今回読者からいただいたお題は、「福山雅治やイケメン俳優の結婚について語り、そして我らを成仏させていただきたい」というものである。○まさかの福山結婚今年は、福山雅治を筆頭に、多くの妙齢男性芸能人が結婚し、全国で推定5億人の死者が出たと予想される。私などは子供のころからあこがれの男は二次元、周りが光GENJI最盛期にどうすればドラゴンボールの悟空と結婚できるかを考えていた女である。あまり芸能人の結婚でショックを受けたことはないが、それでも福山雅治の結婚は驚いた。上手く言えないが、福山は、福山だけは、口の周りはカサついてるのに、Tゾーンは油田みたいになっている女の夢と殉死してくれる存在だ、という安心感があったのだ。しかし、福山雅治には福山雅治の人生があった。つまり今回の事件で我々が肝に銘じておかなければいけないことは、「こいつは結婚しないだろうと思っていた男性芸能人も、意外とする」ということである。肝に銘じた所で、死に方が「いきなり隕石に当たって死ぬ」から、「まあいつか隕石降ってくるだろうな、と予想しながらやっぱり当たって死ぬ」にシフトするだけだが、覚悟しておくにこしたことはないだろう。しかし、好きな芸能人の結婚や熱愛に嘆き悲しんでいると、必ず「福山雅治が結婚していようがいまいが、お前のモノになる可能性は限りなくゼロなんだから大差ないだろう」などと冷や水をぶっかけたがる奴が出てくる。そういう問題ではないのだ。こういうことを言ってくる奴の前世はカナブンだし、来世はバッタである、○「公式設定」の破壊力相手が二次元だろうが三次元だろうが、「公式設定」の存在はとにかくでかい。例えば、漫画でAと言うキャラがいたとする。Aに原作の中で特定のキャラとつきあっている設定がなかった場合、オタクたちは自分の好みでAをBやCというキャラとくっつけたり、はたまた「Aは自分とつきあっている」などの設定で妄想を楽しんだりするのである。そんな状況の原作が進展する中で、「AはDというキャラとつきあっている」という設定が描かれたら、オタクにとっては一大事、状況は一変する。いくら原作でDとくっついたとしても、妄想は自由なのだから、お構いなしにBやC、さらには自分と恋愛関係にさせておけばよいのだが、「Dとつきあっている」設定がなかったころのように、のびのびと妄想するのは至難の業だ。やはり、「公式設定」の影響力は非常に強い。つまり、「福山雅治×吹石一恵」という公式カップリングが成立してしまったことにより、ファンのテンションはドン下がりなのである。自分は結婚前から「福山×吹石」派だったという者にとっては大勝利であろうが、おそらくかなり少数派であろう。そんなのはお構いなしに、今まで通り福山雅治に対し幻想や妄想を抱こうとしても、どうしても脳裏に「公式カップリング」の相手・吹石一恵の存在が浮かんでくるのだ。これは寝る前のエロ妄想の最中、必ずお母さんの顔が浮かぶようになってしまったぐらい由々しき事態である。○成仏する前に状況を打開するではこの未曾有の事態を「福山雅治のファンはやめない」という前提でどう打開していくかと言うと、まず彼に対する萌えの見方を変えるという方法がある。人のものになったという現実を受け入れ、温かい家庭を築く福山雅治にあらたな魅力を感じていくという手法である。これにはまず、自分がファンとして使った金が、別の女を養うために使われたかもしれない、という現実を受け入れるだけの仏の精神が必要で、「福山雅治のことなら全て受容する」という人向けである。それとは逆に、「全て受け入れない」という方法もある。いわば「原作スルー力」を極限まで高めるのである。二次元の世界でも、A×Dが公式設定であっても、「誰がなんと言ってもA×B」で活動している人は多くいる。その胆力を見習うのだ。オタクの中にも「〇〇(キャラ名)は10巻まで派」を公言する人がいるのだから「自分は吹石一恵と結婚するまでの福山雅治派」だと言ってしまってもいいし、二次創作の注意書きなどに「※このマンガにはBL表現が含まれます」と書いてあるのと同じように、自分の脳内で「※この福山雅治は吹石一恵と結婚していません」と一言添えて、あとは従来どおり妄想を抱けば良いのである。もちろん、3次元の場合実在する人物ゆえ、2次元よりこういった割り切りが難しいと思う。だが、2次元の場合も、「原作で死ぬ」などの大事件が起こることがあるので、リスクの上ではイーブンと言える。それに、原作でいくら推しキャラが死のうと、「※この作品では〇〇は生きてます」と一言添えて、元気に二次創作をしているオタクたちもいるのだ。「結婚しようがしまいが、お前のモノになることはない」という無粋なコメントが仮に真実なのだとしたら、「現実がどうだろうと関係ない」という開き直りもまた真実なのである。<作者プロフィール>カレー沢暴力漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。10月15日にエッセイ「負ける技術」文庫版を発売した。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は11月17日(火)昼掲載予定です。
2015年11月10日今回のテーマは「のっぴきならない理由でペンネームを変更しないといけなくなったら」である。別にのっぴきならなくなくても、ペンネームは常に変えたいと思っている。今すぐ私より先に「カレー沢薫」を名乗っているという奴が現れて、こちらに改名を求める裁判を起こしてもらいたい。しかし実はこのペンネームには、読者の皆が想像もつかないような深い意味と願いが込められているのだ、と言いたいところだが、何もない。カレー沢に込められた深い意味や願いなど、私にも想像がつかない。5億パーセント、軽いノリでつけた。できることならタイムスリップして、当時の私に「カレー沢はやめろ」と鉄拳を食らわしてやりたいところだが、そうしたら私はさらにひどいペンネームをつけるだろう。よく「あの時に戻れたら運命を変えられる」などと言うが、手前自身が変わってないのだ。同じことを繰り返すか、さらに取り返しのつかない過ちを犯すに決まっている。それに、もう6年もの間「カレー沢薫」の名前で活動してしまっているのだ。現在でも知名度はなきに等しいが、わずかながらの積み上げであったとして、ゼロに戻すというのは相当勇気がいる。だが、今回はあくまで仮定の話だ、私の他に「カレー沢薫」などという迂闊な名前を名乗り、さらにそれを裁判してでも守りたいというバカ野郎が現れたと想定して、新しいペンネームを考えてみたい。○カレー沢氏の改名案を大公開実は言うと答えはもう決まっている。「荒巻 シャケ夫」だ。何故と言われても困る。「なんでカレー沢なんですか?」と聞かれて、何も答えられないのと同じだ。つまり、宣言通り同じ過ちを繰り返す気なのである。しかしこれでは、もう一人のカレー沢(おそらく自称舞台俳優か何かだろう)も裁判を起こした甲斐がないので、「自分で名乗るのは無理だが憧れるペンネーム」について話したい。私が憧れるペンネームとは、ずばりシンプルなペンネームだ、名字も名前もなく、三文字で終わるような名前にあこがれる。漫画家で例を出すなら、ユニット名だが「うめ」さんみたいなのがかっこいい。だったら自分も「米」とか「パン」などと名乗ればいいのだが、自分にはそれができない。昨今、キラキラネームが問題になっているが、私も子どもを持つとなったら「せっかく股間を痛めて生んだんだから、しゃらくさい名前の一つでもつけてやろう」と思ってしまう側の人間なのである。だから、せっかくペンネームを持つなら、ちょっとキレのある感じにしてやろうと思ってスベるのである。たとえどれだけスベっていても、名前を憶えてもらってなんぼの仕事なので、ペンネームを一度聞いたら忘れられないものにする、というのも重要ではあると思う。しかし、キレがありすぎても新たな問題が浮上するようだ。現在各所で活躍中の「まんしゅうきつこ」さんだが、そのキレキレのペンネームゆえに、媒体によっては名前が出せないと聞いた。また、この連載を載せているマイナビニュースの母体・マイナビもそういった規制が割と強い方らしく、「ゴリラ性欲嫁」さんも、マイナビの別媒体(マイナビウエディング)での連載は「ゴリラ嫁」で行ったようだ。仮に私が「セクロス沢薫」とかだったら、そもそもこの連載は始まらなかったかもしれないし、あるいは「セクロス」を丸々削除して「沢薫」なる、若干サッカーが上手そうな名前で執筆することになったかもしれないのである。このように、名前がソリッドすぎると逆に仕事に差し支える可能性もある。つまり、はじけたペンネームをつけたいと思っても、下ネタ方面ではじけない方が無難ということである。そして下ネタを封じられると、私などはすぐ「カレー」とか「シャケ」などという食べ物の名前を入れておどけようとしてしまうのだが、これでは成長がない。むしろふざけるのではなく、もっとクールかつ印象深い名前を考えたい。そこで今考えたペンネームが、「ヒルズ沢 薫」「意識髙夫」である。このように、私は根本的に命名センスがないのだ。テーマが何であれ考えるのが自分である以上、過ちを重ね続けてしまう。ならばどうすれば良いかというと、人任せにするか、もしくは人の案をパクるかである。○カレー沢氏が人生で一番シビれた他人のペンネーム私が今まで一番シビれた他人のペンネームは「暴力 鈴木」だ。シンプルかつクール、反社会的でありながら下ネタでもない、これ以上はないと感じた。この名前は知り合いの作家さんが、これまた知り合いの作家さんの新ペンネーム案として出したものだ。驚くべきことに、こんなに完璧でありながら不採用になったのだ。この名前はまだ使われていないので、私が使用してもなんら問題ないと言うわけである。よって私の新ペンネームは「暴力 薫」で決定だ。しかし、某オリンピックのエムブレム問題でもあったように、事実はどうであれ、盗用などの疑惑をかけられると、作家生命を絶たれかねない。それはペンネームとて同じだろう。なので念には念を入れてもう少し原型をなくしておきたい。といわけで、私の新しいペンネームは「カレー沢 暴力」だ。暴力先生に励ましのお便りを。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。10月15日にエッセイ「負ける技術」文庫版を発売した。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は11月10日(火)昼掲載予定です。
2015年11月03日今回のテーマは、「兼業漫画家からの、漫画家志望者へのアドバイス」である。前のコラムにも書いたが、私は同業者とあまり関わりたくないと思っている。現時点で売れている作家なら当然ねたむし、出会った時はそうでもなかった作家がその後売れたら、「あの時利き腕を折っておけばこんなことには」と一生後悔するからだ。まだ会ったこともない作家のサクセス情報なら一日下痢嘔吐に苦しむ程度で済むので、あえて面識を作る必要はないと考えるのは当然だろう。だが、それ以上に関わりたくないのは漫画家志望の人間(以下、漫画家志望者とする)だ。○カレー沢氏が漫画家志望と断固として交流しない理由漫画家志望者に会うと、おそらく私のアドバイスなど1ミリも欲しいと思っていないだろうに、「どうやったら漫画家になれますか」などと社交辞令的に聞いてくるのだ。こちらも、相手がまだ漫画家になっていないことに油断して、「漫画家になるのは大変だよー。まあなってからの方が大変なんだけどね(笑)」と、ついついアドバイス風の苦労自慢をしてしまったりする。しかし、そう答えた相手がその後漫画家になって、デビュー作から大ヒットを飛ばしでもしたら、「あの時、今すぐ投稿作を燃やして公務員を目指せとアドバイスしておけば…」などと、一生後悔するはめになるのだ。漫画の世界のみならず、先輩風を吹かした相手がやすやすと自分を越えるというのはきついことなのである。私がどれだけ忙しくてもアシスタントを雇わないのも、アシスタントというのは漫画家志望者が多いため、自分のところへ手伝いに来た人間が、その後成功したら嫌だからである。もしそうなったら、「あの時、私の部屋から一生出さなければ良かった」と後悔しなければならない。よって、どうしてもアシスタントを使わなければいけなくなった場合は、漁師とか、漫画とは全然関係ない分野の人間を連れてこようと思う。もちろん、作画能力などなくていい。背景に極太サインペンでサバの絵とかを好きに描いてくれれば、それで構わない。そのぐらい漫画家志望とは関わりたくない。砂漠で遭難している時、向かいから漫画家志望者と、エナメルのホットパンツにサスペンダーのオッサンがやってきたとしたら、迷わずオッサンに助けを求める。漫画家志望に関わると、その後「あの時砂漠で死んでいれば良かった」と思うような目に遭うからだ。○兼業漫画家が絞り出した志望者へのアドバイスしかし、今回は先月行ったお題募集キャンペーン経由で、「兼業漫画家から、漫画家志望へのアドバイス」というテーマが来てしまった。だが、どうせアドバイスを求めるなら、「兼業」漫画家より「専業」漫画家に聞いたほうが良くないだろうか。社会人としての心構えを聞きたいなら、バイトをふたつかけもちしているフリーターより正社員に聞いた方が良いのと同じだ。それに、アドバイスというのは基本的に成功者に聞くものではないだろうか。明らかに成功していない人間に「成功の秘訣は?」と聞いても、答えの代わりにパンチが返ってくるだけだろう。確かに、成功するために失敗談を聞くことも大切だ。しかし、それは「なんで失敗したかわかっている奴」に聞かなければ意味がない。私など、「失敗した」ことはわかっているが、「何で失敗したか」についてはいまだにわかっていないので、どうしたらいいかもわからないままなのである。仮に家が全焼してしまったとして、その原因は「自分が室内でたき火をしたこと」ではなく、「消防車が来るのが遅かったから」だと思っている奴は、また家を全焼させるに決まっているのである。もしかして、「自分も兼業漫画家になりたい」という人へのアドバイスが欲しいという話なのかもしれないが、だとしたら最初から志が低すぎやしないかと思う。もうその時点でサクセスの臭いがしない。とはいえ、漫画家として成功したいなら保険は捨てて漫画に専念しろと言うのも無責任である。「バンジージャンプをするのにヒモをつけるなんて、ただの甘え」と言っているようなものだ。それで激突死しても、飛んだ人間が自分の手でヒモを外したのなら、誰も責任をとりはしない。サクセスにはハングリー精神が必要とは言うが、電気、水を止められ、しょうゆをかけたティッシュを噛んでいる状態で人を楽しませる漫画が描けるかというと、おそらく描けないと思う。だから私は、漫画家を目指すなら、「漫画がダメでもなんとかなる保険を持つこと」、もしくは「石油王になってから漫画家を目指すこと」を推奨している。こうアドバイスした相手が本当に石油王になった上に漫画家になって成功したら、「いっそあの時息の根を止めておけば良かった」と思うだろう。だが、そういう人は私が何も言わなくても、石油王兼漫画家になるものである。ここまで色々と(主に漫画家志望者と関わり合いになりたくないという意志について)語ってきたが、実際に漫画家や仕事関係者が集う場にいくことはほぼない。というか、意図的に避けている。そのため、漫画家志望者に遭うことはほぼないのだが、もしどうしても漫画家志望者に何か言わなければいけなくなったら、「君は漫画家になれる、そして売れる」と言おうと思う。こう言っておけば、本当に売れたら「予想通り」と己を納得させることができるし、漫画家になることができなかったり、なったけど売れなかったりしたら、単純に「やったー!」と喜ぶことが可能となるからだ。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。10月15日にエッセイ「負ける技術」文庫版を発売した。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は11月3日(火)昼掲載予定です。
2015年10月27日今回いただいたテーマは「老後」である。はっきり言って、漫画家という職業に関係なく暗黒のビジョンしか思い浮かばないので、できるだけ考えないようにしている話である。私がそう思っているだけでなく、今や多くのメディアが、貴様らの老後はデスロードだ、お先は真っ暗であると報道しているのだ。○老後は地獄のデスロード…?最近「老後破産」というテーマで組まれたテレビ番組を良く目にする。タイトル通り、バラエティ豊かな破産した老人が出てくるという、「とにかくブルーになりたい」という人以外は見ない方が良い内容だ。他人の不幸を米以上の主食にしている、いわば「不幸ソムリエ」たる私だが、子どもや老人の不幸は酢に匹敵するほどすっぱくなった古いワインのようなもので、テイスティングの対象外となる。あくまで、健康で働き盛りの癖にギャンブルとかして困っている人が好きなのだ。しかもこういう番組に出てくる老人は、若い頃散財しまくって今困っているというわけでは決してない。確かに見通しは若干甘かったのかもしれないが、普通に暮らしていたらこうなった、もしくは突発的不幸で老後の計画が狂ったという人がほとんどなのである。つまり我々の老後は、贅沢していたら死ぬ、普通にしていても死ぬ、何か起こったら死ぬ、というDead or DEAD or Die、モヒカン頭の悪漢がジープで走り回ってなくても、かなり世紀末な世界観となる。そういう番組ではそうならないためにどうするかを示してくれる場合も多いが、ほとんどの場合、結論は「働けるうちに老後の資金をためておけ」である。具体的にいくらぐらい貯めれば良いかという金額はメディアによってまちまちだが、夫婦二人で大体3000万円から5000万円ぐらいというのが相場だ。もうこの時点で、テレビを爆破してpixivを見に行ってしまいたくなる額面である。○「明るい老後」を無理矢理イマジンするこのように暗い老後にまつわる事ならいくらでもイマジンできるのだが、逆に「明るい老後」というのは一体なんなのだろう。ステレオタイプ的に考えると、息子夫婦あたりと同居し、孫の面倒を見ながら畑をいじったり、ゲートボールをしたりする感じであろうか。しかし、私はそういう例を見るたびに「嫌だぜ、そんな生活」と思うのである。現在夫と二人暮らしだが、私はほとんど部屋から出てこないので、お互い多くの時間を一人で過ごしている。それがベストなのだ。それなのに、突然嫁や孫に囲まれたら、かえって病むに決まっている。それに、現時点でネット漬けの人間が老後になって突然畑に目覚めるとも思えないし、還暦をすぎてゲートボールチームに入れるようなコミュニケーション能力が開花する、ということもないだろう。開花するなら今してほしい。しかし、何せ老いているのだ。一人ではできないことも増えるだろう。どれだけ一人が好きで孤独に強かろうと、いつかは他人の世話が必要となるのだ。それに、子世代だって自分の生活で手一杯で親の面倒が見られるかはわからないし、むしろ面倒を見てもらうつもりだった子どもが、親の年金を食いつぶす穀潰しに成長してしまうこともある。そのせいか、年をとっても身内の世話にはなりたくない、介護施設に入ると思っている人も多いようだ。しかし、その介護施設も数が足りないそうだし、さらにそこで起こる虐待など、とにかく人をブルーにさせるニュースに事欠かない。介護施設もピンキリなようだが、やはり良いところに入ろうとすると数千万の準備がいるようだ。ここまで来ると、再度pixivを見に行ってしまうのもやむなしといったところだろう。前に桂米朝師匠が「芸事をやる人間は末路哀れは覚悟のうち」と言っていたという話をしたが、今では芸をやっていなくても「末路哀れ」を覚悟しておかなければいけないのである。とはいえ、ここで「どうせ末路哀れなら今を謳歌するぜ」という方向に行くと末路の哀れ度が増す。やはり、そんなに哀れでない末路をたどるためには、若い頃我慢して金を貯めろと言う話になってしまう。このように考えれば考えるほど暗い想像しか出来ないのだが、逆に「明るい老後」の方が「円満離婚」ぐらい無理がある言葉のような気がする。少なくとも肉体的には衰えていくのだから、明るくはないだろうと思うのだ。老後破産だ何だとむやみに国民の不安を煽るのは良くないが、明るい老後、悠々自適だのと言って油断させるのもまた良くない。将来に危機感を持ち、備えることがやはり大切なのだ。つまりは、哀れじゃない末路を目指して今から5000万円貯めておけば良いということである。しかし、問題が解決できない原因の大半は「解決策がわからない」のではなく、「方法はわかっているが実行できない」という点にあるのだ。「5000万の貯金」に代わる実行可能な解決策を、なんとか老後を迎える前に考えたいと思う。とりあえず今日はピクシブで推しキャラの18禁創作を読むことにしよう。老後も大切だが、今を楽しむことも大切なのである。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中、9月18日よりWeb連載漫画「ヤリへん」を公開開始。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は10月27日(火)昼掲載予定です。
2015年10月20日今回のテーマは、「前(昔)の方が良かった」という心無い発言と、それに対する対処についてである。○漫画家の「絵の変化」と「ファンの反応」何年も漫画を描き続けていると絵も内容も変わってきてしまうもので、ファンの中にはその変化を良しとしない人もいる。「アンチは最大のファン」と言うが逆もまたしかりで、それまで好意的だった人が、手のひらを返したように批判的になることもある。 別の業界の例でいえば、好きなアイドルの熱愛が発覚した途端、山ほど買ったCDやDVDを木材粉砕機にかけて海に撒いてしまったりすることもある。好きだった分、「裏切られた」という気持ちが大きいのだろう。自分の意にそぐわなくなったものは全て「劣化だ」だと言うのはいささか乱暴だと感じるが、変化に対して「前の方が良かった」と思うのは仕方ないし、自由である。とは思っているものの、直接「前の方が良かった」と言われたりすると、正直なところ暴力で黙らせたくなる。非力な私でも、遠くから攻撃できる武器を入手すればイケるはずだ。吹き矢つきのドローンの登場を心待ちにしている。しかし、法治国家の国民として、物理的な攻撃を行うのはあまり好ましいことではない。よって、暴力は抜きで、「前のほうが良かった」と言われた時のスマートな対処法を考えてみる。「前の方が(略)」と言われた作家は、くわえていた葉巻を灰皿に押し付け、「これが今のオレのベストだ。それに君がついて来られなかったと言うなら、残念だが仕方がない」と細い煙を吐きながら言い残し、マントを翻しながら読者に背を向け颯爽と去ることで、穏便に場を収めることができるだろう。これが、己の作品に自信とプライドを持った一般的な作家の態度である。では、私が「前の方が(略)」と言われてどうするかというと、「今すぐ前の作風に戻すから、ファンを辞めないでくれ」と言う。実を言うと、「お前らに言われなくても、俺が一番前の方が良かったんじゃないかと思っている」のである。現に、数字の上でもデビュー作が一番売れているため、一刻も早く初期の作風に戻すべきだとさえ考えている。しかし、はっきり言ってしまえば、作風というのは「前のものに戻そう」と思って戻せるものではないのである。アラフォー女が「ハタチのころの方が良かったから、ハタチに戻る」と言ったところで戻れないのと同じである。20代の頃の発想力を取り戻すのはもちろん無理だし、絵に関しても、当時の絵をマネして描いたとしても、場数を踏んだことで変に小手先の技術が上がってしまっているため、「デビュー作の劣化コピー」などという凄惨な評価を受けることになりかねない。今思えば、初代担当の「絵は上手くならなくていい」というアドバイスは、かなり的を射ていた助言だったのかもしれない。だが内容はともかく、少なくとも絵は描いていくうちに変わっていってしまうものだ。急に絵を上手くすることはできないが、急に下手にすることもできない。わざと下手に描いても、読者には見透かされてしまうだろう。そのため、わざとらしくなく、絵を当時のレベルに戻そうとしたら利き手を負傷するしかない。毎回ブレが出てはいけないので、連載中は常に一定のレベルで利き手を負傷する必要がある。軽すぎてもいけないし、勢い余って骨を折ったり、作家生命を絶ってしまったりしてもダメだ。○連載漫画が「迷走」する”しくみ”しかし、昔に固執しても先がないというのも確かだ。デビュー時の方が売れていたと言っても、それは今が「極端に売れてない」からであり、それに比べれば「普通に売れてない」デビュー作の方がマシだった、というだけだ。では、今のままではダメだと思った作家が何をするかというと、とりあえず今の作品には無い要素を取り入れようとするだろう、それは「美少女」だったり「イケメン」だったり、はたまた「パンチラ」だったりするが、こうした行いこそが、既存読者に「前の方が良かった」と言われてしまう一番の原因なのだ。何せ作家も試行錯誤の段階であるから、要素の追加が正しい判断だったのかは分からない。そこで読者に「前の方が良かった」と言われてしまったら、「やっぱそうっスよね、自分もそう思ってました!」と、慌てて前に戻そうとしてしまったりする。だが、その時点ですでに「美少女」や「イケメン」、「パンチラ」は作中に登場してしまっているため、そこからまた前に戻そうとすると、まさに「迷走」という言葉がぴったりな惨状になってしまうのだ。やはり商業漫画というのは人気商売なので、「読者の意見は気にせず。自分の信じる物を描く」というのは、余程の自信と鉄の意志がなければ不可能なのである。では、変に新しいことに挑戦などせず、同じ物をずっと描きつづけていれば問題なかったのかと言うと、それはそれで、絶対に「飽きた」と言う人間が出てくるのだ。漫画家でも芸能人でも、人気商売で世に出ている以上、ガタガタ言われる運命なのである、全くガタガタ言われなかったら、誰もそいつのことを知らないだけだ。なので、「前のほうが良かった」という感想に限らず、作風について何か言われた時の対処法は「とにかく落ち着く」ことである。まず仕事場の窓を開け、シーブリーズを裸の胸にパーンと一発叩きつけ、ここは六本木ヒルズの最上階で、自分はIT企業の若き社長だと思うようにしている。IT企業の社長はシーブリーズを使わないかもしれないが、それだけクールになれということだ。確かに「前の方が良かった」と思っている人はいるだろうが、その意見一つで読者全員がそう思っていると思いこんでしまったり、焦るあまり描きかけの原稿に意味のないパンチラを入れてしまったりしてはいけない、ということである。逆に、読者は悪意がなくても「前の方が良かった」と作家に言わない方が良い。私のように病み気味の作家の場合、勢いあまって利き腕を負傷しに手近な車道に飛び出したり、あるいは吹き矢付きドローンを読者めがけて発進させたりするからだ。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中、9月18日よりWeb連載漫画「ヤリへん」を公開開始。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は10月20日(火)昼掲載予定です。
2015年10月13日小悪魔agehaで活躍中の華沢友里奈ちゃん♪今回は、いつもと違った上品なお姉さんな雰囲気が出せるメイクを紹介してくれました!甘顔は卒業して、ちょっとキツめな大人なお姉さんフェイス手に入れたい!そんな方必見です。メイクのコツ・ポイント最後にアイホール全体をブラシでぼかしていくことでアイシャドウが綺麗に馴染む。目尻のラインは跳ね上げて大人っぽく。目尻部分が長めで、濃いめのつけまで目元を印象付ける。付け終わった後に、形を整える。赤リップの上からグロスを重ねてツヤ感をプラスする。このメイク動画のノーカット版と使用コスメ詳細を見る
2015年10月11日今回は「スフィンクス(猫の種類)の魅力、スフィンクス以外で惹きつけられる猫の種類と魅力について」である。猫はすべからく可愛く、尊いものである。もし猫という存在がなかったら、今頃世界は第2兆次大戦ぐらいに突入しているし、窓の外ではジープに乗った悪漢が跋扈し、私の髪形もとっくにモヒカンになっていることだろう。そんなゴッドオブゴッドフィーチャリングゴッドな猫であるが、天使にもラファエルとかミカエルとかがいるように、猫にも種類がある。これはさまざまな種類で猫好きを楽しませてくれている、というわけではない。むしろ、あらゆる手段で我々を葬りさろうとしていると言っていい。トラ猫の可愛さに耐えたところで、後ろから三毛猫に出てこられた日には、我々に出来ることは断末魔をあげることだけだ。手裏剣を全部よけたのに、後ろからトラックが突っ込んで来たようなものである。このことから、神は明らかに猫を動物というよりは兵器として創造しており、猫の種類というのは白猫なら「ミサイル」、黒猫なら「ダイナマイト」のようなカテゴリでわけられるべきものなのだ。そんな世界を揺るがす最終兵器、いやむしろ彼らこそが世界…宇宙…コスモ…、とにかく尊すぎる存在である猫を選り好みするなんて、「嵐の中で結婚するなら誰か」を一人で真剣に考えるぐらいの愚行であり、先ほどから、タイプの猫について語ろうとする自分と、猫は全部可愛いと主張する自分が殴りあいのケンカをしており、もうすぐ両方息を引き取るところである。しかし他ならぬ読者からそういう質問が来たなら答えざるを得ないだろう、仕事なら仕方ない、猫ならわかってくれる、猫とはそういう奴だ。○カレー沢氏が愛する"レア猫"「スフィンクス」まず、スフィンクスとは何ぞやと言う人もいるだろう、そういう人は「スフィンクス」で画像検索してみてほしい、するとエジプトにある像の画像がたくさん出てくると思う。もちろんそいつではないので次は「スフィンクス 猫」でググってみよう。見ての通り毛のない、無毛種という種類の猫である。もちろん、猫は全部かわいい。だが、本当に僭越かつ申し訳ないので、土中に縦に埋まって首だけ出しながら言わせてもらうと、子猫より成猫、長毛よりは短毛、太った猫よりはシュッとした猫が好きである。それら全てを過剰に満たしているのが、スフィンクスという猫なのだ。毛が短いというか無いし、スタイルが良いというか、スタイル丸出しである。はじめてスフィンクスという猫の存在を知りその姿を写真でみた瞬間、「いいのか」と思った。あまりにも余すところなく魅力が凝縮されすぎていて、何らかの条例に反している気すらしたのだ。つまり一瞬で心奪われたのだが、スフィンクスは猫の中でもかなりのレア猫である。読者の方々も、毛のない猫が街中を闊歩しているところはあまり見たことがないだろう。そしてペットショップでも取り扱っていることが稀、というか見たことがない。そんなスフィンクスの実物を私が見たのは十数年前、世界の珍しい猫が集まる催しがあり、その中にスフィンクスがいると聞き、喜び勇んでオシャレして一人で行った。するとスフィンクスはガラスケースの中で完全に毛布に埋没していた。毛がないので寒がりなのだ。当たり前のことである、納得しかできない。しかし、スフィンクスを見に来たのにスフィンクスの姿が見られないことに関しては納得いかなかった。すると隣にいたおっさんも納得できなかったようで、係員にスフィンクスを見せるように頼んでいた。寒がっている猫ちゃんの毛布をはぎ取れとは、こいつは鬼、悪魔、もしくはダースベイダーである。私はすぐさま、こんなこともあろうかと持ってきていたライトセーバーでおっさんを退治しようとしたのだが、もしかしたらライトセーバーの光は猫ちゃんの目に悪影響かもしれぬと思うとすぐさま行動に移れなかった。そうこうしている内にスフィンクスは係員によって毛布を取られ、その姿を現した。それはライトセーバーよりも光り輝いていて、もしかして毛布がかかっていたのは、我々の網膜が焼けてしまわないための配慮だったのかもしれないと思った。そして、すぐにまたスフィンクスには毛布が掛けられた、むしろあのおっさんがいなかったら、小心者の私はスフィンクスの姿を見られなかったかもしれない。今思えば彼は神だったのかもしれない。それがスフィンクスとの初邂逅であったが、数年後また同じような催しがあると聞いて、私は会場にはせ参じた、すると今度は「500円払えば好きな猫を抱いてツーショットが撮れる」というコーナーがあったのだ。目を疑った、5万の間違いではないかと。私は係員を捕まえ、その胸元に500円をねじり込み、スフィンクスを抱かせろと所望した。それがスフィンクスとの初めてのふれあいである。一言でいうと温かかった。毛がなく、直接皮膚に触れるので当たり前だ。それはとても暖かく、今抱いているのは猫ではなく、生命そのもの、いや宇宙、コスモ…と思った。私がコスモを感じている間にさっさと写真を撮られ、スフィンクスはさっさとカゴの中に帰っていってしまったが、その写真は今でも宝物である。つまり、スフィンクスの魅力は「猫の中でもよりコスモ」だということだ。続いてスフィンクス以外の猫の魅力についてだが、現時点で完全に文字数をオーバーしている、それについては、私が病院に入れられなかったら、またの機会に書きたいと思う。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中、9月18日よりWeb連載漫画「ヤリへん」を公開開始。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は10月13日(火)昼掲載予定です。
2015年10月06日今回のテーマは、募集したお題の中から「非リア充と結婚について」である。このお題を送ってくれた人によれば、「結婚してるんだからリア充だろ!と言われ、リア充からはもちろん排除されるこの中途半端な立場を先生に語ってホスィ」(原文ママ)とのことだ。○結婚している時点で非リア充ではない?私も一貫していわゆる「非リア充」の立場から発言をしているが、先のコメントにあるように、「結婚している時点で非リア充ではない」という反論を受けることがある。そう言う連中は、徹夜で論破するほかない。それでも黙らないなら、口を馬ふんでふさいでから大外刈りをキメ、倒れた敵に背を向け立ち去ろうとした瞬間、相手は謎の爆発に巻き込まれる、いわば完全勝利を収めている。と言いたいところだが、そう言われたら「そうかもな」と思ってしまうのが実情である。それほどまでに、"非リア界"において異性の存在はご法度だ。特に「童貞」などは、非リア充の世界ではブランドに等しい(処女だと少し弱い印象だ)。童貞、ニート、友達ゼロの非リア充が全身シャネルだとしたら、既婚の非リア充など、センスのない奴が考えた「最強のファッションセンターしまむら上級コーデ」で歩いているようなものなのである。実情がどうであれ、結婚しているという一点だけで「四天王の中でも最弱の非リア充 」、もしくは「非リア充ですらない」と断じられてしまうのだ。つまり、結婚しているからには「恋愛」を経験し、それに成功しているのだから、そんなの非リア充と言えるわけがない、ということなのである。非リア充を名乗るからには重度のコミュ障でなくてはならず、特に恋愛なんて、非リア充様ともあろうお方がして良い行為ではないということなのだ。非リア充なら、異性との会話は家族に限定され、さらに徳が高まると、その家族との交流でさえ、ドアの前に置かれた「お願いだから部屋から出てきてください」等の書き置きで行われることとなる。このように、位の高い非リア充様は下々の者と安易に言葉を交わさないものなのだ。つまり、下々の者(異性)とうかつにも接触し、結婚なんかしてしまう非リア充なんて、もう下の下でしかないのだ。そういう観点から、リア充界の高僧(童貞)に「お前は非リア充ではない」と言われたら「そうかもしれません」と言うしかないのだ。しかし、そこから「結婚しているんだからお前はリア充だ」と結論をすり替えられたら、やおら立ち上がり、高僧(童貞)の脳天に唐竹割りを食らわせた後、謎の爆発で葬り去るしかない。○どちらの陣営にも入れない「既婚の非リア充」そもそも、リア充とはなんだろうか。とりあえず、海で男女混合BBQをしたり、クラブで踊ったりしているイメージはあるが、実際そういうリア充を見たことがあるのかと言われると、ない。なぜなら、海にもクラブにも行かないからだ。リア充とはそもそも生活圏が違うので、接点が全然ないのである。非リア充が嫌っているのはリア充というよりは「自分の作りだしたリア充のイメージ」であり、偶像崇拝ならぬ偶像嫌悪であることが非常に多いのだ。そのため、本物のリア充が何をしているのか見当すらつかないのだが、イメージ通り海やクラブにいるとしたら、私は結婚しているが海にもクラブにも行かないし、そもそも部屋から出ない。よって結婚=リア充という方程式は成り立たない。仮に私が、「一日に発する言葉は3フレーズ以下だし、昼休みになると私以外の女子社員が一緒にランチに行くのを横目で見送ってクリーム玄米ブランを食っており、毎日忙しいアピールをするのに余念がなく、いざ時間があくとすることがなくて空を見つめているが、結婚しているのでリア充だ」と主張したら、リア充はおろか非リア充からも笑われるだろう。このように、結婚しているだけではリア充の輪には到底入れない。しかし、非リア充の方に入ろうとしたら、前述の通り入れてもらえないか、「非リア充の中でも最も卑しい身分」みたいなわけのわからんポジションづけをされてしまうのだ。例えば、非リア充がリア充への妬みを最も爆発させるクリスマスに、非リア充陣営に入ろうとすると「お前は旦那っちとイルミネーションでも見てろよ」と、あたかも「ガキはママのおっぱいでもしゃぶってな」とでも言うかのように戦力外通告されてしまうのだ。すでに旦那っちとはイルミネーションを見てはしゃぐような関係ではない。かといって、旦那っち以外の異性とイルミネーションを見ようとしたら新たな問題に発展する。つまり、独身者よりもクリスマスを楽しむ術を封じられている状況にも関わらず、結婚しているというだけでリア充/非リア充どちらの陣営にも入れないのだ。だからこそ「結婚してるからリア充だ」と言われたら「違う」と声を大にして言うのだが、ここでも高僧(童貞)に「いや、でも結婚してるから俺よりはリア充だ」と言われたら、結局「んーーーー!そうかも!」と言わざるを得ないのである。このように、非リア充寄りの既婚者が、「自分はリア充か非リア充か」問答に巻き込まれた場合、言論で相手を説き伏せるのはもはや不可能なのだ。よって、そういう話題になったら無言で相手にタックル、その後速やかに爆破へともっていくのが一番てっとり早いのである。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中、9月18日よりWeb連載漫画「ヤリへん」を公開開始。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は10月6日(火)昼掲載予定です。
2015年09月29日連載も30回近くになると、書くことがなくなる。○Twitterお題募集企画のいきさつと現状というか、最初から書くことは何ひとつなかったため、テーマだけはそっちで決めてくれ、と担当にお題を出させ、それにそったコラムを書いて来たわけだが、ついに担当もネタが尽きたのか、困った時のTwitter頼みで読者からお題を募集しよう、ということになった。しかし、マイナビニュースを見ているという時点で、読者は全員ヒルズ族であろう。そんな多忙な人たちに貴重な時間を割かせてお題を出させると言うなら、それ相応の見返りが必要であろうという話になり、採用者には私の自画像を大胆にあしらったステッカーをプレゼントすることとなった。その提案を担当から聞いた時、控えめに言って「正気か」と思った。控えめでなく言うとここでは使えない表現のオンパレードになるので割愛するが、とにかく「何言ってんだコイツ」と思った。そこで正直に、「それは誰が欲しがるんでしょうか?」と尋ねた。私の母親ですら、このステッカーを欲しがるかは疑問である。その問いに対して、担当は力強く「大丈夫です」と言い切った。具体的にどう大丈夫なのか一切説明はなかったが、こちらとしても「プレゼント用にオリジナルキャラを描きおろしますよ」などと提案するほどの誠実さもなく、「そうか、大丈夫か」と納得して、お題募集企画はスタートした。ちなみに、そのステッカーを担当が100枚も作ってしまったのは、また別の話である。募集開始後、多くのヒルズ族から応募があり、とりあえず企画倒れは免れた。もし応募が皆無だったら、余ったステッカーを自宅の冷蔵庫一面に貼らねばならないところだった。そんなまがまがしい物に食い物を入れる気にはなれないし、むしろ何か邪悪な存在が封印されていると思われてしまうだろう。さて、さっそくだが今回から、応募していただいたお題を使わせてもらう。記念すべき(募集したお題でのコラム)第1回のテーマは「犬」だ。○犬VS猫犬と言えばドッグだ。などというクソセンテンスで尺を稼がなければならないほど、書くことがない。じゃあ何で選んだかというと、担当が選んだ「書いてほしいお題リスト」のトップがこれだったからである。私は猫好きである(第16回のコラム参照)。しかし、犬が嫌いだというわけではない。犬と猫は人間の二大ペットであるから、「犬VS猫」という題目がよく論じられるが、別に犬と猫は戦っていない。犬好きの人間と猫好きの人間がただ勝手に戦っているだけであり、その戦いすら不毛なものである。「犬が猫よりペットとして優れている点」としてよく挙げられるのは、犬は猫より賢く、飼い主に従順であり、一緒に遊んでくれる、などである。しかし、犬が従順とは言っても飼い主が「どう見ても犬以下」だったら従わないだろうし、遊んでくれると言っても「モンハン」を一緒にやってくれるというわけではないだろう。話はそれるが、昨今のゲームは「仲間とプレイ」するのが前提になっているものが多すぎる。もちろん、基本的に一人でもプレイはできるが、仲間がいないと得られないアイテムなどが平気で設けてあったりするのだ。ゲームには対象年齢の区分表示をする義務があるようだが、もういっそのこと友達区分も表示してほしい。友達が一人もいなくてもあますことなくプレイできるものは「A」、必要な友達の数が増えるごとにB、C、Dとレーティングが上がっていき、そもそも協力プレイが前提となっているゲームは「Z」だ。私にとって友達区分「A」以外は全部「Z」相当だが、あらかじめ表示してくれれば、いらぬ憤怒を覚えずに済む。もし犬がゲームの協力プレイをしてくれると言うなら、犬と猫どちらがペットに優れているかという論争に関して、猫派の私も犬に軍配を上げざるを得ないだろう。それ以前に、犬と猫どちらがペットに向いているか、などというのは、飼う人間の性格によるところが多いだろう。飼う手間から言えば、犬より猫の方が楽な印象だ。私のように無精な人間は、粉雪舞い散る寒空の下、犬を散歩させている人を見るだけで「これが…!犬を飼うという責任…!」とその重圧に押しつぶされそうになる。じゃあ猫は完全放置で良いかというと、病気になれば病院に連れていかなければいけないし、そもそも病気にならないように注意を払わなければいけない。結局、犬と猫どちらがペットとして良い動物かを考える前に、自分がペットを飼うに値する人間かどうかを考えなければならず、私はその基準をクリアできていない。よって犬はもちろん、好きな猫すら飼っていないのだが、先日このコラムとは別に、「Splatoon(スプラトゥーン)」関係のコラムを書かないか、という話があった。このゲームに関して詳しくは知らないが、たまたま見聞きした範囲の情報で判断するなら、おそらく友達区分「Z」のゲームだろう。 そのため詳しい話を聞くこともなく「無理だ」と断ったが、相当ヒットしているゲームのようだし、今思えば貴重なビジネスチャンスを逃してしまった。やはり、犬がゲームをプレイできるようになったら飼うことを検討したいと思う。もはや「一緒にゲームをする友人」を作るより、「ゲームのできる犬」の登場を待った方が早い気がするのだ。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中、9月18日よりWeb連載漫画「ヤリへん」を公開開始。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は9月29日(火)昼掲載予定です。
2015年09月22日今回のテーマは「作業中の飲み物」についてである。○兼業漫画家にとっての「神の雫」基本的には水を飲んでいる、もちろん、ミネラルウォーターなどというしゃらくさい物は飲んでいない。まじりっ気なし100%の水道水だ。冬はストレート。夏はそのままだとぬるいので、これまた同じ水道水で作った氷でロックとシャレこむ。原料が同じなだけに、実に親和性が高い仕上がりとなっている。私にとっての神の雫だ。なぜ水道水を飲むのかというと、まず蛇口をひねれば出てくる、というところが大きい。やれ自動販売機だのコンビニだのにわざわざ出向いて飲料を買い求めていては、その間に干からびて死ぬおそれがある。人間の体は6~7割が水分なのだ。水分補給は常に一刻を争い、一秒の遅れが死を招く。もちろん自宅で麦茶を作るなどもってのほかであり、作っている間に確実に手遅れになるに決まっている。このように平日は大体水道水を飲んでいるが、休日は趣向を変える。休日と言っても会社が休みなだけであり、逆に言えば「長時間原稿を描く日」である。長丁場を耐え抜くための飲み物を摂取せねばならない。まず、一番多く飲むのがコーヒーだ。コーヒーが好きかと言われたら、正直そんなに好きではなく、ただ苦いと思う。しかし、ここでミルクココアなどを淹れてしまったら「甘~い!うま~い!もう一杯!」とか言って3秒で飲み干すに決まっている。あくまで作業中の飲み物だ、まんじりと減らないぐらいでちょうどいい。コーヒーを飲むのは、もちろんその眠気覚まし機能に期待しているからだ。あまりに期待しすぎて、村上春樹が言うところの「新聞紙を煮たようなコーヒー」を作ってしまうほどだ。とにかく濃すぎてコーヒーなのになぜかトロみがついている、もはやコーヒーというよりドブと形容していい一品である。日曜の朝から一日中ドブをすすりながら漫画を描く姿はスタイリッシュさの欠片もないので、もっとスマートにコーヒーの粉だけ食べる、もしくは淹れたてのコーヒーを頭からロックに浴びるなどの検討が必要である。現代の漫画家の仕事風景はもっとクールでなくてはいけないのだ。○エナジードリンクのクールな"効能"現代と言えば、「エナジードリンク」もここ数年で台頭してきた飲み物だろう。コンビニに行けば、レッドブルを筆頭にたくさんのエナジードリンクが置かれている。昔からあるオロナミンCやリアルゴールドに似ているが、それよりは割高なので、おそらく成分も高いのだろう。私も、このエナジードリンクの類をたまに飲む。どういう時に飲むかと言うと、ここが山場とか、もうひと踏ん張りしたい時などではない。「忙しい自分がカッコ良くて仕方がない時」だ。日本には「忙しい自慢」という文化がある。「寝てない」「休みがない」などをさも自分が有能であるがゆえのことのように、自慢げに言うことだ。漫画を描く人間にもこの文化はあり、それがいわゆる「修羅場自慢」である。昨今の「修羅場自慢」はTwitterを使って行われることが多く、「締め切りまであと…3日!」、「白紙があと10Pもある」などとでつぶやいたり、「原稿をやれ」と言うbotの発言をリツイートした後「ひえええええ!」などとポストしてしまったりする行為を指す。Twitterをしている時点で忙しくないだろうと思われるかもしれないかもしれないが、「修羅場自慢」をする人(私も含む)は、本当に忙しくはあるのだと思う。ただ、どうせ忙しいなら、このオレの忙しい雄姿を見てくれという気にもなってしまい、その誘惑にはなかなか勝てないものだ。よって、SNSをやっていながら原稿の進捗には一切触れず、もちろん「修羅場自慢」をすることもなく、延々と食った飯など別の話をしている作家業の人を私は尊敬する。ともかく、「忙しい自慢」をするのに、エナジードリンクは最適のアイテムなのである。ただ「忙しい」と言うのではなく、「今日レッドブル3本目…」とコメントすると、かなりの忙しさが演出できる。ソークールだ。また、エナジードリンクの長所は飲みやすいところだ。ほとんどの物がジュースと変わらない味をしている。本当に本気を出したいなら、もっと高価な栄養ドリンクを飲めばいいのだが、あの手の物は高値になるほどまずいので飲みたくない。その点、レッドブルはジュースを飲むだけで「俺頑張っている感」が出せるので最高なのである。だが、それでも満足できないほど自意識がスパークした場合は「こんなまずいものを飲んで頑張る俺」という臥薪嘗胆ムードを出すために、ユンケルや眠々打破を投入する時もある。そうした時はもちろん、飲んだユンケルの写真つきでツイートする。ちなみに、エナジードリンクにしろ栄養ドリンクにしろ、それらの効果自体については良くわかっていない。とにかく自分のテンションが上がって、みんなに自分のガンバリを見せられればそれでいい。あとは、ちょっとイエローが濃い目の尿を出すためだとでも思っている。自分がエナジードリンクなどを飲む目的は上述したようなことだが、みんながみんなそうと言うわけではないし、実際にがんばっている人が飲んでいる場合もある。しかし、やっぱりそんなに頑張ってない奴も多く飲んでいるのがエナジードリンクと言う物であろう。だからこそ、それらを飲んでいる人を見ると、「頑張っているアピールに精が出ますな!」と肩を叩きたくなってしまうのだ。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は9月22日(火)昼掲載予定です。
2015年09月15日先日(8月22日)、性懲りもなく4回目のサイン会を行った。ちなみに今回の定員は100人である。○サイン会は楽しい「コミュ障を公言しているのに何故サイン会をやるのか」ということは、以前サイン会についてのコラムで書いたが、要約してしまえば「やれば何か楽しいことが起こる気がする」という浅はかさ5億%の気持ちから「やりましょう」となるのだ。実際、サイン会が楽しいか楽しくないかと言われたら、楽しい。出す本出す本てんで売れない小生だが、これだけ大勢の人が貴重な時間をドブに捨てて来てくれたというだけで嬉しい。しかも開催日は夏まっさかり。花火や海へ行くなど、他にやることがあるはずだ。おそらく多くの人が「夏の過ち」カテゴリとして私のサイン会に来たのだろうが、岩場で行きずりの異性と関係を持つよりは、よくわからん漫画家のサインが家にある方がまだ健全だと思う。とにかく人が来てくれればそれだけで「自分もまだ捨てたものではないかもしれない」と思えるのだ。逆に、誰も来なかったら「もう終わりだ」となるのである。前のサイン会は人が来たのに、今回は来ないというのが一番キツイ。言ってしまえば「はじまってもないのにオワコン」だ。なので、サイン会を前にして精神が不安定になると、「サイン会 人来ない」などでググる。サイン会に大失敗した先人の偉業を見て勇気をもらおうとするのである。しかし困ったことに、これがなかなか出てこない。つまり、サイン会を催した人はみんな成功しているということなのだろう、と余計プレッシャーがかかる。たまに、芸人などが「サイン会に人来ませんでした」と、閑散とした会場や落ち込む本人の写真などをネットに上げている。人が来なかったのは事実かもしれないが、来ないなら来ないでそれで笑いを取ろうとしているのがわかるし、むしろおいしいと思っているかもしれない。だが、私が人のいない会場に佇む姿は、決して笑いに昇華できない「THE・不幸」だ。それを自撮りしてネットに上げても、見た人の運気が下がるだけだろう。サイン会のたびに、人が全然来なかったらそれをネタにしようと思ってはいるが、実際にそうなったらおそらく耐えることは難しく、完全になかったことにしようとするだろう。そして、そのことに触れようとする奴の口をまつり縫いにする妖怪として余生をすごすのだ。やはり苦境を笑いにするには、強靭な精神力がいるということなのである。○カレー沢氏のサイン会にリピーターが生まれる理由結果から言うと、今回のサイン会も定員割れすることなく行うことができた。来てくださった方には、この場を借りてお礼を言いたい。サイン会自体はこれで4回目、もはや余裕と言いたいところだが、毎度サイン会の直前は初体験であるかのように緊張するし、今回は 始まる寸前まで担当に「今まで人が来なかったサイン会ってありましたか?」と尋ねるなど、ギリギリまで他人の失敗サイン会情報で安心しようとする体たらくであった。今までの私のサイン会は、サインやイラストを描くのが早すぎて、予定の時間より巻いてしまうことが多かった。今回はもう少し丁寧に描こうと心掛けた結果、50人を終えて30分の時間押しに成功した。つまり、何をするにもちょうどよくできないのである。参加してくれた100人の中には「今回初めて来た」と言う人も多かったが、リピーターの人も数多くいる。これで私のサインは10枚目だという猛者もいたので「10枚で5000円キャッシュバックします、ただしサインは没収です」と持ちかけてみたが、取引は成立しなかった。私も5000円が惜しかったのでちょうど良かった。仮にこれがアイドルの握手会なら、アイドルの顔は何度見てもカワイイだろうし、握手だって何度でもしたいだろう。しかし、私の顔は何度見てもシケている。それにも関わらず、何回も私のサイン会に来るメリットとは何なのか。純粋に私を応援しに来てくれると考えたいが、逆に怖いし得体が知れなさすぎるので、何とか他の理由を探したい。そこで気づいたのだが、どうやら私のサイン会に来た者同士で交流が生まれているようなのである。確かに、待合室でも人の輪ができていた。つまり、私のサイン会がちょっとしたオフ会の会場になっているのだ。毎回一人は嫁や彼女の遣いで私が何者かもわからないままサインをもらいに来ている男性も混ざってはいるものの、その場に集うのは、少なくとも私の漫画を読んだことがある人が過半数である。趣味が似通っている人間が集まっていると考えていいので、話もしやすいのだろう。確かに、そういう愛好家同士の交流の場と考えれば毎回参加する意義はある。もちろん、全員がそうして交流しているわけではなく、一人で来て一人で並んで一人で待ち、一人でサインをもらって、楽しそうな輪を横目にダッシュで帰っている人だって絶対いるのだ。そして、私はどう考えてもそちらの人間である。事実、待合室の輪を見るたびに「俺はこの輪には入れない」と呪詛のごとく思った、というか若干呪った。そしてサイン会後の打ち上げで、担当に「次回のサイン会はもっと殺伐とするようにしましょう」と提案した。具体案はまだ出していないが、基本のテーマは「全員敵」にしようと思うので、出席予定の方は今から武器を研いでおいてほしい。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は9月15日(火)昼掲載予定です。
2015年09月08日今回のテーマは、漫画を描く時のBGMについてだ。基本的に無音で作業することはない。音楽、ないしは動画を流しながら作業する。音楽は気に入ったものなら何でも聞くが、「集中力を引き出すBGM」といった類いの物は聞かない。ないものは出せないからだ。では、何を基準にBGMを選ぶかと言うと、「とにかく元気がでるもの」だ。○仕事に挟まれた生活を癒やす「作業用動画」私の原稿製作は百発百中、疲労状態から始まる。平日は8時から17時まで会社勤めをし、帰って夕飯を作ってから原稿に取り掛かる。仕事to仕事という、この就職難の時代において夢のような生活である。そして、それを月から金、時に土曜までやるのだが、さすがに日曜は会社が必ず休みになるので、朝から1日漫画を描くことができるのだ。本当に神に感謝せざるを得ない。本当に忙しかった時は、朝は1時間早く起き、出社時間まで原稿をしてから会社へ行き、会社から帰ってまた原稿をする…という、仕事を仕事で挟む贅沢ハンバーガーのような生活をしていたのだが、ちょっとカロリーが高すぎて、心身ともに異常をきたしたのでさすがにやめた。自分で選んだ道とは言え、「仕事を終えて、さあ仕事だ!」という生活はどうしても気分が沈む。ならばその気分は、もっとキツイ人を見て奮い立たせるしかない。そのため、動画をBGMにする時は、とにかく私よりキツい人が出てくる物を流している。主に、ドキュメンタリーやニュースで生活に困っている人を追ったもの見ているが、最近は売れない地下アイドルなども熱い。もちろん、キツい人なら何でもいいと言うわけではない。私も年である、量をガツガツいくより、より上質なキツい人を楽しみたい。だから、「あくまで自己責任でキツい人」を選んで見ている。しかし、毛ほどもかわいそうと思えない人が出てくるプレミアム不幸動画というのはなかなかないもので、同じ動画を何回も見ることになるのだが、これがビックリするほど飽きない。イイ不幸というのは何度見ても新鮮にイイ物なのである。今、自分を不幸だと思っている皆さんも、どうせならこのぐらいの高みを目指してほしいと思う。○カレー沢氏イチオシの「作業に適した映画」は?また、作業中に映画を流すこともたまにある。だが、二十代半ばを過ぎたあたりから、映画に限らずフィクションを見ることが難しくなってきた。特に、漫画家になってからというもの、徐々に漫画が読めなくなり、今では一部のジャンルを除いて 、本屋で売っている漫画はほとんど読めなくなってしまった。元来嫉妬深い性格なので、自分の作品と比べたり、あら探しを探してしまったりと、純粋に楽しむことができないのだ。漫画家になったことによる最大の不幸は、「〇〇万部突破」などの文言で、その作者に大体いくら入ったかわかるようになってしまったことである。漫画家になる前は「売れてんだな、儲かってんだろうな」ぐらいにしか思わなかったが、自分も本を出すようになり、その計算方法がわかった今、「100万部突破」などと書かれた帯を見た瞬間、顔じゅうの穴から血が吹き出し、読むどころではないのである。話を映画に戻すと、見ることができるジャンルは漫画と同様に年々減ってきているものの、内容が自分から遠い分野のフィクションであるなら、今でも映画を鑑賞することはある。日常がディープブルーすぎるので、フィクションの世界では1ミリたりともブルーになりたくないのだ。まず、人間関係を主題にした映画はダメだ。この時点で、恋愛物を筆頭に大体の映画がダメになる。そして、できるだけ自分の生活とはかけ離れたものが見たいので邦画もダメだ。つまり洋画のアクションものぐらいしか安心して見ることができないのだが、それだって最終的に主人公が命を落とすなどの鬱展開があり得る。こうなると、もはや延々と『マッドマックス』を流し続けるしか選択肢がなくなるのだが、何せ作業BGMである。画面はほぼ見ないため、ドッカンドッカンヒャッハーという音のみをずっと聞き続けることになる。『マッドマックス』だけでなく、アクション映画は総じて作業BGMには向かない。そこで私が作業中にヘビーローテーションしている映画は『八甲田山』である。上記で述べた「見ることができる映画の条件」を完全に無視しており、まずもって邦画だし、鬱か躁かと言われたら完全な鬱映画である。しかし、これが作業用BGMとしては実に良い塩梅なのである。役者の演技が良いので音声だけでも十分面白いし、セリフだけでストーリーが大体把握できるところも良い。劇中音楽も最高なのだが、やはり「色々大変だけど、ここが猛吹雪の八甲田山じゃなくてよかった!」と思えるところが素晴らしい。このようなパニック系映画はアクション映画以上に好きなのだが、この類いばかり見ていると雪山には行きたくなくなるし、海もサメが出るから嫌だ、山は熊がいるからダメ、飛行機に乗ると確実に落ちるかハイジャックされるから乗れないし、1歩外に出たらあたりは深い霧につつまれ怪生物に襲われてしまうから出たくない、と思ってしまう。このように映画を見れば見るほど行動範囲が狭まり、部屋からすら出たくなくなるのだが、その部屋の中でさえ、無造作に置かれた漫画雑誌の表紙に書かれた「100万部突破アニメ化決定」の文字を見て、体中の穴から血を吹き出してしまうこともあるのだ。私が心から安心して楽しめる趣味とはどこにあるのだろうか。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は9月8日(火)昼掲載予定です。
2015年09月01日今回のテーマは「恋愛」。ときめくシチュエーションや、それをどのように作中に入れ込んでいるか、についてだ。こんなの、童貞に「女とは何か」と聞いているようなものである。色んなところで再三言っているが、「モテない」というのは、異性にことごとくフラれているという意味ではない。そもそも異性との接触がなく、フラれるところにすらいけないのだ。それ以前に卑屈をこじらせているので、「私に好かれても迷惑だろうから」と好きになるところにさえ到達しないのである。かと思えば、平素全く異性と接点がない故に、あいさつされただけで好きになってしまったりもするのだが、もちろんそこから何らアクションすることはない。とにかく人様に語って聞かせるような話がないのだ。○ときめく作品には御法度の「照れブレーキ」商業誌での仕事に限らず、漫画などの創作をやる人間になって良かったなと思うのは、恋愛のように現実ではできなかったことを、フィクションの中で思う存分やって、余計むなしくなれるところである。私の漫画を読んだことがある人なら、ときめきなどとは全く無縁なものばかり描いているじゃないかと思われるかもしれない。だが、実は女性がときめくような物を描きたいとずっと思っているし、描こうとしている。ただ、全部失敗しているだけだ。なぜ失敗するかと言うと、1番の原因は技量がないことだとは思うが、次に足を引っ張るのは「照れ」である。漫画家が「このセリフは臭すぎで恥ずかしいからもうちょっとセーブしよう」などと思うのは、露出狂が「全部出すのは恥ずかしいから右半分だけ隠そう」と言っているようなもので、そんなメンタルでいいパフォーマンスができるわけがない。この「照れブレーキ」が入ると、例えば恋愛作品であれば、主人公が「自分のような者が相手にふさわしいわけがない」などと延々と自己批判を繰り返し、まったく話が前に進まない。あるいは、照れが高じたあまり、唐突に全裸の男女が仁王立ちで向かい合っているなどという、情緒のかけらもない展開に陥るかだ。とにかく創作をやる上で照れは禁物であるし、作中に照れ隠しを入れるなどもってのほかである。○「壁ドン」の恐怖最近有名になったときめきシチュエーションと言えば「壁ドン」であろう。もちろん、「となりの部屋で開催されている男対女のプロレスがうるさいので、壁を太鼓の達人のごとくたたく行為」じゃない方の「壁ドン」だ。イケメンが壁に手をつく格好で強引に迫ってきてドキドキ、という状況が醍醐味なのだろうが、個人的に、あのシチュエーションはときめきというより、怖いと思う。私だけではなく、多くの人と目を合わせられないコミュ障は恐怖を感じるだろう。「壁ドン」しているシーンを見ると、手を壁についてない方へ華麗なフットワークで横方向に移動することにより相手をかわして全力で走って逃げるなど、どのようにして回避するかということばかり考えてしまう。そして、壁ドンするのがイケメンだから良いというわけではない。むしろ、イケメンだからこそ怖い。イケメンが自分に壁ドンするシチュエーションがあるとしたら、宗教の勧誘が佳境に入った時以外ありえないからだ。このように、フィクションを見るときでさえ、今まで培ってきたモテない脳が発動してしまうのはとても悲しいことである。では、自分が読者としてどのような作品にときめくかと言うと、ベタかつ簡潔なものが好きだ。男女が出会って、まあ色々あったけどくっついてハッピーエンド、みたいなものを好んで読んでいる。寅さんや釣りバカに通じる様式美である。ジャンルで言うとティーンズラブをよく読むのだが、その名の通りティーンの女子がイケメンと恋愛したりエロいことをしたりしているので、ずっと読み続けていると「なぜ自分が高校生の時にはこういうことが一度も起こらなかったのか」という反省会がはじまってしまうこともある。その危険を避けて、さらにファンタジーを楽しもうと思ったらハーレクインである。こちらは「相手の男がアラブの大富豪」とかいよいよ非現実感が極まっているので、安心して楽しむことができる。ティーンズラブやハーレクインを読むのは、もちろん多少なりともエロがあった方が良いと思っているからだが、気分が暗くなるようなエロなら逆にない方がいい。プレイ内容が卑猥を極めていても、根底にあるのは純愛であって欲しいと思っている。たとえ合意かつ純愛であったとしても、「複数人での試合」などはダメだ、なんとなく不誠実な気がする。「交際相手が分身する」設定のファンタジーならありかもしれないが、未だかつてそういうハーレクインには出会ったことがない。ベタな展開をワンパターンと評することもあるが、繰り返されるのはそれがおもしろいからである。ならばそう言ったものを描けばいいじゃないかと思われるかもしれないが、ベタほど技量の差が出てくるものはない。そのため、ブスが奇抜なファッションで周りに差をつけようとしてさらに差をつけられるのと同様に、実力のなさを斬新さでカバーしようと「男女が全裸で向き合って反復横跳びをしている」ような話を描き、スベるのである。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は9月1日(火)昼掲載予定です。
2015年08月25日今回のテーマは「LINEスタンプの制作」についてである。まず、私はLINEを使っていない。LINEはFacebook以上のリア充ツールという印象だからだ。Twitterがたとえフォロワー0でも延々ひとりごとを言い続けられるのとは対照的に、LINEはなんと相手がいないと使えないのである。これがリア充以外の何だというのであろうか。しかし昨今の若者にとって、LINEは主要連絡ツールになっているようで、高校などに入学する前からネットで「この春〇〇高校に入る人つながりましょう」と募集をかけ、あらかじめLINEグループを作ってしまうらしい。恐ろしい世の中である。私がそんな時代に生まれていたら、戦国時代より早く死んでいる。いや、戦に行く前から勝負が決しているあたりそれ以上にシビアだ。もはや今の高校生にとって、スマホを持たずに学校へ行くというのは全裸で出陣するようなもので、どこからともなく「そんな装備で大丈夫か?」という声が聞こえてくるぐらいの行為なのだろう。じゃあ、スマホを持たせてもらえない学生はどうしているのか。死ぬしかないのか、と思ったが、おそらく持ってない者は持ってない者同士で、いつの時代の教室にいる「イケてないグループ」を形成しているのではないだろうか。私もどこに出しても恥ずかしくないイケてないグループ出身だが、そのグループ内でも当時普及しかけていた携帯を持っている者は誰一人としていなかった。スマホを持ってないからイケてないのか、イケてないからスマホを持ってないのかはわからないが、結局、持っている道具が違うだけで、教室内の勢力図はいつの時代も同じなのかもしれない。私は戦国時代でも、具足の着こなしがダサい「イケてないグループ」に所属するのだろう。○カレー沢氏のスタンプ制作の「現状」そんなわけで私にとって、LINEは無用の物であったが、スタンプで小遣いが稼げるかもしれない、と聞いたら話は別である。LINEで使用するスタンプを個人が制作・販売できるようになってから久しく、商業作家でも自分のキャラクターなどをスタンプにして販売している人は多い。全員が私のように金目当てではないだろうが、何せ明日も知れない職業である。収入源は多い方がいい。しかも在庫を抱えることもないし、全く売れなかったとしても、制作時間をドブに捨てただけで赤字にはならない。作るか作らないかで言うと、絶対に作った方が良いのである。そう思いながら、1年の月日が経った。私のパソコンには「line」という名前のコミックスタジオのデータがある。開いてみると、線画を途中で投げ出した絵が1枚と、41枚の白紙という私の性格の全てを現した物が出てくる。(※個人が販売できる「LINE Creators Market」のLINEスタンプは40個を1セットで販売。申請には、購入ページ用の画像と使用時のタブ用画像を含む計42種類が必要となる)世のクリエイターたちは簡単にLINEスタンプを作ってリリースしているように見えるが、何の締め切りや強制力もなしに40個+αものイラストを完成させるなんて、どんな精神力だよ、と思う。私は「デビューするまで漫画を完成させたことが一度もなかった」ということを再三にわたって言っているが、その気質は全く変わってないのである。また、時間がないという理由もある。スタンプ作りは個人的なもので、それよりはまず締め切りがある仕事の方を優先すべきであり、そうするとスタンプ製作に割く時間はない…ともっともらしいことを言ってはみるが、これも何度も言っている通り、描かない奴は時間があっても描かない。○カレー沢氏がスタンプを完成させるためのふたつの方法逆に、このような人間がLINEスタンプを完成させるにはどうしたら良いかを考えてみる。確実なのは、仕事としてスタンプ制作の依頼が来ることである。自分で決めた締め切りなら破るに決まっているが、よそからの依頼であれば原稿と同じく、期限どおりに作成するだろう。次に確実なのは「本当に金に困る」ことである。小銭でも拾わなければいけない状態にまで追い込まれれば、さすがに作ると思う。そうなると、おそらく連載も全部切られているであろうから、作る時間も潤沢にあるだろう。ただ、「電気を止められているため作れない」という新たな問題が浮上するかもしれない。両方ともかなり有効な方法であるが、スタンプ制作の仕事はそうそう来ないだろうし、「LINEスタンプを作りたいから今の連載を全て終了させてくれ」と言うのも何か違う気がする。では一番手っ取り早い方法は何かというと、やはり「懲罰」であろう。描く手を止めたら電流が流れるペンタブレットがあればバカ売れ間違いなしなので、ぜひワコムさんは次の新製品候補に入れてほしい。ただしバカ買いするのは漫画家ではなく担当編集のような気もする。ここまでしないと描かないのか、と思われるかもしれないが、本当に描かないのである。こんな人間でも、毎月決められた日までに漫画を描いて提出しているのだから、締め切りというシステムを考えた奴は天才としか言いようがない。原稿を完成させるのは努力や根性、まして情熱でもなく、締め切り(もしくは電流が流れるペンタブレット)なのである。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。連載作品「やわらかい。課長起田総司」単行本は1~2巻まで発売中。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は8月25日(火)昼掲載予定です。
2015年08月18日今回のテーマは「タスク管理」についてである。○"やればできる"タスクを掲げる漫画家というのは、実はとてもタスク管理をしやすい職業だ。連載であれば毎月あるいは毎週、締め切り日というのは大体決まっている。今月はダーツで締め切りを決める、などということはまずない。中には、お盆進行、年末進行(盆暮れに印刷所か休みになるため、締め切りが前倒しになること。ネット連載でも同じような進行を求められることがあるが、それは編集が休むためのものなので無視していい)というイレギュラーもあるが、毎年盆と正月が来ることはわかりきったことなので問題はない…と言いたいのだが、毎年連休進行をやっているのに毎回忘れるのが、漫画家七不思議のひとつでもある。よって連載分に関しては、締め切り日に向けて何日までにネームを出す、何日までに完成稿を出すというルーティンをこなしていけば何の問題もないのだ。このように書くと、とても計画性がある生真面目な人間のように見えるかもしれない。だが、私が提出しているのは、もはや描いた本人ですらおもしろいかどうかわからなくなっている、締め切りを守っている以外は長所が見当たらない原稿である。「面白くて売れる漫画を締め切り内で描く方法」が知りたい場合は他を当たってほしい。では、具体的にどのように仕事を計画通り進めているかというと、とにかく1日でやることを決め、それを必ず実行するようにしている。つまり、「今日中にネームを描く」と決めたら、親が死んだとか、自分が死んだとか、よほどの事が起こらない限りは何を差し置いてでも描くのだ。もちろん、「モテたいから今日中に15歳若返って顔面をぱるるにする」というような目標は立ててはいけない。あくまでノルマは「やればできる」範囲にすることが重要である。逆に、やると決めたことは必ずやるが、それ以外のことはまったくしない。予想より早く終わったからといって、明日の仕事を前倒しでやるということはしない。たとえ他にやることがまったくなく、虚空を見つめるしかなかったとしても、仕事だけは絶対しない。つまり、「今日やること」を終えてしまえば後は自由時間であり、早く終わらせれば終わらせるほど、その時間は長くなる。なので毎日「よし、こいつを早くやっつけて思う存分虚空を見つめるぞ!」という高いモチベーションを持って仕事にあたることができるのだ。しかし、繰り返しになるが本当にやると決めた以外のことはやらない。それは原稿に限ったことだけではないので、「部屋の掃除」が一日のノルマに入ってない場合は、どんなに汚れていてもやらない。そのため、ゴミに囲まれて虚空を見つめているという、端から見れば「お前他にやることあるだろ」という状態になってしまうこともままある。これが怠けているのではなく「一日の戦いを終えた戦士の休息」であると理解されないのが、非常に残念なところだ。○先々のタスクが生む「無間地獄」早く終わったなら、次回のネタでも考えた方が後々楽になるのではないかと思われるかもしれないが、あんまり先のことを考えすぎるのも良くない。漫画家にとって一番つらいのは、志半ばで連載が打ち切りになってしまうことだが、その次につらいのが連載を続けることである。続けさせてもらえることがいかにありがたいことかはわかっているが、続けていく内にどうしてもネタ切れが起こる。そこを何とかひねりだして脱稿した後に「来月も同じことをしなきゃいけないんだよな」と思うと暗澹たる気持ちになるのだ。今回が早く終わったからと言って、次回、次々回のことまで考えていると、脳裏に「無間地獄」という言葉が浮かんでくる。結局漫画の連載も会社と同じで、続けなければいけない内は「会社爆発しねえかな」と思ってしまうのだ。もちろん、実際に爆発(打ち切り)したら困るのはわかっている。もし瓦礫と化した会社の前で小躍りしているやつがいたら本物のノイローゼであり、むしろそいつが爆破した本人であろう。つまり、「どうせ明日も行くんだから」と連日会社に泊まりこんだりはしないように、漫画の仕事もどこかで区切らないとエンドレスになってしまい、その内自宅を爆破してその前で踊り狂うことになる。次のことは、次の締め切りまでに考えればいいのだ。また、あまり先のことまで考えすぎると、担当編集から突然「あと3回で終われ」と言われたとして、まったく対処できないという事態も起こり得る。こちらがいくら完璧な計画を立てそれを実行していても、他人の都合でそれが狂う場合もある。漫画家の場合は「担当がネームの返事をなかなかよこさない」というのが一番多いのではないだろうか。担当のOKが出ないと作画には入れないし、独断で進めたあとに修正が入ったら完全な二度手間である。幸い、私の担当編集は一様に返事が早い、中には「お前本当に読んだのか?」と疑いたくなるようなスピードで「これで良いです」と返信してくる担当もいる。しかし、返事が早いのはこちらも助かるので「OKしてくれるなら読んでなくても良い」と考えている。この「必ずしも読む必要はない」というのは私の全作品に言えることなので、読者の皆さまもこの夏、私の本を読まなくていいから買ってみてはどうだろうか。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。2015年2月下旬に最新作「やわらかい。課長起田総司」単行本第1巻が発売され、全国の書店およびWebストアにて展開されている。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は8月18日(火)昼掲載予定です。
2015年08月11日今回のテーマは漫画家の健康診断についてである。当コラムはお題だけ担当が考えているのであるが、時々こんなざっくりしすぎなテーマを投げてよこすから困りものだ。○漫画家は「運動不足になる肉体労働」漫画家と言う職業は健康に悪いと思われがちだし、実際に悪い。だが、この世に体にいい仕事などあるのだろうか。むしろ、大体の疾患の原因は仕事と言っていい。酒、たばこを止める前に、仕事を辞めた方がよほど健康的である。しかし、仕事を辞めると今度は「ご飯が食べられない」等の理由で健康を害す恐れがある。つまり、あってもなくても体を壊すのが仕事であり、こんな有害な物が未だに法律で禁止されていないのは、法治国家としていかがなものであろうか。そうした仕事の有害さを一応分かっているのか、社員に定期健康診断をさせる会社は多い。しかし、漫画家というのは多くの場合フリーランスで、おもむろに立ち上がり、「今日オレは健康診断に行く!」と少年漫画の主人公クラスの確固たる意志とオーラをまといながら、自ら病院に行かなければいけないのである。ちなみに、私は先述の通り会社員もしているので、会社で年一回健康診断を受けている。幸いにも健康体なのだが、それは内側の話であり、多くの漫画家がそうであるように、腕、肩は致命的に痛んでいる。漫画家がハードな仕事だと言っても、基本的に座って絵を描いているだけではないかと思われるかもしれない。しかし、まだ漫画が全てアナログで書かれていた時代、売れっ子作家の元でほぼ365日、10年間にわたりアシスタントをしたところ、目、肩、足、腰はもちろん歯までボロボロになり、しばらく療養を余儀なくされた、という作家の話を聞いたことがある。座って漫画を描いていただけのはずが、軽く車に轢かれたみたいになっているのだ。このように、座ってひたすら絵を描くというのはかなりのハードなことだ。しかも、普通の肉体労働なら筋肉や体力がついたりするかもしれないが、漫画は体が鍛えられるということはなく、むしろ衰える。漫画家というのは「運動不足になる肉体労働」というわけがわからない仕事なのだ。とはいえ、そこまで体を壊してしまうのは、相当無理なスケジュールで仕事をし続けた場合だ。普通に、普通の仕事量をこなすだけなら問題はない。しかし、普通にいかないのが仕事というものである。○漫画家の仕事を左右するのは?漫画の作画というのは大変ではあるが、手を動かし続ければいつかは終わる。一方、それ以前のネタ作りは、いくら考えても手掛かりすらつかめぬことがある。そしてネタを出すのに時間がかかればかかるほど作画時間を圧迫し、とんでもない無茶をしなければいけない事態になるのである。私はショートギャグ作家であるから、1本当たりのページ数は4~8ページぐらいだ。数十ページ描かなければいけないストーリー作家に比べればかなり楽かもしれない。だが、ショートギャグというのは1話で必ずオチを付けなければならず、作品によっては1ページごとに落さなければいけない。仮に4コマ漫画を4ページ週刊連載するとしたら、1回につき8回オチを考えねばならず、さらにそれを毎週やるのだ。もはや正気の沙汰ではない。ストーリー漫画であれば、その1話で全てを明かさず「まさか…!あいつの正体は…!」と引っ張ることができる。例えあいつの正体が何なのか全く考えていなくても、「あいつの正体は来月の俺が考える」と腹を決めて、とりあえずその回の原稿を終えることができるが、1話完結ものだとそうはいかないのだ。とにかく、漫画家の仕事が普通じゃなくなる原因は、ネタがスムーズに出るか出ないかに依るところが大きい。まれに、「ネタはすぐ出たが、全ページに高層ビル群と国会議事堂が出てくるため作画が間に合わない」ということもあるが、私の場合そういうネタは潔くボツにする。それ以前に、どう考えてもさばき切れない量の仕事を受けてしまっているという場合もある。「無理なら断れよ」と思うかもしれないが、そもそも漫画家というのは、あまり自分の仕事をコントロールできないものなのだ。いくら漫画家にやる気があっても、出版社からお呼びがかからなければ、仕事として漫画を描くのは難しい。お呼びがかからなければ自分から売り込むしかないが、それで仕事がもらえるかはわからない。ならば、お声がかかるうちは全部やるしかない。仕事が手から溢れる程ある時期もあれば、まったくない時期もあるのが、漫画家、ひいてはフリーランスの仕事全般というものである。そのため、仕事がある時期はどんな無理をしてでも仕事を全部こなし、さらに仕事がこない時期に備え、稼いだ金は全て貯蓄しておかなければならない。一体何がフリーなのか、というぐらいフリーじゃない生活だ。そもそも、心がフリーじゃない人間が自由業になると必ずこういう袋小路にはまり、心のバランスを崩す。自分はそういう不安感を減らすために会社員を続けているのだが、そうなると今度は体がきつい。つまり、仕事はあってもなくても、体と心に悪い。これが結論であり、薬物よりも先に取り締まるべきものだったのである。そろそろ機械の体を探しに行く時が来たようだ。原稿を置いて、宇宙へ旅立とうと思う。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。2015年2月下旬に最新作「やわらかい。課長起田総司」単行本第1巻が発売され、全国の書店およびWebストアにて展開されている。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は8月11日(火)昼掲載予定です。
2015年08月04日今回のテーマは「夏のレジャー」である。○漫画家ならではの「夏の風物詩」そう言われても、基本的に春夏秋冬、部屋から出ない。それに現在、すべての原稿を締切通りに終わらせていたら1カ月経っているし、それを12回やったら1年が終わっているという生活で、年々季節感というものがなくなってきている。去年は一応花火など見に行ったのだが、花火が始まるまでずっとスマホでエゴサーチしていたし、始まったら始まったで、花火の写真をTwitterにアップしてリプライ待ちし、その待ち時間の間エゴサーチをしていた。とにかくエゴサができない所には1秒たりとも行きたくないので、海などもっての他である、水中エゴサはエクストリームすぎるし、そもそもスマホがぶっ壊れる。よって、もはや「アイスが美味いのが夏」「甘いパンが美味いのが冬」「ペペロンチーノは年中美味い」というぐらいの基準しかないのだが、唯一漫画家だからこそ感じる夏というものがある。「液晶タブレットが猛烈に熱くなってきたら夏」なのである。これは当方が使っている機種が相当古いため余計にそう感じるのかもしれないが、 冗談ではなくアツアツの鉄板に長時間向かい合うのと変わらない状態になるため、ただ漫画を描いているだけの奴が、まるでお好み焼きを100枚焼いたかの様な姿になるのが、漫画家にとっての夏なのである。すべての作業をパソコンで行っているが故の弊害だが、出た汗が直に原稿を汚すことがないという点は、やはりデジタルの利点だ。○フルデジタルが起こした"漫画革命"常日頃から「パソコンで漫画を描ける時代じゃなかったら私は漫画家になれなかった」と言っているが、具体的にどうなれなかったかというと、まず汚損してない原稿を作れなかったと思う。漫画雑誌には多種多様な漫画が掲載されていて、私のようにどうかと思うぐらい絵が下手な作品だって載っていることもまれにある。しかし、余白に作者の指紋が縦横無尽についているという、個人情報丸出しな漫画に出くわしたことはおそらくないだろう。自分は何をするにも不器用で、集中力及び注意力がない。たとえば料理をしろと言えば、全身血まみれか火だるまになっているタイプなのであるが、そういう人間に液状であるインクを持たせると、3歳児に生卵を3パック持たせるのと同じぐらいの惨事が起きる。もちろん、汚すのは原稿だけではない。完成する頃には、実際にやったことはないが「Splatoon(スプラトゥーン)ってこんな感じかな?」という部屋ができ上がっているのである。それに、書き損じをしたとしてもデジタルなら簡単に消せるが、アナログだとホワイト(修正液)を用いて間違ったところを修正しなければいけない。しかし、こういう人間に間違ったところにだけホワイトを塗れというのも無理な相談なのである。消してはいけないところまで塗ってしまうのはもちろん、またしても原稿と言う枠を飛び越え、黒一色だったスプラトゥーン部屋に白が加わり、ますます喪に服しているような状態になってしまう。何度も間違いを犯し、繰り返しホワイトを塗るうちに、その部分だけ3Dな原稿ができるというハプニングも当然起こるだろう。さらに、それをカッターで削ろうとして原稿にでかい穴があくと言うのも想定の範囲内だ。作画以前に、枠線がうまく引けないという問題もある。私がデビューまで原稿を完成させたことがないというのは以前書いたが、大体の場合、枠線で挫折していた。まっすぐ直線を書くというのは案外難しく、4コマ漫画の枠線を書くだけでも徐々にズレて行き、最終的に「自分の人生か」というぐらい右肩下がりな枠ができたのは良い思い出だ。もちろん、その原稿は黒い指紋だらけだった。漫画作成ツールがいくら発達したと言っても、最終的には使う者の腕、というのは確かだ。しかし、「それ以前の問題」だった奴が、印刷できる程度の原稿を完成させることができるようになったというのは、革命と言わざるを得ない。それゆえに、本人がますます進歩できなくなったとも言えるが、仕事である以上使える物は使うべきである。こう書くといかにもデジタルが最高の手段であるように見えるかもしれない。確かに、デジタルであれば、書き損じなどは一瞬にして消してくれる。しかし、データそのものも一瞬で消してくれるというミラクルもたまに起こるし、停電やマシントラブルで手も足も出なくなることもしばしばだ。去年、液晶ペンタブレット(略して液タブ)がウンともスンとも言わなくなり、作業が完全にストップしてしまったことがある。締め切りがあるので、修理に出すなど悠長なことはしていられなかった。よって、約10万円ほどする新品の液タブを即決で購入するはめになってしまった。次の日、液タブは無事に届いたのだが、それが届いたと同時に、死んだはずの旧マシンが息を吹き返すという奇跡が起こった。全米が泣く展開だと思うので、映画化したいという方はご一報いただければと思う。このように、デジタルはデジタルでアナログ時代にはなかった危機管理をしなければいけないのである。ちなみに、その時死んだはずの液タブは今も現役で、今年の夏もその熱で私の顔面を焼いてくれている。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。2015年2月下旬に最新作「やわらかい。課長起田総司」単行本第1巻が発売され、全国の書店およびWebストアにて展開されている。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は8月4日(火)昼掲載予定です。
2015年07月28日今回は、「夫が私の仕事についてどう思っているか」である。○カレー沢氏、夫に仕事のことを聞く…?「旦那が怒ったところを見たことない」とか、「ケンカしたことない」などと円満夫婦をアピールする女の家ほど、旦那の一方的な我慢のみで成り立っていたり、もはや相手が怒る気力すら失っている場合が多いのだが、おそらく夫が私に言いたいことは2万個ぐらいあると思う。その内、どうしても我慢しきれない、1、2個を注意してくることはあるが、残り1万9,998個は我慢していると思われる。主に、「自分の部屋をきれいにしろ」「トイレをキレイに使え」と言われ続けてきたが、最近では「頭をちゃんと洗え」という、とてつもない注意が追加された。しかも「言いにくいんだけど」と前置きがあってからのこの注意であり、まさに「業を煮やした」結果である。おそらく私の肩に季節外れの粉雪が降り積もっているのを見続けた末の事であろうが、30をとっくに過ぎた自分の妻にこんな注意をするのはさぞ情けなかったであろう。しかし、自らの名誉のために言わせてもらえば、風呂には毎日入っているし頭も洗っている、ただ私のフケがそれを凌駕しただけなのである。なので「貴様の妻は頭もろくに洗わないズボラな女というわけではなく、ただ1日1度の洗髪ごときではどうにもならない選ばれしフケ症なだけだ」と反論したくなったが、悲しみの種類が変わるだけなのでやめておいた。このように、私の生活態度については言いたいことが山ほどあるだろう夫であるが、漫画の仕事に関しては、ほぼ何も言ってきたことがない。今回のテーマは当初述べた通り「夫に私の仕事についてどう思っているか聞く」というものであったが、そんなことを聞いた日には、仕事の話は2秒で終わって、あとはここぞとばかり、私の素行に関する小言になるに決まっている。いくらネタのためとは言え、それは虎児を得ようとして虎のケツの穴に頭を突っ込むぐらいの危険行為なので、今回はなしとしたい。○漫画家の妻と暮らすと起こる事柄私が漫画家になったのは、夫と結婚する1年ぐらい前からだ。その時から彼は一貫して「好きなようにやればいい」と言っており、私はそれを真に受け、好きなように漫画を描き、文章を書き、トイレをフリーダムに使い続けてきたが、怒られたのはトイレの使い方だけである。また、「協力できることがあればするが、ないだろう」とも言っていた。確かにない。漫画家というのは「何かネタくださいよー」などと簡単に言う癖に、いざ相手がこんなのどう?とネタを出してくると「そんなの使えないよ、これだから素人は」と言いだす、100万回殺しても殺し足りない生き物なので、そんな会話を夫婦間で繰り返していたら、離婚どころか傷害事件が起きる。それに、私が漫画家だからと言って特殊なことが起こるわけでもない。地方住みなので、家に編集者が来るということもないし、完全一人作業なのでアシスタントが来ることもない。ただ、妻が会社と寝る以外の時間、ずっと自室にこもってパソコンに向かっているだけなのである。つまり、私が漫画家ではなくただのネトゲ廃人でも、彼にとっての生活自体は変わらないのだ。唯一の恩恵は、私の漫画の掲載誌が毎回送られてくるので、漫画には困らない生活が出来るという点ぐらいだ。例え自分の連載が終わったとしても、その元・掲載誌を継続して送ってもらえる場合が多い。私としては、自分不在の雑誌が延々送られてくるという若干切ない状態なのだが、夫としては、他の作品が読めればそれで良いのだろう。このように、お互いのことにあまり干渉しないのと、夫の1万9,998個の我慢により、特に揉めることもなく生活している。○好きなことが仕事になったら、それは仕事であるしかし、これが「好きなようにやれ」だけでなく「好きなことをやらせてやるんだから、その分家事はちゃんとしろ」とかだったら話は180度違う。これは漫画家だけに関する話ではないが、「好きなことを仕事にしている以上、他のことは我慢すべき。苦労は当たり前」という不思議な理論がこの世に存在するのだ。例としては、「好きなことをしているんだから低賃金でもいいだろう」「休みがなくても我慢すべき」などという主張である。夢を叶えた奴は何かハンデを背負うべき、という恐ろしい話なのだが、それで食っている以上は、好きな事をしているわけではなく仕事をしているのだ。それを理由に相手に我慢を強いてはいけないし、それを夫婦間でやりだしたらおしまいである。夫は「協力できることはない」と言っているが、漫画家という職業に限らず、共働き家庭において、「自分のことは自分でやる」以上の相手に対する協力はないと私は考えている。そういう意味では夫は私の仕事に最大限協力してくれているが、問題は私が自分のことを自分でできていない、という状況である、先日夫はついに「部屋を片付けろ」ではなく「俺が片づける」と言って、私の部屋を片づけてしまった。中華料理屋のようにベタついていた床もキレイにしてもらったのだが、それから1カ月もしない内にまたベタベタするようになった。これに関し小言を言われたら「掃除はしているが、それを越える量の脂が私から出るのだ」と言い逃れようと思う。もちろん、掃除はしていないが。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。2015年2月下旬に最新作「やわらかい。課長起田総司」単行本第1巻が発売され、全国の書店およびWebストアにて展開されている。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は7月28日(火)昼掲載予定です。
2015年07月21日今回のテーマは「親、兄弟、友人などが、兼業漫画家である自分をどう思っているか」についてだ。○漫画は妄想を加工した産物商業漫画と言うのは、「大勢の人に読まれてなんぼ」の世界だ。しかし商業作品と言えど漫画というのは元は個人の妄想であり、それを人様にも楽しんでもらえるように加工して、世に出しているにすぎない。そのため、人に見せる用だとしても、自分の妄想を近しい人に見せるというのは恥ずかしいもので、久しぶりに会った人などに「漫画いつも読んでるよ」などと言われたら、「今すぐやめろ」と言いたくなるのである。そもそも、私は自分から自分の漫画について話すことがほぼない。恥ずかしいから、というのもあるが、「明るい話題がゼロ」だからというのが最も大きい。私とて、漫画が上手くいっていれば、調子にのって今後の構想とかをベラベラ喋るだろうが、漫画家になってからこの方、調子に乗れる状況が一度もなかったし、年々それは悪化している。なので、周囲もそれを察して、私の漫画の話はしなくなった。すでに私が漫画家であることは話題ではなく地雷となっている。そうは言っても、友人知人ぐらいまでなら、私が漫画家をやっていることに関して、いい意味で面白がってくれていると思う。しかし、家族、特に自分の子どもが漫画家をやっている(もしくは漫画家を目指している)と言う状況は、親としては面白がってばかりはいられないと言うか、はっきり言って「笑えない」ものだったと思う。○カレー沢氏の進路選択6歳児が「将来は公務員になる」と言ったら、夢がないと親は心配するかもしれないが、実際は進路を決める段階になっても「漫画家になる」と言っているやつの方が、もっと悩みの種なのである。事実、95%が大学に行く高校に進学しておきながら、3者面談で「漫画家になるから、漫画専門学校に行く」と言い張る私は、親にとって相当の頭痛物件だったと思うし、私も当時のことを思いだすと、ロキソニンを箱食いしたくなる。その後も、若かりし頃の私は「漫画専門学校は諦めるが、大学進学はしたくない(受験勉強したくなかった)」とごね続けた上、「じゃあ、漫画家じゃなくてデザイナーになるわ」と親を煙に巻いて、グラフィックデザイン専門学校に進学することになった。このように、「漫画専門学校は反対されたので、とりあえずデザイン系学校に入った」という経歴を持つ人間は結構いるのだ。「漫画にくらべればデザイン業の方が安定している気がする」という錯覚を親に覚えさせ進学を許可させるという手管なので、親御さんは注意してほしい。そして、まんまと美術系の専門学校に行ったは良いが、初回コラムに描いた通り、在学中は1本も漫画を描かなかった。卒業後は印刷会社に就職するも、勉強したデザインを生かすどころか、総務課に8カ月在籍しただけで退職。その後5年、全くデザインにも漫画にも関係ない仕事に就いたり辞めたり、クビになったり、派遣切りに遭ったりしていた。その間、一度も「お前、グラフィックデザインはどうしたの?」と言わなかった親を、私はマジでリスペクトしている。○親から見た兼業漫画家・カレー沢薫の印象は?その後、間口ガバガバの漫画賞に応募したことを機に漫画家となった私だが、親は、娘が漫画を描いていることを応援してくれてはいる。だが、私のことは兼業漫画家というより、兼業会社員と思っている。もし私が「会社を辞めて、漫画1本にする」と言いだしたら、それは親にとってみれば「本業を辞めてアルバイトで食っていく」と言われたようなものであり、おそらく止められるであろう。漫画家などのいわゆる人気商売は、一見華やかそうに見える。私も、友人にそういう職業の人間がいるとしたら、面白がるし応援もするだろう。しかし、親にとってみれば子供がそういう職業を目指すのは止めたいし、なってからも心配の種と思われているケースが多いと思う。しかし、時勢の変化とともに「漫画家を目指す子供と親」情勢は変わってきているようで、今では漫画家を目指す子供を止めず、漫画学校へ通うことも許し、卒業後も就職を促すことなく、デビューまで面倒を見てくれる親が増えてきているという。あまりに世の中が不安定なので、「どうせ安定した職がないなら、夢を追った方がいい」と考えている親が増えてきているのかもしれない。反対されるよりはバックアップしてくれる方が良いには決まっているが、経験上、漫画というのは、いくら時間と描ける環境がそろっていても、描かない奴は描かない。そのため、気づけば子供が「自称漫画家志望」という、幾重にもわからない職業についている場合があるので注意が必要である。先ほど、親からは漫画について応援されていると書いたが、実をいうと、両親は私がもう漫画の仕事をしていないと思っている。現在、親が把握していた漫画の連載は全て終わっており、新しく始まったものに関しては一切言っていないので、親は私の連載はもう一本もないと思っているのだ。ある日、母に「もう漫画の仕事は全部ないの?」と聞かれたので、私はちょっと考えてから、元気に「うん」と言った。母はそれに対し「さみしいけど、まあ、よくもった方かもね」と言った。親の期待に応えるのも確かに親孝行だが、それが無理なら「早めに諦めさせる」というのも立派な親孝行だと私は思っている。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。2015年2月下旬に最新作「やわらかい。課長起田総司」単行本第1巻が発売され、全国の書店およびWebストアにて展開されている。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は7月21日(火)昼掲載予定です。
2015年07月14日今回は二次創作についてである。○二次創作と一次創作の違いとその楽しさ二次創作とは、自分のオリジナルではなく、既存の漫画やゲームのキャラクターを使って、創作をすることだ。つまり、中学生の頃、誰に見せるわけでもなく大学ノートに描いた漫画でも、「『俺の考えた最強の超人』が異能力バトルを繰り広げるもの」なら一次創作で、「ジャンプなどに掲載されている漫画のキャラクターを使った、壮大なBLストーリー(人によって男女カップルだったり、女子同士の百合カップルだったりする) 」なら二次創作ということになる(ただし、10年後発見して悶絶するという点だけは同じだ)。二次創作は楽しい。何せ、好きなキャラが好きなだけ描ける。「超絶萌えキャラに出会ったが、そいつを描くのはまずその後ろにいる名もないモブキャラをマスターしてから」という局面はまずない。「そのキャラが好きなら、ずっと眺めていればいいじゃないか」、「なぜ貴様が下手に描きなおす必要がある」、「エロ本をそのまま使わず、模写して使うようなものじゃないか」などと思われるかもしれない。しかし、その好きなキャラを描くという過程自体が楽しいのだ。そのキャラへの愛をもって、世界一かっこよくしようと思って試行錯誤しながら描く。その時間が楽しいのだ。だからもし、街中でエロ本を一心不乱に模写している人がいたら、その模写したものを使おうとしているのではなく、模写するという行為に興奮しているのであろうから、文句はつけずに、ただ通報だけしてほしい。さらに、その好きなキャラを自分の自由に動かせるという楽しみもある。当たり前だが、他人が描いている 漫画のキャラは、自分の好きなようには動かせない。自分の望む展開にならないことも多々ある、しかし、自分で描く分には好きなように動かせる。もっと端的に言うと、「このキャラのおっぱい見てえな」と思っても、その漫画が少年誌だったりしたらまず見せてくれない。よって、そのキャラのおっぱいを見ることなく一生を終えなければいけないのだ。そんなの理不尽すぎる、何のために生まれて来たかわからない。ならば自分で描くか、作者を拉致監禁して描かせるかの二択となり、法律的な意味では自分で描く方がやや難易度が低い。もちろん、前者とて簡単ではない、最初から自分のイメージする理想のおっぱいが描ける者はいないだろう。描けたとしたら天才か、理想が低すぎるかだ。もう円が二つあれば良いと思っているのだろう。このように、二次創作には、そのキャラが好きで好きでたまらないのに、その情熱に技術が全くついていかないという苦しみもある、芸術家のように描きかけのキャンバスを引き裂いたり、パソコンを爆破してしまったりすることもしばしばだが、上手く描けたときの感動もひとしおだ。○「人が立っています注意」しかし、好きなキャラを好きなように描けると言っても、これはあくまで「自分一人で楽しむ」場合である。もちろん描くのは自由だが、それを人に見せるとなるとまた話は別である。自分の友人知人に「こういうの描いて見たんだけど、どう思う?」とアニメキャラが触手にクチャクチャにされるエロ漫画を見せるのは、今後の人間関係に若干支障をきたす恐れはあるが、まだいい。不特定多数の人が見る場、特にネットに二次創作を載せる場合は色々と注意が必要だ。二次創作のキャラクターは人様の物であり、自分の物ではない。仮に、私が自分の漫画に出てくる「クールで売ってる男性キャラ」に突然セーラー服を着せて登場させたとしても、作者である私が「こいつは最初からそういう奴だったんだ」と言ってしまえば、それは正しいということになる。しかし、人様の創り出したイケメンキャラにシミーズを着せたイラストを描き、「こいつは絶対シミーズを着ている」と主張しながらネットにアップしたら、最悪の場合いわゆる「公式」から怒られるだろうし、仮に作者自身が二次創作OKと公認している場合でも、少なくともそれを見て不愉快に思う原作ファンがいると予想される。 なので、ボーイズラブ作品なら「※ボーイズラブ注意」、シミーズを着ているなら「※シミーズ注意」と最初に注釈をして、そう言った物が苦手な人が見ないようにする配慮が必要となる。だが、広いネットのことである。誰が何を不愉快と取るか全く予想がつかない。自分ではセーフと思っていても、アウトと感じる人もいるだろう。そう思い始めると、キャラが普通の格好で立っている絵を載せるのですら怖くなる。「※人が立っています注意」と書かなければいけないような気がしてくるのだ。○趣味嗜好に正義なしそもそも、Twitterなどの誰でも見られる場に、注意が必要な絵を載せること自体が間違っており、「こいつは絶対シミーズ着てるよね」と思っている人間だけが集まる場でやり取りすれば良いと思われるかもしれない。しかし、そのコミュニティの中ですら、いつ「シミーズが白かピンクか」で戦争が起こるかわからないのだ。どちらが正しいとは言えない、あるいは意外にも紫かもしれない。白もピンクも紫も着ねえよ、という主張もあるだろう。しかし着てないとも言い切れない、もしかしたらスリップを着ているのかもしれない。このように、二次創作におけるキャラの解釈、趣味趣向は何が正しいとは言い切れず、やろうと思えばサウザンドウォーズに突入できるのである。こうなると、二次創作より一次創作の方が文句も言われず楽なんじゃないかと思われるかもしれないが、私が二次創作をする理由は、自分のオリジナル作品より二次創作の方がネット上でウケが良いから、と単純かつ悲しい事実があるからだ。文句を言われないというのは、逆に「見ている人がいない」とも言えるのである。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。2015年2月下旬に最新作「やわらかい。課長起田総司」単行本第1巻が発売され、全国の書店およびWebストアにて展開されている。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は7月14日(火)正午掲載予定です。
2015年07月07日今回のテーマは「アイデアを生み出す方法」である。 そんなもの、違法なクスリを使う以外で、手っ取り早くできるのであれば、こっちが教えてほしい。他の作家はどうか知らないが、自分場合はひたすら机の前で頭を抱え、時に「薬 神が降りてくる 合法」などとググりながら、とにかく「頑張って出す」としか言いようがない。もちろん、実際に危険なドラッグをキメながらネタを出しているわけではないし、最初から描くことが何もないわけでもない。ノートの最初のページはキレイに描こうとするように、漫画だって最初はやる気と希望に満ちている。描きたいことだってたくさんある。「キャラが勝手に動いちゃうんだよね」とツイートしてしまったりもする。そして、その状態は大体単行本の第1巻が発売するまでは続く。○漫画家が権太坂を上るとき漫画家にとって、作品とはわが子同然だ、どんなにデキが悪かろうが他者に認められなかろうが、等しくかわいい。と言いたいのはやまやまだが、そんなわけがない。(※個人の感想です) やはり人気がある方がかわいいというか、筆もノるし、アイデアも次々とわいてくるものなのである。なので、単行本1巻が出て、それが売れていないとわかるや否や、テンションはガタ落ちなのだ。勝手に動いていたはずのキャラが、どこの武田信玄かと言うぐらい、動かざること山のごとしになるのである作家にとって非常に苦しい時である。作品に対するテンションが下がっているのに、その不人気を挽回するネタを考えなければいけないのだ。こういう時に、読者から見れば「どうしてこうなった?」というような破天荒なテコ入れがされてしまったりするのだが、作者の精神状態的には"両足骨折で権太坂を上ろうとしている"ようなものなので、多少トチ狂ったことになってしまっても、それは仕方のないことなのである。○わが子のような作品の"蘇生"もちろん、人気がないからと言って、その作品がかわいくなくなったというわけではない。前述のように何とか蘇生してやろうと、心臓マッサージを繰り返し、肋骨をボッキボキに折って逆に息の根を止めてしまうこともしばしばだ。しかし、わが子可愛さゆえの親心が、逆の方向へ行ってしまう場合もある。1巻の売れ行き状態を聞いて「この子は短命かもしれない」と悟った瞬間「1日でも長く生きさせよう」ではなく「せめて安らかに眠らせたい」と思ってしまう場合もあるのだ。つまり、急な打ち切りにより、伏線が回収できずに支離滅裂な終わり方はしたくない、と思ってしまうのだ。中には「どうせ終わりなら最後にぶちかましてやりますわ」と最後まで風呂敷を広げて、それを一切たたまず爆破する、という伝説的終わり方をするものがあるが、それは相当メンタルが強いか、すでにメンタルが破壊し尽くされている作家のやることで、自分のような小物は「何とか着地させたい」と思ってしまうのだ。その結果、「終われと言われる前から最終回に向かう」という大逆走をぶちかましてしまうのである。もちろん、いつ終われと言われているわけではないので「いつでも終われる」ような展開ばっかりになる、そんな漫画が面白いわけがない。つまり、死体がきれいか、肋骨が全部折れて内臓が破裂しているかの違いで、早死にすることには違いないのである。○漫画家が新作を生み出すために必要なことは?漫画はビジネスなので、出版社の方も、目が出ない作品をズルズル続けさせるわけにはいかない。そして作家にとっても、ダメな物は終わらせて新作でヒットを狙った方がいい場合もある。しかし、新作を考えるというのがまたつらいのだ。特に当方、これと言ったヒットがないまま、漫画家生活すでに5年である。こうなると、何を描いても売れない自信がついてくる。思いつくアイデアは全てがダメな気がするのだ。そういう状態の作家に、担当編集は「描きたい物を描いてください」と言う。しかし、それがまた「ない」のである。そこで正直に「描きたい物はないです」と言ったところ、担当からはこのような答えが返ってきた。「大体の作家はそう言います」と。そして、担当から「こういうのはどうですか」と提案されると、また大体の作家が「そんなもの、私には描けない」と言うそうだ。ド最悪である。こんな最悪な生き物を何とか鼓舞して漫画を描かせなきゃいけない漫画編集には心から同情する。しかし、「描きたいものが見つからない」とか「ネタが降りてこない」とか拗ねているうちに餓死するのは漫画家の方だ。出版社側は、そいつが描かなきゃ、他のやつに描かせるだけだからである。つまり、どれだけやる気がなくなろうが、自分の才能に絶望しようが、漫画を通して読者に伝えたいことがゼロであろうが、「とにかく出す」しかないのである。本当は、「アイデアに詰まった時は、映画や小説を見て着想を得る」とか、「お気に入りの喫茶店でネームをする」とかいう話をしたかったのだが、他の創作物を見ると、着想を得るというより丸パクリしてしまうし、住んでいる所が田舎なため、中年女が喫茶店で漫画を描いているというだけで通報案件だし、そもそも喫茶店と言うものが周囲になかった。よって、今日も部屋を転げまわるしかない。そのためか、最近床が老舗中華料理屋のようにベトついてきた。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。2015年2月下旬に最新作「やわらかい。課長起田総司」単行本第1巻が発売され、全国の書店およびWebストアにて展開されている。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は7月7日(火)正午掲載予定です。
2015年06月30日今回のテーマは猫である。猫はカワイイ。確かなことが何ひとつない世の中において、ただひとつの真実である。平素、人の不幸を笑い、人の幸福を妬む「逆のび太」として活動している私だが、そのことによって得られるエネルギーをすべて猫の幸福を祈る力に変えているので、実質チャラと言える。猫はカワイイ。もはやこの可愛さは理不尽であり、怒りさえ覚える。猫を見つけて「カワイイ~」などという女はみんなフェイクであり、ネコをかわいいと言っている自分がかわいいと思っているにすぎない。ホンモノの猫好きが猫を見つけた時、脳裏に浮かぶ言葉はただひとつ、「クソ」だ。可愛すぎて怒りしかおこらない。そしてこんなかわいい生き物が野放しになっているなんて、治安が悪いにもほどがある。即刻、法改正して取り締まるべきだ。しかし、選挙の時に「猫を取り締まる法を作る」という公約を掲げる候補者は一人もいない。これでは、若者が選挙離れしてしまうのもある意味仕方ない。○猫、それは究極のデザイン猫はカワイイ。一方で、世の中には、どうかと思うような見た目の生き物がいる。「よく神もこのデザインでOK出したな」と言いたくなるような、昆虫や海洋生物が存在する。それは、おそらくデザイナーが「猫」のデザインで半年ぐらい徹夜してしまい、その後デザインされた生き物がかなり適当になってしまったからに違いない。もしくは、猫のデザインを見た神が「このかわいさは世界の均衡を崩す」と判断し、バランスを取るため、イカれたビジュアルの生物を多数生み出したのだろう。私がどうかしているデザインなのも、美人とのバランスを取るためだ。猫はカワイイ。全体像を見るだけでもそのかわいさは疑いようがないが、裏返して見ても腹の佇まいなどもたまらないし、足の裏にはなんと肉球がついている。これはやり過ぎではないだろうか。きっとデザイナーの間でも、熱い議論が交わされたであろう。「デザインは引き算」であると主張する者と「盛りすぎの美学」を主張する者が対立したに違いない。もちろん、猫に関して「冷静な議論」などあり得ないので、100%暴力による話し合いにより、「猫に肉球をつける」ことが決定したと推察する。賛美両論あるかもしれないが、とりあえず私は、肉球派デザイナーの腕力の方が強くて良かったと思っている。○猫、それはインターネットの覇者猫はカワイイ。そう思う者は全世界に多数いる。特にインターネット界隈には多い。今日も、カワイイネコちゃん写真がTwitterで1万リツイートぐらいされている。ネットだけ見ていると、「猫は世界で一番人気がある動物」だという錯覚を覚えるが、調査をしてみると犬好きの方が多く、猫をかわいいと思っている人は実はそんなにいない、という結果が出るようだ。その調査では、猫好きには内向的で偏執的、かつオタク気質の奴が多い為、ネット上での猫の露出が多くなるという推測がなされていた。つまり、猫好きがパソコンの前で猫動画をアップしたり、猫画像をふぁぼりまくっていたりする間に、犬好きは外で犬とフリスビーをやっているのだと言うのだ。野暮である。猫好きが内向的で偏執的でオタク、という結論はどうでも良い。私がそういう人間だから、ザッツオールライト、 ある意味正しい。しかし、「猫は本当に人気なのか」を調べること自体が野暮の極みだ。芋すぎる。そんなことは猫好きには関係ない。人気があろうがなかろうが、猫が好きだ。むしろ、全人類が猫を嫌いでも、猫のことが好きなのである。人気の有無で猫を愛する気持ちが揺らぐなら、そいつは最初から猫が好きなのではなく、ネコをかわいいと言っている自分がかわいいに過ぎない。○それでも、カレー沢氏が猫を飼わない理由このように、猫への愛はいくら語っても尽きないが、実は当方、猫を飼ってはいない。飼おうと思えば飼える環境だが、これから先もおそらく飼わないだろう。なぜかと言うと、小学生の時に飼っていた猫とあまりに辛い別れをしてしまったからだ。当時のことを想いだすと、未だにTPO構わず泣いてしまう。つまり、ペットロスから20年以上立ち直れていないのである。猫を飼っている人はいつか来る別れを覚悟の上で飼っているのだから、その覚悟ができない私は、真の猫好きとは言えないのかもしれない。しかし、別れを覚悟して飼ったはずが、猫のあまりのかわいさに、いつか来る別れを想像して、今から泣いたり、体調を崩したり、果ては猫と離れがたくて職場にも行かなくなったりと、別れる前から正気じゃなくなった人も知人に少なからず存在する。彼らの心が弱いわけではない。猫が可愛すぎるからしょうがないのだ。目の前でどんな奇行をされようと、理由が「猫がかわいすぎて」なら、納得できる自信がある。常軌を逸してカワイイ生き物がそばにいて、正気でいろと言う方がおかしいのである。私がこのような文章が書くから、「猫好きは偏執的でオタク」などという調査結果が出てしまうのかもしれない。だが、個人的には、猫好きはもっと内にこもってもらいたい。猫好きがみんな外に出て、猫が投げたフリスビーを拾いに行くようになったら、ネット上から猫写真が減ってしまうからだ。これからも猫好きは家に閉じこもって、猫写真をどんどんアップし続けて欲しい、そして、私はそれを1日中PCの前でふぁぼり続ける。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。2015年2月下旬に最新作「やわらかい。課長起田総司」単行本第1巻が発売され、全国の書店およびWebストアにて展開されている。「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」、次回は6月30日(火)正午掲載予定です。
2015年06月23日「カレーが好きなんですか?」カレー沢、などという4歳児が3秒で考えたかのようなペンネームで仕事をしているため、よくされる質問だ。そう聞いてくる相手に対し、私は常に「そうでもないです」と答え、せっかく振ってくれた話題を一瞬で終了させるという名人芸を見せつけていた。カレーはおいしいと思うが、「無人島に何かひとつもって行けるとしたら何を持っていくか」と聞かれて「カレー」と答えるほどではない(それに、いくら好きでもカレーと答えるやつは少し冷静になった方がいい)。それならなぜ「カレー沢」などと名乗っているかというと、私が「中二病」とは逆の、「中二病と言われるのを恐れるあまり病」だからである。はっきり言って、これは中二病より性質が悪い。中二病は方向が斜め上でも何かに向かって全力で突き進んでいるが、後者は人に笑われるのを恐れるあまり、何もしないか、中二病の人間を笑うのにパワーを使ってしまっているのである。つまり、カッコいい凝った名前をつけたら中二病と言われてしまうから、格好はつけずに行こうと思ったのだ。その結果が「カレー沢」である。どう考えても「格好をつけない=ダサい」と勘違いしているネーミングなのだが、照れ隠しのつもりが余計恥ずかしいことになってしまった。どうせ恥ずかしいなら「キャビア沢」とか、もっとカッコいい名前にすればよかったと後悔しきりである。○「孤独のグルメ」よりも孤独な夕食前置きが長くなったが、今回は漫画家の食生活についてである。漫画家とは、おせじにも健康的とは言えない職業だ。睡眠や食事は乱れがちだし、担当を殴るときと、担当を追いかけて殴るときぐらいしか運動していないよって人一倍、健康に気を使っている作家も多いと思うが、私は典型的な「食べること以外楽しみがない人間」なので、食事に縛りを入れてしまうと、もはや何のために生きているかわからなくなってしまう。つまり、食生活に制限を入れて健康になったとしても、「人生に何の楽しみもないのに長生き」という最悪のパターンに陥るのだ。そのため、食については「健康のことはあまり考えない」という方針で行くことにした。もちろん、風呂上がりにコールタールをしこたま飲むとか、積極的に体に悪いものを食べようとしているわけではなく、とにかく毎日好きなものを食べるように心掛けている。しかし、一日中延々と好物を食い続けているわけではない、むしろ、日中はあまり食べない。朝はコーヒーのみ、昼はアサヒフードのクリーム玄米ブランを一袋。会社がある平日はいつもこれだ。夫の健康は無視できないので、会社から帰宅した後、夕飯は毎日作る(ただし味の方は無視している)。帰宅は夫の方が遅いので、いつも一人で先に食べる。夫と同じものを食べることもあるが、それは食べずに全く別の物を食べたりもする。仮に「自分はレトルトのペペロンチーノだけ山盛り食いたい」と思ったら、それなりにバランスのとれた夕食を作っていても夫だけに食べさせ、誰が何と言おうひとりで山盛り食うのである。○人の不幸で飯を食す何を食べるかも重要だが、一番大事なのはシチュエーションだ。漫画「孤独のグルメ」の中に「モノを食べる時はね、誰にも邪魔されず 自由でなんというか救われてなきゃあダメなんだ 独りで静かで豊かで…」という有名なセリフがある。全く同意見であるが、孤独のグルメは基本外食だ。私はもっと孤独に行きたいと思っている。そのために、私は山盛りペペロンチーノを二畳ぐらいしかない仕事部屋に持ち込んで、ひとり閉じこもって食うのだ。そして、食べながらネットサーフィンをする。見るのは大体において、不幸な人のブログだ。不幸と言っても、おしんのように運命に翻弄されて不幸な人ではなく、ギャンブルで多額の借金を抱えたなどの自業自得で不幸な人のブログだ。「人の不幸でメシが美味い」という表現があるが、私は"リアル人の不幸"をおかずに飯を食っているのである。それが本当に美味いのである。心の底から幸せだと思う。色んな意味でお行儀の悪い姿だが、そのプレシャスタイムは山盛りペペロンチーノを食べ終わった時点で終了だ、時間にしたら30分にも満たない。その後は原稿に取りかかり、寝る時間まで原稿。そして寝て起きたら会社、というハードな生活に戻る。しかし、この30分があるから耐えられるとも言える。他人から見たら完全にどうかしている趣味でも、「独りで静かに豊か」になれる時間が、人間には必要なのだ。そんな楽しい趣味にも、大きな欠点がある。「夜にたくさん食べると太る」という定説通り、いくら日中あまり食べなくても、夜に好きなだけ食べていたら太るのである。最近は加齢も相まって、体重増加が著しい。いくら健康は無視と言っても、やはり体重は気になる。だが前述の通り食べるのを我慢すると、生きている意味がわからなくなってしまうので、痩せようと思ったら運動量を増やすしかない。よってこれからは、もっと積極的に担当を殴っていきたいと思うので、各担当氏は全力で逃げていただきたい。お互い運動不足が解消されて、ウィンウィンの関係である。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。2015年2月下旬に最新作「やわらかい。課長起田総司」単行本第1巻が発売され、全国の書店およびWebストアにて展開されている。
2015年06月16日今回のテーマは、「"漫画家"以外の顔での人との交流について」である。とはいえ、漫画家としても漫画家以外としても全く人と交流していないので、テーマは無視して最近はまっているゲームの萌えキャラについていつもの倍の文字数で語ろうかと思ったが、「こんな風だから人と交流がないのだな」と納得されるのも何なので、無理にでも書こうと思う。会社員と漫画家の兼業生活も早6年になるが、いまだに会社の人間は私が漫画家をやっていることを知らない。そういうと「それはありえない、絶対バレる」という人がいる。おそらく、「会社の人と世間話でもしている間にポロッと口を滑らせてしまうこともあるに違いない」という意味なのだろう。しかし、それは「会社の人と世間話」という、難易度トリプルXミッションが出来る人のみに起こり得る事故である。当方、漫画家としても漫画家以外としても、どこに出しても恥ずかしくないコミュ障である。よって、会社の人と話すことがほぼないのだ。これでバレていたとしたら、頭の中が周囲にダダ漏れになる病気にかかっているとしか思えない。早急に病院に行くか、自ら命を絶ちたいと思う。○エッセイ作家と人間観察会社のみならず、私は人と交流出来ないタイプであり、自分から話題をフることはなく、フられた会話も、"コミュ障界の石川五右衛門"として、全部斬鉄剣で切ってきた。そもそもプライベートでは部屋の外に出ることすらまれであり、独り言か、壁のシミに話かける以外は言葉を発しないことも珍しくない。エッセイやエッセイ漫画を描く者にとって、人との交流、人間観察はもっとも大事な要素ではないか、と思われるかもしれない。しかし、エッセイ作家にも種類がある。まず私のエッセイ漫画やエッセイ集を、本屋で定価購入してみてほしい。ブックオフを使う奴らとはここでサヨナラだ。そして購入後は、長い人生、全く無益な時間が少しぐらいあってもいいじゃないかという寛大な気持で読んでみてほしい。読んだ上で内容が全く頭に入らなかった、ということもあるかもしれないが、とにかく「他人のこと」をネタにした話が少ないと思う。そもそも他人と交流していないから書けない、というのもあるが、あっても書かないと思う。怖いからだ。○他人をネタにするということ、そのリスク他人をネタにして作品を書き、それを公表するというのは、実は怖いことなのである。全て相手の許可を取り、「これを載せますよ」と言っているなら良いが、そうでない場合も多いと思う。それでネタにされた相手が「名誉棄損だ」と言いだしたら一大事だ。他人と日常会話することすらできないのに、怒っている人間を相手に謝罪をしたり、逆にさらにケンカをしたりするなんて、マジで無理である。なので「自分が出会った変な人」ネタでエッセイを書いている人を尊敬する。他人を攻撃(冗談でも相手は攻撃ととる場合もある)するということは、自分も攻撃される覚悟があるということだからだ。もちろん、何度も言う通り、作家になる時点で後先考えていないタイプが多いので、本当に何も考えずに他人をネタにしているのかもしれないが、勇気があることには違いない。では私のようなチキン作家が何をネタにエッセイを書くかと言うと「自虐」である。自分をいくら攻撃しても、誰も文句を言わないからである。つまり、自虐というのは自分可愛さゆえに自分を攻撃するという、特殊プレイのような作風なのだ。さらに自虐ネタというのはリスクが低い上にコストも安い、自分のことを書くにしても、体験型、取材型のネタは時間も経費もかかる。その点、自虐型のネタは、無尽蔵にある自分の黒歴史を掘り返してリサイクルすれば良いだけだ。では、自虐系作家は丸儲けかというとそんなことはない。もちろん自虐エッセイで売れている人もいるが、全体で見ると体験型のような読者の興味を引くテーマの本の方が話題になりやすい。少なくとも、コミュ障が過去のどうでもいいことを思い出して延々悶絶しているものよりは、読んでみたいと思わせるだろう。それに、墓場まで持っていくつもりだった黒歴史をネタにしてしまったがために、半永久的に世の中に残り、真の意味での「レジェンド」と化してしまうということも忘れてはいけない。○自虐型人間の取り扱い説明作家のみならず、日常生活でも自分かわいさゆえに自虐をする人間はよくいる。だが、注意しなければいけないのは、自虐と謙虚は全く違うということだ。前者は、自分で自分を馬鹿だと言う割には、他人にそれを言われると烈火のごとく怒りだすのである。両者の見分け方として、謙虚な人間は「自分を下げて他人を上げる」が、自分の為に自虐をする人間は、「自分を下げまくるだけで、他人を褒めはしない」のである。結局自分しか見ていないからだ。私は「こういう面白い人がいた」系エッセイを見るたびに、「こんな変な人に出会うことがまずない。この作者はそういう人が寄ってくる星の元に生まれてきたのだ」と思っていたのだが、すごく面白い人に出会っていても、私自身が自分のことしか見ていないため、その人のおもしろさに気付いていないだけなのでは、と思いはじめた。やはり、コミュ障にそういった作風は難しい。これからも内にこもりまくったネタで食べていくしかないようだ。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。2015年2月下旬に最新作「やわらかい。課長起田総司」単行本第1巻が発売され、全国の書店およびWebストアにて展開されている。
2015年06月09日今回はサイン会についてである。今まで私は3回ほどサイン会を開催し、どの回も定員割れせず行うことができた。喜ばしいことだが、ギャグ作家としては、人が全く来ないというのもおいしいものである。と言いたい所だが、はっきり言って普通にへこむし、それが原因で漫画家を辞めるどころか、部屋から出て来られなくなる可能性が高い。なので、来てくれる人にはいつも感謝だ。○思慮の浅いコミュ障私は日々、こういったコラムやエッセイなどで「コミュ障である」と言っているし、実際そうである。ならばなぜそんな人間がサイン会など開くのだ、と思われているかもしれない。しかし、コミュ障にも思慮が深い方と浅い方がおり、私は圧倒的に浅い方なのである。「思慮の深いコミュ障」とは、自分のコミュ障ぶりをよく理解し、孤立するとわかっている会合には一切出ず、どうしても出なければいけないものは、何も期待せず出席し、粛々と時間経過を待って帰ることにより、コミュ障ゆえに受ける心のダメージを極力減らすことができるコミュ障である。では逆に、「思慮の浅いコミュ障」がどんなものかというと、一言で言うと「悪い意味でポジティブ」なのである。「自分はコミュ障だけど、この飲み会では潜在能力的なものが開花し、楽しく過ごせるかもしれない」と何故か思い、アウェイな場に出ていき、やはり孤立、という愚行を何万回と繰り返すのだ。また、こういったタイプの人間は、「友達が一人もいなかったクラスの同窓会」という、思慮の深い方なら絶対欠席するだろう集まりにも参加してしまったりするのである。「あの当時は友達ができなかったけど、今ならできるかも」と思ってしまうのである、冷静に考えれば、1年一緒のクラスにいて会話すらほぼしなかった人間と、10年後突然会って仲良くできるわけがないのだが、何せ思慮が浅いので行ってしまうのだ。なので、サイン会も思慮の深いタイプなら「いえ、自分は人前とか苦手なので」と断るところを、「このサイン会では潜在能力的なシックスセンスや第三の目が開き、読者と楽しい交流が出来るかもしれない」と思い、OKしてしまうのである。しかし、現実はどうかというと、そのような能力が覚醒することはない。○カレー沢氏のサイン会の様子は?漫画家のサイン会というのは、単行本にサインと簡単なイラストを描く形式が多い。イラストの内容に関して、私の場合は読者のリクエストを受けるのだが、中にはジョジョや進撃の巨人、島耕作を描いてくれと言って、長い列に並んでバッタモノの絵をもらって帰るという猛者もいる。一人あたりにかけられる時間は長くて3分。しかもこちらは絵とサインを描かなければいけないので、会話できる時間はごくわずかなのだが、はっきり言ってそれすら持たない。むしろ絵に集中するフリをして、目を合わさないようにしているぐらいであり、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。同窓会とサイン会の違いは、来る人間がほぼ100%自分に会いに来ているという点にある。自分に会いに来たはずの人間が全員私を無視して、その場で酒盛りや王様ゲームをやり始めたというなら話は別だが、そうしてもらった方が楽なぐらい、何も話せないのである。では、読者は単行本と空(くう)を交互に見つめ続ける作家から、無言でサイン本を受け取るしかないかというと、そうではない。ここで助け舟を出すのが担当である。サインを描く作家の隣には、大体担当が控えている。漫画の編集とは、漫画家をあることないこと口手八丁でなだめすかして漫画を描かせるという心のない人間ぞろいだが、こういう時には役に立つ。作家がサインに集中(するフリを)している間、「どこから来たんですか?」など、当たりさわりない会話で間をもたせてくれるのである。しかし、個人的にはこの「どこから来たんですか」という質問はやめてほしい。なぜなら、ものすごく遠方から来た人が発見されてしまうからだ。こちとら、読者と交流するはずが全くできていないので、中盤になる頃には完全に卑屈をこじらせている。そこに遠方からわざわざ来てくれた人が現れると、もう「腹を切ろう」という気分になってくる。「一旦ここで陰腹を切った上で、サインを続けよう。そうでもしないと、申し訳が立たない」と思ってしまうのである。ちなみに、「サイン会にはどんな人が来るのか」とよく聞かれるが、皆さん良い意味で普通であり、悪い意味でエキセントリックな人は今までひとりもいなかったと記憶している。しかし、何せこちらが全く読者の顔を見られていないので、中には全裸に乳首ピアスで来てくれた人もいたのに、見逃していたという可能性もある。次回はもうちょっとちゃんと読者の顔を見るつもりなので、そうした方がいたのなら、今度もぜひ全ピ(全裸乳首ピアスの略)で来ていただきたい。このようにサイン会とは、たくさんの人に来てもらえて嬉しいと思う反面、「もう少しもてなせたのではないか」、「やはり自分のような人間は表に出るべきではなかった」という後悔も大きいのである。しかし、思慮の浅いコミュ障の最大の特徴は、こういう苦い体験をすぐ忘れるという点にある。よって、すでに次回のサイン会を今年夏をめどに準備中である。前回は上手く話せなかったが、今度こそ私の中に眠っている48の人格が目覚め、皆様を楽しませる予定なので、ふるってご参加いただきたいと思う。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。2015年2月下旬に最新作「やわらかい。課長起田総司」単行本第1巻が発売され、全国の書店およびWebストアにて展開されている。
2015年06月02日今回は美容についてである。引きこもることができない兼業作家ゆえの話を頼む、ということなのだろうが、引きこもりが平気でそのまま外に出てきてしまったかのようなスタイルで毎日会社に行っている。○カレー沢薫の美容術を公開現在当方ロングヘアー、と言えば聞こえは良いが、ここ1、2年は美容院へ行くのも面倒くさがったため、自然にこうなった、それを毎日同じゴムで1本に縛るのだが、毛の量が多いためかすぐゴムが伸びるので、そろそろ荒縄で縛り上げようかと思っている。それにアクセントとして白髪を数本光らせるというワンポイントテクニックで周りにバッチリ差をつけられてから颯爽と、かかとが全くない靴で出社する。骨盤が歪んでいるので、右のかかとばかりすり減っているのも、上級者のスタイルだ。「暗い人間は冷え性が多い」という通説通りの冷え性なので、会社では1年中、元が何色かわからないカーディガンを羽織っている。だが、あまりに着すぎて、後ろから見ると完全にシースルー状態になっていたことが最近判明した。誰もそれを指摘してくれる人がいない人間にしかできない奇跡のファッションである。化粧に置いては、日焼け止め兼用のBBクリームを塗るのみだ。BBとはおそらく「ブス ババア」の略だろう。それも顔面の惨状を隠すには、一回につき一本は使うべきなのだが、どう考えても顔面の広さに間に合っていない少量しか使わない。そして出社してから退社するまで、鏡を見ることは1度たりともない、良い物が映る可能性が皆無だからだ。最近は「自分の目に映らないものはこの世に存在しないと同じ」というルールを採用しているので、自分の顔がどんなに酷くても、見さえしなければセーフなのである。体重も同じルールのため、体重計には乗らない、数字で増えたことを把握しない限りは、太ったことにはならないからである。そんな格好で毎日会社に行っているので、おそらく影では「小汚い」とか「貧乏くさい」と言われているだろうが、面と向かって言われない限りは平気である。実は小学生のころ担任教師に面と向かって「あなたの髪は小汚いから結ぶか何かしなさい」と言われたことがある、当時はショックであったし、その話を聞いた自分の親がモンスターペアレントであったら、モヒカンに火炎放射器を携え、ジープで学校に突っ込むぞ、と思ったが、今思えば本当に目に余る小汚さだったのだろう。大人の自分がこれだけ小汚いのだ、子供の自分が汚くないわけがない。それに、子供の時はこうやって指摘してくれる大人がいるが、大人になると指摘すらあまりされなくなる、言われたことにすぐ癇癪をおこす前に、言われる内が華と思い、今一度言われたことを反芻し、やっぱり納得がいかなければ、思う存分モヒカンジープで突っ込むぐらいの思慮は必要であろう。○オタクが”実は”かわいいという風潮このように私はぶっちぎり小汚い路線だが、世の女性の美意識は格段に上がっている。それは作家業界も例外ではなく、少なくとも私の会った女性作家は皆キチンとしていた。昔は、「漫画を描く女はみんな根暗でオタクでブス」みたいに思われていた節があった、が最近ではそういうイメージもなくなってきたように思える。それどころか、逆に「オタク女は実はカワイイ」みたいな話も散見されるようになった。実は、オタク女=ブス説より、こっちの方が2兆倍困るのである。オタク=ブスが定説だった時代は、身だしなみさえきちんとすれば「オタクなのにきちんとしている」、「オタクだけど割と可愛い」と、最初のイメージがマイナスなだけにプラス評価を得られることができたのだ。それが「オタク女はカワイイ」に変化してしまうと、「オタクなのにブスってどういうことだよ」などと言われてしまうのだ。地獄以外の何ものでもない。どの世界にだって、美人もいればブスもいる。鼻フック相撲を極めようとしている美人だって、探せばいるだろう。しかしそれを、「鼻フック相撲をやっている女はみんな美人」などと言われたら、その世界の女たちは困ってしまうのである。よって、個人的には、「オタク女はクソを10時間ぐらい煮つめたかのようなブスぞろい」というイメージの方が、「10時間と聞いていたが5時間相当ぐらいのブスだった」と思ってもらえるので助かるのだ(逆に「15時間だった」と思われることもあるかもしれないが)。とはいえ、全く美醜が関係ない分野に居ても、まずそこに注目されてしまうのが、女の悲しい宿命とも言える。先日某CMが大炎上してしまったように、社会に出る女性に対し「会社の華になれるよう努力しなさい」というのはセクハラであろう。しかし「大人として一定の清潔感は保て」と言うのは、男女関係なく、最もな主張である、と、あまりにだらしない最近の自分を見て思うようになった。なので、先述のスケスケカーディガンをついに捨てた。次は、毎日顔の脂をぬぐっているフェイスタオルを洗濯するところまでステップアップしたいと思う。千里の道も一歩からである。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。2015年2月下旬に最新作「やわらかい。課長起田総司」単行本第1巻が発売され、全国の書店およびWebストアにて展開されている。
2015年05月26日当初10回で終了予定の当コラムであるが、人気のため後10回ほど延長することになった。というのは担当編集の言だが、おそらく次書いてもらおうとした人に断られたのだろう、それは別に悪くない。「生涯代打」という生き方もある。そして、記念すべき延長第一回目のテーマは「息抜き」についてである、どう考えても、前とテーマがかぶっているが、担当が同じテーマを投げてよこしてきたので仕方ない。この辺からも担当のやる気ぶりが伺える。(すみません、エゴサーチ以外の息抜きもお聞きしたかったので…(編集担当))○「エゴサーチ」の息抜き前回息抜きは「エゴサーチ」と言ったが、四六時中しているわけではない。と言いたいが本当にずっとしているので、仕事の息抜きとなるとまた同じ話になってしまう。だが、エゴサーチの息抜きは、と聞かれたら「ゲーム」であろう。一応「ニンテンドー3DS」や「プレイステーション・ポータブル」、「プレイステーションVITA」などの家庭ゲーム機は多数所持しているが、プレイするのはもっぱらスマホやパソコンのゲーム、いわゆるソーシャルゲーム(以下ソシャゲ)である。ゲームも日々進化しているようだが、進化しすぎてもはやついて行けないし、こちらの脳はどんどん退化している。なので、システムがシンプルで、どこでもできるソシャゲは暇つぶしにはもってこいである。もちろん、それが暇じゃない時間までつぶしだすのにそんなに時間はかからなかったが、ソシャゲの恐ろしい所は、時間どころか金まで食いつぶしだすことである。現在ソシャゲのほとんどが「基本無料」をうたっている。それは嘘ではないが、逆に言えば「使おうと思えばいくらでも使える」ということなのである。「無料で出来る物に何故金を出すのか理解できない」という人もいるだろうが、課金すると「無課金では手に入らないレアなキャラやアイテムが手に入ってイエーイ!」なのである。ますます理解できなくなったと思うが、それ以外に言いようがない。しかも、金を出せば必ず欲しいキャラが手に入るというわけではない。まず金を払って「ガチャ」を回し、運が良ければ欲しいキャラが手に入るが、出なければ出るまで課金しなければならないのである。○なぜ人は萌えゆえに課金するのか実は自分もソシャゲに大分課金してしまっている。正確な金額は計算していないが、大体トータルで20万は使っている。うなりをあげて読者が引いて行く音が聞こえるが、私は何も「課金して強いレアキャラを集め、敵を蹂躪してやる」というヒャッハー精神で金を出したわけではない。では何のために、と言われたら一片の曇りもない「萌え」のためであり、20万はその崇高な精神の前に殉死したにすぎない。ソシャゲの中には、「ゲーム性は皆無だが、好きなキャラのカードを集めてひたすらペロペロできる」という萌えに特化したゲームが多く存在し、おそらくより廃課金になりがちなのはそちらの方だと思う。正直、私の20万など塵に等しく、何百万も使っている高僧も存在する。もはや課金ではなく「徳を積んでいる」と言った方がいい。萌えとは、喜怒哀楽どの感情にも当てはまらない。というより喜怒哀楽全てであり、時には萌えのあまり怒りだしたり泣き出したりするという、とにかくオタクにとって何を犠牲にしても得たいものなのである。具体的にそのガチャを回すのにいくらかかるかはゲームによって違うと思うが、大体10回で3,000円ぐらいが相場と思っていい。もちろん欲しいカードが出るかは運だ。この時点で、オタク気質のない人には信じられない話だろう。「米が買えるじゃないか」というツッコミが聞こえる。だが逆に言いたい、「米に萌えられるのか」と。確かに米を美少女に擬人化して売っているところもあるが、それはまたアナザーストーリーだ。○カレー沢氏が課金を「卒業」した理由しかし、これだけ熱弁しておいてなんだが、現在、私は課金から足を洗っている。きっかけは、某萌えソシャゲの好きなキャラのカードを1種類集めるために、10万ほど使ってしまったことである。カードをそろえたことに後悔はないが、「これを続けていたら確実に後悔することになる」とはっきりとわかったからである。ソシャゲの良い所は、買い切りゲームならひと通りクリアしたら終わりだが、ソシャゲの場合、終了しない限りは次々と新しい要素が追加され、好きなキャラのカードもドンドン増えていく。そのたびに10万出し続けていたらどうなるだろうか。想像はたやすい。このように、何十年も私を楽しませてくれた「ゲーム」というものから、「不幸」の臭いが漂っていたのである。つまり、ギャンブル依存症などにおける「底つき」が、割と浅い段階で来てしまったわけだ。人間の底が浅いと、こういう底も浅くて助かるという利点もある。しかし、ソシャゲ自体に絶望したわけではなく、そのゲームも無課金で続けているし、他にも色々とやっている。だが、「課金から足を洗った」と言っても、課金衝動と言うのは、酒やたばこ、ギャンブル、果ては麻薬と同じで、克服したと思ってもふとした瞬間襲ってくるものであり、また1回でも課金したら元通りになる自信がある。息抜きのためのゲーム、だったはずなのだが、そのせいでまたひとつ生きづらくなった。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。2015年2月下旬に最新作「やわらかい。課長起田総司」単行本第1巻が発売され、全国の書店およびWebストアにて展開されている。
2015年05月20日今回のテーマは、「兼業でやっていてよかったこと」である。漫画家兼会社員生活の最大の利点は「健康でいられる」ことだ。よく、「そんなに仕事したら体を壊すのではないか」と言われるが、正直、専業漫画家になった方が体と心を壊す自信がある。○二足のわらじを履くことの「利点」まず、会社勤めをしていると、規則正しい生活が送れる。毎日定時に出社するため、朝6時半に起き、夜12時前には寝るようにしている、そして、原稿は12時には寝られるようにスケジュールを立て進行させる。また、締切りを破ったことはない(仕事自体をすっかり忘れていたことはある)。「そう上手く行くか」と思われるかもしれないが、「会社に遅刻したら怒られる」、「締め切りを破ったら怒られる」等、多方面から叱責されることを考えると、どんなに怠惰な人間でも割とキッチリやるようになるのである。これが、遅刻、締め切り破り当たり前、怒られても平気、という状態になったら、もはや漫画家、会社員以前に社会に向いていない。よほど厳しく自らを律することが出来る人間以外でもないかぎり、規則正しい生活を送ろうと思ったら「定時出社」「締め切り」などの強制力が必要だ。しかし、漫画家という職業はその強制力が弱い。ハッキリ言って、締め切りさえ守れば、あとはどう生活してもいいいのだ。特に私はアシスタントなしの一人作業なので、専業作家になったら日中家に一人きりである。これは非常に危険な状況で、起きている間ずっと物を食っているか、連続飲酒状態になる姿が容易に想像できる。現在、会社では同僚たちとの人間関係構築に見事失敗したため、誰とも会話せず、ひとりで仕事をしているようなものだが、やはり人の目があるというのは大きい。デスクでネバーエンドに菓子を食ったり、胸ポケットからウィスキーを出して煽ったりはもちろん、全裸で仕事をすることもできない。つまり、私にとって、生活リズム的には、兼業状態がベストということになり、専業で健康的な生活を送ろうと思ったら、酒瓶を握ろうとする私を手刀で止めるアシスタントを雇わねばならず、非経済なのである。そして第二の利点はその「経済的安定」である。「安定した職業につけ」というセリフに対し「今の時代安定した仕事なんてあるのか?」という反論を聞くことがあるが、残念ながら圧倒的に、漫画家より会社員の方が安定している。作家の実力にもよるが、私を例にした場合、「連載が打ち切られる可能性」と「会社が潰れる可能性」を比べると、どう考えても前者の方が高い。これに「会社をクビになる可能性」をプラスすると五分五分ぐらいになってしまうが、今回は含めないものとする。とはいえ、今勤めている会社の給料はとても良いとは言えず、会社に行っている時間を漫画に使った方が割が良いかもしれない。しかし、今の会社には6年勤めているが、私の漫画連載で6年続いているものなど1本もないのである。また、今は良いが、この先10年、20年と自分に漫画の仕事の依頼が来るというビジョンがどうしても思い浮かばない。むしろ、給与というベーシックインカムを心の支えに、何とかこの不安定な仕事を続けていられるとも言える。その支柱を失ってしまったら今以上に打ち切りに怯え、酒に逃げ、それを空中とび膝蹴りで止めるアシスタントを雇わねばならず、ますます非経済なのである。先日亡くなられた桂米朝氏が「芸事で生きる人間は末路哀れは覚悟の内」とおっしゃっていたが、「俺は末路哀れで良いから漫画を描く」と思っている漫画家よりは、一獲千金を夢見た結果、末路哀れになっているケースの方が多い気がする。そして私のように、人一倍末路哀れな自分ばかり想像するタイプは、何らかの保険なしにはとても漫画など描けないのである。○専業を夢見るも…このように、兼業漫画家生活の利点は多々あるのだが、正直、漫画家1本にしてもっと自由な生活を送りたいという気持ちは非常に強い。会社に行っている時間を漫画に費やせば、作品の質が上がり大ヒット、結果的に会社を続けるより懐も潤うのではと考えることもある。しかし、「時間があれば」と言っている奴は、時間があっても5億%何もしない。会社を辞めたとしても、漫画製作時間はそのままに、余った時間は何もしないに決まっている。それに、ネガティブな人間に時間があるというのは危険なのだ。ポジティブな人間なら、リフレッシュしたり新しい事を始めたりと余暇を有効に使うだろうが、ネガティブな人間に時間を与えるというのは「いらんことを考える時間を与える」ということなのである。つまり、会社を辞めたことによってできた時間全てを「会社を辞めたことに対する後悔」をする時間に使ってしまうのだ。よって私のようにネガティブで、自らを律することができない人間は、会社と締め切りで、縛り上げ、いらんことを考える暇もなく仕事をしている状態が一番健康的な生活と言えるのである。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。2015年2月下旬に最新作「やわらかい。課長起田総司」単行本第1巻が発売され、全国の書店およびWebストアにて展開されている。
2015年05月12日現在当媒体で連載中の兼業作家・カレー沢薫氏が、日常と創作にまつわるエピソードをつづるコラム「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」。このコラムの挿絵にも使われている漫画制作ソフト「ComicStudio」の販売終了が発表され、デジタル漫画制作に関わるクリエイターたちの間で大きな話題となっている。そこで今回は同コラムの番外編として、カレー沢氏にこの知らせを受けた所感を率直に語っていただいた。○ノストラダムスとコミックスタジオ現在漫画制作に使っているソフト「ComicStudio」(以下、コミスタ)の販売が、ついに2015年6月30日をもって終了することになってしまった。※編集注:カレー沢氏の漫画制作については、コラム「兼業まんがクリエイター・カレー沢薫の日常と退廃」第4回を参照のこと。前々からコミスタが終了することはわかっていたのだし、それまでに後継ソフトである「CLIP STUDIO PAINT」(以下、クリスタ)に移行すべきだとは思っていたが、今でも私は完全にコミスタしか使っていない。そういう状況の作家は私だけではないだろう。1999年地球が滅亡する、とあれだけ予言されていたにも関わらず、結局みんな地球に住み続けていたのと同じように、みんなコミスタも何だかんだで終わらないんじゃないかと思っていたのではないだろうか。しかし、地球は木っ端みじんにならなかったが、コミスタは予定通り終わってしまった。もちろん終わったのは販売だけで、6月30日になった途端、コミスタが入っているパソコンが爆発するというわけではない。未だにGペンとインクで漫画を描いている作家が存在するように、コミスタで漫画を描き続けることも可能だが、これ以上コミスタが進化することもないし、サポートだっていつまで続くかはわからない。しかし、セルシスだって、コミスタ終了で悶え苦しみ地面をのたうち回る漫画家を笑いたくて、コミスタを終了させたわけではないはずだ(確かに私が泣き叫ぶ顔は面白いが)。後身であるクリスタで、すでにコミスタと同じか、それ以上の働きができると判断して、コミスタを終了させたのであろう。○クリスタ移行への苦難と障壁実は、私のパソコンにもクリスタ自体は入っている。コミスタが近々終了との報を受けて、一応、クリスタに移行しようとしたことはあるのだ。しかし、コミスタとクリスタ、大体同じようなものだろうと思ったら大分勝手が違う。まず、最初の原稿用紙サイズや枚数の設定の仕方がわからない、同じ「Gペン」という機能でも、コミスタのような線が描けずガタガタしてしまう。トーンはどう貼るのか、集中線は…などわからないことだらけなのだ。しかし上記のことはクリスタの機能が悪いわけではなく、私が使い方を理解していないのが悪いのだろう。ダブルクリックのスピードが遅すぎて、シングルクリックになってしまっているジジイと同じく、「おい、これ壊れてるぞ!」と憤慨しているようなものだ。しかし、コミスタだってイチから使い出したのだし、マニュアルをそんなに読んだ記憶もない。よって、描いていく内にクリスタだって使いこなせるはずなのである。○どんなソフトも●●へと変える魔法だが私がクリスタ移行を諦めて、依然コミスタを使っていた理由は機能の問題ではない。単純にクリスタが「重い」のである。「重い」というのは、クリスタのみならず、どんなに優れたパソコンツールをもクソへと変える魔法である。同じパソコンでも、コミスタは滑らかに描けるが、クリスタだと「おや 線画 遅れて 画面に表示されるよ」と、誰も覚えてなさそうなギャグを言ってしまうほど、動作が緩慢なのだ。これではいくら機能が優れていてもダメだ。普通のエロ動画と、超ドエロだが3秒に1回止まる動画があったら、とりあえず普通のエロ動画で事をすませるだろう。このように、漫画家の作業とは、夜の一人遊びと同じぐらい、迅速に滑らかにテンポよくやりたいものなのである。しかし、上記の問題は私のパソコンが低スペックすぎるせいでもある。何せ電気店で「一番安いのをくれ」と言って買ってきたノートパソコンだ。仮にも絵を生業としている者がふざけているにもほどがある。これを機にクリスタが滑らかに使えるデスクトップパソコンを購入すべきなのかもしれないが、机自体が小さく、さらに液晶ペンタブレットが場所をとるので、ノートパソコン以外は置くことすらできないのだ。ならば、パソコンと同時に机も新調すれば良いと思われるかもしれないが、仕事部屋がせまいので、でかい机は入らない。つまり、自分がクリスタに移行しようと思ったら、家を改築するか、ツルハシで部屋の入り口をぶっ壊して広げるしかないのである。以上の設備投資費と労力を考えると「まだコミスタでいいや」という結論に達してしまうことも致し方なしと言えるだろう。○カレー沢氏からセルシスへの提案それに加えて、動作環境を整えられたとしても、今度はまた「使いこなすことができない」という問題がやってくる。コミスタを使い始めたのは20代半ばだったが、今は30代。年々新しいことを覚えることが出来なくなっている。もはや、最新エロ動画を面倒くさい手順でダウンロードするより、使い古したカピカピのエロ本を使い続けることの方が楽と感じる年である。しかし、私はとにかく楽をしたい作家だ。終了してしまうコミスタを使い続けるより、これから進化するクリスタを使った方が、もっと楽をできるようになるはずである。よってセルシスは、新しいことについていけない中高年作家を対象に、クリスタ講座を開設すれば一儲けできるのではないだろうか。しかし相手はなまじ長年にわたってコミスタを使ってきた人間である。ことあるごとに「コミスタではこうだった」と言い続けるだろうが、それこそ高齢者が戦争体験を繰り返し話すのと同じだと思って聞き流してほしい。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。2015年2月下旬に最新作「やわらかい。課長起田総司」単行本第1巻が発売され、全国の書店およびWebストアにて展開されている。
2015年04月28日今回のテーマは「漫画を描くために行った練習、勉強したこと」についてである。漫画家というのは絵が描けるのが大前提であるが、全員がすごくうまいというわけでもない。もちろんうまい人の方が多いと思うが、「ヘタウマ」という作風でヒットを出している作家も少なくはない。私の漫画を読んだことがある人ならご存じの通り、当方の作風は、ヘタウマからウマを引いたものである。しかし5年の作家生活を経て、私の絵も「常軌を逸したヘタ」から「普通のヘタ」へとランクアップし、余計に売れなくなった。デビューの際、私は最初の担当編集者から「絵はうまくならなくていい」と言われ、1~2年はそのアドバイスを忠実に守ってきたのだが、今思えばそのアドバイスを守り続けた方が良かったのかもしれない。しかし、個人的にはやはり漫画家たるもの、絵がうまいに越したことはない、と思う。○絵の練習にありがちな"オウンゴール"を避けるために絵をうまくするにはどうしたらいいか、と絵が描ける人に尋ねると、大抵の人が「とにかく描くこと」と答えるだろう。しかし、私も約5年間、ほぼ365日休まず絵を描いてきた。それにしては上達がなさすぎるが、ここでただ単に才能がない、と断じてはいけない(私の心が折れる)。肝心なのは「向上心を持って正しい絵をとにかく描くこと」であり、自分の描きたい絵だけを自分の手癖のままに描き続けても、サッカーのルールを一切覚えず必殺シュートの練習だけするようなもので、試合に出てもオウンゴールを連発するだけである。よって、まず正しい漫画の描き方の教本通りに描いてみる必要がある。そういった本を買うと「ダイエット本を買っただけで痩せた気になるデブ根性」が発動するという人は、ネットで絵の描き方を調べれば、そういったページがたくさん見つかるだろう。また、技術うんぬんはしゃらくさい、とにかく描きたいという人は、うまい人の絵を模写してもいいし、トレースするだけでもやり続ければ、おのずと手が覚えていく。私は以上のことを一切やらずに、今現在の「印象に残らないヘタ」という作風を完成させたので、そのポジションを目指す人は参考にしてほしい。特に、練習として模写やトレースをしたことはほぼないと言って良い。○絵を描くことの「喜び」は人それぞれ「絵や漫画を描くのが好き」と言っても、「絵を描く作業自体が好き」「満足する絵が描けたときの達成感が好き」など、どこに楽しみを見いだしているかは人それぞれだ、そして、その中には「絵を人に見せて褒められるのが好き」という人も含まれている。そこで「絵を褒めてもらいたい」→「上達するために努力する」という方向に行く人はうまくなる。しかしその過程をすっ飛ばして、「とにかく絵を褒められたい」という人はうまくならない。私は典型的な後者のタイプでああるそういうタイプの人間は、模写やトレースはしない。そうやってうまく描けても自分の絵として公開できず、人から褒めてもらえないからだ。時々、模写やトレースで描いた物を自分の絵として公開してしまう過激派もいるが、見つかれば叩かれるし、商業作家がやったら命取りになる。よって、自己流の絵で褒められようとするものの、練習をコツコツやらないから大して上達せず、当然ながら褒められることはないのである。「努力せずに結果だけ得ようとしてもダメ」という当たり前のことを、5年もかけて証明できたことだけが不幸中の幸いだ。他山の石としてほしい。○カレー沢作品に突如"美少女"が登場、読者の反応は?しかし、私にも全く向上心がないというわけではない、このままじゃダメだと思う時もある、もちろん自然にそう思うわけではなく、アンケートや単行本の売り上げが具体的にダメな時になって初めて考えるのだ。だが、「とにかく結果だけ得ようとする派」の私は、どれだけピンチに陥っても、今さらスケッチブックで絵の練習など始めない。ならばどうするかというと、原稿上で試行錯誤を始めてしまうのである。前話と明らかにキャラの造形が変わっていたり、ひどい時はコマ単位で顔が変わっていたりすると言う手探り状態を、そのまま雑誌に載せてしまうのである。数年前、連載作品の調子が芳しくなく、担当から「このままでは打ち切り」と言われたことがあった。それまで「うまくならなくていい」を実践していた自分も、やはり絵はうまいに越したことはないのではないかと思い直し、次の原稿では極力うまく描こうとした。まだそれだけなら良かったのかもしれないが、「カワイイ女の子が登場したら人気が出るのでは」という安易すぎる発想から、ヒロインの顔を別人のように変えて登場させたのである。その結果、評価は散々だった。平素、良くも悪くも話題にのぼらない自分の漫画が某大型掲示板でたたかれたほどである。そもそも、突然うまい絵やカワイイ女の子が描けるわけがなく、それまで応援してくれていた読者にまで「元に戻してくれ」と言われるありさまであった。私のみならず、突然作風が変わる漫画があったら、それは不人気によるテコ入れか、作家が突然このままじゃダメだと思い、見切り発車したかのどちらかである。既存ファンからしたら「余計なことを」と思うかもしれないが、こうした試行錯誤は作家が一応持っている向上心の表れであり、作品をよりよくしようという気持ちから生じているのである。ただ、焦って前に進もうとして、ギアがバックになっているのに気付かずアクセルを踏んでしまっただけなのだ。カレー沢薫漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。2015年2月下旬に最新作「やわらかい。課長起田総司」単行本第1巻が発売され、全国の書店およびWebストアにて展開されている。
2015年04月28日