こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。わが国で『セクシャルハラスメント』(以下“セクハラ”と略す)という言葉が一般的に使われるようになったのは1989年の新語・流行語大賞の新語部門でこの言葉が金賞を受賞したころからだったかと記憶しています。そのころと比べればずいぶんと世間のセクハラに対する目は厳しくなり、女性が理不尽な不快感に苦しむことの少ない社会にはなったように思います。しかし、筆者が最近気になっているのは“限りなくパワハラと一体化したセクハラ ”で、絶対的に優位な立場を利用して卑劣な行為を行う人を見ていると同じ男性としてとても情けない気持ちになってしまいます。都内でメンタルクリニックを開院する精神科・心療内科医のT先生は、『パワハラ一体型のセクハラが原因で適応障害などの大事(おおごと)に至ってしまう前に一度、心療内科の医師のところへ相談にきてほしい』と言います。子育ても一段落してパートやアルバイト、派遣といった形でまた働いてみようと考えておられる女性のみなさんにも参考にしていただければ幸いです。●セクハラ被害の相談件数は、派遣労働者のほうが正社員の3倍以上も多いT先生が言う“パワハラ一体型のセクハラ”とは、これまでも「対価型セクハラ」などと呼ばれてきた“職場における階級の優位性を利用して下位にある者に対して行う性的なハラスメント行為 ”に近い概念です。製造業などの作業現場で監督・指導をする立場にある上司が、作業スペースの狭さを利用して作業員の女性に体を密着させてきたりすることもこれに当たるでしょう。セクハラ自体が本来パワハラの一種であるとする考え方もありますが、筆者が近年この“限りなくパワハラに近いセクハラ行為”が目立つのではないかと感じていることには統計的な裏づけもあります。厚生労働省が公表している『個別労働紛争の相談状況』や『派遣労働者実態調査』の直近の数字と、総務省が実施している『労働力調査』の雇用形態別雇用者数の数字などから算出すると、2014年以降のセクハラ被害の相談件数は派遣労働者で正社員の実に3倍以上も多い ことがわかっています。そのため、近年のセクハラは“単に性衝動に基づいたもの”と考えるより、“パワハラと一体化したもの”の方が多いと考えた方が自然だからです。よほどのことがない限り無期限の雇用を保障されている恵まれた人たちによって、景況や業績といった理由で企業側の都合でいつ雇用契約を打ち切られてもおかしくない非正規雇用という弱い立場で働いている人たちが、理不尽で不快なセクハラ行為の被害に遭っている。そうだとすれば、これは看過できないことなのではないでしょうか。●左手薬指のダミー指輪の効果も今は昔、既婚女性こそセクハラ被害に遭いやすい傾向がしかもこうした“パワハラ一体型セクハラ”の加害者となっているような相対的に上位の職責にある人たちが、ここ数年来の傾向としてセクハラ行為の対象を“未婚女性”から“既婚の女性”へも広げてきている ことが、このタイプのセクハラ問題をより深刻化させていると、前出のT先生は指摘しています。『たとえば以前であればセクハラ行為の主たる被害者であった未婚の女性が、わざとダミーの指輪を左手の薬指にすることでセクハラ被害に遭う危険性を減らすことに効果がありました。「既婚者の女性と、面倒なことにはなりたくない」といった思いが加害者側にあったからです。ところが最近は、「既婚の女性の方がセクハラ行為に対して我慢強い 」みたいに相当身勝手な思い込みを抱いているセクハラ加害者が増え、ダミーの指輪のようなセクハラ撃退法が功を奏さなくなりつつあります』このようなお話を日頃からセクハラ被害の相談に携わっている医師の口から聞くと、パワハラと一体化したセクハラというものは被害者の“生活”という人の暮らしの根源的な部分の弱みに乗じているため、かなり質(たち)の悪い ものであるような気がしてきます。しかしそれでも、『対処法はある』と、T先生は言います。●パワハラ一体型セクハラの加害者は自分の立場が揺らぐことが何よりもこわい『パワハラと一体化したセクハラ行為をする人は、被害者である非正社員の女性が抗議をすることはあっても“雇い止め”につながりかねない法的な手段にまで出ることはまずないだろう と高をくくっています。非正規雇用の人にとっては数か月とか半年の単位でやってくる雇用契約の期限のときに会社側が「この人は面倒だ」と感じるような状態にあれば、雇用契約を打ち切ることに会社側には現行法上何の非もないため、適当な理由でもって雇い止めにしてくれるだろうと思っているからです。したがって法的に闘う場合にはセクハラ上司が明らかに法に触れる行為をしているという証拠の収集 が必要で、これは次の職場を探しておく必要がある非正社員のセクハラ被害者にとってはかなりの負担になります。一方、パワハラ一体型セクハラへの対処法として、法的な手段ではなくわれわれ医師に相談していただくという方法が存在します。この場合法的に“闘う”のとはちょっと違って、被害者の心身の健康を“守る” という感じの対処の仕方になります。パワハラ一体型セクハラの被害者にはストレスからくる集中力の低下、不安感、恐怖感、抑うつ感、イライラ感、わけもなく涙が出る、喉の異物感、頭痛、胃痛などの心療内科的な症状が伴うため、医師の立場で患者を守るというスタンスの対処法です』(50代女性/前出・心療内科医師)T先生はこう言い、具体的には次のような段取りの対処法をおしえてくださいました。パワハラ一体型セクハラの被害に遭ってしまったときには、(1)事態をできるだけ落ち着いて省み、自分には非はなく悪いのはセクハラをする上司の方である ことをまず自覚する(2)その上で、セクハラ上司の上司にあたる立場の人の中で、できるだけ信頼がおけ自分の話をきちんと聴いてくれそうな人は誰かを選定する(3)(2)ができたらわれわれ医師の方で事態の改善に有効と考えられる診断書を書きますので、(2)で選定した“セクハラ上司の上司”に診断書を携えて 相談してくださいパワハラ一体型のセクハラをする加害者は自分の立場が揺らぐことが何よりもこわいため、このような対処法が有効であるというのがT先生の見解です。その点が“単に性衝動に基づいたセクハラ”と質的に区別されるということでした。なお先生によれば心療内科や精神科のほか、レディースクリニックやウイメンズクリニックのような看板を掲げている医療機関であればほとんどのところでセクハラの相談にのってくれるとのこと。法務関連の専門機関と連携しているクリニックもある とのことです。自分の立場の優位性や自分が手にしている権力をいいことにパワハラ一体型のセクハラをしてくるような上司に、泣き寝入りをつづけることはありません。●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/倉本麻貴(和くん)
2016年11月15日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。筆者の中学高校時代の友人で、“絵を描くことが大好きな子”が3人いました。それぞれ描く絵のモチーフも技法も違うのですが、共通するのは3人とも時間さえあれば(時に、絵を描いていてはいけないときでも)いつでも絵を描いていたこと。 3人とも人とのコミュニケーションはあまり得意でなかったこと。そして3人とも、いってみれば“気が利かない”人間であったことです。3人が医師の診断を受けたと聞いたわけではないので無責任なことは言えませんが、3人とも陰で「発達障害ではないか」と言われるような個性を持った人たち で、その後1人は“巨匠”と呼ばれる漫画家になり、1人はイタリアに渡って世界的なカーデザイナーになり、もう1人もその世界では知らない人がいないほど有名なメカニックデザイナーになりました。ちなみにこの3人や筆者が通った中高は、“変わり者”を許容してくれる学校ではありました。精神科医で小児科医でもある竹川敦先生は自身が院長を務める仁和医院のホームページの中で、『発達障害児から自由人へ、そして天才へと変わっていった ような人たちこそが、現代のこの便利で文化的な世の中を作ってくれた』という主旨のことをおっしゃっています。今回は、知的な遅れはない“高機能広汎性発達障害”と思われる子が天才へと育っていける環境はどうすれば意識して作ることができるのか、精神科医の見解を参考にしながら考えてみたいと思います。●国立の大学生の10人に1人は発達障害竹川先生は仁和医院のホームページで発達障害を、『いわゆる対人コミュニケーション能力、問題解決能力、臨機応変さ、想像力や気を利かせる能力などの低下を認めるものの総称』と定義しています。そしてそれは『遺伝的な脳の構造の問題なので治るものではない 』とし、『自分の性格傾向を周囲の人に説明できるようになること、生き方の工夫をすることが治療である』と述べています。障害の程度や重複の有無、生活環境や年齢などによっても症状は違ってくるため、一言で発達障害といっても相当に多様な精神医学的概念であるということができるでしょう。知的な遅れがなく普通に日常生活が送れるためにあえて専門医の診断を受けることもない“高機能広汎性発達障害と思われる人”も含めると、『発達障害は今の学童の5%、国立の大学生の10%はいる 』と、竹川先生は指摘しています。●海外の先進国では発達障害者の長所を伸ばす教育が普及しているこのような発達障害の人たちの中には実は歴史上の偉人や天才と呼ばれるような人がとても多いという事実を、精神神経科や児童精神科を専門とする医師のほとんどが認めています。前出の竹川医師も仁和医院のホームページの中で、・トーマス・エジソン・スティーブン・スピルバーグ・ビル・ゲイツ・ウォルト・ディズニー・トム・クルーズ・アルベルト・アインシュタインといった人たちの名前を出して発達障害であるとしていますし、筆者の友人の精神科医では、・マイケル・フェルプス・スーザン・ボイル・スティーブ・ジョブス・ジョン・F・ケネディなども発達障害であったと言う人もいます。こうしてみると海外の人に発達障害の偉人や天才が多い印象を受けますが、それは印象にとどまらず事実である と断言する児童精神科のベテラン臨床医で、杉山登志郎先生というわが国における高機能広汎性発達障害の権威がおられます。杉山先生は2009年11月1日発売の『ビッグイシュー日本版130号』の中で、次のような主旨のことをおっしゃっています。『実際のところ発達障害の天才や偉人は多い。代表的な例としてはやはり物理学者のアインシュタインだろう。本人の言による症状から、自閉症スペクトラム障害が疑われる。これは自閉症、アスペルガー症候群、その他の広汎性発達障害などの診断が明確にはつけにくいケースまでを一連の連続体としてとらえた概念である。「発達障害」という言葉は特に「社会的な適応障害」を伴うものを指す場合が多いため、私は高機能広汎性発達障害のことは「発達の凹凸(おうとつ)」と言うほうがしっくりくると考えている。凸(とつ=長所)の部分を活かせる分野 に出逢え、理解のある企業に就職できたり理解のある組織や団体と契約できたりした場合には、健常者では考えられないようなスケールで才能を発揮することがある。ただ、海外の先進国では凹凸の凸の部分を伸ばすための特別教育が実施されているのですが、日本ではその考えは根づいていない。凹(おう)の部分をサポートしながら長所を伸ばしていく 。そんな教育体制が望まれます』●さらなる多様性と共生重視の教育をいかがでしょうか。絵を描くことが大好きだった筆者の3人の旧友たちはたまたま日本では珍しく“変わり者”に寛大な私立学校に通えたのでその才能を存分に伸ばすことができましたが、一般論としてはわが国の教育体制の中に発達障害の子がその長所をとことん伸ばせるような理念が根づいているとは言い難い ように思えます。それでも筆者は、日本の戦後教育はそれ以前の時代(戦前・戦中)と比べれば計り知れないくらい質が良くなり、発達障害の人への理解も進んだ“始めの一歩”ではあったであろうと思うのです。なぜならば、そうでなければアスペルガー症候群であることを公表している『いま、会いにゆきます』で有名な小説家の市川拓司さんやADHD(注意欠陥多動性障害)を告白しているバンド『SEKAI NO OWARI』のボーカリスト・Fukaseさんのような人たちが、発達障害のために何かと叩かれながらも周囲の友人たちの理解を糧に今日の成功を手にすることはなかった はずだからです。多様性を認めて共生するという考え方が戦前や戦中より教育現場において遥かに浸透していたからこそ、市川さんやFukaseさんの才能をわたしたちも楽しむことができるようになったのです。発達障害の人が天才へと育っていける環境は、さらなる多様性の重視、共生の理念の浸透にかかっているのだろうと思います。【参考リンク】・20.発達障害について | 仁和医院ホームページ()●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年11月08日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。わたくしごとで恐縮ですが、筆者の義理の両親つまり妻の父親と母親は、それぞれ間もなく91歳、88歳の誕生日を迎えようとしています。二人とも全然“無病息災”でここまで来たわけでなく、義父は働き盛りのころ『バセドウ病』を患いましたし、今は脳梗塞の後遺症で言葉が不自由です。義母の方も長いこと『心筋症』や『関節リウマチ』を患っており、体の状態そのものはガタガタだと言った方が適当でしょう。それなのに、二人とも至って元気で普通に暮らしています。あまり病気をしなかった筆者の実の両親が最期はあっさりと病に命を奪われて他界したのとは対照的です。岡山市で内科・リハビリテーション科の診療所を開業する医師の土肥博道先生は、“多病息災 ”という概念の提唱者でもありますが、『人間は病気になっても年を取ってきても、今を生き積極的に脳や身体を使ってさえいれば、誰でも百寿者(百歳以上の人のこと)になることは可能だ』とおっしゃっています。今回は長寿の人たちや病気でも元気な人たちの人生から“多病息災の生き方 ”を学んでみたいと思います。●脳が委縮しても認知症の症状が出ない人、進行癌が広範囲に転移しても百寿者になった人土肥博道先生が院長を務めている『さとう内科』のホームページには、二人の百寿者の生涯について興味深い記述がなされています。一人目は認知症研究者の間では有名な人なのですが、アメリカの修道女で福祉活動家でもあった『シスター・メアリー』です。ミネソタ大学の予防医学研究グループが678名の修道女を対象として実施した研究で、101歳で亡くなったシスター・メアリーの脳は委縮が強く、βアミロイドの沈着が見られ、典型的なアルツハイマー病患者の脳だったそうです。にもかかわらず、シスター・メアリーは亡くなる直前まで正常な認知機能と運動能力を保ち、認知症の症状が全くなかったとのこと。土肥先生はこのシスター・メアリーの例から、『たとえアルツハイマー病の病変が多数存在し明らかにアルツハイマー病に罹患していると認められる状態であっても、シスター・メアリーのように積極的に脳を使っていると認知症の症状がでないことがある 』と断じています。シスター・メアリーは84歳まで現役の数学教師として教鞭をとり、晩年も福祉活動家として熱心に仕事をしていたということでした。二人目はかつてわが国の最高齢者であった116歳の女性です。最期は癌で亡くなったその女性を死後に解剖してみたところ、癌は肝臓や腹腔内にまでひろがり、きわめて広範囲に転移していたそうです。それなのに彼女は116歳で亡くなるそのときまでずっと元気だったとのこと。土肥先生はこの女性の例をあげて、『多病息災という生き方・心の持ち方で暮らせば、たとえ進行癌があったにしても癌の症状が表面に出ないことがあり得る 』と述べておられます。●多病息災の生き方とはどのようなものかそれでは、土肥博道先生がおっしゃる“多病息災”の生き方とは、どのようなものなのでしょうか。土肥先生が旧姓の“佐藤”博道というお名前だったころの著書に、『多病息災にくらす健康生活術』という本があります。その中で先生は、筆者なりに要約するなら次のような主旨のことをおっしゃっています。“健康だけが価値をもつかのように考えるのは間違いである。とくに超高齢化社会を迎えつつあるこれからの時代、加齢に伴って免疫力が低下した高齢者が人口のうちの多数を占めるというのに、「無病息災」でいこうなどと考えるのは非現実的。1つも病気がない状態を目指すのではなく、7つも8つも病気があって、なおかつ治りにくいと言われるような病気もあるのに、そんなことに気を取られないで病気と上手く付き合いながら生きていくことが大切である。誰かの役に立ち、自分が夢中になれる仕事や趣味に没頭しながら今を生きる 。このような姿勢で生きてさえいればシスター・メアリーらのようにアルツハイマー病になっても癌になっても、普通の生活ができるのである。これを「多病息災」の生き方と言う”●周りを見まわしてみれば“多病息災”で生きている人は意外と多い冒頭の話に戻りますが、筆者の義理の両親は二人とも“多病”であるにもかかわらず、“息災”(無事であること)で、いよいよ百寿者に近づこうとしています。でも筆者の義理の父母だけでなく、周りを見まわしてみると“多病息災”で生きている人はけっこう多いのではないでしょうか。わが国を代表する俳優さんで白血病や胃癌を患いながら、まるで「そんなことは大したことではない」と言うかのように精力的に国内外で活躍されているかたがいます。この役者さんは筆者と同い年でもあるためその生き方はとても励みになります。英国の天体物理学者であるスティーヴン・ホーキング博士は、まだ学生であった1960年代に『筋萎縮性側索硬化症(ALS)』を発症しました。この病気では進行に伴って全身のいたるところの筋肉が動かなくなりますので、1つの病気で人を“多病”にしてしまいます。人工呼吸器を使用しなければ発症して数年から5年程度で死に至る病気の患者でありながら、博士は74歳になる現在でも画期的な研究を続け、現代宇宙論に多大な影響を与えています。あたかも研究を続けるためには難病に気を取られている時間はない とでも言いたげに見えます。それから、なにも有名人に限らず、みなさんの身近にも多病息災の人がいませんか?筆者の知人で「今回は○○癌だ」「前回は△△癌だった」「その前は□□癌をやったよ」などと、気にかける様子もなく笑い飛ばしている企業経営者の人がいます。間もなく60代を迎えようとしていますが、彼なども“多病息災”の生き方を実践している人なのでしょう。----------おわりに、土肥博道先生が院長を務めるさとう内科のホームページから、多病息災について記した素敵な文章を引用しておきます。**********『(医者になった)最初のころは病気の予防が最も大事だと思っていましたが、次第に、病気になったら病気でもいいんだと思うようになりました。(中略)やはり、人間の一生は「生老病死」から逃れることはできないんだということに気がつきました。人間は年とともに、みんな多病息災で生きていくしかないのです。大切なことはできれば病気にならないようにすること、もし病気になったら病気を受け入れること、そして病気の進行を緩くすることです。そのために養生があり、医療があります』**********還暦が近づいてきた筆者としては妻ともども、土肥先生のこの言葉を噛みしめて生きていきたいものだと思っています。【参考文献】・『多病息災にくらす健康生活術ー病気も老いも仲良くつきあう22章』佐藤博道・著【参考リンク】・がん・生活習慣病・老化予防のための生活術 百寿者に学ぶ | さとう内科()●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年11月01日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。筆者はこれまでに『パピマミ』に寄稿したコラムの中で何度か『音楽療法』についてとり上げてまいりました。しかし、それらはいずれも『音楽回想療法 』と呼ばれるべき『回想法』という手法を取り入れた心理療法の一つであり、本当であれば先に回想法全般についてのお話をさせていただくのが正しい順番であったのではないかと、今は考えております。そんなわけで今回は、筆者の実際の介護体験からも認知症の進行抑制に効果が感じられた 『回想法』や『音楽回想療法』について、心理療法に造詣の深い精神科・老人科の医師にうかがったお話を参考にしながら、ご紹介してまいりたいと思います。●回想法とは何か『回想法とは、1963年に米国の精神科医で老年医学者であったロバート・バトラー博士によって創始された心理療法です。バトラー博士は、高齢者にとってイキイキと暮らしていた時代のことを回想すること は自信や自己肯定感を回復させ脳を活性化させる、さらに過去の懐かしい思い出を誰かに話すことで脳が刺激され精神状態を安定させる効果が期待できると提唱しました。以来欧米を中心に高齢者の抑うつ感の改善・認知症の予防や進行の抑制に効果のある心理療法として発展し、わが国でも厚生労働省所管の国立研究開発法人である国立長寿医療研究センターでその有効性が検証されています。認知症が治るというほどの劇的な効果が期待できるわけではありませんが、やらなかった人よりは認知症の進行を遅らせる ことができ、表情もやわらかくなれるという意味で、在宅でも取り入れていただきたい認知症の対症療法の一つです』(50代男性/関東地方精神科・老人科クリニック院長、医師)関東地方のとある中堅都市で精神科・老人科クリニックを開院するA先生はこのように述べ、回想法は自宅でも家族がセラピスト役になって簡単にできる方法なのでぜひ試してみてほしいとおっしゃっています。●「特に優れた回想法」(日野原重明医師)としての“音楽回想療法”さて、この回想法を実施するにはそれこそいろいろなツールが考えられるわけです。たとえば高齢者のかたたちが子どものころに遊んだ玩具や折り紙などを用いて、夢にあふれていた少年少女時代を回想する方法。あるいは戦後、焼け跡からの出発ではあったにせよ自由と民主主義を手にしたことによって男女の恋愛をおおらかに描いた映画を堂々と観られるようになった青春時代。当時観た映画をDVDで鑑賞してもらい、奥さま(旦那さま)と出会ったころを回想していただくのもいいでしょう。でも、“105歳の現役医師”として名高い日野原重明先生によると、そういった方法にも勝る「特に優れた回想法」があるというのです。それが、『音楽回想療法』です。日野原重明医師はご自身が監修した『標準音楽療法入門・理論編』の中で次のように述べています。**********『音楽はいろいろな出来事と結びつきやすく、特に高齢者の記憶を再生し回想する手段として用いられる。回想に使われる方法としては写真や絵、草花なども用いられるが、音楽の強い情緒性が特に長期記憶と結びつきやすいために、優れた回想法になるものと考えられる』**********さまざまな回想法が考えられる中で、特に音楽を用いた回想法の効果が抜群である ことを日野原先生は指摘していたのでした。●高度の認知症にもかかわらず『北国の春』を聴いてにっこりとほほ笑んだ父日野原先生がおっしゃるような“音楽を用いた回想法の効果の高さ”について、筆者には思い当たる実体験があります。50代のはじめごろ、87歳になっていてすでに認知症が“高度”の段階に達していた父親に関する思い出です。そのころには父はもう筆者の顔を見て「やあ。社長!」などと言うほど人が誰だか認識できなくなっていて、家の中での徘徊もひどく、献身的に介護をする母にはつらくあたるなどとても重い状態になっていました。常に無表情で笑うことはほとんどなく、食欲もわかないため主治医に処方された缶入りの流動食品でなんとか栄養摂取をしているような毎日でした。そんなある日、居間のテレビで昔の昭和歌謡の特集番組がついていて、『北国の春』をオリジナルの歌手の人がライブで歌っていたのです。この曲は東北地方出身の父が現役の中小企業経営者だった当時に大好きだった曲で、社員や取引先の人たちとよくカラオケで歌っていた「十八番(おはこ)」でした。急いで父の部屋のテレビをつけてあげると、それまでの固まったような父の表情が見る見るうちにやわらかくなってきて、およそ半年ぶりににっこりとほほ笑んだのでした。結局4か月後に父は他界するのですが、あのとき以降、筆者もなるべく心がけて父が好きだった曲、『恋人よ』や『津軽海峡冬景色』などのCDをかけてあげるようにしたところ、ほほ笑むことが増え、食欲も若干ですが回復し、家族はみな本当に嬉しく思ったものです。日野原先生が指摘するように、音楽の強い情緒性 が父にイキイキと生きていた時代の記憶を呼び覚ましたのかもしれません。●在宅で回想療法を実施する場合の注意点は?最後に、前出のA先生に在宅で回想療法を実施する場合の注意点をうかがっておきましょう。『音楽回想療法に代表される各種の回想法は在宅で誰でも実施することができますが、次の点には注意してください。(1)重度の認知症患者の方には向かない場合もあるので、その場合は無理に続けないこと(2)回想が患者にとってつらい記憶を呼び起こしているように見えたらすぐに中止すること(3)回想療法を患者の実生活にどのように活かすかということを常に考えて実施すること』----------いかがでしたでしょうか。認知症患者のご家族をお持ちの方には、A先生の言う注意点をよく心にとめたうえで回想法とくに音楽回想療法をぜひ実施してみていただきたいと思います。【参考文献】・『標準 音楽療法入門(上)理論編』日野原重明・監修●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年10月25日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。独自の若者論・現代日本文化論で注目を集める精神科医の斎藤環さんは、その著書『承認をめぐる病』で、“今のわが国の若者たちは衣食住に象徴されるような物や食などへの基本的な欲求よりも、 「他者から認められたい 」との思いで生きている”という主旨の指摘をし、話題を呼んでいます。「コミュ力」にしても「スクールカースト」にしても「KY」にしても、若者の価値観が“認められること”にあまりにも偏ってしまっているがために生まれた言葉であるとし、こういった斎藤先生の見方については精神医学に携わる多くの医師たちが「的を射たもの」と評価しています。「町の精神科医」を自認する都内在住のT先生(50代女性/都内メンタルクリニック院長)もその一人ですが、T先生はさらに『若者の承認欲求が強すぎる傾向は格差社会の副産物だ』と言い、この傾向の悪い面と良い面の両方について自説を展開してくださいました。今の若者の“認められたい志向”はどうして格差社会の副産物といえるのか。一緒に考えてみましょう。●生まれ育った家の経済力で地位が買える時代に一発逆転で上位の層に行くには「コミュ力」斎藤環さんは著書の中で、近年、若者の誰もが他者からの承認を強く願い、承認されているかどうかの評価基準がコミュニケーション能力である こと、著書で使われている言葉で言うなら、「場の空気を読む能力」や「笑いを取る能力」などがその象徴であることを指摘しています。そしてその能力は必ずしも自分の主張を論理的に表現し、相手を説得する能力のような知的で質の高いものではなく、単にその人の“キャラ”づけにとどまる程度のものであると述べています。ただ、若者がこうなったのは若者だけのせいでしょうか。筆者はそうは思いません。なぜなら、わたしたち大人の方こそ、若い人たちに「コミュ力」の高さばかりを過剰に求めているところがあるからです。いい例が、就活です。企業が就活学生を採用する際の判断基準として一番に重視する項目は、専門性の高い理工科系の学生を別にすれば、ここ数年ずっと「コミュニケーション能力」です。しかも、ほとんどの普通の子はバイトに明け暮れなければ大学に通えないような時代に、先祖代々多額の資産を持っているような経済的に恵まれた家に育った子だけはその親の財力で学力・運動能力・芸術的な能力といったいわゆる“実力”を磨くことが難なくできてしまう。一般的な庶民の子たちは増々もって「コミュ力」を磨き“マシな部類の正社員サラリーマン”になるしかない。中学・高校の思春期の学校生活においては、コミュ力を磨いてスクールカーストの上位に行くしかない。筆者のこのような見方は少々乱暴だろうかと思いきや、都内でメンタルクリニックを開院するT先生がお墨付きをくださいました。●近年の若者の承認欲求の強さは格差社会の副産物であるT先生に、近年の若者の承認欲求の強さは格差社会の副産物であるといえる理由について話を伺いました。『斎藤環先生は著書の中で、若者に特有な「自分が何者であるか」という“実存の不安”を解消してくれたものは1970年代までは思想や宗教だった。その後は若者をアイデンティティ・クライシスから救うツールは心理学に取って代わり、今はそれが「その人のキャラ付けに基づいたコミュ力によって評価される承認の度合い」であるという主旨の指摘をされています。その分析は実に鋭いものですが、斎藤先生の場合はややもするとそういった“強すぎる承認欲求”“コミュ力偏重主義”の悪い面にスポットを当てすぎの面もあると思います。今のわが国では、富裕層の家に生まれさえすれば、その子どもは大抵のものを手にすることができます。運動能力も外国語を話す力も医学部に合格する学力も楽器を演奏する能力もコンピュータのプログラミングをする能力も、お金に糸目をつけずに習わせてさえもらえるなら誰だって身につきますし、それによって収入の高い職業に就くことも容易になります。一方、一般的な庶民の子どもたちはというと、そのような“お金が要る特技や能力”はなかなか身につきません。では、庶民の子がちょっと上に行くにはどうしたらいいか。コミュ力で“いい会社”に就職するか、笑いを取る力で“お笑い芸人”から“タレント”や“文化人”を目指すか 。そういった方法が近道と言えるでしょう。つまり、近年の若者の承認欲求の強さは格差社会の副産物だと言うことができるのです』いかがでしょうか。日ごろから中高生や大学生の心の相談に応じている町の精神科医は、若い人たちの承認欲求の強さやコミュ力志向の“良い面”にもしっかりと向き合っているように思えます。●寡黙でもしっかりと認められる人たちがいるおしまいに。筆者には世間から「社会起業家」と呼ばれているような若い知人が何人かいます。女性も男性もいますが、その人たちに共通していることは、「育った環境はどちらかというと逆境だった」という点です。そして彼らは自分の体験に基づいた願いから、子どもたちの未来が親の経済力によって制約されることのないようにと無料の学習塾や無料の食堂を運営し、しっかりと地域社会から「承認」されています。普段の彼らは“キャラ”とは縁遠い“地味”な人たちで、おもしろいことを言って笑いを取ることもありません。むしろ“寡黙”な印象を受ける人が多いのですが、ひとたび自分たちがやろうとし、やっている活動を理解してもらい協力を得たいというときには、並々ならぬ情熱と「承認欲求」をもって語りかけて来るのです。そういうときの彼らのコミュニケーション能力はとても高い。若い人たちの承認欲求が強いことは、悪いことばかりではないと筆者は思います。というよりも承認欲求の強さは昔から、機会になかなか恵まれない若い人たちの原動力 になってきたのではないでしょうか。斎藤先生が著書で指摘するような『キャラの相互確認に終始する毛づくろい的コミュニケーション』としてだけでなく、機会に恵まれなかった若者が現状を打破するための質の高いコミュニケーション能力 につながるものでさえあれば、“承認をめぐる病”には良い面もあるのではないかと筆者は思うのですが、みなさんはどうお考えになるでしょうか。【参考文献】・『承認をめぐる病』斎藤環・著●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年10月18日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。30代以下のみなさんにはあまり馴染みのない言葉だろうと思いますが、1990年代の前半にわが国でもメディアで大きく取り上げられた概念で、『フィンランド症候群 』というものがありました。フィンランド保険局が40歳から45歳までの管理職約600人を選んで定期検診・栄養管理・運動指導・酒タバコ塩分の抑制を義務づける一方で、同年代同職種600人の別グループを選定し定期的な健康調査票への記入だけを依頼したうえで、あとは自由になさってくださいとしました。1974年から1989年までつづけられた追跡調査の結果、15年後に出た答えは、「後者の健康管理されなかったグループの方が健康で死亡率も低い 」でした。この事実のことを当時のわが国のマスメディアが『フィンランド症候群』と呼んだのです。健康管理の専門家ともいえる医師たちの中に今、「フィンランド症候群には根拠がある」と言い、現代人の“過度な健康志向”に警鐘を鳴らす人が次々に現れています。今回は「フィンランド症候群には根拠がある」と言う医師たちの論拠について考えてみたいと思います。●熊本市の元ラガーマン歯科医師は“依存”と“免疫機能低下”を指摘熊本市で歯科医院を開業する歯科医師の菊川明彦先生は、東京医科歯科大学ラグビー部でプレーした元ラガーマンですが、ご自身の『菊川歯科』のホームページの中でフィンランド症候群について触れ、次のような主旨のことを述べています。“フィンランド症候群を初めて世間に紹介したロラン・ジャカールとミシェル・テヴォスの共著『安らかな死のための宣言』では、「治療上の過保護と生体の他律的な管理は健康を守ることにはならず、逆に依存・免疫不全・抵抗力の低下をもたらす 」と指摘している。むろん必要な医療は受けなければならないが、健康保持には平生、自ら抵抗力をつけ免疫機能を高める工夫が肝要だ”ラガーマンらしい捉え方ですが、フィンランド保険局の調査で心臓血管系の病気、高血圧、癌、自殺等いずれの調査項目においても健康管理をされなかった人々のグループの方がはっきりと好結果を示している事実をみると、菊川先生の考え方には注目すべきところがあるのではないでしょうか。●気鋭の精神科医が語る「ストレスフルな人生こそ身体に悪く、NK細胞の不活性を招く」次に紹介させていただくのは多彩な評論活動でも知られる精神科医の和田秀樹さんの見解です。和田先生は筆者が介護退職するのと入れ違いで『国際医療福祉大学』に就職され、現在は同大学大学院の教授として教鞭をとられています。和田先生がその著作である『50歳からの活力人生』の中で、フィンランド症候群の根拠について述べられていることの主旨は、次のようなものです。“フィンランド症候群の教訓は健康に気を配らなかったグループの方が最終的には長生きした点にあり、それは心の問題が身体に影響を及ぼした結果と考えられる。結局、ストレスこそが身体に一番悪い。やれ「コレステロール値が高い」とか、やれ「塩分が過多」だとか、ガチガチに管理され言われつづけることが精神に大きなストレスを与えていた ということだ。つまり、あまりに健康を意識するのではなく、生き生きとした毎日を送ることこそが大切なのである。楽しく生き生きと生活することはNK細胞(ナチュラルキラー細胞)を活性化し、結果的に健康に結びつく。NK細胞は身体に入ってきた細菌を殺してくれるとともに身体が作り出す癌のもとになっている「できそこないの細胞」をどんどん掃除してくれる細胞で、60代になると20代のときの半分にその活性が落ちてしまう。加齢とともに癌が増えるのはそのためである。研究結果から、うつ状態になるとNK細胞の働きが悪くなり、コントや漫才などで笑い転げるとNK細胞が活性化されることがわかっており、つまるところ健康を気にしすぎるのではなく、楽しみを見つけて生き生きと暮らしていればNK細胞が活性化し健康な人生を送れることにつながる。フィンランド症候群の事実はそのように解釈することができるのではないか”いかがでしょうか。精神科の医師ならではの視点でとても参考になるのではないでしょうか。●フィンランド症候群に関連して筆者自身が思うことおしまいに、フィンランド症候群に関連して筆者自身が思うことについて、お話しさせていただきたいと思います。この原稿を書いている時点で筆者は56歳。もうすぐ57歳になりますが、ここ20年来ずっと健康診断を受けるたびに指摘される“検査結果数値が正常範囲を超えた項目”が3つあります。その3つの項目の数値が大幅に正常範囲外だと、そのことはとても珍しいある難病に罹患(りかん)している可能性を示唆するため、30代後半のころの筆者はこの検査結果数値のことを気にするがあまり、これといって気になる身体症状もないのに、うつ状態を呈するようになってしまったのです。学校も仕事も休んだことがないくらい丈夫な筆者が、健康診断の結果の数値を気にするがあまり心を病んでしまった わけです。筆者はその後、お酒もタバコもやめていわゆる“摂生”を心がけたのですが、その3項目に関しては数値はあまり改善しないまま今日に至っています。そうこうしているうちに40代に入ったころでしょうか。腹部にちょっとした違和感を感じてかかった都内内科クリニックの院長先生(50代男性)が、こう言われたのです。『血液検査の結果に3つほど気になる数値の項目はあるけれど、それ自体には腹部の違和感との関係はない。今、違和感がもう消えたのであればそれでけっこう。数値よりも症状が大事。仮に万が一、検査結果数値が警鐘を鳴らしているような珍しい病気が潜んでいたとしても、その確定診断を受けたところでその病気は癌などとは違って現時点の医学では完全には治せませんよ。癌なら早期に発見すれば大方治せますがね。だから診断を確定することに無為な時間を費やすよりは、仕事もプライベートも思い切り楽しんで天寿を全うすることの方がよほど素晴らしい生き方ではないかと私は思います』筆者は目から鱗が落ちるように気持ちが晴れ、うつ状態もこのお話を聞いた日を境に治りました。その内科医によると、おそらく腹部の違和感も心身症的なものであったのではないかということでした。現在でも3つの項目の数値は正常範囲外ですが、仕事も日常生活も何の問題もなく、一般的な50代の男性よりも健康だと自分では思っております。うつ状態に陥っていたころの筆者はフィンランド症候群でいうところの第1のグループ、すなわち“ガチガチの健康管理によって精神に大きなストレスを受け、心が健康でいられなくなった 人々”の類型に属してしまっていたのだろうと思います。もちろんだからといって健康のことを全く気にせず酒もタバコもやりたい放題でいいというわけではありませんが、人間にとって一番の健康法は健康を気にしすぎずに楽しく生き生きとした日常を送ることであることだけは間違いないようです。フィンランド症候群の事実がわたしたちに教えてくれていることも、そういうことなのだろうと思うのです。【参考文献】・『50歳からの活力人生』和田秀樹(著)・『安らかな死のための宣言』ロラン・ジャカール、ミシェル・テヴォス(共著)【参考リンク】・フィンランド症候群 | 菊川歯科()●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年10月11日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。みなさんは「ドクターハラスメント」という言葉をご存知でしょうか。福島県出身の外科医・土屋繁裕氏(故人)が最初に使用しはじめた言葉で、 “医師(ないし看護師)という絶対的に優位な立場にあるのをいいことに患者や患者家族に心ない発言や行動をする”という、医療従事者による患者への嫌がらせ行為 のことを言います。この「ドクターハラスメント」(以下、「ドクハラ」と略します)ですが、地元住民の人たちから慕われているかかりつけ医などにはあまり見られませんが、大学病院や大きな総合病院 ではしばしば見られます。筆者は自分自身が、というよりも亡くなった両親の介添え人として大病院を受診した際に何度か経験し、嫌な思いをしたことがあります。ドクハラの実態とドクハラ医師(看護師)に当たってしまった場合の対処法について、一緒に考えてみましょう。目次こんなふうに感じたら、ドクハラのおそれがありますドクハラ医師がとるハラスメント行動の具体例ドクハラ医師への対処法~故・土屋医師の提言をもとに~●こんなふうに感じたら、ドクハラのおそれがあります身近な例を挙げるのであれば、次のように感じたら、ドクハラのおそれがあります。・医師の態度が面倒くさそうに見える・患者の不安をあおって自分の治療方針に服従させているかのように見える・不必要に怒ったり怒鳴ったりしているように見える・患者の意見などははなから聞くつもりがないように見えるいかがでしょうか。以上は筆者が実際に経験してきた、ドクハラ医師(看護師)に出会ったときの感触です。この感触を持ったとき、ドクハラ医師たちがその後とってくるハラスメント行動とは具体的にどういったものがあるでしょうか。●ドクハラ医師がとるハラスメント行動の具体例ドクハラ医師たちがとってくるハラスメント行動の具体例として、筆者自身が体験したものだけでも次のようなものがあります。・入院患者に対して医師側の治療方針に全面的に従ってくれないと管理が大変でやっていられないという趣旨のことを看護師と一緒になって患者家族に言ってくる・自分の医療技術の未熟さが一定程度原因と考えられる予後の悪化にも、「加齢のせいでどうしようもないのだ 」という説明をしてくる・長年生活を共にした家族ならではの提案をすると、「お好きなようになさったらいいんじゃないですか。どうなっても知りませんよ 」などといったように声を荒らげる・検査の結果や数値のみを絶対視し患者の実感に耳を傾けようとしないため、その患者にとっては高いリスクを伴う手術や治療方針を主張・強行し、結果として患者の余命を短くするみなさんの中にも、「これって分かる」「こういうこと、自分にもあった」と思われるかたがいらっしゃるのではないでしょうか。●ドクハラ医師への対処法~故・土屋医師の提言をもとに~それでは、ドクハラ医師に当たってしまった場合、患者や患者の家族はどうしたらいいのでしょうか。土屋繁裕先生の生前の著作『ストップ・ザ・ドクハラー医者のハラスメントに患者はどうすべきか』では、医師の診察を受ける患者の側が心がけるべき“意識の持ち方”についていくつかの提言をしていますので、それをもとにまとめてみましょう。●ドクハラ医師に当たってしまったときに患者と家族が心がけるべき意識の持ち方(1)病院はここしかないという固定観念を捨てる こと。大学病院や大きな総合病院でなくても「自分にとってよりよい医療機関はある」という考えを持つこと。(2)病気について勉強したうえで、自分の体については自分の経験からその健康状態を判断する こと。たとえ検査数値が正常範囲を超えたものであってもいたずらにくよくよせず、医療を受けることは数値を少しでも正常値に近づけるための手段だと考えること。(3)患者側の意見、心情、希望、要請を堂々と語る こと。患者本人が気弱になっていて言えない場合は介添えの家族から話す。医者は患者が病気を治すために契約した技術者であることを認識し、治す主体は患者自身なのだから患者の意思や感情を無視するような医者とは契約を解消するくらいの気持ちをもつこと。----------現実にドクハラ医師に遭遇してしまった際に、されるがままにドクハラを受けていると、ますますドクハラが横行してしまいます。わが国では医師という職業に就いている人の中に一定程度の“特権階級意識を持っている人”が存在することは事実で、これは医師を目指す人にいまだに世襲の人が相対的に多く、親や育った環境の影響で勘違いをしてしまっていることが原因です。患者サイドが勇気をもって、「先生、自分はこう思うのですが」と毅然として切り出すと、それまで患者をなめていたような医師の態度が変わり、そこから信頼関係を築いて行ける場合があります。これは、上述したような3つの意識をこの患者は持っているなと医師が畏れたためであり、その意味でもぜひ、ドクハラ医師に当たってしまった場合には上記の3つの意識をしっかり持って対処していただきたいと思います。【参考文献】・『ストップ・ザ・ドクハラー医者のハラスメントに患者はどうすべきか』土屋繁裕・著●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/香南
2016年10月04日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。筆者は以前『パピマミ』に、『おじいちゃんが豹変! 「急に怒りっぽくなった人」に潜む認知症リスク』というコラムを寄稿しました。そこで、成人でそれまでとは人が変わったように怒りっぽくなったような症状に遭遇したときには、念のために認知症を疑って早期の対処につなげることを筆者自身の体験から提唱いたしました。ところがこの『易怒性(いどせい) 』と呼ばれる急に怒りっぽくなる症状、その怒りっぽさの質や付随する周辺症状の有無によっては、認知症のみならず、さまざまな精神障害や脳神経外科的な予後のよくない病気に広くみられる症状 であることを、筆者はその後ある悲しい出来事を通して知ることになります。今回は認知症に限らず「いくらなんでも怒りっぽすぎはしないか」と感じたときに疑ってみるべき病気について、考えてみたいと思います。目次あんなに優しかったママがなぜ?急激に呈する易怒性には脳の器質的な障害の疑いが脳の器質的な障害が原因の“怒りっぽさ”には周囲のあたたかい見守りと寛容が不可欠●あんなに優しかったママがなぜ?同じ町内に、高学年の女の子を筆頭に3人のお子さんがいる30代後半のご夫婦がいらっしゃいました。お二人ともとても礼儀正しく感じのよいかたで、とくに奥さまは子どもたちに優しく、見ているこちらまでが幸せを感じてしまうほど素敵なママでした。その奥さまがいつのころからか、朝小学校へ登校する低学年の男の子のことを、人が変わってしまった かのようなきつい言葉と態度で叱りつけるようになってしまったのです。筆者はその横を通るたびに、「男の子だから厳しくしているのかもしれないけど、あそこまできつくあたることもないのになぁ」と思ったものです。それから半年ほど経ったころでしょうか、奥さまの訃報が飛び込んできたのは。奥さまは脳にできた腫瘍 が原因で、あまりにも短い生涯に幕を閉じられたのです。●急激に呈する易怒性には脳の器質的な障害の疑いが都内で心療内科・精神科のクリニックを開業するA先生(50代女性)は、下記のようにおっしゃっています。『易怒性そのものはさまざまな体調不良、とくに精神科領域の障害ではほとんど全てにおいてみられるものです。ただし、あまりにも急激に呈する易怒性には認知症の他にも腫瘍や脳血管障害など脳の器質的な障害が潜んでいる疑いがあり、怒りっぽさの質も他とはやや違う ところがありますので、頭部のMRI検査を行うなどの注意が必要でしょう』A先生によると、易怒性を呈する一般的な原因には次のようなものがあるとのことです。●内科的原因発熱、痛み、インフルエンザ、甲状腺機能亢進症、糖尿病、中耳炎、歯痛、水分不足など。●婦人科的原因閉経、更年期障害、月経前症候群、多嚢胞性(たのうほうせい)卵巣症候群など。●精神科的原因統合失調症、双極性障害(躁うつ病)、強迫性パーソナリティ障害、アルコール依存症など。●神経内科・脳外科的原因認知症、脳血管障害、脳腫瘍など。----------この中で、最後の「神経内科・脳外科的原因」によって起きている易怒性こそが、それ以外のものとは『質的にやや違う』と、前出のA先生は指摘されているのです。●脳の器質的な障害が原因の“怒りっぽさ”には周囲のあたたかい見守りと寛容が不可欠千葉県市川市で包括的な地域医療とプライマリーケアを行う『仁和医院』を開業する医師の竹川敦先生は、かつて総合病院の精神科の勤務医だったころ、その易怒性のあまりの激しさから精神科病棟でしか対応できないとの判断で転院してきた、当時50代の“易怒性を主症状とした内科の患者さん”の思い出を、ご自身のホームページに記されています。医師や看護師に対しても、「何だ貴様は!」と容赦なく怒鳴りつけるその男性について竹川先生は最初、認知症の初期か躁うつ病の躁状態を疑ったとのことですが、脳外科での診断の結果、答えは悪性度の高い脳腫瘍 だったそうです。そのお話の中で竹川先生は、余命が持って半年くらいという男性の奥さまの“夫婦愛”を称賛されています。現代の最先端の医療技術をもってしても治せない病気は、まだまだたくさんあります。今回お話したような“激しすぎる易怒性”を呈するような脳の器質的な病気は、認知症にしても悪性度の高い脳腫瘍にしても、現時点では“医療技術で治せない病気”のうちに入るのだろうと思います。身近な人、愛する人がもしそのような病気にかかってしまったとき、わたしたちにできることは“生き方の工夫をして、生ききる手伝いをする”ことではないでしょうか。晩年その思いやりに満ちた人格を認知症のせいですっかり失ってしまった筆者の父親も、あんなにやさしい“理想のママ”だったのに脳にできた腫瘍のせいで人柄を変えられてしまった同じ町内の奥さまも、愛する家族のあたたかい見守りと寛容によって生ききり、旅立って行ったのです。今回のコラムは「あまりにも激しい易怒性を呈する病気の予後はあまりよくない」的な趣旨のお話になってしまったかのようにみえるかもしれません。しかし、「最近ちょっと怒りっぽすぎないかな」と周囲が感じた段階で早期に手を打つことによって、少しでもよりよく治療が奏功すればとの願いが筆者の本意ですので、ご参考になさっていただければ幸いです。【参考リンク】・仁和医院()●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年09月27日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。筆者は以前執筆したコラム『放置じゃ絶対治らない!? “引きこもり”が男性に多いワケと抜け出す方法』の中で、「今やわが国で50万人から100万人超にのぼるとされるニートやSNEPといわれるような“社会的引きこもり”の人が、 精神神経科的な治療の手助けなしに自然に立ち直ることはきわめて困難である」というテーマのお話をいたしました。大阪市で東洋医学も取り入れた『橋岡内科小児科診療所』を開業する医師の橋岡龍也先生はそのホームページの中で、『ニートやSNEPといわれる人たちは、引きこもっている本人は「これでいいのだ」と思っているケースが多いのにもかかわらず、親御さんたちが概して心配のあまりに不眠や鬱(うつ)の症状を呈して我々医者のところを訪れる。しかし、親御さんまで向精神薬や睡眠薬への依存症に陥ることを避けるためには、精神科的な治療を受けるのは引きこもっている本人たちだけにとどめた方がいい』といった主旨のことをおっしゃっています。これはどういうことなのか?一緒に考えてみましょう。目次1 精神科は社会性にまで関わる病気を治す場所2 引きこもりが増加したのは、若者たちが労働のコスパの悪さに気づいたから3 鬱に陥っている親御さんはまずは漢方を試してみては?●精神科は社会性にまで関わる病気を治す場所橋岡先生は内科が専門の医師でありながら、先生の診療所には鬱病の患者さんが数多く訪れており、ほとんどの人が完治に至っているといいます。橋岡先生によれば、鬱病は内科学でいう『慢性疲労症候群 』という身体の病気と重なる部分がとても大きい精神の失調状態であるため、漢方薬で内臓を整え機能を改善することで内臓と関わりの深い精神の失調状態は治せるということのようです。これに対してニートやSNEPと呼ばれる人たちが陥っている“引きこもり”の症状は、それをきたす原因がその背景にある社会問題や経済問題、行政や政治の問題と深く関わっていると指摘。こういう人たちは、もともと社会学や社会心理学、哲学といった隣接分野と関連が深い精神神経科の引きこもり外来などを受診するのが合理的だというのです。簡単に要約するなら、引きこもりに苦しむニートやSNEPは精神神経科を受診すべきだが、引きこもりの子どもを心配するあまり鬱に陥っている親御さんは内科的治療を受けた方がいい 、ということになります。●引きこもりが増加したのは、若者たちが労働のコスパの悪さに気づいたからさて、橋岡先生はニートやSNEPといった引きこもりの患者さんが現代のわが国に増えた原因について、『幼少の頃から消費者の意識を持った子どもたちが労働することのコスパ(コストパフォーマンス)の悪さに気づいたこと。生まれつき何でも手にしている富裕層の子が特に努力をしなくても富や名声を得られる事実を横目で見ながら、一般庶民の子は努力したところで必ずしも報われるわけではないことを知り、働かないという最もコスパの高い生き方を選んだこと』とする哲学者の内田樹さんの仮説を高く評価されています。しかし、最近の内田さんは、“むしろ優秀な若者が、いまだに競争至上主義のような空気の漂う就活の現場に気持ち悪さを感じ 、あえて就活をせずに里山暮らしや社会起業家の道へと向かいつつある傾向”を指摘しています。そしてなおかつ、“以前だったら引きこもることにコスパのよさを感じていた若い人たちが、以前よりやや能動的な競争しない生き方を選ぶようになってきている”としています。その意味では、わが国における社会的引きこもりの増加の問題は、筆者が過去のコラムで述べたような主旨に反して精神科医の力を借りずとも改善の方向に是正されている という内容の発言を、内田さんが折に触れてされていることを付け加えておきましょう。現実に、2016年9月7日に内閣府から公表された調査結果では、“引きこもる人”の数そのものは前回の2010年の調査結果に比べて減っていることが確認できます。内田さんの指摘の正しさを、ある意味で証明しているといえるのかもしれません。もっとも、数は減っても“引きこもる人の高齢化と長期化”の問題が、今回の調査で新たに浮き彫りになってはいますが。●鬱に陥っている親御さんはまずは漢方を試してみては?おしまいに今一度、引きこもるお子さんの将来を案じて不眠や鬱に陥っている親御さんたちに向けて一言申し上げたいと思います。それは、橋岡医師によれば親御さんの方は“慢性疲労症候群という体の病気 ”の状態なので、いたずらに精神科を訪ねて向精神薬や睡眠薬の処方を受けることはおすすめできないかもしれないということです。橋岡診療所のような東洋医学も取り入れた内科の医療機関で、漢方薬による治療を試してみるのもいいのではないでしょうか。もっとも橋岡先生でさえも『漢方薬がなぜ効くのかは完全には解明されていません』とおっしゃるくらい東洋医学の分野はいまだに謎の多い世界ではあります。ご興味がおありの方は漢方を扱っている病院へ相談にいってみてはいかがでしょうか。【参考リンク】・漢方勉強室 | 橋岡診療所()●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年09月20日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。みなさんの職場に、“真面目で仕事熱心ではあるのだけれど部下が働く職場環境の改善などには関心がなく、 本社の役員陣を喜ばすことばかり考えていて有力者たちが望むことを権威主義的な方法で現場に押し付けてくる管理職”はいませんか?都内でメンタルクリニックを開業する精神科医のT先生(50代女性)は、『そのような上司は強迫性パーソナリティ障害の患者さんかもしれませんよ』と言います。『価値観が固定的であるため耳の痛いアドバイスをしてくる人を排除しようとする傾向があり、運悪く部下となってしまった人たちにとってはこの上なく迷惑かつ頭の痛い存在となります』とのことです。この『強迫性パーソナリティ障害』 について、もう少し考えてみましょう。目次1 「失礼ではありませんか」が口癖。不毛な夫婦生活。女性よりも男性に有病率が高い2 いっそ中間管理職よりもトップリーダーに向くかというと、そういうわけでもない3 強迫性パーソナリティ障害の上司に当たってしまったら●「失礼ではありませんか」が口癖。不毛な夫婦生活。女性よりも男性に有病率が高い『強迫性パーソナリティ障害は流儀や礼儀、秩序、特定の美意識・価値観といったものへのこだわりが強すぎ、それを完璧に遂行しようとして支障をきたす、こころの病気です。真面目なのは悪いことではないのですが、自分の基準を相手にも押しつけてしまうため、自分も苦しみますが周囲のことも不必要に苦しめる ため、専門医による治療を受けることが望ましいと言えます。この病気になる原因はいまだにはっきりとはわかっていませんが、幼少期に厳しすぎるしつけを受け、「こんなに頑張ってるのになかなか褒めてもらえない」といった生活背景が影響しているのではないかとされていて、診断には成年早期までにこのような様式を呈していたという証拠が必要となります。女性より男性に有病率が高く、「そういう言い方は失礼ではありませんか」というのが口癖で、自分の家庭を持っている場合でも、一般的に私生活・夫婦生活は不毛なものになりがち という特徴があります』(50代女性/前出・精神科医)●いっそ中間管理職よりもトップリーダーに向くかというと、そういうわけでもないこころの病気の専門家からこのようなお話を聞くと、「それならいっそこのような人は中間管理職というよりもトップリーダーになってしまえば、上からよく思われたいといった強迫観念にとらわれずに、のびのびと良い仕事ができるのではないか」と仰る方もいるでしょう。でもちょっと考えてみれば、そういうわけでもないということが分かると思います。社長になったからといって、気を使うべき有力者や目上の存在が皆無になるわけではない からです。会社内ではトップでも、親会社のオーナーに気に入られたいばかりに社員に理不尽な要求をする経営者はいたるところに見られます。計画が少しでも狂うと異様な厳しさで部下にあたったり、仕事全般の完璧な遂行を強いたりするといった症状がこれに該当します。このように、“自分よりも力の強い者”や“自分が絶対と信ずる価値観や美意識”に対する強迫観念が強すぎるがために、自分自身の日常生活のみならず周囲をも無用な混乱に陥れてしまっている人 は、一般的な企業社会だけではなく学校の中にも自治体の中にも行政の世界にも存在するものです。●強迫性パーソナリティ障害の上司に当たってしまったらこのような特徴をもつ強迫性パーソナリティ障害ですが、有病率は一般人口の1%もあり、精神科を訪れる外来患者の3~10%もの人がこれに該当する と言われています。つまり、この障害をもつ人は誰にとっても身近に普通にいるということなのです。したがって、配属された部署の直属上司が強迫性パーソナリティ障害の有病者であるという事態は、読者のみなさんにとっても一定の確率で起こり得ることです。『強迫性パーソナリティ障害の患者さんは個人差が大きいため、全ての人が精神科の治療を要するというわけではありません。また、治療を要する場合でもカウンセリングなどの心理療法と薬物療法で症状を改善することは期待できます。自分に対しても周囲に対しても細かいことにこだわりすぎるような点は、やはり円滑な人間関係と日常生活に支障をきたす原因となりますので、精神科の専門医を受診された方がベターです』(50代女性/前出・精神科医)ただ、そうは言っても自分の上司が強迫性パーソナリティ障害の有病者だった場合に、本人に直接「精神科を受診した方が良いですよ」とは言えません。そのため、社内にハラスメント対策委員会のような部署がある場合にはそういった部署に相談したり、ない場合には一階級上の上司に直接相談したりするという方法もアリかと思います。●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年09月13日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。千葉県市川市で『仁和医院』という診療所を開業する医師の竹川敦先生は、専門は心療内科・精神科ですが、小児科や在宅プライマリーケアなど専門にとらわれない包括的な地域医療をモットーにされているお医者さまです。竹川先生はそのホームページの中で、『老いと向き合うことは人間にとって相当のストレス。認知症は自分が老いて行く姿と向き合えなくなることによってストレスから解放され、最終的には多幸症といういつも幸せを感じる状態を手に入れて最期を迎える、“神様がくれた病気 ”なのだ』という趣旨のことを述べておられます。実の父親を認知症でなくしている筆者は、この竹川先生の説について「よく分かる」面と、「実際に介護をする家族にとって、認知症はそんなきれいごとではない」という気持ちが混在し、複雑な思いがあります。認知症は神様がくれた病気なのか、一緒に考えてみましょう。●認知症は“死に至る病気”ですご家族に認知症患者の方がいらっしゃらない人にとっては、「認知症って、直接の死因となるような病気ってわけじゃないでしょう」という感覚がおありかもしれません。しかし、そうではないのです。仁和医院のホームページにもあるように、アルツハイマー型の認知症は脳の神経細胞の脱落や脱髄などから脳が委縮する進行性の病気です。始まりは単なる物忘れでも、次第に目的地に行けないなどの高次機能障害をきたすようになり、さらに進むと妄想や人格変化などの周辺症状を呈し、やがては歩行不能となります。そして、最後は食べない・しゃべらない・動かないの『失外套(しつがいとう)症候群 』という大脳皮質の機能が完全に失われた状態となって死に至る、とても残酷な病気なのです。発症してからの余命は医師によって諸説ありますが、数年から15年程度と言われています。筆者の父親は認知症の進行スピードがとても速く、発症年齢が高かったせいもありますが、診断が確定した半年後には失外套症候群の状態に陥り、この世を去りました。●介護する家族にとっての正念場は周辺症状が現れるようになってから認知症の患者さんを介護する家族にとっての正念場は、周辺症状が現れるようになってからです。筆者の父親もそうでしたが、この世で一番患者さんのことを心配し献身的に介護してくれるパートナーに対して嫉妬・妄想を抱く傾向があり、人によって程度の違いはありますが、暴力行為に発展する こともしばしばです。そうなるとやがて着替えの仕方もお風呂の使い方も、トイレで用を足す方法もわからなくなりますので、施設に入らない限り介護する家族に平穏な時間はありません。●家族が「神様がくれた病気」と思えるのは認知症の末期。それも後からのこと……妄想や徘徊をきたした父を介護する中で、筆者がそれでも「認知症は神様がくれた病気なのかもしれない」と思ったことが一度だけありました。父がなくなる前々日の夜、すでに食べることもしゃべることも動くこともできなくなっていた父の布団を直してやると、しゃべれないはずの父が振り絞るような声で確かに「ありがとう」と言ったのです。後から思えばですが、筆者はあのとき神様が乗り移った父がくれた最後の言葉を受け取って、幸せを感じていたと思います。父がその翌日には意識を完全に失って翌々日の未明には帰らぬ人となったことを思うと、認知症患者さんを介護する家族が「認知症は神様がくれた病気なんだなあ」と素直に感じることができるのは、認知症のほんとうの末期になってから のことであって、それも後からそう思えるのではないか。今ではそんなふうに振り返れるようになりました。【参考リンク】・仁和医院ホームページ()●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年09月06日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。筆者が小さな健康食品販売会社を経営していたころに面識のあった中小企業の社長さんが、「俺の健康の秘訣は、俺を出し抜いてうまくやりやがった同業者が潰れたニュースや傾いた噂を聞くことさ」 と言っていました。ずいぶん下品なお話だとは思いますが、そういう筆者も、当時さんざん買いたたかれてろくに儲けさせてくれなかった大手のチェーンストアを運営する企業に、公取の指導が入って懲らしめられたという記事を新聞で読んだときには、なぜかスカッとした記憶があります。都内でメンタルクリニックを開業する心療内科医のM先生(50代男性)は、『あまり感心できる方法ではありませんが、恨みや怒りの感情をこういった“代替仕返し”とでも言うべき方法を用いて溜め込まないようにすることは、直接報復のようなとんでもない発想に向かうよりは遥かにマシなことですし、心と体の健康にも良いことです』と言います。●蓄積した恨み・怒りの感情は、鬱症状ばかりか高血圧のような身体症状を引き起こす怖れもM先生はこのようにも言っています。『怒り、恨み、焦り、落ち込みといった精神的ストレスは、鬱を引き起こす原因になると同時に、高血圧に代表されるような身体症状の誘発に影響することが医学的に証明されています。ストレスを受けると交感神経が活性化するためアドレナリンが分泌されて興奮状態になり、循環する血液の量が増えて血管に負担がかかり、血圧が上昇するようになるのです』つまり、あまり大きな声では言えないような俗っぽい方法であっても、恨みや怒りなどの強いストレスは、社会に迷惑をかけない何らかの方法 で解消しておかないと、心や体の健康に悪い影響を与えかねないということなのです。●圧倒的に力の強い者やアンフェアを繰り返す者の失敗なら喜んでもいい?(『水戸黄門』や『半沢直樹』の効用)脳科学者で医学博士の中野信子さんは、心理学者の澤田匡人さんとの共著『正しい恨みの晴らし方』の中で、『シャーデンフロイデ』 という概念について触れています。『シャーデンフロイデ』とは、ドイツ語で“他人の不幸(失敗)を喜ぶ気持ち”を意味し、『水戸黄門』や『半沢直樹』のようなシャーデンフロイデを利用したドラマは、視聴者が普段から持っている恨みや妬みの感情をドラマの中の悪人に対して“代替仕返し”させてくれる効用があるためヒットしやすいことを指摘しています。ただし、代替仕返しをしてスカッとするにしても、そこには最低限のルールはあると思います。それは、失敗する(不幸になる)者が、普通の庶民よりもずっと強い力や権力を持っている者であること。あるいは、ずるい方法やアンフェアな手段を用いて自分だけが金儲けや出世を手に入れるといったことを繰り返しているような者 であることです。●“仕返し”よりは“見返し”の方が建設的だが、一番いいのは“寛容”であること『正しい恨みの晴らし方』では、“仕返し”よりは“見返し”の方が建設的であると述べています。たとえば、サラリーマンとしては要領が悪いために会社を追われるような形で退職し、独立開業するしか食べていく道がなかった人が、自分で起こした会社を抜群のアイデアと行動力で大きくし、世間から「偉大な経営者」と呼ばれて古巣の会社を見返すといったようなケースがこれに当たります。しかし筆者は、“見返し”よりも良い“恨みつらみを溜め込まずに心身ともに健康でいつづける方法”は、“寛容”になること ではないかと思うのです。自分の年齢になるとだんだん分かってくるのですが、人生に勝ち負けなんてありません。恨むなら“一所懸命になり切れなかった自分”を恨めばいいのであって、他者にはすべからく寛容であればいいのです。『鬱も高血圧も呼び込まず心身ともに健康でいつづけるために一番良い心の持ち方は、“許す”ことです』心と体の問題の専門家であるM先生もこうおっしゃっています。肝に銘じたいものですね。【参考文献】・『正しい恨みの晴らし方』中野信子、澤田匡人(共著)●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年08月30日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。お子さんが思春期に反抗的になるのはある意味当然のことですが、ごく稀に“反抗期のない子 ”がいます。親や祖父母のことが大好きで、「パパやママ、おじいちゃん、おばあちゃんのことをとにかく悲しませたくない」という子どもたちです。脳科学を専門とする医学博士でタレントの中野信子さんは、そういった“反抗期のない子”について、『脳の前頭前野の背外側部(はいがいそくぶ)の機能が弱いため、ものごとを自分の脳で合理的に考えることができない という特徴があり、親や祖父母の価値観に洗脳されやすい 』と、おりにふれて指摘されてきました。今回はそのような“反抗期のない子どもたち”について一緒に考えてみましょう。●筆者の旧友N君は、お父様のことが大好きで議員を世襲し、挫折して自ら命を絶ちました筆者の中学・高校時代の友人で、N君(故人)という人がいました。故人の名誉のために実名は伏せさせていただきますが、N君は正真正銘のセレブリティーの家に生まれ育った御曹司で、お父様は巨大与党所属の元国務大臣でした。愛されて育ったN君は本当に“いいやつ”で、愛すべき好青年でした。N君がどれほどいいやつだったかを示すエピソードが一つあります。高校のとき、勉強が苦手な友人たちは試験前になると筆者の“鈴木ノート”を借りて一夜漬けの勉強をし、及第点ぎりぎりで進級・進学したのですが、みんな友達のよしみで“鈴木ノート”を借りられて当然といった感覚でした。それに対しN君だけは試験が近づくと、「鈴木、申し訳ない。俺にもノートを貸してもらえないかなあ」と、膝をついて頼みに来たのです。あのN君であれば思春期に親に反抗したとは到底考えられません。案の定N君は30代のはじめに衆議院議員だったお父様が亡くなられた際、自分の意思でやっていたテレビ局のキャスターの仕事を辞め、巨大与党から補欠選挙に擁立されて衆議院議員に当選したのでした。高校生のころに垣間聞いた話によると、N君は「男たるもの与党の政治家となって国を動かせ」というお父様の話を素直に「はい」と聞き、年齢相応に反抗するどころかむしろそんなお父様に憧れていた ようです。ところがそんなN君の素直さは、お父様のみならずお父様の“取り巻き”だった人たちへの素直さにも直結してしまいました。取り巻きの人たちからもすっかり洗脳されてしまったN君は、その後公職選挙法違反や受託収賄容疑などで3度にわたって逮捕され、失意のまま41歳で自ら命を絶ったのでした。●親を好きであることが生きるうえで合理的なケースもあるが、逆もあるN君のように、立派なお父様のことが大好きで、そのお父様から話を聞き、おじい様のことを心から尊敬する。そのこと自体はけっして悪いことではなく、素敵なことです。そして、中には大好きな親と同じ職業に就いて成功する人もあり、親を好きすぎることが合理的な生き方でもあるケースは確かにあります。ただ、N君のようにややもすると親の価値観に影響されすぎているうえに“思いやり”もありすぎる人の場合、他人とのタフな駆け引きを必要とする政治家のような仕事が果たして適職であったかというと疑問は残ります。●脳科学に造詣の深い精神科医は、思春期に複数の価値観にふれることをすすめている都内でメンタルクリニックを開業する精神科医のA先生は脳科学にも造詣の深い医学博士ですが、N君のようなケースについて次にようにおっしゃっています。『Nさんに反抗期があったかなかったか、直接面識のない自分には分かりようもありませんが、お話だけからも明らかなことは、Nさんが非常に“思いやり”の深い人であったということです。これは、前頭前野の中でも腹内側眼窩前頭皮質(ふくないそくがんかぜんとうひしつ)と呼ばれる部分が一般的なレベルよりも発達しているためで、Nさんはこのケースに該当すると思われます。思いやりが深いことは素晴らしいことなのですが、眼窩前頭皮質が発達していて背外側部の機能が弱い場合、「思いやりが深くて打算的にはなれない 」という、政治家には最も不向きな人格に育っていたおそれは否定できません』(50代女性/都内メンタルクリニック院長、精神科医)自分の脳は人間性に強く関与する前頭前野のどの部分が発達していてどの部分に弱さがあるのか。残念ながらそれを自分で計り知ることは難しいと言えます。しかし、偏りを最小限にとどめることはある程度は努力で可能になるのではないでしょうか。A先生は言います。『思春期には、できるだけ複数の価値観にふれる ことをおすすめします。自分の親、自分のおじいさん、自分の家族の価値観には親近感はあるでしょうが、この世の中は全然違う感性を持った人間が「共に暮らしている」のだということを意識して自覚した方がいいでしょう。特にますますグローバル化が進むこれからの時代は、その方がストレスに対してタフかつ安全に生きることができるのではないかと思います』(50代女性/前出・精神科医)----------最後に、今はなき愛すべき友N君が、これからも人間どうしの足の引っ張り合いのない天国で笑顔で過ごされますよう祈念しながら、締めくくらせていただきたいと思います。合掌。●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年08月23日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。今、メンタルヘルスの世界で『レジリエンス 』という概念が注目されています。日本語に訳すと「精神的回復力」という言葉になりますが、もう少し具体的に言えば「逆境を乗り越えて適応する力 」のことです。要するに、“レジリエンス因子”を十分に持っている人はその働きによって、精神的に落ち込むような事態に直面しても重篤なうつ状態などに陥ることが少なく、なおかつ身体面での健康も損なう確率が低い、という仮説の中核をなす概念のことです。精神科医の斎藤環さんは2016年5月発売の著書『人間にとって健康とは何か』の中で、『大衆から人気を博し支持を得る人物は多少なりとも“悪”の要素をはらんでいる必要がある が、その理由は彼らが持つレジリエンスの高さと健康さに所以する』といった趣旨の論説を全編にわたって展開されています。職場や家庭でさまざまなストレスにさらされることによって、“うつ状態”に陥ってしまうことが多い私たち現代人。レジリエンスを高めることでうつ状態は改善するのかということについて、考えてみたいと思います。●“レジリエンス因子”にはどのようなものがあるか都内でメンタルクリニックを開業する精神科医のT氏によると、レジリエンス(逆境を乗り越えて適応する力)の因子には、次のようなものがあると言います。(1)コルチゾールやセロトニンなどの生理学的なファクター(2)自尊感情(特に、多くの苦難を経験したのに自尊心が強い者はレジリエンスが高い)(3)肯定的な未来志向(4)自分を支持してくれる人がそばにいてくれること(5)ユーモアのセンス(6)好奇心が強く、新しいもの好きであること(7)楽観主義(8)鈍感力(9)変わらない愛着や愛情を注ぐ対象があること(郷土、パートナー、子どもなど)●レジリエンスを高めることでうつ状態は改善するが、レジリエンスを意識的に高めるには専門医の指導を受ける方が望ましいこのT医師によれば、「レジリエンスを高めることでうつ状態は改善するか」といった類いの問いは、『論じる必要もないほど自明なこと』だといいます。ただT医師は、「それではレジリエンスは自分で意識して高めることができるのか」という問いには、『レジリエンスが高い人の多くは育った環境などの自分では選択することのできない要素によってレジリエンスが鍛えられてきたため、既に大人になってしまったレジリエンス低めの人が努力でレジリエンスを高めるためには精神神経科の医師による専門的な指導 を受ける方が望ましい』とおっしゃっていました。●“悪(ワル)”ばかりが高いレジリエンスを持っているというのもちょっと……こうして斎藤環先生の著書やT医師のお話から考えてくると、“悪(ワル)”ばかりが高いレジリエンスを持っているというのもちょっと、どうしたものか……という思いになってしまいます。たしかに、親が何度も家業をつぶしその夜逃げに付き合ってきたような子や、勉強もスポーツも芸術も得意ではないため徒党を組んで“ヤンキー”をしていた少年少女たちが、下手なインテリなどよりたくましく地域社会でネットワークを作り、人によっては地域の活動を通して地方議員や場合によっては国政に進出するほどの出世を果たすといった例は多く、いくらでも実例を挙げることができます。もちろん、そういった人たちが“悪”だというのではなく、ワル的な強さを持っている という意味においてです。T医師が挙げたようなレジリエンス因子を、ごく普通の庶民の一人ひとりが今より少しでも高めることができれば、長引くうつ状態に悩む人はきっと減少することでしょう。そのためにはT医師が言うように「専門医の指導を受ける」か、あるいはまた「時が流れ環境が変わっても自分を支持してくれる愛すべき対象をもつ」ことが有効なのではないかと筆者は考えるのですが、いかがでしょうか。【参考文献】・『人間にとって健康とは何か』斎藤環・著●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年08月16日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。超高齢化社会を迎え、全国のママさんパパさんの御両親もおじい様おばあ様も多くはお元気でお過ごしのこととお慶び申し上げます。筆者も自分の親は二人とも他界したものの、妻の方はおかげさまで父親が90歳、母親が87歳とまだまだ元気に毎日を過ごしています。ところで、そのように元気な今のわが国の高齢者の人たちですが、実は“これだけは絶対に気をつけなければならない深刻な健康上のリスク” があることをご存じでしょうか。絶対に回避しなければいけないこと、それは“転ぶこと”なのです。定期的な一般健診もがん検診も血液検査ももちろん大切ではありますが、それ以上に“転ばないこと”こそが高齢者にとっては極めて大事なことなのです。どうしてでしょうか。●転んで入院生活に入ることで、医療の手にかかる状態から抜け出せなくなる傾向がある高齢者の多くは1つや2つの持病は持っています。それでも“一病息災”“二病息災”といった感じで明るく前向きに過ごすことで、病気に打ち勝ちながら生きているというのが本当のところです。実際、厚生労働省のホームページによると、日本人の場合男性の2人に1人、女性の3人に1人はがんにかかるそうです。しかし、積極的に適切な治療を受けることによって多くのがん患者は命までは落とさないですむようになってきました。また、がんではない病気なら高齢者のほとんどが何かしら持っていますが、“気にし過ぎない”で日常生活を続けることで、“医療過多”にならずに健康な生活を保っているという面もあります。ところが、ひとたび転んでしまい、特に大腿骨を折ってしまう と人生終盤の様相が全く違うものになってきてしまいます。手術をしなければ骨はつながりませんから寝たきりになってしまいますし、手術をしたらしたで高齢者にはさまざまなリスクが伴うものであり、入院生活に入ることによって病院側が“細かいことも見逃してくれなくなる”ため、さまざまなリスクが表面化し、“医療の手にかかる状態から抜け出せなくなる”傾向があるのです。●昨日まで何でも自分でやっていた人が、転んでしまうとわずか数か月で帰らぬ人になることも都内の総合病院の整形外科に勤務するある医師によると、高齢者が大腿骨頸部骨折に代表されるような外科的手術を伴う入院生活に入ることによる主なリスクは次のようなものです。(a)感染のリスク(b)麻酔のリスク(c)再骨折・脱臼のリスク(d)痛み・しびれ等の残存(e)歩行・移動能力の低下ないし喪失(f)内科的疾患の出現(g)認知症の出現(h)せん妄の出現(40代男性/都内総合病院整形外科勤務、整形外科医師)また、これは正確な統計がとれていることではないため、あくまでも個人的な談話として聞いた話ですが、『大腿骨頸部の骨折で入院・手術をした後期高齢者の人で半年以内で死亡する人の割合は実は一般の人がイメージしている数字よりもっと多い』と仰る整形外科の医師(60代男性/都内整形外科クリニック院長)もいるほどなのです。現実に筆者の母親はそれまで何でも自分ですることができていたのに、1月下旬に自宅の自分の部屋で転んで大腿骨頸部を骨折し、入院・手術してからというもの、日に日に全身の状態が低下 していき、5月下旬には帰らぬ人となりました。●高齢者は“転んだら最後”のつもりで周囲は細心の注意を~意外と見落しがちな注意点~おじいちゃんおばあちゃんに、いつまでも転ばずに元気で過ごしていただくために、周囲は“転ばせてしまったら最後”くらいのつもりで細心の注意を払う必要があります。もちろん皆さんそのつもりでやってはいるのですが、より一層ということです。そこでこのコラムでは、普通の健康な大人だと「そんなものが転倒リスクになるの?」と思うような、意外と見落しがちな転倒リスクについて触れて、しめくくりたいと思います。●(1)薬の服用状況に注意を高齢者の多くは多種類の薬を服用しており、その中には副作用としてフラつきや眠気、ぼうっとするなどの症状をもたらすものも多く存在します。それらの副作用が出ているときの歩行は、高齢者にはさせないように気をつけるべきです。●(2)靴下やスリッパは履かない方がいい靴下やスリッパは、滑り止め付きのものを常に履く習慣ができている場合を除いて、履かない方がいい かもしれません。裸足に慣れましょう。冬の寒い日に履かないと耐えられないと仰るのであれば、むしろ布団から出ずに休んでいることをおすすめいたします。●(3)日常の細かな整理整頓に無頓着になった方がいいその人のパーソナリティもあるので一概には言えませんが、日常の細かな整理整頓に伴う動き には多くのリスクが潜んでいます。ほんの一例ではありますが、几帳面だった筆者の母は滑り止めの付いていない“あったか靴下”を履いた状態でベッドのシーツを直そうとして滑って転び、わずか4か月後に帰らぬ人となりました。几帳面な高齢者に何か気になることがある様子を感じたら、何が気になるのか聞いて、できることは代わってしてあげるのがベターです。なお、(2)の裸足に慣れましょうという提案は、神奈川県で内科医院を開院する東邦彦医師もホームページで推奨していらっしゃいます。【参考リンク】・高齢者の転ばない暮らし方について | 東内科医院()●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年08月09日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。“イジる”と“イジメる”は違うのか?といった趣旨の議論が、中学生・高校生や彼らが通う学校の関係者の間でしばしばわき起こるようです。結論から言うと、やられている本人が「嫌だ」と感じているのであれば全て“イジメ”ということになるわけですが、驚いたことに「イジるのは“愛情表現”でイジられた子は自分の存在感を認識できるのだ」などとおっしゃる方が学校関係者の中にも居たりするようです。●中学時代に親愛の情の表現のつもりでイジっていた友は大学時代に自分から去って行った筆者には一人、忘れることができない少年時代の友人がいます。S君という中学校入学以来の友人で、中学校の3年間と高校の3年間、ずっと近くにいて部活動なども一緒にやった文字通りの“親友”です。おとなしい性格だったS君に対して筆者はあたかも漫才コンビのボケと突っ込みが如く、時にキツめのノリで接したり話したりすることがありました。もちろん周囲の雰囲気を和ませようと思ってやったことがほとんどではありますし、筆者にイジられているときのS君は仲間意識を感じているように見えて、変な話とても楽しそうにも見えたものでした 。でも本当はそうではなかったのです。めでたく同じ大学の学生になったS君はある日、「きみとは決別することにした。もう会うこともないだろうと思う」と言い残して去って行ったのです。●“イジり”はある意味で最悪の“イジメ”。イジられてツラさを感じたらまず相談を筆者にイジられていたときのS君は、いつもツラかったのです。そんなことに気づかなかった少年時代の自分は何と愚かだったのでしょう。実はS君はその後(お互いに28歳になっていた年に)筆者の結婚式にお祝いに駆けつけて来てくれ、筆者は随分と救われました。友だちをけっしてイジってはいけないという当たり前のことを学ぶまでこんなに時間がかかってしまった自分は本当に愚か者だったのです。精神科医の斎藤環さんは以前ご自身のSNSのページの中で、『若い世代はお笑い芸人が同業の芸人をイジる様子を“コミュ力”のロールモデルのように考えているフシがあるが、これはとんでもないこと。イジりはイジメるとイコール で、お笑い芸人発の間違ったコミュ力の最悪の副産物だ』という趣旨のことを述べられています。そう。“イジり”は明らかな“イジメ”に見えないからこそ、イジられている本人はなかなか誰かに相談することもできないため、ツラいのです。筆者は働くようになった後でイジられる立場に立たされてみて初めてそのツラさ・嫌さを自分の肌で知ったのでした。イジられることは耐えられないほどツラいこと です。だから、イジられてツラを感じたら先ず信頼のおける人や機関に相談してください。●これだけある! 今すぐに無料で相談できる窓口8つ“イジる”という行為は、何のことはない凶悪なイジメ行為の第一歩です。お子さんが「イジられている」と感じた段階で本人からでもパパやママからでも無料で相談できる信頼のおける窓口をご紹介させていただきますので、お役立ていただけたら幸いです。【24時間いじめ相談ダイヤル(全国統一ダイヤル)】・電話番号:0120-0-78310(なやみ言おう)※24時間対応【東京都いじめ相談ホットライン】・電話番号:0120-53-8288※24時間対応【東京都教育相談センター】・電話番号:03-3360-8008※平日9時~21時、土日祝9時~17時(閉庁日・年末年始除く)【子供の権利擁護専門相談事業】・電話番号:0120-874-374(はなしてみなよ)※平日9時~21時、土日祝9時~17時(年末年始除く)【東京都立小児総合医療センターこころの電話相談室】・電話番号:042-312-8119※月~木の9時半~11時半、13時~16時半(祝日・年末年始除く)【東京都立多摩総合精神保健福祉センター(こころの電話相談)】・電話番号:042-371-5560※平日9時~17時(土日祝・年末年始を除く)※多摩地区全域が対象【都立中部総合精神保健福祉センター】電話番号:03-3302-7711※平日9時~17時(土日祝・年末年始を除く)※港・新宿・品川・目黒・大田・世田谷・渋谷・中野・杉並・練馬区が対象【東京都立精神保健福祉センター】・電話番号:03-3834-4102※平日9時~17時(土日祝・年末年始を除く)※千代田・中央・文京・台東・墨田・江東・豊島・北・荒川・板橋・足立・葛飾・江戸川の各区と島しょ地域【参考リンク】・「24時間(じかん)子供(こども)SOSダイヤル」について | 文部科学省()●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年08月02日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。村松太郎さんという刑事事件の精神鑑定なども行っている精神科医の先生が、『「うつ」は病気か甘えか』という本を出版されて話題になったことがあります。もちろん村松先生自身は、「うつなんて甘えだ。甘えてないで出勤しろ!」と言うような根性論者でも何でもなく、「うつは病気である」と断言している、まっとうなお医者様です。しかし、世の中には“うつは甘えだ”派の医師が存在することも事実 で、筆者自身も以前、経営していた会社の業績不振に落ち込んで通院していたメンタルクリニックの先生から、「うつに甘えていないで仕事をしなさい!」と怒鳴られた経験を持っています。そんな中、「うつは甘えも何も、日本人がうつだと思い込んでいる病気のほとんどは『適応障害 』という病気であり、“うつは甘えか論争”自体がナンセンス」という見解を打ち出している医師がいます。●環境を変えることで改善する場合は、厳密に言うと『うつ病』ではない千葉県の市川市で心療内科・内科・小児科・在宅ケアの『仁和医院』を開業されている医師の竹川敦先生は、医院のホームページの中で、わが国では「うつ」を主訴で来院する患者の70%以上が実は『うつ病』ではなく、『適応障害』といってその人の性格そのものに起因するものなので、抗うつ剤の服用では本質的な改善は期待できない 、としています。竹川先生によれば、本当の狭義でのうつ病というのはノルアドレナリンやセロトニンといった脳内の神経伝達物質の活性低下による病気であるため、抗うつ薬がある程度まで特効薬として奏功するもののようなのです。また、本当のうつ病では環境を変えたからといって症状が改善するということはなく、うつの期間が3か月から長くても1年続いた後、必ず元の状態に戻る というもののようです。それでは「うつは甘え」と言われてしまうことの一因になっているようにも思える、“うつと適応障害との見間違い”について、もう少し考えてみましょう。●うつ病ではないのに性格的な甘えが原因でうつ状態になっている適応障害患者が多い「うつは甘え」という言い方は間違いで、正しくは「適応障害は性格的な甘えにも原因がある 」ということ。このことについて、前述の竹川敦医師は医院のホームページの中で次のように説明しています。**********『最近「現代型うつ病」とか「新型うつ病」という日本独自の意味不明の診断名が流行っているが、これらはいわゆる「適応障害」のことを指しており、うつ病とは全く原因も違うし、治療法も違うものである。症状が単に「うつ状態」というところだけが共通しているだけにも関わらず、あえて「うつ病」と診断名を付けることは診断を非常に曖昧にさせる。(中略)「うつ病は甘えではない」という概念は間違っていないが、実際はうつ病ではないのに性格的な甘えが原因で、うつ状態になっている患者は沢山いる。「うつ病は休ませなければならない」というのも確かにそうであるが、あくまで「うつ病」の患者さんに言えることで、性格的な甘えでうつ状態になっている患者に「うつ病」の診断をつけ、長期に休ませることは甘えを助長し、症状を悪化させているだけである』**********●性格的な甘えで働けないでいる患者を長期に休ませるだけの精神科医には責任が問われるこのように考えてくると、筆者が小企業経営者だったころ通っていた精神科の先生から言われた「うつに甘えていないで仕事をしなさい!」という言葉は、言葉足らずなうえ乱暴な表現であったことを別にすれば、「あなたは資金繰りのストレスに常にさらされる小規模企業の経営者という職業に適応するには性格的に甘えが強いことが原因で“うつ状態”に苦しんでいるという“適応障害” であるから、休むことよりも甘えていないで仕事をすることで現状を打破した方がいい。もしそれが無理なのであれば、資金繰りの苦しみから解放されるために会社を売却したり、廃業して自分に適した仕事に転業するとかしないと“うつ状態”は改善されない。抗うつ剤では治らない」という主旨のアドバイスを筆者に与えてくれていたわけですから、いたって的確な診療であったと言うことができます。逆に、「うつ病ですね。しばらく休んだ方がいい」と簡単におっしゃる先生を受診してしまったら、筆者はただでさえダメな経営者だったのに、もっともっとダメな経営者になっていたことでしょう。ですから、安易に「要・長期休養」の診断書を出すだけの精神科医には、ある意味でその責任が問われてしかるべきなのかもしれません。●本当の『うつ病』の診断方法それでは、患者の性格的な甘えに起因する『適応障害』ではなく、“本当のうつ病”であるかどうかを診断する方法を、竹川敦先生の医院のホームページからご紹介しておきましょう。本当のうつ病であると確定診断を下すうえでは、下記の手順を踏む必要があるとのことです。(1)全身倦怠感をきたすような身体疾患である可能性を除外すること。そのための身体的な診察と血液検査等を行うこと。(2)今までの経過から推測する。本当のうつ病の場合は一般的にうつの期間が一定期間続いたあと必ず元の状態に戻る という特徴がある。(3)性格因、環境因を除外すること。会社に行く前だけ調子が悪く休暇中は元気に遊びに行けるなどという場合はうつ病ではなく適応障害の可能性が高い。(4)本当のうつ病に特徴的な症状から推測する。環境に左右されることなく、毎日のように症状を認めている 場合はうつ病の可能性が高い。(5)治療効果から推測する。休職や配置転換といった環境調整を行っても症状が改善せず寝てばかりいる ような場合はうつ病の可能性が高い。----------いかがでしょうか。繰り返しますが、本当のうつ病はけっして「甘え」ではありません。その点についてはほとんどの精神科医のコンセンサスができているといっていいでしょう。ただし、性格因や環境因によるところが大きい適応障害の場合は、甘えの要素があることは否定しきれないということなのでしょう。人間は生活して行くためにはしょせん環境に適応しなければならないわけですから、それができないということは確かに「甘え」と言われても仕方のない面はあるのだろうと思います。最後になりますが、竹川医師によると、社会人の適応障害の原因となる性格は、『共依存 』『発達障害 』『境界型人格障害 』の3つのどれかでほぼ説明できるそうです。おそらく経営者だったころの筆者は『共依存』だったのであろうと思いますが、共依存の対象であった人たちはもう誰一人として生存してはおりません。懐かしい思い出の中にいます。【参考リンク】・仁和医院ホームページ()・適応障害 | 厚生労働省()●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年07月26日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。今のわが国で子どもを公立の小中学校に通わせている親御さんであれば、子どもの同級生の友達の中にかなりの割合で“名字が変わる”子がいらっしゃるかと思います。ご推察の通り、両親の離婚を理由とする例が大多数です。しかし、今回のコラムはそのような“名字が変わることになってしまった反抗期の子どもたち”を問題視するような立場では一切ありません。両親が離婚してどちらか一方の親だけになった子が必ずしも情緒不安定になるわけではないのです。そうでなく、母親であれ父親であれ祖母であれ祖父であれ姉であれ兄であれ、「反抗期に家族の愛情を確認できた子 であれば、今は反抗していてもきっと大丈夫」という精神神経科的スタンスに立って、反抗期のお話をさせていただきたいと思います。●思春期に反抗することは「身近な大人に見捨てられないか」という不安の裏返し東京都千代田区で心療内科・精神科の『ベスリクリニック』を開院する田中伸明先生は長年にわたり、「小中学生時代の反抗期に親や家族がいかにあるべきか」というテーマをもって臨床研究をつづけておられます。田中先生のホームページによれば、小中学校時代の反抗期・思春期の子どもの“いわゆる反抗的問題行動”は、「親や身近な大人から見捨てられないか」という不安の裏返しだといいます。田中先生によると、『この時期の子どもは、自立したい気持ちと甘えたい気持ちの間で揺れ動いています。時には甘えたい気持ちが強くなり、親に依存するような言動をとることもあります。その際には、しっかり家族の愛情を確認させてあげることが重要です』とのこと。つまり、両親の離婚などで親が一人になったから問題行動に出るというわけではなく、家族の中に自分を愛してくれていると確信を持てる大人がいないときに問題行動をとる 。田中先生はそうおっしゃっているわけです。●5歳で両親に捨てられた風間トオルさんの例に見る「愛してくれる家族さえいれば大丈夫」ここで思い出されるのは、『ビンボー魂おばあちゃんが遺してくれた生き抜く力』の著書がある、俳優の風間トオルさんのことです。風間さんは筆者より3つだけ年下の同世代ですが、5歳のときに両親が離婚してまず母親が出て行き、そのうちに父親も出て行ってしまい、トタン屋根のアパートで僅かな年金収入があるだけの祖父母に育てられたという生い立ちの持ち主なのです。その経済状況は過酷であり、幼少年時代は食べるものが足りなくてカマキリの足をかじったり公園の草やタンポポを採って食べたとのこと。風間さんが小学生になると祖父は認知症を発症し、祖父が部屋の壁に排泄物を塗るたびに風間さんが水で洗い流したそうです。普通なら中学生くらいからグレて、不良になってしかるべきような生い立ちだと思うのですが、風間さんはおばあちゃんと、認知症を発症してしまう前のおじいちゃんから「愛されている」という確信を持っていたため、反社会的な道に進もうなどと思ったことは一度もなかったそうです。この例は、家族という身近な大人から愛されていることさえ確認できれば、子どもは極端に問題ある行動へは向かわないという田中伸明医師の説を裏付けているということができるでしょう。●離婚によって「一人親」になってしまったことが問題なのではなく、「愛してくれる家族の存在を確認できない」ことが問題筆者には中学1年生の男の子がいます。例にもれず反抗期・思春期の真っただ中で、母親に対しても、父親である筆者に対しても、時折とても反抗的な態度をとります。とくに筆者の息子は、結婚して家を出た姉が2歳の男の子(息子にとっての甥)を連れてよく遊びに来るため、小さな甥に対しては兄のように接しなければいけませんので、知らず知らずのうちにストレスもたまっているのだろうと思います。サザエさんの家におけるカツオくんがそうですよね。また、筆者が生まれ育った昭和の戦後期と違い、若者や子どもに対して厳しい今の日本社会で生きて行かなければならない息子に対しては、筆者も妻もついつい将来のことを案じてしまい、口うるさくなってしまう傾向があります。田中伸明医師は、そういった口うるささが愛情から発せられているものなのか、それとも子どもを疎ましく思う感情に由来するものなのか、子どもには敏感にわかってしまうといいます。田中先生によると、『この時に家族の愛情を確認することができないと、子どもは失望し問題行動をとるようになります。汚い言葉でののしる、部屋に閉じこもる、暴力をふるうといった反抗は、親からの愛情が十分でないと感じたときに出てくるのです』とのこと。これがたとえば親の離婚による一人親家庭であったとするならば、一人親であること自体が問題なのでは全くありません。自分を引き取って育てることになった大人の家族(母親にせよ父親にせよ)ないし、その新しいパートナー等から本当に愛されている と感じることができるかどうかが問題なのだということなのです。●理不尽な要求は毅然として遮断するが子どもの可能性を伸ばすためなら全面的に応援するあえて結論をまとめるのであれば、反抗期の子どもが無理な要求や主張をするのを認める必要はなく、話の内容は最後まで聞いたうえで毅然とした態度で要求を制する。しかし、いずれ子どもがひとり立ちし独立して行けるように子どもの可能性を発掘し、伸ばす手伝いになるのであれば全面的に応援する。そういうことに尽きるのではないでしょうか。そういうことは、長女が反抗期真っ最中であった15年も前に十分学習したはずなのに、人間は忘れる動物なんだなあと、つくづく感じる今日この頃です。【参考文献】・『ビンボー魂おばあちゃんが遺してくれた生き抜く力』風間トオル(著)【参考リンク】・ベスリクリニック()●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年07月19日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。東京都の豊島区で『クリニック西川』を開院する精神科医の西川嘉伸先生は、その公式ホームページの中で、抑うつ状態を訴えてメンタルクリニックに来院する多くの患者さんについて、 「最近は精神科の医師による治療だけではどうにも症状が改善しない症例が多すぎる。その原因は、大半の患者さんにとっては環境要因としての“社会”そのものを変えなければどうしようもない というところにある」という主旨のことを述べておられます。つまり、「努力しているのに報われず貧困から這い出せない患者さんが多すぎて、精神医学的な治療だけでは限界がある」と仰るのです。●うつ状態の患者の多くにとって精神療法と抗うつ薬による治療だけでは解決にならない西川先生はクリニックの公式ホームページの中で、次のように述べています。**********『抑うつ状態を呈する患者さんにとってはその人を取り巻く環境の中で悪い影響を与えている因子を取り除いてその人の本来の力が十分に発揮できるような環境に作り変えてあげなければ社会復帰は困難ですし復帰したとしても容易に再発してしまいます。(中略)その環境改善が容易ではなく社会そのものを変えなければならないと感じる例が増えています。極端に言えば、山ほど抗うつ薬を処方したって到底治らない。まっとうな職を見つけてあげればたちどころに改善すると思われる方が少なくありません。(中略)日常の生活に窮して絶望の淵に立っている人が増えているのです』**********●労働の非正規化が“努力が報われない社会”を生み出す一要因であることはたしか筆者の身近にいる人たちの中にも、いわゆる“うつ”の状態が長引きメンタルクリニックの治療を受けているのにもかかわらず、なかなか症状が改善しない人が何人もいます。主に20代から40代にかけて。男性も女性もいますが、そのほとんどが非正規雇用で独身の人たち です。彼(彼女)らがとてもやさしく、真面目で、正社員に優るとも劣らない責任感をもって仕事に携わっていることを、筆者はよく知っています。その人たちが一度抑うつ状態に陥ってしまうと、その状態から脱出できない。非正社員だというだけで正社員から見下されることが原因で発症したうつ状態なら、西川医師が言うように環境を変えてやる必要があるのに、そんなことを口に出しでもしたら「非正社員の雇用契約書に“配置転換”などという優遇措置は無いよ。嫌なら明日から来ないで 」と一蹴されてしまいます。●同じ立場の恋人と愚痴を言い合うだけでも違うけれど、デートするにもお金は要る働く人の非正規化が始まったのは、1980年代に成立した“労働者派遣法”からだと言われています。その後、2000年代の製造業派遣の解禁を経て着々と進み、今ではわが国で働く人の4割以上が非正規雇用 です。非正社員の人に配置転換の道など無いというのであれば、せめて同じ立場の恋人と愚痴を言い合うだけでも精神衛生上ぜんぜん違うというもの。ところが、早稲田大学教授で『恋愛学』の権威である森川友義博士によると、『デートを重ねるにしても“お金・時間・労力”が要ります。非正規雇用で低収入の人たちにとって、恋愛はしたくてもできないというのが実情です』(朝日新聞2016年6月25日付夕刊「ココハツ」欄より)ということになります。●環境調整は家族、職場、友人、地域、行政などの協力があって初めて可能になる西川嘉伸医師は言います。『環境調整は、家族、職場、友人、地域、行政などたくさんの人や組織の協力があって初めて可能になります』しかしながら、非正社員の人が“職場”に環境調整を望んでもまず無理ですし、“行政”はそもそも労働の非正規化を積極的に推し進めてきた張本人ですから、これまでの行政府とは感性のうえでまったく違うものを選挙などを通して作り上げないことには本質的な協力は期待できないでしょう。わたしたちは、西川先生のようなかたが『精神科医による治療には限界がある。(メンタルクリニックを訪れる)患者の多くが不健全な社会によって生み出されたことを素直に認めるべきです』と仰るのを、右から左に聞き流してはいけないのだろうと思います。筆者は個人的にはここまで浸透してしまった非正規という働き方を、軒並み正社員化するということにも無理があろう と考えています。それよりも正社員が非正社員を人として尊重すること。正社員でなくても、ある程度の生活可能賃金とある程度の賞与とある程度の退職金を制度として用意することが必要ではないかと思っています。努力したって認められないという疎外感。真面目に一所懸命働いたって賞与も退職金も貰えないという絶望感だけでも改善すること。難しく長い道のりであってもそれに向けての行動を継続すること。西川医師のような尊敬すべき人生の大先輩に「精神科医の限界」と言わせてしまっては、後に続く世代の者としてとても情けないような気がしてならないのです。【参考リンク】・医療法人社団 求林会 クリニック西川()●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年07月12日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。あるアンケート調査によると、わが国では約3割の人が「身近に引きこもりがいる」と答えています。また、1970年代から始まったと考えられている引きこもりは、今やその数が50万人から100万人(ないしそれ以上)に及んでいるとされ、その8割が男性であると言われています。引きこもり治療の専門家で『社会的ひきこもり―終わらない思春期』の著者でもある精神科医の斎藤環さんは、引きこもり治療においてもっとも成果を上げている方法は『ひきこもる人たちの緩い共同体を作ること』だと言います。なぜそれが成果を上げるのか。その理由は「ひきこもり状態の若者同士でも出会い、理解し合い、親密になるというプロセスを経験することによって“欲望”を持ちやすくなるから」という主旨の説明をされています。●男性は自分の主体を立てないと欲望を持てない斎藤環先生はその著書やマスコミから受けるインタビューの中で、『男性はまず自分の主体を立てないと欲望を抱けない』と述べています。どういうことかと言いますと、男性の場合は「自分は男で、こういう社会的地位がある」といったように主体がハッキリしているほど欲望が持ちやすい 。明確なイデオロギーを持っている政治家が欲望でギラギラしているさまを見ればよく分かりますよね。これに対して引きこもっている男性は「以前ちょっと働いたこともあるけど非正規雇用で社会的地位はゼロ。自分にとっても自分の価値はゼロ。自分の欲望が分からないので社会に参加する意欲も起こってこない」という悪循環に陥っていると、斎藤先生は指摘しています。一方で女性の場合は主体を立てなくても欲望を持てると斎藤医師は言います。男性と比べて社会的地位にこだわらなくてもいいため、・「ただ孤独でいたくないから女子会でおしゃべりして楽しければいい」・「正社員で就職できなければ結婚して夫や子どもとの家族の絆を大事にしながら過ごせればいい」といったような、シンプルな欲望を持てる傾向があります 。だから女性は「ひきこもる必要がない」というのが斎藤先生の分析です。●コンビニやゲームセンターにいる男子たちは仲間と繫がることで生きる欲望を維持している引きこもり治療の分野で実績が豊富な千葉県船橋市の『あしたの風クリニック』(旧『佐々木病院』)のホームページによれば、**********『ひきこもりとは思春期・青年期に起きる問題で、6か月以上自宅にひきこもって社会参加をしない状態が続き、ほかの精神症状がその第一の原因とは考えにくいもの』**********とのことで、対人恐怖、脅迫症状、家庭内暴力、不眠、抑うつ気分、摂食障害、心気症状などの多彩な症状が随伴するといいます。斎藤環先生によれば、『まったく治療的な援助なしで自然に立ち直った事例は皆無に近い 』とのことで、その意味では“うつよりも深刻な精神神経科分野の問題”と言うことができるのかもしれません。筆者の妻の親族にも10代後半からずっと引きこもりで今はもう50代に突入した男性がいます。彼は引きこもる中で高齢の親を介護・支援するという“使命”と出会うことによって、定職に就かない人生ではあったけれど、純然たる引きこもりとは言い切れない社会参加の機会を得たと言えます。これなどは、「息子を何とか引きこもり状態から脱出させたい」と願ってきた両親が年老いて行くなかで今度は自分が両親の力になりたいという彼なりの“欲望”が具現化した、“例外的な引きこもりの治癒例” だったのでしょうか。そうかと思うと、コンビニやゲームセンターでたむろしている男子たちは“仲間と繫がっている”という楽しさで生きる欲望を維持している。斎藤先生流に言うなら、「生産性や創造性は極めて乏しいけれど、みんなとLINEでつながったり、たまって話しているときだけは自分らしさの手ごたえを感じることができる」というわけです。●引きこもりから脱出する唯一のカギは“欲望”。男子は何でもいいから欲望を持って!その“たむろ男子”たちにしても、ひとたび仲間の外に出ると自分が何者だか分からなくなり、主体が立てられないので欲望を持てなくなる。斎藤環先生は、『かっこ悪くてもなんでもいいからとにかく欲望を持ってくれ!』と言います。そうでないと人が人の形を保てなくなると。このように考えてくると、筆者自身も男性に生まれて56年という時間を引きこもることなく何とか生きてこれたのは、10代の半ば頃に芽生えた“異性からよく思われたい” という欲望があったせいではないかと思います。欲望はある面で創意工夫を生み、努力を生みます。妻の親族の男性にしても、引きこもりの男性には異性のパートナーが得られないという大きな問題があり、そこがまた引きこもりの人の葛藤を長引かせる原因にもなっています。“ひきこもる人たちの緩い共同体を作る”ことが引きこもり治療の最も有効な方法であるという事実は、引きこもりの人たちに異性との関係が生まれる機会や恋愛経験の機会を提供することが引きこもり治療の一方法だということでもあります。ただ同時に、引きこもりの人たちに持ってもらいたい欲望は恋愛に関する欲望だけではなく、興味の持てること何でもいいのだろうとも思うのです。前述の『あしたの風クリニック』では引きこもりの若者同士が出会い、理解し合い、親密になるきっかけを提供するために“ひきこもりデイケア”の活動を続けています。その活動の本当の目的は、デイケア後に彼ら同士が食事をしたり飲み会をやったりしたい“欲望”を抱くところにあるといいます。そしてその段階までもってこれれば、引きこもり治療はかなりの程度まで功を奏したと言うことができるのではないでしょうか。【参考文献】・『社会的ひきこもり―終わらない思春期』斎藤環・著【参考リンク】・ひきこもりの治療 | あしたの風クリニック()●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年07月05日【ママからのご相談】40代女性です。2児のママで認知症が進行しつつある義理の父親と同居しています。先日、テレビのニュース番組で、「認知症の高齢者の徘徊(はいかい)のような症状に悩む家族の求めに応じてそのような症状を抑えるために向精神薬が処方されることがあるが、基本的には向精神薬は使用するべきではない」といった内容を専門家が話していました。でも、わが家のおじいちゃんの徘徊はひどく、向精神薬を使って休んでてもらわないと、いきなり子ども部屋に入って子どもたちを困らせるようなレベルなのです。介護する側の者に言わせていただけるなら、「きれいごとばかり言ってほしくない」という気持ちが正直あるのですが、間違っていますでしょうか。●A. 向精神薬の乱用に注意し、バランスをみて在宅介護の時間を減らしましょう。こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。ご相談ありがとうございます。筆者の両親はすでに亡くなっていますが、ご相談者様のお気持ちは、わかります。筆者の父親の晩年は認知症で、母親の晩年は大腿骨頸部骨折による寝たきりに起因した全身の内科的・外科的症状で、苦しみました。「認知症の高齢者にとっての向精神薬の副作用の問題」 はとても重要ですので、都内で内科・神経内科クリニックを開業する医師のお話も交えながらご説明いたします。●BPSDへの向精神薬投与がなぜよくないのか『認知症には記憶障害や理解の低下といった中核症状と、徘徊や攻撃的行動・人格変化などの周辺症状とがあり、この周辺症状のことをBPSD と呼んでいます。BPSDが現れると介護者にかかる負担が大きくなるため主治医は家族の求めに応じて向精神薬を処方するケースがどうしても多くなりがちです。そのため、症状が収まっても今度は“過鎮静”と呼ばれるぼーっとした状態になるリスクが生じ、寝たきり や食事を飲み込む機能の低下 といった命にかかわる問題へのきっかけになってしまう場合が多いのです』(60代男性/都内内科神経内科クリニック院長・医師)BPSDへの向精神薬の投与がなぜよくないのか、医師の説明はとても分かりやすいですね。医師の説明では、多くの場合、向精神薬を減らしたりやめたりすることで過鎮静の症状は改善し、リハビリによって再び自分の口で食べることができるようになる患者さんも多いとのことです。ですから、BPSDを発症した中等度以上の認知症患者さんにむやみに向精神薬を投与することは、できるだけ控えた方がいい と言うことができるでしょう。●向精神薬の不使用に伴う介護の負担は在宅介護の時間短縮で対応をとはいえ、筆者にはご相談者様が言う「きれいごとじゃない実態」もよく分かります。向精神薬を使用しないことで、今度は介護者の精神的・肉体的負担増の問題 が生じます。それについては、ご相談者様がデイサービスなども利用しながら、お義父様の在宅介護の時間を徐々に減らして対応されるのがよろしいのではないかと思います。旦那様への気づかいもあろうかとは思いますが、ママが過労で不安定になってしまってはお子さんたちにとっていいわけがありません。認知症の高齢者への向精神薬の投与は基本的には行わないようにし、まだ十分に健康なお義父様の体の機能をキープしながら、介護のプロの力も借りて、あまり考えすぎない日常を、旦那様やお子さんたちと送っていただければと思います。●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年06月28日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。みなさんは『海底の君へ』というドラマをご覧になったでしょうか。NHK総合テレビで2016年2月20日に放送され、好評のため同年5月8日にNHK・Eテレで再放送された単発ドラマです。29歳になった現在でも、中学時代に受けた犯罪的ないじめの後遺症に苦しむ青年・前原茂雄の姿を藤原竜也さんが好演している、とても考えさせられる物語でした。物語では、いじめ被害から15年の時が流れても引きこもりが続き、定職に就くこともできない茂雄が、弟がひどいいじめにあっている23歳の女性・手塚真帆(成海璃子)と出会うことによって立ち直りの兆しを見せます。しかし、真帆の弟で14歳の瞬(市瀬悠也)の自殺未遂をきっかけに、「いじめる者たちを自分もろともこの手で葬り去らなければならない」と考えるようになり、手製の爆弾を体じゅうに装着して15年ぶりに中学校の同窓会会場へ向かうという、衝撃的な内容となっています。●渦中にいた期間が過ぎてもその後何年にもわたってその人の人生を奪う“いじめ”『海底の君へ』の物語では、茂雄の異変に気づいた真帆が同窓会の会場に駆けつけ、間一髪のところで最悪の事態は回避されますが、茂雄は爆破未遂・殺人未遂の罪で5年間服役することになります。出所後、茂雄が塀の外で待っていた真帆に「生きなきゃね」と言って手を携えて歩き出したときにはすでに34歳になっていました。前原茂雄というこの物語の主人公は、中学時代に受けた残虐ないじめが原因で、20年という年月を奪われた わけです。そして、いじめ被害者がその後の人生において、いじめを受けなかった人に比べてあまりに理不尽なリスクを背負うことになってしまうという『いじめ後遺症 』の問題は、実は最近の精神医学の分野ではエビデンス(根拠)が確立された大問題になりつつあります。今回はそれをテーマに、筆者の旧知の精神科医の話なども参考にしながら筆を進めて参りたいと思います。●『いじめ後遺症』には信頼のおけるエビデンスがある『ヤンキー化する日本』の著書で知られ、『海底の君へ』の医事監修も担当された精神科医の斎藤環さんによると、少年期にいじめ被害を経験した人が、その後長きにわたって社会的・経済的・精神的・身体的にリスクを抱えることになってしまうという『いじめ後遺症』は、滝沢龍という日本の精神科医が筆頭著者となっている2014年の『American Journal of Psychiatry』掲載の研究論文で、精神医学的なエビデンスを確立したとされています。滝沢龍博士が中心となり、バーバラ・モーガン博士らとともに英国キングスカレッジで推し進めた『要因対照研究(コホート研究)』を見てみましょう。イギリスで7歳から11歳までのあいだにいじめ被害を経験した7,771名に対して追跡調査を行ったところ、いじめ被害を受けなかった群に比べて、『うつ病』になるリスクが1.95倍、不安障害を発症するリスクが1.65倍、自殺傾向については2.21倍という由々しき結果に。いじめは、社交関係の欠如や経済的困難・健康面での問題など、いじめ被害を受けた後40年を経た50歳時点での生活満足度・生活水準の低さに関連している ことが判明したとされています。●何十年にもわたって人の人生を奪ういじめ加害者を処罰(処分)する必要はないのか滝沢博士らのコホート研究でそのエビデンスが確立したといえる『いじめ後遺症』。しかし、いじめやハラスメントからの後遺症を残さずに、“いじめを受けてしまった人たち”に人として当たり前の日常を取り戻してもらい、いじめられた後の数十年間が“失われた数十年”“海底の数十年”にならないようにするためには、“いじめ加害者”に対する処罰(処分)というものについてもっと厳罰化を検討する必要はないのでしょうか。『個人的にはいじめ加害者に対する処罰は厳格になされるべきかとは思います。が、その前に、いじめ加害者が自分の犯した罪の重さを自覚し謝罪する ことの方が優先されるべきです。加害者が「本当に申し訳なかった」と心から思い被害者に謝罪することがなければ、どのような罰を与えたところで意味がありません。加害者が罪を自覚し謝罪して、その気持ちを具体的に表現する手段として罪を受け入れる。そういった過程があって初めて被害者は納得することができるのです』(50代男性/都内メンタルクリニック院長・精神科医師)『海底の君へ』で中学時代に茂雄をいじめつづけた加害者たちの中でも主犯格だった立花は、その後若き気鋭の弁護士となって、何の罰も受けずにぬくぬくと生きています。集団で茂雄を海底へ放り投げ、ミミズを食べさせ、カバンやノートをビリビリに引き裂き、体じゅうに油性ペンで「死ね」「クズ」と書く。そんな犯罪を実行しているというのに、立花たちのそういった行為を告発する勇気を持ったクラスメイトさえ、茂雄の周囲にはいなかったのです。そのような環境では、それこそ茂雄の親などが直接行動に出るか茂雄を休学させたり転校させたりしてやらない限り、どうにもならなかったでしょう。筆者の旧友の精神科医も示唆しているように、まともな感性を持っている周囲の人間がいじめ加害者たちにおのれの犯罪行為を自覚させてやらないことには、罰だけを与えたところで何も解決しないというのが本当のところなのではないでしょうか。念のために、筆者の知人の弁護士に確認をとったところ、学校内で児童・生徒に対していじめ行為を行った場合には、たとえ11歳・12歳であっても少年院への送致がなされる可能性があるとのことです。また、重大事案であれば14歳で逮捕される場合も十分あり得る とのことでした。「軽いノリで友だちをイジメることくらい、逮捕までされるようなことではないだろう」といったいじめ加害者たちの頭の根底にある意識を、学校教育の現場などを通して変えていかなければ、茂雄のように『いじめ後遺症』で何十年という歳月を海底で過ごすことになってしまう理不尽は、後を絶たないのかもしれません。【参考文献】・『Adult Health Outcomes of Childhood Bullying Victimization: Evidence From a Five-Decade Longitudinal British Birth Cohort”(AJP,2014) written by Ryu Takizawa,M.D.,Ph.D. ,Barbara Maughan,Ph.D. & Louise Arseneault,Ph.D.』●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年06月21日【女性からのご相談】50代。29歳の長女に1歳の女の子がいるおばあちゃんです。共働きの娘夫婦は社内恋愛・社内結婚でしたが、お互いの実家が隣接する市どうしと近かったため、どちらの実家にも近いところの賃貸マンションで暮らしています。近いので娘は孫を連れてよく遊びに来てくれてうれしいのですが、来るたびに娘の孫に対する健康管理面での細かいことが気になって、ついつい口出しをしてしまいそうになります。コーラなんか飲ませて大丈夫なのだろうかとか、かゆがってるみたいだけどアレルギーの検査を受けなくてもいいのかしらとか、いちいち挙げたらキリがないくらい、いろいろなことが気になってしまいます。うるさいことを言うつもりはないのですが、どこまでなら口を出してもいいものでしょうか?●A. 相談されたらできるかぎりの助言をするが、そうでなければ一切娘さん夫婦に任せること。こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。ご相談ありがとうございます。筆者は今56歳、筆者の妻は55歳ですが、やはり長女にもうじき2歳になる男の子がおり、ご相談者様のお気持ちは誰よりもよく分かります。かわいくて仕方がないことと思います。しかし、ご相談者様、これだけはわきまえておかなければなりません。お孫さんのことは、いくら気になったとしても、娘さん(ご夫婦)の方から相談されたならできるかぎりの助言をするという態度に徹してください。相談もされないのにおばあちゃん・おじいちゃんの方から口出しをすることは、よほどの例外(重大な疾病の初期症状が見られた場合など)を除いて、基本的にはしないでください。娘さんご夫妻に任せることが大事 です。都内で小児科クリニックを開業する小児科医の意見も参考にしながら、もう少しお話しさせていただきます。●子どもにとっては親が「この世で一番」の存在。子どもを混乱させてはいけません『誰でもこんな経験はありませんか。子どもがいる家庭に用事があって訪ねたら、喜々として出てきた子どもに、「なあんだ。ママ(パパ)じゃないのか」と言われたり、露骨にそういう顔をされた経験は。誰にでもおありかと思います。これは、子どもにとって、女親か男親かに関わらず“親”こそがこの世で一番の存在 であることを示したいい例なのです』(50代男性/都内小児科クリニック院長・小児科医師)小児科医が言うように、お孫さんにとって「この世で一番」の存在であるママやパパに、おばあちゃんやおじいちゃんが何やらお説教めいた調子で接していたら、お孫さんは混乱してしまいます。「そんなこと、1歳くらいの子に分かりはしない」などと侮ってはなりません。1歳になっていれば、大好きなママやパパが何やらよからぬ目にあっているぞといった雰囲気は、敏感に感じ取ってしまうものです。1歳のお孫さんにコーラなんか飲ませて大丈夫かとか、ずいぶんかゆがっているけどアトピー性皮膚炎などの心配はないのだろうか、検査を受けた方がいいんじゃないかとか。かわいいお孫さんのことですから気になるのは分かります。でも、だからといって急を要するような問題でしょうか?もちろん程度にもよりますが、ほとんどの場合、おばあさんやおじいさんが口を挟むようなレベルの問題ではないはずです。●医学は日進月歩で変化しています。祖父母の小児医療の常識がすでに古くなっていることも『50代くらいの若いおじいさん、おばあさんですと、子育てに関する自分の知識や経験もそんなに古くはないぞといった自負があるかもしれません。しかし、それは実は間違いなのです。医学は常に進化していて、小児科分野においてもその常識は医師のわたしがついて行くのも大変なくらい日進月歩で変化して行っているのです』(50代男性/前出・小児科医師)長年にわたって地域の子どもたちの診療と健康管理にあたってきた小児科医がこう言うのですから、おじい様、おばあ様はプロの意見を謙虚に聴くべきでありましょう。ご相談者様からみたら娘さん(ご夫婦)は頼りなく映るかもしれませんが、お孫さんのことをこの世で一番考えているのは娘さん(ご夫婦)なのです。子育てについての完璧な方法論などどこにも存在しないように、子どもの健康管理に関しても唯一絶対の正解などといったものは存在しません。わたしたちもそうであったように、今の娘さんも毎日手探りで、わが子の「よりよい未来」を模索しているわけです。娘さんご夫婦とお孫さんのことを陰からそっと見守り、“黒子”として「頼りになるサポーター兼アドバイザー」 に徹してさしあげてください。●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年06月14日『中二病』という言葉があります。今や世間に広く普及している言葉ですが、実はお笑いタレントでラジオパーソナリティの伊集院光さんが1999年にラジオの番組内で初めて提唱した概念です。わが国の中学2年生(14歳)頃の主に男子に見られる特徴的な傾向であり、思春期特有の背伸びした言動や自己愛に満ちた“全能感”といったものが強く現れている様子のことをややシニカルに捉えた言葉です。治療を必要とするような精神神経科分野の疾患とは本来は無関係な概念ですが、青年期の精神病理学を専門とする精神科医の中にはこの言葉が持つ一定の医学的根拠を認め、一般読者向けのカウンセリング書などでこの言葉を使用するケースも珍しくありません。精神科医の斎藤環さんもその一人で、斎藤先生はこの中二病を、『女性への恋愛感情によって自然に治癒して行くもの』だという、独自の分析を展開されています。●中二病の主症状は「洋楽を聴き始める」「サラリーマンにだけはなりたくない」この中二病の主症状として、よく指摘されるものとしては次のようなものがあります。(1)洋楽を聴き始める(2)「サラリーマンにだけはなりたくない」と言う(3)売れたバンドのことを「ストリートミュージシャンだったころから知っている」と言う(4)「大人は汚い」と思う(5)母親に対して「それは個人情報だから言えない」と激昂する(6)美味しいとも思えないコーヒーを飲み始める(7)自分なら、本気でやれば何でもできると思っているざっとこのようなところですが、こうして見てみるとやはり“治療が必要な病気”というふうには思えませんよね。この年頃の男の子ならこんなものだろう、といった感じかなと思います。ただ、こういった傾向があまりにも強く現れすぎて社会生活を営むうえでの障害となってしまうほどだと、親としてはちょっと心配かもしれません。●宮沢賢治の物語や宮崎駿監督のアニメ作品にも“中二病的生命観”が見てとれるこのような特徴を持つ“中二病”ですが、冒頭にご紹介した精神科医の斎藤環先生は、「天才的な詩人で童話作家であった宮沢賢治や、現代長編アニメーション映画の巨匠・宮崎駿監督も中二病である」という趣旨のことを述べていらっしゃいます。どういうことかと言いますと、宮沢賢治がしばしば言葉にした「あらゆる生き物の本当の幸福」のような表現や、宮崎駿監督が機能美を追求するあまりに戦闘機の設計にのめり込んで行く男性エンジニアの姿にどうしようもなく惹かれるさまなどが、中二病にある“万人にとっての絶対的な真理” のようにある意味他者を排除するような危険な精神的傾向と共通点がある、ということなのです。実際に宮沢賢治はその書簡の中で「自分のそういった“絶対的真理”は存在するみたいな思考は、ある意味中学生が考えるようなものだ」という趣旨のことを書いているほどで、斎藤環先生は『賢治は自分が中二病であることを自覚していた』と分析しています。ただ斎藤先生は、このような“中二病的世界観”に潜んでいる危険性についてもさまざまな機会に述べていらっしゃいますので、次の章ではその点について少し触れておきましょう。●“唯一絶対の真理”という発想は生命論的ファシズムと親和性があり、危険性を孕む「自分は万能であり、この世には“絶対的な真理”というものが存在する」。中二病のこのような世界観はある面で生命論的なファシズムと親和性があるため危険性がある、と斎藤環先生は言います。中二病の男の子は、他人の忠言などには一切耳を貸しません。ただ自分の美意識があるのみで、自分の美意識は絶対です。これは、政治思想史でいうところの『ファシズム』 と呼ばれるような独裁的で排他的な思考様式・政治手法の根底をなすものであると、斎藤先生は精神科の医師として指摘します。このような幼稚でひとりよがりな性格は、アニメーション映画やポピュラー音楽、童話作品といった枠の中に収まっている限りにおいてはまだいいのですが、それが政治家のような権力を持った大人に発症した場合にはタチが悪い ため、治療方法だけは見つけておいたほうがいい、というのが斎藤環先生の考え方で、筆者もそのご意見には全くもって同感する次第であります。●中二病の男性は“女性との恋愛”を経験することによって自然と治癒するそこで斎藤環先生が言う“治療法”なのですが、先生によれば『男子の中二病は女性に恋愛感情を持ち、女性との恋愛を経験することで自然と治癒するケースがほとんど なので、特殊な症例を除けばそんなに心配することはない』というのが(意外と楽観的なのですが)結論のようです。その例として、斎藤先生は2013年公開の宮崎駿監督による長編アニメーション映画『風立ちぬ』の話をしています。すなわち、自分が設計している飛行機が戦闘機であることさえ忘れてその機能美の追求に没頭する堀越二郎は、宮崎駿監督自身で中二の男子そのもののような自己愛を飛行機にダブらせているわけですが、その宮崎監督でさえ、戦闘機よりも里見菜穂子という二郎の恋人で後に妻となって早逝する女性の方をより美しく描きました。女性への恋愛感情、女性への愛情がファシズムを去勢するのだという現実を、宮崎駿監督は分かっていて描いたのだと、斎藤環先生は分析しているのです。【参考文献】・『ヤンキー化する日本』斎藤環・著●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年06月07日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。超高齢化社会を迎えたわが国では、高齢者が人生最後の時期を住み慣れた土地や家族に囲まれた自宅で過ごしたいと望んでも、かなわないケースが増えてまいりました。国は社会保障費の抑制のために療養型病棟の削減と在宅医療システムの充実を方針に掲げて終末期医療の問題に臨んでいますが、『実際には医療型療養病床に入院している患者さんの医療区分は2と3の占める割合が毎年増加しているのが現実』(50代男性/都内医療療養型病院院長・医師)で、在宅医療では対応しきれないほどの、すぐに受けられる医療の必要性が高まっています。●日本の高齢者の多くが人生最後を病院で過ごすワケ現代のわが国の高齢者のおよそ8割は病院でなくなっています。自宅でなくなった人の割合は2010年の時点でわずか12.6%にすぎません。わが国の高齢者が終末期を過ごし、最期を迎える場として重要な役割を担っている医療型療養病床の平均入院日数は約280日と長く、死亡退院が退院全体の約3割 を占めています。それほど日本の高齢者が人生の最期を過ごす場は、“病院”が中心であるということなのです。国が「在宅中心の終末期医療」の旗印を掲げても、現実は容易にはそうなっておりません。なぜでしょうか?それは、わたしたち日本人には「まだ生きられる人を死なせてはならない」という“価値観”があるからだと、筆者は考えています。そして、まだ生きられる人を死なせないためには、医師や看護師がすぐそこにいる病院にいないことにはだめだからだと思うのです。●つきっきりの介護は、現実的に難しい筆者自身も、高齢の母親が転倒による大腿骨頸部の骨折をきっかけにあっという間に全身の健康状態が低下し病院で寝たきりになりました。そんな中でも、子どもたちや孫たちが居て、ひ孫が遊びに来る自宅に、いずれは何とか帰って来てもらいたいという希望と目標を持って、転倒から3か月ほどは努力しておりました。しかしながら、体の老化という現実はそう甘いものではありませんでした 。大腿骨頸部の骨折部位の手術には成功したものの、周辺の筋肉の委縮は老化によって進んでしまっており、車椅子に乗ろうと体をちょっと動かしただけで患部が脱臼してしまう。これではリハビリは不可能でした。入院生活のストレスからせん妄を起こし、大腸の壁が薄くなってしまっているせいで下血をし、食事を止めることによる低栄養防止のために高カロリーの栄養を点滴すれば肝機能をやられ、幾日もつづく炎症と微熱と腎機能の低下。食欲が全く湧かない。飲み込む力も弱まってくる。痰の吸引は一日に何度も必要。医師は経鼻栄養法を奨める。それでもやっぱり口から食べられるうちは口から食べさせてあげたい。日々刻々と変化する母の容態に応じて筆者も筆者の妻もきょうだいも、自分や連れ合いや子どもたちの生活のために働きながら、時間を作っては病院にいる母を訪ね、話をしたり食事の介助をしたりをつづけています。ここまでの状態の患者を在宅で看るということは不可能です 。やろうと思ったら筆者も妻もみな仕事を辞め、母の看護に専念するしかありません。そして、そのような選択をすればそう遠くないうちに今度は筆者や妻が破綻することは間違いない でしょう。わたしたちが生きている21世紀初頭の日本という社会は、ほとんどの一般庶民にとっては「生きるのがとても大変な社会」です。ごく一部の恵まれた家柄にお生まれになった方を除けば、みんな「ギリギリで生きている」というのが本当のところ なのです。そのような中にあって、いたずらに「家族の愛が大事」「在宅で家族に囲まれて暮らそう」と言わんばかりの国の方針というのは、いかがなものなのでしょうか。筆者の40年来の友人で、かつて慶應義塾大学病院の神経内科でさまざまな種類の神経性難病を羅患しながら終末期を迎えられた高齢者の人たちと臨床で向き合った医師のY君は言います。『今の日本はもう、“家族”が全て看るという時代ではないと思う。家族に甘え過ぎたら、その愛する家族が破綻してしまう。社会が全体で支えなければならない。私自身は、もし自分が年を取って医療や看護の手を離れることができない状態になったとしたら、病院や施設でプロの看護・介護を受けたいと思う。家族はたまに顔を見せに来てくれればそれでいい。寂しいが、それで十分幸せだと思わなければいけないんじゃないか。病院で自分に相い対してくれる看護師さんやヘルパーさんとのコミュニケーションを人生の楽しみとして、暮らして行こうと思うのです』(50代男性/神奈川県内市立総合病院勤務・神経内科医師)●人生の最期を病院で暮らすことになった場合の生き方はまだ生きられるのに、欧米のように経管栄養法などを施さないことで高齢者が数週間後にはこの世を去って行く社会を、“理想”としてマネるのか。欧米社会ではキリスト教的な価値観からか「そこまでして延命することは人間として自然なあり方ではない」 と捉える傾向があるようですが、わたしたち日本人は果たしてそのように割り切ることができるのか。筆者の答えは「ノー」です。『人間は、まだ生きられるのであれば最後のそのときが来るまで生きなければいけないと思うんですよ。これは“死生観”の問題ですから、「それは違うよ」と言われても反論はしません。「そうですか」と言うだけです。でも、少なくとも自分はそういった価値観に基づいて入院しているお年寄りの看護に携わっているつもりです』(30代男性/都内医療療養病床併設型総合病院勤務・看護師)これは筆者の母を看てくださっている、療養病床の男性看護師Sさんの言葉です。Sさんは明るくて気さくな方で、阪神タイガースの大ファンなのですが、巨人ファンの母と今シーズンどちらが優勝するか賭けをしているそうです(何を賭けているのかは存じませんが)。家族ではなくても血のつながりとかはなくてもSさんのような方との会話が、長くつづく入院生活のなかでどれほど母の励みになっているか、計り知れません。人生の最期を病院で暮らすことになった場合の生き方は次のようなものでありたいと、筆者は思います。・看護師さんやヘルパーさんといった、職業として自分に接してくれる人たちとのコミュニケーションを大切にし、楽しむ 。家族とは違うかもしれないが、家族とはまた違ったプロフェッショナリズムを尊重する。・家族は「時々顔を出してくれればそれでいい」と考える 。ほとんどの国民にとって、終末期医療にかかる費用はその人が受給している年金額を超えてしまっており、蓄えが十分にある世帯を除けば現実には家族が働くことによって支えています。その家族が働くのを妨げないことです。家族は時々顔を出してくれればそれでいいと考えましょう。・あまり多くのことはできないかもしれないが、残された身体機能を使ってできることだけは大いに行い、楽しむ 。飲み込む力がまだ残されているのであれば口から食事を取ることを楽しみ、見る力や聴く力があるのなら、テレビや新聞も楽しむ。疲れない程度でかまわない。・ペンを執り文字にすることはできなくても、人生を通して思うことなどを短いセンテンスでいいので考えておく 。例えば孫に「一所懸命にやれば必ず何かが得られるよ」など。旅立つ前にその言葉を聴いたら、孫にとっての宝物になることは間違いありません。【参考リンク】・入退院経路調査(平成21年) | 慢性期医療協会<PDF>()●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年05月31日【女性からのご相談】40代。医療型療養病床で寝たきりの生活をしている80代の母が、立夏を過ぎて暑くなってからつづいた微熱に伴うダルさのせいで、ここ数日ほど病院の食事をほとんど口にしなくなってしまいました。主治医の先生から「このままでは低栄養の状態に陥るおそれがあり危険です。お母様の場合皮膚の状態から点滴だと管が外れやすいため、鼻からチューブを挿入して栄養剤を注入する経鼻栄養法を採らざるをえません」と言われました。母が低栄養に陥って危険な状態になるのはもちろん本意ではありませんが、今の段階で鼻からチューブでの栄養注入にしてしまうのも、ふみきれません。口から食べる普通の食事で、低栄養に陥らないためにはどうしたらいいのでしょうか。●A. できる範囲で病院の夕食の時間に立ち会い、介助して食べさせてあげましょう。こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。ご相談ありがとうございます。高齢者、とくに長期にわたって入院・療養中の高齢者にとって低栄養の問題は、肥満やメタボの問題などとは比較にならないほど緊急性の高い重要な問題です。まったく何も食べずにカロリー不足の状態が長期間にわたって続くと8週間から12週間ほどで死に至ってしまいます。このようにおそろしい「低栄養」 に陥らないために家族ができることについて、都内の総合病院で療養病棟の責任者をされている胃腸科医にお話をうかがいましたので、参考にしながら記述を進めさせていただきます。●医師や医療スタッフがリスク回避のために経管栄養を提案するのは仕方がない『現在、自宅で暮らす高齢者の7人に1人は1日1,000kcal以下の栄養しか摂取していないと推測されていますが、入院中または長期療養型の施設に入っている高齢者に限定した場合は、およそ半数の人が十分なカロリーを摂取していない“低栄養”の状態にある と推定されます。低栄養に陥ると皮膚が薄くなって乾燥し、弾力もなくなって冷たくなります。さらに、長期間にわたってカロリー不足の状態が続くと、肝不全、心不全や呼吸器不全を発症するばかりか、無感情、無反応(昏迷=軽度の意識障害)に至ることもあります。こうなると非常に危険であるため、ご相談者様の主治医の先生は経鼻栄養法による栄養摂取を提案されたのです』(40代男性/都内総合勤務・胃腸科医師)主治医の先生はお立場上、今のお母様のご様子を黙って見過ごし、生命の危険にさらすわけにはいきませんから、ご相談者様に、お母様の鼻腔からチューブを入れて体に栄養を注入する経鼻栄養法を奨められたのだと思います。ただ、ご相談者様が言うように、まだ自分の口で食べ物を食べて飲み込む力を完全には失っていない今の段階で経管栄養に切り替えてしまうというのも、残念ではあることに違いありません。●家族の介助で再び食べるようになった例は多い筆者にも、長きにわたって療養病床に入院し寝たきりの母親がおりますが、いっときご相談者様のお母様と同じように病院食を何も食べなくなってしまったときがありました。これではまずいと思った筆者の妻の発案で、栄養的にはさほどではないものの、母が好きなコーヒーゼリーを細かくして食べさせてあげると、意外に食べてくれました。翌日から2日に1度のペースで筆者の姉が夕食時に病院を訪れ、食べさせてあげるようにしたところ、それまでほとんど食べようとしなかったのが6~7割は食べるようになっていった のです。もちろん主治医の先生はじめ、看護師さん、ヘルパーさんといった病院スタッフの皆さんには了解をいただいたうえでのことです。『食べる喜びは生きる喜びのうちの最も大きなものの一つです 。医師や医療スタッフにきちんと相談しながらであれば、入院中でも食事のときにご家族が介助していただいてかまいませんので、仕事のご都合がつくのであれば、ぜひそうしてさしあげてください。高齢者における低栄養の最大の原因である食事量の減少は、これまで一緒に食事をしてきた家族と食卓を共にできなくなってしまった という“精神的要因”も関わっていますので、その点に注意すると低栄養に陥らないためのヒントと出遭えるかもしれません』(40代男性/前出・医師)●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年05月24日【女性からのご相談】40代。82歳になる母は大腿骨頸部骨折をきっかけに病院で寝たきりの状態となり、患部周辺の筋委縮による脱臼と多臓器の機能低下から、今後も医療療養病床での寝たきり生活が続く見通しとなりました。その母に、この2週間ほど37度台前半の微熱が続いており、心配です。発熱当初の血液検査では腎機能の低下と炎症反応があり、水分と抗生剤の点滴を受けていったんは回復しました。その後の検査ではWBCやCRPの上昇もなく尿路感染症などもありません。喉の渇きも訴えなくなってきたので腎機能もそれなりに回復してきていると思われます。それなのに微熱が続いて下がらないのは、何が原因と疑われるでしょうか。●A. 加齢に伴う恒常性の維持困難、発汗量減少による熱こもり、生体リズムの変調などが考えられます。こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。ご相談ありがとうございます。筆者の母親もご相談者様のお母様と近い状況にあるため、御心配のほどはわがことのごとくに痛み入る次第にございます。心よりお見舞い申し上げます。ただ、このような状況にある80歳を超えた高齢者に対して、いたずらに身体的苦痛を伴うような精密な検査を行うことがいいのかどうかと考えますと、「あまりいいことではない」というのが正しい答えであるような気がいたします。ここ数日、感染症は否定的で喉の渇きもピーク時ほどではないということですから、腎機能うんぬんというよりは加齢に伴う恒常性の維持困難、発汗量減少による熱こもり、生体リズムの変調などが原因としては考えられるようです。東京・多摩北部にある医療療養病床併設の総合病院で副院長を務める医師のお話に基づいて、記述をすすめてまいります。●5月〜9月の“夏場”は、寝たきりの高齢者に微熱が続きがち『医療療養病床に入院している寝たきりの高齢患者さんの場合、熱こもりや生体リズムの変調など、いろいろな要因が重なって体温を維持・調節するメカニズムが異変をきたします。これは、東邦大学看護学部の高齢者看護学研究室で准教授をされている藤野秀美博士(老年学)という先生が高齢者看護の豊富な現場経験から指摘していることですが、5月から9月にかけてのいわゆる“夏場”は、外気温の高さに伴って高齢のかたが熱を持ちやすくなり、下がりにくくなる ということもあるようです』(50代男性/都内総合病院副院長・医師)私たちは“発熱”というとついつい感染症をはじめとする“病気”が潜んでいるせいだろうと考えがちですが、医学に精通された医師の先生が看護の専門家の見解に学んでいるというところが興味深いですね。高齢者の療養病床の現場では微熱だけにとどまらないいろいろな問題が起きていることが想定されるため、医学のみならず看護学や介護学の視点から幅広く患者さんを見ていくことが大事なのだろうと考えさせられます。●微熱それ自体よりも食欲減退の方が問題それから、微熱が続いていること自体より、微熱によるダルさでお母様が食事を受けつけなくなることの方が、注意を払わなければならない問題であるようなのです。『寝たきりの高齢者が熱由来のダルさから食欲の減退を起こすようになると、食事量そのものの減少を引き起こし、低栄養、低血糖、眠気といった負のスパイラル に入るおそれがあります。現代医学では経鼻胃管栄養法や胃ろう栄養法といった栄養摂取の方法があるとはいえ、まずはそういった状態にならないように心がけるべきでしょう』(50代男性/前出・医師)寝たきりの高齢者が継続する微熱のダルさのせいで食事をとらないようになると、飲み込む力もあっという間に衰えてしまうようです。療養病床での寝たきり生活でも、ハリのある生活を送ることによって負のスパイラルに陥ることをできるだけ防ぐべきです。そのために、家族も心がけて本人が興味の持てる活動というか動作を少しずつでもするように促し、生活の“ハリ”をキープさせること が大切かと思います。微熱が続くことは心配ではありますが、それ以上に注意すべきこともまた、あるみたいです。●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年05月17日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。大手全国紙各社は、『子育てと家族の介護に同時に直面する「ダブルケア 」をする人が、全国で少なくとも25万3千人いることがわかった』という2016年4月28日公表の内閣府の推計結果について、同日21時台のデジタル版で一斉に報道しました。ひと昔前の常識では、介護は「子育てが終わった中高年がするもの」という感覚が大多数でしたが、女性も男性も結婚する年齢が上がり、40代に入ってから第一子を授かるご夫婦が全然珍しくなくなった現代においては、想定されていたことなのかもしれません。ただ、“子育て”と“高齢者の介護・看護”を同時にしなければばらない状況というものは、(筆者もその一人なのですが)実際に経験した人にしか分からないくらい過酷なものであり、場合によってはケアする側が精神神経科分野の疾患におかされてしまうほどの危険性をはらんでいます。都内でメンタルクリニックを開業する、ダブルケアの問題に詳しい精神科医の先生に伺ったお話を参考にしながら、考えてまいりましょう。●ダブルケアの最大の問題点は、子育てに充てられる時間を削らざるをえなくなる点『内閣府の推計では、“育児”の対象を未就学児に限定しているため、実際にダブルケアに直面している人がもっと多いことは間違いなく、25万人どころでないことは明らかです。仕事量を減らさざるをえなくなることはダブルケアの人だけでなく介護のみの人にとっても大きな問題なのですが、ダブルケアの最も大きな問題点は、限られた1日の時間の多くを“介護”の方に割き、“子育て”に充てる時間を削らざるをえなくなる という点です。その心の葛藤によって、うつ状態になる人もいます』(50代女性/都内メンタルクリニック院長・精神神経科医師)筆者の場合、すでに結婚して家を出た長女が子どもだったころは両親とも元気だったのですが、長女の誕生から15年たって授かった長男は、筆者が認知症の父親(故人)の介護をしなければならない期間に育児を要する期間が重なりました。長男が中学生になった現在も、長期入院中の母親を見なければならない状況に筆者がいるため、コミュニケーションをはかる時間は自ずと制約を受けています。筆者のケースはまだいいにしても、赤ちゃんや未就学児をお持ちのママやパパにとっては、「もし、いま“介護”の必要にまで迫られてしまったとしたら」 と考えるだけでパニックに陥ってしまうのではないでしょうか?●ダブルケアに直面している人の8割は働き盛りの30代・40代推計によると、ダブルケアに直面している人を年齢別でみると、40~44歳が27.1%で最多。35~39歳が25.8%、30~34歳が16.4%と続き、30代・40代の働き盛りの世代に最も重い負担がのしかかっていることが分かります(数字は2012年の総務省『就業構造基本調査』を基に集計)。また、2016年に入ってから実施したインターネット調査では、小学6年生までの子どもの子育てと親や祖父母の介護を同時にする1,004人に『ダブルケアの状態になった後の就業実態』についての質問を実施。その結果として、ダブルケアになって仕事を減らした人が17.9%、仕事を辞めた人が7.9%いたことが判明。つまり、ダブルケアになったことで4人に1人 が仕事を減らすか辞めるかの決断 を余儀なくされたことを、数字が物語っているのです。●介護・看護のプロの力を借りるためにも仕事は続けて。子どもは親がいるだけで大丈夫介護・看護を要する度合いにもよりますが、世界で一番最初に“超高齢化社会”を迎えたわが国では、高齢者の介護や看護に職業として携わるプロフェッショナルの方々がいらっしゃいます。ダブルケアの過酷さに悩む30代・40代のみなさんに筆者が僭越ながら先輩として申し上げられることは、「プロの力を借りるためにも、自分自身の精神的な健康を保つためにも、仕事は完全に辞めてしまわず、続けてください」 ということです。筆者の父親は最期、トイレの使い方も筆者の顔すらも忘れてしまい大変でしたが、それでも体は丈夫でこれといった病気もなく自宅で看取ることができました。それに対し、医療療養病床に入院中の母親は、認知症はないものの複数の医療行為が手放せない状態であるため、自宅で過ごすことも介護の施設に受け入れていただくこともできません。それでも、筆者、筆者の家族や親戚がみな仕事を持っていて収入があるので、療養病床でプロの方々のお世話になることができています。また、子どもが「親は、おじいさんやおばあさんの介護・看護にかかり切りで、自分のことを振り向いてもくれない。悩みも聴いてくれない」といった“疎外感”を持っているかというと、そういうことはあまり考えなくてもいいようです。『子どもはある意味でしっかりしており、親が自分の親の介護・看護に時間を取られてしまっている様子を見て、むしろ、「大変だなあ」と思っているもの です。自分の方を振り向いてくれないと不満に思っているというケースは、ほとんどありません。親が側にいるだけで、心強いものです。ただ、小さな未就学児の場合はそういったこともなくはないので、ある程度の“割り切り”は必要になってきます。子どもにちゃんと関われていないのではないかと自分自身に疑問が湧くような精神状態を自覚したのであれば、早めにメンタルクリニックを受診してください。心情を吐き出していただくだけでも、違ってくるものです』(50代女性・精神神経科医師)●おわりに現在、わが国では、子育て中の現役世代の人が親をはじめとする家族の介護・看護の問題に直面した際の課題や必要とされる支援は何かといったことについての体系的な研究がいまだに確立していない状況です。しかしながら、晩婚化に伴ってダブルケアを担う人が今後さらに増えてくる ことは間違いなく、在宅介護や在宅医療を推奨することがややもするとメインになっている現在の行政の方針は、そういった現実との間に“ズレ”を生じています。ここは、税収の分配方法の変更などによって介護・看護のプロが相応の報酬を得ながら、家族が長期的な介護や看護を必要とするようになった子育て中家庭のパパ・ママを抜本的に支援できるようなシステムの構築が急務かと思います。「保育園落ちた、日本死ね」だけではなく、「親の介護・看護が大変過ぎて子育てに手が回らない、日本死ね」といった声が噴出してくる前に、私たち自身が急いで考えはじめなければならない問題でありましょう。●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年05月10日【女性からのご相談】50代です。およそ半年間に及ぶ入院生活を終えて間もなく80代半ばの母が自宅に帰ってきます。もちろんケアマネージャーさんの指導のもとに各種の介助器具も使い、在宅療養支援診療所のお世話にもなりながらの在宅復帰なのですが、それでも不安で不安でたまりません。というのも、うちの母には“介護”だけでなく“看護”が必要だからです。私の理解では、例えば認知症だけれど体は丈夫なお年寄りに日常生活の手助けをしてあげるのが“介護”。体の健康状態に問題がある人に医療の知識や技術をもって改善の手助けをしてあげるのが“看護”。母は、明らかに“看護”が必要な状態。私のような素人が看護を必要とする高齢者に在宅で接する際の注意点について教えてください。●A. また入院生活に戻る場合もあることを想定して、あなた自身が無理をしないことです。こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。ご相談ありがとうございます。介護と看護の違いについての理解は、ご相談者様の理解の通りでよろしいかと思います。介護が日常生活の手助けをする行為であるのに対して、看護は“放っておいたら体の健康に重大な問題を来たすおそれのある症状に適切な処置を施し、治癒・改善の手助けをする行為”であり、言ってみれば医療の現場で医師に準ずる医療行為に携わる仕事 であると言うことができるでしょう。そのため、在宅で高齢のお母様の看護にあたるということは、ある意味でとても大変で責任の重いことです。出血の処置やむせた場合のタンの吸引措置など、“介護”の範疇を超えた仕事も多い です。また、看護を要する状態であるということは、再び入院生活に戻る場合もあることをも示唆しますので、あなた自身が無理をしないことも大切です。都内の総合病院に看護師長として勤務し、看護学の博士号もお持ちの看護師さんに伺ったお話を参考にしながら、考えてまいりましょう。●患者さんの在宅復帰の判断は慎重に『分かりやすいように具体的な例を挙げてお話ししましょう。おむつ交換のときに、ほんの微量ではあっても下血が見られたとします。介護に携わる人であれば、「寝たきり生活のストレスで下血する場合もあるから」といった認識で、何よりもとにかくおむつを交換してお母様が気持ちよくなるようにしてさしあげること。これが“介護”に携わる人のあるべき姿勢ですね。しかし、看護に携わる人はそれだけでは不十分です。おむつ交換の際にたとえ微量であったとしても下血を確認したなら、現在のお母様の状態を観察しながらおむつ交換を行い、在宅療養支援診療所のドクターに報告をする などの、行動を起こさなければなりません』(50代女性/都内総合病院看護師長、看護学博士)この看護師さんのお話からも分かるように、お母様がまだ介護のみならず看護をも必要とされる状態であるのだとしたら、それを看る立場のご相談者様の責任はかなり重いものだということがご理解いただけるかと思います。『自分の手を使い自分の口で食事を取れるところまでは回復しているものの、時としてむせってしまいタンの吸引が必要となるような場合には、そのタイミングを見過ごさないことやお母様が苦しまないような吸引技術の習得が必須となります。そうでないと、“誤嚥性肺炎” などにつながって行くおそれもあるからです』(50代女性/前出・看護学博士)このように介護と看護の間にはかなりの程度の質的な隔たりがありますので、介護のみならず看護を必要とする高齢者の在宅復帰には、看る人の立場にも立った慎重な判断が必要となるのです。●職業として看護を行う専門家に任せるのも道5年ほど前になくなった筆者の父親は認知症が進行して最期は苦労しましたが、それでも体は丈夫だったため看護の必要がありませんでした。食事の手伝いや洗面の手伝い、排泄の手伝いなどの介護はもちろん大変でしたが、それでもタンの吸引や経管栄養、カテーテル管理などといった看護の必要がなかった分、まだ気が楽な面もあったと思います。国家資格を取得するのに多くの勉強と労力を要する看護の仕事は、介護の経験がある筆者から見ても専門性が高く難しい もののように感じます。それを“家族”であるということで資格がなくても行うわけですから、在宅での高齢者の看護は“医師との懸け橋”という意味において相当の責任を伴う行為と言えます。そのため、ご相談者様へは「自分には重すぎる仕事かな」と感じたなら、けっして無理をせずに職業として看護を行う専門家に任せることも道であると、申し上げたいと思うのです。●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年05月03日こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。今回は、『日本人の国民性と消極的延命の意義について』というテーマでお話しをしたいと思います。20世紀の最後の時期にあたる1990年代の終わり頃、筆者は北関東にある医療福祉系大学に事務系幹部職員として勤務しておりました。その当時、仕事で関わった数多くの人たちのうち数人の方から、「日本には寝たきりの老人がたくさんいるのに、欧米にはいないと聞いたけれど、それは本当なのですか?」というような主旨の質問を受けたことがあります。その当時は、「北欧などでは口から食べられなくなった高齢者を経管栄養で延命させることは少ないようです」と、その分野の権威である医師のお話の受け売りでお答えしていた記憶があります。しかし、その当時でも90万人いたとされる寝たきり老人の数は、その後2010年には170万人前後に達し、2025年には230万人に達すると予想されています。そんな現代においても「消極的な延命であれば、それを希望する」という家族が多いわが国においては、その独特な国民性というか、“ターミナルケアに関する感性”という視点を抜きにして、寝たきり老人の問題を語ることはできないのではないかと思います。●「人工呼吸器=希望しない、経管栄養での延命=○」という私たちの感性2015年に出版された、内科医の宮本顕二・礼子夫妻が書かれた『欧米に寝たきり老人はいない~自分で決める人生最後の医療』という本があります。これは、長年にわたって医師として日本のターミナルケアのあり方に疑問を感じてきた著者夫妻が、タブーを破って「点滴で生きていて何の意味があるのか」 といった欧米的感性の視点から日本の終末期医療の現実を批判し、話題になりました。しかしながら、この本が多くの日本人から共感を得たかというと、宮本医師ご夫妻には失礼かもしれませんが、答えは「ノー」だと言えるでしょう。共著者の一人である宮本礼子さんは、『今や療養病床の半分以上、多分7~8割は、経管栄養や中心静脈栄養で延命されている人たちです。そのため、点滴や経管栄養を行わなかったり中止したりすると患者さんは2週間ほどで亡くなるので、病床が空き、病院経営が苦しくなります』と、医療経営学的な視点から日本の終末期医療の現実を批判しています。この論点に対しても、「“点滴くらいはやってでも、生きていてほしい”と家族が願うのは当然のことではないか」といった感想が、少なくとも筆者のもとに集まった読後感想としては多勢であったように思います。一方でわが国の場合は、「人工呼吸器を装着してまでの延命治療は希望しません」という声が家族の中に多くあることもまた事実です。これは、兵庫県の加古川市で在宅医療に尽力し多くの患者さんを看取ってこられた西村医院の西村正二院長の言葉を借りるなら、現時点で終末期医療を必要とする高齢者の家族による治療法選択においては、『一定のレベルを超えた治療は望まない、ある限られた範囲内の治療で治癒を試みてほしいという“限定医療”を臨む声が一般的である 』ことの表れといえます。つまり、わが国の高齢者医療の現場では、「1分でも1秒でも長く生かしてほしい」というよりは、「点滴程度の対応で生きていられるのなら、生きていさせてほしい」という“消極的延命”ともいえる行為こそが、私たちの国民性に合っているということを物語っているのかもしれません。●高齢者の8割が病院でなくなる日本だが、けっして恥ずべきことではない前出の西村医師が在宅医療のクリニックを開業している兵庫県の加古川市では、平成21年度の統計で死亡者数は約2,000人。そのうち在宅看取り率は15.9%で、74.8%の人が病院で死亡しているということです。この割合は現在の日本の全国的な傾向とほぼ合致していて、「高齢者の約8割が病院で亡くなる国」 という表現が当たっていることを表しています。西村先生はクリニックのホームページの中で、『最近、政府や政治家が盛んに高齢者の医療費抑制を訴えている。高齢者医療には“無駄”や“無意味な延命”があると考える政治家や医療関係者が出てきている』と述べています。また、そういった考え方は『自ら食べようとしない者に補液などを行うのは非人間的な行為だ、といった欧米社会独特の価値観には近いかもしれないが、現在のわが国の国民感情からは、一般的にはなかなか容認されにくい』と、はっきりとおっしゃっているのです。つまり、“高齢者の8割が病院でなくなるわが国の特性は、けっして恥ずべきことではない”ということなのです。●おわりに現代の日本において、日常的に医療・看護が必要な状態となった高齢の家族の介護は、国民的な大問題と言えます。お金と権力をお持ちの先生方の中には、その力でもって自分自身はあまり大変な思いをせずに、恵まれた施設で家族を過ごさせてあげている方も少なくありません。そのような方がやたらと“高齢者医療費の抑制”を叫ぶことに違和感を抱いてしまうのは、西村医師や筆者だけなのでしょうか。西村医師の言葉をまたお借りして表現するなら、『治療しなければ死に至ることも少なくない状態を、みすみす放置することが人間らしい行為だと言えるのか?』ということだと思います。少なくとも筆者は、消極的延命であればそれを支持する日本人の国民性に、誇りを持っております。【参考リンク】・高齢者の看取りについて | 西村医院HP()●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)
2016年04月26日