恋愛情報『【夏目かをる 恋愛小説】眠れない夜 第二章~今日子の場合(5)』

【夏目かをる 恋愛小説】眠れない夜 第二章~今日子の場合(5)

2018年4月8日 19:00
 

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…第一話を読む…第二話を読む…第三話を読む…第四話を読む作家の氷室恭介の受賞式の二次会は氷室のいきつけの銀座8丁目にあるスナック「パイ」だった。ビルの一階にあるリカーショップ「信濃屋」の横の階段を昇って3階にあるパイに到着すると、歓声があがった。授賞式を華やかに盛り上げていた高級クラブのホステスたちが、一次会が終わると全員出勤したとみえて、女性が少なかった。3つのテーブル席と10席のカウンター席の小さなスナックには、むせかえるほどの熱気がこもっていた。「乾杯」という声に続いて、グラスとグラスがぶつかる音が店に響いた。二次会の参加者一人一人と乾杯する氷室が、今日子と宮内慶介を引き合わせた。「大学で同じゼミの宮内は優秀な男で、いつも授業のノートをコピーしてもらったんだ」今日子よりも6歳年上の宮内はがっちりとした体格で大学時代はラグビーの選手だったという。色黒で精悍な商社マンで「去年までブラジルのリオに勤務していたんですよ。和食が恋しくて」と、お通しの蛸と小松菜の味噌煮を美味しそうに食べている。自分の周囲にいないタイプだった。宮内に新鮮さを感じると、宮内も今日子に興味を持ち、女性サイトのコンテンツや運営のことなど細かいことを熱心に質問してきた。

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やがて宴もたけなわになると、氷室に指名された編集者たちがマイクをもってカラオケで歌い出した。カウンターのお客が帰り、氷室のグループだけになると、テーブル席にあった水割りセットがカウンターに移動になり、今日子と百合が空のグラスを集めてはせっせと水割りやハイボールを作り始めた。「今夜はアルバイトの女性が休んでしまったの。働かせてごめんなさいね」60代の和服姿のパイのママがねぎらいの言葉をかけると、今日子も百合も「慣れていますから」と笑いながら答えた。小柄ではきはきとした口調のパイのママは、文学座の元女優で、しかも直木賞作家と別れた妻だという。かつて氷室からパイのママのことを「直木賞作家を育てたミューズ」と聞いていたので、今日子はそれとなく夫との関係を聞こうとすると、パイのママが今日子の好奇心をすぐに察して「夫とは10年前に別れたわ。今あの人がこの店に来ることはないの。なにせ奥さんが怖いからね、来るとしたら奥さんに殺されるかもしれないことを覚悟して、私に小説のネタを聞きにくる時かな」と、現在の状況をさばさばとした口調で応える。百合がブルーチーズをテーブル席に運ぶのを確認してから、今日子は「実は聞いてもらいたいことがあるんです」とさっきホテルのトイレで岸本という女性に宣戦布告されたことをぽろりとこぼした。「女が大好きなのよね。いくつなの、その男」「32歳です」「若くないけど、今は精神年齢が7歳から10歳ぐらい下がっているそうだから、あなたは22歳から25歳の男の子に振り回されているってことね」はあっとため息が出る。5年前に男に振り回される人生をやめたはずだった。でも自分の意志とは無関係に同じような男に巡り合ってしまった。「ところであなたはいくつなの」と年齢を聞かれた。39歳と答えると「子供を産むか、産まない人生かのぎりぎりの選択内にいるわね」という。分かってる。恋する女として生きていくのか、母親としての人生を選択するのかという二者択一の時期だということはとっくに気づいていた。だがどちらの人生も、今の今日子にはイメージがつかめなかった。人生をやり直そうと決めた5年前に住まいと仕事を変えてから、必死に働いてきた。39歳という年齢が人生の岐路に立たされているという意味でかなり重苦しいことを察しながら、忙しいという言い訳で置き去りにしてきた。だが今夜のように、人生の岐路をつきつけられる出来事が起こったり、気づかせてくれる人に出会ったりする。そのたびに「決めなくては」と焦りが募る。でも答えはすぐでない。注文の料理を宮内に届けると「テーブルに戻ってきてくださいね」と懇願するので、百合と交代でテーブル席に着いた。ほろ酔い気分になってきた時に、宮内が呟いた。「あなたは一生懸命に生きていますよ。今のままでいいと思います」。“今のままのあなたがいい”懐かしいオールディーズの歌詞にあったような気がしたが、曲のタイトルが思い出せない。今の自分を変えようとしていたあの頃から、随分時間が経ったことを、今日子はしみじみと感じていた。

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健太に宅急便で送った『トパーズの香り』が、受取人不在という理由で、会社に戻ってきた。ラインをしたが、返信がない。個展に出典するはずのジュエリーをなぜ健太は受け取らないのだろう、工房以外の場所で創作しているとは思えない。今日子は『カフェソサエティ』に行く前に、健太の工房に『トパーズの香り』を届けに行くことにした。積もっていた雪がすっかりとけて、雪だるまも目と鼻と口の部分の炭火が地面に落ちていた。道路はまだ濡れていて、靴が濡れないように乾いた面を選んで工房に到着すると、一階の工房のカーテンが閉め切っている。「徹夜でもしたのかしら」チャイムを押したが、返事がない。そういえば一週間前にチャイムの調子が悪いと健太が嘆いていた。修理を頼んだ様子がなかったので、壊れたままなのかもしれない。ドアをノックしようとすると、片方の手がドアのノブに触れた。グーッとドアが開く。鍵をかけないのは物騒だと思いながら、今日子は廊下から工房の中に入った。閉め切っているカーテンから、薄明かりが漏れていた。工房とプライベートルームを仕切るブラインドは開け放たれていてベッドには健太と女性が抱き合って眠っていた。スクールの女子生徒だった。思わず足がすくむ。見てはいけないものを見てしまったバツの悪さと同時に吐き気がしてきた。岸本が言った通り、抱き合っている女性はスクールの生徒で、彼女が本命で自分は利用されているだけかもしれない…。彼の嘘を全部信じてきたのは、私なのだ。自己嫌悪を感じながら後ずさりをすると、寒気がしてきた。玄関に向かって走り出すと、ライトにぶつかり、その反動でライトが転倒した。健太が目を覚まし、続いて女性が目をこすった。健太と目が合うと、いたたまれなくなった今日子は一目散に走り出して、外に飛び出した。駅へ向かう横断歩道を渡ろうとすると、濡れている路面で滑って転んだ。走行していた乗用車が急ブレーキをかけると、今日子は立ち上がったが、すぐに転倒してそのまま気を失った。

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消毒の匂いがするここは一体どこなの早く起きなくちゃ眠りから覚めようとしても、もう一人の私が「まだ起きちゃだめ」と命じる。消毒の匂いが刺激して、過去に置いておきたい記憶が蘇ってくる。思い出してと懇願する過去とパンドラの箱に入れっぱなしにしておきたい記憶が交錯して、今日子の眠りを妨げる。目が覚めると、額に汗がにじみ出ていた。ベッドから起き上がると、病室のカーテンから、看護師が声をかけた。「目が覚めましたか」足音や声などざわざわとしたノイズが病室に響き、夕食と消毒液の匂いが混ざり合って今日子の鼻をついた。(つづく)作家夏目かをる

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