場面緘黙がある自閉症息子の受験面接。「きっとうまく話せない」あきらめかけた母が見た姿は
途中言葉に詰まることがあったけれど、短くハキハキと、丁寧に答えていた。

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面接が終わったあとに太郎は「練習で用意していた質問をされなかった」と言ってはいたが、確実に練習の成果があったと感じた。
さっそく、特別支援学級の先生に面接報告の電話をした。太郎がハキハキと大きな声で答えていたことに驚いたと伝えたところ、先生はこう言った。
「太郎くんは長い言葉で返事をしようとすると何を言っているのか自分で分からなくなることが多いので、短い言葉で大きな声で答えるように指導していたんです」
先生の一生懸命さを、面接前は他人事のように感じていた自分を恥ずかしく感じた。
太郎の限界を決めつけていたのかもしれない
私はどこかで太郎の限界を決めつけていた。それは自己防衛でもあるのだと思う。
今まで何度も、予想以上の太郎の限界を見ては心が痛くなっていた。その痛みを予測することで自分自身を守っていたのだと思う。しかし、それは太郎の可能性をあきらめているということにもつながっていると思った。
どうせできないのだから、とか、できないことはしなくてもいい、とか、練習しても意味がない、とか、私はどこかで多様性というものを履き違えていたのだと思った。
特別支援学級の先生が太郎を思う一生懸命さは、社会に出るにあたっての当然の努力を教えてくださっているようにも思えた。
不登校、ひきこもり、人見知り、場面緘黙、苦手なこと、嫌いなこと、いろいろな特性や感情、状況が人それぞれあるのだけれど……それぞれ環境は違うけれど、各々の社会というものに出る日がいつかくると思う。
今回の出来事は努力をするということの大切さにやっと向き合えたように思えた。
執筆/まゆん
(監修:初川先生より)
太郎くんの通信制高校入学のための面接のエピソードをありがとうございます。
太郎くん、よく頑張りましたね。太郎くんなりの努力、そして特別支援学級の担任の先生の熱意をもちろん感じますが、それらが一致した受験前の2日間だったんだろうと感じました。太郎くんは特性としてもおそらく1つずつ物事に対処するのが得意だという面も今回に通底しているようにも感じました。体育祭という心が最高にざわつくものが通り過ぎるのを待ち、そして、先生とあらかじめ約束していた「体育祭が終わったら面接練習」をしっかり守る律儀さもあるのだろうと思います。