2021年3月11日 06:00
3.11から10年。生島ヒロシ振り返る母の遺骨と妹を津波に奪われた日
機会あるごとにつらい思い出にも触れながら、あの日のことを発信し続けてきた。そこにあったのは、あの日、起きたことを決して風化させまいとする放送人としての矜持、そして、故郷・気仙沼への強い思いだった。
■火の手が上がる気仙沼を見て血の気が引いて、全身が震えた
2011年3月11日。この日、生島さんは宮城県仙台市のホテルで講演会に臨んでいた。
「会社の社長さんたち、100人ぐらいを前に、東北を元気にするためには何が大切か、みたいな話をちょうど、していたんです」
そして、午後2時46分。
「揺れに揺れました。縦、横、それに突き上げるような揺れ、経験したことのない地震でした。すぐ脇にあった鉄製の大きなオブジェが倒れてきて、僕の頭をかすめるようにして演台の左端に当たって。
あと数センチ、ズレて直撃していたら、僕もダメだったと思う」
テーブルの下に身を隠した参加者を眺めながら、言った。
「皆さんはそのまま隠れていてください。私はしゃべり続けます、アナウンサーは死ぬまでマイクを離しません!」
精いっぱいの軽口に、テーブルの下からは笑い声も漏れた。まだ、わずかながら余裕があった。直後に講演会は中止になり、翌日、東京で仕事が入っていた生島さんは、すぐさま仙台駅に。