くらし情報『【沖縄本土復帰50年】「米兵にスーツは作らなかった」“仕立て屋親子”が経営難を脱し続けたワケ』

2022年5月14日 21:00

【沖縄本土復帰50年】「米兵にスーツは作らなかった」“仕立て屋親子”が経営難を脱し続けたワケ

目次

・戦後のスーツは高級品だった
・スーツは飛ぶように売れるも経営難
・「かりゆしウェア」台頭による危機
【沖縄本土復帰50年】「米兵にスーツは作らなかった」“仕立て屋親子”が経営難を脱し続けたワケ
沖縄市より移転した那覇市田原の本店(写真/藤井千加)
沖縄県がアメリカから日本に返還されたのは1972年5月15日、ちょうど50年前のこと─。

戦後のスーツは高級品だった

その本土復帰に伴い、大きな変化を遂げたアイテムのひとつに男性たちの『背広』がある。

「戦後の沖縄県は貧しく、スーツを着て出かける場所や仕事も限られており、高級品でした。そのため、復帰前の仕立て屋(テーラー)の主な顧客は駐留するアメリカの兵隊でした」

そう説明するのは同県那覇市田原でオーダースーツの仕立て屋を営む『フェローズ』の佐久本要さん(50)。

「『佐久本洋服店』という屋号で父の進(2000年逝去)がコザ市(現在の沖縄市)に店を構えたのが始まりです」(佐久本さん、以下同)

復帰10年前の1962年は、ベトナム戦争が激しさを増していたころだった。

「今よりもアメリカ兵の数は多く、うちの店の辺りはいわゆる『黒人街』でした」

その当時、アメリカ本国で人種差別は根強く、沖縄でも『白人』と『黒人』は区別され、利用できる飲食店や商店も分けられていたのだ。

進さんの店があった銀天街(沖縄市照屋)周辺には49軒の仕立て屋があった。

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