だった。「インテリと言うならムーランを知らないと」といったハイソな雰囲気も。その場所で、現代のAKB48のごとく絶大な人気を誇った“ライブアイドル”が、明日待子さんだ。 昨年暮れにテレビ番組『爆報!THEフライデー』(TBS系)に出演。「元祖会いに行けるアイドル」として紹介されるや、その驚異の“アラ100美”に注目が集まり、ネット上でも続々と「かわいすぎる!」「お肌がとってもキレイ」といった称賛の声が寄せられた。 現在、北海道札幌市在住の待子さんは、日本舞踊の正派五條流宗家・五條珠淑さんとして舞も披露する現役の日本舞踊家だ。 待子さんは、大正9年、岩手県釜石市に9人きょうだいの末っ子として生まれた。幼いころからその才能を発揮し、小学校の学芸会で義太夫をうたえば「天才だ!」と騒がれた。さらに、可憐な容姿も評判を呼び、13歳で女優を目指して上京する。そんな彼女を一目見てほれ込んだのが「ムーラン・ルージュ新宿座」の創設者・佐々木千里夫妻。「まぁ、なんてかわいい!」とすぐさま養子縁組届を出してしまったという。 菊池寛、志賀直哉、吉屋信子、横光利一らの文豪をはじめ、早稲田大学や慶應の大学生たちも彼女見たさに劇場へと通い詰めた。 しかし、人々が近代化を楽しんだ時代はそう長くは続かなかった。日本が激しい戦争に突入すると、待子さんの華やかな舞台は兵士たちの心のよりどころになっていく。 最後に踊り子が総出演するレビューでは、小柄で可憐なアイドルが登場したとたん、軍服に身を包んだ兵士たちが、声をそろえて「明日待子、バンザイ!」と叫んだ。待子さんは声援に応えて、「ご武運、ご長久をお祈りいたします」とお辞儀をする。二・二六事件が起きた年には客席で“バンザイ”を叫んだ兵士が憲兵に取り押さえられて、戦地へ送られるといった悲劇も……。 「空襲で電車が止まっても、『戦地へ赴く兵隊さんのため、明日、私は死んでもいいから舞台に立ちたい』という思いで劇場に通っていました。けれど結局、劇場は焼け落ちて……。何より残念だったのは、台本がすべて焼失してしまったこと」(待子さん) 待子さんは戦後も地方巡業で舞台に立ったが昭和24年に29歳で結婚する。お相手の須貝富安氏は2歳年下、かつてのファンの一人。当時は早稲田大学の学生で、学徒出陣の直前まで劇場に通い、客席から熱視線を送っていたという。彼は卒業後に、札幌市内で劇場を経営していた父親の跡を継いだが、思いを募らせ、縁をたぐり寄せ、待子さんに求婚した。 待子さんは「『明日待子』は東京に置いていきます!」と決意して北海道に嫁いだ。当然のごとく日々の生活は一変する。 「それまでお世話をされてチヤホヤされて、もてなされる側だったのが、結婚を機にもてなす側に180度転換です。私は、劇場主の女房となり二条市場へ買い出しに行き、巡業団の何十人分の食事を作る毎日が始まりました。朝の3時からおにぎりを握ります。炊き立ては手のひらが熱くってね。お姑様にも13年仕えましたよ……」(待子さん) 裏方の日々が数年続いたが、あるとき、かつての日本舞踊の師から「五條流を北海道にも広めてほしい」と託された。夫の勧めもあり、2人の娘を育てながら、正派五條流「五條珠淑」として、また表舞台に立つようになった。 後継者である、家元・五條淑妃(次女・ミカさん)が話す。 「父はとても優しい人で、忙しい母のことをいつも陰で支えてくれていました。母が公演などで帰りが遅くなったときは、さりげなく、おかゆを用意していたりして。『ムーラン・ルージュの明日待子は東京に置いてきた』と母は言いますが、その舞踊は古典というより、創作を好むスタイルでした。やはり“女優・明日待子”は母の中でずっと生き続けていたのだと思います」(ミカさん) この3月1日に98歳になった明日待子さん。いまだ現役アイドル顔負けのキュートな笑顔で、出会った人すべての心を癒してくれる。
2018年03月11日