完璧な親じゃなくていい。Twitterで人気!上馬キリスト教会“中の人”MAROさんに聞く、世界初の親・アダムとイブの子育て話。
現代の私たちにとって、アダムとイブが不完全であったということは絶望に至る「悲報」ではなく慰めをくれる「朗報」なんです。
このマンガ『アダムとイブの楽園追放されたけど…』はそんな「朗報」を私たちに届けてくれる作品です。私たちは完璧な親にならなくていいし、同時に子どももまた完全な子どもにならなくていいんです。ならなくていいし、そもそもなれないし、むしろなるべきではないんです。「完全でないところにこそ、神の愛と恵みが注がれる」これがキリスト教の教えの一つの根幹です。
このマンガのアダムとイブの奮闘ぶりを読んでいますと、笑いながらも、そのことが、自然と心の中に流れ込んできます。この作品の中で、アダムとイブはとことんまで不完全な親ですし、そして二人から生まれたカインとアベルもまた不完全な子どもです。それはちょうど、欠けた水差しと欠けた器のような関係です。
水差しは欠けのある故に水をこぼしながらも「注ぐ」という自分の仕事を遂げようとするし、器の方もまた欠けのある故に水をこぼしながらも「受ける」という自分の仕事を全うしようとします。
愛を注ぐ者と愛を受ける者。互いが互いの「欠け」を補い合おうとするとき、一つ次元の違う、少し複雑な、そして人間臭い「愛」が生じます。お互いの愛が不完全だからこそ、成立する「愛」もある。そんな「愛」があるから、神様も禁断の実を食べてしまったアダムとイブを赦(ゆる)して恵みを与えましたし、たくさんの罪を日々おかしてしまう「不完全な」私たちのことをも決して見捨てずに赦し、日々の恵みを与えて下さっているのだと思います。
このマンガをクリスチャンの方が読んだら(私もクリスチャンですが)「聖書のことをわかってない!」と怒る方もいるかもしれません。たしかにいくらか聖書についての描写に不正確なところはあります。でも、それでいいんです。
それだからいいんです。このマンガも不完全だからこそ、私たち読み手がその意図を一所懸命に酌み取ろうとしますし、そこに新しい「愛」というか「面白さ」が生じてくるんです。
この作品は「不完全なママ・パパ」をはじめ、すべての「不完全な人たち」に、「不完全な慰め」を与えてくれることでしょう。いいんです、慰めだって不完全で。不完全だからこそ、人間臭くて、味があって、愛すべきものなんですから。
PROFILE
通称マロ、あるいはマロさん。