兵庫県のポートアイランドに位置する神戸アイセンター病院で、眼科医の高橋政代さん(58)が患者と向き合う。「私の患者さんは、失明につながるような深刻な病状の方ばかりなんです。ですから、最初の説明がとても大切。おひとりに1時間以上かけることも多いです」彼女にはトップ研究者としての顔もある。14年9月、目の難病患者にiPS細胞を使った網膜移植が行われ、成功した。この世界初のプロジェクトを率いたリーダーが、当時は理化学研究所(理研)にいた高橋さんだった。ある教授は、その果敢な行動力から“ブルドーザーに乗ったサッチャー”と呼んだ。夫婦で研究者であることから、“日本のキュリー夫人”と呼ばれることも多い。そんな高橋さんには、いつも心にひとつの信念があったという。だから今日も、多忙な中でも診療の現場にいることに、こだわり続けているのだ――。京都大学医学部を卒業した直後、脳神経外科愛で研究者の夫、淳さん(58)と結婚した高橋さんは、夫のアメリカ留学決定と同時に自身もアメリカに渡ることとなる。到着したサンディエゴのソーク研究所は、世界中から脳の研究者などが集まる生物医学のラボだった。そんな中、高橋さんはあることを閃いたという。自己複製などの機能を持つ“神経幹細胞”で、根本的な目の治療法のなかった目の難病を網膜移植手術で治せるのではないか、というものだ。早速勢い込んでラボのボスに話したが、荒唐無稽な夢物語だとして大笑いされたという。しかし、高橋さんは確信していた。「運命的な出会いでした。たまたま夫が脳神経外科医で、たまたま脳の専門家ばかりの中に眼科医の私がいた。眼科医でこのことに気づいているのは、私しかいない。これって、おいしい話やない(笑)。困っている患者さんも、臨床の現場でたくさん診てきた。よし、私がやるしかない!違う世界に飛び込めば、必ず何か発見があるんですね」2年のアメリカ滞在を終えて帰国し、京都大学へ復職。京大の同窓会に出席した時に、クラスメートで理研の笹井芳樹先生(故人)からES細胞(胚性幹細胞)の話を聞き、ビビッときたそうだ。ES細胞は、ごく簡単に言えば、受精卵から作って様々な組織に分化できるという万能細胞。高橋さんと笹井さんらは共同研究を始め、世界で初めてES細胞から網膜細胞を作ることに成功。しかし、ES細胞は生命の元になる受精卵を使うために“倫理上の問題”があるという議論で、臨床に進む道は途絶えてしまう。そのまま京大にいたら教授として安定した研究生活が約束されていた。しかし、臨床の現場も離れたくなかった。そんな時、高橋さんは、神戸に研究も臨床も一流レベルでやれる施設があるのを知る。それが、異動を決意した理研だった。「決め手は、患者さんとの約束ですね。『新しい治療をやります』と言ってましたから。単純なんです。約束は、守らなあかん」その後、07年に山中伸弥教授(57)がiPS細胞の開発に成功したとの知らせが駆け巡り、高橋さんは山中教授にiPS細胞の提供を求めて直談判。14年9月には、そのiPS細胞から作った網膜の細胞を加齢黄斑変性の70代女性へ移植する手術に世界で初めて成功させたのだ。快挙は世界中に報道され、権威ある学術雑誌『ネイチャー』は、高橋さんを“brave scientist(勇敢なる科学者)”と称賛し、「今年の10人」に選定。しかし、高橋さんはその称号をあまり好かないと言う。「勇敢というのが、まだ未知のiPS細胞を使って無謀な挑戦をしたように聞こえるでしょう。私は、決して無謀なことをしていません。あらゆるリスクを考えて臨みました」診察室にはいつも患者さんがいた。半径3メートル以内に困っている人がいるのがただただイヤだったと語る高橋さんは、全力で手を尽くしてきた。この世界的快挙の時も、2千例以上の手術を手がけた時も、いつも“人情味あふれる科学者”を支えていたもの。それは、「患者さんのために」という信念だったのだ。
2019年12月16日3月22日に『小保方晴子日記』(中央公論新社)を出版した小保方晴子さん(34)。STAP細胞騒動から4年。今回の著書には、論文ねつ造を指摘されて“どん底”に落ちた日々から、彼女がどうやってここまで這い上がってきたかが、克明に描かれている。 日記は、理研を依願退職した直後の14年12月31日から始まるが、当時は一歩も外に出ず引きこもる生活だったという。 《一日に何度も死にたいと思って、気が付けば真剣に方法を考えてしまう日々が続いている(15年1月24日)》(『小保方晴子日記』より・以下同) こうして絶望の淵に追いやられた彼女は、16年1月に手記『あの日』(講談社)を出版。何を言っても世間が聞く耳を持ってくれなかったと感じていた彼女は、本を書くことで、初めて鬱屈した思いを活字の形で吐き出すことができたようだ。このころから、彼女の生活に変化が現れていく。 STAP騒動の渦中には、スエットにパーカー姿で、髪の毛を振り乱して理研に出勤していた彼女の姿を本誌も目撃していた。だが2年前の手記出版をきっかけに、彼女は次第に化粧品やファッションへの関心を取り戻していったのだ。 《白いワンピースを友人が代わりに買って、郵送してくれた。私にウェディングドレスを着る日は来ないと思うから、奮発してこの白いワンピースを買うと決めたのだ(16年4月9日)》 ただ騒動のなかで、犠牲者も出た。14年8月、自ら命を絶った小保方さんの元上司、笹井芳樹さん(享年52)。一時はノーベル賞候補とまで言われた笹井さんの妻・A子さんに、本誌は2年前にも取材したが、今回あらためて話を聞かせてもらった。 前回の取材は、小保方さんが初の手記を出した直後のこと。A子さんは「小保方さん個人の気持ちを綴った内容なら読みたくありません」と終始、硬い表情だった。 しかし、あれから流れた2年の歳月がA子さんの心を融かしたのだろう。今回は、柔らかい表情で記者の質問に答えてくれた。 「小保方さんからの連絡は、まだありません。ただ、(小保方さんが自分に)連絡することは大変なことだとは思います。たとえば、交通事故で人の命を奪ってしまった人が遺族に謝罪に行くのはすごく勇気がいること。それと同じような大変さはあるので……」 A子さんは、そう彼女を思いやってみせた。 「じつは主人が、小保方さんについて『研究者には向いていない』と言っていたことがあったんです。でも、彼女にはこうして文章を書く才能があったということなんでしょう。私も、なんとか前を向いて生きていきたいと思います」 そう言って微笑んでいた、A子さん。その瞳は、小保方さんの行く末をどこか危ぶんでいるようにも見えたーー。
2018年04月05日