「美智子さまはご退院後すぐから朝早く起きられて、夜も遅くまでお荷物の整理をされています。あまりに一生懸命やられているので、側近が『ご無理はなさらずに』と申し上げても『そうはいかないのよ』と手をお休めにはならないのです」そう語るのは、最近の上皇ご夫妻の生活を知る関係者。9月8日に乳がんの摘出手術をお受けになったばかりの美智子さまは、すでにお引っ越しに向けた準備を再開されたというのだ。上皇ご夫妻は、現在お住まいとなっている吹上仙洞御所から高輪皇族邸(仙洞仮御所)へ引っ越される予定。そして上皇ご夫妻のお引っ越しが完了しなければ、皇居・御所の改装工事に着手できず、天皇ご一家が皇居にお引っ越しになれないのだ。「美智子さまは、皇居は天皇陛下がお住まいになるところとの思いを強くお持ちです。両陛下に少しでも早く御所を譲りたいとのお気持ちから、ご無理をされているのでしょう。しかし、そうは言いましても吹上仙洞御所には“断捨離”をしてしまえるものなど、ほとんどございません。上皇陛下、上皇后陛下が一つひとつご覧になり、どのように整理すればいいのかを判断なさるほかないのです」(前出・上皇ご夫妻の関係者)前回お住まいを移されたのは、ご即位から約5年後の’93年12月のこと。上皇ご夫妻は赤坂御所から吹上御苑に新築された御所(現・吹上仙洞御所)にお引っ越しされた。そのときの規模を見ると、赤坂御所から運び出された荷物はなんと2トントラック延べ100台分。そのうち4割ほどは宮内庁庁舎に搬入され、御所に運び込まれたのは約6割。今回も同規模、もしくはそれ以上の荷物になると予想されているため、上皇ご夫妻の“私物”は120トンを超える見込みなのだ。しかし、高輪の仮仙洞御所はそれほど広くない。赤坂御用地内に新設された倉庫に運び込まれるものもあるようだ。元宮内庁職員で皇室ジャーナリストの山下晋司さんはこう語る。「外国ご訪問時や来日した賓客からいただいたプレゼント、即位などの際のお祝い品、献上品などは上皇上皇后両陛下の私物になりますが、ご在位が30年という長きにわたりますので、相当な数になっていると思われます」ご贈進品や献上品の一部は、ご即位30年、ご成婚60年を記念した特別展で展示もされた。英国のエリザベス女王から贈られたボウル、オランダのベアトリックス女王からの花瓶など、外国王室からの贈り物の数々。また国内からも、全国に古くから残る伝統的な名産品が献上されており、歴史的文化的にも貴重な逸品が並んだ。そして、それらの品々はただ保管されているだけではないと話すのは前出の宮内庁関係者。「沖縄が日本に復帰した5月15日前後、御所の居間の一角にシーサーが置かれます。雲仙・普賢岳の火砕流、三宅島の噴火、終戦記念日、東日本大震災……それぞれに“ゆかりの品”が飾られます。“思いがこもった品々”が多いので、職員が勝手に手を出すわけにはいかないのです」さらに上皇ご夫妻の蔵書も膨大な量になる。前回のお引越しのときは1万冊といわれた。「ご研究関係の書籍、ご公務関係の資料なども平成23年度に御所に書庫を増築したほどですから、相当な数になっているのでしょう」(前出・山下さん)もちろん書籍に関しても、上皇ご夫妻の指示を仰ぐほかない。お引っ越しの準備が整うまでには途方もない時間がかかってしまいそうだが――。「即位の礼に続き、11月には即位の最重要儀式ともいえる大嘗祭が行われます。天皇陛下と雅子さまもお忙しい日々が続きます。上皇陛下と美智子さまのご体調を案じていらっしゃいますし、決して皇居への引っ越しをお急ぎではないはずなのです」(前出・宮内庁関係者)美智子さまには、お体に気づかわれながらゆっくりと準備を進めていただきたい――。
2019年10月03日乳がん手術から退院された翌日の9月11日、美智子さまは上皇陛下とともに赤坂御所へ向かわれた。紀子さまの53歳の誕生日を祝う夕食会に参加されたのだ。「夕食会には秋篠宮ご一家はもちろん、天皇皇后両陛下と愛子さま、黒田清子さん夫妻も参加したのです。清子さんは上皇陛下とともに、手術当日の美智子さまに付き添われました。また、天皇皇后両陛下や秋篠宮ご夫妻もお見舞いの言葉をお伝えになっていました。美智子さまはそうした“ご一家総出”のサポートへの感謝をお伝えになったことでしょう」(宮内庁関係者)ただ、退院翌日に夕食会に参加された理由はほかにもあるのではないか、と語るのは皇室担当記者。「国際親善でのご活躍など、天皇皇后両陛下に称賛が相次いでいるのとは対照的に、秋篠宮ご夫妻には、小室さん問題についての責任を問う厳しい声が上がっています。眞子さまは紀子さまに対して口を閉ざし、ご公務についての相談を除けばほとんどコミュニケーションがとれない状況が続いているそうです。小室さん問題に悩む紀子さまを少しでも労いたい、そして眞子さまとの親子仲を取り持ちたいというお気遣いから、夕食会に出席されたのかもしれません」(前出・皇室担当記者)お誕生日に際して紀子さまは、宮内記者会の質問に答える文書を発表された。眞子さまの結婚延期に関しては、推測で答えることを《控えたい》と、回答を避けられたかのように見える。しかし皇室ジャーナリストは、実はこのご回答には重要なメッセージが込められていると語る。「佳子さまの将来については、ご本人に《深く考え、歩んでいくことを期待しております》と綴られていますが、これは眞子さまの現状を念頭に置いたお言葉ではないでしょうか。眞子さまは“深く考えていない”ために小室さんと決別できずにいる、と紀子さまはお思いなのでしょう。そして《成長を支えてくださった方々にも喜んでいただけるよう》との一節は、誰よりも上皇陛下と美智子さまを思い描いて綴られたお言葉でしょう。優しく見守ってこられた上皇ご夫妻をこれ以上悲しませてはならないーー。それこそが眞子さまの“暴走”を憂慮する、紀子さまからの切実なメッセージなのです」美智子さまはこれまで、結婚については眞子さまの内心に触れる事柄であり、ご本人の決心を待つ以外ないと、辛抱強く眞子さまのお気持ちを尊重されてきた。しかし今年7月、本誌は美智子さまの知人からこんな話を聞いた。「美智子さまは、お孫さまのことが心配だとおっしゃっていました」知人は“お孫さま”が誰かは明言しなかったが、前出の皇室ジャーナリストは言う。「美智子さまは、眞子さまのことを気にかけていらっしゃるのでしょう。親しい知人や側近にさえも沈黙を守ってこられた美智子さまですが、このままでは事態が好転することはないと思い直されたのかもしれません」美智子さまは、’10年のお誕生日に際してこう述べられている。《東宮家、秋篠宮家の家族を私はこの上なく大切なものに思っており、その家族一人一人の平穏を心から祈っています》これは雅子さまの健康や愛子さまの登校不安を心配されてのご発言だが、“小室さん問題”はそれらに匹敵するご家族の危機といっていい。「病身をおしてまで夕食会に参加されたことは、ご家族の結束を何よりも大切にされてきた美智子さまの強い意志の表れでしょう。それは、小室さんを大事に思うあまりご両親に対して心を閉ざし続ける眞子さまにとって、美智子さまからの叱責にも等しいものだったに違いありません」(前出・皇室ジャーナリスト)ご家族勢ぞろいの夕食会がきっかけとなり、再び秋篠宮家が一つになる日は来るのだろうかーー。
2019年09月19日「お世話になりました。ありがとうございました」美智子さまは、見送りに並んだ病院長らに何度も頭を下げ、感謝の言葉を述べられていたーー。乳がん手術を終えられた美智子さまは、9月10日に東大病院を退院された。美智子さまが入院されるのは帯状疱疹を発症された’97年7月以来、実に22年ぶりのこと。宮内庁関係者によれば、手術にあたっては“ご一家総出”のサポートがあったという。「手術当日の朝には上皇陛下と黒田清子さんが病院に駆けつけ、美智子さまに付き添われました。手術室へ向かうエレベーターホールでは、上皇陛下が美智子さまに優しく身を寄せ、声をかけていらっしゃいました。また、秋田県を訪問されていた天皇皇后両陛下からは、侍従職を通じてお見舞いの言葉が伝えられました。秋篠宮ご夫妻もお気持ちを伝えられたそうです」ご家族の絆を胸に、手術を乗り越えられた美智子さま。8日の手術から、わずか2日でのご退院となった。そして退院翌日の11日午後6時半ごろには、上皇陛下とご一緒にお車で赤坂御所へ。美智子さまはサングラスをかけられ、まっすぐ前を見つめられていた。「11日は、紀子さまの53歳の誕生日でした。上皇ご夫妻は、誕生日をお祝いする夕食会に出席されたのです。夕食会には秋篠宮ご一家はもちろん、天皇皇后両陛下と愛子さま、黒田清子さん夫妻も参加し、天皇家のご家族が勢ぞろいとなったのです。当然ですが、眞子さまもいらっしゃいました」(皇室担当記者)美智子さまの乳がんは「ステージ1」だったとはいえ、がん手術後たった3日での外出。お体に心配はないのだろうか。乳がんに詳しい相良病院乳腺科臨床研究センター長の柏葉匡寛医師に話を聞いた。「今回の手術は抜糸や術後の処理がほぼ必要のない術式と考えられます。傷に異常がなく、全身麻酔からの回復を確認できれば、少なくとも翌朝までにお食事、歩行は可能です」早期退院を決断され、まっさきにご家族に会いに行かれた美智子さま。紀子さまの誕生日をお祝いされただけでなく、お見舞いへの感謝をお伝えになったことだろう。
2019年09月18日左胸に早期の乳がんが見つかった美智子さまは、9月8日、東京大学医学部附属病院で、がんの摘出手術を受けられた。手術は乳房を残す温存手術(部分切除)で行われ、がん組織だけを摘出。術後には必要に応じて放射線治療を受けられ、順調なら2〜3カ月で軽い運動ができるまで回復するという。美智子さまが84歳で手術を決断されたことは、高齢化が進む日本で、がん治療をどうすべきか、考えるいい機会でもあるーー。がんは加齢とともに増加する病気。平均寿命が延びたことで高齢者の患者数が増え、’14〜’15年にがんと診断された人では、75歳以上が約4割を占めている。福岡大学医学部総合医学研究センター教授で「高齢者のがんを考える会」の発起人でもある田村和夫先生はこう語る。「がんの治療には、3大治療である、手術、抗がん剤療法、放射線治療があります。それぞれに副作用や合併症などのマイナス面を伴い、それが高齢者には高いハードルになるのです。特に体の負担が大きいのが手術。がんを切除できても、ダメージから、体力や免疫力の低下による肺炎で死亡するケースもあります。当然ながら、高齢者のがんの治療によって、その人の本来の寿命を短くしてしまうことは避けなければいけません。さらに副作用で寝たきりになったり認知症になったりしないよう生活の質(QOL)を維持することも重要なのです」東京大学医学部附属病院放射線治療部門長の中川恵一先生はこう語る。「高齢者のがん治療は、体の負担の大きい手術よりも、放射線治療が中心になります。放射線治療では治らず、手術が必要なのは胃がんや大腸がん、子宮体がんなどです。早期の胃がんや大腸がんは、身体的なダメージの少ない内視鏡・腹腔鏡などで腫瘍の切除ができるため、高齢者でも耐えることができます。しかし、進行したがんで胃や大腸の全摘となると体の負担が増え、術後に体重減少や筋力低下を招き寿命を縮めてしまうことがあるので慎重な判断が必要です。子宮体がんの全摘手術も、体へのダメージが大きいので、80歳を超えて健康状態の悪い方は、慎重に考える必要があります」がんは部位ごとに違う病気といっても過言ではない。さらに進行スピードも異なる。進行が速い、肺がんは注意が必要だ。「肺がんの根治を目指し、肺葉切除をすると、呼吸機能が大きく損なわれます。高齢者で早期の肺がんなら放射線のピンポイント照射、進行した肺がんなら抗がん剤と放射線の併用が、比較的体の負担も少なくメリットが大きいのです」(中川先生)逆に、高齢であっても手術という選択が適切な場合も。「乳がんの手術は、おなかを切るわけではないので、体への負担が少ない。そのため高齢者であっても、健康状態がよければ、手術をしたほうが完治や再発を防げるなどメリットが大きい」(中川先生)美智子さまのご決断は、医師との話し合いのうえ、最善の方法を選んだことがうかがえる。最後に田村先生が語る。「高齢者のなかには、すごく元気な人もいれば脆弱な人もいます。同年齢でも個人差がとても大きい。さらに、若い人のがん治療は、根治や長期延命が目的ですが、高齢者の場合には“残された人生をどう過ごすか”ということが重要な要素になってくるのです」
2019年09月16日9月10日の午後、美智子さまは東大病院から退院された。乳がんの摘出手術からわずか2日での退院となり、病院の玄関で病院長や看護部長にあいさつされた美智子さまのご表情も晴れやかだった。「美智子さまの左の乳腺に腫瘤が見つかったのは今年7月の健康診断です。その後の検査で乳がんと診断されました。病期は『ステージ1』で、明らかな転移もありませんでした。医師団は全身麻酔のうえ、がんとその周辺だけを摘出する『乳房温存手術』を行いました」(宮内庁関係者)手術を前にした8月下旬、美智子さまは上皇陛下とご一緒に、長野県・軽井沢と群馬県・草津で静養されている。「上皇陛下の退位関連行事に伴う過密スケジュールの影響もあってか、美智子さまはかなりお痩せになってしまいました。ご高齢でもありますし、疲労の蓄積やお体への負担は想像されていた以上のものだったようです。今回のご静養は乳がん手術へ向けて、美智子さまに体力をご回復いただくことも大切な目的でした」(皇室担当記者)美智子さまと親交の深い絵本編集者の末盛千枝子さんは、ご静養前に電話を受けたという。「軽井沢に行かれる前の晩でした。『婦人之友』9月号の書評欄に、上皇后さまが朗読されてきた詩とその英訳などを収めた書籍『降りつむ』と、私のエッセイ集『根っこと翼皇后美智子さまという存在の輝き』の書評が載っていることをお知らせくださったのです。そのことをとてもお喜びになっていましたが、手術をお控えとなっていたからか、いつものお元気な上皇后さまとは少し違うご様子も感じました。翌日、軽井沢駅に到着されたときのご様子を映像で拝見したのですが、少しお疲れのようで……。しかし、ご静養から帰られてサントリーホールのコンサートにお出かけになったときには、お元気そうでした。お隣の上皇陛下も柔らかなご表情をされていましたね」軽井沢ではテニスでご友人たちと旧交を温められ、妹の恵美子さんの別荘もお訪ねになるなど、例年と同じように過ごされた。草津ではワークショップに参加されて、世界的フルート奏者、カールハインツ・シュッツさんと合奏で、サンサーンス『白鳥』のピアノ演奏を1時間ほど練習された。現地で美智子さまに会った知人はこう語る。「少しお痩せで、最近は『ピアノの譜面がなかなか覚えられないのよ』とおっしゃっていました。けれど、拝聴した美智子さまのピアノ演奏は素晴らしいもので、ほかの参加者たちからアンコールをお願いされるほどでした。そのアンコールにお応えになり、華麗に演奏される美智子さまのお姿を拝見して、ご病気も心配ないと思いました。そしてお帰りの際には、美智子さまから『来年もね』とのお言葉をいただけました」旧友たちとの会話、そして大好きなピアノを楽しまれて、美智子さまは手術へ向けての体力も英気もしっかりと養われたようだ。8日の手術は約4時間で無事終了。リンパ節への転移も認められなかった。今後、詳細な病理診断の結果を踏まえ、再発を予防するホルモン療法などが検討されるという。手術を乗り越えられた美智子さま。友人たちに囲まれ、文学を語らい、ピアノを演奏される日を心待ちにされていることだろう――。
2019年09月14日美智子さまは9月8日、東京大学附属病院で乳がんの摘出手術を受けられた。宮内庁によれば、手術は無事に終わり、経過は順調だという。美智子さまにとって初めてのがん手術。不安もおありだったのではないかと思うのだが、8月下旬の軽井沢・草津ご静養の際、美智子さまに悲愴な雰囲気はほとんどなかったという。「幸いなことに、美智子さまの乳がんは“奇跡的な早期発見”だったのです。本当に極小のがんで、ベテラン医師でも見逃してしまうようなものだったようです」(宮内庁関係者)美智子さまは、15年以上前から乳がんの検診を受けられている。本誌も’03年5月、美智子さまが都内の癌研究会附属病院(現・がん研究会有明病院)で精密検査を受けられたことを報じている。「そのころから検査を担当してきた女性医師の高橋かおるさんに、美智子さまは絶大な信頼を寄せられています。彼女は’06年の1月に地元・静岡県の県立静岡がんセンターに移りましたが、その後も毎年、美智子さまの検診を担当してきました。そのことが、今回の奇跡的な早期発見につながったのです」(前出・宮内庁関係者)今年7月、高橋さんは乳腺超音波検査で美智子さまの左胸に病変を発見、MRI検査でも乳がんの疑いと診断した。その後、いくつかの検査を経て乳がんの告知を受けた美智子さまは「よくぞ見つけてくれました」と高橋さんへの感謝を述べられたという。医療関係者が明かす。「実は、彼女は“スーパー女医”ともいうべき名医なのです。患者さんと丁寧にやりとりし、なおかつはっきりものを言う医師。術例数も非常に多いので、手術の腕も間違いありません。20年ほど前から“乳がんといえば髙橋かおる医師”と言われるほど評価が高かったのです」高橋さんは以前から、日本の乳がん検診受診率の低さに警鐘を鳴らしてきた。’05年度の時点で欧米諸国では6~8割だった受診率が、日本ではたった17.6%だった。そうした状況に危機感を覚えた彼女はいち早くマンモグラフィーを導入して、触診でわからない「非蝕知がん」の発見にも尽力してきた。触診で判別できる大きさになる前に発見すれば、より治癒の可能性が高くなるからだ。「高橋さんは“忙しくても笑顔を忘れない”、そして“自分自身が受けたいと思える医療を行う”をモットーとしていて、女性患者の信頼がとても厚いのです」(前出・医療関係者)8日の手術は高橋かおる医師と東大病院乳腺・内分泌外科の合同チームにより行われた。がんの大きさは1センチ弱で、乳房温存手術によりその周辺5センチ弱を摘出。手術は4時間ほどで終了した。美智子さまは、経過が順調ならば術後数日で退院される見通しだという。
2019年09月10日乳がん手術のため、9月7日に東大病院へ入院されることが発表された美智子さま。ご体調が心配されていたが、軽井沢に滞在された8月23日から8月30日までのご静養では、元気な姿をお見せになっていた。8月27日には、群馬県草津町で行われていた「草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル」にお出かけに。午後はお一人でピアノのワークショップに参加され、夜には上皇陛下とコンサートを観賞された。「ワークショップからコンサートまでの間は数時間と短いインターバルしかありませんでした。にもかかわらず、美智子さまはワークショップでは動きやすい白いシャツスタイル、コンサートではシックなブルーのトップスに“お召し替え”されていました」(皇室担当記者)そのこだわりは、小物使いにも。「とくに印象的だったのがバッグ。ワークショップではピアノの鍵盤柄のユニークなトートバッグをお持ちでした。コンサートでは、手持ちの金具が上品な、小ぶりの籠バッグで印象を変えられていました。タイの手工業品である高級なもので、暑い季節によくお使いになられています」(前出・皇室担当記者)上皇后となられてからも、おしゃれを楽しまれている美智子さま。退院されたあとも、お元気に過ごされることを願うばかりだ――。
2019年09月07日女優の羽田美智子(50)が8月25日、神宮球場にて行われたヤクルト・阪神戦で始球式を行った。羽田は現在出演中のドラマ「特捜9」(テレビ朝日系)にちなんで、背番号“9番”を背負って登場。その姿に球場中が湧いた。「こんにちは!よろしくお願いします!」と元気に登場した羽田は、ユニフォームに赤いパンツという衣装で美脚を披露。さらに「夏休みの思い出になるような、いい試合になるよう頑張ります!」と意気込みを語った。屋外練習場や実家の庭でも練習したという羽田だが、結果はワンバウンド。「ちょっと緊張しました」「高校球児の気持ちがわかりました」と話し、「本当はノーバウンドでストライクを狙っていたんです」とも明かした。いっぽうで「試合前の皆さんの緊張をほぐすっていう意味では、結構よかったんじゃないかな?」と笑顔で始球式を結んでいた。「~東京音頭の作曲家『中山晋平』の故郷~信州なかのナイター」と銘打たれていた今回の試合。始球式は今年4月にグランドオープンした羽田が店主を務めるオンラインセレクトショップ「羽田甚商店」がキッカケで、オファーにつながったという。大のぶどう好きである羽田は中野市産のぶどうを同店で取り扱っており、情報交換を続けていくなかで声がかかった。自身にとって2回目となる始球式は、羽田にとって思わぬ“収穫”となったようだ。また当日は作曲家・久石譲(68)の長女であり、中野市音楽親善アンバサダーを務める麻衣(40)が「君をのせて」を独唱するというスペシャルな一幕も。試合は5-1でヤクルトが逆転勝ちを果たし、連敗をストップさせた。
2019年08月26日美智子さまが早期の乳がんと診断されたと宮内庁が発表したのは、8月9日のことだった。美智子さまの近況について、親しい知人は心配そうに話す。「私が今年の春ごろにお会いした際、上皇后さまは『5月まで(私の体は)もつかしら、心配なのです』とおっしゃったのです。御代替わりとなる5月まで上皇陛下をお支えし続けることができるのか……。たいへんな過密スケジュールの中で、上皇后さまはそれだけを心配されていました。国民と皇室のために尽くしてこられた60年だったのです。上皇陛下が退位される日まで全身全霊で取り組まれたご負担が、一気にお体の症状として現れてしまったように思えてなりません」上皇陛下とともに、美智子さまは8月下旬に軽井沢と草津で静養され、体力の回復を図られる。そして9月以降に手術を受けられる予定となっている。美智子さまは診断結果を動揺されることもなく受け止められたという。一緒に医師の説明を受けた上皇陛下は「しかるべきタイミングでいちばん良い治療を受けられるように計らってほしい」と話されたそうだ。実は、80代の乳がん患者は増加傾向だという。乳がんに詳しい相良病院臨床研究センター長で乳腺科の柏葉匡寛医師に話を聞いた。「国立がん研究センターによると、’03年からの12年間で80歳以上の乳がん罹患者数は3倍近くまで増加しています。がん全体の罹患者数が2倍になっていることを考慮しても、大幅な伸びです。ただ平均寿命が延び、高齢でも検診に行ける元気な女性が増えたことが患者数増加の要因と思われるので、一概に悪いこととは言えません。早期乳がんとは、腫瘍の大きさが2センチ以内で、リンパ節転移のないものです。手術では腫瘍を部分切除する『乳房温存手術』と、がんが最初にたどり着くリンパ節だけを1~2個摘出する『センチネルリンパ節生検』を行うのが標準的です」美智子さまは6月に心臓弁の逆流症も公表され、両目の白内障手術も受けられた。また、御代替わり前後から急激に体重が落ちてしまったという。次々にお体の軋みが明らかになるなか、84歳での乳がん手術――。前出の知人によると、美智子さまの決断の陰には上皇陛下の愛あふれるお言葉があったという。「上皇后さまは、ご退位後の上皇陛下と静かに過ごすことを楽しみにされていました。それだけに、乳がんという宣告には、やるせない思いでしょう。昨今、上皇陛下は上皇后さまに『あなたと結婚してよかった』と、何度も何度も繰り返しおっしゃっているのだそうです。上皇陛下の愛情が何よりの支えになり、手術と闘病への後押しになっていることと思います」ご退位後、上皇陛下との“愛の新生活”でさらに強まった夫婦の絆が、病魔を乗り越えるための原動力になっているのだろう。手術後には、どういった生活を送られることになるのだろうか。前出の柏葉医師に聞いた。「美智子さまはご高齢であるからこそ、術後には早期に離床され、1日も早く術前と同じ生活レベルに戻すようなリハビリテーションが重要です。また乳がん手術後、再発のリスクを少しでも抑えるには肥満と体重増加に気をつける必要があります。バランスのよい食事と、適度な運動習慣を取り入れることが大切です」上皇陛下が’12年に心臓のバイパス手術を受けられた際には、美智子さまがリハビリをサポートされていた。「上皇陛下も7月には脳貧血でお倒れになり、体調は万全ではありません。それでも、美智子さまを支えたいという上皇陛下のお気持ちは強いはずです」(皇室担当記者)あふれる夫婦の愛で、病魔にもきっと打ち勝てるはず――。
2019年08月26日上皇陛下は7月11日の夕方、強い脳貧血の症状があり、治療を受けられた。体調が回復された上皇陛下は、15日には美智子さまとご一緒に健康診断を受けられた。すると今度は美智子さまに、一部再検査が必要な項目が見つかったのだ。「6月には心臓の異常が発見され、白内障の手術もされました。まだ再検査の詳細は発表されていませんが、美智子さまのご体調も心配です」(皇室担当記者)だが、白内障手術について報じた記事に対し、ヤフーニュース上ではこんなコメントが。《病気だ、体調悪いアピールする年寄りに限って元気だよね》《いろんな理由をつけて、引っ越しを先延ばしにして、権力を誇示しているのですか?》美智子さまの体調を案じるどころか、心ない言葉の数々が並んでいるのだ。さらにTwitter上には、このような信じがたいツイートも見られる。《皇后雅子さまは上皇夫妻に25年間いじめられてきたの、本当に理不尽だったと思う》《雅子皇后陛下の活躍をもう妨害したり口出ししないで、静かに隠居生活をしていただきたいと心から願います》雅子さまはこれまで、美智子さまにいじめられ続けてきた――。そんなツイートが、御代替わりを機に目立ちはじめているのだ。美智子さまは以前からインターネットを利用されている。’12年に上皇陛下が心臓の冠動脈バイパス手術を受けられた際、パソコンを駆使してリハビリの勉強をされた。美智子さまの古くからの友人も「私がFacebookで親族の介護を日記風に記していると、美智子さまから『とても面白うございました』とご感想をいただき、恐縮いたしました」と話している。美智子さまがネット上の“心なき誹謗”の数々をご覧になっていてもおかしくはない。雅子さまは’03年12月に帯状疱疹を発症され、長い療養に入られた。陛下は’04年2月の会見で《皇太子妃という特別な立場から来るプレッシャーも、とても大きなものだったと思います》と述べられている。「独身時代は外務省で活躍された雅子さまですが、皇室に入られてからは“目立ちすぎないように”と気を使っていらっしゃいました。雅子さまにとって、美智子さまと比べられることも大きなプレッシャーになっていたのでしょう。当時、雅子さまの苦しみを理解していたのは、陛下ただ一人だったといっても過言ではないのです。美智子さまも、苦悩を抱える雅子さまに寄り添えなかったことに、忸怩たる思いを抱かれたに違いありません」(皇室担当記者)適応障害という診断が下った雅子さまについて、当時美智子さまは《東宮妃の回復を願い、助けになりたい》と会見で語られていた。しかし、実際には一時期、雅子さまと美智子さまは疎遠になってしまう。上皇陛下が《愛子と会う機会も限られ、残念》と会見で漏らされるほど、両家の交流は途絶えてしまったのだ。当時、美智子さまは知人に「今は、ただ待つしか無いのよ」と、雅子さまに手を差し伸べることもできない苦しさを語られていたという。誹謗の矛先が美智子さまに向いてしまった背景には、皇后となられた雅子さまの著しい“復活”があると皇室担当記者は言う。「天皇陛下が即位して以降、雅子さまは数々のご公務をパーフェクトにこなされ、国際親善での存在感は世界に絶賛されています。これほど急激なご快復は、雅子さまをいじめてきた美智子さまが表舞台から身を引かれたからに違いない――。そんな憶測につながっているものと思われます」しかし、皇室ジャーナリストの渡邉みどりさんはこう話す。「美智子さまは皇太子妃になられて以来、皇室のしきたりの中で大変な思いをされてきました。“いじめ”に近い体験もあったはずです。ご自分がやられておつらかったことを、後進になさるような方ではありません。雅子さまを長い間見守ってこられた美智子さまが、バッシングを受けているという事実は、たいへん嘆かわしいことです」ようやく上皇陛下との平穏な日々を迎えようとされている美智子さま。これ以上のご心労が重ならないことを祈るばかりだ。
2019年07月26日「上皇后さまから、つい先日お電話があり、お話をさせていただきました。いまは、お引っ越しのための整理がたいへんなのだそうです」そう話すのは、美智子さまと親交のある元絵本編集者の末盛千枝子さん。美智子さまからお電話があったのは7月上旬だったという。御代替わり後、体調が心配される美智子さま。6月上旬の検査で、不整脈や心臓の血液が一部逆流する症状が明らかとなった。心臓については経過観察となったが、美智子さまは6月に2回、手術を受けられた。白内障が悪化しており、6月16日に右目、23日に左目を手術されたのだ。末盛さんは術後の経過についてもお話を伺ったという。「手術からは10日ほどたっていましたが、上皇后さまは『もともと遠視気味でしたので、急にはよく見えるようにならないの。もう少し時間がかかりそう』とおっしゃっていました」宮内庁によれば、手術を担当した医師は「もう少し遅れれば難しい手術になった」と話したという。「実は、美智子さまが白内障と診断されたのは数年前。ここ1~2年でさらにご症状が進んでいましたが、両目の手術をすると3週間はご公務を離れなければならないため、御代替わりまで手術を延期されていたのです」(皇室担当記者)まだ“よく見えない”という美智子さまの目の状態が気がかりだが……。眼科手術を専門とする、愛知医科大学病院の瓶井資弘教授に話を聞いた。「症状が悪化して水晶体が真っ白に濁る『過熟白内障』になると、手術は難しくなります。さらに放置すれば、目の中で炎症が起きて失明する恐れもあるのです。ただ、日本では過熟白内障まで悪化する方はほとんどいません。美智子さまの場合は、推測になりますが、その手前の『成熟白内障』に近づきつつあったのではないかと思います。術後は視界がまぶしく感じられ、慣れるまでに1週間ほどかかることもあります。また、濁った水晶体に代えて単焦点のレンズを入れて遠くにピントを合わせた場合、本を読む際には老眼鏡が必要になります」美智子さまは、まだ術後の変化に慣れていない状況なのかもしれない。末盛さんによると、美智子さまはこんな話もされたそうだ。「上皇后さまは、平成の終わりからとてもお痩せになったように見えました。お聞きしたところ、やはりお痩せになっていたそうです。ただ、上皇后さまは『今は上皇陛下のお世話をすればいいだけだから、いいのよ』とも、お話しになっていました」
2019年07月11日美智子さまは6月16日、東京都内の病院で右目の白内障の手術を受けられた。23日には左目の手術を受けられる予定だ。宮内庁は10日、美智子さまのご体調について、血液の一部が逆流する中等度の三尖弁逆流症、軽度の僧帽弁逆流症および不整脈の所見が認められると発表。それでも手術はせず経過観察という方針となり、上皇ご夫妻は翌日から予定通り2泊3日の日程で京都を訪問された。これが上皇陛下の退位に伴う最後の儀式だった。上皇陛下のご退位から1カ月がたち、次々と明かされた美智子さまのお体の異変――。美智子さまの知人のひとりが明かす。「ご退位までひと月くらいの時期でしょうか、上皇陛下と上皇后さまが3月下旬に京都へ行かれる前にお会いする機会があり、いろいろな話をしてくださいました。そのなかで、ふと上皇后さまが『5月まで(私の体は)もつかしら、心配なのです』とおっしゃったのです。お忙しい日々が続き、お疲れも極限まで来ていらしたのかもしれません。そのお言葉が心に残っています。やはり、上皇陛下のご在位中は、陛下とご一緒にお出ましになることが上皇后さまには何より大切で、手術や検診はお控えになっていたのだと思います」’12年2月には、上皇陛下が心臓のバイパス手術を受けられている。美智子さまは、手術の前後に何度も病院にご宿泊になって献身的に看病された。「上皇陛下の退院後も、料理と担当する大膳課に『タンパク質を多く摂取できるものを』『陛下の食欲が増すものを』と細かい指示を出されていました。リハビリにも片時も離れず寄り添われ、上皇陛下の体力づくりのため、テニスや卓球にもご一緒に取り組まれていたのです」(宮内庁関係者)’15年6月、美智子さまは1日に何度も重く、ずんと来るような胸の痛みがあると訴えられた。検査をすると、心臓の冠動脈に比較的軽度の狭窄が明らかになったのだ。美智子さまはそれから4年間、満身創痍で上皇陛下を支えられた。去年12月の誕生日会見で、上皇陛下はこう述べられた。《結婚以来皇后は、常に私と歩みを共にし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてきてくれました》《60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います》そう美智子さまへの感謝を述べられたとき、上皇陛下は落涙されんばかりに声を震わせていた。「美智子さまは壮絶な覚悟のもと、ご自身の痛みをこらえて上皇陛下を支えてこられました。誰よりもそのことをご存じだったのは上皇陛下でした」(皇室担当記者)美智子さまと長年の友人である元絵本編集者の末盛千枝子さんは言う。「先日、上皇后さまとお電話でお話しさせていただきました。『上皇陛下が退位されて、少しほっとされておられますか?』と伺いましたところ、『今までと同じよ』とおっしゃっていました。お引っ越しの準備もたいへんでしょうが、少しゆっくりされることができましたらと思います」長きにわたる“旅”は終わりを迎えたが、上皇陛下をお支えするという美智子さまの覚悟は変わらない――。
2019年06月20日グレーのロングドレスをお召しになった美智子さまが、手すりを頼りに、明治天皇陵への階段を一段一段、慎重な足取りで上られていく――。上皇ご夫妻は、6月11日から2泊3日の日程で京都を訪問された。孝明天皇陵と明治天皇陵に退位の報告をされ、平成の御代から続けられていた上皇陛下の退位に伴う儀式をすべて終えられたのだ。「12日の午前に参拝された孝明天皇陵では、女性皇宮護衛官の腕におつかまりになって、約120mの長い坂道をゆっくりと上られました。今回ばかりは美智子さまのご様子が心配でなりませんでした」(皇室担当記者)美智子さまは京都ご訪問直前の8日、心臓の検査をお受けになっていた。宮内庁は、血液の一部が逆流する中等度の三尖弁逆流症、軽度の僧帽弁逆流症および不整脈の所見が認められると発表。心臓への負荷の増大が疑われるものの、すぐに手術はせずに経過観察をしていくという方針を示した。昭和大学横浜市北部病院循環器センターの南淵明宏教授は言う。「経過観察というのは単に放置するわけではありません。症状を見ながら検査を重ねて、慎重にデータを比較していきます。手術による身体への負担は考慮しなければなりませんが、80歳以上でも心臓の大手術を受ける方はいらっしゃいます。高齢を理由に手術ができないということは決してないのですが……」16日、美智子さまは都内の病院で右目の白内障手術を受けられた。23日には左目の手術を受けられる。医師は「もう少し遅れれば難しい手術になった」と話していたという。退位を控えた時期に両眼の手術を行うとなると、3週間はご公務を離れなければならない。しばらくは外出の際には濃いサングラスのご着用が必要になる。そのため日程が確保できず、手術も、そして病名の公表も、上皇陛下のご退位後まで延期されていたのだ。上皇陛下のご退位から1カ月がたち、次々と明かされた美智子さまのお体の異変。ただ、美智子さまが心臓に異変を感じられたのは今回が初めてではない。’15年6月、美智子さまは1日に何度も重く、ずんと来るような胸の痛みがあると訴えられた。検査をすると、心臓の冠動脈に比較的軽度の狭窄が明らかになったのだ。このときも宮内庁は「心身に強いストレスを与えることがないような配慮が望まれる」としたうえで、手術はせずに経過観察を続ける方針をとった。4年前に判明した冠動脈の狭窄は、新たに発表された疾患にも影響していたのだろうか――。今回のご病状である「三尖弁逆流症」について、前出の南淵教授はこう解説する。「一般的に三尖弁逆流症は、ほかの心疾患が原因になっています。何らかの原因で右心室の容積が拡大して弁が引き延ばされ、その機能が低下し、逆流が起こるのです。三尖弁逆流症と冠動脈の狭窄に関連性がある場合もあります。冠動脈の狭窄は治療をしなければ自然に治るということはありませんから、むしろ三尖弁逆流症よりこちらに着目すべきでしょう。冠動脈の狭窄が進むと狭心症や心筋梗塞を引き起こします。心臓が止まり、死に至る危険性もあるのです」美智子さまは深刻なリスクを抱えながら、満身創痍で4年間を過ごされてきた。皇室ジャーナリストの渡邉みどりさんは言う。「高齢のお体にメスを入れると、傷の回復やリハビリに長期間かかってしまいます。美智子さまは60年前のご成婚当時から、命がけで陛下をお支えするという強いお気持ちを抱いていらっしゃいました。最後のお務めを果たすまでは……と、かなり我慢をされていたのだと思います」
2019年06月19日「5月10日に、美智子さまは宮内庁病院を訪れ、首のレントゲン写真を撮られていたのです。持病の再発が疑われたので、緊急検査となったようです」(宮内庁関係者)3月から4月にかけて上皇ご夫妻は、通常のご公務に加えて退位に向けた行事が目白押しで、ギリギリまで心身を酷使されてそれらに臨まれていた。「美智子さまはどのような公務に際しても、また人々にお手振りされるときでも、避難所をお見舞いされるときも、背筋を伸ばされて姿勢を保たれています。人目につかないところで椅子に座られても、背もたれに寄り掛かるようなことはありません。ただ、そのお心がけが持病の『頸椎症性神経根症』を悪化させてしまうこともあったようなのです」(前出・宮内庁関係者)宮内庁は上皇ご夫妻が「お引っ越しへ向けて、身近な物から整理を始められている」と公表したが、前出の宮内庁関係者は、引っ越しの準備が「気の遠くなるような作業」なのだと明かす。「退位の当日まで上皇ご夫妻は“全身全霊”で公務に臨まれました。引っ越しの準備ができる余裕などまったくなかったのです。プライベートな品々に関しては職員が手を付けるわけにもいきません。長女の黒田清子さんにもお手伝いしていただくようですが、まだ仕分けが始まったばかりで、遅々として進んでいません。荷造りはだいぶ先になりそうです」’93年に赤坂御所から吹上御苑に新築された御所(現在の吹上仙洞御所)に移り住まれたときは、荷物が2トントラック延べ100台分にも及んだ。「ご家族の思い出の品は前回より増えているはずです。陛下の魚類の研究資料も大量にあります。絵本、児童書はもちろん、退位後に読んでみたいとおっしゃった探偵小説など、美智子さまの蔵書だけでも膨大な量ですので、整理はとても大変だと思います」(前出・宮内庁関係者)新居となる仙洞仮御所の改修工事は3月末に完了しており、引っ越しの作業を始められる状態だ。しかし、上皇ご夫妻にはまだなさらなければならないことがある。「近いうちに、退位の報告のために京都の孝明天皇陵・明治天皇陵へ参拝することが決まっています。その前には東京都八王子市にある大正天皇陵にも参拝しなくてはならないのです」(前出・宮内庁関係者)ご結婚以来60年にわたり、全身全霊で公務に臨まれてきた美智子さまの“後遺症”が軽度で済むことを切に祈るばかりだ――。
2019年05月24日「FNN報道スペシャル平成の“大晦日”令和につなぐテレビ」内で放送されるドラマ「プリンセス美智子さま物語知られざる愛と苦悩の軌跡」に、上白石萌音、和田正人、町田啓太らが出演していることが明らかになった。総合司会をタモリが務める「FNN報道スペシャル平成の“大晦日”令和につなぐテレビ」は、平成最後の夜から新時代・令和の幕開けまで、約6時間半にわたり生放送し、平成という時代が終わる大きな節目に“新しい皇室のあり方”を模索されてきた天皇皇后両陛下のこれまでの歩みを独自映像と関係者から得た秘蔵エピソードでふり返る番組。同番組内では、美智子さまの知られざるお気持ちがつづられた貴重なノートを独自入手し、それを基に世紀のご成婚と美智子さまがこれまで歩まれてきた道のりを、“東宮女官長の目線”からドラマ化したものを放送。東宮女官長・浜村時子(仮名)は、永作博美が務める。今回新たに発表された上白石さんが演じるのは、いまから約60年前、当時皇太子だった天皇陛下のお妃選びの取材合戦の渦中にいる駆け出しの週刊誌記者・宮本ひろ子。熱心に取材を続けるうちに美智子さまに惹かれ、そして美智子さまに対する心ない批判に憤慨しながら取材を進めていく人物だ。ドラマへの出演に関して上白石さんは「この上なく光栄に思うと同時に背筋が伸びました」と心境を明かし、「脚本を読みながらたくさんの気づきや感動がありました。特に、美智子さまのお心模様を知るうちに、女性として、人としての尊敬と憧れが増しました。わたしが演じるひろ子もそうやって影響を受けていくので、心から共感しながら演じました」とコメントしている。また、ひろ子の先輩記者・森富之役には、「陸王」などに出演する和田さん。ベテラン週刊誌記者の森は、ひろ子に取材のいろはから厳しく指導。ひろ子と共に皇太子さまのお妃選びの取材を続け、スクープを狙う。昭和の時代の週刊誌記者を演じるにあたり、「人に厳しく、そして成果にこだわる姿をまっすぐに演じることを心掛けました」と和田さん。「やや嫌なヤツに見えると思いますが、それが彼の正義。昭和の面影を手繰り寄せながら役作りしました」と語っている。ほかにも、華族会の重鎮・藤永菊子役に若村麻由美。時代は平成に移り、ノンフィクション作家となった83歳のひろ子役を草笛光子。ノンフィクション作家となったひろ子の担当編集者・後藤成治役を町田さんが演じる。民間出身の美智子さまに常に批判的な目を向ける役柄を演じる若村さんは「時代に思いをはせて私たちの知り得なかった事柄をドラマとしてお楽しみください」とメッセージを寄せる。また物語のカギとなる人物で、“語り”も重要な役柄の草笛さんは「演じる者としては難しかったです。女優として演じるだけでなく、ノートの代読、和歌詠み人と、美智子さまと沿うことが多面的にあり難しかったです。このようなドラマは初めての経験でした。でも、私から美智子さまへのラブレターのつもりで演じました」とコメントしている。そして「この作品を通じて、僕には想像がつかない程の気高き心と信念に圧倒され、感銘を受けました」と印象を明かした町田さんは、「尊敬する大先輩、草笛さんが発するお言葉に毎回刺激を受けながら、素敵な時間を過ごさせていただきました。以前、美智子さまとお会いになられた時の貴重なお話も聞かせて頂き、美智子さまへの敬意に満ちたお芝居に今作の役どころと同じく心が弾みました」と撮影をふり返っている。「FNN報道スペシャル平成の“大晦日”令和につなぐテレビ」は4月30日(火)18時30分~フジテレビにて生放送。(cinemacafe.net)
2019年04月24日今から振り返ると、「あの頃が、自分の転換期だったなー」と思い出される時期があります。それは40歳の時。34歳で自分の事務所を立ち上げてからというもの、自分の限界に挑戦するのが楽しくなり、「まだ、できる」「これも、できる」と仕事の量や幅をドンドン増やしたり広げたりして、寝る暇も日曜もお正月もない生活をしていました。そのツケが38歳の時に一気にきました。身体が異常に硬くなって首は回らなくなるし、歪みもひどくて朝起きるのも大変に。「これではマズイ!」と、人に薦められたいろいろな治療法を試してみたけれど、どれも成果は今一つ。結局、‘もみほぐして柔らかくする’というシンプルな方法が私の身体に必要だとわかるまで、2年かかりました。この‘柔らかな身体’というテーマが決まった40歳の時が、自分の転換期だったと思っています。■ヨガやストレッチという“柔らかな身体作り”そして、週1回のペースでマッサージに通いだしてから2年後の、ある日。フッと、「このままではマイナスからゼロには戻るけど、プラスにはなっていかない」ということに気づきました。元々、子供の頃から硬くて歪みもあったのに、さらに身体を捻って曲げるというメイクの姿勢を一日中しているのですから、週1回の治療で追い付かないのは当然。そこで、やっと「自分でも毎日、ストレッチをしてメンテナンスすればいいんだ!」と気づいたわけです。とは言え、開脚をしてもクの字ぐらいにしか曲がらないし、何をしても痛い。それでも、その頃は寝る暇を惜しんで毎日、3時間ぐらいストレッチをしていました。それから、さらに2年ほど経った頃。今度は「なんか最近、身体が軽くなってきたなー。あれっ?気持ちも軽い……!」ということに気づきました。本などで「心と身体はつながっている」ということを知識としては知っていたけれど、その時に腑に落ちるように「こういうことかー!」って、身体と心で理解することができたんです。それ以来、もっと身体を解放して、もっと軽やかになりたい。どうせなら歪みだす前の自分に戻ってみたい。そうしたら、どんな気分を味わえるだろう。それを体験できるまでは死ぬに死ねない(笑)などと思うようになり、それが10数年経った今も、週に1度の整体や月に1度のスぺシャルな治療院通い、そして週4回のヨガやストレッチという“柔らかな身体作り”を続けられている原動力となっています。■柔らかな身体でいることは「美容の基本」それに硬さや歪みのあるところに贅肉はつくそう。血流やリンパの流れも悪くなって、浮腫んだり肌ツヤも悪くなったりするということも自分の身体を通して知ることができました。だから柔らかな身体でいることは心だけではなく、美容の基本でもあると確信しています。40代は身体にも思考にも余分なものが付き始めて、重い印象の大人なるかどうかの境い目。だからこそ、この年代には“身も心も軽やかに”を意識して欲しいと思うんです。そのためにも30代後半から40代のどこかで、美と健康のためにも、そして軽やかな心作りのためにも一度、身体をリセットしたほうがいいというのが、私からの提案です。あなたの美容の基本はなんですか?※本稿は2012年12月11日に公開された記事を2019年4月22日に再投稿したものです
2019年04月22日羽田美智子(50)が店主を務めるオンラインショップ「羽田甚商店」が4月11日にグランドオープン。それにちなんで「羽田美智子の羽田甚マルシェ」が浅草「まるごとにっぽん」で開かれ、同日オープニングイベントが開催された。「羽田甚商店」は1865年から続く羽田家の屋号。羽田の両親の代で一旦は畳まれたものの、羽田が6代目店主として再開することを決心した。商品は、羽田が日本全国に足を運んでセレクトしたもの。現在9品を扱っており、今後も随時商品を増やしていくという。「羽田甚商店」の前掛けをして登場した羽田は「平成は女優としてスタートし、令和という時代には二足のわらじとなりました」と笑顔で語った。また「店主としてはホヤホヤの新人」「一緒に育てていただけたら!」と呼びかけた。「屋号を継ぐなんて夢にも思わなかった」と明かした羽田は、「独り身の女性が50歳からどうやって生きていこうと思った時に、イキイキと輝けることを始めたいと思った」と屋号を引き継ぐ動機について説明。いっぽう「始めるのは簡単だけど続けるのが大事。やめるほうが難しいと離婚の時に思いました」と話し、会場を笑わせた。またイベント内で開かれた参加者からのお悩み相談コーナーでは、それぞれの悩みについてぬか漬けやしじみ汁といった商品を的確にセレクト。商品の魅力を説明するうちに「これは絶対に美味しいです!」「全部の良さを伝えたいんだけど伝えられない!」と熱の入る場面もあった。イベント後、取材に応じ「定期的にマルシェを開き、日本全国でできればなと」夢を明かした羽田。現在大人気放送中の「特捜9」(テレビ朝日系)の現場にも「羽田甚商店」で扱っている雑穀米と海苔の差し入れをしたと明かし、「羽田甚商店」を通して「食と健康の知識をおすそ分けしたいな」と語った。「羽田甚マルシェ」は同日から14日まで開催され、仕事の合間を縫って羽田も店頭に立つという。オススメ商品はもちろん、羽田の魅力にも触れることのできるまたとないチャンスになりそうだ。
2019年04月11日「あのパレード中継に携わったことで、この先も美智子さまにこだわり続ける予感はありましたね」’59年4月10日午後2時30分に始まった、皇太子殿下(当時)と美智子さまのご成婚祝賀パレード。コースは、皇居から桜田門、四谷、神宮外苑、青山を経て、渋谷の東宮仮御所まで8.8キロの道のり。沿道には53万人もの人々がお祝いに詰めかけ、全国の街頭テレビには1,500万人が集まった。当時、渡邉みどりさん(84)は日本テレビ入社3年目の新米中継スタッフだった。日本テレビのカメラは、美智子さまの聡明な笑顔をアップで捉えることに成功し、そのあふれんばかりの健康美を全国に伝えた。渡邉さんは、生まれ年も美智子さまと同じ’34年。小学校入学とほぼ同時期に戦争が始まり、玉音放送を疎開先で聞いた世代だ。’57年に日本テレビ入社後は、33年にわたって皇室番組の制作に携わり、昭和天皇崩御の特別番組ではチーフ・プロデューサーを務めている。民放初の女性エグゼクティブプロデューサーまで上り詰めると、文化女子大学の教授に転身。ワイドショーなどに登場する帽子がトレードマークの皇室ジャーナリストとして、おなじみの方も多いだろう。「思えば、日本でテレビ放送が始まったのが’53年。それから5年で100万台まで普及したテレビが、美智子さまのご婚約に始まる“ミッチー・ブーム”で、一挙に200万台に倍増しました。何かあったらテレビをつけるという新しいライフスタイルが生まれ、高度経済成長の前触れともなったのです」美智子さまのご成婚は、日本が終戦後の焼け野原からの復興を果たし、人々の生活が豊かになっていく新しい時代の幕開けを予感させるものでもあったのだ。以後、皇室特番の制作に進んだ渡邉さんは、持ち前の粘っこい取材力を発揮。それまでのメディアでは決して流れなかった皇室の方々の素顔の部分をクローズアップしていった。ファッションや子育てという身近な話題を通して、雲の上の存在としてではなく、美智子さまの人間としての魅力に着目した。初めて一本立ちのディレクターとして手がけたのは、ご成婚10年の記念番組だ。以降、5年、10年の節目ごとに特別番組を制作した。民間から皇室入りした美智子さまは、乳母制度を廃止し、家族で生活を共にする温かい家庭を基盤とした新しい皇室づくりを目指された。しかし、古くからのしきたりを重んずる皇室方や女官からの風当たりは強かった。そんな美智子さまの苦悩に焦点を当てた渡邉さんの番組は、視聴者の共感を呼び、毎回、高視聴率を記録した。見方を変えれば、渡邉さんの番組は、皇室と民間の距離を縮めようと努められた両陛下の“援護射撃”になっていたのではないだろうか。渡邉さんの人脈と取材網は広く、物おじしないエネルギッシュな姿勢は、周囲の人をも動かした。高松宮喜久子妃にはかわいがられ、ダイヤがちりばめられた門外不出のティアラに触れたこともある。両陛下のご結婚25周年のときには、美智子さまの実弟、正田修氏の単独インタビューに成功。このときは、面識のあった当時の日本テレビ副社長・氏家齊一郎氏に最後のひと押しをお願いし、取材の承諾をもらっている。’85年7月、ロンドン留学中の浩宮さま(当時)のコンサートを取材したとき、演奏終了後に渡すはずの花束を若い女性スタッフが1部終了の拍手のなかで渡してしまうというハプニングが起きた。渡邉さんは、そんなときも機転を利かせ、会場に飾られていた花瓶の花で急ごしらえの花束を作って、終演までに間に合わせている。「花瓶の花だったから、花束がびしょぬれなんです。それでも、宮さまはえんび服がぬれるのもいとわず、笑顔で受け取ってくださった。それこそが、陛下と美智子さまから授かった帝王学だったのでしょう」収録後、スタッフとともにご挨拶にうかがい、渡邉さんがスタッフ紹介を始めると、浩宮さまはこうおっしゃった。「渡邉さんとは上野でお会いしているじゃないですか。あのときのテープ、大切にしています」「テープ」とは、その5年前、浩宮さまが上野のコンサートで首席ビオラを担当されたとき、渡邉さんのチームが撮ったものだ。そのとき浩宮さまのほうから、録音テープとビデオテープを所望されたという。そんなささやかな皇族方とのやりとりも、激務の渡邉さんを支えていた。「実は、美智子さまと4分ほど懇談させていただいたこともあります。’09年11月のことでした」日本記者クラブ創立40周年のパーティに両陛下がご臨席になり、渡邉さんは、代表者に選ばれて懇談の機会を得たという。渡邉さんは、すでに日本テレビを退職し、文化女子大学で教壇に立っていた。教えていたのは「女性学」。美智子さまの生き方に焦点を当てた講義だった。美智子さまとの懇談の内容は、くわしくはオフレコということだが、「私のことを学校で教えてくださっているのでしょう?」と、お優しい笑みを浮かべられていたという。報道の現場を離れた渡邉さんの動向まで、美智子さまは把握してくださっていた――。皇室はまもなく大きな節目を迎えることに。「次の皇后になられる雅子さまは、お手本となる美智子さまがあまりにご立派でいらっしゃるので、大変だと思います。頭のよい方ですから、とりあえずは美智子さまのお手本にならい、そこから新しい時代に合った皇后になっていただきたいと思います」新天皇即位のパレードは、10月に予定されている。「新しい時代のパレードも、ぜひ、この目で見届けたいですね」
2019年04月05日東京・西麻布の静かな路地の一角に、モディストで、美智子さまはじめ、皇室の帽子デザイナーでもある石田欧子さん(54)が父・暁夫さんから受け継いだアトリエがある。1階は、帽子ショップになっていて、カラフルな帽子が並ぶ。2階から4階がアトリエだ。欧子さんは現在、これらを運営する会社、オートモード平田の責任者でもある。モディストとは、洋服のオートクチュールに匹敵する高級帽子を作るデザイナーのこと。「私の父、平田暁夫は、かつてジャン・バルテ氏に帽子作りを教わりました」“ジャン・バルテ氏”とは、’60年代にフランスのパリで名をはせたモディストだ。欧子さんの父、故・平田暁夫さん(享年89)は、皇室の帽子デザイナーも務めていた。美智子さまがご公務でお召しになる小さなつばの平らな帽子は、暁夫さんが美智子さまと試行錯誤のすえ、長い年月をかけて、共に作り上げてきたものだ。「父は、常にかぶる方のことを考えていました。どんなフォルムにしたらかぶりやすいか。どんなラインにしたら、その方に似合うか。何度も自分でかぶっては、また形を整えて。私やスタッフにもかぶらせてみて、ここはもう少し、こうしようとか。確認しながら仕上げていくのです」暁夫さん亡きあと、皇室の帽子づくりは欧子さんに引き継がれている。「皇室の方々でも一般の方でも、帽子作りに対する姿勢は同じです」と話す欧子さんだが、皇族ならではの難しさもある。「皇族の方々は、TPOに応じて決まりが多く、帽子もそれに合わせないといけません。それに、一般の方なら、たとえ帽子が風で飛ばされそうになっても手で押さえることができますが、皇族の方々は、お立場上そういうことができない場合も。ほかに気配りなさらないといけないことも多いですから、帽子に関しては、これをかぶっていれば大丈夫と安心していただけるものをお作りしないと」美智子さまの姿勢に学ぶところも多いという。「美智子さまは、いつもご訪問先のことを考えて、その国の国花をモチーフにしたり、素材を使ったりしたお帽子をご希望されます」暁夫さんが亡くなってすぐの’14年6月、両陛下が、とくに思い入れの強い沖縄をご訪問の際には、美智子さまたってのご希望で、沖縄の芭蕉布という生地を使って帽子をお作りしたという。また、’17年3月のベトナム、タイご訪問の際には、現地になじみ深い笹をつかったデザインで、というオーダーがあった。「笹をどうデザインしようかと迷いましたが、いくつかサンプルをお持ちすると、『こういうふうにしたらどうかしら』と、皇后さまもアイデアを出してくださって」天皇陛下退位後に美智子さまからバトンを受け継がれる雅子さまは、欧子さんと同年代。同じく“伝統を継承する立場”として、欧子さんは雅子さまを、どうご覧になっているのか。「私とは、受け継がれるものの大きさが全く違いますから……。ただ、雅子さまはシンプルなものをお好みですが、背もすらっとお高いので、華やかなお帽子もお似合いになると思います」欧子さんの帽子作りを、受け継ぐ若い芽も着実に育っている。’18年10月、青山のギャラリーでは、欧子さんの長女、早姫さん(26)と長男、翔さん(20)が立ち上げたブランド「saki et show」の新作展示会が行われていた。室内に降り注ぐ秋の光に照らされた帽子は、どれもスタイリッシュでかぶってみたくなる。長女の早姫さんは言う。「祖父や母が、美智子さまや皇族の方々の帽子を作っているということは小学生くらいから知っていました。両親はひと言も言いませんでしたから、テレビで見て、『あれ、うちで作っている帽子だ』みたいな(笑)。でも、家業を継ぐつもりはありませんでした。両親からも、継がなくていいと言われていましたし」しかし、暁夫さん亡きあとのお別れ会で、大勢の人が暁夫さんの華やかな帽子をかぶって参列しているのを見て気持ちが変わった。「あんなに多くの方が、祖父の帽子をかぶっているのを見るのは初めてでした。展示品の帽子は目にしていたけど、実際にかぶったら、帽子も人も、こんなに輝くんだ、って。この家に生まれたからには、私がすべきことはこれだと」現在、専門学校生の翔さんも、卒業したら家業を継ぐつもりだ。「母は、ひと目見て、その方に似合う帽子のラインがわかる。いつも、かぶる人のことを考えているからでしょう。それってすごいことだし、祖父から受け継いできたものだと思います。私たちも、そんなよい伝統は継承しながら、もっと、若い人が手軽にかぶれる帽子を提案していきたいですね」欧子さんは、父の暁夫さんがそうだったように、子どもたちの成長を静かに見守る。3代目のこれからが楽しみだ。「時代に合わせて変えなければならない部分もあります。子どもたちには、受け継ぐべきところは受け継いで、新たなチャレンジもしてほしいと願っています」時代が変わっても、代々培われてきた技と心は継承されていく。
2019年01月28日「天皇陛下と美智子さまは、1月下旬に神奈川県の葉山御用邸で静養される予定です。ご滞在中の両陛下は、御用邸裏の『小磯の鼻』と呼ばれる海岸を散策され、地元の人々とお話しされることもあります。ご退位まで4カ月をきったいま、両陛下のお姿を拝見できる貴重な機会になりそうです」そう語る皇室担当記者。退位後の両陛下はご公務をなさる予定はなく、お出ましの機会が激減すると見られている。「両陛下はご静養の初日に横須賀市の観音崎公園を訪れます。戦没船員の慰霊碑に花を手向けられたのち、葉山御用邸へ向かわれるそうです。両陛下として最後のご滞在となりますので、ご家族との思い出にあふれる場所で、お二人の60年間の歩みをゆっくりと振り返られるのではないでしょうか」(前出・皇室担当記者)しかし両陛下、とりわけ美智子さまのご心境は穏やかではないのでは……と心配を口にするのは宮内庁関係者。「眞子さまと小室圭さんの“ご結婚延期問題”が解決しないままお代替わりを迎えることは、ほぼ確実な状況になっているからです」昨年11月に秋篠宮さまは誕生日会見で、現状では『婚約に当たる納采の儀というのを行うことはできません』と明言された。「小室さんに対しての“最終通告”ともいえる、厳しいご発言です。それでも眞子さまのお気持ちは固く、小室さんとの結婚の意志は変わっていないようなのです。年が明けてからも、眞子さまは、小室さんに関しては秋篠宮ご夫妻と“対話拒否”状態にあるようです。美智子さまはこの問題についての発言を慎んでこられました。言葉にはなさいませんが、誰よりも初孫である眞子さまの未来を案じていらっしゃることでしょう」(前出・宮内庁関係者)
2019年01月17日「あ・り・が・と・う」広場に集まった数万人もの人々から大歓声を受けて、皇居・長和殿のベランダに立たれた美智子さま。その唇が何度か、感謝の言葉を紡ぎだすように動いた――。1月2日、快晴の空の下で平成最後の新年一般参賀が行われた。もともと両陛下のお出ましは5回の予定だったが、例年をはるかに上回るペースで人々が詰めかけたため、宮内庁は急きょ6回に変更した。「宮内庁の担当者は、報道陣に対しても『7回目はありません』とアナウンスしていました。しかし、両陛下のお出ましに間に合わなかった人々が大勢いたのです。それをお聞きになった両陛下の強い希望で、7回目のお出ましが決まりました。天皇皇后両陛下は、常に国民に寄り添うことを心がけてこられました。自分たちを求めてくれる声に、できる限り応えたい――。そうお考えになったのでしょう」(宮内庁関係者)昨年12月23日、天皇陛下の誕生日の前に行われた記者会見では、陛下の美智子さまへの深い愛情が伝わってくる場面があった。宮内庁担当記者はこう語る。「会見は20分ほどでした。皇太子殿下、そして天皇陛下としてご自身が歩んでこられた道のりを思い出されたのか、美智子さまへの感謝のお気持ちを述べられるあたりから、涙声を抑えきれなくなられたのです」陛下が涙ぐまれたのは、この言葉を述べられたときだという。《自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民への双方の献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います》文化学園大学客員教授で皇室ジャーナリストの渡辺みどりさんは言う。「会見の内容は事前にご存じだったにせよ、陛下の真情あふれるご様子に、美智子さまも胸を熱くされたことでしょう。84年の銀婚式会見で、陛下は美智子さまに“努力賞”を、美智子さまは陛下に“感謝状”を差し上げたいとおっしゃいましたが、そのやり取りを思い出しました。先日の会見の際、陛下のお隣に美智子さまがいらしたら、どんな感謝のお言葉を返されたでしょうか」実はいま、美智子さまに“最後のお言葉”を語る場へ臨んでいただく計画が進行中なのだという。前出の宮内庁関係者が言う。「宮内庁記者クラブは、今年4月10日のご成婚60周年もしくは4月末の退位直前に、天皇皇后両陛下の記者会見を要請しています。宮内庁サイドは天皇陛下のご体調を考慮して、昨年12月23日の誕生日会見が最後であると明言しています。しかし、天皇陛下の誕生日会見が感動的だったこともあり、記者クラブの熱意はさらに高まっているのです。天皇陛下と美智子さまは、常に“国民の思いに応えたい”というお気持ちでいらっしゃいます。美智子さまも公の場で陛下への感謝を示したいとお考えになっていることでしょう。実現の可能性は決して小さくありません。国民にとっても大きなサプライズになりますね」これまでも数々の名言を残されてきた美智子さま。ご成婚60年をお迎えになる4月、どのようなお言葉を語られるのだろうか――。
2019年01月10日多彩な人脈をお持ちでいらっしゃる皇室の方々。その交友関係は芸能界にも広がっている。美智子さまと意外な接点があったのは、ダンス&ボーカルグループ・TRFのSAM(56)。実家は埼玉県の総合病院で、父や3人の兄や弟はみな医師として実家を守っている。兄弟の中でSAMだけが、父の反対を押し切ってダンサーになった。「SAMさんは先日、NHK総合の『ファミリーヒストリー』に登場。父方の先祖が石田三成や上杉謙信と交流があったことが明らかになりましたが、実は、SAMさんの母は美智子さまと交流があったのです」(皇室ジャーナリスト)SAMの母は学生時代にテニスの選手で、美智子さまと何度も優勝を争っていたのだ(97年11月25日号「“アムロの姑”は美智子さまのライバルだった!」)。美智子さまは聖心女子大時代に関東学生選手権で優勝するほど。SAMの母も実力者が揃う学習院大学で活躍していた。「動きがキビキビして、よく走るテニス」が持ち味だったという。SAMのダンスにも美智子さまとしのぎを削った“走るテニス”が脈打っているのかも?【創刊60周年記念「女性自身」皇室SPECIAL増刊】ご婚約から60年 美智子さまその輝きは時代を超えて――2018年12月25日(火)発売特別定価 500円(税込)
2018年12月28日藤原美智子がNHK文化センター青山教室に登場2019年1月26日(土)、NHK文化センター青山教室において、1日講座『LIFE IS BEAUTY 美しく幸せに生きるための逆算思考』が開催される。講師は、ヘア・メイクアップアーティストの藤原美智子が務める。美容だけでなくライフスタイル全般に関する知識が豊富な藤原が、大人の女性をさらに輝かせる「美・衣・食・住」のヒントを伝える。人生を軽やかに、美しくする工夫が満載だ。開場時間は10:00。開催時間は10:30から12:00まで。受講料は、NHKカルチャー会員が3,931円(税込み)、一般が4,611円(税込み)。2019年1月18日(金)まで、藤原への質問を受け付けている。講座終了後には、サイン会を実施予定。講座に関する問い合わせは、NHK文化センター青山教室(電話番号:03-3475-1151)まで。ライフスタイルデザイナーとしても活躍する藤原美智子藤原美智子は、ラ・ドンナを主宰し、メイクアップアーティスト、ライフスタイルデザイナーとして、幅広い分野で活躍。ライフスタイルブランド「MICHIKO.LIFE」のプロデューサーも務めている。『新しい口紅は寝る前に試す』、『美の宿るところ』など著書多数。Instagramのフォロワー数は33,000人以上を超える。(画像はNHKカルチャーより)【参考】※NHKカルチャー※藤原美智子 Instagram※ラ・ドンナ
2018年12月04日《陛下の御譲位後は、陛下の御健康をお見守りしつつ、ご一緒に穏やかな日々を過ごしていかれればと願っています》10月20日、美智子さまが84歳の誕生日を迎えられた。毎年お誕生日ごとに発表されてきたお言葉。皇后として最後となるお言葉には、天皇陛下のご退位まで半年あまりとなった現在の心境が綴られていた。陛下のご退位後、来年5月からはご公務を離れ、お二人での安らぎの日々が始まる。美智子さまはすでに新生活への準備を始められていると語るのは宮内庁関係者。「高輪皇族邸での生活を経て、赤坂の東宮御所(改修後に仙洞御所に改称)へと、2度のお引っ越しもあります。空いた時間には私物の整理などをされています。また、お代替わり後は新天皇・新皇后より目立たないように配慮して、外出を減らされるご意向もあるそうです。そのため、今のうちに旧友との再会をしておきたいというお考えもおありのようです」11月末には私的に静岡県をお訪ねになり「ねむの木学園」の宮城まり子園長に再会する予定だ。もともとは7月にご訪問が予定されていた。西日本の豪雨被害に配慮し延期となっていたが、4カ月越しに宮城さんとの約束をかなえられるのだ。女官を通じて電話でご訪問を伝えられたという宮城さんが喜びを語る。「その瞬間『うれしい~!』と、受話器を握ったまま泣きだしてしまいました。退位までに残された少ない時間を、学園の子どもたちと私のために割いてくださるのです。子どもたちも一生、感謝し続けることでしょう」60年前、ご成婚の日に陛下は《どのような時にもお立場としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの》と美智子さまにおっしゃったという。美智子さまと交流のある元絵本編集者の末盛千枝子さんもこう語る。「全身全霊をもってお務めを果たされる天皇陛下。お若いころからのゆるぎないご覚悟に心を打たれ、皇后さまは24歳という若さで皇室に嫁がれたのです。それ以来60年間、天皇陛下と同じご覚悟を持って過ごされてきました。平成が終わろうとする今、それはすごいご決断だったと改めて感じます」美智子さまは、皇室に嫁がれてから現在までを振り返って《皇太子妃、皇后という立場を生きることは、私にとり決して易しいことではありませんでした》と綴られている。数々の困難がありながらも皇后としての“義務”を最優先に取り組まれたからこそ、ご公務を離れてからは穏やかな生活を、とお考えなのだろう。来年5月の陛下のご退位後、美智子さまが楽しみにされていることもお言葉の中にある。《手つかずになっていた本を、これから一冊ずつ時間をかけ読めるのではないかと楽しみにしています。読み出すとつい夢中になるため、これまでできるだけ遠ざけていた探偵小説も、もう安心して手許に置けます》前出の末盛さんが、本に関するエピソードを明かす。「本を読まずに積んでおく“積ん読”をよくしていますねなどと、談笑させていただいたことがありました」お言葉では述べられなかったが、美智子さまが音楽に造詣が深く、ピアノ演奏も得意でいらっしゃるのは有名なことだ。美智子さまを長年取材してきたメディアプロデューサーの渡邉満子さんはこう語る。「4月、皇后さまは陛下とご一緒に鈴木鎮一さんの生誕120周年記念コンサートを鑑賞されました。実はその数日前、お忍びで1度目のリハーサルにお出かけになり、子どもたちの伴奏までなさったのです。来年以降も音楽を通じてのご交流も楽しみにされていると思います。また皇后さまは若いころ、将来は本屋さんか、お花屋さんになりたいというお気持ちを持っていらっしゃったそうです。赤坂御用地でのガーデニングにも、今から胸を躍らせていらっしゃると思います」ご退位後、そして皇太子妃のころの思い出がつまった赤坂御用地に戻られてからも――。美智子さまは天皇陛下とご一緒に、笑顔で過ごされることだろう。
2018年10月26日10月20日、美智子さまが84歳の誕生日を迎えられた。今回のお誕生日は、美智子さまがご自身の文章でお考えを発表される最後の機会と思われるため注目が集まっていた。そのお言葉には、天皇陛下のご退位まで半年あまりとなった現在のご心境が綴られていた。ただ、今回のお言葉の形式に違和感を覚えたと語るのはベテランの皇室ジャーナリスト。「例年は、ご家族や親交のある方々に感謝やエールを述べられるのですが、今年はそれがありませんでした。これまでとは雰囲気が異なる文章です。中でも《また赤坂の広い庭のどこかによい土地を見つけ、マクワウリを作ってみたいと思っています》という一文で始まるお話が、かなり異質なように思えたのです」それは次のように続く。《こちらの御所に移居してすぐ、陛下の御田の近くに一畳にも満たない広さの畠があり、そこにマクワウリが幾つかなっているのを見、大層懐かしく思いました。頂いてもよろしいかと陛下に伺うと、大変に真面目なお顔で、これはいけない、神様に差し上げるものだからと仰せで、6月の大祓の日に用いられることを教えてくださいました。大変な瓜田に踏み入るところでした。それ以来、いつかあの懐かしいマクワウリを自分でも作ってみたいと思っていました》さらに「大変な瓜田に踏み入るところでした」という部分については、丁寧にこのような注釈もつけられている。《広く知られている言い習わしに「瓜田に履を納れず」(瓜畑で靴を履き直すと瓜を盗むのかと疑われるのですべきでないとの意から、疑念を招くような行為は避けるようにとの戒め)がある》皇室ジャーナリストは慎重に続ける。「『疑念を招くような行為は避けるように』といった文言はあまりに意味深です。美智子さまは、ご自身の意図が誤解されないようにと細心の注意を払い、何度もお言葉を推敲されます。注釈についても、美智子さまの要望で入れられ、チェックされているはずなのです。バラやユウスゲなど、多くの花々を栽培されてきた美智子さまが、なぜ20年以上も前のマクワウリの話をあえて持ち出されたのか。マクワウリそのものよりも“言い習わし”のほうをお伝えしたかったのではないかと思いました」この挿話と注釈については、さまざまな解釈が試みられている。森友・加計問題など、数々の疑惑を追及された安倍政権への皮肉ではないかと指摘する声もあった。だが前出の皇室ジャーナリストは次のように語る。「いつも美智子さまはお誕生日のお言葉に、ご家族への思いを込められてきました。とりわけ眞子さまのご結婚問題にゆれる秋篠宮家のことは心配でならないはずです。美智子さまはマクワウリの挿話によって、小室圭さんの件をどう乗り越えるべきか示唆されたのではないでしょうか」美智子さまはこれまで一貫して“小室さん問題”には一切言及してこなかった。それにもかかわらず美智子さまのご発言とされる文言が繰り返し報じられたため、5月には宮内庁が「これまで両陛下は共に首尾一貫このことに関し一切発言を慎まれてこられました」と異例の発表を行った。前出の皇室ジャーナリストはこう語る。「今回のお誕生日は、美智子さまがご自身の文章でお考えを発表される、最後の機会だと思われます。秋篠宮家は、両陛下が貫かれてきた“お立場としての義務を最優先する姿勢”を、本当に受け継いでくれるのか――。小室さん問題により、美智子さまは危機感を抱かれたのではないでしょうか」小室家の借金トラブル発覚は、秋篠宮家に対する国民の見方も一変させた。「皇族やそれに連なるものは、その立場を自覚し、公明正大であるべきというのが美智子さまのお考えです。秋篠宮家も小室家も、国民に疑われるような行動があってはならない――。そんな戒めを込めて、マクワウリの挿話を書かれたのではないでしょうか」美智子さまは“赤坂の広い庭のどこか”にマクワウリを植えたいと綴られた。その記述には“赤坂御用地に住む眞子さま、秋篠宮家にこそわかってほしい”そのような“訓戒”がこめられているに違いない――。
2018年10月25日天皇陛下の執刀医・天野篤さん(順天堂大学医学部附属順天堂医院院長・63)が本誌に独占告白!陛下の泰然たるご様子と美智子さまの「献身」……。6年前の心臓手術の“舞台裏”がいま明かされる。2012年2月18日。東京大学医学部附属病院・入院棟14階の特別室をあとにした陛下は、美智子さま、黒田清子さんに見送られるようにして、午後9時24分、手術室にお入りになった。手術を担当したのは東京大学と、順天堂大学の合同チーム。執刀にあたったのは当時、すでに6,000例もの心臓手術を手がけ「神の手」と称されていた心臓血管外科医、順天堂大学医学部教授(当時)の天野さんだ。午後11時1分。天野さんの握るメスが陛下の胸に当てられる。歴史上初めての天皇の心臓手術、冠動脈バイパス手術が始まった。あれから6年――。手術前日、天皇皇后両陛下に直接、お会いして手術の説明をしたとき、経験したことのない緊張に包まれたと天野さんは明かす。「たった30分の説明が、3時間に感じられました。全身の水分が、全部背中から流れ出たみたいな感じ。普通だったら映像の中にいる人。会いたくたって会えない人。そういう人と、同じ空気のなかに、僕なんかがいていいのかなと。もう、それぐらい圧倒的に神々しい。オーラが違いました」説明をお受けになる両陛下のご様子を、天野さんは述懐する。「天皇陛下は泰然となさっておいででした。医療に対する信頼がおありだったんだと思います。手術のことも、最初からすべて受け入れてくださっていた。『何かご質問はありますか?』とうかがっても『お任せしてありますから』と」一方、陛下のお体をとても心配なさっていた美智子さまからは、「矢継ぎ早に多くのご質問を受けました」と天野さん。「皇后陛下はご質問をされるたび、必ず『そうでございましょう』と天皇陛下にご同意をお求めになっていました。それに対して陛下は『うん、そうね、そうね』と」天野さんは、お二人の深い絆が見えるようだったと語る。「天皇陛下がお生まれになってから、日本はずっと戦争のただ中でしたよね。そして、皇后陛下に出会うまでに、いろいろご苦労があったわけじゃないですか。皇后陛下のなかには『私がもっと早く出会い、少しでもその辛苦をご一緒に背負って差し上げられていたら』というお気持ちが強くあったと思う。その強い思いを、天皇陛下もきちんと受け止めていらっしゃって。だから、皇后陛下のおっしゃることは基本的にすべて肯定される。あのお二人は、まさしく一心同体、そう感じました」こうして迎えた2月18日。3時間56分に及んだ手術は、無事に終わった。手術が終わって1時間ほどで天皇陛下は麻酔からお目覚めになった。そして、美智子さま、清子さんのお見舞いを受ける。「術後のご面会で、天皇陛下は左手を皇后陛下、右手を清子さんにさすってもらいながら『気持ちいい』とつぶやかれていました。おそらく術後の痛みだってあったはずです。それなのに、決してお辛いところをお見せにはならない。手術前、偉ぶることなく全員にお声をかける陛下にも感動しましたが、ご自身の威厳をしっかりと保つお姿は、とても神々しく思えました」――半年後の’12年夏。両陛下は天野さんを食事会に招かれた。吹上御所の応接間の窓からは、満開のキスゲの花が見えたという。「皇后陛下が『奇麗でしょう、いまがいちばんの見ごろなんです』と説明してくださいました。天皇陛下は、キスゲの隣にあった大きな木をお示しになって『悠仁がカブトムシをよく捕りにくるんです』と。そのお顔からは、お孫さんのことが可愛くて仕方ないというお気持ちがにじみ出ているようでした」そのとき、御所で供されたのは松花堂弁当。その中にカツオの刺身が入っているのを見て、天野さんは驚きを隠せなかった。じつは手術後、天野さんは天皇陛下に、「ご回復のためにも食事できちんと栄養を取るよう心がけてください。タンパク質を取るには、これからの季節、カツオがおいしくて、よろしいと思います」と、進言していたのだ。美智子さまはにっこりほほ笑んで、天野さんにこうおっしゃった。「先生もお好きだとお話しされていたので、カツオをご用意しておきました」天野さんは美智子さまのお心遣いに「感じ入った」という。「ほかに注意点として『ケガに気をつけてください』と申し上げました。ケガをすると体力も落ち、生活の質も下がりますから。手術後、公務に復帰された両陛下が、腕を組む場面が増えたように感じませんか。ちょっとした階段などでも、皇后陛下は必ず、天皇陛下を支えられている。もしかしたら、僕の助言を皇后陛下がお聞き入れくださったのではないかと思います。内助の功の素晴らしさを拝見した気がしました」来年4月30日、天皇陛下はお元気なまま、ご退位の日を迎えられるに違いない。「200年ぶりといわれる歴史的な生前退位に、ほんのわずかでも関われたことはとても誇らしく、僕にとっては勲章のようなものです」
2018年10月19日「悪天候が心配されるなか、ようやく愛媛県・広島県の被災地を訪問された天皇陛下と美智子さまでしたが、そのお顔には深い疲労がにじみ出ていました」そう語るのは宮内庁関係者。7月初旬に甚大な被害を引き起こした西日本豪雨。両陛下はお見舞いのため、2日間で3県を回られる予定だったが、3度も日程が延期された。皇室担当記者は言う。「当初、両陛下は9月13日に広島県と岡山県の被災地を訪問される予定だったのですが、天候不良で14日に延期されました。14日も天候がすぐれず、なんとか岡山県には足を運ばれましたが、広島県へは、20日に予定されていた愛媛県ご訪問と同日に行う方向で再調整されたのです。それは数時間のうちに3度も自衛隊のヘリコプターに搭乗される強行スケジュールでした」ところが予備日だった20日も天候に恵まれず、21日に延期……。「延期のたびに宮内庁の説明も二転三転して、パニックになっているようでした。このような混乱は、平成の行幸啓で初めてではないかと思います」(皇室ジャーナリスト)被災地ご訪問が延期の連続となったのはなぜなのか。前出の皇室担当記者はこう語る。「両陛下は、被災地にお泊りになったり、交通規制が必要となるお車での移動をなさったりすれば、地元の自治体や警察などに多大な負担をかけると心配されたのです。そういった負担を最小限にするため、ヘリを使って移動時間を短縮した日帰り訪問となりました」ただ、ヘリの飛行は天候に影響されやすい。結果的には秋雨前線が日本列島にかかる時季だったことが、大きなネックになってしまった。9月6日には北海道胆振東部地震も発生した。国民の苦難に心を痛め、被災者に寄り添い続けてきた両陛下。しかし平成最後の1年に、記録的な大災害が頻発することに――。皇室ジャーナリストの渡邉みどりさんも両陛下の体調を気遣う。「80歳を過ぎたおふたりにとっては、長距離の移動だけでも大変お疲れになるものなのです。さらに予定変更や延期は無意識でもストレスになります。今年の7月には陛下が脳貧血でお倒れになっています。それでも万が一、新たな災害が発生したならば、どんなにお忙しくても両陛下は被災地に向かわれるはずです。負担も大きいヘリ移動などがこれ以上続けば、陛下、そして美智子さまもお倒れになってしまわないかと心配しています」被災地激励には、美智子さまの知られざる“苦悶”が隠されていたのだ。
2018年09月27日日本古来の伝統食である「ぬか漬け」。“腸活”にも良いって聞くけど、ぬか床を持つのはハードルが高い……。そんな人にも手軽に挑戦できるアイテムが、あの無印良品から出たと聞き、さっそく試してみました!買ってすぐ漬けられる! 発酵済みのぬか床2018年6月に新発売となった無印良品の「発酵ぬか床」。発売直後から大人気、また販売店舗が限られているということで、ネットショップで調達。ジップ付き袋に入って常温の状態で届きました。このぬか床のすごいところは2つ。まずは毎日かき混ぜなくていいこと。ぬか床といえば、毎日混ぜなくてはいけないという常識を、いきなりくつがえしてくれます。そしてもうひとつは、あらかじめ発酵されているので、買ったその日から漬けられること! 通常は発酵するまで数週間かかるので、ぬか漬けが食べたい!と思った日から始められるのは嬉しいですよね。さっそく冷蔵庫に残っていた大根を漬けてみました。皮をむいて縦4等分にして……袋の中のぬかにギュギュッと押し込み、冷蔵庫の野菜室にイン! そう、こちらのぬか床は冷蔵庫で管理ができるのも嬉しいポイントです。さて、1日漬け込んだ大根はどうなったでしょうか。おお! しっかり漬かっていそうです。やや酸味の強い仕上がりでしたが、美味しい! この手軽さで夕食に1品追加できるのも、半端に残った野菜が活用できるのも忙しいママにはありがたいのではないでしょうか。あんなものやこんなものも漬けてみた!すっかり楽しくなり、翌日から様々なぬか漬けにトライ。定番のカブとニンジンはもちろん、ズッキーニは皮を数カ所むいてから漬けたら、イイ感じに漬かりました。約1ヶ月が経ち、ちょうどよい塩梅になってきていますが、袋の説明書きによると、漬かりがわるくなってきたら塩を足すとよいのだそう。その他、ビギナーさんにもやさしい漬け込み時間の目安なども書いてあるので安心です。発売の経緯を、担当者さんに聞いてみました!そんな「発酵ぬか床」がどうして生まれたのか、「無印良品」を運営する良品計画の鈴木美智子さんに聞いてみました!「元々、おいしくて健康的な生活を支えるものとして、発酵食品にはとても興味があり、自分でも作ったり食べたりしていたのですが、ぬか床は毎日かきまぜないとダメなので、旅行や出張があるとムリかな……とか、美味しく漬けることができるまで手間がかかりそうだなというイメージがあり、私自身あきらめていました。でもそう思っている人はたくさんいるはず、それなら商品として開発したら多くの人が喜んでくださるかも、と考えたのがきっかけです」開発にあたっては、説明書きなどどこまで書いたらいいのかなど悩みながら作ったそうですが、発売開始後、SNSを中心に話題を呼び、またたく間にネットストア、限定店舗でも売り切れてしまい、その反響に驚いたのだそう。「簡単なので、私もいろんなものを漬けてみています。塩もみしたオクラ、半分に切ったみょうが、半分に切って皮を残したアボカドなど意外なものも美味しいですよ。あとはぬか床がゆるくなったときに、干ししいたけや切り干し大根を漬けると、水分も吸ってくれるので一石二鳥です」秋には生産体制が整い、販売店舗も拡大する予定とのこと。みなさんもぜひ試してみて下さい!【参考】無印良品ネットストア
2018年08月30日藤原美智子がオススメする日やけ止めクリーム2018年5月26日、ヘア・メイクアップアーティストの藤原美智子はInstagramの中で、オススメのボディ用日やけ止めクリームを紹介。「こんな商品があると便利かも」という目線で3つのアイテムをピックアップしている。1つ目は、チャントアチャームの「UVフェイス&ボディプロテクター」。石鹸でも落とすことができ、赤ちゃんとママが一緒に使うことができる。やさしい感触が特長。販売価格は2,800円(税抜き)。2つ目は、HACCIの「ボディクリーム Leg UV」。塗るだけで、むくみ防止効果があり、すっきりしたレッグラインへと導く。パールとラメが光を操り、引き締まった印象に。販売価格は6,804円(税込み)。3つ目は、米肌の「澄肌日やけ止めジェル」。みずみずしい使用感で、体全体に塗りやすい。洗顔料でも落とすことができる。販売価格は2,800円(税抜き)。藤原美智子のプロフィール藤原美智子は、ヘア・メイクアップアーティスト、ライフスタイルデザイナー、MICHIKO.LIFEプロデューサーなど様々な肩書きをもつ。美容だけでなく、ライフスタイルも注目を集め、雑誌や講演、テレビなど幅広い分野で活躍。Instagramのフォロワー数は3万人を超える。(画像は藤原美智子 Instagramより)【参考】※藤原美智子 Instagram※ラドンナ※チャントアチャーム※HACCI※米肌
2018年06月04日雅子さまは5月13日、皇太子さまや愛子さまとともに皇居を訪問された。ご一家は両陛下と、皇居にある紅葉山御養蚕所を訪問し、美智子さまから直接、作業や施設について説明を受けられたという。 5月10日の宮内記者たちへの定例会見で、お代替わり後に、皇居内での養蚕は「美智子さまから雅子さまが引き継がれる」と明らかにされた。皇室ジャーナリストの渡辺みどりさんはこう評価する。 「雅子さまが自ら継承を申し出られたところに、揺るぎのない“新皇后となられるご自覚”を感じます」 歴代の皇后の手による養蚕は、「日本書紀」にも記述があるほど長い歴史を持つ。1871年に“皇后の仕事”として復活後は、美智子さままで4代、147年にわたって引き継がれてきた。 「すでに国の基幹産業ではなくなった養蚕が、皇后の神事として平成の現在まで継承されているのは、美智子さまの強い思いがあるからです」(皇室担当記者) 愛子さまと悠仁さまのご誕生に際しては、自らお育てになった蚕「小石丸」の絹糸で産着をお仕立てになり、贈られた。また、眞子さまが小学3年生のときには、養蚕についての長い手紙を贈られた。美智子さまは、次世代の皇室にも養蚕を継承してほしいと思われていたはずだ。しかし、次の皇后であり継承者となられるべき雅子さまには、なかなかそのお気持ちをお伝えになることができなかった。 「美智子さまは大きなジレンマがありました。雅子さまに継承してほしいお気持ちと、療養中の雅子さまに無理をさせたくないお気持ちの間で、ずっとお悩みになっていたのです。雅子さまは、そのお気持ちをお察しになって、今年が最後となる美智子さまの養蚕、そしてお代替わりまで1年というタイミングで一念発起、継承を直訴されたのです」(前出・皇室担当記者) 側近を介しての正式な伝達は4月末だったが、雅子さまは美智子さまに、前もって継承の意志をお伝えしていたのでは、と宮内庁関係者は話す。 「その機会があったのは、4月10日、両陛下の結婚記念日の夕食会です。これまでのお気づかいに『ご恩返しを』と考えられ、雅子さまが申し出られたのでしょう。美智子さまは、『無理をせず、できる範囲でいいから』と、雅子さまの背中をやさしく押されたに違いありません」 美智子さまが養蚕に取り組まれるお姿を、じかにご覧になった雅子さま。 「雅子さまが御養蚕所を訪問された5月13日は、母の日でもありました。皇太子ご一家の、美智子さまへ温かなご配慮が感じられます」(前出・皇室担当記者) ずっと願われていた、雅子さまとご一緒の養蚕。美智子さまにとって、なによりの「母の日」のプレゼントになったにちがいない。
2018年05月18日