Aさんの友人Bさん(20代・男性)は、ある女性と婚約していましたが、さまざまな理由で「婚約破棄」を決意したそうです。いくら理由を聞いても口を割らないため、わからないのですが、Bさんは大金を叩いて購入し、女性に渡した「結婚指輪」を返してほしいと考えていますが、相手は返す素振りも見せないそう。Aさんに「どうすればいいのか」相談があったとのことです。「そんなん知らん!」と言いたいところですが、長年の付き合いもあり、何とかしてあげたいそう。返してもらうことはできるのでしょうか?秋葉原よすが法律事務所の近藤美香弁護士に見解を伺いました!婚約指輪を取り返すことはできる?近藤弁護士:「婚約指輪を返してほしいと請求しても、返してくれない場合は、裁判での返還請求を検討することになります。もし、所有権がTさんにあるなら、返還請求が認められますが、所有権がなければ認められません。それでは、所有権は誰にあるのでしょうか。法律的に考えると、婚約指輪を渡す行為は、贈与に該当します。贈与するということは、簡単に言えば、あげてしまうことなので、所有権は彼女のものになると考えられます。ただし、Tさんと彼女との間に「いったん渡しても入籍しない場合には返却する」という趣旨の合意があったと判断されるような場合は、入籍しない場合は所有権がTさんに戻ると考えられる余地もあります。また、婚約指輪は入籍を前提とするものだから入籍しない場合は返還すべき、という考えが社会通念上当たり前といえるような場合は、2人の間に返還の合意があったと認定されることがあるかもしれません。」 費用を別途請求できるケースも近藤弁護士:「微妙な判断になりますが、今の日本において、そこまでの社会通念があるとまではいえないのではないでしょうか。したがって、何も言わず婚約指輪を渡した場合に、そのような合意があったと判断される可能性は小さいのではないかと思います。以上より、彼女が自由意思で返してくれる場合はともかく、そうでない場合に取り返すのは難しいのではないでしょうか。したがって、彼女が指輪を質に入れたりして売ってしまったとしても、自分の財産を処分したにすぎないと考えられるため、罪にはならないでしょう。なお、彼女が不合理な理由で婚約破棄をしたような場合には、婚約破棄に対する慰謝料を別途請求できる余地があります。その場合は、婚約指輪の購入費用も損害と認められる可能性があります。」 遠慮せず行動を婚約破棄というケース自体がそう多くはないと思いますが、仮にそうなった場合、指輪を購入した側が「返してほしい」と考えるのは当然のこと。しかし、実際に返還される可能性は、残念ながら低いようです。ただ、不合理な婚約破棄の場合は、購入費用を損害として別途請求できる余地はあるとのこと。男性の場合、「男らしくない」という目を向けられてしまうかもしれませんが、理不尽な措置を受けた場合は、弁護士に相談の上、しかるべき措置を取りましょう! *取材協力弁護士: 近藤美香(秋葉原よすが法律事務所。家事事件を専門的に取り扱い、500件以上の家事事件を取り扱った経験を持つ。JADP認定の夫婦カウンセラーの資格を保持している。)*取材・文:櫻井哲夫(本サイトでは弁護士様の回答をわかりやすく伝えるために日々奮闘し、丁寧な記事執筆を心がけております。仕事依頼も随時受け付けています)取り返せると思ったのに!婚約破棄したときの婚約指輪の行方はシェアしたくなる法律相談所で公開された投稿です。取り返せると思ったのに!婚約破棄したときの婚約指輪の行方はシェアしたくなる法律相談所で公開された投稿です。
2018年12月13日ピート・デヴィッドソンとの婚約解消を切り出したのはアリアナ・グランデのほうだったようだ。交際スタートからわずか1カ月の6月に電撃婚約していた2人は、先週末に別れを迎えたと言われているが、最終的な決断を下したのは先月に元恋人マック・ミラーが急逝してからひどく動揺していると言われるアリアナだったと言われている。関係者は『エンターテイメント・トゥナイト』にこう話す。「アリアナが最終的に決めたことです。2人にはまだ早いと気づく頃でした。ピートはとても傷ついていますが。まだ彼女のことを愛していますから。アリアナを中心に世界が回っていたのですが、アリアナのほうが気持ちに余裕がなかったんです。ピートもアリアナが周囲や全ての環境からのプレッシャーで限界に達してきていることに気づいていました。ですからピートは愛するアリアナのためにそのスペースを与えてあげる必要があったのです」2人はまだ深く愛し合っているというが、最近には自分をいたわるために音楽活動からもしばらく離れることを発表していたアリアナには、癒やしの時間が必要だと言われている。前述の関係者は「アリアナとピートはこのような突然の破局を予想していたわけではありませんが、今の自分たちにとっては最良の決断だと考えています」「家族も友人も正しい選択だと同意していますし、アリアナのスタッフたちもこのことで癒やしの時間が取れると感じています」「2人はあまりにも気が合ったので婚約しましたし、別れた今でもとても愛し合っています。ただタイミングがとにかく悪かったので、今上手くやっていくことは無理だったんです。2人には特別な心の絆があります。ピートはアリアナが辛い時期にそばにいましたしね。アリアナからピートへの感謝の気持ちがなくなることはないでしょう」と続けた。その一方で、別れてからも2人は毎日のように話をしているようで、「2人は別れを決めてからも常に話をしています。親しい友人関係を維持していくつもりですし、いつかそれ以上の関係にまたなるということもあり得るかもしれません。2人は前向きな姿勢を保ち、親友という関係での将来を楽しみにしています。いつか恋人としても上手くやっていく可能性も捨ててはいません」とその関係者は2人に復縁の可能性も十分にあると説明した。(C)BANG Media International
2018年10月17日今年6月に婚約したことを公表した歌手のアリアナ・グランデ(25)が、フィアンセと破局してしまったようだ。婚約が正式に破棄されたとTMZが伝えている。今年6月、コメディアンのピート・デヴィッドソン(24)とわずか1カ月の交際を経て婚約。その熱愛ぶりは凄まじく、グランデは連日Instagramでデヴィッドソンとの写真をシェアし、デヴィッドソンもグランデのアルバムのロゴにインスパイアされたウサギのタトゥーを耳の後ろに入れるなど、自分たちの関係をアピール。大粒のダイヤモンドを使ったエンゲージメントリングは10万ドルを下らないと言われていた。しかし、9月頃からグランデのInstagramからデヴィッドソンはフェイドアウト。デヴィッドソンの耳裏のタトゥーもウサギからハートマークに変わっていた。情報提供者によると、2人が完全に破局したのはこの週末のことだったとか。今は関係を進めるのに相応しい時期ではない、と双方が認め、婚約を取り下げたという。グランデは、デヴィッドソンと出会う直前に別れていた元恋人マック・ミラーが9月7日に薬物の過剰摂取で亡くなったことに大きなショックを受けていたとも伝えられており、この悲劇が2人の関係にブレーキをかけたと見る向きもある。グランデは2014年に映画『ティファニーで朝食を』から引用した「Mille tendresse(千の優しさ)」という一節のタトゥーをうなじに入れており、デヴィッドソンもこれを真似して全く同じものを同じ場所に彫っていた。
2018年10月15日歌手のアリアナ・グランデが子豚を飼い始めたようだ。絶対菜食主義者のビーガンで動物愛護家としても知られるアリアナが、婚約者のピート・デヴィッドソンと共に子豚を飼い始めたようで、その豚と戯れる動画や写真の数々をSNSに投稿した。豚の詳細についてはキャプションを付けず、ベッドの上でアリアナの首にすり寄る様子や、ピートの胸の上で眠る様子などを見せ、豚がすっかり2人になついている様子を伝えている。そんな2人は交際をスタートさせて以来、わずか数週間で婚約し、今回は一緒にペットを飼い始めるなど進展の速さを見せている。一見幸せな生活を送っているように見えるアリアナだが、先日には2年以上に渡って交際していたマック・ミラーが2週間前に過剰摂取と見られる原因で突然この世を去るショックなニュースにも見舞われていた。そのマックに対してアリアナは、「私が19歳の時に会った日からあなたのことを大切に想ってきたし、これからもそれは変わらないでしょう」「あなたがもういないなんて信じられない。事態がのみ込めないの。私たちはこのことについて何度も話してきた。私はすごく怒ってるし、すごく悲しくてどうしていいか分からない。あなたは親友だった。長い間ね。何よりも、あなたを治してあげられなくて、痛みを取り除いてあげられなくて本当にごめんなさい。最高に親切で優しいあなたの心に相応しくない悪魔を本当に取り除いてあげたかったのに。今あなたが大丈夫なことを願っている。安らかに」と追悼メッセージを送っていた。(C)BANG Media International
2018年09月19日モデルの高橋ユウと婚約者であるK-1ファイターの卜部弘嵩選手が16日、千葉・幕張メッセで開催された「Rakuten GirlsAward 2018 AUTUMN/WINTER」に出演し、2人でランウェイを歩いた。7月22日に放送された日本テレビ系『行列のできる法律相談所』で、卜部選手が公開プロポーズし、高橋が号泣して快諾した2人。今回、卜部選手がシークレットゲストとして登場し、高橋と2人並んで仲良くランウェイを歩いた。先端では、高橋が卜部選手の頬にキスし、2人とも照れ笑い。幸せオーラを漂わせた。「GirlsAward」は、2010年から年2回、「渋谷からアジアへ。そして世界へ。」をスローガンに開催している日本最大級のファッション&音楽イベント。18回目となる今回は幕張メッセにて、「Heart Warming」をテーマに人気モデルによるファッションショーやアーティストによるライブステージなどを開催し、観客3万3,300人が駆けつけた。撮影:蔦野裕
2018年09月16日「婚約破棄」と聞くと、構えてしまう人も多いだろう。想像して、ゾッとしたり、悲しい気持ちになる人も多いだろう。今回は、私が実際に経験した、婚約破棄の話を書こうと思う。この記事を読んで、少しでも多くの人に勇気を分けられたら嬉しい。 本当に婚約していたのか?婚約破棄したことを話すと、よく「本当に婚約してたんだ…?」と半分信じられないような反応をされる。どれくらい本気で婚約していたか、前提条件を共通認識として揃えたい。 彼とは2016年から交際開始。10ヶ月後、同棲開始。同棲して約1年、プロポーズを受け、ゴールデンウィークには私の親に結婚のご挨拶に行こうと約束をしていた。ね?本気でしょ? 彼には抑うつの症状があった。感情の起伏が激しく、時に強く当たられたりしたが、本心ではないと知っていたので、私が必ず支えようと心に決めていた。彼の良いところも悪いところも、心の不安定さも、まるごと受け入れる覚悟はできていた。 景色が変わった日前提条件が揃ったところで、本題に入りたい。 忘れもしない、4月20日(金)ーー。朝7時、彼の浮気を発見した。 もともと、「ん?」と思うことは2回ほどあった。朝帰りもしないような彼が、翌日の夜まで帰ってこなかった日。平日の仕事終わりに、彼のワイシャツから普段は乗らない車のにおいがした日。その2回の出来事が妙に引っかかってはいた。 その日、朝起きて出勤の準備をしていると、彼ものそのそと起きてきた。朝シャンする、と言って、お風呂場へ。携帯が私の目の前のテーブルの上に置かれた。彼は普段、洗面所まで携帯を持って行き、ジップロックに携帯を入れて音楽を聴きながらお風呂に入る。シャワーの時もそう。なので、携帯が放置されることはとても珍しい。 ふと、私の脳内に声がおりてきた。「この人、浮気してる。」目の前には彼の携帯。私はすっと携帯を手にとり、もともと知っていた彼のパスコードを入力した。 ロック解除後の画面は、カカオトークのトークルームだった。トークの相手は「みか」という女性。 今思い返しても不気味だけど、その時は異常に冷静で、「本当に浮気か」「いつからなのか」「どこで出会ったのか」「あれば相手の写真」を確認しようと思った。 こちとらIT系企業で働いていた経験もある身。リテラシーはそこそこ高い。ハンバーガーメニューをタップすれば、検索のヒントがたくさんあると知っていた。最近のカカオトークはすごい。トーク相手とのスケジュールも入れられる。 メニューを開いて最初に目についたのは、「デート❤️」の字だった。 ピンときた。デートの日付に合わせて、トークをさかのぼれば、やることやってるかどうか分かる! カレンダー検索で、デートの日付にジャンプ。 「気持ちよかったね!」「相性いいと思うんだー」 チェックメイト。 もう一度、カレンダー検索に戻る。最初のやり取りは…2月20日。 プロポーズを受けたのが3月14日なので、プロポーズ前も、後も、ずっと浮気されていたことになる。 もしかしたら、この「みかちゃん」は、私の存在など知らないかもしれない。彼は、どんな気持ちで「みかちゃん」に「大好きだよ。愛してる」と送っていたのだろう。 デートは2週間に1回程度、初めてのデートは2月23日。すぐ会っとるがな毎回のようにホテルに行き、楽しんでいたようだ。朝帰りならぬ夜帰りした日も、車のにおいがした日も、彼は「みかちゃん」とホテルに行き、またはドライブデートをしていた。 始まりは、掲示板のようなトークアプリ。(どんなものだ?と思いダウンロードしてみてびっくり。そういう目的のお誘いがたくさんきた。) 「みかちゃん」はとてもマメな子で、会うたびにアルバムを作っていた。ツーショットも出てきた。幸の薄そうな、ちょっとぽっちゃりした女の子。ツンとした表情の彼と、幸せそうに笑う彼女。 みかちゃん、あんた男の見る目ないよ。そいつ、他の女と結婚しようとしてるよ。 そう思いながら、ハッと我に帰り、携帯を元のトーク画面に戻し、ロックした。彼は朝シャン中。もう出てくる。出勤前の朝の10分で、私は現実を突きつけられた。 あとは行動するのみ。決めた女は強いとりあえず出勤し、仕事をした。あっという間に夜になり、帰宅。 彼は今日も遅い。もしかしたら、「みかちゃん」と会ってるのかもしれない。その日は先に寝た。 翌朝、起きた瞬間、明るい空を見て決めた。「別れよう」 その日のうちに母親に連絡し、ゴールデンウィークの挨拶の予定をキャンセル。お店もキャンセルした。夜は職場の先輩とご飯に行く約束だったので、話を聞いてもらい、ネクストアクションを設定。 彼はプライドの高い人だったので、せめて一番プライドが傷つく方法で別れたい。この時点で、彼には何も知らせず、同棲中の家を引き払って引っ越しすることを決めた。 別れ際には色々と言ってやりたい…が、問題が1つ。彼は抑うつ。感情の起伏が激しく、いつスイッチが入るかわからない。実際、暴力を振るわれかけたこともあった。まともに話せないかも。 引越し当日までは今まで通り過ごし、置き手紙で気持ちを伝えて家を出ることにした。 少し賢い女は敵に回すとこわい そこからが早かった。 その日のうちに次に住みたい物件を問い合わせ、休み明けには相談に行った。物件探しと並行して、同棲中の家を解約。さらに並行して、引っ越し業者の手配。浮気発覚の5日後、次に住む家の鍵を受け取り、4月28日、家を出た。 それまでの間、完璧な彼女を演じ切った。家電や自分の荷物を全て搬出し、置き手紙だけ残して家を出た後、彼の母親に連絡した。「浮気をされたので、家を出てきました。」プライドの高い彼のことだから、別れた理由を自分から語ることはないだろう。ましてや自分の母親に、自分が浮気したことなんて、言うわけない。そう思って、先に彼の家族に伝えておいた。 その後、彼から連絡も来たが、結局は荷物のやり取りのみで終わった。 振り返ってみて思うこと 正直、虚しい気持ちもあった。 生まれて初めて彼氏の浮気を発見したが、正直、最初に感じたのはネガティブな感情よりも「ほっ」とした感覚だった。 抑うつの彼。その時の感情に任せて、私の人格まで否定したり、時には私のことが大好きだったり。正直、疲れてしまっていたんだと思う。支える!と決めたつもりだったから、そこから逃げられず、意地になっていたように思う。 浮気されるような隙と余計な余裕を与えてしまったことは自分も悪い。ただ、浮気するような人と結婚しなくてよかった。 そして何よりポジティブな気持ちになれたのは、「もう一度恋愛できる!」という気付きのおかげだった。あと少しで、彼が最後の恋愛だったのかも。彼でいいと思っていたけど、もう一度、また誰かと、あのドキドキや、お互いを知っていく喜びを共有できるのだ。 こんなに素晴らしいことがあるだろうか。また誰かと、深い関係を築けるのだ!! 失恋した人に伝えたいこと失恋とは辛いものである。婚約破棄もしんどいものである。 その気持ちは、分かる。めちゃくちゃ、分かる。何なら、痛いほど、分かる。 それでも、考えてみてほしい。 また、恋愛できる。また、ドキドキできる。 もしかしたら時間はかかるかもしれないけど、きっとできる。 婚約破棄から2ヶ月半後、私は新しく恋人ができた。またドキドキできたし、付き合ってからもドキドキしている。(この話はまた別の機会に…) 私は「気持ちの切り替えがはやすぎる」とよく言われるが、その通り過ぎて言い返すこともできない。でも、それは私にとって褒め言葉。なので言い返す必要もない。 そんな私でも、失恋した後は、気持ちが切り替わりにくい。悔しいし、悲しいし、辛い。 でも、別れた後になって、「あの頃は良かった」と嘆く自分が一番ダサくて、一番悲しい。だからこそ、「今が一番幸せ」と思えるように、常に行動し続けるだけ。 全ては、明日の私がもっと楽しく生きるために。
2018年09月07日戸田恵梨香主演で贈る10月放送の金曜ドラマ「大恋愛~僕を忘れる君と」に出演する、新たなキャストが決定。戸田さん演じる主人公の元婚約者役の「TOKIO」松岡昌宏をはじめ、杉野遥亮、黒川智花らが脇を固める。本作は、若年性アルツハイマーに侵されてしまった女医と、彼女を明るくけなげに支え続ける元小説家の男の10年にわたる愛の奇跡を描く純愛物語。“ラブストーリーの名手”大石静が脚本を手掛ける完全オリジナルドラマだ。戸田さんが若年性アルツハイマー病を発症してしまう主人公・北澤尚を、尚の恋人・間宮真司役をムロツヨシが演じる。■松岡昌宏、エリート精神科医に初挑戦! 「見応えのある作品になることは間違いない」TBS連続ドラマに出演するのは、2014年放送の「同窓生~人は、三度、恋をする~」以来4年ぶりとなる松岡さんが今回演じるのは、尚の婚約者・井原侑市(いはらゆういち)。アメリカ・ワシントンでアルツハイマー病の最先端研究に邁進するエリート精神科医だ。一時帰国した際に尚と見合いし、会って2度目で婚約するも、結婚式の直前に尚から一方的に婚約を破棄されてしまう。しかし、尚が若年性アルツハイマーだと分かると、主治医として尚を支えようとする。そんな中で、自分の尚への本当の気持ちに気づいていく…。精神科医という役どころに松岡さんは、「現在、医療業界においてアルツハイマーの治療の研究が進められている中、自分の中でも気になっていた部分が多々あり、そこはリアルに、そのまま自分が研究している医者として表現できればと思います」と言い、「今、役の勉強をさせて頂いてる最中で、どういう形で役にアプローチできるか考えているところです。戸田さん、ムロさんとは初共演になります。見応えのある作品になることは間違いないので、みなさん是非ご覧になってください」とアピールしている。■草刈民代、難病の娘を守る母役に! 杉野遥亮、TBS連ドラ初尚の母で産婦人科「KITAレディースクリニック」の院長・北澤薫役には、映画やドラマ、舞台などで活躍中の草刈民代。さらに、真司が働く引越し会社の先輩で、真司と尚の恋を陰ながら応援する木村明男役を「サンドウィッチマン」富澤たけし。真司と木村を慕っている引越し会社の若手スタッフ・小川翔太役を、『キセキ ーあの日のソビトー』「花にけだもの」に出演し、TBS連続ドラマには今回が初出演となる杉野遥亮。「KITAレディースクリニック」の受付で働く尚の親友・沢田柚香役を、「3年B組金八先生」「ブラッディ・マンデイ」の黒川智花。侑市の母親・井原千賀子役を、サスペンス作品から朝ドラまで数々の作品に出演する夏樹陽子が演じる。■キャストコメント到着草刈民代若年性アルツハイマーという病気になってしまった尚を、周りの人々はどうやって支え、関わっていくのか。尚を軸にして展開されるストーリーで描かれるのは、様々な関係性のなかで生まれる葛藤や、そのなかで育まれる愛なのだと思います。過酷な病気を背負ってしまった娘を支える母親として、薫は何を見出していくのでしょうか?人はいくつになっても成長を強いられるものなのかもしれません。薫を通して、私自身も成長できればと思っています。よろしくお願いいたします。富澤たけしドラマのオファーを聞いて、他にも役者さん、演技のできる芸人さんも数多くいる中、まず、私でいいのかなと思いました。ストーリーはシンプルながら、複雑な部分もあるので、ドラマの雰囲気を壊さないよう、なるべくNGを出さないように頑張ってセリフを覚えます。先輩役はネタでもあまりやらないので、今はどう演じればいいのか悩んでいますし、少し怯えてもいます。頑張ります。杉野遥亮人を愛する切なさを問いかけるヒューマンドラマ「大恋愛~僕を忘れる君と」において、明るく癒しの瞬間を皆さまに届けられるような小川翔太でありたいと思います。よろしくお願いいたします。金曜ドラマ「大恋愛~僕を忘れる君と」は10月、毎週金曜日22時~TBS系にて放送。(cinemacafe.net)
2018年08月17日かわかみじゅんこ原作の秋ドラマ「中学聖日記」に出演する新たなキャストがこのほど発表。町田啓太(「劇団EXILE」)が、有村架純扮する主人公の婚約者役を演じるほか、吉田羊、友近、夏木マリら、バラエティ豊かなキャストが揃っている。「FEEL YOUNG」(祥伝社)にて連載中の同名漫画をドラマ化した本作。物語の舞台は片田舎の中学校。自分を大切に想ってくれる年上の婚約者がいながらも、勤務先の学校で出会った不思議な魅力を持つ10歳年下の中学生・黒岩晶に心惹かれていく女教師・末永聖の“禁断の恋”を、儚くも美しく描くヒューマンラブストーリー。有村さん演じる主人公・聖の婚約者・川合勝太郎を演じるのは、「HiGH&LOW」シリーズや「人は見た目が100パーセント」、現在放送中の大河ドラマ「西郷どん」にも出演する町田啓太。聖とは大学時代からの恋人で、明るくてポジティブ、誰からも好かれるバリバリのエリート商社マン。不思議な魅力を持つ中学生・晶と対比して描かれる大人の男を演じる。「純粋過ぎるほどのラブストーリーに参加できて本当に光栄」と本作への参加を喜んだ町田さん。「中学・高校生の頃、ラブストーリーのドラマをたくさん観て育ったこともあって、憧れを抱いていた作風に挑戦できることにワクワクしています」と現在の心境を明かし、「原作の雰囲気を大切にしながら、人を好きになることの素敵さを観てくださる皆様と一緒に感じていけるように真心を持って励んでいきます」「有村架純さんをはじめ、共演が初めての方々ばかりですが、たくさんコミュニケーションをとらせていただきながら作品づくりに集中して取り組んでいきたいと思います」と意気込みを語っている。ほかにも、帰国子女でバリキャリの毒舌系女子、バイセクシャルで仕事も恋も肉食系、勝太郎の会社の先輩で後に勝太郎に惹かれていく原口律役を吉田羊。晶の母・愛子役を夏川結衣。聖が勤める子星中学校の教頭・塩谷三千代(通称:塩バァ)役を夏木マリ。ドラマオリジナルのキャラクターで聖のよき相談相手でもある教師・丹羽千鶴役を友近。そして、愛子が営むアジア雑貨輸入販売会社の部下・上布茂役をマキタスポーツが演じる。火曜ドラマ「中学聖日記」は10月、毎週火曜日22時~TBSにて放送。(cinemacafe.net)
2018年08月09日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。突然プロポーズをしてきた彼から教えてもらった、忘れていた家族への愛情——。現状の打開策と兄への最善のサポートについて考え直すきっかけになりました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol. 23閉鎖的だった私たちに新しい風聞いてほしくなかったこと、話題にだしてほしくなかったことだと思っていた、兄の話。しかし、本当は誰かと支え合って理解したかったのかもしれない……そう、今なら感じます。両親の陰から見ていただけだった私は、兄の相談を誰にしたら良いのかわからず過ごしてきましたが、彼の親身なメッセージを見てからは大きく気持ちが変化しました。両親も、兄に理解を示してくれる彼に、“家族” として心を開くことができ、長年閉鎖的だった我が家に新しい風が吹き始めたのです。現状を打破するには……?兄は、一時期の暴力的な状態に比べると、本当に穏やかになりました。精神安定剤を飲んではいるものの、病院の回数も格段に減りましたし、テレビを見たり、パソコンで音楽を聴いたりと、何かに集中することができるようになったことも大きな前進です。しかし、今の暮らしを続けるとなると、診断書を提出して障害者手帳の更新をしながら、障害者年金(または、生活保護)を受け取ることになります。医療費のサポートや、交通機関の補助などは大変ありがたいことですが、それが兄の「生きること」に楽しさや嬉しさをもたらすのかといったらそれはまた別の話になるでしょう。私たちは、兄に「生きがい」を持ってほしいと願いました。役割を持つことで “生きがい” を見つけるそこで、彼を含めた私たち “家族” のアイデアは、「人は社会の役割を持つことで生きがいを得る。金銭的なサポートも大切だけど、社会との関わりを少しずつ増やし、精神的な自立を支援することにも注力したほうが良いのではないか?」というものでした。思い返せば、両親は兄が精神安定剤を飲んだり、病院を探したりすることに夢中になるばかりで、社会との関わりに対してサポートすることを忘れていた気がします。閉鎖的になっていたことを反省し、障害を持つ人への雇用があるのか探してみることに……。すると、どうでしょう。例えば、父の知り合いには、大人になってから喉の手術をして声帯を摘出した人がいました。声が出なくなってしまったのですが、パソコンを使った仕事に就くことができて明るく生活されているそうです。また、私の友人の仕事先にも精神的な障害を持つ方がいるけれど、コミュニケーションが必要な接客業ではなく、裏方として荷物を整理する役割についているとのことだったのです。今までは、社会復帰をするなんてまだまだ先……と思っていた両親も、兄ができることから始めてみようと背中を押すことに。そして、兄が働ける雇用先を探し、工場で働くという試みをしました。結果は、1か月という短い期間しか続かなかったのですが、それでも兄にとっては大きな社会的役割を果たせたと思います。すぐに、完全な社会復帰ができなくても、少しずつ自分でお金を稼ぐ能力を身につけることができれば、行動範囲や視野も広がると共に自分に自信がつくのではないか。これからも、チャンスがあれば積極的に探していきたいと思っています。世界でたった一つの “家族” だから大人になるにつれてできる人間関係は、幅広いものです。しかし、本当に自分が困ったときに助け合える関係や、時には言いたくないことも指摘してくれる関係、そして自分の背中を押してくれる関係、心の中に入り込んでくれる関係は、世界でたった一つの “家族” だと私は思います。その “家族” というのは、血が繋がっている・いないではなく、包み隠さず人生を共に歩む「絆」のこと——。それに気づくことができたのは、彼、両親、そして兄のおかげです。©gyro/Gettyimages©ipopba/Gettyimages©Chalabala/Gettyimages©BrianAJackson/Gettyimages
2018年08月07日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。自分の境遇を知られたくない思いから、恋愛どころか男性が苦手になっていったアラサー手前のこと。突然のプロポーズを受け動揺を隠せない私がいました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol.22「君を妻にしたい」——。その男性は出会ってすぐ私に好意を寄せてくれましたが、私は心を開くことはできませんでした。それなのに彼は、突然「君を妻にしたい」とプロポーズしてきたのです。初めは、冗談だと思っていました。出会って早々、まだデートの回数もままならないのに、なぜ急に……? 私のことを何も知らないのに、何を根拠に言っているのか理解できませんでした。おまけに、男性が苦手な私にとって、交際を飛び越えていきなり “結婚” はどう考えても難しい。とはいっても、どうにかしてこの男性不信から逃れたいと答えを探していたのは本当なのですが……。彼の言動は超ストレート。「君は、彼女じゃない。一生のパートナー、妻だと思う」と、本来なら少しずつ意識するであろう “妻” スタートで私のことを考えてくれたのです。毎日届く「人生プラン」に、驚きを隠せなかったその本気さが一番伝わってきたのは、毎日届く長文のメッセージでした。コミュニケーションや気持ちの共有を一番大切にしてくれるのですが、LINEのような短い文章を伝えるツールではなく、パソコンのメールアドレスに「これからの私たちについて」「今後の人生のプラン」「僕の今までの生き方」「心音の好きなところ」など、自分の人生観や仕事のこと、今までの恋愛について、私のどこが好きなのか、そして私たち二人でどんな人生を歩みたいのか。時には、PDFで自己紹介を添付してくれたり、過去にしていた仕事の様子や将来のビジョンをまとめた資料を送ってくれたり……。ここまで、自己開示をしてくれる人がいるんだと思うくらい、包み隠さずに自分のことを話してくれたのです。自分の話をするより、人の話を聞くことで相手は安心するといわれることがありますが、私は逆だと思っています。人の話を聞くより、自分の本音を相手に包み隠さず話すことは、相槌を打つよりエネルギーを必要としますし、話したくないことまで自分を開示することは時として辛いからです。彼は、良い情報だけではなく、自分の人生においての失敗や挫折もたくさん教えてくれました。本当に大切に思っている人にしか話さないような、“辛い経験” をまだ出会ったばかりの私に話し続けてくれました。出張で会えない時でも、毎日長文を送り続けてくれるその行動。「今日はもう帰る」と冷たくあしらっても、「なぜひとりになろうとするの?」と言いながら手を取ってくれたその優しさ——。少しずつ「私を理解してくれるのは、この人かもしれない」という気持ちが出てくるものの、それでも不安はいっぱいありました。曇り顔を察したのか、彼は、私が不安に思っていることや心の内で感じていることを、話してほしいと言ってきたのです。私以上に、私の家族を大切にしてくれた彼おそらく、中途半端に気持ちを探られたり、曖昧なアピールをされたりしていたら、絶対に言わなかったと思います。しかし、あまりにも真剣だということが伝わってきたので、私自身も心を開かなければ彼に申し訳ないと感じ、正直に思っていることをすべて話したのです。「一生支え合えるパートナーができるか不安」「私には、障害を持つ兄がいる」「男性を心から信用することができない」……など、包み隠さずそのまま話しました。そして後日、またいつものように朝起きたら長文のメッセージが届いていたのですが、内容に驚きました。「この前は、たくさん話してくれてありがとう。家族のことだけど、お兄さんはどんな状況なの? コミュニケーションは取れますか? 手話はできますか? 車椅子ですか? ……それとも、ベッドから動けない状態ですか?」そして、障害者施設のことや斡旋サポートのページなど参考になりそうなリンクが貼られていました。彼なりに兄のことを考えてくれたメッセージだったのです。引っかかっていた心のわだかまりが溶けた瞬間このメッセージを見た時、心臓の奥を強く握られたような痛みと共に感じたことは、「ああ、血の繋がっている私よりも、兄に対して真剣に考えてくれている」という現実を直視する彼の強さです。そのメッセージは「私には、障害を持つ兄がいる」ということだけを頼りに情報を探してきてくれた内容で、“手話” や、下半身が不自由な人のための “車椅子” など、精神障害ではなく身体障害についてだったのですが、それでも時間をかけて調べてきてくれたことに胸がいっぱいになりました。気づけば誰にも言うこともなく、心にしまいこんでいた感情——。兄のことを避けるようにしていたことを、血の繋がっていない彼に教えてもらうとは……。恥ずかしさと情けなさと、そして彼の大きな愛が混じり合って、スーッと心の詰まりが溶けていったのです。©andrej_k/Gettyimages©Geber86/Gettyimages©metamorworks/Gettyimages©123ducu/Gettyimages
2018年08月05日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。年齢を重ねるほど、素直な恋愛ができなくなっていった私——。「婚活」という言葉を知りながらも、結婚に対して前向きになれませんでした。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol. 21家庭を持つ責任と、結婚の重み結婚することが女性の幸せである、好きな男性と結ばれて出産し子育てをすることが素晴らしい……。友人の結婚式に出席したり、子ども連れの夫婦を見たりすると、“幸せ” なのは頭で理解できるけれど、いざ自分に置き換えてみると一歩踏み出せない。どこか他人ごととして遠くから眺めている状態が、アラサー近くになっても続いていました。その理由は、小さい頃から繰り広げられていた、“荒れた家庭” が目に焼き付いているからです。高校を退学した兄の担任の先生に深く頭を下げる両親、夜中に帰ってきて騒ぎ立てる兄、精神障害者となった兄に安定剤を飲ませるためにタイマーをかけている母、仕事で疲れているのに休日は兄の病院の送り迎えをする父——。兄のことが疎ましいわけではなく、大事な家族のひとりだと思っています。でも、それらの光景は、私にとって良いイメージではありません。表立っていないだけで、家庭環境に苦労している家族も多いかもしれませんが、私が小学生、中学生だった幼い頃の我が家はとにかく悲惨でした。大人になった今は、自分の家庭は少しだけ稀だっただけ。そう、解釈できているのですが……。本当に、一生寄り添えるパートナーって?私は、両親をとても尊敬しています。元気な自分を保つことができたのは、両親がいつも力を合わせて家庭を守ろうとしていたからでした。もし、あの幼い時に、両親の意見が合わずに離婚していたら、もっと自分の居場所を無くしていたと思いますが、両親はいつも前向きでした。「心音は自分の人生を明るく生きなさい。お兄ちゃんは、お母さんとお父さんの子どもです。何を言われても、怖くなんかないよ。だってお母さんのお腹から出てきたんだから」と、私が想像しているよりも大きな愛で兄を育てていました。そんな両親を見ていると、果たして自分にそんな責任を負えるのか? 何があっても、一緒に助け合えるパートナーが見つかるのかと不安ばかり募ります。学生の時のように、自然体でありのまま恋愛できれば良いのですが、年齢を重ねるほど “傷つきたくない” 気持ちが大きく膨らんでいくばかりだったのです。また、「できちゃった婚」のように、もし、予想しないタイミングで子どもができたらどうやって責任をとったら良いのかわからない、一生のパートナーと確信していない人とは絶対に子どもは作れない。家庭や出産に対して、“幸せ” のイメージより先に “恐れ” が先行している状態に、世間とのズレを自分でも感じていました。男性を避け、「女性専用」を選ぶほどだった大人の恋愛になれば、学生の頃とは違い、明確な告白がなくても良い雰囲気になって関係をスタートすることもあると思います。しかし、曖昧にスタートさせようとする男性に対して、どこまで本気なのか試したり、わざと怒らせるようなことを言ったりして「石橋を叩いて渡る」領域を超えて、叩きすぎて壊してしまうことも多々ありました。そんな、“疲れる恋愛” しかしていなかった私は、「恋愛はめんどくさいし、疲れるだけ」「そんなことなら自分の時間を大切に過ごしていたほうがいい」と深く恋愛をすることを忘れていったのです。両親からも、「心音は、結婚しないかもしれないね」「正解はないから、自由に生きなさい」と私の心情を知ってか知らずか、結婚をすすめることはありませんでした。恋愛に対してひねくれていた私は、男性が言い寄ってきても、「どうせまたこの人もすぐにいなくなる」「好きって言うけど、本当は一瞬だけでしょ?」と勝手に不信感をもって斜めから見ていた気がします。女子大を卒業した後は、気づけば男性がどんどん苦手になっていました。電車やバス、ジムなどはなるべく「女性専用」を選んだり、休日も女友だちと過ごすことが多かったり。または、本当は嬉しいはずなのに、デートで男性に荷物をもってもらうことすら抵抗がありましたし、帰りも家まで送っていくと言われても、「大丈夫、ひとりで帰れるから」と突き放すこともあったのです。私のプライベートを知る親しい人からは、「心音ちゃんって、もしかして男性嫌い?」と核心をついた質問をされることもありました。“嫌いではないけれど、避けてしまう” 自分でも分からないこの男性への接し方は、答えがあるなら教えてほしいと願うばかりでした。心の奥に入ってきた、たった一人の男性そんな男性への不信が強くなるアラサー手前のこと。出会ってすぐに、好意を示してくれた男性がいました。「彼氏はいないの?」「このままずっと一緒にいたい」と。軽い気持ちで声をかけてくるだけの男性に違いないと思った私は、冷たくあしらって社交辞令ですませていました。この人も、きっとすぐにいなくなるだろう。「好き」と簡単に言ってくる男性が信用できなかったので「彼氏はいないけど、もう恋愛をするつもりはない」とまで言って、突き放していた矢先——。なんとその男性は、彼氏彼女を飛び越えて「君を妻にしたい」とプロポーズしてきたのです。©martin-dm/Gettyimages©fizkes/Gettyimages©Mixmike/Gettyimages©flukyfluky/Gettyimages
2018年07月28日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。精神障害者となった兄を献身的に世話してきた両親は、長い年月をかけて現実を受け入れ、ようやく前向きに人生を歩みだしました。いっぽうで私は、人間関係に悩むようになっていきました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol. 20人と人との “距離”ってなんだろう……?精神を病んだ兄に全てを注いできた両親ですが、祖父母の言葉でありのままの現実を受け入れることができ、心にゆとりを持ち始めました。そのことをとても嬉しく思った私ですが、私自身は人間関係に悩むようになっていました。地元にいる時は、自分の意図と関係なく作られる人間関係も、地元を離れると良くも悪くも関係づくりは「自由」です。仕事で出会った人、飲み会で出会った人、友人の紹介で出会った人——。自分のことを正直に話す必要もなければ、相手のことを深く知ることも「自由」。その場限りの人間関係に対して、兄の話をすることは基本的にはなく、「兄弟っているの?」と家族の話題になれば、笑顔で「ひとりっ子だよ〜」と言ったり、「兄がいるけど遠くに住んでいて、まったく会っていない」と言ったりして適当に流していました。小学生、中学生と幼いときの私は、兄に対して「自業自得だ」と酷く不満を感じていましたが、年齢を重ねるにつれて精神的にも少しずつ大人になり、兄のことを責める気持ちは消えていました。しかし、障害を持つ兄の話題をあえて膨らませる必要はないと思っています。それは今でも変わりません。これらの言動は、相手に対して変な心配をかけないための返答であり、“良い嘘” だと感じていただけると幸いです。心の壁が顕著に出るのは、恋愛だった兄の話を具体的に知っている人は、私の周りに今でも少ないです。本当に気心しれた数人のみ。……良くも悪くも、悩んでいたり落ち込んでいたりする姿を極力見せないようにしてきたおかげで、「いつも笑顔で元気な子」「悩みがなさそう」というイメージで生きてこれたと思っています。仕事の人間関係や女友だちの間柄では、そこまで深く悩むことがなかった私ですが、顕著に心の壁が出てしまう時がありました。それは、大学を卒業しても克服しきれなかった、恋愛——。飲み会やデートはたまにすることはあっても、生涯を一緒に歩むことができる男性をイメージすることは、20代後半になってもできませんでした。学生時代の彼以降、何人かとは恋愛関係にありましたが、今振り返っても “作り物の私”。仕事の合間に時々会って、デート。笑顔で写真を撮っては、「また会おうね」と元気にメッセージを送るだけ。彼から距離を詰められると、「最近は忙しいから」「今週は、予定があるから」など、会う頻度をわざと減らすこともありました。「なんか心音って、心を開いてくれないよね」数年一緒にいた彼からは、同棲の話が出たこともありますが「私は、まだ結婚は考えていない」「一緒に住むのは、まだいいや」「自分の時間を大切にしたい」と、言われたら相手が傷つくであろう言葉をわざと言っている自分に薄々気づきながら、素直に恋愛することを避けていました。「なんでそんなに強がるの?」「もう少し、心を開いてほしい」「悩みがあるなら言ってよ」と言われるほど、私の心は殻に閉じこもっていったのです。その時は、ただ強がることしかできなかったけれど、わざと突き放していた本当の理由は、すべてを知られるのが怖かったから。私が兄の立場だったら、家族にこんなふうに思われるのはとても苦痛です。そんな気持ちを抱いてしまうのはよくないことだと思うけれど、相手がどんな反応を見せるのか……。もしかしたら、嫌われるかもしれない。オブラートに包んではっきりとは言わなくても、距離を置かれるかもしれない。自分には、背負いきれないと思われるかもしれない——。誰からもそんなことを言われていないのに、なぜか私は勝手に不安を感じていました。加えて、悩みや弱い部分を知られたら、自分を保てなくなるのではないか? と崩れる精神状態を恐れて、ある一定の人間関係より深くなる瞬間を感じると、突き放す癖が治らなくなっていきました。結婚や子育てのイメージ世の中では、「婚活」がブームになりましたが、幼い頃から兄の世話で苦労していた両親を見ていた私は、「家庭=大変」というイメージがどうしても拭いきれませんでした。もちろん、最愛の人と結ばれて子どもができて、新しい家族とともに幸せな家庭を作ることは、素晴らしいと頭では理解しています。理屈では消化できていても、心がついていかなかったのです。ずっと、ずっと——。©gilaxia/Gettyimages©ljubaphoto/Gettyimages©fizkes/Gettyimages
2018年07月26日「オードリー」若林正恭とテレビ朝日アナウンサーの弘中綾香がMCを務め、ゲストも交え“激レア”な体験をした人を研究する「激レアさんを連れてきた。」の7月23日(月)今夜放送回に、俳優の窪田正孝と川口春奈がゲスト出演する。本番組は激レアな体験をした“激レア”さんのマンガのような実話・実体験話を聴くバラエティ。「九死に一生を得た」や「前代未聞のおバカ事件」まで、そのとき何が起きて、どう行動したのかを、笑いと驚きにリアルに役立つ知識も交えてトコトン研究していく。今回は31歳の時、ガンで余命一年と宣告されるも、あることを極めるため単身アメリカのストリートで武者修行の末3億人の頂点に立ったというヤザワさんが登場。余命宣告を受けてからむしろアグレッシブに挑戦し続けたヤザワさんの笑いと熱狂にあふれた奇跡の物語が語られる。今夜のゲスト、窪田さんが主演し川口さんが共演する新土曜ナイトドラマ「ヒモメン」が7月28日(土)23:15~テレビ朝日系で放送開始。同作は“ヒモ”といえばかつてはホストやバンドマンが中心だったが、女性の社会進出により自立し経済力のある女性が増えたため、どんな男性でもヒモになれる環境が整ってしまった…という日本の現状を背景に、新たなヒーロー像を描くもの。同作で窪田さんが演じる「ヒモメン」の主人公・翔ちゃんは、定職に就かず彼女のお金だけで生きていく道を選んだダメ男だが、彼女のピンチはヒモ生活のピンチでもあるため、彼女の危機に徹底的に立ち向かっていくという“ニューヒーロー”。一方、川口さん演じるゆり子は翔ちゃんと同棲中。あの手この手で翔ちゃんを更生させようと試みるもことごとく裏切られていく。そんななかで仕事とは、愛とは、お金とは、平等とは…という命題について考え、いつしか自分なりの答えを見つけ、成長していくという役どころ。そのほか、ゆり子に恋心を抱き翔に嫉妬の炎を燃やす池目亮介役に勝地涼、ゆり子の同僚で根っからのダメ男好きな田辺聡子役に佐藤仁美、権力に弱く長いものに巻かれるタイプの尾島和子役にYOU、翔行きつけの居酒屋店主・網走太一郎役に金田明夫。さらに田原可南子、皆本麻帆、大幡しえりらも出演する。“働き方改革時代のニューヒーロー”翔ちゃんと、彼の更生に奮闘するゆり子のカップルが織りなす痛快エンターテイメントになりそうだ。「激レアさんを連れてきた。」は7月23日(月)23:15~テレビ朝日系でオンエア。(笠緒)
2018年07月23日先週末、滞在先のバハマで電撃婚約したといわれているジャスティン・ビーバー&ヘイリー・ボールドウィン。先月復縁してからわずか1か月でのスピード婚約に、「あまりにも早すぎるのでは?」とのファンの声も少なくない。また、「最初にアリアナがピート・デヴィッドソンと婚約して、今度はジャスティン・ビーバーとヘイリー・ボールドウィンか。悪魔は働き者だけど、スクーター・ブラウンはもっと働き者だな」と「サタデー・ナイト・ライブ」のコメディアン、ピート・デヴィッドソンと先に電撃・スピード婚約を果たしていたアリアナを引き合いに出すファンも。スクーター・ブラウンとは、アリアナとジャスティン両者のマネージャーで、こうも自分の担当しているアーティストが立て続けに婚約をすれば大忙しに違いないと皮肉った内容だ。そこで立ち上がったのがアリアナ・グランデ。アリアナは「私たち人間は恋愛をするし、人生もあるわよね?それに、スクーターはとても素晴らしい人だわ。いつも私たちの健康と幸せを一番に考えてくれているのよ?」と返信。「恋愛って最高よ。こういうことって起こるもの。あなたもこんな愛を見つけられたらいいわね。あなたにはその価値があるから」と諭すようにコメントした。現在、このファンのツイートは削除されている。(Hiromi Kaku)
2018年07月09日アリアナ・グランデの婚約者で「サタデー・ナイト・ライブ」のキャストであるコメディアンのピート・デヴィッドソン。アリアナとのロマンスでさらに注目を浴びるようになったいま、彼の過去のジョークが「不謹慎極まりない」として批判の的になっている。ピートがジョークのネタとして取り上げたのは、昨年5月にアリアナの英マンチェスターのツアー会場で起きた爆破テロ事件だった。22名の命が奪われた痛ましい事件にもかかわらず、ピートは事件からわずか数か月後に、舞台で「アリアナ・グランデはいかに有名かってことを実感しただろうね。だって、ブリトニー・スピアーズのコンサートがテロリストに狙われたことはないもん」というジョークを披露していた。「Metro」紙によれば、マンチェスターのテロ事件で娘を失くしたシャーロット・ホジソンさんはこのジョークを知り、「このような状況をジョークにするのは、誰にとっても不愉快でしかありません。彼は公式に謝罪をする必要があると思います」といら立ちをあらわにしたという。また、アリアナのファンたちも「信じられない」、「まったくおもしろくないジョーク」とピートを批判している。ピートの代理人は「彼はコメディアンですから…。アメリカ同時多発テロで亡くなった自分の父親のこともジョークにしてしまうくらい、ネタに制限を設けていないんです」とコメントした。(Hiromi Kaku)
2018年07月03日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。精神を患った兄につきっきりになってから、気づけば早10年。走り続けた両親に安堵を与えたのは、祖母や祖父の言葉でした。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol. 19“頑張る気持ち” は、どんどん首を締めるばかり兄の状態が変化し始めてから、気づけば10年近くが過ぎていました。母は仕事をやめて、平日は仕事の父も休日は病院に同行。薬の飲み忘れがないようにフォローしたり、病院や薬に頼ることなく模索したり……。それを、10年も続けたのです。「頑張れ」「精一杯行動すれば、なんとかなる」「道は開けるに違いない」——。それらの言葉は、時として本人たちの首を締める言葉にもなります。私は、両親の “頑張り” に誇りを持っていましたが、それ以上頑張り続けたら両親のほうが疲れ果ててしまうと感じたので、これらの励ましの言葉は一切口にすることはありませんでした。まだできる、もっとできる……。この10年の間、私はプライベートを優先する両親の姿を見たことがありません。旅行や遠出の移動は、兄を連れて行くと周囲に迷惑がかかるため極力避けていましたし、兄は当然自炊ができないので、母や父のどちらかがご飯と薬の用意をしなければならず、夫婦でのんびり過ごすということもしなかったのです。また、病院に行くときはオシャレな格好が似つかわしくないからと、地味な服装で医師や看護師に頭を下げる日々……。たまには、好きな服を着て息抜きに旅行をしたって、罰は当たらないのではないか? と思うほど、両親は自分たちの人生すべてを兄に注いでいました。兄のためにも、「前を向いて生活しなさい」そんな時に支えてくれたのは、祖母と祖父の存在です。祖父母の家には、兄を連れていくこともあり、彼らは実際に兄の様子を目の当たりにしていました。そして、両親が思い悩む気持ちを汲み取りながら、親身に相談に乗ってくれることも……。唯一、兄の状況を知っていた祖母や祖父から言われた助言。それは、「お兄ちゃんは、病気です。前を向いて生活すれば良い」という、励ましでもなく応援でもない言葉でした。兄の状況を過度に悲観するのではなく、受け入れてあげること。そして、両親は自分たちの人生を明るく生きなさいという指針だったのです。兄の状況がよくなることを願う気持ちはみんな同じでしたが、“良い意味” で兄を受け入れることが、両親にとって大切なターニングポイントになったと言います。本来なら、仕事をしてやりがいを得ているかもしれないし、最愛の人を見つけて家庭を持っているかもしれない。そんな期待を抱えていたから、大人になった兄の “今の姿” をちゃんと受け止めることができなかった。それが、両親の本音だったのかもしれません。現状をふまえ、少しずつ気持ちを楽にすることで、張り詰めていた “何か” がほぐれていったのがこの時期でした。おそらく、娘の私が同じ言葉を言っても、両親の心境を変えることは難しかったと思います。祖父母だから言える、“本物の助言”。苦しい時に染み入る言葉は、「何を言うか」ではなく「誰が言うか」が大切だと学びました。以前通っていた病院へ戻ることにそして、両親は高額な自費診療をやめて、2つめに訪れた一番兄が落ち着いていた病院へ兄を再び通わせることにしました。いろいろと問題はありましたが、薬の量や体との相性、処方の方向性などを総合し、最も兄に合っていると判断。毎日思いつめていた気持ちが少しずつ穏やかになっていったのです。母は、パートタイムで仕事に復帰。仕事をする意味は、「お金を稼ぐ」ことだけではありません。仕事をすることで、いろいろな人とコミュニケーションが取れ、たわいのない世間話や趣味の会話をする時間を持てるようになりました。植物が好きな母は、花いじりをしたり、休日はガーデニングのワークショップに出かけたり。父は仕事漬けの毎日を少しずつ改めて、休日は早く起きてゴルフをしたり、ピアノを習い始めたりとアクティブに行動し始めました。“自分の時間” が、両親の毎日にやりがいと楽しみを見出すきっかけに繋がったのです。そんな両親の姿をみて、私は嬉しさを感じていました。いっぽうの私は、進路だけでなく、恋愛に対しても悩みを抱えていました。——。明るく振舞うことは得意だけれど、弱さや悩みをさらけ出せる、深い関係を築くことがうまくできなかったのです。©Zinkevych/Gettyimages©CaoChunhai/Gettyimages©AH86/Gettyimages©Ulianna/Gettyimages
2018年06月23日歌手のアリアナ・グランデ(24)がコメディアンのピート・デヴィッドソン(24)と婚約したと報じられている。『サタデー・ナイト・ライブ』などでおなじみのピートと交際を始めてわずか数週間しか経っていないアリアナだが、すでに2人が結婚に向けて動いていることを近しい関係者が明かした。アリアナ・グランデ(右)とピート・デヴィッドソン(c)Instagramピープル誌に対してその人物は「婚約したのは最近の話です。2人は素早く愛を見つけ、互いをいつも幸せにすると分かったのです。先週くらいからその話をし始めています。2人の間に隠し事はないのです」と話す。アリアナはマック・ミラーとの破局発表後間もない5月にピートと交際をスタートし、その月末にピートが2人でおそろいの『ハリー・ポッター』のローブを着ている姿をインスタグラムに投稿することで交際を公にしていた。今回の婚約報道に、周囲の人間も焦りすぎではないかとの見方を示しているが、アリアナは自ら「有害だった」と表現するマックとの関係を経て、愛を欲していたと言われている。アリアナを知る人物の1人は『エンターテイメント・トゥナイト』にこう明かした。「アリアナは悪い恋愛をしていましたが、自分を大切にし、笑わせてくれて、幸せにしてくれる相手に出会えたんです。恋愛においてピートはとても優しく、全力投球なタイプとして知られています」「愛されることを求めていた女のこと、ピートのようなタイプの男性が付き合い始めたわけですから、すべてはものすごいスピードで進みますよ」「2人にとって、この恋愛は過去の関係に比べて天国のようなものなんです。2人はその天国にしがみつき、感激しているんですよ」(C)BANG Media International
2018年06月13日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。精神疾患の兄は薬の量も半分に減り、落ち着きを取り戻したかと思った矢先。両親は、新聞に大きく載っていた自費診療の病院を発見しました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol. 18両親は、誰よりも兄の回復を待っていた兄がお世話になった病院は、今まで2か所。両方とも、保険が適応される精神科でした。高校のある時期から激変した彼の状況に戸惑いながらも、やっと慣れてきた生活でしたが、両親は障害者手帳を発行された後も、兄の回復を諦めませんでした。「お兄ちゃんは、どこも悪くない」「また何かの拍子できっと、よくなる」と……。もちろん、自分の子どものことですから、両親が兄を良くしたいと思う気持ちは痛いほどわかります。しかし、妹の私からすると、当初に比べれば兄の状態はだいぶ落ち着いてきたように思えました。暴力的な言動や、過度の引きこもり生活を抜け、薬の量が半分に減り、入院ではなく通院に変わり病院に行く頻度もかなり落ちている。また、障害者手帳の申請や、障害者年金の受理までしているのだから、両親はもう少し気持ちを楽にしてはどうかと客観的に見ていました。世の中にあふれている「広告」そんなある日、「お兄ちゃんの病院を変えようと思う」と母から連絡がありました。なぜいきなりそんなことを言い出したのだろうか……?と考えていたのですが、よく聞けば新聞に大きく載っていた精神科に最後の望みをかけて診てもらいたいとのこと(当時は、藁をも掴む思いだったので深く考えていなかったけれど、その新聞掲載は記事ではなく広告だったそうです)。私は実家から離れて暮らしていたので、どんな状況だったかはわかりませんが、「都会に有名な精神科があるらしい」と田舎生まれの両親が言うのです。内容を詳しく聞いてみると、その病院は保険がきかない自費診療。実家から電車と新幹線、そして診察代や薬代を合わせたら1回行くだけでも約5万円くらいはかかります。正直、心の病気で悩んでいる人が一向に減らない現代で、自費診療を受けたから何かが急激に変わるとは思えず、私は半信半疑でした。しかし、基本的に、病院のことや薬については両親が決めていることなので、「興味があるなら、行ってみても良いんじゃない?」と反対はしませんでした。診断結果と処方薬が変化し、さらに悪化父が休みのときは一緒に行くこともありましたが、基本的に母と兄の2人で都会の病院へ通うようになりました。2年半近くそこの病院にお世話になりました。病名は、統合失調症ではなく「高次能機能障害」と診断があり、処方内容も異なりました。1回の診察で約5万円かかるので、総合的にみるとかなり高額な費用だったと言えます。結論からいうと、その病院に通って兄の病状は悪化してしまいました。高額な費用がかかったにも関わらず、兄はいつも興奮している状態で、当初の荒々しい兄に戻ってしまったかのよう……。両親が当時を振り返ると、「ビジネスとして成り立っている病院もあると思う」とのこと。もちろん、私たち以外の家族では成功した例もあるかもしれませんし、兄とは診察内容が合わず無念な結果になっただけ。そう思いたいのですが……。夢中になっている両親を救った言葉しかし、働くことができない状況の精神障害患者を対象に、自費診療を家族が長らく続けることは現実的に考えると難しい計画です。また、個人的な意見では、新聞に広告を出す予算があるならば、診察料をもっと良心的な値段に落としてもいいのではないでしょうか。とはいえ、「精神障害」患者を抱える家族にとっては、どんな手段でもいいから改善したい、社会復帰のためになんとかしたい、と辛抱強く頑張るケースは少なくありません。そんな藁をも掴む想いで頑張り続けた、両親を救った言葉。それは、祖母や祖父からの助言でした。©Geber86/Gettyimages©Daniela Jovanovska-Hristovska/Gettyimages©kieferpix/Gettyimages©AH86/Gettyimages
2018年06月07日2011年10月、新婚の頃のメーガン・マークルとトレヴァー・エンゲルソン(写真:Splash/アフロ) 英国のヘンリー王子と結婚し、サセックス公爵妃となったメーガン・マークル。離婚歴のあるプリンセスが誕生したことになるが、彼女の元夫も婚約していたことがわかった。 マークルは2004年、映画プロデューサーのトレヴァー・エンゲルソンと出会い交際を開始。6年後の2010年9月10日にジャマイカのリゾートホテル、ジャマイカ・インで102人のゲストを迎えカジュアルな結婚式を挙げた。列席者の一人が式の様子をSun紙にこう語っている。「セレモニーは15分程度で終わり、みんな速攻でダンスフロアに降りていきました。全員が単にパーティーがしたかっただけみたいに見えましたね」。 2人の蜜月は2年も保たず、2013年8月に破局。離婚理由はいわゆる“性格の不一致”とされているが、関係者は原因の一つにマークルがドラマ『SUITS/スーツ』にレギュラー出演することになったことが挙げられると話す。撮影の行われるトロントと、エンゲルソンが拠点を置くロサンゼルスは飛行機で5時間の距離だ。「メーガンがレイチェル役を手に入れたのは、結婚する2、3カ月前のことでした。2人はそれまで6年間一緒にいたのに、結婚後間もなく離ればなれになってしまったんです。遠距離結婚を頑張って続けようとしていましたが、それはとても難しいことだったようです(前出の関係者)」。 エンゲルソンは、元妻のロイヤルウエディングの約2週間後、栄養士のトレイシー・カーランドにプロポーズしたことをInstagramのプライベートアカウントで公表。「僕は最強の運の持ち主だ!」と喜びをあらわにしていた。
2018年06月05日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。大学を卒業したのち、私は初めてのひとり暮らしを経験。「自分の空間」を作ったことで、ストレスが軽減されていきました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol.17自分を高める時間が、心を強くしていった大学時代の私は、ほとんど家には寝るためだけに帰る生活でした。音大だったので日中の授業はもちろんのこと、放課後や夏休み、GWなどもすべて練習しているか演奏の本番が入っているハードなスケジュール。そして、空いた時間を利用してアルバイト。始発と終電の繰り返しの大学生活では、高校の頃ように、家族や兄について深く考えることも減っていきました。周りの友人は、個性があって自分の関心ごとを極めたい気持ちを持った人々ばかり。先輩や後輩または、外部から派遣されたレッスンの先生も、専門分野のことを中心に生活しています。地元で生活していた時に感じた、人の噂話で井戸端会議をする人たちも少ない。他人の生活を詮索したり比較したりする暇があるならば、自分の技量を高めるためにに時間を費やしていると表現したほうが正しいかもしれません。人は、何かにか夢中になっていたり、関心の高いことがあったりすると、他人に干渉しなくなるのかもしれません。自由な生き方を認めてくれる、両親理解ある両親のもと、大学卒業後の進路は……ずばり「未定」。とはいっても、音楽や芸術の大学を卒業した後に、私のようになるケースは少なくありません。薄々気づいてはいたけれど、楽器を仕事に結びつけることは現実的ではありませんでした。しかし、小学生の頃から身近だった音楽。形にならないからといって、すぐにきっぱりと切り捨てることもできない。また、“趣味” のようにたまに触れるだけというのは、少しずつ技量が落ちている自分を再確認するだけの虚しい時間でした。そして、私は大学卒業後も、生活費を稼ぎながら、細々とレッスンに通ったり演奏したりしていました。良く言えば、“夢見る音楽家”。悪く言えば、“ただのフリーター”。そんな状況でも、両親は「心音の人生だから、好きに生きなさい」「健康でいてくれるなら、それでいい」といつも認めてくれました。「うちは、お兄ちゃんがこんなふうだから、心音が頑張っていることが、お父さんとお母さんの支えだ」と言われたこともあります。実家を離れて、ひとり暮らしをスタートしかし、20歳を超えて、いつまでも甘えているわけにもいけない。大学時代はずっと実家にいましたが、特にあてもないまま大学卒業後にひとり暮らしを始めました。初めての家賃、初めての光熱費。今までは全部両親が支払っていてくれた生活費や、細かい生活用品なども “当たり前” ではなかったんだとひとり暮らしをしてから、やっと気づくことができたのです。ひとり暮らしは大変なこともありましたが、良いことも多くありました。それは、「自分の空間」ができたこと。小学校の時から、朝の目覚めは大抵が兄の騒ぎ声。学校から家に帰ってきても、「薬は飲み終わったのか」「洋服をちゃんと着替えなさい」「お風呂に入りなさい」……そんな、毎日繰り広げられる両親と兄のやり取りは、「自分の空間」をなくすばかりでした。学生時代の醍醐味であろう、友だち同士の “お泊まり会” を経験したこともなかったですし、「うちに遊びにきていいよ」と声をかけることすらできませんでした。高校時代の彼も、「なぜ心音の実家に行ってはいけないのか」と悩んでいたことが、頭をよぎります——。「自分の空間」は、心の負担を減らす私のひとり暮らしは、プライベートを充実させることができたのはもちろんのこと、心の負担がかなり減りました。借りた部屋は、実家から電車で20分程度離れた場所。両親はいつでも来られる距離でしたし、私も帰ろうと思えばいつでも帰れる距離。この “適度な距離” が、私にとって自分を見つめ直す良い機会になったのです。朝は自分の決めた時間に起きることができて、キッチンで料理をしていても危なっかしい兄の姿はない。夜中にお風呂に急に入ったり突然騒ぎ出したりすることもない……。兄から離れて自分の時間を大切にする、という選択をとった私の行動が、「逃げ」「現実逃避」だと感じる人もいるかもしれません。しかし、兄を客観的に見ることができてストレスが減ったのは事実です。両親に余計な心配をかけてはいけない。兄のことは、私から口出ししないほうが良い。そんな暗黙のルールが漂うなか、ひとり暮らしを始めたことで少しずつ自分の居場所を作ることできるようになっていきました。そんな、落ち着きを取り戻したある日、両親は新聞に大きく載っていた高額な自費診療の病院を発見。実家からは電車と新幹線を乗り継ぐ距離の、都心にある精神科でした。©cirano83/Gettyimages©ipopba/Gettyimages©Eva-Katalin/Gettyimages©monkeybusinessimages/Gettyimages
2018年06月01日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。女子大へ進学した私は、自分の関心があることに夢中になる日々。恋愛からどんどん遠ざかっていきました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol.16深くなる関係を恐れて、恋愛を避けていたバイト先が同じで、毎日のようにバイクで送り迎えをしてくれた元彼の前では、素直な自分でした。いつも私のことをサポートしてくれていた、頼れる年上彼氏。しかし、支えてくれることが、少しずつ大人になる私にとって逆に辛いことでもありました。彼のことが、嫌いになって別れたわけではありません。「もう、これ以上踏み込んで欲しくなかった」。これが、本音です。恋愛は、絆が深まるほど、お互いの生活に溶け込むことになります。家が近いから、一緒にいて楽しいから、見た目がかっこいいから。そんな小さなきっかけで始まった幼い恋は、月日が経つにつれて妙なプレッシャーへと変わっていったのです。両親の理解から、好きな分野を学ぶ……地元での青春はそろそろ終わり。自分の進路に向き合って、大学を選ぶ時期には、すっかり彼のことは頭からなくなっていました。両親に進学の相談を持ちかけたときのこと。「就職先は安定したところに」「将来性のある大学を」「結婚をして早く家庭を持ったほうがいい」など、子どもの将来を応援したい気持ちから出てくる言葉を親が子どもに言うことはよくあります。しかし、私の両親は、一度もそういったことを言いませんでした。背景には、心の病を抱えた兄の存在があります。毎日元気で笑顔に過ごしてくれたら、お母さんとお父さんはそれだけで嬉しい。いつもそう言いながら、「心音の好きなように生きなさい」と、私の気持ちを大切にしてくれたのです。私は大好きな音楽を専攻することにしました。一般的に、音楽や芸術関係の大学に進もうとすると、両親から止められるケースが多いのです。なぜなら、将来それを生かした仕事に就きにくいから。音楽や芸術は、目指してもゴールがある世界ではありませんし、学校で専門的に学んでも道が開けるかどうかはまったくの別問題。たとえ技術が高くても、周囲の評価が低ければ仕事にはなりません。当事者は、一生懸命勉強していても「趣味の世界」「お金がかかる遊び」だと、言われることもありました。興味関心が同じ、女友だちが心地よかった音楽という、不安定で先の見えないといわれがちな分野にも関わらず、私の両親は「やりたいことをやりなさい」と背中を押してくれました。それこそ、兄の時と同様に、世間の目はさまざまだったと思いますが、それでも私の味方でいてくれたのです。私は、県外に通う女子大生になりました。その大学は演奏だけでなく、楽器を修理したり、指導したりするなどのユニークな授業が評判で、遠方から学生たちが集まっていました。私は、その新しい環境に出会えたことで、居心地の悪い地元の生活から解き放たれていったのです。学校にいる男性といえば、先生のみ。同級生、後輩、先輩とすべて女子だったので、意識的に男性と交流しなければ恋愛に発展することもない環境は、私にとっては気持ちが楽でした。恋愛? めんどくさい……。たまにご飯くらいなら大学の進路が決まったと同時ぐらいにお別れした彼とは、2年近くはまじめに交際していたと思います。しかし、心の距離が近くなるにつれて苦しくなっていきました。好きな人だからこそ、家族のことが言えない。それを経験した私は、“うわべの恋” が得意になっていきました。合コン? デート? たまに、ご飯……。「華の大学生」とも言いますが、出会いや誘いも多くあるなか、特に本気になることもなく、たまに息抜き程度に遊ぶだけ。早い同級生は、大学在籍中から付き合っていた彼氏と、そのまま結婚というパターンもありましたが、兄のことが心に引っかかっている私にとって、恋人に自分の境遇を理解してもらって “結婚” するなんてことは、想像すらできなかったのです。©PeopleImages/Gettyimages©Professor25/Gettyimages©Bojan89/Gettyimages©skyneshe/Gettyimages
2018年05月22日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。通い慣れた精神科で、まさかの出入り禁止になった兄。バスに揺られて新しい病院へ向かいました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol.15誰にも相談できずに通い続けていた他の患者さんへ迷惑行為を重ねたために「出入り禁止」となった精神科は、兄が初めてお世話になった病院。入院と通院を始めてから、気づけば5年の月日が過ぎていました。その間に前進したことは、病名が統合失調症と判明したことや薬を毎日23錠飲むこと。そして、長らく通った病院から診断書を書いてもらうことで障害者手帳を申請し、重ねて書類の内容から障害者年金(※)を受け取れるようになったことです。※障害者年金は、診断書の内容や生活状況などで国から降りる金額が異なります。身内や近しい人たちにこのような経験をしている人はおらず、相談する先はいつも病院か市役所でした。兄がこのような状態になってからは、誰に相談したらよいのか? 正解はどこにあるのか? と、両親は日々模索したといいます。しかし、兄の病気のことは公にはできないため、家族間で内密にしながら改善方法を探すのは困難を極めました。インターネットやスマホの普及に伴って、たくさんのweb情報が公開されている現代にも関わらず、「精神障害」については触れにくくセンシティブな問題。信頼できる情報を探すことは、非常に難しいことでした。そして、「精神障害」に関する本を読んでも参考にはなるけれど、気軽に相談できるような相手ではなかったり情報元が古かったり……。ましてや同じ病院に通っている家族に聞いても、お互いに悩んでいることは同じなので、解決策はありません。そんな出口のないトンネルを、両親はひたすら彷徨い続けていました。「出入り禁止」が、逆転の発想に繋がる当時は、この「出入り禁止」を言い渡されたことはショックでしたが、今思えば違う医師の意見を聞く良い機会だったと思っています。相談する先がないため、両親は常に病院の方針と医師の言葉に従うだけの日々。「薬を◯錠飲んでください」と言われたら、疑いの余地もなく飲むしか選択肢がありませんでした。しかし、新しく訪ねた精神科で初診を受けたときのこと。病名は同じ統合失調症でしたが、薬の量がなんと1日12錠になったのです。嘔吐や気性の激しいアップダウンに耐えながら、23錠を5年間飲んでいたのにも関わらず、違う医師に診てもらったら半分近くまで薬の量が減少……!母に当時のことを聞いたら、「初めの病院は、薬が強いものが多く出されていた」「その時は相談する相手がおらず、医師の指示に従うしかないと思って鵜呑みにしていた」といいます。セカンドオピニオンの大切さを感じた出来事に変化したのです。病院によって方針がまったく異なるもし、あの「出入り禁止」がなければ、今も診察内容を疑わずに大量の薬を飲み続けていたかもしれない……そう思うと、不安がよぎります。もちろん、右も左もわからない状況の中、病院や医師のサポートのおかげで、いろいろなことが前進しました。しかし、二つ目の病院では薬の量が半分近くになった。これは、兄の体への負担を考えると、減らしたほうが良かったと素人の私たちには思えました。もし、同じように精神科の薬で悩んでいる方がいたら、腰が重たくても違う病院の診察を受けたり、違う医師の言葉に耳を傾けてみたりすることを強くオススメしたいと思います。外科のように、目に見えて切り傷が治っていく様子がわかれば良いのですが、“心の病気はその治っていく様子が見えない” のが難点です。診察後は基本的に、「飲み薬」が出されるのみ。症状が悪化したことを報告しても、また違う薬を重ねて出すだけ。その繰り返しで、どんどん薬の量が増えていくのです。初めての経験で、周囲に相談ができない状況のなか、見たこともない薬の名前をただひたすら飲む……。もちろん、それらが体に合っていて、症状が良くなっている兆しがあれば良いのですが、疑わずに副作用の強い薬を飲み続けるのは、私たちの経験からも一度見直したほうが良いと感じています。大学へ進学した私は、彼への壁が厚くなり……。その頃、高校を卒業した私は、県外にある女子大へ進みました。専攻は、幼い頃から心の支えだった音楽。「家族のことを教えて欲しい」と踏み込んでくる彼氏の言葉に耐えられず、私は彼とお別れを告げて自分のやりたいことに専念し始めます。今思えば、あの彼が唯一 “自然体な私” を知る男性でした。そこから私は、女子ばかりの大学生活を送り、男性と深い距離になることが難しくなっていきましたーー。©AngiePhotos/Gettyimages©Doucefleur/Gettyimages©tommaso79/Gettyimages©tommaso79/Gettyimages
2018年05月16日JYJのユチョン(31)が、かねてより結婚を予定していた婚約者で韓国の大手乳業会社・南陽乳業会社創業者の孫のファン・ハナさんと破局したことがわかった。5月15日に韓国メディアが報じた。 報道によるとユチョンの所属事務所であるC-JeSエンターテインメントが「2人は最近恋人関係を解消した」と破局を認めた。「そのほかについては私生活のためお話することができないことをご理解下さい」とコメントしているという。 ユチョンは’17年4月にハナさんとの結婚を電撃発表。同年9月10日に挙式を予定していたが、延期を繰り返していた。一部ネットユーザーの間では破局説が浮上するも、ハナさんのSNSでは度々、ユチョンと思われる男性との仲睦まじい様子が投稿されていた。 しかし所属事務所は、韓国メディアに対し「互いの家から荷物をすべて引き上げた。これ以上、縁はない」と回答。ついに“完全破局”を迎えたようだ。 ユチョンの左腕にはハナさんらしき女性のイラストと、挙式予定日だと思われる「0922」という数字のタトゥーが入っている。今回の報道で再びタトゥーに注目が集まり、ファンからは「タトゥーどうするんだろう」「消す方法が気になる」「別れたことよりタトゥーのほうが気になるww」といった反応があがっている。
2018年05月16日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。お世話になっていた近所の病院へ勝手に出入りする兄は、気づけば迷惑行為をするようになっていました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol. 14「家からすぐそこ」が逆効果だった田舎だった私の実家は、スーパーに行くのもコンビニに行くのも、徒歩30分はかかりました。近くにあるものといえば、自動販売機と雑貨洋品店くらい。ですから、車がないと生活ができません。そんな環境ではありましたが、母は車を運転できなかったので、遠出をするときや買い物をするときは、いつも父が出向いていました。困ったのは兄の通院です。平日、父は仕事で朝から晩までいないため車を出すことはできません。すなわち、病院はなるべく近い場所が好ましかったのです。幸運にも、近所の精神科は徒歩10分程度。自動販売機の次に近い場所にあったと言ってもいいくらいの距離でした。つまり、兄の通院は「すぐそこ」に行くだけ。これが、母にとってメリットだったのですが、兄にとってはデメリットでもありました。ひとりで勝手に病院に行く兄骨折や切り傷は、「治療が終わればまた元の生活ができる」というゴールがありますが、兄の病気はそういうものではありません。ですから、正直なところ精神科病棟は患者もその家族も、どんよりとしています。私がこうして綴っているように、精神的な病気を持つ人が家族にいると、終わりのないマラソンを走り続けているようなもので、基本的に顔は曇り空。明るく病院内で過ごすのは、難しいことでもありました。さまざまなタイプの精神的な治療を受ける患者がいるなか、兄は必要以上に人に話しかける性格でした。もちろん、精神安定剤を飲んでいるため、本来の兄の性格や本望だったかと聞かれたら答えはわかりません。母が目を離した隙に勝手にひとりで病院へ行き、患者さんに声をかけたり、見ず知らずの女性に電話番号を聞いたり、「たばこをちょうだい」と言ったり。そうしたことが続き、ついに医師からの呼び出しを受け「診察中止と病院の出入り禁止」を言い渡されてしまったのです。飲み込むしかない医師の言葉実家の周りには、もちろん他に精神科はありませんでした。母は、バスや電車を使って兄の通院をサポートしなければならない。どんよりとした空気で居心地は決してよくないけれど、やっと通い慣れた病院。そんな頼みの綱から、まさかお断りをもらうとは……。もちろん、病院側の立場になれば無理もない話で、多くいる他の患者やその家族たちに迷惑がかかるのは好ましくありません。医師からの宣告に、反論する余地はありませんでした。一から病院を探し直すことにそこで長らく通った近所の精神科を横目に、バスや電車でなるべく通いやすくて兄に合うような精神科を紹介してもらうため、県内で有名な大学病院に相談しに行きました。そして、利便性、評判、入院施設の有無などトータルで好印象だった病院を紹介してもらい、切り替えることになったのです。兄と母はバスに揺られて初めての診察へ。新しい病院で緊張しながら状況を話すと、医師の口から思いがけない診察結果が返ってきましたーー。©jsmith/Gettyimages©Михаил Руденко/Gettyimages©tuaindeed/Gettyimages©Milos-Muller/Gettyimages
2018年05月05日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。初めてできた彼氏に家のことを聞かれた私は、いつもの笑顔が消えて言葉が詰まってしまいました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol. 13彼と過ごす時間は特別同じバイト先で働く、4つほど歳の離れた定時制に通う彼。大きなバイクで学校まで迎えに来てくれて、そのまま彼の家で過ごしたり、バイト先のお店まで送ってもらったり。自宅からすぐの距離に住んでいたこともあり、私たちは毎日のように会っていました。彼は、校内の様子は知らないし、私の同級生とも特に接点はない。この距離感が、私にとっては気が楽だったので、普段学校の友人や家庭内では見せることのない、素直に甘えられる “本当の自分” に戻ることができていました。「家族について教えてよ」しかし、行く場所といえば常に彼の実家。私の実家は、友だちですらあがったことがありませんでした。兄が家にいるので、むやみに人を連れていって兄が安易に話しかけたりすることがイヤだったからです。高校生にもなれば、友だちと “お泊まり会” もよくあると思いますが、私の家には1回も呼んだことはありませんし、来て欲しくもありませんでした。とはいえ、1年以上も交際していれば、彼は「なぜ心音は自分を実家に招くことを嫌がるのか」、知りたがるようになったのです。「俺は実家に呼んでいるし、両親や兄弟にも心音のことを紹介してるのに……」と不満そうな顔を見せては、「まあ、いいけどさ」と半分諦めモード。「お父さんが厳しいから、彼氏がいるのは秘密にしたいんだ〜」と、適当に理由を言っては心の中で「お願い、触れないで」と叫んでいました。「俺の兄も、精神安定剤飲んでたよ」けれども、なんで私がそんなに実家がイヤなのか、ふとしたタイミングで言ったことがありました。「実は、私のお兄ちゃんずっと家にいるの」と。詳しくは告げず、「心の病気があって、家にいるんだ」とだけ説明したのです。彼の反応は、「そうなんだ、もっと早く話してよ〜。そんな気にすることじゃないよ。俺の兄も、前精神安定剤飲んでたし」という言葉。少しだけ安心したと同時に、「でも彼のお兄さんは、ちゃんと働いてるじゃん」。正直、精神安定剤を飲んでいたり、精神科にカウンセリングを受けたりという人は、表立って言わないだけで、多くいると思います。障害者手帳を持つまでは至らなくても、心のバランスを保つことが難しく、仕事をしながら精神科に通っている人は決して珍しい話ではありません。でも、私の兄は、働くなんて到底無理。会話でさえも成立させるのが難しいのですから。同じように心の病を抱えていても、彼の兄と私の兄では、雲泥の差がある……。彼との認識のズレに心がチクチク痛みました。……「やっぱり、実家に来ることはやめて欲しいな」という言葉しか出てきませんでした。通院していた病院先でその頃、近所の精神科に通院していた兄は、病院で開かれるデイサービスやイベントにも参加していました。病院に通っている患者はもちろん他にもいます。気さくに人とコミュニケーションしたがる人、自分の殻にこもって人とは接したくない人、家族とは話すけど医師には口を閉ざす人。さまざまな人々がいました。兄は、家から歩いてすぐだったその精神科に、診察やデイサービス以外にも勝手に足を運ぶようになっていきました。そこで、“ある問題”を起こしてしまいます。©petrenkod/Gettyimages©PeopleImages/Gettyimages©kitzcorner/Gettyimages©sudok1/Gettyimages
2018年04月25日「オードリー」若林正恭とテレビ朝日アナウンサーの弘中綾香がMCを務める「激レアさんを連れてきた。」。4月23日(月)今夜の放送回はゲストに今月末から公開の『ママレード・ボーイ』より桜井日奈子をゲストに迎えお届けする。各所から驚きの人生を歩んできた“激レア”な人を招いてその歩みを紹介する本番組。今回は廃業した映画館を自宅にして住んだ結果、映画館を営業する羽目になった人とその妻が登場。映画館復活までのロマンあふれる感動秘話をお楽しみに。「岡山美少女・美人コンテスト」で「美少女グランプリ」に選ばれ“岡山の奇跡”として話題に。その後「いい部屋ネット」や「白猫プロジェクト」のCMで注目され「そして、誰もいなくなった」で連続ドラマ初出演。女性警察官役で出演した「THE LAST COP/ラストコップ」シリーズは映画化もされ、最近では「もみ消して冬」にもゲスト出演するなど女優として目覚ましい活躍ぶりをみせる桜井さんが、今最も注目される若手俳優の1人、吉沢亮とW主演。吉住渉による1000万部突破の大ヒットコミックを映画化した『ママレード・ボーイ』は4月27日(金)より全国にて公開。桜井さん演じる天真爛漫な女子高生の小石川光希はある日突然、両親から離婚することを告げられる。ハワイ旅行で出会った松浦夫妻と気が合い、母親がその夫と、父親がその妻と恋に落ちたため、なんとお互いパートナーを交換して再婚すると言うのだ。しかも松浦夫妻の1人息子で光希と同い年の遊も含めて、みんなで一緒に暮らそうとまで言い出す始末…。いきなり同居することになる頭脳明晰でスポーツ万能のイケメン・遊を演じるのは、昨年『銀魂』『斉木楠雄のΨ難』などが大ヒット。今年に入ってからも『悪と仮面のルール』『リバーズ・エッジ』など立て続けに出演作が公開、今後も『BLEACH』などが控える吉沢さん。2人の家族として檀れい、筒井道隆、中山美穂、谷原章介らも出演する。『ママレード・ボーイ』は4月27日(金)より全国にて公開。「激レアさんを連れてきた。」は4月23日(月)今夜23:15~テレビ朝日系で放送。(笠緒)
2018年04月23日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。精神障害者保健福祉手帳の2級を発行された、兄。両親でさえ、この状況を受け入れることに時間がかかりました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol. 12直視できないのは、私だけではなかったこの連載を読んで、兄の凄まじい変化に胸が痛んでいる方もいらっしゃると思います。その胸の痛みは、当時の私たち家族が感じていた紛れもない事実。妹である私ですら、この現実を直視することができずに心をかたく閉ざしていったことを今でも覚えています。そして、両親はさらに苦しい気持ちだったと私は想像しています。なぜなら、障害者手帳が発行された後も両親は、兄のことを周囲に言わなかったからです。この事実を隠していました。冷たく鋭い世間の目唯一両親がこの事実を話していたのは、祖父母と両親の兄弟のみ。本当に近い身内だけが知っていました。両親が仲良くしている古くからの友だちや知り合い、近所の人などは兄がこのような経緯を辿ったことは知りません。「世間体なんて気にしなくても良いじゃん」という意見もあると思いますが、この話をしたことで私たちが得るのは、多くの人からの「かわいそうだね」「大変だったね」と哀れみや同情の言葉だけ。兄が良くなるわけではありません。たとえ遠い身内だったとしても必要以上に兄の話をするのは、余計に私たちがストレスを抱える原因にもなったので、両親もなるべく内密にするようになったのだと察しています。また、よくある “親戚の集まり” のようなものも、兄が迷惑をかける可能性があるため、ほとんどうちにはありません。物心ついた時から結婚式やお葬式、法事などは両親のみが参加。兄は参加しないのが家族のなかでの暗黙の了解でした。“諦めと守り” の意味を理解する兄の回復を切に願っていた両親ですが、明るい兆しは一向に訪れる気配がなく、苦渋の決断をして、障害者保健福祉手帳を申請しました。これは、仕方のない選択でした。しかし、この決断は、デメリットだけではありませんでした。精神障害者保健福祉手帳の2級を発行された兄は、障害者年金として2か月に1回、国から13万円の援助金をもらえることになり、病院の診断や薬代の負担が軽くなったのです。また、交通機関が無料になるなど、地域によって異なるものの、待遇を受けられることに。こうして時間はかかったものの、「障害者」になることを選んだことで、兄を守ることができた。そう考えると、非常に前向きな選択だったと言えることでしょう。今となっては “生活の一部” となっているこの状況も、当時の両親からすると “ギリギリまで諦めたくなかった” というのが本心だと思います。なぜなら、もっと早い段階で障害者手帳を手にすることができたから。8年粘り続けてやっとの思いで申請した。これが、両親の決断だったと思うと、私は深い拍手を送りたいと心から感じています。その頃、私は初めて彼氏ができたこの頃、私は高校生。地元の飲食店でアルバイトを始めた私は、同じバイト先の年上男性と距離が近くなっていました。高校2年生から付き合い始めて、1年半か2年近く一緒にいました。第一希望の高校を落ちた私は、特に楽しみを見いだすことができずにただ通っていた高校生活と、冴えない家庭の間に挟まれて、バイトで元気に働くことが唯一楽しい時間でもありました。家も自転車ですぐ近くの彼。一緒にいる時間が長くなるにつれて、言葉が詰まる質問。それは、「心音の家族って、どんな感じなの?」という話題でした。好きな人に一番聞かれたくないことだったのです……。©laflor/Gettyimages©c11yg/Gettyimages©undefined undefined/Gettyimages©Toru-Sanogawa/Gettyimages
2018年04月18日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。病院通いと大量の薬を飲み始めて、4年近くが経とうとしていました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol. 11他人事のような発言に虚しさを覚える通っていた精神科の先生は、毎日心の病を抱える人たちと接して仕事をしているからか、先の見えない闘病生活に慣れている印象。「ご両親も、あまり肩に力を入れずに過ごしてくださいね」と、言われることもありました。正直、他人と身内では兄の病気に対する思いは雲泥の差です。「『あまり肩に力を入れずに』なんてよく言えたものだな」と、両親が呆れて帰宅することもありました。かつては学校で人気者だった兄が、たまたまこうなってしまっただけ。すぐに良くなる。そう願って両親は、兄に良い影響を与えると聞いたことは全て挑戦していました。薬と病院 “だけ” を頼りにしていても解決する見込みがないので、デトックス効果があると言われる話題のジュース、パワースポットでお参り、サプリメントや料理方法など、とにかく “なんでも” 良いと聞いたことは兄に試す。そんな日々だったのです。「病気」と認めたくない葛藤兄は、高校をやめてから3年間引きこもり、そこから病院に通いだしてもうすぐ5年目に差しかかろうとしていました。気づけば、25歳。周りの同級生は大学に進学したり、就職したり、早ければ結婚して家庭ができていたりと充実している様子です。そんななか、先の見えないトンネルをひたすら歩き続ける兄は、大人になるどころかひとりでは何もできない状態にどんどんなるばかり。薬と母親の付き添いがなければ、何もできません。それでも、「まだ治る」と信じていた両親は、兄に大量の薬を飲ませ、看病をします。「まだ治る」「肩の力を抜いてください」という、両親と医師の相反する言葉は、両者の葛藤を表している言葉だと私は感じます。8年を経て、両親が出した答え入院してすぐに兄の病名はわかったものの、それでもまだ「病気を抱える健常者」。このまま粘っていても、先は見えない。高額な医療費をいつまで払い続けるかもわからない……。治ると信じて戦い続けた結果、両親が下した決断は「障害者手帳」の申請に踏み切るということでした。障害者手帳を発行する手順は、通院していた病院に診断書を書いてもらい、住んでいる市役所に申請。診断書が全てで審査などははありませんでした。兄は、障害者になった障害者手帳には、大きくわけて、身体障害者手帳・療育手帳(知的障害者用)・精神障害者保健福祉手帳の3種類があり、さらに階級が分類されます。私の兄は、統合失調症の診断から「精神障害者保健福祉手帳」に当てはまり、1級〜3級まであるなかの2級。1級から順番に重度の障害と見なされ、国から降りる金額や待遇、保護などが異なりました。今までの入院や通院の様子、飲んだ薬などの診断書から判断されたのですが、兄は一番重度ではないものの、社会の適応が難しく両親のサポートが必要。そして、部屋のなかでは身動きができるが、自己判断できる精神状態ではない。そんな状況からこの結果になりました。自分の子どもがついに「障害者」になった瞬間。この選択をするまでに、8年かかったのです。©wutwhanfoto/Gettyimages©ClarkandCompany/Gettyimages©BrianAJackson/Gettyimages©kaipong/Gettyimages
2018年04月10日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。大量の薬に不信感を抱いた母は医師に相談すると、思いがけない辛い言葉が返ってきました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol. 10母は精神的な病気について勉強する日々自宅で療養していても、兄は一向に良くならず、費用はかかるけれど、定期的な検査入院を繰り返していました。嘔吐がどうしてもひどい薬についてお医者さんに相談したり、大量に飲む水の対策を考えたり。検査入院をすると、兄の行動を医師が観察することができるので、良い方法だと考えたからです。そして母は、病院や薬、医師だけに頼ることなく、精神的な病気に関して自ら調べるようになっていきました。同じような境遇にいる家族が出している書籍を読んだり、セミナーに参加したり。全く知識がないところから、心の病気がどのように作られるのか、自律神経とは何か、薬の飲み方は本当に正しいのか。気づけばいろいろな精神障害について詳しくなっていきました。頭が真っ白になった言葉しかし、改善が見られない兄を心配して、診察の時に「どのくらい薬を飲み続けたら治るのでしょうか?」と母が聞いたところ、返ってきた医師の答えは「精神的な病気はなぜこうなるのか、今の医学でははっきりわからない」という言葉。母は、その回答に頭が真っ白になったと言います。なぜならその言葉の裏返しは、「治る見込みは今のところない」という意味だからです。あの大量の薬を飲み続けても、どれだけ入院しても、どれだけ勉強しても。いつ、どのタイミングで、どうしたら治るのか? まったく予想ができない人生がこれから始まろうとしている。そんな、ゴールのないマラソンがスタートしたのです。費用を考えると入院は高額だった定期的に検査入院をしていた兄ですが、保険が効くとはいえ、10日の入院で15万の費用がかかりました。食事や検査、薬などを全て診てもらえる代わりに、出費はどんどんかさみます。しかし、母は兄が高校をやめてから付きっきりでお世話をしていたので、仕事もできない状態です。復帰しても良いけれど、突然またどこで何をするかわからない兄をひとりにすることはできません。おまけに、「今の医学では原因がわからない」と言われてしまっては、右も左も選択の余地がなかったのです。そうしているうちにもお金はどんどん出ていきます。そこで入院から通院に変更し、定期的な検診と薬の処方をしてもらい、自宅で面倒をみるように切り替えていきました。精神科に通いだして、はや4年“神頼み” のように駆け込んだ精神科で、恐る恐る飲み始めた大量の薬の効き目は、4年めに入っても改善の方向性が見えませんでした。できるようになったことと言えば、「薬を決まった時間に飲むこと」だけ。アラームとカレンダーが増えて、薬の飲み方が上手になった。たった、それだけでした。体は健康だけど、心は病気。どうしようもならない兄に対して、両親はいつも怒るか泣くかのどちらかでした。夜な夜な「こんなふうになるはずじゃなかったのに」「どこで子育てを間違えてしまったのだろうか」と、互いに自分を責めあう両親の声は、私にとって痛み以外の何ものでもありませんでした。「別に、パパとママは悪くないよ」と言いたかったけれど、ただ遠くで聞いているだけだった当時の記憶。そこから両親は、ある決断に出ますーー。©demaerre/Gettyimages©atbaei/Gettyimages©elenaleonova/Gettyimages©KatarzynaBialasiewicz/Gettyimages
2018年04月05日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。検査入院の結果から、「統合失調症」と診断された兄は大量の薬を服用するようになりました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol. 9飲み始めた “大量の薬”病院で渡された大きな袋と紙の束は、大量の薬と、それぞれの薬に対しての作用と副作用が書かれたものでした。怒りを抑える薬や夜眠りにつくための薬、意欲を出す薬など……。こんなに大量の薬を飲んだこともなければ、いつまで継続するかもわかりません。「とりあえず、様子を見ましょう」という医師の言葉だけが頼りだった両親は、毎食、どのタイミングで飲むのか、指示書を丁寧に読み始めます。飲み忘れがないようにタイマーをかけたり、カレンダーに印をつけるなど、今までしたことがない習慣を作ることからスタート。毎日大量の薬を飲むことは、飲ませる両親も飲み込む兄も大変なことでした。兄は、自分から薬を管理して飲めるような精神状態ではありませんし、ましてや「なんでこんな薬飲まないといけないの?」と時折薬を嫌がることもありました。その気持ちは、家族全員同じ。誰もこんな大量の薬、兄に飲ませたくはなかったですし、これを飲んで良くなる保証はどこにもありません。薬で感情をコントロールする意味私は、自分自身で喜怒哀楽を持つことがもっとも素敵で、健康的だと思っています。そのことを実感するようになったのは、兄がこの大量の薬を飲むことを、目の当たりにするようになってからでした。3年間引きこもりで次第に人とのコミュニケーションが難しくなっていった兄ですが、それでもまだ “自分の意思” で行動したり発言したりすることが微かにあったと記憶しています。大量の薬を飲むことで、“自分の意思” ではない感情になっていった兄の姿は、周りから見ても明らかでした。突然ハイテンションになり笑い出したり大声を上げたりしたら「お兄ちゃん、お薬の時間だよ」と母は丁寧に袋分けした薬を取り出し、兄に飲ませる。そうすると、次第にテンションが下がりじっと椅子に座ることができるようになります。また、急に悲観的な気分になったのか部屋から出なくなった兄を見て、母は「今度はこっちの薬を飲もうね」とお水と薬を差し出します。そうすると、集中力が少し出てテレビを見始めたり顔を洗ったりする “行動” に出ます。これらはすべて、薬が兄の感情をコントロールしているのです。そう、まるでロボットか操り人間のように……。“作用” が強ければ “副作用” も強かったもちろん薬を飲んだおかげで、兄の不規則な生活スタイルは改善し、感情の起伏を制御することはできました。しかし、メリットだけではありません。作用があれば副作用もあるといいますが、まさにその通り。大量の薬を日々飲むことは、いろいろな副作用が伴ったのです。筋肉質でスポーツマンだった兄は、体脂肪も少なく55〜60キロ前後の締まった体でしたが、薬の副作用で25キロも増加。そして、喉が異常に乾くようになり、炭酸ソーダやジュースをがぶ飲みしてしまう癖ができ、トイレの回数も異常に増えました。トイレでしてくれたらまだしも、寝ている間にそのまま自分の布団で……ということも日常茶飯事。成人を迎えようとしている兄が、どんどん幼くなるばかりで何度布団を買い換えたかわかりません。また、薬との相性がどうしても悪い時には嘔吐がひどく、食べては吐いて、食べては吐いて。でも喉が乾くからたくさん水分補給はするけれど、また吐いてしまう。そんな、見るに耐えない状況だったのです。しかし、痩せ細るわけではなく薬の副作用で、どんどん太っていきます。この不思議な現象に薬の怖さを知りました。薬が病気を悪化させている?疑いたくはないけれど、この “大量の薬” がさらに兄の体を痛めつけているのではないか? と感じるほど、薬のパワーは強く現れていました。そのことから母は、1日23錠の薬を自己判断で減らし、医師に内緒で少しずつ調節するようになっていきました。「とりあえず、様子を見ましょう」という言葉通りに飲んでいたら、兄はこのままどうなってしまうかわからない。不安にかられた母が悩んだ末にとった選択でしたーー。©stock_colors/Gettyimages©SvetaZi/Gettyimages©SasinParaksa/Gettyimages©bernie_photo/Gettyimages
2018年04月01日