アイドルグループ・26時のマスカレイドが17日、10月30日をもって解散することを発表した。2016年に「読モBOYS&GIRLS×Zipperアイドルオーディション」で選抜された7人で結成。ニジマスの愛称で親しまれ、約6年間活動を続けてきた26時のマスカレイド。2020年からのコロナ禍の影響で思うような活動ができなかったことが影響し、メンバー・スタッフで話し合いを重ねた結果、10月30日に東京国際フォーラム ホールAで開催されるワンマンライブをもってグループ活動に幕を下ろすことを決定した。また、27日に新曲「トゥインクル・ディバディ・ドゥ」を配信リリースするほか、9月には東京・大阪で2大都市ライブを開催するなど、ラストライブまでの半年間はイベントを通じてファンに感謝を伝えていく。■現在決定しているイベントスケジュール4月27日:新曲「トゥインクル・ディバディ・ドゥ」を配信リリース・MUSIC VIDEO公開5月1日:「26時のネバーランド」パシフィコ横浜開催5月7日:26時のマスカレイド 大特典会開催5月10日:江嶋綾恵梨 生誕祭6月7日:「26時会」会員限定LIVE開催7月24日:「神マス」開催9月実施予定:東京・大阪 2大都市LIVE10月30日:東京国際フォーラム ホールA 解散LIVE■26時のマスカレイド6年間全力で走り抜けてきました。たくさんのことを経験しました。その間にコロナ禍になり、自分自身を見つめ直す機会が多くなり、今回このような決断を致しました。決して後ろ向きな決断ではなく自分たちの未来のためにこのタイミングが一番だと判断しました。残された期間、私達は今までの感謝を伝えて行ければと思います。残り半年活動期間がありますので、10月30日まで精一杯アイドル活動します。最後まで応援してくれると嬉しいです。
2022年04月18日「“相方の不祥事で解散”と認識されてしまった影響は、いまだに大きいです……」こうため息をつくのは、大人気お笑いコンビEXIT・兼近大樹(30)の元相方・逢見亮太(34)。EXITは、りんたろー。(35)と兼近の“チャラ男”キャラでブレーク。レギュラー番組を多数抱える売れっ子になっている。そんな兼近はEXIT結成前、’13年から「ぷりずん。」というコンビを組んでいた。その相方が逢見で今はタイで芸能活動中だ。’17年末にぷりずん。が解散する半年前、逢見の運命を変えた出来事が発生した。『週刊文春』が《吉本芸人が集団強姦で解雇!》との見出しで20代女性の告発を掲載。女性が出席した飲み会に参加した「芸人O」と報じられたのが、逢見だった。本人が当時を振り返る。「その日、先輩芸人2人と居酒屋で飲んでいたら、先輩たちが女性を呼び寄せたんです。僕は帰ろうとしたんですが、別の先輩の家に『一緒に行こう』と誘われて断れませんでした。それで家に着いてちょっと飲んでゲームして僕はすぐ帰りました。その後にその事件が起きたんです。後日僕は吉本興業に呼ばれて初めて記事のことを聞かされました。しかし結局、女性側の一方的な主張でした。それなのに謹慎処分とされてしまったのです」その後、逢見以外の芸人4人は吉本から解雇。逢見は謹慎を言い渡されて活動休止となったという。「『週刊文春』の記事にも反論したかったのですが、吉本からは『何も言うな』と……。相方の兼近にも迷惑かけられないし、ひたすら我慢していました」事件は不起訴になるも、「ぷりずん。」としての活動ができない間に兼近がりんたろー。と新コンビを組んでいたという。「気づいたら、兼近がEXITとしてM-1に出ていて驚きました。さらに、’18年夏に兼近が『ゴッドタン』(テレビ東京系)で“EXITはお互いに相方が不祥事でいなくなったコンビ”といったフレーズを使ったんですよね。僕はタイに滞在していて知人からの連絡で知ったので、兼近に確認したら『テレビ側に言わされた。もう言わないようにするよ』と約束してくれました。しかし以降も番組や兼近の本でも“不祥事”とされ続けたのです」■「4~5年たって売れなかったら解散しよう」と約束を昨秋に発売された兼近の“自伝的”小説『むき出し』(文藝春秋)は累計5万部を突破。当時のコンビ解消理由がこうつづられている。《相方が突然の活動休止になる。週刊文春に集団強姦疑惑と報じられた》《バッシングが浴びせられ、会社もその声に応じるしかなく、俺にお笑いを沢山教えてくれた大切な相方は、日本を離れ、苦楽を共にしたコンビは解消した》《中島さん(兼近の小説内の相方名。りんたろー。の本名でもある)も前の相方がスキャンダルで解雇、コンビは解散となっていて、シンパシーを感じていた。残された2人で、漫才を楽しみたかった》実はりんたろー。の元相方は’16年4月、無免許運転で逮捕。半年間の謹慎期間を経てコンビを解散している。その影響もあり“EXITは元相方が不祥事でいなくなった同士”という印象がついてしまい、逢見を苦しめているという。「日本のクライアントさんからもお仕事の話があるんですけど、『ネットに不祥事解散と書かれていますね』などと聞かれてしまうんですよね。日本の企業はコンプライアンスが厳しいので、仕事の話が通りにくくなってしまうので影響が大きいのです」逢見は「ぷりずん。」解散の真相についてこう明かす。「もともと兼近とは『4~5年たって売れなかったら解散しよう』という約束でした。その期間に僕は謹慎で活動停止に。兼近は僕が何もできない間に新コンビを組んでいて、僕が復帰したら『売れなかったら解散する約束だったから』という理由で解散になりました。だから、解散と『週刊文春』の事件はまったく関係ないんです」解散後はピン芸人として活動しテレビにも出演していた逢見だが、約2年前に吉本との契約を解消し、現在はタイを拠点にドラマやバラエティ番組などで活躍している。「日本のテレビ業界とは違って、タイだとどれだけ大御所の方でも一緒に食事したりフレンドリーなところがいいですね」吉本興業に逢見の活動休止理由、また不祥事解散とされていることに関して見解を尋ねたが、回答は得られなかった。最後に逢見に元相方・兼近への思いを聞いた。「兼近とは仲が悪いわけではないですし、同じ芸人として応援しています。ただ、『元相方の不祥事』と言うのだけはやめてほしい。世間の誤解を解いてほしいですね。もちろん吉本には所属時代に磨いてもらったので感謝しています。そして、機会があれば兼近と共演したいです。『タイに行ってる間に、めちゃくちゃネタにしてくれたな!』とイジると思いますよ」そう語る逢見。兼近は元相方の思いをどう受け取るのか――。
2022年01月25日BiSHが2023年をもって解散することを発表した。BiSHは本日12月24日8時より緊急生配信ライブ『THiS is FOR BiSH』を東京・中野heavy sick ZEROで実施。YouTubeで延べ42万人が視聴したほか、日本テレビ系『スッキリ』でも一部が生中継された。なお中野heavy sick ZEROは、BiSHとして初のワンマンライブが開催された場所であり、BiSHメンバーにとっても清掃員(BiSHファンの名称)にとっても想い入れのある場所である。ライブは初ワンマンライブ当時のセットリストで構成され、終盤にメンバーのセントチヒロ・チッチより「私達BiSHは、2023年で解散します。」と解散がアナウンスされた。併せて2022年に成し遂げるファンとの約束「BiSHからのPROMiSE」として、2022年1月から毎月パッケージをリリースすること、今までライブを開催したことのない地域でのホールツアー『COLONiZED TOUR』の実施、BiSH FES.の開催、2020年7月に発売されたベストアルバム『FOR LiVE -BiSH BEST-』の収益を寄付した全国33都道府県67店舗を巡るライブハウスツアーの開催の4つが発表となった。■セントチヒロ・チッチ コメント私たちBiSHは、2023年で解散します。私たちはこの80人のキャパのライブハウスから一歩ずつ一歩ずつ歩いてきて、たくさんの方に応援いただいて、すごくすごく嬉しく思っております。いつも愛してくれて生きる場所をいただいて、感謝の気持ちでいっぱいです。だからこそ、2023年まではBiSHらしく、愛を届けてパーティーをしようという気持ちで駆け抜けて行こうと思っています。個性もバラバラで、すごく自由な私たちが自分らしく生きる場所がこの場所だって思っています。最後まで駆け抜ける為、BiSHからのプロミスとして2023年いろんなことをやろうと思っています。ライブハウスを回ったり、いろんなところに感謝の気持ちと愛の気持ちを届けて行こうと思っているので、皆さんも楽しみに一緒にパーティーを続けてくれたら嬉しいなと思います。■BiSHからのPROMiSE1. 2022年1月から12カ月連続リリース2. 『COLONiZED TOUR』を開催3. BiSH FES.を開催4. ベストアルバム『FOR LiVE -BiSH BEST-』の収益を寄付した全国33都道府県67店舗のライブハウスツアーを開催「BiSH iS OVER!」特設サイト:関連リンクBiSH Official HP: Official Twitter: Official YouTube:
2021年12月24日1970年のビートルズの解散については、ポール・マッカートニー(79)の脱退宣言が最大の原因だという説が最も有力とされてきた。しかし、マッカートニー本人がBBCラジオ4の番組「This Cultural Life」の収録で、これを真っ向から否定したとGuardian紙などが報じている。「解散を焚きつけた人間は僕じゃない。うん、違う違う違う。ある日、ジョン(・レノン)が部屋に入ってきて言ったんだよ。『俺はビートルズを辞める』って。これは解散を煽動したことになる?ならない?ビートルズは僕のバンドであり、僕の仕事であり、僕の人生だった。続けたかったよ」と、マッカートニーはインタビュアーのジョン・ウィルソンに対して語っている。マッカートニーはインタビューの中で、レノンは自身の決断を「とてもワクワクする」と評し、脱退については「まるで離婚みたいだな」と他人事のように話していたという。ジョージ・ハリスンやリンゴ・スターは解散を何とか食い止めようと働きかけたが、レノンの気持ちは翻らなかったそうだ。ではなぜ、レノンではなくマッカートニーが脱退の先鞭をつけることになったのか。新しいマネージャーのアレン・クラインが、進行中のビジネスに影響をきたすことを恐れて、解散することを黙っているようにメンバーに厳命したことが原因だとマッカートニーが述懐していると、前出のGuardianは伝えている。「数カ月間、僕らは偽ることを強制された。もうビートルズは終わりだとわかっているのに、そのまま立ち去ることもできなかったから、奇妙な感じだったんだよ」これからも変わらずにビートルズとして活動していくというファンに対する欺瞞、メンバーやスタッフの間に漂う不愉快な雰囲気に疲れ果て、マッカートニーは脱退を宣言するというカードを切って、「秘密をばらしてしまった」という。マッカートニーは、バンドの分裂を回避する術はないと実感した時のエピソードもBBCラジオ4でのインタビューで語っている。「ジョンに『平和のためにアムステルダムに1週間行ってベッドに入っていたい。これについて君らと議論する気はない』と言われた時かな。でも、ヨーコに責任があるとは思っていない。僕はあの二人は素晴らしいカップルだったと思うよ」と、当時話題を呼んだ、レノンとオノ・ヨーコのハネムーンパフォーマンスにも言及している。
2021年10月11日中居正広、ヒロミ9月9日、デビュー30年を迎えるSMAP。すでに解散したが、幻の“30周年”を多くのファンが祝っている。メンバーはそんなファンの思いを受け止めながら、それぞれの道を歩き始めていて─。「僕、いま5年歌ってませんからね!」8月29日に放送された『FNSラフ&ミュージック~歌と笑いの祭典~』(フジテレビ系)で、中居正広が久しぶりに生歌を披露した。「ダウンタウンの松本人志さんと『YOUNGMAN(Y.M.C.A)』と『明日があるさ』を熱唱。中居さんらしく音程をはずしていましたが(笑)、楽しそうに歌う彼を見てほっとしたファンも多かったようです」(スポーツ紙記者)中居は昨年3月にジャニーズ事務所を退所。独立して1年たち、テレビでは以前と変わらない笑顔を見せているが、悩みも抱えているようだ。「3月に日テレ系の『新・日本男児と中居』が終了しました。この番組は2019年にスタートしたのですが、わずか3年で幕を閉じた。独立後に、新しい番組がひとつも決まっていないことも気にしているようです」(テレビ局関係者)“いまのままで大丈夫か”という不安もあるのだろう。さらに、独立後のストレスも積み重なっている。「事務所の家賃や光熱費、スタッフの給料など、たくさんのお金がかかることに驚いていましたよ。事務手続きやスタッフの教育など、細かい仕事にも追われています」(同・テレビ局関係者)■控室にこもりがちになっているそんな心痛から、“異変”も見られて─。「最近、元気がないんです。以前は、収録の合間は出演者やスタッフと雑談をしていたのですが、最近は控室にこもりがちになっているといいます」(同・テレビ局関係者)救いの手を差しのべてくれる人もいるようだが……。「ヒロミさんは、中居さんに頻繁に連絡しているのですが、彼がそれを無視することが多いみたいで……。ヒロミさんは面倒見がいいので、中居さんのことが心配なのでしょう」(芸能プロ関係者)ヒロミは、中居にとって“アニキ”のような存在だ。「中居さんがまだ10代のころからの付き合いです。礼儀や仕事に関してヒロミさんから怒られることもありましたが、家に泊まりに行くほど仲がいいんです。ただ、最近はヒロミさんをはじめ、周りの人たちから距離を置いて、ふさぎ込んでいるようです」(同・芸能プロ関係者)いまは、ちょっとひとりになりたいだけ……だべ!?
2021年09月07日直撃取材を受ける宮迫博之(’21年1月)雨上がり決死隊が解散した。■吉本に戻れなかった宮迫博之8月17日、ABEMAと吉本興業の公式YouTubeチャンネルで『アメトーーク特別編雨上がり決死隊解散報告会』が配信され、宮迫博之・蛍原徹のふたりが発表。一昨年の闇営業騒動で吉本と対立し、クビになった宮迫が解散の主因であることはいうまでもない。その騒動の約半年後、YouTuberとして出直した宮迫。当初から「地上波に戻りたい」とテレビへの未練を語っていた。せめて、コンビ解散という重大発表くらい、地上波でやりたかっただろう。しかも『アメトーーク』(テレビ朝日系)は雨上がりの冠番組。にもかかわらず、解散発表はネット配信のみで行われた。吉本がいかに、宮迫をテレビに出したくないかがうかがえるような展開だ。実際、大崎洋会長も「頑張るか頑張らないかは、本人が決めることだから。僕はもう別に関係ないし」と絶縁ともとれる発言をした。それにしても、宮迫はなぜここまで追い込まれたのか。そもそも、彼の芸人としての旬は20年近く前。雨上がり、DonDokoDon、ガレッジセールが共演した『ワンナイR&R』(フジテレビ系)が人気を博し、山口智充(DonDokoDon)と組んだデュオ・くずの『ムーンライト』もヒットした。しかし、この番組では初スキャンダルも発生。2003年に山口とやったコントの「王シュレット(ウォシュレットのもじり)」が当時のダイエー・王貞治監督を揶揄したとして批判された。また、’17年の不倫騒動では「白か黒か」を聞かれ「オフホワイトです」とごまかしたことが話題に。ややダーティーなイメージがあったところに、闇営業騒動が起きた。彼が得意なサッカーでいえば、レッドカード以上の状況だったわけだ。ただ、もっとまずかったのは、クビになってからの言動だ。YouTuberとして一応の成果を上げているものの、彼の持ちギャグといえば、チャンネル名にもなっている「宮迫ですッ!」という自己紹介くらい。そこを補うべく、知り合いの吉本芸人を出演させたりしてきた。吉本としては面白いはずがない。いっそ、オリエンタルラジオの中田敦彦のように、テレビとは訣別してYouTube一本で活動するなら、ここまで睨まれずにすんだのではないか。そう、このあたりが宮迫の煮え切らなさだ。テレビが恋しいあまり、YouTubeを復帰までの腰掛けにしたいという思惑すら見て取れた。しかも、厄介なことにけっこう自信家でもある。昨秋にはニュースサイトのインタビューで「僕のようにテレビに30年も出してもらっていて、YouTubeもやっているという人間は少ない」として、「お互いのいいところをつなぐような懸け橋になりたいです」と、発言。ただ、大谷翔平あたりが日米の野球界の懸け橋になりたいというならともかく、こういうのは両方で成功してから言ってほしいものである。それでも、さすがに自分の立場がわかってきたのか、26日には「やっぱり、僕ができるのはYouTubeという場所しかない」と表明。そこから、別の芸能人のこんな名言を思い出した。「今、目の前にあることを頑張れないやつが何を頑張れるんだ」嵐が大ブレイクする前の時期に、メンバー間で路線変更案が出た際、大野智が語った言葉だ。とはいえ、宮迫の場合、気づくのが遅すぎたかもしれない。PROFILE●宝泉薫(ほうせん・かおる)●作家・芸能評論家。テレビ、映画、ダイエットなどをテーマに執筆。近著に『平成の死』(ベストセラーズ)、『平成「一発屋」見聞録』(言視舎)、『あのアイドルがなぜヌードに』(文藝春秋)などがある。
2021年09月07日1995年時の木村拓哉(22歳)2021年9月9日、本来ならば30周年という記念の年を迎えていたSMAP。1991年9月9日、デビュー曲『Can’t Stop!! -LOVING-』で芸能界の扉を開けた6人は誰もが認める国民的グループとなる。しかし、25周年を迎えるはずだった2016年に解散。以降は揃って顔を合わせることはなく、それどころかバラバラの立ち位置にいる。ジャニーズ事務所に残った木村拓哉。2017年9月に退社して『新しい地図』を立ち上げた稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾。2020年4月に自分の城である『のんびりな会』を設立した中居正広。そして1996年5月にグループを脱退して、以後はオートレーサーとして活躍する森且行。その森が脱退する前年の1995年、8月26日から27日にかけて放送された日本テレビ系『24時間テレビ』のパーソナリティーを務めたのがSMAPだった。現在こそ、ジャニーズアイドルが毎年のようにパーソナリティーを務めるのが当たり前のようになっているが、その先駆けこそ彼ら6人。アイドルながらも他分野に挑戦し続けた彼らこそ、現在のジャニーズの“道しるべ”と言っても過言ではない。なかでも、SMAPをファンだけでなく一般的に広く認知させたのが木村拓哉だ。1993年のドラマ『あすなろ白書』、翌1994年の『若者のすべて』(ともにフジテレビ系)で大ブレイクし、スターダムを登り始めた“キムタク”が登場した『24時間テレビ』。この時、6人がそれぞれメンバーへ綴った手紙を読み上げたのだが、木村が書いた相手というのが「キムタクへ」。自分自身への手紙だったのだ。おなじみの黄色いチャリティーTシャツの袖を切ってノースリーブにし、“ロン毛”を後ろで一つに束ねた無造作なヘアスタイル。左耳にピアスをつけた22歳の木村は、照れ隠しなのか、少々ぶっきらぼうな“キムタク節”全開で読み始めたのだったーー。■中居「木村は照れ屋さんなんでね」「木村くんの口からこんなこと(言葉)が出るとは思いませんでしたもんね。非常に、あの照れ屋さんなんでね、手紙ならではコメントなんだと思います、はい」手紙を読み終えた後、側で見守っていたリーダー・中居の言葉に素っ気なくも安堵の表情を見せる木村。そしてメンバーに連れられて、ステージ上で6人で歌唱した『オリジナルスマイル』。同曲は2011年に発売された、チャリティアルバム『SMAP AID』においてファン投票で1位に選ばれた代表曲の一つで、まさにSMAPとファンが一体になれる曲なのだ。しかし、現在の彼らはというと……。「グループ解散以降に森(且行)を含めて顔を合わせている5人の一方で、当のキムタクだけがひとり、SMAPとは距離を置いている印象は否めない。ジャニーズに残留したことで仕事こそ途切れませんが、手紙にあるような“つまらない奴”とはいかないまでも、キラキラしたオーラが失われたようにも感じます。やはりSMAPの一員であってこそ、“キムタク”は輝けていたのかもしれません。今一度、22歳の彼が自分に宛てた手紙を読み返して、あの頃の“SMAP愛”を思い出し、そして“何をすべきか”を考えてほしいですね」(ジャニーズに詳しい芸能ライター)30周年を迎える今年、有志ファンらが各々で呼びかけてお祝いイベントを企画する動きがあるようだ。メンバーとファン、またとびきりのスマイルが見られる日が来るのを祈って、木村拓哉が自分に書いた手紙「キムタクへ」を全文公開したい。■お前、SMAPの一員でよかったな【キムタクへ】今朝、歯を磨く時、鏡に映ったお前の顔をみて、思わず笑いそうになった。みんな、“こいつのどこがいいんだ?”って。夏のクソ暑い中で寝癖の長い髪がやけにむかついた。表向きではSMAPとか騒がれてキャーキャー言われてるかもしれないけど、お前だって外に出れば、日焼けしたミニスカートの女の子を気にして目で追っかけてるくせに。そんな奴が、女の子の間で“キムタク”なんて言われてるのを見ると、マジでふざけてるって思う。キムチだかタクアンだかわからねぇ、目つきの悪いお前のどこがいいんだ?だから今、そんなお前にいくつか言っておきたいことがある。お前さぁ、本当にSMAPの一員でよかったな。お前以外の5人がいなかったら、きっと今頃何でもないつまらない奴だったと思う。ライバルでもありパートナーでもあるメンバーがいたからこそ、今、お前はキムタクなんて呼んでもらえるんじゃねぇか?それから、いつも自分が支えてもらってるってことを忘れるな。この言葉は俺が両親にいつも言われてることだけど、特別にお前にも教えてやる。小さなことでも、どれだけの人がお前を支えてくれてるのか、考えたことあるか?たまにはそんな人たちに感謝して、その人たちのために何かできることをやってみたらどうだ?負けず嫌いなお前だから、こんなこと言ったらまたムッとするかもしれないけども、どのくらいのことができるか、俺もちゃんと見ててやるからやってみろ。もし、だらけそうになったら、他のメンバー5人をよく見てみろ。そうすれば、自分が何をすればいいのかわかるはずだ。それで、もし俺も納得できることができたなら、お前のことを“キムタク”って呼んでやってもいいと思う。でも、何でこうやってお前に手紙を書いてるのかって考えると、だんだんシャクに触ってくるから、もうこの辺で終わらせる。木村拓哉
2021年09月06日解散した雨上がり決死隊8月17日にコンビ解散を発表し、32年間の歴史にピリオドを打った、雨上がり決死隊。同日、YouTubeの吉本興業チャンネルとAbemaTV内で『アメトーーク 特別編』として2人の会見を生配信し、思いを語った。配信には東野幸治、FUJIWARA、出川哲朗、ケンドーコバヤシらも同席し、トーク番組的な雰囲気を演出する会見となった。「宮迫は吉本との契約を解消されているわけですから、関係者へのFAXやHP上での文字による発表だけでもよかったと思いますが、2人は会見をした。しかも『アメトーーク』仕立てというところに、吉本からの“親心”のようなものを感じました」と語るのは、ある芸能ジャーナリスト。「宮迫としては、この会見をひとつのきっかけにして、地上波番組への本格復帰など、ワンチャン狙っていた部分はあったかもしれません。しかし、YouTubeが安定して人気を獲得できているとはいえ、“2年間のズレ”を感じました。蛍原こそいつもと変わらない雰囲気でしたが、共演者たちとの噛み合わなさや温度差、さらにスベっているかなという部分がありましたね」(同)■“もう許せなかった”ということいっぽうで、バラエティーや情報番組などを手がけるある放送作家は、今回の『アメトーーク』仕立ての会見について、「あの形は正解だったと思います」とみる。「これがロンブーだったら、淳さんがうまく笑いを交えた会見が作れるような気もしますが、雨上がりの2人で記者会見のようなスタイルになると、どうしても2年前にやったロンブー亮との謝罪会見のようになってしまう。宮迫さんは本心でしゃべっているのだろうか、涙ぐんだとしても本物の涙なのか、と勘ぐられてしまいます。でも今回のように、東野さんのような冷めた雰囲気を持ちながらも二人のことを思ってくれる人を配置することで笑いにつながったり、出川さんやフジモンさんが泣いてくれたことで、見ている側も泣けたのではないでしょうか」それにしても、なぜここであらためて正式に解散を発表したのだろうか。前出の放送作家は、「それはふたりにしかわからないこと」と前置きしつつも、やはりあの闇営業騒動から丸2年が経過したことと、蛍原が痺れを切らせたと分析する。「最初の1年は世間の空気や気持ちの整理をしつつ、いい方法がないかと模索していたと思います。しかし、宮迫さんの雨上がりとしての復帰、さらには地上波への復帰は難しい状況が続いていました。このままズルズルして3年目になるのは、さすがに長い。宮迫さんは活動の場をYouTube中心にし、蛍原さんの存在を置いてけぼりにした。今年4月ころには話し合いの場をもうけたといいますし、このあたりがひとつの区切りだったのでしょう」雨上がりとしての冠番組『アメトーーク』(テレビ朝日系)は、騒動後も蛍原一人がメインMCとして放送継続中だが、視聴者からこのスタイルで問題がないと受け入れられたことも、蛍原の決意につながったのではと見るむきもある。しかし前出の放送作家は、意外にも「そこはないと思います」と言う。「『アメトーーク』に関しては、出演する芸人さんたちのトークが“ちゃんと面白い”ですからね。なので、視聴者的にはそれほど宮迫さんの不在は影響していないと思います。蛍原さんはもともと実力のある方ですから、今回のことで“ひとりでもやっていける”と自信をつけたというわけではなく、ケジメをつけたい、スッキリさせたいという思いに尽きるのではないでしょうか」その様子は、今回の配信記者会見を見ているとつぶさに現れていた。「円満解散ということでしたが、蛍原さんが宮迫さんを見ようとしていなかったと、配信後に話題になりました。解散も蛍原さんが言い出したわけで、ナイナイの矢部さんもラジオで言ってましたが、“もう許せなかった”ということでしょう」(同前)解散会見後、宮迫は改めて蛍原や共演者に謝罪と感謝を述べたが、やはりそもれも蛍原が宮迫に対し「価値観、方向性の違いを感じた」きっかけとなった自身のYouTubeだった。同じ方向を見ることができなくなったふたりは、32年間のコンビ活動に幕を下ろした。〈取材・文/渋谷恭太郎〉
2021年08月20日お笑いコンビ・雨上がり決死隊の蛍原徹と宮迫博之が17日、吉本興業公式YouTubeチャンネルとABEMAにて「アメトーーク 特別編 雨上がり決死隊解散報告会」を配信。ゲスト出演したフジモンことFUJIWARAの藤本敏史が号泣した。藤本は「解散までせなダメなんですか? ここまでせなダメなことなんですか? 納得いかないです」と解散を受け止められず。「いろいろ話聞きましたけど、宮迫さんが悪いんですやん。宮迫さんのせいですよ。雨上がり、なくなるんですよ。あなたのせいで」と思いをぶつけた。さらに、「信じられないです」と吐露。「再結成は何年かかってもいいので。再結成のときにもう1回呼んでほしいです。悲しいことじゃなくてうれしくて泣きたいです。お願いします」と再結成を願った。雨上がり決死隊は1989年に結成。テレビ朝日系バラエティ番組『アメトーーク!』などで人気に。2019年に宮迫の闇営業問題が発覚し、宮迫は吉本興業から契約を解除され、コンビは活動休止状態になっていた。吉本興業はきょう17日、コンビ解散を発表。そしてこの配信において、蛍原が「本日をもちましてコンビを解散致します」と改めて発表し、「僕的に宮迫さんに対する気持ちが、ちょっとずつズレが生じてきたかなと思います。宮迫さんがYouTubeをやり始めたくらいから、僕と宮迫さんの価値観・方向性(のズレ)がどうも大きくなってきた気がします」「宮迫さんに今年4月に会っていただき、僕の方から解散しようと切り出しました」などと説明した。(C)テレビ朝日
2021年08月17日「雨上がり決死隊」宮迫博之、蛍原徹宮迫博之と蛍原徹によるコンビ『雨上がり決死隊』の解散が明らかになった。ともにNSC7期生で、1989年のコンビ結成から32年間、苦楽を共にした“夫婦”が“破局”を迎えることにーー。「2019年6月に発覚した、いわゆる宮迫の“闇営業”騒動が発端ですが、問題視されたのが“報酬をもらっていない”というウソ。信頼関係を損なわれた吉本興業は契約を解消し、この時もコンビの解散話が浮上したそうですが、蛍原が“そこは待ってください”と掛け合ったと聞きます。この時は相方が“更生”するものと信じていたのでしょう。宮迫を可愛がってた(明石家)さんま師匠が動き、そしてダウンタウンの松本(人志)さんも彼から連絡を受けていたようで、なんとか宮迫をサポートしようと、当初は各方面で尽力していたようです」(芸能リポーター)そして騒動をきっかけに、吉本の体制に不満を訴えた極楽とんぼ・加藤浩次が大崎洋会長と岡本昭彦社長の退任を求め、さらには一部メディアからコメントを求められた島田紳助氏をも巻き込む大騒動に発展。一方で当の宮迫はというと、契約解除からわずか4か月にしてYouTubeチャンネル『宮迫ですッ!』を開設したのだった。■「俺の方がうまい」発言が決定打に「初めはしおらしく“相方の横に戻りたい”とテレビ復帰を目指すも、一向に進まない復帰計画にしびれを切らしたのでしょう。人気ユーチューバーのヒカルを頼って一躍、登録者数100万人を超えるトップユーチューバーになり、同じく元吉本の西野亮廣や中田敦彦らとの“タブー”とも言えるコラボも実現。そして更なる騒動を起こしたのが今年1月、ヒカルの動画に元ジャニーズの手越祐也と出演し、酔っぱらった勢いで先輩芸人らしき人物よりも“俺の方(トークは)がうまい”などと発言。これが“松本人志ではないか”と勘ぐられてしまい、後に必死になって否定したのでした」(前出・芸能リポーター)この動画を受けて翌2月、『フライデー』の取材に応じた大崎会長は宮迫に対して《いや、もう戻らんでええと思うで。いちいちユーチューブでネタにすんなって話や。辞めてまで吉本のことネタにすんなよ》と復帰を完全否定。ダウンタウンの“育ての親”でもある、吉本のトップを敵に回してしまったのだ。「この“否定”は宮迫さんにとって大きな痛手」とは大手芸能プロ・マネージャー。「大崎会長にあそこまで強く言われては、社内で宮迫さんの復帰話ができるはずもなく、『雨上がり決死隊』存続の“最後の砦”となっていた蛍原さんも陥落せざるをえなかったということ。そもそも、何かと番組内で宮迫の居場所を守ろうとするなど、絶えず“コンビ愛”を保っていた蛍原さんの一方、宮迫さんは“自分の復帰”しか頭になかったように見えました。ユーチューバーデビューした時もそうですが、宮迫さんからはなんの事前相談もなく、“こういうことするから、一応、報告な”と済ませていたそう。1分にも満たない事後報告のみで、自分勝手に物事を進める相方に“なんで、俺ばっか『雨上がり』守ろうとしてんねやろ”と、蛍原さんの気持ちも冷めていったのかもしれません」■俺がいないとお前も困るだろ昨夏には2人きりの話し合いも行われたというが、事業がうまく回り始めた宮迫とはついぞ話が噛み合うことはなかったのか。「もしも、あの温厚なホトさんが“三行半”を叩きつけたのなら、宮迫さんのことですから人気ユーチューバーとしての稼ぎは守りつつ、『アメトーーク!』(テレビ朝日系)などの人気番組には『雨上がり』として出演したい、とでも言ったんじゃないかな。宮迫さんはどこか“俺がいないと困るだろ”と見下していた部分もあったと思うし、ホトさんも以前より“『雨上がり』があるのは宮迫のおかげ”とも話していました。でも、宮迫さん不在でも番組は回るし、むしろホトさんの面白さが再認識されたと思いませんか? 残念ですが、今の『雨上がり』にとって解散が最善の選択なのかなと」(放送作家)8月17日の午後8時、吉本の公式YouTubeチャンネル、ネット配信コンテンツのABEMA TVにて『アメトーーク・特別編』が配信され、2人から解散の経緯などが伝えられる。最後の共演で、ふたりが語るのは感謝か、それともーー。
2021年08月17日2021年8月17日、お笑いコンビ『雨上がり決死隊』が解散することが、所属事務所『吉本興業』を通じて発表されました。雨上がり決死隊 解散のご報告弊社所属 蛍原徹(ほとはら・とおる、53歳)と宮迫博之氏によるコンビ「雨上がり決死隊」は8月17日(火)をもちまして解散することになりましたのでご報告します。蛍原は引き続き弊社所属のまま活動してまいります。これまで、雨上がり決死隊に多大なご支援をいただきましたファンの皆様、関係者各位には心より感謝いたしますとともに、それぞれの道を歩んでいく2人に今後ともご支援を賜りますようお願い申し上げます。吉本興業ホールディングス株式会社ーより引用2019年に発覚した『闇営業』問題により、吉本興業とのマネジメント契約を解除した宮迫さん。その後、宮迫さんは活躍の場をYouTubeに移し、蛍原さんはその後もバラエティ番組を中心に活動を続けていました。「いつかまた2人で活躍する姿を」と期待していたファンも多いだけに、今回の解散報告は反響を呼んでいます。・蛍原さんは、これから1人で頑張ることになるけど、応援しています!・『アメトーーク!』が好きだったから、今回の解散はただただ残念。・蛍原さんが納得しているのであれば、それでいいのかな。なお、同日夜8時には、『アメトーーク 特別編雨上がり決死隊解散報告会』と題し、吉本興業のYouTubeチャンネルとABEMAにて、宮迫さんと蛍原さんから、解散までの経緯が報告される予定です。『雨上がり決死隊』として数々のバラエティ番組で活躍してきた宮迫さんと蛍原さん。人気が高かっただけに、今回の解散報告は多方面に影響を与えそうです。[文・構成/grape編集部]
2021年08月17日吉本興業は17日、お笑いコンビ・雨上がり決死隊(蛍原徹、宮迫博之)が解散することを発表した。蛍原は引き続き同社所属のまま活動していく。きょう17日20時より、吉本興業公式YouTubeチャンネルとABEMAにて、「アメトーーク 特別編雨上がり決死隊解散報告会」を配信。2人から経緯等を報告する。同社は「これまで、雨上がり決死隊に多大なご支援をいただきましたファンの皆様、関係者各位には心より感謝いたしますとともに、それぞれの道を歩んでいく2人に今後ともご支援を賜りますようお願い申し上げます」としている。
2021年08月17日ザブングル(左から)松尾陽介、加藤歩いまだにコロナ終息の兆しが見えないなか五輪開催の時期も近づき、2021年もあっという間に折り返し地点に突入。この上半期を振り返ってみると、芸能界、政界、スポーツ界、そして皇室問題と、数々の“スキャンダル”が勃発。『週刊女性』が追い続けた上半期スクープの中から、厳選した記事を再掲する。お笑いコンビ「ザブングル」が3月末をもって解散をした。加藤はピン芸人として活動する一方、松尾は22日、「企業のマーケティング支援」「国内外における人材や案件の仲介」「お笑い芸人のセカンドキャリア創出」という3つの軸でサービスを展開する、株式会社OMATSURIを設立し、代表取締役に就任したと発表。今年1月、解散を公にする前に情報をキャッチした週刊女性は彼らを直撃。事実を問うと、解散の真相を全て語ってくれた(2021年2月16日号掲載)。■ ■ ■松尾「生まれて初めて直撃(取材)をされたので、正直ビックリしました(笑)」ボケ担当・加藤歩のギャグ「カッチカチやぞ!」「悔しいです!」で知られる人気コンビ・ザブングルが今春をもって解散するという。その情報を聞き、ツッコミの松尾陽介を直撃したところ事実ということを認めた。後日、改めてコンビでインタビューに応じてくれることになり、その胸中を語り始めた――。■ザブングル解散の経緯松尾「40歳を過ぎて、漠然とこのままお笑いを続けていけるのかな……と思っていたところ、闇営業が発覚して。それでお笑いで食べていくのは無理かなと引退を考えるようになりました。自粛期間中、時間がたっぷりあったこともあり、相方と話し合ったところ、特に止められることもなかったので」加藤「コンビを組んで20年以上たっているので、相方が考えていることは空気で察してしまうというか。事前の準備はできていましたが、改めて解散のことを言われたときは驚いたし、本当に解散するという感覚はまだないですね」’19年には吉本芸人らとともに反社会的勢力のパーティーに参加していた“闇営業”が発覚した際には、約2か月間、介護のボランティア活動を行った2人。その活動も引退への気持ちをより強めたようだ。松尾「闇営業騒動が起きて、もう僕らで笑ってもらえないんじゃないかなと、人前に出るのが怖くなってしまったんです。そんなときに介護施設でいろんな方と触れ合ったことで、世の中には人から求められている仕事がたくさんあるんだなと実感して。それでお笑い以外の仕事をより考えるようになりました」加藤「こういうインパクトのある顔だから印象に残るようで、こんな僕でもおじいちゃん、おばあちゃんたちが喜んでくれるんですよ。それで僕も社会貢献をしたいと思うようになりましたね」■松尾は4月以降に裏方へ転身’19年9月に活動を再開したものの、半年足らずで新型コロナウイルスの感染が拡大。仕事が激減したこともあり、松尾は芸能界からの引退も決意する。松尾「新型コロナの影響は大きかったですね」加藤「謹慎したことで収入が半分になり、コロナの影響でさらに半分になりましたから。僕は結婚して子どももいるので、最初の自粛期間中に消防設備士の資格を取り、その仕事も始めました。“乙種6類”という国家資格を取得したのですが、それを持っていると消火器の点検と整備を行うことができるんです。介護施設などで防災訓練も行っているのですが、この顔のおかげで僕のことを知ってくれている方も多く、話を聞いてくれるので、今後も多くの人に防災訓練の大切さなどを伝えていけたら」松尾「熱弁しているけど、辞めるほうだっけ?(笑)」加藤「俺は辞めへんわっ!!ゆくゆくは所属事務所の消防点検も行って、物理的に守っていければと(笑)」相方の加藤は引退にすぐに理解を示したものの、担当マネージャーからは反対されたようだ。松尾「引退で気持ちが固まっていたので、反対されたことすら、マネージャーにいま言われるまで覚えていなかったですね(笑)。まだ伝えられていない先輩もいるのですが、中山秀征さんに伝えたら“儲かったら奢ってね”と新しい道に進むことを応援してくれました」加藤「松尾が20代なら先輩たちも止めてくださったと思うけど、40代半ばですしね」松尾「まだ身体が元気なうちに次に行かなきゃというのはありました。10年前なら引退は早すぎるけど、10年後なら遅いと思ったので、そういう意味でも踏ん切りはつきやすかったですね」引退後は裏方に回るという松尾だが、具体的にはまだ何も決まっていないという。松尾「3月末まで今の事務所と契約が残っているので。今までやってきたことが活きるのは企画・制作などの裏方なのかなと思うので、作る側に興味を持っています」加藤はピン芸人として活動を続けていく。加藤「松尾以外とコンビを組むつもりはないので。あ、でもとんでもなくすごい人から誘われたら、新しいコンビも考えます(笑)。芸名を考えたときに『ザブングル』を残すことも考えたのですが、この名前は2人のものだし、過去にしがみついてもしかたがないので、本名の加藤歩として再スタートし、お笑いだけでなく俳優などいろいろな可能性も探りたいです!」ザブングルとして活動するのはあと2か月ほどだが、コンビとしての仕事は現状、何も決まっていないそう。松尾「大前提として本当に僕らは人気がないので(笑)。解散ライブをするかという話も出て、僕は思い出としてやってもいいかなと思っているのですが、相方は続けますからね。だったらピン芸人として、ひとりでライブをやったほうがいいのかなって」加藤「コロナ禍でライブがしづらい状況やしな……チケットが売れないからやらないわけじゃないですよ!ちなみに去年、ピンネタライブをやったときの初動のチケット売り上げは3枚だったので、知り合いに声をかけまくって埋めました(笑)」23年間のコンビ活動について聞くと、こんな答えが。松尾「それなりに仕事をさせてもらいましたが、今まで1度も街中で顔をさされたことがないんです。そういう人は表に出る仕事は向いていないだろうと(笑)。だから後悔は全然なくて、23年間よくやったなという気持ちのほうが大きいですね。相方は面白いと思ってコンビを組んだし、『お笑い向上委員会』で明石家さんまさんなどすごい方たちを相手に頑張っているのを見ると、まだまだ上に行けると思うので、これからは視聴者の側から応援します。そして裏方として、また仕事ができたらいいですね」加藤「残り2か月でコンビとしての仕事が1個もこない可能性はありますが(笑)、もしコンビで活動できる機会があるなら“ラストザブングル”を楽しく見ていただければうれしいですね!」PROFILE●松尾陽介(まつお・ようすけ)●’77年1月28日生まれ。愛知県出身。ツッコミ担当。『アメトーーク!』(テレビ朝日系)の「運動神経悪い芸人」企画では、“ガチ王”の異名でおなじみ。徳永英明のものまねにも定評が。●加藤歩(かとう・あゆむ)●’74年10月26日生まれ。三重県出身。ボケ担当。テレビ番組の企画「キモカワ芸人選手権」で優勝経験も。’07年には『M-1グランプリ』(テレビ朝日系)で決勝進出を果たすなど、ネタには定評が。数多くのバラエティー番組で活躍。
2021年06月22日フォーリンラブ・バービーとイモトアヤコ撮影/週刊女性写真班「芸人の解散でいちばん多いのは、全然売れず“お前と組んでいても未来が見えない”となるパターン。あるあるです」とは、お笑い芸人を長年取材し続けているライター・篠崎美緒さん。例えば、今や売れっ子のケンドーコバヤシがユウキロックと組んでいた“松口VS小林”もこのパターン。泣かず飛ばずの中、時間だけは無常に過ぎていく。ふと見渡せば、友人は家庭を持ち、会社では役職もつき始めている……。■元コンビ芸人は意外に多い!「30歳や40歳など節目の年に、芸人をあきらめる人は少なくないです。逆に、ある程度有名になっちゃうと解散もしないですね。Take2(深沢邦之&東貴博)やDonDokoDon(山口智充&平畠啓史)などはコンビで活動をしていませんが、名前はそのまま残している状態です」アジアン(隅田美保&馬場園梓)やザブングル(加藤歩&松尾陽介)のように知名度があるのに解散するケースは珍しいそう。「ウィキペディアの“解散したお笑いコンビ”というページは、無名のコンビがズラリ。読み終えるのは相当大変です(笑)。そして、あそこに載らないレベルのコンビも無数にいます。ダンカンさんの名言に“芸人が売れるための要素はただひとつ。やめないこと”というものがあるんですが、要はそこまで耐えられるかどうか、です」やっぱり気になるのは、仲たがいによる解散。「チュパチャップス(宮川大輔&星田英利〈元ほっしゃん。〉)は上京するかどうかで意見が割れて。結局、名古屋駅のホームで大輔さんが解散を切り出し、星田さんも食いぎみで“俺もそう思ってた!”と。コンビ末期はかなり険悪な仲だったと本人も言っていますが、今は仲よし。その一方で、“元相方とだけは仕事をしたくない”と共演NGにしている人もいます(笑)」また解散により、片方は芸人を引退することも多い。ピンのイメージが強いが、実は元コンビという芸人は少なくない。「土田晃之さん(元U−turn)やいとうあさこさん(元ネギねこ調査隊)、とにかく明るい安村さん(元アームストロング)、たむらけんじさん(元LaLaLa)……など挙げたらキリがありません」芸能界を去った元相方とはどうしても話が合わなくなり、自然と疎遠になっていくよう。「ジャリズム(渡辺あつむ〈現・桂三度〉&山下しげのり)のように解散と結成を繰り返すコンビも。また不慮の理由で解散を余儀なくされた場合は、今でもコンビ愛が強い。例えば“カンニング”は中島忠幸さんが白血病で他界され、竹山さんは相方の存在を残すべく“カンニング竹山”を名乗るように。升野英知さんの“バカリズム”も想定外の解散で、コンビ名を芸名にしています」■ダチョウ倶楽部や今田耕司も!ダチョウ倶楽部3人と電撃ネットワーク・南部虎弾当初、ダチョウ倶楽部のリーダーは南部だった。が、「ビー玉飲めるか?」と南部に尋ねられた上島は拒否。南部は脱退、より過激な“電撃ネットワーク”を結成し、世界で活躍。宮川大輔と星田英利(旧芸名:ほっしゃん。)“チュパチャップス”として活躍するも、宮川が星田の祖父の形見のタバコを勝手に吸い「まずい」。当然、険悪に。その後、東京進出で意見が分かれ、名古屋駅で解散!カズレーザーとさらば青春の光・東ブクロ同志社大学の喜劇研究会で出会い、“フルハウス”を組む。当時から金髪で全身真っ赤なカズレーザーは、1学年下の東ブクロに「入るの?じゃあ、俺のことレッドって呼んで!」モンスターエンジン・西森とおいでやす小田2人のコンビ“蛇腹”は約1年半で解散。西森は’10年ごろにコント『神々の遊び』で人気に。昨年の『M-1グランプリ』に小田の決勝進出が決まった際には、「何したの、お前?」と西森から言われたらしい。ゴールデンボンバー・鬼龍院翔としずる・池田NSC時代に“チョコサラミ”を結成。鬼龍院ばかりが月1の選抜ライブに出演し、舞台に立てない池田はライブ会場の外で号泣。嫉妬ゆえの解散だった。バービーとイモトアヤコ“東京ホルモン娘”として活動していたが、イモトが『世界の果てまでイッテQ!』のオーディションに合格し、自然消滅的に解散。バービーは“フォーリンラブ”を結成。マキタスポーツとハチミツ二郎サンキュータツオ(現・米粒写経)を加えた3人トリオ“カミナリボーイズ”として活動した後、マキタはピン芸人に。ハチミツは東京ダイナマイトを結成。ミキ・昴生とインディアンス田渕“やぶれかぶれ”を組んでいたのはおよそ半年。田渕の現相方・きむは、田渕のことがどうしてもあきらめられず、毎日メールを送って口説いていたとか。俳優・田口浩正と芋洗坂係長芋洗坂がダンサーとして働く六本木のショーパブで、俳優志望だった田口と出会い“テンション”を結成。その後、田口は俳優に。’08年、芋洗坂は『R-1』で準優勝。小島よしおとかもめんたる早稲田大学のお笑いサークルで出会い、5人組の“WAGE”を結成。解散後、小島のブレイクを受け、岩崎と槙尾が“かもめんたる”を結成、’13年『キングオブコント』で優勝。青木さやかと東京ダイナマイト松田名古屋で5人組ユニット“温泉こんにゃくアクロバットショー”を組んでいた。数年前のバラエティー番組で、青木は「いちばん仲のいい男友達は松田さん」と明かしているほんこんと今田耕司“ダブルホルモンズ”を組んでいた。ほんこんの現相方・板尾創路(130R)はかつて“ホンコンマカオ”というコンビだったが、その名を気に入った蔵野孝洋は、自らの芸名に。ロバートの秋山&馬場とインパルス板倉NSC(吉本総合芸能学院)時代は“ゼナイル”だった3人。ツッコミだった板倉が“俺もボケたい”と脱退することに。人見知りな板倉だが、今でも秋山のことだけは下の名前で呼ぶのがエモい。
2021年06月19日2021年6月3日、お笑いコンビ『アジアン』の隅田美保さん、馬場園梓さんが、お互いのSNS通してコンビ解散を発表しました。『アジアン』解散2人のコメント2002年に結成した『アジアン』は、お笑い劇場『baseよしもと』や『うめだ花月』での活動を経て、2010年には東京に進出。一時期は、バラエティ番組で見ない日はないといっても過言ではないほどの活躍を見せていました。解散の発表にあたって、2人はお互いのSNS上で今後の活動についても触れています。隅田美保さん~ご報告~この度、アジアンは2021年6月3日を持ちましてコンビを解散する事になりました。アジアンとして22年間活動して参ましたが、今後は、昔からの夢でもあった演劇の世界で芝居やミュージカルに本格的に挑戦していきたいと思っています!アジアンを応援して頂いていた皆さまには心から本当に感謝しております。これからも各々の活動を、応援し見守って頂けると嬉しいです。突然の発表でびっくりさせてすみません!アジアンとして漫才ができたことは、ほんとにほんとに感謝しかございません!これからも何卒宜しくお願い致します!2021年6月3日隅田美保miho_sumida1129ーより引用 この投稿をInstagramで見る 隅田美保(すみだみほ)(@miho_sumida1129)がシェアした投稿 馬場園梓さんお世話になります。世の中が大変な時に私ごとで貴重なお時間をいただき申し訳ありません。このたび2021年6月3日をもちましてアジアンを解散することになりました。今や一日一日が貴重な時代。限りある時間を全力で好きな事に使ってもらいたいので全力で送り出すことにしました。せっかくですから縁起の良い日を選びました。暦を気にする年齢になりました。わたしもわたしでこれまでの日々に感謝をしながら気持ちは一生漫才師として初心に返ってまた楽しい事を求めていきたいと思います。今まで応援してくださった皆様には心から感謝しています。たくさん支えていただき本当にありがとうございました。アジアンとして漫才ができて最高でした。別々にはなりますが今後とも二人を宜しくお願い致します。2021年6月3日馬場園 梓@babazonoazusaーより引用いつも応援してくださる皆様へ思いを込めて揚げました。今まで本当にありがとうございました。そしてこれからも何卒よろしくお願い致します! #感謝の唐揚げ pic.twitter.com/QFZXANDpmE — 馬場園 梓 (@babazonoazusa) June 3, 2021 俳優として演技の道に進む隅田さんと、今後もお笑いタレントとして活躍する意向を示している馬場園さん。進む道こそ違うものの、ともに芸能活動を続けるため、いつかまた俳優とお笑いタレントとして2人がそろう姿が見たいですね。[文・構成/grape編集部]
2021年06月03日元『センチメンタル・バス』の鈴木秋則1999年、ポカリスエットのCMソングに『SunnyDaySunday』 が起用されヒットしたセンチメンタル・バス。アフロヘアが印象的なボーカル・NATSUとともに活躍したのが、キーボードの鈴木秋則だ。「音楽の専門学校の同級生で、授業のために組んだバンドで一緒だったんです。NATSUのキャラクターがよかったから、行けるところまで続けてみよう……と思っていたのですが、どんどんメンバーが抜けていって、最終的に2人になったという感じです」もともとゲーム・ミュージックを作る仕事がしたくて専門学校に入学したこともあり、卒業後はバンド活動を続けながらサポートミュージシャンとしての仕事も開始する。「当時まだ一般的でなかったマッキントッシュを持っていたことで、専門学校の先生にWANDSのマニピュレーター(打ち込みサウンドをバンド演奏の中に取り入れて、コンピューターを操作する担当)のお仕事を紹介してもらえたんです。学生時代の僕は売れているものに対して批判的な尖った若者だったのですが、本当に売れている人たちの現場を目の当たりにしたことで、考え方がガラリと変わって。自分たちが作っている音楽が広く届くということのすごさがわかったので、自分もそうなりたいと思うようになりました」■ソニー社員だったジェーン・スーその後も人気ロックバンド・黒夢のサポートメンバーとして武道館のステージを経験。その活動で知り合った音楽関係者の目にとまり、エイベックス系列の音楽事務所への所属が決定する。「NATSUは別ルートでソニーのオーディションで引っかかっていて。それでエイベックス所属のまま、レーベルはソニーという形でデビューすることになりました」1998年に『よわむしのぬけがら』でメジャーデビューを果たしたものの、3枚目のシングルまではオリコン圏外……と苦戦する日々が続いた。ブレイクのきっかけを作ったのは著書『生きるとか死ぬとか父親とか』がドラマ化されるなど、いま話題になっているコラムニストのジェーン・スーだった。「彼女がソニーの社員で、僕らの宣伝担当だったんです。当時は10代の女の子に人気の音楽が時代をリードする……という風潮があったので、10代の女性向けファッション誌の企画にNATSUを売り込み、企画でアフロヘアにしたんです。ある日、現場に行ったら彼女がアフロになっていたけど、目立つしいいじゃん!と好意的に受け入れました。このエピソードは最近、ジェーン・スーさんご本人がライブ配信で話しているのを聞いて、初めて知ったんですけどね(笑)」イメージチェンジをして最初のシングルが『SunnyDaySunday』だった。「作曲し始めるときに決めた作品テーマ“野球+ロック”が表現できていればそれでよし!と振り切ったために、自分の電子オルガンの鍵盤演奏パートが間奏7小節しかないんです。テーマどおりで満足だったのですが、後からシングル作品として発表することが決まって。歌番組に出演したときには、ステージで自分がやることがほとんどないと焦りましたね(笑)。大太鼓を叩きまくって大暴れしている印象だと思いますが、その理由はやることがなかったからなんです」CMのタイアップも、当初は別のアーティストが起用される予定だったとか。「でも現場の撮影チームがイメージしたものと違ったようで、次点の候補曲だった僕らの曲が起用されることに」曲がヒットしたことで、一気に多忙な日々を迎える。「ピンク・レディーが忙しすぎて当時の記憶が無かったのか、解散後に会った際、『ザ・ベストテン』で何度も共演している久米宏さんに“はじめまして”と言ったエピソードが好きなんです(笑)。僕らも一気に忙しくなって、スタッフと衝突することとかも増えたけど、自分の中では彼女たちに近づくためにも、もっと頑張らなきゃなと、どこか冷静に見ている部分もありましたね」しかし、ブレイク翌年の2000年末、活動スタートから約2年で解散することに。「ヒットしてからの1年間がとても充実した日々を過ごせたし、どこか生き急いでいた感じはします。解散と同時にNATSUは事務所を辞めたんですが、僕は拾ってくれた事務所に恩返しできれば……と残ることにしました」■TOKIOにも楽曲を提供解散後はエイベックス・アーティストアカデミーで講師を務めたり、作曲家としての活動を本格化させる。「当時20代後半だったので、僕より年上の生徒も多かったですね。教えるという立場だと厳しいと思ったので、ともに学ぶというスタンスでやっていました。その日のヤフーニュースのトップで気になったものを選んで、ディスカッション。それをテーマに音楽を作るなら……という感じでやっていました」生徒の中にのちにハロー!プロジェクトの楽曲を制作する角田崇徳がいた縁で、ハロプロ所属のつばきファクトリーに『春恋歌』(2018年)を提供したことも。2002年発売のTOKIO『花唄』など、さまざまなアーティストに楽曲提供を行っている。「『花唄』はセンチメンタル・バス時代にお世話になっていたディレクターがコンペ用の楽曲を集めていて、声をかけてくれたんです。当時のTOKIOはまだまだアイドル的バンドのイメージだったのですが、僕はバラエティー番組の『ガチンコ!』で見せる男臭い彼らが好きだったので、楽曲にもそういう部分を出せたらいいなと作りました。先日、国分太一くんがツイッターでこの曲の歌詞を引用してくれたのを見て、メンバーにも気に入ってもらえたのかな?とうれしかったですね」人気鉄道ユーチューバー芸人・鈴川絢子に楽曲を提供した『ふみきりのうた』は、1600万回再生を超える。「黒夢のスタッフだった方が現在、吉本興業の音楽部門にいる縁でお仕事をすることになりました。僕は鉄道に詳しくないのですが、鈴川さんから資料として提供してもらった踏切の音源にBPM(1分間の拍数)を合わせて作るなど、音楽的小技を入れつつ、子どもたちにも覚えてもらえるようなわかりやすい曲にしました。ここまで再生してもらえるとは思わなかったのですが、YouTubeってかなり再生されても、作曲家にはあまりお金は入ってこないんですよね(笑)」■ジョイマン高木と“コンビ”結成ほかにもジョイマン高木withAとして活動を行うが、吉本芸人への楽曲提供はお金では得られない経験ができるそう。「高木さんと一緒にヨシモト∞ホールのライブに出たんですが、吉本の芸人さん以外でなかなか立てるステージではないから本当に光栄でしたね。僕が音楽を作るときのテーマの1つがユーモアなんです。音楽に限らず人を笑顔にするってすごいことだと思っているので、お金ではないギフトをもらっている……と、ポジティブに考えるようにしています」自主レーベル『ひらつかレコード』を主宰するなど、現在はプロデューサーとしての活動も行う鈴木。センチメンタル・バス時代について改めて聞くと、こう答えてくれた。「世の中的には一発屋のようなイメージがあるかもしれませんが、一発当てるのもなかなか大変だと思うので、それを経験できただけでもラッキーなのかなと。昨年からサブスクリプション(定額サービス)でセンチメンタル・バスの楽曲も解禁されたので、『SunnyDaySunday』以外の曲も聞いてもらえたら。ここまで運よく音楽だけで食べてこられたし、それ以外の仕事ができる気もしないので、少しでも長く音楽に関わる仕事をやっていけたらいいですね」
2021年05月16日『サスケ』の2人。(左)奥山裕次(右)北清水雄太。出身地の埼玉県毛呂山町観光大使も務める「いまだに、1店舗でCDが5000枚も売れるなんてことはないみたいで、関係者の人にも“本当にすごいことだよ”と言われますね。電車に乗ると隣の人たちが自分たちの曲の話をしていたり、自分のことなのになんだか不思議な感じでした」(奥山裕次)今から18年前の2003年10月、大宮のとあるCDショップで500枚だけ限定販売されていたシングルCDがある。歌っていたのが、男性デュオのサスケだった。「当時、メジャーデビューに向けて、作った曲を事務所の人に聴いてもらっていたんですが、2年くらいはボツばかりで……。『青いベンチ』も最初はボツ曲だったんです。とはいえ、2年近く頑張ってきたし、最後の思い出づくりに地元で500枚だけ出すか、くらいの感じでしたね。自分たちでできたばかりのCDを持って行って、置いてもらえるように頼みました」(北清水雄太)2000年4月にサスケは結成されたが、2人の出会いは高校1年生のとき。「クラスが一緒だったんですが、学園祭をきっかけに仲よくなりました。それからよくよく話してみると、幼稚園も一緒だったことがわかったんです。家に帰って昔の写真を見てみたら、確かに一緒に写っていて、急激に距離が縮まりました」(奥山)しかし、そこでユニット結成、プロを目指すという流れにはならなかった。「高校卒業後、相方は東京に進学したんですが、僕は沖縄のホテルに就職したんです。だから2年間は離れて暮らしていたんですよ。当時は携帯電話がなかったので、文通していましたね」(奥山)■もともと芸人になりたかったなんとも時代を感じさせるコミュニケーションにキュンとする。そんな彼らが、再び顔を合わせたのが成人式だった。その場で“2人で何かやろう”という話になったものの、目指したのはミュージシャンではなく……。「2人ともお笑いが好きだったので、芸人になろうという話になったんです。でも、どうやってなったらいいかわからなくて……。そんなとき、世間でストリートライブが盛んだということを耳にして、2人ともギターをやっていたので、遊びの一環として大宮駅で歌ったのが、サスケができたきっかけです。カラオケに行くのもお金がかかるし、だったら自分でギター弾いて歌えばいいじゃん、というノリでしたね」(奥山)彼らの対応力の高さには驚いてしまうが、ここから大宮駅前で頻繁にストリートライブを行うことに。『青いベンチ』は数ある楽曲の中でも、ファンから根強い人気を誇っていて、2人とも手ごたえはつかんでいた。「お客さんの反応がすごくよかったんです。圧倒的にみんなから人気でした」(奥山)予想どおり、CDの売れ行きは好調。反響が反響を呼んで、500枚だった販売枚数も気づけば1ケタ違う数を売り上げていた。「通販もしていなかったので、大宮まで足を運んで買ってくださって。本当にありがたかったですね」(北清水)2004年4月に全国発売されるとさらに口コミが広がり、ジワジワと長期間にわたって売れていった。それでも、チャートの上位に入るまでには1年半かかったという。「毎週200枚~300枚くらいコンスタントに売れていましたが、ランキングでは120位~130位くらいをウロウロしていましたね。まだSNSがない時代でしたが、インターネットの掲示板が少し流行りだしていたので検索してみると、《友達から教えてもらったけど、めっちゃいい曲!》とか《彼氏から聞いて好きになった》とか、たくさんの書き込みがありました。それを見て、すごい広がり方をしているなと」(北清水)『青いベンチ』という、一見普通そうに思えて特徴的なタイトルだが、モチーフはあったのだろうか。「青春期の誰もが感じる恋心を歌にしているので、その部分での“リアル”はあるんですけど、彼女を駅のベンチで待っていたりという10代の恋愛は、僕自身の実体験ではないです。でも、曲のタイトルでもある青いベンチというアイテムは、地元の駅に実際にあったり、実家の目の前の空き地にもポツンと1つだけあって、そこに高校生のカップルが座ってしゃべっていたり、そういう恋模様みたいなものを掘り起こして歌にしていきました」(北清水)■高校生の教科書にも載った最終的に30万枚以上のヒットとなり、オリコンでは最高8位を獲得。この曲が収録されたミニアルバム『Smile』も45万枚を売り上げた。快挙はこれだけにとどまらず、高校の音楽の教科書に掲載され、合唱コンクールでも定番の“国民的楽曲”となっていった。「“すごいことが起きているね”という話はしていました。音楽ランキングを掲載していた『オリコンウィークリー』という雑誌は毎週買っていましたね。やっぱり、順位が上がっていくと気分も高揚しますし、家族もそういうのを見せると喜ぶんです。友達から“CD買ったよ!”とサインを頼まれるのもうれしかったです」(奥山)埼玉ドリームをつかんだ彼らだが……厳しい現実にほどなくして直面してしまう。「5年間活動しましたが、その後はなかなか思うようにヒットが出ず、契約を終了することに。クビではあるんですけど、自分たちの意思でもあったという感じです。契約終了より解散を決めたことのほうが先でしたね」(北清水)こうして2009年4月、2人は別々の道を歩き始める。「解散を言われたとき、驚きはしましたけど、当時僕も含め、そういう雰囲気があったんだと思います。僕には1人で音楽をやる選択肢はなかったので、マネージャーという裏方の道に進みました。スケジュール管理やタレントさんの送迎などをしていましたね。大変なこともありましたが、それまでの経験でタレント側の気持ちもわかる部分があったので、とても充実した日々でした」(奥山)解散後も、アカペラの日本一を決める『全国ハモネプリーグ』(フジテレビ系)で歌唱されたり、2011年には、手越祐也と増田貴久で結成されたジャニーズのユニット・テゴマスがカバーするなど『青いベンチ』は注目を浴び続けた。「僕はソロでライブをしたり、ミニアルバムを出したりしていました。もともと、“歌うことは大好きだけど、人前に出るのが得意ではない”という相反した部分があるんですが、相方の奥山の存在があったからこそ一歩踏み出せたり、ステージに立てたりしていたんだなと実感しましたね」(北清水)■もう1度やってみるか相棒を思う気持ちは変わらぬまま、デビュー10周年にあたる2014年に山は動く。「記念に単発のライブをしようか、という話をしていたんです。あれよあれよという間に再結成になりました。解散期間中も『青いベンチ』がいろいろなランキングに入ったり曲が残り続けていて、それが僕らの財産としてすごいことだなという思いがあって」(北清水)ソロ活動を続けていた北清水に憂いは無かったようだが、一方の奥山は違った。「5年間表舞台から離れていたので、やりたいけどできるかなという不安がありました。僕のなかではゼロに戻って、昔ストリートを始めたときと同じ気持ちで、“もう1度やってみるか!”という感じでしたね」(奥山)現在は、コロナ禍でイベントや集客をしてのライブが困難な状況。それでも2人は、前を向いて精力的に活動している。「昨年から配信ライブで音楽を届けています。僕らにとって歌をステージで歌って直接届けることは活動の核でありすべてなので、早くたくさんの人に届けられる状態になってほしいですね」(北清水)「配信ならではの楽しさもあったりするんですが、先日ひさびさにお客さんの前で歌う機会があったときに、ライブの楽しさに改めて気が付いて、熱量が違うなと思いました。なかなか元どおりの世の中にはならないと思いますが、配信と生のライブがバランスよくできるようになればいいなと思います」(奥山)お客さんのすぐ近くで、“この声が枯れるくらい”全力で歌うサスケを見たい。
2021年05月14日元『19』の岡平健治「趣味程度ですが、今も音楽活動を続けています。この20年間ずっと音楽漬けだったので、今は自分の好きなタイミングでやろうと、ペースダウンさせている感じですね」そう話すのは、1990年代後半に絶大な人気を集めたデュオ・19(ジューク)の元ボーカル・岡平健治だ。19は、1998年に岡平、岩瀬敬吾、イラストレーターの326(ミツル)の3人で結成され、セカンドシングル『あの紙ヒコーキ くもり空わって』は、100万枚を越える大ヒットになった。2002年の19解散後、岡平はバンド『3B LAB.☆』(後に3B LAB.☆Sに改名)を経て、現在はソロでの音楽活動のほか、スタジオの経営なども行なっている。「20年以上、まとまった休みがなかったんです。ひとつのグループを長く続けていたら、1、2年休憩というのもあったと思いますが、19、パンクバンド、そしてソロと3変化したので、休む暇もなくリリースをしていましたね」19の歴史は、岡平と岩瀬が出会ったことから始まる。「広島の音楽仲間の友達伝いで、岩瀬さんと知り合って一緒に音楽をやり始めました。そのときは『少年フレンド』というバンド名でした。東京に出てきてから、事務所やレコード会社に入って、どう売り出していこうかと考えたときに、絵を描いてくれる326さんが加入して、自然と結成していました」■「19」は岡平の年齢だったデュオ名の由来は?「名前は326さんがすでに決めていて。“なんで数字なんだろう?”とは思っていました(笑)。19という数字は、年齢から取ったものですね。当時、僕が19歳、岩瀬さんが20歳で、326さんが21歳。19歳って、大人でも子どもでもない、だけど社会に出ている人もいる、学生もいる、成人していないからお酒は飲めない……。とにかく微妙な年齢が一番の青春、思春期じゃないかという話をしたのを覚えています。それで、健治が19歳だから19でいいんじゃないと」『紙ヒコーキ』の作詞は326、作曲は岡平と岩瀬が担当した。「曲よりも詞が先にあったり、詞を後からチェンジしたり、すごく入り組んだ状態でごちゃごちゃだったと思います。詞は326さん、曲のベースは岩瀬さんが作ったんですが、足りない部分は僕がメロディーをつけたり、プロデューサーもアイデアを出したり、みんなで作っていきましたね。正直、最初は売れないと思っていました。僕が売れると思ったものは売れない、僕が売れないと思ったものは売れるんです(笑)」大ヒットの裏には、当時ならではの理由も。「1999年の春に、『紙ヒコーキ』がTBS系列のキャンペーン・ソングに選ばれたんですが、当時の事務所の社長とTBSの会長がたぶん仲よしだったと思うんですよね。今は(SNSなどで)自分から発信できますが、当時は俳優でもミュージシャンでも、選ばれしラッキーな人しかデビューできない時代だった。だから、社長にはすごく感謝しています。『紙ヒコーキ』のヒットは、テレビやラジオへの積極的なプロモーションに加えて、僕らのファッションが女性誌でもよく特集されていたので、相乗効果で売れていったんだと思いますね」2000年には2度目の紅白出場も果たしたが、2002年に人気絶頂の中で突如解散を発表した。「解散は僕から言いました。周りの環境に不満もあったけど、根本の理由は僕と岩瀬さんの関係性。だから、解散したことは申し訳ないなと思います。急に解散したので周りの方にすごく迷惑をかけたなと……。解散に伴うペナルティとかもありましたけど、それも乗り越えて今があります」解散から19年、相方の岩瀬とは今も連絡を取り合う。「この前、NHKのテレビに出演する機会があって、歌う前に岩瀬さんに電話をかけて“『紙ヒコーキ』と『以心伝心』歌うね”と伝えたら、“いいよ、歌って、歌って!俺の曲もお前の曲も一緒じゃけんねえ”と言ってくれました。解散したことに後悔はない、と言ったら嘘になりますね。19を存続させた人生を見てみたかったですから」■岡平が慕う東京の母・小林さん岡平には、19時代から”東京の母”と慕う、小林さんという女性がいる。「当時からずっと高円寺に住み続けていて、小林さんにも高円寺で出会いました。たまたま僕が小林さんのマンションを借りて住んでいたことがきっかけです。資産家の方なんですが、すごくいいご縁で。今も本籍地を小林さんのところにしているくらい(笑)。今は不動産の仕事もしているので、その関係で都内に本籍があると謄本が取りやすいので仕事がしやすくて。息子さんもいらっしゃるんですが、僕も息子のようにかわいがってもらいました」“母”のために、雑務も引き受けていたという。「19の全盛期でも、僕はただの“運転手兼雑用係”でしたからね(笑)。運転手として社交の場に連れて行っていただいて、そういう場所でいろいろな方に出会えたのはすごくよかったです。小林さんのために、電球の交換とか駐車場でのケンカの仲裁とかもしていました。仲裁に入ると“あれっ、19の人じゃん!”と気づかれることもあったんですが、面倒なので“いやいや、息子ですよ”と言って対応していましたね」2人の信頼関係を示す、驚きのエピソードも。「19のころは、お金の管理もしてもらっていました。だから、あんまりお金を使えなかったんですよ(笑)。僕の通帳と印鑑が、小林さんの自宅の仏壇の中に入っていたんです。“若いから、お金でおかしくなってほしくない”と預かっていてくれて、3年くらいはそのままでしたね。他人に通帳と印鑑を預けるなんて不思議な話ですよね。悪用されても仕方ないですから(笑)。でも、圧倒的な存在感ですぐに信頼できる人だとわかりました。小林さんとは今も連絡を取り合うのですが、体調があまりよくないそうなので、コロナ禍で会いづらくなってしまいましたね」山あり谷ありの人生を送ってきた岡平。今年3月には、半生を描いた自叙伝『私』(リットーミュージック刊)が発売され、Amazonの音楽書籍でベストセラー1位になった。42歳の今、今後の人生について思うことは?「今の自分の生き方に納得はしていないです。多くの面で、まだまだ力が足りないなと思いますから。早ければ、もう38年くらいしたら死んでしまいますから、もう人生の折り返し地点。本当はやりたいことがありすぎて200歳まで生きたいんですけどね」岡平の夢を乗せた紙ヒコーキは、まだまだ遠くまで飛んでいきそうだ。
2021年05月08日藤井フミヤ《藤井フミヤ「チェッカーズ再結成へ」絶縁恩師と「涙の和解」》(『女性自身』4月13日号)《藤井フミヤ語った!「チェッカーズ復活と母との別れ」》(『女性セブン』4月29日号)久方ぶりに「藤井フミヤ」と「チェッカーズ」の名前が週刊誌の見出しに踊った。前者は3月27日にフミヤが出演したNHKのBS番組、そして後者は4月上旬に開催されたコンサートツアーを受けてのものだった。そして共通して報じられたのが、彼が『ギザギザハートの子守唄』を歌った、というもの。チェッカーズの曲を公の場で披露したのは、グループが解散した1992年以降、実に29年ぶりのことだーー。チェッカーズの幼なじみらを中心に7人で結成され、1983年にデビューするとそのビジュアルもあいまってアイドル的人気を博した。ところが、スター街道を歩む一方で徐々に足並みが乱れ始める。特に、フミヤとサイドボーカルを務めていた高杢禎彦に不仲が囁かれるようになった。「解散理由とされたのは俗に言う“方向性の違い”でしたが、デビュー時から楽曲を提供していた作曲家の芹澤廣明さんとの“絶縁”も大きく影響したと言います。1986年に発表された名曲『Song for U.S.A』を最後に芹澤さんはチェッカーズから離れ、その後は主に作詞をフミヤ、作曲を弟の藤井尚之が担当するように。これに納得いかなかったのが、恩師でもある芹澤さんを尊敬していた高杢。次第にグループはフミヤ派と高杢派に分断されていったと言います」(スポーツ紙芸能デスク)■フミヤが“和解”を申し入れた先の『女性自身』では、かつて《『芹澤さんの歌は、もう歌いたくない』、フミヤがそうはっきりと言ったというんです。ぼくにしたら、仕事を頼まれただけでそんなことを言われる筋合いはない》とまで話していた、芹澤氏との和解を報じた。なんでも、昨年9月に突然、フミヤから連絡が入ったのだという。そして食事をして雪解けした2人は、フミヤの提案でNHKの番組に揃って出演することになった、というものだった。一方の『女性セブン』では、フミヤ本人への直撃取材も試みている。『ギザギザハートの子守唄』を長らく“封印”していた理由について、《チェッカーズの曲をおれがひとりで歌って、それをビジネスにするのは抵抗があったんだよね…》と、芹澤氏との確執が原因ではないことを強調。さらに、《お会いしたとき、芹澤さんも『どんどん歌って』って言ってくれたし、これからも曲を書いてくださいっていう話もして》と、恩師とわだかまりがなくなったことを明かしたのだった。しかし、彼が仲違いをしていた幼馴染みも黙っていない。2003年の著書『チェッカーズ』(新潮社刊)において《金のためなら恩も売る。これがチェッカーズの本質だったのか!》と、フミヤが恩師を裏切ったとして痛烈に批判した高杢とは、いまだ関係は冷えたままのようだ。チェッカーズ解散後に2人を引き合わせたのは2004年、元メンバーの“クロベエ”こと徳永善也さんの告別式だった。その後に高杢と鶴久を除く、元メンバー4人のみが発起人となって「徳永善也さんを送る会」を開いたのだが、この時のフミヤの発言が2人の仲を修復不可能なものにしてしまった。「送る会」翌日の2004年9月13日、『週刊女性』は高杢と鶴久の独占インタビューを行なった。その中で告別式の際に、高杢とフミヤとの間でこんなやりとりがあったことを明かしていたのだ。《フミヤから声をかけてくれたんだよ。“元気か?”って。そりゃうれしかったよ。解散以来12年ぶりに再会したんだから。まあ、オレらもいろいろあったけど、やっぱりわかってくれてるんだな。そう思ってたんだけどね》この頃には「チェッカーズ再結成もあり」という考えもあった高杢。しかし、その後の「送る会」で彼の著書『チェッカーズ』について問われたフミヤは、「モク(高杢)の本はデタラメって聞いてるから読んでません」とまで言い切ったのだ。2002年に40歳で胃がんを告知されて、死を覚悟して病と闘った高杢。それだけに“遺書”として綴った著書を“デタラメ”呼ばわれされたこと、何よりも徳永さんのお別れの会という席上で言い放ったことが我慢ならなかった。当時のインタビューでは《他人からいわれたことなら、なんとも思わないよ。フミヤだから、ガキのことから一緒にやってきたアイツだから許せないんだ》と、かつての幼馴染みへの憤りと、悔しさをにじませた高杢。「チェッカーズ再結成」は、フミヤ自身の手で葬られたのかもしれない。■「チェッカーズ」を歌いたい理由そんなフミヤが今年になって、たったひとりで『ギザギザ〜』を歌うことを半ば強引に押し進めたというわけだ。当然ながら、また歌われることを待ち望んだファンも大勢いるであろうし、「抵抗があった」と話していた“ビジネス”になるのは間違いない。「近年のフミヤといえば、最後にCDシングルをリリースしたのが2013年で、それでもオリコンランキング10位止まり。その後に配信限定シングルを3曲出していますが、やはり大ヒットとは言い難く、毎年のように開催しているコンサートツアーもマンネリ感は否めなくなっています。そこにYouTubeなどで若い世代の間で広がっている昨今の“昭和歌謡”ブームが来た。チェッカーズの関連動画も再生回数が伸びていることから、フミヤもこの流れに乗ろうとしたのではないでしょうか」(音楽情報サイト編集者)彼にとって“チェッカーズ”は再浮上のための切り札であり、突如として35年ぶりに恩師に“詫び”を入れたのも曲を歌うためだったのだろうか。NHKの番組ではデビュー曲の他にも、芹澤氏が手掛けたチェッカーズの曲も披露したフミヤ。今後は、自身のコンサートでも積極的に歌っていくのかもしれない。これに老舗レコード会社関係者は「違和感を覚えますね」と首を傾げる。「そもそも、芹澤さんはフミヤのためではなく、チェッカーズのために曲を作っていたはず。かつてデビュー間もないチェッカーズに今後も楽曲を提供する上で、芹澤さんがメンバーに注文したことがあったと言います。それは小柄なフミヤをメインボーカルに置くとバンド全体の見栄えが弱くなることから、高杢と鶴久と3人でマイクを並ばせるというもので、これで初めて“チェッカーズになるんだ”という話でした。つまりはフミヤひとりで歌う曲は、それはチェッカーズとは呼べないのではないでしょうか」■地元の福岡を中心に活動では、その高杢と鶴久が再びフミヤの横に立つ日がくるのだろうか。現在も音楽家としてライブや創作活動を行っている鶴久の一方で、意外なところで高杢の名前があがっていた。《【建築測量・墨出工】未経験でもOK!元チェッカーズ高杢と○○がタッグを組み新事業(社内独立制度)も始めました》(注:編集部伏字)フミヤと芹澤氏の和解報道がなされていた3月15日から4月12日までの間、求人・転職情報サイトに掲出されていた求人案内だ。埼玉県内にある某社の求人情報には作業着を着た高杢と思われる人物が、敷地や建物の位置を測る測量器の横に並び笑顔を見せていた。さらに企業情報を見ると、代表者欄に《事業顧問:高杢 禎彦》とあったのだ。いったい彼に何が起きているのだろうか。ローカル局の情報番組ディレクターによると、「現在は地元の福岡を中心に活動しているようです」と彼の近況を明かす。「講演活動をしたり、ラジオ番組や企業イベントに出演しているそうですが、音楽活動はほとんど行っていないみたいですよ。それでも数年前から運送業に乗り出したり、運搬用機械を扱う会社とも付き合いがあったりと、事業者としての顔も持っているようです。デビュー前のモクさんは土木業に従事していた時期もあると言いますし、おそらくはその経験から“事業”を始めているのかも。体調に問題がないのなら、また歌ってほしいとは思うのですが……」高杢は、フミヤが芹澤氏と和解したこと、そして「チェッカーズ」の名曲を歌うことについてどう思っているのか。同社と彼の妻を通して接触を試みるも折り返しはなく、以降は連絡が途絶えてしまった。徳永さん亡き今、チェッカーズ再結成はありえないのかもしれない。それでも、ファンはケンカをしながらも歌い続けた、ヤンチャ仲間がまた揃う姿を見たいのだがーー。
2021年04月21日宮沢りえV6が結成26年目となる今年の11月1日に解散する。発表があったのは3月12日、飛び込んできたニュースに驚いた人は多かったが、それから2週間で落ち着きを取り戻している。世間は意外とさっぱりしているのか、嵐が活動休止を発表したときにくらべると静かなものだ。解散にまつわる記事もほぼほぼ出尽くした感があるが、特に目を引いたのは、唯一ひとりだけジャニーズ事務所を退所することになった森田剛に関する記事。それらの報道によれば、森田が「役者の道を極めたい」ということで、一昨年から退所を申し出ていたという。それが解散の引き金となったのは間違いないだろう。退所せずとも俳優として活動できるのではないか、と疑問を持つ人は多いだろう。しかし、そこには事務所の事情が絡んでくる。たとえば、森田がよくても事務所として共演NGな俳優・女優というものが存在するというし、かつてのジャニーズは所属タレント同士がテレビの裏番組で出演がカブることさえも良しとしなかったくらいだ。つまり彼にとって退所するということは“さらに自由に活動できる”という意味を持つ。■解散のカゲに「りえ」の存在そして森田に関するニュースとして、複数の媒体で報じられているのが、妻である宮沢りえに触れたもの。『週刊文春』(3月25日号)が扱ったV6解散の記事には、《「嵐になれなかった」V6解散の裏に瀬戸朝香と宮沢りえ》というタイトルがつけられていた。この記事には、《かねてから自分の意思で自由に仕事したいと考えていた森田は結婚後、その傾向が一層顕著になった》と、森田がりえの影響を強く受けたと取れるような芸能関係者の話が出ている。また、同日発売の『女性セブン』(4月1日号)の表紙にも、《急転森田剛を激変させた「5か年計画」V6解散!宮沢りえの強握力》というタイトルが踊っており、やはりこちらも解散の影にりえの姿があることを匂わせている。これと似たような現象が’16年、SMAP解散騒動のときにもあった。■口の堅い森田剛と宮沢りえを前にグループは解散し、メンバーのうち3人が退所し木村拓哉と中居正広だけが事務所に残ることになった。その経緯のなかで、木村は世間から激しいバッシングを受けることになったのだった。このときの報道は、妻・工藤静香が「事務所に残るように」と進言していたという、“軍師静香”説がその多くを占めていたからだ。「たとえ事実であったとしても、それが世に出るまでの間に少しづつ尾ひれがついていった感は否めません。自身も長く芸能界で生きてきたアラフィフの男が、将来の進路について妻の言いなりになっているとは考えられませんよね。今回のケースも、周辺取材で出てきた事実が、証言者づたいに大きくなっていったということではないでしょうか。妻が夫の行く末を案じることは当然です。静香さんに関しては未知数な部分も多いですが、りえさんと関わっている人に言わせれば、“そんなことで口を出すタイプじゃない”ですよ」(芸能プロ関係者)しかし、週刊誌もウソを書いているというわけではない。そこには、話題のトピックを追い求める“媒体の性”がある。今回のV6のケースはSMAPや嵐のそれとは違い、内部のゴタゴタは特になくいわゆる“円満退所”で話が進んでいった。つまり、特に掘り下げるべき内容がなかったのだ。そこで登場するのが、妻であり、かつ関係者のなかで一番知名度も高く“ヒキのある”宮沢りえ。ニュースにさらに深みはでないものかと各媒体、彼女の周辺を取材することになる。しかし、「森田さんは昔から無口なことで有名です。一方の宮沢さんも芸能界の人とはあまり交流を持たないし、個人事務所で活動しているので、夫婦事情を知っている人の絶対数がそもそも少ない」(同前)結果、核心の核心にまではたどり着くことができず、各媒体ともに“妻の宮沢りえの後押しもあった”とするしかなかったのではないか。改めて考えてみると、妻なのだから後押ししたのは当然であろう。本当のことは夫婦にしかわからない。<芸能ジャーナリスト・佐々木博之> ◎元フライデー記者。現在も週刊誌等で取材活動を続けており、テレビ・ラジオ番組などでコメンテーターとしても活躍中。
2021年03月25日ジャニーズ退所を発表した森田剛あまりにも突然だった、V6の解散と森田剛のジャニーズ事務所退所の発表。「昨年末にTOKIOの長瀬智也の退所が3月末であると発表されていましたが、その直前での今回の発表には驚きました。V6の解散は今年の11月予定と、半年以上先だというので、“長瀬の退所と株式会社TOKIOの設立が落ち着いてからでもよかったのでは?”という声も聞かれました」と、あるスポーツ紙記者は語る。■ジャニーさん死去後に去ったベテランアイドルV6は少年隊のようにメンバーが退所してもグループ名を残すパターンでもなく解散することになる。が、年長組である坂本昌行・長野博・井ノ原快彦の『20th Century』は継続と発表された。それにしても2019年にジャニー喜多川社長が亡くなって以降、ジャニーズタレントの退所ラッシュが止まらない。前出の記者が続ける。「中堅以上の事務所に大きな貢献をしたタレントの退所が相次ぐのは、お世話になったジャニー喜多川さんが亡くなったことで、男性アイドルとしての自分の人生に一区切りしたいという思いが芽生えたんでしょうね。森田や昨年末で退所した少年隊のメンバーも言ってましたが、これまでできなかったことへの挑戦、この先の人生、セカンドキャリアを考えた結果なのでしょうね」ジャニーさんが亡くなった2019年7月以降、事務所を離れた、もしくは離れる予定のタレントをざっと振り返ってみる(ジャニーズJr.はのぞく)。【2019年】9月錦戸亮【2020年】3月中居正広6月手越祐也10月山下智久12月錦織一清、植草克秀【2021年】3月長瀬智也11月森田剛■ジャニーズの矛盾「今のジャニーズの体制に大きな影響を及ぼしたのが、ジャニーさんが倒れるよりも前、2016年のSMAP解散ではないでしょうか」(前出スポーツ紙記者)SMAP解散とともに稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾がジャニーズ事務所を退所、「新しい地図」として活動を開始したことは多くの人が知るところ。’18年には渋谷すばると今井翼が、そしてTOKIOの山口達也は未成年が関わる不祥事により契約解除となっている。「山口達也はともかくとして、ここ数年の退所組の顔ぶれは、かなり豪華といっていいのではないでしょうか。テレビ界に限ってみても、ほとんどがゴールデンの第一線で活躍してきた顔ぶれです。現在事務所に残る面々で、知名度やテレビでのコンスタントな活躍を考えると、退所組の知名度や活躍度に匹敵するのは、KinKi Kidsの2人と嵐のメンバー、KAT-TUN亀梨和也、関ジャニ村上信五、そして木村拓哉ぐらいではないでしょうか。若手ではHey!Say!JUMP山田涼介、Kis-My-Ft2玉森裕太、King & Prince平野紫耀あたりかと思いますが、まだ少し小粒感もある。最近、A.B.C―Zの河合郁人をテレビでよく見かけますが、実人気よりも『推されてるんだな』という印象がまだまだ強い。Snow ManやSixTONESの面々も同様で、CDセールスなどはすごいが個人の活躍はこれからという感じ」(テレビ関係者)とはいえ、退所していった中堅タレントたちの地上波のテレビ番組での活躍を見てみると、中居正広以外はなかなか厳しい状況が続いている。「新しい地図の3人は、ようやくチラホラ見かけるようになったといったところ。舞台や映画がやりたいという意思がある人ならともかく、ジャニーズ時代のようにゴールデンタイムの地上波ドラマやバラエティーで活躍したい人もいると思います」在籍する“ベテランアイドル”組に目を向けると、嵐のグループ活動再開は未定、KinKi Kids、NEWS、関ジャニ∞、KAT-TUNと続くが、彼らの活躍もいまいちピンときていない。「事務所の未来を考えると、アイドルとしての旬は若い世代を中心にするにこしたことはない。そのために世代の若いグループを主力にしていきたいというのはアイドル事務所としては正しい判断だと思います。しかし、その一方でなんだかんだ一番活躍しているのは嵐のメンバー。若手グループのメンバーが、先輩たちに比べるとまだまだ弱い印象があるのは、先輩たちのタレントパワーがずっと保たれたままだからだと思います。それなのに昨年デビューした“スノスト”は、平均年齢も高くアラサーメンバーも複数いるという矛盾を抱えている。ジャニーズが、将来的にどのようなビジョンを描いているのか、まだまだ見えない状況は続きそうですね」ベテランアイドルの退所が相次いでいる今、「ジャニーズ=アイドル」という構造の転換期がきたのかもしれない。〈取材・文/渋谷恭太郎〉
2021年03月19日夫婦で娘の学校行事に参加した森田剛と宮沢りえ。今後は、家族の時間を優先か(2018年)《何度も6人だけで話し合いを重ね、それぞれが一人の男として、大きな決断をすることになりました》3月12日、V6から衝撃的な発表が!「今年11月1日で、森田剛さんがジャニーズ事務所を退所し、グループは解散します。森田さん以外のメンバーは事務所に残り、個々で活動を続けます」(スポーツ紙記者)1995年にデビューしたV6は、目立った不祥事もなく、メンバーが1人も欠けず、昨年25周年を迎えた。しかし、“不穏な動き”も─。「大みそかにフジ系で放送された『ジャニーズカウントダウン2020-2021~東京の街から歌でつながる生放送~』に毎年出ていたV6が出場しなかったんです。アニバーサリーイヤーを迎えた彼らが“落選”したことで、ファンから心配する声があがっていましたよ」(V6ファンの女性)6人が別々の道を歩くことになったのは、森田剛のひと言に端を発した。「彼が“ジャニーズ事務所を離れた環境で、役者としてチャレンジしたい”とほかのメンバーに相談。2019年の春ごろから、何度も話し合いを重ね、決断に至ったといいます。25周年の配信ライブを終え、発表に至ったのでしょう」(前出・スポーツ紙記者)森田といえば、ジャニーズJr.時代は三宅健とともに“剛健コンビ”として人気を博し、デビュー後は多くの話題作に出演。ここ数年は、舞台を中心に俳優として高く評価されていた。私生活では、2018年に宮沢りえと結婚するなど、公私にわたって順風満帆に見えたが……。■森田との子どもを欲しがった「りえさんの精神状態を心配していました。彼女には、前の夫との間にできた娘さんがいるのですが、森田さんとの子どもをとにかく欲しがっていたんです。ただ、彼女は40代半ばで妊娠が難しくなる年齢のため、都内の産婦人科で不妊治療を受けたものの、なかなか結果が出ず、焦っていたそうです」(森田の知人)大切なパートナーが悩んでいる姿を見て、森田の脳裏にはこんな考えが思い浮かんだ。「3年ほど前から、周囲に“彼女のそばにいたいから、もっと家族で過ごす時間を増やしたい”と漏らしていましたよ。仕事をセーブして、りえさんのことを支えようと思ったのでしょう。実際、結婚後は1年に1回舞台に出る程度で、ドラマや映画には出演していませんでしたからね」(同・森田の知人)さらに、大女優が身近にいることで、仕事に対する考え方も変化していった。「昨年ぐらいから“森田さんが退所するのではないか”という噂はありました。もともと、彼は芝居への情熱が強いほうでしたが、りえさんと結婚したことで“役者”という仕事への興味や意欲がより強くなった気がします。彼女は女優として『日本アカデミー賞』や『ブルーリボン賞』など、数々の権威ある賞レースを制していますからね。そんな人と一緒に生活していたら、影響も受けるでしょう」(芸能プロ関係者)役者としての矜持が強まる一方で、“本業”に対する情熱は薄れていく─。「アイドルとして活動することが苦痛になっていたようです。周囲には、“アイドルとして見られたくない”と口癖のように言っていましたし、40歳を過ぎても、歌って踊り続けることに疑問を感じていた。“もっと芝居を突きつめて評価されたい”という思いが、日に日に強くなっていったといいます」(舞台関係者)幼いころから仕事をしてきた思い出深い場所から離れてまで、新しい道に進もうとしたのは、“アイドルではなく、ひとりの役者として見てほしい”という思いだったのかもしれない。2019年にジャニー喜多川社長が亡くなって以来、中居正広や元関ジャニ∞の錦戸亮、山下智久、元NEWSの手越祐也など、事務所を去るメンバーが後を絶たないが、最近はさらなるピンチを迎えている。「これまで最前線を走っていたグループが次々に離れてしまっているんです。嵐は昨年末でグループでの活動を休止し、TOKIOは4月から『株式会社TOKIO』を設立して“独立”します。V6も解散するので、事務所の屋台骨が揺らいでしまいますよ」(テレビ局関係者)■次に解散がウワサされる2人組そうした状況が続いたためか、“あの年長グループ”を心配する声も。「ファンの間では、“KinKi Kidsも解散するのではないか?”と言われているんです。きっかけは、一部のメディアで堂本剛さんが今年6月で退所する可能性があると報じられたこと。彼らに限ってそんなことはないと思いますが、V6も目立ったトラブルがなかったのにもかかわらず、解散することになったので、何が起きてもおかしくありませんよ」(同・テレビ局関係者)ファンの心配が杞憂に終わることを願いたいが、キンキにもV6と同じ“不穏な動き”が出ていて─。「彼らも昨年末の『カウコン』に出なかったんです。もともと、『カウコン』は1996年から阪神・淡路大震災の復興チャリティーイベントとして始まりました。TOKIOとV6、キンキは合同グループ『J-FRIENDS』としてイベントを盛り上げてきた古株。TOKIOは山口達也さんの“事件”以降出ていませんが、伝統的イベントの創始者ともいえる2組が出なかったのは偶然なのでしょうか……」(レコード会社関係者)これまで、ジャニーズはピンチのときは、最前線でベテランのグループを中心に“WAになる”ことで乗り越えてきた。今回の“緊急事態”も一致団結して解決してくれると信じたい!
2021年03月15日V6V6が解散する。文春オンラインが報じたことで明るみに出た。「タッキーの統治が生み出した、これもまた滝沢イズムのひとつの流れです」第一報を受け、そう漏らしたのは芸能リポーターだ。「ある意味、反乱にも近い意思表示。6人じゃないとV6じゃないという、ね」とも指摘する。■SMAPもTOKIOも嵐も“解散”ジャニーズ事務所の滝沢秀明副社長(38)が今年1月、ジャニーズJr.に定年制を導入したと報じられた。満22歳到達後の最初の3月31日までに、今後の活動についてタレントとジャニーズ事務所が合意に至らなければ、Jr.の活動を同日限りで終わりにするという制度。「世間やファンの間では、合意に至れば続けられる、という楽観論が出回りましたが、芸能界はタレントと事務所の力関係が一定ではない。それは最近ニュースになった、極楽とんぼの加藤浩次と吉本興業との関係でも明らか。事務所が合意しない、といえば、それは合意に至らないことを意味し、つまり事務所がダメと言えばJr.はその段階で所属を断たれるので、はやりメディアが報じたように実質的に“定年制”なのです」こう解説するのは、元ジャニーズ担当のスポーツ記者だ。そのことが、V6の解散とどう関係するのか。前出・芸能リポーターが加える。「下の世代に年齢でダメ出しするなら、上のグループだってどこかの年齢を基準に新たな道を踏み出してもいいでしょ?でグループ活動を閉じてもいいでしょ?という空気が一部で漂ったんです。SMAPは解散、TOKIOは株式会社に移行という形ですが長瀬智也が退所することにより“実質的には解散”、嵐も活動休止ですが、いつかはわからない復活を前提にしたもので、“解散に近い”。V6も森田剛が退所するとはいえ、繕おうと思えば、NEWSのようにグループ活動を存続することもできるし、TOKIOのようなスタイルだってある。だが、それを潔しとしなかった。聞くところによると、ほかのメンバーの“やり切った感”、“燃え尽き感”がかなり強ったそうですよ」アイドルを目指す若い世代が、アイドルの道を断たれる中、実質的なグループ活動、アイドル活動をしていない自分たちが、メンバーが脱退するにもかかわらずアイドルグループでいていいのか、というV6のメンバーの気高い決意。それはタッキーイズムに対する答えでもあり、3人のメンバーのうち2人が退所した少年隊、前出のTOKIOに対する、V6ならではの自分たちは違うんだ、という船出の意思表示と思える。6人じゃないとV6じゃない、と決断したメンバーの潔さが刺さる。〈取材・文/薮入うらら〉
2021年03月12日ザブングル(左から)松尾陽介、加藤歩松尾「生まれて初めて直撃(取材)をされたので、正直ビックリしました(笑)」ボケ担当・加藤歩のギャグ「カッチカチやぞ!」「悔しいです!」で知られる人気コンビ・ザブングルが今春をもって解散するという。その情報を聞き、ツッコミの松尾陽介を直撃したところ事実ということを認めた。後日、改めてコンビでインタビューに応じてくれることになり、その胸中を語り始めた――。■ザブングル解散の経緯松尾「40歳を過ぎて、漠然とこのままお笑いを続けていけるのかな……と思っていたところ、闇営業が発覚して。それでお笑いで食べていくのは無理かなと引退を考えるようになりました。自粛期間中、時間がたっぷりあったこともあり、相方と話し合ったところ、特に止められることもなかったので」加藤「コンビを組んで20年以上たっているので、相方が考えていることは空気で察してしまうというか。事前の準備はできていましたが、改めて解散のことを言われたときは驚いたし、本当に解散するという感覚はまだないですね」’19年には吉本芸人らとともに反社会的勢力のパーティーに参加していた“闇営業”が発覚した際には、約2か月間、介護のボランティア活動を行った2人。その活動も引退への気持ちをより強めたようだ。松尾「闇営業騒動が起きて、もう僕らで笑ってもらえないんじゃないかなと、人前に出るのが怖くなってしまったんです。そんなときに介護施設でいろんな方と触れ合ったことで、世の中には人から求められている仕事がたくさんあるんだなと実感して。それでお笑い以外の仕事をより考えるようになりました」加藤「こういうインパクトのある顔だから印象に残るようで、こんな僕でもおじいちゃん、おばあちゃんたちが喜んでくれるんですよ。それで僕も社会貢献をしたいと思うようになりましたね」■松尾は4月以降に裏方へ転身’19年9月に活動を再開したものの、半年足らずで新型コロナウイルスの感染が拡大。仕事が激減したこともあり、松尾は芸能界からの引退も決意する。松尾「新型コロナの影響は大きかったですね」加藤「謹慎したことで収入が半分になり、コロナの影響でさらに半分になりましたから。僕は結婚して子どももいるので、最初の自粛期間中に消防設備士の資格を取り、その仕事も始めました。“乙種6類”という国家資格を取得したのですが、それを持っていると消火器の点検と整備を行うことができるんです。介護施設などで防災訓練も行っているのですが、この顔のおかげで僕のことを知ってくれている方も多く、話を聞いてくれるので、今後も多くの人に防災訓練の大切さなどを伝えていけたら」松尾「熱弁しているけど、辞めるほうだっけ?(笑)」加藤「俺は辞めへんわっ!!ゆくゆくは所属事務所の消防点検も行って、物理的に守っていければと(笑)」相方の加藤は引退にすぐに理解を示したものの、担当マネージャーからは反対されたようだ。松尾「引退で気持ちが固まっていたので、反対されたことすら、マネージャーにいま言われるまで覚えていなかったですね(笑)。まだ伝えられていない先輩もいるのですが、中山秀征さんに伝えたら“儲かったら奢ってね”と新しい道に進むことを応援してくれました」加藤「松尾が20代なら先輩たちも止めてくださったと思うけど、40代半ばですしね」松尾「まだ身体が元気なうちに次に行かなきゃというのはありました。10年前なら引退は早すぎるけど、10年後なら遅いと思ったので、そういう意味でも踏ん切りはつきやすかったですね」引退後は裏方に回るという松尾だが、具体的にはまだ何も決まっていないという。松尾「3月末まで今の事務所と契約が残っているので。今までやってきたことが活きるのは企画・制作などの裏方なのかなと思うので、作る側に興味を持っています」加藤はピン芸人として活動を続けていく。加藤「松尾以外とコンビを組むつもりはないので。あ、でもとんでもなくすごい人から誘われたら、新しいコンビも考えます(笑)。芸名を考えたときに『ザブングル』を残すことも考えたのですが、この名前は2人のものだし、過去にしがみついてもしかたがないので、本名の加藤歩として再スタートし、お笑いだけでなく俳優などいろいろな可能性も探りたいです!」ザブングルとして活動するのはあと2か月ほどだが、コンビとしての仕事は現状、何も決まっていないそう。松尾「大前提として本当に僕らは人気がないので(笑)。解散ライブをするかという話も出て、僕は思い出としてやってもいいかなと思っているのですが、相方は続けますからね。だったらピン芸人として、ひとりでライブをやったほうがいいのかなって」加藤「コロナ禍でライブがしづらい状況やしな……チケットが売れないからやらないわけじゃないですよ!ちなみに去年、ピンネタライブをやったときの初動のチケット売り上げは3枚だったので、知り合いに声をかけまくって埋めました(笑)」23年間のコンビ活動について聞くと、こんな答えが。松尾「それなりに仕事をさせてもらいましたが、今まで1度も街中で顔をさされたことがないんです。そういう人は表に出る仕事は向いていないだろうと(笑)。だから後悔は全然なくて、23年間よくやったなという気持ちのほうが大きいですね。相方は面白いと思ってコンビを組んだし、『お笑い向上委員会』で明石家さんまさんなどすごい方たちを相手に頑張っているのを見ると、まだまだ上に行けると思うので、これからは視聴者の側から応援します。そして裏方として、また仕事ができたらいいですね」加藤「残り2か月でコンビとしての仕事が1個もこない可能性はありますが(笑)、もしコンビで活動できる機会があるなら“ラストザブングル”を楽しく見ていただければうれしいですね!」PROFILE●松尾陽介(まつお・ようすけ)●’77年1月28日生まれ。愛知県出身。ツッコミ担当。『アメトーーク!』(テレビ朝日系)の「運動神経悪い芸人」企画では、“ガチ王”の異名でおなじみ。徳永英明のものまねにも定評が。●加藤歩(かとう・あゆむ)●’74年10月26日生まれ。三重県出身。ボケ担当。テレビ番組の企画「キモカワ芸人選手権」で優勝経験も。’07年には『M-1グランプリ』(テレビ朝日系)で決勝進出を果たすなど、ネタには定評が。数多くのバラエティー番組で活躍。
2021年02月01日2013年に解散した4人組バンド・GARNET CROWのライブツアー『GARNET CROW livescope 2013 ~Terminus~』が初めてBlu-ray化され、3月24日にリリースされることが決定した。アニメ『名探偵コナン』など、数々の人気アニメ作品の主題歌で知られる同グループは、メディアへの露出を極力控え、関西に拠点を置きながら数々の名曲をリリースした。解散後も多くのファンに愛され続けており、昨年はデビュー20周年を記念する「GARNET CROW 20th Anniversary Year」と題した様々な企画が発表されたが、コロナ禍の影響で多くが中止になった。そんな中、今回初めてBlu-ray化されることが発表されたライブツアーは、2014年完全予約限定生産で発売した『GARNET CROW PREMIUM BOX』にDVD作品としてのみ収録されていたもの。オリジナルアルバム『Terminus』リリース後のツアーだったが、「Terminus=終着駅」というタイトルから、当時はファンの間で様々な憶測が流れたという。特典DISC「Making of livescope 2013」には、ライブ終了後にボーカルの中村由利が解散を発表した際のMCを初収録。ファンの悲鳴と溜息が交差するなか、感謝の言葉と共に「GARNET CROWとして、すべてのことを出しきった」と語られる切なくも前を向いたMCは、ファンにとって永久保存版となりそうだ。特典DISCにはツアーの裏側を追った貴重なドキュメント映像も収録される。
2021年01月25日活動休止する嵐・大野智、3月に退所するTOKIO・長瀬智也、退所した元NEWS・手越祐也、不祥事で退所&解散した宇宙Six・山本亮太もはや不祥事以外で、解散という道はないのか?闇パチスロ店に出入りしたことを「文春デジタル」に報じられたジャニーズJr.の4人組ユニット『宇宙Six』の山本亮太(30)。今月1日をもってジャニーズ事務所は、山本との専属契約を解除した。「いい訳は通じない。闇スロで金を使えば、それは間違いなく反社会的勢力の資金になる。事務所としては、首を斬るしかなかった」と芸能リポーター。残った『宇宙Six』の3人、松本幸大(31)、江田剛(32)、原嘉孝(25)は自分たちで話し合い、解散を決めた。■潔さがない、未練タラタラ「宇宙Sixはデビューこそしていませんが、ジャニーズのグループとしてSMAP以来の解散です(退所グループはあり)。事実上の解散、というグループはたくさんありますが、なぜか解散しない。その理由としては、ジャニー(喜多川)さんが作り、強い思い入れがあったグループだからなどいろいろありますが、解散を発表しないのは潔さがない。未練タラタラなんですよね」(前出・芸能リポーター)つい先日、少年隊の植草克秀(54)と錦織一清(55)が今年いっぱいで退所することがわかった。東山紀之(53)だけはジャニーズ事務所に残る。事実上の解散だが、少年隊という名前だけは残すという。「来年3月に、長瀬智也が退所するTOKIOも、残った城島茂、国分太一、松岡昌宏が株式会社TOKIOを作ることで『TOKIOの〇〇です』と名乗ることになる。年内いっぱいで大野智が活動休止に入る嵐も、解散ではなく活動休止を選択しますが、芸能界から距離を置きたい大野がまたグループ活動に戻る可能性は低い。デビュー当時は9人組だったNEWSは今年、手越祐也が退所したことで3人になったがグループ存続を選んだ。どうして解散を選ばないのか、ファンクラブの存続問題などがあるとは思いますが、解散という美学を忘れてしまっているというか、そんな感じがしますね」(スポーツ紙記者)■SPEEDや安室奈美恵の潔さかくして不祥事でも起こさない限り、ジャニーズ事務所には解散しそびれたグループの一部メンバーが残り続けることになる。前出・芸能リポーターが続ける。「あの桑田佳祐も以前、サザンオールスターズの解散のタイミングを失った、というような発言をしていました。それでも彼らは今も、活躍しているからファンとしてはありがたい。1990年代に一世を風靡したダンス&ボーカルグループのSPEEDは、人気絶頂で解散を選択しました。その際、所属事務所社長に『活動休止という選択肢はなかったのか』と尋ねたところ、『本人たちに今、SPEEDとして再び活動する気持ちがなく、復活する時期も明確に打ち出せないのに活動休止にすることは、ファンを裏切ることになる』ということを静かに語っていました。グループ活動をしないグループを残すことがファンを裏切ることにならないのか、解散しないジャニーズグループが増えるにつけ、そんなことを考えますね」自分の人生をかけ、好きなタレントを必死に推すアイドルファン。解散する日が来ないことを祈りつつも、解散という儀式を通過することによって、ファン自身もそれまでの応援活動にピリオドを打ち、清々しく散る気分を味わえる。「解散や引退をきちんと表明し、それに向けて最後のコンサートツアーなどを行うことで、グループとファンの密な関係性を最後まで共有することが、解散であり引退。引退した歌手の安室奈美恵さんのように、きちんとファンにさよならを言ってくれたほうが、ファンはいつまでもモヤモヤしないで済みますよ」(前出・芸能リポーター)解散にしろ、引退にしろ、きちんとそう表明することは、確かなファンサービスだ。〈取材・文/薮入うらら〉
2020年10月06日お笑い芸人のブルゾンちえみが10日、インスタグラムのストーリーズを通じ、同日に解散を発表したお笑いコンビ・ブリリアンへの思いを伝えた。「ブルゾンちえみ with B」としても活動を共にしていた3人。ブルゾンは、「ブリリアンというコンビと4年前に出会ってたくさん助けてもらったよ!」とブリリアンの2人に感謝し、「3人で色々やれたことこれからも一生心にあると思う!」と投稿。さらに、「コンビじゃなくてもこれからも私はコージもダイキも大切な仲間です!」とつづり、「お互いどんな形でもがんばろうね!」と激励のメッセージを送っている。コージのインスタグラムによると、解散は「マイナスなものではなく、ポジティブに前を向いて進んでいこうという二人の想い」。また、コージは芸名を「コージ・トクダ」に、ダイキは本名の「杉浦大毅」に改名して活動していくこともそれぞれのツイッターで発表している。
2020年03月10日お笑いコンビ・ブリリアンのコージ(徳田浩至)とダイキ(杉浦大毅)が、10日にコンビを解散することが同日、明らかになった。コージはインスタグラムで、「我々ブリリアンは本日をもちまして解散する事になりました。二人でじっくり話し合いながら決めた事です」と報告。「2016年よりブルゾンちえみさんの後ろの二人『withB』として活動させて頂きながらもブリリアンとして切磋琢磨しながらネタを取り組んで参りましたが」とこれまでの活動を振り返り、「結果ブリリアンとしては功績を残せないまま解散という事になってしまいました」と吐露した。一方で今回の解散は、「マイナスなものではなく、ポジティブに前を向いて進んでいこうという二人の想い」。「これまでブリリアンを応援して頂いた方々、そして先輩方、本当に申し訳ありません」と詫び、「ここまで引き連れてくれたブルゾンさんには本当に感謝をしています。そして何より、今まで一緒にいてくれた相方ダイキ、本当に有難う」と感謝のメッセージをつづった。「これからはお互い別々に芸能活動を続けていきながら、心踊る事に向かって突き進んでいこうと思います。今後の二人をそれぞれ見守って頂けると幸いです」と決意を新たにしたコージ。今後は、芸名を「コージ・トクダ」に改名することを明かし、「改名した理由は、これまでの自分と心機一転区切りをつけたかったのと、グローバルに活躍したいという意味を込めて」と説明しつつ、「これからはコージ・トクダとして1からのスタートです。また応援して頂けたら幸いです」と呼び掛けている。
2020年03月10日森崎ウィンが10日深夜、所属するダンス&ボーカルグループ・PRIZMAXが3月27日開催のライブをもって解散することについて、インスタグラムでコメントした。10日に公式サイトを通じ、「PRIZMAX・スタッフ一同」から発表されたグループの電撃解散。「今回の決断に至った大きなきっかけとなりましたのは、2013年のデビュー時からのオリジナルメンバーである黒川ティム、そして昨年末の福本有希の脱退がありました」と明かし、「昨年7人にメンバーが増えた際の決意として、もう1人でもメンバーが欠けることがあったらPRIZMAXを終わりにするという思いがメンバー内にはありました。昨年の脱退を受けPRIZMAXという形であり続ける意味を大きく揺るがすきっかけになり」と経緯を説明していた。森崎はインスタグラムで「まずは、急にこういう発表をしてしまい、本当にごめんなさい」と謝罪し、「去年、新メンバーを迎え、精一杯突き進もうと頑張ったんですが…デビューして苦楽を共にした仲間が、一人ずつ居なくなって行く。凄く寂しかった。悔しかった。辛かった」と吐露。「でも、ホリック(ファンの総称)に会うとやっぱり俺の居場所はここなんだ。帰る場所があるんだ俺は。っていつも、ホリックに甘えて居たのかもしれない。ホリックを裏切らないって約束したのに…」と自省しつつ、「スタッフ含めメンバー全員とも、たくさん話し合いをしました。その結果、これから先、自分たちに嘘を付いてまで、ホリックと向き合う方が、怖かったのです」と理解を求めた。「今までホリックと共に過ごして来た時間に、嘘は無い」とファンへの思いをつづる森崎。「だから、最後まで、僕たちを応援して欲しいです。最後の最後まで、どうか、よろしくお願いします」と呼び掛け、「これから先、チャンスがあれば俺は歌い続けたい。すぐには駄目かもしれない。けど、必ず歌えるよう、日々努力を続けます」と今後の活動にも言及している。
2020年01月11日2度目の紅白出場となった’00年の『19』の2人。健治(左)と敬吾(右)写真=共同通信イメージズ音楽不況といわれる昨今だが、ほんの少し時間を巻き戻せば、10代の若者がデビュー直後に数十万枚、数百万枚を売り上げるような夢のある時代があった。そんな時代に活躍した19(ジューク)──。「’99年にリリースした『あの紙ヒコーキ くもり空わって』が大ヒット。デビューからわずか1年で紅白歌合戦への出場を勝ち取りました」(音楽誌ライター)19は岡平健治と岩瀬敬吾がともにボーカルを務めるデュオ。広島県出身の2人は、上京後に19を結成。『あの紙ヒコーキ〜』以降にも、’00年に『水・陸・そら、無限大』をリリース。同年に開催されたシドニー五輪の日本代表公式応援ソングとなり、2度目の紅白出場を果たす。しかしその後、人気絶頂といえる’02年に突然、解散した。「不仲というわけではないようですが、徐々に音楽性にズレが生じたことで解散を選択しました。急な解散のため、事務所から違約金を請求され、最後のベストアルバムの初動売り上げの印税を放棄する形で支払ったそうです」(レコード会社関係者)■岡平健治は実業家として成功解散後、健治は自身がボーカルを務めるバンドで、敬吾はソロシンガーとしてそれぞれの道を歩みだした。「健治さんは大ヒットによる多額の印税を投資に回し、その利益で起業。音楽事業だけでなく飲食店経営や不動産業など、ミュージシャンでありつつ多角的な実業家となり、現在も複数のビルを所有するなど成功を収めています」(前出・音楽誌ライター)一方の敬吾はというと──。「ソロでもメジャーレーベルで活動していましたが、現在は自主レーベルを立ち上げ、ソロシンガーとして全国のライブハウスを回っています。規模的には数十人の会場が多い印象ですね」(同・音楽誌ライター)規模が大きければいいというわけではないが、19の大成功を考えれば、現在の活動は少し寂しさを感じてしまう。昨年末には、こんなことも。「12月中旬に北海道の中標津町で敬吾さんのライブがありました。50人限定としていたライブだったのですが、直前までチケットが1枚も売れなかったため、中止の危機に。本人の呼びかけにより予約が入り、なんとか開催されました。北海道ということでファンも駆けつけることが難しかったとは思いますが……」敬吾の自主レーベルに問い合わせると、本人とコンタクトがとれたが、この件についての話を聞くことはできなかった。19の再結成を願う根強いファンは、今も多い。別々の道を選んだ2人。夢を描いた紙ヒコーキは今後、並んで飛ぶことはあるだろうか──。
2020年01月08日