9月3日、反町隆史(45)が『相棒』(テレビ朝日系)の新シリーズ・season18に出演すると公式サイトで発表された。反町は今回5期目となり、その「任期」は初代・相棒役を8年間務めた寺脇康文(57)に次ぐ歴代2番目の長さ。今回も水谷豊(67)演じる杉下右京の“相棒”を続投するとのことで、2人のコンビ再来にネットでは歓喜の声が上がっている。《めちゃくちゃうれしい!!冠城君と杉下右京にまた会える》《え、10月から相棒始まるやん!なぬなぬなぬ!反町隆史5年目やと!?めっちゃ楽しみやん!》《また冠城さんなんて、よかった。 安心感》反町が水谷の“相棒”を務めるのは、15年に放送された同ドラマの「season14」からだ。18年10月に開催された前シリーズのPRイベントに出席した水谷は、反町について「普段から距離が近づいてきている」と切り出し、「私は鼻歌を歌うクセがあるらしい。最初(反町は)それを知らん顔してたけど、今はその私の鼻歌についてくるようになった」と満面の笑みで告白していた。当初、水谷との共演に緊張していた反町。しかし水谷からのアドバイスを忘れないよう台本にすべて書き込み、手探りで必死にしがみついていった。その姿勢を高く評価された上に、収録の空き時間でも献身的なサポートも披露。18年11月、番組関係者は本誌にこんなエピソードを明かしていた。「博学キャラの右京さんですが、多忙な水谷さんは時事ネタや蘊蓄を忘れてしまったりすることがあるんです。それをカバーしているのが反町さん。水谷さんは不明点があると休憩中に反町さんに聞いています。そのため反町さんは頻繁に水谷さんの隣に座って、スマホ片手に聞かれたことをすぐに調べて教えてあげているんです」教えられる側から教える側へと回った反町。さらにプライベートでも水谷の“相棒”となり、昨年11月に開催された津川雅彦さん(享年78)と朝丘雪路さん(享年82)の合同お別れ会でも共に参列していた。取材した記者は当時の様子についてこう明かす。「参列者リストを見たら、2人の名前がありました。所属事務所が違うので別々に来場するかと思われました。しかし同時刻に2台のワンボックスカーが停まり、2ショットで会場入りしたのです。式場では水谷さんの隣に反町さんが座り、その後の囲み取材も2人。いつも水谷さんのそばについていました」いまや公私ともに反町を“相棒”と認めている水谷。新シリーズの公式サイトで「お互い語らずしてわかりあえることが増えてきましたね」と反町についてコメント。さらに反町は「右京と亘もそうですが、水谷さんと僕も一緒に撮影を積み重ねてきたからこそ少しずつ関係を築くことができたのではないかと思っています」と関係性の変遷について語っている。反町は、その信頼感からついに“外部出向”も認められた。今年7月から9月まで放送されたドラマ『リーガル・ハート~いのちの再建弁護士~』(テレビ東京系)に主演し、初の弁護士役を務め大評判を呼んだ。その経緯について今年5月、テレビ局関係者は本誌にこう明かしている。「水谷さんは『相棒』に並々ならぬ熱意を持っており、共演者も相応の姿勢が求められてきました。しかし反町さんはすでに、水谷さんから絶大な信頼を得ております。そうした関係性ができていることもあり、今回の挑戦となったのでしょう」ドラマ誕生から今年で20年目。水谷と反町の最強タッグで進化し続けていく『相棒』から目が離せない。
2019年09月03日数カ月の間に母・朝丘雪路さん(享年82)、父・津川雅彦さん(享年78)を相次いで失った一人娘で女優の真由子(44)。だが悲しみと亡き父の教えを胸に、新たな挑戦に臨むという――。「私が今あえて歌手活動を始めるきっかけになったのは、母と父が相次いで亡くなったことです。母が歌っていたなかには『雨がやんだら』『お別れしましょう』といったヒット曲のほかにも、まだまだ素敵なオリジナル曲がたくさんあるんです。母は亡くなる直前まで自宅で歌い続けていました。母が愛した歌を、皆さんにお伝えしたいと思ったのです。また父も音楽好きで、『いい作品は後世に伝えていきたい』という考えの持ち主でした。その2人の思いを私のなかでミックスし、私なりの歌い方で表現していきたいと……。それが父と母が生きた証しを残すことになると考えています」今年2月、「東京エキゾチカ」の専属歌手として歌手活動を宣言した女優・真由子。母は歌手や女優として活動した朝丘雪路さん。そして父は俳優・津川雅彦さん。朝丘さんが逝去してから今年4月で1年になる。一周忌を前に両親の思い出を語ってくれた。昨年4月27日、眠るように旅立った朝丘さん。思いもよらなかった「母の愛」にふれたのは、その直後のことだった。「母の部屋の整理をしていたら、『ママの宝物』と書かれた箱が出てきました。その中に、毎年母の日に渡していたメッセージカードや、私の描いた絵とか、高校生ぐらいまでのテストの答案用紙などが詰まっていて……。全然いい点数ではない答案用紙までとってあったんですよ。まさか娘のものを保管しておくような人ではないと思っていたので、父と2人で本当に驚きました。やっぱり、お母さんだったんだなと……。何十年ぶんもの母の愛が一気に押し寄せてくるようで、号泣してしまいました。そんな母の愛情にふれたこともあり、私のなかに後悔の念が湧き上がってきました。母は自分の結婚式に着た祖父(日本画家の伊東深水)がデザインした打掛けを私の花嫁衣装にすることを夢見ていました。その願いはかなえてあげられなかったのです。私は交際していた男性を、いつも父や母に紹介していましたが、いつも父から痛烈なNGを出されてきました。『さっきお前は、こんなことを言ったけど、世間じゃそれは許されないぞ!』とか、本人に言うのです。シュンとなってしまう人もいるなかで、私の夫になった男性(俳優の加藤裕介・45)は根が明るく、打たれ強い性格なので、全然メゲませんでした。私にとっては“父がいちばん”なので、結婚には父の許しが必要だと思っていました。彼もそれは理解してくれていて、何回も挑戦し、そのたびに父にNGを出されてしまいます。たとえばこんな“ひっかけ問題”もありましたね。『そもそも、お前は真由子と結婚したいんだろ。俺の許可が必要なのか?』との父の問いに、『(黙考)……いえっ、私は真由子さんを愛しているのであって、お父さんの許可は必要ありません』と答えると、『じゃ、なぜここに来た』って」生前の朝丘さんは彼を気に入ってくれていて、『あんなにケチョンケチョンに言われても諦めないんだから、すごいわよね』と、妙に感心していたそう。「そんなこんなで交際も10年以上たっていたのですが、母の他界後、私の気持ちも察してくれたのか、彼が「こんなときだけど、お父さんにもう一度チャレンジしてみたい」と、言ってくれたのです。しかし父に会ってみると、やっぱりお説教が何時間も続いて……。最後の最後でした。父の『付き合いも長いし、もう真由子はいい年だ。それでも娘と結婚したいのか』との問いに、彼が『真由子さんは、私にとって死ぬまで一緒にいたいと思える人なんです』と答えると父が彼に手を差し出して、『娘をよろしく』と――」四十九日が過ぎた朝丘さんの誕生月の7月に入籍。喪が明けたら、結婚式を挙げる予定だった。「父も『俺の残りの楽しみは、お前とバージンロードを歩くことだな』と話していたんです。それなのに……。父は昔から体調管理にも気を使っていて、少しでも体調が悪いと感じると、さっと病院に入るような人でした。昨年の土用の丑の日も、父の大好物のウナギを持っていこうと、連絡をしたら入院中でした。私も風邪気味でしたので、ウナギは看護師さんに預けて帰ると、「おいしかったよ。もう少しで退院するから、飯食いに行こうな」と、連絡があったのです。それが最後に交わした言葉です。翌日、容体が急変して、そのまま……。母のときと異なり、心の準備もしていなかったので絶句しました。昨年8月4日に津川さんも逝去。悲しみにくれていた真由子に立ち上がる力をくれたのは、両親の教えだった。「父は生前よく言っていました。『起こったことは全て正しい!』と――。そんな父の言葉を思い出したのです。2人との別れを無駄にしてしまうのも、意味のあるものにするのも私次第なんだって。歌手として女優として、私の中に流れる両親の血を、まぶしいぐらい輝かせることができれば、別れも意味のあるものにできるし、親孝行にもつながる……。いまはそう、信じています」
2019年03月15日「私が今あえて歌手活動を始めるきっかけになったのは、母と父が相次いで亡くなったことです。母が歌っていたなかには『雨がやんだら』『お別れしましょう』といったヒット曲のほかにも、まだまだ素敵なオリジナル曲がたくさんあるんです。母は亡くなる直前まで自宅で歌い続けていました。母が愛した歌を、皆さんにお伝えしたいと思ったのです。また父も音楽好きで、『いい作品は後世に伝えていきたい』という考えの持ち主でした。その2人の思いを私のなかでミックスし、私なりの歌い方で表現していきたいと……。それが父と母が生きた証しを残すことになると考えています」今年2月、「東京エキゾチカ」の専属歌手として歌手活動を宣言した女優・真由子(44)。母は歌手や女優として活動した朝丘雪路さん(享年82)。そして父は俳優・津川雅彦さん(享年78)。朝丘さんが逝去してから今年4月で1年になる。一周忌を前に両親の思い出を語ってくれた。「私が中学生のときに、父が原因でいじめられたことがありました。なにしろ当時の父は『キング・オブ・ベッドシーン』(笑)。ドラマや映画で数多くの濡れ場や悪役を演じていましたからね。『お前のお父さんはいやらしい』『お父さんは嫌なヤツ』とさんざん言われたものでした。あるときその話を父にしたら、『俺が本当にいやらしいと思うか?嫌な人間だと思うか?』と。私が「いや、そうは思わないけど」と答えると、『だろう?皆、いいお客さまじゃないか。だったらお前は「お父さんの演技をそんなに信じてくれて、ありがとう」って、みんなに感謝しなきゃいけないんだぞ』。それからは友達に何か言われるたびに『お父さんの演技を褒めてくれてうれしいよ!ありがとう!』と答えるようにしました。すると、からかわれなくなったんです。父からは『考え方をちょっと変えるだけで、物事は逆転する』ということを教わりました」’13年、真由子は大きな試練を迎える。朝丘さんがアルツハイマー型の認知症と診断されたのだ。「医師からは、こう言われました。『あなたのことを忘れてしまうかもしれません。でも、それは愛情がないからというわけではないので、傷つかないでくださいね』。周囲の人からも介護の苦労を聞いていたので、すごく大変なんだろう、と覚悟していました。でも、もちろん介護をサポートしてくださる人もいたからなのですが、母との最後の日々は私が想像していたものとは違ったのです。皆さんご存じのとおり、母は天然キャラなので、それが少しひどくなったぐらいで、私のことを忘れることもありませんでした。最後の会話でも、『真由子、頑張ってる?』と、以前と同じように声をかけてくれたのです。それに、ときどき踊りの手ぶりを工夫していたり、歌も歌詞を忘れることなく、ずっと歌っていました。母は最期まで女優・朝丘雪路だったのだと思います。私が子どものころは、母と一緒に外出することなどほとんどありませんでした。でも病気になってからは逆に一緒に過ごす時間が増えて、ショッピングや食事だけでなく、温泉など、いろいろなところに行きました。母はあまりそういった場所にいったことがなかったので大喜び。特に水族館ではイルカとふれ合える時間が始まると、『真由子、行こう、行こう!』と、子どものように大はしゃぎでした。姉のような存在だったのが、妹のようになった感じですね。また’15年からは、それまで別居していた父が再び母と暮らし始めることになりました。父が出かけるときは母が見送りに出て、『いってらっしゃい』チュッと。わが家にはお見送りやお迎えの『挨拶』や『お礼』のときに、キスをする習慣があって、それが復活したのです。母は父と暮らすようになって、明るく初々しくなりました。2人にとっては新婚生活に戻ったような感じだったのでしょう。私たち家族は母が他界するまでの数年間で、たくさんの楽しい思い出を作ることができたのです」
2019年03月14日数カ月の間に母・朝丘雪路さん(享年82)、父・津川雅彦さん(享年78)を相次いで失った一人娘で女優の真由子(44)。だが悲しみを胸に、新たな挑戦に臨むという――。「私が今あえて歌手活動を始めるきっかけになったのは、母と父が相次いで亡くなったことです。母が歌っていたなかには『雨がやんだら』『お別れしましょう』といったヒット曲のほかにも、まだまだ素敵なオリジナル曲がたくさんあるんです。母は亡くなる直前まで自宅で歌い続けていました。母が愛した歌を、皆さんにお伝えしたいと思ったのです。また父も音楽好きで、『いい作品は後世に伝えていきたい』という考えの持ち主でした。その2人の思いを私のなかでミックスし、私なりの歌い方で表現していきたいと……。それが父と母が生きた証しを残すことになると考えています」今年2月、「東京エキゾチカ」の専属歌手として歌手活動を宣言した女優・真由子。母は歌手や女優として活動した朝丘雪路さん。そして父は俳優・津川雅彦さん。朝丘さんが逝去してから今年4月で1年になる。一周忌を前に両親の思い出を語ってくれた。「母との思い出の曲ですか?幼いときに子守歌に歌ってくれた『ララバイ・オブ・ブロードウェイ』という曲です。母はサビの部分にくるとすごい声量で歌うので、眠るどころか逆に目が覚めていましたね(笑)。この曲は音域がすごく広く、とても難しいので、6月8日のファーストコンサートに間に合うかどうか。あらためて歌手としての母の偉大さを痛感しました。私は歌手や女優としての母をとても尊敬しているんです。でも母親としては……、インタビューではいつも『母親としては失格でした』と、お答えしています(笑)。母と私は“親子”ではなく“姉妹”という感じでした。好きな食べ物が出されても、母が先に『あ、雪江(※雪路さんの本名)これ好き!』と取ってしまったら、我慢するしかない(笑)。また母は舞台が多く、家を空けることもしょっちゅうでした。だから子どものころは、お母さんって家に通ってくる存在だと思っていたのです。母を玄関で見送るときは『また遊びに来てね』と、手を振っていたそうです(笑)」いつでも仕事第一だった朝丘さん。だが20年前、女優への道を開いてくれた存在でもあった。「成人してから、父が経営していた玩具会社で働いていましたが、あるとき母が『ママが座長を務める舞台があるから、あなた、いっぺん出てみない?』と言うのです。『全然やる気ないから』と断ったら、『食わず嫌いはダメよ!一度も経験せずに、俳優という職業を嫌うのはよくないと思うわ』と、言われてしまって。それで25歳のときに舞台に出たのですが、私の演技に対して、お客さまの反応がダイレクトに伝わってくるのが、すごく気持ちよくて。母はこんなに素敵な仕事をしていたんだと感動し、女優業を続けることになりました。もし初仕事が映画やテレビだったらどうだったでしょうか。いま振り返れば、母の策略だったのかもしれません(笑)」育児に関しては、朝丘さんと津川さんは対照的だったという。生後5カ月のとき真由子が誘拐されるという大事件が起こった。無事保護された彼女を抱きながら津川さんは「世界一の父親になる」と誓ったのだ。真由子自身も「私は究極のパパっ子です」と胸を張る。「母は『わが道を行く』人でしたから、私を育ててくれたのは父でした。学校行事に参加してくれたり、自宅に友達を呼んで飾りつけをして、誕生日やクリスマスパーティを開いてくれたりしたのも、全部父でした。私、初めてのブラジャーを一緒に買いに行ったのも父なんです(笑)。というのも、それより少し前に胸が成長してきたとき、母に相談したことがあったのです。左右の大きさが少し違うという成長過程ではよくあることだそうですが、母は『あなた、それは小児乳がんよ!』と、あわてて私を病院に連れていっちゃった。『困ったお母さんだねえ』と、病院の先生にも苦笑いされました。そのときから「お母さんに大事なことを相談するのはやめよう」と固く心に誓ったんです(笑)」
2019年03月14日「私が今あえて歌手活動を始めるきっかけになったのは、母と父が相次いで亡くなったことです。母が歌っていたなかには『雨がやんだら』『お別れしましょう』といったヒット曲のほかにも、まだまだ素敵なオリジナル曲がたくさんあるんです。母は亡くなる直前まで自宅で歌い続けていました。母が愛した歌を、皆さんにお伝えしたいと思ったのです。また父も音楽好きで、『いい作品は後世に伝えていきたい』という考えの持ち主でした。その2人の思いを私のなかでミックスし、私なりの歌い方で表現していきたいと……。それが父と母が生きた証しを残すことになると考えています」今年2月、歌手活動を宣言した女優・真由子(44)。母は歌手や女優として活動した朝丘雪路さん(享年82)。そして父は俳優・津川雅彦さん(享年78)。朝丘さんが逝去してから今年4月で1年になる。一周忌を前に両親の思い出を語ってくれた。「実は30年前、私たち家族は3人でCDを発表しています。父がプロデュースし、童謡を現代風にアレンジしたアルバムでタイトルも『DO YOU!』。とても楽しい思い出ですが、母の声量がすごすぎて、違うパートを担当する父も私もどんどん引っ張られてしまって(笑)。結局最後には、私たちは別に録音してもらいました。そのレコーディングの場でもそうでしたが、歌では父も私もよく母からダメ出しされていましたね。父と2人でお風呂で一緒に楽しく歌っていると、ドアの外から母に『音痴ねぇ』と、よく言われたものです」真由子と朝丘さんの声音はそっくり。「音痴ねぇ」という言葉も、まるで朝丘さんが言っているように聞こえた。「それが悩みのタネで、私が母の曲を歌うとモノマネのネタみたいになってしまうんです(笑)。今回の歌手活動をすることになったのは両親からもらった大切なチャンスだと思います。さきほどの『DO YOU!』のディレクターだった方は、母のマネージャーでもありました。その方が最近、新しいバンド『東京エキゾチカ』をプロデュースすることになり、私もリハーサルの場に呼んでもらったのです。『東京エキゾチカ』は’60年代のナイトクラブの専属バンドをイメージしていて、メンバーも一流のミュージシャンの方々。『ちょっと真由子も歌ってみたら』と、その場で勧められて、無我夢中で母親のお得意のナンバー『クライ・ミー・ア・リヴァー』を歌ってみました。母親の全盛期を知るバンドの皆さんにも、とても懐かしく感じていただいたようで、『東京エキゾチカ』の専属歌手としてデビューさせてもらうことになりました。母との思い出の曲ですか?幼いときに子守歌に歌ってくれた『ララバイ・オブ・ブロードウェイ』という曲です。母はサビの部分にくるとすごい声量で歌うので、眠るどころか逆に目が覚めていましたね(笑)」
2019年03月14日今年も多くの偉大なスターが、たくさんの思い出をわれわれに残してこの世を去った。そんな故人と親交が深かった方々から届いた、愛あふれるラストメッセージを紹介。題して、「大好きなあなたへ最後のラブレター」――在りし日の姿に、心からの哀悼の意を表して。■朝丘雪路さん(享年82・女優・4月27日没)、津川雅彦さん(享年78・俳優・8月4日没)へ。奥田瑛二(68・俳優)お別れの会で津川さんと朝丘さんの写真が並んでいるのを見たとき、思わず「なんだか不思議な感じがしますね」と声をかけてしまいました。それくらい一緒にいる姿を周りに見せないご夫婦でした。でも、津川さんの事業が立ち行かなくなったとき、それを助けたのはほかでもない朝丘さんです。津川さんは、泣きながら「ありがとう、雪江(朝丘さんの本名)」とおっしゃっていましたね。その場にいた僕は、お2人が強い信頼関係で結ばれていたことを知っています。僕と津川さんの付き合いはもう40年以上。弔事を読ませていただくことになり、筆をとったものの、思い出が次々とあふれ出してきて、どうにもまとまらない。カミさんには「ちゃんと紙にしたためなさい」と言われたんですが、どうしてもできませんでした。なんせ、本が一冊書けるくらいの思い出がありますから。だから当日、遺影を前にして心に浮かんだことを、そのままお別れの言葉にさせてもらいました。その日の夜。家族が寝静まった後、僕は部屋で一人、スコッチを飲んでいました。すると、津川さんのいろいろな表情や楽しかった思い出が頭に浮かんできて。気付いたときには、涙がぼろぼろとこぼれていました。訃報を聞いてから、思い切り泣いたのはそれが初めてのことです。そうそう。僕の弔事を聞いた多くの人たちから「まるで津川さんが乗り移ったみたいだった」と言われました。きっと津川さんは「俺はまだここにいるぞ!」と言いたかったんだと思います。
2018年12月28日8月に亡くなった津川雅彦さん(享年78)と4月に亡くなった朝丘雪路さん(享年82)の合同お別れ会が11月21日、東京・青山葬儀所で営まれた。お別れ会には林遣都(27)が参列し、津川さんとの思い出を語ったという。14年のドラマ「銀二貫」(NHK総合)で津川さんと共演した林。各紙によると津川さんから「遣都は必ずいい役者になる。もっと勉強して頑張りなさい」と激励されたことを明かし、「恥ずかしくないよう、一生俳優をやっていこうと思っています。津川さんのような役者を目指していきたいです」と決意を語ったという。Twitterでは林の真摯な姿勢に「心を打たれた」といった声が上がっている。《人が亡くなるのは寂しいけれど、気持ちを受け継ぐ人がいればお終いではありません。遣都くんもいつか後輩を育てるような名優になり、生きた証が続きますよう》《遣都くんを見てると、本当に人との出会いが自分を成長させてくれるんだなとしみじみと思う》《ぜひ津川さんに言われた「いい役者」になってください、貴方なら絶対なれます》「銀二貫」は林が初めて時代劇に挑戦した作品。“名優・津川雅彦”と共演したことは、林の俳優人生におけるターニングポイントだった。「初の時代劇作品ということで林さんは懸命に取り組んでいましたが、撮影時に津川さんから演技を褒められることはありませんでした。その悔しさから、林さんはさらに撮影に没頭したそうです。しかし『褒めない』というのは、実は津川さんの作戦。そうすることで彼をやる気にさせたかったそうです。実際、そのお陰で林さんも役者として成長。今では感謝の気持ちでいっぱいだと言っていました」(ドラマ制作関係者)さらに林は当時、津川さんから「俳優論」を学んだという。「津川さんの演技を間近で見て、林さんは圧倒されたといいます。その貫禄から『俳優とは一瞬で人を魅了する仕事なんだ』と気づき、『津川さんのような役者になりたい!』と決意。そして役者仕事にのめり込んでいったそうです。そんな津川さんを亡くした林さんの悲しみは、計り知れません……」(前出・ドラマ制作関係者)林の成長する姿を、天国の津川さんは見守っていくことだろうーー。
2018年11月22日8月4日に78歳で亡くなった夫・津川雅彦さんと、4月27日に82歳で亡くなった妻・朝丘雪路さん。その合同お別れ会が11月21日、東京・青山葬儀所でしめやかに営まれた。津川さんと親交のあった安倍晋三首相(64)も駆けつけるなか、注目を集めたのは「相棒 season17」で共演する水谷豊(66)と反町隆史(44)だったという。「参列者リストを見たら、2人の名前がありました。所属事務所が違うので別々に来場するかと思われました。しかし同時刻に2台のワンボックスカーが停まり、2ショットで会場入りしたのです。式場では水谷さんの隣に反町さんが座り、その後の囲み取材も2人。いつも水谷さんのそばについていました」(取材した記者)水谷演じる特命係・杉下右京の“相棒”は、「season14」から冠城亘役の反町が担当。これまで相棒刑事は初代の寺脇康文(56)が7シーズン務めた。しかし以降は2代目の及川光博(49)と3代目の成宮寛貴氏(36)がそれぞれ3シーズンで卒業。そんな中、反町は異例の4シーズン目に突入しているのだ。「先月、2人は都内で行われたイベントに登場。その際、水谷さんは『4年で(反町との)距離が近づいた。最近は現場で僕が鼻歌を歌うと、それにも(反町が)ついてくる』と嬉しそうに話していました。2人の息もぴったりのようです」(イベントを取材した記者)公の場で改めて水谷の“相棒ぶり”をみせた反町。今後も反町の“地位”は安泰といえそうだ。
2018年11月21日私が津川雅彦さんの訃報に接したのは、ジャカルタ滞在中のことでした。パーティに出席するための身づくろいをしていたとき、手伝ってくれたヘアメイクの女性が教えてくれたのです。私はとっさに思いました。“ああ、雪路さんがお迎えに来たんだわ”と……。振り返ってみれば、私とご夫妻とは不思議なご縁で結ばれていました。朝丘雪路さんとは半世紀以上も親友としてお付き合いをしていました。そして津川さんとお付き合いしたのは2カ月という短い期間でしたが、結婚についても考えたことがありました。“恋多き女”とも呼ばれていた私ですが、津川さんは私が本気で好きになった、ただ1人の日本人男性だったのです……。8月4日、俳優・津川雅彦さんが東京都内の病院で逝去した。享年78。朝丘雪路さん(享年84)の逝去からわずか3カ月、まるで愛妻を追うような旅立ちだった。津川さんとお会いしたのは50年も昔のことなのに、まるで昨日のことのように覚えています。’69年5月に故・田宮二郎さんと故・岡田眞澄さんが、私を励ますパーティを六本木で開いてくださったのです。津川さんは、そのパーティの出席者の1人でした。津川さんとあいさつを交わし、少しお話ししただけで、私の胸は高鳴りました。私たちはお互いに強く心ひかれ、恋に落ちたのでした。デヴィ夫人は’62年にインドネシアのスカルノ大統領と結婚し、大統領夫人となった。だが’65年に起きた政変のため、スカルノ大統領が失脚。大統領の子を宿した夫人は、「安全な日本で、私たちの子を産んでほしい」という強い大統領の勧めで、日本に帰国していた。長女・カリナを産んで2年ほどたったころです。夫の愛人問題を、日本の週刊誌が報じました。それまでも彼の女性関係については、噂としては聞いていたのですが、愛人の顔写真を目にしたことで、激しいショックを受け、傷ついたのです。激励パーティでお会いした津川さんも私に優しい言葉をかけてくれました。「世間はいろいろ面白がって言うものです。そんなことを気にしてはいけません」宴も終わりが近づいたころ、私たちは会場の中央の席に2人で座っていました。彼は、その夜に私が着ていた振袖の袖に隠して、私の手を強く握りしめていたのです。当時、私も津川さんも29歳。津川さんは若くてハンサムな映画俳優というだけではなく、日本や世界の社会問題にも関心が高く、弱い立場の女性を全力で守ろうとする、本物の“日本男児”でした。私の目に凛々しく映りました。それから約1カ月、2人はそれぞれの境遇を忘れ、世を忍ぶ愛を続けた。東京プリンスホテルの同じ階に部屋をとり、六本木や横浜のバーへと出かける日々。だが、世界が注目する大統領夫人と大人気俳優の姿はあまりにも目立ちすぎた。6月には多数の週刊誌により、“世紀の恋”“許されざる不倫の愛”と大々的に報じられることになったのだ。彼は結婚も望んでくれました。でも当時は大統領もまだご存命でした(※翌’70年に逝去)。体力も衰え、病気がちな大統領と離婚することはできないと私も考えていたのです。悩んだ私は、カリナを抱いてヨーロッパに旅立ちました。2人が出会ってから旅立つまでの1カ月は、私と津川さんにとって文字通り“蜜月”だったと思います。それから2カ月後の8月、津川さんは彼女を追って、ヨーロッパへ向かった。そして2人はスイスで再会を果たしたのだが……。津川さんが日本で見た私は、世間からバッシングを受け、夫の愛人発覚にも傷ついた女でした。だから“自分が支えなければ”と、思ってくれたのでしょう。しかしスイスで再会したのは、“自信と誇りに満ちた大統領夫人、デヴィ・スカルノ”だったのです。“あなたの人生に、自分は必要ない”、そんな意味のことを言って、彼は身を引いていきました。日本とスイスを合わせても2カ月にも満たない短い期間でした。でも私は、偉大な大統領を忘れかけるほど彼に夢中でしたから、お別れはつらかったのです。津川さんが、朝丘雪路さんと結婚したのは4年後の’73年。実はデヴィ夫人は、津川さんと出会う前から朝丘さんとの深い交流があった。知日派の大統領は、雪路さんのお父さんで日本画家の伊藤深水さんの美人画をコレクションしていました。’64年には、大統領は深水さんをジャカルタに招聘し、私の肖像画を依頼したのです。そうしたご縁もあって、私が日本に帰国した後、家族ぐるみのおつき合いをさせていただきました。雪路さんは、私がカリナを産んだときに、ニットのおくるみを編んでプレゼントしてくれたのでした。日舞の深水流創家家元となられた後は、私も弟子入りし、何度も舞台をごいっしょしました。雪路さんは日本人形のようなお嬢様で、いとおしい女性。なので私はお二人が結婚したときには、本当にお似合いだと思ったのです。お二人の結婚後、3人で銀座に遊びに出かけたりいたしました。雪路さんとは、ずっと親友同士でした。しかし津川さんとは、その銀座に遊びに行った以降は、プライベートでも仕事の場でも、ほとんどすれ違うことすらありませんでした。大好きだったお二人が、天国でまた一緒になれ、その姿を想像することは、私にとっても何か安堵する思いです。お花畑で無邪気に遊ぶ雪路さんに、津川さんはあの優しいまなざしをそそいでいることでしょう。
2018年08月31日「真由子さんは10年来、交際していた彼との結婚を津川さんにずっと反対されていました。朝丘さんが亡くなって初めて、お父さんが結婚を許してくれて籍を入れたんです」(真由子の知人)8月4日、心不全のため急逝した津川雅彦さん(享年78)。本来なら翌日に退院予定だったが、朝食後、容体が急変、長女の真由子(44)らに見守られ旅立った。4月27日に妻の朝丘雪路さん(享年83)を亡くしていた津川さん。肺を患い鼻に酸素チューブをつけながらも気丈に会見を開き、「娘を産んだこと。家を売ってくれたこと。僕より先に死んでくれたこと。すべてに感謝です」と応える姿が印象的だった。津川が一人娘である真由子を溺愛した大きな要因は、生後5カ月で起きた自宅からの誘拐事件だった。「41時間ぶりに両親のもとに戻る奇跡が起きました。津川さんは誰よりも真由子さんを可愛がり、娘さんに語りかける『恋娘パパを育ててくれた君へ』という本まで上梓しました」(芸能記者)津川さんは愛娘のために「日本一の父親」になろうと決意。天然素材の木製のおしゃぶりを買い求めようとしてプラスチック製しかないことを知った苦い記憶が、本物志向のおもちゃ店『グランパパ』を経営する出発点にもなった。「基本的に津川さんは自分が認めない限り、愛娘の結婚を許していませんでした。08年末、『グランパパ』がバブル崩壊で6億超の負債を抱え、35年間住んだ世田谷区内の家も手放す結果となった。当時、真由子さんはすでに恋人がいて結婚を考えていたのですが、決して紹介できる雰囲気ではなかったんです」(前出・知人)真由子が交際していたのは、友山裕之助(45)という俳優だった。「刑事ドラマにゲスト出演していましたが、07年に所属する事務所が破産。真由子さんは意を決して、彼と一緒に同じ劇団を旗揚げしたんです。彼女と友山さんは度々共演しますが、津川さんは彼を認めることはありませんでした。津川さんからすれば、相手が売れていない役者なので、苦労が目に見えているという理由で長らく結婚に反対していたわけです。また、津川&朝丘の娘ということで、“娘がだまされて利用されているのでは”という疑念が拭いきれなかったようです」(演劇関係者)この関係性に変化が訪れたのは14年。朝丘の最後の舞台となった時代劇ミュージカル『花や…蝶や…』だ。真由子がプロデュースを手掛け、津川と友山も出演。この前年、朝丘は認知症の診断を下されていた。真由子は『文藝春秋』18年7月号で、こう綴っている。《母が大好きな仕事をもうできなくなるかもしれない、と思ったら、胸が締め付けられました。もう一度だけ舞台に立たせてあげたいと思ったのです》朝丘は認知症の症状が出ながらも最後まで舞台を務めあげた。「その舞台が無事、千秋楽を迎えられるよう誰よりも朝丘さんと真由子さんを支えていたのが友山さんでした。津川さんは朝丘さんの介護のため新たな一軒家を借りますが、津川さんも心臓に持病がある。日に日に症状が進行していく朝丘さんを、自宅マンションから通いで看に来る真由子さんの心労は尋常ではありませんでした。友山さんは心が折れそうな真由子さんを励まし、家事や介護のサポートをしていたんです」(舞台関係者)朝丘の面倒を協力して最期まで見続けた2人を見て、津川の心も次第に氷解していった。「朝丘さんが亡くなった後、津川さんも“もし自分に何かあれば、娘が一人取り残される。彼には娘の傍にいてほしい”と、ついに結婚を許したそうです。ただ、役者一家に生まれた津川さんとしては、このまま本名の加藤姓がなくなってしまうことを無念に思っていた。そこで“結婚するなら加藤の家を守ってほしい”と話し合い、最終的に友山さんが婿入りする結論になったようです」(前出・知人)真由子は朝丘さんの四十九日が明けるのを待って入籍したという。津川さんの死から1週間。2人が暮らす都内のマンションから夜、出てきた真由子に話を聞いた。――津川さんが亡くなったことでお話を伺いたいのですが。「すみません。それは改めて事務所の方から案内するので、コメントは控えさせてください」――もうすでに入籍し、津川さんの許しも得たと聞いています。「その件も事務所を通して改めて……。今の状況では自分も何を話していいのかわからないので……」最後は「ごめんなさい」と言って車を走らせていった。真由子の所属事務所『グランパパ』に改めて問い合わせたが、「お話はいっさいできません」と語るのみだった。前出の知人は声を潜めて言う。「真由子さんは、『お母さんの一周忌が終わったら、披露宴をして、お父さんに花嫁衣裳を見せるんだ!』と嬉しそうに話していたんです。津川さんも本当に楽しみにしていたと。余りに急なことに大変ショックを受けていました……」最愛の両親を失った真由子の悲しみを今、夫が全力で受けとめている。彼女は涙ながらに「偲ぶ会」の合同開催を検討しているという。
2018年08月21日(写真:アフロ) 「体調が悪そうに見えたのにカメラが回ると、女優・朝丘雪路に戻る。その姿を見て本当にすごいと思いました」と語るのは、映画監督の遠藤一平さん(43)。 4月27日に女優や舞踏家として活躍した朝丘雪路さんがアルツハイマー型認知症のため亡くなった。享年82。逝去が発表されたのは約3週間後だったが、これは生前の朝丘さんの意思だったという。 「まだ朝丘さんもお元気だったころ、夫の津川雅彦さん(78)やお嬢さんの真由子さん(44)と“終活”についても話し合ったのだそうです。朝丘さんは『自分の葬儀はひっそりと』とおっしゃっていたそうで、家族葬なども終わるまで逝去は公にされませんでした」(朝丘の知人) アルツハイマー型認知症を発症したのは4~5年ほど前。’14年5月に撮影に臨んだ映画『プラシーボ』が遺作となった。前出の遠藤一平監督が朝丘さんの“最後の演技”を語る。 「役どころはヒロインの踊りの先生でした。撮影に入る直前に『ちょっと健忘症のようになっていまして……』とおうかがいしました。そこで朝丘さんのご体調を考慮し、撮影は3時間だけと決めたのです。しかし朝丘さんが『ご迷惑をかけて申し訳ないから』と、倍の6時間を割いてくださることになったのです」 朝丘さんはセリフを忘れないことに苦労している様子だったという。 「お付きの人が、演技をしながら読めるようにカンペ(※セリフを書いた紙)を用意してくれたのに、それを読むことすらつらいようでした。でも(役柄や状況の)雰囲気をいったんつかんでしまえば、アドリブを使っても芝居をつなげてしまうのです。カメラが回ると、まるで別人のようになる姿に驚かされました」 だが残念なことに、この遺作映画は“お蔵入り”状態なのだという。 「『プラシーボ』は’16年に完成しましたが、プロデューサーが失踪したために、いまだにきちんとした形で公開できていないのが、残念です」
2018年05月31日朝丘雪路さんが先月27日に死去していたことが5月19日、分かった。82歳だった。死因は不明だが、アルツハイマー型認知症のため療養していた。葬儀・告別式は近親者により済まされたという。 幼少から日本舞踊に親しみ、父で日本画家の伊東深水さん(享年74)に勧められて宝塚音楽学校へ入学した朝丘さん。卒業後は映画やテレビ、舞台で活躍した。 特に60年代後半の人気番組「11PM」(日本テレビ系)では、大橋巨泉さん(享年82)と司会を務めたことが話題に。お嬢様育ちのおっとりしたキャラクターとドッキリ発言が、愛くるしい見た目と相まって大評判を呼んだ。 私生活では67年、青森県八戸市の内科医師と結婚。男児をもうけたものの、翌68年に離婚。73年には津川雅彦(78)と再婚。翌74年、真由子(44)を出産している。 11年秋には旭日小綬章を受賞。14年4月には、津川と真由子との家族共演で行われた舞台「花や……蝶や……』出演していた。 ネットでは朝丘さんを惜しむ声が上がっている。 《再放送でおばあちゃん役でちょくちょくお見受けしてたから元気なんだとばかり思ってましたがそうでしたか》《お見かけしないと思ったら。。品のあるステキな女性でした》《ずっとテレビで拝見した方が亡くなるのは寂しいものがあります。ご冥福をお祈りいたします》 また津川とのおしどり夫婦ぶりを讃える声も。 《津川さんとおしどり夫婦で有名なスター同志の夫婦でした》《こんな奥さんになれたらいいし こんな風な夫婦あこがれるめっちゃええ夫婦》《アルツハイマーの彼女の介護は4年とはいえ辛く長いものだったでしょう、彼も病を患っておられるし》 いっぽう20日、朝丘さんの死を受けて津川が緊急会見をひらいた。「大丈夫じゃないね」と涙ながらに心境を吐露し、朝丘さんへの感謝の気持ちをこう述べた。 「あらゆることすべてに感謝ですね。娘を産んでくれたこと、(自身の事業の経営難で)家を売ってくれたこと、僕より先に死んでくれたことも含めて感謝だらけ……」
2018年05月20日82歳で死去した女優・朝丘雪路さんの夫で俳優の津川雅彦(78)が20日、都内で会見を行い、心境を語った。津川雅彦4月27日に亡くなったと報じられたことを受けて急きょ会見。肺炎をわずらっている状態の中、鼻に酸素チューブをつけて報道陣の前に現れ、自身の体調について「大丈夫じゃないね。こんな格好をして大丈夫だって言ったら嘘になるでしょ」と話し、朝丘さんの死について聞かれると「すべてに感謝しています」と答えた。原因は「アルツハイマーですね。もう4~5年になるのかな。だんだん深くなって」とのこと。直接の死因を聞かれると「ない」と言い、「診断書を書いてもらった時にアルツハイマー認知症と。それ以外はありませんでした」と明かした。「津川さんのことはわかっていましたか?」という質問には、「それもだんだんだん。なるべくそれ以上深い話は勘弁してください」。また、亡くなる数カ月前の会話を振り返り、「それも俺とわかっていてしゃべったかどうか。僕を見て『あら』って」と話した。結婚生活については「悔いはいっぱいありますね。思い出せないくらいいっぱいあるな」と吐露。朝丘さんに感謝しきりで「あらゆることすべてに感謝ですね。娘を産んでくれたことも、家を売ってくれたことも、僕より先に死んでくれたことも含めて、もう感謝だらけ」と語った。朝丘さんの最期を見届けたのかと聞かれると「ええ」と答え、「声をかけられるような状態じゃなかった」と説明。長女で女優の真由子も一緒で「『ママ』って呼んでいた」という。そして、「安らかでした」と明かした。
2018年05月20日ダウンタウンの松本人志(54)が2月11日放送の「ワイドナショー」(フジテレビ系)に出演。東京・銀座にある公立小学校が、高級ブランド“アルマーニ”を標準服に導入するというニュースに言及した。 導入を発表したのは中央区立泰明小学校。平成30年度入学の新一年生から導入するという。アイテムは約2万5千円の上着のほか、帽子やシャツ、ブラウスなど。価格は現行の標準服の約2倍となり、すべてをそろえると8万円越えとなる。 松本は「アルマーニとしてはめちゃくちゃ安いんやけどね。紳士のスーツやったら5、60万はかかる。それでいうと、アルマーニとしては相当格安。頑張ってはくれた」とコメント。 松本は自身の上着をめくり、「上着をこうやったら、ここに“アルマーニ”って書いてあるわけでしょ。すごいよね、小学生が。ここの内ポケットに“アルマーニ”って書いてんねん」と、驚きをあらわに。司会の東野幸治(50)も「俺だってアルマーニの服、一着も持ってませんからね」と苦笑した。 いっぽう、国際政治学者の三浦瑠璃(37)はアメリカの事例を紹介。「制服というのは、いじめを減らすために入れるという感覚なんです。みんなに同じ服を着せることによって、収入の低い家庭でも同じような格好をさせてあげられる」と説明し、アルマーニ導入に対しては「(いじめを減らす目的で)そのために8万円というのは、違うのでは」と異論を唱えた。 子どもを持つ母親でもある三浦。「ブランド化をはかっているんだと思います」と理解を示しつつも、「今の親ってすごく忙しい。共働きの人も多い中で、学芸会などでも協力している。親としては協力することも考えることもたくさんあるのに、小学校の校長としてのブランド力というものへの思いについて(親は)暇じゃないし、意思疎通に齟齬がある」と意見を述べた。 同校は創立140年の歴史を持ち、女優・朝丘雪路(82)の母校としても有名。現在では通学区域に関係なく入学できる“特認校制度”の指定校でもある。
2018年02月11日銀座 マキシム・ド・パリが45周年を記念して特別ディナー&コンサートを開催される。今回は6月にパリでコンサートを終えたばかりの若手シャンソン歌手 聖児さんと天然系お嬢様大女優 朝丘雪路さんの一夜限りの夢のコラボが実現。おしゃれとマキシムのフレンチ、そして歌、トークで秋の夜長を楽しんではいかが? 今回は事前に予約をするとお客様の中にも豪華なメンバーが揃っているという噂もあるみたい。豪華ディナー体験早速チェックして。主催: マキシム・ド・パリ特別協賛 : グラン マルニエ (MHD モエ ヘネシー ディアジオ株式会社)企画・制作 : ル・サン・テアトル21株式会社日時:2012年9月19日(水)18:30 受付開始19:00~20:15 食事20:30~21:45 ショータイム 出演:聖児 スペシャルゲスト : 朝丘雪路 /大口俊輔(accordion)/小林岳五郎(piano)/ 山本裕之(bass) 料金:28,000円(御食事代・ショーチャージ・税サすべて込み)※グラン マルニエのウェルカムカクテル付き※ジーンズ・スニーカーなどでのご入場はご遠慮ください。 また男性の方はジャケットのご着用をお願い致します。 予約:E-mail : info@le-saint-theatre-21.com 6月 パリでのコンサートの様子: (ミルフィーユ)
2012年09月13日大人になった「スープはるさめ」でごちそう&キレイヘルシーに、食べごたえのあるさまざまなスープが手軽に楽しめる、おなじみのエースコック「スープはるさめ」シリーズ。その「スープはるさめ」が8月27日より味および商品を大幅刷新し、リニューアル発売されることとなった。今回のリニューアルでは、同社の女性スタッフオンリーによるプロジェクト「なでしこプロジェクト」を発足し、商品開発にあたったそうだ。そして、スープの食べた後に広がる後味にこだわり、ごちそう風味をキーワードとして、ほっとできる味わいに仕立てたという。もちろんヘルシーでカロリー控えめ、手軽に楽しめて、満足感のあるスタイルは継承される。「アルプスの少女ハイジ」が大人になった?CMにも注目11年目にして初の大幅リニューアルをとげた商品をPRするため、CMにもこだわった。新CMでは、国民的アニメの「アルプスの少女ハイジ」の登場人物らが大人になったという設定で世界観を表現し、インパクトをもたせているそうだ。CMキャラクターには、朝丘雪路、速水もこみち、比嘉愛未が起用されている。どんな“ハイジ”の世界となっているのか、こちらの新CMにも期待したい。CMは28日より全国オンエアとなる。リニューアルデビューする「スープはるさめ」は「ワンタン」「かきたま」「坦坦味」「韓国チゲ」「たっぷりわかめ」「柚子ぽん酢味」の6種類だ。ダイエット時のカロリーコントロールにも便利な「スープはるさめ」。コクもアップした新しい味わいで、食べてキレイを目指してみては。元の記事を読む
2012年08月26日