“笑える闘病記”として、自身の乳がん治療の体験をつづっているロックバンド『Elizabeth.eight』のボーカル・ミワユータが10日に自身のアメブロを更新。30分置きに長時間の採血を受けたことを明かした。この日、ミワユータは「今日は最後の検査」と切り出し「30分置きに長時間採血する」という検査を受けたことを報告。「先生も看護師さんも、みんな優しくてありがたいです」と述べ、採血検査のほかにも循環器科と腫瘍内科も受診することを説明した。続けて「9:00-21:00の病院スケジュール。もはやバイトリーダーのシフト」とコメントし「明日になったら退院だ…!」と報告。最後に「今日もいい日に決まってる」と述べ、自身の写真とともにブログを締めくくった。
2024年06月10日お笑いコンビ・ココリコの遠藤章造の妻・まさみさんが6日に自身のアメブロを更新。前立腺がんの闘病中である父親の治療で後悔していることをつづった。この日、まさみさんは父親について「実は数ヶ月前にあまりの副作用の辛さにより抗がん剤治療をストップしました」と告白。「昨年末から末梢神経障害という副作用が強く出てしまい足がうまく動かせなくなり思うように歩けなくなり」と明かし「身体的、精神的にも辛くなってしまった」と抗がん剤治療を止めた理由を説明した。続けて、父親が投与していた抗がん剤について「最後の治療方法でこれ以上、効果的な薬がない」といい「副作用が辛くても父は必死に耐えて頑張っていたんだと思います」と推測。「今まで自分で着替えたり天気が良い日には散歩に行っていた」と述べ「末梢神経障害が出てきてからはできない事が増え一気に引き籠りになってしまいました」とつづった。また「抗がん剤をやめると数値が一気に上がりさらに癌が広がり死の危険も出てくるんじゃないかと病院に行く度にビクビク」と不安だったことを明かすも「不思議なことに抗がん剤をやめてから数ヶ月も経つのに数値が上がらない」と父親の現状を説明。「微量の上昇はあるものの安定している」と報告し「抗がん剤をストップする=癌の数値が上がって悪化するイメージだったのに父の場合そうではなかった」とつづった。さらに「色んな副作用が出て来た時“一回やめて様子を見てみる”という選択肢が主治医から話が無かった」といい「責めてるわけではないけど自ら抗がん剤をやめる申し出は患者からはしにくいからアドバイスの一つとして提案して欲しかった」と本音を吐露。「もし、アドバイスをしてくれて抗がん剤をストップし抗がん剤とQOLの維持を考えるタイミングがあったのならば」「父がもう少し元気だったのではないかと後悔を感じています」とコメントした。最後に、父親が通っている病院では「全ての治療をやめてしまうと緩和ケアに移らなければならなくなる」といい「効果があるかは分からないみたいですが新薬を飲みながら治療を続けていて」と説明。「過ぎてしまったことは戻らないので今、必死に生きようとしている父をできる限り支えたいと思います」とつづり、ブログを締めくくった。この投稿に読者からは「難しいですよね」「とても気持ちがわかります」「お父様、長くお元気でいて欲しいです」などのコメントが寄せられている。
2024年06月07日大病を患った人の多くが、発覚当初に感じるという「まさか私が……」という思い。その「まさか」を経験した高樹澪さん(64)に、辛く厳しい闘病の日々を赤裸々に語っていただきました。■「自分の意思に反して顔面がピクピク動いてしまい、それでも演じなければならない。こんな状態では、もう女優はできないという絶望感でいっぱいでした」片側顔面痙攣に苦しんでいた当時を振り返るのは高樹澪さん。’82年、井上陽水作詞作曲の『ダンスはうまく踊れない』をリリースし、80万枚のセールスを記録。その後、映画やドラマでも主要な役を演じてきた高樹さんが病魔に侵されたのは’99年のこと。「離婚する直前でした。最初は顔にチック症状が出て『ストレスから?』と思い、事務所の社長から紹介された鍼灸院に通ったり、民間療法を試したりしたのですが」離婚に際し、元夫との共通の友人たちから誤解を受け、精神的にも疲弊していた時期だった。「心療内科を受診すると、原因はメンタルの不調からくるものという診断で睡眠薬を処方されましたが、これは誤診でした」’02年に撮影した映画『チルソクの夏』の現場では、顔の痙攣が止まらなかった。監督は何も言わずに粘り強く「顔が動いていない」一瞬のタイミングを狙い何度も撮り直しをしてくれたという。「目や顔の動きで表現をする女優にとっては命取りです。キャストはもちろん、スタッフやエキストラの方々を長時間待たせてしまい落ち込みが激しくなって。ある日、とうとう所属事務所の社長に電話1本で『もう辞めます』と引退を告げたのです」「引退宣言」をしてからは仕事の重圧から解放されたが、症状は改善せず、心療内科に通いながらラーメン店やパチンコ店といった畑違いのアルバイトを経験した。「事務所側は『休業』ということで仕事のキャンセル手続きに追われたそうで。私も『辞める』と告げたころは寝ても覚めても顔が動くようになっていて、眠ることもままならず。また、まひしているため、水を飲むと口が閉じないのでダラダラあふれるという不便な状況もあり、相当追い詰められていたんです」芸能界から遠ざかっていた’06年のある日、古い友人から「名医がいる」と脳神経外科医の清水克悦氏を紹介されたことが転機に。「『厄介な腫瘍をスルリと切除した名医だから』という説明でした。当時、東京・立川の病院に勤務していた清水先生の外来を受診すると、予約で埋まっているはずが『再来週オペの空きが出たから』と、トントン拍子に予約が取れたのです」症状が現れてから9年、このとき初めて「片側顔面痙攣」という診断が下された。女性であれば10万人に十数人の確率で発症する難病で、痙攣の原因はストレスにより顔面神経が本来の位置から下垂し、脳の動脈に癒着してしまうことからくるとの説明だった。「血管が動くたびに顔面も引きつって動いてしまっていたのです。ストレスからではあるのですが、物理的な原因もあったということ。このとき先生からは『患ってからが長いから早く手術したほうがいい』と促されて。開頭手術ということで、迷いはありました」脳動脈と顔の神経の癒着を剥離するため、頭蓋骨を削る──。手術の成功率は70%だったが、国内の症例でオペ中に亡くなったケースがあったと聞かされたことも不安を増幅させた。「『体にメスが入るなんて!』と母に相談したら大反対されていたはず。ですが幸運なことに名医が執刀してくださるという、こんなチャンスはないのだと理解し、“まな板の上の鯉”になった気持ちで腹をくくりました」’06年6月、オペは5時間かかり、麻酔から覚めた瞬間、執刀医の後ろに研修医が十数人いたことは高樹さんを驚かせた。しかし「名医に執刀してもらえたのだから」と気持ちをチェンジ。間もなく「成功した」ことを実感したという。「術後、麻酔が切れた夜に包帯が巻かれた顔を鏡に映してみたのですが、顔が動かない!『うわー、こんなにあっけなく動かなくなるのなら、私は長年何に耐えていたんだろう!』って」脳や頭蓋骨に関わるオペというから、相当な激痛に見舞われたのではと思われがちだが、痛みはさほど感じなかったという。「実は頭蓋骨って神経が通っていないために痛みがないのです。脳動脈も痛みに鈍感なので、もわっとしているだけでした」「意に反して顔が動く」症状に悩まされはしたが、9年間抱えてきた脳の疾患では激痛にさいなまれる経験はなかったのだ。■電動自転車で転倒し骨折。医師が骨をバキンと……「むしろ激痛体験ならば、その後の骨折時のほうが衝撃でした」顔面痙攣の症状から解放された高樹さんは、’09年には芸能活動を再開。その後’13年には同じ年のIT業界のエンジニアの男性と再婚し、公私ともに順調そのものだったが、大きなアクシデントに見舞われたのは’18年のこと。電動自転車で走行中に、「ハトを避けようとして」転倒。肩から落ちたため鎖骨にヒビが入った状態で救急外来を受診した。「このときわずかに(骨は)つながっている状態だったのですが、整形外科医の先生が『ここだね』と、患部を確認するなり素手でバキン!とへし折ってくれたのです。麻酔もなく息が止まるほどの激痛でした。『中途半端につながっていると、オペできないから』ということで。私は幼いころから、自転車で有刺鉄線に突っ込んだりと激痛体験はあまたありますが(笑)、あんなに痛い思いは初めてです」その後、緊急手術に。骨をつなぐため鎖骨の上から切開してプレートを挿入し、十数針を縫う大けがだった。「今でもデコルテが大きく見える衣装はNGです」と淡々と語る高樹さんだが、暗くはならない。「私を強くするための必然だったのだと。多少の痛みを経験したほうがその後、生きやすくなります」自殺者が後を絶たない悲しい世相だが、高樹さんは絶対に自ら死を選んではダメだと語る。「人間、超えなければいけない病やけががあるのかも。試練を超えたら、めちゃくちゃ強い自分に出会うことができますよ」
2024年05月19日●解散宣告を受け「貴重な日々」だと気づいた多くのファンに愛されながら昨年6月29日をもって解散したガールズグループ・BiSH。彼女たちが「解散宣告」された日から東京ドームでのラストライブまでの3年半の日々をモモコグミカンパニーが赤裸々につづったエッセイ『解散ノート』が2月14日に発売される。解散をどのように受け入れ、ソロになる不安とどう向き合ってきたのか。苦悩も喜びもリアルタイムで書き留めてきたモモコグミカンパニーに、同書に込めた思いや解散後の変化など話を聞いた。――『解散ノート』を読ませていただきましたが、本当に赤裸々に3年半の日々をつづられていて、当時の思いを知ることができました。最初は本にしようと考えていなくて、自分で振り返りたい記憶だなと思って書き始めたんです。プロデューサーの渡辺(淳之介)さんから「解散という選択肢もあると思うけど、どう?」と言われた時は、BiSHとして5年ぐらい活動して人気も出てきた頃で、だんだん慣れてBiSHの音楽や自分の立場が当たり前のようになっていましたが、解散宣告を受けた瞬間から見え方がガラッと変わり、当たり前ではなくすごく貴重な日々なのだと気づき、これからの日々を残していこうと思ったのが始まりです。――書いている途中で本として出したいという思いが芽生えたのでしょうか。最後の1年ぐらいは、これは誰かの背中を押せる本になると思うから本にしようという気持ちで書いていましたが、最初の頃は自分がこの先、BiSHという大きいものが取り払われた時に、どういう不安を抱えたり、どういう葛藤をしたりするんだろうという興味もあって、赤裸々にリアルタイムで書き残していこうという思いでした。――日記も書いているとおっしゃっていましたが、それともまた違うものとして書いていましたか?『解散ノート』は“解散”というテーマがあったので、普通の日記とは違いますし、暴露本でもなく、自分の中では闘病記かなと思っています。エッセイも今まで2冊出しましたが、解散してから振り返って書くのでは遅いと思い、東京ドームまでの日々をリアルタイムで、その日のことをその日中に書くというのを徹底していました。――「闘病記」という表現になるんですね。病気を宣告された人はたぶん、残りの日々を愛おしいと思うんです。マイナスなことですけど、その日まで頑張って生きようというプラスの感情、生きるエネルギーが湧いてくる気がしていて、その感覚に似ているのかなと。解散はネガティブなことでもありますが、その日まで貴重な日々を生き抜こうという意思が芽生えたのも解散宣告を受けたからなので、闘病記という言葉がすごく近いなと感じています。○BiSHにとって解散はブースターに「みんなの視線が一致した」――『解散ノート』では、不安を吐露しながら前向きな気持ちに変わっていく変化を感じましたが、日々自身の思いを書きながら気持ちが変わっていったのでしょうか。書きながらというか、生きながら変わっていったのかなと。解散を宣告されてから、自分単体と向き合うことになり、いろんな人に「自分には何もない」と相談したり、「夢だった小説に手を伸ばしてみよう」とか、そういう過程を経て一歩一歩進んでいった気がします。葛藤の日々があったからこそ、最後のほうはBiSHを真正面から楽しもうと思えたし、明るくなっていったのかなと思います。――前向きに変わるきっかけになったことがありましたら教えてください。解散を宣告された時に私は悲しいとも思いましたが、よかったとも思ったんです。女性グループで、いつまでもやっていきたいという子もいれば、私はこれがやりたいんだという子も解散がなかったら出てきていたと思うので。5年以上経ってメンバーが少しずつ別の方向を見始めた時に解散を突きつけられ、みんなの視線がBiSHの終わり“解散”に一致したのはすごく大きいことだと思っていて、BiSHにとって解散はブースターになったなと思います。――解散が決まったことで、メンバーの皆さんの気持ちが一つになって最後に向かっていくことができたのですね。そうですね。BiSHを愛してくれている人で、まだ解散を受け入れられていないという人もいると思いますが、『解散ノート』がそういう人たちの手助けになるのかなとも思っています。私なりの解散はこうだったというのを覗いてもらってどう感じるか、自分の気持ちを大切にしてほしいです。――何か終わりに向かって進んでいる人たちが勇気をもらえる一冊になりそうです。私は解散が決まってから当たり前だと思っていた日々が貴重な日々だと再認識することができましたが、誰でも次の日に自分の大切なものが目の前から消えるということはあると思うので、『解散ノート』を読んで、毎日ってすごく貴重なんだと感じてもらえるかもしれないし、将来に不安がある人の背中を押せるのではないかなと思っています。私は「自分には何があるんだろう」と模索してもがいている日々でしたが、最後は笑顔で東京ドームに立ってやり切ったと言えたので。プロデューサーの渡辺さんとの面談の様子も生々しく書いているので、一緒に面談を受けているような気持ちで読めると思いますし、少しでも人生に悩んでいる人たちの励みになればいいなと思います。●解散と向き合って生きた中で見つけた希望――BiSHの解散にしっかりと向き合って生きた中で、何か気づきや学びなどありましたらお聞かせください。芸能界はもしかしたら汚いのかもしれないと思っていましたが、見てくれる人は見てくれるし、頑張ったら頑張った分だけ、結果が表に出て評価されなくても自分のためになっているというのがわかり、それはとても私にとって希望になりました。また、地に足つけて自分の人生を歩むってこういうことなんだなとわかってきて、自分の足で歩くってこんなに怖いことなんだということも知りました。――自分の足で歩く怖さを感じつつ、その大切さを感じられたわけですね。そうですね。つらくなって親に「解散決まっているけど、私はもうダメだから、最後までできない」って泣きながら電話したこともありますし、いつでも強くいられたわけではないですが、葛藤していた日々もすごく宝物だったと思うし、今、自分が1人でいられるのも、その時期があったからだなと感じています。『解散ノート』を読み返して、周りの方々からもらった言葉にハッとすることもあります。――どんな言葉が刺さりましたか?プロデューサーの渡辺さんから「血の通ったものに人は集まるんだよ」と言われたことは、今でも大事にしています。芸能界は、普通にカメラに映ればその場をやり過ごすことはできると思いますが、血の通ったものに人は集まって見てくれるんだなと思うようになりました。○『解散ノート』が区切りに「BiSHについてガッツリ話すのは最後」――BiSH解散から7カ月以上経ちましたが、解散後の変化もお聞かせください。BiSH時代は地方公演など遠征が多くて、朝始発で行って日帰りという生活を送っていたので、朝早く起きなくていいというのは助かっています(笑)。以前は寝ることに執着していましたが、今は本を読んだり、誰かの話を聞きに行ったり、吸収する時間に使えるように。あと、挨拶などほかのメンバーに頼っていた部分がありましたが、今は頑張って自分で楽屋挨拶などしています。恥ずかしがっていちゃダメだろと、自分で自分のお尻を叩いて。――吸収する時間に使えるようになったということですが、どんなことを吸収されていますか?いろいろありますが正直まだ全然休めていなくて、6月29日に解散し、全力でペダルを漕いでマックスのギアで駆け抜けていたのがまだ止まっていなくて、余力で動いている感じなんです。だから、新たにこれをやりましたというのはまだあまり言えませんが、やりたいと思っていたことはけっこうできていて、『解散ノート』を出すこともそうですし、YouTubeを始めたいと言って作らせていただき、うれしいなと感じています。――この『解散ノート』はご自身の中で一つの区切りになりそうですか?BiSHについてガッツリ話すのは『解散ノート』で最後にしようと思っていて、区切りになると思っています。自分の中で本当に終わるというか、寂しいなという気持ちもあるし、読んでもらえるうれしさもあるし、複雑な感情になっています。●自身の作品への願いとBiSHメンバーへの思い――今後の活動はどのように思い描いていますか?人を巻き込みたいと思ったら、どうにかして巻き込んで大きいことをやりたいと思いますし、執筆活動も続けていきたいと思っています。自分の作品にはもうちょっと頑張ってほしいなと、作家という肩書きからするとその願いもあって、『解散ノート』も私のことを知らない人でも手に取りたいと思うぐらい羽ばたいてくれたら本望だなと思います。――文学賞を受賞したいという願望もあるのでしょうか。賞は本当に意識していなくて、読んでくれた人から感想をもらうことが一番の幸せで、何かしらいい影響を与えたいという思いはすごい強くあります。あとは自分の中での納得感……これを出したんだっていう喜び。『解散ノート』に関しては、出せるだけでうれしいなと思っていますし、BiSHの曲は永遠に残っていくので『解散ノート』をきっかけにまたBiSHを聴き始めてくれたり、いい風を吹かせられたらいいなと思っています。○BiSHメンバーは“戦友”「自分も頑張ろうという気持ちに」――BiSHのメンバーの皆さんは今それぞれ活躍されていますが、そういった姿から刺激をもらうこともありますか?そうですね。今隣に並んだらジャンルが違うなと思う人たちばかりですが、だからこそすごく心強いなと思っています。例えば、歌で不安になったらこの子に相談に乗ってもらおうとか、絵だったらこの子かなとか。そして、ずっと一緒に戦ってきた同志なので、みんなが頑張っている姿を見ると、自分も頑張ろうという気持ちになれる存在で、メンバーにいいことが起これば心から喜ばしいなと思います。――これからも戦友のような存在に?本当に戦友です。友達でもなければ他人でもなくて、今一緒に戦っているのかと言われるとわかりませんが、過去に大きな敵を一緒に倒した仲間という感じがしています。――最後にファンの方にメッセージをお願いします。『解散ノート』を読むにあたって、身構えているファンの方もいると思いますが、あなたにとってのBiSHの解散もすごく貴重なものなので、私に全部賛成ですと言う必要もないし、私にとっての解散はこうですという感じで気軽に読んでいただければいいなと思います。そして、BiSHを知らない人でも、これを機会にBiSHを知ってくれて、音楽を聴いてくれたらうれしいです。■モモコグミカンパニー9月4日生まれ、東京都出身。ICU(国際基督教大学)卒業。2015年3月に結成され、高い人気を誇りながら2023年6月の東京ドームライブを最後に解散したガールズグループ・BiSHの初期からのメンバーとして活躍。メンバー最多の17曲を作詞。2022年に『御伽の国のみくる』で小説家デビューし、2023年7月に2冊目の小説『悪魔のコーラス』を発売。これまでにエッセイ2冊も上梓。2023年9月から音楽プロジェクト(momo)を始動するなど、幅広く活動している。
2024年02月10日今回の内容は、辛い描写があります。不安を感じる方は閲覧をお控えください。娘のさくちゃんは、今はとっても元気な女の子。生まれた直後に心臓の病気だとわかりました。初めての子どもで、何で苦しんでいるのかがわからず、娘を失うのではと恐怖に怯えていた日々と、手術をして元気になるまでの闘病記です。こんな病気があることを知ってほしい、そんな思いから描いた闘病記。25時間の陣痛に耐えてからの帝王切開という地獄の出産を経て、さくちゃんは生まれてきました。一見元気そうなさくちゃん…でも生まれた直後から母親はある違和感を覚えます。のちに、さくちゃんの心臓に問題があったことが判明するのです。壮絶な出産を経て産まれた赤ちゃん…手が冷たい!?妊娠中とくに問題もなく過ごしてきた主人公。予定日も過ぎ、いよいよ誘発分娩に入ります。やっと誕生したさくちゃん。はじめて触った瞬間、その手が冷たいことに気づいたのでした。そしてその後も違和感は続きます。病院で何もないと言われたのに、胸騒ぎがする…。娘の体重が増えないのは私のせい!? ミルクを飲むのに時間がかかる娘。しかしやはり病院では問題を指摘されず、がんばりが足りないかのように言われてしまいショックを受けます。胸騒ぎを覚えながらも、自分の努力不足かもしれないと思うと病院に違和感を訴えるのをためらってしまうのでした。しかしこの後行った母乳外来の助産師さんが「お母さんが心配というだけで小児科に行っていい」と背中を押してくれたのが転機でした。小児科のお医者さんも心強い言葉を掛けてくれ総合病院に行くことに…。そしてさくちゃんの病気が判明するのです。ただ見守ることしかできない苦しい日々へ…。小さな命を救うため、家族の奮闘が始まります。こちらはこやま家さんの体験をもとに、2023年2月28日よりウーマンエキサイトで公開された漫画です。漫画に対する読者からのコメントをご紹介します。病気と向き合う読者たちから応援のメッセージ生まれてすぐに心臓の病気が判明したさくちゃん。同じように病気と闘うお子さんがいる読者、または自身が病気を乗り越えた読者から応援と共感のメッセージが届いていました。・わが娘も同じ状況になったことを思い出しながら読ませていただきました。 話の内容と同じで手術説明を受け、担当ドクターからもしものこともあると説明をうけている時、私自身も頭の血が引けてしまい貧血状態に。その後、手術時は嫁の母、私の父、母そして私両親の実家の叔父、叔母も駆けつけてもらい、5時間近くの手術を待合室で過ごしたことを思い出しました。 嫁はその後、話と同じく小さなベットで子どもと過ごし、私も毎日病院へ面会に訪れ、無事に退院を迎えられました。・私も心臓心室中隔欠損症のオペをした経験者です。もう50年以上前の話ですが…。治療費、輸血用の血の確保、オペをしてくれる医療機関など様々な問題が今より多かったと思いますが、沢山の方のお陰で今、生きてます。オペ前日に執刀医より「どんな手術も確率は五分五分です。絶対大丈夫とは言えませんが、全力で頑張ります。」と言われたと聞いています。今ほど技術も設備も良くなかった時代ですから、親の心配はどれほどだったことか…。自分が子どもを持ったとき改めて、感謝するしかありませんでした。・娘が腎臓病で闘病中です。このママさんと同じように何度、神様に私の腎臓と娘の腎臓を取り換えて下さいと祈ったことでしょうか…。このエッセイを通して、母親はみな、同じことを思うのかと感じさせられました。・私も同じ経験をしたので、今回のお話は痛いほどお母さんの気持ちがわかります。うちの息子は、22才で元気に生活してます。・私の娘も生後1ヶ月検診で雑音があり、小児科で心房中隔欠損症と診断されました。まだ手術の適応ではなく、定期受診で様子見しています。 この記事を読み進めながら思わず涙が流れ、たまらず娘を抱き締めました。・7歳の息子が同じ心房中隔欠損なので、とても他人ごとではないです。産後すぐただでさえ不安定なメンタルで乗り越えるのは本当に大変だったと思います。病院では「大丈夫」と太鼓判を押されていたさくちゃんが手遅れにならなかったのは母親の観察と勘があったから。しかし「大丈夫」と言われながら再度病院に行くのって勇気が要りますよね。・私は不安なことがあるとすぐに聞くし、今から行ってと言われたら何ごとかと大慌てで行くので、迷惑がかかるかと病院に行くのを先延ばしにいる人がいることに驚きました。そして退院の時、助産師さんたちに「お母さん(私)は自分でちゃんとSOSを出せる人だから大丈夫」と言われたことを思い出し、なるほど、こういう意味だったのだと思い知りました。・病院へ行くことを躊躇してたら、助かるものも助からなくなるかもしれない…このお母さん、ようやくそれに気づいて良かったと思います。・判断能力、決断力、責任を負う覚悟、親になる人間にはこれが必要。今のところ全部できてるから大丈夫だよ。子どもの様子から異常を判断し助産院へ行って、忠告をきいて素直に病院まで来たやん。親としてやるべきこと全部できてる。作品を通じて多くの人が感じたこと…それは「生きることの奇跡」。多くの奇跡と幸運が重なり、様々な人の助けによって今私たちはここにいるということを実感します。・次男は出産のトラブルは無く安心した矢先の病気発覚でした。妊娠も出産も本当に奇跡なんだと命とは尊いものだと心から理解しました。与えられた命を大切に、全ての命を敬い生きていくことの大切さを次男を通して教えてもらったと感じています。・この話を読んで、歩いていること、笑えること、生きていること、本当に命の尊さを実感しました。 私たちは、生きているだけで、本当に幸せなんだと思いました。・生きているのなら、その子が成長して思い出が作れているのなら、どんな苦労があったとしても幸せだと思います。・子どもは成人するまでには、身体、心、事故、成長に取り巻くたくさんの荒波は、あって当たり前ですね。その時はなぜうちの子が? となりますが成長すると忘れます。忘れられたことに感謝です。思い出のひとつひとつその時関わってくれた方々に感謝。同じ病気の子を持つママの不安を和らげてあげたいという思いから書かれた本作品。子育ては不安や迷いとの戦いでもあります。心疾患のお子さんを持つ親御さんに限らず、幼い子どもを持つお父さんお母さんに読んでほしい作品です。生まれてすぐに心疾患が判明したさくちゃん。どうやって病気に気付いて乗り越えていったのでしょうか。▼漫画「娘と心疾患のお話」
2024年01月12日孫悟空を中心に、三蔵法師一行が天竺を目指す物語『西遊記』。1978年には堺正章主演でドラマ化され、一大ブームを巻き起こした。そしてこの度、『西遊記』が新たに令和版として堤幸彦の演出で舞台化されることが決定し、主役の孫悟空を片岡愛之助が演じる。そこで堤と愛之助に、本作にかける想いを訊いた。実は今回の舞台化、堤の念願の企画だったと言う。「数年前からぶつぶつ独り言のように、『西遊記』をやりたいと言い続けていたんです(笑)。それがこのようなかたちで舞台化するチャンスをいただき、大変ありがたいと思っています。さまざまなキャラクターが登場する『西遊記』は、単にその面白さだけでなく、人のおかしみ、さらには人間の産物である妖怪たちの面白み、悲しみ、切なさも描かれた作品。自分にとって非常にやりがいのある舞台になると思います」ドラマ版のファンだったという愛之助は、今回のオファーに…。「本当にビックリしました!子供のころに見ていた『西遊記』を、しかも映像でなく舞台でやるなんて。ただ演出が堤さんだと聞いた瞬間、これは出来るに決まっている、と(笑)。あの世界観を崩さず、それ以上のものを作れるのは堤さんしかいないと思います。今はその期待しかないですし、そこに孫悟空として参加させていただけることに、非常に幸せを感じております」同じく堤が大きな期待を寄せているのが、愛之助演じる孫悟空に対してだ。「歌舞伎というのは、江戸時代から多くの人を喜ばせるエンターテインメントの究極ですからね。そこに僕らはまだまだ及ばないわけで、やはり愛之助さんの力を借りたいなと。つまりLEDなど最新鋭のテクノロジーを使いつつ、役者さんたちの肉体を駆使した集団芸もふんだんに盛り込む。それは今まで僕がやってこなかったジャンルでもあると思いますし、ぜひ愛之助さんには頑張っていただきたいと思います」堤の熱いまなざしに苦笑いを浮かべつつも、やはり孫悟空というキャラクターは、役者にとって魅力あふれる役どころのよう。「切り込み隊長ですから、お師匠様に緊箍児(きんこじ)で締めつけられつつも、大暴れしたいなと思っております(笑)。孫悟空という役どころ自体、非常に傾(かぶ)いていると思うんです。そして最先端で面白い、いわゆるけったいなことをしている堤さんは、まさに傾(かぶ)き者。ゆえに想像を超えた舞台になると思いますので、ぜひご期待いただきたいと思います」取材・文:野上瑠美子
2023年08月24日■忍び寄るガンに気づかず過ごしていた日々漫画家のやよいかめさんの夫はいわゆる転勤族。愛知で4年過ごした後、2歳と0歳の子どもを抱えて岩手に引越し、7年経ってようやく落ち着いてきたころに、また福島への転勤になってしまったのです。最初に自覚症状があったのは冬だったこともあり、風邪と勘違いして病院へ行くのが遅れてしまったそう。このとき、すぐに受診しておけば良かったと今でも後悔していて、少しでも異常を感じたら早めに受診してほした方がいいと、作者のやよいかめさんは言います。■ただのポリープだと思っていたらガンだった引越しがひと段落して、耳鼻科に行ったのが春。2回目の受診で、鼻の中にポリープがあると言われ、大きな病院へ行くことをすすめられます。その検査ですら説明は恐怖だったそうです。しかし、本当の恐怖はここからでした。1週間後に検査の結果を聞きに行くとまさかの言葉が…「ポリープだと思っていたのに、まさかガンだったなんて…」いきなりの告知に時が止まった気がしたやよいかめさん。このあとすぐに夫に報告をし、子どもたちにどう伝えるかなどの話し合いや、治療の体験談などが始まります。やよいかめさんはどんなふうにガンを乗り越えたのでしょうか。こちらは投稿されたエピソードを元に2020年10月22日よりウーマンエキサイトで公開された漫画です。漫画に集まった読者からのコメントをご紹介します。■「子どもが小さいときに病気になった」 みんなの体験談は?コメントで一番多かったのが、自分もガンになったという告白でした。小さな子どもを抱えながらがんばるママたちの体験談をご紹介します。・子どもが小学入学したばかりと小学4年生の時に私に乳ガンが見つかりました。 何度検査しても判定が出ず、瘤のようにどんどん膨らむ胸が怖かったです。結局、手術になり、それでも見つからなかったので安心してたら、2週間後の検診で、やはり癌だと言われました。サラッと。「 風邪ですね」くらいの感覚で。 とにかく、子どものことしか考えられなかった。どうしようと思いながら、 医師の話を聞いていました。治るかわからない点滴の副作用と脱毛は本当にしんどかった。・3人子どもがいる母親です。 一番下の息子を産んで1ヶ月で、私に舌癌が発覚しました。 赤ちゃんを母親に預けての入院、産後でおっぱいも張るのに検査、治療のためおっぱいを止めないといけなかったり、なにより子どもたちがみんな小さかったので、会いたい気持ちと心配で毎日泣いていたのを思い出します。・子どもが産まれて1ヶ月が経ち、検診に行ったら卵巣嚢腫が見つかりました。息子は、母乳で育てると決めていましたが、手術前の検査で母乳をあげることはできず、膿腫も大きかったので、手術の日までに捻転にならないか心配でした。・15年程前、子どもたちが小学3年生・年長・年少のときに、嗅神経芽細胞腫になりました。抗がん剤、放射線、手術と一通りやりました。 2年ほど治療で入退院を繰り返し、10年を超える経過観察後、ようやく寛解となり現在に至っています。・子どもが10ヶ月になったときに、保育園に預けるため卒乳しました。ところが、半年たっても右乳だけ張り続けていたため、軽い乳腺炎だと思い揉みしだいたところ、乳首から茶色い乳がでてきました。マンモグラフィーを受けたところ、右乳房の画像が真っ白になっていました。医師から「乳癌の可能性があるから精密検査を受けるように」と大きな病院を紹介され、2週間後に結果を聞くと「右乳乳癌、ステージ0だけど全摘が必要」と言われました。初めてのがん検診から約3ヶ月後に、右胸の全摘手術と乳房再建を行いました。ところが、その後の病理検査では、ステージ3に上がってしまいました。急きょ抗がん剤治療と乳房再建の中止を迫られる状況に。現在、仕事は傷病休暇と休業を取得しながら、乳房再建は継続、抗がん剤治療は隔週で行っています。・私も同じように鼻詰まりで子どもと一緒に耳鼻科を受診したら、匂いの神経にガンができていました。上の子は年長、下の子はまだ1歳でした。ドン底につきおとされたような気持ちになりましたが、2人がいるから生きなきゃとやよいかめさんと同じ感情になりました。12時間もの手術、2週間の抗ガン剤と3ヶ月間毎日病院に放射線に通いましたが、子どもが「ママ頑張れ!」と応援してくれたこと。「娘のランドセル姿が見たい。息子がどんどん可愛くなる笑顔をこの先も見たい。絶対生きてやる!」という思いが活力につながりました。4年経っても検査で不調もなく元気に過ごしてます。このまま自分を大切に、家族みんなが元気でいられるよう信じて生きていきます。頑張れたのは周囲の助けがあったから病のママたちを救ってくれたのはやっぱり家族。ここからは、みんなの助けがあったからこそ頑張れたというコメントをご紹介します。・幸い実家・兄・姉も近くにいたので、助けてもらってなんとか乗り越えられたかな。その都度、とことん話しあったから乗り越えられたのかなと思います。・上の子ども2人は主人の両親に預け、下の乳児は実母に預けて、支えてもらいました。 抗がん剤治療と手術で2ヶ月間の入院でしたが、子どもたちを面会に連れてきてもらったり、外出許可が出たら主人も一緒に出かけたりして過ごしました。 そんなことがあったのも、もう14年前です。 転移もなく定期検診のみで経過しており、感謝です。・母が息子の写真を送ってくれたり、息子を連れて来てくれたのが励みになりました。・闘病中の事は正直あまり記憶になく、入院中私の世話をしてくれた両親と、子どもたちの世話をしてくれた義母には心配をかけたと思います。 子どもたちのためにも元気になろうと思って頑張りました。・子どもはまだ1歳。 抗がん剤投与直後から48時間は、私の汗や尿から濃度が高いまま排出されるので、乳幼児と触れないほうがいいと病院関係者から言われました。それに薬の副作用で一週間は、悪心・嘔吐・だるさなどで育児なんてできる状況にないです。そのため、子どもの世話は夫が全て担うことに。義実家の手助けや保育園にも事情を話し、土曜保育もお願いしながら乗り切っているところです。育児に家事にと忙しい毎日…ママたちに送られたメッセージもそして、子どもや夫のためにと頑張りすぎているママたちへ「もっと自分を大切にして」というメッセージも多くありました。子どもだってママが元気なことが一番うれしいはずですよね。・私の母の口癖は「あなたが元気じゃなきゃ家庭がまわらなくなるのよ!」です。私も昔は家族が元気でいてくれるのなら自分が犠牲になってもいいという考えでしたが、年齢を重ねるにつれ少しずつ出てくる体調の変化に「私が元気じゃなきゃ!」と思うようになりました。今は母の言葉を忘れず、家族のために自分の体にも気をつかうようにしています。・子どもや夫が元気ならそれでいいわけじゃなかった。自分がいなかったら、この家族の笑顔は見られないのだから、自分を大切にしようと心から思います。 産後にしんどい思いをしてる方、体調崩してなかなか治らない方は、たくさん手抜きをしたり、家族や友人に助けを求めてもいいと思います。病気になったほうがよほど周りは大変になってしまいますから。実際の闘病生活が描かれたやよいかめさんの作品を読むと、「今は忙しいし」「まだ症状が軽いから…」といって、病院に行くのが遅れてしまうと後々大変なことになる可能性が潜んでいると思い知らされます。少しでも体調がおかしいなと思ったら、ママも病院に行くことが大切ですね。▼漫画「鼻腔ガンになった話 」
2022年09月27日前回 のあらすじパニック障害になってしまったことを思い切って母に伝えることに!パニック障害になったことを母には伝えることができ、理解もしてもらえました。しかし遠くに住む友人たちにはどう伝えようか…と。もし友人がパニック障害について全く知らなかった場合は、なぜ帰省して会えないのか、という質問についてうまく説明できないなと思いました。ケガをしたわけでもなく、〇〇が調子悪くて〜という説明もできず、電車に乗れないから…と聞かされても普通の人からしても???と思われるだろうな…と。友人に言えなかったのは「気を使われたくない」という気持ちが大きかったからだと思います。私の友人たちは偏見などを持つタイプではないし、理解してもらえるとは思っていました。でも、私自身が気を使うタイプなので、病気の事で気を使ってもらったり、迷惑をかけるかもしれないと思うとしばらく言わない方がいい…また体調が良くなって元気になったら言えばいいや…と思っていました。遠方に越してからも定期的に誘ってもらえて嬉しかったのですが、仕事で忙しいと嘘をつきながら毎回断り続けていました。ただただ申し訳なさと、悲しさで毎回心が痛みました。友人には気を使われたくない。友人の中では元気な私がいる。はっきり言ってしまった方が楽だったのかもしれませんが、私は遠いところでも元気でやってるよ! 毎日楽しく笑ってるよ!と思われたかったのだと思います。…これについてはどう考えても仕方ないなと思います。毎回誘いを断っていたら、あちらも気を使ってじゃあ誘わない方がいいなーとなるのが当たり前だと思います。この件で友人たちが去っていくわけでもないですが、地元ではみんなで楽しくやってんだろうなー…と思うとすごく寂しかったです…。パニック障害と診断されても、自分で受け入れることができない。診断は受けたけど軽度の方だから私はすぐ治るんだ。どこにも行けないのも、友達に嘘をつき続けるのも今だけだ。そう信じつつも、心の奥では一生このままかも…と思う心が交差していて、この頃はひたすら何も考えたくない時期でした。次回に続く!『パニック障害とは』理由もなく、動悸やめまい、発汗、窒息感、手足の震えといった発作が起こり、そして発作が繰り返されることで、発作に襲われることに対する不安を感じるようになり、毎日の生活に支障をきたすようになってしまう症状です。本記事はあくまで筆者の体験談であり、症状を説明したり、医学的・科学的な根拠を保証したりするものではありません。
2021年02月20日前回 のあらすじパニック障害の私が「周りの人にしてもらって嬉しかった対応」とは…?パニック障害でなくても、精神疾患に罹った場合周りの人に話すかどうか、というのはためらう人が多いかと思います。私の場合は地元から引っ越し後に発症したため、知っているのは夫のみ。なのでパニック障害になってからも半年くらいは誰にも伝えずにいたのでした。ただでさえ、パニック障害になってしまったことだけでもショックなのに更に周りに理解もされず引かれるのみだったら…と思うと怖くてなかなか言えませんでした。母はとても明るくさっぱりした人物なのですが、そのさっぱりとした性格ゆえ時々悪気なくはっきりモノを言うことが今までも多く…。そして「昔は良かったわ~」などを言いがちで、古い考え方をするタイプなので、何を言われるか怖くてメンタル落ちてる今はとてもじゃないけど言えない…。と言う感じで、なかなか伝えられずにいました。しかし長い間実家に帰ってこない私に対して、どうしたのかと問い詰められ…これは逃げられないなと腹をくくり伝えました。告白したあとの静かな間が本当に長く感じられ、緊張して心臓が飛び跳ねていました…。しかし母は予想外にもあっさりと理解をしてくれました…!!母に対して失礼ながら、偏見の塊人間だなと思っていたのでこれには驚きました。これも全て母がテレビっ子だったおかげ…!テレビの言うことは全て信じ込む母です(笑)私も確かに以前はパニック障害なんてどんな病気かも知りませんでした。今は芸能人などの有名な方が公表してくれることによって、偏見が少しずつ減ってきているなと思っています。こんなことならもっと早くに話せば良かった…母よ…!!しかしやはり身内には話せても、友人はもっと話しにくい。どうするか葛藤しまくり、ひたすら悩む日々が続きました…。次回に続く!『パニック障害とは』理由もなく、動悸やめまい、発汗、窒息感、手足の震えといった発作が起こり、そして発作が繰り返されることで、発作に襲われることに対する不安を感じるようになり、毎日の生活に支障をきたすようになってしまう症状です。本記事はあくまで筆者の体験談であり、症状を説明したり、医学的・科学的な根拠を保証したりするものではありません。
2021年02月19日前回 のあらすじ早くパニック障害を治して子どもが欲しい…! 主治医の先生の答えは…乗り物に乗ること、遠い所へ行くことこれらができなくなってしまったことは、私の人生を大きく変えてしまいました。もちろん好きなだけ好きなところに行く、ということは金銭的にも難しいのですが、例えお金があったとしてもそれを実行することができない…もう私にはずっとこの狭い世界で生きていく人生しかないんだ…と。「一生治らなかったらどうしよう…」と思いながらも、少しの希望で少しだけ前を向くことができました。そう思わなければ絶望で壊れていたかもしれません…。パニック障害は主にこの「予期不安」で苦しめられているといってもよいです。要するに日常生活で「倒れたらどうしよう…」「外で発作起きても誰もいないし…」など、悪い事ばかり考えてしまい、発作を恐れて何もできなくなるのです。もし頑張ってチャレンジしたのに…予想通り外で発作に見舞われた場合、更に恐怖が増して外に出るのがますます怖くなる…そういった負のループで毎日苦しめられています…。パニック障害のきっかけは、ストレスなど色々あるとは思いますが、自分でも意図せずに恐怖を感じたりするこの現象は考え方や精神論でどうにかなるものじゃないなと思っています。「精神的に弱い人間がなってしまう」と思っている人もいるかもしれませんが、脳の誤作動や脳内神経伝達物質のバランスを崩すことが原因になっているようです。脳の病気…と考えるとそれはそれで怖いですが、「精神的に弱いのが原因なのかな…」と思い込んでいたので、少し救われた気持ちになりました。そして私も誤解していたことがあって…。これはその病気を知らないことからくる「あるある」かもしれませんが、「パニック障害」という名前から、いろいろな偏見や誤解をしてしまいがちですね…。リラックスしている時や、1人で考え事ができるような状況だと予期不安が出て不安になるので、逆にそれを全く感じる事ができない状況(本当の恐怖に襲われている場合)の時は発作は出ないのです。パニックとパニック障害はあくまで全く別物、と考えておくといいかもしれません。パニック映画などで出てくる「怪獣に追いかけられる」ようなことがあったら、パニック障害など吹っ飛んで全力で逃げると思います(笑)これは人によると思いますが、周りの人にしてもらって嬉しかったことは、たとえ何もできなくても本を読んだりネットで調べてくれることでした。タマオくんは本を読んでも「ああした方が良い、こうした方が良い」などのアドバイスをしなかったこともありがたかったです。パニック障害の患者の私は、そっとしておいてもらえる、もし外出先で倒れたら側にいてくれる、というだけで充分嬉しいなと思いました。これは治療や治るような病気だったら、私も全力で調べていたのだと思います。しかしこの時は何度も発作を起こした場面や、パニック障害になってからのことがフラッシュバックをしてどうしてもパニック障害について調べることができませんでした。知れば知るほど、意識をしてしまい余計に不安感が増す…それが怖くてあえて何も調べない、という方法を取りました。その時の私は、ただただ薬を飲んで時が経つのを待つ…それくらいしかできませんでした。次回に続く!『パニック障害とは』理由もなく、動悸やめまい、発汗、窒息感、手足の震えといった発作が起こり、そして発作が繰り返されることで、発作に襲われることに対する不安を感じるようになり、毎日の生活に支障をきたすようになってしまう症状です。本記事はあくまで筆者の体験談であり、症状を説明したり、医学的・科学的な根拠を保証したりするものではありません。
2021年02月18日前回 のあらすじパニック障害を発症する原因はいろいろあるようですが、私の場合は‥この二週間の間は、とにかく休むことが大事とのことで…とにかくのんびりダラダラ、穏やかな気持ちでなるべく過ごすことを心掛けました。休息をしたことで、発症時の全く動けない体はだいぶ良くなり、爆発しそうだった心臓も通常にもどりました。ありがたいことに私にはこうして理解のある配偶者がいてくれましたが、1人でパニック障害を抱えている人たちのことを考えました。外へ行くにも誰かが一緒でないと本当に不安になるので、助けがない人たちはどんなに苦労をしているのだろう…それを考えるととても辛い気持ちになりました…。抗うつ薬は今は一錠(25mg)を飲んでいたのですが、薬の増量をすることに。それを聞いて…そう、結婚前から思っていた事。「なるべく早く子どもが欲しい」しかし新婚早々、それが難しくなったことがずっと心の重しになっていました。でも子どもは焦ってでも、なるべく早く欲しい…!早くパニック障害を治して子どもが欲しい…!主治医の先生の答えは…半年…それは、人によっては長いと感じる時間ではないのかもしれないけれど、この時の私はやはり落ち込みました。もちろん苦しいパニック障害を治すことが先ですが、それと同時に子どもも欲しい…。もっと私が若く20代前半くらいだったらこんなに焦ることもなかったのだろうか…と思ったのですが、パニック障害の発症の時期と、子どもが欲しい時期が被ってしまいました。ですが、この時は「まあ薬飲んで寝てさっさと治そう!」くらいにしか思っていませんでした。しかし現実はそう甘くもなく…。今日は体調もいいから、外食にチャレンジしよう!→ご飯待ちの時に発作車なら買い物に行けそう!→ショッピングモール目前に発作この時は、目の前なのになぜ…? と自分でも理解ができないのと歯がゆい思いでかなり落ち込んでいました。次回に続く『パニック障害とは』理由もなく、動悸やめまい、発汗、窒息感、手足の震えといった発作が起こり、そして発作が繰り返されることで、発作に襲われることに対する不安を感じるようになり、毎日の生活に支障をきたすようになってしまう症状です。本記事はあくまで筆者の体験談であり、症状を説明したり、医学的・科学的な根拠を保証したりするものではありません。
2020年11月16日前回 のあらすじ パニックの発作と闘う決心をして、心療内科でもらった薬で治療がスタートしたけれど‥パニック障害の原因はストレスや遺伝が関係していて、環境の変化、離別、孤独、虐待などなどのストレスで発症することが多いようです。脳内の不安の神経系の機能が関係しているので、脳の誤作動のようなのですが、これが!というハッキリとした原因もまだ分かってないようで、発症の原因はいろいろあるようです。私の場合は、やはり結婚による環境の変化と、東日本大震災、しっかりしないとと自らを追い込んだことが原因かなと思っています。色々なものが重なって大きなストレスを爆発させてしまったんでしょうね…。優しさのつもりで励ましてくれた夫のタマオくん。しかし私はその言葉に固まった…結婚前にタマオくんが発言したセリフをずっと気にしていて、結婚後は無職になるししばらくタマオくんのおうちでやっかいになるわけだし、これはタマオくんが否定していた専業主婦だ…!働かない後ろめたさもあって、その結果引っ越してすぐに仕事を探すという行動に移りました。子どもがいないのに働いてない、今の私は何の為にいるんだろう…この時は相当ネガティブになっていました。タマオくんは別に専業主婦批判をしていたわけではなく「子どもがいない間は働いた方がお金は貯まるし、何もしないともったいない」という意見を言っただけとのことで…それを私が「タマオくんは働かない女は嫌いなんだ…」と勝手に思い込んでしまったのでした。新婚当時はタマオくんに嫌われたくない&タマオくんに好かれたい! と思っていたため、頑張りすぎていたようです。(もちろん今はそんな気取らない、ゆるゆるの夫婦関係です笑)1人で知らない土地に来た寂しさを、忙しくすることで紛らわしていたのもあると思います。すぐに仕事をしたので会社で同僚はできたのですが、プライベートで遊ぶ友達はいないため結婚後は毎日孤独を感じていました。もちろんタマオくんは夫として側にいてくれますが、地元の友達のように気楽に遊べる友達が欲しい…いつもそれは思っていました。改めてお互いの悩みや思っていることをしっかり話し合うことが大事だなと痛感しました…すぐ暴走してタマオくんに相談する前になんでも行動に移してしまう癖も治そうと思いました。もちろん私がパニック障害になってしまった原因は特定できません。しかしもうなってしまっては後の祭り。過去の原因を探しても仕方ないので、あとは治るまで闘うべし!次回はまた病院でのお話です。女神先生にずっと考えていたアレを伝えることにしました…。次回に続く『パニック障害とは』理由もなく、動悸やめまい、発汗、窒息感、手足の震えといった発作が起こり、そして発作が繰り返されることで、発作に襲われることに対する不安を感じるようになり、毎日の生活に支障をきたすようになってしまう症状です。本記事はあくまで筆者の体験談であり、症状を説明したり、医学的・科学的な根拠を保証したりするものではありません。
2020年11月15日前回 のあらすじついにパニック障害と診断された日のこと…いよいよ心療内科での治療がスタート!!主治医の女神先生から2つのお薬を提案されました。※この物語に登場する薬名は架空のものとなります。症状、処方薬は個人差があります。かかりつけ医にご相談くださいこれまで精神系の病気を経験したことがなかったので、抗うつ薬というのも、抗不安薬というのも初めて聞くものでした。以前の健康な時の私だったらこういった薬には偏見があり、飲むのをためらっていたかと思います…。しかしもう体も精神もギリギリの状態になっていたので、お薬が私を助けてくれる唯一の救世主のように感じ、頼もしい限りでした。これを飲めばきっと助かる…。これですぐに元の生活に戻れるんだ…。そう思っていました。来るときにパニック発作を起こしたこともあり、オサカナパワーをその場で飲むように言われました。本当に不安が取れるのかな…?と疑問に思いつつ、口にほおりこみました。抗うつ薬のマタタビーはゆっくり効果が現れてくるお薬なので、二週間毎日1錠を飲んで様子を見るようです。待合室で何時間も待っていてくれたタマオくん…本当にありがとう…!やはりパニック障害だったよ、と伝えてほっとしたような、少し悲しいようなそんな感じで二人で帰ろうとしました。すると…車に乗ろうとすると、急に視界がぐるんと回るような、ほわほわっとした感覚に…!!頭の中がほわほわクラクラっとするけど、決して気分が悪いわけでもない…でもなんだろうコレ!?さっきの頓服の影響なんだろうけど、こんな感じで大丈夫なの…??初めての感覚に急に不安になってしまいました。もちろんそれは先ほどの頓服オサカナパワーの効果だったのですが、初めて体験したものでつい焦ってしまいました。このほわほわっとした感じで不安を感じにくくなり、発作が出そうなときに飲むと効果があると言われました。ちなみにこのオサカナパワーは抗不安薬の中で相当弱い分類にあたるようで、弱いものなのにこの体感…!他のものはどれくらい効果があるのだろう…とふと気になってしまいました。私はお酒が飲めない体質で、お酒に楽しく酔う感覚は分かりませんが、気持ちよく酔っぱらったらこんな感じなのかな…?と思いました。個人差があるようですが、初めての抗不安薬を飲んだ私の感覚です。いやもう、当時の私からしたらパニックの発作はもう妖怪!何か見えないモンスターに血液を吸い取られて、殺されるのではないかというイメージでした。もちろん体験をしていないタマオくんからしたら「急に訪れる体調不良」ということで納得してもらいましたが、このモンスターに襲われる恐怖は体験した人しか分からないと思います…。とにかくあいつが来る…!と思うと怖くてたまりません…。でもこれだけ遠回りしてやっとたどり着いたパニック障害との闘い!頑張って討伐しようという目的ができて、少し前向きになりました。当時20代後半で新婚だった私。そして今から精神薬という薬を飲み始める私。自分なりに色々考えて、また女神先生に相談しようと心に決めました。次回に続く『パニック障害とは』理由もなく、動悸やめまい、発汗、窒息感、手足の震えといった発作が起こり、そして発作が繰り返されることで、発作に襲われることに対する不安を感じるようになり、毎日の生活に支障をきたすようになってしまう症状です。本記事はあくまで筆者の体験談であり、症状を説明したり、医学的・科学的な根拠を保証したりするものではありません。
2020年11月14日■前回のあらすじ無事に手術が終了し、一安心。夜はゆっくり眠れるかと思いきや、突然吐き気で目が覚め…■吐き気が止まらない…なんとか眠れるようにはなったけれど、気持ち悪さはおさまらず…この辛さはしばらく続きます…。■悪心が続く中、放射線治療へ夫は出張が多い仕事なので、私の入院中は両方の母たちと予定を合わせて、出張を組んでいました。なので、私の退院が伸びたりするときっと迷惑をかけると思い、気合で治療へ向かいました。毎回助けてくれる看護師さんたちには本当に感謝です!次回に続きます。※この記事に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。気になる症状がある場合は医師にご相談ください。 【同じテーマの連載はこちら】 女性のがんとお金の話 この連載の全話を見る >> パニックにゃんこ この連載の全話を見る >> 長男の川崎病と職場の板挟みで大変だった話 この連載の全話を見る >>
2020年11月12日■前回のあらすじ新米先生に一抹の不安を覚えながら手術台に寝ると、ついに動脈に注射が打たれます。すると、あまりの痛さに衝撃が走ります…!■手術は順調に進み…先生によって、カテーテルを通すのにも上手い下手があることがわかりました。最初の腕の注射を乗り切ったらあとは痛くありませんでした!無事に終わって一安心!■安心して眠れる…そう思っていたが…!夫と義父にも無事に終わった報告をすることができ、美味しい夕飯も食べて安心して眠れる…そう思っていたのに、まさか急にこんなに気持ち悪くなるとは思いもせず…次回に続きます。※この記事に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。気になる症状がある場合は医師にご相談ください。 【同じテーマの連載はこちら】 女性のがんとお金の話 この連載の全話を見る >> パニックにゃんこ この連載の全話を見る >> 長男の川崎病と職場の板挟みで大変だった話 この連載の全話を見る >>
2020年11月11日■前回のあらすじ義両親が泊まりがけで子どもたちのお世話や私の手術の付き添いに来てくれました。いよいよ抗がん剤動脈注射の手術が始まります…!■執刀医は新米の先生!?…不安を少しでも取り除けるようにリラックスさせてくれる看護師さんたち。でも…どんな先生も最初は新米ということは理解しているのですが、自分の担当となるとやはり不安になってしまうのが患者心…■あまりの痛みに恐怖感が募る!ただでさえ痛いのに、追い打ちをかけるような他の先生の声かけ…「体重かけて!」には思わず「まだやるの!?」とツッコミ入れたくなりました…。次回に続きます。※この記事に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。気になる症状がある場合は医師にご相談ください。 【同じテーマの連載はこちら】 女性のがんとお金の話 この連載の全話を見る >> パニックにゃんこ この連載の全話を見る >> 長男の川崎病と職場の板挟みで大変だった話 この連載の全話を見る >>
2020年11月10日2020年11月8日、お笑いタレントのだいたひかるさんが自身のブログを更新。その内容に共感の声が集まっています。だいたひかる、闘病中に傷つく言葉…「一拍おいて考えて」だいたさんは2016年に乳がんを発症し、右の乳房を摘出する手術を受けるも、2019年に再発。その後、闘病を続けてきました。しかし、現在は「夫の子供がほしい」という強い想いから、乳がんの治療をいったん中断し、不妊治療に挑むことを決断しています。「いい言葉だけ栄養剤にして」だいたひかるの言葉に共感だいたさんはこの日のブログで、がんと闘病中の読者の声を紹介。それは「治療のための薬や注射で、すごく太りやすくなった。ガンを患って、『太ったね』『やせたね』はいってはいけない言葉だと改めて感じました」というメッセージでした。だいたさんは、「確かに、太った、やせたは簡単にいってはいけない」と共感しています。確かに太った痩せたは、簡単に言ってはいけないですよね。ストレスがたまって太ったのかも!?抗がん剤や薬で痩せたのか太ったのかも!?私自身も抗がん剤中に、太りましたし浮腫みましたし…何か色が黒くなりました簡単に思ったままを言う人っていますが、一拍おいて考えて…察してくれよと思いますよね!?人の変化をいじるなら、痩せて綺麗になったね!だけOKだと私も思います!!だいたひかるオフィシャルブログーより引用また、「『疲れてる?』という言葉も地味にイヤ」ともつづりました。だいたさんは「つまり、顔が死んでるってこと!?」と思うのだとか。表情だけを見て「疲労がたまっている」と指摘されるのは、確かに嬉しい言葉ではありませんね。だいたさんは、デリカシーのない言葉に対して、「いい言葉だけを栄養剤として、日々を楽しみましょう」と語っています。太ろうが痩せようが、変わらずに接してくれる人をより大切に!振り回される、心乱される言葉もあるかもしれないですが…治療を頑張っている時は、見てくれが多少変わっても…命にはかえられないと思いますのでお互いに言葉に振り回されずに、良い言葉だけ栄養剤として日々楽しみましょうねだいたひかるオフィシャルブログーより引用だいたさんの言葉に、読者からはさまざまな声が寄せられました。・私もガンを患って、「太ったね」といわれることが嫌でした。ほかにも「人にいってはいけないな」と思う言葉をたくさん学びました。私自身も言葉に気を付けたい。・闘病中の人に対して、悪気なく心配してそういう言葉をかけてしまう気持ちは分かります。でも、容姿についていわれるとグサッとくるんです。・知人に「やせてるね」とほめていたのですが、「実は太れなくて、やせてるといわれるのが嫌なんです」といわれたことがあります。何が嬉しい言葉なのかは、人によって違うんだなと思いました。体型や容姿は人それぞれで、その事情も人によって異なります。善意の言葉であっても容姿について発言する時には、十分に相手の気持ちを考えたいものですね。[文・構成/grape編集部]
2020年11月10日日本人の夫と日本で暮らしているアメリカ人のアイシャさん。実は32歳の時に乳がん(ステージ1)の診断を受けました。現在は完治しているそうですが、実際に闘病経験のあるアイシャさんがいつもは英会話を中心に配信しているYouTubeチャンネル『バイリンガルベイビーBilingual Baby』で当時のことを赤裸々に語っています。ピンクリボン月間である10月に、より多くの方に乳がんについて啓蒙をするため、ピンクのものを身に着け、今回のような活動を行っているそう。アイシャさんが乳がんを発見したきっかけは、毎年行う一般的な健康診断だったそう。検査をして、腫瘍が見つかり、悪性の可能性は低かったものの、夫のタカさんの後押しもあり、精密検査を行うことに。不安はありつつも、結果を聞きに病院へ行った2人に、「結果はよくなかった」とお医者さんが伝えます。その後は「今だからこそ語れることなんだろうな」と感じてしまう内容。そこから、2人の戦いが始まります。「人生で一番辛かった」と語るアイシャさん。さまざまな症状も現れ、身体的にきつかったのに加え、精神的な不安から夫婦の危機もあったそうです。お互いのことを気遣いながら、当時の事を話す2人の様子に聞き入ってしまいます。手術の2週間後に完治といわれたアイシャさん。その時の話がとても感動です。ぜひ動画をご覧ください。今でも、定期的に検査を受けているアイシャさん。早期に発見することがとても大切だと語っています。早期発見検診の重要性を改めて感じさせられます。[文/AnyMama(エニママ)・構成/grape編集部]
2020年10月29日前回 のあらすじ動悸とめまいがあまりにも酷くて、立ち上がる事すら困難に。もう助けてくれるのは心療内科しかないだろう…私だけではなく、健康な時は自分は大丈夫だという楽観的な考えが誰にでもあるのかもしれません。当時こころの病気といえば、うつ病の名前ぐらいしか知りませんでした。が、「自分はそういうタイプ=こころの病気になるタイプ」ではないと思っていて、症状が出ても、メンタルクリニック系の病院へ行くことに抵抗がありました。当時はこころの病気に理解がなかったのです。今はそんな偏見があったことをとても恥ずかしく思っています。この2週間の間、外出のための準備をしていたのですが、やはり当日は怖くて恐怖でつぶれそうでした。車で横たわり、外が見えないようにして祈りながら移動しました。病院も病院らしくない内装で、受診されている人たちも普通でした。(独り言を言っていたり、暴れたりするような人も来ているのかと偏見がありました…すみません…)また血の気が引きましたが、予約時間は気にせず休んでていいという言葉に救われました。問診の量が多くて本当に驚きました。病歴や、何故この病院にしたのか? そして性格判断テストのようなものがありました。選択肢も「はい」「どちらかというとそうである」「わからない」「どちらかというと違う」「いいえ」など細かかったです。そしていよいよ初めての心療内科の診察…!どんな感じなのか、何を聞かれるのか、そしてどんな病名がつくのか…ドキドキしながらドアを開けました。第一印象から本当に優しそうで癒される雰囲気を出していました。(以下、「女神先生」と呼ぶことにします(笑))女神先生がとても感じの良い先生だったので、気を張ることも無く穏やかに話すことができました。そしてついに診断が…ついに私は「パニック障害」と診断されました。頑張ってきた自分、どうしようもない日々、外へ出られなくなってしまった恐怖今までの辛かった日々が押し寄せるように頭にかけめぐり、泣いてしまいました。原因が分かって本当に良かった…これできっと治ることができるんだ…!しかし…ここからパニック障害との長い長い闘いが始まるとは、この時は全く想像してませんでした……次回に続く『パニック障害とは』理由もなく、動悸やめまい、発汗、窒息感、手足の震えといった発作が起こり、そして発作が繰り返されることで、発作に襲われることに対する不安を感じるようになり、毎日の生活に支障をきたすようになってしまう症状です。本記事はあくまで筆者の体験談であり、症状を説明したり、医学的・科学的な根拠を保証したりするものではありません。
2020年09月20日前回 のあらすじ何度も繰り返す不安と震えなどの体調不良。ついに大好きだった仕事も辞めることになり…体調不良で泣く泣く会社を辞めたのですが、荷物を取りに行くことに。この頃は出かける度に謎の動悸や震えに襲われるので、この時は外出がとても怖くて不安でした…化粧や着替えをしていつでも出れる状態になっても、家を出るまでにしばらくウダウダ悩んでましたが「今なら行ける!!」と気合で外に出たのですが…やはりだめでした…!バスに乗って椅子に座って1分も経たなかったと思います…。とにかくバスから降りたい! と途中下車したいくらいになったのですが…次の停留所で降ろしてもらいました。しばらく哀しい気持ちでベンチに座って休んでいましたが、バスから降りたら気分が悪いのもすぐ良くなりまた歩いて家に帰りました。この辺で「乗り物が特にダメなんだ」と完全に自覚していました。バスで10分くらいの場所にある会社に行って、荷物を取りに行き、お世話になった人たちに挨拶をする。たったそれだけの事がどうしてできないのだろう…と。最後の挨拶もろくに出来ない自分に心底落ち込みました。動悸とめまいがあまりにも酷くて立ち上がる事すら困難になりました…布団から出られず一日中横たわっていました。ご飯や飲み物はタマオくんが買ってきてくれて布団の横に置いていましたが、ほとんど食欲もなく食べることができませんでした。静かな部屋の中…心臓の動悸のせいで体が揺れるのを感じるくらいでした。もう助けてくれるのはきっと心療内科しかないだろう…ここまでになってようやく決意ができました数日寝込んでようやく少し動けるようになってきたので病院を探しました。予約の電話をかけることも大変で…驚きました。人と話すのは大好きなので、電話も好きでしたがそれすら怖くて震えるなんて…本当に不思議で仕方ありません。予約が取りにくいということはそれだけ他の人も不調を抱えているということ。勝手な仲間意識が芽生え、少しだけ勇気をもらいました。そう…!今現在乗り物怖い、外出怖い、体も動かないという状況でどう行けるのか…!2週間後に向けてどうにかしないと…と思い、また頑張ろうと思いました。じわじわ時間をかけて外出はできるようになりましたが、本当に近所数分の場所をウロウロするだけというレベル。本当に何もできない…この世は恐怖に満ちているこの時の私は、魔の森でずっと震えている何もできない子どものようでした…とにかく私の世界は一変してしまいました。次回に続く『パニック障害とは』理由もなく、動悸やめまい、発汗、窒息感、手足の震えといった発作が起こり、そして発作が繰り返されることで、発作に襲われることに対する不安を感じるようになり、毎日の生活に支障をきたすようになってしまう症状です。本記事はあくまで筆者の体験談であり、症状を説明したり、医学的・科学的な根拠を保証したりするものではありません。
2020年09月19日前回 のあらすじ結婚式当日に血の気が引いてフラフラに。ほとんど記憶にないまま結婚式を終えたけど…出かける度に何度も繰り返す不安と震えなどの体調不良。この頃は明らかに自分の体がおかしいのは自覚していました。ただ動悸や震え、血の気が引くなどの症状で検索してもたくさんの病気がヒットします。何の病気か分からないので、何科の病院に行けばいいのかすらも分かりませんでした。ここでパニック障害も候補に上がったのですが、パニック症状の代表の症状とされる「死んでしまうのではないかと思う強い恐れ」が私には感じられなかったのです。まだハネムーンの事は諦められず、体調の事を考えて国内(沖縄)にする予定にしました。本やカタログなどを見て沖縄への夢を膨らましていきました。しかしまた会社のトイレで…普通にトイレに入っていただけなのにまた急に血の気が引く感覚!!慌ててトイレから出て、廊下で倒れ込んだところにちょうど同僚の方がいたので助けを求めました。もちろん会社内では私が倒れたということで、みんなが注目。しばらく休憩室で休むことになりました。この時ずっと肩を支えて心配してくれた上司や同僚の方…本当に感謝しております…「このまま病院で診てもらった方がいい」と言われ、仕事を抜けて病院へ行くことに。今までお腹の不調と言われていたので、胃腸内科を選びました。今思えば、ここで胃腸内科を選択したのも間違っていたのですが…「運動不足」が原因ではないかとのことで、良くなるまでこの病院に通う事にしました。その結果、更にパニック障害への診断が遅れることになりましたが、ここの病院で、バリウム検査や胃カメラ、心臓など他の内臓に問題がないか検査ができたのでそこは良かったと思います。さっそくこの日からタマオくんを巻き込んで足腰を鍛えるためにウォーキングをすることに!症状を早く治したいがために焦って運動をしました。ただこれも無理をして自分に負担をかけてしまい…もう出かける度、会社に行く度この症状が現れるようになりました。この時点で外に出ることが怖くなっていました。もちろんウォーキングどころではないので、運動も全て終了…もう会社に行きたいのに行けない状態、会社を休む罪悪感、病気への不安…どうにもならない状態にシクシク泣きました…私がしていた業務は他に担当している人がいないので、職場に迷惑をかけていました。残念でしたが急いで引継ぎを探してもらい会社を辞めました。自分の好きな仕事ができて、人間関係も良く、大好きな職場だったのにこんな終わりを迎えるなんて…本当に辛い選択でした。次回に続く『パニック障害とは』理由もなく、動悸やめまい、発汗、窒息感、手足の震えといった発作が起こり、そして発作が繰り返されることで、発作に襲われることに対する不安を感じるようになり、毎日の生活に支障をきたすようになってしまう症状です。本記事はあくまで筆者の体験談であり、症状を説明したり、医学的・科学的な根拠を保証したりするものではありません。
2020年09月18日前回 のあらすじタマオくんの付き添いで病院へ。急いでタクシーに乗り込んでドアを閉めた瞬間!背筋が凍るような感覚に…ついに結婚式の日がやってきました(少し前に入籍済)結婚式は現在住んでいる場所ではなく、東京でやるため前日にちょっとお高めの良いホテルを予約。しかし親への手紙やビデオ製作が前日まで終わらずずっとホテルで作業をしました。折角の良いホテルを味わうこともなく、睡眠時間は2時間で当日を迎えるのでした…。それでも結婚式という高揚感で睡眠不足でも元気に式場へ。私のドレスアップやメイクがあるので私が先に式場へ入りました。え…また例のアレが…!?ドレスのリボンが苦しかったのか、それが引き金になったようで一気に血の気が引きました。あの新幹線と夜間病院で起きたのと同じような感覚と震えに襲われたのです!まさかこんな大事な日にーーーーーーーーーー!タマオくんに、支配人の方が状況を説明。本来なら少しだけバージンロードの歩き方などリハーサルをやる予定だったのですが、私は参加せずその間に横になることにしました…何でこんな時に…一生一度の晴れ舞台なのに…今までずっと準備で頑張ってきたのに…トイレで往復しながら頭の中は「今日はどうなるんだろう…」という不安でパニックでした。気分が悪い中でも頭の中は意外と冷静で、中止になったらお金は返ってこないことや招待した人たちのことなどを必死に考えていました。お医者さんを呼ぶのも…ということで、式場の方に下痢止めをもらいました。おかげで少し腹痛が収まったので立てるかどうかチャレンジ。ここで頑張らなければ全てが水の泡…。頑張れ私…!!自分に気合を入れポン子出動!!それでも結構グラグラしてましたが、「倒れるな倒れるな」と頭にずっと念じて教会まで向かいました。とにかく周りのスタッフやタマオくんが励ましてくれたのを覚えています一番楽しみにしていた教会はぼんやりとしか記憶にありません…。正直頭の中では「早く終われ…!」とばかり祈っていたような気がします。もちろん招待客たちはそんなことは全く知らなかったので、あの時私は必死に体内の自分と戦っていたことを後から聞いてびっくりしていました。この日は大女優になれたようです。結婚式をやったことについて後悔は全くないのですが、この時にパニック障害とわかっていたら回避できたのかなあ…と思うと少し悲しくなります。こうして、私の人生の一大イベントは終わったのです…次回に続く『パニック障害とは』理由もなく、動悸やめまい、発汗、窒息感、手足の震えといった発作が起こり、そして発作が繰り返されることで、発作に襲われることに対する不安を感じるようになり、毎日の生活に支障をきたすようになってしまう症状です。本記事はあくまで筆者の体験談であり、症状を説明したり、医学的・科学的な根拠を保証したりするものではありません。
2020年08月09日前回 のあらすじ新幹線を降りてからは激しい便意で歩くのも大変…駆け込んだ病院での診断はなんと…普段健康体で風邪すらほどんとひいたことがないタマオくんが夜突然の腹痛を訴え、タマオくんが苦しんでるということで私は大慌てで病院へ急いでタクシーを呼び私も乗り込んでドアを閉めました。しかし…ドアを閉めた瞬間一瞬背筋が凍るような感覚に…え? 新幹線でのあの悪夢が再び?!と一瞬焦りましたが、その悪寒もすぐ消えてくれたので気のせいだろうとホッとしました。実は心の奥底で「車降りたい…」と思ったのですが、悪寒が消えてくれたのでそのまま出発しました。しかし今考えるとやはり降りておけば…とタマオくんの点滴待ちの時にそれは起こりました…不思議なことにひたすら手足だけがガタガタ震え出したのです!この時の体調も気分も特に問題はありません。ただただ意味が分からずしばらく我慢していましたが、収まる様子もなく段々怖くなってきました…私今病院にいるよね…?ということで私も診てもらおう!体の震えをみているうちに「また帰りのタクシーで同じことが起きるんじゃないか?」という不安でいっぱいになりました。その不安も伝えたら、お医者さんは何か察したのか気分を落ち着かせる薬を打ってくれました。この時は何の薬かさっぱり分かりませんでしたが、薬の名前は憶えていたので今思うと、あれは精神安定剤だったんだ…と分かりますそしてついに心療内科の一言が私の耳に入りました。そう…この時のお医者さんは私の問診で「あ、これパニックだな」と感づいたので安定剤も打ったのだと思うし、とても良いお医者さんだったと思います。しかし…当時はまさか自分が…と、心療内科は自分には全く関係のないものだと思っていました。早めに行動して心療内科にも行っていれば…と今考えれば後悔もありますが、その時これだけの症状では検討すらもできませんでした。これから何度も同じような目に合って、ようやく心療内科への門を叩くことになりますが、それはもう少し先の話…次回に続く『パニック障害とは』理由もなく、動悸やめまい、発汗、窒息感、手足の震えといった発作が起こり、そして発作が繰り返されることで、発作に襲われることに対する不安を感じるようになり、毎日の生活に支障をきたすようになってしまう症状です。本記事はあくまで筆者の体験談であり、症状を説明したり、医学的・科学的な根拠を保証したりするものではありません。
2020年08月08日前回 のあらすじ地元から帰る新幹線で初めての発作を経験…新幹線の中の唐突な体調不良…1時間ほどしてやっと駅に着きました。たった1時間だったのですが、血の気が引いたり、激しい腹痛とたたかう1時間はとても長い時間に感じました…。降りる時は乗務員さんの「大丈夫ですか?」の心配してくれる一言がとても嬉しかったです。(ベッドを貸してくれたり、色々大騒ぎしたりとご迷惑をかけましたが、本当に感謝しかありません)そして連絡してあったタマオ君に迎えに来てもらうことに。早く家に帰りたい…そう思っていたのですが、歩く度に訪れる便意にはとてもじゃないけど勝てる気がせず…。このままでは無理だと判断して夜間やっている病院に連絡をして診てもらうことになりました。新幹線の中であれだけ出したのに…何故何度も腹痛と便意が訪れるのか…この時はさっぱり分かりませんでした診断は食あたり!確かにお腹が痛いときは血の気も下がることも今まであったし、きっとさっき飲み会で食べたものが悪かったんだ! 私はお酒が飲めないからその代わりに色々食べてたしな~。うんうん!なるほど!とこの時は食あたりと言う診断をまるっと信じてしまいました。初めての症状で、腹痛、下痢、血の気が引くとだけ伝えたら、そう診断されても仕方ないと思います。パニック障害の場合、初めての診断でパニック症状を疑われることは少ないかと思います。体は健康なのに、何度も何度も原因不明の症状を繰り返すことでやっと何かおかしい…? と病院に行って診断となる…というパターンが多いようです。この日帰宅したのは2時過ぎに…帰る頃には症状も落ち着いてきたのですが、心からどっぷりと疲れた日になりましたそして…休みが取りにくい会社だと思っていたので、ハネムーンは諦めていたのですが「大丈夫」と聞いて、すっかり浮かれる私。一度でいいからハワイに行ってみたい! と思い、ハワイへの夢がどんどん膨らみました。旅行記の本を買ったり、どこの旅行会社でお願いしようかなど、考えている間がワクワクして楽しかったです。しかし、そんなある日…なんと今度はタマオくんが体調を壊してしまいました…!!次回に続く『パニック障害とは』理由もなく、動悸やめまい、発汗、窒息感、手足の震えといった発作が起こり、そして発作が繰り返されることで、発作に襲われることに対する不安を感じるようになり、毎日の生活に支障をきたすようになってしまう症状です。本記事はあくまで筆者の体験談であり、症状を説明したり、医学的・科学的な根拠を保証したりするものではありません。
2020年08月07日前回 のあらすじ新しい生活がはじまり、体やココロの疲れがたまっていたところに、2011年のあの震災が起こって…新しい仕事は、内容も同僚も私には相性ピッタリでした。体力の無い私が週5のフルタイムなどできるのだろうか…と働く前は不安だったのですが、居心地の良い職場のおかげで毎日楽しく過ごせました。そして少しして地元の友達から改めて「結婚のお祝い飲みがしたい!」と言われ1カ月ぶりに地元へ。久々の友達とは恋愛話やオタ話で盛り上がり、やはり地元の昔からの友達は改めて大事だな…としみじみ…。楽しい時間はあっという間に過ぎていきました。この日は一泊しようかどうか迷ったのですが、日帰りで帰ることに決めていました。「遠いと思ったけど新幹線なら、カバン一つで簡単に帰れるじゃーん!」と、遠方に引っ越した距離感を実感したくなかった…というのもあるのかなと今では思います。しかし、この後「やはり泊まれば良かった…」と大きく後悔することに…座席に座って一息入れた直後、急に訪れた血の気が引く感覚!! 頭の中の血の気は全て下がり、身体が揺れるくらいの動機と震え。この時は「貧血だ!」と思いました。普通の体調不良なら、座席をフラットにしてそのまま寝ていればいいと思うのですが、この時は「誰か助けて!誰か何とかしてほしい!」という気持ちでした。とにかく誰でもいいので助けて欲しいと思い、近くにいた駅員さんに助けを求めました。そしてすぐに駅員さんの仮眠室のような場所を貸していただけたのですが…今思うととっても迷惑だっただろうなと思いますが、この時の私は周りを気遣う余裕は全く持てなかったのです…この時寒気と共に、腹痛と下痢にも襲われました。出すものは出し切っても、お腹だけが痛みトイレへ…。横になっていれば収まるかと思ったのが、横になっていても全く収まる気配がありませんでした。腹痛と寒気…降りたくても降りられない新幹線の中。まさに地獄の道中でした…この日のできごとが、これから先も私を苦しめるパニック障害の始まりだとはこの時の私は知る由もありませんでした…。次回に続く『パニック障害とは』理由もなく、動悸やめまい、発汗、窒息感、手足の震えといった発作が起こり、そして発作が繰り返されることで、発作に襲われることに対する不安を感じるようになり、毎日の生活に支障をきたすようになってしまう症状です。本記事はあくまで筆者の体験談であり、症状を説明したり、医学的・科学的な根拠を保証したりするものではありません。
2020年07月09日前回 のあらすじ結婚のため、住み慣れた地を離れて新しい生活…さぁこれからという時にパニック障害を発症…!今振り返ると、全てを捨てて彼の家に転がり込んだ私には何もないと思い込んでいました。仕事もしてなければまだ籍を入れてなかったので、妻でもない…何かしないと、何か自分のできることを…と当時の私は見えない何かに「焦っていた」きっとそうだったんだろうな…と思いますそして、タイミングよく元々好きだったデザイン関係の職に就くことにできました。朝9時出社、18時退社週5勤務のフルタイムの毎日がスタートしましたタマオくんは私より遅い帰宅なので、夜のご飯は私の担当。フルタイムの仕事と家事、そして結婚式の準備。体はクッタクタでしたが、「忙しい自分は充実しているんだろう」と思い込んでいて…体やココロの疲れに…気がつけませんでした。そして…私が住んでいたタマオくんのおうちは福島県の隣の栃木県。そこまで被害は酷くなかったのは幸運でしたが…毎日のように続く余震原発への不安このことがパニック障害のきっかけになったとは言い切れませんが、日本中が不安になったあの大災害を体験したことで、精神的に大きなダメージを負ったのは事実だと思います。そして例の初めてのパニック発作の日が近づいてきます…次回に続く『パニック障害とは』理由もなく、動悸やめまい、発汗、窒息感、手足の震えといった発作が起こり、そして発作が繰り返されることで、発作に襲われることに対する不安を感じるようになり、毎日の生活に支障をきたすようになってしまう症状です。本記事はあくまで筆者の体験談であり、症状を説明したり、医学的・科学的な根拠を保証したりするものではありません。
2020年07月08日はじめまして!現在7歳と2歳の子を持つ2児の母です。猫のポン子を主人公として、私の壮絶だったパニック障害のお話を描かせていただきます。時はさかのぼり、10年前…当時の彼氏(現旦那)のタマオくんとは訳あって、100キロほど離れた距離での遠距離恋愛でのお付き合いでした。付き合っている当時は、休日にタマオくんが私の家にくる形が多かったです。当時薄給だった私に気を使っていたからでしょう(移動は新幹線で交通費が高かった…)そんな生活を1年くらい続けたのち、結婚へ。正社員でもなかった私は、仕事を辞めあっさりと彼について行くことができました。タマオくんとの結婚に浮かれ、全てを捨てて住み慣れた地を離れるという事がどんなことか、この時の私は深く考えていなかったのだと思います…そして…初めてのパニック障害の発作が起こりました。次回に続きます漫画を通じてパニック障害とはどんな病気かを知ってもらえたらと思います!『パニック障害とは』理由もなく、動悸やめまい、発汗、窒息感、手足の震えといった発作が起こり、そして発作が繰り返されることで、発作に襲われることに対する不安を感じるようになり、毎日の生活に支障をきたすようになってしまう症状です。本記事はあくまで筆者の体験談であり、症状を説明したり、医学的・科学的な根拠を保証したりするものではありません。
2020年07月07日悪性リンパ腫で闘病中の元フジテレビの笠井信輔アナウンサーが23日、自身のインスタグラムを更新。同日、新型コロナウイルスによる肺炎のため亡くなった女優の岡江久美子さんを追悼した。笠井アナは「岡江久美子さんが…コロナウイルスで亡くなられたなんて。信じられません」と書き出し、「お会いする時はいつも笑顔でとても明るく、気さくに話しかけてくださいました」と岡江さんとの思い出をつづった。そして、「12月末に乳がんの手術を受けられて、年明けから放射線治療。免疫力の低下が重症化の要因と事務所が発表したようです。がんの種類は違えど、治療時期がほとんど一緒です私も強い抗がん剤治療を受けていますので、免疫力が低いんです。他人事ではありませんとても不安です」と吐露し、「ご冥福をお祈りします」と悼んだ。さらに、「いろんなことがあって明日『とくだね!』に生出演することになりました。よろしくお願い致します」と、あす24日にフジテレビ系情報番組『とくダネ!』(毎週月~金曜8:00~)に出演することを発表した。
2020年04月23日EXILE・TETSUYAの『コーヒー農園旅行記』が、17日からLDH JAPAN公式YouTubeチャンネル「LDH JAPANチャンネル」で公開されている。新型コロナウイルス感染拡大による外出自粛要請が続く中、「ライブを楽しみにしてくださっていたファンの方々、ご家庭で過ごす時間が多くなっている全国の子ども達や保護者の方々をはじめ、全国の皆さまにエンタテインメントの力で少しでも楽しんでもらえる時間を提供し、日々の不安を拭い去ることに貢献できたら」の思いから、過去の映像コンテンツを順次無料配信しているLDH JAPAN。『コーヒー農園旅行記』公開もその一環で、映像ではTETSUYAが2019年3月にコスタリカ共和国を訪れ、長年の夢であったコーヒー農園を視察。自身がプロデュースする「AMAZING COFFEE」で仕入れるコーヒー豆を約70種類から厳選し、それらをテイスティングする模様も収められている。LDH JAPANは今回の公開に合わせ、「しばらく続く“おうち時間”に、少しでも笑顔をお届けできたらと思いますので、順次公開予定の映像を、お楽しみに!」とコメント。TETSUYAもツイッターを通じ、ファンに向けて「わたくしのただの趣味をのぞいてください(笑)」とメッセージを送っている。
2020年04月18日昨年2月に閉店した東京・世田谷のテレビスタジオ・東京メディアシティ(TMC)内のカフェ「今昔庵(こんじゃくあん)」のマスター・福田起弘氏が、がん闘病中であることが分かった。旧店舗の閉店からちょうど1年となるきょう7日に新店舗をオープンする計画だったが、今春を目標に後ろ倒しするという。今昔庵のオーナー・井上博之氏と福田氏は、今昔庵の新天地でのオープン準備を進めていたが、昨年11月、福田氏が膀胱がんであることが判明。同12月に手術を行った。さらに、井上氏も心筋梗塞で倒れ、一時は再建の道を断念せざるを得ないと考えたが、福田氏は手術も成功して回復に向けて治療に励み、井上氏も普段の生活が送れるまで回復したことから、再び再建を決意したという。こうした事情により、きょう7日の新店オープンは間に合わなかったが、井上氏は「現在、止めていた準備を再開し、目標は春ですが、できればオリンピックの前までには、『今昔庵』の復活をお目にかけたいと思っております」としている。
2020年02月07日