OL兼漫画家として唯一無二の作風で活躍するカレー沢薫さんの連載コラム登場!徹底した猫至上主義の価値観で考える「猫と男」とは?その辺のダメ男に引っかかっている女性陣。出会いがないと嘆いているあなた。猫の前では男なんて無価値かも?■第1回「猫を飼っている男の特徴」このコラムのテーマは「猫と男」だ。おそらくこのコラムを読んでいる3人中5億人が「男いらなくね?」と思っただろう。そもそも唯一神である猫(以下おキャット様)と人間如きを同列に語ろうというのが間違っているので正式なタイトルは「猫>>>>>>>>>>>越えられない壁>>男」であり、略して「猫と男」だ。「と」はどこから来た、という話は置いておいて、ならおキャット様の話だけすればいいと思われるかもしれないが、まずはこのサイトの全貌を見て欲しい。「男、女、結婚、恋愛」以外の話は許さないという雰囲気だ。それでもおキャット様の話をするために、男という蛇足を付けざるを得なかったのだ、どうか許して欲しい(今のはおキャット様への謝罪であり貴様らに謝ったわけではない)。まず第一回目のテーマは「猫を飼っている男の特徴」だ。別に、考え得る限りでもっともつまらないテーマを選んだわけではない、やる気はあるのだ。まず猫を飼っている男の特徴だが、例外なく言えるのは「いい奴」である。これは「猫ちゃん好きに悪い人はいないょ」という虫歯になりそうな思想ではない、おキャット様を飼う、という重責を担う男が悪かったら困るからだ、だから例外なくいい奴でなくてはならない、これは義務だ。しかし、ここで言ういい奴、というのは人間的にという意味ではないし間違っても「女にとっていい男」という意味ではない。女を風呂に沈めた金で、おキャット様にカナガンのキャットフードを献上しているとしたらそれは「いい男」である。よって猫を飼っている男は例外なくイイ奴なので、女性は安心してつきあい、どんどん貢いで、おキャット様が三食シーバプレミオを食えるようにしていただきたい。猫を飼っている男がいい奴だということはわかったが、ではその性格はどういったものだろう。さっそく「猫好き男特徴」とインターネットに聞いてみた。もちろん「○○だから●●」と断言できることなどほぼないため、薄らぼんやりとした情報しか得られなかったが、一番多かったのは「猫好き男は性格も猫系」というものだった。勘違いされては困るが、おキャット様の性格というのはおキャット様にしか許されない、人間がまねをしたら万死に値する。そもそも猫系の性格とはなんだというと「自由でマイペース」ということである。確かにそういう性格の人間は男女問わずにいるが、少なくともペットを飼う以上ペットに対してだけはキッチリした性格でないと困る、日頃からおキャット様に対し細やかなケアを行い万が一体調を崩されていたら速やかに病院へ連れて行かなければならない。逆に言えば、それ以外に対してはマイペースで構わない、手作り弁当を持ってきた女を前にドミノピザに電話をかけるぐらい自由でいい、許す。つまり、猫飼い男と付き合うときは、自分よりおキャット様を優先されても「それが当然」と思えなければいけないのである。プロフィールカレー沢薫OLであり漫画家、コラムニスト。1982年生まれ。2009年に『クレムリン』(講談社)で漫画家デビューを飾る。秀逸な言語感覚で繰り広げられる切れ味鋭い世界観が人気。こよなく猫を愛し、猫が登場する作品も多数。最新著作『ブスの本懐』(太田出版)を2016年11月16日に発売。
2016年12月22日アジア各国でも旋風を巻き起こす「深夜食堂」の劇場版第2弾『続・深夜食堂』の公開記念舞台挨拶が11月24日(木)、都内で行われ、主演の小林薫をはじめ、安藤玉恵、宇野祥平、金子清文、須藤理彩、小林麻子、吉本菜穂子、オダギリジョー、松岡錠司監督が登壇した。安倍夜郎の人気漫画を原作に、ドラマ、動画配信、映画と世界観を広げる人気シリーズ。新宿ゴールデン街を思わせる繁華街の路地裏で、経歴も年齢も不詳なマスター(小林さん)が佇む深夜営業の食堂「めしや」を舞台に、夜な夜な集まる個性豊かな客たちが、悲喜こもごもの人生を交錯させる。この日はステージ上に、撮影で使われた「めしや」の実物のれんが設置されたり、写真撮影時に登壇者全員がビールピッチャーを手にしたりと、映画のヒットを祝う演出が施された。公開3週目も好調をキープしており、主演の小林さんは「トランプさんが大統領になったり、重大な事件もあるなかで、自分の息子や彼女の話、過去のあやまちが棘のように刺さった市井の人たちのドラマこそ、共感してもらえるのだと思う」とヒットの理由を分析。ステージ端に立つ松岡監督に視線を送り、「第2作目というプレッシャーのなかで、細やかな部分にも気を配っていた。松岡監督は良くも悪くも、評判が良いといい気になるから、立ち振る舞いを心配するところもあるんですけど(笑)。でも、今回に限っては調子に乗るのもいいんじゃないかなと」を苦言(?)をこめて、労をねぎらった。当の松岡監督は「そういうの、いいから」と照れ笑いを浮かべ、「日本独自の話を作っているつもりですけど、言語も食文化も違うアジア圏で評価が高いのはうれしいですね」と手応えは十分。「映画が始まって割と早めから、お腹が鳴ると思いますが、皆さん同じ現象だと思うので、気になさらないで」と“飯テロ”を警告していた。「実は今日、二日酔いなんです」と告白したのは、オダギリさん。今週末には松岡監督とともに、台湾キャンペーンに出かけることになっており、主演の小林さんは「いま、初めて聞いた」とうらやましそうに話していた。『続・深夜食堂』は全国にて公開中。(text:cinemacafe.net)■関連作品:続・深夜食堂 2016年11月5日より全国にて公開(C) 2016 安倍夜郎・小学館/「続・深夜食堂」製作委員会
2016年11月25日今月1日に入籍した柔道の松本薫選手が、きょう7日(21:00~21:54)に放送される日本テレビ系バラエティ特番『くりぃむしちゅーの!THE★LEGEND最強レジェンドが集結 超ぶっちゃけSP』に出演し、試合前は夫の前でも「女性を捨てている」と明かす。試合前に集中する姿が"野獣"と呼ばれる松本選手だが、その"野獣モード"に入ったときは、夫となった1学年上の彼の前でも「女性を捨てている」と告白。さらに、「彼は試合前は(自分との距離を)半径30㎝は絶対に空けます」と、ストイックになる様子を語る。今回の番組では、そんな松本選手が恋愛について語る場面もあり、恋愛になるとどのような雰囲気になるのか、スタジオは興味津々。レスリングの吉田沙保里選手から「自分だけ幸せになりやがって!」と責められる。番組ではほかにも、登坂絵莉選手をはじめとするレスリング女子日本代表の寮へ潜入。リオ五輪金メダリスト土性沙羅選手の部屋は漫画だらけ、川井梨紗子選手の部屋はピアスなど女性らしいものが飾られている。この女子寮では、恋愛トークにも花が咲くといい、土性選手は「今年は今までで一番最高の彼氏が欲しい」と宣言する。吉田沙保里選手は、この寮から巣立っているため、後輩選手たちは「食レポが下手」「早くお嫁に行ってほしい」などと吉田への不満を爆発。しかし、そのVTRが終わったところで、吉田選手がスタジオに現れる。
2016年11月07日「ぴあ」調査による2016年11月3日、4日、5日のぴあ映画初日満足度ランキングは、小林薫主演の人間ドラマ『続・深夜食堂』がトップに輝いた。その他の画像『深夜食堂』は、安倍夜郎の人気コミックを基に、路地裏にひっそりとたたずむ“めしや”に訪れる人々の悲喜こもごもを描いた作品。2009年にスタートしたTVドラマは第3部まで放送され、2015年には劇場版1作目も公開された人気シリーズだ。劇場には「TVドラマからすべて観ている」というファンが多く来場。出口調査では「いい意味でいつも通り。期待を裏切らない作品」「ほっとする映画」「人間味あるエピソードが心地よい」「キャスト全員に味があり、しみじみできた」「今後もシリーズを続けてほしい」といった声が聞かれ、シリーズ最新作もファン納得の仕上がりとなったようだ。長く愛され、多くのファンを獲得している本シリーズは、観客に“安心”や“癒し”を与える人情味あふれるストーリーはもちろん、小林扮する“めしや”のマスターが作る、数々の料理も見どころのひとつになっている。観客からは「おいしいものが食べたくなった」「食事がとてもおいしそうで、五感に訴えかけられた」といったコメントも寄せられた。なお、満足度ランキングは、実話を基に、閉園の危機を迎えた幼稚園の再生に挑む園長先生の奮闘を描いた『小さな園の大きな奇跡』が2位に、戦うために生まれてきた少年少女の死闘を描くロボットアニメ『劇場版マジェスティックプリンス 覚醒の遺伝子』が3位に入っている。(本ランキングは、11/3(木)、4(金)、5(土)に公開された新作映画13本を対象に、ぴあ編集部による映画館前での出口調査によるもの)『続・深夜食堂』公開中
2016年11月07日俳優の小林薫が10月3日(月)、都内で行われた『続・深夜食堂』の完成披露試写会に出席。国内を飛び越え、アジアでも人気を博す「深夜食堂」の根強い人気について、「うれしいけど予想外」と語り、「可能性はまだまだある」とさらなる飛躍に期待を寄せた。新宿ゴールデン街を思わせる繁華街の路地裏に、ひっそりと佇む深夜営業の食堂「めしや」を舞台に、夜な夜な集まる個性豊かな客たちが、悲喜こもごもの人生を交錯させる。安倍夜郎の人気漫画をドラマ化し、続く映画『深夜食堂』は全国80館ながら、興収2.5億円、動員数20万人超を記録。さらに中国、韓国、台湾でも人気を集め、アジア各国で一大ブームを巻き起こした。食堂のマスターを演じる小林さんは、「ドラマの4作目も含めて、こんなに続くと思っておりませんでした。めでたく映画の2作目が完成し、グレードアップした『深夜食堂』の味わいが繰り広げられている。お店もお料理も主役です」と駆けつけたファンにアピールした。完成披露試写会には小林さんをはじめ、河井青葉、小島聖、キムラ緑子、渡辺美佐子、多部未華子、不破万作、安藤玉恵、金子清文、須藤理彩、小林麻子、光石研、松岡錠司監督がズラリ勢ぞろい。前作映画にゲスト出演し、本作では常連客として登場する多部さんは、「取材を受けると、『レギュラーとして』と言われるんですが、まだ慣れないし、恥ずかしいですね」と照れ笑い。一方、ドラマシリーズでおなじみの常連客を演じる光石さんは、「現場に行けば薫さんや監督がいらっしゃって、『また帰ってこられたな』とホッとします」と喜びをかみしめていた。『続・深夜食堂』は11月5日(土)より全国にて公開。(text:cinemacafe.net)■関連作品:続・深夜食堂 2016年11月5日より全国にて公開(C) 2016 安倍夜郎・小学館/「続・深夜食堂」製作委員会
2016年10月03日誰にも言えない、けれど誰かに言いたい、そんな内緒の悩みやモヤモヤ、しょうもないグチからやりきれないつらさまで、穴を掘ってこっそり叫んでみたい気持ちを発散する、「感情の吹きだまり」……。そんな場所がこのコーナーです。あなたのやるせない気持ちを、安心してブチまけてみませんか?雨宮まみが聞き手をつとめます。長文の投稿歓迎いたします。(喪ブス/30代前半/女性)雨宮さん、こんにちは。私は30代で女なのにファッションに興味がいまいち持てず、正しい服装がわかりません。若い頃、ファッション雑誌を買ってみたものの当たり前ですが雑誌に載ってるのは可愛い子やきれいな子ばかりで躊躇してしまい、出てくる服も高い服ばかりでどこをどう見ればいいのかわからずそのまま買うのを止めてしまいました。私はブスなので、ブスだからこそ服装に気を遣わなければいけないとは思うのですが、上手く言えないんですけどブスは何をやってもブスなんじゃないかと諦めてしまう気持ちがあるんです。アク○ーズとか、ヲタ女がよく着る痛いブランドとして有名ですけど、それでも可愛い服を着よう、おしゃれをしなきゃっていう気持ちがあるので私よりマシだと思います。私は無難な格好に、よく街にいる格好に見えるかなと思い、ユニクロやイオンの服を着るのですが、ネット上ではそういう服は「本当にヤバイ勢」の服として紹介されていて、ファッションに興味がわかない自分のせいだとはわかっているのですが、なんだかもやもやしてしまいました。こういう俯瞰視点の分析を見ると私のようなブスにとって正しい服装が何なのかわからなくなります。あーあ、ブス専用の雑誌出てほしいなーってのが本音です。(※投稿内容を一部、読みやすいように編集させていただきました。)服の話ですから、それにまつわるカクテルでもお出ししましょうか。シルクストッキングというテキーラベースのカクテルです。甘いので、強いわりに飲みやすいんですよ。まずはこれを優雅に飲み干していただいて、そこから始めましょうか。人に嘲笑されるのって、怖いことですよね。「あんな顔であんな服着てるの?」「あんなトシであんな服着てるの?」って言われることをまったくおそれない人のほうが、多分少ないでしょう。けっこう派手な服をいいトシして着ている私でも「さすがにこれは……」と思ってしまうことはあります。でも、すごい呼びづらいペンネームですけど、喪ブスさんは自分が何を着たいかというよりは、少しでも周りの人に不快感を与えないようにしたい、というところが出発点なんですよね。自分が何を着たいか、とか、おしゃれをしたい、とかじゃなくて、そもそもファッションにあまり興味がないんだけど、自分に合った服装で、違和感や変な印象を与えない状態になりたいということだと解釈しております。若い頃に雑誌を買ったことがある、ということですが、今の雑誌にはユニクロなどのファストファッションだけで垢抜けて見えるコーディネートや、それこそ普通に見えて周りから浮かない小ぎれいな安い服の特集などもバンバン載ってます。モード系の雑誌にはそりゃ高い服が載ってますけど、この不況時代に即した雑誌がちゃんとあります。汚れてなくて清潔で、カジュアルすぎない服装であれば、仕事の場でも大丈夫でしょうし、相手に不快感を与えることはまずないと思います。ユニクロでも全然いいはずというか、私もユニクロ着てますが(商品名もカタログもだいたい把握してるほど詳しいです)、どちらかというときちんと見せたいときに着ることのほうが多いです。シンプルな服のほうがきちんと見えるんですよね……。で、気になるところなんですが、「私はブスなので、ブスだからこそ服装に気を遣わなければいけないとは思うのですが、上手く言えないんですけどブスは何をやってもブスなんじゃないかと諦めてしまう気持ちがあるんです」。ここです。これ、呪縛ですよね。私も20代の頃はこの呪いにかかってました。ありとあらゆるタイプの服を着てみても、結局、服は良くても、全然自分自身はアガって見えないじゃん、と、それまで買った服が全部無駄だったような気がして落ち込んだりもしてました。ギャル服に走ってみたり、コンサバに行ってみたり、どれもなんかしっくり来ないし、変でした。なんとかちゃんと見えるように、と、飢えてでもいるかのように服を買ってました。でも、ブスだからこそ服装に気を遣わなければなんて思う必要もないし、ブスは何をやってもブスなんてこともないです。そんなの全部思い込みだし、嘘です。謙虚すぎるがゆえに自分の可能性を封じ込めてるだけです。「一週間がんばってみたけど何も変わらなかった」「一ヶ月いろんな着こなしを試してみたけど大差ないように思える」。そうかもしれません。でも、変わってるんですよ。自分ではそう感じてなくても、これまでの服にネックレスひとつ足すだけでも変わるし、バッグ変えるだけでも変わるし、周りから見れば変わっているんです。それに、経験値を積んでるんです。その間に。特別おしゃれな人を目指したいわけじゃないなら、自分にとって着心地が良くて、落ち着く服で、それなりにきちんと見える服という路線で考えてみてはどうでしょうか。そういう服は、みんな欲しいので世の中にたくさんあります。そういう服を着ていて、感じ悪くなることはまずないと思いますし、場に溶け込むことができる服を着ていれば、居心地は今よりずっと良くなるのではないでしょうか。喪ブスさんは自分をブスだブスだとおっしゃいますが、服は、きれいな人のためだけに作られているわけではありません。自分なりに「このへんかな?」と思う服を探って、着てみてはどうでしょうか。世間にどう思われるかというのはいったん置いといて、店員さんやお友達に相談してどういうのがいいか聞いてみるのもいいと思います。服の世界は、あなたを拒んでません。洋服屋さんは、美人だけを相手に商売なんてしてません。服やファッションが怖い、ということと、世間が服を着た自分をどう見てくるのかが怖い、ということが大きな2つの問題だと思いますが、これ、乗り越えられますよ。必ず。乗り越えなくてもいいものかもしれませんが、大きなように見えて実はものすごく小さな段差なので、私は早くこの段差を乗り越えて、ラクになって欲しいなと思うんです。こんなことで悩んでるなんて、もったいないじゃないですか。わかってますよ、本人にとってはどれだけ深刻な問題かっていうことは。でも、「何をやってもブス」っていう諦め視点で服を選びに行ったら、そりゃ楽しくもなんともないですよ。私は自分の容姿を好きになるのに、たぶん30年近くかかってます。40歳になって初めて好きだと思えるようになりました。「何やってもブス」と思っていた時期もありましたが、人は行動や表情で変わる部分もあるし、着ているものや髪型で良く見えたり悪く見えたりもするということも、失敗を繰り返して理解してきました。人は変わります。内面を変えるより、着替えれば変わる外見を変えるのは、ずっとたやすいことです。でも、そのためにはまずその「何をやってもブス」と思う内面の思い込みを捨ててください。人には可能性がありますし、人生は長いです。何をやってもブスと思いながら生きるには、長すぎます。別にブスのまま生きていってもなんの問題もありませんし、それで楽しく生きてる人だっていっぱいいます。でも、ブスのまま生きていくことを考えてテンション下がるようでしたら、そこそこにはなれるんじゃないか、もうちょっといい感じにはできるんじゃないか、ということを信じて、俯瞰視点のネットの適当な記事とかのことはもう忘れてください。世の中の全員が全員、そういう風に思っているわけじゃありません。見つめるべきは自分です。人は変わります。変わりたい方向に。喪ブスさんの望んでいることは、すごくささやかなことです。これは、年内に叶うぐらいの望みです。ブスで何が悪いんですか?ブスっていう言葉、私も数え切れないくらい投げつけられてきてます。最近はそれに「ババア」が加わってます。自分の顔に生まれただけのことでなんか言われて、誰でもトシ取るのに「ババア」とか言われて、そんなのバカみたいじゃないですか?私はこんなしょうもないゲームには絶対に付き合う気はありません。しんどいなー、っていうときはカレー沢薫先生のエッセイでも読んでゲラゲラ笑って、元気なときは服でも見に行ってみてください。雨宮まみ(あまみやまみ)ライター。AV雑誌での執筆を経て、女性性とうまく向き合えない生きづらさを書いた自伝的エッセイ『女子をこじらせて』 (ポット出版)で書籍デビュー。以後、エッセイを中心に書評などカルチャー系の分野でも執筆。近著に『東京を生きる』(大和書房)、『自信のない部屋へようこそ』(ワニブックス)など。「穴の底でお待ちしています」が、ついに本になりました!『まじめに生きるって損ですか?』鮮烈なデビュー作『女子をこじらせて』から5年。 対談集『だって、女子だもん!!』から4年。 雨宮まみが、今度は、崖っぷちに立つ女子たちの愚痴を真っ向から受け止めます。彼氏ができないのは「努力が足りないから」だと言われ続け、「努力っていったい何なんだよ !?!?」と吐き出す20代後半の女性。 家事も子育て、さらには仕事も完璧にこなしているのに、夫から愛されない。「もう頑張れない」とつぶやく30代後半の女性。 小沢健二似の美しい元彼との恋愛でズタズタになっても、やっぱり「美しい人」に惹かれてしまう20代前半の女性。努力、恋愛、見た目、生き方──、20代、30代の女子たちが抱える人生の愚痴15編。雨宮さんより一言:ただの悩みなら自分で解決してるし、人に解決してもらえるようなことなら最初から悩まないよなぁ、という思いから始まったのが、この「穴の底でお待ちしています」という、ただ人の愚痴を聞く連載でした。そこから生まれたのがこの本です。始めてみると、人の愚痴には、本当に解決しづらい問題や、社会の構図まで含まれているよううなところがあって、しかもみんなただ愚痴っているわけじゃなくて、がんばりにがんばり抜いた末に愚痴っていたりして、だんだん「これって世の中のほうが間違ってるんじゃないですか?」という気持ちになってくることもありました。正しい人が救われるとは限らない世の中だからこそ、読んでほしい本です。
2016年09月30日声優の沢城みゆきが、この秋、完全新作で蘇る『デスノート Light up the NEW world』に新たに登場する真っ白な姿の死神・アーマの声を務めることが決定した。犯罪のない社会を目指し、デスノートで世界を変えようとしたキラこと夜神月。暴走する彼を阻止しようとした世界的名探偵・L。天才VS天才の対決から10年経ったある日、世界中のネット回線がジャックされ、キラによるメッセージが発信された「デスノートを手に入れろ―」。死神により地上にもたらされた6冊のデスノート。同時多発的に発生する大量の殺人事件。そんななか、三島(東出昌大)が率いるデスノート対策本部に、Lの後継者・竜崎(池松壮亮)が加わり、無差別殺人事件の現場で1冊のデスノートを手に入れる。一方、その現場には、キラの信奉者・紫苑(菅田将暉)の姿が。いま、それぞれの譲れない“正義”を懸けた、3人の壮絶な頭脳戦が始まる──!死神・リュークの声を、歌舞伎役者の中村獅童が続投する本作。今回、本作に新たに登場する死神の“1人”となるのが、死神・アーマだ。原作の“シドウ”をベースにデザインされ、漫画原作の小畑健監修のもと、制作が行われた。VFXアドバイザーを務めた土井淳氏は、前作映画から10年を経ていることもあり、リアリティを追求し存在感のある死神を目指したという。「色気と美しさのある死神」という佐藤信介監督からの要望もあり、その要素をどうデザインに落とし込むか、描いては壊しが繰り返された。そうしてでき上がったアーマは、死神の“友達”を持たず、むしろ人間にシンパシーを感じているようなキャラクターで、マスカットが好物。「まあね」が口癖で、仕草や話しぶりもエレガントな、“女性”の死神だ。そんな愛嬌がある死神・アーマに息を吹き込むのは、 「べるぜバブ」(ベル坊)、「HUNTER×HUNTER」(クラピカ)、「テガミバチ」(ラグ・シーイング)、「GO!プリンセスプリキュア」(紅城トワ:キュアスカーレット)ほか、ナレーション、洋画&海外ドラマ吹き替え、舞台でも活躍中の沢城さん。「週刊少年ジャンプ」作品でお馴染みの沢城さんは、「佐藤監督からお声がけいただきまして、なんとも豪華な俳優陣の中に、恐縮ながら参加させていただくことになりました」と真摯にコメント。「死神ってこういうもの、という何か共通項があるのかなと思っていたら、私たち人間同様、本当に三“神”三様だったのが印象的です」とふり返っている。果たして、沢城さんが声を務めるアーマは、誰にデスノートをもたらすのか!?先日解禁となった本予告には、“金色”の新たな死神も映りこんでおり、リュークに関しては獅童さんのフェイシャルキャプチャーが行われ、よりリアリティを追求したという本作の死神たち。フルCGによって誕生する、“演技派”な死神たちの活躍もまた見逃せない。『デスノート Light up the NEW world』は10月29日(土)より丸の内ピカデリー、新宿ピカデリーほか全国にて公開。(text:cinemacafe.net)
2016年09月12日今回のテーマは「飲み会に誘われた際のうまい断り方について」である。正直飲み会の断り方に上手いも下手もない、あるのは心が強いか、弱いか、それだけだ。○誘いを断る時、我々は宇宙の塵にすぎない何故我々は、行きたくもない飲み会の誘いを断れないのか。女子力アピールだけ達者なバランス感覚のない女が取り分けたドレッシングしか入ってないサラダをすすった上、二次会のカラオケまで断れず、全くマイクが回ってこないのに割カン料だけ払い、冷えて粘土のようになったポテトをひたすら口に運ぶマシーンになってしまうのか。それはもう、己の心が弱いからとしか言いようがない。まず「上手く断りたい」などという人間は驕りすぎている。海とか地球とかをテーマにした壮大系のドキュメンタリーを72時間ぐらい見て、「自分は宇宙の塵にすぎない」というところから勉強し直した方がいい。つまり、「自分がこの誘いを断ることにより相手が気分を害すかも」と思う時点で思い上がっているのだ。まず冷静さを保ったまま半裸になり、両手を両乳首に当て、足はがに股、焦点の合わない瞳で相手を見つめ、自分が誘われた理由を考えてみるといい。そうすれば誘ってきた相手は、あなたの返事を待たずにどこかへ行くだろう。それでもなお誘ってきた相手が去らないようであれば、本当にあなたに来てほしいのだろう。それならば参加してもいいし、参加できないようなら相手が気分を害さないよう、両乳首に当てた手を徐々にスライドさせ、胸の前でバッテンを作り、参加不可の意を伝えるぐらいの配慮は必要だろう。だが、上記の半裸メソッドを実行するまでもなく、こういった誘いのうち、九割は断ったところで何も起こらない。つまり多くの場合、相手はあなたが参加しようがしまいが、どうでも良いと思っているのだ。大方、声をかけた理由は「部署の人間を全員誘ってるから」くらいのものなのである。それをイチイチ「上手く断らないと」などと思うのは思考力の無駄であり、逆に相手に失礼でもある。だからと言って、「〇〇へ行かなければいけないから」など、具体的な行けない理由を言うのはさらに下の下だ、相手にとって、興味のない人間の夜の予定を聞かされるなど、もはやハラスメントと言ってもいい。よって、簡潔に「用がある」と言うのがベストなのである。そう言う事で相手がどう思うかなどを考えるのは弱さであり、自意識過剰でもあるのだ。○気乗りしない誘いを断るために要される「勇気」だが「断ることで輪からはずされてしまうかも」と考える、さらに弱者思考の人もいるだろう。しかし、「参加でも不参加でもどうでもいい奴」というのは、参加したとしても、やはり「いてもいなくてもどうでも良い動き」しかしないものなのだ。おそらく、我先にと女子力アピールを試みる女が持ちあげたサラダボウルの裏を見つめているのが関の山だ。やれたとして、机が狭くなってきた際、店員に皿を下げさせるため、ちょっとだけ残っているカッチカチの冷めた鳥軟骨を処理する係ぐらいのものである。つまり、「輪から外されたくなくて参加した飲み会なのに、参加したところで輪に入れていない」ことがほとんどなのだ。参加したところで何の評価も得られないし、むしろ「こいつ全然動かないな」と評価を下げられる場合の方が多い。ならば逆に、参加しない方が良かったとも言えるのだ。しかし、飲み会を断る時に必要な心の強さというのは、行きたくない会の誘いにはっきりNOと言える強さだけではない。真に必要なのは、その後やってくる孤独に耐える強さだ。「断ったら輪から外されるかも」というのはある意味正解で、断り続けていたら誘いというのはこなくなるものである。そこで「行きたくなかったけど、いざ誘われなくなると寂しい」などと思うような惰弱な精神の持ち主は、もう大人しく飲み会に参加して、粘土と化したポテトを氷の溶けきったジンジャーエールで流し込んでおけばいい。私なども、OLの端くれとして、入社当初はランチに誘われることもあった。しかし相手が私を誘う理由は「職場の女性は全員誘ってるから」以外には何もなく、私も「行かなきゃ悪いかも」以外に行く理由はなかった。そんな動機であるため、ランチの間私は何もしゃべらず、話しかけられもせず、ただ他のOLが談笑するのに合わせ愛想笑いをしながら、399円のカルボナーラを胃に流し込むだけであった。当然そのパスタは腐葉土の味であったし、合わせて飲むコーヒーからはドブの臭いがした。そして、ある時開眼した。「なぜ貴重な昼休みに、腐葉土とドブを食わなければいけないのか」と。そう気づいた私は、前述の通り「用があるから」と言って、同僚からの誘いを全部断ることにした。その結果、見事に誘われなくなった。正直言うと、誘われなくなった時は一抹の寂しさを感じ、「私の選択は間違っていたのかもしれない」と思った。しかし、私の昼休みはそれから一変し、片手でクリーム玄米ブランを食いながら、もう一方の手で乙女ソシャゲをし、その合間にTwitterでエゴサをするという、パーフェクトすぎる時間を過ごしている。そして自信を持って「孤独になったのではない、自由になったのだ」と言えるようになった。しかし、社内で孤立しているのも確かであり、故に困ることもある。それが嫌だと思うならやはり多少我慢をして腐葉土を食っていた方がいいだろう。自由には責任が伴うというが、時として孤独もついてくるのだ。とはいえ、私もまだまだ修行中の身であり、ランチぐらいなら断って自由を謳歌できるが、出席しなければまずそうな飲み会などは、ヘコヘコと参加している次第である。もっと鍛錬を重ね、最終的には正月に必ず行われる夫の実家での親戚の集まりを「用がある」と言ってバッくれるところまで到達したいと思っている。<作者プロフィール>カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年、文庫版2015年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~3巻まで発売中。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は2016年4月12日(火)掲載予定です。
2016年04月05日今回のテーマは「ネット上のフレンド」についてである。私のTwitterアカウントをフォローしている人などには「こいつ24時間Twitterやってるな」と思われているかもしれないが、実際は48時間ほどやっている。時間軸が歪むほどTwitterをやる理由は話せば長くなるのだが、簡潔に言うと「イカれた理由を紹介するぜ!売名行為!…以上だ!」である。つまり、Twitterを通じて私の事を知ってもらいたいという気持ちが、理由の5億%を占めているのだ。そして、知ってもらった暁には私の単行本を全部買って、全部燃やして、また全部買ってほしいと思ってやっている。それ以外の理由は特にない。他に理由を探すとすれば、承認欲求を満たすためだろう。前に「漫画を描くのは金と承認欲求のため」と書いたが、Twitterも同じである。むしろ私がそれ以外の理由で動くと激しい下痢嘔吐をしたり、全国的に空からバールのようなものが降ってきたりするので、皆さまのためにも、それ以外の理由では1ミリたりとも行動しないようにしている。○カレー沢薫とインターネットの邂逅このように、現在ネットをコミュニケーションツールとしては使っていないので、実を言うと「ネットフレンド」というのはほぼいない。単行本などの情報は一方的に発信しているし、やりとりするのはリアルの知り合いか仕事の関係者のみである。もちろん、1日48時間Twitterをやっているので、熱心に応援してくれている読者の方などは自ずと覚える。だが、かといって密にやりとりしたり、いつもポケットに直入れしているぼたもちをこっそりあげたり……、などということもほぼない。そもそも「mixi疲れ」とか「Facebook疲れ」とかしてしまうのは、そこで人付き合いをしてしまったせいである。現実世界でも人を一番疲れさせるのは、人付き合いのはずだ。それをネット上でもやってしまったら、「そりゃ疲れるぜ」としか言いようがない。私も今でこそそう思っているが、漫画家としてデビューする以前は、もっぱらネットに出会いを求め、積極的に疲弊していたクチだ。私がネット環境を手に入れたのは、高校生の頃だった。僻地のオタクの惨状は最近書いたばかりだが、当然同志に恵まれているとは言いがたい状況だった。だから、その手の話がわかる数少ない友人にFAXを送りつけてまで自作のイラストや漫画を見せるという、相手が出るところに出れば逮捕されてもおかしくないようなことをしてまで承認欲求を満たしていたのだ(今思い起こせば友人は全く私を承認していなかった)。そのため、ネットで二次創作を載せている個人HPを見つけた時、こんな画期的な方法があったのかと衝撃を受けた。そして、パソコンに触るのすらほぼ初めてだったにも関わらず、「俺の描いた最強の“斜め45度を向いたイケメンのバストアップイラスト”を世界に発信してえ」という一念のみで、クソダサHPをこの世に産み落としたのだ。それだけではなく、他の二次創作サイトの掲示板に「ああああなたの描かれる●●(キャラ名)が超絶好みでドプフォ…!(鼻血)」などと書きこんだり、チャットに参加したりと、積極的に交友関係を広げようとした。もともと同じ作品が好きで、二次創作を趣味としている者同士、さらにネット上のみでのやりとりなので、割とすぐ仲良くなれたし、そういう人たちとの交流はとても楽しかった。それがなぜ疲れに繋がるかと言うと、まず作品に対する飽きがある。これはオタクの宿命であり、ずっと同じテンションで同じ作品を愛し続けられる人間は稀だ。「作品のことは好きだが、そのイラストや漫画を描こうというところまでの情熱がなくなる」日がほぼ確実にやってくる。そうなった時、今まで嬉しかったはずの、ネッ友(ネット上のオタク友達)たちによる「拙者!続きを全裸待機!」が一転して重荷になってくるのである。その結果、実際は暇すぎてあなたのキスや夜の足音の代わりに自分の指毛を数えているような状況でも、サイトのトップページに「多忙ゆえ更新を停止します」と掲げて行方をくらませなければならないこととなる。○オタ友をめぐる「責任」と「人間関係」さらに、ネット上のオタ友との関係も、お互いが「そなたのイラストは大変麗しゅうございますで候!ブヒブヒブヒー!」と褒め合っているうちぐらいは良いのだが、仲良くなりすぎて「二人はプリキュアだよね」というような段階にまで行くと危険信号だ。つまり同人用語で言うところの「相方」と呼び合うようになると、二人で悪と戦う代わりに「合同で同人誌を作ろう」とか「何かネット上で企画をしよう」という話になったりする。もちろんやりとげる奴らも多いが、途中で片割れが「あっこれ、めんどくせえ」と気が変わるパターンも少なくはない。私も去年同人誌を出してみてわかったが、好きな時に好きなキャラの絵を描いてネットにアップしている時は楽しかったのに、それが締め切りのある原稿作りになると、途端にクソ面倒くさくなるのだ。一人でも面倒なのに、相方がいるとなると「責任」という重荷が加わり、さらに関係者が複数人になるとその面倒くささは急増し、「やはり俺に仲間など必要なかったのだ…」と中二っぽいことをつぶやいてどこかに消えたくなるのだ。そこで再び「多忙につき」「体調不良により」「家庭の事情で」などと言って、企画自体をなかったことにしようとするパターンも散見される。だが、締め切りのある原稿を描くのは面倒くさくても、前述の通り好きな時に好きなものを描くのは面倒ではないため、「多忙」「体調不良」「家庭の事情」と言っておきながら、ネットにイラストなどをアップしてしまったりする。そんなことをすると、「お前忙しいんじゃなかったのかよ」と、約束を反故にされた相方は怒りの力によってキュア阿修羅へと変身し、相手が複数であれば「キレすぎて逆にスマイルなキュア某」たちに撲殺される。もちろん責任感のない奴が1番悪いのだが、こういうことが起こるのはネット上で密な人間関係を作ってしまったからだ。そういう相手がいなければ、好きな時に描いて、飽きたらやめれば済んだのだ。ネットのみならず、趣味というのは「責任」「強制」「人間関係」が入ると途端に嫌になってしまうものなので、いかにそれを排するかが重要なのかもしれない。そんなこともあり、私は、Twitterで特定の仲の良い人などを作らず、リプライも気が向いた時にしか返さず、できないことは言わないようにしていたのだが、先日ついうっかり「2月か3月にLINEスタンプを作る」と言ってしまった。正直に言うと全く作っていないのだが、もちろんそれは多忙かつ、体調不良、家庭の事情のためなので、件のツイートを読んでしまったみんなは今持っている武器を置いて、スマイルで待っていてほしい。<作者プロフィール>カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年、文庫版2015年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~3巻まで発売中。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は2016年4月5日(火)掲載予定です。
2016年03月29日今回のテーマは「親の期待のかわし方」である。誠に残念かつ遺憾、慙愧の念に堪えないのだが、当方、親にこれといって期待をされた記憶がない。この連載では、今まさにゴミ箱に頭を突っ込んでいる最中の人に対し「成功の秘訣は?」と聞くようなテーマがたまに寄せられるのである。○かんぴょうと酢飯からフレンチは生まれるか子どもに大した期待をかけない親のことは後ほど触れるとして、その対極にある「子どもへ過度な期待を寄せる親」というのも、何を考えているのかわからない。もちろん、自分たちが博士や大臣、松坂牛であるというのなら、子どもに同じような将来を望むのもまあわかる。だが、父がかんぴょうで母が酢飯なら、子はかんぴょう巻になることは大体予想できることであり、「シェフの気まぐれフォアグラテリーヌ~季節の野菜を添えて~」になれ、というのは酷なことである。原材料が自分たちであるということを忘れているんじゃないかと思う。もちろん、材料はともかく調理(教育)次第でどうとでもなるという意見もあるだろう。確かに、平凡な両親から偉人が生まれる例もあるが、残念ながらかんぴょうをフォアグラにするより、フォアグラを残飯にする方が簡単なのである。むしろ過度な期待と教育でかんぴょう巻にすらなれなれず、もはや「料理」というより「一般には理解されない系アート」みたいになってしまうこともままある。しかし親バカと言う言葉があるように、可愛さ故に、自分の子どもが実際より優れて見えてしまうのは、ある程度仕方のない事なのかもしれない。その点、私の両親が私に望んだことは一貫して「安定した職につき、豊かでなくていいから食べるに困らない生活をしてほしい」という、実に最低限かつ堅実なものであった。この決して高くないハードルを「売れない漫画家になる」という形で華麗にくぐって見せたものだから、もはやうちの親は私に何も期待していないだろう。おそらく、元々低かったハードルの高さが「逮捕はされるな」もしくは「実刑だけは食らうな」くらいにまで下がっていると思う。親の期待通りに育つことも親孝行かもしれないが、親に期待させすぎないことも立派な孝行であると思う。とはいえ、突然親の期待を裏切ってはいけない。どこに出しても恥ずかしくない自慢の息子がいきなりパンツ泥棒で捕まってニュースに登場するのは、これ以上ない親不孝だ。徐々に、親自身もいつ諦めたかわからないぐらい、自然に諦めさせなければいけない。つまり、何かやってしまった時、親に「まさかうちの子に限って!」などと言わせるようでは親不孝なのだ。無表情で「やはり…」と言わせるのが真の親孝行である。○親孝行はコツコツと、が鉄則正直に言うと、私は中学生の段階では勉強ができた。この「中学生まで」できた、モテた、という実績がいかにその後の人生の足を引っ張る要素であるかはまたの機会に言いたいと思う。とにかく、中学生時点ではまだ親に期待されてもいいぐらいだった。しかし、もうその時点で、親は私に期待というより不安を抱いていたのだ。何故なら、中学に入ってすぐ、担任が抜き打ち家庭訪問に来るという珍事が起こったからだ。それも、「いつも一人でいる」という理由で。一切仕込みナシの訪問だったためもちろん私も家におり、担任が親に「私には友達がいない」と話すのを、隣室からライブで聞いていたのだ。その時、手近なところに金属バッドがなくて本当に良かったと思う。本件、私も痛かったが、親にとっても激痛だっただろう。例え成績が学年1位でも、「こいつはヤバい」と思わせるのに十分な惨事であった。親にとって、自分の子が「勉強ができない」あるいは「運動ができない」と言われるよりも、「友達が作れない」と言われたほうがダメージは大きいのだ。本当に親を期待させたくなかったら、いかに人間的にヤバいか、社会性がないかをアピールすることが肝要なのである。その点、私は齢7歳で、親に「お前は被害妄想が強い」と断じられたエリートである。もちろん7歳であるが故に意味はわからなかったが「おっ! 今何かすごいこと言われた!」という記憶だけはある。他にも、友達がいないことはもちろん、片づけができない、もらった小遣いをすぐ使うなどまともな大人になれない要素満載であり、実際まともにならなかった。成人するころには、「頼むから他人に迷惑をかけないでくれ」くらいにまで親の期待値は下がっていたと思われる。時は流れて現在。私は前科もなく、屋根のあるところに住み、リボ払いやキャッシングはまだしていない(数十年の住宅ローンはある)状態である。つまり今、親は「思ってたよりは良く育った」と思っているはずなのだ。幼少のころからコツコツ親をがっかりさせたおかげで、今では立派な孝行娘というわけである。しかし、世の中には、意識しなくても成績優秀、運動神経抜群、人望も厚く異性にもモテてしまい、親にどうしても期待させてしまうという人もいるだろう。そういう方は、一点だけで良いので、親に不安を抱かせる要素をチラ見せしておけば良いと思う。男性ならお母さんより年上の熟女が登場するDVDを大量に隠し持つとか、女性なら男児用白ブリーフ(未使用)をコレクションしてみるとか、「法には触れてないが、そのうち何かしでかしそう」な雰囲気を出すのだ。つまり、親を安心させきってはいけないということである。いつか悪い意味で新聞に載ってしまう日に備え、平素は孝行者でも「いつ爆発するかわからないニトロを積んでいる」ということだけは、ちょくちょくアピールしておくべきなのだ。<作者プロフィール>カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年、文庫版2015年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は2016年3月29日(火)掲載予定です。
2016年03月22日今回のテーマは「地方でオタクをやることのメリット・デメリット」である。カレー沢は地方のオタクである。ソシャゲに課金し、ピクシブを一日中巡回して暮らした、と、まさかの二回連続メロス引用による開幕である。しかしこれは私の表現力が低いのではなく、太宰がすごすぎるのだ。○地方はオタクにとって「マッドマックス」私は地方の生まれであり、生まれてこの方地元を出たことがない。おそらくこれからも、離婚や家の全焼、あるいはそれに類するようなよほどのことがない限りは出ないだろう。私の地元は住むには良い所だが、オタクとして活動するにはデメリットしかないようなところである。特にネットが普及する以前はひどく、当時坊主頭に麦わら帽子をかぶった中学生だった私はセーラー服の袖口を鼻水でカピカピにしながら、「コミケってどんなところだっぺなー」と、るろうに剣心あたりのキャラを模写しながら夢想したものである。同年代の女子が渋谷や原宿に憧れていたころ、私は一人ビッグサイトを思い描いていたのだ。人生というものは、割と早い段階から勝負がついているという好例である。都会住みでも、中学生から同人活動をしている人間は少ないだろうと思われるかもしれないが、おらが村に関して言えば本屋すらなかった。同人活動をする以前に、漫画等、萌えの燃料の補給場所すらなく、オタクにしてみればマッドマックス級に荒廃した世界観だったのだ。辛うじて、菓子や文房具を併売しているような個人書店で「週刊少年ジャンプ」ぐらいは読めたが、そこには10年前に刊行されていた漫画の単行本がさも最新のタイトルであるかのように並べてあり、それすらも何故か5巻だけ置いてあるという地獄の様相であった。よって最新の単行本を手にいれようとしたら、田舎の小中学生の大半が着用を義務付けられているヘルメットという名の兜に、蛍光色のチョッキという鎧をまとった上、ジープ(自転車)に跨り、「ヒャッハー!」と狸や鹿、果ては老人などが跋扈する荒野を30分ほど走って、緑の都(隣町のやや大きめの本屋)を目指さなければいけないのである。そして「チャリで来た」と宣言しながら店内に入り目当ての漫画を探すも、田舎の本屋には変わりないので、目当ての物はないことの方が多い。その場合は当然また30分かけて撤収だ。そしてその漫画を手に入れるには、静まりかえった店内で欲しい漫画の名を店員に告げて、待つこと数週間。荒野を1時間かけてもう一往復し、目的のブツを強奪しに行かなければならないのだ。○「キンプリはいい」かどうか確かめられない理由このように、ただ漫画を買うのにもエクストリームな行いが必要だった時代に比べると、通販で大体の物が手に入るようになった今、オタクにとっての地方格差はずいぶん解消されたと言える。しかし、イベント事、またはその場でしか手に入らないグッズなどの入手に関しては未だに歴然とした差がある。中学生の頃憧れたコミケは未だに憧れのままであり、21世紀になった今でもビッグサイトの方がこちらに来たということは一度もない。それに、やれ好きな漫画が舞台化するだの、声優がコンサートを開くだの言われても、我が村の公民館でやることはまずなく、大体都心での開催である。また、アニメ映画などもちょっとコアなものになるとこちらでは上映されない。今話題のアニメ映画『KING OF PRISM by PrettyRhythm』(キンプリ)も当然こちらでは未上映だ。しかも「キンプリってどんなの?」と鑑賞済みの他人に聞くと決まって「見ればわかるから、見ろ」と新興宗教に目覚めたブルース・リーみたいな顔で言われるのだ。だがこちとら見たくても見られない。世の中にはスターウォーズとワンピースしか上映せず、ミニシアターでやってるようなマニアックな映画を見て周りに差をつけたいサブカル野郎が憤死するしかない不毛の地があるのだ。悔しいので「キンプリってキングプリムゾンの略か」と100億人ぐらいが考えつきそうなことを言ったら、「キンプリを馬鹿にするな、不思議なプリズムで消すぞ」と怒られた。本当に地方のオタクに良いことはない。そして、オタクはどこ住みでも怖い。○1キロ先のにぎりめしと、ガンジス川のまんじゅうそれでも無理やり、地方でオタクをやることの利点を挙げるとすれば「諦めがつきやすい」という点だと思う。いくら都心住みでも、行きたいイベントに全て行き、買いたいものを根こそぎ買えるわけではないだろう。やはり時間的、経済的理由で断念せざる得ない場合もあると思う。その場合、行ける距離であればあるほど諦めがつかないものである。例えば、1キロ先の路上に握り飯が落ちていると聞けば、ほとんどの人が拾いに行って食うと思う。しかしインドのガンジス川にまんじゅうが浮いていると聞いたら、ちょっとは考えるが「さすがに無理だ」と思うだろう。地方のオタクにとって、都会のイベント事は「ガンジス川のまんじゅう」のようなものであり、最初から食うことを諦める姿勢をとる。たまに一念発起して拾いに行くぐらいのものだ。逆に、都会のオタクにとって、あらゆる都会のイベント事は「拾える距離にある握り飯」といえるだろうが、落ちている量があまりにも多すぎて、全部拾いには行けず、どの握り飯を諦めるかを考えなければいけない。だったら、最初から絶対拾いにいけない場所にあった方が良かったと思うだろう。かといって、「地方のオタクは誘惑が少なく経済的」かと言うとそうでもない。たまに「ガンジス川のまんじゅう」を拾いに行くためにおびただしい額の金を使うからだ。私にとって未だコミケはグランドラインぐらい遠い存在だが、同人デビューは去年果たした。巷では「同人は儲かる」などと言われているらしいが、活動にあたって必要な支出に「同人誌の印刷費」だけでなく、「飛行機代」、「宿泊代」が加算される時点で「お察しください」と言うしかない状態である。結局、都会だろうが地方だろうが「オタクは金がかかる」という点だけは共通している。やはりニコ動で無料アニメを見て、完全無課金プレイヤーなのにソシャゲのメンテ遅延に激怒し、邪智暴虐の運営を除こうとしているぐらいがちょうどいいのかもしれない。<作者プロフィール>カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年、文庫版2015年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は2016年3月22日(火)掲載予定です。
2016年03月15日今回は「スイーツについて」である。わかっていると思うが、(笑)の方のスイーツではない。もちろんそっちについて語れと言われたら、完結より先に作者が寿命で死ぬぐらい壮大な悪口列伝を開始するつもりだ。しかし残念ながら、このコラムはそれを語るには文字数が少なすぎて、序章の序章、走れメロスで言うところの「カレー沢が激怒して、かの邪智暴虐のゆるふわを除かんと銅の剣と50ゴールドを手に入れた」ところで終わってしまうため、泣く泣くスイートな方のスイーツについて話そうと思う。○カレーは飲み物、おにぎりはデザート私の主食はペペロソチーノだが、もちろん甘い物も好きだ。ケーキが好きだ、チョコレートが好きだと、だんだんヘルシングの少佐の演説みたいになり、最終的に「クリーム!クリーム!クリーム!」と一人で拳を突き上げ叫んでいることもしばしばである。つまり太りそうなものは大体好きであり、最近では好物を尋ねられたら「カロリー」と答えるようにしている。よって大体の菓子は好きなのだが、1番は何かと問われたならば、答えは「甘いパン」である。「それは、主食じゃないか」と思った方は認識が甘い(スイーツだけに)。デブにとってカレーが飲み物であるのと同じように、甘いパンはデザートなのである。ちなみに甘くはないが、コンビニのおにぎりもデザートに分類される。夕食をしっかり食べたあと、部屋に戻りデザートとしておにぎりを食べるのだ。むしろ、コンビニに売っている食べ物は全てデザートと言っても良い。つまり私にとってコンビニというのは、モロゾフやヨックモック的存在なのである。こういった食べ物やコンビニの話になると、いつもローソンの手先のようになってしまうが、甘いパンにおいてもローソンの、モチモチしたパン生地にチョコレートが折りこんであるパン(割と名前がコロコロ変わるパンなのでこう表現させてもらう)がおススメである。一時期はこれを毎日食べており、調子がいい時には2個という日もあった。美味いのはもちろんのこと、値段も百円ちょっとと、コンビニパンの中でもリーズナブルな方だ。異常にでかい皿の上で、片づけが出来ない女の部屋みたいな盛り付けをされているオシャレカフェスイーツを食っている暇があるなら、こっちを食べてもらいたい。無論主食ではなく、デザートとして。○小食な人に勧める「ヘルシー」なスイーツとはしかし世の中には、しこたま飯を食ったあと菓子パンを食うのは無理だという、昆虫のように小食な方もいることだろう。そんな方にお勧めのスイーツは「M&M’S」である。「M&M’S」とは平たく言えば、アメリカの会社が作っているマーブルチョコだ。構成要素はほとんど一緒なのだが、中のチョコレートの質が違う。マーブルチョコのチョコは滑らかだが、M&M’Sは多少ガサガサしている。ところで、三十を過ぎて同年代の人間と食事をすると「だんだん肉より魚の方がおいしく感じるようになってきた」「薄味の方がいい」という話になることが増えた。その場でこそ話を合わせるが、当方、実はいまだに欧米の肥満児みたいな味覚をしているため、このアメリカ産特有のガッサガサしたチョコが大好物なのである。それに、M&M’Sはとても健康的な菓子なのだ。もしポテトチップスをおやつにしたら、早すぎて開けた瞬間空になっているかのように見える超スピードで食べてしまうため、全然長持ちせず、自ずと2袋目に手が伸びてしまう。それに比べ、M&M’Sは砂糖でコーティングされたチョコなので、砂糖部分を口で溶かしながら食べることができる。この方法により、ポテトチップスなら長くて30秒で食べ終わるところを、M&M’Sならば一袋につき10分ぐらい持たせることが可能なのだ。一時間あたりで換算すると、ポテトチップスなら約500kcalの物を120袋食べることになるため、6万kcalも摂取してしまうことになる。だがM&M’Sなら、320kcalの物を6袋食べるだけで1時間が経過するため、たったの1920kcalで済むのである。このように、M&M’Sは、他の菓子に比べ遥かにヘルシーであり。ダイエット菓子を不味い不味いと言いながら大量に食っている暇があるならこっちを食った方が良い。ちなみに、成人女性が1日に摂取すべきカロリーは大体2000kcalと言われているが、何事も数字だけでは推し量れないものである。このように、私は普通よりは大食いである上にかなりの早食いだ。「どうせ食うことぐらいしか楽しみがないんだろうから、もっとゆっくり食えばいいのに」と思われるかもしれないが、実はこのスピードこそが重要なのである。空腹は最高の調味料と呼ばれるように、腹が減っていれば減っているほど、飯は美味い。ゆっくり食べているとその間に脳の満腹中枢が満たされてしまい、食べ終わるころにはあまり美味いと感じなくなくなってしまうのだ。つまり早く食べることにより、飯を最後まで空腹状態の美味さで食べることができる上、食べ終わっても満たされていないため、食後のおにぎりという大技を繰り出すことが可能になるのだ。「真に食を楽しもうと思ったら、まず己の満腹中枢を越えて行く」。道を極めようとする時、いつも敵は自分自身なのである。<作者プロフィール>カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年、文庫版2015年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は2016年3月15日(火)掲載予定です。
2016年03月08日今回のテーマは「ゆとり」「さとり」などの「最近の若者は…」的言説についてである。こう見えて私は、『「これだから最近の若い者は」と言うと「それって、古代エジプト時代から言われてたんだよ?」とドヤ顔で言い返してくる奴の顔をパピルスでぶん殴る会』会長である。そんなことは関係ねえ。こちとら目の前の若者(特に女)の肌のハリ、そいつらが持っている未来、可能性がムカついてしゃあねえから、いちゃもんをつけているだけだ。○「なってない奴」の年齢別分布「最近の若者は…」と中年以上がこぼす時の状況は二種類ある。マジでなっていない若者に遭遇した時か、そいつの若さが憎いから必要以上に粗を探して、そう言っているかであり、私の場合は2兆%後者である。それに、マジでなっていない奴というのは、往々にして年齢は関係ない。いい歳して、自らはイクメンを謳いつつ、嫁の出産に乗じて不倫する奴もいたりするし、逆にこれだけのことをやってのけるティーンエイジャーはそういないだろう。下手に経済力や権力を持っていたりするせいで、なってない具合が若者のそれを遥かに凌駕してしまっているのだ。三十、四十はまだ若い。それを越えればもっと人間的に成熟、達観するかと言えば大間違いだ。私は毎日通勤のために車を運転するが、横断歩道のない道路を平気で横断してくる奴は大体老人だ。「六十にして耳順う」どころか、山道の狸や鹿と同レベルである。警察庁の調べによると、年齢が上になるにつれ「自分は事故に遭わない」と思っている率が上がるようだ。私の目の前に出没する老人たちも、おそらく「車のほうがワシに合わせて止まる」とか、頭だけでなく、足の方も鹿並なので余裕で渡れると思っているのだろう、しかし車を運転する立場からすると、横断歩道じゃないところで人が出てくると2回に1回ぐらいは「もういいか、ひいても」と思うものなので、「横断歩道じゃないところを渡ると、割とひかれる」と思った方がいい。このように、なってない奴はいくつになってもなってない。なってない奴がたまたま若かった場合、「なってないのは若いからだ」とされてしまうだけだ。実を言うと私自身、若者と接していて「これだから若い者」はと思ったことはない。部屋から出ないので若者と接する機会がほぼないせいもあるが、自分が人として成熟してなさすぎるため、逆に「若いのにしっかりしている」と思う方が断然多い。最近は4才の姪っ子に対しそう思った。よって、どうしても「これだからゆとりは」と言いたかったら、会う若者全員に、円周率を言わせるしかない。それで「3」と答えたら「ゆとりプギャー!」と言えばよいのだが、もちろんそれは成熟した大人のやることではない。そもそも、ゆとり教育では円周率を「3」で教えていた、というのはデマだったようだ。つまり、若者に「円周率は?」とドヤ顔で聞く奴がいたら、そいつの方が情弱の老害である。○元気があれば、何でもできる。しかし、人としてちゃんとしているかどうかに年齢は関係ないにしても、「若気の至り」と言う言葉があるように、若いころの方が「やらかしてしまう」率が高いことも確かだ。いわゆる「黒歴史」というものは大体若い時に作るものだ。大器晩成型だと、三十路を過ぎて邪気眼に目覚めたり、「たまに麗緒(レオ)という名の別人格が出てくる」という設定になってしまったりすることもあるが、大体の場合、中高生の時に通過する。そこから今度は、「男にモテようとしてファッション誌を丸パクする」ならまだ良いが、そういう女に差をつけようとして、「俺が考えた最強の個性的ファッション」に身を包み、さらに「不思議ちゃん」キャラを演出するため、自己紹介で「猟奇殺人鬼に興味あります」とドヤ顔で吹かしてみたり、極めつけに一人称が「ボク」になったりと、まあ全部自分のことなのだが、1ミリ先も見えない暗黒道に身を投じはじめるのだ。それから、十年余り。今の私はどこにでもいる、小汚い人となった。たまに一人称が「拙僧」になったりもするが、少なくとも当時のように悪目立ちはしていないと思う。しかし、これは年を取って落ち着いたからとか、自分を客観的に見られるようになったからではないということが30を過ぎてわかった。ただ「やらかす」元気と、自分に対する期待がなくなっただけなのだ。現に、20代の時の「車で片道3時間かけて、そこでしか売ってないド派手なデザイナーズブランドの服を買う!ただし高くて一式は揃えられないので、しまむらで買ったデニムとあわせるという上級ハズしテクを使う!ボクのセンスならヤレる!」みたいな元気、行動力、自信がもうないのである。そんなことをするより自宅から五分で行けるユニクロに行くし、それすら行くのが面倒なので、服を買うのは2年に1回ぐらいになっている。このように「やらかし」というのは、主にチャレンジ精神が引き起こすので、それがなくなると起こらなくなるものなのだ。逆に言うと、10代の時の元気、ヤル気を維持することができれば、いくつになっても黒歴史を製造できるということである。「元気があれば何でもできる」とはまさしく至言であるが、この「何でも」の中には「妻が産休中に不倫」「左腕に黒龍を封印」なども当然含まれているのだ。<作者プロフィール>カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年、文庫版2015年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は2016年3月8日(火)掲載予定です。
2016年03月01日今回のお題は「もし自分の作品がTVアニメ化(ないし実写化)されるとしたら」だ。実にハードなテーマである。語る方も苦しいが、聞く方もキツい話になることが、開始前から予想できる。どの作家だって、一度くらいは自分の作品が映像化された時のことを夢想したことがあるだろうし、むしろそれを目標として描いていると言ってもいい。しかし、夢想はあくまで本人の頭の中のみで行うものであって、決して人に語っていいものではない。映像化が決まってもいないのに、「俺の漫画を実写化するなら、主演は『福山雅治』、アニメならヒロインの声は『大塚明夫』、これは譲れない」などと語るのは、ブスが「つきあうなら松潤だけど、結婚するなら翔くん、ニノはたまに遊ぶぐらいでいいかな(笑)」と言っているのに等しいし、そんな話を聞かされる方だって、まるで両親の初夜をノーカットで見せられたかのような苦々しい顔になってしまうことは容易に想像がつく。このコラムの読者は紳士淑女のため、それらの方が見たことがないであろう言葉は使えず、明言することはできないのだが、上記のような行為は、はっきり言って作家の自己満足行為、アルファベットで言うところのGである。もしくは「自家発電」「セルフサービス」「右手との親睦を深める会」「ワンマンライブ2016~明日もやるよ!~」等々、このままでは、いかに検閲に引っかからず表現するかに全力を尽くすことのみで今回のコラムが終わってしまうので、この辺にしておくが、とにかく人に見せるものではない、ということである。しかし、文字通りワンマンショーなものに観客を入れてもらえる上、原稿料をもらえるなんてまたとない僥倖な気もする。普通だったらこんな話、観客全員にクオカードぐらい配らなければ、暴動が起きる。○カレー沢薫が希望する「映像化」それで実際映像化のオファーが来た場合、何か希望があるかというと、特にはない。何せ木っ端作家なので、映像化してもらえるなら何でもありがたいのだ。もちろん生来のオタクなので、イケメン俳優や、女性人気のイケボ声優を使って欲しいぐらいのことは考えると思うが、製作側に「ヒロインは強い女なので曙を起用します」と言われれば「いいですね、そういう冒険はどんどんしてもらいたい」と鼻の下の産毛を撫でながら言うに決まっているのだ。このように私は、原作が私であるとしてくれるなら、なんでも構わないスタンスである。いっそのこと、アニメ版『ONE PIECE』や『ドラゴンボール』のエンドクレジットに「原作:カレー沢薫」と入れてくれるだけでもいい。しかし、作家の中には作品が自分の手を離れて作られることを良しとしない人もいるようだ。確かに、作者が手を放した結果、大幅なストーリー改変、原作にはいないオリジナルキャラの投入などで原作とは似ても似つかぬものになってしまった漫画の映像化作品は決して珍しいものではない。つまりオレのカワイイあの娘(原作)が、映像化するやいなや、健康診断に必ず引っかかることで定評がある中間管理職のオッサンに描き換えられていた、というわけである。なぜ美少女が中間管理職になるかというと、「何十巻もある原作を1クールのアニメにまとめるのは無理だから、オリジナルストーリーにする必要があった」とか、ドラマだったら、「まずは俳優ありきで、それに原作の方を合わせて作っているから」等の理由があるようだ。アニメやドラマからその作品に入る人はそれでもいいだろうが、やはり原作ファンとしては、原作に忠実であればあるほど嬉しいものだろう。しかし、私はもし自分の作品が映像化されたら、あんまり原作に忠実にしてほしくないと思う。私は、自分の漫画の単行本などを、あまり見返すことがない。何故なら「自分が描いた通りの絵」が載っているからだ。たまに「もしかしたら、誰かが気を利かせて描きなおしてくれてるかもしれない」と思って見てみることもあるが、大体残酷にも自分が描いた通りで載っている。このように、私は自分の作品でありながら「他の人が描いてくれればもっとマシになる」と思うことが非常に多いのだ。実は私の作品がフラッシュアニメ化されたことはある。非常に出来が良く、作者として本当に嬉しく、感動さえしたのだが、唯一「寸分違わず、私が描いた通りの絵が再現されている」という欠点があった。なので、もし私の作品が映像化されたとしたら、「あんまり原作通りに作らないでくれ。むしろ原作(中間管理職)を美少女に変えてくれ」と言うつもりである。<作者プロフィール>カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。10月15日にエッセイ「負ける技術」文庫版を発売した。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は2016年3月1日(火)掲載予定です。
2016年02月23日今回のテーマは「兼業漫画家の体調管理」である。風邪などの疾病などに見舞われないためにしている食生活、生活習慣などの工夫について講釈を垂れろ、ということらしい。しかし、結論から言うと何もしていない。特に食生活など、依然として主食はペペロンチーノなので、ムチャクチャとしか言いようがない。○人生というクソゲーをやり抜くためにじゃあ不健康なんじゃないか?と言われると、もちろん不健康だし、早死にするだろう。さらには突然死も十分あり得る。そして私の急逝の報がツイッターなどで23リツイートぐらいされ、ブラックサンダーを主食とする作家が「やっぱ健康に気をつけなきゃダメだよね」と感化されて主食をわさビーフに変える(芋+わさび=サラダの感覚)ぐらいで、すぐ忘れられるだろう。つまりこのお題は、童貞に女体の神秘について語ってくれと言っているようなものなのだ。とはいえ、そう簡単に体調を崩していては、仕事が出来ず、今度はご飯が食べられないという理由で人生が終わってしまう。そのため、健康に気を付け、一番健康を害す原因である仕事をするという、自分にホイミをかけながらイオナズンを落とすようなことをしながら、毎日ご飯を食べているわけだが、毎日頑張ってご飯を食べ続けた結果どうなるかというと、今度は寿命などで死ぬ。つまり人生というのはどっちに進んでも最終的にデッドエンドというクソゲーであり、文字通りそれを死ぬまでプレイしなければいけない。だが、終わりが決まっていてもその過程を出来るだけ悲惨じゃなくするために、とりあえず健康を保ち、目の前の原稿を期日通り仕上げなければならない。その為に私が実践している健康法は「病気にならない法」である。○カレー沢氏が実践する「健康法」病気になっては、仕事が出来ぬ。ならば病気にならないようにする。まさにシンプルイズベストな方法が「病気にならない法」だ。この「法」の特徴として、病気にならないための対策は特にとらない。期日に間に合いそうになければ飯も食わずに徹夜をするだろうが、とにかく病気にならないようにするのだ。読者の中には「いや、なるだろう」と思われる方もいるかもしれない。確かに毎日「病気にならない法」を欠かさず実践していても、謎の咳、くしゃみ、発熱、めまい、腹痛、心肺停止など起こってしまうことがある。しかし、体調管理に細心の注意を払っている作家はもちろん、そんな時のリスクヘッジも用意している。そうなった際、次に用いられるのは「これは病気じゃない法」である。発熱やめまいを覚えるが、これは断じて病気ではないということにする健康法である。病気でなければ仕事はできる。確かに立っていられないほどのめまいを覚えるが、原稿は立ってやる必要はないので、いつも通り原稿を描くのである。もちろん病院になど行かない。そんなところへ行ったら病名がついてしまい「病気じゃない法」が使えなくなる。一番やってはいけないことだ。最終的に死ぬにしても、その過程を楽しい物にしたいと思って生きていたはずが、これらの「健康法」を実践した結果として、楽しくない物の代表格である仕事を最優先した上に死期まで早めるという、ただでさえクソゲーなものを、高タイム・低スコアクリアしてしまうことになるのだが、日本には作家のみならず、こういうプレイヤーが数多く存在すると思う。そして私自身は、極限状態に類するような無理をしたことはない。健康体の時の絵と40度の高熱がある状態で描いた絵の質がほとんど変わらないという安定した低クオリティのため、多少の熱があっても休みはしないが、徹夜はしたことがない。しかし、徹夜しなければ間に合わないという状況になれば、やはりしてしまうと思う。なぜなら「期日を守れない」というのは最も避けたいことだからだ。もし私が作家を使う立場だとして、期日を守らない奴には仕事を回したくないと思うだろうし、そもそも原稿を落としたら、その原稿料は支払われない。結局、健康を犠牲に仕事をしても鬼籍に入るし、健康を優先して仕事をしなくても彼岸の人になるのである。ならば、どうせ結末が同じなのだから、病気の時ぐらい休むのが正しいという結論になりそうだが、困ったことに自分の休養が他人のデッドにつながることもある。例えば漫画家の絵が上がるのを待っていたデザイナーは、漫画家が急きょ休んだ上に納期が変わらなければ完全に「完」なのである。このように、個人の人生のみならず世界は全て死につながっており、大手が孫孫孫孫孫孫孫請会社に作らせたクソプログラミングのような代物なので、だったらもう自分の好きなようにやる、となって、私は毎日ペペロンチーノを食べてしまうのである。しかし、好きにやったため健康を害したり急死したりすれば、やはり後悔はすると思う。だが、特に健康関係というのは痛い目にあわないと大切さがわからないものなのだ。もし私の訃報がTwitterなどに流れてきたら、どうかたくさんリツイートして欲しい。三度の飯よりTwitterとエゴサを愛した故人への一番の手向けである。<作者プロフィール>カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。10月15日にエッセイ「負ける技術」文庫版を発売した。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は2016年2月23日(火)掲載予定です。
2016年02月16日今回のテーマは「近年多い『リバイバル』漫画・アニメについて」である。漫画・アニメに限らず、リバイバルやリメイクは昨今まったく珍しいことではない。昔のドラマを今の俳優でやってみたり、古いゲームを最新の技術で作り直してみたり、解散したバンドが再結成したりするのも、これに含まれるだろう。「中学生の時お世話になっていたエロコンテンツを何の気なしに見返したら、逆に今のモノより使えた」という現象と同じように、当時楽しめたものは今でも大体楽しめるものである。こういったリバイバルが発表されると、素直に喜ぶ当時のファンも多いだろう。だが中には、例えばバンドの再結成なら「解散後ピンでパッとしなかったから、金に困っての再結成だろう」など、過去の威光の使い回しに苦言を呈する者もいる。私自身、そういったリバイバルに対してどう思うかというと、「いいな~!」と思う。羨まし過ぎる。私だって一発当てて、あとは一生それに縋って生きたいと思うが、それはできない。なぜなら、一発も当たっていないからだ。○カレー沢薫、「一発屋」のすごさを語るリメイク商品に対し「安易な金儲け」と言う人もいるが、あれは全然安易ではない。前述の通り、過去のヒットをあてにするには、当然ながら一発ヒットを出さなければいけない。「一発で食っていきたいなら、まず一発当てろ」というのは、「モテたい」と願う男に「まずイケメンになって年収を1000万まで上げろ」と答えるぐらいのクソリプである。結局、新作で当てるのも過去の当たりを使うのも、とにかく一回は当てないといけないことに変わりはないので、作者にとっては全然簡単ではないのだ。安易に儲けようとしている奴がいるとすれば「過去のヒット作でもう1回儲けましょうよ」と持ちかける第三者の方だろう。作家によっては、いつまでも過去作品のことについて触れられることを好まない人もいるようだが、私に関して言えば褒めてくれるなら何でも構わない(ただし、過去作品に比べて今は面白くないという話なら、そいつの眉間に風通しの良い穴を開ける所存である)。デビュー作が好きだったと言われればそれは素直に嬉しいし、仕事としてデビュー作をリメイクして描けと言われれば喜んで描く。当方が初期の作品のリメイクを描かないのは、どこも描けと言ってくれないからに他ならない。そもそも 、リバイバルというのは過去に売れた物でやらなければ全く意味がない。リバイバル商品のターゲットは当時のファンなので、売れなかった物をもう一回やっても同じように売れないし、もっと売れない可能性の方が高いに決まっている。美味いカレーをリメイクして美味いカレードリアを作ることは出来るが、ウンコをリメイクしてカレーを作るのが至難の業であるのと同じだ。過去の威光に縋るのもあまり良い事ではないかもしれないが、売れなかった物に執着する方が5億倍ヤバいので、そこは諦めて次を作るしかないのである。○リメイク作品のやさしさと「ゾンビ化」の恐怖受け手として考えても、私自身、リメイク作品はかなり好きな方だ。単に懐かしいというのもあるが、年を取って「全く新しい物」を取り入れる力が落ちているからというのもあると思う。ゲームをするにしても、新しいゲームのシステムを1から覚えるのは面倒だし、映画を見ていても、登場人物の名前と顔がなかなか一致せず、「おい!なんでこいつ生きてんだよ!じゃあさっき死んだの誰だよ!」ということが平気で起こる。その点、リメイクものなら新情報を仕入れる必要がないため、簡単に入り込むことができるのだ。人によっては「リメイクされているとはいえ、同じ物を見て楽しいか?」と思うかもしれないが、この「知っている」というのが逆に頼もしいものである。当方、加齢と共にフィクションに対する鬱耐性がドンドン落ちてきているので、自分の心に傷をつけるような作品は見るのを避けたいと思っている。だから、何の予備知識もなく見た映画が「主人公は世界を救った。だがしかし、彼女は寝取られた」みたいな結末では困ってしまう。オチまでわかっている作品の方が逆に安心して見られるのだ。とはいえ、周知の通り、リバイバルが全て成功するとは限らない。久しぶりに再会した初恋の彼女が金髪のパンチパーマになっていたら、誰しも「再会なんてしなきゃよかった」と思うだろう。やらない方が良かったリバイバルも多く存在する。別の例えで言えば、「美しい盛りに死んだ彼女を、半分溶けたゾンビとして蘇らせました」みたいなことになっている下手なリメイク、下手な続編を出してしまったばっかりに、過去の威光さえ汚してしまう場合もある。よって、過去作品のリメイクや続編を持ちかけられた作家は相当緊張すると思う。下手を打つと当時のファンさえ落胆させてしまうからだ。結局リバイバルというのも、少なくとも作り手にとっては楽ではないことなのだと思う。では作家にとって何が一番楽かというと、「昔の作品が今になって突然売れる」ことである。リメイクする手間もなく、最も手っ取り早い。私も、当時売れなかった自著が今売れても全然困らない。読者におかれましては今すぐAmazonなどの通販サイトの検索窓に「カレー沢薫」と入力していただき、検索結果に出てきた物を何でもいいからご購入いただければと幸いである。<作者プロフィール>カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。10月15日にエッセイ「負ける技術」文庫版を発売した。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は2016年2月16日(火)掲載予定です。
2016年02月09日今回のテーマは確定申告である。前に同じ話をしたような気がするのだが、バックナンバーを見てみるとやっぱりしていた。同じ話を何度もするのは、加齢による恍惚の人化が進むと良くあることだが、テーマを出しているのはアラサーの担当だ。私に負けず劣らずの恍惚状態と見える。これは前と全く同じ原稿を出しても通ってしまうのではないか、ワンチャンやる価値があると思った。もしとがめられたら「恍惚としてました」と言い訳すればいいことである。しかし残念なことに、その後どうやら担当は全くの正気で、同じテーマを使って内容の違うコラムをもう1回書けという、ただ単に無茶を言っているだけということが判明した。○確定申告という年中行事確定申告は毎年するものだが、当方に限って言えば、手続きする内容に大差は無い。今年もありがたいことに収入が激減することもなかった一方で、もちろん激増することもなかった。私にとって、確定申告とは「今年もブレイクしなかった」と重々肌で感じていることを、数字の上でも知らしめてくれる行事といえる。毎年それを念入りに確認することにより、「もうどの角度から見ても売れていない」という清々しい気持ちで新年度へ踏み出せるのである。コラムのタイトルにもなっているように、私は会社員との兼業漫画家なので、年末調整は会社でして、また確定申告もするというスタイルである。そんな漫画家に限らず、副業持ちの会社員を震撼させたのが「マイナンバー制度」である。出所はよくわからないが、「マイナンバー制度で、副業が会社にバレるらしいぞ」という噂がまことしやかにささやかれ、当方も例に漏れず西野カナのように震えた。はっきり言って私は情報弱者である。背中に「情弱」というタトゥーを入れたいぐらいなのだが、画数が多くて痛そうなのでシンプルに「バカ」と彫りたいと思う。つまりバカなので、ソース不明の「マイナンバーで副業がバレるよ」という情報には大いにビビった口である。もし、会社に作家活動がバレたらどうなるか。おそらく会社を辞めることになるだろう。「規則違反による懲戒」とかではなく、ただただ「恥ずかしくてそこにいられない」からだ。会社での私は、とにかく陰気でみすぼらしい女である。話しかけられない限りは言葉を発しないし、話しかけられることもほぼない。もう6年ぐらい同じ会社に勤めているが、本当に誰とも仲良くないし、逆にそうだからこそ、今までバレなかったとも言える。そんな女が、裏では下ネタしかない漫画や、こう言った過激(なことを言っている風で実は誰よりも炎上を恐れている)コラムを書いていると言うことが知れた日には、『会社では頼れる上司、家庭では素敵なパパだが、服の下には女性用下着の上下にガーターベルトを装着している人』と同じように、「法には触れてないが、とにかく気持ち悪い」という感想しか持たれないと思う。こちらも、会社の人間が見ているかもしれないと思ったら、今まで通りに創作することはできないだろう。下ネタなどもってのほかで、「窓の外では小鳥がさえずっている」「世界は希望に満ちている」など、下ネタよりも気持ち悪いことしか描けなくなってしまうのだ。このように、マイナンバー制度に対しては非常に恐怖したのだが、結論から言うと、今まで通りちゃんと確定申告していれば、よほどのことがない限りバレない、ということらしい。もちろん、確定申告でバレなくても、いつ何がきっかけでバレるかわからないが、もし当コラムのテーマが「ガーデニング」とか「ヨガ」になったら、「バレたな」と思ってもらえれば幸いだ。○印税生活、その夢と現実結局、今年も微々たる収入を申告するだけで変わりは特にない。だが、「売れていないと言っても本を出しているのだから、実は印税で儲かっているんじゃないか」と思う人がいるかもしれない。いまだに本を出している作家=印税生活というイメージは強く、大して儲かってもいないのに、他人に「印税生活なんでしょ?」と言われて辟易しているという作家の話はよく聞く私もそのようなことを他人からよく言われる、と言いたいが、驚くほど言われない。見るからに金の臭いゼロな上に、普通に臭いため誰も寄ってこないのである。もう色んなところで言われているが、印税収入というのは、売れている作家とそうじゃない作家とでは雲泥の差だ。ヒット作家の本の帯には「100万部突破!」とか景気のいいことが書かれるが、私程度の作家だと、コミックスの初版発行部数(発売タイミングで刷った本の冊数)は余裕で1万部を切ることもあるし、その初版の数も、巻数が増えるごとに減る。1巻は希望的観測が入った数字だったのが、実際の売れ行きを見て2巻では現実を見た数値になり、さらに3巻は…と徐々に下り坂の様相を呈するのだ。そうすると、コミックス発売によってもらえる金額は、最終的には2~30万ぐらいになってしまうし、もっと少ないこともある。もちろん大金だが印税生活には程遠いし、本が出せるほどのページ数がたまっても、単行本化されないことすらある。もちろん、本がヒットすれば出版社は初版部数よりたくさん売るために「重版」する。作家は新しく刷られた部数に応じてまた印税がもらえるわけだが、私の本はマジで重版しないため、初版の印税をもらったきりになるケースが非常に多い。昨年出版したコラム集「負ける技術」に関しては珍しく重版がかかり、先日4回目の重版(5刷)が決まった。読者においては「カレー沢、ついに印税生活か」と思われるかもしれない。確かに「5刷!」と言えば聞こえがいい。だが、この重版と言うのが非常に小刻みなのである。具体的な数字は伏せるが、実情は100万巻を1冊ずつ出している漫画の単行本が、「【累計】発行部数100万部!」と吹かしているのに近い。だったらもう、初版発行部数が1冊の本を1000回重版して「1000刷突破!」とした方がいいんじゃないだろうか。きっと、私のような、背中に「バカ」とタトゥーの入った情弱が買うはずである。<作者プロフィール>カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。10月15日にエッセイ「負ける技術」文庫版を発売した。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は2016年2月9日(火)掲載予定です。
2016年02月02日今回のテーマは「卒論」である。テーマを出してきた担当より「今話題の方の卒論じゃないです」と言われたのだが、何のことかわからなかったのでググったところ、「またどうでもいい芸能ゴシップを仕入れてしまった」と、石川五右衛門のような表情でディスプレイを見つめる羽目になった。つまり、役所に出す目に優しい緑の卒論ではなく、今回は学校に出す卒論の話である。○「イケメンの顔を描くだけのお仕事」を目指してしかし私は大学には行っていないので、卒論は出したことがない。今までのコラムでも書いたが、私の最終学歴は専門学校卒業だ。よって、ここでは私の卒業制作について書いていく。通っていた専門学校では「グラフィックデザイン」を専攻した。漫画の専門学校に行くことは親に許してもらえなかったので、グラフィックデザインが何か良くわかってない親を煙に巻いて「グラフィックデザインコース」に入学したのだが、実は入る本人も良く分かっていなかった。専門学校というのは、やる気がある人も多いが、こういった「就職はしたくないが大学受験もしたくない」という真正モラトリアムが集う場所でもある。大学以上に本人のやる気が重要な所なのだ。そんな真正モラトリアムでありながらもグラフィックデザイン学校を卒業した私にデザインをやらせると、数あるフォントの中から、多くのデザイナーをそのダサさから憤死させるという「創英角ポップ体」を必ず選び出してくる目利きぶりを発揮する上、サイズはもちろん48ptぐらいにする。さらに斜体もかけるし、できることならグラデーションもかけてやりたいと思っているが、やり方がわからないので、ビビッドな赤字でキメるのである。今現在、漫画をいくつか連載させてもらっていて、ある程度連載が続くと、数話分をまとめた単行本が出る(こともある)。漫画の単行本の表紙絵を描くのはもちろん作家だが、装丁は当方でなくデザイナーの仕事だ。作家がデザインまでやるものでなくて本当に良かったと思っている。もし作家が装丁まで担当することになっていたら、「コミックス全7巻 累計実売数3」とかいう事態が平気で起こったに違いない。「ジャケ買い」があるなら、「ジャケやめ」もあるはずだ。「これは触るだけで自分のセンスが落ちる」と思わせる一品を作りだす自信がある。このようにデザインスキルは身につかなかったが、自分にデザインのセンスがないということだけは、2年かけてみっちり学んだのである。非常に高い授業料であった、もちろん親にとって。今思えば、当時の自分はクリエイターになりたいというよりは、好きなイケメンキャラの顔(全部左向き)だけを描いて暮らしたいと思って、その学校に入学したような気がする。あれから10年余り経ったが、未だにそういう求人は見たことがない。もしこの世のどこかにあるなら、今からでも会社なんか辞めて目指したい所存だ。○カレー沢氏の卒業と「猫」の誕生そんな志の人間ですら卒業できるのだから、専門学校というのは金さえ出せば入れるし、出られると思われるかもしれない。しかし、確かに大学よりは緩いかもしれないが、一応卒業日数などが足りないと卒業できないし、冒頭で言った通り、大学の卒論にあたる「卒業制作」というものがある。卒業制作とは何か。簡単に言えば、「何か作れ」ということである。私にとっては、2年の月日と親の金をドブに捨てて得たものの集大成、もっと正確に言うと、「貴様の恥を見せろ」ということである。グラフィックデザイン科だけに、架空の企業や商品のポスターやロゴなどをデザインする者が多かった。しかし、作る物は本当に何でも良く、メインストリームに準じずとも、イラストを巨大パネルに描いて「これが俺の2年と親の金や!」と言って発表すれば、講師陣も「そうか!」となって卒業できるのだ。やはり卒業要件が緩いと思われるかもしれないが、もちろん3分で作ったようなものは認められない。ただ、3カ月かけて3分で作ったようなものを作るのはOKなのである。専門学校とは(少なくとも私が通ったところは)、「やることに意義がある」という義務教育までしか認められないような理屈を、もう二十歳になろうかという人間に適用してくれるおおらかな場所なのだ。そして肝心の自分が何を作ったかと言うと、何せ、授業も聞かずにスケッチブックにその時萌えていたキャラの左向き顔ばかり描いていた人間である。成績も悪く、それまで授業での製作物を褒められたこともなかったし、そのイケメンの絵だって、友人などに見せても全く無反応であった。しかし、イケメンのついでに描いていた猫の落書きに対しては、みんな妙に面白がってくれた。そしてその猫の絵とは、今の私の漫画作品の多くに出てくる猫と全く同じものである。そのため、卒業制作はこの猫のイラストを何十匹と描いてB1サイズのポスターにして提出したところ、優秀賞を取ることができた。そこで、私の絵はイケメン(レフト)については全くダメだが、猫の絵は他人への訴求力があると気づき、この猫を主役にした漫画を描いて漫画家デビューしたのである。このことに気づけていなかったら、おそらく私は漫画家にはなれていなかった。専門学校では自分にデザインセンスがないことだけを学んだと思っていたが、今思い返すとそれだけではなかった。イケメンのセンスがないことも学んでいたのである。そう思うと、専門学校時代も私にとって重要な期間だったと言えるのだが、卒業制作の評価にしても、総合点は非常に低かったが、審査員の中の数人が猛烈に推したための受賞だったらしい。これは、現在における私の漫画家としての世間の評価を完全に暗示している。よって、人生の軌道修正をするならここだったとも言える。しかし、悪いところは分かっているが、それが直せないということも、もうわかっているのだ。<作者プロフィール>カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。10月15日にエッセイ「負ける技術」文庫版を発売した。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は2016年2月2日(火)掲載予定です。
2016年01月26日今回のお題は「最後の晩餐に食べたいもの」である。絵に描いたようなネタ切れになっている感が否めないが、代わりに言いたいことがあるかというと、ない。「伝えたいことは特にない」というのが、このコラムの一貫したテーマでもあるのだ。○食べるに食べられずにいるあの食べ物食べ物のことについては、今までペペロンチーノやペペロソチーノ、ペペロンやチーノのことなど多く語ってきたが、今回は人生の最後には何を食べるかという話だ。私には、長らく食べたいと思いながらも、未だに食べるに至っていない物がある。「最後の食事」とするなら、それが最有力候補になると考えている。私はパスタが好きだが、ピザも大好きだ。イタリア人から陽気さとコミュニケーション能力を奪い尽くしたら私になる、というぐらいイタリアンが好きなのである。その昔、「貧乏人は麦を食え」と発言したとしてマスコミに叩かれた首相がいたが、今の貧乏人は麦など食っておらず、何を食っているかというとパスタを食っている。麺自体が安く、炭水化物ゆえに腹持ちも良い。ソースも安価であり、それすら買う金がなければ塩でも振って食べれば良い。私がペペロンチーノを常食できるのも、コスパが良いおかげである。しかし、ピザはまだ貧乏食とは言い難く、「貧乏人はピザを食え」と吹かす政治家の報道も今のところないようだ。つまり、私にとってパスタはカジュアルだが、ピザはフォーマルなのだ。ハンカチーフの代わりに胸ポケットにピザを忍ばせたいと思っているし、スカーフのごとく首にピザを巻きたいと思っている。それを入り口で「お客様、そのお召し物ではちょっと」などと止めてくる店は三流だ。正装というのはその国によって違うもので、腰に干し首を三つぶら下げるのが最も礼を尽くした姿だという民族もいるだろう。アツアツのモッツァレラチーズが乗ったピザを首に巻きながらも涼しい顔でいることがどれだけ紳士的行いであるかわからない店などこちらから願い下げだし、他所の文化を認めない狭量さは、このグローバル社会において時代遅れとしか言いようがない。話がとんでもない勢いでズレたが、ともかく私はピザが好きである。特におススメはローソンの冷凍ピザである、300円以下で買える上、レンジで調理するものなのに、ピザのパリッとした食感も出せているという優れものであり、味も非常に良い。まるでローソンの回し者のようだが、別に金をもらっているわけではない。くれると言うならいくらでももらうつもりだが、とにかく一銭ももらえなくてもいくらでも褒めたい一品で、舞踏会などに招かれた際にはぜひ首に巻いていきたいピザなのだ。しかし、このピザを知ってしまったばかりにどうしても頼めない物がある。ピザーラやピザハットなどのいわゆる「宅配ピザ」である。冒頭で言及した「長らく食べたいと思いながらも、未だに食べるに至っていない物」がこれである。○カレー沢氏と宅配ピザの距離感ホームページなどで宅配ピザの写真を見るとどれも非常に美味そうであり、実際美味いのだろう。自分はマウスで数回クリックするだけで、ピザ屋の人がピザ専用の設備で調理し、しかも自分の家まで冷めない内に持ってきてくれる、ピザ愛好家にはたまらないサービスだとも思う。しかし、値段にはどうにも承服しかねるのだ。1枚あたり平気で2000~3000円近くする。ローソンのピザが300円以下であることを考えると、宅配ピザのピザは畳一畳ぐらいの大きさでないとおかしい計算になる。もしそうであるなら喜んで2枚頼み、敷布団にピザ、掛布団にピザという夢を叶えるつもりだが、どうやら座布団ぐらいにしかできないサイズであるらしい。焼肉や飲み会で数千円出すことに対してはそんなに躊躇しないのだが、それはどこで飲み食いしても値段がそこまで大きく変わらないからだ。ピザに関しては、なまじ300円以下で美味いピザがあると知ってしまったがために、約10倍の値段を払う踏ん切りがつかない、というのはあると思う。これまで私は、何か良い事があるたびに宅配ピザを頼もうとした。今日こそ、今日こそ頼んでやるぞと、まるで風俗店の前を何往復もする童貞のように逡巡した。そして結局、値段を見て断念する、ということを繰り返していた。別に、宅配ピザに価格に見合う値打ちがないと思っているわけではない。値段には当然至れりつくせりのサービス料も含まれているだろう。ただ、自分が宅配ピザを頼むに値する人間なのかを考えると、いつも「NO」という結論に達するのである。よって、最後の晩餐には思い残すことをなくすためにも宅配ピザを頼もうと思うのだが、そもそも最後の晩餐ってどういう状況だ、とも思う。病気でもう明日死ぬという状態なら、多分ピザとか食えないと思うし、食事ができるのかさえ怪しい。たとえ健康であっても、今日地球が木端微塵になりますよ、と言われて「よっしゃ! じゃあ最後にピザでも食っちゃいますか!」という発想になるかというと甚だ疑問であるし、宅配ピザの人も地球最後の日にまでピザを配達してはくれないだろう。それ以前に、そんな日に飯を食っている場合なのだろうかとも思うが、おそらく私は何をすべきか考えている内に木っ端微塵になっているタイプである。だったらもう何も考えず、「地球が滅びるでごわすか! なら大好きなピザを頼むデブ!」と部屋一面にピザを敷き詰め、その上を全裸で転げまわろうと思うので、宅配ピザの方々は、それどころではないかもしれないが、地球最後の日でも注文を受けつけていただければ幸いである。<作者プロフィール>カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「負ける技術」(2014年)(文庫版:2015年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品は「猫工船」、「やわらかい。課長起田総司」(単行本1~2巻)、「ニコニコはんしょくアクマ」(単行本1~2巻)。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は2016年1月26日(火)掲載予定です。
2016年01月19日今回与えられたテーマは「なんでそれに萌えるの?」と聞いてくる輩への対処法である。正直に言うと、私にそんな事を聞いてくれる人は一人もいない。○オタク趣味は「沼」?そもそも、こういうことを聞いてくれる人は輩でもなんでもないし、むしろ現人神と言ってもいい。それぐらい、オタクにとっては僥倖とも言える質問だ。そんな事を聞かれた日には、やおら胸ポケットにいつも忍ばせているペイズリー柄の赤バンダナを額に締め、かけていないメガネを光らせながら「オウフwwwいわゆるストレートな質問キタコレですねwww」と、ページ数にするとこち亀全巻ぐらいの萌え語りを展開してしまうだろう。このように、多くのオタクは自分の萌えについて語りたくてたまらないのだ。しかし、オタクが嫌われる最たる理由のひとつは「いつもは地蔵のごとく喋らず、こっちの話には乗って来ないくせに、いざ自分のフィールドに話が及ぶと一方的に喋りだす」という点にあると思う。オタクであるかどうか以前に、人の話を聞かずに自分の喋りたいことだけ喋る人間が嫌われるのは当然のことであり、それが相手には全くわからないアニメやゲームの話だったりしたらなおさらだ。そのため、オタクは円滑に萌え語りができる、趣味を同じくする仲間を常に求めており、いないなら力づくでも作りだす。具体的には、ハマって欲しい漫画を全巻貸す、アニメDVDを貸すなどの行動をとり、時には貸与に留まらず贈与することもいとわない。私なども「モンスターハンター教」の会社の人に「ソフト代を半分出すからモンハンやろう」と言われたので曖昧にうなずいたら、「じゃあ今から買いに行こう」と業務中にも関わらず車に乗せられ、ゲーム屋へ連行されたことがある。オタクは布教活動のためなら出資を惜しむことが全くなく、その行いに一切のためらいは無いのだ。この時も、やりとりの途中から「もしかして、モンスターハンターとは中毒性の高いおクスリの隠語なのでは」と思うぐらいであった。このように、自分の好きなジャンルに他人をはまらせることをオタクの世界では「沼に引きずり込む」と言う。しかし、これが本当のおクスリだったらまさに泥沼だが、モノは漫画やゲームである。「趣味が増えるのは良い事だし、沼などと言わなくてもいいんじゃないか?」と思われるかもしれないが、オタク活動というのは完全に沼なのである。具体的に言うと、金と時間がかかる。東で限定グッズが出たと聞けば走って買いに行き、西で舞台があると聞けば、親が死んだことにしてでも飛んでいく。また、ソシャゲで嫁キャラ(オタクは自分の好きなキャラを男女問わず「嫁」と呼んだりする)のレアカードが出るガチャがあると聞けば、すぐさまクレジットカードと相談だ!となるのである。とにかく、端から見ればクレカよりお医者さんに相談した方がいい状態になってしまうのだが、恐ろしいことに削られるのは時間や金だけではない。例えば漫画であれば、原作での嫁キャラの一挙一動に一喜一憂しなければいけなくなる。もし嫁キャラが命でも落とそうものなら、一週間は飯が食えなくなる。それでもまだ結果が出ているだけいい方で、嫁キャラが2、3年原作に登場せず、今後出てくるかどうかも分からないまま、いわば「萌えの餓死」寸前に追い込まれることもあるのだ。オタクがそのジャンルを離れる原因は「飽きた」からというのもよくあることだが、「疲れた」からということも多々ある。そのぐらい、オタク活動というのは全身全霊を使う趣味なのだ。○なぜオタクはオタク活動をやめないのかしかし、それでもなお人がオタク活動を続けるのは、苦しみを遥かに凌駕する喜びがあるからだ。「萌え」が与えられた時のオタクの行動は様々である。PCの前に突っ伏して動かなくなる者もいれば、部屋中を転げまわり、机の角で頭をぶつけて動かなくなる者もいるし、ただひたすら、顔中の穴から液体を流し続ける者もいる。表現方法は様々だが、そんなオタクたちの脳裏には好き、嫌い、果ては萌えという感情すらすら越え、ただ「尊い…」という言葉だけが浮かぶのである。なので「なんでそれに萌えるの?」と聞かれたら喜んで半月ぐらいかけて説明するつもりだ。しかし、冒頭のテーマはもしかしたら、否定的な意味でそう聞かれた場合どうするか、という質問だったのかもしれない。つまり、「私はあなたの萌えが全く理解できないし不快である。あなたの描いた私の好きなキャラの絵を見て気分を害したので、描くなら私の目が触れないところでやれ、もしくは今後一切描くな、わかったか?」と聞かれた時にどうするか、ということだ。そういう場合は最後まで聞かずに、相手の口に馬糞を詰めてやるのがベストアンサーである。これは聞かれる方もそうだが、聞く方にとっても完全な時間の無駄だ。二次元における趣味趣向、解釈の違いにおける抗争は昔からあるし、おそらくなくなることはない。誰にだって好き嫌いぐらいはある。しかし、ノーマルカップリング派の人間を完全論破し、頭に電流を流すなどして、腐女子へと改宗することに意味があるだろうか。逆の例で言えば、ノーマルカップリング派の人間が「腐女子狩り」を敢行し、腐女子にボーイズラブコミックを踏絵として踏ませたとしても、屋根裏に「BE×BOY」とかをしこたま隠し持つに決まっている。人の趣向というのは、信仰と同様に変えがたいものであり、変えようと思ったら膨大な時間と根気、時には化学の力さえ必要であるし、それでも変わらない場合の方が多いと思う。だったら、そんなことに時間を使うより、最初から趣味の合う人間同士で好きな物の話だけをした方が良い。だが、趣味が同じと思っていた者でも、1ミリの解釈の違いでハルマゲドンに突入してしまうこともある。つまり、仲間が一人もおらず、誰も聞いてない萌え話を時折ツイッターでつぶやき、否定も肯定もひっくるめてリプが1件も来ない私が、オタク界のラストマン・スタンディングなのである。<作者プロフィール>カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「負ける技術」(2014年)(文庫版:2015年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品は「猫工船」、「やわらかい。課長起田総司」(単行本1~2巻)、「ニコニコはんしょくアクマ」(単行本1~2巻)。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は2016年1月19日(火)掲載予定です。
2016年01月12日今回のテーマは「兼業漫画家がはじめてコラムを書いた日」である。私は現在、このように漫画家の傍ら文章の仕事もさせてもらっているが、そもそもコラムを書き始めたきっかけはなんだったのか、という話だ。○コラムニスト・カレー沢薫の誕生簡単に言えば、私を漫画家デビューさせた週刊モーニング初代担当が、私のブログなどを見て「文章も面白いからコラムの連載をしてはどうか」と言い出したのが始まりである。それを真に受けて、連載用のコラムを書き貯め始めたのだが、それから1年ぐらい経っても連載は始まらなかった。その頃にはコラムを書くのは止めて、サバイバルナイフを研ぎ、色とりどりの重火器を集めることに終始していたのだが、それが担当に向かって火を噴く前に、その後任の担当の尽力により初コラム連載がスタートした。(今もモーニングはこの二人が担当である)そこから、他のところでも文章の仕事がもらえるようになった、というわけだ。つまり漫画家になれたのもライターになれたのも、全部モーニング担当らのおかげ、ということだ。ならば平素から「担当殺す」などとうそぶくのは恩知らずも良いところではないかと思われるかもしれないが、私は担当に対し感謝すべきことは非常に感謝しており、ポイントにすると5億点ほど感謝している。しかし殺意ポイントが2兆点あるので、トータルで「殺す」という結論になっているだけである。性格と顔が100点満点のイケメンでも、年収ゼロ・借金100万なら結婚相手としてはマイナス99万9千8百点になるのと同じである。何事もトータルが肝心なのだ。作家と担当の軋轢と言えば、担当に原稿を紛失された、無断使用された、原稿料を横領された、追及したら逆切れされたなど、全く笑えないものも散見される。それに比べれば私の担当がしたことなど全く大したことではなく、むしろ私の逆恨みであることも多いだろう。そして何より、私の担当はこちらが苦言を呈すれば言い訳せずに謝罪してくれるし、刺せば血が出ると思うので、それだけでも有能だ。また、今まで担当に横柄な態度を取られたこともない。不真面目な担当は一人もおらず、真面目すぎてふざけているより性質が悪い人ばかりだ。このように、私は漫画の才能には恵まれなかった分、担当には非常に恵まれている。担当全員を生贄に捧げるので、神は今すぐ私に漫画の才能を授けてほしい。○カレー沢氏のJK時代と「褒め仲間」コラムの仕事を始めたきっかけは、漫画の担当が私に文章の才能を見出したという幻覚症状のおかげだったわけだが、そもそも文章を書き始めたのはいつからかというと、古くは高校生の時に始めたホームページからだと思う。ホームページの内容に関してはもはや説明いらずの「乙女ゲーの二次創作サイト」だが、そこで日記も書いていたのだ。書いている内容は多分今と大差ないと思うが、そこはJKである。顔文字を使ったり、笑って欲しいところではフォントを赤字特大にしたり、語尾に(爆)をつけたりと、今読み返したらリアルに(爆)するものであることは間違いない。当時もその日記を「面白い」と言ってくれる人がいたため、漫画と並行して文章も書き続けてきたのだと思う。しかし、皆さんも「どう見てもカワイくない女同士がお互いを『カワイイカワイイ』と褒め合っている怪奇現象」を1度は見たことがあると思うが、アマチュア創作界隈にも同じ文化がある。自分の作品を読んでもらい、褒めてもらうために、まず相手の作品を読み褒めるのだ。何もしなくても褒めてもらえる上手い人ならともかく、そうでもない者にとってこの褒め仲間というのは大切なものであり、ギブアンドテイクとしては実に正しい。よって、日記を褒められたと言っても、「カレー沢殿!昨夜うpされた新作イラスト爆萌えでござったぞ(核爆)」「いやいやエリザベス閣下(仮名)の裏創作もドチャシコで拙者続きを全裸待機(><)」みたいな褒め合いの中で、「しかしカレー沢殿は日記も面白いでござるな、それがし噴飯ものの腹筋崩壊で候!」みたいなノリで言われた可能性が高く、端的に言えば「そんなに面白くないけどギブアンドテイクのために言った」か、むしろ肝心の二次創作に褒めるところがなかったので、苦し紛れにそこを褒めたと考える方が妥当である。しかし、現に私はそれを真に受けて、漫画だけでなく文章を書き続けていたわけである。そもそも絵を描き始めたのだって、小学二年生の時に絵画コンクールで特選を取り、すごく褒められたため、自分には絵の才能があると錯覚したためだ。教育に携わる方は、「褒めて伸びるタイプもいるが、褒めることによりドンドン道を踏み外す奴もいる」ということをご留意いただければ幸いである。ちなみに担当が面白いと言ってくれたブログだが、ニートだったため、アフィリエイトで稼ぐためにやっていたものである。原動力は常に金と承認欲求、これだけは一貫してブレていない。<作者プロフィール>カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。10月15日にエッセイ「負ける技術」文庫版を発売した。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は2016年1月12日(火)掲載予定です。
2016年01月05日NTTドコモは、代表取締役社長である加藤薫氏の年頭所感を発表した。内容は以下のとおり。○加藤薫氏の年頭所感謹んで新年のご挨拶を申し上げます。振り返りますと、昨年は競争ステージを「サービスによる付加価値競争のステージ」へ変えていくため、邁進した1年でした。まずサービスでは、3月に「ドコモ光」の提供を開始し、簡単・おトク・便利をキーワードに、屋内で最大1Gbpsの高速通信をワンストップで提供するとともに、主に屋外でご利用いただくスマートフォンや携帯電話と合わせて、おトクにご利用いただけるような環境を整えました。「ドコモ光」は昨年12月21日に契約数が100万を超えて、順調に推移しております。また、4月にはパートナー企業の皆様との協創により、新たな価値を創造する「+d」の取り組みを発表しました。小売、医療・健康、教育・学習、農業、IoTなど様々な分野における取り組みを加速させております。さらに、12月から、日本最大級のポイントサービスである「dポイント」を開始いたしました。これまで主にドコモのサービスを中心にご利用いただいていたポイントが、街のお店やネットのお買い物などで、貯めたり、ご利用いただけるようになりました。また、「DCMXカード」も「dカード」に名称を変えるとともに、よりポイントが貯まりやすくいたしました。今後も「通信」、「dカード(決済)」、「dポイント」の3つを三位一体で拡大してまいります。dマーケットも着実に成長を続けており、約1400万のお客様にご利用いただいております。5月に「dグルメ」を追加し、60万を超えるお客様にお楽しみいただいている他、「dマガジン」については1年3カ月で250万契約を超えるなどご好評いただいております。その他「すきじかん」や「ギフトコ」などの多様なサービスも展開してまいりました。ネットワークでは、昨年10月から、「PREMIUM 4G」で国内最速となる受信時最大300Mbpsを実現し、東名阪のドコモラウンジ等では337.5Mbpsの通信を可能とするなど、お客様に快適に通信いただける環境を整えるとともに、エリアの「広さ」「速さ」および「快適さ」をさらに実感いただけるよう取り組みました。お客様満足度では、国際的な満足度調査の専門機関である株式会社J.D.パワー アジア・パシフィックのお客様満足度調査で満足度No.1を受賞しました。今後もより多くのお客様からご愛顧いただけるよう、より一層努力してまいります。今年は、昨年に引き続き、競争ステージを変えるため、様々な取り組みを行ってまいります。当社は、一昨年6月に新料金プランを導入し、あわせて過度なキャッシュバック等の販売方法の是正にも取り組んでまいりました。これからも行き過ぎた販売方法について、さらに段階的に見直しを図るとともに、料金についてもお客様の多様なニーズにお応えできるよう、順次見直しを図ってまいります。「ドコモ光」では、お客様の生活をより便利で楽しくするため、サービスを充実させていきます。また「+d」の取り組みについては、「オープン&コラボレーション」でさらに強力に推進します。パートナー企業の皆様とともに、IoT、社会的な課題の解決、地方創生、2020といったテーマに沿って新たな価値の協創に取り組んでまいります。さらにネットワークでは、お客様に「最高の快適さ」をお届けするため、10月には「PREMIUM 4G」で受信時最大370Mbpsを提供する予定です。第5世代移動通信方式の実証実験や標準化の活動においても、2020年度以降を見据え、世界中のパートナーと協力しながら積極的に取り組みを進めてまいります。また、中期目標を着実に達成するため、昨年に引き続き一層の事業の効率化を図り、経営体質を更に強化してまいります。ドコモは、企業の基本使命である「お客様サービスの向上」と「企業の持続的発展」の両面から、今年も取り組んでまいります。
2016年01月05日今回のテーマは「暴力からの卒業」である。まるでヤンキーの更生話のようだが、「カレー沢暴力」を名乗ってすでに2カ月、そろそろ面白くもなんともなくなってきているから戻しては、という提案であろう。正直言って、全然卒業したくない。暴力に留年しまくりたいと思っている。○実は多い「二つ名」の作家たち「カレー沢暴力」、やはり惚れ惚れするほどカッコいいペンネームだ。さすが他人が考えたものをパクってきただけのことはある。「カレー沢」というペンネームの唯一の利点は、エゴサーチがしやすいというところだ。確かな情報筋によると、ペンネームにカレー沢という苗字を持つ作家は日本に私一人らしい。自分の名前に「カレー」を入れると言うセンスの奴が2人も3人もいたら、いよいよ日本終わった感が漂うので、ひとまず安堵である。下の名が「薫」でも「暴力」でも、カレー沢である以上、エゴサのしやすさは変わらない。ならばカッコいい方を選ぶのが道理と言える。しかし、前も言ったが、ただでさえ無きに等しい知名度を、「薫」と「暴力」で分散させてしまうリスクを考えると、今のうちに「薫」に戻した方が利口ではあるだろう。だが、ペンネームを複数もっている作家というのは、実はそんなに珍しくない。成年向けやボーイズラブ漫画を描く時は別名義にする、という作家も多くいるのだ。よって、私も上記のような仕事が来た際には「暴力」と名乗れば解決である。しかし、ここで新たな問題が浮上する、私に仕事をよこす成年向けやBL誌がこの世に存在しないのだ。仮にいたとしても、私に仕事をふってくるようなところであれば、すぐにこの世から消滅するであろう。どうやら出版社には、皆既月食の如く数年に1度、編集や編集長の判断力が最も鈍る瞬間があるらしく、そういう時に私にお呼びがかかるのだ。とはいえ、どれだけ編集部全体が集団インフルエンザ状態でも、絵の上手さが特に重視されるだろう成年向けやBL方面からのオファーが来るとは思えない。ハレーすい星ぐらいの周期でならそういう瞬間がやってくるかもしれないが、だとしたら次は2061年ということになり、当方約80歳である。多分寝たきりか恍惚の人状態だろうが、耳元で「カレー沢先生!リブレ出版から依頼です」とでかい声で言ってもらえれば、おもむろにパラマウントベッドから立ち上がり、虚空を見つめていた目に光が宿るであろうから、逆に今から2061年に依頼をしてくれる成年向け、BL出版社を募集したいと思う。○「左のワキ出身のワキ毛」の矜恃しかし、私はよく「私はオタクだがBL好きのいわゆる腐女子ではない」という主張をしている。これは例えるなら、ワキ毛が「私は左のワキ生まれのワキ毛で、断じて右のワキから生えたのではない」と言っているような至極どうでもいい内容だが、「腐女子ではない」と明言している以上、BLの仕事がくるはずないだろうと思われるかもしれない。だが、デビュー前から乙女ゲーの二次創作をし、これだけ乙女ゲーが好きだと言っていても、今まで乙女ゲームの仕事が来たことは1回もない。だったら逆に、思ってもみない依頼が舞い込んできても良いはずだ。それにオタク女界も、BLが好きな女と嫌いな女しかいないわけではない。BLは好きではないが嫌悪感もない者、嫌いじゃないが自分の好きなキャラのBLは受け付けない者など、端から見れば全部ワキ毛であるが、かなり細分化される。メタルやデスメタル、ゴシックメタルを「全部同じ鼻毛じゃないか」と言ったら怒り出す人がいるように、ワキ毛にはワキ毛なりの棲み分けがあるものなのだ。私などは積極的にBLを見ることはないが、何か落ち込むことがあった時などに「ここは一発エグイBLでも読んでみるっぺか!」と景気づけBLを飲る(やる)ワキ毛である。話を戻すと、作家がどれだけ「この雑誌でこういう漫画が描きたい」と思っていても、なかなか実現するものではない。それができるならとっくにジャンプで描いている。結局、需要がないから話が来ないだけなのであるが、これではいつまでたっても「カレー沢暴力」が正式に名乗れない。2061年には名乗れるとしても、すでに鬼籍に入っている恐れもある。暴力を名乗れずに死ぬなんて、地縛霊になること必至だ。そこで、別名義を名乗る定義を持って広くしようと思う。今までいろんな雑誌で漫画を描かせてもらったが、ほぼすべて青年誌だ。なので、もういっそのこと、青年誌以外の依頼があったら「暴力」でいくことにする。というわけで少女漫画誌からなどの依頼を待ちたいと思うが、前に「少女漫画誌で描きたい」とつぶやいた後に連絡をくれたのは漫画ゴラクだったので、はっきり言って望み薄である。それに、よく考えてみたら、本名と違う名前を名乗れるのはペンネームやハンドルネームだけではない。例えば、大好きだと言い続けている乙女ゲーがまさにそれだ。灯台下暗しとはこのこと、青い鳥は割と近くにいたのである。よって、これから乙女ゲーをプレイする時は、ヒロインの名前を一律「カレー沢暴力」とする。2次元のイケメンに「好きだカレー沢…」「愛してる、暴力…」と囁かれながら、青年誌以外のオファーを待ちたいと思うので、何卒お願い申し上げる。―カレー沢暴力拝―<作者プロフィール>カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。10月15日にエッセイ「負ける技術」文庫版を発売した。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は2016年1月5日(火)掲載予定です。
2015年12月29日今回から読者から募ったテーマではなく、ふたたび担当編集がひねり出してきたテーマを書くことになった。お題の募集に参加してくれた方々には感謝しかないが、どう考えてもステッカーは山ほど余っているに違いないので、第2回公募もあるかもしれない。その時は奮って応募してほしい。さて、その初回のテーマはというと、「兼業漫画家の体力作り」である。○1ミリたりとも努力・投資しないための“裏技”正直体力は全く作っていないし、むしろ毎日削っている。おそらく1日100歩ぐらいしか歩いてないし、会社でのラジオ体操が唯一の運動だ。あとは、2階の仕事場から1階の冷蔵庫に行くのに、階段の上り下りを若干するが、冷蔵庫から持ってきた食い物で消費したカロリーの何百倍かを摂取するので無意味である。こんな生活をしているので、今年1年で体重は3キロほど増加したのだが、むしろこんな生活をしている割にはあまり増えていないとすら思える。本当なら20トンぐらいになって、このコラムも全部語尾に「デブ」がついていてもおかしくないところデブ。これでも昔は体重の増加に敏感であったし、カロリーハーフのダイエット食品を2倍食うなどの努力も怠らなかった。しかし三十を過ぎてからここ数年で「もう、いいや」と思うようになっていた。この「もう、いいや」は女の人生を格段に楽にするのだが、はっきり言って終わりの始まりだ。今までは、太ったら痩せるために金を使っていた。だが、今度は「太っていても入る服」、さらには、「太っていても入る上に痩せて見える服」を買うのに金を使い出すのである。「もう死んでも努力しない」という固い意志と高い志を感じるのに十分な例示だと思うが、私に言わせればまだ甘い。私はもう1ミリも努力したくないし、金も使いたくないのだ。そのため、体重増加により服のボタンやホックが閉まらなくなったなら「もう閉めなきゃいいじゃないの」と思っている。現に私は今、会社のスカートのホックを完全に外して出勤している。カーディガンで見えないし、閉めなかったからと言って、ストーンと落ちることはない、腹の肉にひっかかるからだ。むしろ落ちるようなら、知らないうちに痩せていたということである。太っているからこそできる裏技といえるだろう。とはいえ、たまに閉めてないのがバレて、親切な人が「ホック外れてますよ!」と指摘してくれるが、そのたびに私は「外しているんだよ」と(心の中で)クールに答えるのである。髪なども依然美容院に行くのが面倒なので伸ばしっぱなしで、白髪も増加の一途なのであるが、最近ではさらに「ハゲ」という要素が追加された。期待のニューカマーである。頭頂部がどうにも薄くなっているのだが、ここでも慌てて育毛剤を使ったり、イブファインオーオクサマにダイヤルしたりはしない。私は嫁に行き、父の名字も家業であった塾も継がなかったのだから、せめて彼のバーコードハゲぐらいは継ごうではないか。今までできなかった親孝行をするチャンスなのでは、と前向きに考えることにした。しかしバーコードと言うのはいかにも男性的なスタイルだ。ハゲたからといって、女を捨てることはない、ここはサイドを女性らしくロングヘアーのままにして「落ち武者スタイル」を楽しもうと思う。このように、ハゲもデブもリメイクとアイデア次第で金をかけずに快適に暮らせるのだ。○カレー沢暴力、ついに“エベレストの頂上”へこうして、服も買わない、美容院にも行かない、運動などもってのほか。金を使うのは専ら甘いパンとペペロソチーノという、自分的にはかなり楽しい生活を送っていた。しかし先日、この愉快なライフスタイルに苦言を呈されてしまった。私の33歳の誕生日祝いに夫と二人で外食をしたのだが、記念日に外食するとこれを機に、と私に対して小言を言う確率が高く、例に漏れずこの日も始まってしまった。今まで「部屋の換気をしろ」「トイレを綺麗に使え」「頭をよく洗え」という無理難題をつきつけられてきたが、記念すべき33回目の誕生日に出された課題は「鏡を見ろ」というものだ。私もここまで来たかという、エベレストの頂上へ到達したかのような感慨深さがあった。誤解の無いよう言っておきたいが、夫は口うるさい男ではない。むしろ私に言いたいことが2兆個あるのに、1兆9千億個は我慢している男である。それでもあと1千億個業を煮やしている部分があるが、それを1つひとつ指摘していたらキリがないので、もう自分で気づけという話なのだと思う。確かに私は鏡を見ない。見ると1千億個ほど欠点が見つかるからだ。見えないものは存在しないと同じと思っていたが、他人からはしっかり見えていたようである。女が「もう、いいや」と思ってしまう原因のひとつは、どれだけ努力して痩せても綺麗にしても、誰もそれに気づいてくれない、誰も自分を見ていないと感じ、誰も見ていないなら手を抜いてもいいじゃないか、と思ってしまうことにある。しかし結論から言うと、私の例のように身なりは「割と見られている」のである。身内にでさえ「目に余る」と言われるのだが、他人から見たら「関わってはいけない人」クラスである可能性が高い。それに、良くなったところは見ていなくても、悪いところはよく目につくものなのである。また、「綺麗になっても誰も見てくれない」と思っていたのは、実際のところ「全然綺麗になっていなかっただけ」なのだろう。私も夫からの指摘で反省し、出社する前には鏡を見て、今まで4個中2個ぐらいしかしまっていなかったベストのボタンを全部閉めるようにしている。だが、スカートのホックは依然として外れている。次の目標はスカートのホックが閉まるようにすることなので、体力作りもかねて、部屋から冷蔵庫への往復回数を増やしてみようと思う。<作者プロフィール>カレー沢暴力漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。10月15日にエッセイ「負ける技術」文庫版を発売した。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は12月29日(火)掲載予定です。
2015年12月22日今回も読者から寄せられたテーマで、「今まで断った仕事 についてお聞かせください」とのことである。○『ランボー怒りのロハ仕事』基本的には仕事は断らない。選べる立場でもないというのもあるが、仕事の依頼が来ると単純に嬉しいので引き受けてしまう。漫画家生活において楽しいことのダントツ1位は「原稿料が入った時」だが、2位は「仕事の依頼があった時」であり、それ以外は同列ワースト1だ。昔はスケジュールの都合上断ったこともあったが、今では「やればできる」ということがわかったので、とりあえず引き受けるか「今は無理だがいつごろならできる」と言うようにしている。ちなみに「やればできる」の「やれば」はお薬などの話ではない。それでも断る仕事は何かというと、まずノーギャラの仕事だ。これはもはや仕事ですらない。Twitterなどをやっている皆さんなら、一度は作家が「ノーギャラで仕事をさせられた/させられそうになった」と激怒しているツイートを見たことがあるんじゃないだろうか。同種の話は何度も見たし、どれも広く拡散されている。そろそろ皆「クリエイターはタダで仕事をさせられるのが大嫌い」とわかってもよさそうなのに、それでもまだタダ仕事で作家を激怒させ、Twitterで暴露される奴が後を絶たないのは逆に不思議である。それに、タダ仕事なんて皆嫌いだろう。クリエイターだけが例外なはずはないのである。ここで持ち出されるのが「作家は好きなことを仕事にしているので金のことを言うのはおかしい、汚い」という理論である。そういう思想がますます作家の精神を怒りのデスロードへ導くのだ。なぜ、月給が保障されている会社員より、明日も知れない社会保障もない作家の方が金にキレイだと思えるのか。むしろ金に超汚いと思ってしかるべきだろう。しかし作家の方だって、金のことばかり言うのは下品だと思っている。後で齟齬が発覚してもめないためにも、仕事を受ける前に決死の思いで「ところで…ギャラの方は…?」と聞いているのだ。そこで相手に「え?お金とるんですか?」などと言われたら『ランボー怒りのロハ仕事』の開戦である。(編集注:ロハ…タダ、無料を意味する俗語。「只」を分解するとカタカナのロとハになることに由来。)やおら上半身裸にバンダナを締め、目の前で「お金は出せませんけど宣伝になりますしあなたにとってもプラスになると思うんですよー」などと言っている野郎の頭をAT4でぶっ飛ばしてやりたいところだが、そうもいかないので、やり場のない思いを「ランボー怒りの長文連ツイ」として、Twitterに書きこむしかできないのである。そういう私も、実は金のことはなかなか言えないタイプだ。今まで運よくそういう相手に遭遇しなかっただけで、実際そういう状況になったら何も言えずタダでやってしまいそうな気もする。そこでそうなる前に、両まぶたへ「¥」マークのタトゥーを入れようと思う。これで口に出さずとも、こちらが瞬きするたびに「こいつはタダじゃやらないな」というアピールになるし、サブリミナル効果で相手がギャラのことを忘れるのを防止することもできる。この方法に関して権利を主張する気はないので、金の話がなかなかできない奥ゆかしいクリエイターの方はドンドンマネして欲しい。なお、私の場合、例外として「連載の販促のため」とか、「読者プレゼント」とかならタダで描くこともある。また、現金は出せないが、女ないし子猫を抱かせてやると言われれば、やぶさかでない作家もいることだろう。○ロハと同様に罪深い依頼の内容とは?次に断るのが、「私の作品を読んでいないのに来る依頼」である。そんなのあるのか、と思うかもしれないが、たまに不特定多数の漫画家に一斉送信されていると思わしき依頼が来るのだ。こういう依頼は、「既存作品を掲載させてくれ」というものが多い。作家にとって、依頼してくる相手が自分の作品を読んでくれているのかは非常に重要なことなのである。「あなたの漫画読んでないけどうちで描いてください」という頼み方では、作家は100%気分を害すと言ってもいい。全部読めとは言わないが、ひとつぐらいは読んで、一言感想を添えるだけで心証は180度変わる。冒頭で「仕事の依頼が来たときが2番目に嬉しい」と言ったのも、ただ単純に仕事がもらえるからというだけでなく、自分の作品を気に入ってもらえたというのが嬉しいからだ。「あなたの作品を読んでとても面白かったので、ぜひうちでも書いてほしい」と言われるのは、作家にとって非常に嬉しいことなのである。しかしこれが「あなたの作品はとても面白いのでぜひうちで書いて欲しい、タダで 」になると、作品を褒められて上機嫌だったはずの作家は瞬時に半裸のバンダナ姿となり、頭をぶっ飛ばしにかかってくるので注意が必要だ。少なくとも、Twitterに晒されるのは覚悟しよう。「あなたの作品が大好きで大ファンなのでタダで描いてください」というのは、「友達だからタダでいいよね」と自分から言ってくる奴ぐらいに性質が悪い。とはいえやはり仕事として漫画を描いているので、私の作品を好きだろうが嫌いだろうが、条件さえしっかりしていれば他に言うことはほぼない。あえて付け加えるとすれば、「あなたの作品は読んでないけど買いました」と一筆添えてくれれば喜んで引き受けるつもりなので、その点ご留意いただければ幸いである。<作者プロフィール>カレー沢暴力漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。10月15日にエッセイ「負ける技術」文庫版を発売した。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は12月22日(火)昼掲載予定です。
2015年12月15日今回読者から寄せられたテーマは、「なぜ女は金と時間をかけてまで美人になりたいのか…ブサイクはいやなのか… 哲学的な内容ですが、カレー沢先生に尋ねてみたいです」である。○美しくなりたい=男にモテたいではない深いテーマだ。私も今でこそ体全体で「諦め」という文字を表現してしまっているが、20代の頃は美しくなりたかった。今でも美しくなる努力はしたくないが、神に「美しくしてやろう」と言われれば「まあお前がそう言うなら」と甘んじて受け入れ、美しくなるつもりである。だが、美しくなりたい=男にモテたい、という結論は短絡的だ。男だって、ギターを始めた、などの行為を全部「女とやりたいからだろう」で片づけられたら、手にしたギターを弾くより先に、そいつをぶん殴ることに使うはずである。とはいえ、この手の決めつけには、女のほうがより激しく怒る傾向がある。もしダイエット をしている女に「モテようとして」などと言ったら、「このガール様が男にちやほやされるために痩せようとしていると思っているのかァーーーッ!!」と、ジョジョの岸部露伴並みにキレること請け合いである。そう、美しくなろうとするガール様の志は「男にモテたい」などという些末なものではなく、もっと高く広いものなのだ。つまり、「美しくなれば全部うまくいく」と思って美しくなろうとしているのである。当然、その中には「男にモテる」も含まれている。こう言うと、「美人だからと言って全てが上手くいくわけではない。むしろ美人ゆえの苦労もある」と言われるかもしれないが、こちとら美人になったことがないからわからないのである。石油王に「いや、石油があるのも大変だよ」と言われてもこちらは「石油がある苦労」というが全く想像できないのと同じだ。それに、努力し美を手に入れ、「美しくはなったけど、何も変わらなかった」とわかるならまだいいが、大体の女が途中で挫折し、「美しくなれさえすれば人生変わったのに」と一生言い続けながら死ななければいけないのである。しかし、当然ながらすべての女が美を求めているわけではない。シケモクのごとく燻っている現状を打破する神の一手として美を選んだにすぎず、キャリアアップのために勉強をはじめたり、インドに行ってみたり、とりあえずインテリアを北欧風にしてみたりと、方向性は様々だ。○「ありのまま」が引き寄せる不幸それでは一体何が欲しいのだと問われると、それは「自信」な気がする。もっと端的に言えば「自分を好きになりたい」のだと思う。一生自分として生きていかなければならないのに、自分が嫌いというのは不幸とも言える。とはいえ、超高校級のブスあるいはバカ、ブスバカ界ぶっちぎりのドラフト一位で、全監督が獲得のために生放送の中でも殴り合いを始めるような逸材としてこの世に生を受けたとしても、不幸になるとは限らない。毎朝鏡にうつった自分に「やあ、今日も神がかってブスだね…」と言い、呼吸を止めてうっとり3分ぐらい自分と見つめ合い、最後にキッスしてから出勤するというならブスでも人生明るいと思う。一方、美人でも自分の顔が嫌いで鏡もまともに見られないというなら不幸だろう。つまり、美しくなる=自分を好きになれる=自信がつく=人生が良くなる、という方程式から、女は美を求めるのではと推察される (先述の通り求めるものは必ずしも美ではなく、インド放浪やキャリアアップなどでもいい)。この反動がいわゆる「ありのままの自分を愛せ」という風潮につながるのだと思うが、「美人になれば幸せになれる」という考えが浅はかなら、「ブスでも馬鹿でも自分が自分を好きならオールオーケーハッピー」という考えも疑ってかかるべきだろう。「美人ゆえの不幸」が存在するというなら、「自分が好き故の不幸」もあるはずだ。まず、自分が好きな人間は他人が自分に寄せる好意も疑わないであろうから、だまされやすいとも言える、その点、自分に自信がない人間は慎重である。うまい話は全部罠だと思っているし、話しかけてくる男は全部、キャッチか宗教だと思っている。もしイケメンに名前を尋ねられることでもあれば、まず「私にお金はありません」と中学生英語の直訳みたいな返答をしてしまうのである。また、突発的な不幸に対し、常人なら「なぜ自分がこんな目に…」と自らの不運を嘆いてしまいがちだが、自己評価の低い人間だと「まあ俺ごときの人生!こういうことも起こりますわいな!」と、突然の不幸を「必然」として処理できてしまう。そういう人生が楽しいかと言われれば「否」かもしれないが、そう生きることが一番楽と感じる人間もいるのだ。「美人になって幸せになった」「インドに行って人生変わった」という人がいるのも確かだろうが、「すべてを諦めることにより、人生楽になりました」という人がいるのも事実であり「〇〇して人生良くなった」の〇〇は自分で見つけ出すしかないのである。しかしこの「完全に諦める」という行為こそが一番難しい。私も見た目的には完全に「終わっている人」だが、実はまだ人生逆転できる一打を求めており、今はどの壺を買うのがベストか、模索しているところである。<作者プロフィール>カレー沢暴力漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。10月15日にエッセイ「負ける技術」文庫版を発売した。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は12月15日(火)昼掲載予定です。
2015年12月08日今回は、読者からいただいたテーマ「東京までの旅路での過ごし方」について、である。私は地方在住のため、年に数回、取材や打ち合わせのため上京している、移動手段は専ら飛行機。おそらく、その間何をしているかという質問だと思うが、残念ながら「寝ている」の一言で終わってしまう。○大人になったらなんとかなる、というまやかしというのも、私は子供のころから極度の乗り物酔いで、今でも酔い止めなしでは長時間乗り物に乗ることができず、しかも酔い止めを飲むと眠くなるのである。乗り物酔いに限らず、「大人になったら治る」と言われているものは数多くあるが、あれは嘘だ。治る人もいるとは思うが、例外もいる。私の場合、乗り物酔いも人見知りも大人になったところで治らず、むしろ悪化した。このコラムを読んでいる中学生以下の子どもがいるなら(乗り物酔い以前に問題が2兆個ほどあるが)、伝えたいことがある。もし大人から、乗り物酔いはじめ自分が困っていることに対して「大人になれば治るよ」などと言われたら、その瞬間、目つぶしを食らわせていい。じゃんけんのチョキでやるのではなく、人差し指と薬指を用いた正しい目つぶしをお見舞いしてしまおう。大人はいつも嘘つきであり、そんな大人には天誅が必要なのだ。話を戻すと、飛行機の中では大体寝ている。だが、目的地に着く前の中途半端な時間に目が覚める時はあり、そんな時に読むのが機内誌だ。私はJALを使っているため、「SKYWARD」という雑誌が置いてある。この雑誌、読んだことがある人ならわかると思うが、下世話なところが一切ないのである。未だかつて、この雑誌に出会い系や開運ブレスレットの広告が載っているのを見たことがない。さすがにJALのマイルが貯まるクレジットカードの広告くらいは載っているが、キャッシングで手に入れた金を使ってパチンコをする奴などを読者に想定していないと思う。○嫉妬するロハス、嫉妬しないロハスでは、一体何が書いてあるのか。出会い系情報と開運ブレスレットを抜きにしたら何も書くことなんてないんじゃないか、と思われるかもしれないが、一言で言うと「上質で豊かなこと」が書いてある。上質と言っても、華美なことが描かれているわけではない。どちらかと言うと、日本国内外の自然豊かな田舎町とか、そこで食べられる美味しいものとか、自給自足の生活とか、ロハス寄りの内容である。ここでロハスと言っているが、実はロハスという言葉の雰囲気こそ何となく感じているものの、きちんとした意味は未だに知らない。というか、意図的に調べないようにしている。「ロハス」とググッたが最後、その意味を知った瞬間「そんな物はまやかしだ!」と机ごとパソコンを斧で両断してしまうことがわかっているからだ。見たら3億%ムカつくとわかっているものは、最初から見ない主義を貫いている。そのためロハスの意味はわからないが、「おそらくこれがロハスなのだ」と思えるようなことがこの「SKYWARD」には書かれている。ではそれを読んで「そんなものは蜃気楼(ミラージュ)だ」と飛行機ごと雑誌をまさかりで両断し、空中爆発してしまうかと言うとそうでもない。どちらかというと、これを読むのを楽しみにしている。というのも、書いてあることがあまりにも自分からかけ離れているからである。例えば、「ヨーロッパのとある地中海を臨む町の老舗レストランでしか食べられない、新鮮なシーフードを使った名物料理」の話をされても、「そりゃすげえ」という感想しか出てこない。そもそも、嫉妬心というのは、自分に近しいものにしか抱けないものなのだ。「海外セレブの豪華な暮らしブログ」なら「まぁ素敵」と見ていられるが、自分と同じぐらい燻っていると思っていた同級生の女が「独立してカフェを開こうと思います」などとFacebookに書こうものなら、全力で足を引っ張りたくなるのである。また、ロハスという言葉だって、ハリウッド女優あたりが「私はロハスな生活をしています」と言えば「いいね!」を連打するだろうが、先日まで合コンという合コンに皆勤賞だった女が突然「もう消耗するのはやめた!これからはロハスだよね!」と言い出したら、そいつの部屋に乗り込んで、買いたてのIKEAの家具を全部破壊したくなるのである。私は本コラムでしつこいほど「人のサクセスが嫌いだ」と言っている。特に同業である漫画家の成功には、邪悪に対するメロスぐらいに、人一倍敏感なのだ。そして逆に、自分と遠い人間のサクセスは別に気にならない。その証拠に、自分が一度たりとも運動能力で脚光を浴びようと思ったことがないため、スポーツ選手の活躍は特に羨ましいと思わない。しかしこの「SKYWARD」にも同業種といえる作家の寄稿はあるし、本稿のようなエッセイページもある。仮に私と年の近いベジタリアンの小洒落エッセイストみたいな女がエッセイを書いていたら、こんなこともあろうかと厳重な警備をかいくぐって機内に持ち込んだ発破で飛行機ごと雑誌を爆破してやるところだが、幸いなことに、この「SKYWARD」にエッセイを連載しているのは「浅田次郎」御大である。同業者に嫉妬すると言っても、あまりにも格上の存在は例外だ。今更、鳥山明や尾田栄一郎を妬まないのと一緒である。また浅田先生が淡々とした文章で「ラスベガスのカジノに行った話」などをするものだから、こちらは「さすが浅田先生!」「よっ!待ってました鉄道屋(ぽっぽや)!」と安心して読むことが出来るのである。よって、私の東京までの旅路の楽しみはこの、私には全く関係ない雑誌「SKYWARD」にあるといえる。つまり、この雑誌に何の嫉妬も起こらないほど、上質で豊かな生活とは対極にいるということだ。<作者プロフィール>カレー沢暴力漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。10月15日にエッセイ「負ける技術」文庫版を発売した。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は12月8日(火)昼掲載予定です。
2015年12月01日今回のテーマは「嗜好品」だ。読者から応募のあったテーマで、「甘いパン、ペペロソチーノなど既出ですが、酒タバコ菓子なんかへの愛もお聞きしたい」、とのことである。現在私は、タバコはやらないし、酒はそんなに飲まない方である。タバコに至っては幼少期からその匂いが苦手であり、小学2年の時、「極度のヘビースモーカーだった担任の体臭を嗅いだだけでゲロを吐いた」というレジェンドを持つほどだったため、吸ってみようという発想にさえ至らなかった。○酒と破滅と女と血肉酒に関しては、飲み会などで少し飲むぐらいで、家では飲まない。しかし、二十代前半のころ、なぜか「破滅」というものに憧れ、自分も一発破滅してやろうと思い、昼間から酒をたくさん飲んだ時期があった(普通、こうした中二病的な衝動は中高生ぐらいで通る道であり、二十歳すぎたら黒歴史になっている)。車がないと外出もままならない地方に住んでいるため、昼に酒を飲むと、もうその日は一日中家から出られなくなる。どれだけ正体不明に泥酔しても「酒を飲んだら車に乗っちゃダメ」と思っているあたりもともと破滅に向いてない気がするが、当時は一日中引きこもりながら「破滅って地味だな」と思ったものである。実際のところ「破滅が地味」なのではなく、「地味な奴が破滅しようとするとダイナミズムに欠ける」だけであり、同じ「破滅」というゴールを目指すにしても、単身大気圏に突っ込んで大爆発と共に破滅する奴もいれば、人知れず海の藻屑になっている奴もいるのだ。自分などは完全に後者であり、二十歳そこそこで庭石の裏のコケみたいになりかけたため、「このままでは破滅するな」と思い、無理な酒はやめた。味に関しても、酒よりはジュースの方が美味いと思う、特にコーラは太古の昔より聖水と呼ばれ、ご神体(ピザポテト)に捧げる供物として珍重された。それらはピザポテ党の巫女である私が舞を奉納した後、巫女の血肉(主に肉)になるのであるが、この舞で打ち鳴らすのは、太ももでならなければならない。素人は腹肉を叩きがちだが、プロなら「真にどうにもならないのは腹より太ももの肉」だと理解していて当たり前だからである。まかり間違って腹肉など叩こうものなら、たちまちピザポテ神の怒りに触れ、聖水はダイエットコーラなる腰抜けとしか言いようのない物になり、その力を失うのである。やはり酒を飲む時は、味というより、酒を飲むことで得られる高揚感を目当てに飲んでいるような気がする。しかしこの高揚感というのが曲者で、「いつもは人見知りだが、酒を飲むと愉快な人間になれる」という理由から、アルコール依存症になってしまう人も少なくないらしい。その点私は「酒を飲んでもおもしろくない」という盤石のつまらなさを誇っているので、酒に依存するまでには至らなかった、何をやってもおもしろくなくて本当に良かった。○「ペペロソチーノ自由形」酒やたばこに語るようなこだわりはないが、食べ物にはある。すでに冒頭で読者に言われてしまっているが、今熱いのはペペロソチーノだ(正確にはペペロンチーノだが、本稿では特に理由もなくペペロソとする)この1年ぐらい、本当に毎日かという勢いでペペロソチーノを食べている。と言っても、評判のお店を食べ歩きしているというわけではない。家でパスタを茹で、市販のソースをかけて食べているだけだ。そもそも、外食というものをほとんどしない。メニューを選び、注文を店員に伝えるという一大事業に時間を要するため、料理が出てくるまでに餓死する恐れがあるというのが一番の理由だが、基本的に物を食べる時は一人がいい。物を食う時は自由で救われていなければいけないのだ。ペペロソチーノ自由形という競技において、人目というのは邪魔でしかない。前にも書いた通り、自室にこもり、イスの上に立膝をつき、箸とパソコンのマウスを交互に操りながら、金に困っている人のブログなどを鑑賞しつつ食べるのだ。これには外国人審査員も「オー!ヤマトナデクソ!」と称賛の声を上げること請け合い、金メダル間違いなしである。私の食い方の汚さを延々説明しても読者の食欲がなくなるだけだし、ペペロソチーノそのものの評価が下がる恐れがあるので、ここは私のおススメペペロソについて説明したい。まず、麺は安くて太い物が良い。喉に詰まりやすくよく窒息しかけるため、「生」を実感できるからだ。パスタソースは160円二食入りぐらいの物を勧める。これ以下になるとソースが液状から粉状になることが多く、食感がざらざらになり、ニンニクなどのトッピングも格段にしょぼくなる。160円の物も下から二番目ぐらいの価格だが、個人的にはペペロソチーノソースは高ければ美味いというわけではないと思う。昔、何かいいことがあった時(覚えていないが、誕生日か何かだったのだろう)に、「たまには奮発しよう」と、一食300円ぐらいの、海鮮仕立てペペロソソースを購入した。単純計算して、160円の物の約二倍はうまいはずと思ったのだが、一口食べて思った。「俺のペペロソにオーシャンはいらない」と。ペペロソチーノは結局シンプルイズベストであり、オリーブオイルに申し訳程度のニンニクチップと鷹の爪、彩り以外に何の用途もないカラカラのバジルがあればいいのだ。もっと言えば、油まみれの麺を口に詰め込み喉に詰まらせ、「生きてる!」と叫べればそれでいい。私の部屋の床がなぜ中華料理屋のようにベトついているかだんだんわかってきたが、それでも私はペペロソをやめない。最近、「生が実感できない」という人は、自分好みの「喉に詰まりやすいが、死ぬまではいかない食べ物」を見つけてみてはどうだろうか。<作者プロフィール>カレー沢暴力漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。10月15日にエッセイ「負ける技術」文庫版を発売した。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は12月1日(火)昼掲載予定です。
2015年11月24日今回のテーマは「怒りに対する発散方法」である。できればムカつかずに生きたい。そう願って止まないが、心は年々狭くなる一方である。よく「年を取って丸くなった」と言うが、あれは怒る体力がなくなってきているだけじゃないかと思う。ただの元気がないおっさんを「落ち着いていて素敵」と錯覚するのと同じだ。生まれた時から心の広さは四畳半ぐらいしかなかったが、現在ではマイクロビキニぐらいの面積になっている。しかし、心のままに周囲に怒りをぶつければ周りが対処してくれるは、乳児か二兆円持っている人ぐらいのものだろう。多くの場合、怒りは我慢しなければならない。肩がぶつかったからといってイチイチ相手を殴っていては 、こっちの拳が粉砕骨折するからだ。それに、生身の人間に怒りをぶつけると、当然ながら反撃なり反論をしてくる場合がある上に、殴り返して来た相手の拳が超合金だったら、さらなる痛手を負うリスクがある。こうした危険を避けようとした結果生まれるのが、怒りを発生させた当人ではなく、絶対反論できない相手に怒りをぶつけるクレーマーだ。こういった人たちは、肩がぶつかった相手がカーネルサンダース人形なら容赦なく暴行するが、カーネルサンダース(本人)だった場合は「あっすみません…」と小声で謝るのだ。何せ相手はサンダースだ。雷雲を召喚し、消し炭にされる恐れがある。○普段怒らない人が怒ると……大人になると、「自分を怒らせた相手に怒りを伝える」ということ自体レアケースになってくる。大体、自分に自信がない人間と言うのは己の怒りにすら自信がなく、仮に感情のままに相手に怒りをぶつけ謝罪させるに至ったとしても、クールダウンの後必ず「私の怒りは正当なものであっただろうか」「自分に怒る権利はあったんだろうか」という反省会が始まり、「怒るんじゃなかった」という結論になるのである。このような「怒りの賢者モード」が辛いので、普段どれだけ怒りを覚えても、相手にそれを伝えることはあまりない。しかし、年に一度くらいは、顔面白塗りに懐中電灯をくくりつけ、弾倉をたすき掛けにした自害覚悟の八つ墓村ルックで「この怒り!ぶつけずには死ねない!」と怒りにいくこともある。だが、怒りなれていない人間が怒る姿というのは、残念ながら滑稽になりがちなのだ。こちらとて、怒りをぶつけると言っても、「バカ!バカ!ウンコ!」とか言いたいわけではない。理路整然とこちらが怒っているわけを説明し、しかるべき謝罪を受けたいだけなのである。しかし、緊張しているため、とにかくどもる。「ぼぼぼぼ僕は怒ってるんだな」、みたいな感じになる。挙げ句、事前に言おうと思っていたことの大半を忘れるため、しばらくしたら無言になってしまう。相手もとりあえずこちらの言い分を聞こうとしているため、訪れるのは完全なる沈黙だ。八つ墓村ルックで突撃してきた奴が、突然「おこなんだからね!わかってよ!」と彼氏の前でムクれる女子高生のようになるのである。とても三十過ぎの大人が話し合いをする姿ではなく、相手のタマは一切取ってないが、とりあえず自害だけはしたくなる。○大人らしいスマートな「怒り方」そもそも怒りという感情は、ぶつける・ぶつけないに関わらず、あまり人に見せて良い物ではない。集団の中に一人でも不機嫌な人間がいれば空気が悪くなり、志気に関わるため、そういったものを人前でまき散らすのは品がない行為だとみられてしまう。つまり、正しい大人の怒りの発散方法は、一人で怒りの炎が消えるまで怒りまくることなのだ。まず、大人の女性なら一着はあつらえているであろうトゲ肩パットつき革ジャンをまとい、頭はモヒカンまたは「怒」というタトゥーを入れたスキンヘッドに整え、エレキギターで縦横無尽に部屋にあるすべての物を破壊し尽くしながら叫べば良い。この時叫ぶ言葉は、残念ながらマイナビニュースでは5億%NGなものなのだが、語感としては「不惑」が近い。「不惑――――!」と叫びながら、ウィスキーを口に含み、ライターで火を噴いて終了だ。それでも怒りが収まらなかったらTシャツに着替え、「アンコール!」と叫んで、もう一度エレキギターで部屋の物を念入りに破壊しよう。この方法は、二兆円程度の資産を持つ石油王であれば問題なく行えるのだが、普通のOLなどがイラっと来るたびに部屋のものを破壊していたら後片付けが大変だし、アパートなどで暴れたら、結局他人の迷惑になってしまう。狭い日本、思う存分暴れられる場所というのは稀である。こんな時、ドラゴンボールのZ戦士たちが戦う時に使う、あの都合の良い謎の荒野があれば良いのだが。○怒りを鎮火するための異なるメソッドよって私は、怒りという感情が生まれたら、別の感情で消すことにしている。それは「萌え」だ。3次元で生まれた喜怒哀楽を3次元でカバーするというのは、腹痛を紛らわすために両腕を折るみたいなことで、痛みが倍増する恐れがある。具体的なことを言うと、耐えがたき憤怒や悲しみに襲われた時には乙女ゲーム(イケメンを落とす恋愛シュミレーション)をやるようにしている。イケメンを一人落とす頃には、不思議と怒りや悲しみが消えていくのだ。そのぐらい、私にとって萌えというのは、全ての感情を超越したものなのである。しかし、逆に言うと、萌えで消えない怒りがあったら、それはもう我慢する必要すらないような気がしている。もしそういった事態になったら、懐中電灯や銃創と言わず、着火済みのダイナマイトを巻いて相手の元に走って行こうと思う。萌えすら凌駕する怒りなのだ、もう悔いはないだろう。<作者プロフィール>カレー沢暴力漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。10月15日にエッセイ「負ける技術」文庫版を発売した。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は11月24日(火)昼掲載予定です。
2015年11月17日今回読者からいただいたお題は、「福山雅治やイケメン俳優の結婚について語り、そして我らを成仏させていただきたい」というものである。○まさかの福山結婚今年は、福山雅治を筆頭に、多くの妙齢男性芸能人が結婚し、全国で推定5億人の死者が出たと予想される。私などは子供のころからあこがれの男は二次元、周りが光GENJI最盛期にどうすればドラゴンボールの悟空と結婚できるかを考えていた女である。あまり芸能人の結婚でショックを受けたことはないが、それでも福山雅治の結婚は驚いた。上手く言えないが、福山は、福山だけは、口の周りはカサついてるのに、Tゾーンは油田みたいになっている女の夢と殉死してくれる存在だ、という安心感があったのだ。しかし、福山雅治には福山雅治の人生があった。つまり今回の事件で我々が肝に銘じておかなければいけないことは、「こいつは結婚しないだろうと思っていた男性芸能人も、意外とする」ということである。肝に銘じた所で、死に方が「いきなり隕石に当たって死ぬ」から、「まあいつか隕石降ってくるだろうな、と予想しながらやっぱり当たって死ぬ」にシフトするだけだが、覚悟しておくにこしたことはないだろう。しかし、好きな芸能人の結婚や熱愛に嘆き悲しんでいると、必ず「福山雅治が結婚していようがいまいが、お前のモノになる可能性は限りなくゼロなんだから大差ないだろう」などと冷や水をぶっかけたがる奴が出てくる。そういう問題ではないのだ。こういうことを言ってくる奴の前世はカナブンだし、来世はバッタである、○「公式設定」の破壊力相手が二次元だろうが三次元だろうが、「公式設定」の存在はとにかくでかい。例えば、漫画でAと言うキャラがいたとする。Aに原作の中で特定のキャラとつきあっている設定がなかった場合、オタクたちは自分の好みでAをBやCというキャラとくっつけたり、はたまた「Aは自分とつきあっている」などの設定で妄想を楽しんだりするのである。そんな状況の原作が進展する中で、「AはDというキャラとつきあっている」という設定が描かれたら、オタクにとっては一大事、状況は一変する。いくら原作でDとくっついたとしても、妄想は自由なのだから、お構いなしにBやC、さらには自分と恋愛関係にさせておけばよいのだが、「Dとつきあっている」設定がなかったころのように、のびのびと妄想するのは至難の業だ。やはり、「公式設定」の影響力は非常に強い。つまり、「福山雅治×吹石一恵」という公式カップリングが成立してしまったことにより、ファンのテンションはドン下がりなのである。自分は結婚前から「福山×吹石」派だったという者にとっては大勝利であろうが、おそらくかなり少数派であろう。そんなのはお構いなしに、今まで通り福山雅治に対し幻想や妄想を抱こうとしても、どうしても脳裏に「公式カップリング」の相手・吹石一恵の存在が浮かんでくるのだ。これは寝る前のエロ妄想の最中、必ずお母さんの顔が浮かぶようになってしまったぐらい由々しき事態である。○成仏する前に状況を打開するではこの未曾有の事態を「福山雅治のファンはやめない」という前提でどう打開していくかと言うと、まず彼に対する萌えの見方を変えるという方法がある。人のものになったという現実を受け入れ、温かい家庭を築く福山雅治にあらたな魅力を感じていくという手法である。これにはまず、自分がファンとして使った金が、別の女を養うために使われたかもしれない、という現実を受け入れるだけの仏の精神が必要で、「福山雅治のことなら全て受容する」という人向けである。それとは逆に、「全て受け入れない」という方法もある。いわば「原作スルー力」を極限まで高めるのである。二次元の世界でも、A×Dが公式設定であっても、「誰がなんと言ってもA×B」で活動している人は多くいる。その胆力を見習うのだ。オタクの中にも「〇〇(キャラ名)は10巻まで派」を公言する人がいるのだから「自分は吹石一恵と結婚するまでの福山雅治派」だと言ってしまってもいいし、二次創作の注意書きなどに「※このマンガにはBL表現が含まれます」と書いてあるのと同じように、自分の脳内で「※この福山雅治は吹石一恵と結婚していません」と一言添えて、あとは従来どおり妄想を抱けば良いのである。もちろん、3次元の場合実在する人物ゆえ、2次元よりこういった割り切りが難しいと思う。だが、2次元の場合も、「原作で死ぬ」などの大事件が起こることがあるので、リスクの上ではイーブンと言える。それに、原作でいくら推しキャラが死のうと、「※この作品では〇〇は生きてます」と一言添えて、元気に二次創作をしているオタクたちもいるのだ。「結婚しようがしまいが、お前のモノになることはない」という無粋なコメントが仮に真実なのだとしたら、「現実がどうだろうと関係ない」という開き直りもまた真実なのである。<作者プロフィール>カレー沢暴力漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。10月15日にエッセイ「負ける技術」文庫版を発売した。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は11月17日(火)昼掲載予定です。
2015年11月10日