8月13日、新型コロナウイルスの感染拡大が収まらない中、コロナ禍で2度目となるお盆を迎える。今年も多くの著名人がこの世を去った。そこで2021年に逝去した方々の活躍とその人柄を、本誌の記事とともに振り返り、追悼したい。■田中邦衛さん(享年88)『北の国から』シリーズで黒板五郎を演じ、多くの人に親しまれた田中邦衛さん。今年3月24日、老衰のため88歳で亡くなった。21年にわたる傑作ドラマのなかで、人間味に溢れ、二人の子供を深い愛情で育てるキャラクターは、世代を超えて愛された。最後に放送された『2002遺言』では、遺言を書いてみたり、孫を猫かわいがりしたりするなどユーモラスな姿で視聴者を楽しませた。脚本家・倉本聰氏(86)は、田中さんが亡くなった後、完結したと思われていた『北の国から』の続編を執筆していると明かした。それは黒板五郎が死ぬ話――。今年10月ごろに行われる、富良野での放送40周年記念行事での公開を想定しているという。田中さんの後を追うようにして、五郎も天国へと旅立つことになる。■古賀稔彦さん(享年53)バルセロナ五輪の柔道男子71キロ級金メダリストである古賀稔彦さんは3月24日、がんにより53歳という若さでこの世を去った。92年、当時24歳だった古賀さんはバルセロナ五輪前、靭帯をドクターストップがかかるほどに損傷。痛み止めの注射を何度も打って迎えた決勝では時間切れまで戦い抜き、見事世界一に輝いた。96年のアトランタ五輪では銀メダルを獲得。現役引退後は全日本女子のコーチを務め、また、川崎市内に道場「古賀塾」を開き、柔道の普及活動も行っていた。「いつか死ぬんだったら、俺は畳の上で」と旧友に語っていた古賀さん。その言葉通り、家族といつものように夕食時を過ごし就寝した日の翌朝、自宅の畳の上で亡くなったという。葬儀にあたっては、息子2人が古賀さんに「古賀塾」の道着を着せた。柔道家としての精神を貫いた最期だった。■田村正和さん(享年77)4月3日、急性心不全のため亡くなった田村正和さん。77歳だった。18歳でデビューした田村さんは、デビュー作『永遠の人』ではクールな二枚目を、『眠狂四朗』ではニヒルで危険な男、『うちの子にかぎって…』では二枚目半のパパ役など、幅広い役を演じ人々を魅了し続けた。風変わりな刑事を演じたドラマ『古畑任三郎』シリーズは12年にわたり放送されるヒット作となった。89年に本誌が密着した際は、現場でも心配りを欠かさなかった田村さん。「めんどくさがりなんですよ」と言いながらも「スタッフのみなさんに」と田村さんの名でケーキが届けられていた。オフの日を過ごすゴルフ場では、集まったキャディーさんから握手にサイン、写真攻めにあう人気ぶりだった。晩年、田村さんは本誌に「僕はもう、やり切ったから『静かに死にたい』っていう感じかな」と語っていた。告別式はひっそりと執り行なわれたが、彼のその人気ぶりや優しい人柄は今も人々の心に刻まれている。■橋田壽賀子さん(享年95)『おしん』や『渡る世間は鬼ばかり』などのヒット作を手掛けた脚本家、橋田壽賀子さん。4月4日、急性リンパ腫のため95歳で亡くなった。83年から放送された『おしん』は当時のNHK連続テレビ小説史上最高の視聴率を記録するなど、国民的人気を博した。『おしん』の結末についてインタビューした際には「最後はスタッフを含めてアミダで決めようかしらー」などいたずらっぽい笑顔で語るなど、元気で明るい姿が印象的であった。15年には、終活を始めたことを明かしていた橋田さん。これまでの仕事について、「日本がいちばんいい時代にテレビの仕事をさせていただいて、その時代、その時代に自分が書きたいと思ったものを存分に書かせていただきました」と感慨深げにコメント。私生活についても、「それはありがたい人生でした。『あれがあったらよかった』『あの人と結婚すればよかった』ということは皆無です」と満足した表情を見せていた。■チャーリー浜さん(享年78)吉本新喜劇の人気お笑い芸人、チャーリー浜さんは4月18日、呼吸不全と誤嚥性肺炎により亡くなった。78歳だった。「ごめんくさい」や「君たちがいて、ぼくがいる!」などのフレーズで人気を博した。また91年には「…じゃあ~りませんか」で「新語・流行語大賞」の年間大賞を受賞、翌年には上方お笑い大賞も受賞している。91年、共に吉本新喜劇を支えた、間寛平さん(72)、島木譲二さん(享年72)との座談会では、「なんせワタクシは流れのまんまに人生生きてますから」と明るく人生観を語っていた。その言葉を体現してか、4回結婚し離婚した。後輩も憧れるプレイボーイだったという。晩年は吉本新喜劇の舞台に立つ機会は減ったものの、地方巡業にも出ていたという。「網走から小走りで」などチャーリー浜さんのギャグは地方でも健在。最後まで人々を笑顔にし続けた。■小林亜星さん(享年88)5月30日、心不全のため88歳で亡くなった作曲家、俳優の小林亜星さん。レナウンCMソング『ワンサカ娘』で広い世代に親しまれたほか、都はるみ(73)の『北の宿から』、童謡『あわてんぼうのサンタクロース』など幅広く名曲を生み出した。さらに、ドラマ『寺内貫太郎一家』では頑固おやじを好演するなど、多岐にわたってその才能を発揮した。72年、『ピンポンパン体操』が大ヒット。世間が石油ショックで暗くなっていたところに流れた明るいメロディーは人々の気持ちを動かした。小林さんは当時について、離婚寸前の状態で「僕自身は人生の中で一番暗い時期だった」と振り返り、「幸せっていうのは、自分が本当にそうだと表現できない。不幸のときだと、自分がよくわかるんですよ。これが幸せっていうものなんだと。だから表現できたんでしょうね」と語っていた。酸いも甘いも噛み分けた人生観が、ヒット曲を生み出し続けるコツだったのかもしれない。さまざまな名作、名場面を私たちに残してくれた故人たち。その活躍は今後も多くの人の記憶の中で生き続けるだろう。初盆を節目に、心より冥福を祈りたい。
2021年08月13日《text:西森路代》映画『ミナリ』への出演により、各国の映画賞で評価され、4月26日に行われる米アカデミー賞の助演女優賞にノミネートされているユン・ヨジョン。『ミナリ』ではアメリカで娘と息子と暮らす韓国人夫婦のもとに呼び寄せられ、韓国からやってきた一家のおばあちゃん役を演じている。しかし、このおばあちゃんが、幼い長男からすると、想像していた「おばあちゃんらしい」ところのない人物で、最初はうまくコミュニケーションができないのだが、次第に長男とおばあちゃんが打ち解けていく様子が描かれる。しかし、アカデミーの作品賞にもノミネートされているだけあり、単に温かい家族像を描くだけでなく、当時の移民の現実や、家族の中にある問題点などにもフォーカスが当てられ(ときには娘の存在などにフォーカスを当てないことで気になることすらある)、表に見える以上のことが込められているように思えて、後々まで、「あれはどういう意味があるのだろう」と考えを巡らせたくなる作品となっている。この『ミナリ』で重要な役割を演じたユン・ヨジョンは1947年生まれで、1966年から演技活動を開始。『パラサイト 半地下の家族』にも影響を与えたというキム・ギヨン監督の映画『下女』のセルフリメイク『火女』(1971年)に出演し、韓国の映画賞で新人女優賞や主演女優賞などを受賞した。同じ年には、韓国を代表する歴史上の悪女と言われてきた人物を描いたドラマ「張禧嬪」で主演するなど活躍。しかし74年に結婚し渡米。10年足らずで離婚して再び芸能界に復帰した。この結婚していた時代にアメリカ生活も経験しており、英語も習得。『ミナリ』では韓国からアメリカにやってきた役のため、英語を話すシーンは少ないが、ほかの作品でも英語を使う演技を見せることも多い。復帰後は、母親役、祖母役などを数多く演じている。「がんばれ!クムスン」、「棚ぼたのあなた」、「家に帰る道」など、ホームドラマへの出演も多く、何かしらの問題や悩みを抱えながらも、力強く生きる役も多い。一方で、映画の世界では世界的にも評価の高い監督、ホン・サンス作品の常連でもあり、2010年の『ハハハ』に始まり『3人のアンヌ』、『自由が丘で』などに出演。出演時間は少なくても、どこか印象に残る役を演じている。先述の『下女』をイム・サンス監督がリメイクした『ハウスメイド』では、主人公とともにハウスメイド役を演じ、この演技が認められ、韓国の青龍映画賞などで助演女優賞を受賞している。また、2015年の『チャンス商会~初恋を探して~』では、主人公のおじいちゃん・ソンチルと恋におちる花屋の女主人を演じた。2016年に主演を務めた映画『バッカス・レディ』は、『ミナリ』でユン・ヨジョンに興味を持った人にオススメしたい作品だ。この作品でユン・ヨジョンは、ソウルにある鐘路という地域の公園に集まる高齢者男性相手の売春で生計を立てるソヨンという主人公を演じた。こうしたソヨンのような女性は実際にも韓国に存在しており、彼女のような女性や、彼女が相手をする男性たちも含めて、高齢化社会の現実に迫った作品になっていた。同時に、ソヨンの暮らすアパートにはトランスジェンダーのティナ(アン・アジュ)、義足の青年ドフン(ユン・ゲサン)が暮らしており、またソヨンがひょんなことからフィリピン人の母親を持つ少年の面倒を見ることになったり、またソヨン自身が息子と生き別れていたりと、普段は見えにくい韓国社会の別の一面が描かれていた。近年、日本で公開される映画でユン・ヨジョンに出会う確率は高い。今年公開の『チャンシルさんには福が多いね』では、主人公のチャンシルが住む家の大家さんを演じ、主人公と不思議な連帯を感じさせる役になっていた。また『藁にもすがる獣たち』でも、ペ・ソンウ演じる主人公の母親役で出演。演技活動以外にバラエティ番組にも出演しているユン・ヨジョン。日本でもCSや配信で見られる「ユン食堂」シリーズでは、素の姿も見える。これらの番組では、『82年生まれ、キム・ジヨン』のチョン・ユミ、「梨泰院クラス」のパク・ソジュン、「チェオクの剣」や「イ・サン」などの時代劇で活躍のほか、昨今はバラエティへの出演も多いイ・ソジンらも出演しており、俳優の後輩たちとの関係性を見るのも楽しい。このように、ユン・ヨジョンは、ドラマでは、いわゆる橋田壽賀子作品のような大衆的なホームドラマの中でのどこにでもいそうな母親やおばあちゃんを演じ、映画では、社会的な意義のある作品や、作家性のある監督作品にも出演し、孤高の人物や自立した人物、一筋縄ではいかない人物などを演じていて、その活躍の幅は広い。しかし、どんな作品でも、どこかすんなりとは収まらず、何かをこちらに訴えかけるような役を演じているような印象がある。『ミナリ』のおばあちゃんらしくないおばあちゃん役は、これまでに演じてきた役とどこか重なるようでいて、また新たな役のようにも思える。『ミナリ』を見て興味を抱いたら、彼女の他の出演作を見て、様々な顔に注目してみるのも良いのではないだろうか。(text:西森路代)■関連作品:ミナリ 2021年3月19日よりTOHOシネマズシャンテほか全国にて公開©Photo by Melissa Lukenbaugh, Courtesy of A24
2021年04月23日’64年のドラマ版『愛と死をみつめて』(TBS系)に始まり、数々の名作ドラマを残して、この世を去った脚本家の橋田壽賀子さん(享年95)。生涯“女性”を描き続けた姿を本誌秘蔵写真で振り返るーー。【’68年】朝ドラ初のカラー作品『あしたこそ』主演の藤田弓子と43歳の橋田さん。【’81年】大河ドラマ『おんな太閤記』放送を機に、橋田さんを本誌が密着取材。【’83年】国民的ドラマ『おしん』はアニメ版も制作。泉ピン子、小林綾子と。【’84年】『大家族』(TBS系)では3世代で同居する家族の嫁姑問題を描いた。【’85年】大河ドラマ『いのち』の制作発表会で主演の三田佳子と仲よく歩く姿。【’88年】大河ドラマ『春日局』の撮影現場で佐久間良子と語らう橋田さん。【’90年】この年から始まった『渡る世間は鬼ばかり』(TBS系)は’19年まで新作を放送。【’93年】『渡る世間は鬼ばかり』のメンバーで「橋田ファミリーの会」を開催。【’93年】第1回橋田賞の受賞パーティで“両手に少年隊”の橋田さん。【’10年】『渡る世間は鬼ばかり』の最終シリーズの制作発表会。【’18年】第26回橋田賞の授賞式にて。新人賞の有村架純、竹内涼真の姿も。「『なんで“うちの家”のことをそんなによく知っているんですか?』と、(視聴者から)よく言われるの」と、テレビ番組のインタビューで語っていた橋田さん。「それはひとえに、ご自身の日常や経験、思いをドラマに込められてきたからでしょう。毎朝、新聞の投稿欄をじっくり読み、庶民の暮らしを脚本に生かすことでも知られていました。有名な長ゼリフは、家事に勤しむ女性たちにも、ドラマを耳で理解してもらうため。『二流で結構!』との自負もおありだったと聞きます」そう、ドラマウオッチャーの田幸和歌子さんは語る。社会情勢をドラマに反映しながら、その時代時代を生きる女性のリアルな姿を描いてきた。「女性脚本家の先駆者である橋田さんが、草分けとなったことも多いんです。たとえば大河ドラマ『おんな太閤記』では、戦国ものを女性、庶民の視点で描き“戦国ホームドラマ”と呼ばれました。“嫁姑問題”や“夫がマザコン”という設定を取り入れたのも橋田さんが元祖。そこには“妻”としての経験が投影されています。『おしん』の嫁いびりは、おのおのの世代の正義と正義の衝突として、また『渡る世間は鬼ばかり』では、岡倉家の5人の女性を通して、家庭の崩壊や、さまざまな結婚のあり方が、描かれました。つねに、命の尊さと、女性の強さ、自立を描いてきた橋田さんは、まさに日本のドラマの母といえます」コロナ禍の今を生きる女性たちを、橋田さんなら、どのように描いたであろう。「女性自身」2021年4月27日号 掲載
2021年04月16日「橋田さんの納骨式は4月9日に、愛媛県今治市内のお寺で執り行われました。このお寺には彼女のご両親も眠っています。遺骨は熱海の自宅からバスで現地に向かったのです。橋田文化財団のスタッフ、地元で交流のあった人たち、そして泉ピン子らが付き添いました……」そう語るのは、テレビプロデューサーの石井ふく子さん(94)。石井さんは4月4日に急性リンパ腫で逝去した橋田壽賀子さん(享年95)とは、公私にわたり親しく交流してきた“盟友”だ。橋田さんの逝去は多くの人々に衝撃を与えた。彼女を“ママ”と慕い続けた泉ピン子(73)は本誌にこう語っている。「ママはたった一人の恩師であり、泉ピン子を見いだしてくれた恩人です。いまは何だか夢の中にいるみたいです。気も張っていて、ママがいなくなったなんて思えない。しばらくは何げなく電話をかけようとして、ふといないことに気づく、そんな日々が続くと思います」石井ふく子さんも毎日1時間以上、橋田さんと電話をするのが日課になっていたという。「秋には『渡る世間は鬼ばかり』(TBS系)の新作も放送予定で、7月には稽古に入ることになっていました。病院にお見舞いに行ったときや電話で、橋田さんは新作の構想を話してくれました。コロナ禍のためにストレスがたまった家族たちの物語です。軋轢がありながらも、『結末はハッピーエンドになる構成にしましょう』と、橋田さんは言っていたのです。最後の電話でも『渡鬼(の脚本)は大丈夫だから』と……」■「不倫と殺しだけは書くな」生涯守った夫の教え70年以上に及ぶ脚本家生活の中で多くの名作を遺した橋田さん。石井さんは、そのなかでも“最高傑作”は、’79年に放送されたスペシャルドラマ『女たちの忠臣蔵「いのち燃ゆる時」』(TBS系)だと考えている。「TBSから『戦争ドラマを作ってほしい』という依頼があったのですが、私も橋田さんも戦争を体験しているので、『戦争をテーマにしたドラマを作るのは耐えられない』と、お断りし、その代わりのように2人で作ったのが『女たちの忠臣蔵』です。赤穂四十七士の討ち入りの陰には、女性たちの犠牲があったことを描いています。当時の資料も乏しいなか、橋田さんはそれぞれ境遇や家庭環境が異なる女性たちの視点からなるドラマを書き上げたのです」戦国時代が舞台となったNHK大河ドラマ『おんな太閤記』でさえ、合戦シーンを脚本に書こうとしなかったという橋田さん。ホームドラマ一筋を通した理由については、インタビューでこう語っている。《亡くなった夫(元TBSプロデューサーの岩崎嘉一氏)にも、「不倫と殺しだけは書くな」と言われていたんです。それで仕事ができなくなったら脚本家を辞めろとまで。現代のドラマは、不倫と人殺しを封じられたら、なかなか書けませんよね。でも、夫の遺言だからしょうがないんです(笑)》(『家の光』’15年5月号)橋田さんは「松竹」社員時代の習慣で、いつもできあがった脚本に赤いリボンを巻いて愛用のデスクの上に置いていた。毎回締切りに遅れたことがなかったが、石井さんによれば、たった一度だけ弱音をもらしたという。それは夫となった岩崎嘉一さんへの“恋煩い”だったのだ。「『私、シナリオが書けなくなった。まだ一行も書いていない』と、言うのです。理由を尋ねると、『好きな人ができて、その人のことが頭にチラチラして、書くことに身が入らない』と……。相手を尋ねると、私の(TBSでの)同僚の岩崎さんでした。仲を取り持ってあげたいと考え、岩崎さんに『橋田壽賀子というシナリオライターのこと知ってる?』と、聞くと、『そういえば、そんな名前聞いたことあるなぁ』と言うので、橋田さんの気持ちと電話番号を伝えたのです。後日、交際がスタートしたと聞いたときは、うれしかったですね」(石井さん)橋田さんは両親を早く亡くし、兄弟姉妹もおらず、家族というものに憧れていたという。だが、新婚生活はけっして甘いものではなかったようだ。橋田さんは当時の思い出を本誌に冗談交じりにこう語っていた。《結婚してお姑さんや小姑たち――“家族”ができたときに、つくづく「家族というのは気を使わなければいけないし大変だ」と思いました。こうした思いはすべてドラマになって、しっかり儲けさせていただきました(笑)》(本誌’15年7月7・14日合併号)慣れない人間関係に悩みながらも、家族に尽くそうと努めていた橋田さん。その在りし日の姿について、泉ピン子は次のように語った。「私がママからよく言われたのは『一に家庭、二に仕事』。かいがいしく家事をこなす姿が印象的でした。まだご主人がご存命のとき、自宅に伺うと、『ピン子にうまいものを食わしてやれ』『布団をしいてやれ』……、何を言われても返事は『はい』だけ。それでもいつもママは家庭のことをいちばんに考えていましたね」■死別後は、夫の写真とおしゃべりしていた超売れっ子作家でありながらも“仕事より家族”というモットーを貫いたのは、夫への深い感謝があったからだという。《天涯孤独で家族を知らなかった私がホームドラマ作家といわれる作品を書けるようになったのも、嘉一と結婚したおかげであった。また、嘉一は優秀なテレビ人間で、嘉一のテレビに対する感覚を、私はいつの間にか門前の小僧のように、覚えていった》(自伝『夫婦は一生懸命』光文社)夫が肺がんのために逝去したのは’89年。だがそれから30年余り、嘉一さんは遺された橋田さんの心の支えであり続けたのだ。《私は、よく壁にかけてある嘉一の写真とおしゃべりする。嘉一が気に入らないとわかっているようなことをしてしまった日は、笑顔のはずの嘉一が、ムッとしていたり……(中略)今夜もまたおしゃべりをしよう。嘉一は、ほんとうに、まだ生きているのである。私が生きている限り、私のそばで生き続けてくれるだろう》(『夫婦は一生懸命』)“こういう話を書いたら彼が褒めてくれるかな”、そんな自問は創作意欲の原動力だった。「橋田さんは東京の病院に入院していたときも、ずっと『熱海の家に帰りたい』と、言っていました。きっと岩崎さんとの思い出がたくさん残る場所に早く戻りたかったのでしょう」(石井さん)体調が一時安定し、橋田さんが亡き夫が待つわが家へようやく帰宅できたのは、逝去の前日。脚本家として、そして妻として全力を尽くしきった生涯だった。「女性自身」2021年4月27日号 掲載
2021年04月14日●体は絶好調「『逃走中』に出て証明したい(笑)」血液のがん・悪性リンパ腫から復帰を果たしたフリーアナウンサーの笠井信輔。6日、警視庁神田警察署の一日署長に就任し、交通安全を呼びかけるパレードを行うと、商店街の人たちから次々に「元気になってよかったね!」と声をかけられ、「幸せな気持ちにしていただきました」と語る。がん細胞がなくなる「完全寛解」から10カ月が経過し、体調は極めて良好だというが、今も心配をかけられることに、本人は歯がゆい気持ちもある様子。そんな現在の心境や、憧れだったという警察官への思い、そして同じ悪性リンパ腫からの「寛解」を発表した私立恵比寿中学・安本彩花との交流秘話などを、健康を裏付けるマシンガントークで語ってくれた――。○■がんになって「悪いことばかりじゃない」「小学生のときに作文で『おまわりさんになりたい』と書いたのを明確に覚えているんです」という笠井アナ。その後アナウンサーになったものの、警官への憧れは消えておらず、宇津井健の主演ドラマ『長生き競争!』(08年)で交番の警官役を演じた際は「本当にうれしくて!」と振り返る。そして、今回は一日警察署長ということで、ドラマと違い本物の制服を着ることに感慨無量の様子。「私が局アナ時代に、軽部(真一)さんが一日署長やってるんですよ。それがうらやましくてねぇ(笑)。俺には来ないかなぁと思ってたんですけど、フリーになったタイミングでお話を頂いて。また聞くところによると、神田警察署が去年移転してリニューアルしたばかりで、私もがんを乗り越えて新しくスタートを切ったという兼ね合いもあったようでして。だから、がんになって『うれしい』ということはないんですけど、『悪いことばかりじゃないな』という思いに今回も達しています」と捉えた。一日警察署長の仕事として、神田すずらん通りをパレードして交通安全を呼びかけたが、その際に入院中、千羽鶴を贈って応援してくれた母娘が駆けつけてくれたそう。ほかにも、多くの人から「復帰してよかったですね」「おめでとうございます」と次々に声をかけられ、「私が交通安全を訴えるほうなのに、皆さんに幸せな気持ちにしていただいて。こうやって“お練り”ができたことで街の皆さんと触れ合うことができて、自分としては感動が増すうれしい体験でした」と充実の表情を見せた。○■基礎疾患によるコロナ重症化の心配なし昨年6月に「完全寛解」し、現在は2カ月に1回のペースで経過観察をしているそうだが、「がんが消えてる状況が続いていて、治療も薬の服用も一切してない状況なんです」といい、体調も「非常に良いです」とアピール。コロナ対策も、「普通の人と同じように暮らしていいし、現状では感染しても基礎疾患によって重症化することはないと言われています」とのことだ。それほど健康なだけに、「本当に大丈夫なんで、それは強く言いたいんです。心配してくださるのはとてもありがたいんですけど…。どうすれば“大丈夫”って証明できるのかなと思うくらい。だから、本当は『逃走中』とか出て、ガンガン走りたいんですよ(笑)。そしたら、『この人もう大丈夫だな』と思ってもらえるのかなっていう気持ちがあって、この前も『逃走中』をやってたので『出たいな』と思いながら見てました(笑)」と、体がうずいたことを明かす。●本当に失望されてるだろうなと思って…奇しくも前日の5日に、アイドルグループ・私立恵比寿中学の安本彩花が悪性リンパ腫からの寛解を発表し、4日には白血病から復活した競泳の池江璃花子選手が東京オリンピックの切符をつかんだばかり。特に安本とは、彼女の悪性リンパ腫公表後からLINEでやり取りをしていたこともあり、喜びもひとしおの様子だ。「僕の後に悪性リンパ腫を公表されたので、これはもう大変だろうと思ってたんです。私なんて50歳を超えてましたから、ある種の覚悟みたいなものはありましたけど、彼女はこれからの人ですから。そんなときに悪性リンパ腫になられて、本当に失望されてるだろうなと思って、事務所を通じて手紙を出したらお返事が来て、交流が始まったんです」これをきっかけにLINEで連絡をするようになったが、「彼女に伝えたのは、ショックを受けているということだったので、『自分もステージ4まで行って寛解してるから、希望を捨てないで』ということ。あとは、彼女がSNSで発信することをとても悩んでいたんです。(悪性リンパ腫を)発表した後、全く(SNSで)声を上げてなかったので、ファンの方もとても心配してるから、自分が頑張ってると思って、調子がいいと思ってるんだったら、それを1回は発信したほうがいいんじゃないか、というアドバイスを差し上げたんです」という。それを受けて安本は今年1月15日、「悪性リンパ腫仲間の笠井アナからも励ましのご連絡頂き久しぶりにインスタアップしてみることにしました!」と、約2カ月半ぶりに投稿。笠井アナは「それでファンの方々がすごい喜んでらして、良かったなと思いましたね。そのたくさんの声を受けて、安本さんも励みになったんじゃないかな」と目を細めた。一方で、橋田壽賀子さんが「急性リンパ腫」で亡くなったニュースもあり、「やっぱりがんっていうのは、困難な現実もあるんだと思いました」と実感。それでも、安本や池江選手の復活に、「希望を捨てずに頑張っているといいことがあるんだなと改めて思いました。自分もこうやって戻ってこれて、ご褒美のように一日警察署長をさせていただいているので」と、改めて喜びを噛み締めていた。
2021年04月07日「今の私があるのは橋田先生のおかげです。舞台もドラマもやらせてもらいました。ずいぶん喧嘩もしたし、泣いたこともあったけれど、橋田さんとご主人には本当の娘のようにかわいがっていただきました」こうコメントしたのは泉ピン子(73)だ。4月5日、公私共に交流のあった橋田壽賀子さん(享年95)が熱海市内の自宅で死去。冒頭のコメントは橋田さんを追悼するものだ。さらにピン子は「思い出のドレスを着せて、私がお化粧をしてあげて、旅立ちました」とも明かしている。’78年のドラマ『夫婦』(NHK総合)で出会い、43年来の仲だった2人。以降’83年の連続テレビ小説『おしん』(NHK総合)や’90年にスタートした『渡る世間は鬼ばかり』(TBS系)など、名作ドラマでタッグを組んできた。「橋田さんの脚本はセリフが長いため、ピン子さんは四苦八苦することもあったそうです。また橋田さんは簡単には褒めません。そのため、緊張が続いたピン子さんは激痩せしたこともあったといいます。しかし’13年に公開された『おしん』の映画版で加賀屋の大奥様役を演じた際、『温かい演技だった』と橋田さんは絶賛。そのことを、ピン子さんはとても喜んでいました」(映画関係者)プライベートでも縁を深め、一緒に何十カ国も旅してきたという2人。そうするうちに、あるターニングポイントがピン子に訪れたようだ。「もともとブランド好きだったピン子さんはサハラ砂漠に行ったり北極でシロクマを見たりと、普段とは違う環境に身を置くことに。そうして『もっと軽やかに生きよう』と考えるようになったそうです。橋田さんの大らかな性格の影響もあったそうで、『先生と出会ったことで人間が変わった』とも話していました」(スポーツ紙記者)ピン子は、橋田さんの影響で熱海へ移住もしている。そんな彼女に、橋田さんも母のように愛を注いだという。「ピン子さんはたとえ監督であっても、ときにはぶつかることがあったそうです。しかし、橋田さんは『あの子のキャラクターだから』とあえて注意しなかったといいます。“彼女の個性を伸ばしてあげたい。それを演技に活かしてほしい”という気持ちだったのでしょう。橋田さんは“女優・泉ピン子”の演技が好きで、あてがきの台本を書くこともあったといいます」(テレビ局関係者)13年4月、本誌で「私にとって『おしん』は、30年前から特別なドラマでした。いまでも当時の撮影のことや、セリフや方言も覚えています」と語っていたピン子。染み付いた“橋田節”はこれからも、彼女の糧となるだろう。
2021年04月06日「橋田さんとは60年のお付き合いです。年中喧嘩したり、相談したり、家族のように付き合ってきました。一日電話しないと『どうしたの?』と心配されることもありました」「思い出がありすぎて何も言えません。こんなに急だなんて悔しくて、なんと言っていいかわかりません」こうコメントを発表したのはTBSのプロデューサー・石井ふく子氏(94)だ。4月5日、脚本家の橋田壽賀子さん(享年95)が亡くなったと発表された。そこで橋田さんと深く親交のあった彼女は、冒頭のようにコメントした。2人は’64年のドラマ『愛と死をみつめて』や’79年の『女たちの忠臣蔵』、そして’90年にスタートした国民的ホームドラマ『渡る世間は鬼ばかり』(すべてTBS系)など数々の名作ドラマを世に送り出してきた。「出会いは橋田さんが34歳で、石井さんが33歳の頃。橋田さんは年下の石井さんに叱られてばかりだったそうですが、その心配りやユニークさに心を許していたといいます。また同年代の女性同士だからこそ、言いたいことも言える仲でした。石井さんは原稿を受け取る際、必ず熱海にある橋田さんの自宅にまで出向いたそうです。橋田さんは原稿を鉛筆で書くのですが、石井さんは『ここで休憩を入れたな』と文字を見てたびたび気づいたといいます。それほど橋田さんのことを理解していました」(スポーツ紙記者)橋田さんは’66年5月、当時TBSのプロデューサーだった岩崎嘉一さんと結婚した。実は、仲人は石井氏だったという。「ある時、橋田さんが『脚本を書けない』というので、石井さんが話を聞くと『好きな人ができた』と。それが岩崎さんでした。岩崎さんはTBSの局員だったため、石井さんは2人の仲を取り持つことに。すると、それから10日後に2人は結婚したのです」(TBS局関係者)スピード婚だったが、橋田さんは89年9月に岩崎さんが亡くなるまで添い遂げた。「橋田さんはその後、自伝的ドラマ『妻が夫をおくるとき』(同局系)を製作しました。岩崎さんとの別れを描いており、石井さんはそのリアリティあふれる脚本に『読むのも辛かった』と話していました」(前出・TBS局関係者)■「夫が亡くなった時も、辛い気持ちを一緒に背負ってくれた」そして、’90年に『渡鬼』がスタートした。ドラマが10周年を迎えた00年10月、本誌に登場した2人。そこでこう語っている。石井「トレンディ・ドラマが隆盛のころでしたから『2人で何か作ってくれ』と言われた時、『家族のドラマしかできないな。それで、もしダメだったら、もうお呼びじゃないということだから“放送界”をやめよう』と言って、スタートしましたね」橋田「『当たらなかったら、老兵は消えてゆくのみだね』と言って(笑)」“去り際も一緒”。そう決意し『渡鬼』に臨んだ2人は、まさに戦友同士だったのだ。「橋田さんは’64年の『袋を渡せば』(同局系)で石井さんに評価してもらったことで、テレビの仕事が舞い込むように。さらに岩崎さんとの仲人を務めてもらっただけでなく、『夫が亡くなった時も、辛い気持ちを一緒に背負ってくれた』とも。そうした友情に感謝していました」(テレビ局関係者)また石井は、橋田さんを尊敬する気持ちも欠かさなかったという。「石井さんは橋田さんの脚本に心底惚れていました。『愛と死を見つめて』の脚本が素晴らしかったものの、当初予定していた1時間では到底収まり切れない。そこで石井さんは『どうしても全部放送したい』と、スポンサーにお願いするため奔走しました。そうして、前後編に分けて2回にわたっての放送が実現したんです。『渡鬼』は新型コロナの影響で製作が延期になったものの、今年撮影に入る予定だったと聞いていました。石井さんは、橋田さんと一緒に完成を見届けたかったでしょうね」(前出・スポーツ紙記者)60年の友情を築いてきた2人。その思い出は永遠だ。
2021年04月06日2021年4月6日、俳優のえなりかずきさんはブログを更新。同月4日に急性リンパ腫のため逝去した脚本家、橋田壽賀子さんの訃報を受け、追悼の言葉を送っています。橋田さんが手がけたテレビドラマ『渡る世間は鬼ばかり』(TBS系)に長年出演していた、えなりさん。訃報をニュースで知り、「橋田先生といえば週に何日もジムに通い、元気に世界を飛び回っているイメージだったので、信じられず、とても悲しい」と心情をつづり、生前に旅番組で共演した際のエピソードを明かしました。15年程前になりますが、旅番組で長崎県にご一緒した際、今までにないくらいの長い時間をご一緒させていただき、先生が生きてこられた時代の厳しさ、それに打ち勝つ強さ、目標に向かう努力の大切さを聞かせていただきました。語ってくださったそのお姿は今も目に焼きついています。常にトレーニングに真摯に取り組み、最新情報の収拾にも情熱を傾けていらっしゃった橋田先生に、畏敬の念を抱いております。そして、橋田先生のような、パワフルな人生を送れるように頑張りたいと思っております。橋田先生が「小島眞」というキャラクターを生み出してくださったからこそ、わたくしは今もテレビの世界でお仕事をさせていただいております。えなりかずきオフィシャルブログーより引用好奇心旺盛な橋田さんに魅了され、少しでも近付きたいと感じたという、えなりさん。また、「橋田先生にうかがってみたいことがたくさんあった。厚かましいと思われても、聞きたいことは聞いてみればよかったと後悔している」とつづっています。ネット上では「えなりさんが子役の時から、長年楽しませていただきました。残念ですね」「後から聞いておけばよかったと思うこと、あるよね」などのコメントが寄せられていました。脚本家として精力的に活動し、俳優をはじめ多くの人たちに影響を与えてきた、橋田さん。数々の作品を通して、その功績はずっと語り継がれるのでしょう。[文・構成/grape編集部]
2021年04月06日脚本家の橋田壽賀子さんが亡くなったことが報じられた、2021年4月5日。数多くの名作を生みだした橋田さんの死を惜しみ、『橋田ファミリー』から追悼のコメントが寄せられています。橋田壽賀子を看取った、泉ピン子最期の様子を明かす「ママと呼ぶ私の声が聞こえたのか」テレビドラマ『渡る世間は鬼ばかり』(TBS系)で、岡倉家の次女の夫役を演じた俳優・角野卓造さんも、「1本の柱がなくなってしまいました」とコメントを発表しました。「もう橋田先生の台本で演じることができないと思うと、今まで当たり前に書いていただいていたことがどれだけありがたく幸せだったことか。実の母とともに橋田先生、石井先生はもう2人の母であり、俳優としての屋台骨を支えてくださる大恩人です。その1本の柱がなくなってしまいました」サンケイスポーツーより引用続々と芸能界から追悼のコメントが寄せられていることからも、橋田さんがドラマ界に与えた大きな功績を実感します。[文・構成/grape編集部]
2021年04月06日4月5日、脚本家の橋田壽賀子さんが亡くなったと発表された。95歳だった。各メディアによると急性リンパ腫治療のため、東京都内の病院に入院していた橋田さん。熱海市内の自宅に戻った後、4日に息を引き取ったという。橋田さんは、脚本担当した’83年の連続テレビ小説『おしん』(NHK総合)が最高視聴率62.9%という驚異的な数字を記録。さらに’90年にスタートした人気ドラマシリーズ『渡る世間は鬼ばかり』(TBS系)は、20年にわたってお茶の間で愛される作品となった。15年には文化功労者に選ばれ、昨年には文化勲章を受章している。そんな橋田さんは生前、本誌にたびたび登場していた。’10年10月、『渡鬼』の新シリーズを控えていた橋田さんは当時85歳。「元気でいなきゃいけないから、毎週4日間泳いで、3日間トレーニングジムに通っています」と元気の秘訣を明かし、“まだまだ現役”と奮起していた。しかし、その4年後となる14年6月。ドラマ『なるようになるさ。』(TBS系)の視聴率不振から「絶筆するのでは」との情報が。そこで本誌が取材を申し込んだところ、橋田さんはこう明かした。「引退は、したいですよ。でも、させてもらえないでしょうね。シリーズものはやりたくない?はい、そうですね」そのいっぽうで「『やれ』と言われたら、やりますよ。『渡鬼』スペシャルも年内には仕上げなければなりません」ともコメント。絶筆願望を抱えながらも、“周囲の期待になんとか応えなければ……”という葛藤がうかがえた。さらに’15年7月には、終活を始めたとも明かしていた。’89年に夫と死別して以降、1人で過ごしてきた橋田さん。本を熱海市の図書館に、そして「山のようにあった」というメガネは発展途上国を送る団体に寄付。洋服やアクセサリーもリサイクルショップに持っていったといい、終活ノートをしたためているとも明かした。当時、橋田さんはこれまでの人生を回想し「本当に恵まれていたと思います」と感慨深げ。そして、こう続けていた。「日本がいちばんいい時代にテレビの仕事をさせていただいて、その時代、その時代に自分が書きたいと思ったものを存分に書かせていただきました」「私生活もそれはありがたい人生でした。『あれがあったらよかった』『あの人と結婚すればよかった』ということは皆無です」思う存分生き、この世を去った橋田さん。今は、安らかに眠っていることだろう。
2021年04月05日脚本家・橋田壽賀子さんが、急性リンパ腫のため4日、熱海市内の自宅で亡くなったことが5日、わかった。95歳だった。TBS系ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』でタッグを組んだ石井ふく子プロデューサーがコメントを寄せ、悲痛な思いを明かした。■石井ふく子プロデューサーコメント全文橋田さんとは60年のお付き合いです。年中喧嘩したり、相談したり、家族のように付き合ってきました。一日電話しないと「どうしたの?」と心配されることもありました。思い出がありすぎて何も言えません。こんなに急だなんて悔しくて、なんと言っていいかわかりません。「あなた一人でどこに行ったのよ」という思いでいっぱいです。橋田さんは現在のコロナ禍の状況を見て、そこで感じた家族の形を書きたいとおっしゃっていました。同時に「私はいつも一人だと思っていたけれど、あなたたちがそばにいてくれたのね」とおっしゃって。私は「今更、なにを言ってるのよ」と返しましたけれど。お互いに元気でいようねって話していたところでした。今、私の隣りに笑って私を見ている遺影があります。まだ、橋田さんがこの世からいなくなったなんて考えられません。
2021年04月05日2021年4月4日、脚本家の橋田壽賀子さんが急性リンパ腫のため、亡くなりました。橋田さんが脚本を手掛けたテレビドラマ『おしん』(NHK)、『渡る世間は鬼ばかり』(TBS系)などに出演した、俳優の泉ピン子さんが追悼コメントを発表。昨日意識がなくなったとき、「ママ」って呼ぶ私の声が聞こえたのか、最後に目を見開いたんです。それが最後でした。クルーズ旅行に行くとき、お正月に着ていたお気に入りのドレスと、橋田文化財団を設立したときに作った松竹梅の思い出のドレスを着せて、私がお化粧をしてあげて、旅立ちました。サンケイスポーツーより引用橋田さんは生前、泉さんに「悲しまなくていい。千の風になっているんだから。あなたの周りにいるから」と語っていたといいます。そのため、最期は『千の風になって』の曲をかけて橋田さんを送り出したそうです。また、泉さんは長年親交の深かった橋田さんへの感謝の想いをつづっています。今の私があるのは橋田先生のおかげです。舞台もドラマもやらせてもらいました。ずいぶん喧嘩もしたし、泣いたこともあったけれど、橋田さんとご主人には本当の娘のようにかわいがっていただきました。私も熱海で暮らすようになって、最後はずっとそばにいられたから熱海に越してきた意味があったと思います。サンケイスポーツーより引用ネット上では「泉さんショックだろうな。ドラマ大好きでした」「2人の掛け合いが見られないと思うとさびしい」などの声が寄せられています。泉さんの橋田さんへの深い尊敬と愛情が込められた追悼文は、きっと天国にも届いていることでしょう。[文・構成/grape編集部]
2021年04月05日脚本家の橋田壽賀子(本名:岩崎壽賀子)さんが2021年4月4日、午前9時13分、急性リンパ腫により亡くなっていたことが分かった。享年95歳。1964年、TBS東芝日曜劇場「袋を渡せば」の脚本でデビューし、以来、今日まで55年以上にわたり、テレビドラマの脚本家として、数々の名作・ヒット作を生み出してきた橋田さん。中でも連続テレビ小説第31作「おしん」は、テレビドラマ史上最高視聴率を記録。また、石井ふく子プロデューサーと共に100作以上を描き上げた東芝日曜劇場で“ホームドラマ”のジャンルを確立し、「ただいま11人」、「つくし誰の子」、「おんなは一生懸命」など多くの連続ドラマを執筆。「渡る世間は鬼ばかり」は1990年のスタートから2011年までの20年に亘り、10シリーズ・511話という歴史に残る連続ドラマとなり、現在もスペシャルドラマとして「家族」の物語が続いている。テレビ文化全般に対する関心も高く、1993年、自身が設立した橋田文化財団による「橋田賞」を創設し、「日本人の心や人の触れ合いを取り上げ、放送文化に大きく貢献した番組や人物」を毎年表彰。また「新人脚本賞」を通じて、新たな才能の発掘にも取り組んできた。そんな一般財団法人橋田文化財団は、「今年2月下旬、都内の病院に入院し、治療に専念してまいりました。3月中旬、熱海市内の病院に転院。4月3日、熱海市内の自宅に戻り、翌4日、静かに息を引き取りました。ここに生前のご厚誼に深く感謝いたしますと共に謹んでご報告申し上げます」と発表。なお、故人の遺志により、お通夜・告別式は執り行わず、本日5日、荼毘に付された。お別れの会等についても遺志により行う予定はないとのこと。今回の訃報を受けて、石井プロデューサーは「橋田さんとは60年のお付き合いです。年中喧嘩したり、相談したり、家族のように付き合ってきました。一日電話しないと『どうしたの?』と心配されることもありました。思い出がありすぎて何も言えません。こんなに急だなんて悔しくて、なんと言っていいかわかりません。『あなた一人でどこに行ったのよ』という思いでいっぱいです」と思いを明かす。「おしん」ではおしんの母・ふじ役、「渡る世間は鬼ばかり」では次女・五月役で出演した泉ピン子は「昨日意識がなくなったとき、『ママ』って呼ぶ私の声が聞こえたのか、最後に目を見開いたんです。それが最後でした。クルーズ旅行に行くとき、お正月に着ていたお気に入りのドレスと、橋田文化財団を設立したときに作った松竹梅の思い出のドレスを着せて、私がお化粧をしてあげて、旅立ちました」とふり返り、「今の私があるのは橋田先生のおかげです。舞台もドラマもやらせてもらいました。ずいぶん喧嘩もしたし、泣いたこともあったけれど、橋田さんとご主人には本当の娘のようにかわいがっていただきました」とコメントしている。(cinemacafe.net)
2021年04月05日脚本家・橋田壽賀子さんが、急性リンパ腫のため4日、熱海市内の自宅で亡くなったことが5日、わかった。95歳だった。橋田さんが脚本を手掛けたドラマ『渡る世間は鬼ばかり』『おしん』に出演した女優・泉ピン子が追悼コメントを寄せた。■泉ピン子コメント全文昨日意識がなくなったとき、「ママ」って呼ぶ私の声が聞こえたのか、最後に目を見開いたんです。それが最後でした。クルーズ旅行に行くとき、お正月に着ていたお気に入りのドレスと、橋田文化財団を設立したときに作った松竹梅の思い出のドレスを着せて、私がお化粧をしてあげて、旅立ちました。橋田さんは「悲しまなくていい。千の風になっているんだから。あなたの周りにいるから」といつも言っていました。「でも、私が先に逝くとは限らないけど」と茶目っ気たっぷりで付け加えたりして。ですから最後は「千の風になって」をかけて送りました。今の私があるのは橋田先生のおかげです。舞台もドラマもやらせてもらいました。ずいぶん喧嘩もしたし、泣いたこともあったけれど、橋田さんとご主人には本当の娘のようにかわいがっていただきました。私も熱海で暮らすようになって、最後はずっとそばにいられたから熱海に越してきた意味があったと思います。
2021年04月05日TBS系ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』などで知られる脚本家・橋田壽賀子さんが、急性リンパ腫のため4日、熱海市内の自宅で亡くなったことが5日、わかった。95歳だった。橋田文化財団によると、橋田さんは2月下旬、都内の病院に入院し、治療に専念。3月中旬、静岡県熱海市内の病院に転院し、今月3日、熱海市内の自宅に戻り、4日に息を引き取ったという。なお、故人の遺志により、通夜、告別式は執り行わず、本日5日、茶毘(だび)に付された。お別れの会などについても、遺志に従い、行う予定はないとのこと。(C)TBS
2021年04月05日2021年4月5日16時50分、脚本家である橋田壽賀子(はしだ・すがこ)さんが亡くなったことが報じられました。95歳でした。テレビドラマを中心に、『おんな太閤記』『春日局』『渡る世間は鬼ばかり』など、数えきれないほどの名作を生み出してきた橋田さん。その功績を称え、これまで紫綬褒章や文化勲章などを受章し、文化功労者として選定されました。橋田さんの作品には、泉ピン子さんをはじめとするお馴染みの役者が出演することから、通称『橋田ファミリー』と呼ばれています。作品に関わってきた人だけでなく、橋田さんの作品に勇気付けられてきた多くの視聴者から悲しむ声が上がりました。今後も橋田さんの作品は、映像を通して人々に笑顔を与えてくれることでしょう。ご冥福をお祈りいたします。[文・構成/grape編集部]
2021年04月05日芸能生活35周年を迎える坂本冬美が、東京・明治座で門出を祝う。記念公演の相棒は、坂本の“応援団”を自負する泉ピン子だ。コロナ禍での開催に「万全の対策で皆さんをお迎えし、笑顔と元気になってもらいたい」と声を揃える二人に構想を語ってもらった。第一部の芝居『かたき同志』は、脚本を橋田壽賀子、演出を石井ふく子が務める人情喜劇。2019年6月に行われた『坂本冬美特別公演 泉ピン子友情出演』で仲良し芸者に扮し、抜群のコンビネーションを発揮した二人が、今度は惹かれ合う娘・息子の母親同士としていがみ合う。舞台は大川を挟んだ両岸の屋敷町と下町。坂本は、呉服問屋越後屋の内儀お鶴を演じる。20数年前にも本作へ出演した泉は、当時と同じ飲み屋ひさご亭の女将かめ役。「暮らし向きの異なる役柄をシャッフルしたら面白いかもと思ったけど、チラシの写真を撮ったら……見てよ冬美ちゃんのお内儀。女っぷりがよくて本当に似合っているよね」と坂本に花を持たせる。照れ笑いを浮かべる坂本は、橋田作品の特徴といえる長ゼリフに身構える。「何ヶ月もかけて準備しないと」と姿勢を正す一方で、泉とNetflix配信の韓国ドラマにハマる日常を覗かせるなど気分転換しながら楽しく取り組んでいるようだ。女の意地と母子の愛情が垣間見えるセリフの応酬に「子離れしなくちゃ、って観客の皆さんが共感できる内容」と泉。家族を描いた普遍性のある作品を届けたい──という明治座の企画意図とも重なる。第二部は『坂本冬美オンステージ2021 艶歌(うた)の桜道(はなみち)』と題された歌謡ショー。坂本は「初心に帰ってデビュー曲の『あばれ太鼓』で幕を開けたい」と抱負を述べる。『夜桜お七』『また君に恋してる』といったヒット曲が並ぶ中、今回の聴きどころはやはり桑田佳祐が作詞・作曲を手がけた新曲『ブッダのように私は死んだ』だろう。学生時代から桑田のファンであった坂本は、念願叶ってオファーを引き受けてもらった舞台裏をこう明かす。「事務所の社長にも言わずにお願いして、承諾のご回答をいただいた時にはすでに楽曲が完成していたんです」──。桑田と観客に対する感謝の気持ちを込めながら「今日が最後だと思って歌う」と万感の想いで臨む坂本の姿をしっかり目に焼き付けておきたい。『坂本冬美芸能生活35周年記念公演泉ピン子友情出演』は、2月26日(金)~3月15日(月)に東京・明治座にて。ぴあでは座席指定できるチケットを販売中だ。取材・文:岡山朋代
2021年02月08日東京・歌舞伎座にて『壽 初春大歌舞伎』が、来年1月2日(土)から27日(日)まで上演されることになり、本公演に出演する歌舞伎俳優の松本幸四郎と市川猿之助が取材に応じた。8月の再開以降、1演目4部制で公演が行われた歌舞伎座の舞台。そこで試行錯誤を繰り返しながら、躍動を続けた両名が、2演目3部制に切り替わる初春のめでたい舞台に立ち、新たな年の幕開けを彩る。幸四郎は第3部『菅原伝授手習鑑 車引』に梅王丸役として出演し、父・松本白鸚(松王丸役)、息子・市川染五郎(桜丸役)と共演。親子孫三代そろい踏みが実現するのは、平成30(2018)年1、2月歌舞伎座、12月南座での三代同時襲名披露、令和元(2019)年6月歌舞伎の三谷かぶき『月光露針路日本 風雲児たち』以来となる。「芝居に出られること、さらにそれが父と染五郎と一緒なのは、ありがたいことですし、幸せですね」と喜びをかみしめる幸四郎。共演が決まった染五郎の様子については「あまり感情を表に出すタイプじゃないので(笑)、ビックリな気持ちもあったみたいですけど、稽古ではうれしそうな顔をしているので……、純粋にうれしいんじゃないですかね」と目を細めた。松本幸四郎自身が演じる梅王丸の魅力は「力強さ」だといい、「演じる側も、ご覧になる皆さんも『これぞ歌舞伎だよね』ってど真ん中の魅力がありますからね。その分、セリフ、ボリューム、大きさを、身1つで表現しなければならない」と分析。その上で「先代の(中村)又五郎のおじさまからは、『花道を引っ込むときは“くくり猿”のように』と教えていただいた。ただ力を入れれば、力強く見えるのではない。そういうところが、歌舞伎の色合いであり、大らかさだと思います」と先人の教えをヒントに、令和の梅王丸をダイナミックに体現する決意を示した。新型コロナウイルスの感染拡大による公演中断を経て、再び歩みを始めた歌舞伎興行だが、幸四郎自身は「全員で再開したわけではないので、本当の再開とは思っていない」と神妙な面持ち。「例えば、幕間がどうなるのか。次の演目を劇場で待ちながら、売店で記念や情報を手にしてもらうのも、歌舞伎ですから。歌舞伎ならではの一体感が味わえる“大向こう”も今のこの状況では……。終息後の展望ですか?それはないですね。(環境が)元に戻ることはないと思いますが、時代が変わっても、歌舞伎を今なくすわけにはいかないという思いだけです」と静かに闘志をたぎらせる。「悪太郎」でいまこそ笑えるお芝居を届けたい坂田藤十郎を偲んで『夕霧名残の正月』も上演市川猿之助(左)と松本幸四郎(右)一方、猿之助は第1部『悪太郎』に出演。現在の四代目猿之助の曽祖父・二代目猿之助(初代猿翁)が初演し、澤瀉屋のお家芸『猿翁十種』のひとつとなるユーモアあふれる舞踏で、猿之助は悪太郎を演じる。本公演での上演は、平成22(2010)年1月の浅草公会堂以来となる。「こんな世の中だからこそ、笑いたいじゃないですか。稽古が十分にできない状況で、お見せできる演目となると、『悪太郎』はうち(澤瀉屋)しかできないので、めずらしいものをお目にかけようかなと」と演目を選んだ理由を明かす猿之助。初代猿翁の“当たり役”でもある悪太郎について「曽祖父が出演していた映像を見ると、当て書きされた作品だから、もう(初代猿翁が)立っているだけでおかしくって(笑)。それを演じるのは難しいですけど、もうある意味、吹っ切れて、三谷(幸喜)さんに見いだされた自分の面白みで行くしかないですね」と幸四郎同様に、こちらも新たなキャラクター像の創出に意欲を燃やす。市川猿之助本公演を皮切りに、2演目3部制に踏み出す歌舞伎座の“今後”には「吉と出るか凶と出るか。やってみないと分からないですね」と改めて気を引き締める。「世間は第3波って言われているし、8月の『歌舞伎が戻ってきた』というお祭り的な雰囲気は、今続いていないですから。もちろん、命にかかわることですし『今はまだ歌舞伎座に行けない』というお手紙もたくさんいただきます。そんななか、幸いにも11月の五変化(『蜘蛛の絲宿直噺』)では早替りをして、蜘蛛の糸を投げて……。それができたってのは小さな進歩だけど、自分としては大きな進歩で。まあ、元に戻っただけなんですけど(笑)。これからは歌舞伎にとっても転換期。もちろん、途絶えてしまってはいけないと思うので、僕らの世代がちゃんと荷物を運んであげないと。そうしないと、若い世代が荷物を片付けるとき、時代に合った取捨選択ができないですからね」『悪太郎』には猿之助に加えて、中村福之助(修行者智蓮坊役)、中村鷹之資(太郎冠者役)、市川猿弥(伯父安木松之丞役)が出演。また、『菅原伝授手習鑑 車引』には大谷廣太郎(杉王丸役)、松本錦吾(金棒引藤内役)、坂東彌十郎(藤原時平役)が顔をそろえる。なお、第1部では尾上松也らが登場する『壽浅草柱建』、第2部では亡くなった坂田藤十郎を偲んで、中村鴈治郎らが上演する『夕霧名残の正月 由縁の月』、中村吉右衛門と中村梅玉が共演する『仮名手本忠臣蔵 祇園一力茶屋の場』を上演。第3部には作・岡鬼太郎の『らくだ』が名を連ねている。チケットは12月14日(月)より発売。取材・文・撮影:内田涼歌舞伎座『十時月大歌舞伎』2021年1月2日(土)~2021年1月27日(土)第一部午前11時~第二部午後2時45分~第三部午後6時45分~会場:歌舞伎座(東京)
2020年12月07日2021年1月に東京ガーデンシアターにて開催される『五周年記念 壽 乱舞音曲祭』のメインビジュアルが公開された。本舞台は、名だたる刀剣が戦士の姿になった刀剣男士を育成し、歴史改変を目論む敵と戦うPCブラウザ・スマホアプリゲーム『刀剣乱舞-ONLINE-』を原案としたもの。『五周年記念 壽 乱舞音曲祭』は、2015年10月のトライアル公演から始まったミュージカル『刀剣乱舞』が5周年を迎えるにあたり、これまでの感謝を込めて行う公演。公開されたメインビジュアルは、2020年の『静かの海のパライソ』までに登場した刀剣男士の中から出演する計“22振り”の面々が映し出されるとともに、新春にふさわしい絢爛な雰囲気が漂っている。『真剣乱舞祭』とも『歌合 乱舞狂乱』とも異なる構成で上演する今作では、複数の回替わり演出企画を用意しており、毎回異なる要素が楽しめる趣向を盛り込んでいる。なお、2021年1月9日(土)〜23日(土)の公演全日程でLIVE配信が決定しているほか、1月17日(日)公演と1月23日(土)千秋楽公演は全国の映画館でのライブビューイングも決定している。詳細は公式ページにて確認できる。ミュージカル刀剣乱舞『五周年記念 壽 乱舞音曲祭』公演期間・会場 2021年1月9日(土)〜23日(土) 東京ガーデンシアター原案・ 「刀剣乱舞-ONLINE-」より構成・演出 茅野イサム脚本 伊藤栄之進振付・ステージング 本山新之助出演三日月宗近役 黒羽麻璃央小狐丸役 北園涼加州清光役 佐藤流司大和守安定役 鳥越裕貴和泉守兼定役 有澤樟太郎蜂須賀虎徹役 高橋健介長曽祢虎徹役 伊万里有千子村正役 太田基裕(1月19日〜23日の公演に出演)蜻蛉切役 spi大倶利伽羅役 牧島輝膝丸役 高野洸(1月9日〜17日の公演に出演)陸奥守吉行役 田村心巴形薙刀役 丘山晴己明石国行役 仲田博喜鶴丸国永役 岡宮来夢御手杵役 田中涼星篭手切江役 田村升吾桑名江役 福井巴也松井江役 笹森裕貴浦島虎徹役 糸川耀士郎日向正宗役 石橋弘毅豊前江役 立花裕大チケット前売開始 2020年12月13日(日)AM10:00〜チケット料金S席(アリーナ・第1バルコニー・第2バルコニー):9,500円注釈付S席(アリーナ・第1バルコニー・第2バルコニー):9,500円注釈付A席(第3バルコニー):7,500円※前売・当日共 / 全席指定 / 税込
2020年12月02日大阪松竹座で1月3日(金)から27日(月)まで壽初春大歌舞伎がされる。昼の部は、幕末の京都を舞台にした『お秀清七 九十九折(つづらおり)』、変化舞踊の『大津絵道成寺』、世話物『艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)酒屋』の3本。夜の部は『義経千本桜 川連法眼館の段』『夕霧名残の正月』『大當り伏見の富くじ』。昼の部では『大津絵道成寺』が華やかな舞踊で、楽しい気分になる。江戸時代に庶民の間で流行した大津絵に描かれた藤娘・鷹匠・座頭・船頭・鬼の5役を、片岡愛之助1人で踊り分ける演出がみどころ。矢の根の五郎(松本幸四郎)も登場し、お正月らしさも満載だ。愛之助は夜の部『義経千本桜』の通称「四の切」で佐藤忠信/狐忠信も勤める。静御前は中村壱太郎、義経は片岡秀太郎。『夕霧名残の正月』は、「正月もの」ではるが、少し物悲しい。病によってこの世を去った遊女、夕霧の四十九日に、彼女の恋人であった藤屋伊左衛門(中村鴈治郎)が会いに来る。 すっかり落ちぶれていた伊左衛門は、初めて夕霧の死を知り、起請を香華の代わりに手向けようとすると、在りし日の姿の夕霧(中村扇雀)が現れるが、やがて夕霧は消えていく。『酒屋』も情緒あふれる上方らしい世話物。殺人を犯した夫半七をめぐり、半七の親、正妻お園、お園の親、そして正式な妻ではないが子まで生した三勝が、それぞれに半七を思いやる気持ちがやるせない。夜の部の最終演目は『大當り伏見の富くじ』。元となる作品『鳰の浮巣(におのうきす)』は、松竹新喜劇の『浮かれかご』になっているものを、2012年2月、松本幸四郎が中心となり松竹座で歌舞伎へと復活させた。「とにかくお目出度くて、とにかく笑える、2分に一回は場内が笑いに包まれるようなお芝居を創りたい」という幸四郎の情熱が伝わったか、文字通り「大當り」した本作が、同じ大阪で7年ぶりの再演が実現した。老若男女が笑って泣ける。初笑いで打ち出しという、初春にうってつけの演目といえよう。文:仲野マリ
2020年01月02日「『なつぞら』の収録で、初めて山田家のセットに入った瞬間、開拓移民で貧しい生活なんですが、あれ、この場所、どこかで見たことあると思ったんです。囲炉裏があって、むしろが敷いてあって、土間があって……『あ、おしんの家だ!』って。雰囲気が似ていたんですね。また朝ドラの現場に帰ってきたんだなぁと、ひとり、懐かしさに浸っていました」女優の小林綾子さん(47)は、現在、放送中のNHKの連続テレビ小説『なつぞら』に出演中。広瀬すず演じるヒロイン・なつの初恋の相手である天陽(吉沢亮)の母親・山田タミ役を演じている。節目となる朝ドラの100作目で、かつてのヒロインたちが出演していることも話題だが、10歳にして『おしん』で主演をつとめた小林さんにとっては、36年ぶりの朝ドラ復帰作となった。くしくも現在、NHK BSプレミアムでは毎朝、『おしん』と『なつぞら』が続けて放送されている。「再放送で初めて『おしん』を見たという方からも、『おしんちゃん、どうなるの』といった感想をたくさんいただいています」『おしん』人気再来を裏付けるように、再放送にして総集編も何度も放送されているのに加え、8月13日には『アナザーストーリーズ』(NHK BSプレミアム)でおしん特集が組まれたばかりだ。『おしん』は、’83年に放送された朝ドラ31作目。橋田壽賀子さん(94)のオリジナル脚本で、ヒロインは明治、大正、昭和を幾多の困難を乗り越えながら生き抜いた山形の貧しい小作農の娘・谷村しん。小林綾子、田中裕子、乙羽信子の3人がリレー形式でヒロインを演じ、少女時代が小林さんだった。平均視聴率52.6%、最高視聴率62.9%は、いまだ破られていないドラマ史上最高視聴率の金字塔だ。「おしんドローム」なる流行語を生み出した番組は国内で社会現象となっただけでなく、世界73の国と地域で放送され、イランでは最高視聴率90%を超えた。『おしん』の放送終了後は、天才子役といわれながらも、語学留学をしたり、その後も私生活では結婚と離婚を経験した。「おしんを演じたあと、いろいろな苦難を乗り越えてこられたのは、私の原点に『おしん』があったからです」小林さんは1972年8月11日生まれ。東京都練馬区の出身。クラシックバレエがやりたくて、東映の児童劇団に入ったのが5歳。『おしん』のオーディションは10歳で、100人を超える少女の中から大抜擢された。「すぐに6冊の台本と方言テープを渡され、まず母が台本の漢字にフリガナを書いて、それから毎日、登校前と下校後に母と向き合ってセリフの練習を繰り返しました」橋田さんの脚本といえば長ゼリフで有名だが、撮影初日までに自分の分だけでなく相手のセリフまで暗記し、山形弁も完全にマスターして周囲を驚嘆させたという。撮影は’83年1月、厳冬の山形ロケからスタート。NHK開局30周年の記念番組で、通常の朝ドラの倍の1年間の放送も決まっており、なんとしても成功させようと、現場は気迫に満ちていた。「最初が、いかだで最上川を下って奉公に出るシーンでした。スタッフだけで80人以上、地方の協力者など合わせて100人単位の方がいらっしゃいました。川上にあるクレーン車からロープが伸びて、いかだが流されないようつながっていて。そのロープもみんなで懸命に引っ張りながらで、カメラマンさんは腰まで水につかっている。ああ、ひとつのシーンを作り上げるというのはこういうことなんだと、子供心に身の引き締まる思いでした」脱走兵の俊作(中村雅俊)との山小屋でのシーンも心に刻まれている。「積雪が胸まであるほどの雪道を30分かけて山の上まで登るんです。その道も、スタッフさんが、まだ暗いうちからラッセル(除雪)して作ってくれました。撮影して戻って昼食の豚汁を食べたら、また30分登る。だから、あの赤いほっぺは、メークじゃなく自然なものなんです」’83年4月、『おしん』の放送が始まると、直後から、小林さんはけなげな国民的ヒロインとして、あっというまに人気子役となる。番組も“お化け視聴率”をたたき出すようになった。「ゴールデンウイークのころには、町をあるいていて、『おしんちゃん、寒かったでしょう』『ちゃんと食べてる?』などと声をかけられるようになっていました。局のほうにも、『おしんちゃんに食べさせて』と米1俵が送られてきたり、なかには現金もあったそうです」1年間の放送が終わるころ、『おしん』はまさに社会現象となっており、小林さんの事務所にも仕事のオファーの電話が殺到した。「もともとバレエをやりたくて児童劇団に入ったように、女優になりたかったわけでもないので、収録後はまた普通の、体育と図工が好きな(笑)小学生に戻っていました。お仕事は少しずつ続けていましたが、ドラマなども、夏休みや冬休みを利用して収録することが多かったです」学業優先とはいえ、仕事を続けていくなかで、おしんのイメージから脱却するまでの苦労はなかったのだろうか。「よく聞かれますが、あまり深刻に考えないタイプです(笑)。いただいた仕事を一生懸命にこなしていくだけでした。“おしんを脱却”より、おしんがあったから、仕事ができていると思っていました。地元の中学・高校に進んでも、将来は先生かCA(キャビンアテンダント)になれたらいいな、くらいに考えていました」『なつぞら』のセットに立って思い出すのは、やはり『おしん』での日々。「なつの家族はじめ、私たち山田家も、みんなで北海道の荒れ地を開墾するシーンは大がかりで、あの最上川のいかだのシーンを思い出しました。ここでも、衣装はもちろん、履物ひとつにしても、考え抜かれて用意されていたり」改めて、目にする小道具が、耳にするセリフが、すべて学びとなっていたことを実感する。「撮影中、私は学校に通えないときもありましたが、『おしん』の現場で、いろんな社会勉強をさせてもらっていたんですね。台本に『箱膳を持ってくる』とあって、何だろうと思って現場に行くと、箱の中に食器が入っていて、ひっくり返すと1人分の食卓になる。ああ、昔の日本にはこんな生活習慣もあったんだと、教科書にはないことを知ったり。そして、多くのセリフからも学びました。中村雅俊さん演じる俊作あんちゃんの『いろんな理不尽も世の中にはあるだろうが、自分を主張するだけでなく、人を許してあげることも大事。つらく当たる相手にも、いろいろあるんだ』という言葉などは、その後の私自身の生きる指針にもなりました」
2019年08月31日“おしん”役として10歳で飛び込んだ「朝ドラ」の現場は過酷だった。厳冬の山形の最上川でいかだに乗るシーン。胸まで積雪がある雪道を山の上まで登るシーン。命がけの現場でプロ意識をたたきこまれた。小林綾子のけなげな演技は感動を呼び、最高視聴率62.9%。海外でもイランで視聴率90%を記録するなど大ブームに。その後、留学や離婚を経て役者を続け、今年、100作目の『なつぞら』で朝ドラに戻ってきた――。「『なつぞら』の収録で、初めて山田家のセットに入った瞬間、開拓移民で貧しい生活なんですが、あれ、この場所、どこかで見たことあると思ったんです。囲炉裏があって、むしろが敷いてあって、土間があって……『あ、おしんの家だ!』って。雰囲気が似ていたんですね。また朝ドラの現場に帰ってきたんだなぁと、ひとり、懐かしさに浸っていました」女優の小林綾子さん(47)は、現在、放送中のNHKの連続テレビ小説『なつぞら』に出演中。広瀬すず演じるヒロイン・なつの初恋の相手である天陽(吉沢亮)の母親・山田タミ役を演じている。節目となる朝ドラの100作目で、かつてのヒロインたちが出演していることも話題だが、10歳にして『おしん』で主演をつとめた小林さんにとっては、36年ぶりの朝ドラ復帰作となった。くしくも現在、NHK BSプレミアムでは毎朝、『おしん』と『なつぞら』が続けて放送されている。「再放送で初めて『おしん』を見たという方からも、『おしんちゃん、どうなるの』といった感想をたくさんいただいています」『おしん』人気再来を裏付けるように、再放送にして総集編も何度も放送されているのに加え、8月13日には『アナザーストーリーズ』(NHK BSプレミアム)でおしん特集が組まれたばかりだ。『おしん』は、’83年に放送された朝ドラ31作目。橋田壽賀子さん(94)のオリジナル脚本で、ヒロインは明治、大正、昭和を幾多の困難を乗り越えながら生き抜いた山形の貧しい小作農の娘・谷村しん。小林綾子、田中裕子、乙羽信子の3人がリレー形式でヒロインを演じ、少女時代が小林さんだった。平均視聴率52.6%、最高視聴率62.9%は、いまだ破られていないドラマ史上最高視聴率の金字塔だ。「おしんドローム」なる流行語を生み出した番組は国内で社会現象となっただけでなく、世界73の国と地域で放送され、イランでは最高視聴率90%を超えた。「いつか、朝ドラで母親役を演じてみたい」映像作品や舞台で活躍しながら、40歳を超えたころから、そう語っていた小林さん。「いつか朝ドラの現場に帰りたいという思いは、正直、ずっとありました。私自身、ファンで見続けてもいましたから。きっと、そう願う女優さんは多いと思います。でも、私の場合、たしかに、おしんのイメージが強いですから、使う側も使いにくいだろうなとも思っていたり。ですから、昨年2月に『なつぞら』のオファーをいただいたときは、ああ、やっと朝ドラに帰れるんだ、という思いでした」36年ぶりの朝ドラの現場。出演者の出番が書き込まれた香盤表を見たときには、当時の記憶がよみがえった。「『おしん』では、私は出ずっぱりで、常に自分のところに◯印が付いていました。収録が終わったとき、母が『最初からこんな大変とわかっていたら、お受けしなかったかもしれない』とポロっと言ったのを思い出したり。『なつぞら』では、すずちゃんがその立場。身をもって体験した私としてはやっぱり心配で、『体調、大丈夫?』と聞くと、笑顔で『なんだか私、平気みたいです』って。若さっていいですよね」『おしん』のときとは逆に、若手俳優らを気遣う自分がいる。迷いもあったが、役者を続けてきて、かつての子役がいま、母親を演じるようになっていた。「つくづく、時間がたったんだなぁと思いますね。実生活では母親ではありませんから、その意味でも、芝居の中で子供ができるというのはうれしくて。まして、あんな美しい息子なんて(笑)」小林さんは、子役のとき以来、ずっと大切にしていることがある。「母に、子役時代からずっと言われ続けたのは、『初心を忘れちゃダメよ』ということ。初心とは、私と母にとっては『おしん』での体験です。あの大変な現場を乗り越えて、これから何が起きても、ちょっとやそっとのことじゃ負けないという自信も持てました。今後も、その初心を忘れず、見た人が元気になったり、笑顔になったりするような、心に残る作品に出ていけたらと思います」
2019年08月31日平成時代を通して多くのファンに親しまれてきた、橋田壽賀子ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」の新作が令和元年の今年も放送することが決定。併せて、プロデューサーの石井ふく子からのコメントが到着した。「渡る世間は鬼ばかり」は、弥生(長山藍子)、五月(泉ピン子)、文子(中田喜子)、葉子(野村真美)、長子(藤田朋子)の岡倉家5人姉妹とそれぞれの家族の悲喜こもごもを描いた物語。平成2年の放送開始以来、その時々の世の中の空気をとらえ、様々なメッセージを物語に反映させながら登場人物を描き、多くのファンに親しまれてきた。そんな平成時代の名物ドラマの新作が、令和元年の今年も放送することが決定した。プロデューサーの石井さんは、「平成2年に始まった『渡る世間は鬼ばかり』を通じて、視聴者の皆さんと一緒に平成時代を歩み続けることができたことは幸せで光栄なことでした」とこれまでの軌跡をふり返る。また、「一方でこの30年間で社会は大きく変化して人々は豊かになりましたが、家庭の在り方も変わり、家族がバラバラになってしまうのではないかと案じることもありました」と明かした。通算511作目となる本作については、「令和の時代にも『渡る世間は鬼ばかり』を作り続けられることをとてもうれしく思います。まだまだやることはいっぱいあると思っています。主な舞台となる『幸楽』を仕切るのは、赤木春恵さんから泉ピン子さんへ、そしてその娘、愛役の吉村涼さんへと交代して、登場人物の配置も変化してゆきます。橋田さんとも相談しながら、それでも変わらない家族の絆を描いていきます。新時代を迎えるにふさわしいドラマをお届けしたいと思います」と意気込みを語った。これまでもそれぞれの家庭の諸問題をリアルに投影してきたが、令和最初の放送となる本作ではどのようなストーリーが展開されるのか。新時代を生きるそれぞれの家族の行く末に注目したい。橋田壽賀子ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」は2019年、TBS系で放送。(text:cinemacafe.net)
2019年05月10日「令和」の時代が幕を開けようとしている。しかし、どんなに医療が進歩しても、私たちが抱える“健康”への悩みは、消えるものではない。何歳になっても元気でいたい、大病にはかかりたくない。そのためには、何をどうすべきなのか。その問いに答えてくれたのは、大正時代に生まれ、昭和、平成そしていままさに4つ目の元号を迎えようとしている人生の“大先輩”たち。彼女たちは、驚異的なバイタリティで、いまも表舞台に立ち続けている存在だ。各界で活躍する大正生まれの女性6人が、これまでメディアで語った「元気の秘訣」は、次の通り。【森英恵】ファッションデザイナー/大正15年生まれ・93歳「目新しいものに目を向けることが大切だと思っています」(『ゆうゆう』2017年11月号より)【佐藤愛子】作家/大正12年生まれ・95歳「自分の体が欲したものは、身になるものなんだから、食べる」(『毎日が発見』2018年4月号より)【石井ふく子】テレビプロデューサー/大正14年生まれ・92歳「健康も生活も自分で管理することが大事。“年を取る”のではなく“年を取っ払う”くらいの心意気で」(『ハルメク』2016年5月号より)【橋田壽賀子】脚本家/大正14年生まれ・93歳「欲張らない。頑張らない」(『日経おとなのOFF』2016年11月号より)【辰巳芳子】料理研究家/大正13年生まれ・94歳「毎朝、硬いライ麦パン、そしてリンゴとニンジンを絞ったジュースをコップ1杯飲んでいます」(『文藝春秋』2018年7月号より)【鈴木登紀子】料理研究家/大正13年生まれ・94歳「生きることは食べること、食べることは生きること。しっかり生きるには、感謝して食べることです」(『婦人公論』2017年5月号より)“人生100年時代”を、身も心も朗らかに生き抜くため、彼女たちが実践している金言を参考にしてみよう。
2019年05月01日日本人の心や人と人とのふれあいを温かくとりあげてきた番組と人に贈られる「第27回橋田賞」の受賞作品および受賞者が31日、発表された。脚本家・橋田壽賀子が理事を務める橋田文化財団が主催している同賞。今回、橋田賞大賞は該当者なし。橋田賞は、山田洋次監督、松坂慶子、内藤剛志、大泉洋、宮崎あおい、岡田将生、菅田将暉、安住紳一郎アナに決定した。また、橋田賞新人賞は、NHK連続テレビ小説『半分、青い。』での演技が評価され、永野芽郁が受賞した。それぞれの受賞理由は以下の通り。○橋田賞■山田洋次(脚本家・映画監督)本年度の『あにいもうと』(TBS)の脚本に対して。兄と妹の複雑な情愛を軸に、相手を思うが故の厳しさや、家族だからこその甘えの美しさ、難しさを温かくユーモラスに映し出しながら、兄妹が新たな人生を歩んでいけるという新たな結末を描き、多くの視聴者の共感を得た。■松坂慶子(俳優)本年度の『西郷どん』(NHK)での隆盛の母親役や、『まんぷく』(NHK)における主人公の母親役の圧倒的な存在感と魅力的なキャラクターが、多くの視聴者の支持を得た。■内藤剛志(俳優)『警視庁捜査一課長』や『科捜研の女』シリーズ等において、誠実で正義感が強く人情味あふれる刑事役をそれぞれ見事に演じ分け、安定した人気を獲得し多くの視聴者の支持を得た。■大泉洋(俳優)本年度の『あにいもうと』の演技に対して。妹への過剰な愛情からつい衝突してしまう、家族思いの昔ながらの大工という役柄を、丁寧にまた時にはコミカルに生き生きと演じて多くの視聴者の共感を得た。■宮崎あおい(俳優)本年度の『あにいもうと』の演技に対して。役柄のために大型免許を取得したり、本気で兄とぶつかりあったり徹底した迫真の演技で多くの視聴者に感動を与えた。■岡田将生(俳優)本年度の『昭和元禄落語心中』(NHK)の演技に対して。落語を語るばかりでなく、若い頃から幽玄な老年までを熱意と努力で演じ切り、有楽亭八雲の生きざまを見事に表現して高い評価を得た。■菅田将暉(俳優)本年度の『トドメの接吻』(日本テレビ)、『dele』(テレビ朝日)等における才気にあふれた演技は群を抜いており、多くの視聴者の支持を得た。■安住紳一郎(TBSアナウンサー)『ぴったんこカン・カン』などのバラエティから『新・情報7daysニュースキャスター』等の報道番組まで幅広く活躍し、人と人とのつながりを大事にしながら自分の言葉で情報を発信する姿勢が多くの視聴者の支持を得た。○橋田賞新人賞■永野芽郁(俳優)本年度の『半分、青い。』(NHK)の演技に対して。ハンディキャップを背負いながら、失敗を恐れないバイタリティで挫折と回り道を重ねながら懸命に生きるヒロインの40年に及ぶ人生を類いまれなる表現力で演じきった。
2019年03月31日赤木春恵さんが11月29日、心不全のために亡くなった。94歳だった。赤木さんといえば、90年から続くドラマ「渡る世間は鬼ばかり」(TBS系)シリーズの姑・キミ役が有名。泉ピン子(71)演じる嫁・五月を振り回す役柄で、その強烈なキャラクターをお茶の間に届けた。いっぽう本来の赤木さんは、キミとは真逆のおっとりとした優しい性格。そのため当初キミを演じることに抵抗があったと、01年9月本誌に明かしていた。「あまりに自分の性格とキミが違いすぎるんですよ。イヤだな、こんなセリフは言いたくないな、みたいな連続でした。最近はようやく割り切って“これはお仕事だから”と思うようにしていますが、でも絶えず自分のなかでは葛藤があります」あるとき、キミの孫娘が「大学へ行きたい」というシーンがあった。「女の子は嫁に行くんだから大学になんか行く必要はない」と赤木さんは返すはずだったが、そのセリフだけどうしても覚えることができなかったという。カンペを使うことで、なんとか演じきることができたようだが――。「こんなことは長い女優生活で初めてのことだったので、心配になってお医者さんに診てもらったんです。そしたら、ボケたんじゃなくて“拒絶反応”みたいなものが出たんだろうって。自分でもわからない心の底のところで、どうしても言いたくないと思っているセリフだったらしいんです(笑)」絶えずキミを演じることに葛藤していたという赤木さん。「渡る世間」シリーズを卒業したのち、11年10月本誌にこう語っていた。「これからは、寡黙で優しいお母さん、おばあちゃんの役ができたらいいなと思います。亡くなるときに『赤木春恵という人は、いい人だった』と思われて死にたいですからね(笑)」赤木さんの大らかな優しさに、「渡る世間」シリーズの脚本家・橋田壽賀子(93)も感謝しているようだ。各スポーツ紙によると橋田は、赤木さんの訃報を受け「赤木さんの優しい人柄に接したおかげで、彼女の役を深く掘り下げて書くことができました」とコメント。続けて「優しさと厳しさと同時に表現できるけうな女優さんです。もうこんな女優さんは出てこないと思います」(原文ママ)と、その死を惜しんだという。赤木さんの優しさは、これからもみんなの胸に刻まれ続けることだろう――。
2018年11月29日梅沢富美男(67)が8月15日放送の「梅沢富美男のズバッと聞きます!」(フジテレビ系)に出演。15年間落選し続けたという青山霊園にようやく当選したと明かした。同霊園は人気のあるブランド墓地であり、梅沢は「ようやく私もね、今年、青山墓地が当たりまして」としみじみ。さらにその応募の陰に、末っ子だから墓をもっていたほうがいいという妻からの勧めがあったと明かした。梅沢夫妻のように生きているうちに死への準備を整えることを終活という。高齢化の進む芸能界において、トレンドの一つと言えるだろう。「終活といえば中尾彬(76)さんと池波志乃(63)さん夫妻が有名です。2人は終活のエピソードを綴った本を出版するほど終活に対して積極的。2人は家を売り払うだけでなく、中尾さんのトレードマークでもある“ねじねじ”ストールを200本捨てたと言います」(芸能関係者)本誌2686号では橋田壽賀子(93)の終活を取り上げている。前述の2夫婦と違い橋田が終活に取り組むようになったキッカケは夫の死にあったとし、こう明かしている。「私が積極的に”終活”に取り組むようになったのは、私は天涯孤独で、跡継ぎもいませんので。『立つ鳥跡を濁さず』で、私の死後、みなさんにご迷惑をかけたくないからです」一見ネガティブに聞こえてしまうが、橋田はあくまで建設的だ。子供のいない橋田は1人で生きる方法について考えた結果、「『それにはまずお金だ』と思って、そこから一生懸命働きました」と言う。そして“お手伝いさん”を6人雇ったとし、こう語っている。「親族に面倒をみてもらうよりずっと心豊かでいられるし、私はいま、理想的な暮らしをしていると思いますね」また財前直見(52)は50歳を過ぎたばかりだが、終活をすでに開始していると本誌2771号に明かしている。五十路を迎えたことで今後について考えるようになったとし、“終活ライフケアプランナー”の資格を取得したという。同記事でものの整理や遺言の内容を考えることを勧め、そうすることは「逆にプラス思考になっていくのです」と語る財前。終活とは未来に想いを馳せることだとし、こう明かしている。「『老後』についても、いろいろ明るい想像が膨らんでくるのです。終活って、死を連想させて寂しいイメージを感じる人も多いと思います。でも本当は今後の人生を充実させるための、楽しくて夢のある活動だということを、皆さんに伝えていきたいです」来るべき日のために、それぞれ取り組んでいるようだ――。
2018年08月18日俳優の竹内涼真が、「第26回橋田賞」で橋田賞新人賞を受賞し18日、都内ホテルで行われた授賞式に出席した。脚本家・橋田壽賀子が理事を務める橋田文化財団が主催し、日本人の心や人と人とのふれあいを温かくとりあげてきた番組と人に贈られる同賞。竹内は、『陸王』(TBS)、『ひよっこ』(NHK)などでの演技を評価され、新人賞に輝いた。壇上で竹内は、橋田氏に向かって「橋田さん、初めまして。竹内涼真と言います。たぶん知らないですよね?」とさわやかに自己紹介。「今、録画とかで名前を打つとその人の作品が勝手に録画されるようになっているので、ぜひ“竹内涼真”と打ってください」とアピールした。竹内に対し、橋田氏は「楽しみに期待している」とコメント。最近の作品は見ていないそうで、竹内に関しても「これから拝見します」とのこと。そして、録画について「ビデオの使い方がわからないんです。ビデオをもらっても見たことないんです。ダメなんです機械」と打ち明け、最後に「素敵な坊やです」と言葉をかけて笑いを誘った。竹内はまた、「このような光栄な賞をいただけてうれしいです」と喜び、「この仕事を始めて5年ですが、芸能界に入ってよかったなと思っています。ドラマや映画を見て『感動した』『元気になった』という声をいただける仕事って本当に素晴らしいなと思っています」としみじみ。さらに、『ひよっこ』『陸王』を振り返って「視聴者の方々のために寝る間を惜しんで頑張り続ける監督やスタッフのみなさんの姿に本当に感動して、命をかけて僕らは役作りをして演じなきゃいけないなと思います」と語り、「これからまだ先が長い仕事だと思いますので、見ている方々に新しいエンターテインメントを楽しんでいただけるように日々努力し続けたいと思います」とさらなる活躍を誓った。今回、橋田賞は、NHKスペシャル『戦慄の記憶 インパール』(NHK)、『コウノドリ』(TBS)、岡田惠和(脚本家)、松たか子(俳優)、阿川佐和子(エッセイスト・タレント)、桂文珍(落語家)が受賞。橋田賞大賞は該当なし。新人賞は有村架純(女優)と竹内涼真(俳優)。そして、特別賞に石坂浩二(俳優)と大杉漣さん(故人・俳優)が選出された。
2018年07月18日意外と知らない社会的な問題について、ジャーナリストの堀潤さんが解説する「堀潤の社会のじかん」。今回のテーマは「尊厳死と安楽死」です。超高齢化社会の日本の今後の課題。徹底した議論を。今年の1月、評論家の西部邁さんが入水自殺をした際、知人の2人が自殺の手助けをしたとされ、自殺ほう助の罪に問われ、逮捕されました。西部さんは生前、老齢で病気になり家族に迷惑をかけたくないと思う人間が、自分の裁量で死ぬという選択があってもよいのではないかとおっしゃっていました。橋田壽賀子さんも昨年、『安楽死で死なせてください』という著書を出され、物議を醸しました。尊厳死とは、回復の見込みがなく苦痛を伴う状態にある場合、延命措置を断り最後は自然死を迎えるというもの。安楽死には、薬物を投与したり、延命治療を途中でやめる「積極的安楽死」と、延命治療を行わない「消極的安楽死」がありますが、線引きは曖昧です。現在、日本では安楽死は認められていませんが、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、スイス、カナダ、アメリカの一部では認められています。オランダでは2002年に安楽死を法制化し、通常の医療行為として、保険が適用されているそうです。認められる条件は、本人の自発的な要求のほか、改善の見通しがない、安楽死以外の解決策がない、安楽死の担当医以外の医師の診断などです。2016年には6091人の人が安楽死を選択。7割が末期ガン。あとは高齢者や認知症患者などが占めていました。超高齢者がますます増える日本にとって、終末期医療・ケアは大きな課題です。厚生労働省は3月に「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」を改訂しました。本人の意思を尊重するのは大前提ですが、本人が意思決定できなくなる前に、家族や医療・介護従事者が連携をとって方針を繰り返し話し合い、文書にしておくことを勧めています。尊厳死、安楽死は難しい問題です。治る見込みがなく、毎日苦痛を伴いながら家族を犠牲にして生き続けるのは確かに辛い。しかし、生きることを前提に作られている社会で、死を自ら選択できることになれば社会不安を起こします。また、弱者は切り捨ててよいという発想にもなりかねません。人生100年時代、社会でも家族間でも徹底して議論する必要があるでしょう。堀潤ジャーナリスト。NHKでアナウンサーとして活躍。2012年に「8bitNews」を立ち上げ、その後フリーに。新刊『堀潤の伝える人になろう講座』(朝日新聞出版)が好評発売中。※『anan』2018年6月13日号より。写真・中島慶子題字&イラスト・五月女ケイ子文・黒瀬朋子(by anan編集部)
2018年06月09日最近、“現役バリバリ”で活躍している80歳以上の女性が目立ちます。「人生100年時代」ともいわれる今、年を重ねるほどに輝く秘訣は何なのか。素敵な大先輩の言葉に、大きなヒントがありました。“生涯現役”を実現するための50代の過ごし方ーー。 「35歳で、日本電建の宣伝部から転職して、TBSのプロデューサーになりました。40代半ばから、もう50代の自分について考えていました。当時定年が55歳でしたが、そのときになってあわてるのは嫌で、48歳でいったん会社を辞めようとしたんです。当時の社長に話したら、『とんでもない』と引き止められて、そこから5年間の専属契約となり、それを更新し続けて現在に至っています」 TBSテレビのプロデューサー・石井ふく子さん(91)が専属となった’70年代は、テレビがカラーになり、続々と名作が生まれた時代。 石井さん自身、『肝っ玉かあさん』『ありがとう』や、東芝日曜劇場『女と味噌汁』など、国民的なヒット番組を手がけ、脂の乗り切った50代を過ごしてきた。 「そんなときでした。日曜劇場でも、1,200回記念に戦争のドラマを作ろうという話が持ち上がったんです。私は『それはできません』と、最初からはっきり申し上げました。というのは、私は戦時中には勤労動員で勉強もできなかったし、仲間を目の前で亡くすつらい体験はトラウマとなって残っています。ですから、戦争はドラマでは描けないほど激しい、過酷なものという思いがあったんです」 会社側から代わりのアイデアを求められた石井さんは熟慮した。そして出したのが『女たちの忠臣蔵』だった。このとき、53歳。 「これが当たったんですね。それを思うと、50代というのは、それまでの経験や現場で作った人間関係が試されると同時に、冒険のできる年代というのが私の実感です」 近年、テレビの世界でも、年齢に対する捉え方は大きく変わってきたと語る。 「昔は、キャスティングのとき、俳優さんの年齢というのはあまり考えなかった。でも今は、最初に年齢などのデータありきで、線引きをされてしまう。ちょっとつまらないですね」 ただし、変わらぬ名優たちの魅力も健在。 「現代は50代を過ぎると、みなさん、70歳くらいまでは若くて活躍されていますね。たとえば三田佳子さん(76)、長山藍子さん(76)。泉ピン子さん(70)など、70代になったばかりなんて、まだまだ若い(笑)」 自身の50代を振り返る。 「バリバリ仕事をしていた半面、病気になると大きな迷惑をかけますから、当時から定期的に通院検査しています。それも2カ所。私はセカンドオピニオンの先駆けです(笑)。『医者に行くのが怖い』という人も多いですが、私にしたら、行かないほうが怖い。これは橋田壽賀子さん(93)も同じ考えのようです」 すでに次の企画が進行中。 「今年9月にも『渡る世間は鬼ばかり』の3時間スペシャルが決まっていて、また、いつものメンバーが集まります。こうして50代前後からのお付き合いの俳優さんたちと、変わらずお仕事をできるというのは、やっぱり、それまでの蓄積。その意味では、50代で作った人脈が生きてくるのが70代から80代と思っていいのではないでしょうか。50代は“人作り”の時期だと思います」
2018年05月21日