子育て情報『小学校生活はお遊戯会。誰にも理解されず、浮きこぼれていた私――違和感だらけの子ども時代を振り返って【宇樹義子さん連載開始!】』

2020年3月22日 08:00

小学校生活はお遊戯会。誰にも理解されず、浮きこぼれていた私――違和感だらけの子ども時代を振り返って【宇樹義子さん連載開始!】

プロ以外はプロレスを名乗れないから、レスリングと言いなさい」と指摘しました。

いまの語彙でなら、「子どもは概念としての『あのプロレス』、マスクをつけた悪役がいたりするあのプロレスをやりたいのであって、そこにそういう突っ込みを入れるのは興ざめなだけだ。教師が不必要な指摘で子どもの興を削いでどうする」といった表現になるでしょうか。ただ当時はこのような語彙がなかったので、ひたすらにモヤモヤと腹が立ちました。でもこの状況に歯向かう子は一人もおらず、クラスのボスクラスのやんちゃな男の子さえ「レスリングをやります」と素直に言い直したのです。

よく言われる、「お友達とみんなで楽しく遊びましょう」という表現にも腹が立ったものです。友達とは双方が互いに友達と考えて成り立つもので、単に同級とか同学年とか同年代とかで決まるものではない。遊びは本人のためにあるもので、それが楽しいかどうかも本人にしか決められないはず。
なのに「楽しい遊び」を他人から指示されてするなんて意味がわからない。それに、これはどうも指示とか命令みたいだけど、なぜか「しましょう」の形で言うのは嫌な感じだなあ…… などと私は思っていました。

運動会かなにかの練習で、「ワーと声をあげて、盛り上がった雰囲気でグラウンドに入場しなさい」と先生が指示すれば、子どもたちは「ワー」とカタカナで書けるような平坦な声をあげて入場します。なんだかもう、本当に辟易としました……

学校の授業も易しすぎて、私はよく苛立っていました。私には、みんなが「わからないほうが、答えないほうが人間として上」かのように、我先に「わからない、わからない」と言い、先生から当てられることから逃げているように見えるのです。らちが開かないので私が手を挙げると授業が進む。先生の側も、授業を進めたいときに意識的に私を当てたりして、便利に思っているようでした。

しかし、授業参観のとき、先生がなぜかいつもみたいには私を当ててくれない事態が起きます。
いくら手を挙げても先生は無視してほかの子を当てようとするので、私は意味がわからず混乱し、最終的に怒りながら泣きだして、教室をざわつかせたのでした。

今だったらもちろん、「ほかの子にも華を持たせよう」という先生の意図が理解できます。しかし、「それなら事前にひとこと説明してくれればよかったのに。周囲に対する手前もあってその場では説明しなかったのだろうけど、ちょっとそれは子ども個人の気持ちを軽んじてはいないかな?」

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