東京・新橋は、サラリーマンの聖地として知られる。その象徴でもある駅前「SL広場」の一角の路上で、50年前から靴を磨き続けてきたのが中村幸子さん(89)。この街で最後の靴磨き職人で、5人の子と8人の孫を育て上げた。「こんにちは。さっ、片方ずつ、足をこの台に乗せてね」寒風吹きすさぶ日も、猛暑の日も、少々の雨や雪だって、朝9時半から午後7時まで、じっと座って、お客を待つ。「足を骨折してからは、私も両足を投げ出した格好でやらせてもらっています。ごめんなさいね」中村さんの周囲には、6種類ほどの靴墨や大小のブラシなどの道具類。背後には、道路占用許可の写真入り証書と、「500円」という手書きの価格も掲げられている。中村さんの靴磨きは、実に個性的だ。ブラシで汚れを落としたあとは、靴墨を自分の指につけて直接、靴に塗っていく。「いや、ただ塗るんじゃないのよ。指でこすりながら靴墨を塗り込むのが、私のやり方。それで色落ちしにくくなるし、小さなキズも見つけられるでしょう」先がカットされた手袋からのぞく指先を見せてもらうと、長い間の摩擦で指紋は薄くなり、爪の中まで真っ黒に。「指の汚れは、もう気にならない。洗えば、けっこう落ちるし。指紋も、50年もやってれば、消えても仕方ないわね(笑)」かつては、戦災孤児たちが生き延びる手段として、銀座、新宿、池袋などの路上で靴磨きを始め、終戦から10年後には、『ガード下の靴みがき』なる大ヒット曲もあった。中村さんもまた「生きるため」に始めた靴磨きだったが、彼女が新橋にやってきた’71年といえば、前年に大阪万博も催され、日本が戦後の復興を、しっかり形にしつつあったころ。以来、半世紀にわたり、バブルも、バブル崩壊も、東日本大震災のときも、路上から、ニッポンが変わっていくさまを見続けてきた。「震災のときでさえ、汚れた靴を磨いてほしいという人がけっこういましたから。とにかく広場から人の姿がすっかり消えたというのは、今度のコロナの緊急事態宣言の期間が初めて。でも私は、一人でもお客さんがいる限り、ここに座り続けるだけ。さっ、終わりました、おつかれさま。これで、大丈夫!」シュッシュッと小気味よい音を立てながら最後の仕上げで靴を磨き終えるまで、ざっと20分。お代は500円ポッキリの、明朗会計だ。「お客さんは、多い日は30人くらいで、平均すると20人前後。それがコロナの緊急事態宣言で、ガクンと減っちゃった。1日5人という日も。今日は……6千円だから、12人。金曜日にしては、まあまあだね。金曜は、皆さん、土日にお金を使うから、財布のヒモも固くなるもの。だって500円あれば、ビール1杯飲めるでしょう。それを思うと、この500円玉1枚の重みを感じるの」中村さんの1日は、ガラケーの目ざましの音から始まる。「6時半に起きて、コンビニでおにぎりと新聞とコーヒーを買って、新橋まで電車を乗り継いで約1時間。昼食も夕食も、近くのラーメン屋さんが多いわね」店じまいすると、148cmの小柄な体で、重たい道具の入ったカートを引き、着替えの詰まったリュックを背負って、同居する三男の家に帰宅する。「夜の9時からは、たいていテレビ。相撲があれば見るし、あとはマツコさんの番組が好き。週末の土曜は終日寝て過ごし、日曜は息抜きのカラオケ。だけど、このコロナで歌いに行けないのは本当に残念。だから、今の楽しみは、この6月にひ孫が生まれること。女の子らしいの」このごろ、つくづく感じることがあるという。「最近の人は、ずいぶんとせわしなくなったわね。靴磨きが終わると、サーッと行っちゃう。昔は世間話が続いて、そこに次のお客さんも来て3人でお喋りしてたり。今の人は、気持ちにゆとりが足りないように感じます。女の人も増えました。革の長いブーツも同じ500円。私も働いた経験があって女性の職場での大変さはわかるから、頑張ってる人から多くは取りたくないのよ。ここで靴を磨いたあとに宝くじが当たったと言って、お礼を持ってきた人もいたけど、私は受け取らなかった。自分が食べていく分とネコの餌代があれば十分。靴磨きで頑張ったおかげで、もうお墓も買ったから」この7月で90歳。3年前の自転車事故で右足には人工骨も入っており、座るのもラクではないが、仕事は続けるときっぱり言う。「母が102歳まで長生きしたの。だから私も、まずは100歳を目標に靴磨きを続けます」道路使用許可などの制限もあり、消えゆく運命にあるという路上の靴磨き。新橋に行けば、まるで街の景色の一部のようにして、わが国最後の女性靴磨き職人が、疲れたサラリーマンやОLを迎えてくれる――。(撮影:田山達之)「女性自身」2021年4月20日号 掲載
2021年04月12日朝9時半から午後7時まで新橋・SL広場に座り続けて、子供5人、孫8人を育てた靴磨き職人の中村幸子さん(89)。その半生は決してラクなものではなかったが、それでも「人生いいことのほうが多いというのも本当」と話す。19歳のとき家出同然で上京した中村さん。荷物を盗まれ、10円のコッペパンで飢えをしのいで上野の闇市へ行き、おでんの屋台で働くようになった。しかしいつまでたっても給料は支払われず、既婚者である店主の子供を身ごもってしまう。そして、子供を抱えて行商生活へ。その後浅草の靴職人と結婚し、長女を出産するが、赤子にまで暴力をふるう夫の姿を見て離婚を決意。母一人子二人の生活が始まった。離婚後、再び行商を始めた中村さん。ある日、公園で稼ぎを数えていると、そこへ酔った男たちがやってきて金を奪おうとした。「そのとき助けてくれたのが、7つ年上の主人。驚いたのは、足が不自由でつえをついていたのに、暴漢たちを追い払ってくれたんです」中村さんは、夫となる男性、薫さんに尋ねた。「お酒は飲みますか」「僕は甘党。おはぎなら10個は食べるけどね」このひと言で、結婚を決意した。やがて3人の子供が生まれ、そこに義母も同居して、8人の大家族となった。「主人は経理の仕事をしていましたが、足が不自由なうえに糖尿病で、十分に働けなかった。家族を食べさせるため、自然に私が働くことになりました。義父や、行商で知り合ったお巡りさんから靴磨きをすすめられたのは、そんなときでした」しかし、すぐにこんな不安も頭をもたげるのだった。「えっ、女の私が靴磨き……それが正直な気持ち。やっぱり最初に頭をよぎったのは、恥ずかしいという思いでした。主人に、『なんで私が』と、つい責めるようなことも言いました。でも、体の不自由な主人は、聞くしかないんですね。その悲しげな姿を見て、『よし、私が働こう』と思い直すんです。その繰り返しで、今日まできました」中村さんが新橋で靴磨きを始めたのは、まもなく40歳になる春だった。しかし、10年後、夫の薫さんが肺がん亡くなってしまう。「もともと経理をしていたから、安心して家計も任せていたけど、死んで残ったのは貯金どころか借金だった。やっぱり、男の人はやり繰りは苦手なんだね」苦笑する中村さんだが、育ち盛りの子供を5人も抱え、早朝から深夜まで働いたこのころが、心身も家計もいちばんきつかったという。「2度目の結婚をするときに思い描いていた、エプロン姿で台所に立つお母さんにはなれなかった。あるとき、子供たちを連れて故郷の浜名湖に行きました。頭のどこかでは心中するつもりだったんでしょう。すると、勘のいい下の娘が、その日に限って、『お母さん、おなかすいた、寒いよ、帰ろう』と、しきりに私の手を引くんです。それでハッとして、思いとどまりました」また私が働くしかないと、新橋に通い始め、今に至る。8年ほど前、料金が現在の500円に定着した。今後も値上げするつもりはないと言う。「靴を磨きにくるサラリーマンの人も、住宅ローンを抱えていたり、子供の教育にお金がいちばんかかる大変な時期でしょう。私はもう年だし。お金を墓場までは持っていけないしね。子供が5人で、孫は8人。先日も、その孫の一人が、ここ新橋まで来て、私の仕事ぶりをじっと見てるんですよ」その孫は言った。「おばあちゃんは、元気だから、働いてるのがいいね」中村さんは、心からうれしそうに言う。「その子の親たちは、私が靴磨きをしてることで、学校でもイヤなこともあったと思います。私自身、『新橋へは来るな』と言い聞かせていました。それを思うと、今、家族が私の仕事を認めてくれているのは、本当にありがたいことなんです」家族の存在があったから、どんな苦労も我慢できた。「お金を払わずに立ち去る人もいたし、脇に置いた売り上げの4万円をそっくり盗まれたことも。でも、人生、いいことのほうが多いというのも、本当」近所の中小企業の社長は常連の一人だが、かつて靴を磨いてもらいながらこんなことを言った。「おばさんに靴を磨いてもらったおかげで、社長になれたよ。おばさんの名前の“幸”は、人を幸せにする幸なんですね」そして、今年春のこと。「その社長さんが、部下の若い人に社長命令で『おばさんのところで靴でも磨いてシャキッとしてこい』なんて言ったそうなの。ほら、今、コロナで営業の人もなにかとたいへんだから」実際に、その若者はやってきた。丹念に靴を磨き終えると、中村さんは彼に向かって言った。「頑張ってね。私も、まだまだ頑張るから。靴もきれいになったし、うん、大丈夫!」また来ます、と笑顔で立ち去るフレッシュマン。中村さんが靴磨きの最後に必ず添える「大丈夫」の声に、この半世紀、多くのサラリーマンたちが励まされ続けてきた――。(撮影:田山達之)「女性自身」2021年4月20日号 掲載
2021年04月12日「両親も祖父も音楽家でしたから、幼いときは、人間というのは大人になれば、みんなが楽器を弾くものだと思っていました(笑)」そう話すのは、服部百音さん(21)。10代で幾多の国際コンクールで優勝するなど、今最も注目されるヴァイオリニストの一人だ。父の服部隆之さん(55・隆は旧字)は、『王様のレストラン』『のだめカンタービレ』(フジテレビ系)といった名作ドラマやNHK大河ドラマ『新選組!』、そして映画『HERO』などのテーマ曲を手がけた、当代きっての作曲家・編曲家だ。曾祖父は「日本歌謡界の父」とも称された服部良一さん。祖父は、『ミュージックフェア』(フジテレビ系)の音楽監督や『ザ・ベストテン』(TBS系)のテーマ曲はじめ生涯に6万曲以上を手がけた服部克久さん。つまり、百音さんは、「華麗なる作曲家ファミリー」である服部家の4代目だ。99年9月14日、服部家の4代目として誕生した百音さん。幼いころ、ヴァイオリンを教えたのは、母親のエリさんだった。「先生に習ったあと、家では母が自ら演奏してくれながら、おさらいしました。まさに、マンツーマンのコーチでしたね」やがて8歳で、国際的なヴァイオリン奏者で、カリスマ教師でもあるザハール・ブロン氏に才能を認められ、日本と欧州各国を行き来する生活が始まる。さらに10歳で初めて海外コンクール(リピンスキ・ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクール)に参加して、いきなり史上最年少での優勝。以降も数々の賞を総なめにし、世界的に名を知られていく。「まさしく母との二人三脚で、海外遠征し、帰国したら演奏会と学校という超ハードな日々を乗り切りました」母親のエリさんは、当時をこうふり返る。「主人からは一点だけ、『子育てでは“服部家なんだから”ということは意識しないでいこう』とくぎを刺されました。『この子が本物なら、自然に世に出るから』と。娘との旅の生活は10年が30年にも感じるほどで、ある年は1年のうち182日が海外でした。 娘も私も、そんな過酷な生活の支えは、帰国すると必ず父母と夫が開いてくれた食事会と、『おかえり、頑張ったね』という温かい言葉でした」百音さんは、曽祖父、祖父、父と受け継いできた大切なものについて、現代っ子らしくこう語った。「4代目?正直、ピンと来てないところもあります。ただ不思議なのは、祖父が亡くなってから、今まで以上に存在を身近に感じるんです。演奏家は孤独なものですが、不安になったときも、曽祖父や祖父たちがいつもうしろから見守ってくれているような気持ちになって、頑張る一つの原動力になっている。感謝しなくてはいけないと思います」娘の言葉に、隆之さんもうなずきながら、「七光りの話で、仕事でのメリットにふれましたが、むしろ、うまくいかないときに強く感じているのに気づくんです。『僕には、これだけ濃い音楽家の血が流れているんだ。ダメなはずはない、きっとなんとかなる』と。祖父や父から脈々と受け継いできたのは、そんな音楽を敬い、信じる気持ちだと思います」百音さんは、このコロナ禍のなか多くのカベを乗り越え、今秋発売予定の2枚目のアルバムの収録を終えたばかり。笑顔で隆之さんのことを語ってくれた。「父の曲は、きちんと作者の主張が感じられて大好きです。演奏家としても、弾いてみたいと思わせる血が騒ぐメロディなんです。新曲ができると父は、まず私と母に聴かせてくれます。正直に『すごくいい!』と答えるのですが、父はいつも『家族だから、身びいきだよね』と、絶対に信じない。これは、音楽一家あるあるですかね(笑)」音楽の第一線で活躍を続ける夫と娘の家庭での素顔について、エリさんも語ってくれた。「もともと気の合う2人ですが、最近はなぜだか、玩具コマのベイブレードに凝ってます(笑)。忙しい者同士でもありますが、『じゃ、次の休みに対戦ね』なんて。コロナで家にいることも多い昨今、主人は得意の手料理を作ることも多いです。定番は、明太子パスタ。すると、娘も影響を受けてホットケーキを焼き始めたり。音楽一家と言われますが、ふだんはそんなふうにワイワイやっています。百音には、これからプロの演奏家として、音楽と誠実に向き合っていってほしい。その誠実さこそが、服部家のおじいちゃまたちから受け継がれた宝物だと、嫁いできた私は感じています」隆之さんは、最後に自身の将来プランをこう語った。「祖父、親父の晩年を考えても、頭と体の元気な50代のうちに、グランドオペラをやりたい。何げない日常を描いた喜劇で、すでに青写真もあります。あとは、ときどき娘と共演できたら、うれしいかなぁ」「音楽は楽しい!」という信条が服部家のDNA。心を慰め、落ち込んだり、迷ったときに前へ一歩進ませてくれる音楽の力。それを信じて、父と娘は、今日もまた、日がな譜面と向き合う――。(撮影:田山達之)「女性自身」2021年3月2日号 掲載
2021年02月23日「チラシ配り、行ってきます!」昨年12月25日、クリスマス当日の午後6時過ぎ。師走の街を帰宅する人々が足早に行き過ぎるなか、東京・神楽坂駅前の書店「かもめブックス」の軒先で3人の男女がテーブルを並べ始めた。頬を赤く染めながら、ダッフルコートにトレードマークのバンダナ姿で、早速、路上でチラシを配り始めたのが料理研究家の枝元なほみさん(65)。「まもなく『夜のパン屋さん』のオープンです。都内のお店から、営業終了後に売れ残りそうなパンを買い取って再販売しています」フードロスが地球規模での課題となり、コロナ禍で経済的に追い詰められる人も急増するなか、店は商品の廃棄など“ロスパン”の悩みを解消でき、客は仕事帰りに気軽に買えて、販売員には労働の対価として賃金が出るという、まさに“三方よし”の取り組みだ。各店を自転車などで回ってのパンのピックアップと販売を担当するのは、ふだんは雑誌『ビッグイシュー』を販売している人たち。『ビッグイシュー』は、路上販売というかたちでホームレス支援をすることで知られる。テーブルの上には、食パン350円や菓子パン詰め合わせ750円など、山盛りのパンが並ぶ。価格はけっして格安とは言えない。「当初は、『なんだ、タダじゃないのか』との声もありました。誤解してほしくないのは、売れ残りを無料でもらい受け、たたき売りしているわけではありません。きちんと適正価格で引き取り、販売員さんたちも、新たな仕事としてプライドをもって働いています」値札を貼りながら、いつもの穏やかな口調ではなく、きっぱりと言う枝元さん。長年にわたり、食の現場で出会いを重ね、多くの人とつながっていくなかで、「食べ物を無駄にしたくない」という思いが募り結実したのが、この週後半の夜に数時間だけ開くという、なんともユニークなパン屋さんだった。「きっかけは、ある篤志家の方のビッグイシュー基金への寄付でした。パン屋さんのヒントは、北海道・帯広の満寿屋商店さんが、週に数回、売れ残りのパンを夜間に販売していることを教わって、これを、東京でもできないかと。最初は移動販売車でやろうと思って車も用意したんですが、駐車場の問題などで頓挫しました」そこへ助け船を出したのが、行列のできる人気店として知られるビーバーブレッド(中央区)創業者の割田健一さん(43)だった。「困っている人やホームレスの人たちのために何かやりたいという思いがバシバシ伝わってきて、その場で協力をお約束しました。聞けば、販売する場所も決まっていないという。それで、かもめブックスさんを紹介したんです」販売員には、ふだんはビッグイシューを売っている男性3人が選ばれ、開店準備が整った。営業は木・金・土曜の午後7時30分からで、売り切れ次第か10時まで。その日にどこのパン屋さんの商品を販売するかなどは、SNSで告知することになった。グランドオープンは、「世界食糧デー」と同じ昨年10月16日。当初3軒だった協力店も、やがて11軒にまで増えた。その後も、枝元さんは、自ら販売の現場に立ち続けている。「私なんて、お客さんが列を作り始めると、もう焦ってヒーッとなっちゃって(笑)、オープン前でも『あるパンから販売しちゃおうよ』と言ってしまうんですが、販売員の彼らは『時間厳守。ルールをきちんと守らないと、逆にお客さんに失礼ですよ』と。厳しかったり、やさしかったり、これまでの人生でいろんな苦労をしたんだなぁと思うんです。『2年前は外で寝てたけん』なんて聞くと、ここが終わったら、どこへ帰るんだろうと考えて、特に雨や雪の日は、いろんな人のことが心配になります」オープン以来、順調に動きだしていた夜のパン屋さんだったが、現在は緊急事態宣言をうけて休業中だ。冒頭のクリスマス当夜の営業時もコロナの影響がますます強くなっているのが感じられた。「風邪、ひかないでくださいね、コロナも収まらないしね」当時、お客さんの側からも、そんな声かけが多く聞かれた。枝元さんは、「女性にも働いてもらえたらなあと思うんです。コロナ禍のなか、飲食業等にパートなどで携わることの多い女性の負担が大きくなっていると聞きます。パンを買うのさえ経済的に大変かもしれません。だったら、話をするだけでもいい。話しかけにくいかもしれませんが、だいじょうぶ。私、もう60歳を回ったからには、怖いものなしのおばちゃんパワーで、もう勝手に、こちらからガンガン声かけしますから」冗談っぽく口にしたあと、再び真顔に戻って言う。「感傷だけじゃありません。そうした出会いを、なんとか仕事などにつなげられないかとの野望も、私、ありますから。今は思うんです。35年間、料理の仕事をやってきて、誰も飢えさせないのが私の仕事かと」気温7度。寒風吹きすさぶなか、すでに閉店しシャッターも下りた書店の軒先で、ぼんやりともった夜のパン屋さんの明かりが、そこだけ、とても温かく感じられた。(撮影:田山達之)「女性自身」2021年2月23日号 掲載
2021年02月15日料理研究家の枝元なほみさん(65)は、料理研究家という仕事をしているのに、料理学校に通ったこともなければ、修業時代もない。いつも現場に身を置くことが“修業”だった。「私、なろうと思って料理研究家になったわけじゃないの」大学3年のとき、友人の始めた中野の無国籍料理店「カルマ」で働き始めた枝元さん。これが、料理の仕事の端緒となる。「進学した当時、大学は学園紛争の終わりごろでロックアウトされていたなか、演劇をやっている友人に誘われ、深い考えもなく、『いいよ』で、芝居の切符のモギリなんかを手伝ってたら、今度は『人が足りないから役者で出てくれない?』と言われて、また『いいよ』と。大学3年生の時に入ったこのお店も、バンドをやっていたボーイフレンドの友達が始めたので、自然に手伝うようになっていた。卒業後も、まったく就職するつもりはありませんでした」転形劇場に研究生として入ったのが、26歳のとき。しかし、88年に転形劇場は突如解散してしまう。「もう、カラ~ンでしたよ。途方にくれました。女33歳。普通は結婚して、子供も1人2人いて安定している。仕事を続けている人は、そこそこキャリアを積んでいる。それが私には、な~んにもない。学生時代から同棲していた男とも別れて、家もお金もない。今なら、まさしく自己責任と言われるような感じかな」そんなとき、かつて料理店で一緒に働いていた友人が雑誌社の仕事に就き、料理ページ担当となったことで声をかけてくれたのだ。「またまた、『料理の仕事をしてみない?』と誘われたんです。ただ、このときは料理店と芝居を10年近くやってきて、人生の下積みは済ませた、との思いがありました。そういう経緯だったから私、料理研究家という仕事をしているのに、一度も料理学校に通ったこともなければ、修業時代もないんです」いつも笑顔で、簡単な材料で調理する枝元さんは、すぐに人気料理研究家となり、35歳で初めての料理本も出版。やがて『はなまるマーケット』(TBS系)や『きょうの料理』(NHK)出演などで全国区の顔となっていく。枝元さんが、雑誌『ビッグイシュー』の取材を受けたのが05年秋。「その2年前に日本で創刊されたときから、ホームレスの方たちに仕事を提供するという、希望を見いだす明快なシステムに共感していました。好きなときに売っていい、収益は半分ずつに分けるなど。それでインタビュー後に、逆に私から編集長に『私にも何かやらせてください』と、人生初の営業をしたんです」こうして連載を持つことになり、現在も「ホームレス人生相談・世界一あたたかい人生レシピ」は継続中。08年には、農業を応援する「チームむかご」を発足させた。「料理に携わり、日本全国の産地を訪ねるなかで、このままいくと日本の農業はヤバイと危機感を抱いたからです。山いもの球芽であるむかごはおいしいのに、収穫する手間が面倒だから、ほとんど山に捨てられていました。でも、食物繊維も多いし、重労働は難しいおばあちゃんでもラクに採ることができる。単純にもったいないじゃない、と思って収穫と販売を始めて」その後、東日本大震災では「にこまるプロジェクト」を立ち上げ、被災地で焼いたクッキーをネット販売して地元に還元するなどの活動も先頭に立ってやってきた。「避難所で、みんなでクッキーを作っていると、『あの人も亡くなっちゃったね』などという話にもなる。そこへクッキーの焼ける甘い匂いがしてきた途端、みんなの表情が少し和らいで、震災以来初めてという笑顔も出たり。実感するんです。ああ、食べることの力って、これなんだ。食べることは、生きることだって」生きる力を作る料理の道。枝元さんのあゆみは続いていく。(撮影:田山達之)「女性自身」2021年2月23日号 掲載
2021年02月15日主婦業の傍ら、ハリウッドで腕を磨き、大河ドラマ『麒麟がくる』の“坊主メーク”などで、邦画・ドラマ界でのパイオニア、第一人者として活躍し続ける特殊メークアップアーティスト・江川悦子さん。短大卒業後はファッション雑誌「装苑」の編集部に入った彼女が、特殊メイクの職を志したのは、夫のアメリカ転勤がきっかけだったという。到着したアメリカで、夫婦で見たのが、81年公開のホラー映画『狼 男アメリカン』。映画館の暗闇の中、主人公の青年が狼男に変身するシーンが、江川さんをくぎ付けにした。「主人公がアアーッとうなりながら、手や顎がズンズン伸びていき、毛むくじゃらに変身していく。CGのない時代ですから、どうなってるんだろう、どうやってこんなシーンを作るんだろう、って」そのシンプルな驚きは、すぐに確固とした夢に変わっていた。「私も、これ、やってみたい!」江川さん、27歳の夏だった。しかし、特殊メイクの学校に通い、いざ就職!となっても、アメリカ人の方が職が見つかりやすい。映画スタジオから何度も門前払いされる江川さんだが、決して諦めなかった。そうして掴んだ、最初の大きな仕事は84年公開の映画『デューン/砂の惑星』。同年には、あの『ゴーストバスターズ』でマシュマロマンの製作スタッフに抜擢された。「とはいえ、最初はパーツ作りから。『なんでもやります』で、実績を積みました。よく『日本人は器用だ』とも言われました」そんな、怒涛の7年間のアメリカ生活を終えて帰国した江川さんを待っていたのは、女性の特殊メークアップ・アーティストがゼロという日本の現状だった。作品作りをしながら営業しようと決めたが、そのためには、工房が必要になる。江川さんは、日活のスタジオへ談判へ向かい、東京・調布の日活撮影所の一角に、特殊メーク制作会社メイクアップディメンションズを設立したのが86年のこと。日本映画初参加となったのは、『親鸞白い道』(87)。「ハリウッド仕込みの技術を持つ女性がいる」との口コミから声がかかった。依頼されたのは、生首の造形。その後はバブル経済を追い風に、映画やCMなどの仕事が次々と舞い込んだ。「子供を保育園に預けながらでしたから、いつも私がお迎えがいちばん遅くて、娘には『ごめんなさい』の気持ちでいっぱいでした。私が地方ロケのときには、義母が四国から出てきてくれたり。頼れるところは頼る、というのもアメリカで学んだことです」メークを手がけたなかには、NHKドラマ『トットてれび』(16)で100歳メークを施した黒柳徹子さんのように、「私が100歳になったら、こんな感じになるのね」と、喜んでくれる人もいる。「ありがたかったし、そんなやりがいを次につなげていきました」00年代に入ると、『ハリー・ポッター』(01年)や『ロード・オブ・ザ・リング』(01年)などの世界的人気で、特殊メークはますます注目されるようになる。08年には、オフィスを現在の場所に移転。このころには、業界では「坊主メークは江川さんに」の評価が定まっていた。ドラマ『あの戦争は何だったのか』(08年)で、初めて坊主メークを施した北野武さんは言った。「すごいね。痛くないし、軽いし、つけてるのを忘れるよ」同じころ、前出の『おくりびと』にも参加。主人公の納棺師を演じる本木雅弘さんが遺体と向き合うシーンも多いが、実はこれも一部はダミーだ。そして今、大河ドラマ『麒麟がくる』で、旧知の本木雅弘さんらの坊主頭などを担当。「斎藤道三を演じた本木さんや、足利義昭役の滝藤賢一さんなど。かつらピースと俳優さんの地肌の境目をなくす手法が、私たちの腕の見せどころです」こんな逸話がある。本木さんの大河での坊主頭を見た『おくりびと』の滝田洋二郎監督が、「あれ、メークなの!?本木君のことだから、てっきり本当に頭を剃ったかと思ったよ」と驚嘆したというのだ。プロ中のプロの目をも完璧にあざむく高度なテクニック。それこそ「してやったり」の思いだろうか。江川さんに問えば、「ビミョーですね。ありがたいんだけど、『もしかして、あれ特殊メーク?』くらいは気づいてほしかったり……フフフフ」技巧を尽くすほど、周囲にはそれとわからない。まさに職人仕事ならではの醍醐味なのだろうーー。(撮影:田山達之)「女性自身」2020年11月17日号 掲載
2020年11月09日看護師・金澤絵里さん(43)は、アフリカや中東、東南アジアなどで医療支援に携わってきた。また、仕事の合間を縫って、東日本大震災など、災害が日本を襲うたび、ボランティアとして救護に全国を駆け巡っている。そんな金澤さんは2018年、イラクに赴いていた。「人が行きたがらない地域にこそ、助けを求めている人がいる。そう思って就職先を探していたら、イラクで小児がんの子どもたちに医療支援をしている日本イラク医療支援ネットワーク(JIM?NET)の現地駐在員の募集を見つけたんです。イラクでは、イラク戦争で米軍が使った劣化ウラン弾の影響からか、子どもたちに白血病が増えていると考えられました。日本も、自衛隊を派遣したんだから無関係じゃないと思って」こうして4月から1年間、イラクのアルビルという町に駐在することになったのだ。「私の仕事は、イラク人の現地スタッフを指導しつつ、小児がんの子どもたちへの医療支援や家庭訪問、ワークショップや支援病院での看護師指導、学校での啓蒙活動など、いくつかのプロジェクトを円滑に進めるプロジェクトマネージャー。資金管理も重要な仕事でした。看護師の資格を持っていなくてもできる業務なんですが、人の“生命”は医療だけで守られるものじゃないと思うんです。これまで、さまざまな被災地を見てきて、戦争や貧困、経済、政治状況などが、とくに立場の弱い人たちの生命に影響を及ぼすと感じました。だから“看護師”という枠にとらわれず、さまざまなことを学べたらと思って」金澤さんが言うように、イラクには、子どもたちが戦争の犠牲になって亡くなっていく痛ましい現実があった。なかでも印象に残っているのは、当時9歳だったオマルくんという男の子のことだ。「オマルくんは住んでいた町をイスラム国に攻撃され、多くの人が殺されていく姿を目の当たりにして、心に深い傷を負っていました。家族とともに別の町に避難していた矢先、がんが発生。手術は受けたものの完治はせず、下半身は麻痺している状態でした。泣きだしてしまうほどの痛みが襲ってくることもあるけど、緩和ケアのための医療用麻薬は使えない。イスラムでは宗教上の理由から、麻薬を使うことに抵抗があるからです。それでも彼は、私たちに心配かけまいと、『大丈夫、元気だよ!』『ありがとう!』と、あふれんばかりの笑みを向けてくれるんです」しかし、懸命に痛みに耐えても、助かる命は少ない――。そんな状況のなか、金澤さんがイラクの現地スタッフに繰り返し伝えていたことがある。それは、「最期まで寄り添って苦しみを分かち合おう」ということだった。「見ていていちばんつらいのは、小児がんになった子どもたちが、痛みを和らげることもできずに壮絶な苦しみのなかで亡くなっていくことです。でも、楽しいときばかりじゃなく、つらいときこそ寄り添おう、お子さんが亡くなっても、関係が終わるんじゃなくて、希望するなら親御さんも支えていこう、と。だって、ちょっとした心遣いで、人は救われることがあるんですから」残念ながら、金澤さん自身がオマルくんの最期に立ち会うことはかなわなかった。「彼が亡くなったのは、私が1年の任務を終えてイラクを離れたあとでした。訃報を聞いたときはショックで……」こうした悲しみは、次に助けを必要としている人の役に立つことでしか癒されない。金澤さんの目は、さらに世界各国へと向けられることになった。9月下旬からは、地元、秋田へ戻り、老人保健施設で看護師として働く日々。その傍ら、MBA(経営学修士)を取得するため、アメリカの大学のオンライン授業も受けている。「看護師なのにMBA?って思われるかもしれないけど、公衆衛生でマネジメントに関して学び、そのなかでどんな組織やプロジェクトも、マネジメントがしっかりしていないとベストなパフォーマンスは発揮できないと感じました。だから、看護師の分野にとどまらず広い知識を得たいと思っています」勇気と経験を武器に、金澤さんは身ひとつで世界を駆け巡る。助けを必要とする人がいる限り――。(撮影:田山達之)「女性自身」2020年11月3日号 掲載
2020年10月26日「『病院に搬送はできません。施設内で看取ってください』札幌市の保健所から、そう言われて、遺体を入れる納体袋だけが施設に届いたそうです。そもそも、老人保健施設に、十分な医療設備はありません。コロナの重症者にできることといえば、酸素吸入を行うか、解熱剤投与や点滴をするくらい。私たちは、入所者さんたちが亡くなっていくのを、ただ看取るしかできませんでした……」そう話すのは、看護師の金澤絵里さん(43)。これまで金澤さんは、看護師の経験を生かして、アフリカや中東、東南アジアなどで医療支援に携わってきた。日本では、離島や僻地の診療所で働いた経験も持つ“スーパー看護師”なのだ。そんな金澤さんが、コロナ禍で駆けつけたのが札幌の老人保健施設、茨戸アカシアハイツだった。「アカシアハイツでは今年4月、最終的には92人もの新型コロナの集団感染が起きて、看護師が一人もいなくなってしまうという緊急事態に陥ったんです。私は、札幌のNPOに所属しており、それ以外に看護師のボランティアネットワークのメーリングリストに登録していたので、何か緊急事態が起こると、それらの団体から支援を必要としている被災地の情報が流れてきます」アカシアハイツで看護師が必要だという緊急メールが金澤さんの元に送られてきたのは今年5月3日だった。「自分が感染するリスクもある。悩みました。札幌市に問い合わせたら、個人防護具は十分確保している、と。それなら自分を感染から守り最後まで全うできると思って行くことを決めたんです」5月8日、金澤さんは施設に雇用される形で、アカシアハイツに入った。そこは、一人で何人もの高齢者を看取らねばならないほど壮絶な現場だった。「防護服を着てアカシアハイツに入ったら、1階には、陰性の方が約40人。2階には、陽性の方が約50人いました。私が到着した時点では、急きょ支援に入った看護師が4人と、介護士や事務の方を含めて、スタッフはわずか15人ほどだったと思います。この人数で約100人の入所者をケアするほかなかったんです」元々、看護師と介護士合わせて約45人のスタッフがいたが、新型コロナに感染したり、辞めてしまったりして激減していたという。4月下旬から5月にかけて、ちょうど北海道は、感染者がピークに達していた時期だった。リスクの高い高齢者は真っ先に入院させるべきだが、ベッドの空きもなく、施設で見ることを余儀なくされていた。「初日にすぐ、お一人看取ることになりました。その方は酸素吸入をしていたんですが、容体が悪くなる一方だったので、急いで点滴の準備をしていたんです。そしたら、みるみるうちに悪くなって……。重症者だけでも入院させてほしい、と職員たちは市にかけ合っていたと聞いています。しかし、なかなか状況は変わりませんでした」数日の間、なすすべもなく入所者を看取る日が続いた。「感染のリスクがあるので、ご家族は施設内で看取ることもできません。そのなかで自分なりに精いっぱい業務に当たりましたが、見ず知らずの看護師の私に看取られて亡くなるのかと思うと、入所者さんが気の毒で。“入所者さんたちは見捨てられたんだ……”と心を痛める介護士さんの言葉も聞かれ、悔しさと申し訳なさから、介護士さんと泣きながら看取ったこともあります」5月16日、札幌市がようやく対策本部を設置。重症者を病院に搬送できるようになり、施設も徐々に落ち着きを取り戻していった。少しずつスタッフも戻ってきたので、金澤さんは6月下旬にアカシアハイツでの任務を終えた。札幌市は7月3日、アカシアハイツでの集団感染は終息したと宣言。しかし、合計92人の感染者を出し、17人の高齢者が犠牲になるという痛ましい結果となった。医療先進国の日本で、入院できずに目の前で次々と失われていく命。「結局、私一人で5人の入所者さんを看取りました。今でも、入院もさせてもらえず亡くなった人たちのことを思うと、胸が締めつけられるようで……。国や自治体が、もう少し早く感染症への備えをしていたら、救える命もあったはず。二度と同じ過ちを繰り返さないためには、こうして体験をお話しして、多くの人に知ってもらうことも大事だと思っています」(撮影:田山達之)「女性自身」2020年11月3日号 掲載
2020年10月26日