昨年末から活動休止中の嵐が、「第35回ゴールドディスク大賞」の「アーテイスト・オブ・ザ・イヤー」邦楽部門を受賞!これは、CDや音楽配信などの売上実績にもとづいて、1年間でもっとも活躍したアーテイストに贈られる賞で、嵐はなんと2年連続、そして史上初7度目の受賞となった。【2010年受賞】シングル『Believe/曇りのち、快晴』(2009)、アルバム『5×10 All the BEST! 1999-2009』(2009)、MV『ARASHI AROUND ASIA 2008 in TOKYO』(2009)「ゴールドディスク大賞」史上初の10冠を獲得。アルバム『5×10 All the BEST! 1999-2009』は、オリコン年間ランキングでも1位を獲得した。【2011年受賞】アルバム『僕の見ている風景(2010)、MV『ARASHI Anniversary Tour 5×10』(2010)アルバム『僕の見ている風景』はミリオンヒットを記録。JAL嵐JETの初就航や、紅白歌合戦の白組司会抜擢など大活躍の’10年だった。【2015年受賞】アルバム『THE DIGITALIAN』(2014)、MV『アラフェス’13』(2014)’14年のアルバム『THE DIGITALIAN』は累計80.5万枚のセールスを記録。同年、グループのシングル総売り上げが2,000万枚を突破!【2016年受賞】アルバム『Japonism』(2015)、MV『ARASHI BLAST in Hawaii』(2015)、MV『ARASHI LIVE TOUR 2014 DIGITALIAN』(2015)デビュー15周年の’14年、ハワイで「ARASHI BLAST in Hawaii」を開催。’15年のアルバム『Japonism』では日本の美しさを表現。【2017年受賞】アルバム『Are You Happy?』(2016)、MV『ARASHI BLAST in Miyagi』(2016)、MV『ARASHI LIVE TOUR 2015 Japonism』(2016)’15年に東日本大震災復興支援コンサート『ARASHI BLAST in Miyagi』を開催。’16年の紅白で初の大トリを担当。【2020年受賞】アルバム『5×20 All the BEST! 1999-2019』(2019)、MV『5×20 All the BEST!! CLIPS 1999-2019』(2019)‘19年1月に活動休止を発表。国民祭典での歌唱や、初のデジタルシングル配信、SNSの開設など、画期的な挑戦をした1年だった。【2021年受賞】シングル『カイト』(2020)、アルバム『This is 嵐』(2020)、MV『ARASHI Anniversary Tour 5×20』(2020)コロナ禍の影響で、予定されていたツアーが次々と中止になった’20年。そんななか紙芝居企画や初の配信ライブなど、活動休止までの1年を全力で駆け抜けた。5人そろった姿が見られるのはまだ先でも、嵐の功績は今もこれからもずっと輝き続ける!「女性自身」2021年4月6日号 掲載
2021年03月27日3月14日に発売されたばかりのファーストスタイルブック『RB17 りゅうびセブンティーン』(SDP)の重版も決定した俳優・宮世琉弥。昨年末に出演した『恋する母たち』(TBS系)、最終回を迎えたばかりの『青のSP(スクールポリス)-学校内警察・嶋田隆平-』(カンテレ・フジテレビ系)と順調に俳優業を駆け上がる宮世に、将来の目標として掲げる「映画を撮る」や、自分のやりたいことをやらせてくれる両親への思いのほか、田中将大投手が帰ってきた地元・宮城の東北楽天ゴールデンイーグルスへの期待も聞いた。○■17歳の誕生日は、いつもと同じように家族と――スタイルブックのタイトルの通り、今年1月に17歳になりました。誕生日はどのように過ごしましたか?お仕事をして、ファンのみなさんと生配信でお祝いして、それから家に帰って、いつもの年と同じように両親と3人の妹たちと一緒に誕生会をしました。ケーキを前に、妹が「お誕生日おめでとう!」の掛け声をかけてくれて、「いえーい!」とお祝いしました。楽しかったです。――発売になったスタイルブックではこの17年間をじっくり振り返れたとのことですが、この企画があったからこそ、改めて発見したことはありますか?自分は何かを作ったり表現することが好きなんだなと改めて感じました。絵を描いたり、絵画展に行ったり、カメラで写真を撮影したり。自分の趣味からもそう感じましたし、俳優というお仕事についても同じように感じました。――なかには家族とのエピソードも登場します。忘れていたけど、今回のことで思い出したといった出来事はありましたか?忘れていたような出来事はなかったです。どれもちゃんと自分の記憶に残っています。子どもの頃にプリンを隠れて食べて怒られたなとか(笑)。○■自分が元気づけられたように、自分も人を元気づけられる存在に――10年後の自分へのメッセージも綴られています。「ちゃんと売れているか!」と呼び掛けていたり。宮世さんは、以前から明確な目標がありますよね。20歳までに主演映画、25歳までに日本アカデミー賞を受賞、30歳になったら映画を監督すると。10年後というと、20代後半です。今の僕は、本当にいろんな経験をさせていただいていると思います。いろんな方とお芝居をして、いろんな現場に行って、たくさんの人と出会って、すごい経験だと思います。10年後の自分は、そんな今の自分をはるかに上回っていたい。自分自身が自分をすごいと尊敬できるように。俳優としても人としても成長していたいです。――映画を作りたいという目標は、小学生のときにスカウトされて芸能活動を始めてから思うようになったのでしょうか。それとも、もともとそうした気持ちがあった?芸能活動をしたいと思うようになったきっかけが、僕自身も被災した東日本大震災が落ち着いてすぐのころ、ももいろクローバーZさんが来てくれたときのパフォーマンスを観たことでした。すごいパワーをもらいました。自分と同じように、元気づけられた人はたくさんいると思います。自分自身、芸能界でお仕事をするようになって、自分もあのときのももクロさんのようになりたい、そして震災の映画を作りたいと、自然と思うようになりました。○■家族の応援「周りに流されるな。やるならちゃんとやれ」――なぜ映画製作という目標になったのでしょう。生き残った僕にできるのは、分かりやすく、あの時の震災をみなさんに伝えていくことだと思いました。言葉で伝えるのも大切ですが、映像があるとより伝わりやすいし、こうして俳優として演技をさせていただいているので、演技でも恩返しをしたい。そして監督をすれば、自分自身が伝えたいメッセージそのものを伝えられる。そのためにも演技だけでなく、いろいろな趣味も含めて吸収しているところです。――「恩返し」という言葉は本の中にも登場しますね。「恩返し」とは?まずは両親に。普通の親孝行もそうですが、僕が有名になって、色んな作品に出てお芝居を見せることが、一番の恩返しになると思っています。ファンのみなさんにはファンクラブの活動や、こうしたスタイルブックを届けることも、恩返しになっていると思いますし、色んな人に出会って、ちゃんと自分の好きなことをやって、みなさんに作品を届けていくことが、恩返しになると思っています。――尊敬する人にご両親をあげていますね。僕のやりたいことを「やっていいよ」と応援してくれるんです。小学生でスカウトされたときも、「頑張れ」と言ってくれました。当時、スカウトされてすぐに所属ではなくて、顔合わせが必要でした。その顔合わせに行くと決める段階で、「この仕事をやっていくのだという意識をちゃんと持って、周りに流されるな。やるならちゃんとやれ。絶対に受かれよ」と言ってくれました。僕もやりたいという意志を明確にして入りました。○■マー君が世界から地元・宮城に帰ってきた――ところで宮世さんは小学生の頃、楽天ジュニアに所属していたんですよね?はい。楽天の選手たちに練習を一緒にしてもらったこともあります。それってジュニアじゃないと出来ないことですよね。選手とキャッチボールしたり、打たせてもらったり。よく覚えてます。最初は緊張しましたけど、みなさんすごく優しかったので、もっと野球を好きになりました。――今年は田中将大選手が日本球界に復帰しました。そうなんです! 早く会いたい! やっぱり自然と楽天を応援しますね。今年はもっと一気に強くなると思います。マー君が、日本のマウンドで……。ヤバいですよね。あー、テレビ見なきゃ。すごく嬉しいですし、自分もその勢いに乗りたいです。マー君が世界から宮城に帰ってきた。僕は外に出て行って、みなさんに何かをお届けしたいです。――ではまず今年の目標を教えてください。17歳は、何かひとつに絞るのではなく、いろんなことに挑戦していきたいです。いろんなことやモノ、いろんな人に興味を持って、新しいことをいっぱい見つけていきたい。苦手そうだと思ったことも、まずはチャレンジしたい。そのうえで苦手だったら仕方ないですけど、それが苦手なんだと分かるうえでも、まずはやってみたい。ひょっとしたら楽しいかもしれないですしね。――最後にスタイルブック発売へのコメントをお願いします。初めてのスタイルブックがこの作品で良かったと思っています。本当に僕の説明書みたいに、盛りだくさんの内容です。僕を知ってくれている方も、知らない方でも、チェックしてください。いろんな僕を知ってもらえると思います。■プロフィール宮世琉弥2004年1月22日生まれ、宮城県出身。小学校5年生のときにスカウトされる。2019年に苗字を公募し、出身地である宮城から世界へ羽ばたけるようにという願いを込めて宮世琉弥に改名した。同年すぐにドラマ『パーフェクトワールド』で役者デビュー。2020年、ドラマ『恋する母たち』で、一気に注目を集める。1月期には『青のSP(スクールポリス)―学校内警察・嶋田隆平―』『FAKE MOTION -たったひとつの願い-』と連続ドラマ2作に出演した。3月14日にファーストスタイルブック『RB17 りゅうびセブンティーン』を発売。望月ふみ 70年代生まれのライター。ケーブルテレビガイド誌の編集を経てフリーランスに。映画系を軸にエンタメネタを執筆。現在はインタビュー取材が中心で月に20本ほど担当。もちろんコラム系も書きます。愛猫との時間が癒しで、家全体の猫部屋化が加速中。 この著者の記事一覧はこちら
2021年03月27日東北地方を中心に大きな被害をもたらした東日本大震災から10年。その後も日本各地で大きな地震があり、つい先日も東日本大震災の余震とみられる最大震度6強の地震がありました。世界中で新型コロナウイルスが猛威を奮っている現在、また大きな地震が襲ってきたら……。大切なわが子を守るためにも、慌てずに適切な対応を取りたいですよね。今回は、非常用持ち出し品リストについてまとめました。 非常用持ち出し品を確認しましょう災害時に備えて非常用持ち出し袋に必要な物をまとめているご家庭もあるかと思います。妊婦さん・小さなお子さんのいらっしゃるご家庭で、一般的な防災グッズの他に準備しておくと安心な物をまとめました。最低3日分を用意しておきましょう。 安全避難のために□ヘルメット□軍手□スリッパ・靴底の厚いもののほうが安全です。□笛閉じ込められてしまったとき、居場所を伝えるのに役立ちます。□ラジオ・充電器付きライト災害時にインターネットが使えなくてもラジオから情報を得ることができます。手回し発電やソーラーパネルがついたものであれば、コンセントがなくても使えます。さらにUSB端子があれば、スマホなどの充電もできます。 生活のために□非常食・栄養補助食品□飲料水(1人1L/日)□ウォータータンク新品のビニール袋でも代用できます。□新聞紙□小銭□携帯電話 妊婦さんのために□清浄綿□生理用ナプキン突然の出血や破水に備えて、昼用・夜用ともにあると安心です。□下着・衣類□保温できるもの(毛布・カイロ・靴下)□常用薬□母子健康手帳・保険証・診察券□筆記用具 乳幼児のために□粉ミルクと飲料水(液体ミルク)・哺乳瓶□離乳食・おやつ・スプーン離乳食は温めなくてよい市販品を。アレルギーがある場合は多めに用意しましょう。おやつは日持ちするものを。スプーンはヨーグルトなどについてくる使い捨てスプーンでOK。□紙おむつ圧縮袋に入れておくとかさばりません。□おしりふきおむつ替えだけでなく、手や口を拭く際にも使えます。□赤ちゃんの衣類季節ごとにまとめて、入れ替えるようにしましょう。□バスタオル・ブランケット大きめのものがあると、布団やおくるみとしても使えます。□保温できるもの(毛布・靴下・はおるもの)□抱っこひも・おんぶひも災害時ベビーカーでの移動はかえって危険なこともあります。□おもちゃ音の出ないものを。お気に入りのおもちゃがあると赤ちゃんが安心します。□大きめの手持ちつきビニール袋いざというときは簡易おむつにもなります。 あると便利なもの□使い捨てカイロ体を温めるだけでなく、ミルクを温めるのにも使えます。□マスク□ウェットティッシュ□ばんそうこう□ラップ寒さ対策、けがをしたときに傷を保護する、食器をカバーして洗い物を減らすなどさまざまな用途があります。□トイレットペーパー□ビニールシート□ドライシャンプー□簡易トイレ 参考:みらいウィメンズクリニック「防災カレンダー」 まずは水の備蓄からはじめましょう命を守るために、水の備蓄は必須です。飲水用で1人あたり1L/日、調理などに使用する水を含めれば1人あたり3L/日あれば安心です。断水や給水があったときに備えて、10~20Lのポリタンクを用意しておきましょう。水を運ぶ際には、リュックサックやキャリーカートがあると便利です。赤ちゃんがいるご家庭では、調乳にも使用できる軟水を準備しておきましょう。 1週間分の家族の食料は?食品の備蓄は、最低3日〜1週間分が望ましいとされています。ここでは、大人2人と子ども2人の4人家族に必要な1週間分の備蓄例をご紹介します。 ■主食米2kg×3袋、パックご飯9個、乾麺6〜7袋、カップ麺9個、その他(シリアルなど) ■主菜レトルト食品、牛丼の素やカレー25個、パスタソース10個、ツナやサバ缶、焼き鳥缶など30個、たまねぎやじゃがいもなど日持ちする野菜 ■副菜梅干し、のり、乾燥わかめなど、野菜ジュース・果物ジュースなど、インスタント味噌汁やスープ、調味料(砂糖・塩・しょうゆ・めんつゆなど) この他に、授乳中や離乳食を利用しているお子さんのいるご家庭は、粉ミルクやベビーフードも用意しておきましょう。 普段使用している食品を少し多めに買い置きして、賞味期限が近づいたら使用し、買い足すという方法(ローリングストック)もおすすめです。赤ちゃんの成長は早いので、ベビーフードの備蓄の際にも役立つテクニックです。 参考:農林水産省「災害時に備えた食品ストックガイド」 お子さんのいらっしゃるご家庭では、こまごまとした物が必要になるかと思います。備えは万全と思っていてもお子さんの成長は思っている以上に早いものです。お子さんの成長に合わせて非常用持ち出し品や備蓄の内容の見直しをおこなうと、いざというとき慌てなくてすみますね。 監修者:管理栄養士 医療社団法人愛弘会 みらいウィメンズクリニック 越坂(平野) 美由紀
2021年03月26日●『未来のカケラ』は「できること」を与えてくれた2011年3月11日に発生した未曾有の災害・東日本大震災から10年。マイナビニュースでは、この震災に様々な形で向き合ってきた人々や番組のキーパーソンにインタビューし、この10年、そしてこれからを考えていく。震災から5年後の2016年に制作されたショートフィルム『未来のカケラ / Pieces of the Future』(国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル&アジア制作)。政府広報室が実施した東北支援キャンペーン「東北を元気にする作文 短編映画化プロジェクト」の最優秀作品に選ばれた、岩手県在住・岩間壮太さん(当時小学5年生)の作文「震災から4年と半年(感謝を忘れない)」を原作に、施工依頼のあった「物置」と見習い大工が向き合う姿を描いている。この見習い大工・壮太を演じた須賀健太(26)は今年3月11日、Twitterに「震災から5年のタイミングで出演させて頂いた『未来のカケラ』そこからまた5年…あの時も岩手の皆さんは『忘れて欲しくない』と仰っていました。自分なんかが言うのはおこがましいけど、この先も忘れないように考え続けたいです。一緒に」と投稿した。これまでも度々同作を取り上げていたが、そこにはどのような思いがあったのか。本人を取材すると「僕は何もできなかった」と切り出し、当時から今でも抱え続けている葛藤、そして“未来のカケラ”について胸の内を明かしてくれた。○■あのとき何かできていれば――『未来のカケラ / Pieces of the Future』のオファーを受けて、率直にどう思われましたか?東日本大震災が発生した直後、僕は何もできなかった。そういうとちょっと大げさに聞こえるかもしれないんですけど、やったのはニュースを見ることぐらいで、ボランティアとかそういう具体的な行動に移すことはできませんでした。毎年3月11日が近づくと、「あのとき何かできていれば、今の自分はちょっと違っていたかもしれない」と後悔する日々。『未来のカケラ』はそんな自分にとって、「できること」を与えてくれた貴重な機会でした。覚悟は必要でしたが、お話を頂いてすぐに返事をさせていただきました。原作となった岩間壮太さんの作文を読ませて頂いて、「建築」に対する意味合いや印象が大きく変わりました。それまでの自分は、建物に対して何も考えていなかった。同じ国に住んで同じように過ごしているはずなのに、1つの経験によってここまで違いが出てしまうものなのかと。当時小学5年生で書かれていた作文ということもあって、ハッとさせられました。お芝居の上ではあるんですけど、そういうこともしっかりと届けないといけない。当時、そう思った記憶があります。――「建築」について改めて考えることは、日常の中でそこまでないですよね。岩間さんは改めて作品を観て、「物が壊れたとしても残り続ける『思い』の強さを感じました。ただ、記憶という物は時間と共に薄れていくものでもあり、それを止めておく『物』の大切さも同時に感じることができました。そのような面でも、長い間そこに有り続ける建築物は重要」と実感したそうです。身の回りにある多くの建物。そこに建っていることは、よくよく考えると「普通」ではないんです。東日本大震災から10年を迎え、壮太さんがおっしゃっているように、自分も建物に対する意識が変わったなと感じました。5年前、電車に乗って東京から撮影地の岩手県大槌町が近づくにつれて、地面に散らばったままの破片や木材とか、地震の影響と思われる痕跡がどんどん増えていって。更地になってきれいに整備された場所を見ても、「とてつもないことが起きたんだ」ということは、震災から5年経っても十分伝わりました。ニュースで取り上げられる現地の様子を見ても、どこか自分にとっては「映像の先のもの」だったことが分かったというか。『未来のカケラ』に出演させて頂くにあたって、大槌町のロケを通じてそこを肌で感じることができたのは大きかったです。●本当の意味での「忘れない」とは――須賀さんのTwitter投稿によると、現地の人は「忘れてほしくない」とおっしゃっていたそうですね。どのようなタイミングで聞いたか覚えていますか?撮影期間中、町を挙げて応援してくださっていて。空き時間は現地の方々とお話しする機会も多かったですし、夜はおいしい海鮮料理を用意してくださいました。本当に温かい方ばかりで、「来てくれてありがとう。作品を通して人々の目に触れることがうれしい」とおっしゃっていて、「忘れてほしくない」というのも交流の場で聞いた言葉だったと思います。人間、誰でも忘れていく。毎年、この時期になるとニュースでは特集が組まれているし、目に留まる機会は増えますが、「またこの時期が来たんだ」と感じることも、忘れているに等しいんじゃないかと身をもって感じます。だからといって、僕含めて何ができるんだといったら、それはまた難しい話でもあるんですけど……現在進行系でその土地で生活している人たちがいる。撮影から5年が経ちましたが、そういうことを強く感じます。本当の意味で、「忘れない」とはどういうことなのか。この作品を通して、自分も考え続けていきたい。今生まれた子たちは、当たり前ですけど震災を知らない世代です。そういう子たちにも届いたらいいなと、5年前は漠然とそんなことを思っていました。何もできずに悶々としていた自分にとっては、自己満足なのかもしれないですけど、震災に関わるお仕事を役者という自分のフィールドでできたことが何よりもありがたかった。伝えることが仕事で、演じることも仕事。でも、キャスターさんや記者さんとは違う伝え方です。なかなかそんな機会は頂けないと思いますので、僕を選んで頂いて……でもこれは僕の感覚での「良かった」でしかないので難しいんですけど……。僕としては、関わることができて良かったです。○■「当事者ではない僕」の向き合い方――俳優でしか関われない仕事ですね。現地に行って撮影していた時期、振り返ってみると町全体で盛り上げてくださって、「来てくれてありがとう」と感謝までしてもらえた。「芝居するの照れちゃうなぁ」とか言いながら(笑)、エキストラでも参加して頂き、朝から晩までの撮影にも協力してくださいました。そして、夜はみんなで宴会。あの時間はすごく……輝かしい時間だったというか。その時に、「強さ」をすごく感じたんです。実は……僕自身も現地に行くまでは、言い方が悪く聞こえてしまうかもしれませんが、まずは「気を使うこと」を意識していました。「震災のことで傷つけてしまうようなことを言わないように」とか、「どこまで聞いていいんだろう」とか考えながら行ったんですけど、現地の方々と交流すると、みなさんすごく強くてたくましくて前向きで。そして何より、僕たち以上にその作品が出来上がることを楽しみにしてくれて、そこの良い意味でのギャップが、僕はうれしかった。現地に行くことの大切さを改めて感じた瞬間でもありました。それからすごく覚えているのが、撮影の待ち時間があって現地の方が津波の映像を見せてくださったんです。それは町が飲み込まれていく瞬間を撮った、編集されていない映像でした。うまく表現できないんですけど……あの映像は忘れられません。でも、ここから目をそらしちゃダメだなとその時すごく思って。それをみんなに見てほしいというわけではなくて、それを見た「当事者ではない僕」の、作品を通して伝えられることの質が変わったと思います。それも貴重な体験でした。――当時の須賀さんは21歳頃ですよね。俳優としてどのような時期だったんですか?役者として、今後の自分はどうなっていくのかなという不安を抱えた時期だったような気がします。その頃は頻繁に舞台に出させてもらっていて、仕事の幅を広げていきたいと思っていた時期でもあったので、何よりも映像の仕事を頂けたことがうれしかったです。――2016年2月22日に投稿されたブログでは、「大槌お宝マップ」の文面を紹介し、「この想いこそが未来のカケラだろうと僕は思い、演じさせて頂きました」と書かれていました。須賀さんにとっての“未来のカケラ”とは?「本当の意味で忘れないでいること」が、僕たちができる“未来のカケラ”なのかなと思っています。冷たく聞こえてしまうかもしれないんですけど、僕は「当事者」ではないし、そこを変えることはできない。100%理解することはできないと思うんです。でも、そこに寄り添って考え続けることはできる。僕の世代は、震災発生当時に「何もできなかった」と実感した人も多かったと思います。そんな僕ら世代が忘れないでいることが、次の世代に対して繋げていけること。そういう意味でも、すごく大事な世代だと思います。実は、現地のコーディネーターさんと個人的に今でも連絡を取り合っていて。舞台も観に来てくださって、海鮮を送ってくださったこともありました。僕は本当に良い思いしかさせてもらってないんですけど、その繋がりも大切というか。僕がこの作品に出ていなかったら、その方とも繋がれていなかった。人対人として連絡を取り合っている瞬間が、僕はすごく好きです。頻繁に連絡を取っているわけでもないんですけど、年に数回のそういう瞬間は人と人との繋がりを感じることができるので、僕にとってはこれも、大切な“未来のカケラ”なのかなと思います。東日本大震災から5年というタイミングでこの作品と出会って、今年は震災から10年という節目。震災に触れてもらえる機会の1つであり続けるように、僕はこの先もずっとこの作品を話題にして、考え続けていきたいと思います。■プロフィール須賀健太1994年10月19日生まれ。東京都出身。ドラマ『人にやさしく』(02)で注目を浴び、2006年には映画初主演作『花田少年史 幽霊と秘密のトンネル』で第30回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。主な出演作に、『ALWAYS 三丁目の夕日』全シリーズ(05~12)、『スイートプールサイド』(14)、『学校のカイダン』(15)、『獣道』(17)、『江戸前の旬』(18)(19)、『凛-りん-』(19)、『遮那王 -お江戸のキャンディー3-』(19)。2021年1月期のドラマ『青のSP ―学校内警察・嶋田隆平―』(カンテレ・フジテレビ系)に出演した。
2021年03月26日東北地方を中心に大きな被害をもたらした東日本大震災から10年。その後も日本各地で大きな地震があり、つい先日も東日本大震災の余震とみられる最大震度6強の地震がありました。世界中で新型コロナウイルスが猛威を奮っている現在、また大きな地震が襲ってきたら……。大切なわが子を守るためにも、慌てずに適切な対応を取りたいですよね。そのためにまず、知っておきたいことをまとめました。 妊婦さんや乳幼児は災害時要配慮者災害弱者という言葉を聞いたことがある方も多いと思います。行政上は「災害時要配慮者」もしくは「災害時要援護者」と呼んでいます。 災害時要援護者は、「災害から身を守るため、安全な場所に避難するなどの一連の防災行動をとる際に、支援を必要とする人々」のことを指し、1.心身障害者(肢体不自由者、知的障害者、内部障害者、視覚・聴覚障害者)2.認知症や体力的に衰えのある高齢者 3.日常的には健常者であっても理解力や判断力の乏しい乳幼児 4.日本語の理解が十分でない外国人 5.一時的な行動支障を負っている妊産婦や傷病者などが含まれます。参考:日本赤十字社「災害時要援護者対策ガイドライン」 地域によっては、専用の避難所(福祉避難所)が設けられます。備蓄品やスタッフに特別な配慮があり、妊産婦も対象となります。事前に場所の確認をしておくと良いでしょう。 避難のタイミング(警戒レベル)災害が起きたとき、その場にとどまるのか、避難所に行くのか、判断に迷うことがあるかもしれません。そんなときに指針となるのが、「警戒レベル」です。災害の危険性が高まったときには、住んでいる市町村などから避難情報が出されます。警戒レベルによって避難行動が変わってきますので、今がどの警戒レベルにあたるのか把握し、早め早めに行動することが大切です。避難情報は、テレビやラジオ、インターネットなどのほか、防災行政無線や広報車などで伝達されます。 警戒レベルとは?警戒レベルは5段階あり、災害発生の危険度が高くなるほど数字が大きくなります。各レベルの状況は以下のようになっています。 警戒レベル1:災害への心構えを高める災害発生の危険性はまだ低い段階。最新の情報に留意し、災害への心構えを高めておきましょう。 警戒レベル2:ハザードマップなどで避難行動を確認災害発生に対する注意が高まってきた段階。ハザードマップで災害の危険性のある区域や避難場所、避難経路、避難のタイミングの再確認など、避難に備え、自らの避難行動を確認しておきましょう。 警戒レベル3:高齢者や要介護者等が避難市町村から「避難準備・高齢者等避難開始情報」が発令された段階。避難に時間を要する人(高齢者、障害のある方、乳幼児など)とその支援者は避難を開始しましょう。その他の人は、避難の準備を整えましょう。 警戒レベル4:対象地域住民の全員避難市町村から「避難勧告」や「避難指示(緊急)」が発令された段階。速やかに避難場所へ避難をしましょう。外出することでかえって命に危険が及ぶような状況では、近くの安全な場所か、自宅内のより安全な部屋に避難をしましょう。 警戒レベル5:“命を守るための最善の行動を”市町村から「災害発生情報」が発令された段階。すでに災害が発生している状況のため、命を守る最善の行動をとってください。警戒レベル5になってからでは、安全な避難が難しい場合があります。空振りをおそれずに、レベル3、レベル4の段階で安全かつ確実に避難を終えましょう。 警戒レベルは、現在内閣府の作業部会より見直しが検討されています。常に最新の情報を確認するようにしましょう。参考:首相官邸 「避難はいつ?どこに?」内閣府「早め早めの避難を行うために」 家族で情報共有・共通認識を!ハザードマップ・避難所の確認ご自身が住んでいる市町村が作成しているハザードマップや地域防災計画を見て、自宅や学校(保育園・幼稚園)・職場などにどのような危険があるのか確認しておきましょう。 また、避難場所の確認や経路、移動手段についてもご家族で計画しておきましょう。災害発生時の行動や緊急連絡先などをまとめたものをご家族全員で持っているといざというとき安心ですね。 災害時には、一般の避難所内に母子専用のスペースが用意される場合があるほか、専用の母子避難所が設置される場合もあります。なお、避難場所は災害種別ごとに異なります。またコロナ禍ということもあり、避難場所や収容人数などが変更されている可能性もあるので注意が必要です。 家族との連絡手段災害発生時にご家族が別々の場所にいた場合、すみやかに安否・居場所確認ができるよう、事前に緊急時の連絡方法を決めておきましょう。 ■伝言ダイヤル171・災害用伝言板(web171)の活用伝言ダイヤル171・災害用伝言板(web171)は、電話を使用した音声による伝言板システムです。地震、噴火などの災害の発生により、被災地への通信が増加し、つながりにくい状況になった場合にNTTによって提供が開始されます。参考:総務省「災害用伝言サービス」 ■公衆電話の活用災害等の緊急事態下において通信規制がかかっても、公衆電話は通信規制の対象外として優先的に取り扱われます。停電時に電話をかけることができ、また、大規模災害時には硬貨を使わずに通話できる場合があります。 参考:総務省「公衆電話の特徴と使用方法」 ■自分のアイコンを変更LINEやTwitterなどのSNSを活用している方も多いかと思います。現在、さまざまなサイトで緊急時のプロフィールアイコンがダウンロードできます。あらかじめこのようなアイコンを準備しておき、災害時に変更すれば、返信をしなくても自分の状況を伝えられるため、スマホや携帯電話のバッテリーを温存できます。またLINEでは、名前欄やステータスメッセージを変更するという方法もあります。ただし、タイムリーに変更できない場合もあるので、あくまでも手段の一つとして知っておくと安心でしょう。 災害はいつ、どのような形で襲ってくるかわかりません。防災グッズを揃えておくことはもちろん、情報を収集して共有することも大切です。災害時要配慮者となる妊婦さんや乳幼児がいるご家庭では、いざという時の備えが一層重要になってきます。今ここでもう一度各自の防災対策を見直してみませんか? 監修者:管理栄養士 医療社団法人愛弘会 みらいウィメンズクリニック 越坂(平野) 美由紀
2021年03月25日3月31日(水)リリースとなる田口淳之介のEP『Stay True』。アーティストとしての覚醒を迎えたと言い切れる表題曲は、何より自ら書いたリリックのリアリティーと表現の深さが印象的だ。“あの時”感じた深い孤独や不安、そして希望……2年を経てようやく表現することができた歌の中にある真実をインタビューで明かす。――まずはサウンドに関してお訊きします。メロディメイクを水彩画Pさん、サウンドメイクがS-NAさんということで、田口さんのソロワークスにおけるここ最近の道のりを総括したようなクリエーターとの共作となりましたね。もともと僕が復帰したのが2019年11月だったんですけど、その時の一発目の楽曲『Voices』がS-NAくんのトラックメイキングだったんです。それ以降も彼とはたくさん曲を作ってきました。で、水彩画Pさんとは昨年6月に『ジュウゴノシンゾウ』っていうアルバムを出したときに、すごくウマがあったというか、もう一回やりたいなって思ったんです。だから僕の中ではすごく自然に彼らとの共作という形になりました。――R&Bとシティポップとギターロックの中間という独特な雰囲気を持った曲ですね。うんうん、たしかに。もともとS-NAくんはヒップホップがベースで、EDMとかも得意だし、今っぽいトラックを作る人ですね。かたや水彩画Pさんは今回ギターも弾いてくれているんですけど、キャッチ―なメロディラインをクリエイトするのがすごくうまい。だから全体として、R&Bまですかしてないし(笑)、メロディーも歌いやすいと思うので、誰もが好きになってくれそうな曲に仕上がったかなって思います。たくさんの方に聴いてもらって、そして歌ってもらいたいですね。――そして今回の新曲『Stay True』は何と言っても田口さんがリリックを書かれていることが、その内容も含めて最大のフックだと思います。これまではあんまり自分の気持ちをリリックに乗せたことがなかったんですよね。でも今回はちょっと曝け出してみようかなって気持ちで書いてみました。――なぜこのタイミングでそう思われたのですか?コロナ禍で世の中も大きく変わっていったことも含めて、この数年間、自分の中でも大きく変わった部分もあって。またここから生まれ変わって行くんだっていう部分を表現したかったというのはありましたね。あとはやっぱり、自分自身に対して再認識するじゃないけど、自分でどう思っていて、で、今後どうなりたいのか、みたいなところを考えたときに自然と湧いてきた表現でしたね。――そういう気持ちになれたというのは、トラックやメロディラインからの影響もあるんですか?そう……最初は特にそういうつもりではなかったんですよ。けど、このトラックを聴いていたらなんかすごくこみ上げるものがあって、これはこういう曲にしようって途中で決めていったという感じですね。――ご自身の体験されたことをここできちんと表現として形にしておくことは何を意味しますか?世界が変わったこの1年は僕も自分と向き合った1年でもあって、過去の僕そしてこれからの僕をすごく考えた上でそういう部分は必要なのかなって思ってて。――歌詞の言葉もそうですけど、こうやって面と向き合って語られる田口さんの言葉ひとつひとつもすごく正直ですよね。本当に沢山の人の協力もあって、社会に出てからすぐ活動を始められたっていうのは自分の中でとても大きかったんです。立ち止まってしまうと忘れられてしまうんじゃないかという不安はあったんですけど、何とか自分なりにがむしゃらにやって来られました。ここ数年間でいろんな人たちに会ったり、普通にイベントに呼んでいただいたり、そういう人たちと触れ合っていると、あんまりみんななんていうんだろ……僕が過去に頑張ってきたことや失敗してしまったこととかを、もちろんわかってはいるんだろうけど、あんまり僕がそんなに意識しなくてもいいような感じでいてくれるというか。好奇の目で見られていないというか、フラットに接してくれる方が多いんですよね。だから自分自身も向き合ってくれる人へ正直になれてるんだと思います。――だからこそ、ここで一度きちんと自分の気持ちを表明しておかないといけないと感じたんですね?そうですね。自分が表現するものは何だろう?って向き合ったときに、まずは今回のリリックとか楽曲のテーマだったりという部分が自然と出てきました。――メッセージすることに対して、それまでは抵抗があったんですか?抵抗があったわけではないです。ただ、自分の表現の見せ方としてダンスであったりパフォーマンスであったり、そういう部分をフィーチャーしていくことが多かったので。ダンスミュージックって自分の中ではそこまで歌詞を掘り下げなくてもいいかなという考え方もあったので、自分ではあまりリリックを書く思考がなかったんですよね。でもいざ書いてみるとスッと出てくるので自分でもびっくりしました。もちろん直接的な表現を使ってはいないですし、感じとり方によって、あのときこんなこと思ってたのかな?みたいな、そういうフワッとした捉え方でも大丈夫なものでもあるんですけど、自分の中ではすごく芯のある想いを込めて歌詞には乗せています。――フワッと言いつつ、いきなりドキッとする言葉、シーンから始まりますけどね(笑)。たしかに(笑)。Aメロに〈磨りガラスから〉って表現があるんですけど、実際に当時過ごしていた場所は磨りガラスなんですよ。5月末とかだったんで、暑いときは窓を開けてくださいって言ったら開けてくださるし。ちょうど夕日の時間帯にすごくセンチメンタルになったりして(笑)。夢って夜に見ることが多いから暗い中じゃないですか、でもなんか自分の中でそれが全部白くぼやけるんですよ。だから〈白い夢を視る〉って表現になったりとか、やはりその場にいて経験しないと感じえないものってあるから、そういう部分はちょっと自分でしか紡ぎ出せない言葉なのかなっていうのは思いましたね。――留置期間はどんな時間でしたか?自分自身とずっと向き合っていました。2週間くらいはひとりで、携帯電話とかPCとか外部との接触はない状態だったんです。新聞とかは読めたけど……。でもその、新聞とかでも芸能欄ってあるじゃないですか、スポーツ新聞とかだったら。収監されている人の記事は全部真っ黒に塗られているんですよ。それで、新聞を見たらラテ欄が全部真っ黒だったんです。これもう全部僕だ!って。もう見事に真っ黒なんですよ。こんなに朝から晩までワイドショーってやるんだって思って。で、ペラってめくると芸能欄で、そこも片面全部真っ黒でした。――その真っ黒に塗りつぶされたものって、言わば世間の圧みたいなものだと思うんですけど、それを見てどのように感じられたんですか?そのときちょうどツアーを準備していまして、ファンのみなさんに対しての申し訳なさが何よりありましたね。そのために飛行機を手配したりホテルをとったりしてきてくれる方もいますから、それを全部キャンセルさせてしまったわけだし、お世話になる予定だった会場の関係者の方々にもそうだし、他のお仕事も白紙にしてしまったので、多くの方々へ申し訳なさが日に日に募っていました……。だからそのことばかりを考えても答えが見つからないので本を夢中で読んでましたね。1日1冊しか借りれないので朝本棚から選んで1冊とって読み始めると午前中には読み終わっちゃうんですけど。――歌詞の中に〈希望〉という言葉が出てきますが、そういう日々の中でも感じた希望は何だったんですか?そうですね。それはやっぱり仲間だったり、自分をサポートしてくれている人だったりファンのみなさんだったりとか、そういう方々が自分の生きる希望というか、自分自身を信じられる要因というか。この曲はほんと素直に自分を信じて生きて行こうっていう曲なんですけど、やっぱり何かの理由がないと自分自身を信じられないじゃないですか。だから、どんな状況でも自分を必要としたり求めてくれる人たちがいるっていうのが、自分を鼓舞してくれるものだし、前に進めてくれるものだと思います。――そこの繋がりを強く認識されたんですね。ジャニーズを辞めて5年になるんですけど、その間にもいろんな人との出会いとか別れもあったし。でも自分ひとりじゃ歩いてはこれないなって思ったんで、やっぱりそういう人たちの助けがいまだにありがたいですし、それはずっと今後もそうだと思うし。だからそういう人たちに、ちゃんとリスペクトされるような人間でいたいと思います。昔のメンバーだったり、そのとき応援してくれてたファンの方とか、今は離れてしまっていても、いろんな繋がりは記憶には残っていると思うし、その人にとっても僕にとっても自分の人生の一部にはなっていると思うので、だからそこはやはり繋がりなんですよね。あとは失敗しても立ち上がれるっていうところは伝えたいなって思っています。自分自身がそれを表現することによって、そして自分自身がまた自分の歩幅で歩き出すことによってひとつの希望になるのかなって。そうありたいなって。海外ではそういうケースはありますけど、日本では少ないと思いますし。――そうやって希望を紡ぐ中で、表現に対する信頼というのもより強くなったんじゃないですか?そうですね。やはり自分はステージに立ち続けたいと思うし、だからリリックの最後〈ここで生きていたいんだよ〉っていう〈ここ〉っていうのはまさにステージっていうことなんです。やはりエンタテインメントを子供の頃からずっとやってきているんで、こんなコロナ禍であってもエンタテインメントがなくなることはないと信じられるし、とても必要なものだという意識はより一層強くなりましたね。今年は東日本大震災から10年ですけど、僕のツイートにリプライがきてて、KAT-TUNで2012年かな、前の年震災で中止になったから2年ぶりのツアーで仙台に行ったんですけど、「あの時の思い出が忘れられません」って。そうやってずっと覚えてくれる人がいると、やはりエンタテインメントって希望を培うものなのかなって思いますね。――歌詞はそこまで苦労しなかったっておっしゃいましたけど、この2年間、何かをやっている裏側というか、数%の部分でずっとそこの気持ちというのは機動し続けていたんでしょうね。だからこの曲になるまでひとつながりだったんだろうなって感じました。それはありますし、これがまたひとつの始まりだと思います。実際、このタイミングで新しい人たちとの繋がりもできて、だから本当に、常に新しいことがスタートし続けていると思います。――『StayTrue』という言葉に込めた想いは何ですか?リリックの中に〈Stay true to my heart〉っていうフレーズがあるんですけど、やはり自分自身を信じ続けるっていうところは核としてあります。今こうやって活動を続けてきて後悔がないというか、常に今を生きている感じがあるんです。そこは自分を信じているからこそそう思えるっいうのもあるし、ここで終わりたくないっていうのが気持ちとしては大きいので(笑)。――まだ全然足りない?はい、これからです(笑)。――それこそがアーティストとしての真実ですよね、いつだって。はい。もっとやらなきゃって自分自身に思います。悔しい気持ちが常にありますね。ただ後悔と悔しさは違うと思ってるんですよ。悔しさは前に進むための原動力。後悔はただ振り返るだけなんで。反省とも違いますね。反省はめちゃくちゃしています(笑)。――(笑)。これからやりたいことは?今年の8月に主演舞台が決まったんですよ。情報解禁したばかりですけど。芝居は7、8年ぶりくらいになるので。演技の仕事をしてほしいという声はたくさんいただいていて、それが今になって形になるっていうのはすごく意味があることだと感じています。もちろん音楽が自分の中では主軸なんですけど、今後は演技の仕事とかそれ以外にも表現するということに幅を広げていきたいなっていうふうに思います。――これからいろんな表現にチャレンジしていく中で、この『Stay True』という曲が出発点として、そして帰っていく場所として刻まれるんでしょうね。そうですね。それくらい思い入れの強い曲になりました。取材・文:谷岡正浩 /写真:森好弘田口淳之介New EP 『Stay True』2021年3月31日 Release!!田口淳之介が自分の現在地や、これからの希望を込めて作詞をした表題曲『Stay True』を含む計3曲のEPを、各音楽配信サイトにてリリース。1.Stay True"MV"同時公開2.Hold Us Down3.Take You Away■オフィシャルサイト ■舞台「One Night Butterfly」【東京公演】8月12日(木)〜8月15日(日)有楽町よみうりホール【大阪公演】8月21日(土),22日(日)ABCホールキャスト:田口淳之介斉藤秀翼遊馬晃祐上仁樹こんどうようぢ阿部快征谷津翼荒一陽佐藤弘樹服部武雄岩崎良祐きたつとむ高間淳平内田裕也八神蓮席種・料金SS席(特典付き):12,000円S席(特典付き):9,500円A席:7,500円N席:6,000円⇒チケット情報はこちら
2021年03月25日旅行に山登り、通勤通学など、さまざまな場面で大活躍するリュック。両手があくので、とても便利ですし、非常用の持ち出し袋にしているという人もいるのではないでしょうか。今回は、そんなリュックの中でも、一部のリュックだけに施されているという、『緊急時に役立つ工夫』をご紹介します。その工夫をイラストにして紹介しているのは、中山少年さん。こちらの中山少年さんの投稿を、ぜひご覧ください。※画像は複数あります。左右にスライドしてご確認ください。 この投稿をInstagramで見る 中山少年(@nakayama_syonen)がシェアした投稿 多くの犠牲者を出した東日本大震災から、10年が経ちましたが、その後も、毎年のように各地で起きている、地震や水害などの自然災害。決して他人事ではないなと感じます。「初めて知った!」という声も多かった、いざという時に使える、この豆知識。もしかしたら、それを知っていることが、誰かの命を救うことに繋がるかもしれません。このようなバックルは、アウトドア系のリュックについていることが多いそうなので、そういうリュックを持っている人は、ベルトのところを、確かめてみてくださいね。[文/AnyMama(エニママ)・構成/grape編集部]
2021年03月24日野球というスポーツを通じて子どもたちの健やかな成長を応援し、将来へ寄り添い、サポートする様々なイベントを開催する「AIG」×「MLB CUP 2021」特別プロジェクトが発足。タレントの石橋貴明さんと元MLBプレーヤーの斎藤隆さんも登場した、記者発表会を取材しました。復興支援から始まったAIGジャパン協賛の「MLB CUP」イベントではまず、AIGジャパン代表取締役社長兼CEO ジェームス・ナッシュさんから、「MLB CUP」や今回のプロジェクトについての概要が説明されました。「保険会社である私たちには、有事の際に困った人たちに寄り添い、力になるという特別な使命があります。これは一企業としても社会の一員としても果たさなければならない責務です」と、ナッシュ社長。このような考えのもと、東日本大震災で傷ついた東北の人々や子どもたちを支援するため、2016年に「MLB CUP」が創設されました。「MLB CUP」は小学4〜5年生を対象に、次世代を担う全国の野球キッズに夢を与え、野球人口拡大に繋がる普及プログラムを創ることを目標とする新しい形の野球大会・トーナメント。決勝大会は復興支援の目的で宮城県石巻市で開催されています。震災から10年の節目に様々なイベントを開催東日本大震災から10年を迎える2021年、これまで以上に子どもたちに寄り添い、応援していきたいというAIGジャパンの想いが形になったのが、今回の特別プロジェクトです。「MLB CUP 2021」の開催のほか、5月から6月には子供たちと保護者を対象に「成長と怪我予防」「成長のための食育」という2つのテーマを扱うウェブセミナーが開催。また全国3カ所で元MLBプレーヤーをコーチに迎える野球教室も開講されます。年末にかけては「MLB CUP」をはじめとするこの特別プロジェクトのダイジェスト動画も制作し、SNSで配信されるそうです。ナッシュ社長は、「この活動を通じて、復興への長い道のりを歩む東北のみなさまに、少しでも元気になっていただきたいと願っております」とコメント。また、「子どもたちとその成長を見守る保護者の方々や指導者のみなさまからなるコミュニティに寄り添い、側でサポートし、その力になりたい。AIGはそんな思いからこれまでも子供たちのスポーツをグラスルーツから支援してきました。MLB CUPや今回開催されるイベントはその思いを体現するプロジェクトです」と、語りました。野球から学んだ大切なこと発表会の最後には、リトルリーグから野球をはじめたという共通点を持つスペシャルゲスト、石橋貴明さんと元MLBプレーヤーの斎藤隆さんによるトークセッションが行われました。「野球をやっていてよかったことは?」という質問について、「高校野球の仲間は、今でも掛け替えのない友人です」と、石橋さん。さらに、「厳しい練習に耐えると、社会人になって多少辛いことがあっても乗り越えられる。そんな体力や精神力も仲間とともに培いました」と回答しました。また「MLB CUP」に毎回参加しているという斎藤さんは、「野球とかスポーツでしか得られない喜びがあることを、子供たちの笑顔で教えていただきました」とコメント。「子どもたちやその周囲の皆さんの力になれるよう、大会を盛り上げていきたいと思います」と、「MLB CUP」への思いを語ってくれました。昨年は新型コロナウイルスの影響で中止となってしまったMLB CUP。待ちに待った開催ということで、全国の野球キッズの活躍に注目です。
2021年03月23日2021年3月22日、お笑いコンビ『サンドウィッチマン』の富澤たけしさんがブログを更新。多発する地震に注意を促しました。同年2月13日には、福島県沖で震度6強、同年3月15日には、和歌山県北部で震度5弱の揺れを観測。また、同月20日は宮城県沖で震度5強を観測し、一時津波注意報も出されるなど大きな地震が相次いでいます。宮城県出身で、東日本大震災の被災者を支援する基金も立ち上げている富澤さん。総額はおよそ5億円サンド、自身が設立した基金から1400万円を新たに寄附地震への意識を高めれば、それだけで変わるとブログにつづりました。地球上のプレートのあっちが引っ張られたらこっちもそのうち引っ張られる、みたいな話や南海トラフもそろそろ起きると言われているので、とにかく備えて津波には逃げて高い所へ、を徹底して下さい。外出する時はケータイの充電器や飲み物や栄養ある飲むゼリーをしのばせておく、土地勘のない場所にいるなら「もし今、地震が来たら、津波が来たら」を頭に入れておくようにして下さい。それだけでも初動が変わってくるはずです。過去の日本の大地震を調べると数百年おきに起きている地域があったりするので、自分の住んでいる地域のことを一度調べてみるといいかもしれません。何も知らないとただただ恐怖を感じますが、「こうこうこうだから怖い」と理解して正しく怖がることが大事な気がします。サンドウィッチマン 富澤たけしオフィシャルブログーより引用東日本大震災では津波で多くの人が被災し、街には被害が出ました。富澤さんの「とにかく備えて津波には逃げて高い所へ」という言葉はより説得力があるでしょう。【ネットの声】・富澤さんのいう通り、正しく怖がることが大切だと思います。・地震は怖いですが、しっかりと備えておきたいです。・津波注意報が出たので高台に避難しました。災害に備えるのは大事です。地震が多いと、「このぐらいなら大丈夫」と油断してしまうかもしれません。ですが、いつ大きな地震が来るかは分かりません。小さな揺れから大きな揺れになる場合もあります。しっかりと、対策をして地震への恐怖感を忘れないようにしたいですね。[文・構成/grape編集部]
2021年03月22日デビュー20周年を迎えた人気女優、綾瀬はるか。放送中のドラマ「天国と地獄~サイコな2人~」(TBS系)や、東日本大震災10年の節目に放送された特集ドラマ「あなたのそばで明日が笑う」(NHK)、あるいは数多くのテレビCMや、街頭広告など、彼女の顔を見ない日はないだろう。しかも、その活躍ぶりは今年に限った話ではない。綾瀬はるかさんが芸能界に身を置いてからずっと第一線で輝き続けていることを、私たちは知っている。そんな彼女にとって、俳優活動のひとつの軸といえるのが「アクション」だ。『ICHI』や「精霊の守り人」等々、多くの出演作でキレのあるアクションを披露してきた綾瀬さんだが、その特性を存分に生かしたあの作品を忘れてはならない。そう、『奥様は、取り扱い注意』だ。2017年にテレビドラマとして製作された本作は、大河ドラマ「八重の桜」で共演して以来「兄ちゃん」「はる坊」と呼ぶ仲の西島秀俊が相手役。元特殊工作員の妻・菜美(綾瀬はるか)と公安警察の夫・勇輝(西島秀俊)がお互いの素性を隠して夫婦生活を送るという物語で、放送時には大いに話題を集めた。その『奥様は、取り扱い注意』がこのたび、満を持して映画化。よりスケールアップし、かつツイストのきいた物語が展開する。新型コロナウイルスの蔓延による公開延期を乗り越え、3月19日より劇場公開された本作をフックに、綾瀬さん流の「アクション」「俳優論」などを聞いた。常に動ける体を作っておくため、自トレを重ねた劇場版『奥様は、取り扱い注意』は、冒頭から怒涛のアクションが畳みかける「これぞ映画!」な仕上がり。綾瀬さんのきりりと引き締まった表情と、しなやかな身体表現に驚かされる。とはいえ、ドラマ版からは約3年半の時間を経ての映画化だ。3か月前からトレーニングに時間を費やしていたというが、準備は大変だったのではないか?「ドラマの頃から、基本的な体幹トレーニングは週に1回くらい、欠かさずに続けていたんです。次(劇場版)があるかもしれないな、とは思っていたので。その後映画化が決まって、撮影が近づいてきたら、トレーニングの時間を増やしました。動ける体を作っておくということは、個人的にやっていましたね」さらりと語る綾瀬さん。やはり、一朝一夕ではなしえなかったのだ。本作はカリとシラットという実践武術をミックスさせた動きがベースになっており、“止め”や“突き”などを高速で、かつピンポイントに繰り出さなければならない。綾瀬さんは「何もない状態から始めたドラマ版のときは、すごく大変でしたね。それこそ家で腕立て伏せ200回×何セットもやっていましたが、今回は前回の経験もあったので、家での個人練習はそこまでハードではなかったです」と振り返り、経験者の余裕を感じさせる。常日頃から準備を怠らない彼女のプロ意識がうかがえるが、同時に「いまはもうやってないんですが…」と申し訳なさそうに付け加えるところもまた、彼女のキュートな魅力といえよう。「撮影前には、対人稽古も行いました。その中で、徐々に体が思い出したり慣れてきたりしたら、相手役の人と劇中で行う動きの“合わせ稽古”を始めましたね。振付のように、覚えないといけない動きが多かったです。並行して、タイミングを合わせたりスピードに変化をつけたりちょっとずつ調整して、動き自体が完成したら何回も何回も練習して、本番で怪我がないように精度を高めていきました」言葉で聞くだけでも大変そうだが、撮影は夫婦そろってのアクションシーンからだったという。「いきなり山場のシーンというのはさぞかし大変だったのでは?」と聞くと、「アクションが先だったから、夫婦の本気がアクションに乗って、そのうえでこの夫婦ならではの会話のやりとりができたのかなと思います」と何とも頼もしい答えが返ってきた。“兄ちゃん”じゃなければ、もっと重圧を感じてしまっていたただ、いきなりフルスロットルで挑めたのは、“兄ちゃん”こと西島さんがそばにいたからこそ。「やっぱり安心感が違いますね。変に気を遣うこともないし、すごく精神的にも助けられています。あまりプレッシャーを感じることなくできました」。その西島さんが本作のイベントの際に明かしたのは、撮影の合間に綾瀬さんが励んでいたという自主練ならぬ“闇練”。綾瀬さんは「闇練(笑)」と笑いながら、その意図を教えてくれた。「アクションの量も多かったですし、一瞬の気の迷いが本当に危ないんですよね。アクションの相手役の方とは体格差もありましたし、お互いに動きがズレて当たってしまったら大変だから、そういう不安や心配をなくすために、準備だけはしっかりしなくちゃいけないと思ったんです。いい時もあれば調子の悪い時もあるし、本番になると練習でうまくいっていたことがそうならない場合もある。でもそれで終わったらもったいないので、『もうちょっとよくできるからもう1回やらせてほしい』というのは、兄ちゃんも私も言っていました。せっかくやるんだったらその時のベストを出したいし、みんなが『よかったね』と納得できるように粘りたいと思っています」。余談だが、綾瀬さんが西島さんの出演作を観て、“ダメ出し”をすることもあるのだとか。「ある作品のアクションで銃を構えるときに肩が変に上がっていたから『肩がすごく上がっていたよ』ってメールを送ったら、『うるさい!俺も気にしてるんだよ』って返事が来て(笑)」と楽しそうに語る姿からは、2人の信頼関係が伝わってくる。西島さんという最高の相棒を得て、ますます冴えわたるパフォーマンスを見せた綾瀬さん。そんな彼女に、改めて「自分にとっての、アクションとは」を聞いた。「アクションは、全身で表現するもの。体全体を映像で見せるものなので、対話劇とは全く違いますね。アクションという軸があることで、やらせていただける役の幅が広がったように思います。自分自身も、アクションを求められることで、刺激を受けていますね」心で演じることを、大切にしていきたいもともと、劇場版『奥様は、取り扱い注意』は、2020年6月5日に封切られる予定だった。公開延期を乗り越え、2021年3月19日についに観客に披露される。綾瀬さんは「本当に公開できてよかった」としみじみ語り、「ちょっとずつ映画館に行けるようになって、皆さんが非日常的なものを楽しめる空間になったらいいなと思います。スケールの大きなアクションを、大きなスクリーンで観てほしいですね」と笑顔を見せる。外出自粛期間中には「遅いんですが、今さら『ウォーキング・デッド』にハマってしまいました」とエンタメの力を改めて感じたという綾瀬さん。「ドラマだったら週に一回の楽しみになるし、映画も含めて、日常に花を添えてくれるものですよね」という彼女は、この先も表現者として、多くの娯楽を届けてくれることだろう。最後に、綾瀬さんがいま、役者として大切にしている信条を教えてもらった。「当たり前ですが、心で演じることですね。経験を積んでいくと、慣れが出てきてしまって心とズレるときが生まれてしまうと思うんです。そうならないようには気を付けていますね。『感情で動く』は、演じるうえですごく大切にしていることです」。この20年で多くの後輩が台頭し、いまや現場を引っ張る立場。それでも「現場での“居方”は特に変わらない」という。「自分がたとえ年齢や芸歴が上でも、皆さんプロですし、尊敬しています。といっても、そういう風に思おうとしているのではなく、自然とこんな感じで生きてきただけです(笑)」。長い間変わらず、ずっと自然体でいること。それがどれだけ難しいかは、俳優でなくても多くの人が身をもって知っているはず。だからこそ、「いつもワクワクしていたいですね」とふわりと笑う彼女に、トップランナーたる凄味を感じずにはいられない。(text:SYO/photo:Jumpei Yamada)■関連作品:奥様は、取り扱い注意 2021年3月19日より全国にて公開©2020映画「奥様は、取り扱い注意」製作委員会
2021年03月22日本日3月19日、「第44回日本アカデミー賞」の授賞式が行われ、「優秀助演男優賞」を受賞した宇野祥平、妻夫木聡、成田凌、星野源、渡辺謙が出席。いまの思いをスピーチした。今年の「優秀助演男優賞」は、未解決のまま時効になった実際の事件をモチーフとした塩田武士の同名小説の実写化『罪の声』から星野さんと宇野さん。コスプレ写真集が話題となった写真家・浅田政志による2冊の写真集を原案にした『浅田家!』より、主演・二宮和也と兄弟役を演じた妻夫木さん。人を好きになることの喜びや痛みを描いた水城せとなの傑作コミックの実写映画化『窮鼠はチーズの夢を見る』で、主人公への想いを募らせ葛藤する今ヶ瀬を演じた成田さん。東日本大震災時の福島第一原発事故を描く『Fukushima 50』で所長役を務めた渡辺さんの5名に贈られる。そして今回最優秀助演男優賞は、『Fukushima 50』の渡辺謙が受賞した。授賞式で渡辺さんは「今年は参加することに意義があると思ってきたので、先ほど話したように“福島の力”を、(最優秀受賞者に贈られる)このブロンズに込めていただけたんだなと思っております。福島の皆さん、とりあえず取りましたんで、どこか飾ってもらえるところに寄贈したいなと思います。本当にありがとうございました」とスピーチで語った。(cinemacafe.net)■関連作品:Fukushima 50 2020年3月6日より全国にて公開© 2020『Fukushima 50』製作委員会窮鼠はチーズの夢を見る 2020年9月11日よりTOHOシネマズ日比谷ほか全国にて公開©水城せとな・小学館/映画「窮鼠はチーズの夢を見る」製作委員会浅田家! 2020年10月2日より全国東宝系にて公開©2020「浅田家!」製作委員会罪の声 2020年10月30日より全国東宝系にて公開©2020「罪の声」製作委員会
2021年03月19日高畑充希主演、タナダユキ監督が震災後の福島・南相馬に実在する映画館「朝日座」を舞台にしたオリジナル映画『浜の朝日の嘘つきどもと』。この度、本作の新キャストとして、甲本雅裕、佐野弘樹、神尾佑、光石研、吉行和子の出演が明らかになった。本作は、実在する映画館「朝日座」を舞台に、高畑さん演じる莉子が、経営が傾く朝日座を立て直すべく、地元住民と共に奮闘していくさまを描く、映画愛に溢れたハートフルドラマ。今回出演が明らかになった甲本さんが演じるのは、「朝日座」の支配人・森田保造(柳家喬太郎)と共に莉子(高畑さん)の「朝日座」再建に協力する岡本不動産の岡本貞雄。また、技能実習生で茉莉子(大久保佳代子)のボーイフレンド役を、『町田くんの世界』『FUNNY BUNNY』に出演する若手俳優の佐野さん。「朝日座」存続を巡り森田らと対峙するオフィスI社員・市川和雄役を、「3年A組-今から皆さんは、人質です-」「24 JAPAN」などに出演する神尾さん。そして、莉子の父でタクシー会社社長の浜野巳喜男役を、「バイプレイヤーズ」シリーズや現在放送中の「にじいろカルテ」にも出演する光石さん。そして、「朝日座」の常連で資産家の未亡人・松山秀子役を日本を代表する名女優・吉行さんが演じ、作品にさらなる深みとユーモアを加える。キャストコメント甲本雅裕この作品を一言で言うとあったかい、です。脚本、撮影現場、福島の人達、全てがあったかかった。ロケ現場の映画館ではノスタルジーな気持ちになり、馬に乗って久々に遠くを見て、路地裏で相馬の人達の会話を聞き、身近を感じたとてもいい時間でした。この映画は、人が忘れかけている何かを思い出させてくれ、改めて今を生きてるんだって事を実感できる作品だと思います。あったかい気持ちになれるこの作品に参加できた事に感謝します。佐野弘樹タナダ監督とは今回が初めましてでした。僕はバオ君というベトナム人の技能実習生という役どころでカタコトの日本語でお芝居をしています。今までにない挑戦にワクワクしながら毎日の撮影をしていました。一人一人と真摯に向き合い続けているタナダ監督の心意気を間近で感じられた宝物のような時間でした。震災、原発、コロナ禍、僕たちが生きていく上で目を逸らしてはいけないものを扱っている今作品は、最初に脚本を読んだとき書き手の、タナダ監督の、覚悟を感じました。強度がある上に、しっかりと笑いあり涙あり、最後には今日も一日頑張ろう。って思わせてくれる可笑しみみたいなものもちゃんと詰まっているそんな素敵な作品です。神尾佑東日本大震災で福島は大きく変わってしまいました。それは町によって人によって家庭によって様々で、一概に悲しみ苦しみと表現できるものではないでしょう。この脚本はそんな福島のとある人々の断片ですが、福島への情愛とそこに暮らす人々への思いをとても感じました。タナダユキ監督の人間に対する洞察力と愛情が観た人の心を温めてくれるでしょう。そして映画の舞台になった映画館が素晴らしい。もしかしたら私も子供の頃行ったかもしれない映画館。この作品の礎になっていてそれがまた見どころです。福島出身としてこの作品に少しでも参加できて本当によかったです。光石研今作は、まだまだ先の見えないコロナ禍での撮影でした。しかし、スタッフの皆さんの手厚いケアで、何一つ心配する事なく、撮影しました。タナダ監督とは、確か同郷の北九州での、小さな映画祭でお会いした事がありましたが、タナダ組の現場は初めてでした。キャメラの横にスッと座り、しっかりと俳優の佇まい、一挙手一投足を観察し、的確な指示を頂き、安心してやれました。何ともハンサムな監督デス!ストーリーも小さな映画館のお話だし、映画愛を感じます。しかし、監督の別の作品を拝見すると、ちゃんとエッジが効いてます。羊の皮を被ったなんとかですかね。めちゃくちゃ楽しかったです。吉行和子タナダユキ監督の、映画愛が、ぎっしり詰まっています。そして、震災、家族と、福島での撮影で、より強く感じた日々を思い出しました。映画とテレビドラマが同時進行で撮影されたので、両方に出ていた私は、一度に二本、タナダ監督の作品に出る機会を頂き、嬉しかったです。監督は、とてもチャーミングでした『浜の朝日の嘘つきどもと』は秋、全国にて公開予定。(cinemacafe.net)■関連作品:浜の朝日の嘘つきどもと 2021年公開予定©2021 映画『浜の朝日の嘘つきどもと』製作委員会
2021年03月17日【今週の悩めるマダム】10年前の東日本大震災で家族を亡くしたものです。先日、また大きな地震が東北を襲いました。今回の地震では、食器などが割れてしまったものの、幸いけがなどの被害はありませんでした。しかし嫌な記憶がよみがえってきて、また眠れなくなってしまいました。やっと乗り越えられてきた矢先に、心が潰されそうです。(宮城県在住・50代主婦)あれから10年の月日が流れましたが、つらい記憶にいまだ多くの方が苦しんでいらっしゃると思います。しかし、このような自然災害は、残念ながら地球が続く限り、繰り返し起こるものです。人間の力ではどうすることもできないこのような不条理なことが、皮肉にも人生にはたくさんふりかかってきます。その都度、人間は立ち止まり、吹き飛ばされないように、心を必死で保たないとならないのです。そうしたことも含めて“生きていく”ということなのでしょう。もちろん自然災害だけではありません。交通事故もあれば、癌などの重たい病気もありますし、まさにコロナのような感染症のパンデミックもあります。私たちに悲しい記憶を思い起こさせるような出来事は、今後も形をかえ、次々と私たちに襲い掛かってくることでしょう。さて、僕はあるときから、心の片隅に“ある種の覚悟”というものを常に用意するようになりました。これを皆さんに真似してください、というつもりはないのですが、とりあえずちょっと読んでみてください。僕は61年生きてきましたが、結局のところ、人生とか運命というものは、実はどんなに拝んでもどんなに頑張っても、もうどうすることもできないものだと悟ったのです。なぜならば、人間は遅かれ早かれ、いつかは死ぬことになるのです。ご存知のとおり、この運命から脱出できた人間はいまだかつて一人もおりません。地震も起こるでしょうし、交通事故に不意に遭遇することもあるかもしれない。コロナにかかって、死にそうになるかもしれない。あるいは、死ぬかもしれない。人間が自分でどうすることもできないことを“不条理”というのですが、実際のところ人生のほぼすべてが不条理だと考えていた方がいいでしょう。免れない死を覚悟してみると、不安はほんの少しマシになります。いつか終わりがくることを怯えて生きることも、苦しい過去を背負い続けて生きることも、人間にはできます。でも、「いつかは自分もこの世を去らないとならない」と覚悟する境地が、逆に僕を楽にしてくれることがあるのです。諦めではありません。境地です。人間がどんなに考えても、死の先にあるものは見えません。見た者もいません。しかし、終わりのある人生の本質と向き合い、そして理解することはできます。死を悟り、今を一生懸命生きることで、僕はつらい過去と和解してきました。そして、いつも月を見上げながら、「いつか、そちらに帰ります。それまであと少し、精一杯生きさせてください」と祈るのです。天に召されるという言葉がありますが、その免れない最期に、「素晴らしい人生だった」と思えることが天国なのだと信じたいですね。つらいこともありますが、今生を共に生きてまいりましょう。【JINSEIの格言】免れない死を覚悟してみると、不安はほんの少しマシになります。「いつかは自分もこの世を去らないとならない」と覚悟する境地が、逆に僕を楽にしてくれることがあるのです。この連載では辻さんが恋愛から家事・育児、夫への愚痴まで、みなさんの日ごろの悩みにお答えします!お悩みは、メール(jinseinospice@gmail.com)、Twitter(女性自身連載「JINSEIのスパイス!」お悩み募集係【公式】(@jinseinospice)、またはお便り(〒112-0811 東京都文京区音羽1-16-6「女性自身」編集部宛)にて絶賛募集中。※性別と年齢を明記のうえ、お送りください。以前の連載「ムスコ飯」はこちらで写真付きレシピ公開中!
2021年03月16日“日常をより豊かにする”ビジョンを掲げ、インテリア・キッチン・ライフスタイル商品の卸売及び販売を行う株式会社マークスインターナショナル(本社:東京都渋谷区恵比寿西2-21-1、代表取締役:大谷正人)は、同社が展開するインテリア・ライフスタイルブランド「DUENDE(デュエンデ)」より、建築家・芦沢啓治氏デザインによるSHELF『Margeshelf(マージシェルフ)』シリーズを、2021年3月10日(水)より販売を開始いたします。「DUENDE」は、機能美を追求したオリジナルのインテリア・ライフスタイル商品を取り揃え、全国のインテリア・ライフスタイルショップ及びマークスインターナショナルが展開するECサイトで販売を展開しているブランド。生活の舞台となる部屋や空間で、ずっと一緒に生きる家具を提案しています。DUENDEデュエンデへ今回新たに販売される新商品は、業界で注目を浴びる建築家・芦沢啓治氏により、DUENDEのオリジナル商品としてデザインされたもの。使いやすさと、そこに置くモノを主役に引き立てるステージ『Margeshelf』は、現代のインテリアに違和感なく馴染み、落ち着きがあり、3色からなる淡い色合いの棚板はそれぞれの配色が組み替えできる構造になっています。新生活の準備にむけて、また、自宅で過ごす空間を快適にしたいといったニーズのなか、日々の暮らしを少し豊かにしてくれるインテリアで、ぜひ日常の価値を愉しんでみてはいかがでしょうか。■新商品販売概要商品:Margeshelf発売:2021年3月10日(水)10時〜販売元:株式会社マークスインターナショナル販売店:全国のインテリア・ライフスタイルショップ、及びDUENDE.jpDUENDEデュエンデへ■Margeshelf(マージシェルフ)商品概要『Margeshelf』は、DUENDEのコンセプトでもある極限までミニマルな構造にし、究極の機能美を追求するシェルフとして誕生しました。収納するモノとして存在するだけでなく、物を整理し、しまい、並べておく、など使う人のあらゆる用途を想定し、構造からデザインまでを考え抜いて作られています。デザインは、DUENDEでオリジナル商品を数多く手がける建築家・芦沢啓治氏によるもので、薄くても頑丈なスチール構造材の要素と、自然で優しい印象のオーク無垢材のバランスにより、まるで置くモノを引き立てるステージのようでもあります。棚板の後部を直角に45ミリ折り曲げ、立ち上がらせたことで強度を保ち、背板としての役割をもたせています。45ミリの背板はさりげない存在感で、収納した本や置いた物を整頓しながらも、それを引き立てるような佇まいを演出してくれます。また、今回のシェルフの特徴でもある棚板は異なる3色の組み合わせで、インテリアの雰囲気やお好みに応じて棚板の並びを変えることで、さまざまなグラデーションを楽しむことができます。棚としての機能とミニマルなデザインが融合した『Margeshelf』。あらゆる空間で生活を引き立てる洗練されたデザインをお部屋に取り入れてみてはいかがでしょうか。Marge shelf 3Marge shelf 4Margeshelf3/3-SHELVES売価:35,000円(税抜)サイズ:W800*D350*H723mm棚から棚の間隔:下段310mm/上段242mm重量:13.6kgマテリアル:スチール/オーク無垢材カラー:LightGrey/Beige/DarkGreenデザイン:芦沢啓治Margeshelf4/4-SHELVES売価:45,000円(税抜)サイズ:W800*D350*H946mm棚から棚の間隔:下段310mm/中段242mm/上段198mm重量:17.6kgマテリアル:スチール/オーク無垢材カラー:LightGrey/Beige/DarkGreenデザイン:芦沢啓治芦沢啓治/あしざわけいじ1996年横浜国立大学建築学科卒業。architectureWORKSHOPにて建築家としてのキャリアをスタートし、superrobotでの2年間にわたる家具制作を経て、2005年芦沢啓治建築設計事務所設立。また、2011年東日本大震災を受け地域社会自立支援型公共空間、石巻工房を創立。2014年石巻工房を家具ブランドとして法人化。建築、インテリアだけにとどまらず、カリモク、IKEAなどの家具ブランドとの協業や、Panasonichomesとのパイロット建築プロジェクトなど幅広い分野で活動を行っている。建築、リノベーションから照明・家具デザインに一貫するフィロソフィー「正直なデザイン/HonestDesign」から生み出される作品は、国内外から高く評価されている。■DUENDE(デュエンデ)について家具は、ずっと一緒に生きるものだから。機能する、美しさを。【DUENDE】とはスペイン語で“心を魅了する”という意味。機能美を追い求めて辿り着いたそのフォルムは、言葉にはできない光る魅力を放ち、美しく、シンプルに、さまざまなライフスタイルに馴染みます。木材とスチール。素材の特徴を生かして描く独特な曲線。ひとの心に残る、他にはない趣(おもむき)。曲げる。つなげる。磨く。時には、あえて手を加えないのもDUENDEの技です。生活の舞台となる部屋に、空間に、こだわりの家具があったなら。あなたの毎日は、もっと光り輝きます。DUENDE(デュエンデ)HPへ■marcsInternationalco.,ltdについて日常をより豊かにする。日々の生活の中で我々はあらゆる“もの”に囲まれて暮らしています。我々のなにげない生活の中で毎日使うもの、毎日目にするものが、なんとなく気に入っていたり、好きなデザインであることが、日々の暮らしを、少し豊かに感じる手伝いをしてくれているのだと思っています。そんな想いから、世の中の誰かに素敵だな、と感じていただけるようなプロダクトをみなさまにご紹介していくのが、我々の使命です。■会社概要社名:株式会社マークスインターナショナル所在地:〒150-0021東京都渋谷区恵比寿西2-21-1電話:03-6861-4511設立:平成9年1月6日代表者:大谷正人資本金:2,000万円取扱商品:インテリア商材、ファニチュア、キッチン&テーブルウェア株式会社マークスインターナショナル HPへ■商品に関するお問い合わせ先株式会社マークスインターナショナル:digima@marcs.co.jpDUENDE(同社ECサイト):store@duende.jp企業プレスリリース詳細へ TIMESトップへ
2021年03月16日ある日起きた急激なうつ症状2021年の3月に入ったある日の夜、突然うつ症状が私を襲いました。人生の何もかもが理不尽に感じる。怒りと悲しみと喪失感。必死に努力して身につけ、継続してきた健康的な生活習慣やセルフケアのすべてを放り投げてしまいたくなる。消えてしまいたい、どんなに死にたいと悩んだときも結局死なずに生きてきたのだからどうせ死なないんだろうけれど、死にたいと言ってしまいたい気分。鎮静剤でも打ってもらって何ヶ月かこんこんと眠り続けたい…その日の日中まではそこそこ元気に、いろいろなことにチャレンジして過ごしていたはずなのになぜ? とパニックになりました。とっさにとった緊急対応策 「人に頼る、そして寝る」私は経験上、一度ここまで気分が落ち込んで動揺した状態のときには人の手を借りる必要があると知っていました。身体のコリでも、あまりに凝っているとセルフマッサージでは間に合わないし、セルフマッサージをする気力体力も出ないですよね。心の疲れでも同じで、ひどいときにはセルフケアでは対応できなくなるのです。そこで真っ先に、かかりつけのトラウマ治療のカウンセラーの先生に現在の状況を伝え、直近のセッション枠をあけてもらいました。そして、いつも悩んだときには誰より先に悩みを相談しあっている親友にお願いして、チャットメッセージを使って少し話を聞いてもらいました。少し落ち着いてみると自分がこのところ無意識に無理していて心身ともに疲労困憊していたことに気づき、「何はなくともまずしっかり寝なければ」と思いました。それで抗不安薬と睡眠導入剤を飲み、いつも寝る前にやっているヨガもさぼって、寝落ちしてしまう直前まで先の友人に頼んで話につきあってもらいました。このうつ症状は「記念日反応」だと気づいた数日以内にかかりつけの先生のセッションを受けられるという安心感、とりあえずは親友に話を聞いてもらってパニックからは脱したこと、そしてとっさにしっかり睡眠をとったことで、私は翌朝には思ったよりも落ち着いていました。引き続き親友に話を聞いてもらう中で「しばらく緊張とハイテンションが続いたあとにガクッとうつっぽく落ち込むって、なんだか東日本大震災のときと似てるよね」と言われ、はたと気づきました。これは記念日反応かもしれない。記念日反応とは、何かの記念日のような日や時期に心身の調子が悪くなることです。災害記念日や誰かの命日、年度の変わり目や盆暮れ正月などに、関連の記憶や思いがかきたてられて調子を崩す。誕生日前後に調子を崩す人もいます。2021年3月は東日本大震災の10年目の時期です。私にとって震災から10年となる今年は、実家を逃げ出して現在の生活になってから10周年でもあります。このタイミングは年齢的にも、私が40歳を過ぎて来し方を振り返り、今後の生き方に思いを馳せるときでもありました。つまり、この春は私にとっていくつもの記念日反応が重なる時期だったのです。それに加え、去年から今年の場合はコロナ禍という特殊事情も重なっています。コロナ禍の影響で仕事の企画はいくつも流れたり延期になったりしていますし、気分転換にあちこち外出や旅行をしたりもできません。私にもほかの多くの人と同じように不安や焦り、フラストレーションがたまっていたでしょう。私はそんな中で、「それでも自分にできることをやっていこう、自己向上していこう」と頑張りすぎていたのかもしれません。自宅でフィットネスを頑張ったり、英語の勉強のしなおしにとりかかったりしていました。そうした無理が限界を超えたサインが、今回のうつ状態だったのだと思います。こうした気づきを得たことで、私の落ち込みと動揺は収まっていきました。突然の精神的危機に対する私なりの対応策記念日反応は誰にでも起こるものですし、世界的な情勢の変化によるストレスの影響からは誰も逃れられません。突然の精神的危機は「弱い人だから」起こるのではなく、誰もに起こるものだと思います。私が経験上自然と練り上げてきた、突然の精神的危機に対する対応策をまとめておきます。真っ先にやるのが、自分を助けてくれる人と連絡をとって頼ることです。かかりつけの治療者や、相談に乗ってくれたりそばにいてくれたりする信頼できる人など。助け手とやりとりする中で、まずは精神的危機によるパニックを落ち着けます。かかりつけの治療者には、できればなるべく早くに診察やセッションの予定を組んでもらいましょう。精神的危機に陥っているときはたいてい自律神経の状態も乱れていて、質のいい十分な睡眠がとれていません。まずは眠ることを優先にします。普段はできるだけ薬に頼らずセルフケアで対応している人も、このときばかりは薬に頼ってもいいと思います(必ず処方されている用量内で使いましょう)。結果的に眠れなくてもいいので、まずは薬で、逆立った神経を少しでも休めます。仕事、勉強、家事、セルフケアなど、日常の中でやらなければいけないことはたくさんありますが、精神的危機のまっただなかである今は緊急事態なので、「やらなければ死ぬこと」以外は徹底的にサボります。私は仕事も勉強も掃除も歯磨きも、ヨガも瞑想もさぼりました。私は入浴が好きなので入浴はサボりませんでしたが、人によっては入浴だってサボっていいと思います。3までのことをやっているとたいていパニックが落ち着き、当面の心身の疲れがとれます。落ち着きを取り戻した頭でいろいろ言語化しているうちに頭が整理されて、自分が置かれている状況に対する気づきが生まれます。今回私が「これは記念日反応だ」と気づいたような感じです。気づきを得たらしめたもので、もうそれは立ち直るフェイズに入ったということです。4までで立ち直るフェイズに入りはしたものの、まだ衝撃の余韻は残っています。気分や体調の大きな変調は「今までのやり方では参ってしまうよ」という心身からの大事なメッセージなので、このメッセージを少なくともしばらくの間しっかり尊重してあげます。私の場合、ダイエットを頑張っていたなら、無理してプロテインにしていたのを甘いものを心ゆくまで食べるとか、筋トレや有酸素運動を少し休んでストレッチしながら自分の身体の意外な部分の緊張に気づいてみるとか。日ごとのノルマを決めて勉強や仕事を頑張っていたなら、ノルマをつらく感じない程度まで思い切って引き下げてみるとか。大事なのが、どんな努力でも、心身の健康を保ちながら続けていく秘訣は「目標に自分を合わせていくのではなく、自分に目標を合わせていく」ことです。目標を自分にすり合わせていくと同時に「高すぎる目標に自分の心の傷が隠れていないか」も探ってみるのもとても大事です。たとえば私の場合、容姿のことでバカにされたトラウマがあるとか、いつも一番であるように親からプレッシャーがかかっていた、小さなころから有能であること以外に自信の持てる要素がなかった、とかが見つかります。二次障害も乗りこなしながら生きていく発達障害があるとただ生きているだけで発達障害のない人よりも傷つくことが多く、二次障害を負ってしまう人も多くいます。社会が発達障害者向けにつくられていない以上、私たちは今までもこれからも人よりも多くのストレスにさらされながら生きていかざるをえません。その意味で私たちは、発達障害それ自体だけでなく、二次障害とも一生つきあっていく必要があるのかもしれません。それでも私たちは障害者である前にひとりの人間として、自分の生き方に対して経験と知識を積み重ね、成長していきます。仲間たちと苦労やノウハウを分かち合いながら、二次障害も乗りこなしながら生きていきたいと私は思っています。
2021年03月16日「いつ倒れてもおかしくない状況下で、幸い未然に適切な処置を施すことができた人との出会い、強運に感謝したい。今は元気に生きてます」2月26日、都内の病院で狭心症の手術を受けたことが明らかになった吉川晃司(55)。冒頭のコメントは吉川が『デイリースポーツ』の取材に語ったもので、昨年暮れの人間ドックから詳しく検査をした結果、狭心症が発覚し、2月中旬に手術に至ったという。吉川は’08年の映画『チーム・バチスタの栄光』で心臓外科の権威を演じている。実は今回、吉川の命を救ったのはリアル“チーム・バチスタ”だった。「13年前、この映画で医療監修を担当した大学病院の腕利き心臓外科医と吉川さんは撮影後も交流が続いていました。今回の手術も、その外科医の下で結成された医療チームが担当したといいます。実は、吉川さんの妻・A子さんも当時、撮影現場の医療技術スタッフとして参加していた看護師さんでした」(映画関係者)撮影後に2人の交際が始まり、A子さんは’09年に未婚のまま北陸の実家で長女を出産。「吉川さんは’11年、東日本大震災の数日後、被災地にボランティアとして駆けつけました。“家族は離れ離れになってはいけない”と実感したこともあり、A子さんと娘さんを東京に呼び寄せて正式に入籍したそうです」(吉川の知人)当時、吉川は結婚について《順序が逆になったことについて言い訳はしません、自分がどこか弱かったと思います。ただ、筋は通させてください》とHPでつづっていた。「結婚後もA子さんは看護師経験を生かして、吉川さんの体調管理を徹底していました。ただ、吉川さんは’15年にバイク事故で全治2カ月、’17年に声帯ポリープ手術で1年ステージを休むなど、A子さんの心配の種は尽きなかったようです。今回も検査の結果、心臓の30%がうまく機能していないことがわかり、いつ心筋梗塞で倒れてもおかしくない、かなり危険な状態だったようです。奥さんは当時の医療チームと頻繁に連絡を取ってアドバイスを受けていたと聞きます」(前出・吉川の知人)術後の経過は順調で、この3月中にはアクション作品の撮影で本格復帰の予定だという。「奥さんのサポートを受けて体調を整えながら、5月にはコンサートにも臨むそうです」(音楽関係者)愛妻をはじめとした「チーム・バチスタ」に支えられ、今回も大事に至らずに済んだ吉川。また、躍動する姿を見せてくれそうだ。「女性自身」2021年3月23日・30日合併号 掲載
2021年03月15日意外と知らない社会的な問題について、ジャーナリストの堀潤さんが解説する「堀潤の社会のじかん」。今回のテーマは「東日本大震災から10年」です。震災に終わりなし。この先も風化させてはならない。東日本大震災から10年が経ちます。福島第一原発事故により帰宅困難区域に指定されていたところも、2023年までに全面解除・帰還を目指すことになりました。大きな被害にあった南相馬市と浪江町では、ロボット開発をする企業が誘致されたり、浪江町では民間の新しい電力会社も太陽光エネルギーの拠点として立ち上がるなど、新しい街づくりが進んでいます。復興の明るいニュースがある一方で、故郷を追われ、いまなお避難生活を強いられている方が東北だけで3600人おられます。石巻では復興計画が進まないまま、移動困難な地域に住む高齢者が孤独死するケースが増えています。長引く避難生活でコミュニティを再生できず、日常を取り戻せないまま亡くなってしまう。共同通信によると、避難を余儀なくされた福島県の7町村で、震災関連死と認定された人は、1月現在、それぞれ人口の1%以上にのぼることが判明しました。災害で亡くなった直接死よりも、震災関連死のほうが多く、これまでに2313人が亡くなり、その9割が南相馬市など避難指示区域に設定された市町村でした。原発事故で故郷を失い、住まいを転々とする避難生活が心身にダメージを与えたことが顕著になっています。自殺者数も被災3県(岩手、宮城、福島)のなかで福島県が最も多く118人。なかでも男性が多く、働く場や生活を根こそぎ奪われてしまったことが要因と考えられます。生業を奪われた人々が、国と東電相手に訴訟(生業訴訟)を起こし、昨年9月に仙台高裁では勝訴しました。しかし、この10年の間に100人以上の方が亡くなり、原告の数は年々減ってしまっています。震災から10年。復興庁は継続しますが、様々な支援は次第に打ち切られます。世間的に忘れられていくなかで、いまだに十分な補償ももらえず国とも争わなければならない。地域のコミュニティは分断され、疎外感を抱きながら暮らす人々。一概に「東北では」「福島では」と大きな主語では語れません。今年2月、福島県沖で再び大きな地震が起きました。読者の方々には、現地を訪れるなど、ぜひ今後も東北と関わり続けてほしいなと思います。堀 潤ジャーナリスト。市民ニュースサイト「8bitNews」代表。「GARDEN」CEO。『モーニングCROSS』(TOKYO MX 平日7:00~8:00)にメインキャスターとして出演中。※『anan』2021年3月17日号より。写真・中島慶子イラスト・五月女ケイ子文・黒瀬朋子(by anan編集部)
2021年03月13日2011年3月11日に発生した東日本大震災。当時私は、東京都中央区のオフィスビルの11階に勤務していました。翌年に結婚を控え、現在の夫と2人暮らし。会社からドアtoドアで1時間程度の場所に住んでいました。震災で電車が止まり、帰宅困難者になった経験を踏まえて、震災後に意識するようになったことをご紹介します。 オフィスで何時間も電車の復旧を待つ震災当時、私のいたビルの11階もかなり揺れを感じ、デスクが乱れたり、本棚から書類が落ちたりといった状況。相当な恐怖を感じたものの、周りにケガをした人などはおらずホッとしたのですが、大変なのはそのあとでした。電車がすべて止まってしまい、普段だったらもう誰もオフィスにいない午後10時を回っても、自宅に帰れない人たちがずっと会社に残っていました。 このまま会社に泊まることになるのかなあと不安になり始めた深夜0時近くになってようやく普段通勤に使っていた地下鉄が動き出し、自宅が同じ方面にある同僚と恐る恐る地下鉄に乗って帰ったのを覚えています。 子どもの安否確認に奔走するママたち当時私はまだ未婚で子どももいなかったため、地震発生後、夫の安否が確認できたあとは不安ながらも仕事をして地下鉄が動き出すまでの時間をつぶしていました。しかし、同じ部署には子育て中のママもたくさんいて、子どもの安否確認とお迎えの段取りに奔走する様子を間近で見ていて、本当に大変そうだなあと思いました。 そして、子どもがいるママたちは、震災後数時間で蜘蛛の子を散らすようにオフィスを去っていきました。幸いママたちは皆オフィスから近い場所に住んでいる人ばかりで、帰宅困難で子どものお迎えに行けないという人はいなかったようです。 どんなときでもすぐお迎えに行けるようにその後、私は結婚して子どもにも恵まれましたが、折に触れて震災の日の体験を思い出し、今あのときと同じ状況になったらどうなるかというのを何度となく考えてきました。自宅から遠い場所に勤務していて電車が止まってしまったら、お迎えにいけるのが何時間後になるかわからないという不安がまずあります。 確固たる信念があってそうしたわけではありませんが、「何かがあったときにすぐお迎えに行けるように」という思いはずっと心の中にあり、子どもが生まれてからは在宅でできる仕事のスタイルに切り替えて現在に至ります。 地震はいつ起こるかわかりません。私が普段は在宅で仕事をしていても、たまたま打ち合わせ等で自宅から離れた場所にいる日に地震が起きる可能性も十分にあります。いつも子どもの近くにいられれば安心ですが難しい場合もあるので、どこにいても大丈夫なように、いざというときの連絡方法や、帰宅手段など、日ごろからの備えをしっかりしておきたいです。 監修/助産師REIKO著者:澤崎 凪1男1女の母。パーソナルカラーコーディネーターの資格を持ち、色彩関係、ファッション関係のほか、自身の体験をもとにした子育て関係のジャンルを中心にライターとして活動中。
2021年03月13日2011年3月11日に、東北地方を中心に大きな被害をもたらした東日本大震災。地震にともない発生した大きな津波は住宅地をのみ込み、多くの死者や行方不明者を出しました。震災当時は学校に通いながら、通信教育の『進研ゼミ』をしていたという、逹己(@tatsuki_)さん。地震による津波で、自宅の1階が浸水し、進研ゼミの教材が流されてしまったといいます。逹己さんは、震災から3週間が経った頃、進研ゼミに連絡し、次のような質問をしました。「津波で流されてしまった4月号の教材を、新しくもらうことはできますか?」すると、電話を受けたスタッフの女性は、涙声でこうつぶやいたのです。「…!生きて…らっしゃったんですねぇ…!」この日になると毎年思い出すんですが震災時学生でワイ宅1階浸かったんだけど当時進研ゼミやってて津波で流されたから4月号って新しく貰えますかって電話したら「…!生きて…らっしゃったんですねェ゛…!」って電話口のお姉さんが涙声で対応してくれたのを思い出すんですよね— 逹己/アルゴナビスをよろしく (@tatsuki_) March 11, 2021 その後、泣きながら「すぐにお送りいたします」と答えたスタッフ。すぐさま手配してくれた結果、後日きれいな状態の教材が届いたそうです。当時電話で対応したスタッフは、亡くなった被災者の遺族などから、退会の連絡を受け続けていたのかもしれません。当時の状況を物語るエピソードに、ネット上ではさまざまな声が寄せられています。・素敵な話に胸が熱くなりました。・ボロ泣きしてしまいました。人の命の尊さを、改めて実感させられます。・電話を受けたスタッフは相当嬉しかったのでしょうね。生きていてくれて本当にありがとうございます。逹己さんは、3月11日が訪れるたびに、この出来事を思い出すのだそうです。東日本大震災は、私たちの心に大きな傷を与えました。実際に被災地で傷付き苦しんだ人々はもちろん、遠く離れた土地で被災者の安否を確認できず、無事を祈ることしかできなかった人にとっても、不安な日々だったはずです。人と人のつながりを感じさせるエピソードに、胸が熱くなりますね。[文・構成/grape編集部]
2021年03月12日昨年3月、新型コロナウイルスによる肺炎のためこの世を去った志村けんさん(享年70)。その銅像が故郷の東京都東村山市に設置されることが3月9日に発表された。各メディアによると銅像は「アイーン」のポーズをしており、7月上旬にはお披露目される予定だという。志村さんが亡くなって早1年。ネットでは《いろんな世代から愛され、みんなに笑いを届けてくれた志村さんが大好きです。銅像出来たら見に行きたいと思います》《まさか銅像になるとまでは本人も思わなかっただろう。それほどに偉大な存在となったということ》と改めて、生前の功績が讃えられている。そして、このニュースの2日後に迎えたのが3月11日。東日本大震災の発生した「3.11」から10年目という節目の年を迎えた。志村さんのブログをひもとくと、11年3月13日の記事に震災当日のことがつづられている。志村さんは「高速道路走ってて地震あいまして」「こんな怖い思いは人生で初めて本当に怖かったよ」といい、さらにこう続けている。「それよりテレビで映像見て私なんかより想像絶する言葉がありません津波の怖さ」「何も出来ない涙が出ます」同年3月27日のブログには、福島県いわき市にロケで行った思い出が記されている。「海岸の店でおばちゃん達にしらす丼食べさせてもらい楽しく会話したのを覚えてます」と回想したものの、「その店は流されて無いそうです辛いです」と無念さを滲ませている。「志村さんはその年の4月、募金活動を行いました。1日で213万円もの大金を集め、被災地に寄付。『自分には何もできない』と思っていた志村さんは、募金してくれた人たちにしきりに感謝していました」(スポーツ紙記者)■「少しでも震災を忘れてくれたらいいな」震災後、ブログで何度も「合言葉はだいじょぶだぁ」「明日はだいじょぶだぁ」とのメッセージを送っていた志村さん。13年4月に放送された番組「志村けんと行く!勝手にドッキリ感動旅!」(テレビ東京系)で三陸鉄道の旅に出ている。そして当時、三陸鉄道・吉浜駅の非常勤駅長に任命され話題となった。「なぜ“非常勤”なのかというと、『そのほうがタイミング次第でいつでも現地に行けるから』と志村さんが考えたためだそうです。また志村さんは等身大パネルや、志村さんへの意見箱『志村箱』を吉浜駅に設置することを提案。そんな『少しでも被災地に寄り添いたい』という気持ちを街の人たちは嬉しく思い、『元気付けられた』と語る人もいました」(全国紙記者)また志村さんが愛されたのは、誰にでも気さくで優しかったからだという。「『バカ殿』で震災を特集した際、現地の曲芸師に『じっくり芸を見せてくださいね』と紳士的に挨拶。その姿に感激する声が上がっていました。さらに志村さんは、被災地の子供たちをたびたび楽しませては笑顔に。子供が大好きな志村さんは『少しでも震災を忘れてくれたらいいな』と話していました」(前出・スポーツ紙記者)この次の10年、そしてその先もーー。志村さんは、被災地のことを天国から見守っていることだろう。
2021年03月12日日本に甚大な被害をもたらした東日本大震災から10年が経った、2021年3月11日。特別番組『NNN未来へのチカラ』(日本テレビ系)では、被災地の現在について特集しました。番組では、報道番組のキャスターたちが集結し、東日本大震災の発生後に取材した被災者のもとを再び訪れる様子を放送。そこで1人のアナウンサーが見せた涙が反響を呼んでいます。漁師の男性の言葉に、藤井貴彦アナウンサーが涙震災後の2011年3月23日に、宮城県の気仙沼市を訪れた藤井貴彦アナウンサー。そこで、震災により船を失った60代の漁師の男性と出会います。男性は当時、漁師を続けていくことを宣言し、「生きることだ。仕事に対して強い熱意を持っていれば、絶対勝つから」と力強く口にしていました。10年後、藤井アナウンサーは男性に対し、電話取材を行います。2021年現在も漁師を続けていた男性は、藤井アナウンサーに、震災直後の想いをこう語ったのです。なんにしても、自分が生きなきゃ勝てないですからね。自分が生きなきゃ、人の役にも立たないしね。だから生きることです。NNN未来へのチカラーより引用電話越しに届いた力強い言葉に、藤井アナウンサーはあふれてくる涙をこらえることができませんでした。震災から10年間、藤井アナウンサーは取材した男性のことをずっと気にかけていたのでしょう。男性の元気な声を聞けた安堵や、生きることへの希望が見えるコメントに、熱い気持ちがこみ上げたのかもしれませんね。視聴者からは、男性の言葉や、涙を流す藤井アナウンサーの姿に、反響が寄せられました。・藤井アナウンサーの涙に、もらい泣きしてしまった。・いつも冷静で穏やかな藤井アナウンサーが泣いていると、胸に迫るものがある。・藤井アナウンサーの丁寧な語り口調や相づちから、本当に被災者の心情に寄り添っているのが分かる。・男性の「生きること」という力強い言葉に心を動かされた。言葉でいい表せないくらいかっこいい生き方だと思う。生きていれば、つらく悲しいことだけでなく、大きな喜びに出会えることもあるでしょう。人生において信じる気持ちや前向きな熱意は、時に私たちの心を支えてくれるはずです。[文・構成/grape編集部]
2021年03月12日長崎県対馬市にある、陸上自衛隊対馬駐屯地。陸上自衛隊の中では、2番目に小さな駐屯地だといいます。2011年3月11日に起きた、東日本大震災では多くの自衛隊が派遣されました。派遣された自衛隊員の数は、最大10万人を超えるほどだったそうです。対馬駐屯地に所属する自衛隊・対馬警備隊も支援に駆け付けました。対馬警備隊は、宮城県気仙沼市で入浴支援を実施。約4万3千人の被災者が入浴したといいます。沿道からは感謝の声も寄せられたとのこと。当時の写真をTwitterに投稿しました。【東日本大震災から10年】 対馬警備隊は、当時、宮城県気仙沼市において野外入浴セットを開設し、約43,000名に対して入浴支援を実施しました。今でも、東北の被災された方を思い、一日も早い復興を願って対馬から応援しています。 #対馬駐屯地 #東日本大震災 #気仙沼市 pic.twitter.com/vOPdRtmA1y — 陸上自衛隊対馬駐屯地(公式) (@camp_tusima) March 11, 2021 貴重な入浴に、利用者も笑顔で写っています。敬礼する子供たちからの「救援ありがとう」の言葉や、段ボールに描かれた「いつもありがとう」というメッセージに、見ているこちらまで心が震えますね。この言葉は、疲れている隊員たちを癒してくれたようです。投稿には「感謝です」「ありがとうございました」といった声が寄せられました。東日本大震災だけでなく、さまざまな災害が起きた時にいち早く活動をしてくれる自衛隊。感謝の想いを忘れずに、しっかりと伝えていきたいですね。[文・構成/grape編集部]
2021年03月12日2011年3月11日に発生した未曾有の災害・東日本大震災から10年。マイナビニュースでは、この震災に様々な形で向き合ってきた人々や番組のキーパーソンにインタビューし、この10年、そしてこれからを考えていく。現在フリーアナウンサーの大島由香里(37)は、当時フジテレビ入社5年目だった。2011年2月22日に発生したニュージーランド地震で現地を取材し、帰国してから1週間半後にフジテレビ本社で大きな揺れを感じる。フィールドキャスターとして、震災発生直後に足を踏み入れた宮城県女川町。葛藤しながらも取材する中で、ある男性からかけられた言葉が今でも胸に残っている。○■ニュージーランド地震の取材から帰国フジテレビ2階のトイレにいるときに揺れました。ニュージーランドの地震を取材していて、現地で2週間滞在してホテルでは雑魚寝。今にも崩れそうな家々の中で取材、中継をして。そこから帰って来てからの1週間半後だったんですよね。ニュージーランドでも余震にずっとうなされてたので、怖くてすぐにトイレから出られませんでした。携帯を見ても繋がらない状態。おそるおそるトイレから出たら、2階のメイク室から安藤優子さんが飛び出して来ました。「大島! エレベーターが動かないから、今から階段で報道センターまで行くよ!」「すぐに情報取って!」非常階段で上がりながら調べても、なかなか全容が把握できない。「東北の方で地震みたいです!」と伝えながら12階の報道センターまで上がって、安藤さんはそのまま特番の中継に。「私はどうしよう」取材に行きたくても電車や車も使えない。それから3日間ぐらい会社に寝泊まりしました。震災発生から1週間ほど経って取材に行けるようになり、ようやく現地に。言葉にならないほど悲惨な状況でした。○■声をかけるのが私の仕事最初に行ったのが女川だったと思います。女川には湾があって、そこから十数メートルの津波が来て、多くのものが流されていました。水は引いていましたが、鉄骨だけになった建物の周りでは、住人の方々がいろいろなものを探していました。家族も含めて。そこで声をかけるのが私の仕事です。涙が込み上げる私を見て、あるスタッフさんが「泣くな。お前のことじゃないだろ」と叱ってくれて。もともと自分は前に出ていくタイプではないので、どうしても感情移入して足がすくんでしまう。人の気持ちばかり考えてしまうので、自分にこういう取材は向いてないんじゃないかと痛感した瞬間でもありました。「本当に申し訳ないです。こんな時に」そうやって声を掛けながら取材していると、50代ぐらいの男性に「こんな大変なところまで来てくれて、申し訳ないね」みたいに謝られたことがありました。「こちらこそこんなタイミングに、ずかずかと入って来て図々しく聞いてすみません」という私に、その男性は「いいよ、いいよ。現状を映してほしいし」と。そして、その後の言葉が今でも忘れられません。「大変だろうけど、がんばってね」それは私たちが、被災された方々に対して切に願うこと。女川でお会いしたその方の言葉が、ずっとずっと忘れられなくて。その後は亘理町や山元町、石巻にも行きました。一番長期にわたって取材したのは南三陸町です。『ニュースJAPAN』で毎年行かせてもらって、防災庁舎が年々朽ちていくのを見ながら、「こうやって記憶が薄れてしまうのはよくない」という思いで一生懸命伝えるんですけど、自分自身の記憶も薄れていくのを感じて。どうすれば記憶が消えないようにできるのか。それはずっと考え続けているテーマです。当時、震災後に南三陸町を離れる人がいる中で、出産して子育てをする選択をした若いご夫婦がいて、そのお二人に話をうかがった時に「自分たちは残る」とおっしゃっていて。当時の私は独身でした。「自分たちは残る」がどれだけ重く、力強い意志のもとで発せられた言葉だったのか。自分に娘が生まれた今、その言葉の重みを今更ながら感じます。○■まだまだやるべきことがある子ども世代にどうやって残し、伝えていくのか。それが難しくて。2月13日に福島県沖地震が発生した時、ちょっと遅めの時間だったんですけど娘が「お茶飲みたい」というから水筒を洗ってたんですよ。そしたらグラグラっと揺れて、娘のところに駆けつけて「こわいよね」と抱きしめたら、お風呂のお湯が揺れているのに気づいて「バシャーンってなってる!」って喜んでたんですよね。「お湯がバシャーンってなってるね。でも、これは地震といって大変なことでね」と言い聞かせたところで、3歳だからまだ何も分からないかもしれない。私は、娘にどうやって伝えていくべきなのか。日頃の備え以外にも、まだまだやるべきことがあると痛感しました。防災グッズは用意はしていますが、今すぐに家から出ないといけない状況になると、足りないものがどんどん思い浮かんで来て。なってみないと分からないけど、なってみるともう遅い。そういうことすら気づけなかった。これは記憶が薄れ、油断していることの表れです。そういう自分にも絶望してしまいました。3月11日14時46分。震災発生以来、何度も現場取材をさせて頂いた私の記憶。「取材してくれてありがとう」や「がんばってね」と逆に励まされた恵まれた身としては「私なんかが」と思わずに、「現場を見てきた私だから」と前のめりで声を上げ続けることも必要。そう自分に言い聞かせたいです。いつか娘に東日本大震災について聞かれたら、きちんと向かい合って座って、伝えるべきことを伝えたい。娘と一緒に備えていこうと思います。■プロフィール大島由香里1984年1月24日生まれ。神奈川県出身。成城大学卒業後、2007年4月にフジテレビに入社。『FNNスーパーニュース』、『ニュースJAPAN』、『あしたのニュース』、『新報道2001』などを担当。2018年からはフリーアナウンサーとして活動し、『バラいろダンディ』(TOKKYO MX)でアシスタントを務めている。2021年2月に1st写真集『モノローグ』(講談社)を発売、YouTube公式チャンネル『大島由香里に乾杯 !』を開設した。
2021年03月12日人気キャラクター・スヌーピーでおなじみの漫画『PEANUS』(チャールズ・M・シュルツ著)を原作としたミュージカル『きみはいい人、チャーリー・ブラウン』が2021年3月30日(火)からシアタークリエで開幕する。初日まで3週間と迫った3月9日、チャーリー・ブラウン役の花村想太(Da-iCE)、スヌーピー役の中川晃教ら出演者が、東京・南町田グランベリーパーク内にあるスヌーピーミュージアムで行われた取材会に出席した。2017年に引き続きスヌーピーを演じる中川は「“犬”として舞台上で見えた景色が今でも焼きついている。物語の中で大活躍するスヌーピーを役者として、人間として、全身全霊で体現したい」と意気込む。また、ミュージカル出演が本作で2作目となる花村は「毎日ワクワクしながら過ごしている。小さな幸せにも大きな幸せにも気づける作品。このご時世で恐縮ですが、劇場に足を運んでくだされば」と話していた。3月11日で東日本大震災から10年となることや、このコロナ禍で感じたエンターテイメントのあり方について報道陣から問われると、中川は、自身が仙台市出身で、父の故郷が宮城県気仙沼市だということを明かした上で、「この経験においては、あっという間だったという言葉がどうしても出てこない。復興という言葉の通り、明るい未来を信じて、でもどこかで現実も見つめながら。なんとか一歩一歩向かっている」と語った。「未来に向かって、歌い続けていきたい。頑張り続けていきたい」と思いを新たにした。一方の花村は、幼少期に阪神淡路大震災で被災し、10年前の東日本大震災も経験。「両方を経験している若い世代として、その恐ろしさや当時の大変さを下の世代に伝えていくことは大切だなと思う。当時はデビュー前で、何もすることができなかったらこそ、今このエンターテイメントでたくさんの方に希望を与えられるような存在になれていたら」と話していた。花村のコメントを受けて、中川は「僕たちは『世を幸せにする』という共通の使命を持っているんですね」と語りかけていた。そのほかの出演者は岡宮来夢、宮澤佐江、林愛夏、植原卓也、大和悠河(声の出演)。東京公演は4月11日(日)まで。大阪公演は4月15日(木)〜18日(日)、サンケイホールブリーゼ。愛知公演は4月20日(火)、日本特殊陶業市民会館ビレッジホール。長野公演は4月23日(金)、長野市芸術館メインホール。チケット発売中。チケットぴあでは東京公演の2021/3/11(木) 10:00よりポストカード(メインビジュアル)付チケットを販売中。取材・文・撮影:五月女菜穂
2021年03月11日2021年3月11日、タレントのデーブ・スペクターさんが、Twitterを更新。東日本大震災にまつわる投稿に、反響が上がっています。デーブ・スペクターの投稿に、感謝の声同日、東日本大震災が発生して、ちょうど10年が経ちます。デーブさんは、節目となる日に、次のようなメッセージを投稿しました。東日本大震災からちょうど10年を迎えました。僕はこれからもずっと、日本の皆さんと一緒にいます。あまり面白いことが言えないから笑わせることはなかなか出来ないけど、辛い時、苦しい時は、僕を笑い者にしてください。今日もオチはありません。— デーブ・スペクター (@dave_spector) March 10, 2021 「笑わせることはできないけど、つらい時、苦しい時は、僕を笑いものにしてください」とつづったデーブさん。2011年3月11日、東日本大震災で発生した津波や原発事故の被害に、多くの人が胸を痛め、自然災害の恐ろしさを再認識しました。特に惨状を目の当たりにした被災者は、被災した日が近付くと、当時の記憶がフラッシュバックする人もいるでしょう。デーブさんはそんな人々を想い、寄り添うような温かい言葉で元気付けようとしたのです。投稿を見た人々からは、感謝の声が寄せられています。・オチがなくても、落ち着くことができるツイートを、ありがとうございます。・デーブさんの優しさに心がほぐれます。これからも私たちを笑顔にさせてください!・震災が発生した当時、アメリカに戻らず、日本で震災の様子を刻々と伝えていたことを知っています。本当にありがとう。ちなみに、デーブさんは東日本大震災の翌年である2012年より、毎年ツイートをし、人々に元気を届けています。過去のツイートはこちら2012年僕は大好きな日本が元気を取り戻す日までクールギャグを続けるつもりです。少しでもクスッとして頂けたら嬉しいです。犠牲者の方々のご冥福と、被災地の一日も早い復興を、心からお祈りいたします。— デーブ・スペクター (@dave_spector) March 10, 2012 2013年あの3月11日から丸2年が経ちました。犠牲者のご冥福と被災地の復興をお祈りいたします。少しでも笑顔がこぼれるように僕はこれからもギャグをTweetするつもりです。例え笑い者になっても、それで日本が明るくなるなら嬉しいので。— デーブ・スペクター (@dave_spector) March 10, 2013 2014年あの日からちょうど3年。僕は被災地の皆さんのことを一日も忘れたことはありません。そして日本がますます大切な存在になっています。皆さんさえ良ければこれからも一緒に歩いていきたいです。すみません、特にオチはありませんm(_ _)m— デーブ・スペクター (@dave_spector) March 11, 2014 2015年3月12日になりました。昨日は僕にとっても忘れることの出来ない日でした。お亡くなりになった方々のご冥福と、被災された全ての皆さんの心の傷が癒えることをお祈りしていました。そして、今日も福島第一原発で作業して下さっている皆さん、ありがとうございます。特にオチはありませんm(__)m— デーブ・スペクター (@dave_spector) March 11, 2015 2016年東日本大震災から5年。僕がツイッターを始めたのは、被災者の皆さんに少しでも笑顔になってほしかったからです。今日も福一の現場では、作業員が一所懸命働いています。全員に笑顔が戻るまで、僕はクールギャグをつぶやき続けます。すみません、オチはありません。— デーブ・スペクター (@dave_spector) March 10, 2016 2017年また3月11日がやってきました。僕は被災地の方々や原発事故の処理を続けている皆さんのことを忘れたことはありません。大好きな日本が笑顔で溢れるなら僕は喜んで笑い者になります。すみません、オチはありませんm(_ _)m— デーブ・スペクター (@dave_spector) March 11, 2017 2018年また3月11日になりました。僕の心はいつも日本の皆さんの元にあります。ユーモアがあれば原発がなくても世の中を明るくできます。辛い時や苦しい時は僕を笑いものにしてください。すみません、オチはありませんm(_ _)m— デーブ・スペクター (@dave_spector) March 10, 2018 2019年あの日から8年が経ちました。それからも、日本各地で自然災害が相次ぎ、いまだに苦しんでいる方もたくさんいると聞きます。被災者の皆さん、辛いことがあったら、遠慮なく、僕を笑い者にしてください。僕の心は、いつも皆さんと共にあります。すみません、オチはありません。— デーブ・スペクター (@dave_spector) March 10, 2019 2020年9回目の3月11日がやってきました。亡くなられた皆さまのご冥福をお祈りします。被災地の方々、フクイチの作業員、そして、新型コロナに脅かされてる日本の皆さん。ささやかですが、僕を笑い者にしてください。ユーモアがあれば、電気がなくても世の中を明るくできます。すみません、オチはありません。— デーブ・スペクター (@dave_spector) March 10, 2020 2016年のツイートで、デーブさんはTwitterを始めたきっかけを、「被災者のみなさんに少しでも笑顔になってほしかったから」と明かしています。アメリカ出身でありながら、日本の人々を想い、大切にするデーブさんの言葉に、多くの人が心を打たれました。[文・構成/grape編集部]
2021年03月11日2021年3月11日で、東日本大震災発生から10年が経ちます。この地震に見舞われ被災をした一人、フィギュアスケーターの羽生結弦選手。同日サンケイスポーツは、羽生選手が被災した人々へ向けてつづった『メッセージ』を公開しました。羽生結弦「でも、やっぱりいわせてください」震災から10年を経てもなお、故郷へ戻ることができない人や行方が分からない人も多くいます。仙台市の自宅が全壊し、自身も避難生活を経験したという羽生選手。さまざまな心の傷を負いながら、日々生きる人たちへこのようなメッセージを贈っています。最近は、あの日がなかったらとは思わないようになりました。それだけ、今までいろんなことを経験して、積み上げてこれたと思っています。そう考えると、あの日から、たくさんの時間が経ったのだなと、実感します。こんな僕でもこうやって感じられるので、きっと皆さんは、想像を遥かに超えるほど、頑張ってきたのだと、頑張ったのだと思います。すごいなぁと、感動します。数えきれない悲しみと苦しみを、乗り越えてこられたのだと思います。(中略)本当に、10年間、お疲れ様でした。10年という節目を迎えて、何かが急に変わるわけではないと思います。まだ、癒えない傷があると思います。街の傷も、心の傷も、痛む傷もあると思います。まだ、頑張らなくちゃいけないこともあると思います。簡単には言えない言葉だとわかっています。言われなくても頑張らなきゃいけないこともわかっています。でも、やっぱり言わせてください。僕は、この言葉に一番支えられてきた人間だと思うので、その言葉が持つ意味を、力を一番知っている人間だと思うので、言わせてください。頑張ってくださいあの日から、皆さんからたくさんの「頑張れ」をいただきました。本当に、ありがとうございます。僕も、頑張りますサンケイスポーツーより引用羽生選手は、復興に向けて懸命に生きてきた人々へ、簡単にはいえないことを理解しつつも、「頑張ってください。僕も、頑張ります」という言葉を改めて贈ったのです。震災だけではなく、世界という舞台でさまざまなプレッシャーや厳しい練習に耐えてきた羽生選手。誰よりも「頑張れ」の持つ力を知っている、羽生選手だからこそいえる言葉に、ネット上ではさまざまな声が上がっています。・電車の中で読んでいて、涙が出そうになりました。まだまだ復興の途中。一歩ずつですね。・あの時から「頑張れ」って言葉が嫌いでした。でも、羽生くんの「頑張れ」は何か違うものを感じますね。ありがとう。・羽生さんの頑張る姿に、どれだけの人が励まされたことか…。失ったものは元には戻らないけど、少しずつ前へ進んでいきたいと思えました。10年が経過してもなお、被災した人々は、あの時の傷跡と向き合いながら生きています。私たちがやるべきことは、震災の経験を風化させることなく、次の世代へ正しくつなげていくことだといえるでしょう。投稿全文はこちら何を言えばいいのか、伝えればいいのか、分かりません。あの日のことはすぐに思い出せます。この前の地震でも、思い出しました。10年も経ってしまったのかという思いと、確かに経ったなという実感があります。オリンピックというものを通して、フィギュアスケートというものを通して、被災地の皆さんとの交流を持てたことも、繋がりが持てたことも、笑顔や、葛藤や、苦しみを感じられたことも、心の中の宝物です。何ができるんだろう、何をしたらいいんだろう、何が自分の役割なんだろうそんなことを考えると胸が痛くなります。皆さんの力にもなりたいですけれど、あの日から始まった悲しみの日々は、一生消えることはなく、どんな言葉を出していいのかわからなくなります。でも、たくさん考えて気がついたことがあります。この痛みも、たくさんの方々の中にある傷も、今も消えることない悲しみや苦しみも…それがあるなら、なくなったものはないんだなと思いました。痛みは、傷を教えてくれるもので、傷があるのは、あの日が在った証明なのだなと思います。あの日以前の全てが、在ったことの証だと思います。忘れないでほしいという声も、忘れたいと思う人も、いろんな人がいると思います。僕は、忘れたくないですけれど、前を向いて歩いて、走ってきたと思っています。それと同時に、僕にはなくなったものはないですが、後ろをたくさん振り返って、立ち止まってきたなとも思います。立ち止まって、また痛みを感じて、苦しくなって、それでも日々を過ごしてきました。最近は、あの日がなかったらとは思わないようになりました。それだけ、今までいろんなことを経験して、積み上げてこれたと思っています。そう考えると、あの日から、たくさんの時間が経ったのだなと、実感します。こんな僕でもこうやって感じられるので、きっと皆さんは、想像を遥かに超えるほど、頑張ってきたのだと、頑張ったのだと思います。すごいなぁと、感動します。数えきれない悲しみと苦しみを、乗り越えてこられたのだと思います。幼稚な言葉でしか表現できないので、恥ずかしいのですが、本当にすごいなと思います。本当に、10年間、お疲れ様でした。10年という節目を迎えて、何かが急に変わるわけではないと思います。まだ、癒えない傷があると思います。街の傷も、心の傷も、痛む傷もあると思います。まだ、頑張らなくちゃいけないこともあると思います。簡単には言えない言葉だとわかっています。言われなくても頑張らなきゃいけないこともわかっています。でも、やっぱり言わせてください。僕は、この言葉に一番支えられてきた人間だと思うので、その言葉が持つ意味を、力を一番知っている人間だと思うので、言わせてください。頑張ってくださいあの日から、皆さんからたくさんの「頑張れ」をいただきました。本当に、ありがとうございます。僕も、頑張ります2021年3月羽生結弦サンケイスポーツーより引用[文・構成/grape編集部]
2021年03月11日東日本大震災から10年という節目を迎えた、2021年3月11日。一人ひとりが改めて、当時の出来事や想いを思い出していることでしょう。システムキッチンのメーカーであるクリナップ株式会社(以下、クリナップ)も、福島県いわき市にある8か所の工場が被災。10年越しに、当時の感謝を伝えるメッセージを新聞広告として掲載しています。変わらない想い食べることは生きること。たくさんの人の毎日を、クリナップはキッチンから支えてきました。そんなクリナップが、被災した際には逆に多くの人たちに助けられたといいます。読むと、胸に自然と温かいものが込み上げる広告をご覧ください。クリックすると画像を拡大しますうれしい時も、悲しい時も。どんな時でも、生きていればお腹はすく。なにか食べなきゃ。力をつけなきゃ。そして人はキッチンに立つ。クリナップは、そんな大切な場所をつくらせてもらっています。10年前、福島県いわき市にある私たちの工場は被災しました。復旧作業中に余震が起こり、心が折れそうになった私たちの支えは、本当は困るのに「できるまで待つよ」と言ってくださったお客様たち、そして一緒に被災した地元の皆さんでした。つらい時に互いを思い、支えようとする心。困難を乗り越える力はそれなんだと、その時、胸に刻みました。そして10年後、奇しくも私たちは再び試練の中にいます。きっとみんなで乗り越えたいから、思いやる言葉をかけあいたい。クリナップはこれからも、大切な場所をつくり続けていきます。出荷再開まで、約1か⽉かかったクリナップ。復旧の途中で、震度6弱という余震に作業を台なしにされた時の悲しみは、察するに余りあります。そんな極限状態の中、自身も大変だったはずの人たちがクリナップを支えました。人と人とのつながりが見える広告に、胸を打たれますね。広告は全部で6パターン。「ありがとう。あしたにむかって、いただきます。」以外に、「あしたがくるよ、さ、ごはんにしよう。」「あったまったら、ちからがでたよ。」というメッセージのバージョンもあります。広告を見た人からは、「被災者ではないけど、やはり今日は特別な日」「心にしみました」「これはいい広告」などのコメントがネット上に投稿されています。毎日の生活を大切に。「思いやり、助け合いながら、みんなと明日を作っていきたい」と、改めて思わされます。みんなも感謝を伝えていこうクリナップは、普段なかなかいえないキッチンやごはんにまつわる感謝の投稿を募集する『伝えよう、キッチンのありがとうキャンペーン』も実施中!参加方法は簡単で、キャンペーンアカウントをフォローし、『#キッチンのありがとう』を付けてエピソードを投稿するだけでOK。ベストエピソードに選ばれた人には、最高級ステンレスシステムキッチン『CENTRO』をはじめ豪華賞品がプレゼントされます。あなたも震災から10年という節目に、大切な人との食卓を見つめ直してみてはいかがですか。\伝えよう、キッチンのありがとう/システムキッチンCENTROがもらえるキャンペーン実施✨応募は簡単① @arigatou_cl をフォロー② #キッチンのありがとう のタグを付け、キッチンやごはんにまつわる「ありがとう」をツイート4月18日22:00まで❗️— クリナップ「伝えよう、キッチンのありがとう」 (@arigatou_cl) March 11, 2021 [文・構成/grape編集部]
2021年03月11日東日本大震災から10年になる、2021年3月11日。震災の復興支援を続けてきた、お笑いコンビ『サンドウィッチマン』の伊達みきおさんは、ブログを更新し、東北への想いをつづりました。伊達さんは、震災当日も含め、毎年3月11日は宮城県気仙沼市を訪れているとのこと。ブログでは観光キャラクター『ホヤぼーや』とのツーショット写真を公開し、気仙沼市の現状を伝えています。震災から10回目の3月11日。当日もいたから、11年連続で気仙沼に来てる事になるのか…。もう、すっかり気仙沼にも知り合いが出来たり良く行くお店もあったり、今は気仙沼に来るのが楽しみで仕方ない。素敵なお店や美味しいお店も来る度に増えて、新・気仙沼になっている。変わらないのは、人の温かさと魚の旨さ!日本屈指の港町は健在だ。震災直後、泣きながら前を向いて生きてきた地元の方々を見てきたから…今、そんな方達と笑顔で会うと、10年という時間の経過も感じる。サンドウィッチマン 伊達みきおオフィシャルブログーより引用また、震災から10年目を迎えるにあたり、改めて決意の言葉をつづっていました。今日で10年。歯を食い縛り、本当によく頑張ってきました。この地に、縁もゆかりも無いボランティアの方々が泥まみれになって助けてくれたから今がある。縁もゆかりもある我々は、もっと懸命に頑張らないといけない。じゃないと、助けて下さった方々に失礼だ。たった10年経っただけ。行方不明者はまだ2500人以上。捜索は今も続いている。整理がつかない方も多い。遺族は10万人を超える。これからも、我々は何も変わらず共に生きて行きます。サンドウィッチマン 伊達みきおオフィシャルブログーより引用この10年、被災地の人たちは、いろいろな想いを抱えながら懸命に生きてきたことでしょう。人々の努力があって、少しずつ復興が進んでいます。その一方で、未だに行方不明者も多く、福島第一原発事故などの影響によって同月4月現在も4万人以上が避難生活を余儀なくされている状況です。伊達さんの言葉には、「震災を過去のものにしない」「生き残った者として伝えていく」という強い決意が感じられます。コメント欄には、さまざまな声が寄せられていました。・10年が経つなんて信じられません。被災した人々が頑張っている姿にいつも励まされています。・ずっと東北を励まし続けてくれて、ありがとうございます。これからも応援しています。・宮城県や東北、被災地について教えてくれてありがとうございます!私もずっと心を寄せていきたいです。災害はまたいつ起きるか、分かりません。時間の経過とともに、震災の記憶や教訓が薄れることのないよう、日々心に留めておくことが大切ですね。伊達さんの投稿は、多くの人の心に響きました。[文・構成/grape編集部]
2021年03月11日公益のために私財を寄付した人に与えられる、紺綬褒章(こんじゅほうしょう)。2021年3月9日付の政府官報を通して、ロックバンド『X JAPAN』のYOSHIKIさんが、紺綬褒章を受章したことが明らかになりました。このニュースを受け、ネット上では、政府官報に記載されたYOSHIKIさんの本名が注目を集めています。紺綬褒章のニュースに、YOSHIKI自ら本名を認める2020年4月に、新型コロナウイルス感染症と最前線で闘う医療従事者のために『国立国際医療研究センター』へ1千万円の寄付をしたYOSHIKIさん。これまでにも、東日本大震災の復興支援として1千万円を寄付するなど、積極的に慈善活動を行ってきました。そういった活動を評価され、紺綬褒章を受章したYOSHIKIさんは、次のようなコメントを発表。紺綬褒章を受章し、恐縮しています。こんな自分ですが今後も支援活動を続けられたらと思っています。 そしてその活動によってさらにチャリティーの輪が広がれば嬉しいです。ありがとうございます。@YoshikiOfficialーより引用政府官報には、芸名であるYOSHIKIではなく、林佳樹(はやし・よしき)という名前で記載されています。ネット上で「本名では?」といった声が上がったことを受け、YOSHIKIさんは自ら本名であることを認めたのです。はい、本名です。ちなみに普段は全てX(エックス)です。。!Yes, it’s my real name!@YoshikiOfficialーより引用ちなみに、普段のYOSHIKIさんは、生年月日や血液型など、すべての個人情報を『X』と表記しています。本名を認めたのは、YOSHIKIさんなりのフォローといえるでしょう。YOSHIKIさんの丁寧なコメントに対し、ネット上ではさまざまな声が寄せられました。・てっきりYOSHIKIで載っているのかと思った!本名なのか。・素敵!YOSHIKIさんの、優しい人柄を表しているかのような本名ですね。・すごい方にも関わらず、「普段はすべてXです」といっちゃうような、おちゃめなところも大好き。紺綬褒章の受章に対し「恐縮です」と前置きし、今後も支援活動を続けていく意思を明かしたYOSHIKIさん。謙虚さを持ち合わせた誠実な人柄がうかがえるエピソードですね。才能はもちろん、そういったキャラクターも、世界中のファンを魅了するゆえんでしょう![文・構成/grape編集部]
2021年03月11日2011年3月11日に東北地方を襲った東日本大震災から、10年が経ちました。地震や津波によって家屋が倒壊し、数多くの死傷者が発生した当時の記憶は、今も多くの人の脳裏に刻み込まれています。レディー・ガガ、3月11日に合わせてメッセージを投稿2021年3月11日、アメリカの歌手であるレディー・ガガが日本に向けてメッセージを投稿しました。Aishitemasu Japan pic.twitter.com/w7KicgJhvP — Lady Gaga (@ladygaga) March 10, 2021 地震と津波の衝撃的な映像をニュースで見た日を、昨日のことのように思いだせます。あの日、自分に何ができるかを考えたくさん電話をかけました。何年もかけて、再び美しい街を取り戻していく様子を私は見てきました。日本の人々の強さ、優しさ、そしてお互いへの愛に、私はとても尊敬の念を抱いています。その姿は、今、世界中のパンデミックの最前線で戦っている人々に希望を与えていることでしょう。しかし、まだ多くの人が災害で負った心の傷を抱えていると思います。だからどうか、お互いに優しく、愛し合い、支え合い続けてください。私は日本が、そして世界がよりよくなることをいつも祈っています。私たちはまだコロナウイルスの難しい時期に生きています。どうか体調に気を付けて、周りの人を気遣いましょう。また日本に帰ることができる日を、楽しみにしています。@ladygagaーより引用(和訳)メッセージの最後には、日本語で「愛してます、日本」としめくくり、日本にエールを送ったレディー・ガガ。10年経った今も、こうして日本を気にかけてくれる姿に、多くの人が勇気をもらったことでしょう。【ネットの声】・レディー・ガガの言葉、まっすぐで誠実でウルッときた。・真っ直ぐ発せられる言葉に強い愛情を感じます。・日本時間の3月11日にあわせて投稿してくれたんだね…ありがとう。どんなに時が経とうとも、東日本大震災で負った心の傷や当時のつらい記憶はなくなりません。街並みが元通りになろうとも、日常が戻ってきたとしても、本当の意味での復興はこの先もずっと続くのでしょう。しかし、こうして今も世界のどこかで応援してくれている人がいると思うと、心強く感じられます。[文・構成/grape編集部]
2021年03月11日