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2020年3月29日、新型コロナウイルス感染症と診断されたお笑いタレントの志村けんさんが肺炎で亡くなりました。日本のお笑い界を長年支えてきた志村さんの訃報は国全体に衝撃を与え、悲しむ声が相次いでいます。ショックを受けたのはファンだけではありません。志村さんと親しかったタレントも深い悲しみに暮れているようです。研ナオコ、志村けん追悼番組に出演後…バラエティ番組『志村けんのバカ殿様』(フジテレビ系)などで共演していた、タレントの研ナオコさんもショックを受けた1人。志村さんの逝去が報じられると、Twitterに「けんちゃんと、もう会えなくなっちゃう。悲しすぎてありすぎる想いが整理できません」と投稿しました。研ナオコ、志村けんの訃報に涙…「またバカ殿一緒にやりましょうね」とコメントしていた研さんは、同年4月1日に放送された追悼番組『志村けんさん追悼特別番組46年間笑いをありがとう』(フジテレビ系)に出演。番組では『ザ・ドリフターズ』のメンバーなどが集まり、志村さんの傑作コントが放送されました。放送後、研さんはTwitterを更新。志村さんの写真をバックに写真を撮り、このように思いを述べました。生放送のスタジオの中は、笑いでいっぱいでした。けんちゃんも喜んでいるかなぁ。皆さん、ご覧いただきありがとうございました。 pic.twitter.com/xcuLt68utS — 研ナオコ (@naokoken77) April 1, 2020 同番組はこれまでのコント振り返るという、お笑いタレントならではの笑いにあふれた追悼番組でした。しんみりとするだけでなく、多くの人に笑ってもらうことができて、志村さんも喜んでいるのではないでしょうか。「けんちゃんも喜んでいるかなあ」と思う研さんの頭には、笑顔の志村さんが浮かんでいたのかもしれませんね。きっと今後も、映像として残っている志村さんのコントは多くの人を笑顔にしてくれることでしょう。[文・構成/grape編集部]
2020年04月02日2020年3月29日にタレントの志村けんさんが新型コロナウイルス感染症による肺炎で亡くなったことを受け、追悼番組『志村けんさん追悼特別番組46年間笑いをありがとう』(フジテレビ系)が4月1日に生放送されました。番組には、『ザ・ドリフターズ』の加藤茶さん、仲本工事さん、高木ブーさんをはじめ、親交の深かった研ナオコさんやいしのようこさんなどが出演。志村さんのコント映像を振り返り、故人を悼みました。加藤茶さんの弔辞全文番組の最後、加藤さんから志村さんへの『弔辞』が贈られ、その内容に多くの人が心を打たれています。志村、ひどすぎるぞお前。一番若いお前が俺たち差し置いて天国に行っちゃうなんてね。まだオレたちとやらなきゃいけないこと、たくさんあっただろうに。それを1人で先に行っちゃうなんて、お前は馬鹿だよ。天国の長さんもまさかお前が最初に来るなんて思ってなかっただろうな。びっくりしたと思うよ。長さんの次は、高木ブーだと思ってただろうな。でも久しぶりに2人きりでいろんな話ができるから、長さんも喜ぶんじゃないかな。ま、いずれそう遠くないうちに、俺たちもそっちに行くと思うから、それまで長さんと酒でも酌み交わしながら、ドリフの新しいネタでも考えておいてくれよ。5人がそっちに全員集合したら、そっちのお客さんを大爆笑させようぜ。約束だぞ。じゃ、それまでゆっくりと休んでくれ。大好きな志村よ。令和2年4月1日ザ・ドリフターズ加藤茶志村けんさん追悼特別番組46年間笑いをありがとうーより引用『ザ・ドリフターズ』への愛をにじませた加藤さんの弔辞。読み上げた後、仲本さんはコメントを求められると「まったく同じですね」としんみりした表情を見せました。同じく感想を聞かれると、話し出すまでに少し沈黙した高木さん。「今、完全に寝てたよ」と加藤さんのツッコミを受けて会場の笑いを誘った後、次のように語りました。俺決めたの。決めました。46年だっけ。ドリフターズとして志村と一緒にやってたの。志村は死なないの。ずっと生きてる。志村けんさん追悼特別番組46年間笑いをありがとうーより引用ネット上では番組を見た人たちから、コメントが多数寄せられています。・志村さんが亡くなった実感がないです。セットの後ろから「誰が死んだってぇ!?」と出てきそうな感じがした・「笑う」って素敵なことだなと改めて思った。人を幸せにした志村さんの素晴らしさが分かります。・ブーさんがいった通り志村さんはいつまでも生き続ける。だから、これからもずっと大好きです。・やっぱり、ドリフはすごい!久しぶりに見返して大笑いした。志村さんありがとう。これからもまだまだ笑わせてもらいます。長年お茶の間に笑いを届け、日本中の人を元気づけてきた志村さん。その偉大な功績は世代を超えて、永遠に人々の間で語り継がれることでしょう。[文・構成/grape編集部]
2020年04月02日フジテレビでは4月1日(水)、「志村けんさん追悼特別番組 46年間笑いをありがとう」をオンエアする。新型コロナウイルス肺炎のため3月29日に亡くなった志村さんとゆかりのあるゲストを迎え、これまでの軌跡をふり返る。1950年、東京都東村山市に生まれ、音楽と笑いに魅せられ「ザ・ドリフターズ」に弟子入り。24歳で正式メンバーとなると人気番組「8時だョ!全員集合」で「東村山音頭」を披露し、これが一躍話題に。その後「ヒゲダンス」や「最初はグー」ではじまるじゃんけんなど、数々のネタが子どもたちを中心に人気を博した志村さん。その後「志村けんのバカ殿様」の放送が開始されると、ダチョウ倶楽部や柄本明らと共演、新たな笑いのスタイルを開拓。番組内に登場した“変なおじさん”がまたしても子どもから若い世代を虜にして大人気に。1999年には高倉健主演の映画『鉄道員』に出演。同作以来21年ぶりの映画出演となり、菅田将暉とW主演を務める山田洋次監督作『キネマの神様』が12月公開予定だったが、3月25日に新型肺炎の罹患と、同作の出演辞退が発表。その後闘病が続いていたが、3月29日、満70歳で逝去した。今回は、ドリフターズ時代からバカ殿、「だいじょうぶだぁ」など数々の名作コントを一挙放送。変なおじさん、ひとみ婆さん、いいよなおじさんなど志村さんが生み出した名物キャラも次々登場。加藤茶、仲本工事、高木ブー、研ナオコ、いしのようこら、志村さんとゆかりのあるゲストとともに、46年にわたるコメディアンとしての偉大なる軌跡をふり返っていく。「志村けんさん追悼特別番組 46年間笑いをありがとう」は4月1日(水)19時~フジテレビ系でオンエア。(笠緒)
2020年04月01日タレントの志村けんさん(享年70)が、3月29日午後11時10分、新型コロナウイルスによる肺炎で死去した。発症が発表されてからわずか1週間での訃報に日本中が悲しみに暮れた。芸能界からも志村さんの死を悼む声が相次いだ。「ザ・ドリフターズ」のメンバー・加藤茶(77)は「ドリフの宝、日本の宝を奪ったコロナが憎いです」と事務所のHPにコメントを寄せた。また12月公開予定の映画『キネマの神様』で志村さんと共演する予定だった菅田将暉(27)は、30日放送の『菅田将暉のオールナイトニッポン』で「個人的には、これからだったので。テレビで見ていたスーパーヒーローとこれから一緒にモノづくりをするという段階でこういうことになったので」と悔しさを滲ませていた。そんななか、小池百合子東京都知事(67)の哀悼コメントが物議を呼んでいる。30日、都庁で報道陣からのインタビューを受けた小池知事はこう発言した。「まず、謹んでお悔やみを申し上げたいと思います。志村さんといえば、本当にエンターテイナーとして、みんなに楽しみであったり笑いを届けてくださったと感謝したい。最後に悲しみとコロナウイルスの危険性について、しっかりメッセージを皆さんに届けてくださったという、最後の功績も大変大きいものがあると思っています。お悔やみ申し上げます」志村さんを悼みつつも、死に対して“功績”という言葉を使った小池知事に対してSNS上では批判の声が相次いでいる。《志村けんの訃報による小池都知事の最後の功績発言言いたいことはわかるし多数がなんとなく感じてるけど言葉が悪い「最後に警鐘を鳴らしてくれた」とかいうのが普通功績なんて言ったら「死んでくれてありがとう」と解釈されても仕方がない都知事レベルだから大失言だよほんと》《「よくぞ死んでくれました」と言ってるようなものじゃないか。初主演映画も決まり、朝ドラだって重要な役で出るはずだったんだ。死んだことが功績だなんて、言われたくはなかったはずだ。もっと、もっと、生きて仕事がしたかったはずだ》《亡くなった故人の無念や想いを考えれば別な表現がいくらでもあるはず》いっぽうで小池知事をフォローする声もあがっている。《小池都知事の発言がどうこうじゃなく、これから志村けんさんの死というものを残された自分たちが本当に功績にしていかなきゃいけない。あんな偉大な人の最期がコロナに負けたじゃ納得いかない。あの人が日本を救ったって言えるぐらい》《小池都知事の「最後の功績」は不適切だとは思うけど、生前は全国民を比類なく笑顔にして、死後はコロナの恐ろしさを身をもって国民に知らしめて、きっとそのおかげで助かる命が沢山あって、結果論だがこんなに偉大な人がいるだろうか、とは思う。もちろんもっと長生きして欲しかったけど》
2020年03月31日2020年3月29日、タレントの志村けんさんが新型コロナウイルス感染症(以下、コロナウイルス)による肺炎で亡くなりました。30日に日本中を駆け巡った訃報に対し、共演していた芸能人を始め、多くの人が追悼のコメントを寄せています。そんな中、ロックミュージシャンの布袋寅泰さんがある曲をギター演奏する姿を披露し、多くの人々の涙を誘いました。布袋寅泰が『ヒゲダンス』のテーマ曲を演奏布袋さんは、「志村けんさんの訃報を知りとてもさびしく思う」という一文から始まる、志村さんへの想いをInstagramに投稿。あわせて、お笑い番組『8時だョ!全員集合』(TBS系)で、出演者の志村さんらがたびたび踊っていた『ヒゲダンス』のBGMに使われていた『「ヒゲ」のテーマ』を演奏した動画をアップしました。布袋さんがギターで奏でる、懐かしの曲をお聴きください。 この投稿をInstagramで見る HOTEI Official(@hotei_official)がシェアした投稿 - 2020年 3月月30日午前6時29分PDT布袋さんは、番組について「楽しいコントだけではなく、生演奏に合わせて日本の演歌やポップスやブルースやロックの生歌が聴ける、素晴らしい番組だった」と振り返ります。そして、若かりし頃、テレビにかじりつくようにして番組を見ながら、一緒に音楽を奏でていたことを明かしました。僕はいつもテレビの前にギターを抱えて座り、画面から流れる様々なジャンルの音楽に合わせてコピーをしたり勝手にソロを弾いたりコードを探したりしていた。ビデオもYouTubeもなかったあの時代に、あの番組は僕にとってのギター教室でもあった。hotei_officialーより引用さらに、布袋さんは当時の思い出を振り返ると共に、志村さんへの感謝の想いやコロナウイルスへの注意喚起をつづります。最高のエンターテイナー、志村けんさんの御冥福を心からお祈りします。いつの時代もシュールで深いユーモアを私たちに届けてくれてありがとうございました。そして我々はコロナウィルスの脅威に対し、また気持ちを引き締めましょう。天国の志村さんも強くそれを望んでいらっしゃると思います。hotei_officialーより引用布袋さんの投稿に対し、ネット上ではさまざまな反響が上がりました。・ドリフ世代なので懐かしいし、強く共感します。こんなに切なく聴こえる『「ヒゲ」のテーマ』は初めて…。・素敵な演奏をありがとうございます。まだ悲しみは癒えませんが、この曲を聴きながらご冥福を祈りたいです。・泣いてしまいました。突然の訃報に戸惑う私たちを慰め、これほど寄り添ってくれる音楽はほかにないと思います。周囲の人を安心させる優しい笑顔と、類まれなるユーモアセンスが魅力な志村さん。テレビ越しに見るその人柄や笑いに影響を受けた人は数多くいたことでしょう。志村さんが私たちに残してくれた思い出は、記憶の中で永遠に生き続けます。[文・構成/grape編集部]
2020年03月31日ザ・ドリフターズの加藤茶、仲本工事、高木ブーが30日、志村けんさんが新型コロナウイルスによる肺炎のため29日に死去したことを受け、所属事務所の公式サイトで追悼コメントを発表した。加藤茶は「ドリフの宝、日本の宝を奪ったコロナが憎いです。皆さんも身近に感じて、気を付けてくださるようお願い致します」と胸中をつづり、仲本工事は「ドリフも順番に逝く歳になったとは思ったけど、一番若い志村が長さんの次になるとは、、、。非常に悔しいです」と吐露。高木ブーは「志村早すぎるよ、俺より先に逝くなんて。3年前に、久しぶりにドリフでコントやった時、『高木さんも80歳過ぎて、頑張ってるんだから、自分も頑張らなきゃなぁ』って言ってたよね。また一緒にコントやりたかったのに。心よりご冥福をお祈り申し上げます」と悼んだ。なお、所属事務所は「弊社所属タレント 志村けん(本名=志村康徳) が、令和2年3月29日 午後11時10分、 新型コロナウイルス肺炎のため、満70歳で逝去いたしました。ここに生前のご厚誼を深く感謝すると ともに、謹んでお知らせ申し上げます」と発表。「ご遺族の意向により、通夜及び葬儀は、近親者のみにて執り行われます。誠に勝手ながら、ご香典・ご供花・ご供物の儀も、固くご辞退申し上げます。なお、『お別れの会』等の実施につきましては、ご遺族と相談の上、決定次第、ご連絡申し上げます」としている。
2020年03月30日キャンディーズ解散から41年、これまで女優として活躍してきた伊藤蘭さん(64)が、5月29日にアルバム『My Bouquet』をリリース。ソロ歌手としてデビューした。’78年、後楽園球場の解散コンサートは、女性シンガーで初めてスタジアムで行われたものだった。その後、役者として復帰し、水谷豊さん(66)との結婚後、35歳で出産。育児と仕事の両立に悩みながらもPTA活動も体験した。「何もしないで後悔するより、やってみて苦労するほうが楽しい」とチャレンジすることで自分を成長させてきた。「“年齢の壁”は笑って乗り越えたい」と6月11、12日には東京で、14日には大阪で「ファースト・ソロ・コンサート」にも挑む――。「ソロのお話は、以前からちょこちょこ言われていたんです。でも、ちゃんと受け止められず、軽く受け流していました。去年の春、もう一度言われて、決めました。あと何十年も元気でやっていられるかわからない。元気もあるし、エネルギーもある、いまのうちに尻込みせず、勇気を出して挑んでみようかなという気持ちになりました。娘もしっかり育ちました。主人も変わらず、エネルギッシュに仕事をしている。ですから、タイミング的にも、よかったんです」夫の水谷さん(66)は、俳優業だけでなく、現在公開中の映画『轢き逃げ 最高の最悪な日』で脚本・監督を務めている。娘の趣里さん(28)は、主演映画『生きてるだけで、愛。』で、今年3月、日本アカデミー賞新人俳優賞に輝いた。「夫からも、娘からも刺激を受けて、私も触発されました。家族それぞれが向かっているものを持っていて、3人が集まったとき、それぞれの話ができるというのは、喜びが3倍になるんです。60代になったからといって、落ち着くモードに入るのは早いかな。オファーがあるとき、それに応えられる私でいたいと思って、ソロデビューを決意しました」蘭さんは’55年1月13日、東京で生まれた。渡辺プロダクションに入ったのは、’69年。14歳のころだ。「もともとね、フォーリーブスに会いたいと思って、そのバックで踊るスクールメイツに応募したんです。最初は母に反対されたんですが、翌年、また、渡辺プロダクションが経営する東京音楽学院を受けて、通いだしたのが、この世界に入るきっかけです」3年後には、NHKの『歌謡グランドショー』のオーディションに合格。同時に受かった田中好子さん、藤村美樹さんと組んで、トリオを結成する。そのとき、NHKスタッフが命名したグループ名が「キャンディーズ」だった。’73年9月、『あなたに夢中』で歌手デビュー。しばらくはヒットに恵まれなかったが、デビュー前からザ・ドリフターズの『8時だョ!全員集合』にレギュラーとして出演し、お茶の間では大人気。スターダムにのし上がったのは、センターを田中さんから蘭さんに交代した5曲目『年下の男の子』(’75年)の大ヒットからだった。「いまでこそアイドルというカテゴライズはありますが、あの当時は、なかったんですね。『私たちはアイドルです』という認識では活動していなかったと思います。3人の意識としては、歌手でした。歌があるから、バラエティもやっていい。でも、真ん中は歌で、歌に戻るんだという意識でした」ところが、絶頂期にあった’77年7月17日、キャンディーズは突然、解散を発表する。「普通の女のコに戻りたい」日比谷野外音楽堂でのライブで、蘭さんが泣きながら放ったこの言葉は、流行語にもなった。解散に踏み切った3人の決意に、ファンも涙ながらに呼応した。大学生を中心に結成されていた全キャン連(全国キャンディーズ連盟)を中心に解散の日に向けてファンが盛り上がりを作っていった。’78年3月にはシングル『微笑がえし』が、キャンディーズ史上初めてオリコン1位を獲得する。解散コンサート当日は、途中経過をNHKニュースが生で放送し、後日、TBSで録画放送されると、単独歌手のコンサートでは最高の視聴率32.3%を記録。その記録はいまだ破られていない。「当時の熱ですか?ふっと1人になったとき、いまひとつ、実感として湧かないので、わからないんです。どこかで、あの(解散の)渦に巻き込まれ切れていない自分があったのかもしれない。なんとなく、別世界という……。あのころは、解散というゴールがあって、そこで終わるという最大の目的に向かって、みなさんに盛り上げていただきながら、がむしゃらに走っていました。スタッフと合宿もしましたし、解散コンサートを一緒に作り上げていく感じがありました。4月4日に向かって、全国各地の大きな会場を回って。50曲以上、歌いました。その集大成が後楽園。あの日、私は、この光景を忘れないよう、目に焼き付けるように歌いました。いまでも、目を閉じると、あの光景が浮かんでくるんですよ」キャンディーズ解散後、蘭さんは芝居の世界に足を踏み入れた。実は中学時代は演劇部の部長を務め、東京都大会で2位に入るほど、演劇に打ち込んでいたのだ。’80年、大森一樹監督の出世作であるATG製作の『ヒポクラテスたち』で、女優デビュー。’81年には、野田秀樹さん率いる夢の遊眠社に参加。ジャージ姿で稽古に励み、舞台『少年狩り』などに出演。その後は、山田洋次さん、倉本聰さん、市川森一さんなど、名だたる監督や脚本家の作品に出演。女優としての地歩を築いた。’89年、水谷豊さんと結婚。翌年には長女・趣里さんを出産して、35歳で母親になった。「子どもが生後5カ月くらいのころから、2時間ドラマはやっていましたが、子育てがおろそかにならないように、バランスを取りながら、仕事をさせていただいていました」両立が大変になってきたころ、蘭さんを支えたのは、青年座の女優・初井言榮さん(90年没・享年61)の言葉だった。「蘭ちゃん、女性はね、本当に我慢して、我慢したときに、内側から素敵な薄桃色の優しさがにじむものなのよ」いまの我慢は後の自分に生きてくる――。この言葉が、蘭さんの心にずっと残っている。「20代のころ、ドラマで共演したときに、言われたんですね。フェミニストの方からすると『えっ?』と思う発言かもしれないけれど、たしかにそういうことってあるなぁと私は思うんです。いろんな角度から、我慢ということを考えることは、必要ではないか。自分が何かを主張したいとき、それをやみくもに主張するのではなく、ちょっと我慢することで、表現の仕方や言い方が変わる。そこが大事なのではないか、と。我慢を重ねることで、表現のバリエーションも増えるし、人間としても豊かになっていくような気がします」蘭さん自身、仕事と子育てを両立させていたこの時期は、葛藤を抱えながら自分と向き合っていた。「振り返れば、子どもに寂しい思いをさせたんじゃないか。もっと寄り添えたんじゃないかと思うこともありましたね。仕事も子育ても、どちらもないがしろにはできない。ひとつのことに専念している方、打ち込める方に比べれば、心身ともに分散してしまいます。あのころは、『仕事も、育児も、どちらもちゃんとやるしかない』と、自分に言い聞かせていました。PTAもやりましたよ。娘が小学生のときに安全対策委員を(笑)。何もしないより、やってみて苦労するほうがいいですよね。お母さん同士のお付き合いで学ぶこともありました。それが楽しくもあり、私を人としても、母親としても、成長させてくれたんです。いまに至る大事な過程だったなと思います」アルバム『My Bouquet』には、そんな蘭さんの人生のスピリットがこめられている。11曲中3曲で、蘭さん自ら作詞も担当した。妻の挑戦を夫である水谷さんはどう思っているのだろう?「今回は、特に相談らしい相談はしていなくて、自分でやると決めてから、『どう?』と、伝えたら『いいんじゃない?』と。音が完成するまで、聴くのを待ってもらっていたんですが、最後には『いいかげん、早く聴かせなさい!』って(笑)。マスタリングが終わったものを聴いてもらったら、3~4回、聴いてくれていましたね。『1曲1曲がバラエティに富んでいて、飽きないね。聴き入っちゃうね』と、言ってくれました」【伊藤蘭さん衣装】ワンピース、カーディガン:HANAE MORI
2019年06月03日お笑いタレントの志村けん(69)が4月5日放送の『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』(TBS系)にゲスト出演。自身の50年の芸能人生を振り返りながら、師匠である今は亡きいかりや長介さん(享年72)への想いを語った。東京の東村山市に生まれ育ち、学生時代は「ザ・ビートルズ」に憧れていたという志村。大学に進学した2人の兄とは別の道に進みたいと、コメディアンになることを決意した。そして大好きな「音楽」と「笑い」の2つを兼ね揃えていた「ザ・ドリフターズ」のリーダーであるいかりやさんへ弟子入りすると決めたという。そんな志村がドリフターズの付き人をつとめてから6年、転機が訪れる。メンバーの荒井注さん(享年71)が、体力の限界を理由に脱退したのだ。そんななか、いかりやさんの推挙もあって志村が新メンバーとして加入することに。急きょ付き人から“見習い志村”として『8時だョ!全員集合』に出演することになる。しかし当時の荒井さんの抜けた穴は大きく、コントは低迷。志村もなかなか人気の出ない日々が続いていた。だがある日の番組会議中、志村が何気なく「東村山音頭」を歌った。それを聞いたいかりやさんが「舞台でやってみろ」と提案。本番で披露したところ、大ウケしたという。以来、「カラスの勝手でしょ」や「ヒゲダンス」などヒットギャグを連発。志村はドリフターズに欠かせない中心メンバーとなっていった。しかし志村の人気上昇とは対照的に、全員集合の視聴率は徐々に低迷。1985年に終了してしまう。これを機にいかりやさんは俳優という違うジャンルにシフトし始め、ピン芸人としてブレイクする志村とは違う道を歩んでいくこととなった。このころから、世間では“いかりやと志村の不仲説”が囁かれるようになった。だが番組内では志村自身も知らなかった、その後のいかりやさんのプライベートが明らかに。実の息子である浩一さんがVTR出演し、告白したのだ。いかりやさんが志村の番組録画を毎回チェックしていたことや、亡くなる直前に志村の舞台を一観客として見に行っていたエピソードが紹介された。そのVTRを神妙な面持ちで見つめていた志村。番組の最後にMCの中居から「志村さんにとって、いかりや長介さんとは?」と尋ねられると、稀代のコメディアンは涙ながらにこう語っていた。「師匠としては間違いがなかったですね」この様子にツイッターでも、感動の声が続出。《今日の金スマの志村さん見ながら子供時代を思い出した》《ドリフ世代ではないけど、志村さんといかりやさんの師弟愛に心打たれて、思わずドリフ大爆笑のオープニング動画を探した》など、幅広い世代からドリフターズ愛が寄せられていた。
2019年04月06日「あのころは仕事が終わると、寝るというより、気絶していましたね(笑)」今年で芸能生活40周年を迎えた山田邦子(58)。ゴールデンタイムで冠番組を持った唯一の女性ピン芸人であり、NHK「好きなタレント調査」では8年連続第1位。’80年代から’90年代にかけてレギュラー番組を数多く抱え、多忙を極めていた。「1週間は7日しかないのに週16本くらい出ていましたよ。仕事が午前6時終了で、次の仕事が6時半スタートなんて日もあって。帰れない日は楽屋で寝ていましたね。テレビ局ってお風呂もあるので」まさに働きづめだった。「この後からテレビ局も働き方が変わってきて、夜12時以降の収録がなくなったんです。こんな仕事の仕方をしていたのは私たち世代が最後でしょうね。局入りするキャスターの方を見て、ああ、今何時ごろなんだなと確認していました」学生時代から数々の素人参加番組に出演し、次第にテレビに出るようになる。そして『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)の故・横澤彪プロデューサーから声がかかる。「秋から出ないかと誘われて、“ギャラはいくらですか?”と聞いたら、驚かれましたね(笑)」当時はまだ短大生。ギャラの交渉も自ら行った。「事務所に所属するときですね。卒業後の就職先も内定していて当時の初任給の平均が12万円くらい。すでにいろいろ出ていたんで、その3倍はもらわないとって」事務所に入る前にドラマ『野々村病院物語』(TBS系)に出演し、ギャラは週給4万円。その後、数々のバラエティに出演。デビュー当時からまったくものおじしないタイプだった。「私、小さいときからテレビの世界と、現実の世界を区別していなかったんですね。クレージーキャッツやザ・ドリフターズ、花の中三トリオや新御三家は全部、自分と同じ立場の人。勘違いもはなはだしい(笑)。キャンディーズやピンクレディーも、自分が4人目だ、3人目だくらいの感じ。頭の中では西城秀樹と付き合って、そのあと、郷ひろみを振る!みたいな。原辰徳さんと結婚すると日記には書いてありましたからね」そんな“図々しい勘違い”が幸いし、先輩たちにはかわいがられた。「タモリさんには、酔っぱらっておんぶしてもらったこともあるし、宇津井健さんに靴を買ってもらったり。たけしさんにもどれほどごちそうになったことか。そのときに自分も将来後輩にごちそうするようにしますって誓ったんです」『オレたちひょうきん族』では、薬師丸ひろ子、島倉千代子などのモノマネを披露、担当コーナー「ひょうきん絵かき歌」も大人気に。「台本を開くと“など”と書いてあるだけだったりするのはしょっちゅう。たけしさんが昨日はこんなことがあった、なんてしゃべると、それが面白いから、じゃあそれやろうって。するともう本場です。たけしさん、さんまさんらがいて、みんなで手さぐりだけど勢いがすごくありました」デビューして40年、ドラマ、映画、ミュージカル、司会など、あらゆる仕事をこなしてきた。「私はピン芸が職業だから、最初はドラマや映画の仕事が嫌でした。今はそうした作品が残っていることを勲章のように思いますけどね。気づいたら何でもできるようになっていた。歌もまあだいたい平均点くらい歌えるようになって持ち歌もたくさんあるし、モノマネやイベントも。生放送の仕切りも何か突発的なことがあってもへこたれないですね」
2019年04月01日俳優の山田孝之(34)が9月27日、『植物に学ぶ生存戦略 話す人・山田孝之』(NHK Eテレ)に出演。Twiiterでは「シュールすぎる」「今年見た中で一番おもしろい!」などの反響を呼び、拡散されている。『植物に学ぶ生存戦略話す人・山田孝之』は種の繁栄のためありとあらゆる生存戦略を編み出してきた植物たちの、したたかでたくましい生存戦略を読み解く番組。山田が植物のありとあらゆる生存戦略を説明しており、今回は3種の植物を紹介した。ツユクサの戦略では、ザ・ドリフターズやキャバ嬢を例えに説明。またセイヨウタンポポの紹介では、名前の可愛さに侮ってはいけないとプーチン大統領を引き合いに出すなど予測不能な展開に。最後のヘクソカズラの生態では、山田の胸毛の写真をフリップに出すなど自由すぎる発送と驚きの番組運びとなった。山田は終始、真顔でゆったりとしたトーンで解説。番組のエンディングには「※すべては山田孝之の見解です」と注意書きが出るなどユニークな内容となった。視聴者からは「山田孝之さんがEテレとな?と思ったけどブレませんでした。見事」「今年見た中で一番おもしろい!」「山田孝之の使い方が正しすぎる」「Eテレ攻めすぎ、山田孝之は仕事選ばなさすぎ」「山田孝之がシュール過ぎた。天才かな」など大絶賛。また、「想定外の面白さ…Eテレすごいぜ シリーズ放送希望」とシリーズ化を切望する声も上がっている。
2018年09月28日「50周年記念というようなイベントは、やりたくないの。50周年なんて私だけのことであってお客さまには関係ないですから。今までは今まで。これからがまた勝負。また全然違った“由紀さおり”を皆さまにお見せしたいと思っています」 ’69年、『夜明けのスキャット』でデビューした由紀さおりさん(69)は、常に芸能界の第一線を走り続け、70代に突入しようという今もエネルギッシュだ。 群馬県桐生市で生まれた由紀さんは、兄と姉がいる末っ子。歌との出合いは、父親の仕事の関係で、横浜市鶴見区に転居した3歳のとき。姉・祥子さんが、ひばり児童合唱団に入団したことから、母・ふささんと姉の稽古に付き添って行くうちに、由紀さんも歌を覚え、合唱団に入った。 デビューのチャンスが巡ってきたのは、17歳のとき。 「本名の安田章子で、デビューしたんです。でも、見事に外れまして。新聞社などに挨拶回りをしても全然、相手にもされない。売れない悲哀をものすごく感じましたね」(由紀さん) 短大時代は、キャバレーで歌いながら、NHKの子ども番組に出演。その番組が、CM作曲家の目に留まり、由紀さんは味の素の『ハイミー』や「チョコレイトはメ・イ・ジ」など、たくさんの記憶に残るCMソングを歌うようになった。 そして、CM界でスキャットがはやり始めたころ、作曲家・いずみたくさんが関わっていたラジオの深夜放送『夜のバラード』のテーマ曲を、由紀さんが歌うことになる。 「いずみ先生が『自分の好きな言葉で、歌ってみて』とおっしゃるので、2〜3回、“ルールールー”ってスキャットで歌ったら、『いいね〜』ってOKになっちゃって」(由紀さん) その曲が若者たちの大反響を呼んだため、2番に歌詞をつけてシングル化したのが『夜明けのスキャット』だ。由紀さおりという芸名での再デビューも決まり、翌’69年3月10日にリリースされた『夜明けのスキャット』は、150万枚のミリオンセラーとなった。 短大卒業と同時に、歌手として一気に花開いた由紀さんは、レコード発売の19日後、高校卒業時にプロポーズされていた、交際中の男性と結婚。大きな夢を2つ手にして、まさに幸せの絶頂だった。 デビューの年の『NHK紅白歌合戦』の出場を射止めた由紀さんは、次の目標に向かって、突き進んでいった。 「あの時代、多くのヒット曲が生まれましたが、1曲で終わるケースが多かった。だから、2曲目が大事なんです。’70年リリースの『手紙』がミリオンセラーになったとき、ようやく、私は音楽の世界にいてもいいのかなと思えるようになりました」(由紀さん) やっとつかんだ歌手としての居場所を手放したくない。由紀さんは、それからも努力を惜しまなかった。 「歌は私の原点です。でも、歌い手が歌うのは当たり前。テレビでは、ほかのこともやらないと、生き残れない。だから、私は歌手以外の由紀さおりという“人間”を見てもらえるようにも努めました」(由紀さん) 由紀さんは、ザ・ドリフターズの『8時だョ!全員集合』(TBS系)や『ドリフ大爆笑』(フジテレビ系)に出演。女優や司会者にも挑戦し、活動の幅を広げていった。 仕事が増えれば、減っていくのは夫婦の時間だ。由紀さんは結婚7年目で別居。14年目の’83年に離婚している。結婚生活と引き換えにはなったが、10年連続で、紅白に出場した由紀さんは、歌手として、不動の地位を築いたかに思われた。 ところが、11年目で、突然、紅白出場が断たれてしまう。 「11年目も当然、あると思って、衣装も用意していたの。落選の予兆なんて全然なくて。選ばれる基準が理解できなくて『なぜ?』って考え込んでしまいましたね」(由紀さん) 悶々とした日々のなかで、由紀さんはふいに思った。「もう一回、自分の歌探しをしないと、これから先は人前で歌っていけないな」と。自分を奮い立たせるために、新しい自分の歌を求めて、由紀さんは前を向く。そして、大きな目標を立てた。「4年後のデビュー15周年は、NHKホールで、コンサートをしたい」。 ’84年のコンサート実現に向け、資金作りのために、由紀さんは地道にキャバレーで歌い続けた。ようやくNHKホールを借りるめどがついたとき、「オーケストラを入れて、一人で2時間半も歌えるかしら」と不安に襲われた。母・ふささんに相談すると、待ってましたとばかりに、「あなた、お姉ちゃんと一緒にやったらどうなの?」と提案してくれた。 姉の祥子さん(76)は、当時をこう振り返る。 「私は東京藝大を出て、オペラの世界に飛び込もうと、ニューヨークに渡りましたが、グレードの高さが違って、全然、かないませんでした。帰国後、もう一度、自分の歌探しをしていたときに、妹から共演の話をもちかけられたんです」(祥子さん) 姉妹そろって、見つけた新しい歌。それが、童謡だ。童謡は姉妹の原点でもあった。2人で歌う童謡唱歌は、15分ほどのコーナーだったが、来場者アンケートでも評価が高かった。そこで、ふささんが閃いた。「私のために、2人で童謡のアルバムを作ってちょうだい」。当初、童謡と聞いて「教材なら」と、二の足を踏んだレコード会社を説得したのも、ふささんだ。 「母は東芝EMI(当時)の社長に『私の柩に入れる1枚を作ってください』と直談判して、CDの制作・販売までこぎつけたんです」(由紀さん・以下同) 初めての童謡コンサートは’86年。CDを会場で手売りするなど、手づくり感満載のコンサートのチケットはまたたく間に完売。大反響だった。 童謡ブームが巻き起こり、由紀さんは、姉妹で紅白に返り咲く。7年目には、アルバム売り上げが100万枚を超え、’95年には、ニューヨークのカーネギーホールでの童謡コンサートも実現した。 童謡で成果を出してからも、由紀さんは新しい自分自身を模索し続けてきた。 「デビュー40年目のときには、やはり最後は、歌謡曲にもう一度、チャレンジしないと、悔いが残るなぁって思っていたんですよね」 スタッフが「YouTube」で、由紀さんの「天使のスキャット」B面の曲を歌うアメリカのジャズ・グループ、ピンク・マルティーニの動画を発見したのは、そんなころだった。その動画を40周年コンサートで使いたいとメールをしたことから、縁ができた。 ’11年、ピンク・マルティーニが東日本大震災の被災地支援のチャリティライブをオレゴン州で企画しているのを知ると、由紀さんも現地へ飛んで、参加。そこから、一気に、ピンク・マルティーニとのコラボ・アルバム制作が進む。 由紀さんがデビューした’69年は、音楽マグマの爆発ともいえるほど、世界中でさまざまなジャンルの曲が一気に世に出た年だった。そこで、’69年にスポットを当てたアルバムを作ろうと、意見が一致したのだ。 「リーダーのトーマスが、オレゴンのスタジオを押さえてくれて。最初は、『もうちょっと低く歌って』って、そればかり。でも、そこで初めて低音部で歌う私のよさが引き出されたんですね」 何歳になっても、音楽で成長できることは驚きだった。 こうして完成したコラボ・アルバム『1969』(’11年10月発売)は、全米iTunesジャズチャート1位、カナダiTunesワールドチャート1位など数々の記録を打ち立てて、世界的なヒットとなった。 「彼らと一緒に、アメリカやヨーロッパでツアーして。挨拶は、拙い英語でしましたが、歌は日本語でいいって言ってくれて。日本語で歌っても、全然、違和感がないんです。音楽に国境がないって、身をもって体験できました」 1つのジャンルにこだわることなく、由紀さんの舞台は、限りなく広がっていくーー。
2018年05月14日スプーンで食べるシフォンケーキ専門店「ザ・シフォン&スプーン」から、新商品「ザ・シューコーン(THE Chou Cone)」が2017年4月25日(火)発売。「ザ・シューコーン」は、シュークリームをまるでコーンに入ったアイスクリームのように見立てた新感覚のスイーツ。ザクザクとした食感のシューの中から、甘さ控えめのカスタードクリームがとろりと溢れ出す。さっくりと焼き上げた香ばしい風味のシューに、コク深くミルキーなカスタードが濃厚に絡まる。シュガーやドライフルーツをトッピングしたキュートな見た目は、写真に撮ってシェアしたり、お土産としてプレゼントするのにもぴったりだ。フレーバーは5種類。ホイップとショコラカスタードをあわせた「ショコラカスタードクリーム」には、ショコラのコク深い甘みを引き立てるアーモンドスライスをトッピング。甘さ控えめで爽やかな「抹茶カスタードクリーム」には、濃厚な抹茶チョコをトッピングし、奥深い抹茶の風味を楽しめる。「ストロベリーカスタードクリーム」の優しい甘みには、甘酸っぱいドライクランベリーをアクセントに添えた。「メープルカスタードクリーム」には、メープルのほろ苦い甘さと愛用抜群なアーモンドダイスをのせ、ザクザクとした食感に。さらに、ベーシックなシュークリームの味わいが楽しめる「カスタード」も登場する。また、同日から、夏にぴったりのレモンとバナナを生地に練り込み、ホイップクリームをつめた夏限定のシフォンケーキ「ザ・レモン シフォン 」と「ザ・バナナ シフォン」の販売がスタート。さらに、ブルーベリーの果肉を練り込んだブルーベリー風味の生地のシフォンケーキ「ザ・ブルーベリーシフォン」も発売する。【詳細】ザ・シューコーン 378円 ※カスタードのみ 356円発売日:2017年4月25日(火)販売店舗:ザ・シフォン&スプーン 全9店舗価格:ショコラカスタード、抹茶カスタード、カスタード、ストロベリーカスタード、メープルカスタード※全て税込み■ザ・ブルーベリーシフォン発売期間:2017年4月25日(火)〜7月下旬 (順次販売終了予定)価格:Lサイズ 1,296円、Mサイズ 907円、Sサイズ 442円 ※全て税込み■ザ・レモン シフォン / ザ・バナナ シフォン発売期間:2017年4月25日(火)〜8月下旬 (順次販売終了予定)価格:Lサイズ 1,080円、Mサイズ 756円、Sサイズ 378円 ※全て税込み【問い合わせ先】ダスキン フードグループ お客さまセンターTEL:0120-112-020
2017年04月26日こんにちは。エッセイストで経済思想史家の鈴木かつよしです。今わが国では、葬儀の形やお墓というもののあり方が変わってきています。何代にもわたって同じ土地に住み続けるわけでもなく、生涯独身で生きてきたためお墓を守ってくれる子どもがいるわけでもなく。非正規雇用で働いているので100万円もするお墓を亡くなった親のために買ってあげる余裕もなく……。少子高齢化と相対的貧困の増加に伴って、亡くなった人のために家族がお墓を作るということをしない「ゼロ葬」と呼ばれる葬儀のあり方 が急速に広がりつつあります。今回は最新の葬儀事情をご紹介しながら時代とともに変わる供養の形について考えてみたいと思います。●ゼロ葬とは何か、どのような種類があるのかまず、『ゼロ葬』とは何でしょうか。一般的にその語源は宗教学者の島田裕巳先生が提唱してきた『ゼロ死』すなわち、「死んだら何も残さずゼロになるのがいい 」という概念に由来すると考えられています。ゼロ死には「死んでも葬式をあげない 」ゼロ葬儀と、「死んでもお墓は作らない 」ゼロ墓の2つの要素がありますが、最近は葬儀やお墓の業界でそれらを包括して『ゼロ葬』と呼んでいるようです。では、ゼロ葬にはどのような種類があるのでしょうか。ゼロ葬儀とゼロ墓の両面からみてみましょう。●(1)直葬(「ちょくそう」または「じかそう」)一般的な火葬式の手順にあるお通夜も葬儀も告別式も省略し、ご遺体を安置した後は火葬場に直行する形式のことです。関東地方では今や全体の4分の1がこれにあたる と言われています。●(2)遺骨引き取り拒否火葬場によっては遺族が遺骨の引き取りを拒否できるところがあります。その後のお墓等の心配をすることもないため、島田先生は元々はこれを「究極のゼロ葬」としています。●(3)預骨通常は火葬場からの引き取りを拒否できない遺骨を、葬儀会社に一時的に預かってもらうサービスのこと。非正規雇用の増加等に伴い、100万円前後の費用がかかるお墓を購入する経済的余裕のない人が増えているため、数万円の保証金でお墓が用意できるまで遺骨を預かってもらえるこのサービスの利用者は増加しています。しかし、一方で遺骨を預けたまま音信不通になる遺族が急増しており、問題になってもいます。なお『東京都公園協会』では、都民対象に何か所かの霊園で遺骨一時預かりの制度を設けています。●(4)迎骨遺族も高齢で思うように動けないといった場合、NPO法人のスタッフが遺骨を引き取りに来てくれてお寺の合同墓地などに運んで埋葬してくれるサービスのこと。費用は数万円と交通費程度 ですが、非営利活動が中心のため問い合わせが殺到しているようです。●(5)送骨遺骨を郵送ないし特別な宅配便で送るだけで業者がしかるべき合同墓地等に遺骨を埋葬してくれるサービスです。次に紹介する「散骨」も散骨業者に届ける方法が郵送や運送便であるなら送骨の一種であると言うことができます。●(6)散骨遺骨を粉末状にした後、海や山中等に撒く葬送の方法です。法務省の見解では、『節度をもって行われる限りは違法性はない』とされ、自分で段取りするよりは専門の散骨業者に依頼した方がずっと簡単であり一般的です。また陸地での散骨はさまざまなトラブルの原因となるおそれがあるため、今はほとんどが海洋散骨 です。また、遺族が乗船して海洋散骨に立ち会う場合は全体で数十万円の費用が見込まれるため、業者に一任して散骨してもらうケースが増えているようです。その場合の費用はおよそ5~6万円 といったところのようです。●なぜゼロ葬なのか、その時代的背景は?ゼロ葬がどのようなもので、どのような種類があるかについてはだいたいお分かりいただけたかと思いますので、次に、今なぜゼロ葬なのか、その時代的背景とはどのようなものなのかということについて考えてみましょう。経済思想史的な視点で見ますと、農林水産業という第一次産業があらゆる産業の中心であった時代から産業革命によって社会が工業化し、工業従事者の夫とそれを家庭内で支える妻と2~3人の子どもたちという「核家族」が社会の構成単位の中心となった20世紀まで、人間はその時代に合った形の家族を作ることで生きてきました。しかし、わが国では今世紀に入ってから、超高齢化で高齢者の身体機能が相当程度衰えた後も何年も生存し続けること、それに伴う介護や医療の必要性と、それにかかる高額な費用の問題。グローバル化で国外のフロンティアを開拓し尽くしてしまった資本主義が“非正規労働者”という低コストのフロンティアを国内に政策的に作り出したこと、それに伴う貧困層の増大。こういった諸々の“資本主義の限界”が家族という生活単位の勤続疲労と“ゼロ葬の時代”を生み出したと言うことができます。今はもう先祖代々の田畑を耕すためにずっと同じ土地に住み続ける必然性があるわけでなく、子どもたちは非正規雇用なので100万円もするお墓を買うくらいなら自分たちが生きるために使いたいですし、見栄を張るような相手もいないので立派なお葬式を出す必要などありません。だいたいお墓を買ったところで独身の子が多いですから、いずれお墓を守る人もいなくなります 。しかも昔と違って今の宗教は貧しい人たちの心の拠り所ではなくなり、どちらかというと恵まれている人たちの権威と親和性のあるものとなっていますので、宗教色のある供養の形にこだわる気持ちもありません。ざっとこのような理由から、ゼロ葬は今のわが国にあって“当然の弔いの形”になりつつあるのだろうと考えることができるでしょう。●ゼロ葬にするのは経済的な事情が全てではない? 積極的な理由でゼロ葬にした人たちおしまいに、ゼロ葬ないしゼロ墓にするのは何も「経済的に厳しいから」という事情ばかりではなく、ある意味積極的な考え方をもってそうする場合もあるというお話をして締めくくりたいと思います。日本の有名人でも本人や遺族の意思でお墓を作らずに散骨された人が数多くいます。落語家の立川談志さん、作家の山本七平さん、女優の沢村貞子さんや乙羽信子さん、深浦加奈子さん、俳優・歌手で戦後の大スターだった石原裕次郎さん、演歌歌手で宇多田ヒカルさんの実母である藤圭子さん、ザ・ドリフターズの荒井注さんなど、あげたらきりがありません。顔ぶれを見ると何となく共通点が感じられ、筆者には“なくなってからまで偶像のようにあがめられることは本意ではない”的な気概を感じさせる人たちばかりに見えます。こうして見てくると、経済的な事情でゼロ葬を選ぶ人も、金銭的な問題ではなく自分や家族の考え方でゼロ葬を選ぶ人もあり、ゼロ葬は今のわたしたち日本人にとって「しっくりくる」供養のあり方になりつつあるような気がいたします。みなさんはどうお感じになりますでしょうか。【参考文献】・『0(ゼロ)葬ーーあっさり死ぬ』島田裕巳・著●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)●モデル/神山みき(れんくん)
2017年04月25日構成作家・オークラによる作・演出、崩壊シリーズ『リメンバーミー』が、4月13日に東京・俳優座劇場で開幕した。~崩壊シリーズ~『リメンバーミー』チケット情報シリーズ第2弾となるこの作品は、新作書き下ろし。素人劇団「荻窪遊々演劇社」の人々が再び登場し、物語は座長・栗須(山崎樹範)が、舞台監督・杏里(上地春奈)との結婚を劇団員が祝い、サプライズパーティを仕掛けるところから始まる。ところが劇団員の出水(梶原善)はそわそわ、音響の鳥場(伊藤裕一)は風邪っぴき。他の劇団員もあたふたして、小道具を壊すわ、なんとも中途半端なサプライズに。その上、なんとこの後が公演初日。栗須は杏里との結婚を杏里の父に反対されており、観劇する父親を泣かせることが結婚を許してもらうことが条件だ。というわけで、栗須はこの公演『リメンバーミー』を練りに練って、シリアスなお涙頂戴ものにした。なのに、ポンコツ劇団員たちによって、公演は散々な形に。サプライズパーティの段取りを覚えるのに精一杯の出水、場つなぎに特殊な才能を発揮する看場(松下洸平)、笑い上戸ですぐ素に戻ってしまう大宮(味方良介)、余計な揉め事をもたらす愛(彩吹真央)、イマイチ役立たずの城山(大水洋介)によって、物語はどんどんあらぬ方向へ。90分間ノンストップのドタバタコメディでバックステージもの。イメージ的には2分に1回は笑ったんじゃないかというくらい、これでもか!という笑いの波が押し寄せる。「中身はありません」と山崎座長は言っていたが、劇中劇と現実とのシンクロや、劇中劇の謎の演劇臭さ、伏線の回収、キャストの味わい深い個性など、よーく計算されて作られているなぁと感心した。バッタバッタと物が壊れたりするアナログ感は昔懐かしいザ・ドリフターズのコント風味。最近は“オモシロ”ができる役者が減っているという話を聞くが、いやいや、このポンコツ劇団は頼もしい!物語的にもハートウォーミングな味わいで、ラストには気持ちがほっこりした。キャスト全員が汗びっしょりの大奮闘。あっという間の90分だから、ちょっとした気分転換に是非オススメ!東京公演は4月30日(日)まで。その後、大阪、愛知、福岡を巡演。取材・文:三浦真紀
2017年04月21日「ダウンタウン」と坂上忍の3人が、ゲストたちとお酒を飲みながら本音で語り合う「ダウンタウンなう」の人気企画「本音でハシゴ酒」。この度、明日4月21日(金)放送回に、現在1児のママとなった鈴木亜美が生後2か月半の赤ちゃんとともに登場。そのほか加藤茶、仲本工事、高木ブー、高嶋政宏がゲスト、飲み仲間として中村静香が参加することが分かった。まず最初に登場するのは、16歳でデビュー後、トップアーティストとして活躍を続けた鈴木さん。昨年、一般男性との結婚を発表、現在35歳で1児のママとなった鈴木さんは、「ダウンタウン」の2人に抱っこしてほしいと、生後2か月半の息子と共に番組出演する。トークでは、夫との出会いや馴れ初め、デビュー早々にスターダムに駆け上がった多忙を極めた当時の生活ぶりや、小室哲哉やほかのアーティストとの意外な関係性などを赤裸々に語り尽くす。続く2軒目のゲストには、伝説のコメディアン「ザ・ドリフターズ」の加藤さん、仲本さん、高木さんが登場。2004年にリーダー・いかりや長介が他界して以来、ほとんど顔を合わせていなかった3人が、すごすぎる「ザ・ドリフターズ伝説」をふり返っていく。最高視聴率50.5%を記録した「8時だヨ!全員集合」や、4,760本のコントを送り出した「ドリフ大爆笑」といった国民的バラエティー番組の舞台裏やハプニングなどが次々と明かされる。さらに、当時のお金事情も…。3軒目のゲストは、芸能界屈指の食通としても有名な高嶋さん。「ダウンタウン」や坂上さんたちがお店に来る1時間も前から現場に入りメニューを試食し、普段は坂上さんが決める料理とお酒を全部決めてしまう。そんな高嶋さんは、観月ありさが主演する新ドラマ「櫻子さんの足下には死体が埋まっている」に出演。共演中の観月さんや、妻・シルビアから「はっきり言って迷惑している」とタレコミ情報が寄せられ…。また、食通の高嶋さんは、「ダウンタウン」の2人を連れて行きたいオススメのお店に関する情報を熱弁するなど、とにかくしゃべりまくるのだが、飲み仲間として参加した中村さんが痛烈な一言を浴びせる!ゲストに登場した高嶋さんが出演するドラマ「櫻子さんの足下には死体が埋まっている」は、美人で名家のお嬢様だが三度の飯より「骨」を愛し、骨格標本を組み立てる標本士を職業にする女性・九条櫻子(観月ありさ)が、法医学・自然人類学の豊富な知識、類いまれなる観察眼、そして物事の本質を見抜く鋭い洞察力と人並み外れた想像力で、周囲の誰しもが気付かない、疑うことすらしない細部にまで着目し、難事件を次々に解決に導いていく物語。本作は、4月23日(日)より毎週日曜日21時からフジテレビにて放送スタートする(初回15分拡大)。「ダウンタウンなう」は4月21日(金)21時55分~フジテレビにて放送。(cinemacafe.net)
2017年04月20日テレビバラエティ番組「志村けんのだいじょうぶだぁスペシャル」の囲み取材が3月4日(土)、都内にて開催され、「ザ・ドリフターズ」の志村けん、加藤茶、仲本工事、高木ブーの4人が12年ぶりとなるテレビ共演の感想を語った。「志村けんのだいじょうぶだぁスペシャル」では、「中居正広のテレビ50年名番組だョ!全員集合笑った泣いた感動したあのシーンをもう一度夢の総決算スペシャル」(2005年10月/TBS系)以来12年ぶりに、「ザ・ドリフターズ」の4人が揃ってテレビに登場。4人が参加したコントを披露し、4人でトークコーナーも行う。ほか、特別ゲストを招いてのコントや、変なおじさんら名物キャラクターも登場。揃って集まったのも久しぶりという4人。コントの感想を尋ねられると、高木さんは開口一番、「楽しかったですよ。やはり、ドリフターズですよ」とにっこり。「5人揃えば一番いいのですけど」と、「ザ・ドリフターズ」のリーダーだった故いかりや長介さんを悼みながら、「ほかの3人はすごいよ。それなりのものは持っているからね。俺はいつも、長さんに、『お前はいつも外から見て笑っているんじゃねえよ』と言われていて」と懐かしんだ。「昔もそうだったのですけど、今回見て、おかしいもん。わかっていておかしいから」と表情をほころばせた。仲本さんは「始まるとテンションが上がって行って、『ほっといたら、ずっとやっているのではないかな』というような気持ちになってきます。時代に逆行したということで、若さがみなぎってきます。気分がいいですね」と嬉しそう。「僕は67歳で、この中では一番年下」という志村さんも「初めのうちはどうかなという気持ちがあったのですが、いざ始まってみると、昔のタイミングとか間(ま)とかがだんだん蘇って来て、『これだ!これだ!』という、いい意味の自信が付きました」とふり返った。加藤さんは「4人集まると、気持ちが高ぶって、年を取った自分を忘れる。これはすごくいいことですね。年に1回は、仕事ではなくて集まって、酒でも飲もうかと。集まったほうがいいのではないかな」と4人での共演を堪能した様子。「長さんがいなくてもできたということは、もともと、いらなかったのかもしれない」と加藤さん流のトークを炸裂させると、志村さんもすかさず「飾り物で置いておかないと。一応、リーダーですから」と志村さん流のツッコミを披露した。今回の4人の共演は志村さんの呼びかけで実現したそう。志村さんは「いま、コントをやる人が少ないので。昔はグラビアアイドルとかいっぱいいたのですが。優香も結婚しているしね」などと笑いを誘いつつ、「セットでコントをやる人が少なくなっているので、ドリフはこういうことをいままでずっとやっていたのだということを、もう1回、再確認してもらおうかなと思って、集まってもらいました」と胸の内を明かした。4人での共演の話を聞いた際の心境を、加藤さんは「『やった!』と思いましたね」と回顧。続けて、「長さんが亡くなってから4人で(コントを)やることがなかったので。年を取った相応の4人を見せられたらいいなと思ったのですが、集まってやってみたら、昔とあまり変わらない感じでした」と収録を終えたコントに自信をのぞかせた。仲本さんも「みんなバラバラで仕事をしているから、何かひとつ足りないというストレスがあるんだよね。でも、こうやって集まって、やってみると、そういうものが全部、すっ飛んじゃう。爽快!気分がいい!」と目を細めた。高木さんが「ドリフターズですよ、これが。そう思っていただければ」と頷くと、仲本さんが「締まったね!」と声を掛け、絶妙の掛け合いを披露した。体調面については、志村さんは「年相応にもの覚えが悪いですね。人の名前が覚えられなくて(笑)」といい、加藤さんも「セリフが覚えられない(笑)」と同意。しかし、仲本さんは「それでも、わかっちゃうからね。『あれ』でもわかっちゃうから。グループだからね」と笑顔。最年長の高木さんが「いまのところ何ともないです」と体調面の不安がないことを告げると、志村さんは「元気だよね。84歳には見えないよな」と驚きを交えて感心した。コメディアンとしての目標を尋ねられ、加藤さんは、「目標は、死ぬまでやりたいですね。死んでも、棺桶に入っても、笑ってもらいたいというものはありますよね。昔の人で、自分の棺桶の中に花火を入れて、ドカーンとたいた人もいたのですけど、そのくらいのことをやってみたいですね」とまんざらでもない様子でコメント。志村さんが「棺桶の側に行かない方がいいね。危ないからね」と怯えた様子を見せ、そのやり取りが会見場を笑いの渦に落とし入れた。テレビバラエティ番組「志村けんのだいじょうぶだぁスペシャル」は、フジテレビ系にて、3月15日(水)19:00から20:54まで放送。(竹内みちまろ)
2017年03月05日●偉大なる先人たちの系譜今年、テレビから一つ文化の灯が消える。SMAPの解散発表に伴い、制作を手がけるフジテレビと関西テレビは先日、グループの冠番組『SMAP×SMAP』(毎週月曜22:00~)の年内終了を正式に発表した。”文化の灯”という表現は、決して大げさではない。特にテレビのフィールドにおいて、『SMAP×SMAP』が20年続けてきた努力はまさに偉大だったように思う。そこにあるものは日本のテレビ史が始まって63年、ハナ肇とクレイジー・キャッツからザ・ドリフターズに受け継がれ、そして”ドリフの子供たち”である団塊ジュニアのSMAPが結果的に引き継いだ「音楽×笑い」という貴重なテレビの財産だった。○テレビの偉大な先人たちとSMAPコントと料理ショーと音楽を1時間のテレビに詰め込んだ国民的グループの「音楽×笑い」、そのルーツを意識すると、やはり2組の偉大な先人たちに行き着くのではないだろうか。日本のテレビの歴史、とりわけバラエティにおける重要なエポックメイキングとして、ハナ肇とクレイジー・キャッツの登場を思い浮かべる人は多いだろう。元々実力派のジャズミュージシャンだった彼らが歴史に名を刻むきっかけとなったのはフジテレビのバラエティ番組『おとなの漫画』(1959年~1964年)への出演だが、その彼らの武器こそ、まさに「音楽×笑い」だった。終戦後に空前絶後のブームを起こした日本のジャズが大衆の手から離れようとしていた1955年頃、ハナ肇はコミックバンドを構想する。「深刻な顔をしてやっているよりは、人を笑わせて楽しませるバンドがいい」。それはまだバンドマンの多くが米軍キャンプを回っていた時代、奏者の彼らが音楽の仕事を続けるためには、広く伝わるステージングを常に模索しなければならなかった事も、深く関係していた。そして結成から4年後の1959年に始まった『おとなの漫画』、さらに2年後に始まった『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ 1961年~1972年)で、彼らは持ち前のセンスとリズム感をいかんなく発揮し、テレビバラエティの礎を築く。主婦や子供の格好でコントをやる時も、本業の楽器を手に持った時も、プロミュージシャンである彼らにとって、それは同じ”万国共通のエンターテインメント”だった。だからこそ、視聴者は夢中になり、彼らを一躍スターダムへと押し上げていったのだ。○SMAPという”ドリフの子供たち”さらにクレイジーが次にそのバトンを渡したのも、やはり専業コメディアンではない、ミュージシャン出身のザ・ドリフターズだった。ドリフはクレイジーの弟分という印象が強く、実際にそうなのだが、実はリーダーのいかりや長介はクレイジーのメンバーと同世代になる。上京時期のタイムラグによりデビューは後になったが、いかりやもやはり米軍キャンプのステージを体験しているバンドマンの一人だ。いかりやは前座の演奏を終えてソデから覗き見た、アメリカのプロのエンターテイナーが行う”笑いの絶えない本場のショー”にかなり影響を受けていたという。そしてそれと前後するように、音楽畑のハナ肇とクレイジー・キャッツが、テレビから国民的人気グループへと駆け上がっていった。いかりやがリーダーを引き継いだ時、ザ・ドリフターズはすでに「ショーアップ」を大きく意識していたバンドだった。ポスト・クレイジーに据えられた彼らは1969年、満を持してコントと歌を柱にした自身のメイン番組『8時だョ!全員集合』(TBS 1969年~1985年)をスタート。以降番組は最高視聴率50.5%(ビデオリサーチ調べ・関東地区)の記録と共に、日本のテレビに大きく影響を与えることになる。ここでSMAPに話を戻そう。ハナ肇とクレイジー・キャッツが築いた歴史をザ・ドリフターズが大きく花開かせていた1970年代、第二次ベビーブームの中で生まれたのがいわゆる”団塊ジュニア”だ。この世代は幼少期にドリフ人気が直撃しているのだが、その中にいたのが、後にSMAPと呼ばれることになる6人のメンバーだった。全員が1970年代生まれの彼らは、いわば”ドリフの子供たち”とも言える。●SMAPを平成のクレイジー・キャッツに○『SMAP×SMAP』が受け継いだ歴史のバトンSMAPも結成から歴史を辿れば、もちろん専業コメディアンではない。ジャンルが細かく枝分かれしていく音楽業界の中で、彼らはあくまでも歌と踊りを軸にした、一つのアイドルグループだった。しかし昭和末期に産み落とされたSMAPにとって奇跡的な偶然だったのは、かつてのクレイジーと同じように、彼らもまたアイドル冬の時代という「大衆の娯楽の変わり目」にいた。そしてかつてのドリフと同じように、彼らもまた早くから「ショーアップ」を意識していた。自分たちの存在とステージを知ってもらうために、売れない若手アイドルは”万国共通のエンターテインメント”を追求する方に、やはり舵を切ったのだ。SMAPにとって初のプライムタイム進出となったフジテレビでの冠番組『SMAP×SMAP』(1996年~)、通称スマスマは、先にも書いた通り、コントと料理ショーと音楽が1時間のテレビにギュッと詰め込まれている。この構成を最も強く意識していたのは他ならぬSMAP自身だった。■木村拓哉「表現者の手段としてバラエティこそ特別」(麻布台出版社『ポポロ』2012年2月号)■稲垣吾郎「人の前に立って表現する人、人を惹きつける魅力がある人たちはユーモアをみんな持っている」(東京ニュース通信社『SMAP×SMAP COMPLETE BOOK 月刊スマスマ新聞 VOL.4 ~YELLOW~』2012年8月)■草なぎ剛「僕ら5人は性格も個性もバラバラだけど、歌ったり踊ったりして人を喜ばせたいと思う気持ちの強さだけは一緒」(マガジンハウス『anan』No.1834)■中居正広「ライブだけはほかのバラエティーにはない要素だし、『歌があってこそスマスマ』ともいえるので、この番組にライブは絶対に必要なコーナーなんです」(東京ニュース通信社『SMAP×SMAP COMPLETE BOOK 月刊スマスマ新聞 VOL.3 ~BLUE~』2012年7月)個人活動でそれぞれが知った”人を笑わせる価値”、そしてアイドルだからこそ持ち続けていられた”音楽というアイデンティティ”。SMAPの強さは、ここにあった。バブル崩壊で世の価値観が根底から覆された1990年代に、彼らはアイドルというフィルターを通して、専業コメディアンではない弱さを無二の個性とユーモアにひっくり返したのだ。○「音楽×笑い」という武器平均年齢21.6歳の若きアイドルによるレギュラーバラエティは、スタート直前、業界内できっとこけると囁かれていた。しかし彼らがその予想を覆すことも、ある意味必然だったのかもしれない。子供時代をドリフと共に過ごした彼らが『夢がMORI MORI』(フジテレビ 1992年~1995年)のプロデューサーに拾われたきっかけの言葉は、ジャニーズ事務所からの「平成のクレイジー・キャッツにしたいからお笑いを勉強させてほしい」。クレイジーとドリフの血が流れるアイドルの彼らがテレビで勝つために選んだ武器こそ、「音楽×笑い」だった。そして全ての始まりとなったフジテレビ開局翌日の『おとなの漫画』第1回から55年後の未来で、SMAPは叫ぶのだ。■香取慎吾「僕らの武器、テレビでこんなに遊ばせてくれて、フジテレビ最高ー!」香取慎吾(フジテレビ『武器はテレビ。SMAP×FNS 27時間テレビ』2014年7月27日)こうしてクレイジーとドリフから「音楽×笑い」という貴重なテレビの財産を結果的に引き継いだ国民的グループ・SMAPは、その文化の灯りをグループが唯一全員揃う『SMAP×SMAP』で、必死に守り続けてきた。それはインターネットの登場でさらに価値観が大きく変動した2000年代も、テレビ離れが広く叫ばれるようになった、2010年代の今日までも。もっとも、当の本人たちはまだまだ番組を続けるつもりだったようにも思う。放送終了が決まる1年前のテレビ誌(KADOKAWA『月刊ザテレビジョン』2015年10月号)で、全員が2016年9月9日のデビュー25周年デーを前向きに予想し、リーダーの中居に至っては結成25周年とスマスマ20年を含めて「(内容を)ちょっと考えようかな」とはっきり話していた。局側も分裂騒動の後でさえ、「グループが続く限り番組も続く」と言い切った。その視線の先には間違いなく、変わらぬSMAPの明日が続いていた。予定されているファイナルまで、あと3カ月。彼らの功績を思うと、視聴者に託されたそのカウントダウンはあまりにも短い。■参考文献・犬塚弘+佐藤利明『最後のクレイジー犬塚弘』(講談社)・いかりや長介『だめだこりゃ』(新潮社)・佐藤義和『バラエティ番組がなくなる日』(主婦の友社)著者紹介小娘1983年生まれ、アイドルと音楽を中心に活動する北海道在住のフリーライター。ウェブメディアを中心に、近年は「EX大衆」や「CDジャーナル」などの雑誌にも寄稿し、活動の幅を広げている。自身の首都圏→地方の移住経験を元に、新規・ライトファンを意識したエンタメ記事を研究するのが趣味。
2016年09月19日ユニバーサル・スタジオ・ジャパンでは、パーク開業以来、5,900万人以上のゲストがライドした「バック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライド」を5月31日(火)にアトラクション・クローズするにあたって、「バック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライド~さよならキャンペーン」の実施を発表した。実施期間は、4月29日(金)~5月31日(火)。同企画では、チャリティーオークションを開催。パーキンソン病の研究助成活動を行う「マイケル・J・フォックス パーキンソン病リサーチ財団」へ寄付することを目的に、アトラクションの装飾・装置として使用した実物を記念収集品として「ヤフオク!」を通じて出品する。出品するアイテムはアトラクション前にある実物大デロリアン(レプリカ)をはじめ、研究所サインプレート、施設内アクリル映画ポスター3セット、ライドのデジタル時計、次元移動装置(レプリカ)などになるという。ファン垂涎の品が登場する。また、アトラクション・クローズ当日の5月31日(火)には、ファイナル乗車企画も実施。「バック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライド~本当に最後のタイムトラベル」と銘打って40組80名を招待して、クローズ直前の記念すべき運営最終回に乗車できる“ファイナル乗車権利”が当たる企画を行う予定。公式ツイッター経由で応募が可能だ。そのほか、8人乗りコンバーチブル型の超高性能新型デロリアンを開発した天才発明家、ドク・ブラウンが期間限定でパークに復活する「さよならドク!ファイナル・グリーティング」を期間中に開催するほか、「バック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライド」を優先的に楽しめるエクスプレス券、「デロリアン・フォトオポチュニティ」、「バック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライド さよなら記念タンブラー」などをセットにした、「バック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライド さよならスペシャル・エクスプレス」の販売も始まる。皆夢中になった時空旅行も、いよいよタイムリミット!ライドに乗って、記念撮影をして、記念グッズを手に入れて、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の世界に浸ってみて。画像提供:ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(C)&(R) Universal Studios. All rights reserved.(text:cinemacafe.net)
2016年04月21日ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(大阪市此花区)の人気アトラクション「バック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライド」が、5月31日をもって運営終了することが31日、明らかになった。「バック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライド」は、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズをベースとしたライド・アトラクション。ゲストはドク・ブラウンのフューチャー・テクノロジー研究所で開発された8人乗りの新型デロリアンに乗って、悪漢ビフ・タネンを追って時空の旅へ。未来や過去にタイムスリップし、氷河の上を滑り落ちたり、火山の火口に落ちる寸前で恐竜に衝突したり、ダイナミックな体験ができる。同アトラクションは、かつてハリウッドとフロリダのユニバーサル・スタジオにもあったが、現在では世界で唯一ユニバーサル・スタジオ・ジャパンのみに。2001年のパーク開業当時から現在までの総体験者数は約5,900万人にも上る。昨年10月21日16時29日、『バック・トゥ・ザ・フューチャーパート2』(1989)で主人公がデロリアンでタイムトラベルした30年後の未来にあたる時刻には、300人ものファンがアトラクション前に集結。"未来"到来を祝して歓声を上げ、記念撮影するなど盛り上がった。USJでは、運営終了に伴い「バック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライド さよならキャンペーン」を実施。詳細は後日、公式サイトで発表される。なお、終了後は施設改修に入るという。
2016年03月31日「YOUNG KING OURS」(少年画報社刊)にて連載されている平野耕太氏が描く『ドリフターズ』。既刊4巻で累計部数240万冊の人気コミックスのTVアニメ化が決定した。■『ドリフターズ』ストーリー概要関ヶ原の戦いの敗走の中、叔父である島津義弘の身柄を国へ返すため自らが盾となる"捨てがまり"作戦を決行した戦国武将、島津豊久。 敵将、井伊直政を負傷させるも満身創痍でさまよいたどり着いた先は眼鏡にスーツ姿の謎の男「紫」が待つ扉に囲まれた通路だった。有無を言わさず送り込まれた異世界で、豊久は時代の違う武将、織田信長と那須与一と遭遇する。オルテ帝国に支配され虐げられたエルフ族を救い、オルテに対抗するために信長らとともに「国奪り(くにとり)」を開始するのだった。そして、彼ら漂流者(ドリフターズ)とは別に、すべてを殲滅すべくこの世界に送り込まれた「黒王」率いる廃棄物(エンズ)も時を同じくして進軍を開始する。人類、亜人の共存する異世界で叡智を競う戦争が始まる!すでにアニメ化されることは明らかとなっていた本作だが、今回2016年にTV放送されることをあらためて発表。スタッフもすでに発表されていたとおり、監督は鈴木健一氏、シリーズ構成・脚本は倉田英之氏、脚本は黒田洋介氏、キャラクターデザイン・総作画監督は中森良治氏、アニメーション制作はHOODS DRIFTERS STUDIOが担当する。キャスト陣も島津豊久役を中村悠一、織田信長役を内田直哉、那須与一役を斎賀みつき 、安倍晴明役を櫻井孝宏、オルミーヌ役を古城門志帆、カフェト役を西田雅一、ジャンヌ・ダルク役を皆川純子、ジルドレ役を乃村健次、アナスタシア・ニコラエヴァ・ロマノヴァ役を北西純子、ラスプーチン役を田中正彦、土方歳三役を安元洋貴、紫役を宮本充がそれぞれ演じる。なお、コミックス最新巻となる第5巻の発売が2016年6月6日に決定。DVD付特装版も同時発売が決定しており、DVDには2016年のTV放送に先駆け1話・2話の特別編集版(36min.)が収録されるという。特装版の価格は税別1,600円(関ヶ原プライス)で、予約受注は3月28日より開始となる。そのほか詳細はアニメ公式サイトをチェックしてほしい。(C)KOUTA HIRANO/SHONENGAHOSHA/DRIFTERS 製作委員会
2016年03月26日タレントの加藤茶が11月23日(月・祝)、都内で行われたイスラエル映画『ハッピーエンドの選び方』のPRイベントに出席。「ザ・ドリフターズ」のリーダーで2004年に亡くなったいかりや長介さんが、生前メンバーに自身のガンを告白した様子をふり返った。いかりやさんが、加藤さんをはじめメンバー4人に直接、自身がガンをわずらっていると明かしたのは、亡くなる約1カ月前のことだったのだとか。「リーダーがいなくなるわけで、今後もドリフを続けるためにどうするか相談しましたよね。(いかりやさん抜きの)4人でネタができるか。その心配でした」と当時の心境を語っていた。エルサレムの老人ホームに暮らす発明好きのヨヘスケルが、望まぬ延命治療に苦しむ親友から「発明で安らかに死なせてほしい」と頼まれ、安楽死装置を発明すると、彼のもとに次々と“依頼”が舞い込み…。尊厳死をテーマに、イスラエル版『おくりびと』とも評されるヒューマンドラマで、加藤さんは「重たいテーマだが、笑わせるツボがしっかりある。本当なら不謹慎だと言われそうな、死と笑いを結びつける脚本がとてもうまい」と絶賛した。自身の“ハッピーエンド”について「涙ではなく笑いで見送ってほしい。人を笑わせながら死ねれば」と生粋の喜劇人らしいコメント。現在は45歳下の妻・綾菜さんとの結婚生活を送っており「歳が歳なので、カミさんには自分が死んだあと、いい人がいたら結婚してくれと言ってある」と“遺言”にも言及した。この日はタレントのIMALUが同席し、「うちの両親(明石家さんまと大竹しのぶ)は、まだまだしぶとく生きそうですが、映画を見て同居している93歳の祖母のことを考えました。認知症があるんですが、すごく元気(笑)。足腰が強くて、ごはんもたくさん食べますし」と話していた。『ハッピーエンドの選び方』は11月28日(土)よりシネスイッチ銀座ほか全国にて公開。(text:cinemacafe.net)
2015年11月23日最近、「テレビでコント番組を見て、お腹の底から笑ってないな」って思いませんか?それもそのはず。現在、全国の地上波放送で誰もが見られるテレビ番組に「コント」というジャンルの番組は残っていないのです。バナナマンやサンドウィッチマン、東京03などコントを得意とする芸人の数は多いのに、披露の場はほとんどがライブやDVDのみとなっているということ。スタジオに大掛かりなセットを組み、人気芸人が本気になって衣装とメークを施し、アドリブか計算しつくされたのかわからないくらい絶妙な間でセリフを畳みかける……、そんなコント番組が、いまはもう存在しないのです。■NHKの内村光良コント「series-3」が終了なぜかというと、NHKで放送されていた『LIFE!~人生に捧げるコント~』の「series-3」(2015年4月2日~9月24日)が幕を閉じ、次の「series-4」の予告がされていないため。人気キャラクターを忘れさせないように再放送や未公開コントを放出する番組などは随時続いているため、きっとまた内村光良さんを中心に新シリーズがひょっこり始まるのでしょう。しかし『LIFE!―』は、唯一レギュラー放送されているコント番組だったのです。現在放送中のバラエティー番組で、コントのコーナーを積極的に取り入れているのはおそらく『SMAP×SMAP』(フジ、1996年~)のみではないでしょうか?コント好きの筆者は、改編期に年数回で放送される『志村けんのバカ殿様』(フジ、1986年~)が愛おしく思えるほどです。しつこいようですが、1週間の嫌なことを吹き飛ばすほどの笑いのパワーをくれたコント番組が、今や0本なのです!そこにどんな理由があるのか、調べてみました。■10年以上も続いたコント番組は2つだけ!コントだけで構成する番組にとって、10年以上続けるというのは至難の技。・『8時だヨ!全員集合』(TBS、1969~1985年)16年間・『ドリフ大爆笑』(フジ、1977~2003年、98年以降は総集編など不定期放送)26年間なんと、この2番組しかありませんでした。国民的なお笑いグループ、ザ・ドリフターズがどれほど偉大なことを成し遂げていたかがわかります。『オレたちひょうきん族』(フジ、1989年終了)でも8年間、『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジ、1997年終了)だって8年間、ネタ見せバラエティーともいえますが『エンタの神様』(日本テレビ、2010年終了、以降特別版あり)も7年間しか続いていないのですから。■コント番組が続くために必要な3つの要素制作の手間がかかるコント番組を続けるにあたって必要となるのは、第1に「出演者のスタミナ」、第2に「企画力の継続」、そしてなにより重要なのが「番組制作費の確保」ではないでしょうか。(1)出演者のスタミナ現在、多くのお笑い芸人に求められるのはフリートーク術になっています。コントだけでなく、テレビで漫才やネタを見せられる番組が減っているといわれていますが、トーク番組でおもしろい話をして、ドカンと場の空気をさらっていくような芸人がひっぱりだこになり、売れっ子芸人といわれています。一発当てて人気の出る芸人も1年経てば別の顔になっていますし、芸人さんたちが長い時間をかけて、じっくりとコント番組をつくれるような環境が少ないのかもしれません。(2)企画力の継続これも、放送規制の厳しい現在では大きな問題ではないかと思います。一昔前ならば、銭湯のシーンなら裸のお姉さんが登場し、ケーキに顔を突っ込んだりしても、視聴者は皆笑って見ていました。が、いまはBPO(放送倫理・番組向上機構)が眉をひそめる時代です。もちろん、悪質なやらせがあったり、品のない番組や人を傷つけるようなシーンがあったりする番組は注意されるべきでしょう。が、お笑い番組をつくる人々が自由につくりたいものをテレビの電波に乗せられないというのも、コント番組が減ってしまった理由のひとつではないでしょうか。(3)番組制作費の確保トーク番組などと違い、コント番組をつくるのには、美術費や衣装代、あらゆる制作費がケタ違いに高いといわれています。多くの国民に愛されて視聴率がよく、スポンサーもたくさんついてくれるような番組でないと、厳しい時代になったのです。*インタ―ネット動画で誰もが番組をつくれる時代といわれていますが、やっぱり大掛かりなセットで、豪快に笑わせてくれるコント番組が恋しいです。翌日に会社や学校で話題になるような、家族みんなで揃って見られるコント番組が再び作られる日は来るのでしょうか?(文/中田蜜柑)
2015年11月17日9月18日(金)~22日(火・祝)、文化芸術の街「上野」と喜劇発祥の地「浅草」にて開催される「第8回したまちコメディ映画祭in台東」において、本年度の「コメディ栄誉賞」をビートたけしが受賞することがこのほど明らかとなった。「映画(Cinema)」「したまち(Down town)」「笑い(Comedy)」の3つの要素を掛け合わせた、いとうせいこうが総合プロデュースを務めるコメディ映画の祭典「したまちコメディ映画祭in台東」。毎年「したコメ」では、多年に渡り“笑い”を通して多くの人々を楽しませ元気にさせるコメディアンやコメディに関わる人に「コメディ栄誉賞」の授与を行っている。第1回の小沢昭一、第2回コント55号、第3回谷啓、第4回伊東四朗、第5回ザ・ドリフターズ、第6回堺正章、第7回西田敏行と、これまでの錚々たる受賞者に続き、本年度はお笑い芸人・映画監督・俳優・テレビと多方面で活躍するビートたけしの受賞が決定した。ビートたけしの受賞決定に合わせて、ビートたけしの故郷とも呼ばれる伝説の演芸場・東洋館にて、監督・出演作『菊次郎の夏』(’99)の凱旋リスペクト上映と、本編上映前の舞台挨拶が決定。東洋館=正式名称「浅草フランス座演芸場東洋館」は、かつてはストリップ劇場であり、ストリップの合間にコントなどいった軽演劇の上映が行われ、ビートたけしにとって「ツービート」結成の場所となった場所である。今回の受賞に関して、ビートたけしは「このたびは、お笑い芸人・ビートたけしと映画監督・北野武のキャリアの両方に対してご評価頂いたという事だと受けとめていますが、自分のコメディアンとしての、また芸能活動の出発点である浅草での受賞ということで、いただけるものは何でもいただく私ではありますが、とりわけ大きな喜びがあります。この映画祭での受賞を励みとしてより一層精進して参りたいと思います」と喜びのコメントをしている。現在東洋館は色物(漫才、漫談など)を中心に上演しており、建物を同じくする姉妹館・浅草演芸ホール(落語中心の寄席)とともに、歴史ある浅草お笑い文化の一角を担う存在。ビートたけしの“古巣”での作品上映は、映画ファンにとって貴重な機会となりそうだ。「第8回したまちコメディ映画祭in台東」は9月18日(金)~22日(火・祝)まで開催。(text:cinemacafe.net)
2015年06月16日フォルクスワーゲン グループ ジャパンは、「ザ・ビートル・ターボ」「ザ・ビートル・カブリオレ」の特別限定車「ザ・ビートル・ターボ・エクスクルーシブ」「ザ・ビートル・カブリオレ・エクスクルーシブ」の2モデルを発表し、専用ウェブサイトで受注を開始した。特別限定車2モデルはともに、ドイツ本国で展開されているフォルクスワーゲンのフラッグシップ グレード「エクスクルーシブ」を採用。レザーシートをはじめ、数々のアップグレードアイテムを標準装備した。インテリアにダイヤモンドステッチが入ったアンバーブラウンとブラックの2トーンにコーディネートしたナパレザーシートも標準装備。専用ステアリングホイール、ハンドブレーキグリップ、シフトノブ、ブラックインテリアパネルなども装備する。フェンダー社と共同開発したフェンダーサウンドシステムも搭載しており、これは総出力400W、10チャンネル、9スピーカーのシステムで、特別なチューニングが施されている。エクステリアは、「ターボ」にはバイキセノンヘッドライトやダークティンテッドガラスを、「カブリオレ」に18インチアルミホイールを、それぞれ採用した。価格は「ザ・ビートル・ターボ・エクスクルーシブ」が397万円、「ザ・ビートル・カブリオレ・エクスクルーシブ」が420万円(ともに税込)で、それぞれ50台の限定販売となる。
2014年11月12日もう聞き飽きたでしょうが「視聴者のテレビ離れ」なんてことがいわれて久しいですね。「最近のテレビ番組が面白くないから仕方ない」なんていわれたりもします。では、復活してほしいと思うような「面白かったテレビ番組」は何でしょうか? 復活を希望するテレビ番組を調べました。調査期間:2012/12/26~2013/1/8アンケート対象:マイナビニュース会員有効回答数 1,000件(ウェブログイン式)■復活してほしいと思う、昔のテレビ番組はありますか?はい489人(48.9%)いいえ511人(51.1%)約半数の人が「復活してほしい番組がある」と答えました。では、その番組は何でしょうか? 「はい」と答えた人に具体的な番組名を聞いて、回答の多い順にまとめたところ……以下のような結果になりました。■復活してほしいテレビ番組は!?●第1位『ダウンタウンのごっつええ感じ』32人1991年-1997年、フジテレビ系列で放送されたコント番組です。●第2位『笑う犬』シリーズ26人1998年-2003年(2008年以降は特番がありました)、フジテレビ系列で放送されたコント番組です。回答者の数は『笑う犬シリーズ』と回答した9人、『笑う犬の冒険』と答えた11人、『笑う犬の生活』と答えた6人を合計した数字です。●第3位『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』20人1986年-1989年、TBS系列で放送されたアトラクションバラエティ番組。この番組は輸出されて海外でも大ヒットしました。●第4位『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』18人1985年-1996年、日本テレビ系列で放送されたバラエティ番組です。●第5位『マジカル頭脳パワー!!』16人1990年-1999年、日本テレビ系列で放送されたクイズ・ゲームバラエティ番組です。●第6位『8時だョ!全員集合』15人1969年-1985年、TBS系列で放送されたバラエティ番組です。●同6位『内村プロデュース』15人2000年-2005年(レギュラー放送期間)、テレビ朝日系列で放送されたバラエティ番組。レギュラー放送が終了した後も特番が不定期で放送されました。●第8位『あいのり』10人1999年-2009年、フジテレビ系列で放送された恋愛バラエティ番組です。●第9位『進め! 電波少年』9人電波少年シリーズは、1992年-2003年、日本テレビ系列で放送されたバラエティー番組です。●第10位『ウゴウゴルーガ』8人1992年-1994年、フジテレビ系列で放送された子供向けの番組です。■その番組を復活してほしいワケ上記10位までの番組を復活してほしい理由を聞きましたので、代表的な回答をご紹介します。●『ダウンタウンのごっつええ感じ』コントがしっかり作られていて楽しめた。今のコント番組はひどい。(茨城県/男性/29歳)ダウンタウンの伝説の番組です。急に終わってしまったことで伝説化に拍車がかかりましたね。●『笑う犬』シリーズ最近はウッチャンナンチャンやネプチューンはコントなどをしなくなったので、見たいと思ったから。今のお笑いよりも面白いから。(福岡県/女性/26歳)笑う犬も一生懸命にコントを作っていた番組ですよね。コント番組がワンツーというのも何かの表れでしょうか。●『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』幼心に、なんて面白い番組なんだと思った。翌日のクラスの話題もこれだった。(愛知県/男性/37歳)海外で「たけし」さんの名前と顔を一躍有名にした番組です。●『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』今のテレビは正直つまらない。これくらいめちゃくちゃなことしてほしいから。(愛知県/女性/25歳)今となってはテレビで放映できないような企画をばんばんやっていました(笑)。●『マジカル頭脳パワー!!』それに類似する番組が最近始まったようだが、やはり本家に勝る番組ではないと思うから。(栃木県/男性/23歳)とても人気がありましたね。瞬間最大視聴率の記録はなんと40.9%だそうです。●『8時だョ!全員集合』毎回、生放送であれだけのことをやっていたと思うと、今も同じような質でできるのか見てみたい。(兵庫県/男性/46歳)いかりや長介さんと荒井注さんが亡くなってしまい、ザ・ドリフターズはもう二度と全員集合できなくなってしまいました。●『内村プロデュース』おれがおれがという芸人がいなくて、ほんわかしているから。ナイナイとかにも見習ってほしい。(神奈川県/男性/33歳)略して内P。根強いファンがいる番組です。この人の言うとおり、独特の柔らかい空気が魅力ですね。●『あいのり』あいのりで恋愛模様を見ているだけで胸キュンするから。ときめきたい!!(埼玉県/女性/25歳)ちなみに『あいのり』と回答したのは全員女性でした!●『進め! 電波少年』とても面白かった。この間の番組で知ったのですがスギちゃんも出ていたというのは驚いた。(広島県/男性/27歳)若手芸人が奮闘する姿には大いに笑わせてもらいましたね。ダース・ベイダーのテーマと共に登場するプロデューサーも有名になりました。●『ウゴウゴルーガ』子供のころ面白いと思って見ていたが、大人になってみるとよくあんな番組を放送できたものだと感心するようになり、もう一度見てみたいので。(北海道/女性/26歳)子供向け番組でしたが、大人が見ても面白かったですよね。■ほかに挙がった復活希望番組!ほかにも復活してほしいという番組が挙がっていますので、なぜその番組の復活を希望するかの「理由」と共にご紹介します。●『M-1グランプリ』いつも楽しみにしていたのになくなってしまったので。(佐賀県/女性/27歳)毎年、年末のお楽しみだったのですが……。M-1がないとちょっと寂しいですよね。●『アメリカ横断ウルトラクイズ』毎週いろいろなクイズ、仕掛けがあり子供ながら毎週の放送を楽しみにしていた覚えがあるから。(埼玉県/男性/29歳)こういう予算がかかりそうな番組は作りにくいんでしょうかね。●『ウルルン滞在記』毎回うるうるして感動的だったから。(東京都/女性/30歳)毎回よく泣かせてくれる番組でしたよね!●『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』小さい頃大好きだったから。(広島県/女性/27歳)ムツゴロウさんは最近元気にされているのでしょうか。そっちの方が気になりませんか。●『ワールドダウンタウン』ひたすらバカで面白かった。(東京都/男性/26歳)放送作家の高須さんが後に述懐していますが、この番組は台本を書くのが大変だったそうです。●『特命リサーチ200X』宇宙人とか超能力とか毎週面白かったので。(千葉県/男性/24歳)そういえば最近はオカルト系の情報番組はあまりないですね。以上、さまざまな復活希望番組が挙がりました。あなたには、復活希望のテレビ番組はありますか?(高橋モータース@dcp)
2013年03月09日ザ・リッツ・カールトン・ホテル・カンパニーL.L.Cは28日、沖縄県名護市喜瀬に「ザ・リッツ・カールトン沖縄」をオープンする。ホテル「ザ・リッツ・カールトン」の世界78番目の開業。日本では大阪、東京に続いて3番目、初のリゾートホテルとなる。県内の金秀リゾートが昨年9月1日をもって営業を終了した「喜瀬別邸ホテル&スパ」を、コンバージョン(転換)プロジェクトとして約12億円かけて改装した。客室全97室のほか、3つのレストランやバー、ラウンジ、スパなどで構成される。また喜瀬カントリークラブ内に位置しており、海を見下ろす18ホール チャンピオンシップ コースに三方を囲まれている。「ザ・リッツ・カールトン スパ by ESPA」では、10室のトリートメントルームと風化珊瑚礁タイル岩盤浴、フィットネスジム、屋内プールを備え、トータルなスパ体験を提供。最高品質の植物エキスやマリンアクティブなどを原料とした英国ESPAブランドの製品が取り入れられているという。記者発表会で同ホテルの総支配人・吉江潤氏は、「日本で一番のラグジュアリーリゾートを目指す」と意気込み、「まだ沖縄に行ったことがない、という人にも訪れていただいて沖縄の観光業全体が盛り上がれば」とコメントした。【拡大画像を含む完全版はこちら】
2012年05月19日