メジャーリーグ、サンディエゴ・パドレスのダルビッシュ有投手(37)の妻で元レスリング世界女王・山本聖子(43)が5日までに、自身のブログを更新。夫が登板する日のランチを公開し、ファンから反響を呼んでいる。「登板日のランチは」と題してブログを更新した聖子。絵文字を交えながら「今日のランチは鰹出汁たっぷりのほうれん草?鍋?」と調理中の様子を動画で公開しつつ、「いえいえお餅を入れてお雑煮でした!」と夫が登板する日のランチメニューを紹介した。続けて「2人分?いえいえすぐ冷ましてたべれるように2つに分けてあるだけ」と説明し、「ほうれん草は仕上げに乗せるために具材茹でた最後の方に入れて火を通しただけ」とコメント。最後に「完食でした」と報告し、ブログを締めくくった。この投稿にファンからは「完璧」「愛情たっぷり」「食べやすく美味しそう」「丁寧」「ダルビッシュ投手の活躍は聖子さんの支えがあるからですね」「愛がこもった素敵案ランチ」「お雑煮美味しそ~」「元気もりもりなランチ」「お餅は腹持ちも良いし、身体も心もあったまりますね」などのコメントが寄せられている。
2024年04月05日衆議院議員の野田聖子氏が29日に自身のアメブロを更新。高熱が約20日続いた息子・真輝くんの現状を報告した。14日のブログで、野田氏は真輝くんが気管支炎と診断されたことを報告し「いつもなら3日くらいで平熱に戻るはずが、今回は10日間、38度ごえ」と説明。「さらには、激しい咳で切れた気管支からの出血が多量」と真輝くんの症状を明かし「発病から11日目の今日、どうにか嵐は去ったかなと思います」とつづっていた。この日は「約20日におよんだ、ムスコさんの高熱との戦い 彼の勝利」と報告し「翌々日は、衆参国会議員団の団長として、スイスジュネーブでのIPU会議出張」とスイスを訪れたことを説明。「帰国日は夫が出張で、彼と久々の二人ぼっち~ でも、あの悪夢の日々を思い返し、しみじみ、生きてくれていて嬉しい」と親心をつづった。また「ヨーロッパのみやげ ヒースロー空港で買いました!なぜとても喜んでるか、鉄母はわからん」とヨーロッパの土産を手にした真輝くんの姿を公開。「あー落ち着いたな」とつづり、ブログを締めくくった。
2024年03月31日《中央大学で法律を学ぶことができた4年間は、私にとって素晴らしい時間でした》3月25日、松田聖子(62)が中大法学部通信教育課程を卒業していたことが明らかになった。24日に中央大学のキャンパスで行われた卒業式に出席し、法学士の学位を授与されたという。来年でデビュー45周年を迎える聖子は、最近メディアへの露出を増加させている。「21年末に愛娘の沙也加さんを失った聖子さんですが、今年2月に新アルバム『SEIKO JAZZ3』をリリース。3月には『MUSIC FAIR』(フジテレビ系)の60周年&3000回記念企画の目玉として、約4年ぶりに同番組に出演しています」(スポーツ紙記者)そのなかでの大学卒業となったが、聖子が大学で学ぶことを志した背景には何があったのだろうか。「聖子さんは、もともと還暦を迎えるまでに大学卒業資格を取得したいと考えていたと聞いています」こう話すのは、デビュー当時から聖子を知るカメラマンのYAHIMONときはるさんだ。「堀越高校を卒業した聖子さんは、デビュー当時『大学に行きたかった』と話していました。学歴コンプレックスがあったという感じではなく、あくまでキャンパルライフに憧れていた記憶があります。その後もずっと大学に行きたいという夢は持ち続けていて、18年ごろから真剣に進学を考えていたようです。コロナ禍に入り、緊急事態宣言が発出されたころに本格的に入学を考えるようになったそうです」しかし、なぜ聖子は“法律”を学ぶことを選択したのだろうか。「昔から『松田聖子』というだけで、プライベートを報じられることも“有名税”で片付けられることに疑問を抱いていたようです。いっそ自分で弁護士資格を取ろうかと考えることもあったほど。今回の大学生活はもちろん隠して通っていたわけですが、最初から報じられてしまうと周辺が騒がしくなってしまうことも懸念されるため、親しい仕事関係にも打ち明けていなかったとか。キャンパスを訪れる必要があった際には、入念に変装して、それをけっこう楽しんでいたそうです」(前出・YAHIMONさん)別の芸能関係者はこう話す。「沙也加さんの一件があり、悲しみを忘れるために常になにかに集中していたいと考え、多忙の合間を縫って勉強に充てていたそうです。大学病院に勤務するご主人も相談に乗ってあげていたと聞いています」卒業に寄せてのコメントでは、《大学で学んだことを糧にして、これからも仕事に励んでまいります。何卒よろしくお願いいたします》とも語っていた聖子。社会に出てから学び直しをする「リカレント教育(生涯学習)」のニーズが高まりをみせているが、稀代のアイドルは時代を先取りしていたのだ。
2024年03月27日3月25日、歌手の松田聖子(62)が中央大学法学部通信教育課程を卒業したと発表された。「スポーツ報知」によると、聖子は「中央大学で法律を学ぶことができた4年間は、私にとって素晴らしい時間でした。あたたかくご指導いただきました先生方、関係者の皆様に心より御礼申し上げます」とコメント。さらに「大学で学んだことを糧にして、これからも仕事に励んでまいります」と述べたという。勉学に励んだ4年の間には、多忙な日々に加えて、’21年12月18日には愛娘である神田沙也加さん(享年35)の急死という痛ましい事件にも見舞われた。当時、聖子は予定していたディナーショーや『第72回 NHK紅白歌合戦』への出場など一切の芸能活動を休止。自宅から外出できない日々が続くことに。悲しみに打ちひしがれていたが、’22年1月末に四十九日法要を営むと同年3月、中止したディナーショーの振替公演と6月からの全国ツアー開催を発表。徐々に活動を再開させていった。「活動再開に際して配布されたファンクラブの会報誌のなかで、聖子さんは“今でも信じられない思い”“もう前に進めないと思った”と心情を吐露。さらにプライベートでは沙也加さんを亡くした喪失感のあまり2人の思い出が詰まった場所を訪れたり、生前愛用していたハンドミラーを受け継いで使ったり……。引き裂かれるような思いを抱えながら、もがきながらも再び表舞台に戻っていったのです」(音楽関係者)また聖子は昨年11月に都内で開催された、自身が初監督を務めた映画の特別上映会に登壇した際、上映終了後のトークショーで「天国はお花畑があって、とても良いところだと思うんです。だから、ヒロインも沙也加も幸せにしているんだ」と涙で声を詰まらせながらも発言。そして、最後には「沙也加に会いたい!」と泣き崩れてしまったことを本誌は報じている。沙也加さんの訃報を乗り越え見事、大学卒業を果たした聖子。ネットでは《ほんと強い人まさに鉄人ですよ。愛娘さん亡くされたご心痛計り知れない中でしっかりお仕事され学業にも励まれていたのですね》《聖子ちゃん、あなたはやっぱりすごいわ!沙也加ちゃんをなくしたあの悲しみの中で自分を甘やかさず勉強していたなんて。尊敬しかない》《愛娘をなくされた哀しみを抱えながら、学び続けた姿に心から拍手をおくりたい》と讃える声が相次いでいる。悲しみを堪えながら前を向いて歩み続ける聖子の姿を、天国の沙也加さんも、きっと見守っているだろうーー。
2024年03月25日衆議院議員の野田聖子氏が18日に自身のアメブロを更新。発病から2週間が経過した息子・真輝くんの現状を報告した。14日のブログで、野田氏は真輝くんについて「岐阜で発病高熱、東京に戻り高熱、すごい咳と痰がゴボゴボ」と様子を述べ「気管支炎と診断」と診断された病名を報告。「いつもなら3日くらいで平熱に戻るはずが、今回は10日間、38度ごえ」と高熱が続いたことを明かし「さらには、激しい咳で切れた気管支からの出血が多量」と真輝くんの症状について説明。「発病から11日目の今日、どうにか嵐は去ったかなと思います」とつづっていた。この日は、発病から2週間が経過した真輝くんについて「ようやく、熱が下がり表情にも変化」と現状を報告。「いつもの抗生剤」「強めの抗生剤、ダメ」と述べ「自宅にて点滴での抗生剤、3日間のち やっと、かな」と説明した。続けて、自身や夫については「まさに心身ともブートキャンプ状態」とつづり「体温計で久々の36度台見て、安心」と安堵した様子でコメント。夫は「24時間の看病で疲労困憊」だといい「私も仕事しながらで」と看病中の自身らの様子を報告した。最後に真輝くんについて「まだサチュレーション低めなんで、油断せず」と説明。「やっと、スマイルでました~」と笑みを浮かべる真輝くんの写真を公開し、ブログを締めくくった。
2024年03月19日衆議院議員の野田聖子氏が14日に自身のアメブロを更新。症状が治らず大変だった息子・真輝くんの病名を明かした。この日、野田氏はブログの更新ができなかったことを明かし、理由について「息子さんの病気、思いの外悪くて、治らなくて、大変でした」と説明。「岐阜で発病高熱、東京に戻り高熱、すごい咳と痰がゴボゴボ」と真輝くんの様子を述べ「主治医と相談しつつ、入院でなく自宅。気管支炎と診断」と診断された病名を報告した。続けて、真輝くんについて「いつもなら3日くらいで平熱に戻るはずが、今回は10日間、38度ごえ」と高熱が続いたことを明かし「さらには、激しい咳で切れた気管支からの出血が多量」と真輝くんの症状について説明。「息子がむせながら血を吹き出すさまは、親としては心千切れる思い」だったといい「発病から11日目の今日、どうにか嵐は去ったかなと思います」と現状をつづった。一方で「寝室からは渾身の看病をしてくれてた夫が息子同様の激しい咳してるのが、聞こえてる」と夫の様子を明かし「ちなみに鉄母は花粉症」と自身についても説明。「家ナースと国会議員、両立」と述べ「やっと落ち着いてきたら、スマホかい」とスマートフォンを操作する真輝くんの姿を公開し、ブログを締めくくった。
2024年03月15日2月下旬、都内の芸能事務所前で数人のスタッフに見送られ、車に乗り込む女性が。松田聖子(61)だ。2時間ほどの打ち合わせを終え、事務所から出てきた聖子は穏やかな表情を浮かべていた。以前に比べて顔色もよくなっているように見えた。「通常、聖子さんは自宅にスタッフを呼んで仕事の話をすることが多いため、事務所に立ち寄るのは珍しいですね。何か重要な打ち合わせが行われていたのかもしれません」(音楽関係者)聖子は2月14日、2年4カ月ぶりとなるニューアルバム『SEIKO JAZZ 3』をリリース。さらに、3月9日放送の音楽番組『MUSIC FAIR』(フジテレビ系)に出演することも発表した。これは’21年12月に愛娘・沙也加さん(享年35)が亡くなって以来、2年3カ月ぶりのテレビ出演となる。「聖子さんは訃報を受け、出場予定だった『NHK紅白歌合戦』を辞退。4カ月後に芸能活動を再開したものの、2年以上もテレビ番組への出演はありませんでした。各局の音楽番組がオファーを出しても、すべて断られていたとか。今回決断したのは、『MUSIC FAIR』が音楽に特化していて、トークの場面が少ないからというのが大きな要因だと聞いています。過去何度か出演していてなじみのある番組ですし、沙也加さんのことを聞かれる不安もないので、聖子さん本人が決めたそうです」(前出・音楽関係者)聖子はテレビ出演がなかった時期も歌手活動に励んできた。「一時は精神的にかなり落ち込んで、激やせ報道が出るなど、体調が心配されました。しかし、音楽が悲しみを紛らわせてくれたそうで、コンサートやディナーショーを精力的に開催するようになったのです。聖子さんは、自分が復帰できたのはつらいときに励まし、一緒に悲しんでくれたファンの支えがあったからだと考えています。そのため、ファンの前で歌い、輝いている自分の姿を見せることをテレビの仕事以上に優先してきました」(前出・音楽関係者)ファンの支えで悲しみを乗り越え、一歩前へ進み始めた聖子は今、さらに輝きを増すため、世界進出を見据えているという。「近年はジャズを中心に、海外を意識した楽曲に取り組んでいるようです。聖子さんは過去何度かアメリカ進出に挑戦しています。’90年には全米デビューを果たしましたが、結果は振るいませんでした。しかし、今の彼女には追い風が吹いています。海外で日本の“シティ・ポップ”が再評価され、聖子さんの知名度が上がっているのです」(前出・音楽関係者)現在のシティ・ポップブームを音楽評論家の富澤一誠氏はこう分析する。「洋楽の影響を受けながらも、洋楽以上に都会的に洗練されたジャパニーズポップスがシティ・ポップです。松原みきの『真夜中のドア』や、竹内まりやの『SEPTEMBER』など、’79年ごろに流行した楽曲がシティ・ポップの源流となっています。サブスクで国境を超えて音楽が聴けるようになり、今になって世界的にヒットしました。シティ・ポップはサウンドよりも言葉に重きを置いています。その響きの美しさを若いインフルエンサーたちが新鮮だと感じ、次々と“いいね”を押すことで、どんどん拡散していったのです」ブームの中心は’80年代の楽曲。聖子の往年の名曲も人気のようだ。「当時、制作陣の間で『洋楽に負けないジャパニーズポップスを作ろう』という機運が高まっていました。そのため、聖子さんに曲を提供していたのは大瀧詠一さん、松任谷由実さんなど、シティ・ポップの代表的なアーティストばかり。それらの楽曲をきっかけに、海外で聖子さんの名前も知られるようになっています」(前出・富澤氏)しかし、いくら知名度が上がっても、海外で音楽的な成功を収めるのは容易ではないという。「以前の経験から聖子さん自身がそれをいちばん痛感しているのでしょう。だから過去のヒット曲に頼らず、ジャズなど新しい音楽に挑戦しているのだと思います。実はジャズアルバムの第1作は、アメリカの大手配信会社のチャートで第2位という快挙を成し遂げました。そうした成果を足掛かりに、アメリカに限らず、グローバルな活躍を目指しているのでしょう。アジアでも日本のアイドルは人気がありますからね」(前出・富澤氏)冒頭の打ち合わせは、世界進出に向けての作戦会議だったに違いない。最後に、まもなく62歳となる聖子が海外で成功するために必要なことを富澤氏に聞いた。「聖子さんといえば昔は透明感あふれる声が特徴でした。今はそこに生き方や人生観が加わって表情豊かになっており、世界でも十分通用する歌声だと思います。聖子さんに一つ足りないとすれば、自分の人生経験を映し出した歌です。たとえば、美空ひばりさんの『川の流れのように』。あの歌は美空さんの人生そのものです。言葉に重きを置く日本のシティ・ポップがトレンドの今、聖子さんの酸いも甘いも経験した人生を表現した歌を出せれば、より高く評価されるはずです」テレビ復帰後、人生を映し出した聖子の歌声が世界の人々の心に響く日は遠くない。
2024年03月07日シンガーソングライターの沢田聖子が3日に自身のアメブロを更新。91歳になった母親が受け入れないことを明かした。この日、沢田は母親について「2月2日で91歳になった」と報告し「部屋に飾りつけてみた。…誰も見ないけど」と数字のバルーンで飾り付けられた部屋の様子を写真で公開。母親に対し「91歳、おめでとぉー 9と1を飾ったよ、見て見て!!…と言った」と述べるも「誰が91なの!?」と言われたことを明かした。続けて「実年齢を受け入れないのでじゃあ、いくつになったの!?と聞き返した」といい「うーーーんと………(長く考えて)88くらいかなぁ」と返答があったことを説明。「3歳程度のサバ…と思ったけど」と述べつつ「80代と90代の差が母の中では大きいんだね、きっと」と推測した。また「去年の誕生日にはベッドからリビングルームまで歩いて私が買ってきたバースデーグッズを身に付けて楽しんでいた」と昨年の誕生日での母親の様子を明かしつつ「最近はトイレ以外は殆どベッドに居る事が多くなった」と説明。最後に「今年も一緒に誕生日をお祝い出来て感謝しかないね」とつづり、ブログを締めくくった。この投稿に読者からは「お誕生日おめでとうございます」「ステキな飾り付けですね」「気力のある証拠ですよ」などのコメントが寄せられている。
2024年02月05日衆議院議員の野田聖子氏が29日に自身のアメブロを更新。息子・真輝くんが嚥下にチャレンジする姿を公開した。この日、野田氏は「毎年、後援会のみなさんが集まり、励ましていただく大切な時」と述べ「お付き合いの長い方とは40年弱!だから、三代四代の歴史があります」と説明。「上は100歳くらいから下は新生児まで、わざわざ参加してくれてます」と明かし「候補者としてはきわめて応援しにくいタイプの私。ありがたいの一言につきます」と感謝をつづった。続けて「この貴重な年一回の出会いに、ムスコさんもついてくる」と真輝くんも同行することを説明し「小さい頃は歩けなかったから、抱っこして…」と回想。「今は、歩けるようになったのに、鉄母のそばに来ない…会場をウロウロしてたから、まともに紹介出来なかった」といい「こんなもんだな、子育てとは」とつづった。また「岐阜へ」と報告し「ひたすらスマホ、の彼」とスマートフォンを操作する真輝くんの姿を公開。「嚥下チャレンジ!パパ特製の味噌汁、お酒ではありません」と嚥下にチャレンジする真輝くんの様子も公開し「ぼちぼちがんばろー」と述べ、ブログを締めくくった。
2024年01月31日メジャーリーグ、サンディエゴ・パドレスのダルビッシュ有の妻で元レスリング世界女王の山本聖子さんが19日と20日に自身のアメブロを更新。手術を終え現状を報告した。19日に、聖子さんは「よし!」というタイトルでブログを更新。「この写真に励まされながら歯の治療の後の具合の悪さを落ち着かせよう」と述べ、海の写真を公開した。20日に更新したブログでは「歯の手術ってこんな後引くの?ってくらい次の日が辛かった」と明かすも「回復して来てます」と現状を報告。「皆さん優しいお言葉ありがとうございます」と感謝をつづった。続けて「なんか今日の空は凄かった」と空の写真とともに述べ「そして甥っ子も日本とアメリカ国内から集結中」と報告。「みんな小さい時からちょいちょい遊びに来てくれてたからこんなに大きくなって、、感激中です」とつづった。また「長男だけがいない」と説明し「いないと思ったら(フロリダで寮生活中)」と補足。「シカゴ時代の長男の親友家族が長男を連れ出しディナーまで連れて行ってくれてました」と明かし「本当に嬉しい一日です」とつづり、ブログを締めくくった。
2024年01月21日歌手の小柳ルミ子が16日に自身のアメブロを更新。歌手・松田聖子から頂いた品を堪能したことを明かした。12月25日のブログで、小柳は「今年も可愛い妹聖子ちゃんからお歳暮が届きました」と松田からお歳暮が届いたことを報告し「【たねや】最中と羊羹」と写真とともに中身を紹介。続けて「お正月に食べよう」と述べ「聖子ちゃんお母様今年もお心遣い有難うございました頂きます」と感謝をつづっていた。この日は「聖子ちゃん美味しいよ~」と切り出し「昨年末お歳暮で頂いたたねやの和菓子」と写真とともに紹介。「自分で最中に餡子を挟んで作る」と説明し「最中がパリパリさくさくで餡子も上品な甘さで美味しかった」と満足そうに述べ「聖子ちゃん美味しく頂いてます」とつづり、ブログを締めくくった。この投稿に読者からは「美味しそう」「嬉しいですね」「私も食べたい」などのコメントが寄せられている。
2024年01月17日衆議院議員の野田聖子氏が3日に自身のアメブロを更新。息子・真輝くんがパニック状態になった理由を明かした。この日、野田氏は「今年はじめてのブログですが」と切り出し「元旦の地震さらに、海保亡くなられた方々の無念を思うと、慰めの言葉もみつからず、動揺しています」と1月1日に発生した石川県・能登半島地震、2日の日航機と海上保安庁の航空機の衝突事故について言及。「息子は地震のニュースでパニック状態になります」と真輝くんの様子を説明し「こわい、こわい、と泣きます」と明かした。続けて「テレビで放送されるたびにヒステリー」と述べ「親は抱きしめて落ち着かせることしか、出来ない」とコメント。「本当は、ばあばとの年一回の休日でしたが二人とも不安の中におり、見守るばかり」と明かし「幸いは、おびえるばあばを自分も怖いのに、守ろうとする息子の成長」と真輝くんの様子をつづった。最後に「お悔やみとお見舞いを申し上げます」と追悼。「今年も皆様と共に元旦、皇居での新年行事を終えて、ふたり」と真輝くんとの2ショットを公開し、ブログを締めくくった。
2024年01月04日歌手の小柳ルミ子が25日に自身のアメブロを更新。歌手・松田聖子から届いたお歳暮を公開した。この日、小柳は「今年も可愛い妹聖子ちゃんからお歳暮が届きました」と松田からお歳暮が届いたことを報告。「【たねや】最中と羊羹」と写真とともに中身を紹介し「嬉しーいこの最中は自分で餡子を挟んで作るんだけど凄く美味しいんです」とお気に入りの様子でつづった。続けて「お正月に食べよう」と述べ「楽しみ」とコメント。「聖子ちゃんお母様今年もお心遣い有難うございました頂きます」と感謝をつづり、ブログを締めくくった。この投稿に読者からは「美味しそう」「お心遣い嬉しいですね」「好みを熟知された贈り物ですね」などのコメントが寄せられている。
2023年12月26日「来年2月14日に、聖子さんがジャズアルバムを発売することになりました。聖子さんが新作を発表するのは約2年4カ月ぶりです」こう語るのは音楽関係者。今月、愛娘・神田沙也加さん(享年35)の三回忌が控えるなか、松田聖子(61)の新たな活動が見えてきた。「聖子さんがジャズアルバムを発表するのはこれで3度目。代表曲『赤いスイートピー』のジャズバージョンも収録されるということです」(前出・音楽関係者)沙也加さんが’21年12月に亡くなって以来、テレビ番組に出演していない聖子。コンサートやディナーショーなど、ファン向けの活動に専念してきた。「沙也加さんのことがあって以降、聖子さんは世間の声に敏感になってしまい、不特定多数が目にするテレビへの出演には強い不安があるそうです。そのため、今でもファンの前にしか立てずにいるのです」(前出・音楽関係者)その思いは、今回のアルバムにも表れているという。「本来なら新曲を発表し、ファン層を広げたいと思うものです。しかし久しぶりの作品として聖子さんが選んだのはジャズアルバムで、すべてカバー曲。“支えてくれるファンに感謝を示したい”という考えのようです」(前出・音楽関係者)アルバムを発売するときは多くの人に聴いてもらうべく、必ずメディア出演をしてきた聖子。今回のジャズアルバムの発売に際しては試聴会が開催されるというが、「聖子さんは登壇しないと発表されています。私生活のこと、特に沙也加さんのことを聞かれたくないという思いがあるのでしょう」(前出・音楽関係者)テレビ局関係者は言う。「これまでは『SONGS』(NHK)や『MUSIC FAIR』(フジテレビ系)で新曲を披露するということが多くありました。この2つの番組はトークの場面が少なめで、音楽に特化していることが特徴的。聖子さんにとってもなじみのある番組ですから、触れられたくない話題を聞かれることは決してありません。新作アルバム発表は一歩前に進むよい機会です。それを天国の沙也加さんもきっと望んでいるはず。聖子さんもまだテレビ復帰のオファーを正式に断ってはいないといいます」元夫・神田正輝(72)は唯一の出演番組を続けて欠席している。「『朝だ!生です旅サラダ』(ABCテレビ・テレビ朝日系)を11月18日の放送から3週連続で欠席。12月2日の放送では『体のメンテナンス中でしばらくお休み』と説明がありましたが、ここ最近のあまりの痩せぶりに“引退危機”もささやかれています」(前出・テレビ局関係者)“テレビが怖い”の思いから抜け出せずにいる聖子。来年2月、どんな決断を下すのだろうか。
2023年12月08日「マスクをしていたので目立ちませんでしたが、聖子ちゃんが店内に入ってきたので驚きました。スタッフのような男性2人と一緒だったので、仕事の打ち合わせでしょうか。店内には1時間半ほどいました」(一般客)9月上旬、東京都内の高級住宅街。チェーンのコーヒーショップで目撃されたのは松田聖子(61)。9月3日に全国ツアーを終えたばかりだった。「今回のコンサートでは、歌やダンスだけでなく、ピアノやギターの演奏も披露。さらにドラムをたたきながら歌うパフォーマンスもあり、ファンは驚きながらも歓声を上げていました」(音楽関係者)変わらぬ魅力でファンを引きつけたが、冒頭の客によると、目撃された聖子の姿は少し変化していたようで……。「しばらくテレビで見かけないうちにやせたように見えて……。元気でいてほしいですが、心配です」’21年12月に愛娘・沙也加さん(享年35)が亡くなって以来、聖子はテレビに一切出演していない。「各局の音楽番組が聖子さんにオファーを出していますが、すべて断られています。コンサートやディナーショーは精力的に開催しているので、歌手活動への情熱がついえたわけではありません。しかし悲しみがまだ癒えないなかでは、聖子さんを励まし、一緒に悲しんでくれるファンの前でしか歌えないという状況のようです」(テレビ局関係者)前出の音楽関係者は言う。「沙也加さんが亡くなってからのコンサートで、聖子さんが沙也加さんの楽曲を涙ぐみながら歌ったこともありました。しかし、今回のツアーでは沙也加さんの曲はありませんでした。亡くなってまだ2年ですから、前向きな気持ちと悲しみとが、交互にやってくるような状態なのかもしれません」いっぽう、聖子の元夫で沙也加さんの父・神田正輝(72)は、沙也加さんが亡くなった直後から気丈にもテレビ出演を続けている。「沙也加さんが急死した1週間後、神田さんは『朝だ!生です旅サラダ』(ABCテレビ・テレビ朝日系)の生放送に出演し、『僕は元気ですよ』とコメントしていました」(前出・テレビ局関係者)ところが神田も聖子と同様に、やせた姿が心配されている。「神田さんの仕事は現在、『旅サラダ』のみ。メディアの取材に対し、神田さんは『ファスティング(断食)をしているから」と答えて“重病説”は否定しましたが、週1回の生放送のたびに、すっかりこけた頰に視聴者から驚きや心配の声が上がっています。確かに、体がひとまわりもふたまわりも小さくなったように見えます」(前出・テレビ局関係者)本誌は7月下旬、『旅サラダ』出演のため羽田空港の搭乗口に向かう神田を目撃。気温35度を超える猛暑にもかかわらず、七分丈のカーディガンを羽織っていたー―。聖子と神田の“同時激やせ”が心配されるなか、沙也加さんの三回忌が3カ月後に控えている。終活カウンセラー協会代表理事の武藤頼胡さんはこう語る。「三回忌とは本来、死と向き合うことで故人を供養し、自分を納得させていく機会です。ただ、“親は子供より先に死ぬもの”と思っていたのに、子のほうが先に逝ってしまうと、なかなか気持ちの整理はつきづらいもの。亡くなってから何年たっても、悲しみが完全に癒えることはないという遺族も少なくありません」歌手にとって12月といえば、『NHK紅白歌合戦』の季節だが、「聖子さんは’21年に沙也加さんの訃報を受けて辞退して以降、『紅白』に出場していません。’22年もNHKはオファーを出しましたが、断られました。今年もオファーを出してはいますが、現状、反応はありません」(前出・テレビ局関係者)聖子にとって『紅白』は、愛娘と密接に結びついたものになっているようだ。「もともと『紅白』のステージは、親子共演したこともある思い出の場所です。『紅白』に出るとなれば、必然的に沙也加さんの不在をより一層強く感じることになるのです。だからこそ聖子さんは、“出たくても出られない……”という心境でいるようです」(前出・テレビ局関係者)そんな聖子を癒すものが。「コンサートでも披露していたドラムです。’21年の楽曲『私の愛』のMVでもドラムをたたきながら歌う姿を披露していましたが、本格的に始めたのは昨年からだそうです」(前出・音楽関係者)そのきっかけはやはり、沙也加さんの死だった。「沙也加さんの死後、聖子さんは悲嘆に暮れて何も手につかず、自宅にこもりきりの日々が続いていました。そんなとき、スタジオで何げなくたたいたドラムが気分転換になったそう。悲しみを紛らわすかのようにドラムをたたき続けた結果、大勢のファンの前で披露できるまでに上達したようです」(前出・音楽関係者)前出の武藤さんは言う。「三回忌だからといって、無理に区切りをつける必要はありません。ただ、死に向き合い、見つめていくことが大切です。それが故人の供養にもつながるのです」喪失感を紛らわすかのように、仕事に没頭する聖子と神田。2人の晴れやかな表情がまた見られるように祈るばかりだ。
2023年09月28日「聖子さんはちょっと前に髪を切って、コンディションも上々です。今年のツアーは“力を入れすぎずに、明るく”がモットーです」(聖子の事務所関係者)愛娘の神田沙也加さん(享年35)一周忌も終わり、今年もコンサートで全国を巡る松田聖子(61)。7月7~8日には日本武道館公演を盛況のうちに終えた。そんな彼女には新たな“元気の源”があるという。「聖子さんは最近“翔平くん”に夢中なんです」(聖子の知人)エンゼルスの大谷翔平選手(29)にビビビ!ときたというのだ。聖子の知人が続ける。「同居している母・一子さんが野球好きなこともあり、もともとは母との話題を増やすために大谷選手の試合をチェックしていたそうです。そのうち聖子さん自身もハマって、中継が見られないときは、旦那さんが録画している試合まで見るようになったのだとか。WBCで世界一となった瞬間にキャップを投げるシーンの彼を見てからは、聖子さんはすっかり“翔平ラブ♡”ですよ。入手困難な現地の『大谷フィギィア』を友人からもらって大事にしています」球団名にもあるロサンゼルスといえば、かつて聖子が米国進出の足掛かりとした地でもある。「’90年6月にアルバム『Seiko』で全米デビューした聖子さんですが、ロス近郊のサンタモニカに高級コンドミニアムを購入しています。’99年から’00年にかけては、当時の夫と沙也加さんと3人でロスに移住していた時期もありました」(芸能記者)サンタモニカからエンゼルスの本拠地・アナハイムまでは距離にして約70キロ、車で40分ほどだ。「聖子さんは“お母さんが元気なうちに翔平くんの試合を生で見せてあげたい。あっちでゆっくり暮らすのもいいな”と話していました。デビュー40周年を終え、沙也加さんのことも落ち着いたいま、なにかと窮屈な思いをすることも多い日本を出て、ロスに再移住することも考え始めているようです。旦那さんも来年で還暦ですから、“第二の人生”を始めるにはいいタイミングなのでしょう」(前出・聖子の知人)デビュー当時から聖子を知るカメラマンのYAHIMONときはるさんはこう話す。「聖子さんは以前から“老後はロスで暮らしたい……”と漏らしていたと聞いています。過酷だった米国進出でも、サンタモニカのビーチを見下ろすと、いつも心が安らいだのだそうです。一子さんも90歳とはいえ矍鑠とされていますから、今なら移住も十分可能なのではないでしょうか。聖子さんは永住も可能なグリーンカードを持っていますからね」思い出の地で活躍する最強の“推し”が、聖子を新たなステージへと導く――。
2023年07月12日最高に「愛が伝わる」!(※画像はダルビッシュ聖子さんオフィシャルブログより)ダルビッシュ聖子さんは、大リーグの「サンディエゴ・パドレス」に所属するダルビッシュ有さんと結婚。昨年8月には第五子を出産し、五児の母として子育てに奮闘しています。聖子さんは18日に自身のInstagramを更新し、「最高の夫であり、父親であるあなたに、父の日おめでとう!」と、日頃の感謝のメッセージとともに夫が微笑む写真を投稿。この写真に「愛が伝わる」「柔らかい素敵な笑顔してる~」「めちゃ爽やか」「素敵な夫婦に乾杯」と大きな反響が寄せられました。また、20日には「Happy Father’s day」のタイトルでブログも更新し、「世界一のパパみんなのためにいつもありがとう♡」と、あらためて夫への感謝を投稿。同時に、自身の父親とのツーショット写真、そして夫が赤ちゃん時代に父親に抱っこされている可愛らしい写真も公開し、「私の2人のお父さんにもHappy Father’s Day」「いつも私達のことを心配してくれてありがとう」と、それぞれの父へのメッセージも綴りました。SNSでは折に触れて夫への感謝を表している聖子さん。ダルビッシュ有さんはシーズンが終了すると、その翌日から子どもたちのスクールの送迎などパパ業をこなしているのだそうです。しかし聖子さんは、夫がベストなパフォーマンスをできるよう、家事育児の負担を減らすべく、朝の子どもたちの送りを辞退してもらうように夫婦で話し合ったと明かしています。第五子の産後は、ダルビッシュさんが子どもたちをケアし、聖子さんが一泊二日のホテルステイで「母業」を休む日を設けたことも。ホテルステイから戻った後、 聖子さんは「家の事ってさ難しくはない大した事のない事の連続。その連続が大変なのよねって笑けど身近な人がそこに気づいてくれる事。それが一番嬉しいんだよね」と、いつも労いの言葉をくれる夫に感謝。ダルビッシュさんは毎日「ありがとう」の言葉をくれ、口だけでなく行動でいたわってくれるのだそう。お互いへの思いやりが、深い信頼関係につながっているようですね。 この投稿をInstagramで見る Seiko Darvish(@seiko_darvish)がシェアした投稿 夫婦関係の維持や改善はお互い努力してこそ結婚したときの気持ちのまま、ずっと愛を深めていけたら素晴らしいことですが、子育て中は夫婦間のすれ違いが発生しがちな時期でもあります。相手の優しさが感じられない、思いやりを持って接したいのにうまくできない、ついイライラしてしまう……そんな気持ちの堆積がやがて、取り返しのつかない夫婦関係の不和につながってしまうことも残念ながら少なくありません。すれ違いを感じたら、初期の段階で夫婦カウンセリングを受けてみるのもおすすめです。夫婦カウンセリングとは、夫婦・カップル間で起きた問題の解決や、夫婦仲・カップル仲の改善などのために、二人がそろって受けるカウンセリングのことで、カップルセラピーとも呼ばれます。夫婦・カップルカウンセリングに対応しているカウンセリングルームや精神科・心療内科、オンラインのカウンセリングサービスなどで受けられます。日本ではまだあまり浸透していないカウンセリングですが、夫婦カウンセリングを受けることで、二人だけだとヒートアップしてしまいがちな話し合いを冷静にすることができたり、相手への理解が深まって二人のより良い関係を築いていくために必要なことがわかるなど、良い効果を得られる可能性があります。夫婦間のトラブルが起きたときはもちろん、二人の関係を見つめ直したいと思ったとき、二人の間に誰か仲介してほしいと感じたときなど、必要と感じたらいつでも受けることができます。実際に相談が多いケースは、「コミュニケーション不足による不和」「浮気」「別居・離婚の危機」「セックスレス」「お互いの価値観の違い、性格の不一致」などだといいます。片方だけが一生懸命頑張っても、良好な関係を長く続けることは難しいもの。お互いに「改善しよう」と努力する必要がありますね。「自分は受けてみたいけど、相手がカウンセリングに消極的」という場合は、まずは片方が夫婦・カップルカウンセリング対応のカウンセラーに個人カウンセリングを申し込むという方法もあります。どのような誘い方をするのが良いか、カウンセラーに相談することもできます。
2023年06月21日2003年に5000倍のオーディションを勝ち抜き、ミュージカル『レ・ミゼラブル』のエポニーヌ役で華々しい舞台デビューを飾った女優・新妻聖子。以来、日本ミュージカル界屈指の歌姫として第一線で活躍を続け、今年で初舞台から20周年を迎えた。そんな新妻の20周年記念コンサートツアー『Seiko Niizuma 20th Anniversary Concert Tour~HARMONY~』が6/25(日)にNHK大阪ホール、7/20(木)にサントリーホールで開催される。初舞台の『レ・ミゼラブル』より「On My Own」のほか、『ラ・マンチャの男』や『ボディガード』などの楽曲をフルオーケストラ(大阪は日本センチュリー交響楽団、東京は東京フィルハーモニー交響楽団)とともに披露する予定だ。「こうして20年続けてこられたのは当たり前の事ではなくて、私が何かを成し遂げたというより、『連れて来てもらった』という感覚が強いです。辞めずに続けた自分も偉いぞ!と少しだけ思いますが(笑)自分が続けたくてもお仕事をいただけなかったら道は途切れてしまう。ミュージカル女優としてここまで歩ませてくれた環境に感謝をするタイミングだと思いますし、恩返しの気持ちを込めて、お客様が満足して帰ってくださるようなコンサートにしたいです」と新妻は意気込みを話す。第一線で走り続けた20年。そのモチベーションを尋ねると、「いろいろな方に『一線で走り続けてきた』と言っていただけるのは嬉しいのですが、私の感覚としては本当に山あり谷ありだったので」と話す。「特に20代~30代前半は『私はどこに向かっているんだろう』と悩んだ時期もありましたし、それでもとにかく板の上では真剣勝負で『今日お客様に満足してもらえなかったら明日はない』という危機感をもって、追い込んでやっていました。思うようにいかなかった事の方が多かったし、何度も心が折れそうになったけど、壁に体当たりや頭突きをしながら大きな石を1ミリずつ動かして......我武者羅でしたね」。突破口は「意図していなかった出会いやご縁」からのテレビ出演だった。「35歳ぐらいかな。カラオケ番組に呼んでいただいたことをきっかけに、思わぬ形で応援してくださる方の間口が広がったんです。そこから新たな形でコンサートツアーをまわったり、新しい役をいただくようになったり......年を重ねるごとにむしろ活動の幅が広がっているので、本当に恵まれた運の良いキャリアを歩ませてもらっていると思います」とも語った。これからの目標については「先日、スティングのコンサートに行ったんです」と興奮気味に切り出し「71歳。声も伸びるし体もムキムキに鍛えられていて、スターの余裕を感じました。あれは努力以外の何物でもないですよ」。そして「怠けず、いつまでも元気に歌い続けることかな。それが私にとっても一番の幸せだし、家族やファンの皆さんを含めて私の周りの人たちの幸せでもあると思うから」と笑顔で語った。取材・文:五月女菜穂
2023年04月21日3月10日、松田聖子が61歳の誕生日を迎えた。1962年、福岡県久留米市に生まれた聖子は高校時代になると歌手を志すように。「ホリプロスカウトキャラバン」、「ミス・セブンティーンコンテスト」といったオーディションに挑み落選するも、歌声に衝撃を受けた後の所属レーベルCBSソニーの担当者が芸能界入りをオファー。粘り強い交渉によって猛反対していた実父を説得し、見事1980年4月に「裸足の季節」で歌手デビューを果たした。デビューすると、同年に引退した“伝説のアイドル”山口百恵とまるで入れ替わるように、凄まじい勢いでスターへの階段を駆け上がっていく。初の週間オリコンシングルチャート1位を同年10月の「風は秋色/Eighteen」で獲得すると、それから8年間にわたって24作連続で1位を獲得。トレードマークとなった「聖子カット」を当時の女性たちはこぞって真似し、コンサートは軒並み売り切れ、行く先々で人々が熱狂するなど、存在そのものが社会現象となった。90年代に入ると、全米デビューや米雑誌でセミヌードを披露するなど活動の幅を広げつつ、96年に発表したシングル「あなたに逢いたくて~Missing You~」がミリオンヒットを記録し、変わらぬ勢いを見せた。2000、2010年代に入っても恒例のディナーショーには毎年多くのファンが詰めかけ、14年と15年の『NHK紅白歌合戦』では2年連続で大トリを飾るなど、40年以上にわたって常に芸能界の最前線で闘い続けてきた。メディアの前やステージではプロフェッショナルに徹した聖子だが、プライベートで家族と過ごす時間では、人前で見せない素顔をのぞかせていた。そこで、これまで本誌が目撃してきた聖子の家族との“団らん現場”を振り返りたい。■神田正輝、沙也加さん本誌が見た家族との団らんアイドルとして栄華を極めた80年代前半、憧れだった郷ひろみ(67)との交際を公言していた聖子だったが、85年1月に破局会見を行うことに。そして、その衝撃も冷めやらぬ翌月になんと神田正輝との交際が明らかになり、4月に婚約、6月に挙式というスピード結婚を果たした。トップアイドルと人気俳優の結婚とあって、当時の報道も過熱。サレジオ教会での結婚式にはメディアが押し寄せ、テレビで生中継もされるほどの注目ぶり。本誌も新婚旅行先のハワイで、ボートの上で神田に抱きつく聖子の姿を目撃している。結婚翌年の86年10月に長女の神田沙也加さんが誕生してからは、2人そろって学校行事にたびたび参加するなど誰もがうらやむ仲良しファミリーに。公園で沙也加さんに三輪車の乗り方をレクチャーする聖子の姿を目撃したこともあった。97年1月に夫婦生活にピリオドを打つことにはなったが、芸能人夫婦としても頂点に立っていた。離婚後の聖子は、母親としてだけでなく2001年に「SAYAKA」名義で芸能界デビューした沙也加さんの“先輩”としてもサポート。自身の仕事現場に沙也加さんを連れていき、背中を見せることも。2011年の『紅白歌合戦』では母娘共演を果たし、2014年に『アナと雪の女王』のアナ役として各方面から沙也加さんが絶賛された際は我がことのように聖子も喜んでいたという。しかし、そんな2人に予期せぬ別れが。21年12月18日に沙也加さんが35歳の若さで亡くなったのだ。沙也加さんの訃報が流れると、聖子は予定していたディナーショーの公演や『紅白歌合戦』への出演を軒並み取りやめ。しばらく活動を休止していた聖子だったが、22年3月に歌手活動再開を発表するなど、徐々に前を向き始めるように。悲しみとともに再び歩き始めた聖子を支えたのは、沙也加さんとの思い出だった。活動再開を発表する直前に、幼き頃の沙也加さんとよく訪れていた都内の老舗デパートを訪れる聖子の姿を目撃。また、沙也加さんが生前使っていたハンドミラーを受け継いでもいるという。先日、6月からの全国ツアーを発表するなど、精力的に活動する聖子。沙也加さんとともに、彼女の道はまだまだ続いていく――。
2023年03月10日「昨年末、共通の知人とともに聖子さんのご自宅に伺いました。玄関から出てきた聖子さんは白いブラウスに薄い水色のエプロン姿で、忙しい時期にもかかわらず、笑顔で迎え入れてくれました」そう話すのは、カメラマンのYAHIMONときはるさん。松田聖子(60)がサンミュージックからデビューした`80年にカメラマンとして同事務所に入社し、彼女の撮影を幾度も担当した人物だ。昨年は聖子本人から手紙を受け取っていたことを本誌で紹介している。昨年12月に愛娘・神田沙也加さん(享年35)の一周忌を済ませた聖子。期待された『NHK紅白歌合戦』への出場はなく、彼女の活動はコンサートやファン向けイベントに限られている。「昨年新築されたご自宅に着いたのが夕方の6時頃だったでしょうか。エプロン姿だったので『お食事の支度中でしたか?』と聞いたら、『全然大丈夫。ウチの夕食はけっこう遅いので』とおっしゃっていました。とても元気そうな印象を受けましたね」(以下、カギカッコはYAHIMONさん)約1時間の滞在になったというYAHIMONさん。自宅に上がるとまずは沙也加さんにお線香をあげたという。「応接間の奥にある部屋が白いユリや沙也加さんのゆかりの品々で満たされていて、位牌とお骨も置かれてありました。部屋の中は空気がすごく澄んでいました。沙也加さんのミュージカルの写真なども20点ほど飾ってありました。フォトフレームを各ミュージカルのコンセプトに合わせているようで、例えば沙也加さんの最後の舞台になった『マイ・フェア・レディ』では白い衣装に合わせたような白いフレームだったりしましたね。ほかにも『アナと雪の女王』のグッズや『マイ・フェア・レディ』で沙也加さんが着用した衣装、譜面台や台本のようなものも置いてありました。ピンクのスマホもありましたね。とにかく沙也加さんが愛用したものばかりでした。お骨については、『(沙也加さんが亡くなった北海道から持ち帰ったまま)ずっと置いたままです』と聖子さんが言ってました」聖子とは思い出話の数々でも盛り上がったという。「同窓会的なお話もたくさんしました。山口百恵さん、桜田淳子さん、榊原郁恵さんなど当時のアイドルたちについて話したり。百恵さんとは活動時期が少ししか重なっていませんが、『ザ・ベストテン』(TBS系)の楽屋ですっごくやさしかった!と興奮しておっしゃっていましたね」訪問したのは年末ということもあり、聖子の自宅ではおせち料理の匂いが立ち込めていたという。「煮物の匂いがしたから『おせちは作るんですか?』とたずねると、『ちょっとだけ』とかわいく言われて。田づくり(ごまめ)の話をしたら『母から教えてもらったんです。(小魚が)くっつかないようにおいしくできます』と嬉しそうにお話ししていました」YAHIMONさんの滞在中は常に明るく、別れ際には深々と頭を下げて挨拶したという聖子。彼女の魅力は、ステージを下りても変わらない自然体の人柄にあるのだろう。
2023年01月18日「あれから1年ということもあって心配するファンもいたようですが、初日公演で聖子さんは涙を見せずに最後まで笑顔で歌いきったそうです」(音楽関係者)12月14日から始まったクリスマスディナーショーで連日歌声を響かせている松田聖子(60)。14日から17日まで東京で、23日から26日は大阪で行われ、全公演完売している。年末恒例となったディナーショーのステージに立つ聖子だが、昨年の公演期間中にあまりにも悲しい出来事が。愛娘の神田沙也加さん(享年35)が昨年12月18日に急逝した。訃報を受けて聖子は残りの公演をすべて中止し、21日に札幌市内で行われた葬儀に元夫の神田正輝(71)ら親族とともに参加。葬儀後に行われた囲み取材には声を震わせながら気丈にコメントしたが、出場予定だった大晦日の『NHK紅白歌合戦』への出場を取りやめた。多くのファンが動向を見守るなか、百日忌も迫った3月7日に聖子は中止したディナーショーの振替公演と全国ツアーを6月から開催すると発表。しかし、聖子の悲しみが癒えたわけではない。「発表と同時に配布されたファンクラブ会報誌の中で、聖子さんは4ページにわたって沙也加さんへの思いを告白。沙也加さんの死について“今でも信じられない”という気持ちがあり、もう前に進めないと思ったこともあったと綴っていました」(前出・音楽関係者)悲しみとともに再出発した聖子だったが、その支えとなったのが他ならぬ沙也加さんだった。別の音楽関係者は言う。「聖子さんは沙也加さんが生前愛用していたハンドミラーを、受け継いで使っているといいます。スタッフからハンドミラーを褒められた際には、『これ沙也加のものなの』と語っていたそうです。さらに聖子さんの自宅には沙也加さんが使っていた部屋があり、そこでメイクすることもしばしばあったと聞いています」沙也加さんとの思い出に触れる聖子さんの姿を本誌も目撃している。活動再開を発表する直前の今年3月初旬、聖子がいたのは自宅近くにある老舗デパート。聖子が数十年来にわたって通っているデパートで、幼少期の沙也加さんと何度も訪れていた場所だった。6月からの全国ツアーを完走し、8月には年末のディナーショー開催も発表するなど復帰後の活動を本格させてきた聖子。しかし、それでも時おり沙也加さんがいないことへの苦しみが漏れ出ることも。「11月12日に聖子さんはは都内で自身が監督を務めた映画の特別上映会とトークショーを開催。トークショーで聖子さんは『天国はお花畑があって、とても良いところだと思うんです。だから、ヒロインも沙也加も幸せにしているんだ』と涙声で話し、最終的には『沙也加に会いたい!』と泣き崩れたそうです。これにはその場にいたファンも思わずもらい泣きしたといいます」(芸能関係者)一周忌前日の17日もディナーショーのステージに立つ聖子。沙也加さんとの思い出を胸に、ファンのために歌うことだろう。
2022年12月17日「ディナーショーが本当に楽しみです。沙也加さんの一周忌もあるので、聖子ちゃんにとっては忙しい1カ月になりますね」(ディナーショーに行く聖子ファン)恒例のクリスマスディナーショーが12月14日から始まる松田聖子(60)。昨年はまな娘の神田沙也加さん(享年35)が急逝したため一部中止となったが、今年は東京と大阪で計8公演をこなす。18日には沙也加さんの一周忌を迎えるが、聖子はときどきふさぎこんでしまうなど、いまも精神的にやや不安定だという。「11月上旬に予定されていた納骨式も取りやめになってしまいました。“大みそかは沙也加と静かに過ごしたい”と考えているようです」(聖子の知人)大みそかといえば『NHK紅白歌合戦』。聖子は出場辞退した昨年に続き、今年も出場者リストに名前がない。まだ多数の歌手たちといっしょに大舞台に立つことにためらっているようだが「躊躇している理由はほかにもあるそうです」と、聖子の仕事関係者が明かす。「聖子さんは時折“石川さゆりさんが怖い”と言っているのです」今年デビュー50周年を迎える大御所の石川さゆり(64)が怖いとはどういうことなのか。「さゆりさんと聖子さんは『紅白』の出演者全員がステージに上がる場面で、毎年のように並んで歌っています。’17年には渡辺直美さんが『去年は松田聖子さんと石川さゆりさんが手をつないで歩いていました』と語り、話題になりました。関係がとても“近い”印象ですが……」(スポーツ紙記者)だが内実は違うようだと、前出の聖子の仕事関係者は語る。「さゆりさんは相手によってガラリと態度を変えると言われています。実は、身内や後輩にはけっこうキツめに当たるんです。一方で、いつも自由に振る舞っている印象の聖子さんですが、実は周囲にとても気を使う人。それだけに、他人の一言に傷ついてしまうことも多いのです」’80年にデビューした聖子に対して、’73年デビューの石川は芸能界の先輩にあたる。しかし、あっという間にトップアイドルに駆け上がった聖子と比べて、石川はなかなか日の目を見なかった。「さゆりさんは最初アイドルとして売り出され、森昌子さん、山口百恵さんと一緒に『ホリプロ3人娘』と呼ばれていました。しかし、森さん、百恵さんに桜田淳子さんが加わった『花の中3トリオ』が断然人気を博していったのです」(芸能記者)この“挫折”を石川はバネにする。アイドルではなく歌手として成功するため、歌唱法の特訓を開始。声を震わせるビブラートの技術や、高音域で歌うファルセット唱法を磨いていく。そして’77年に『津軽海峡・冬景色』がヒットし大ブレークを果たした。今や日本を代表する歌い手となった2人だが、初期の経歴は好対照だった。前出・仕事関係者が2人の関係をさらに語る。「聖子さんにとってさゆりさんは芸能界の先輩であると同時に、堀越高校の先輩。それに加えて、2人はともに九州出身で、同郷の上下関係もある。聖子さんは常にさゆりさんを立て続けています」■「津軽海峡」と「天城越え」だけのジレンマ石川さゆりの“いびり”ともいえる目下に対する扱いについて、実際に体験した映像関係者が語る。「石川さんは撮影現場では完全に女王様。レコード会社の方たちも常にご機嫌をうかがっていました。私は初対面でしたが石川さんの口調がキツくて……。自ら現場の指示もされるので、段取りがかき乱されましたし、制作費に収まらない着物を撮影当日に突然提案されたのは、大変困りました」よく言えば天真爛漫、悪く言えば空気を読まない石川さゆり。彼女自身も雑誌のインタビューで、こんなことを語っている。《デビューした年に忘年会のステージで自己紹介するとき、「美空ひばりさんはひばり節、島倉千代子さんは島倉節…。私も早くさゆり節が歌えるようになりたいと思いまーす」って挨拶したら、(ひばりさんに)「こっちにいらっしゃい」って(笑)》(『週刊文春』 ’04年7月22日号)また、石川を知る音楽関係者は、彼女の『紅白』に対する悩みを明かしてくれた。「石川さんは’77年以来、出産準備の’83年を除いてずっと『紅白』に出場しています。当然、紅組最多出場歌手としてのプライドは高い。ところが歌う曲目は『津軽海峡・冬景色』と『天城越え』だけ。毎年この2曲を交互に歌う慣例に縛られているジレンマに、さゆりさんはいら立っているのです」私生活でも2人は異なる。石川は23歳で結婚し、一人娘を出産。31歳で離婚して以来、シングルマザーとして娘を育ててきた。一方で聖子は、これまでに結婚と離婚を繰り返している。「さゆりさんが聖子さんに対して『あなたは自由にできていいわね』と言ったことがあるそうです。『紅白』でもある程度歌う曲を選べて、女性としても恋愛を繰り返す聖子さんへの羨望があったのかもしれませんが、さゆりさんの辛口な物言いを受け止め続けていた聖子さんにとって、その一言がトラウマとなってしまったそうです」(前出・仕事関係者)冒頭の聖子の知人が付け加える。「沙也加さんを失った不安定な精神状態でまた何か言われたら、と不安に思っているようです」それでも聖子の『紅白』出場を楽しみにする視聴者は多い。サプライズは果たしてあるか。
2022年12月14日松田聖子のクリスマスディナーショー『SEIKO MATSUDA Christmas Dinner Show 2022』が、12月14日(水) から17日(土) にかけて東京・グランドプリンスホテル新高輪 大宴会場 飛天で開催される。これまで40以上の音楽賞を受賞し、シングルチャート24曲連続1位という記録を持つ松田。歌手としてだけではなく作家、プロデューサー、女優として映画、テレビドラマ、CMにも出演。さらに2021年には映画監督デビューを果たしており、常に新しい挑戦をし続けるトータルアーティストのステージは必見だ。チケットは、現在追加席の販売が行われている。<公演情報>SEIKO MATSUDA Christmas Dinner Show 2022会場:東京・グランドプリンスホテル新高輪 大宴会場 飛天ディナー:国際館 パミール【日程】12月14日(水)・15日(木)・16日(金)受付16:30 / ディナー17:30 / ショー19:3012月17日(土)受付16:00 / ディナー17:00 / ショー19:00【料金】1名さま:51,000円※料金には、ショー、コース料理、お飲みもの、サービス料・消費税が含まれております。※開催時間は変更になる可能性があります。チケットの購入はこちら:
2022年12月01日昨年12月に逝去した愛娘、神田沙也加さん(享年35)の一周忌をまもなく迎えようとしている松田聖子(60)。昨年は道半ばで中止となった恒例のディナーショーを12月に控え、辞退した『NHK紅白歌合戦』への出場も有力視されるなど、動きを活発化させている。そんな多忙な聖子だが、11月12日に“シークレットイベント”を都内で開催していた。「聖子さんが昨年に初めて監督を務めた映画『あの風が吹いた日』の特別上映会とトークショーが行われました。直前まで場所も告知されず、参加できたのは抽選に当選して購入したファンクラブ会員のみ。イベントは2部に渡って行われ、貴重な生声を聞くことができました」(参加したファン)『あの風が吹いた日』は、聖子が“ずっと頭の中にあったアイデア”をもとに、1年以上かけて脚本を書き上げた作品。女子高校生が憧れの歌手に偶然出会ったことから始まる、一見ラブストーリーながらホラー仕立て、という異色の作品だ。聖子にとって思い入れの強い初監督作を、本人のトークつきで鑑賞するというファン冥利につきる今回のイベント。しかし、戸惑いもあったと前出のファンは言う。「この主人公のヒロインも“死”というものに遭遇するというもので、どこか沙也加ちゃんとリンクして観てしまうこともあり、私たちも複雑な気持ちでいました」そんななか上映が終了し、トークショーの時間になると、聖子から思わぬ発言があったという。「聖子さんが『天国はお花畑があって、とても良いところだと思うんです。だから、ヒロインも沙也加も幸せにしているんだ』と涙声になり、最後には『沙也加に会いたい!』と泣き崩れてしまったのです。会場にいたファンも思わずその姿にもらい泣きをしながら、拍手を送りました。そんな姿を見た聖子さんは平静を取り戻し、『ファンがいるから前を向いて頑張れます。また会おうね!』と笑顔で手を振りながら退場していきました。ファンとしては、聖子さんがつらい気持ちを我々に吐き出してくれ、またこちらとしてもずっと応援しているよ、という思いを伝えられた空間になって、とても良かったです」(前出・ファン)ファン、そして沙也加さんとともに聖子は師走を駆け抜ける――。
2022年11月16日「昨年6月から聖子さんのお家の建て替えが行われていたのですが、10月頭に完成したようです。宅配業者が大きな段ボールを運び入れたり、引越し用のトラックが来たりしているのを見かけました」(近隣住民)年末のディナーショーに向けた準備と並行して、引っ越しに追われているという松田聖子(60)。神田沙也加さん(享年35)の納骨も11月上旬に控えている。そんな折、残された肉親である母・蒲池一子さんが、10月18日に90歳の誕生日を迎えた。新居は母の卒寿に合わせた贈り物なのだろうか。聖子の知人が明かす。「聖子さんは2年前から建て替えを計画していました。『私、何でも早め早めだから、老朽化する前に建て替えるの』と。いちばんの理由はもちろんお母さまのこと。一子さんが転倒しないように『老人用のバリアフリーと感じさせないように、手すりはおしゃれじゃないとね』なんて話もしていました」事務所としても使われていた建物の跡地に建設されたのは、およそ100坪の土地に地上2階、地下1階建ての豪邸。グレーの立派な門構えの奥には、アイボリー調の邸宅が見える。費用はいったいどのくらいかかったのだろうか。「古い建物を取り壊して新築した費用は、推定ですが2億~3億円でしょう。都内でも屈指の高級住宅街ですから、土地と合わせた資産評価は5億円と考えられます」(住宅ジャーナリスト・榊淳司氏)この“介護御殿”の地下にはなんと、レコーディングスタジオまで備えられているという。「仕事を家に持ち込みたくないと、これまで自宅にスタジオは設けなかった聖子さんですが、コロナ禍で外出できない生活を送るなかで、考えが変わったようです。仕事とお母さまの介護の両立が、新居のテーマとなりました」(前出・聖子の知人)デビュー当時から聖子を知るカメラマンのYAHIMONときはるさんが語る。「『今日は喉の調子がすごくいいからレコーディング日和』と話していたのを聞いたこともありますが、聖子さんは常にベストコンディションを重視します。状態次第ですぐに録音できる自宅スタジオは彼女にピッタリでしょう」そんな建替え工事の最中、愛娘を失ってしまった聖子。悲しみを乗り越える中で、“もう肉親と離れない”という気持ちがこれまでないほど強くなっているようだ。「一子さんは90歳を迎えるいまでも矍鑠とした様子ですが、心配でないはずありません。最近聖子さんは、これまで以上に一子さんとの距離を縮め、まるで小さな子供が母に甘えるような態度を見せるときがあります。聖子さんの性格から、お手伝いさんなどほかの人にお母さまを任せるようなことはないでしょう」(前出・聖子の知人)常に母のそばに寄り添いながら、ファンに向けて歌うーー。聖子流の“理想の介護”を実現する新しい家が完成したのだ。
2022年10月20日「全国ツアーを終えた後の聖子さんは“サヤ(沙也加)の曲を歌ったことで、(娘との)伝説を作れたと思うの”と語っていました」(聖子の知人)松田聖子(60)が愛娘の神田沙也加さん(享年35)を失ってから初めて行った全国ツアー。そのファイナル公演は、日本武道館で9月3日に行われた。「沙也加さんと幾多の共演をした日本武道館は、聖子さんにとって娘との大切な思い出の場所。そのため追加公演という形にしてまで、武道館を千秋楽の場として選んだと聞いています」(デビュー当時から聖子を知るカメラマン・YAHIMONときはる氏)聖子は沙也加さんのデビュー曲『ever since』を熱唱。大観衆の涙を誘い、ツアーは無事に終演したが、実はその直後に聖子は冒頭の知人にこう漏らしたという。「サヤの曲は正直、歌える自信がなかったの。サヤの曲は彼女のものだから、私が歌って壊してしまったらどうしようという葛藤があったから……。それでも“伝説”を作りたかった。そして、実際にファンの方たちと私で、伝説を作ることができた。そう思っているの。ただし、伝説はここで終止符じゃなくて進行形。ひとつの伝説が、次の伝説を生むのよ」その言葉どおり、聖子は12月に行われる恒例のディナーショーに向けて準備に入っているという。「打ち合わせの際、聖子さんは“ディナーショーのころにはサヤはもう家にいないけど、頑張るから”と笑顔で話しました。11月上旬に沙也加さんの納骨を行うようです」(前出・知人)愛娘の遺骨は、福岡県にある蒲池家(聖子の生家)の菩提寺・良清寺に納骨される予定だという。沙也加さんは、9月22日に死後初めて更新されたSNSが話題となった。「神田さんが手がけていたアパレルブランドが今秋で終了するため、デザイン画などを展示するアーカイブ展を銀座で開催するという告知でした。神田さんの元夫の村田充さん(45)が神田さんから引き取った愛犬の画像をアップしたため、さらに反響を呼んでいました」(スポーツ紙記者)また30日には追悼アルバムの発売も発表された沙也加さん。聖子はこうしたタイミングで、“愛娘逝去後の傷心生活からの卒業”を知人に宣言していたのだ。ディナーショーの後に控えるのは『NHK紅白歌合戦』。昨年は急な辞退となった聖子への期待は大きい。「聖子さんは、今年は出たいと思っているはず」と芸能レポーターの城下尊之さんが語る。「昨年の紅白は世帯視聴率が34.3%と歴代最低だっただけに、NHKも話題性抜群の聖子さんには出てもらいたいでしょう。聖子さんには、ファンに向けた何かしらのメッセージを出してほしい。“これが聖子だ!”という姿を、紅白で見たいですね」母娘にとって区切りとなる年の瀬。完全復活を目指す聖子の新たな伝説は見られるだろうか。
2022年10月05日どんな人でも、ストレスが積み重なると、心が壊れそうになるもの。不特定多数の人に注目される、芸能人であれば、なおさらストレスは大きいのかもしれません。タレントの中川翔子さんは、2020年、心が壊れそうな時期があったといいます。そんな時、自身が出演するラジオ番組に突然、歌手の松田聖子さんが現れたそうです。昨年、私が壊れそうだった時に、松田聖子様がサプライズで突然ラジオにいらっしゃり泣いてなにも言えなくなってしまったわたしにあなたはたくさんの才能があるからいつも楽しみにしていますよ、と ディオールの香水をプレゼントしてくださったのです聖子様は1番の神様であり命の恩人様です pic.twitter.com/bULNAiK9t4 — 20周年の中川翔子 (@shoko55mmts) September 3, 2022 憧れの人である、松田さんの出演を知らなかった中川さんは、驚きや嬉しさで涙が止まらなくなったのでしょう。松田さんは「あなたにはたくさんの才能があるから、いつも楽しみにしていますよ」と優しい言葉をかけてくれたといいます。芸能界の第一線を走ってきた松田さんだからこそ、中川さんの心に届く言葉をかけてあげられたのかもしれません。【ネットの声】・松田さん、素敵な人だな。投稿を読んで泣いてしまいました。・友人や知人からの声は励ましになるけど、憧れている人からの言葉って本当に救いになるよね。しょこたん、よかったね。・松田さんご本人も、さまざまなことを感じて苦しんできたからこそ、どんな言葉をかけてほしいかを、分かったのかもしれないですね。・後輩にも優しい松田さんの振る舞い、人として尊敬します。松田さんの言葉は、これからも中川さんの心を支えてくれるのでしょう。人を思いやることができる松田さんの姿勢が素敵ですね。[文・構成/grape編集部]
2022年09月04日「聖子さんが生まれ育った福岡県での公演とあって、1万人以上収容の会場は満席。聖子さんは曲の合間には『水ば飲むけん。ちょ待っとって』と久留米弁丸出しで会場を沸かせていました」(コンサートに参加したファン)8月20日、全国ツアー真っただ中の松田聖子(60)がふるさとに帰ってきた。マリンメッセ福岡で行われたコンサートは大盛況だったが、実は聖子の“帰郷”には隠された目的もあったという。「聖子さんは公演前日の夜に、地元の高校時代の女友達に会いに出かけているんです」こう語るのは彼女の知人だ。「その際にはいつも頼んでいる美容師に編み込みをしてもらったそうです。リフレッシュと“変装”、2つの意味があったのかもしれませんね。学生のころの昔話に花を咲かせたそうですが、そこでは沙也加さんの遺骨をどうするか、という話題も出たそうです」昨年12月に急逝した愛娘・神田沙也加さん(享年35)はいったいどの地で眠るのか――。ファンならずとも気がかりな沙也加さんの納骨先は、いまだ決定の報せがない。芸能関係者が明かす。「沙也加さんの四十九日法要が行われたのは、聖子さんの現在の夫・Aさん一族の菩提寺でした。しかし、聖子さんはそこに納骨はせず、沙也加さんの遺骨は自宅に持ち帰っているのです」とはいえ、聖子とAさんの関係が悪いわけではない。「2人は仲睦まじく、このまま添い遂げる可能性が高いでしょう。しかしAさん一族のお墓では、聖子さんの元夫であり沙也加さんの実父の神田正輝さん(71)が訪ねづらいのでは……という事情があります」(前出・芸能関係者)では正輝はどう考えているのか。「神田さんのお母さんのお墓は東京・新宿にあります。しかし、こちらに沙也加さんを埋葬すると、聖子さんがお参りのときに遠慮してしまうのでは、と神田さんは考えているようです」(同前)複雑な家庭事情の中でも沙也加さんがいちばん安らげる場所はどこなのか。聖子は半年以上悩み抜き、決断を旧友たちに明かしたという。聖子が生まれた久留米にほど近い福岡県柳川市には、蒲池家の菩提寺・良清寺がある。そこに墓を建立して沙也加さんを埋葬し、家族で彼女を弔おうというのだ。■菩提寺の住職は本誌に…本誌は良清寺を訪ねた。閑静な住宅街に佇む大きな瓦葺きの門が印象的だ。近隣住民に話を聞いた。「ここに聖子さんの父、孜さんが眠っていますが、お墓はありません。納骨堂を見てもらえれば、管理している(聖子の母の)一子さんの名札があると思いますよ」孜さんは国家公務員だった。真面目で厳格な性格からか、聖子の芸能界デビューをなかなか許さなかったことでも知られる。「孜さんが亡くなったのは’97年末。ただ、急いで墓を造らなくてもよいという故人の意向もあったようで、遺骨は納骨堂に納められていました」(前出・聖子の知人)蒲池家とゆかりの深い良清寺。聖子に近い親戚だという住職に話を聞いた。――このお寺が松田聖子さんご一家の菩提寺であるとお伺いしております。神田沙也加さんの納骨もこちらでされる予定でしょうか?「すみません、そういったプライベートなことにはお答えしていないんです」――最近も聖子さんが訪れませんでしたか?「申し訳ない。それにもお答えできません」住職は、聖子がここに蒲池家の墓を新たに建てるのかという質問にも返答を控えたが、ほほ笑みを絶やさず、墓地の見学はかまわないと言ってくれた。寺の周辺で話を聞くと、意外にも沙也加さんにまつわるエピソードが次々と出てきた。お供え物を扱う店で、店主が話す。「沙也加さんがデビューして数年後のことだったかと思います。彼女が一人でうちにやってきて、お供えの花を買ってくれたんです。納骨されている孜さんに手を合わせに来たんだと思いました」別の商店の店主もこんな思い出話を語ってくれた。「沙也加さんがまだ小さなころ、一子さんが境内で遊んであげているのを見たことがあります。両親ともに大スターですから、おばあちゃんが面倒を見ているんだねってこのあたりで話題でしたね。聖子さんも見かけたことがありますよ。夫のAさんと手をつないで歩いていました」沙也加さんの思い出も詰まった特別な場所・良清寺。聖子はこの地に蒲池家の新たな墓を建立すれば、娘も安らかに眠れると考えたのだろう。父の逝去から25年、重大な決断を下して心の荷を一つ下ろしたからこそ、聖子の久留米弁はファンの心を打ったのか――。
2022年08月30日「カセットテープから流れる、聖子の歌声を聴いた瞬間“すごい声を見つけてしまった”と強い衝撃を受けました」天才歌姫発掘の瞬間をこう語るのは音楽プロデューサーの若松宗雄氏(82)。若松氏は、キャンディーズ、藤あや子、PUFFYといった多くのスターを手掛けてきたが、なかでも最大の功績と言われているのが、松田聖子(60)を見いだしたことだ。7月19日に若松氏が出版した『松田聖子の誕生』(新潮新書)には、いかにして聖子をスターダムに押し上げたかが、秘話を織り交ぜ克明に綴られている。聖子と若松氏の二人三脚が始まったのは’78年5月のこと。当時プロデューサーとしてCBS・ソニーに勤めていた若松氏は、ミスセブンティーン・コンテスト地方大会の出場者、200人分もの歌声を収めたカセットテープの山の中から、聖子を見つけ出した。しかし、待っていたのはデビューに大反対する聖子の父・蒲池孜氏だ。「『許すつもりは一切ありません』の一点張りで、『ダメと言ったらダメなんだ!!』とまで言われたこともありました。ようやく福岡での面会が実現したのですが、翌日には『やはり諦めてほしい』『今後は娘や家内にも電話をしないでくれ』と、連絡の道すら断たれてしまった」その後、半年以上に及ぶ説得のすえ、ついに父親の承諾を得る。父親を動かしたのはほかでもない、絶対に歌手になりたいという聖子の意志だった。そこから若松氏は、所属事務所探しに奔走したが、旧知のプロダクション尾木社長の尾木徹氏にはこう難色を示されてしまう。「尾木さんからは『ああいう子は売れないんだよ。華もないしね』と忠告されました。そのときは、なんでわかってもらえないんだ!とくやしかったですね」■『ザ・ベストテン』で百恵さんとの邂逅がしかし、若松氏の熱意が、当初乗り気ではなかったサンミュージック元会長の相澤秀禎氏を動かした。聖子の所属が決まったのだ。「聖子は直感力に優れていて物覚えが抜群によく、人懐っこい性格なのでその場にもすぐなじむ。彼女が挨拶をすると、『あのコなかなかいいね』なんて声がかかって。私は『やっとわかってくれたか』と、うれしかったものです」ミスセブンティーン・コンテストから2年もの月日がたった’80年2月末、聖子はついにデビュー曲である『裸足の季節』のレコーディングに挑んだ。そのときの光景はいまも若松氏の脳裏に焼きついている。「ブースに目をやるとマイクの脇でこちらに向かってぺこりと頭を下げた聖子の頰に、涙が流れ落ちていくのが見えたんです。これまでの人生で見たなかでも、最も忘れがたいうれし涙でした」
2022年07月29日福岡県に住む16歳の少女だった蒲池法子(松田聖子の本名)。その歌声を発掘しトップアイドル・松田聖子へと押し上げたのが当時CBS・ソニーに勤めていたプロデューサーの若松宗雄氏(82)だ。7月19日に若松氏が出版した『松田聖子の誕生』(新潮新書)には、いかにして聖子をスターダムに押し上げたかが、秘話を織り交ぜ克明に綴られている。■聖子を感激させた『ザ・ベストテン』での百恵さんからの檄芸能界入りを反対する父親の説得や事務所探しを経て、ついに‘80年4月にデビューを果たした松田聖子(60)。その後、瞬く間にスターダムに上り詰めていったのは周知のことだ。時代は山口百恵の引退フィーバーの真っただ中。しかし、「ポスト百恵」といったプレッシャーは微塵も受けなかったという。「百恵さんも誰かと比較できるような人ではないですが、やはり聖子はほかのどのアイドルとも全く違う存在でした。だから、その素質を生かすことだけ考えていて、外野がどうとは全く気にしていませんでしたね」ただ、当の本人には、ほかの同年代の少女たちと同じく、百恵さんに対する憧れはあったようだ。「『ザ・ベストテン』で『がんばってくださいね』と引退間際の百恵さんから声をかけられると、聖子はうれしそうにしていました」『ヤンヤン歌うスタジオ』では「私も百恵さんのように、結婚したいです!」と口にしていた聖子。しかし、’85年6月、実際に23歳で結婚したとき、同じ道を進むとは微塵も思わなかった、と若松氏は言い切る。「デビューから走り続けていたから少し休むのはよいことだと思いました。ただあれだけ歌が好きな聖子のことだから、きっと歌いたくなるだろうなと復帰を確信しながら、送り出したんです」■アメリカからかかってきた“悩み相談”の電話そしてこの思惑どおり、休業から半年ほどたったころ「復帰したい」と若松氏のもとに聖子から連絡が。結婚後の聖子には、ある変化も見られたという。「楽曲への自我が芽生えたのかな。レコーディングを始めると、私と聖子で曲に対する意見が食い違うようになりました」結婚を機に、自らの思いを込めた“私だけの歌”を作りたいという思いが増したのだろうか。’89年6月にサンミュージックから独立して以降、聖子は本格的に作詞や作曲を手掛け始めた。このころから、若松氏も社内人事により聖子の担当を離れることに。といっても、若松氏と聖子の絆が完全に切れたわけではなかった。聖子がアメリカでの活動を開始した’90年代、若松氏はしばしば聖子からプライベートの悩み相談の電話を受けたという。「声が聞けるのはうれしかったですね。でも一方で、私に電話をかけてくるっていうのは、相談をできる相手がほかにいないのかなと少し心配にもなりました」若松氏への聖子の信頼は相当大きかったようだ。’98年、CBS・ソニーを退社した若松氏のもとに聖子から「マネジメントしてほしい」との依頼が。聖子は、若松氏が代表を務める事務所に移籍、再びタッグを組んだのだ。大切な愛娘、沙也加さんのデビューに関する相談をしたのも若松氏だった。若松氏は当時、聖子とは異なるタイプの天与の才を彼女に感じていたという。「沙也加ちゃんは、学校帰りに事務所へ寄るようになって、その日あったことを話してくれていました。とても感受性が豊かで、なかでも文才は群を抜いていました」今年還暦を迎えた聖子。昨年12月には沙也加さんとの別れを経験した。しかし、今年6月から全国ツアーを行うなど、精力的に活動を続けている。そんな聖子に若松氏は「とにかく自分のペースで希望をもって、楽しくやってほしい」と語る。2人が作ってきた楽曲はこれからも、色褪せることなく、聴く人の心をときめかせ続けるのだ。
2022年07月29日