今年11月2日(木) で51歳を迎える百々和宏(MO’SOME TONEBENDER)のバースデーを祝うライブ『百々和宏presents ~Drunk51~』が、11月1日(水) 新代田LIVE HOUSE FEVERで開催されることが決定し、併せて出演者が発表された。出演するのは、ホリエアツシ(STRAIGHTENER)、佐々木亮介(a flood of circle)、ヤマジカズヒデ(dip)、有江嘉典(VOLA&THE ORIENTAL MACHINE)、ウエノコウジ(the HIATUS, Radio Caroline)、クハラカズユキ(The Birthday)、有松益男(BACK DROP BOMB)。百々の幅広い交友関係を凝縮したラインナップとなっており、所縁の深い先輩後輩アーティストがお祝いに駆けつける。また、誕生日当日の11月2日は、有江嘉典とクハラカズユキを招聘し結成されたバンド「百々和宏と69ers」のツアーファイナルが下北沢Flowers Loftにて開催される。<ライブ情報>『Rock, Talk, Smoke….Drunk? Special番外編 百々和宏presents~Drunk51~』11月1日(水) 東京・新代田LIVE HOUSE FEVEROPEN 18:45 / START 19:30■出演百々和宏(MO’SOME TONEBENDER)ホリエアツシ(STRAIGHTENER)佐々木亮介(a flood of circle)ヤマジカズヒデ(dip)有江嘉典(VOLA&THE ORIENTAL MACHINE)ウエノコウジ(the HIATUS, Radio Caroline)クハラカズユキ(The Birthday)有松益男(BACK DROP BOMB)【チケット料金】前売:4,800円当日:5,300円※ドリンク代別/オールスタンディング■一般発売9月17日(日) 10:00〜詳細はこちら:
2023年08月28日【前編】『ふたりの人を愛し…』歌人・永田和宏語る故・河野裕子さんとの青春から続く「愛する人を失った悲しみとは、伴侶や恋人の前で輝いていた自分がいなくなってしまった悲しみなのではないかと思う。河野を失ったとき、僕も僕自身が失われたに等しい思いでした」そう語ったのは、永田和宏さん(75)。日本を代表する歌人で、細胞生物学研究の第一人者だ。「河野」と呼ぶのは10年8月12日に乳がんで亡くなった最愛の妻・河野裕子さん(かわの・享年64)のことだ。裕子さんは20代前半から歌人として頭角を現し、23歳で角川短歌賞を最年少受賞するなど活躍。夫妻は09年に宮中歌会始詠進歌選者をそろって務めて「初の夫婦同時の選者」となるなど上皇陛下、美智子さまをはじめ、皇族方との親交もつづけてきた。晩年の裕子さんは、そんな永田さんの「その後」を案じていた。《私が先に死んだら、あの人、どうするかなあって。多分、お酒を飲みすぎて泥酔してお風呂で溺死するでしょうね》(『私の会った人びと』より)いっそ自分も天に昇ってしまえば。そう思わなかったのかと問うと、永田さんは即座に答えた。「否応なくありましたね、河野が『すごいわね』『よかったわね』と言ってくれることが、僕の生きる張り合いになっていた。もうそれを受け止めてくれる人がいないというのは、半分自分がいなくなったんですから……」だが幸い、永田さんには仕事があった。11年に夫婦の40年の相聞歌と、裕子さんのエッセイを編集した『たとへば君 四十年の恋歌』(文藝春秋)を出版。12年には闘病記『歌に私は泣くだらう ー妻・河野裕子 闘病の十年ー』(新潮社)も。「河野の生前の言葉と、歌を残す作業でした。日々それに忙殺されたことが救いだった」このとき手紙とともに遺品から見つけていたのが、10冊以上にもなる裕子さんの日記帳だったのだ。『いくら夫婦とはいえ、他人の心をのぞき見るようなことはできない』と、永田さんは裕子さんが亡くなってから10年近く日記を読めずにいた。しかし、いまから3年前の19年のこと、意を決して手を伸ばしたのだという。「先立った河野は、本当に僕が夫でよかったのか?ほかにふさわしい選択はなかったのか?そんな疑問が頭をもたげたんです」すると日記には、裕子さんの胸の内が赤裸々につづられていた。当時、裕子さんの心には永田さんとN青年という二人の男性がいたという。そのあいだで悩む裕子さんが純粋すぎる恋の煩悶をぶつけてきた、68年1月の一日を、永田さんが回想する。「あの日、河野はことさら思い詰めているようでした。喫茶店で長い沈黙にいたたまれず、外の路地に出て河野に告げられたんです」裕子さんは「どうしたらいいの」を繰り返し、泣きながら永田さんの胸をたたき、くずおれた。そこで彼がかけた言葉を、裕子さんは日記に克明に刻んでいた。《あのひとは限りなく優しかった分別をもっていた〈好き嫌いはどうしようもないモノなんやしそんなに苦しむな……さあ自分の足でちゃんと立って〉そう言いながらむき出しになった脚にスカートをかぶせてくれた》そしてこの記述のあとに、後に代表作のひとつとなる一首(『森のやうに獣のやうに』所収)の原型がつづられていたのである。《たとへば君ガサッと落葉すくふやうにわたしを攫って行つては呉れぬか》裕子さんの最も有名な歌がこの出来事に起因していたことを初めて知った永田さんは、驚いた。「私のことを『離れられない存在』として強く意識してくれた夜だったんだと、感慨深い思いでした」この日以来、会う頻度が増していき、裕子さんの熱情は一気に、永田さんへと傾注していった。《あなたが居なくなってしまったら到底ひとりではたっていられそうにもありません》(1月7日 裕子)いざ日記の封を解いてみれば、まっすぐに愛そうとしていた裕子さんの、けなげな表情ばかりが浮かんできて……。永田さんは、裕子さん亡き後、こんな一首を詠んでいた。《わたくしは死んではいけないわたくしが死ぬときあなたがほんたうに死ぬ》(『たとへば君』より)「死者がまだこの世で生きる方法があるのだとすれば、それは生者の記憶のなかにしかない。つまり河野を最も知る者として、僕は長く生きなければならない。それが、彼女を生かしておく唯一の方法だと気づいたんです」その境地が、日記をめくる作業へとつながったのである。「そこから河野と対話するように、精読しながら書き進めました」新著『あの胸が岬のように遠かった 河野裕子との青春』(新潮社)は、裕子さんとの「青春の逸話」の結実だ。コロナ禍で、自宅に単身住まう時間が増えたことも、結果的に功を奏したといえる。裕子さんが遺した日記、言葉と向き合う時間を存分に持つことができたのだから。「いまは、なんだか誇らしい気持ちもあります。一切の妥協なく、相手にすべてぶつけて返歌を待つ。河野だからできたことだし、相手が僕だからこそできたこと。『俺でよかったのか』という疑問で始めた旅でしたが、いまは『俺でなけりゃ、もたなかったな』と」■年間20万首を見て、自らも歌を作り続け、料理もする。妻はきっと褒めてくれる「河野が心配していたのは、食事のことです。でも、まったく料理なんてしなかった僕が、いまは、だしを取って味噌汁つくりますし、おひたしも作っているんです」相変わらず多忙な日々を過ごすなかで、永田さんは昨今、自身の“成長”を実感するのだという。「やっぱり一皮むけたと思います。脱皮したというかね。それを河野に見ていてほしい、認めてほしいと思うんですよね」人生100年時代、健康寿命を追求する向きは増すなかで永田さんはもとより「日々是好日」なのだ。「いまも年間20万首ほどは選歌をしているし、日ごろから、朝4時くらいまで仕事しているからね」すこし顎を上げるように言った。歌を作り始めて軌道に乗れば、発想が発想をどんどん呼ぶという。「先日は、締切りと出張が重なってどうしようもなく、東京行きの『のぞみ』の2時間15分のなかで30首あまり作りました。『時速15首』と自分では言っているんです」前出の新著を原作とするNHKドラマ(柄本佑、藤野涼子主演)も放送日が6月6日に決まった。75歳にして人生の繁忙期を過ごす夫を、天国の妻はどんな思いで見ているのだろうか……。「フルに働いているもんな。褒められるしかないだろうね……『あなた、よくやっているわね』と」今宵もワイングラスを片手に、永田さんと裕子さんの語らいが、詠まれることだろう。《呑まうかと言へば応ふる人がゐて二人だけとふ時間があつた》愛妻に捧げた挽歌である。(取材・文:鈴木利宗)
2022年05月22日カシオ計算機は5月12日、現在の樫尾和宏 取締役 専務執行役員が、代表取締役社長に就任することを発表した。2015年6月26日に行われる定時株主総会開催後の取締役会で正式決定する。樫尾和雄・現社長は、代表取締役会長に就任。CEOを兼務する。同社では社長交代の理由を、「今後、さらなる成長を遂げるための新たな経営計画を、強いリーダーシップで推進できる、強力な経営体制を構築するため」としている。樫尾和宏・次期社長は、1966年1月22日生まれ。慶応義塾大学理工学部卒。1991年4月にカシオ計算機に入社し、ハウスエージェンシーの立ち上げ、米国販売会社への赴任、新規事業の立ち上げなどに関与。2007年6月に執行役員経営戦略担当、同年7月に執行役員経営統轄部副統轄部長、2011年6月に取締役執行役員DI事業部長を経て、2014年5月に取締役専務執行役員コンシューマ・システム事業本部長に就任し、現在に至る。49歳。趣味はゴルフ。最近はほぼ毎週やっているという。スコアは85~115と幅がある。樫尾和雄・現社長の長男である。5月12日午後6時30分から、カシオ計算機本社で行われた会見で、樫尾和宏・次期社長は、「2014年度は最終利益で過去最高を達成した。その上で、今後の新たな目標として、2017年度に売上高5,000億円、営業利益で750億円とした。節目の数字を早期に達成すべく、新会長の指導のもとに全力を尽くしたい。カシオ計算機にとって、最大の資産は、カシオファンの存在である。社是である『創造 貢献』のもと、ファンの期待を超える製品を作り続けることで、新たなカシオ計算機を作り、社会貢献をしていきたい」とした。カシオ計算機の課題については、「時計事業に偏りがちなところがある。コンシューマ事業とシステム事業で、柱になるような製品を作ることが最大の課題である。これらの分野においても、カシオ計算機らしい製品を作りたい」とし、「カシオらしいという意味は『オハイオ』。面白いモノ、初めてのモノ、意味のあるモノ、驚きのあるモノの頭文字。こうしたカシオ計算機でなくてはできないものを作りたい。カシオファンとはそこでつながっている。これからもオハイオにつながる製品を作っていきたい」とした。社長就任の打診を受けたのは、今年3月のことだった。社長室に呼ばれて打診されたという。「次の中期経営計画の3カ年の間は、まだ社長(編注:樫尾和雄・現社長)を続けると思っていたので驚いた。その場では返事をせずに数日後に返事をした」と、樫尾和宏・次期社長は語った。一方、樫尾和雄・現社長は次のように述べる。「私は、26年間社長を務めてきた。V15という中期経営計画を立て、15%の営業利益率を確保できる事業体質への転換を目指した。2015年度がこの中期経営計画の最終年度であるが、そこで終えるのではなく、これを通過点として、今後3年間でさらなる向上を図りたいと考えた。2014年度は、365億円の利益を出した。これを今後3年間に倍増させ、営業利益は750億円を目指す。カシオ計算機には、時計、コンシューマ、システムという3つの事業の柱がある。だが、システム事業があまりうまくいっていない。3つの事業のすべてを健全な事業とし、売上高5,000億円を目指したい。この計画を新体制でやっていくことにしたいと考えた。私自身も、そんなに長く社長をやっているわけにはいかない。今後1年間は、その達成に向けた課題をクリアすることに、新社長と二人三脚で全力を尽くす。1年間で目処をつけ、新社長体制に完全に移行させ、その後は、新社長にすべてを任せる。1年後の代表権の返上については、1年後の様子を見て、それから考えたい」さらに、「社長候補はほかにもいたが、実力から見ても、適任であると考えた。長年一緒にやっている。彼ならばできると考えた。樫尾一族がどうの、というものではない」と述べた。樫尾和雄・現社長はこれまで経営を振り返り、「売上高は2007年度に約6,300億円まで拡大した。だが、携帯電話事業で激烈な競争を繰り広げ、この分野で勝てるのかどうかということを考えて、アライアンスに踏み切った。その結果、売上高が大きく落ち込んだ。いまの売上高では満足できない。カシオ計算機には、会社としての知名度、販売力、資産もある。これらを活用してさらなる発展を遂げることができると確信している。今後のカシオ計算機の再生に結びつくのは資産。資産を活用すれば、さらなる業績拡大ができる。事業拡大に本気になって取り組む」と述べた。カシオらしさについても言及。「カシオが出す製品は、真似ではなく、初めてのものである。ここにカシオらしさがある。いま、新規事業として、サイネージ事業、リスト端末事業、人材開発事業の3つがある。リスト端末は現在の市場にある多くの製品とはコンセプトが異なり、時計メーカーらしいものを出していきたい。また人材開発事業では、2年間で業界水準を超える人材を育成することを目指す。この自動オペレーションシステムを上期中には完成する。これらより社会貢献していく」とした。
2015年05月12日