製薬メーカー「龍角散」が販売する服薬補助ゼリーの1つ「おくすり飲めたね」。’08年、同社女性初の執行役員となった福居篤子さん(53)が、そのアイデアから開発、販売まで関わった大ヒット商品である。 「龍角散に勤める前、私は臨床薬剤師として、病院の薬局に勤務していました。そのとき多くの患者さんが薬を飲むのに苦労していること、病気を治すための薬というものが理解できない子どもにとってはただ嫌な行為であるということを痛感したんです。どうして飲みにくい薬を作るのか理解できず、全ての人にとって苦痛になっている課題を解決した新しい薬を作りたいと考えました。だから、臨床の世界から製剤の世界に移ったんです」(福居さん・以下同) 患者さんに寄り添いたい。守りたい。それが、福居さんの製薬の原点だ。新聞の求人欄で見つけた龍角散の採用試験を受け、’91年、合格。 社長面接で、先代の社長に「うちは専門性を重視した縦割りの業務体系だが、横断的にいろんな部署をまたいで活躍してくれる人材が欲しい」と言われた福居さんは、「いろんなことにチャレンジできる」と、意欲満々だった。 しかし、入社してみると、200年を超える歴史ある企業には、旧態依然とした空気が蔓延していた。今と違って、男尊女卑の風潮も根強かった。 入社当初は、千葉工場勤務で、開発と兼任で、自社製品を営業するMR(医薬情報担当者)も任された。自作の資料を手に、熱心に説明して回り、瞬く間に営業成績トップクラスに。同期入社のなかで、誰よりも早く主任に出世し、30歳で本社勤務となった。 当時の龍角散は、40億円の年商に対して、40億円の負債を抱え、倒産の危機に瀕していた。しかし、社員の危機感は希薄で、保守的な古参役員には、会社を立て直そうという気概もない。 福居さんは、千葉工場時代から、新製品の開発を始めているが、そこには常に古参の役員との対立がついて回った。苦闘の末に新製品が完成しても、古参の役員たちは、反対しかしない。開発した製品が、ことごとく否定され、嫌気がさして、転職を決意。別会社の内定をもらって、役員室に行ったこともあった。 「辞めさせてもらいます!」 福居さんの大きな声に、隣室から出てきて「私は1カ月後に社長になる。一緒に改革をしよう。一度、思う存分やってみてから辞めても、遅くはないよ」と、慰留したのが現社長の藤井隆太さんだ。 ’95年10月、社長に就任した藤井さんを中心に、上司と福居さんの3人で改革チームが結成された。「もう龍角散だけでは生き残っていけない」と危機感を募らせる改革チームは、保守的な古参役員の反発を尻目に、新製品の開発を推し進めていった。 服薬補助ゼリーの開発を始めたのは、’97年ごろからだ。糖衣チョコを錠剤に見立て、ゼリーに包んで何十個も飲み込むなど、無謀ともいえる体を張った実験までした。そして’98年、ついにレモン味をつけた服薬補助ゼリーが完成する。 福居さんは、地域の医師会や医師の勉強会などにもサンプルと実験データを持って押しかけ、営業にも奮闘。介護施設でもそのニーズが高まっていった。ほどなく、子ども向けの服薬補助ゼリーを販売し、ヒット商品になりそうな手ごたえを感じた’00年。福居さんは何の前触れもなく、突然、古参役員から「明日から、千葉の工場へ行きなさい」と、人事異動を言い渡された。 異動先は、書類管理の部署だった。古参の保守派が、福居さんたち、改革派を排除しようと動いたのだ。朝、異動先の自分のデスクで、パソコンを開こうとすると、上司から、「仕事はするな。パソコンは不要」と、注意される。電話に出ることさえ禁止された。 「あまりに暇で、学術誌を読もうとすると、また叱られる。何もすることがないんです」 本社から毎朝、電話が入ると、上司はすまなそうに「まだ、辞めていません」「そんな気配もありません」と報告していた。ほかの社員が働くなか、机にただ座っていることしか許されなかった。左遷先は、福居さんだけを対象とした、“追い出し部屋”だったのだ。 改革チームだった上司も、地方の営業職に異動になった。昼休みに連絡を取り合うと、上司も慣れない営業に苦労しているようだった。 「辞めようと思うこともありましたが、家族を抱え、慣れない土地で奮闘している上司と話すと、簡単には辞めてやらないぞって、闘う気持ちが出てくるんです」 それでも体は正直で、ストレスのためだろう、顔じゅうにふきでものが出た。 藤井社長も、古参役員に攻撃され、身動きが取れない。社長自ら、他社に声をかけ、「福居のことを頼みます」と、頭を下げてくれていた。そんな社長の計らいで「うちの会社に」という誘いもあったが、断った。 「私自身、自信がなかったんです。誰に聞いても、左遷された理由はわからないままです。もし、私が原因で引き起こしたことなら、別の会社に移っても、また、同じことを繰り返すだけですから」 それまで脇目もふらずに突き進んできた福居さんが、初めて立ち止まった日々だった。 「そのとき、いろんな人が心配して、わざわざ千葉の工場に来てくれたんですよね」 それは、左遷前、二十数種類もの新製品を開発するなかで出会った取引先や社外の仲間たちだった。 「私との面会を許されず、上司に『おまえ、それでも人間か』と怒ってくれた人。終業時間になって、私が出てくるまで、待っていてくれる人もいました」 自分を信じてくれる人たちに支えられ、福居さんは少しずつ、前を向く。 「考えてみれば、自由な時間はたっぷりあるんです」 これまでできなかった2つのことを始めることにした。1つ目は、英会話教室に通うこと。2つ目は、製剤の学問をさらに深めることだった。 現在、龍角散の顧問を務める名城大学名誉教授・砂田久一さんは、「福居さんに初めてお会いしたのは、服薬補助ゼリーを販売したころでした。彼女は、それまでの実験データのことを一生懸命、話すんですね。『そんなにデータがあるなら、学術論文にしないといけないよ』と話しました」と語る。 福居さんは毎週末、新幹線で名古屋に通い、砂田教授の指導を受けた。 「ホテル代も新幹線代もかかるから、学費はタダでお願いしたいんですけど」 そんなずうずうしい願いまで受け入れてくれた砂田先生のもとに、会社に隠れて、福居さんは通い続けた。2年をかけて、薬の効能などを表す計算式を作り、英語で論文を書いた。 同じタイミングで、本社への異動も決まった。藤井社長が、問題のあった古参の役員を罷免し、経営陣を一新したのだ。’02年10月、本社に戻ってからも、福居さんは砂田教授の薬品物理化学教室に通い、’08年までに5本の論文を英語で仕上げて、博士号を取得した。 また、製剤学の視点で改良と研究を深めた服薬ゼリーは、日本薬剤学会「製剤学奨励賞」をはじめ、数々の賞を受賞している。 本社では、左遷騒動で生じた社員間のわだかまりを払拭すべく、積極的に社員に歩み寄り、声をかけた。 「古参の役員に歯向かえず、私を無視した人たちも、私に悪意があったわけじゃない。ならば、私のほうから突破口を開いて、コミュニケーションを取らないといけないと感じたんです。いまでも心がけているのは『人に後ろ姿を見せない』ということ。机の方向も、皆に背を向けず、正面を見せる位置に反転したくらいです(笑)」
2018年03月31日「大きな錠剤やカプセル、苦い薬も、服薬ゼリーで包むと、子どもも、お年寄りでもすっと喉を通って、無理なく飲めるんです」 製薬メーカー「龍角散」が販売する服薬補助ゼリーの1つ「おくすり飲めたね」。’08年、同社女性初の執行役員となった福居篤子さん(53)が、そのアイデアから開発、販売まで関わった大ヒット商品である。 最近では老人ホームなどでも、服薬補助ゼリーはよく使われる。ゼリーのおかげで、粉薬が気管に入ってむせることも、薬を吐き出すこともなくなって、服薬の時間がスムーズになった。 「龍角散に勤める前、私は臨床薬剤師として、病院の薬局に勤務していました。そのとき多くの患者さんが薬を飲むのに苦労していること、病気を治すための薬というものが理解できない子どもにとってはただ嫌な行為であるということを痛感したんです。どうして飲みにくい薬を作るのか理解できず、全ての人にとって苦痛になっている課題を解決した新しい薬を作りたいと考えました。だから、臨床の世界から製剤の世界に移ったんです」(福居さん) 龍角散の粉末をベースに、飲みやすさを重視した製品が「龍角散ダイレクト」だ。ノンシュガー、水なしで飲めるという龍角散のよいところはそのままに、個包装のスティックに入ったミントやピーチ味の顆粒など、女性でも携帯しやすいこの製品を開発したのも福居さんだ。 一時は倒産の危機にあった同社も、ここ数年の売上高は170億円規模。この5年で、売り上げは4倍に増え、躍進を続けている。 「あ、これいいかも。ちょっとなめてみて」 「うん、いいですね」 スタッフ2人に囲まれ、白衣姿の福居さんは、服薬ゼリーの新しい味の実験をしていた。部屋にはほんのりキャラメルの香りが漂っている。 現在の福居さんの名刺には、開発本部長、国際部長、マーケティング部長など、さまざまな肩書がズラリと並んでいるが、地道な実験も変わらずに続けている。 「実験・研究をする時間は、自分だけの世界に没頭できて、リフレッシュするんです」(福居さん・以下同) 入社当時から変わらず、製品開発をするときは、消費者目線を忘れないように心がけている。 最近では、沖縄産のシークワーサー果汁を配合したのど飴や、入手困難なフィンランド産蜂蜜を使ったハニーレモンジンジャー味ののど飴を発売したばかりだ。 多忙な福居さんのスケジュールは、パソコン上で管理され、社員で共有。そのわずかな空き時間は、社員全員で取り合いになる。 「15分ほどの空き時間を見つけて席に戻ると、5~6人がわれ先にと話しかけてきます。時間がないから、皆、1~2分で上手にプレゼンしていきますよ。実力のある社員が育って、ようやく花開いたという感じですね」 龍角散初の女性役員に就任してからは、女性の働く環境整備にも取り組んだ。倒産危機を乗り越え、風通しがよくなった龍角散は、若い社員の活気にあふれ、成長を続けている。
2018年03月31日製薬メーカー「龍角散」が販売する服薬補助ゼリーの1つ「おくすり飲めたね」。’08年、同社女性初の執行役員となった福居篤子さん(53)が、そのアイデアから開発、販売まで関わった大ヒット商品である。 「大きな錠剤やカプセル、苦い薬も、服薬ゼリーで包むと、子どもも、お年寄りでもすっと喉を通って、無理なく飲めるんです」(福居さん・以下同) 最近では老人ホームなどでも、服薬補助ゼリーはよく使われる。ゼリーのおかげで、粉薬が気管に入ってむせることも、薬を吐き出すこともなくなって、服薬の時間がスムーズになった。 「龍角散に勤める前、私は臨床薬剤師として、病院の薬局に勤務していました。そのとき多くの患者さんが薬を飲むのに苦労していること、病気を治すための薬というものが理解できない子どもにとってはただ嫌な行為であるということを痛感したんです。どうして飲みにくい薬を作るのか理解できず、全ての人にとって苦痛になっている課題を解決した新しい薬を作りたいと考えました。だから、臨床の世界から製剤の世界に移ったんです」 患者さんに寄り添いたい。守りたい。それが、福居さんの製薬の原点だ。 福居さんは’64年12月27日、広島で生まれた。親戚に尊敬する医師がいた影響で、いつしか医療の道を志すように。大学の薬学部薬剤学科に進学し、卒業後は患者さんと触れ合う仕事がしたいからと、臨床薬剤師として病院に就職した。その後、両親が住む近所の病院の薬局に転職すると、患者さんの薬の悩みを聞く機会が増えた。 患者さんの薬の悩みを聞いているうちに「どうしたら、楽に薬を飲めるのだろう」という疑問が、福居さんのなかで膨らんでいったという。 「それなら一度、薬を作る側に回ってみてもいのかな」 そんな思いで、新聞の求人欄で見つけた龍角散の採用試験を受け、合格。’91年、福居さんは26歳になっていた。 社長面接で、先代の社長に「うちは専門性を重視した縦割りの業務体系だが、横断的にいろんな部署をまたいで活躍してくれる人材が欲しい」と言われた福居さんは、「いろんなことにチャレンジできる」と、意欲満々だった。 しかし、入社してみると、200年を超える歴史ある企業には、旧態依然とした空気が蔓延していた。今と違って、男尊女卑の風潮も根強かった。職場のなかでも心臓部である製剤室は、まるで女人禁制の“聖域”だ。 「錠剤を作る機械にも簡単に触らせてもらえません。怒られるんじゃないんです。『作業中、指を落とした人もいるから、女性には危なすぎるわ~』と、優しく諭されるんです」 入社当初は、千葉工場勤務で、開発と兼任で、自社製品を営業するMR(医薬情報担当者)も任された。自作の資料を手に、熱心に説明して回り、瞬く間に営業成績トップクラスに。同期入社のなかで、誰よりも早く主任に出世し、30歳で本社勤務となった。 当時の龍角散は、40億円の年商に対して、40億円の負債を抱え、倒産の危機に瀕していた。しかし、社員の危機感は希薄で、保守的な古参役員には、会社を立て直そうという気概もない。 福居さんは、千葉工場時代から、新製品の開発を始めているが、そこには常に古参の役員との対立がついて回った。最初に取り組んだのは、鼻炎薬の開発だ。当時はまだ1日3回飲む薬が主流だったが、1日2回の服用で効く薬の開発に取り組んだ。 だが、苦闘の末に新製品が完成しても、古参の役員たちは、反対しかしない。開発した製品が、ことごとく否定され、嫌気がさして、転職を決意。別会社の内定をもらって、役員室に行ったこともあった。 「辞めさせてもらいます!」 福居さんの大きな声に、隣室から出てきて「私は1カ月後に社長になる。一緒に改革をしよう。一度、思う存分やってみてから辞めても、遅くはないよ」と、慰留したのが現社長の藤井隆太さんだ。 ’95年10月、社長に就任した藤井さんを中心に、上司と福居さんの3人で改革チームが結成された。「もう龍角散だけでは生き残っていけない」と危機感を募らせる改革チームは、保守的な古参役員の反発を尻目に、新製品の開発を推し進めていった。 服薬補助ゼリーの開発を始めたのは、’97年ごろからだ。 「薬局で買って、その場で服用できるように、薬と一緒にパックされた水を開発してほしい」という営業からの要望がきっかけだった。そのとき思い浮かんだのは臨床薬剤師時代の経験だ。水では薬が飲めない患者さんを大勢、見てきた福居さんは、「ゼリーで包む」という画期的なアイデアを思いつく。 服薬補助ゼリーの試作品を作って、経営会議に提出した。だが、古参の役員からは「水を作れと言ったのに、なぜ、ゼリーなんだ」という声が上がる。当時は、嚥下機能が低下した高齢者が服薬で、誤嚥を引き起こし、肺炎につながるという事実や、嚥下機能が未熟な子どもの存在は、ほとんど知られていなかった。何度も現状を訴えたが、古参の役員たちは理解せず、製品化を認めようとしない。 「そんなに言うなら、介護現場を見てみよう」と言ってくれた藤井社長と一緒に訪ねた高齢者施設には、福居さんがかつて、臨床の現場で見ていたのと全く同じ光景が広がっていた。薬を食事に混ぜるため、食が進まず、苦悶の表情で食事をとる高齢者を目のあたりにして、社長は帰りの電車のなかで、「明日はわが身だな」と呟いた。 藤井社長は、古参役員の反対を押し切り、「服薬補助ゼリーは社会的意義のある製品だ。販売するのは、龍角散の使命だ!」と英断を下す。福居さんも、長年の夢だった「薬を飲みやすくする」製品の開発に夢中になった。 糖衣チョコを錠剤に見立て、ゼリーに包んで何十個も飲み込むなど、無謀ともいえる体を張った実験までした。’98年、ついにレモン味をつけた服薬補助ゼリーが完成する。 福居さんは、地域の医師会や医師の勉強会などにもサンプルと実験データを持って押しかけ、営業にも奮闘。介護施設でもそのニーズが高まっていった。ほどなく、子ども向けの服薬補助ゼリーを販売し、ヒット商品となった。
2018年03月31日「おいしいね!」。3歳の男の子が夕食後、食卓に出されたゼリーをひとさじ口に運ぶとそう言って、にっこりとほほ笑んだ。 その日、男の子は風邪をひいて保育園を休んでいた。ゼリーには、抗生物質とせき止めの粉薬が入っている。それでも、おいしいお菓子を食べるように、あっという間に食べ終えて、ママを見上げてこう言った。「おかわりあるの?」。 男の子が食べていたゼリーは「おくすり飲めたね」。製薬メーカー「龍角散」が販売する服薬補助ゼリーの1つだ。’08年、同社女性初の執行役員となった福居篤子さん(53)が、そのアイデアから開発、販売まで関わった大ヒット商品である。福井さんは、服薬補助ゼリーについてこう語る。 「大きな錠剤やカプセル、苦い薬も、服薬ゼリーで包むと、子どもも、お年寄りでもすっと喉を通って、無理なく飲めるんです」(福居さん・以下同) たしかに、最近では老人ホームなどでも、服薬補助ゼリーはよく使われる。ゼリーのおかげで、粉薬が気管に入ってむせることも、薬を吐き出すこともなくなって、服薬の時間がスムーズになった。 「龍角散に勤める前、私は臨床薬剤師として、病院の薬局に勤務していました。そのとき多くの患者さんが薬を飲むのに苦労していること、病気を治すための薬というものが理解できない子どもにとってはただ嫌な行為であるということを痛感したんです。どうして飲みにくい薬を作るのか理解できず、全ての人にとって苦痛になっている課題を解決した新しい薬を作りたいと考えました。だから、臨床の世界から製剤の世界に移ったんです」 患者さんに寄り添いたい。守りたい。それが、福居さんの製薬の原点だ。200年以上の歴史がある老舗の製薬メーカーらしくアンティークの薬ダンスが配された応接室で、福居さんはソファに浅く腰掛け、ちょっと前のめりの姿勢で話す。 「ゴホン!といえば」のフレーズでおなじみの龍角散の銀色の缶をパカッと開けると、付属の小さなサジについての解説を始めた。 「このサジは、去年の10月から小さな穴を開け、すくった粉がスムーズに口に落下するように改良しました。粉体力学的な観点から考案したんです。江戸末期に開発された龍角散ですが、生薬の効能を生かした原型はそのままに、いまでも進化を続けています」 その熱い口調から自社製品に対する愛が伝わってくる。 龍角散の粉末をベースに、飲みやすさを重視した製品が「龍角散ダイレクト」だ。ノンシュガー、水なしで飲めるという龍角散のよいところはそのままに、個包装のスティックに入ったミントやピーチ味の顆粒など、女性でも携帯しやすいこの製品を開発したのも福居さんだ。 一時は倒産の危機にあった同社も、ここ数年の売上高は170億円規模。この5年で、売り上げは4倍に増え、躍進を続けている。
2018年03月31日