1月24日、漫才トリオ「かしまし娘」として人気を博した正司歌江さん(享年94)が19日に亡くなっていたことを所属事務所のワハハ本舗が発表した。葬儀、告別式は親族のみで執り行われたという。事務所発表のコメントによると、正司さんは09年、80歳の時にワハハ本舗に所属以降も生涯現役を掲げ、活発的に活動を続けていたという。正司さんは29年に両親の一座の巡業先だった北海道の芝居小屋で生まれ、3歳で初舞台を踏み、7歳で漫才を始め、“天才少女漫才”と評判になった。56年には二人の妹とともに漫才トリオ「かしまし娘」を結成し、ギターや三味線を使った音曲漫才で一世を風靡した。幼いころから芸人として活動してきた正司さんの生涯は波乱に満ちたものだった。99年、正司さんが69歳のとき、本誌の瀬戸内寂聴さん(享年99)との対談企画でその一部を明かしてくれていた。《3つで舞台に立って、この世界で67年。小さい時も苦労したし、男にもだまされたし(笑)、いろいろなことがありました。(中略)18歳で親に勘当されましてね、それで子供産みまして、それから捨てられて、飛び出して。19ぐらいから10年ほど、男にだまされて芸者さんとして…》(本誌 99年7月13日号、以下同)正司さんは、その男性に長年苦しめ続けられたという。《その男が覚せい剤中毒だった。勘当された親だけど、私が働いてお金送らないと食べていけないんですね。なのにお金くれないで、かわりに注射はしてくれる。着物も全部質屋に入れられて、ほかの漫才師の奥さんのを借りて舞台に出たりするんですけど、終わるとすぐに「返して」って脱がされて》逃げることもできず、正司さんは一時自ら死ぬことを考えるほど追い込まれた。《大阪に帰るにも、電車賃がない。クスリ中毒になってて、身動きがとれない。(中略)でも逃げるのにも着る着物がないんです。あれは忘れもしません。東京・浅草の『木馬館』に出てた12月30日です。とにかく新聞紙を体に全部巻きつけて、観音さまのお線香立ての側に座って、死のうかと》そこで、偶然通りかかった人に声をかけられ、長野へと逃げることになった。《「東京や大阪にいたんじゃダメだから、信州湯田中に逃げたほうがいい。そこにかくまってもらって働けるから」と。次の晩、夜行列車に乗って、昼近くに着いて、置屋へ連れて行かれて。(中略)知らないうちに信州の人買いに、売られてたんです》しかし、相方の男は長野まで追ってきた。《執念深いんです。こんな男とよりを戻すなら、体売ったほうがましだ。(中略)すきを見て旅館の鴨居にひもぶら下げて、首吊って死のうとしたら、もうドつかれてドつかれて「お前を連れて逃げる」って、湯田中から何とかいう駅まで50キロぐらい、雪ん中を夜中じゅう歩いて、名古屋へ逃げました。そいつとまたコンビ漫才したんですけど、また暴力と注射の生活に逆戻り》その後、名古屋の興行師の手引きで大阪の父親のもとに戻れることになったが、そこで父親から受け取った手紙の内容に正司さんは大変なショックを受けた。《あんな男にひっかかったおまえは、生きているより死んだほうがましや。ワシらもおまえをあきらめた。どこなと行って死ねって……》“天才少女漫才”をやっていた時の興行師がその手紙を読んで同情し、その人の紹介で10年ほど富山で芸者をすることに。その後、富山から呼び戻され、三姉妹でかしまし娘を結成し、「うちら陽気なかしまし娘」のテーマ曲で始まる、にぎやかな歌謡漫才で人気者となった。対談の最後、瀬戸内寂聴さんから《それでいまはお幸せなんでしょう?》と聞かれた正司さんはこう答えている。《はい! まもなくクスリ中毒も治って、いまの主人と結婚して、あの男を毅然と追い払ってくれて、子供もでき、孫も2人。この年になって、何人も養わきゃいけないけど(笑)》波乱万丈の人生を送った正司さんだが、生涯現役を掲げ、最後まで明るくたくましく生き抜いていた。
2024年01月24日2024年1月24日、漫才トリオ『かしまし娘』の正司歌江さんが亡くなっていたことが分かりました。所属事務所のワハハ本舗株式会社によると、正司さんは同月19日に、94歳で逝去したとのことです。弊社所属の女優 正司歌江が、令和6年1月19日(金)、94歳で逝去いたしました。皆様におかれましては、これまで正司歌江を温かく見守ってくださいましたこと、心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございます。★ワハハ本舗なんでも速報ブログーより引用なお、正司さんの葬儀と告別式は、親族のみで執り行ったといいます。正司さんは、次女の照枝さん、三女の花江さんとともに『かしまし娘』を結成。1956年に活動を本格化し、流行歌や浪曲を取り入れた音曲漫才で、お茶の間を賑わせました。ギターや三味線を弾きながら『うちら陽気なかしまし娘』というキャッチーなフレーズのテーマソングは、老若男女問わず多くの人に親しまれました。正司さんの訃報を知った人たちからは、「悲しい」「子供の頃、よくテレビで見ていました」「楽しい笑いをありがとう」という声が上がっています。正司さんのご冥福を、心よりお祈りいたします。[文・構成/grape編集部]
2024年01月24日■職人魂の酒造りを貫きながら新たな伝統を創造していく姿勢福光屋は、毎年9月にその年最初の米を蒸す蒸米甑立て(こしきだて)を行い、10月頃から3月頃まで新酒の仕込み、そして4月には最後の蒸米作業である甑倒し(こしきだおし)で酒造りを終える。7月には、土用洗いといって酒造りに使う道具すべてを洗浄。細かい機材はもちろん、タンクやホースなどにも及ぶため、今でもほぼ1ヶ月はメンテナンスと整備に費やす。さて酒造りには、多くの工程がある。中でも「一麹(こうじ)、二もと、三造り」と昔から言われるほど、麹づくり重要な工程だ。他の作業は機械化しても、麹は手作業という酒蔵は多い。福光屋でも吟醸麹は、昔ながらの手法で蔵人が2日間昼夜を分かたず麹づくりをしている。蔵内の仕込みタンクを覗いてみると表面に泡が広がっている。米麹が蒸米のでんぷんを糖化させ、酵母がその糖分をアルコールへと発酵させているからだ。これを「並行複発酵」といい、世界でも珍しく複雑な醸造方法だとか。この泡の様子を見ながら20日間から1ヶ月ほど発酵させて仕上げる。できあがった醪をしぼり、原酒と酒粕に分けるのが「上槽(じょうそう)」。しぼりたての原酒をいただくが、飲み口のフレッシュさとアルコール度の高さに驚く。「しぼりたてだからアルコール度は高いですよ(笑)。このまましぼりたてとして出荷する以外は、濾過後に火入れして秋まで貯蔵します。味わいの設計に合わせてブレンドを行い、加水して瓶詰め時に再度火入れして出荷します」と生産本部・部長の正司和利さん。条件は同じでも、自然の恵みゆえに味が変わることはある。だからブレンドすることによって、その商品一定の味わいに整えて出荷するのだ。職人魂の酒造りを貫きながら、業界初の取り組みを数多く成し遂げてきた福光屋。「古い業界でもあるので、日本酒造りの領域を広げていくと業界初になってしまう」と福光屋13代当主の福光松太郎さん。老舗の暖簾を守るために、新たな価値を提案して発信し続けている。最後、ご当主に好きな自社銘柄をたずねると「よく嗜むのは『黒帯』ですね。料理に合わせて飲んでいただけるように、悠々、堂々、飄々、燦々と4種類あります。でもパッと直感で飲みたいと思うものを飲んで欲しい。黒帯は、右脳で飲む酒ですから」と笑った。前編に戻る。
2015年02月17日2013年にユネスコ世界文化遺産に登録された、日本人の伝統的な食文化“和食”。南北に広がり、四季がある日本には豊かな自然風土があり、そこで生まれた食文化もまた、これに寄り添うようにはぐくまれてきた。そして和食と同じく、日本が誇る食文化の一つである日本酒は、自然の恵みそのものだ。地域の風土や四季の自然を醸した酒造りを見せてもらうため、新酒の仕込み最盛期時期の老舗酒蔵を訪ねた。■純米造り、百年水、社員蔵人 福光屋の酒造りの三つの要六本木の東京ミッドタウンや都内の百貨店に直営店があることで、日本酒ファン以外にも名を知られる金沢の酒蔵・福光屋。日本酒から米発酵技術を生かしたコスメや食品まで手掛ける福光屋は、寛永2(1625)年に創業した酒蔵だ。『金沢』を著した作家・吉田健一が命名した「黒帯」、華やかで威勢のいい「加賀鳶」、高い地元シェアを誇る「福正宗」、長期熟成酒の「百々登勢」など10銘柄の日本酒を展開している。多種多様な日本酒を手掛ける福光屋は、2001年よりそのすべてを純米造りに変えた。純米造りの酒蔵は増えているものの、出荷量が生産高万石単位の酒蔵では全国初の試みとして業界内外で大いに注目を集めた。「酒は米と水という自然の恵みに、微生物の働きによる自然の力が加わって生まれる。自然に敬意を払い、自然の力を引き出すための知恵や工夫を授かる場として酒蔵は存在します。純米蔵になることは、自然に還ることであり、必然の選択でした」と福光屋13代当主の福光松太郎さん。そして純米造りを可能にした背景には、1960年から生産農家と土作りから共に取り組む契約栽培がある。顔の見える関係性があることで、高品質の酒造好適米がの安定確保できるようになった。こだわりの酒米はもちろん、酒蔵にこんこんと湧く良質の仕込み水にも胸を張る。「百年水」と名づけられた仕込み水は、1世紀前に降った雨が、幾重にも重なった貝殻層を抜け、酒造りに欠かせない成分が溶け込んでいる。「昔と比べて造る酒の種類が増えて、もう少し広ければと思うこともありますが、百年水があるから創業以来の地を離れることはできないですね」と生産本部・部長の正司和利さん。蔵人の後継者問題もあり、福光屋では1990年代から社員を蔵人として育成する「社員蔵人制度」を導入した。今では15名の社員蔵人が20から30種類ある商品の原酒を醸造している。ベテラン蔵人が伝統の技や経験による勘を伝授し酒造りを継承。更に数値化できるものはすべてデータにして勘の裏付けを取る。勘や経験、データによるシステム化、そのバランスをうまくとりながら酒造りに挑む。「昔は、杜氏がこれ!と決めたらその酒の味だった。もちろんおいしい酒も数多く生まれました。でも社員蔵人の良さは、時代や市場のニーズを反映した酒造りができること。特に当社は直営店もあるので、お客様からの声も直接お聞きできますからね」と正司さん。後編に続く。
2015年02月17日