発達障害があるお子さんの保護者や支援者へのメッセージ集今回は、「こころとそだちのクリニックむすびめ」院長を務める精神科医の田中康雄先生のコラムをまとめてご紹介します。これまで執筆いただいたコラムでは、田中先生が考える精神科医の仕事の役割や、お子さんに発達障害の診断名をつけることより大事にしていること、思春期のお子さんとの関わりのポイント、登園・登校渋りへの対応など、幅広いテーマで保護者や支援者のみなさんへの思いを綴っていただいています。発達障害の特性があるお子さんとその家族、関係者と、つながり合い、支え合い、認め合うことを大切にした治療・支援を実践されている田中先生の言葉は力強く、そして温かい眼差しが感じられます。ぜひ、ご一読ください。日々、発達障害のあるお子さんと保護者の方の言葉や思いを受け止めている田中先生。保護者の方には、「よく、ここまでそだてましたね」「この子に上手に寄り添っていますね」「この子も安心していることでしょうね」「お疲れさまです。ちょっと休んでよいかと思います」…いくら言葉にしても足りないくらいであると言います。田中先生は、診察室で「子どもの発達の診立て」を行いながら、同時にわが子の育ちを心配する親や家族の思いも診立てていくと言います。それは、向き合っているのが「発達障害」ではなく、多彩な個性の持ち主である一人ひとりの子どもであり、家族であるからです。思春期のお子さんがSNSやオンラインゲームにはまったり、部屋にこもりがちになって口をきいてくれない…そんなお悩みのある保護者の方も多いかもしれません。田中先生は、思春期は親子の関係が、「上下の関係」から「水平の関係」に近くなると言います。発達が気になるお子さんについて、精神科に相談に行きたいけれど、様子がよく分からないから躊躇してしまうという声がよく聞かれます。この記事では、田中先生に、「そもそも精神科ではなにをしてくれるの?」という疑問に答えていただいています。発達の気になるお子さんが、「発達障害である」と診断されると、少なからずショックを受ける保護者の方も多いかもしれません。そのような場合、田中先生はどのように保護者の方に寄り添い、多職種の専門家の方との連携を大切にしているのでしょうか。長期休暇明けは、お子さんの心身に影響が出やすい時期であると言われています。田中先生のご経験から、お子さんが園や学校へ行きたくないときによくあるSOSの例や、保護者の方へのメッセージをお届けします。発達が気になるお子さんの保護者の方にとって大きな悩みの一つが、お子さんの将来のことかもしれません。「親が先に死にます。その後、誰がこの子を守ってくれるというのですか」という親の言葉を受け止め、孤立無縁な状態から抜け出してほしいと願う田中先生の言葉をお届けします。
2022年10月12日Days of Delight(ファウンダー&プロデューサー:平野暁臣)は、日本ジャズ界が誇るトッププレイヤー、広瀬未来(tp)と片倉真由子(p)のデュオアルバム『Air』を2021年11月4日に発売します。広瀬未来+片倉真由子『Air』ジャケット本邦随一の実力派トランペッター広瀬未来と、多くのミュージシャンから絶大な信頼を得るファーストコール・ピアニスト片倉真由子による美しくもスリリングな対話が作品になりました。レコーディングしたのは南青山・岡本太郎記念館が保存する岡本太郎のアトリエ。使用したピアノも太郎が愛用した100年前のアップライトです。岡本太郎の気配が残る唯一無二の芸術空間のなかで、ふたりのトッププレイヤーがスピード感と緊張感に満ちたサウンドを展開します。「フラット、自由、ナチュラル…。要するに、広瀬未来は“シンプル”なのです。シンプルとは優先順位がはっきりしていて、迷いがないこと。なにがいちばん大切なのか、本質はなにかがくっきりと見えている。だから小賢しい計算をしたり、保険を掛けたりする必要がない。このシンプルネスこそが広瀬未来のダイナミズムの力源であり、それはそのまま片倉真由子の強度の源泉でもあります。ふたりの対話が宿す上質な緊張感の底流にあるのはこの演奏哲学である。それがぼくの結論です。」―――Days of Delight ファウンダー&プロデューサー 平野暁臣広瀬未来+片倉真由子『Air』【演奏者】広瀬未来 Miki Hirose trumpet片倉真由子 Mayuko Katakura piano【収録曲】1. Embraceable You2. Body and Soul3. Days of Wine and Roses4. Spartacus Love Theme5. Sunlight6. The Nearness of You7. Blues for TARO8. Invitation9. Air(2021年4月20日東京・岡本太郎記念館にて録音)【商品概要】型番 :DOD-019JAN :4582530660313レーベル:Days of Delight定価 :¥2,500(税込¥2,750)発売日 :2021年11月4日 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2021年10月14日発達が気になる契機わが子の発達が気になるきっかけにはどういったことがあるでしょう。母親としての感覚育てていて、なんとなく違うように感じていたとか、上のきょうだいと比べてという、感覚もあるようです。もっとも初めての子どもは、こんなふうな感じかなと思っていた、という方もおられました。言葉が出る前に、なんとなく関わっても反応が薄いということを気にされていたり、そんなときにたまたま来ていた実家の母から指摘されて、やっぱりと思ったり。もっとも、実家の母が大丈夫だよと言ってくれたことでちょっと安心したという場合もあります。実際、のちに健診や医療機関で診断された親への聞き取りでも実際は2歳前後までに、なんとなく気がついていたという話が多いようです。ママ友との関わりのなかで子育てが孤育てにならないように、出産した産科医院で知り合ったり、近所や友人を通してママ友となり、そこで一緒に話したりすることで、それとなく、わが子の様子を比べてみたりして、心配したり、気になったりして。健診会場でそれまでのなんとなく、どことなく心配はしてきたのですが、1歳半健診会場で担当保健師さん等からの言葉や助言から、やはり、と思ったり。さまざまな情報から最近は子どもの育ちに関した書籍やネット情報が沢山あります。検索してみると、自分と同じような悩みを持って半歩先を歩いていた方の情報と出会い、そこからどんどんと広がって、という流れなど。いずれにしても、その多くは密やかにでも家族、特に主たる養育者が、なんとなく違う、という感覚を持っていたというのが僕の臨床現場で得た所見です。ただ、そのわが子に感じた「違う」という感覚に直面するか、もう少し様子を見たいと時間をかけるか、日々揺れながら、迷いながら、一喜一憂しながら日々を送っているような印象はあります。僕は、養育者の方が診察室に来られたときに、どのような思いで日々を過ごされてきたかを、最初の出会いや表情、仕草から思いを馳せます。そのうえで、よく決心して来て下さいましたねと向きあったり、できるだけ淡々と話を聴いたり、安心を提供するような思いを込めて対応します。かなり早い段階で気になっていた、気にされたとしても、それを医療の中へ持ち込むまでには、それぞれの養育者のなかでの戸惑いや葛藤があると、いつも僕は診察室で実感します。関係者との関わり診察するということは『診断』することになるので、養育者にとっては、わが子の現状を医学的に知ることになります。ですから受診したことで、ある程度の先が見えて、改めて関わりを考えたり、当然ショックを受けたりします。医師から診断を受けた親の心理は、以前から、ショックからはじまり、否定し拒否を経て、哀しみと怒りという感情を抱き、そのあとに原因を突き止めようとして、結果気持ちが落ち込む、再度哀しみと怒りに戻りながら一喜一憂していくと言われています。実際、養育者の思いは、健診の時期、入園前後、そして就学を迎え、入学後と、子どもの生活する場所の様子や、関わる方々からの意見や助言によって、常に揺れ動きます。ほっとするときもあれば、とても落ち込むようなこともあるでしょう。友達との関わりから学習の様子と、その心配のテーマも年齢や状況によって、変化していきます。診察室での相談もこうした折々の家族の揺れや子どもの育ちの様子によって、相談の間隔が縮まったり、伸びたりします。子どもの様子を見ながら、すこしでも具体的な関わりを提案したり、現状を『この子のそだち』から理解し、その意味を一緒に探ったりしていきます。それ以上に大切なものは、その子が生活する保育所、幼稚園、学校での生活ぶりであり、そこの関係者との関わりだと、僕は思っています。最近は、現場の先生がたの障害察知感覚は、非常に優れていると思いますが、察知したことと、関わり対策の整備には、若干の開きがあるように感じています。発達が心配だから医療機関に相談するように言われてきました、診断がおりれば加配の先生がつくので、今まで以上に細やかな対応ができます、と言われ受診しました、という方もおられます。そもそも親のほうもなんとなく気にされていたので、どこかで「やっぱり」という思いと、ここでの生活がどれほど豊かになるのかは不明なままで医療機関での受診を勧められたことに、不安や不満を抱えながら、診察室にいらっしゃることもあります。特別支援教育がスタートしたころに、僕はあちこちの教育現場の先生方に「発達障害」の研修を行っていました。当時は知的に遅れのない自閉スペクトラム症や、ADHD、またいわゆる学習障害についての理解が決して充分ではなく、教育現場も大きく戸惑っていたと感じています。しかし、当時はそれでも通常学級で、どうやって向き合い教育を提供したらよいのかに尽力していたように思います。当時、学校現場に足を運び、教室の様子を見せてもらい、教師と一緒になって、関わり方を模索していました。それがどうも最近は、いかに個別支援を提供するか、という流れになっているような気がします。診断がつけば、できるだけ配慮し、できるだけ個別に対応し、というような流れになっているように感じています。確かにかつては暗中模索のなかで、子どもたちの関係性にも細やかに対応することが求められ、教師は同じ教室のなかでの対応に疲弊していました。最近は、登校時間を調整したり、クールダウンできる部屋が整備されたりして、個別の対応が強化されているように感じます。最近の子どもたちの言動は、一つの視点では把握できないような複雑な様子を呈してきたような印象もあります。育ちのなかで後天的に形成されるべき関係性が作られにくくなっているようにも感じます。また、家族が抱えている課題も複雑な場合が少なくないように感じます。もっともこれは、それぞれ相談を持ちかけられる医療現場によって、その感覚も異なるかとは思います。ただ、僕の臨床では、子どもと同時に、養育者へも相応の配慮ある支援が強く求められてきたように感じています。親同士、家族全体を視野に入れた、総合的な支援策を検討する必要が求められていると痛感することも少なくありません。実際、子どもの相談を続けている途中、きょうだいや養育者が、当事者として診察を希望される場合が増えてきている印象があります。それぞれが相応の課題を抱え、個々に生きにくさを感じているのかもしれません。こうした複雑な状況のなかで、今目の前の子どもを真ん中にし、保育・教育の現場と養育者、家族との連携が改めて整備されることが求められています。さらに最近では子どもが利用している児童デイサービスなどの機関との連携も求められています。ここに医療がどう関与するか。僕はそれぞれに一定の距離を置いて、それぞれの良さを引き出しながら、折り合いをつけ、できることを大切に、できないことは無理強いしないで、今より、その子が生きやすくなる、楽しくなるような生活作りのために、関係者の連携、むすびめ作りのお手伝いをしたいと思っています。連携に思う僕は、子どもの育ちには、医療だけでは、まったく役不足だと思っています。それ以上に、日々の生活を支えるには他職種の力が必要だと痛快しています。文字通り、総力戦での支援です。そのおかげで、僕は実際同業者よりも多職種者の友人のほうが多くなりました。それでも、最近の多職種者との繋がりにくさには、危機感が募ります。実際に、他の職種の方の守備範囲や力量を知るには、僕も現場に行ったり、お会いしてお考えを聞いたりする必要があります。異職種であるため、僕の常識が通じないという異文化体験もたくさんしました。でもそのおかげで、支援の多様性ということを学ぶことができました。結果的に、同業者よりも他職種の友人のほうが多くなりました。ただ、こうしたことを20年以上行って来て、僕は他職種者との連携の難しさ、むすびめ作りの難しさを痛感し、危機感を募らせています。これは、これまで情で成立していた繋がりの衰退なのか、組織的、構造的なつながりへ移行への狭間なのでしょうか。僕は、つながりあうことへの衰退に成らないことを祈るしかありません。僕が今も大切にしている他職種の方々と手を組み、協働作業をしようとするときの心構えは、以下の7つです。1.互いの職場に足を運び、それぞれの仕事の内容・職場の雰囲気・大変さに身と心を寄せ、できるだけ理解するようにしたい2.相手の職場の仕事に就いた場合を想像したい3.己の職場の専門用語はできるだけ使用せず、日常の言葉で話をすることのないように注意したい4.出会ったときに「ご苦労様。お互い、大変ですね」と声をかけ、相手をねぎらい、くれぐれも、苦言・提言という会話をしない5.関係者の助け合い・支え合いは、支援する方々を支える基になると信じる6.それぞれの専門的立場を尊重し、尊敬したい7.支援する方々の「今の心」、「未来へ向うための生きがい作り」を最も大切にしたい連携とは、単に専門性に裏付けられた技術のやりとりではなく、人と人との関わりから作られるネットワーク、精神的絆(むすびめ)で成り立っていると思っています。そして、傷みを抱え、生活に立ち往生したとき、この見えない絆が、支えてくれることを、僕は身をもって体験してきました。そのなかで、最近生じてきた危機感に、どう関わっていくか、今最大の課題ですが、とりあえず、出会ったときに、いやな感情を相手に生じさせない配慮だけは行い続けたいと思っています。よく養育者の方に、相手とけんかだけはしないようにしましょうね、と伝えていますが、これは、僕自身にもいえることです。また次に会えるために、最初の出会いに心を込めたいと思います。
2021年07月29日今、家族が医師に対して確認したいことを推し測りながら出典 : 僕は診察室で「子どもの発達の診立て」を行いながら、同時にわが子の育ちを心配する親や家族の思いも診立てていきます。僕が向き合っているのは、「発達障害」ではなく、多彩な個性の持ち主である一人ひとりの子どもであり、家族です。このコラムでは、発達障害の診断名よりも「大事にしていること」についてお話ししていきます。初回の診察場面で、親御さんから「診断はつきますか?」「なんの障害ですか?」と聞かれることがあります。そういうとき僕は、「何回か診ないとわからないですよね」「検査も必要でしょうし、第三者の方々の日常の評価も知りたいですよね」というふうに、時間をかけてその子を診ていけるように話をします。一方で、「この段階で診断名はつけたくないんです」「そんなことで途方に暮れたくないし、落ち込みたくないし、傷つきたくありません」と訴えるお母さんもいます。そんなとき僕は、「わかりました。急いで診断名をつけてもつけなくても、今できるかかわりのほうが大切ですから、しばらく診断名は棚上げしておきましょう」とお話しすることもあります。診断名がその子をみる視点を狭めてはならない医療である以上、診断はとても重要なものです。それは疑いのないものです。しかし、「その子にどのような診断がつくか」と急ぐよりも、一人ひとりの思いや周囲との関係性について思いを馳せ、今できる生活の応援を考えることのほうを大切にしています。僕は、1〜2回の診察で診断名を伝えることはほとんどありません。病院で医師がその子に接するのは、切り取られた一場面であって、おそらく普段の日常の姿ではないはずです。診察室でその子が僕に見せてくれる姿が素の姿なのか、よそいき外行きの姿なのかは、ほんの数回では到底わからないと思っています。また、診断名がつくことによって子どもの言動のとらえ方が狭まってしまう、画一的になってしまう心配もあります。「この笑顔も症状なの...?」診断名を前にした、あるお母さんの苦悩を知って数年前にお会いしたお母さんが、わが子の様子をこんなふうに語ってくれました。「うちの息子は原っぱが好きで、いつも竹の棒を持ってトンボや鳥を棒で追い払うようにしながら、何時間でも走り回っているんです。それに、とても几帳面でミニカーをきちんと並べては、素敵な笑顔を見せるんです。私がそのミニカーをちょっと触って列を乱したりすると、ほんと真剣に怒るんです。それもまたかわいく思っていたんです。でも…」ある日、子どもの発達について気になるところのあったお母さんが、病院で診てもらったところ、「お母さん、その行動は自閉スペクトラム症の〝こだわり〞ですよ」と告げられたそうなのです。「その瞬間、今までは『かわいいな、素敵だな、ユニークだな』と感じていた子どもの行動が症状なんだ…と、見る目が変わってしまって。症状だったら『治さないといけない』と。だったら、今後は棒も持たせられないし、ミニカーも…。そんなふうに考えたら、『あの笑顔も症状なの?』って、いろいろと悩むようになってしまいました」。興味関心まで「症状化」してみえてしまうことも「好きでトンボを追いかけて、好きでミニカーを律儀に並べる。それでいいと思いますよ。問題ありませんよ」そんなふうに僕の意見を伝えると、「先生、うちの子のこと、トンボが好きで鳥が好きで、走り回ることが好きで、ミニカーが好きで……そういうことが好きな子なんだって思っていてもいいですか?」と、逆に問い返されました。「もちろんです!」僕はそう答えながらも、考え込んでしまいました。医学の診断名というのは、ある意味で、その子の興味関心すらも「症状化」してしまうことがあるのか、と。診断名はあくまでもその子の一部に過ぎない同じ診断名がつく子どもであっても、一人ひとり、その思い、言動はみな違います。まずはその子の思いに近づく努力をしたいと僕は日々思っています。「自閉スペクトラム症のしょうたくん」「ADHDのあいちゃん」といった視点ではなく、その子どもの目線にまで達して、「しょうたくん、あいちゃんは、こんな気持ちではないでしょうか」というところからかかわっていきたいのです。「こういうタイプの子は電車が好き」なんてひとくくりにできない出典 : ほかにも、「電車が好き」という男の子がいたとしても、「電車」というひと言ではくくれなかったりもします。好きな電車の世界の中にもいろいろあって、特急車両が好きな子もいれば、寝台列車が好きな子もいて、「キハ6000」の走行音が好きな子もいるし、路線図が好きな子も、無人駅が好きな子もいます。そういうこだわりを僕は、つくづくおもしろいなあ!と感じますし、奥が深いなあと痛感します。「こういうタイプの子って、やっぱり電車が好きですよね」とひとくくりにされた日には、彼らから異議申し立てが出るんじゃないかと思うくらいです。わが子の豊かな世界を一緒に楽しんでせっかくバリエーションの豊富な子どもたちの言動が、「こだわりが強い」「衝動性が強い」「五感が鋭い」といった決まりきった言葉(発達障害の特性を示す)だけに置き換えられてしまうのだとしたら、僕は残念でなりません。例えば、車のタイヤがクルクル回ったり、換気扇が回ったりするのをずっと見続けているお子さんがいたとして、「やっぱり、自閉スペクトラム症ってこういう回るものが好きなんですよね」とひとくくりに表現してしまうのも、その子に失礼だなと思ってしまうのです。クルクル回るものを見て楽しむ子どもの気持ちが、「自閉スペクトラム症」という記号によって、「回っているものを見て、 喜ぶ資質です」といった説明で片付けられてしまうことに強い違和感も覚えます。その子が選択したものを突き詰めていくと、 もっと「それが好きなんだ!」「これを手に入れたかったんだね」といった価値観に近づけるのではないでしょうか。「発達障害」というメガネを外してわが子を見れば出典 : 「発達障害」と判断することは、その子を理解する手がかりの一部にはなるでしょう。でも、発達障害という「メガネ」をいったん外して、わが子のありのままを見つめてみることも大切です。生きる上での喜びも、生活の中での傷つきも、そしてそれに対する周囲の手当ても、一人ひとり個々に体験して生き続けます。その子、そしてその家族に対して、僕たち精神科医は、可能な範囲で発達促進的な環境を一緒につくろうとします。同時に、僕たちはどこまでいっても、自分自身も、また他者も十分に理解することはできません。だからこそ対話をし続けます。生活を重ね合わせていきます。「発達障害」だけで子どもを見ないで――あくまでも手がかりの一つに過ぎない、発達障害という「メガネ」に支配されないこと。そして、子どもの理解にゴールはないことを、みなさんの心に留めていただけたら幸いです。版立ち読み『「発達障害」だけで子どもを見ないでその子の「不可解」を理解する』
2019年12月04日診察室で、日々、出会うのです。親たちの思いと、言葉に…出典 : わが子のそだちに寄り添うなかに生じる違和感、「なにかが違うんです」という親の思い。そこには、わが子のこころに自分のこころが重ならないことの悔しさともどかしさがある。それが時に自分へのふがいなさとなり、自分を責めたり、わが子のわがままとしてつい追い詰めてしまう。発達障害という診断は、生来的にわが子にある特性として、その日その時にできる関わり方で対応するという医学モデルを提案するもの。診断が下ったとしても、誰も責めあう必要はないのです。親は「私の育て方でも、この子が私を嫌っているからでもないのですね」という安堵と、「でもこれからずっと、その特性と私もこの子もつき合っていくしかないのですね」という荷を背負う覚悟を、時には疲れ果てた思いとともに、語る。画期的な治療方法があれば、なにか魔法のようなものがあれば、ある日、朝起きたときにすべての課題が霧のように消えてしまっていたら。そういう願いを、いつもこころのどこかに抱きながら、親は毎日を送っているのだろうなぁ。僕は診察室での出会いから空想する。診察室で話をしながら、僕は、この子と親が自宅で悪戦苦闘している姿を空想する。リビングで、食卓で、トイレの前で。ゲーム機やタブレット、携帯を間に、激しい言葉のやりとり。モノが飛び交い、時に破損していく姿。そうした光景を走馬灯のように頭のなかで巡らせながら、僕はその子と親を診る。わが子のそだちにつき合っていくのは、もちろん楽しみでもある。しかし、苦痛でもある。先のゴールが見えないだけでなく、今歩いているこの道さえも、本当に正しい道かどうかすら、誰からも正しい助言を、親はもらえない。「日々のわが子の言動に迷いと途方にくれる思いを持ちながら、眼の前のわが子の言動に一喜一憂しながら、親としての時間が過ぎていく」「こんな苦労もそのうち終わると思っているのですが、ひょっとして終わりのない苦労なのじゃないかと思うのです」「いつまで私はこの大変さとつき合っていかないといけないのでしょう」「小さい喜びのあと、決まって大きな哀しみが来ます。最近は笑いながら泣いています」「この子が変わらないなら、私が家を出るしかないと、先日荷物をまとめたことがあります」「家族ですら、私の気持ちを分かってくれる人はいません。本当に疲れてしまいました」「本当は、私のせいではないのですか」僕は、診察室で、このような言葉と出会うのです。そしてその言葉の後ろにある、思いにー。子どもの生きる力を、思いを、翻訳して親に伝える。それが、僕ができることー出典 : 診察室でできることは限られている。育ちの見通しを明確に告げる予言は僕にはできない。せめてこの子の行動に裏にある意味や行動を説明する仮説を設定し、それを言葉にして親に伝えようと、僕は苦心する。時にそれは発達段階としての生物学的説明であったり、思いを言葉にできないゆえの行動であったり、強い個性から生じるちょっと分かりにくい個性的思考であったりする。同時に、言葉を届ける相手の気持ちに思いを馳せる。僕にとってそれほど的を外していないと思われる言葉であっても、今の眼の前の親には届かない場合もある。今、欲しい言葉でないときに、聴きたくないときに、言葉は対話とならずに宙をさまよう。今、最大限伝わると思われる言葉を選りすぐり、僕は親に言葉を贈る。何年やっても、その選択には自信がない。語り合うなかでの、微妙な表情の変化を読み取り、僕の言葉がシャットアウトされていないか、スルーされていないか、誤解されて伝わっていないか、恐る恐る微調整していく。気持ちの乗せ方、発語のスピード、抑揚、一期一会のやりとりである以上、できる限りこころを砕く。思いがこもる発話は、侵襲性が高い場合もある。記号化した言葉よりも、思いが過剰に残像となる場合もある。時に僕は紙に説明文を書き、それを説明して音としての言葉でなく、文字としての言葉を遺すこともしている。言葉は、恐ろしいものである。誤解も簡単に作ってしまう。そもそも、育ちという先の見えない、しかも、すべてが例外という育ちを、平均的に説明すればするほど、眼の前の子どもの有り様が消えていく。発達障害臨床、あるいは子どもの精神医療とは、マニュアル、ガイド化しにくいもので、診断名がついたことで、先が見えるというものではない。常に「じゃ、今を、明日を、これからを、どのように生きていけばよいのですか」。答えのない疑問を共有し、今できる小さいことを提案し、それを積み重ねていく作業を応援していく、それがそだちに関わる僕の仕事である。そのために、なにをおいても親には先に倒れることなく、焦らずに、日々の小さいできごとを、きちんと受け止め、喜び、泣き、次に生きる糧にしてもらいたいと、願う。子どもの育ちの速度を変えることは僕の臨床ではできない。子どもの力を一新することも、僕にはできない。僕にできることは、今のこの子の生きる力を捉え、同時に、この子の思いに近づく努力をし、それを周囲に翻訳し伝えることである。そのためには常に、大きく貢献してきた親への感謝と労いを、言葉にすることが重要なのである。「よく、ここまでそだてましたね」「この子に上手に寄り添っていますね」「この子も安心していることでしょうね」「お疲れさまです。ちょっと休んでよいかと思います」いくら言葉にしても、足りないくらいである。その子のこころに近づこうとすることー発達障害を突き詰めることより、大切なもの出典 : 医学は個々の発達のなかで、ある特性を強く持つ状況を、医学的に病態としてグループ化し、それぞれのグループに診断名をつけた。大きな括りは「発達障害」である。そのなかを、自閉スペクトラム症とか注意欠如多動症とかさまざまな名称で区分けをした。その特性の度合いは一定ではなく濃淡というイメージで、非常にバリエーションがあり、個々のなかでも、生活状況によって流動的だ。しかも、その区分けの境界線も非常に脆いもので、時に複数が混じり合っている場合もある。その特性は、突き詰めると、すべての子どもに濃淡があり、まったくないという子どもは、そもそも存在しないのではないか、鍵は濃淡の度合いになってしまう。すると、時にその特性は、医学的に診断されるものに該当し、ある特性は、存在するが診断されるほどの濃さではないと、医学的に判断される、ということになる。もちろん、大きな戸惑いもなく、判断される濃さもある。診断する側によって右往左往してしまう微妙な濃さもある。発達障害があるかないかという境界線は、実際には、明確さに欠ける部分がある、という感想を僕は診察室で常に抱く。それは、問題視するべきではない、全然大丈夫、という判断をしてもよいということではない。少なくとも、これまで述べてきた親の言葉は生活のなかで紡ぎ出された思いである。子どもたちも、どこか生活場面に戸惑い、追い詰められ、自己判断を否定され、思いを拾い上げてもらえず、糾弾されてしまう、という体験のなかで、苦しみうめいている。この事実に、僕はより生活がしやすい方法を探し、環境調整に苦心するのが精神科臨床であると思っている。明確な診断がつかなくても、診断という海図におおよその目途をたて、難破することなく、巡航できることを計画することはできる。あとは天候に応じて微調整を計り続けるだけである。海図は、あくまでも海図である。そこにリアルタイムな関わりを創造していくのが僕たちの臨床なのだ。発達障害を突き詰めるよりも、この子のこころにより近づこうとするほうが、実際は難しいが必要なことであり、近づく人は、この子の生活に実際に関わるすべての人たちでないといけない。その橋渡しが僕の役割である。僕は、日々を送られる子どもたちとその親を、こころから応援したいと思っている。そしてそれを支える周囲の生活者に敬意を払いたいと思います。
2018年04月03日落ち着きのある和空間。銀座にあるそば店「笑笑庵」「笑笑庵(しょうしょうあん)」は、銀座にあるそば屋です。中小企業会館の地下1階に位置しており、JAZZが流れる和モダンな空間で、板前のふるまう料理も堪能できます。店内は大人の落ち着いた雰囲気。和風のインテリアが並んでいます。50席ある座席はテーブル席や、小上がりの掘りごたつ席などを用意しています。一茶庵系の技を受け継いだ、伝統ある越前そばを提供お店は2000年7月にオープンしました。店名である「笑」の文字のとおり、笑顔があふれる素敵なお店がコンセプトになっています。そばの神様と言われる片倉康雄先生の「技」を受け継いだ、一茶庵系のそば屋です。手打ちならではのコシがあるそばは、こだわりの越前そばを使用。店頭には本日の打ち手の名前を掲示しており、その日の職人が誰なのか気にかけて来店するお客さんもいます。職人技を感じる! 香り豊かな越前そばを堪能お店自慢の手打ちそばが味わえる「小海老天おろし(ぶっかけ)」。海老のプリプリ感と、冷たい手打ちそばの風味を存分に味わえる一品です。「笑笑庵」では職人技を感じる丹念に打ち上げた越前そばと、新鮮な魚介を使った料理を提供しています。一品料理も存分に楽しめるよう、そばはハーフサイズも用意されています。旬の新鮮食材を使用し、お酒と一緒に楽しむ一品料理お店の人気メニューである「そば屋の玉子焼き」。プルプルふわふわの玉子焼きは、自慢のそばつゆが入っており、甘みのある味でくせになります。「桜海老のかき揚げ」は、海老のサクサクの食感を楽しみながら野菜の甘みを味わえる逸品です。日本酒や焼酎なども種類豊富に揃えており、お酒との相性も抜群な肴や築地から仕入れた鮮魚の刺身と一緒に楽しめます。夜は裏メニューもアリ! スタッフが笑顔で説明してくれます平日ランチは、30代以上の落ち着いたサラリーマンやOLの方たちでにぎわっています。13:00以降に来店すると店内が混雑せず、ゆっくりと過ごせるでしょう。店内は40名から、掘りごたつ席は16名から20名で貸し切りが可能。知人友人と利用するだけではなく、職場の集まりや接待にも利用できるお店です。夜の時間には裏メニューがあるので、気軽にスタッフに声をかけてみましょう。きっと笑顔でくわしく説明してくれることでしょう。東京メトロ有楽町線「銀座一丁目駅」の10番または11番出口から徒歩1分。駅から近い立地もうれしいポイントです。こだわりの越前そばが味わえる「笑笑庵」。JAZZが流れる落ち着いた空間で、職人の手打ちそばを味わってみませんか?スポット情報スポット名:笑笑庵住所:東京都中央区銀座 2-10-18 東京都中小企業会館B1F電話番号:03-5565-1500
2017年12月13日ロケーション抜群のお店で味わう本格蕎麦「鎌倉一茶庵丸山」は東京・丸の内にある蕎麦店です。「東京駅」を望む丸ビルの角にある店舗であるため、ロケーションの良さはお墨付き!「手打ちそば」と書かれたシンプルな暖簾をくぐると、採光の良い明るく清潔感のある空間が出迎えてくれます。蕎麦店らしからぬモダンさを兼ね備えつつ、老舗の蕎麦の味をしっかりと受け継いでいるお店です。蕎麦名人・片倉康雄の蕎麦を受け継ぐお店鎌倉・鶴岡八幡宮の前に「鎌倉一茶庵」を創業したのが昭和39年。不世出の蕎麦名人といわれた遊蕎子(ゆうきょうし)・片倉康雄を師とした先代がお店を構えました。歴史と味を受け継ぎつつ、現代的な空間造りを取り入れた「鎌倉一茶庵丸山」は、吟味された素材から作られた手打ち蕎麦が自慢です。季節ごとにそれぞれの風味が楽しめる「3色蕎麦」輝き、食感、喉越しにこだわって作られた手打ち蕎麦。その中でも季節で風味が変わる「3色蕎麦」は田舎そば・茶そば・けしきりそばの3種を味わうことができ、それぞれの蕎麦の風味を一度に堪能できます。冬の時期はゆずを使った蕎麦を味わうことができます。季節によって風味の違う蕎麦が楽しめるのも魅力のひとつです。やわらかな鴨肉が絶品! 一茶庵の「鴨南蛮」この店の「鴨南蛮」は、厚く切られた柔らかな鴨肉が絶品です。鴨肉というと硬く臭みがあるイメージを持つ人も少なくないかと思います。しかしこちらの鴨肉は、柔らかく臭みがないのでとても食べやすく、手打ち蕎麦との相性も抜群です。厳選素材の白髪ねぎと鴨肉の旨みが染み出た出汁は、細めの蕎麦とよく絡み、おいしさを引き立てます。「守破離(しゅはり)の食」を大切にした蕎麦づくりこの店では「守破離(しゅはり)の食」というものを大切にしています。守破離とは味、技術、伝統を守り、自分らしさや店の個性を追求し続けること。時代や場所が変わっても守破離の心を受け継いでいくという信念が、変わらぬ蕎麦の味を守り、近代化の波にも合わせたモダンなお店づくりを実現しています。「鎌倉一茶庵丸山」はJR各線「東京駅」または丸の内線「東京駅」から徒歩2分の丸ビルの6階にあります。守破離の心を受け継いだ老舗の蕎麦の味を味わってみてください。スポット情報スポット名:鎌倉一茶庵丸山住所:東京都千代田区丸の内2-4-1丸ビル6F電話番号:03-3201-0755
2017年10月31日