日本を代表する作曲家のひとり、池辺晋⼀郎の80歳(傘寿)の誕生日を祝うコンサートが誕生日当日の9月15日(金)に開催される。池辺晋一郎は、1943年9月15日に水戸市で誕生。これまでに数多くの楽曲を手がけ、クラシック音楽だけでなく映画、テレビ、ラジオ、演劇などの音楽も作曲。1996年から13年に渡ってNHK教育テレビの『N響アワー』で司会を担当。2001年からは東京オペラシティ文化財団のミュージック・ディレクターを務めており、石川県立音楽堂の洋楽監督や、せたがや文化財団音楽事業部音楽監督、姫路市文化国際交流財団芸術監督など多くの要職にも就いている。バースデーコンサートのプログラムのテーマは、「若き日の」、そして「今」。第一部は合唱で、万葉集をテキストにした無伴奏合唱曲《相聞》が演奏される。東京藝大大学院時代の1970年に作曲されたI、IIと、35年後の2005年に作曲されたIIIの全曲が披露され、池辺がキャリアの最初期から共同作業を続けてきたは東京混声合唱団が演奏する。第二部は、池辺のオペラ第1作となった『死神』から印象的なソプラノの《死神のアリア》、オーケストラ・アンサンブル金沢が初演した、泉鏡花原作によるオペラ『高野聖』からのハイライトを披露。第三部では《ピアノ協奏曲第1番》と今回の演奏会のために書き下ろされる新作《交響曲第11番》の世界初演が登場する。オペラと管弦楽のパートを担うオーケストラは、池辺が洋楽監督を務める石川県立音楽堂を本拠とし、現在最も緊密な関係であるオーケストラ・アンサンブル金沢。第⼀部の合唱を含め、演奏会全体の指揮はオーケストラ・アンサンブル金沢アーティスティック・リーダーの広上淳⼀が務める。池辺晋⼀郎80歳バースデー・コンサート9月15日(金) 19時開演東京オペラシティ コンサートホール■チケット情報広上淳⼀(指揮)古瀬まきを(ソプラノ)中鉢 聡(テノール)北村朋幹(ピアノ)東京混声合唱団オーケストラ・アンサンブル金沢無伴奏合唱相聞I〜III(1970、2005)『死神』(1971, rev.1978)から「死神のアリア」『高野聖』(2011)からハイライトピアノ協奏曲第 1 番(1967)交響曲第 11 番《影を深くする忘却》(2023)[世界初演]
2023年06月29日女優・歌手として活躍し、日本で初めての肢体不自由児の養護施設「ねむの木学園」を設立した宮城まり子さんが、3月21日早朝に亡くなった。93歳だった。訃報を受け、上皇ご夫妻は22日に宮内庁上皇職を通じて学園に弔意を伝えた。障害者福祉を熱心に支援されてきた上皇ご夫妻は、宮城さんと40年以上にわたる交流があった。「亡くなる直前まで施設の子どもたちを気にかけていました」と、都内の病院で宮城さんの最期を看取った学園の教諭・梅津健一さんが明かす。宮城さんが亡くなる3日前には、「ねむの木学園」から2人の生徒、としみつさんとつとむさんがお見舞いにやってきた。「静岡で8月にするコンサート、ちゃんとやらなきゃね」彼らにそう語りかけたのが、梅津さんが聞いた宮城さんの最後の言葉だった。彼ら2人は美智子さまとも縁があるのだという。「’14年3月に横浜で開催した学園の美術展で、美智子さまに3枚の絵をお求めいただきました。それが、としみつくんの『雪だるまの赤ちゃんエーンエーン』と『涙の木』、つとむくんの『ガムラスタン通り』だったのです」実は’94年に初めて「ねむの木学園」を訪問されたとき、『雪だるまの赤ちゃん~』を気に入られていたという。20年間も、この作品を思い続けていらっしゃったのだ。’14年の美術展後、宮城さんは本誌にこう語っていた。「としみつくんとつとむくんは絵のほかにも音楽や茶道も大好きで、兄弟のように仲よしなの。いまや、ねむの木学園を代表するアーティストです」学園の子どもたち70人と職員で宮城さんとの「お別れ会」が催されたのは、3月27日。としみつさんは子どもたちを代表してお別れの言葉を述べ、つとむさんは総合司会を務めた。“私はねむの木のお母さん。皇后さまは日本のお母さんなのよ”宮城さんは、子どもたちにそう説き聞かせていたという。「美智子さまが個人的に2人の絵を高く評価してくださったことを、宮城先生はとても喜んでいました。としみつくんとつとむくんにとって絵を描くことへの励みにもなったのだと思います」(梅津さん)美智子さまとまり子さん、2人の“母”の思いは、子どもたちの心の中で輝き続ける――。「女性自身」2020年4月14日号 掲載
2020年04月03日「数日間昏睡状態が続き、静かにスーッと息を引き取りました」美智子さまと親交の深かった「ねむの木学園」の園長・宮城まり子さんが3月21日早朝、93歳で亡くなった。都内の病院で宮城さんの最期を看取った学園の教諭・梅津健一さんが明かす。「宮城先生は20年前に血液がんを患いました。それが2年前から再発して、今年の2月、急激に体調が悪化してしまったのです。東京の病院に入院したのですが、亡くなる直前まで施設の子どもたちを気にかけていました」女優・歌手として活躍してきた宮城さんが、日本で最初の肢体不自由児養護施設「ねむの木学園」を設立したのは’68年。それから半世紀以上にわたって、障害児教育に人生を捧げてきた。21日の夕方、静岡県掛川市の学園に戻った梅津さんは、4歳から79歳の“子どもたち”70人を大教室に集めて「今朝早く、まり子お母さんはお空に向かってお出かけになりました」と、宮城さんの逝去を報告した。「教室の窓から夕日に染まりかけた空を見やりながら、静かに涙を流す子、黙って身じろぎもしない子、大声で泣き叫ぶ子と……。さまざまでした」上皇ご夫妻も学園に弔意を伝えられた。美智子さまと宮城さんとの出合いは、実に44年前までさかのぼる。’76年に東京で開催された第1回「ねむの木のこどもたちとまり子美術展」を美智子さまがご覧になったときが初対面だった。その直後に美智子さまのお招きで、宮城さんが東宮御所に参内。一方で、美智子さまも何度も美術展に足を運ばれ、上皇陛下とご一緒にねむの木学園も訪問されている。「児童福祉や障害者福祉を熱心に支援されてきた美智子さまは、宮城さんをとても敬愛されていました」(宮内庁関係者)美智子さまは’18年11月にも「ねむの木学園」を訪問されている。それは天皇皇后両陛下として最後の私的ご旅行となった。宮城さんには、女官を通じて電話でご訪問の連絡があったという。そのときの心境を宮城さんは「その瞬間『うれしい~!』と、受話器を握ったまま泣きだしてしまいました」と本誌に語っていた。しかし、そのころすでに血液がんは再発しており、宮城さんは入退院を繰り返す生活をしていた。「車いすの宮城さんに美智子さまが寄り添われて、園内をゆっくりと見て回られました。宮城さんの体調悪化を美智子さまはお感じになっていたのではないでしょうか」(皇室担当記者)ただ、その後も宮城さんはつらい闘病のなか、学園の行事や活動に積極的に関わっていた。’19年10月には、学園の運動会開催を知らせる手紙が本誌編集部にも届いていた。《私もお医者様には叱られるけれど、毎日演出席で座っています。今年で終わりになるのかなと心の中はグルグルしていますが病名は血液内科で腫瘍つまりガンですとおっしゃいました。すぐ浮かんだのは「シビアなことをおっしゃいますナ」といった、吉行淳之介の言葉でした。でも私は大丈夫(中略)でもつらいです。クヤシイナー》長年にわたり私生活のパートナーだった作家の故・吉行淳之介さんの言葉や思い出を支えに、闘病を続けていた宮城さん。梅津さんによれば、関係各所に送っていたこの手紙は、上皇ご夫妻には届けていないという。前出の宮内庁関係者は、「以前は美智子さまと宮城さんが直接電話でお話になることも多かったようです。御代替わりの前後には、美智子さまも体調を崩されていることがたびたび報道されました。宮城さんもお見舞いの言葉をお伝えになっていたのではないでしょうか」手紙に綴っていたように、もう子どもたちのために尽くすことができなくなるかもしれない悔しさも、美智子さまへの“お別れの電話”で語っていたのだろうか――。「女性自身」2020年4月14日号 掲載
2020年04月03日歌手で女優の宮城まり子さんが3月21日に死去した。各紙によると死因は悪性リンパ腫で、93歳だったという。55年に発表された「ガード下の靴みがき」などのヒット曲で知られる宮城さんは「NHK紅白歌合戦」にも計8回出場した。58年には日本初のカラー長編アニメ映画「白蛇伝」で声優を務め大きな話題に。そのいっぽうで68年、肢体の不自由な子どもたちの養護施設「ねむの木学園」を自ら設立。長年、園長を務めてきた。「ねむの木学園の設立当初、日本には福祉の精神が根付いてませんでした。今でこそ『障害の有無に関係なく、違う者同士で認め合おう』という考えが共有されていますが、宮城さんはそんな理念を半世紀以上も追い求めてきました。いわば障害者福祉のパイオニア的存在です」(全国紙記者)本誌は17年4月、宮城さんに取材をしている。宮城さんは取材で小学校の特別支援学級を訪ねた際、知的障害のある子の教育がないがしろにされていることに疑問を覚えた。また脳性麻痺を持つ少女を演じた縁で、親に捨てられるなどして生活の場や学校教育も与えられていない障害児がいるという悲しい現実も知っていた。そこで「だったら、私がこの子たちのお家を建てよう」とねむの木学園の設立を決意したという。その思いをサポートしたのが作家・吉行淳之介さん(享年70)だ。「昨日今日、言い出したらやめなさいって言うけど、ずっと思い続けていたみたいだから、いいでしょう」と応援してくれた吉行さんはねむの木学園の名付け親であり、学園の理事も引き受けてくれた。2人は籍を入れず、事実婚状態だった。宮城さんは「淳ちゃんと私はとてもいいコンビでした」と回想しながらも、「もし“淳ちゃんの妻”になっていたら、ねむの木学園は続けられなかったと思います」「淳ちゃんの子供を産んでいたら、私たちのベタベタしない、兄妹みたいな、互いを思いやる関係は成り立たなかったでしょう」と明かしていた。「宮城さんは園児たち一人一人に向き合っていました。また礼儀を学ぶために茶道も取り入れるなど、独自の教育方針で常に『何がいいのか』を自問自答。その思いは並々ならぬものでした。また宮城さんにとって吉行さんは初恋の人でもありました。その思い出を糧に、最後まで子供たちを見守り続けたのです」(前出・全国紙記者)産経新聞によると上皇ご夫妻も宮内庁上皇職を通じ、ねむの木学園に弔意を伝えられたという。ネットでは、宮城さんの功績を讃える声が上がっている。《ねむの木学園の展覧会や映画で活動を知り、障害に対する見方を様々に変えてくれた方です》《世の中に尊敬すべき役者がいるとすれば、彼女を指すのでしょう 優しさと強さを併せ持った素晴らしい方でした》《上皇様ご夫妻のご弔意が故人の人柄と業績を物語っておられると感じました。ご冥福をお祈りいたします》
2020年03月24日普通のおばあちゃんなのに、なぜか応援したくなる。おざわゆきさんの『傘寿まり子』は、そんな80歳のおばあちゃんを描いた作品です。ひょっとしたら、現代に生きるおばあさんのことを誤解していたかもしれない。おざわゆきさんの『傘寿まり子』を読むと、反省の意味も込めてそんなふうに思ってしまう。「私の周りには母を含めて高齢の方がわりと多く、仲間みたいな感じで接していたので想像しやすかったんです。今のおばあさんは昔と違ってどんどんおしゃれになっていますし、気持ちも若くなっている。そういう意味でも、より多くの方が興味を持ちやすいテーマかなと思いました」おざわさんいわく「達観しつつ、欲もある」のが現代のおばあさん。「80代にもなると、高齢者という意識を持ち始めてから長い年月が経っています。人生どうなるかわからない不安を散々経験しながら、かといって自分のやりたいことも捨てきれないんじゃないかって思うんです」80歳で作家のまり子さんは、4世代同居で居場所がなくなり、家出を決行。一応仕事があるので、ひとりでも暮らしていけると高をくくっていたが世間はそう甘くない。それでもめげずに自らの足で立っていこうとするのだが、見ず知らずの人を無闇に信じることが難しい世の中でバカ正直なくらい人を信じ、結果、人とつながっていく様が気持ちいい。「絶望的な状況に陥ったとしても、それを真正面から受け止めず、うまい具合に回避して、自分なりに解決できる方法があるかもしれない。まり子さんはひとつずつこういうふうにやり過ごしているんだ、と思ってもらえるように描いています」聖人でもスーパーおばあちゃんでもないまり子さんを応援したくなるのは、希望的観測も含め未来の自分と重ね合わせてしまうからなのか。「たとえば30年後の私は、今の私がシフトするだけで中身は変わっていない気がします。高齢者という名前になっても私は私であり、最後の瞬間まで自分の人生なんですよね」『傘寿まり子』80歳のベテラン作家・まり子さんが、家出をしてネットカフェに居座ったり、初恋の人と同棲をしたりしながら、人生を切り拓いていく勇気溢れる物語。講談社各580円おざわゆきマンガ家。母親の戦争体験をモチーフにした『あとかたの街』(全5 巻)と『凍りの掌 シベリア抑留記』で第44回日本漫画家協会賞コミック部門大賞を受賞。※『anan』2017年8月2日号より。写真・水野昭子(本)インタビュー、文・兵藤育子(by anan編集部)
2017年08月01日