「沢田研二」について知りたいことや今話題の「沢田研二」についての記事をチェック! (3/3)
「これまで多くのアーティストと仕事をしてきましたが、TOKIOの長瀬智也とKinKi Kidsの堂本光一の実力には、驚かされました」そう語るのは編曲家の船山基紀さん(68)だ。中島みゆき(67)の『時代』や沢田研二(71)の『勝手にしやがれ』、五輪真弓(61)の『恋人よ』やC-C-Bの『Romanticが止まらない』、Winkの『淋しい熱帯魚』など、時代を彩ってきた多くの曲のアレンジを行い、堂本光一(40)主演の舞台『Endless SHOCK』などの舞台音楽も手掛けてきた船山さん。これまで編曲した曲は2,700曲以上を数え、編曲家部門のシングルの総売上げは小室哲哉(60)に次いで日本2位だ。10月10日にこれまでの編曲家人生を振り返って、『ヒット曲の料理人 編曲家・船山基紀の時代』(リットーミュージック)を出版したばかり。そんな船山さんは、『Endless SHOCK』で製作総指揮を執る堂本光一と、一緒に楽曲を作り上げる過程で、その才能に触れてきた。一方、長瀬智也(40)にもTOKIOの楽曲の編曲を通じて、才能に驚かされてきたという。船山さんはTOKIOの『AMBITIOUS JAPAN!』や『宙船』などの編曲を手掛けている。’03年の『AMBITIOUS JAPAN!』はなかにし礼さん(81)作詞で、筒美京平さん(79)作曲。JR東海とのタイアップ曲で、ヒットが至上命題とされていた。レコーディングはなかにしさんと筒美さんが見守る中で行われた。「メンバーたちからは緊張感がありありと伝わってきました。でも、TOKIOはさすがですね。満足できるレコーディングになりました」結果、曲は大ヒット。今もJR東海を象徴する曲として、多くの人に愛されている。「製作者」としての長瀬の実力の高さに船山さんが驚いたのは、’06年の『宙船』のときだ。中島みゆきがTOKIOに提供したこの曲の「編曲」は船山さんの名前がクレジットされているが、長瀬も大きく関わっていたという。「TOKIOの曲を中島みゆきがやるというので驚いて。どうなるんだろうと思っていた。みゆきからは『あまり私のイメージじゃなくて、TOKIOのイメージでやってほしいんです』、というリクエストがありました」いったいどういう編曲にしようか、と考えていたら……。「長瀬くんが自分でデモテープを作って持って来た。自分でギターを弾いて、(コンピューターの)打ち込みでドラムを入れ、歌も歌って。ちゃんと、TOKIOの色になっていた。“おお、そっか!”と思って。衝撃的でしたね。こんなことまでできるんだと。それまでも、TOKIOの曲をアレンジしていたので、だいたいのことはわかっているとは思っていたんだけど、裏切られましたね。中島みゆきの曲をこんな風に表現するなんて、すごいなぁと思って」「このまま発表しても何の問題ないくらいの完成度だと思った」と船山さんは笑うが、レコード会社や事務所の意向もあって、より派手な曲になるようにアレンジを施した。「といっても、長瀬くんが作ってきたものを元にして、僕はそれをいろいろと膨らませる作業をしただけだよ」レコーディングは、ほとんど長瀬に任せきりの状況だった。「僕は寝ていたようなもん(笑)。この編曲なら、声を張って歌ったほうがいいとか、勘がすごい。単純な8ビートでも、重いとか軽いとか、ドラムで立たせたい音のポイントとか、強いこだわりを持っている。長瀬智也は生粋のバンド小僧なんです」その後も、中島みゆき提供の『本日、未熟者』や長渕剛(63)提供の『青春 SEISYuN』などのTOKIOの曲の編曲を船山さんは担当したが、いずれも長瀬が楽曲のイメージの指針となるデモテープを作った。「長瀬くんからは、自分の作品を作っていきたいという強い思いを感じていました。彼自身も、当時から曲を常に作り続けていたみたいです。もう好きでしょうがないわけ。本人も『ものすごい量の曲のストックがあるんです』とか言っていたなあ」その言葉を証明するかのように、長瀬は「製作者」としての才能を発揮していく。かつてTOKIOのシングル曲は、プロの作詞家、作曲家によるものや、アーティストの提供のものが多かった。しかし、近年のシングル曲はすべて、長瀬の作詞・作曲によるものだ。長瀬に引っ張られるように、ほかのメンバーも勉強し、研究する。「長瀬くんはいちばん年下じゃない?だけど、すごくTOKIOの方向性にすごく影響力が強いんだと思う。長瀬がやるから、他のメンバーたちもものすごく勉強する。TOKIOのこだわりは、ライブハウスを経てデビューしたバンドと変わらない」しかし、現在、TOKIOは音楽活動を休止中。’17年、長瀬作詞作曲のシングル『クモ』を最期に楽曲の発表はされていない。「あれほどの才能を発揮できないのは、本当に悲しいことだよ」日本を代表する編曲家が惜しむ長瀬の才能。いつの日かまた、TOKIOの新曲を聴くことができる日がくることを、ファンのみならず、多くの人が待ち望んでいる。(取材:岡野誠)
2019年10月17日派手なアロハシャツにサーモンピンクのパンツ姿の沢田研二(71)を本誌が目撃したのは6月25日。そして隣にピッタリと寄り添っていたのは、茶色のジャケットにジーンズ姿の田中裕子(64)だった。この日は、沢田の71回目の誕生日。横浜市内に住む2人は電車に乗って都心に移動中だった。車内ではガラケーをいじっていたが、有名人夫妻に気づく乗客はいなかった。芸能関係者は言う。「昨年古希を迎えてから、この1年間はジュリーにとって多難の年だったといえます。昨年10月には、さいたまスーパーアリーナで、“ドタキャン騒動”も起こしています。観客の数が、事前に聞かされていたよりも少なかったことに激怒し帰ってしまったのです。大騒動になり、翌日には謝罪会見を行わざるをえませんでした」また今年3月にはショーケンこと、萩原健一さんが死去。「かつてPYGというバンドを組んでいた2人は、解散後もお互いを意識しあっていたのです。萩原さんも著書でジュリーの天才性を褒めたたえていましたが、5月のコンサートではジュリーも『さすがにショーケンが死んだときはこたえた』などと、悲しみを吐露したそうです」この多難な1年を支えていたのが、妻・田中だった。’89年11月に出雲大社で挙式をした2人は、今年11月に結婚30周年を迎えるが、その仲睦まじさは、新婚当時と変わらない。2人は相手が出かけるときは、玄関まで出てきちんと見送るという夫婦のルールもずっと守り続けているのだ。本誌は昨年7月に、田中が乗る車に手を振り続けている沢田の姿を目撃している。それから約1年、田中は最近話題の“グレーヘア”に変身していた。沢田夫妻を知る舞台関係者は言う。「沢田さんは、コンサートで『俺はジュリーじゃない、ジジーと呼んでくれ』と、観客に呼びかけたりもしているように、年を取ることに抗おうとはしません。白髪になったヘアも染めようとはせず、ふだんはあごひげも伸ばしっぱなし。ファンたちも、そんな沢田さんに共感し、応援しているのです。また田中さんは沢田さんの最大の理解者でもあります。ジュリーとおそろいのグレーヘアで、自然体のデートを楽しんでいるのも実に田中さんらしいと思いました」
2019年07月05日「今年から初めて本気で」終活を始めた渡辺えり(64)。地元・山形で暮らす認知症の両親の影響だという。今後の人生設計を語る――。「今、64歳なのですが、今年から初めて本気で終活を考え始めました。きっかけは、やはり両親です。父が93歳、母が89歳で体は健康なのですが、2人とも認知症を患っています。症状は父が軽く、母が重いため、今、地元・山形で別々の老人ホームに入っています。山形新幹線で片道3時間で往復できるようになりましたから、毎月、日帰りでも時間をつくって帰るようにしています」そう話す渡辺。昨年創立40周年を迎えたオフィス3○○(さんじゅうまる)を主宰、日本劇作家協会会長も務める彼女は『ぴったんこカンカン』(TBS系)などテレビ出演に加え、現在も大阪松竹座の『三婆』に出演するなど精力的に活動。私生活では4月に23年間連れ添った俳優・土屋良太(52)と離婚したばかりだ。「心機一転、引っ越しをしたばかりなんです。広いところから狭いところに移ったので、荷物が入り切らなくて。本や資料だけでも手元に置いておくものと大学に寄付するもの、田舎に送るものと、選別できていない段ボールがまだ50箱もあって。新居では開くところもないありさまなんです。元劇団員たちが土日に来てくれますが、この分では1年以上かかりそうです」「私は太ってるからため込むタイプなんです(笑)」と語る渡辺。「今回の引っ越しで、ずいぶんスリムになりました。服とかいらないものは手伝いに来てくれた人にあげました。姪っ子にもずいぶん送りました。だけど、やっぱり舞台衣装などはまた使うと思うから、それは山形に送ろうと思ってます。実は60歳を過ぎたら地元で演劇塾を開こうと以前から思っていて、故郷に稽古場にできる古家を買ってあったんです。父の入居しているホームはそこから歩いて30分ぐらいのところにあります。まだ実際に始めていないのは、60歳になっても自分がまだまだ元気だったから。今は仕事があるから東京に住んでいますが、70歳過ぎたら山形に移り住もうと。月謝2,000円で10人ぐらい、子どもたちに芝居を教えようかなと思って……」いったん劇団を解散したとき、早稲田大学の演劇博物館に衣装や小道具は全部寄付したという。「今回もあげるところは決まっているのですが、全部送ったら地元の演劇塾はどうなるんだと思って。だから一部は山形に持ってきます。主宰するオフィス3○○公演も、来年までは東京・本多劇場でやりますが、再来年からは小劇場に戻って、自主制作でコツコツやろうと思っています」数年後に向け、今はさまざまなものの整理と今後のお金の算段を考えていて心身ともにフル回転で、慌ただしい日々を送っている。「でも、私は恵まれているんです。田舎で少女のころから思い描いていた夢は、みんなかなっています。大ファンのジュリー(沢田研二)とは舞台『フィガロの結婚』で共演しました。劇作家の唐十郎さんとも舞台『少女仮面』でご一緒できました。美輪明宏さんとも、縁があって改名するきっかけまでいただきました」唯一かなっていないのが『世界平和』。今夏、渡辺が主宰するオフィス3○○の舞台『私の恋人』は、渡辺自身も足を運び、ガス室や焼却炉などを見てきた、ドイツのミュンヘンにナチスがユダヤ人を隔離するため造ったダッハウ収容所がモチーフだ。「簡単ではないことはもちろんわかっていますけどね。私は5歳のとき山形市内に引っ越して小学校に入った途端、いじめに遭っています。あまりのショックに2年間もひきこもり状態になりました。夢と現実のギャップを知り、不平等な世界や矛盾を知り、だからこそ、演劇の夢を追うようになりました。世間にはすごく貧しくていじめられてる人と、金持ちがいることが許せませんでした」演劇を志し、18歳で上京したとき、是が非でもこの“格差”をなくしたいと思ったそう。「両親は私が山形大学に進学し、音楽教師になってほしかったそうです。母は合格発表を一緒に上野まで見に来てくれたのですが、帰りの列車の中で『娘を手放さなければならないのはバチが当たったからだ』と号泣したことを後で打ち明けられました。私が演劇をやめられないのは、まだ『世界平和』の夢を達成できていないから。これからもやり続けて、ジワジワ効く漢方薬のように、若い人たちにも“平和”への思いを感じてほしいと強く願っています」
2019年06月09日ヨウジヤマモト(Yohji Yamamoto)の2019-20年秋冬ウィメンズコレクションが、フランス・パリで2019年3月1日(金)に発表された。ノワールの世界からスタート男女の恋模様を描いた沢田研二の「時の過ぎ行くままに」のサウンドから幕を開けたショー。情緒あふれる歌詞に反して静かな始まりだった。使用するのは黒一色、レングスはロング。2つのキーワードをもってたくさんのデザインが生まれる。生地の立体感と動きを生むプリーツ、テキスタイルの柔らかさを象徴するドレープ、プレイフルな印象を作る別布のアタッチ。ロング丈・黒一色の掟を守っていながらも一つひとつ表情が異なるコート、ドレスが続いた。躍動感あふれる色彩が黒の世界に投じられると…渋みのある重低音が響くと、黒一色の世界が変わる。アシンメトリーなワンショルダーのワンピースには白シャツがプラスさら、その上には赤、黄、青などの鮮やかなカラーで描いたペイントが施された。「手」がキーワードにカラフルな色彩が顔を出するとここからは一転、「手」が一つのキーワードに。ブラックのドレスやコートには立体的な「手」のモチーフを肩やウエスト、バックスタイルにオン。指がおり曲がったり、ピンと張ったり、何かのマークを作ったり。まるですぐ先ほどまでそこに手があったかのようなリアリティがある。「手」仕事を感じられるピース続くのは「手」仕事で作られた繊細なウェア。白い糸が背中からたくさん伸びたドレスや立体的で丸みのあるバックスタイルを持つドレス、先よりもより鮮やかに描かれたペイント、円形や四角形のパッチワーク。ブラックドレスの上で様々な手仕事が生まれ、消え去り繰り返される。しかし、これらのピースを纏うモデルたちの手はポケットに入っていたり、真っ黒に塗られたり、レザーグローブで覆われていたり、隠れていたのが興味深かった。フィナーレは、フードやストール調のもので顔を隠したモデル5名がゆっくりと行進。片目だけ見えているものもいるが、その姿が定かではない。と思うと同時に、一人がパッとフーディを取り、真っ赤なリップと白い肌が見えると、にやっと笑みを浮かべ、立ち去っていった。
2019年03月03日詐欺事件で沖縄刑務所に服役している元タレントの羽賀研二受刑者(本名・當眞美喜男:57)と元妻で不動産管理会社代表・當眞麻由容疑者(41)が今月18日、強制執行妨害の疑いで沖縄県警に逮捕。各メディアが大々的に報じた。羽賀容疑者は未公開株の売買をめぐって知人男性から計約3億7,000万円をだまし取ったなどとして、13年4月に懲役6年の判決が確定。被害者男性は貸していた金額も含め、返還を求め提訴。大阪地裁が16年10月に約3億9,000万円の支払いを命じ、17年5月に賠償命令が確定していた。各メディアによると今回の逮捕容疑は17年1月、羽賀容疑者が所有する県内の土地や建物の所有権について麻由容疑者へと移転する登記申請を行い、譲渡したように装った疑い。また県警は詐欺事件被害者への賠償に充てられる不動産を差し押さえから回避するため偽装離婚し、財産分与したように偽装した可能性があるとみて調べているというのだ。「驚くべきお金への執着ですが、今回の事件でかわいそうなのは母親まで逮捕されてしまった8歳の長女でしょう。獄中の羽賀受刑者は、娘の将来を心配していたそうですが……」(ベテラン芸能記者)そんな羽賀容疑者だが、結婚会見のときでさえお金もうけに奔走していたという。「06年9月、一部報道を受けて結婚会見することになった羽賀受刑者。当時は宝石ビジネスを手がけていましたが、会見場所はその営業先の長野県松本市。会見前後に時間を惜しんでは、せっせとマダムたちに宝石を売りさばいていました」(ワイドショー関係者)羽賀容疑者が外の空気を吸える日は、まだまだ先になりそうだ。
2019年01月23日全国ツアー中の歌手の沢田研二(70)が19日、東京・日本武道館で3日連続公演の初日を迎えたと一部スポーツ紙が報じた。沢田といえば、昨年10月にさいたまスーパーアリーナで予定していた公演を「空席が目立つ」として開演直前でキャンセル。騒動に発展していた。今回も同規模会場での公演で、チケットの売れ行きが苦戦していると一部で報じられていた。記事によると、公演は予定より5分遅れで無事に開演。当日券が発売されていたが、用意された推定8,000~9,000席がほぼ埋まったという。沢田は1時間50分のステージを完走。「ここに来てる皆さんで、『開場までに何か起こるかも』と思った人、いるでしょう?」と自虐ネタ。そのうえで、「地道にやっていくしかない。背伸びしなくていい。まあ、ちょっとさいたまスーパーアリーナは背伸びしたんですけど」と笑いを誘ったというのだ。「ドタキャン後の自宅近くでの会見ではかなり反省している様子でしたが、やはり自分の中で譲れない部分があったと主張。そのため武道館公演でそうならないよう、スタッフたちが奔走したそうです」(音楽関係者)沢田にステージに気持ち良く立ってもらうのを最優先した結果、いかに空席をなくすかが最優先だったという。「席を埋めた割合はファン6割、関係者が4割ほどだったそうです。業界関係者には1枚で複数の人数が入場できる招待状を送るなど、赤字覚悟の集客だったようです」(前出・音楽関係者)足を運んだ観客のTwitterへの投稿によると、2日目の公演となった20日もほぼ満席だったという。スタッフも胸をなで下ろしているに違いない。
2019年01月20日昨年10月半ば、パレスチナ自治区にあるアイダ難民キャンプ。長年イスラエルの軍事占領下にあり、その象徴が、町のあちこちに築かれた8メートルもの「分離壁」だ。約100人の難民の子どもを前にギターを弾くのは、LUNA SEAとX JAPANのギタリスト、SUGIZOさん(49)。ギターが鳴り響き、弾むビートに現地の子どもたちは、笑顔で歌い、跳ねまくる。日本を代表する2つの人気ロックバンドやソロでの音楽活動に加え、多くの社会問題に取り組んでいるSUGIZOさん。彼が、難民キャンプや被災地に赴く理由とは――。「3歳でバイオリンを始め、オーケストラの演奏家だった両親から音楽の英才教育を受けました。特に父の稽古は強制的で、間違えたら怒られ、何度かミスが続くとぶたれるんです。ボロボロ泣きながら弾いていましたね」’69年7月8日、神奈川県に生まれたSUGIZOさん。「母も、同居する父方の祖母との折り合いが悪く常にギスギスしていて、僕にとって、家庭は安らげる場所ではありませんでした」小学校のときに沢田研二にハマり、中学ではジャパンやデヴィッド・ボウイを入口にして、パンクにも夢中になる。「当然、親とは大喧嘩です。だって、父にしたら、クラシックこそが由緒正しくて、ロックなんて亜流という考えでしたから。ただ、高校入学直後に出会った仲間は、初めてできた親友であり、一生の付き合いとなるんです。その1人が、のちに共にLUNA SEAを結成する真矢です」やがて先輩のバンドに迎えられ、どんどん音楽にのめり込む。「高1の終わりには、音楽を本気でやりたいと思っていました。父の反対は自然消滅するんです。というのも、高3のときに両親が離婚して、父が家を出ましたから」髪の毛をツンツンに逆立てて、メークもして登校。音楽漬けの高校生活を終えると、両親が望んでいた音大進学ではなく、迷わずにバンド活動を本格化させた。前出のとおり、LUNA SEA(当時の名称はLUNACY)に真矢さん(49)らと参加したのが19歳。3年でメジャーデビューを果たし、さらに3年後には初の東京ドーム公演を成功させるなど、名実ともにトップバンドに。意外だったのは、このサクセスストーリーの陰で、幼いころから抱えていた孤独感をより強めていたという。「チャート1位を取るとか、ドームや武道館でライブをやるとか、世間でいう成功では心のすき間を埋められなかったんですね」年上の元モデル女性との結婚が25歳。しかし、これも安定した生活にはつながらなかった。「僕は相手に気を使ってしまうタイプで、それは当時の妻にも同じでした。つまり、子どものころの実家での生活の繰り返しになっていて、家庭で一緒にいて安心感とか自由な気持ちを持てなかった」またしても孤独感を深めていくSUGIZOさんだったが、ただ一つ、結婚後に「救い」を得た。それが’96年春に生まれた長女の存在だ。「娘の誕生とともに、まず食に、続いて環境問題について真剣に考えるようになりました。それまでは典型的なすさんだロッカーの生活でしたから、自分でも不思議なほどの劇的な変化でした」長女が2歳のときにコソボ紛争が起きて、子どもを含む難民の悲惨な姿が連日、報道された。「僕の娘と同年代の子どもたちが被弾して命を落としたり。北朝鮮の飢えた子どもたちの映像が報道されたのも同じころでした。それを見て、わが子だけじゃなく、世界中の子どもたちが、ちゃんと祝福されて生きていかなきゃいけないと強く思い始めたんです」このころから、アフリカなどの子どもたちの支援を始めている。’99年の離婚に続き、3年後には別れた妻子がロサンゼルスへ移住。より孤独感を深めていったが、そこに追い打ちをかける出来事が。「スタッフの起こした金銭トラブルに巻き込まれました。知らないうちに巨額な借金の連帯保証人にさせされていたんです。自己破産寸前まで追い込まれてしまいました。お金や仕事や友人だけでなく、プライドまで多くを失いました。でも今ふり返ると、人生の断捨離をできて、本当に大切なものだけが残ったのはよかったのかもしれない。そう思えたのは、娘の存在が大きかった。離れてはいても、心と心でつながっていられた。ここで死んじゃったらラクかもなぁと考えたこともありましたが、娘が、自分がこの世から去ることへのストッパーでしたね」’11年3月11日、東日本大震災が起きたときには、バンド単位ではなく、一個人として地震発生から3週間後には現地入りした。「もちろん、ミュージシャンとして何ができるかと考えました。でも、なんにもないと思ったんですよね。凍えて、明日どうやって食べようかと考えている被災地の人たちに歌を届ける前に、まずは現地に行って、泥かきや炊き出しをするマンパワーが今は求められているのだろうと。だから、石巻でのボランティアにはプライベートで参加しました」被災地にいたのべ9日の間、泥まみれになりながらシャワーも浴びずにテントで寝て、口にしたのはカロリーメイトなどのみ。「いちばん貴重な体験は、僕は被災者の方の助けになればと思って行ったんだけど、現地に行って気付かされたのは、逆に救われている自分がいたこと」倒壊した自宅の前で、「よく来てくれた」と迎えてくれる笑顔といくつも出会った。「『絶対に負けない』とおっしゃる。故郷を本当に愛し、復興させたいと強く願っている。その姿に僕らボランティアのほうが、エネルギーや勇気をもらうんですね。変な話、オレ、孤独じゃないと思うわけです」そこで得たぬくもりを糧に、やがてSUGIZOさんの足は世界へと向かう。「難民支援をしたいとずっと思っていて、’10年ごろからUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の方々とも知り合い、イベントに呼んでもらったり、シンポジウムで勉強させてもらっていました」’16年春のヨルダンのシリア難民キャンプ行きは、UNHCR側からの誘いだった。このときは個人としての訪問だったが、SUGIZOさんがミュージシャンと知った現地の人から「演奏してほしい」と依頼が届いた。「バイオリンを現地の仲間に調達してもらって実現しました。ふだんは異性の前ではなかなか感情を出せない女性や子どもたちも喜んでくれて、僕自身、改めて音楽の力を実感し、また必ずやりたいと考えていました」国際文化交流事業を行うICEJ代表の山本真希さん(40)がSUGIZOさんに初めて会ったのは、昨年末のLUNA SEAのライブだった。「私たちのパレスチナ難民支援の記事を新聞で読んだSUGIZOさんが、日本で暮らす難民の青年たちをライブに招待してくれました。その後、『パレスチナの現地の難民キャンプで演奏してもらえたら、うれしいです』と話すと、その場で『僕、やりますよ!』と即答してくれたんです」10カ月の準備期間を経て、冒頭のとおり、昨秋には難民キャンプなど3カ所でのライブが実現した。最後のライブはナブルスという町。「『The Voyage Home』というラストに演奏した曲は、シリア難民キャンプを訪れたことをきっかけに生まれた曲。初めはシリアの戦火から逃れる人々を思って演奏していました。それがライブを続けるうちに、あらゆる国の難民や故郷を追われて暮らす人々が、いつか帰郷できて元の生活を取り戻せますようにという祈りの曲になっていた。さらに、その祈りの思いは、福島第一原発の事故で故郷を追われた人や、いまだに仮設住宅で暮らす人にとっても同じだし、また、昨年も各地で豪雨や震災などの災害がありましたが、そうした日本の被災者の方たちも近い境遇を強いられていると気付いたんです」切なくも美しいメロディの底には、SUGIZOさん自身の望郷もある。「僕自身、たしかに生まれ故郷の地元はあっても、いまだに心の故郷を探しているんですね。実家でも、結婚しても、家庭というものが、癒されたり、帰りたい場所じゃなかった。ですから、心が安住できる自分の居場所を探し続ける思いが、知らず知らずに込められていたのかもしれません」孤独を感じ続けていたSUGIZOさんが、音楽を通じて、世界の人たちと心を一つにしていこうと、旅を続ける。「音楽があれば、言葉は通じなくても、国も信仰も文化も違っていても、すごく一つになれる。魂を込めて演奏に没頭すれば、どこの国の誰とも友達になれるという確信が、僕を難民キャンプや紛争地帯、被災地へと向かわせているのだと思います」
2019年01月18日10月17日のさいたまスーパーアリーナ公演を「空席が目立った」として開演直前に中止したジュリーこと沢田研二(70)。沢田本人が会見で明かしたところによると、イベンターからは動員が9,000人と聞かされていたという。しかし当日になり、7,000人と判明。席をつぶしていたのが気に入らず、公演を中止したというのだ。そこで今あたためて話題となっているのが、ロシアの女性デュオ・t.A.T.u.。レナ(34)とジュリア(33)で98年に結成。それまでまったく無名の存在だったが、03年に初来日を果たすと大ブレーク。女子高生の制服姿で歌い、ステージ上でキスを交わすなど過激なパフォーマンスが話題となった。しかし6月末に出演したテレビ朝日系「ミュージックステーション」への出演を、まさかのドタキャン。それ以前にも海外公演をドタキャンしていたこともあり、“お騒がせデュオ”と呼ばれるように。03年12月1日と2日に東京ドーム公演を行ったが、“日本音楽史に残る黒歴史”と言われる事態となった。「ドームのキャパは5万人で、初日動員は公式発表で2万5,000人でした。しかしおそらく実数はもっと少なかったようで、“空席祭り”に!あまりにも客がいなかったため、2階席の客が追加料金なしでアリーナへ移動OKという異常事態でした。おまけに持ち歌が少なく、パフォーマンスは1時間足らずで終了。客席からは大ブーイングが巻き起こっていました。2日目も同じで、東京ドーム史上“最低観客動員記録”ともいわれていました」(公演を取材した記者)結局、t.A.T.u.は11年に解散を正式発表している。ジュリーの今後についても心配になってくるが……レコード会社関係者はこう語る。「今回のジュリーの場合、激怒するファンもほとんどいなかったそうです。むしろ騒動の影響で、その後の公演のチケットの売れ行きは盛況だといいます」(レコード会社関係者)やっぱりジュリーは“別格”のようだ。
2018年10月29日横浜市内の自宅に集結した報道陣の前に姿を現した沢田研二(70)は、まさかのスーツ姿だった。レコーディングに出かけるにもヨレヨレのTシャツ姿ということがほとんどの沢田だが、よほどの覚悟を決めていたのだろう。「近所に公園があるので……」報道陣を小さな公園へいざない、始めたのは30分近くにも及ぶ“謝罪会見”。「いちばんの原因は、僕自身にさいたまスーパーアリーナでライブをやる実力がなかったことだと思います。ホントに取り返しのつかない結果になったことに、心よりお詫び申し上げます」そう言って、深々と頭を下げたのだ。10月17日、さいたまスーパーアリーナで勃発した“ドタキャン騒動”。会場は可動式で3万人以上の観客を収容することができる。だがその日集まったのは7千人にすぎなかった。「僕は9千人と聞いていたのに、(実際は)7千人。(客席も)空いているところが多すぎた」それが土下座して詫びるスタッフを尻目に会場から無理やり引き上げた理由だった。結局翌日の18日には謝罪会見を行ったわけだが、昔から沢田を知るレコード会社関係者は言う。「ジュリーのプライドの高さは、この業界では誰もが知っています。ガラガラな客席にブチ切れて帰ってしまうなんて、むしろ彼らしいという気もします。それよりもマスコミ嫌いの彼が、カメラの前で頭を下げるなんて、本当に驚きました」実は会見終了後、本誌は沢田にいくつか質問を投げかけている。――今回の件について、奥さんの田中裕子さん(63)とはお話ししたのでしょうか?「いや、まぁ事情は全部話してあります」――どんなことをおっしゃっていましたか?「『(どうするかは)お父ちゃんが考えることやからね』、と。いまも支えてくれている?……そうですね」苦い笑いを浮かべていた沢田。この苦笑に隠された意味について、沢田夫妻の知人は言う。「日常生活での細かい夫婦喧嘩はあっても、お互いの仕事スタイルには口を出さないのが沢田夫妻の流儀。沢田さんが反原発ソングを歌っても、政権批判を繰り広げようとも、田中さんはずっと見守ってきました。でも今回は7千人のファンを置き去りにしたわけですからね。田中さんも今回のドタキャンについては怒っていたそうで、自分の音楽活動については唯我独尊の沢田さんもトラブルのいきさつについて奥さんに説明せざるをえなかったようです。夫妻は結婚28年目ですが、沢田さんの仕事について田中さんが叱るのは恐らく初めてのことだと思います」そんな愛妻の怒りに、さすがの沢田も“カッコつけさせてくれ”と言っている場合ではなくなったようだ。
2018年10月26日公開初日を迎えた映画『ごっこ』の舞台あいさつが20日、都内で行われ、千原ジュニア、平尾菜々花、川谷絵音、熊澤尚人監督が出席した。2016年10月20日に死去した漫画家・小路啓之氏の同名漫画を原作に、『近キョリ恋愛』(2014年公開)nadoの熊澤尚人監督が実写映画化した本作。主人公の城宮(千原ジュニア)と5歳児・ヨヨ子(平尾菜々花)の親子は、仲睦まじい生活を送っていたが、2人には他人に知らてはいけない秘密を抱えていた。そんな城宮とヨヨ子の生活は、ある日突然、衝撃の事実によって崩壊してしまう……というストーリーとなっている。満席の会場に登場したジュニアは「空席が多いとキャンセルしようと思ったんですけど」と公演中止騒動で揺れる沢田研二をイメージさせたあいさつで客席は大爆笑。本作の撮影は、2015年10月から2016年1月に行われ、「3年前の川谷くんは世間を騒がせていた頃で、『大変だなー』と言いながら撮影したのを昨日のことのように覚えています」とベッキーとの不倫騒動で揺れていた川谷をいじりつつ、「原作者の奥様から『旦那が喜んでいると思います』というお言葉をいただけましたので、やった甲斐があったと思います」としみじみと振り返っていた。また、多くのシーンをともにした平尾について「菜々花ちゃんで間違いないという感じでしたよ。完全に天才で、乗っかっていけるかな? と思ったら思いっきりいけました。当時は3歳でしたが、イニシアティブを持たれていた感じでしたよ」と褒め、熊澤監督も「100人以上オーディションをやって天才を選びました。子役さんではなくて女優さんでしたよ」と大絶賛。当の平尾は「そんな"天才"とかじゃないんです」と謙そんし、「千原さんがすごく優しくしてくださって、私もリラックスして演技することができました」と千原の気遣いに感謝していた。
2018年10月21日お笑いコンビ・ダウンタウンの松本人志(55)が、21日に放送されたフジテレビ系トーク番組『ワイドナショー』(毎週日曜10:00~11:15)で、歌手・沢田研二(70)が17日開催のさいたまスーパーアリーナ公演をドタキャンした問題についてコメントした。沢田は、当初9,000人の観客を予定していたが、実際には7,000人だったことから開演直前に中止を決断。会場を押さえる際、イベンターには、集客できないと判断した場合は、断るようにとあらかじめ頼んでいたという。中止の翌日、報道陣の取材に応じた沢田は、「事務所もイベンターさんもやりたいというのが大前提ですので、そこのところが僕とは違う」と語り、「ファンの方たちには甘えさせてもらっているのかもしれないけれども、初めて僕のコンサートを見に来られた方もたくさんいらっしゃると思うので、そういう方たちには本当に申し訳なかった」と謝罪していた。このことについて松本は、「芸能界あるあるですよね」と指摘。スタッフから企画を持ち込まれた際、松本は「長い経験で分かるけど、それたぶんうまくいかないですよ」と正直にアドバイスするもスタッフは「大丈夫です!」と押し切り、結果的にうまくいかずに「すみません……」と謝られたことが度々あったという。自身の体験を振り返りながら、「お客さんが集まらないのは、だいぶ前から分かってたはず。それを黙ってたんですよ。当日分かったとしてもさすがにやめないだろうと高をくくってたのも僕はイヤ」とスタッフの対応に嫌悪感。「プロならちゃんと歌えよという意見もあるかもしれないけど、イベンターのプロ意識はどうなんだという話になる」と責任も追及する。さらに、「プロで約束したのなら、ちゃんと満員にしたってくれよ」と訴え、「歌いながら客がスカスカだったら、『俺、言ったよね…俺、言ったよね…』ですよ」と沢田の心境を推測。「絶対にパフォーマンスできないですよ」と断言して沢田に同情していた。
2018年10月21日『永遠の0』『海賊を呼ばれた男』などで知られる作家・百田尚樹氏(62)のツイッターが物議を醸している。きっかけは10月17日に予定していたライブを開園直前にキャンセルした歌手・沢田研二(70)。18日に開かれた会見で沢田は「客席がスカスカの状態でやるのは酷。僕にも意地がある。最終的には自分で中止した」と客の不入りが中止の理由であることを明かした。しかし一部ネット上では沢田がコンサート会場で反原発の署名を行おうとしたところ、会場側より断られたことが中止の理由という噂が流れていた。それに対し百田氏が10月18日に自身のツイッターで「沢田研二はコンサート会場でも、反原発の話を延々とするらしい。歌を聴きに来たファンに失礼だし、そんな話がしたかったら、そういう講演をやれと思う。コンサートを利用して、反原発はずるい行為だ」と反応していた。このつぶやきに対し、《何度も沢田さんのライブに行っていますが反原発のことなんて聞いたことがないです》《私は百田さんの本のファンですが、今回はふざけるなと言いたいです》と沢田ファンより事実無根と抗議が殺到した。抗議を受けて、百田氏は「下の記事を読んで、『沢田研二氏がコンサートで反原発の話をしているらしい』とツイートしましたが、多くの沢田研二氏のファンから、『そんな事実はない!』というリプライをいただきました。 伝聞をツイートして、申し訳ありませんでした」と過去のライブ中に沢田が政治的発言をした際のニュース記事をもとに推測で書いたと釈明し、謝罪している。過激な発言で数々の炎上を起こしてきた百田氏だが、今回ばかりは素直に謝らざるをえなかったようだ。
2018年10月19日10月17日に埼玉・さいたまスーパーアリーナで開催予定だった公演をドタキャンした歌手の沢田研二(70)。18日に横浜市内の取材に応じたことを、各スポーツ紙などが報じた。各紙などによると、沢田は「ライブを楽しみに足を運んでくださった方にはご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした。心よりお詫び申し上げます」と頭を下げ謝罪。公演中止について、「この結論を下したのは、意地でしかない。僕自身にさいたまスーパーアリーナでやる実力がなかったということですが、ライブをやる側の人間の位置が守られなかった」と話したという。沢田によると集客状況については所属事務所とイベンター会社から当初9,000人と聞いていたが、実際には7,000人。当日のリハーサル前、観客が座れないよう客席がつぶされているブロックが6カ所ほどあったことに気づき、客席がスカスカの状態ではモチベーションが上がらないとして中止を決めたというのだ。「全国各地から熱烈なファンが駆けつけていたにもかかわらず、まさかのドタキャン。ファンの暴動が起こらなかったのは、沢田のカリスマ性がなせる技。とはいえ損害額は会場のキャンセル料や音響代、チケットの払い戻し手数料などで4,000万円を超えるともいわれています」(レコード会社関係者)そんななか19日の全国紙にはツアーのファイナル公演にあたる来年1月19日から21日の日本武道館公演のチケットが、20日から一般発売を告知するとの広告が掲載された。「チケットは全席指定で8,000円。キャパは8,000人から1万人ほどで、ドタキャンしたさいたま公演で集客していた7,000人を上回ります。そのため沢田さんが武道館3デイズを満員にできるのか、注目されています」(芸能記者)わざわざ報道陣の前で謝罪した沢田だけに、もうドタキャンすることはなさそうだが……。
2018年10月19日10月17日、沢田研二(70)のさいたまスーパーアリーナ公演が開演直前に突如中止となった騒動。各スポーツ紙によると開場時間である午後3時30分を過ぎた頃に中止の案内が流れ、さらに「契約上の問題が発生したため、中止とさせていただきます」という貼り紙もなされたという。今回の件について翌18日、沢田の公式サイトに謝罪文が掲載された。そこでは「10月17日のさいたまスーパーアリーナ公演は契約上の問題が発生した為、急遽中止させていただくこととなりました」と改めて説明されており、「ご来場いただきましたお客様には大変ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございませんでした」ともつづられている。「沢田さんは04年10月にも茨城・水戸の県民文化センターでのコンサートを直前で中止にしていました。その際は主催側が『開催に際しての事前の取り決めごとを実現できなかった』と謝罪していました」(ステージ関係者)沢田にとって2度目のドタキャンとなった今公演。中止の理由も漠然としており、Twitterでは「プロとしてどうなのか?」と疑問の声が上がっている。《客は関係ないし、客が不利益を被る結果にしたのは事実。これはプロとして猛省しないといかんね》《ファンのことは主催者もジュリー側も何も考えてないな》《本人が出てきて、拡声器でファンにコメントとか、アカペラで1曲とかすれば、ファンは喜んだかもね。説明が少なくて、遠方から来たり、予定を調整したりした人は、気の毒すぎる》だがいっぽう、多くのファンからは擁護の声が上がっている。《ジュリーにはジュリーの考えがあっての事!それで離れていくなら結構よ!健康に問題ないのならもう云う事無し!何があってもジュリーを支持します》《何十ヶ所も回っとればひとつやふたつトラブルもあるわ それを騒がずに受け入れるのがジュリーのファンなんだわ》《ジュリーはファンを信じてくれてるから中止にできたんだと思うよ。騒ぎ立てたり離れていったりしないって信じてくれてるんだと思う。ずっと前から変わらないスタイル と思ってるわたしは倖せだぁね》沢田はいま、何を思うだろう――?
2018年10月18日(写真:東京の母と慕うおでん屋さんのママと。) 優しいお母さん役からコミカルな役柄まで、幅広い演技で舞台、ドラマ、映画に活躍中の渡辺えり(63)。23歳のとき旗揚げした劇団「3〇〇」が今年40年を迎えて絶好調のえりさんに、かつてアルバイトとして働き、45年通い続けているというおでん屋さんのカウンターで、演劇人生を振り返ってもらった。 「2歳のとき、こたつの上で『荒城の月』を歌うと周りの大人たちから『えりちゃん上手ね』って煽てられて、歌手になろうと思いました。でも、バレリーナにも憧れましたね。森下洋子さんみたいなプリマに。でも、私の生まれたところはバレエ教室までバスで40分。車酔いが酷くて諦めました。その後、オペラ歌手に憧れて高校の声楽クラブに入って……と、やりたいことがたくさんあったんです。それを全部叶えられるのが演劇でした」 その後さまざまな経験を経て、劇団を旗揚げするという夢を抱くようになる。 「あこがれのジュリー(沢田研二)と結婚、貧富の差をなくして社会改革、という2つの野望を胸に、18歳で山形から上京しました。トイレは共同で家賃9,500円の池袋のアパートに住みながら、舞台芸術学院で演劇を学びました。ここでのバイトは当時、平均時給が400円のところ600円もらっていました。家にテレビがなかったので、ジュリーのドラマや『紅白歌合戦』はママのマンションに行って見せてもらって、日曜日にはカレーライスと餃子を食べさせてもらい、洋服もいただいたりね。ママは私にとって東京の母。山形の実の母とも仲よくしてもらっています」 23歳のとき、念願の劇団「2○○」を旗揚げ。数々の名作を生みだしてきた。同時に、お酒の場での豪快なエピソードを重ねていくことに。 「演劇をやってると、先輩の誘いは断れないし、お酒は飲まざるをえないんですよね。演出助手をやってたころは、舞台監督と朝の4時まで飲みに行ってました。映画を撮っているとき、カメラマンがお酒大好きな人だったんです。そのカメラマンと朝の8時まで飲みに行って、先にカメラマンが潰れて私は平気だった。それで信用を得ることができて、仕事もスムーズにできました。いま、あの時の量を飲んだら……、3日は調子が悪くなっちゃうでしょうね(笑)」 当時、女性の劇作家はまだまだ少数。女性が演劇界で活躍することも多くはなかった。そんななか、えりさんは’83年、舞台『ゲゲゲのげ』で第27回岸田國士戯曲賞を最年少で受賞。同年、朝ドラ『おしん』にも出演し、戯曲家、演出家、女優として大きく羽ばたき始めた。 最新の舞台『肉の海』(6月7~17日、下北沢・本多劇場)では土居裕子、久世星佳と3姉妹の役を演じる。節目の舞台でも、伸びのある歌声を響かせる!
2018年06月05日「僕は家では何もしてない、全部女房ですよ。うちの子たちは困ったことはなかったね。息子の翔太も自分でアナウンサーの仕事見つけてきたし、下の子も働いているし。それは女房がやってくれたことだと思います」 そう語るのは、隔週連載『中山秀征の語り合いたい人』第76回のゲスト・タレントの小堺一機さん(61)。中山がデビュー時にとてもお世話になったという小堺さんと2人、「何が出るかな」でおなじみ『ごきげんよう』さながら、トークたっぷりの時間を過ごしました。 中山「『ごきげんよう』もそうでしたが、『おすましでSHOW』の公演も小堺さんのライフワークのひとつですよね。笑い、トーク、音楽が楽しめるショーを’85年から続けられて、今回ファイナル(東京・新国立劇場中劇場にて3月9〜12日まで)なんですね」 小堺「『ごきげんよう』をひとつ区切ったでしょ。最初は怒られたりしたけど、居心地のいい番組だったわけですよ。『おすまし』も最初は『テレビタレントが舞台なんてできるのか』なんて言われたりしながら、なんとかやっていって、だんだん気持ちよくなっていくんだけど、居心地いいところにいると次に進めないのかなって。母が亡くなったこともあるし、これでひと区切り。まずはやり切って、また新しいライブのカタチを探りたいと思っています」 中山「次へ行くしかない状況を作られたところもあるんですね。節目を迎えられ、今後はどこを目指すんでしょう?」 小堺「今のところ何もないですよ」 中山「いろいろやりつくされている?」 小堺「今『かたらふ〜ぼくたちのスタア〜』(フジテレビ系)というトーク番組をやらせていただいてるんですね。『ごきげんよう』のスタッフなんだけど、食事会で『あの映画がああで、こうで』なんていろんなことを話してたら、スタッフが『すごい知識ですね』って言ってくれたの。みんなに話したいから勉強したわけじゃなくて、30年も見てれば知識は増えるじゃない。そしたら皆さん面白いと言ってくださって」 中山「すごい映画の知識ですもんね」 小堺「僕は1回見るとだいたい覚えるんですよ、それはちょっと関係しているかもしれないけど、世間一般のことはひとつも覚えないんですけどね」 中山「好きなことだと頭に入るんですか」 小堺「だからブロードウエーなんかもショーの勉強だと思って見るとダメだね。沢田研二さんも『勉強で見るより、客として見たほうが頭に入る』と言ってた。とにかく、僕は本当に運だけでここにいるんだろうね。何もしてないからね。どん底も味わってないし、悔しくて泣いたことがあるくらい」 中山「小堺さんにもそんなことが」 小堺「ドラマで16回NG出したときね。その日は寄らなきゃいいのに、彼女の家に寄っちゃったんですよ。『どうだった?』って聞かれたから、僕泣いちゃった。『畜生!』っていう強い感じじゃなくて、膝の上で延々。『才能ないんだ、え〜ん』って、甘ったれでしょ。それが今の女房。いまだに、何かあると『あなた、泣いたわよね』って言われるんですよ(笑)」
2017年03月04日アジアNo.1マルチエンタテインメントグループ「SUPER JUNIOR」のリード・ヴォーカル、イェソンと、「THE LAST COP/ラストコップ」など女優、モデルとしても一層活躍している佐々木希が初共演を果たしたロマンティック・ラブストーリー『いきなり先生になったボクが彼女に恋をした』。このほど、イェソンの劇中シーンの中でも、ファンの間で「必見!」と話題を呼んでいるカラオケシーンのメイキング映像がシネマカフェにて解禁となった。本作は、恋人にフラれ、仕事も失い、韓国語の先生になったヨンウン(イェソン)と、韓国語をマスターしなければ、旅行会社をクビになるシングルマザーのさくら(佐々木希)。の2人が、韓国語学校で出会うことから始まるロマンティック・ストーリー。ヨンウンを演じたイェソンは、映画初主演、しかも日本語での演技に初めて挑戦し、朝原雄三監督からは「あまたいる日本の若手イケメン俳優とは、ひと味違う魅力がある」と絶賛されるほど。アーティストのときとはまた違う、俳優として見せるさまざまな表情が話題を呼んでいる。そんな中、ひょんなことから昭和の名曲、ジュリーこと沢田研二の「勝手にしやがれ」をカラオケで熱唱することになったシーンに臨むイェソンのメイキング映像が到着。撮影現場で朝原監督から演出プランについて説明を受ける中で、「勝手にしやがれ」で歌いながら手を振る、あの独特の振り付けになぜか戸惑いをみせるイェソン。その振りに照れまくりながらも挑戦するイェソンからは、素の表情を垣間見ることができる。「これまでステージで一度もやったことのない、照れくさいことばかりですが、挑戦しなければ」と振りを練習し、撮影に臨む姿は一見の価値あり。実際、本作で歌うことになるまで知らなかったという「勝手にしやがれ」を、日本語でどう熱唱しているかは、ぜひ劇場で確かめてみてほしい。また、劇場では、本編上映後にイェソン演じるヨンウン先生と佐々木さん演じるさくらによる「“今日から使える”いきなりハングル講座」を期間限定で特別上映中。週替わりの内容で、こちらも笑いあり、胸キュンあり、本編とは違った2人の魅力満載のレッスンとなっている。『いきなり先生になったボクが彼女に恋をした」は全国にて公開中。(text:cinemacafe.net)
2016年11月19日『海街diary』の脚本執筆のさなかの2013年の夏、是枝裕和監督は以前から温めてきた、団地を題材にした脚本の第一稿を書き上げた。執筆の時点で、団地にひとりで暮らす老いた母として、樹木希林をイメージしていたという。2人が初めて作品を共にしたのはお盆に両親の家で顔を揃えた家族の姿を描いた『歩いても 歩いても』(’08)。その後も『奇跡』、『そして父になる』、『海街diary』において、主人公たちの祖母、義母、大叔母という立場で、出演シーンは多くないが絶妙な存在感を見せてきた。『歩いても 歩いても』は、いしだあゆみのヒット曲「ブルー・ライト・ヨコハマ」の一節を用いたタイトルだが、今回の最新作につけられた『海よりもまだ深く』というタイトルもまた昭和歌謡の名曲でテレサ・テンの「別れの予感」の歌詞に由来しており、阿部寛が息子役を演じているという点も同様!作家崩れで探偵として暮らすダメ中年の良多とそんな息子をそれでも愛する母、良多に愛想をつかし彼の元を去った元妻と妻に引き取られた息子の4人が、台風の一夜をひとつ屋根の下で過ごすことになるが…。約8年の歳月の中で是枝監督はどのように変化し、5本もの作品を共にした樹木さんは何を感じたのか――?――脚本の執筆段階で樹木さんをイメージしていたそうですが、ここで描かれる団地に住まう母親には、是枝監督ご自身の亡きお母さまが反映されているのでしょうか?是枝監督:似てる部分はあります。ただ、『歩いても 歩いても』のときもそうだったけど、「僕の母親を演じてほしい」とお願いしたわけじゃなく、あくまでキャラクターとして別人格で作られてます。僕の母のいろんなところ――すごく“世間”であるところや“毒”である部分になっていただいてるのは間違いないですね。――樹木さんは、是枝作品における“母親像”について、どのようにお感じですか?樹木:私も監督の母親として捉えているわけじゃなくて、女の人、母親であれば誰もが持っているであろう、かわいらしさとちょっと意地悪なところ、そういうのを含めて「母親になるとああなるんだろうな」と感じるところはあります。――映画の中では、真木よう子さんが演じた良多の元妻を例に「いまの母親」について少し批判的な部分もありますが…樹木:女の人の生活力が上がるのは素晴らしいことだけど、その分、自由になるので、昔の「食べていけないので我慢する」ということの良い部分まで捨てているんだなとは感じますね。自分の意思通りに進むことで、逆に女の人が持つ忍耐強さが磨かれないままに終わってしまうところもある。それを含め、女性の地位が向上するというのは、良いことであり、一方で損している部分もあるのかもしれませんね。是枝監督:ただ、映画はそれが正しいとか間違っているとかジャッジするわけじゃなくて、そういう育ち方をしてきた老いた母親は、おそらくいまの若い母親たちをそう見ているんだろうという描き方をしています。――監督が最初に本作を構想したのは2001年とかなり早い時期だったそうですが…是枝監督:「団地を撮りたい」と考えたのはそれくらいですね。――『歩いても 歩いても』以降、『奇跡』『そして父になる』『海街diary』とほぼ一貫して“家族”の物語を紡いでいますが、2001年に頭に浮かんだ団地の物語をいまこのタイミングで形にしたのは…是枝監督:この作品のノートを作り始めたのが2009年で『歩いても 歩いても』の公開のすぐ後なの。その段階で(キャストは)阿部さんと樹木さんだったんだけど、実際に、きちんと物語になったのは撮影の1年前くらい。その間に、僕も阿部さんも父親になったというのが、一番大きいと思います。『歩いても 歩いても』は息子から見た親の話で、原田芳雄さんが演じる父が生きてたけど、そこに父親から見た息子という視点を加えたのは、やはり僕が父親になったからでしょう。――『歩いても 歩いても』以降のご自身の各作品の影響、テーマの連続性という部分はありますか?是枝監督:ほかの作品との関連付けは観る側がすることで、自分の中で、別の作品を引き継いだりというのはあまりないんですよね。テーマや関連性は意識してというより、自然に出てくるんですよね。樹木:時代背景とか、あとは誰が映画製作にお金出してくれてってところで作る順番が変わったりもするからね。結果的にこうなったというもんなのよ。是枝監督:そう(笑)。ただ、『海街diary』の脚本と並行してこの作品も書いていたので、向こうは原作があり、僕がそこにどうコミットするかという作業だったし、あっちは背筋を伸ばして生きようとする人たちの物語だから、自分の中のバランス感覚として、こっちは背中を丸めた人たちの話をやりたいというのはあった気がします。樹木:あっちは憧れの美人女優がいっぱいいて背筋が伸びたっていう夢の映画作りで、こっちは(現実の世界に)密着した映画作りなの(笑)。――樹木さんは、作品ごとに監督を見ていて変化は感じますか?樹木:それは感じないけど、ただ、監督にも失敗作ってあるわけですよ。本人は「全部が代表作」とか言うかもしれないけど。是枝監督:言ってませんよ(笑)!樹木:私は「この作品はちょっと…」なんて文句を言うんですけど、ただ、そうは言っても、その都度、人間を見る目というのは成熟してるなと感じますね。上から目線ではなく、(登場人物たちの目線にまで)下がって一緒に生活しているというか。一緒に物を作っているという感覚が魅力的ですよね。――役者に対する接し方に関しては…樹木:それは最初から変わらず平等です。子どもだろうが、何十年やっている役者だろうが、態度が豹変することもない。それは人間として基本的なことだけど、そうじゃない監督、現場って多いから。そういう意味で信用が置けるんです。ただね、時々、私のような何十年もやってるに人間に遠慮がちなことがあるから、もっとズバっと言ってくれていいわね。この顔立ちじゃ、いくらいばっても偉そうになんて見えませんから。もっと大胆にね。是枝監督:なるべく子どもにも、橋爪(功)さんにも、希林さんにも同じように接したいと思ってるけど、それは希林さんがまさにそうですからね。誰にでも同じなんです。樹木:子どもと本気でケンカしてるから!是枝監督:全然、遠慮しないですから。かっこいいんです、それが。それがかっこいい大人なんだって、希林さんを見てると思います。――『歩いても 歩いても』と同じように昭和歌謡が出てきますが、最初の構想の段階から歌ありきで?それとも物語が先だったのでしょうか?是枝監督:歌ですね。樹木:好きなんですって、あの曲(テレサ・テン「別れの予感」)。私は初めて聞いたんだけど、なかなか覚えられなくて(苦笑)是枝監督:どこかのタイミングで、映画の中で一曲かけるってことを決めたんです。そことは全然関係ない、探偵のシーンから書き始めたんだけど、どうやってテレサ・テンにたどり着くのか?自分でも楽しみにしながら書いてました。樹木:へぇ、そんな書き方するのね?――監督の中で、そもそも昭和歌謡が好きというのが大きいんですね。ちなみに一番お好きな曲は?是枝監督:沢田研二かな(笑)?樹木:「壁ぎわに寝がえりうって背中できいている」って是枝監督:そう、やっぱり「勝手にしやがれ」ですかね。子どもの頃に見てかっこいいなって。かっこよかったんですよ、あの頃の沢田研二やショーケン(萩原健一)。子ども心に「色っぽいな」ってわかったんだよね。※余談だが、向田邦子脚本のTVドラマ「寺内貫太郎一家」で樹木さん演じる祖母が沢田研二の大ファンという設定で、壁のポスターに向かって「ジュリー!」と叫ぶ名シーンが!――ではあの当時のTVドラマなども?是枝監督:「前略おふくろ様」、「傷だらけの天使」(どちらも萩原健一主演)で育ってるからね。原点だね。――本作の中には、何気なく発せられるセリフに深い含蓄があります。子どもが口にする「フォアボールを狙ってる」や「パパはなりたいものになれた?」といった言葉にドキッとさせられたりします。脚本段階で樹木さんにあて書きしたということですが、樹木さんに「これを言ってほしい」という思いで書いたセリフなどはありますか?是枝監督:セリフありきではなく、書いていくうちに出てくるんですよね。だから最初から「このセリフを言ってほしい」というのはなかったかな…?ただ「みんながなりたかった大人になれるわけじゃない」というのは、阿部さんがどこかで言うと決めてました。でも、ジーンと来るような感じで言いたくないので、笑っちゃうようなシチュエーションでと決めてました。――あえて、あのひどいシチュエーションで…(笑)?樹木:それはね、そういうもんなの。いいセリフほどそうなのよ!是枝監督:あのセリフは、よくない状況で言わないと。樹木:「さあ、いいセリフを言うぞ!」ってわかってて言うのは…高倉健にしかできないわよ!是枝監督:あの状況はひどいでしょ?ひどいからいいんだよね。阿部さんが言った後、隣にいる池松(壮亮)が吹いちゃう(笑)。「お前がそれ言うか?」って感じで。あのシーン以外でも、希林さんが良いセリフを言った後で「私、いまいいこと言ったでしょ?」と言う。そこは崩さないと、本当にいいこと言ったと思っちゃうから。自分でいいことを言った後に崩すのが、あのお母さんの品なんだよね。樹木:品なのよ、そこは。余談だけど「寺内貫太郎一家」で(自身が演じた)ばあさんが、食べてる最中にグシュっとやったり、汚いことするの。でもそれをその中にいる人間が「きたねーな、ばあちゃん!」って言う。そう言わせないと、作品自体が下品になっちゃうのよ。中の人間に言わせて解決する。それが日常生活のシーンの鉄則なの。是枝監督:面白いですね。――逆に、監督ご自身が書いたセリフなのに、樹木さんが現場で発することで、イメージを超えたものになったシーンなどはありますか?樹木:それはないわよ。やっぱり台本の段階でしっかりと…是枝監督:ありますよ(笑)!孫が「宝くじが当たったら、またみんなで一緒に暮らしたい」と言うところ。書くときはサラッと書いたけど、お芝居でそのひと言が出てきたら、自分で書いたセリフなのに、ウッときたんだよね。樹木:へぇ…。是枝監督:それは、希林さんもそうなのか…あの映画の中のおばあちゃんもウッときてるんだよね。「こんな風にセリフが立つのか!」と思いました。孫はどこかでそれを信じたくて、でもおばあちゃんはそんなこと起きないってわかってる。でも、そのズレを孫に気づかせちゃいけないと思ってて、そうやって互いに間接的に思いやっている様子がすごくよかった。樹木:あれは孫のいる女優じゃなきゃできなかったかもしれないわね…。是枝監督:ああいうこと、あるんでしょうね。そんなに深く考えていない孫のひと言にグッときちゃうことが。――阿部さんが演じた良多は、これまでの是枝監督の作品の中でも、類を見ないほどのダメ男として突出しているように思います。監督の中でいつも以上に踏み込んだという意識は?是枝監督:ギリギリまで攻めてみようかと。樹木:ただ、私は「あそこまで」と特別なものとは感じなかったわね。もっとすごい人を周りでいっぱい見てきたし…。是枝監督:いろんなことを時代のせいにして、背中を丸めながら生きてる男。――ただ、そこまで特別な悪い男という思いは…是枝監督:なかったかな…。ひとつひとつの行動を撮りだすと、息子としても、父親としても、夫としても弟としてもダメなんだけど…。――子どもへのプレゼントを無理やり値切ろうとしたり…結構、サイテーですが…(苦笑)是枝監督:でもね、そこまではやるよ、きっと(笑)。樹木:誰でもそういうところ、持ってますよ。是枝監督:高校生から金をゆすろうとするのが、行為としては一番最低かもしれないけど…。無理やり値切ろうとするというのは、人間の“小ささ”としてはあるかな。樹木:ありますよ。――「悪さ」ではなく「小ささ」?是枝監督:そう、人間の小ささ!樹木:自分を見つめていけば、ある種の状況に置かれたら出てくるものですよ、みんな。是枝監督:でもね、そこは確かに難しいところでもあった。自分ならどこまで可能か?「あるな、これくらいは」と思えるのはどこまでか?すごく微妙なところで、女の人が見てどこまで許せて、どこから「ナシ」なのか?いや、そもそも「ナシ」なのはいけないのか?――せめぎあいが…是枝監督:阿部さんもそこは苦労してやってました。真木さんに触れるシーンで、最初脚本には「足首に触る」ってあったんです。阿部さんは「足首かぁ…」ってずっと言ってて「おれの体の大きさで、小柄な真木さんの足首に触るってどう見えるのかな?」って。考えた末に、ひざのあたりにスッと行ったんです。それが笑えるんだけど、足首だったらまた芝居が違ってたかもしれない。そこはすごく考えて、自分の役のキャラクター、大きさ、おかしみとか…ギリギリまで攻めたり、やめたりして面白かったです。――最後に「団地」について監督なりの想いを聞かせてください。是枝監督:どちらの想いもあるんですよね。「なりたいものになれなかった」哀感もあるし、でも、そこで20年を暮らして、団地は原風景でもあるから、無機質なものでは決してない。いろんな情感、表情、陰影があって、それをきちんと愛をもって撮りたかったんです。樹木:最初はね、団地に当選するってすごくラッキーだったわけですよ、当時。NHKのニュースになるくらい。団地に住むのが憧れの的だった時期もあったんですから。是枝監督:良い悪いってジャッジじゃないんですよね。小3の9月に引っ越してきて、台風が来て、家族で喜んだの(笑)。「今年はどんな大きいのが来ても、鉄筋コンクリートだから大丈夫だ」って。翌朝、台風が去って、外に出た時、すごくキレイだったんだよね。そういう読後感のある映画にしたかったんです。あそこであの母親は死んでいくんだろうし、息子があそこに戻ってくることはないだろうけど、それでも台風がやってきて、翌朝の芝生がキレイで…そういう映画がいいなって。(photo / text:Naoki Kurozu)
2016年05月20日歌手の及川光博(46)とDream Ami(27)が、19日スタートのTBS系音楽番組『Good Time Music』(毎週火曜24:10~24:55)で司会を務めることが決定し、東京・赤坂の同局で13日、初回収録を行った。同番組は、人生のあらゆる瞬間を"Good Time"に変えてくれる音楽を発進する音楽情報番組。毎回数組のアーティストをゲストに迎え、これまでの曲の歩みを、その曲が大好きだと公言する著名人たちのエピソードと共に紹介していく。初回はスキマスイッチとPUFFYが出演する。司会初挑戦の及川は「おしゃべりが長くなってもまとまらなくても、とにかくしゃべろう」とAmiに話しかけ、「構成や進行に縛られず、ミュージシャン同士としてのトークが弾めば」と期待。歌手デビュー20周年という節目での初挑戦について、「自分の可能性がまだ残されているのであれば一つ一つ実現していきたい。50代を前にして新たな及川の一面がこの番組で表現できたら」と話した。また、「若手アーティストが世に出る突破口になったらいいなと。自分も若い頃はメディアに出ていく一つ一つが大チャンスだったので、チャンスを若い子たちにプレゼントしてあげたい」との思いも伝えた。Amiは「いろんな音楽番組でMCの方たちに引き出してもらったり、話しやすい空気を作ってもらったりしたことを思い出し、自分がそれをやらないといけないと思ったときに責任重大だと思った」と言い、「大きなチャンス。精いっぱい自分なりのMCができたら」と意気込んだ。また、及川の印象について「王子さまのイメージが強かったけど、すごく気さくに『頑張ろうね』って言ってくださった。ミッチースマイルが光っていてテレビで見るまんまだと思った」と話すと、及川は「いちいちコメントがうまいよね」と関心。初回収録も緊張したというAmiに、「ちゃんとできてるよ」と声をかけた。2人はまた、人生を変えた曲について話し、及川は「昭和の歌謡曲、沢田研二さん。名曲ぞろいですけど存在自体。ロックンロールでありながら美しくあろうとする男性像に惹かれた」と説明。「今でも沢田研二さんをイメージしてハットを斜めにかぶる」と明かした。AmiはDreamの追加オーディションで課題曲だった「NIGHT OF FIRE」を挙げ、「芸能界入りするきっかけになった自分の転機となった曲。初心に帰るし、はずかしい気持ちになる」と語った。進行はTBSの笹川友里アナウンサーが務める。
2016年04月16日ギネスにも認定される国民的映画『男はつらいよ』シリーズ。今回、シリーズ48作に特別篇を加えた49作品が、12日1日(火)より「dTV」にて見放題独占配信されることが明らかとなった。誰もが元気になれる日本人の心の原風景を描き続け、現在まで幅広い世代から愛され続けている国民的人気シリーズ『男はつらいよ」。原作・脚本・監督を日本を代表する巨匠・山田洋次が手がけ、主人公・車寅二郎を演じる渥美清との名コンビで制作され、初公開から27年にわたり、全48作が公開。同一主演俳優による世界最長の映画シリーズとして、ギネス記録にも認定されるほど、世界でも愛され続けている。第1作において、渥美清演じる主人公"フーテンの寅"こと車寅次郎が、約20年ぶりに故郷の葛飾柴又に戻ってきたところから物語が始まり、以後、寅次郎の腹違いの妹・さくら、おいちゃん、おばちゃんらが集まるだんご屋を中心とした柴又と、寅次郎が訪れる日本各地で物語は展開。寅次郎の旅先の美しい風景もみどころのひとつだ。また、吉永小百合、浅丘ルリ子、竹下景子、三田佳子、後藤久美子など、寅二郎が恋に落ち、追いかけて旅をするその時代の魅力的なマドンナたちが出演するほか、沢田研二や永瀬正敏、小林幸子、長渕剛など豪華ゲストも多数登場し、物語に一層の魅力を与えている。今回決定した「dTV」独占配信では、1969年初公開された第1作から1995年に公開されたシリーズ全48作と特別篇を加えた49作を配信。また、「dTV」では『男はつらいよ』以外にも『幸福の黄色いハンカチ』や『東京家族』、『母べえ』など、山田監督の名作を多数配信。今月公開の吉永小百合主演『母と暮せば』や、来年3月公開の喜劇映画『家族はつらいよ』に向けて、この機会に思う存分山田監督ワールドを堪能してみて。「男はつらいよ」は12月1日(火)より「dTV」にて配信開始(全48作+特別篇)。(cinemacafe.net)
2015年12月01日東京都・渋谷の「PARCO GALLERY X」(渋谷パルコ パート1・B1F)にて、写真家・鋤田正義氏による写真展「鋤田正義写真展「競輪×人生」が開催される。会期は11月20日~12月6日。開場時間は10:00~21:00。入場無料。鋤田正義氏は、デヴィット・ボウイ、YMOなど数々の著名人のポートレートや広告を手がけたことで知られる写真家。パルコとの関係も深く、1979年にはパルコの企業広告に起用された沢田研二氏の撮影を、2012年には渋谷パルコを皮切りに全国のパルコを巡回した写真展「きれい」を開催している。そんな同氏が今回被写体として選んだのは「競輪」。同展では、テレビCM「競輪×人生」のディレクターでもある箭内道彦氏がアートディレクションを手がけた写真集「競輪×人生」から端を発し、写真集に収録されている作品を中心に構成。鋤田氏が写真集を作る際に最もこだわったという、細かい色味や風合いを間近で見られる内容となっている。なお、関連イベントとして、11月25日には、競輪愛好家として知られる友川カズキ氏と、テレビCM「競輪×人生」シリーズのディレクター・箭内道彦氏をゲストに招いたトークショーを開催(会場: 吉祥寺 “QUATTRO LABO)。そのほか、関連催事などは同展のWebページにて。
2015年11月10日マルチタレントのリリー・フランキーが主宰し、7月11日に東京・中野サンプラザで行われたライブイベント『ザンジバルナイト2015』の模様が、WOWOWで8月8日(20:00~)に放送される。このライブは、リリー・フランキーと、ミッツ・マングローブを総合司会に、"昭和の音楽番組"をイメージさせるステージセットで、生バンドの演奏に合わせて、アーティストたちがカバー曲とオリジナル曲を披露するというもの。Every Little Thingの持田香織が、堺正章の「さらば恋人」を歌ったり、三浦大知が沢田研二の「勝手にしやがれ」に合わせて登場するなど、第一線級のアーティストが、次々に昭和歌謡でパフォーマンスを繰り広げた。このほかにも、友近ふんする演歌歌手・水谷八重子が、松田聖子の「夏の扉」などを演歌調で歌い上げたり、ミッツ率いる3人組ユニット・星屑スキャットが、リリー作詞の「新宿スキャット」を見事なハーモニーで聞かせるも、リリーから歌詞の誤りを指摘されたり、持田がマキタスポーツとムード歌謡風衣装で「別れても好きな人」をデュエットしたりと、バラエティ豊かなラインナップで会場をわかせた。トリは、同イベント初出場の真心ブラザーズが務めたが、リリーは「『いやぁ、いつかザンジバルナイトに出たかったんですよ』って言ってくれて。でも、うそでしょう、それ(笑)」と素直に喜ばず、発言の本心を怪しんでいた。
2015年07月31日女優の深田恭子がミュージカル『100万回生きたねこ』で初舞台に挑戦する。6月29日、この作品の製作発表が開催され、W主役を務める成河(そんは)と深田が作品の魅力や意気込みを語った。ミュージカル「100万回生きたねこ」のチケット情報1977年の初版からロングセラーを重ね、累計刊行部数210万部を超える、佐野洋子原作の絵本『100万回生きたねこ』。ある時は王様に、ある時は泥棒にと、100万回生まれ変わり様々な飼い主に飼われながらも自分のことしか好きにならなかったとらねこが、ある時彼に見向きもしない1匹の白いねこに出会い、初めて愛情を知る物語。過去に沢田研二×山瀬まみ(1996年)、森山未來×満島ひかり(2013年)と上演を重ねてきた名作が今回、舞台のみならず近年は映像界にも着実に活動の場を広げている実力派俳優・成河と、人気女優・深田という期待の顔合わせで新たに生まれ変わる。主に映像の世界で活躍し、女優として第一線で活躍してきた深田だが、「(舞台は)なかなか踏み込めない世界で、そう簡単にはいかないものと思っていましたし、自分が舞台に立っている姿なんて想像もつきませんでした。きちんとお稽古をして、基礎から学びなおして、現場に挑みたい」と初舞台への思いを語る。プレッシャーは「ないわけではないです」と言いつつも、「映像の世界ですと、皆様にお届けするのが出来上がってから。舞台というのはその日、その時間に、わざわざ観に来てくださって出来るもの。(プレッシャーを)その温かさに変え、自分の励みにしたい」と前向きな気持ちでいる様子。演出を務めるのはイスラエルの演出家ユニット、インバル・ピント&アブシャロム・ポラック。深田は彼らが演出をした2013年公演を映像で観たとのことだが「ふたりが作り出すこの独特な世界観、そしてこの『100万回生きたねこ』というお話に一瞬で魅了されました。この役で初舞台が踏めるなら、本当に幸せなことだなと思います」と話す。成河も「ミュージカルではありますが、歌とダンスとお芝居がすごく自然に溶け合ってひとつの作品を作っている。ここまでのバランスのものは日本では観たことがない。すごく感動した」と作品への惚れ込みようを語った。この日の会見では、成河と深田による劇中歌『私のねこ』の披露も。オルガンや空き缶、おもちゃのピアノなどを使い、どこか懐かしくも可愛らしいナンバーを楽しそうに演奏し歌っていたふたりは、「常におもちゃ箱をひっくり返したみたいな楽しさがあるんですよ。そのなかにちょっと詩的な部分や哲学的な部分がある。すごく美しい舞台なんです」(成河)、「毎日自分でもピアノを弾きながら歌ったりするくらい、とにかくこの世界観が好き」(深田)とその魅力をアピールしていた。公演は8月15日(土)から30日(日)まで東京芸術劇場 プレイハウス、10月2日(金)から4日(日)まで大阪・シアターBRAVA!にて。チケットは発売中。ほか、金沢公演もあり。
2015年06月30日---------------------------------------------------------------------------初恋、初体験、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○初めての恋が、墓場まで続く「三つ子の魂百まで」という諺(ことわざ)がある。三歳児のときの性分は、百歳になるまで変わらない、といった意味だ。「What is learned in the cradle is carried to the tomb.(ゆりかごで身についたことは、墓場まで運ばれる)」という言い方もある。数えで三つは、満年齢で一、二歳。物心つく以前の「三つ子の魂」も、ゆりかごの中での出来事も、大人から授かった体系立った知識ではなく、自然とついた癖や、性分のようなもの。生まれる前から先天的に備わっているわけではないが、後天的と呼ぶほどのものでもない。たとえば誰かを特別に好もしく思ったとき、平たく言うと、恋愛感情を抱いたとき。私はいつもこの諺を思い出す。誰に教わったわけでもないのに、まだ恋も知らぬうちから、気づいたら既にそうだった、私だけの「好みのタイプ」がある。大抵は男性で、世に言う「男らしさ」に少し欠けている、あるいは、その手の固定観念から解き放たれている。しかも向こうは私が「好み」ではない。「私のことを何とも想っていない、男っぽくない男の子」というのが、三つ子の頃から、おそらく百まで希求してやまない、恋愛対象の基本形だ。理想が実像を伴ったのは、3歳11カ月の大晦日。特別に夜更かしを許されてNHK「紅白歌合戦」を観ていた私は、軍服を模した衣装でスモークとサーチライトの中を歌い踊る沢田研二に、初めての恋をした。特定の異性をかっこいいと感じたのは、それが初めてだ。歌詞の内容も聞き取れず、夢か現実かもわからなかったが、居間に鎮座するこのテレビという箱は「かっこいいものを映す装置」なのだと強烈に思い知った。以来、チャンネルを回しながらブラウン管に映る「かっこいいもの」を探した。1980年、名曲「TOKIO」発売から3週間後に東京で生を享けた私が、約4年かけてゆりかごの中で導いた結論は、「男は、化粧が濃ければ濃いほど、都会的でかっこいい」というものだった。以来、マッチョな益荒男に恋をしたためしがない。○忘れられない文化系メガネ男子4歳の春を迎えると近所の幼稚園に通いはじめ、私は驚愕の事実に直面する。年中組の教室には、ジュリーやYMOやデヴィッド・ボウイみたいな、アイシャドウが虹色にきらめく男子はいなかった。まぁ当然である。初めての集団生活で「好きな男の子はいるの?」と訊かれるたび、仏頂面で「ここにはいない」と答えていた。自慢じゃないが、当時の私は男によくモテたのだ。人生で最もリアルが充実していた時代だ。しかし、言い寄る男児たちは誰も彼もがイモくさく、ジュリーには程遠い。もっと電飾やパラシュートや袖のふくらんだシルクブラウスが似合いそうな、化粧を施せば妖しく大変身しそうな、美しい容貌の男はいないのか。よくよく教室を探してみると、これが一人だけ見つかった。Kくんは小柄で線が細く、肌の色が白く、髪質は柔らかで、いつも室内で絵本を読んでいた。運動会やお遊戯では目立たないが、その影の薄さがまた存在の透明感を高めている。たしか眼鏡も掛けていたと思う。あるいは記憶を都合よく捏造しているのだろうか。いずれにせよ、現在に至るまで私の「メガネ男子萌え」の原点にあるのは、この彼への憧れなのである。忘れられない出来事がある。同じクラスには、ジャイアンとブタゴリラを足して二で割ったような、典型的なガキ大将の男児がいた。彼らは室内でも戦隊ごっこやプロレスごっこをする。力任せに暴れ回るので、女児たちのおままごとテリトリーを平気で侵犯してくる。ガキ大将が級友を投げ飛ばしてくるたびに、女児たちは仕方なく場を譲り、逃げて行った先でまた新しくおとなしくおままごとを始める。あるとき、ままごとの民が祖国を追われてディアスポラ先に選んだのは、Kくんたちが読書やお絵描きなどの文化活動を営む一角だった。プロレス男子から逃げてきた我らままごと女子のリーダーが、「本日これよりこの土地は我々が領有するので、即刻明け渡すように」と一方的に通達した。教室内の力関係は「プロレス男子>ままごと女子>文化系男女」であり、強き者が弱き者からとことん奪い尽くすのが世の常だ。強奪と迫害の連鎖。Kくんたちが無言で絵本を片付けようとする姿を見て、私はままごと女子の一員として、どうにも我慢ならなかった。細かな経緯は忘れたが、気がついたらガキ大将の一派に殴り込みをかけて宣戦布告していたのだ。「貴様たちが所構わずドンパチ始めるせいで、我々のままごとスペースが蹂躙され、結果、Kくんたち罪もない人々までもが苦しめられている。これは教室内に平和を取り戻すための戦争である」というのがその理屈。愛する人が心穏やかに暮らす日常、その未来は私が守る。たとえこの手が血に染まっても構わない。それに、災厄を退ける勇猛果敢な姿を見れば、もしかしたらKくんが「かっこいい」私に惚れて、晴れて相思相愛になれるかもしれない。……当時は本気でそう思っていたのだ。我ながら、ルーシーとペパーミント・パティを足して二で割ったような、厄介な恋する女児だったと思う。もちろん園児のやることだから、最終的には好戦的な男女が入り乱れて、プロレスどころではない掴み合いの大乱闘。先生が仲裁に入る頃には、教室の隅で震えるKくんが私を見る目は、野獣に怯える小動物のそれになっていた。○私は最低、あなたは最高「三つ子の魂百まで」という諺がある。誰かに恋愛感情を抱いたとき、それがうまくいかなくなったとき、私はいつもこの諺を思い出す。狼狽と恐怖に顔を引きつらせた男。ためいき一つ残して去っていった男。「君には僕よりもっとふさわしい相手がいるはずだよ」と慰めてくれた男。Kくんに似たいろんな男を好きになり、彼らのように生きたい、彼らに似合う私でありたい、と思って行動してきたのに、どれもこれも実を結ばなかった。私がジュリーを好きになったように、彼らにも、私のことを好きになってもらいたかった。でも、その方法がわからなかった。好きでもないガキ大将の襟首を掴むことは簡単なのに、静かに絵本を読む彼らの眼鏡には、指一本、触れられなかった。私の汚れた手で乱暴に触ると、美しい彼らの存在が、はらはらと壊れてしまうかもしれないと思ったから。外に出て真っ黒に灼けるまで遊び、裏山の池で泥まみれになってザリガニを釣り、昆虫を捕まえようとして叩き潰し、時にガキ大将と掴み合いの喧嘩をしながら、私は「綺麗な男の子」が好きだった。Kくんだけは、真っ白のまま、穢したくないと思っていた。彼と、彼の住む世界にだけは、きちんとこの手を石鹸で洗って殺菌消毒してからでないと、触れてはならないと思っていた。これが私の「初恋」だ。Kくんの両親が営む歯科医院は今も我が家の近所にあり、帰省すると前を通ることもあるのだが、私は卒園後、彼と会ったことは一度もない。ひょっとしたら本当は、メガネ男子でも美少年でもなかったのかもしれない。それでもいい。私の記憶の中でだけ、彼はずっと「綺麗な男の子」であり続ける。彼があの綺麗な彼のまま、この地球のどこかに存在し続けていてくれたら、私はそれだけで生きていける。卒園の頃になって、母親が好きでよく聴いていた荒井由実「卒業写真」の歌詞を、完璧に理解できた瞬間がある。「変わってゆく私を、あなたは時々、遠くで叱って」とお願いしたくなる男の子。その最初は、Kくんだった。二度と会えなくても、思い出すだけで、汚れた手を石鹸で洗いたくなる男の子。そんな気持ちをこんなふうに歌えるユーミンは、天才だなと思った。思い出の中で白く綺麗に光り輝き、すでに顔もぼやけてしまったKくんの存在は、特定の宗教をもたない私にとって、もはや恋愛というより信仰の対象に近い。○「よそはよそ、うちはうち」幼稚園や保育園というのは、同世代の子供と初めての共同生活を送る場所だ。同じ家庭に育つきょうだいとはまた別の意味で、自分と他者との「違い」に気づかされる場所でもある。生まれが違う、育ちが違う、家庭環境次第で性格や倫理観も違う。もっと言えば、親の経済力によって金銭感覚が、学歴や職歴によって向学心が、その他、人生におけるさまざまな価値観が、すでにして決定的に違うのだ。運転手つきの黒塗りのクルマで送り迎えされているご令嬢もいたし、幹線道路を一人で渡って雨漏りのするボロ屋へ帰る私のような園児もいた。親が「お受験」させるために遠方から越境してくる子もいたが、女の子はいい学校へ行くと嫁の貰い手がなくなる、とのたまう父兄もいた。我が子には有害な食材を与えないと徹底する親もいて、私が園庭の蛇口から水を飲んだら白い眼で見られたこともある。小さな「違い」が積み重なると反発が起きる。そもそもなぜ、私たちはここにいるのだろうか。ただ年齢が同じで家が近所だったというだけで、一緒に狭い空間に閉じ込められ、つねに比較されながら『幼馴染』と呼ばれるなんて、たまったもんじゃないぜ……その後の学校生活でもさんざん味わう羽目になる、あの感情が最初に芽生えたのも、幼稚園でのことだった。しかし一方で、級友たちとの間に「違い」があって初めて、私は自分自身の「欲望」を具体的に知るようにもなった。あの子のお家はリビングの照明がお城みたいなシャンデリア、私もお金持ちの家に生まれたかった。あの子のママが作るお弁当はいつもとっても美味しそう、私も料理上手のママが欲しかった。Kくんは色が白くて目鼻立ちが整っていて理知的で物静かで上品で、見惚れるほどかっこいい。私もKくんみたいになりたい、Kくんに似合う女の子でいたい。でも、できない。きょうだいと一つのオモチャを奪い合うのとは意味合いが異なり、もっと広い意味で「自分にはないもの」を求めるようになった。「差」のあるところに「欲望」が生まれる。その欲望は、満たされないほど燃え上がる。それが愛でも、憎悪でも、「自分にはないもの」への荒ぶる気持ちを鎮めて飼い馴らすのは本当に難しい。そういえばスイス人の血を引く級友がいて、彼女はそれだけのことでいじめられていた。みんな童話の絵本で見た金髪碧眼のプリンセスには憧れてなりたがっていたのに、すぐ横にいる色素の薄い彼女のことは「違う」子として泣かせてばかりいた。私だって、我がものにならないKくんを、いつ傷つける側に回っていたともしれない。「三つ子の魂百まで」という諺を思い出す。他の誰かを羨むたびに、両親からさんざん聞かされた「よそはよそ、うちはうち」という言葉とともに。世の中から「違い」をなくそう、と言う政治家や教育者もいるだろう。でも私たちは、まず「違い」を知らなければ、「今とは違う自分になりたい」と願うようにもならない。格差と不満に気づいて己の「欲望」を正しく知ることは、それはそれで大事なことと思うのだ。人は、誰に教えられるわけでもなく「自分にはないもの」に惹かれる。これは、ゆりかごの中で身につけた習性なのかもしれない。どんなにきれいに石鹸で手を洗っても、実際にはほとんどが手に入らない。フラレる前に終わった失恋。よそはよそ、彼は彼、私にないものをいくら欲しても、そのまま望む通りには得られないのだと思い知った、初めての「節目」は、4歳の恋だった。ちなみに私、今までの人生で「一目惚れした相手がゲイ男性だった」という確率が非常に高い。三つ子の頃から「私のことを何とも想っていない、化粧映えする綺麗な男子」ばかりを選んでいるのだから、当然といえば当然なのだが……もちろんいずれも、フラレる前に消える恋だ。きっと百まで、墓場まで、この調子なのだと思う。<今回の住まい<私が生まれ育った街は幹線道路を挟んで貧富の差が激しく、「富」の地区には有名芸能人の豪邸なども立ち並んでいた。幼稚園のクラスメイトのお屋敷に招かれると、天井が高く煌びやかな装飾で、グランドピアノが一台置いてあるだけの広大な空間があった。今は何にも使っていないの、と言われたそこが「ボールルーム」の名残だと気づくのは、大人になってからである。私は「貧」地区の出身です。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2014年10月03日11月19日(月)に東京・中野サンプラザホールにて「瞳みのる・森本タローライブ」が開催される。【公演情報はこちら】瞳みのると森本タローはともにザ・タイガースのメンバーとして活躍。ザ・タイガースは1971年1月24日、日本武道館での「ザ・タイガースビューティフルコンサート」を最後に、その活動を休止し、グループを解散。以来、瞳みのるは芸能界から去り、メンバーとの絶縁は2008年の年末の再開まで、38年にも及んだ。その後「沢田研二ライブツアー2011」のゲスト出演を経て、再びドラムスティックを握ったPEEこと瞳みのると、現在はバンド「森本タローとスーパースター」で音楽ばかりでなく、ファンを守り続けているタローの2人が、今なお変わらぬファンの声援に応えるライブが今回の公演。少年時代よりその行動を共にした二人の間で、タイトルは竹馬の友を意味する「Childhood Friend」に決まった。40年のブランクを感じさせないステージ、気になる方はご確認を。チケットは発売中。
2012年11月06日Facebookをはじめ、ビジネスでSNSを利用する人も多い昨今。しかし、現実世界にだって、ビジネスに役立つネットワークづくりの場があるのです!それが新宿ゴールデン街。日々あらゆる人種が集い、数々の伝説・逸話を持つこの街には、ネットじゃ拾えないレアな情報・人脈がてんこ盛りです。時代が変わり、昔ながらの怪しくディープな空気は残しつつも安全になったこの街で、今こそ、"リアルSNS"デビューを!戦後の闇市に端を発する、アヤシさ目一杯の新宿ゴールデン街。かつて赤塚不二男が、タモリが、沢田研二が、そして今でもあまたの文壇、マスコミ関係者、芸能人が集います。そんな伝説の飲み屋街は新宿駅からわずか8分。歌舞伎町1丁目にあります。映画のセットみたいな古い佇(たたず)まいはそのままに、今では健全なお店が多数。そんな中から、今回は仕事で使えそうな3店をご紹介します。■昔懐かしいアナタの青春が聴ける!『音盤酒場 青春』小さな扉を入ると、まるで屋根裏部屋に続くような狭く急な階段。そしてカウンターには、積み重なったレコードの山!そう、『音盤酒場 青春』さんはアナログ盤が聴けるお店です。歌謡曲を中心に、なんと4,000枚もあるとか。多感な時代に聞いたあの曲を聴けば、まさにその人の「青春」がよみがえるというわけです。「接待利用も多いですね。銀座とかには行き飽きたけど、ゴールデン街は初めてという取引先の方と来られたり」(マスター)初ゴールデン街で昔懐かしの曲。なるほど、このシチュエーションなら、接待慣れした相手も大満足でしょう。もちろんリクエストもOK。レコード世代以外に、古き良き日本の名曲にハマった若いお客さんも多いそうです。「単純にいい曲を来世へ残したいという思いだけですが、実際、いい歌は時代によらず、若い人たちにも受け入れられていますね」■貴重なネタと大人の振る舞いを授かる!『ガルシア』演劇・映画・音楽関係者に雑誌編集者、さらに看護師、東大教授、キックボクシングジム講師、シロアリ駆除会社社長などなど、経験上、驚くほどいろんな業界の人に出会えるお店、それが『ガルシア』さんです。「意識していませんけど、確かにいろんな方が来てくれますね」と店主のかなえさん。彼女は舞台女優としても活動しています。この店では、下手すれば一生出会うことはない方たちに出会えるのですから、貴重な体験も多々生まれます。ある落語家さんと出会って、初めて寄席を見に行ったり、写真週刊誌の編集者に福島原発事故の壮絶にリアルなお話を聞いたり……。同じ場にいた常連の会社員の方は、「営業先や友人に話したら、みんな興味津々でした!」と後日談を語ってくれました。さまざまな業種の方たちとのトークできるので、話のネタを仕入れるだけでなく、リアルな人脈が広がっていきます。さらに、今回取材した中で一番狭い店内では、社会人力も養われます。「お酒の飲み方って、それ自体がコミュニケーションだと思うんです。特にウチみたいに狭いお店だとお互いに気を遣い、込んできたら『どうぞ』と席をつめたり、みんなの会話の流れを読んだり。そういうカッコいい大人の振る舞いも身に付く場所だと思いますね」(かなえさん)■ステキな出遭いもアリそな予感!『Heavy Gauge』BAR『Heavy Gauge』は、ロックな雰囲気が最高にCOOL!なお店です。マスターの成瀬さんは、少年っぽい空気と大人の落ち着きを併せ持つ魅力的なキャラクターで、ライブハウスで活動するシンガー・ソングライターとしての顔も。そして同店のミリョクのひとつは、男女の出会いの場だと思います。「ウチの店というか、ゴールデン街自体がそうじゃないですかね。やっぱり、飲みに来て、お店の人やお客さんと、初対面でも自然に話せる空気がありますから。この店で初めて出会って結婚した方や、僕のライブを見に来て出会った女性と付き合ってる人も、確かにいますね」(成瀬さん)そう話す成瀬さんも奥さんと知り合ったのはこの街だったとか。お店での取材中、一人で飲みに来ていた女性に話をうかがいました。「ゴールデン街って、何か起こりそうな雰囲気がするんですよ。それに女性一人でも安心して入れるココみたいなお店があるから、つい来ちゃいますね」ディープでリアルなゴールデン街ならではのネットワークづくりとスキルアップ。うまく活用すれば、ビジネスだけでなく、一人の大人としても差がつくこと間違いなしです!(OFFICE-SANGA 岩井浩)
2012年10月17日1975年5月5日『白い部屋』から1990年2月21日『DOWN』まで、全102回に及ぶ『夜のヒットスタジオ』出演時の映像を収録したDVD『沢田研二 in 夜のヒットスタジオ』が、12月21日(水)にリリースされる。沢田研二の公演情報『危険なふたり』『LOVE』『カサブランカダンディ』『TOKIO』『ス・ト・リ・ッ・パー』『時の過ぎゆくままに』『勝手にしやがれ』『憎みきれないろくでなし』『サムライ』などのヒット曲をはじめ、『夜のヒットスタジオ』恒例のオープニングメドレー歌唱シーンも含んだ豪華6枚組約589分。『沢田研二 in 夜のヒットスタジオ』12月21日(水)発売26250円DISC別収録曲【DISC-11975~1977】白い部屋巴里にひとり時の過ぎゆくままに立ちどまるなふりむくなウィンクでさよならコバルトの季節の中でさよならをいう気もない勝手にしやがれ【DISC-21977~1978】憎みきれないろくでなしMY WAY危険なふたり勝手にしやがれサムライダーリング【DISC-31978~1979】LOVE(抱きしめたい)カサブランカダンディOH !ギャルロンリーウルフ【DISC-41979~1981】カサブランカダンディOH !ギャルロンリーウルフTOKIO恋のバッドチューニング酒場でDABADAおまえがパラダイスバイバイジェラシース・ト・リ・ッ・パー【DISC-51982~1985】麗人おまえにチェック・イン6番目のユウウツ背中まで45分晴れのちBLUE BOYきめてやる今夜どん底渡り鳥はぐれ鳥はるかに遠い夢灰とダイヤモンド絹の部屋指【DISC-61986~1990】アリフ・ライラ・ウィ・ライラ時の過ぎゆくままに夢を語れる相手がいればヴォラーレホワイトルーム -White Room-スタンド・バイ・ミー -STAND BY ME-闇舞踏無宿女神やさしく愛してきわどい季節チャンスTRUE BLUESTRANGER-ONLY TONIGHT-ポラロイドGIRLDOWN
2011年12月07日台湾出身の人気ユニット・F4のヴィック・チョウが主演する映画『一万年愛してる(原題:愛〔イ尓〕一萬年)』が、2012年1月より日本で劇場公開されることが決定した。さらに、同4日(水)に東京・シネマート新宿にて特別上映会も行われ、ヴィック・チョウと加藤侑紀が舞台挨拶に登壇する。ヴィック・チョウの公演チケット情報同作は、ロックバンドを組んでいる台湾人の若者・奇峰(チーファン/ヴィック・チョウ)と、恋人のプロポーズを断って、日本を飛び出し台湾にやってきた橘子(みかん/加藤侑紀)が出会い、3か月限定で付き合うことになった男女のラブ・コメディ。台湾在住の日本人監督・北村豊晴の長編デビュー作で、日本の滋賀県でも撮影された。タイトルの『愛〔イ尓〕一萬年』は、奇峰が歌う曲のタイトルで、沢田研二の楽曲『時の過ぎゆくままに』をカバーした。また、同作の公開を記念し、3日(火)に東京・渋谷公会堂にて、ヴィック・チョウにとって1年ぶりとなるファンミーティング「WILL YOU STILL LOVE ME IN 2012?」を開催する。ヴィック・チョウと加藤侑紀が出演し、映画にちなんだ恋愛に関するプログラムが行われる。『一万年愛してる』は、2012年1月5日(木)より東京・オーディトリウム渋谷にて公開。なお、特別上映会のチケットとファンミーティングのチケットは、インターネット先行抽選「プレリザーブ」をチケットぴあにて受付を予定。
2011年11月16日アカデミー賞2部門を受賞した『リトル・ミス・サンシャイン』のプロデュースチームが再び集結し、全米で大ヒットを記録した家族ドラマ『サンシャイン・クリーニング』の公開を目前にして、スペシャル試写会イベントが7月2日(木)に行われた。サプライズゲストに映画の応援隊長として吉本興業の人気芸人、平成ノブシコブシ(徳井健太・吉村崇)とはんにゃ(川島章良・金田哲)が映画のストーリーにある清掃員のコスチュームを身にまとい、試写会場を掃除しに登壇。映画に絡めた面白トークを繰り広げ、立ち見が出るほどの観客でいっぱいの劇場は歓声と笑い声に沸いた。映画を観て「心の葛藤に共感した」というはんにゃの金田さん。主演の2人が「ダメ姉妹」ということで、「ダメな女性」についてどう思うか?と質問されると「ぶっちゃけちゃっていいですか?ダメな女性、いいと思いますよー。ダメでもがんばっていたらいいですねー」と金田節で主張。相方の川島さんも「僕より天然な人が好きなんですよ」と、“ダメ女性好き”に共感すると、平成ノブシコブシの徳井さんは、「ダメなところを補ってあげたいなって思わされますよね。守ってあげたいなって。意外にしっかりした人のほうが少ないと思いますよ。完璧な人なんてね、いないでしょ」と真面目にフォローした。次に、劇中ちょっと変わったキャラクターの家族が登場することに因んで、「みなさんの家族の中で変わった方はいますか?」と話が展開すると、「僕のお母さんは僕より天然ですからね。実家に帰ったりすると、『牛乳とミルクどっちにする?』って聞かれるんですけど、一緒だろー!みたいなね。でも僕には分かるんですよ。牛乳が冷たくて、ミルクが温かいやつって(笑)」(川島さん)、「僕のお父さんは僕の給食費を使って、パチンコ行ってましたからね。給食費を使って、景品で皮ジャン獲って帰ってくるんですよ」(徳井さん)とそれぞれ変わった家族ぶりを告白。対して金田さんは「僕のは本当に真面目な家族なんですよ!」とアピールし、ほかの3人からも「本当に金田のところは良い家族」とのコメントを受けると、「すごいんだぜ!」と再び強調して観客の笑いを誘った。最後に、映画の中には事件現場の清掃員という一風変わった職業が出てくることに対して、“変わったアルバイト経験”について聞かれると、「いろんなキオスクに朝方に新聞を届ける仕事していました。本当に肉体労働で、それでだいぶマッチョになりましたもん」と会場を笑わせた金田さんをはじめ、「僕はね、『しゃけ弁当がいいですか?焼き肉弁当がいいですか?』って聞くだけで1万5,000円貰える、本当ただそれだけのバイトしてました」(川島さん)、「僕は某有名遊園地の裏側で電気が通ってるかチェックしてました。イエス・ノー・イエスー・ノーOK!ってね」(徳井さん)、「僕はね、コンビニでバイトしていたんですけど、歌手の沢田研二さんがそのコンビニに来て、棚に並んでいるサラダを全部買っていったんですよ。だいぶサラダ好きですよ、あの人。それで僕、その後『あの人はサラダ研二だ』って叫んだら、その次の週からシフトが減りましたよ」(吉村さん)と各々の経験を披露した。『サンシャイン・クリーニング』は7月11日(土)より渋谷シネクイント、TOHOシネマズ シャンテほか全国にて公開。■関連作品:サンシャイン・クリーニング 2009年7月11日より渋谷シネクイント、TOHOシネマズシャンテほか全国にて公開©2008 Big Beach LLC.
2009年07月03日