お笑いトリオ・四千頭身の都築が4日、自身のXを更新した。【画像】四千頭身・都築、自身の冠番組についてポスト!「イベントのチケット申し込み本日まで!!思ったより激戦かも、、、でも一次の方が運ゲー仕掛けれるかも#都築サクラバシ919#地方局の深夜ラジオってレベルじゃねーぞ」と綴り、自身がパーソナリティを務めるラジオ番組「四千頭身 都築拓紀のサクラバシ919」公式アカウントのポストをリポスト。「四千頭身 都築拓紀 の サクラバシ919️ LIVE LOBSTER 2025 ️」は、2025年2月1日(土) ニッショーホールで開催される。番組初のラジオイベントではあるが、たくさんの応募が来ているようだ。イベントのチケット申し込み本日まで!!思ったより激戦かも、、、でも一次の方が運ゲー仕掛けれるかも #都築サクラバシ919 #地方局の深夜ラジオってレベルじゃねーぞ — つづきひろき 四千頭身 (@tzk0320) October 4, 2024 この投稿にファンからは多くのいいねが寄せられている。
2024年10月05日お笑いトリオ・四千頭身の都築が28日、自身のインスタグラムを更新した。【画像】四千頭身・都築、自身の冠番組についてポスト!「BACK TO THE FUTUREデニムが良い。“男”って感じ。」と綴り、映画「BACK TO THE FUTURE(バックトゥーザフューチャー)」のTシャツとデニムをクールに着こなした写真を公開。 この投稿をInstagramで見る 四千頭身 つづきひろき(@tzk4000)がシェアした投稿 この投稿にファンから、「それめちゃよき」「イケメンですね兄さん」「カッコ良くてしびれた」など多くのコメントが寄せられている。
2024年09月29日2023年2月14日、自動車メーカーのトヨタ自動車株式会社(以下、トヨタ)で経団連会長を務めた、豊田章一郎(とよだ・しょういちろう)さんが亡くなりました。97歳でした。産経ニュースによると、豊田さんは心不全のため、亡くなったとのことです。豊田さんは、トヨタの創業者である豊田佐吉さんの孫。1952年に入社し、1982年には、初代トヨタの社長に就任していました。突然の訃報に、ネット上では、「長い間ありがとうございました」「本当にすごい人だった」など、悔やむ声が上がっています。豊田さんのご冥福をお祈りいたします。[文・構成/grape編集部]
2023年02月14日2018年に現役を引退し、今年7月に女優に転身したソチ五輪ペアスケーティングの元日本代表の高橋成美(28)だ。3歳でフィギュアスケートを始め、小学校5年生のときに師事する都築章一郎コーチ(82)のもとで、羽生結弦(25)と出会い「五輪の金メダルをとりたいね」と夢を語りあった彼女。3歳年下の“親友”にも引っ張られ、トップスケーターとして高橋成美は頭角をあらわしてくる。■駆け足で成長する羽生に嫉妬は感じなかった仙台市にある都築コーチのもとで半年ほど過ごしたのち、再び中国へ。12歳のときにペアへ転向し、“中国での全国大会”に出場すると6位入賞と才能が開花した。だが突然「中国に国籍に変えない限り、もうリンクには上げられない」と中国フィギュアスケート協会から通告される。将来の中国代表の強力なライバルを育成するわけにはいかないという判断が働いたのだろう。失意のなか、中学2年生の終わりに帰国を余儀なくされた。日本にはペアが練習できる環境は少なく、千葉の学校に通いながら、当時、横浜市で指導していた恩師の都築氏の元へ通った。そこで、中学生になった羽生と、久しぶりの再会を果たす。「ゆづはすごく身長が伸びていて、ダブルアクセルが大得意で、トリプルアクセルの習得の最中でした。まだかろうじて私の方がジャンプが上手で、いろいろ聞いてくれたんですけど……。1年も経ったころには、5種類のジャンプを全部飛べるようになっていて」駆け足で成長していく羽生。トップアスリートらしく“負けず嫌い”の性格を自認している高橋成美だが……。「でも、ゆづに対しては、昔から不思議と悔しい気持ちを感じたことがありません。逆に『私も頑張らなきゃ』っていつも思わせてくれるんです」3歳年下の羽生に感じたのは憧れにも似た気持ち。幼少期から羽生がエフゲニー・プルシェンコに憧れていたのは有名な話だ。「ほかにも好きな選手がいたけれど、ゆづがプルシェンコと言ってからは、私も彼一筋になって(笑)。男の子だったら、私もマッシュルームカットにしてたくらい。ゆづが、『モンスターハンター』(ゲームの名前)を始めたら、私もすぐにハマりましたね。それから、私はもともと首にかけるファイテン(磁器ネックレス)を愛用していたんですが、その効果を共有できるのもゆづでした。当時から『これ体軽くなるよね』とかも話していましたね」■アイスをほお張りながら「太らなくていいね」と羽生は14歳にして世界ジュニア選手権に出場し、世界の舞台で戦うようになっていた。「そのころ、ゆづは金のラインが入った日本代表ジャージを着ていて、それをなかなか脱ぎたがらないんですけど(笑)。そのブカブカなジャージのままアクセルを飛んでしまう。ゆづが飛ぶと、みんな見るんですよ、一般の人も。『あの子すごい』って、なるくらい目立っていました」ジュニアになり羽生は、ストイックに自分を律していたという。「試合後のバンケット(打ち上げパーティー)も、顔は出しますが、すぐに静かに自室に戻っていく。私も真似をして、そっと自室に戻って。そこで1人で『モンハン』していました(笑)」10代の少年らしいかわいい素顔をのぞかせることも……。「横浜時代、『なるは何食べても太らなくていいな』ってゆづは言うんです。大きなソフトクリーム食べながら(笑)。『それはゆづでしょ。私は気を付けているよ』って」中国語、英語、スペイン語など、五カ国語を話せる彼女。羽生が練習拠点をカナダへ移す前には「英語をどう勉強すればいいの?」と、相談された。「『いっぱい(英語)喋ればいいよ』とか『最初はスケートの言葉とかを喋って。Why?とかだけ覚えれば大丈夫』とか軽く流してしまった気が……。ゆづは頭もいいし、いろいろなセンスが本当にあるのは知っていたので、“どうせ大丈夫でしょ”と思ってたんでしょうね(笑)」一方、ゆづのアドバイスに救われたことも……。「アイスショーで一緒になったとき、滑る直前に『サルコウが不安なんだよね。どうやったら飛べるの?』って聞いたら、『シュッとやったら飛べるよ』と言われて(笑)。それで本番でシュッとやってみたらきれいに飛べて。きっと考えすぎだったんでしょうね」■平常心を保つため五輪にガンプラを持参2014年、ともにソチオリンピックに出場を果たす。「結団式では、『このお菓子おいしいね』みたいな何気ない話しかしませんでした。メダル候補として、ゆづに沢山のプレッシャーがかかっていたのも知っていましたから」自らは、木原龍一(28)とのペアで出場。コーチから「平常心を大切に」とアドバイスを受けた。「夢のオリンピックですが、それを意識しすぎると、日ごろのパフォーマンスができません。『これは一つの試合に過ぎない』と思えるように、私はオリンピック村に、ガンダムのプラモデルを持っていって、それを作って平常心を保とうとしました」団体戦で日本は5位。ペアでは18位と、メダルには届かなかった。「自分たちの出番が終わった後、練習拠点のデトロイトに戻らないといけなくて。世界選手権が迫っていたので、練習しないといけなかった。リンクにあるテレビで、スケーター仲間たちとゆづを応援しました」羽生は、アジア人男性初の金メダルを獲得した。小学生のころ、ともに語り合った夢を叶えたのだ。【PROFILE】高橋成美1992年千葉県出身。3歳からフィギュアスケートを始める。マーヴィン・トラン(カナダ)とのペアで2012年に世界選手権3位。2014年、木原龍一とのペアでソチ五輪に出場。2018年に現役を引退。今年7月に松竹芸能に入り、女優業を開始。慶応義塾大学総合政策学部に在学中。「女性自身」2020年10月13日号 掲載
2020年09月29日「聞こえました。特に成美ちゃんの声が。本当に心強かった」。2014年のソチ五輪団体戦で、伝説となった完璧な演技のあと、羽生結弦(25)はこう語った。羽生が言う“成美ちゃん”とは、ともにソチ五輪を戦っていたペア代表の高橋成美(28)のこと。じつは遡ること約10年、2人は五輪の夢を語りあったことがあるという。2018年に現役を引退し、今年7月に女優に転身した彼女がスケート人生の原点を語った。■姉の背を追って3歳でスケートをはじめた「小学生のころ、ゆづ(羽生結弦)と2人で『オリンピックで1位になる』と夢を語り合いました。周囲に言うと、『はいはい、出るだけで大変なんだからね』と諭されたけれど、ゆづと2人だと『金メダルを目指すのは当たり前だね』という気持ちになれた。私は五輪のメダルは取れなかったんですけど、その約束があったから、高橋成美なりに頑張ってこれたと思います」148センチの小柄な体から、ハキハキと明瞭に言葉を紡ぐのは、フィギュアスケートのペアで活躍した高橋成美だ。当時、日本ではあまり知られていなかったペア競技で、2012年には、世界選手権で日本代表初の銅メダルを獲得する快挙を成し遂げた。2014年のソチ五輪では、羽生結弦(25)、高橋大輔(34)、浅田真央(29)ら、“レジェンド”と共に日の丸を背負う夢を実現させた。2018年に選手を引退。慶應義塾大学に通いながら、今年7月、第二の人生「女優」の道を歩むことを発表し話題を呼んでいる。「3歳でスケートを始めました。やんちゃすぎる私を、親が、少しでも女性らしくとフィギュアスケートを選んだんです。でも小さい頃は、モーニング娘。が大好きで、スケートよりアイドルになりたかったんです」そう笑う彼女だが、スケートの神様は彼女の小さな体にありったけの才能を詰め込んでいた。恐いもの知らずで、ジャンプに果敢に挑戦し、軽々と飛んで周囲を驚かせたという。小学4年生のときに父の転勤で中国の北京に移住。ペア大国の中国で、憧れの選手と一緒に練習する機会にも恵まれた。5年生になり一時帰国したとき、単身、恩師である都築章一郎コーチ(82)の仙台市の自宅に下宿をして学校と練習に通った。ここで出会ったのが、同門の練習生だった3歳年下の羽生だ。「小学校も同じ学校。練習生のなかでも、特にゆづと私がやんちゃで、いつも一緒に走り回っていました」■ゆづとやった“葉っぱ隊”の踊り親や姉妹とも離れての“スケート修行”。共に過ごす仲間は、高橋さんにとっての家族のようなものだ。その中でも、“ゆづ”とは特に気が合った。「やんちゃな“ゆづなるコンビ“でいろんな遊びをしました。当時、人気だった『笑う犬の冒険』(フジテレビ系)というバラエティ番組が2人とも大好きでした。リンクの製氷中に、一緒にこの番組の“はっぱ隊”の踊りの真似をしたり、リンクにいるお姉さんの前で『いいから、いいから〜』(テリー&ドリーというコントのセリフ)とやって笑わせたり……。“お馬鹿”なことをするのはいつも“ゆづなる”だったんです」スケート場では鬼ごっこも楽しかったと笑う。「鬼ごっこでいろいろなエッジワークを使うし、走り回るので自然にスピードも速くなりいい練習になりました。先生もあたたかく見守ってくれていました」指導する都築氏も、無邪気な2人を可愛がってくれた。とはいえ、なぜかいつも怒られるのは、自分だけ。「リンクで遊んでいても、ゆづは怒られないのに、なぜか私だけ怒られて……。何度も怒られるので、『なんでゆづはいいの?』と、都築先生に聞くと、『結弦はできるだろう』って言われて、『確かに!』と思って(笑)。そこで、私もジャンプや新しいスピンとかができるようになったとき、都築先生に『遊んでいいの?』と聞いたんです。そしたら、『結弦は何歳だと思ってるんだ』って……。『確かに!』ですね(笑)」3つ年下の羽生には、その頃からカリスマ性があったと振り返る。「大親友のゆづと、氷上での羽生結弦は別人格だと、このころから思っていました。彼がいると場が明るくなる。誰かに注目されたり試合になると、ふだん以上の力が出せる恵まれた力を持った子だと思っていました」【PROFILE】高橋成美1992年千葉県出身。3歳からフィギュアスケートを始める。マーヴィン・トラン(カナダ)とのペアで2012年に世界選手権3位。2014年、木原龍一とのペアでソチ五輪に出場。2018年に現役を引退。今年7月に松竹芸能に入り、女優業を開始。慶応義塾大学総合政策学部に在学中。「女性自身」2020年10月13日号 掲載
2020年09月29日四千頭身の都築拓紀(23)が4月28日、mixiでの活動をスタートすると発表した。その行動に驚きの声も上がるいっぽう、実はいまmixiブームが巻き起こっているという。同日、Twitterで《活動自粛中ということもあり、「何か自分にもやれることはないか」「少しでもみんなに届けれるものはないのか」と必死に考えた結果、一つの答えに辿り着きました》と切り出した都築。そして、こう宣言した。《ということで、この度、『mixi』を始めさせていただきました。皆さん是非、集まれー!》都築はmixiのプロフィールを公開し、さらに「四千頭身都築の家」というコミュニティを作ったことも報告。《毎時0分に、「今何をしているか」を呟いたり、日記を更新したり、まだ不慣れですが、そんなこんなをしていきます》とつづっている。mixiといえば10年ほど前にブームとなったSNSの先駆け的存在。しかしTwitterでは都築に対して《mixiってなんですか?》《mixiが何なのかあんまりまだ分かってない》とのリプライが。そのいっぽうで《この令和の時代にmixiのアカウントを作るとは思いませんでした》と驚きながらも懐かしむ声が上がっている。mixiを知らない世代もいるなか、実はいま“mixiブーム”が再燃している。「コロナ禍にある現在、ZoomやSkypeを使ったオンライン飲みをする人が増えています。そんななかでmixiへ久々にログインし、SNS黎明期の自らの“黒歴史“を公開。日記やバトン、紹介文などを互いにさらけ出すことが流行っているようです。当時を懐かしむこともできるとして、盛り上がりを見せています」(ネットメディア関係者)Twitterでもこんな声が上がっている。《大学の友達と当時のmixi日記音読しながらのオンライン飲みは闇しかなくて爆笑wwwww》《サラリーマン時代の同期たちとオンライン飲み。気づいたら画面共有でmixi開いてみんなの10年前の日記を読み上げる羞恥プレイに》《zoom飲み。みんなでmixiにログインしてみたら意外とログインできてしまった…!みんなの黒歴史が画面共有された。笑》《仕事がリモートワークor休業になっている地元の同級生たちとこんな時間までオンライン飲み会を。学生時代にやっていたmixiやデコログの黒歴史で久しぶりに腹筋つるくらい笑い転げました》mixiの新たな魅力が発掘されているようだ。
2020年05月02日圧巻の演技だった。2月17日、平昌五輪のフリープログラムに臨んだ羽生結弦(23)。演目は「SEIMEI」。静まり返った会場に、笛の音が鳴り響いた。日本中がかたずをのんで見守るなか、冒頭の4回転サルコウを見事に着氷。後半のジャンプこそ少し乱れたが、最後まで滑り切った。会場が割れんばかりの拍手に包まれた。 得点は206.17点。前日のショートプログラムと合計で317.85点となり、首位に。金メダルが確定すると、羽生の目から涙がこぼれ落ちた。 羽生とゆかりのある宮城県仙台市「秋保神社」の高山晃和宮司(49)は、こう語っている。 「羽生選手は、ただいたずらに神頼みをしているのではありません。やるべきことをやりつくしたうえで、最後の最後に神さまに祈りを捧げているのだと思います」 高山宮司は、東日本大震災の復興行事で初めて羽生と出会ったという。そして14年のソチ五輪直前に神社のお守りをスケート連盟へ送ったところ、金メダルを取った羽生がお礼参りに訪れたこともあった。以来毎年、スケート連盟に神社から御札を寄贈しているという。 「羽生選手の勝利を願って、女性がたくさんいらっしゃっています。勝利を願って羽生選手の名前入りの“のぼり”を奉納した後は、トロントの方角に手を合わせるそうです。中国人のファンもいらっしゃって、20個以上もお守りを購入していかれたことがありました。みなさん、『羽生選手が金メダルを取れますように』と思いをこめていらっしゃいます」 ファンの想いが届いたのだろうか。五輪本番直前には、こんな不思議なことがおきていた。 「2月14日、SPの抽選会で彼は最終組の一番滑走を引きました。ソチ五輪と同じ、羽生選手が得意な順番です。すると彼は突然、『実は昨日、夢を見たんです。そこでも一番滑走を引いていて、今と同じ景色でした……』と言ったそうです。そんな“勝利の正夢”が、リラックスさせてくれたみたいですね」(前出・スポーツ紙記者) そして気になるのは、羽生のこれからだ。優勝後の会見で羽生は「もうちょっと滑る」と現役続投を表明しているが……。羽生を育てた都築章一郎コーチ(80)はこう語る。 「日本はまだフィギュア選手を育てる環境が整っていません。そのため昨年8月、彼に『将来はプロデューサーのような立場で環境づくりをしてほしい』と話しました。すると彼は『先生、3年待ってください』と言ったのです。おそらく彼の中に、そうした“将来のビジョン”があるのでしょう」 五輪2連覇の偉業を達成してもまだ終わらぬ夢……。これからも羽生の“挑戦”は続く。
2018年02月20日(写真:アフロ) 連覇のかかる’18年2月の平昌五輪を前に、男子フィギュアスケート・羽生結弦選手(23)は今また、かつてないほど大きな試練に直面している。11月9日、NHK杯の公式練習で右足関節外側靱帯損傷のケガを負い、大会を欠場した。 12月14日には、日本スケート連盟を通じ、羽生自身がコメントを発表。靱帯だけでなく、腱と骨にも炎症があり、いつから練習が再開できるか決まっていない状況だという。 全日本選手権は五輪代表を決める最終選考会でもあるが、羽生は欠場しても、これまでの実績で五輪出場は確実だ。とはいえ、五輪連覇には黄信号がともってしまった。 ’08年から彼の取材を続けるスポーツライター・野口美惠さんはこう語る。 「今シーズンが始まる前の羽生選手は、表情や体つきなどから、夏の間に充実した練習をこなして、しっかり仕上げてきた自信が見えました。GPシリーズのロシア杯、NHK杯で見つけた課題を修正し、全日本選手権ではある程度、完成した演技をして、五輪本番を迎える。それが、2つ目の金メダル獲得のために綿密に計画されたスケジュールでしたが、ケガで崩壊してしまった。羽生選手にとって大きな誤算です」(野口さん) ソチ五輪金メダル、世界選手権は2度、優勝。GP(グランプリ)ファイナル4連覇と、次々に記録を塗り替え、世界歴代最高点をも更新し続けてきた羽生。彼はこれまで幾度となくケガや病気に見舞われながら、その壁が高く、試練が大きいほど、乗り越え、進化してきている。 ソチ五輪以降、男子フィギュアスケートは“新4回転時代”に突入し、年々、ハイレベルな競技になってきている。4回転ジャンプは当たり前。1つのプログラムで数種類の4回転を跳び、コンビネーションにしなければ、メダル獲得は難しい。加えて、ステップやスピンでも、GOE(出来栄え点)で加点がつく完璧な演技が求められる。 トップを走る羽生は、より高い技術と完璧な表現をストイックに追求することで、常にケガや病気、アクシデントに遭遇した。オリンピック後は毎年のように、この試練に直面することになる。 ’14年10月、GPシリーズ中国杯の試合直前の6分間練習で、中国のハン・ヤン選手と激突。ブライアン・オーサーコーチも止めるなか、頭に包帯、顎にばんそうこうという姿で演技した。ジャンプで5回も転倒し、会場から悲鳴が上がったが、最後まで滑りきり、銀メダル。 その時期、羽生が口にした言葉は印象的だ。 「たくさん乗り越える壁をつくっていただいて、こんなに楽しいことはない。自分が弱いということは、強くなれる可能性があるということ。壁を乗り越えた先にある景色はいいものだと思っています」 壁を恐れない強さを身につけた羽生は、その後のGPファイナルで4回転ジャンプを次々に決め、金メダルを獲得。続く全日本でも3連覇を果たした。ところが、その直後に、尿膜管遺残症と診断され、開腹手術を受ける。’15年3月の世界選手権は出場が危ぶまれたが、気迫の滑りで2位に入った。 野口さんは次のように話す。 「この試合の後、羽生選手は『追い込みすぎて疲れたら、調子が下がるのは当たり前。自分のさじ加減を考えるきっかけになったな。失敗しないと気付けないことはたくさんある』と、すぐに新たな課題を見つけていました。『ミスしたことは、成長への糧になる』それが、彼のプラス思考。壁を乗り越える力なんです」 そして、こう続ける。 「彼のレベルまでいけば、あえて新しいものに挑戦するより、同じジャンプ構成のまま、より演技に磨きをかけていい点数をキープすればいい。でも、彼はあくまで挑戦したい。挑戦しすぎるんです。彼には、進化するためには、苦しい時期があるのが当然という考え方があるんですね。ネイサン・チェン(アメリカ)が4回転を5種類跳んだという情報を耳にすると、楽しくてしょうがない。まだまだ、自分にはやることがあるとワクワクしてしまうんです」(野口さん) 世界選手権で2度の銅メダルを獲得、現在はフィギュアスケートの解説者を務める本田武史さんは、羽生が今回のケガをする場面に遭遇していた。 「ちょうどあの日、僕は目の前で見ていた。ジャンプで跳び上がった瞬間、合ってないぞと思いました。普通は回転をやめますが、羽生選手はそのまま行ってしまったので、転んではいけない方向に転んでしまった。全日本に出たい気持ちもわかるが、五輪で100%を出すことを考えて、足と相談してほしいと思います」(本田さん) 本田さんと羽生は、ともに仙台市内の「泉DOSCアイスアリーナ」に通った間柄。仙台時代には接点はなかったが、東日本大震災後のアイスショーで、同じリンクを滑った。 「あのころ羽生選手は東神奈川にいて、すごい数のアイスショーに出ていました。お客さんの前で、緊張感をもって滑る経験を積んで、練習時間も練習場所もない逆境を克服したんです。彼はマイナスをマイナスと考えていなかった。どうしたら、できるのか。そればかりを考えていました」(本田さん) 《逆境はプラスだ》という考え方が、彼のなかに芽生えたのは、このころだ。泉DOSCで、羽生を指導した都築章一郎さんは言う。 「アイスショーが、リハビリになったと思います。横浜のリンクで練習して、ショーで確かめる。その半年間でした。震災で、生と死について、強く感じたと思うし、それを乗り越えて、競技している。結弦は、天真爛漫に動いていた少年時代より、強い信念をもってスケートをするようになりました」(都築さん) 最後に、数々の危機を乗り越えてきた羽生を見て本田さんは思う。 「『不可能という文字はない』それは、羽生選手の生き方」
2017年12月30日アーティストの大竹伸朗と編集者の都築響一、ふたりが手掛けた本の制作の近況をテーマにスペシャルなトークイベントが、恵比寿のナディッフ アパート(NADiff a/p/a/r/t)で12月20日に開催される。作品:大竹伸朗「Black Wall」2015,Screen print, vinyl records embedded / 写真:都築響一アーティストの大竹伸朗は、絵画、彫刻、写真、音、そして「本」といった多様な表現方法を駆使して、質・量ともに比類ない作品を作り続けている。近年参加している国際展では、拳には到底収まりきらない巨大なスケールの「本」や、多量のスクラップブックを一挙に展示するなど、本という存在を捉えた作品の展開はますますの拡張を遂げている。一方、都築響一は編集者という立場から、様々な土地の中に潜む誰もがかつて注目しなかった驚くべき視点での固有の情報を取材し、雑誌、書籍といった媒体にのせてドキュメントしてきた。近年では独自取材をメルマガの電子媒体にのせて「メガ盛り」情報を定期配信するなど、編集者としてのその活動は高い発信性を放ち続けている。2016年から2017年にかけて、大竹伸朗はシンガポールのSTPIで制作された巨大本「Book #1/記憶層」のプロジェクトを、都築響一は印刷本では実現しきれなかったスペックを備え持ったUSB本のプロジェクト「ROADSIDE LIBRARY」の制作に取り組みつつ、発表を行ってきた。本イベントでは、これらの「本」にまつわるエピソードから、大竹、都築にとっての「本」をつくることにむかわせる衝動や発火点を探る。すでに満席となっている同イベントだが、12月13日の12時より電話(03-3446-4977)にて立ち見での参加受付がスタート。こちらも定員に達し次第受付終了。この機会、お見逃しなく。【イベント情報】EVENINGS #最近作った本のはなし会期:12月20日会場:NADiff a/p/a/r/t住所:東京都渋谷区恵比寿1-18-4 1F料金:1,000円
2017年12月11日