遊んでほしい次男は、いつもお兄ちゃんにちょっかいを出していました。相手にされないと、今度は長女のところへ。前までは長女も黙って我慢してたのですが……。1歳2か月頃からの長女は、もたれかかる攻撃をしてくる次男を足で蹴り返して、ソファから落とすようになりました。でも「きゃあああ」と言いながらオーバーアクションで落ちていく次男を見て、長女はケラケラと笑ってました。やっぱり次男は、長女と遊ぶのが一番上手でした。次男と遊んでいるときは、ケラケラとよく笑っていましたよ。
2021年03月11日2人の息子がいるシューフ(@shuerff)さんは『忘れられない光景』についてTwitterに投稿。反響を呼んでいます。ケガをした弟に兄が…長男が7歳、次男が4歳だった頃のこと。ある日、夕食前に次男が頭から落ちて大ケガをしたことがあったそうです。すぐに救急車を呼び、次男は搬送。長男と義母に家で待機してもらい、投稿者さんも病院に付き添いました。処置が終わり、次男とともに帰宅した投稿者さんは、食卓を見て笑顔とともに涙が出そうになったといいます。次男がいつも座る席の前に置いてあったものは…。次男に救急車呼んだ時のこと思いだした。当時4歳の次男が頭から落ち大量出血して救急搬送、長男(6)と義母が家に残った。夕飯前で、支度は済んでこれから食べようというときだった。処置でかなり時間がかかりやっと帰宅したら、食卓の次男の席には長男が作ったおにぎりが山盛りに置いてあった。— シューフ (@shuerff) September 8, 2020 長男が次男のために作ったおにぎりでした。※写真はイメージ小さな手で握られた不格好な海苔おにぎりが、いつも使っている次男のお皿に、こんもりとのっていたそうです。義母に話を聞くと、長男は自分のご飯を食べずに「次男ちゃん、きっとお腹が空いてる。おにぎりなら大好きだからいっぱい食べれるから」と話し、一生懸命おにぎりを握っていたとのこと。その時の食卓の光景を、投稿者さんは今でも忘れられないとつづっていました。弟を想う兄の優しさに、ネット上でも感動の声が多数寄せられています。・これから仕事なのに目から汗が…。お兄ちゃん優しい。・うちも2歳差兄弟です。今、1歳と3歳でわちゃわちゃしてますが、いつかそんな優しい風景を見たいです。・弟を心配して不安な気持ちや、早く元気になってほしい気持ちがいっぱい込められていたのでしょうね。感動しました。・とても素敵なお子さん達ですね。優しい話に癒されました。ちなみに、次男は頭を2針縫うほどのケガでしたが、帰宅後はケロっとしていて「お兄ちゃんのおにぎりおいしい!」とパクパク食べたそうです。心配していた長男は、弟が元気におにぎりをほおばる姿を見て、さぞかし安心したことでしょう。子供の純粋な愛情を感じるエピソードに、心が洗われますね。[文・構成/grape編集部]
2020年09月11日■布団戦争、勝利したのは…!?「きゃーー」というすごい声。やはり、ももが痛い目にあってしまったか!? と思いましたが痛い目にあっていたのは、なんと次男のほうでした。ももの足が思いっきり、次男のほっぺに。長男はひとり安全なところで2人の様子を「遠い目」で見つめていて、個人的には、それがすごくおもしろかったです。
2020年09月10日女優として、映画やドラマ、CMなどでマルチに活躍している杏(あん)さん。実の兄も俳優として活躍しており、数々のドラマや映画に出演しています。そんな杏さんの兄の名前や出演ドラマ、仲のよさがうかがえるエピソードなど、さまざまな情報をご紹介します!杏の兄は俳優・渡辺大出演ドラマは?杏さんの兄は俳優の渡辺大(わたなべ・だい)さんです。2人の父親はハリウッド映画にも出演している俳優の渡辺謙(わたなべ・けん)さんで、親子そろって役者として活躍しています。イケメンな父親と美人な妹を持つ渡辺大さんも、もちろん容姿端麗!自身のインスタグラムでその姿を公開するたびに、「かっこいい」「素敵!」とファンを喜ばせています。※画像は複数あります。左右にスライドしてご確認ください。 この投稿をInstagramで見る 銀座一丁目にあるダンヒルのパーティーに参加してきました!森保サッカー日本代表監督にもお会い出来てドキドキでしたアパレルだけではなく、バーや理容院もあってビックリです!僕はシェービングを体験させていただきました、ツルツル… #dunhill #森保ジャパン #バーバーもあるよ #バーもある #着こなせるようになりたいですね 渡辺大 (@dai_watanabe0801)がシェアした投稿 - 2019年 4月月26日午前7時58分PDT父親に似て、鼻が高く目が大きい渡辺大さん。身長185cmという日本人離れした体格にも、見とれてしまいますね。デビューして以来、俳優として活動している渡辺大さんは、数々のドラマに出演しています。デビュー作は2002年に放送された時代劇『壬生義士伝~新撰組でいちばん強かった男~』(テレビ東京系)。同作では父である俳優・渡辺謙さん演じる吉村貫一郎の青年期役として出演しました。2003年には大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』(NHK)に豊臣秀頼役で出演。以降も大河ドラマ『功名が辻』や『足尾から来た女』、『独眼竜花嫁道中』、『一路』、『鳴門秘帖』などのNHK制作の時代劇に多く出演しています。 この投稿をInstagramで見る 明日からNHKBS時代劇「鳴門秘帖」がスタート!毎週金曜夜8時から!僕は法月弦之丞を追いかける天童一角を演じます! #鳴門秘帖 #NHKBS時代劇 渡辺大 (@dai_watanabe0801)がシェアした投稿 - 2018年 4月月18日午後10時11分PDTこのほかにも2009年放送のドラマ『臨場』(テレビ朝日系)や2015年放送の『永遠の0』(テレビ東京系)、『遺産相続』(テレビ朝日系)、2018年放送のドラマ『明日の君がもっと好き』(テレビ朝日系)といった話題作に出演。 この投稿をInstagramで見る 「明日の君がもっと好き」クランクアップしました!志田未来ちゃんと同時のアップでした〜、ドラマ中ではクセの強い夫婦をやらせていただきました(笑)どんな結末を迎えたか、、、お楽しみに! #明日の君がもっと好き #クランクアップ #志田未来ちゃん #クセがすごい夫婦 渡辺大 (@dai_watanabe0801)がシェアした投稿 - 2018年 2月月18日午前3時29分PSTさらに、同年に放送されたドラマ『ヒモメン』(テレビ朝日系)では俳優の川口春奈さん演じるヒロイン・春日ゆり子の幼馴染み・松平鷹彦役を担当し、主人公2人の恋路を引っかき回す役どころに挑戦しています。 この投稿をInstagramで見る ⠀ \\渡辺大さんオールアップ//⠀ ⠀ 「最終回にゲストとして出させてもらって本当に光栄でした!返しで笑いをこらえるのが辛かったくらい腹抱えて笑った現場でした。どうもありがとうございました!」と挨拶し、撮影を振り返りました⠀ ⠀ #松平鷹彦役⠀ #渡辺大 さん⠀ #お疲れ様でした㊗️⠀ #土曜ナイトドラマ⠀ #ヒモメン⠀ #最終回放送まであと4時間‼️⠀ #第7話⠀ #9/8(土)よる23時15分~ 【公式】ヒモメンテレビ朝日公式アカウント (@himotvasahi)がシェアした投稿 - 2018年 9月月8日午前3時15分PDT同じく2018年に放送されたドラマ『中学聖日記』(TBS系)では、俳優・有村架純さん演じるヒロイン・末永聖に密かに恋心を寄せている小学校の同僚教師・野上一樹役で出演。優しさの塊のような存在感のある演技で、視聴者の目を釘付けにしていました。 この投稿をInstagramで見る 中学聖日記、夜10時からTBS系にてオンエアです!僕は野上という小学校の教師をしております。どうストーリーに関わっていくか…ぜひご覧ください! #中学聖日記 #TBS 渡辺大 (@dai_watanabe0801)がシェアした投稿 - 2018年11月月13日午前4時40分PST この投稿をInstagramで見る 3年後。新たな出会い。予期せぬ再会。来週も見逃せません! #tbs #火曜ドラマ #中学聖日記 #有村架純 #岡田健史 #町田啓太 #マキタスポーツ #友近 #渡辺大 #村川絵梨 #吉田羊 #夏川結衣 #火曜 #第7話 #11月20日 #放送時間が違います #よる10時20分スタート TBS10月火曜ドラマ「中学聖日記」 (@chugakuseinikki_tbs)がシェアした投稿 - 2018年11月月14日午後1時17分PST この投稿をInstagramで見る 明日はいよいよ第8話。 小宮第一小学校に、大事件勃発⁉️ #tbs #火曜ドラマ #中学聖日記 #有村架純 #岡田健史 #町田啓太 #マキタスポーツ #友近 #渡辺大 #村川絵梨 #吉田羊 #夏川結衣 #火曜 #第8話 #11月27日 #よる10時 #明日 #小宮第一小ティーチャーズ TBS10月火曜ドラマ「中学聖日記」 (@chugakuseinikki_tbs)がシェアした投稿 - 2018年11月月25日午後8時49分PST紹介した以外にもさまざまな役どころを演じ、着実に演技力を磨いている渡辺大さん。さらなる活躍に期待が集まっています。杏と兄・渡辺大は仲よし!、趣味も一緒?渡辺大さんは2010年5月27日にツイッターを更新。ファンから寄せられた「兄妹仲はいいですか?」という質問に回答しています。普通の兄妹とかわんないっすかね〜。RT @se178 @daiwatanabe 大君は妹の杏ちゃんと仲いいですか?★— 渡辺大 (@daiwatanabe) May 27, 2010 「普通の兄妹と変わらない」といいつつも、2人は大の仲よし!2016年9月19日には妹の杏さんからもらったという英語の辞書を嬉しそうに公開しています。妹から届いた英語の辞書。お互いいくつになってもこういう物ではしゃいでいます。 pic.twitter.com/MmLV3uA1YH — 渡辺大 (@daiwatanabe) September 19, 2016 兄妹そろって『スター・ウォーズ』にハマっているのでしょうか。互いに大人になっても、好きなものではしゃぎあえる関係性はとても素敵だと思います。杏、兄の結婚と、子供が生まれることをばらす杏さんがトークバラエティ番組『徹子の部屋』(テレビ朝日系)に出演した際、公式発表前に、兄・渡辺大さんが結婚し、さらに子供がうまれることをバラしてしまい、大きな話題になりました。兄が結婚したことがよっぽど嬉しかったのでしょう。このエピソードを聞いただけでも兄妹仲がよいことが分かりますね。その後、渡辺大さんと妻との間には第1子となる長男が誕生。続けて、第2子となる女の子も生まれ、2児の父親として育児に奮闘しています。そんな渡辺大さんも2015年10月29日に『徹子の部屋』に出演。子供たちには非常に甘くて子煩悩な父親であることを明かしています。美男美女の家系の血筋を引いているため、子供たちもきっと容姿端麗なのでしょう。いつか親子でテレビ出演してほしいと期待してしまいます!杏プロフィール生年月日:1986年4月14日出身地:東京都血液型:A型身長:1743所属事務所:トップコート2001年に、ファッション雑誌『non-no』の専属モデルとしてデビュー。その後、海外のファッションショーでも活躍し、『パリ・コレクション』にも出演するなど人気モデルとして活動する。2007年には、ドラマ『天国と地獄』(テレビ朝日系)で女優デビュー。以降もドラマ『華麗なるスパイ』(日本テレビ系)や『サムライ・ハイスクール』(日本テレビ系)など、数多くの作品に出演し、演技の幅を広げる。2011年放送のドラマ『名前をなくした女神』(フジテレビ系)でドラマ初主演を務め、話題に。一方でバラエティ番組にも出演し、2012年からはバラエティ番組『ぐるぐるナインティナイン』(日本テレビ系)の人気コーナー『グルメチキンレース・ゴチになります!』にレギュラーとして出演している。その後も、ドラマ『花咲舞が黙ってない』(日本テレビ系)や『デート〜恋とはどんなものかしら〜』(フジテレビ系)など、数々の作品で主演を務め、実力派としての地位を確立している。[文・構成/grape編集部]
2020年08月27日俳優として活躍している小栗旬(おぐり・しゅん)さん。実は兄も俳優として活動していたことがあり、現在は会社経営を行っています。そんな小栗旬さんの兄が映画監督志望だったことや、テーマパーク『ムーミンバレーパーク』との関係など、さまざまな情報をご紹介します!小栗旬の兄も俳優! 映画監督を目指し、現在は社長?小栗旬さんの兄は小栗了(おぐり・りょう)さんといいます。小栗了さんも俳優として舞台や映画で活動していたこともあり、兄弟そろって「イケメンすぎる」と話題に!こんなご時世ですが、コミュニティーFMで番組やります。15日の水曜日、夜22時から「水曜夜の小栗了」です。えー、なかなかテンパった感じのする一回目なので、お時間あったら聞いてみてください。ネットで聞けるそうです。ご視聴は→ #発するFM #小栗了 #ラジオ番組 pic.twitter.com/idaIjCdZUC — 小栗 了 (@RyoOguri) April 13, 2020 そんな小栗了さんは1976年9月5日に東京都で誕生。1995年に映画監督になるべく、アメリカに渡っています。2001年には役者として活動するため、帰国。その後、演出家・蜷川幸雄(にながわ・ゆきお)さんの舞台や、スティーヴン・セガール主演の映画などに出演しています。2006年に俳優を引退し、オペラ制作会社の『アートクリエーション』に入社。2007年からは同社の制作部門が独立する形でイベント制作会社『NAC』の取締役に就任しました。同年に日本スタッフ代表として『シルク・ドゥ・ソレイユシアター東京』の立ち上げに貢献。2020年現在も代表取締役社長として、企業イベントの企画や演出、制作、進行やアクロバットショー、格闘技、演劇、クラシックコンサートの演出などマルチな活動を展開しています。小栗旬と兄、『鋼の錬金術師』で共演!小栗旬さんは2005年に公開されたアニメ映画『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』で声優に挑戦。同作では兄の小栗了さんとの共演が実現し、2人並んで公開アフレコ取材に臨んでいます。左から小栗了、小栗旬 2005年小栗旬の兄とムーミンバレーパークの関係って?小栗了さんは、2019年3月16日に埼玉県飯能市にオープンしたテーマパーク『ムーミンバレーパーク』で行われる、ショーやアトラクションの演出を手がけています。同施設はムーミンシリーズの世界感とオシャレな北欧のライフスタイルを満喫できるとあって、子供だけでなく大人の間でも人気に。また、現地にもとからある湖や山を施設に取り入れているため、自然美に囲まれた風景も楽しめると多くの人を癒しています。ムーミンバレーパーク紹介そんなムーミンバレーパークの目玉である、『エンマの劇場』で行われるショーの演出や脚本を担当している小栗了さんです。ムーミンバレーパークの新しいショーの演出と脚本担当させてもらいました。「勇気を知った少女」楽しんでもらえたでしょうか?こんな時だからこそ、なにか質問や聞きたいことがありましたら、答えられる範囲で答えようかと思います。批判もwelcome! #ムーミンバレーパーク pic.twitter.com/5NNbxthuG3 — 小栗 了 (@RyoOguri) March 28, 2020 ここでは『Sound AR』という最新の音響技術を使用。これまでにない臨場感やサウンドが味わえるとあって、ムーミンファン以外の間でも話題になりました。そんなアトラクションを完成させた小栗了さんは、次のようにコメントしています。昨今、体験して経験するアトラクションは増えていますが、体験して経験して感動を残せているものは少ないと思います。このSound ARはムーミントロールの成長譚として、一緒に経験していただき、ムーミンが感じた気持ちを共有してくださったらありがたいです。想像力をフルに活用して楽しんでいただけたらと思います。ムーミン公式サイトーより引用また、自身のツイッターでは『ムーミンバレーパーク』に関するさまざま情報を投稿。今の相方。ムーミンバレーパーク、埼玉県飯能市に3月16日オープン!ぜひ、来てね! pic.twitter.com/Z4hqv8ktP5 — 小栗 了 (@RyoOguri) January 16, 2019 ムーミンバレーパーク、本日オープンしました。二ヶ月半のムーミン谷での仕事は自分にとって本当に勉強になる時間でした。関わって頂いた皆様、ありがとうございました。後は、観に来ていただける方々が喜んで、楽しんでもらえたら幸いです。 pic.twitter.com/4iyi1nbTOR — 小栗 了 (@RyoOguri) March 16, 2019 『ムーミンバレーパーク』での仕事は、小栗了さんにとってかけがいのない財産になったのでしょうね。小栗旬の父も舞台監督 小栗家は演劇一家?小栗旬さんと小栗了さんの父親は、舞台監督の小栗哲家(おぐり・てつや)さんです。小栗哲家さんは年末に行われる合唱イベント『サントリー1万人の第九』で舞台演出を務めており、2017年の大阪城ホールで行われた同イベントでは、息子・小栗旬さんと初の親子共演を果たしています。この時、小栗旬さんはシラーの詩を日本語に翻訳した『よろこびのうた』を朗読。終了後は「とても楽しかったです」と興奮した様子を見せ、父親の仕事ぶりを高く評価しています。いつか小栗了さんも、このイベントに参加し、親子で活躍する姿を見せてほしいですね。小栗一家のさらなる活躍を楽しみに、これからも応援しています!小栗旬 プロフィール生年月日:1982年12月26日出身地:東京都血液型:O型身長:1843所属事務所:トライストーン・エンタテイメント幼少期の頃から児童劇団に入団し、子役として活躍。ドラマ『GTO』(フジテレビ系)に出演し注目を集めると、以降『池袋ウエストゲートパーク』(TBS系)や『ごくせん』(日本テレビ系)、『花より男子』(テレビ朝日系)など数々の人気ドラマに出演し、ブレイクを果たす。また、『宇宙兄弟』や『銀魂』、『追憶』『人間失格 太宰治と3人の女たち』などの映画でも存在感のある演技を披露。日本を代表する俳優の1人として活躍を続けている。小栗旬が『離婚危機』をキッパリ否定! 妻・山田優との関係性は?[文・構成/grape編集部]
2020年08月20日3人の男の子を育てながら漫画を描いている、まりげ(@marige333)さん。ある日、次男のぽんちゃんと三男のさんちゃんを連れ、公園に遊びに行きました。夕方になり、そろそろ帰宅しようと2人に声をかけたものの、さんちゃんはまだ帰りたくない様子だったのだとか。すると、弟想いの兄は…。【 帰宅拒否。兄の心、弟知らず 】(4枚)末っ子、自由過ぎ pic.twitter.com/kMXpCg6Ot4 — まりげ (@marige333) August 4, 2020 母親の「置いて帰っちゃいますよ」という言葉を真に受けた兄。「かわいい弟を置いていくことなんかできない!」と母親に訴える兄に、ほほ笑んでしまいますね。投稿には、さまざまな声が寄せられています。・ぽんちゃん、かわいすぎます!・うちの長男も同じようなことをするので笑ってしまいました。弟のことがかわいくて仕方ないみたいです。・我が家は兄弟ゲンカばかりするので、うらやましすぎます…。「弟を置いて行かないで」と訴える兄を横目に、1人で走り続ける弟。自由奔放な弟が、兄の優しい気持ちに気付く日が待ち遠しいですね。[文・構成/grape編集部]
2020年08月05日優しい飼い主さんと暮らす2匹の犬、8歳のローマンと6歳のスパンキー。2匹は初めて会った瞬間からすぐに仲よくなり、今では本物の兄弟のようにいつも一緒に過ごしています。 この投稿をInstagramで見る @roman_spankyがシェアした投稿 - 2014年 5月月11日午後12時53分PDT海外メディア『Bored Panda』によると、飼い主さんはある日、ローマンの耳が腫れているのに気が付いたのだそう。動物病院で診てもらったところ、耳に血腫ができていて手術が必要だということが分かったのです。 この投稿をInstagramで見る @roman_spankyがシェアした投稿 - 2019年12月月27日午前7時29分PST手術が2週間先まで予約できなかったため、その間に耳の腫れが悪化してしまい、ローマンはだんだんと元気がなくなってきたのだとか。またスパンキーはそんなローマンを見て、とても心配するようになったのだそう。そして手術の5日前、ローマンの体調を心配した飼い主さんは室内に監視カメラを付けて、自分が不在の間も犬たちの様子を確認することにします。すると…カメラに信じられない光景が映っていたのです。 この投稿をInstagramで見る @roman_spankyがシェアした投稿 - 2020年 6月月28日午前6時32分PDTカーペットの上に横になっているローマン。するとスパンキーがベッドを引きずって彼のそばに持ってきてあげたのです。それから2匹はぴったりと寄り添って眠っていました。感動した飼い主さんの姉妹が動画をSNSに投稿するとたちまち拡散され、多くのコメントが寄せられています。・なんて優しい子。涙が出たわ。・彼らはこの星でもっとも賢くて愛情深い生き物だ。・兄弟愛だね。普段から2匹は遊ぶ時も眠る時もいつでもそばにいるのだそう。きっとスパンキーはローマンの具合がよくないことに気付き、少しでも助けてあげたいと思っているのでしょう。 この投稿をInstagramで見る @roman_spankyがシェアした投稿 - 2017年 2月月5日午後5時43分PST『Bored Panda』によるとローマンの耳の手術は無事に終わり、術後の経過も良好だとのこと。今では耳の不快感がなくなり、すっかり元気を取り戻したそうです。よかったですね。ローマンの手術の後も、スパンキーはずっと彼のそばに寄り添っていたといいます。体が健康でない時は心も弱くなってしまうものです。そんな時に優しい弟犬のサポートは、ローマンにたくさんの癒しとエネルギーを与えてくれたことでしょう。[文・構成/grape編集部]
2020年07月13日2020年7月9日放送のトーク番組『徹子の部屋』(テレビ朝日系)に、お笑いコンビ『品川庄司』の庄司智春さんが出演。司会の黒柳徹子さんに読み上げられた、母親からの手紙の内容に驚く声が上がっています。庄司智春の兄の身に起きた、夏休みの悲劇アイドルグループ『モーニング娘。』の元メンバーである藤本美貴さんと結婚し、3人の子供に恵まれた庄司さん。子育てのエピソードに続いて、お笑いの道に進んだ経緯を黒柳さんに話しました。番組の終盤になると、徹子さんは庄司さんの母親から預かった手紙を代読。感謝の言葉とともに書かれていたこととは…。智ちゃんへ今日はいつもは口に出せない感謝の言葉を伝えたいと思います。智ちゃんが大好きだったお兄ちゃんがたった11歳で亡くなり、家の中が暗くなった時は、末っ子のあなたがいつも家族を笑わせようとしてくれていましたね。そしてもうひとつ。私たち夫婦が海外旅行に行ったことがなかったので、結婚式をハワイで挙げてくれましたね。本当に楽しかったです。嬉しかったですよ。美貴ちゃんにも感謝ですね。とにかく、病気せずに元気でいてください。母、久美恵より徹子の部屋ーより引用手紙につづられていたのは、庄司さんが小学4年生の時に起こった悲劇。小学6年生だった兄が夏休みに学校のプールで倒れ、亡くなったことについて触れていました。手紙の内容に耳を傾け、「明るくしようとテンションを上げていた感じはある」と当時を振り返った庄司さん。お笑いタレントになったルーツには、きっと兄の影響もあるのでしょう。また、庄司さんは「この世界に入る時もたぶん、両親的にはあんまり賛成ではなかったと思うんですけど、やっぱり兄が若い時に亡くなっているんで、好きなようにいかしてあげたいなという想いはあったのではないか」と語りました。【ネットの声】・まったく知らなかった。幼少期からつらい思いをされて大変だったと思う。・自分もどん底の気分だったろうに…人のために振る舞える人って素敵。・強い人ですね。応援したくなりました。家族を亡くした心の傷は、いつまでも痛み続けます。もしかしたら、心に傷がつく前と同じ状態まで癒えることはないのかもしれません。しかし、失った時の痛みを知るからこそ、『大切な人たちとともに過ごす時間の尊さ』を理解できるということも。愛妻家で知られる庄司さんの家族愛の深さに、多くの人が納得しました。[文・構成/grape編集部]
2020年07月12日お兄ちゃんたちの遊ぶ声が聞こえると、すぐにももがハイハイしながらいくんです。しかも、私が料理をしていて手が離せないときに限って…。■兄たちが遊んでいるとこに妹が乱入たくとりくが、折りたたみマットレスで遊んでたのは知ってたので「危ないから! まだ小さいから!」「やさしくしてあげてねー!」「ももは挟んだらだめよ!」ってキッチンから叫ぶんですが、5歳と2歳。全然安心できないですよね。子どもたちの遊んでる和室はキッチンのすぐ後ろなので、首をのばせば見えます。でも楽しそうな声が聞こえてきても安心できなくて、すぐに料理の手を止めて見にいったら…。やっぱりももが挟まれていて、みんなで大笑いしてました。遊んでいたのは、折りたたみができるとても軽いマットレス。たくに聞いてみたら、それがふわっと倒れたところに、ももがいただけだったみたいです。子どもたちみんなきゃっきゃと大喜びで笑ってました。でもわざとじゃなくても、もし上から踏んづけてしまったら危ない…。「私が見てないときはだめだよ」と言って、この日からマットレスを撤去しました。危なっかしいですが、この頃から3人で遊ぶようになりました。気の休まるときのない大変な時期でしたが、すごく楽しかったです。
2020年07月09日事実無根の風評被害を書かれている。遺憾の意を表したい。そんなメッセージとともに、1枚の写真をTwitterに投稿した、こばるん(@428sk1_guardian)さん。一体投稿者さんが受けた風評被害とはなんなのか…それが、こちらです。妹の漢字練習の例文に事実無根の風評被害を書かれている 遺憾の意を評したい pic.twitter.com/HpgJtZGV9p — こばるん@東こばると (@428sk1_guardian) June 24, 2020 兄の成績が悪すぎて、留年した。漢字の『留』を使った例文に、兄の留年という事実無根のネタをチョイスした投稿者さんの妹。先生の「つらい例文ですね…」という赤字が、より一層悲しみをあおります!【ネットの声】・「あまりにも」を入れる、妹の気持ちたるや。・予言の書では…?・どうしてそれを選んだんだ!コメントにもあるように、妹さんが例文として書いた「兄が留年」が実現しないことを願うばかりです…![文・構成/grape編集部]
2020年06月25日ウーマンエキサイトの読者のみなさん、こんにちは!8歳と5歳のやんちゃ兄弟を育児中のなーみんです。子どもが小学生にもなると友達が家に遊びに来たり、逆に遊びに行ったりということがありますよね。我が家も、長男が2年生後半くらいになった頃から、友達が遊びに誘いにくるということが増えました。■長男のお友達が家にくると出てくる“ある問題”家の中にはなるべく入れたくなかった私…。(家の中がキレイじゃないから 笑 )でもお友達と一緒にゲームがしたいなどの理由で少しだけ入れることも。外にゲーム機を持っていかれるよりは、家でやってくれたほうが良いですよね!長男のお友達が来ると必然と次男も一緒に混ざって遊び始めます。何度も遊んでくうちにすっかり長男の友達も自分の友達と思うようになった次男。でも“ある問題”が出てくるようになりました。家遊びに飽きたお兄ちゃんたちは「今度は外で遊ぼうー」と言って外に行こうとするのですが、さすがに次男も~というわけには行かず。そこで引き留めるんですが、これがもう大変で大変で。「じゃあ、みーはママと公園に行こう!」と言ってもダメなんですよね…、お兄ちゃん達と一緒じゃないと。同じ公園に行けばいいことなんですが、そうなると次男も混ざりたがるため遊び方が制限されてしまい長男も不満そうで。長男と次男は3歳離れているのですが、今の時期だとその差が結構大きくて。遊び方もダイナミックになってくる長男に対して次男はまだそこまでついていけません。長男は全力で遊べなくなってしまうので、それがストレスになっているようでした。■長男が思いついた“ある方法”そこで長男が思いついた“ある嘘”。嘘は良くないんですが、時にはついて良い嘘もあると思っています…!長男が友達と遊びに行くときは「学校に行ってくる!」と言っています。そうすると次男もすんなり諦めるんです(笑)嘘をつかれて可哀想だなという部分ももちろんあるんですが、この嘘は許しています。私も子どもの頃に6歳離れた妹と一緒に遊ぶことがあったのですが、やっぱり遊び方も制限されるしストレスに感じてたこともあるので長男の気持ちがわかるんです。兄弟仲良く遊んで欲しいという願いはありますが、友達との時間も大事にしてほしいですよね!来年は次男も小学生になるのでこの嘘は通用しなくなると思いますが、その頃にはもう少し我慢ができるようになってることを願っています!
2020年06月18日強豪校へ行った兄にようになることがモチベーションの次男。楽しそうにサッカーしているけど、チームメイトとのレベル差もあり、最近ではスクールを辞めたいようなことを口にすることも。運動神経あまりよくなく、兄のように強豪校へ進む進路は無理そうだけど、進路についてどう話せばいい?前向きにさせるか、違うことにモチベーションを持たせるか......。と悩むお母さんよりご相談をいただきました。みなさんならどうしますか?今回もスポーツと教育のジャーナリストであり、先輩サッカーママでもある島沢優子さんが、取材で得た知見をもとにお母さんへ3つのアドバイスを送りますので参考にしてください。(文:島沢優子)(写真はご質問者様及びご質問内容とは関係ありません)<<グローブがなく素手でGKを務めた息子。Bチームは面倒見てもらえないのか問題<サッカーママからのご相談>10歳の息子ですが、強豪校に行った兄を目指し、週1だけクラブチーム下部組織のスクールに通い始めました。最初はモジモジしていましたが段々と意欲的になり、今では早く行ってグランドの端っこで仲間とアップしています。楽しそうにしているのですが、たまに「今日は3人に突っ込まれ削られた」など不満を口にします。チームメイトとレベルがかなり違う(息子が下手)のは親もわかっているので、プレーがうまくいかなかったことは仕方ないと思うのですが、息子にとってはスクールでの不満が帰宅してから寝るまで続いている感じです。それに対して私は「サッカーの中での事はサッカーで解決しなさい!」とか「仕方ないよ」としか言えなくて。最近は「所属チームだけでいいかな?」と、スクールを辞めたい様な事も口にします。前向きにさせる様にするには親はどうしたらいいのか悩んでいます。兄は6年時にJrユース合格の為準備としてスクールに通い始めましたが、兄弟で運動神経は全く違う(今回相談している弟は鈍い)ので下部ジュニアユース→他県強豪校という進路は無理そうに思います。ですが、兄の様になる事だけがモチベーションの子に、どうやって進路を話したら良いかも不安がありご相談しました。息子を前向きにさせる方向がいいのでしょうか、それとも違うモチベーションを持たせるのがいいのでしょうか。アドバイスよろしくお願いします。<島沢さんのアドバイス>ご相談いただき、ありがとうございます。お母さんからのメールには、以下のような問いがありました。前向きにさせる様にするには親はどうしたらいいのか。息子を前向きにさせる方向がいいのでしょうか。それとも違うモチベーションを持たせるのがいいでしょうか。いずれも「○○させる」が並んでいます。まずは、お母さんの中から、この「○○させなくては」「○○させるべき」「○○させたい」という欲求を追い出してください。■子どもが自分から頑張るために、親はどうすればいいか私も長男が小学校低学年のころはそんな言葉ばかりを頭に思い浮かべていました。「宿題をやらせるのはどうしたらいいか」「サッカーの自主練をやらせるにはどんな方法があるだろう」ところが、親が「こうさせるぞ!」と頑張れば、頑張るほど、うまくいきません。子どもから「嫌だ!」と反発されたり、渋々取り組んだとしても、しょせん親(他者)から言われてやることなので成果が上がりませんでした。では、どのようにしたか。何十万人もの子どもにサッカーを教えながらコーチたちを導いてきた池上正さんや、脳科学の専門家、成果を上げている教育現場の人たちの話を参考にしました。すべての人が口をそろえておっしゃったのは「放っておけばいい」でした。そして、実際に放っておくと勝手に自分で自分の道を選び、そこに向かって努力を始めました。つまり、成長が始まったのです。したがって、お母さんも次男さんを、まずはほったらかしにしましょう。こうさせたい、などと考える。それはいわゆるコントロールしようとする行為です。前向きにサッカーに取り組んでほしいなら「いつでも応援しているよ。できることがあったら言ってね」とひとこと言ってあとは黙っていればいいことです。「私が干渉したままでは、息子は成長しない」ぜひそのように考えてください。■兄弟であっても違う個体なので、上の子の経験に縛られないようにしようそもそも第一子は、兄姉がないぶん可視化できる見本はないし、親も最初の子どもなので知見、経験がない。それは一見ディスアドバンテージに映ります。が、その実、子どもも親も何かの前例や価値観に縛られることなく、その子らしい道を自由に模索できるアドバンテージでもあると思います。第二子は兄や姉の姿が良くも悪くも見本になり、親のほうも、上の子の経験に良くも悪くも縛られがちです。要するに、比べてしまう。これはストレス以外の何物にもなりません。日本の子育てには「切磋琢磨する」とか「きょうだいで競い合って」という表現がありますが、そうしたいかどうかは子どもが決めることです。ご相談文を読んだだけなので想像の域ですが、ご長男は、おそらく小さいころからサッカーが得意で自分からどんどん取り組んで強豪校への道も自分で選んだのだと思います。したがって、親のほうもただ見守っていればよかったでしょう。ところが、次男は長男とは違う個体です。違っていて当然。でも、親は迷う。お母さんはいままさに「子育ての森」で迷子になっています。■子どもをコントロールしないで見守ることでは、どうするか。以下の三つを参考にしてください。1.コントロールしようとしない。冒頭でも伝えましたが「○○させる」とは考えないこと。「この子、どんな大人になるかなあ」とゆったり構えてください。子育ては、飯の食える一人前の大人に育てることが第一目標です。サッカーで強豪校に行く、名門のジュニアユースクラブに行く。これはプロセスにおける名誉かもしれませんが、実際はあまり重要なことではありません。例えば、本人が生きがいを見つけて気持ち良く人生を歩む。そんな姿を思い浮かべると、サッカーで試合に出られようが出られまいが大したことではない――親はそう思って見守ったほうがいいと思います。子どもはこのことに懸命になるでしょうけれど、親はそのカオスに巻き込まれることなく離れて見守ったほうがいいのです。子どもは必ずや、のちにお母さんがそのような達観した姿勢で置いてくれたことに感謝するはずです。「いろいろうるさくいわずに放っておいてくれて助かったよ」と。2.「言わなきゃ」よりも「聴かなきゃ」「サッカーの中での事はサッカーで解決しなさい!」とか「仕方ないよ」としか言えなくて。とあります。お母さんがおっしゃっているように、どちらの言葉も意味がありませんね。お母さんだけじゃないです。みなさん「親だからきちんといいアドバイスをしよう!」と思い込んで、空回りしがちです。そうではなく、お子さんの話を聴いてあげてください。別にじっくりじゃなくてもいい。「どんな気持ちだったの?」「どう?大丈夫?サッカー、楽しい?」質問をすると、次男君が自分の気持ちと向き合える機会が作れるかもしれません。■子どもの気持ちを親が決めつけていませんか(写真はご質問者様及びご質問内容とは関係ありません)3.兄弟を比べない自分の中で比べたくなります。でも、比べないこと。比べるのなら、いいところを必ず探してあげましょう。お母さんだって、よそのお母さんと比べられると嫌ですよね?子育てがうまく行ってない人の99%が、きょうだいで比べたり、よその子とわが子をよく比べます。「うちはこんなんだよ。Aさんちの息子さんはいいなあ」と。お母さんの言うように「兄の様になる事だけがモチベーション」だとしたら、もしかしたら親御さんの態度も関係しているかもしれません。「サッカー、楽しい?楽しいなら続ければいいと思うし、そう思えないなら違うことをしてもいいよね」と伝えてください。子どもの気持ちを決めつけていないか?子どもの力を信じているか?ご自分の子育てを、少しとらえなおしてみましょう。島沢優子(しまざわ・ゆうこ)スポーツ・教育ジャーナリスト。日本文藝家協会会員(理事推薦)1男1女の母。筑波大学卒業後、英国留学など経て日刊スポーツ新聞社東京本社勤務。1998年よりフリー。『AERA』や『東洋経済オンライン』などで、スポーツ、教育関係等をフィールドに執筆。主に、サッカーを始めスポーツの育成に詳しい。『桜宮高校バスケット部体罰事件の真実そして少年は死ぬことに決めた』(朝日新聞出版)『左手一本のシュート夢あればこそ!脳出血、右半身麻痺からの復活』『王者の食ノート~スポーツ栄養士虎石真弥、勝利への挑戦』など著書多数。『サッカーで子どもをぐんぐん伸ばす11の魔法』(池上正著/いずれも小学館)ブラック部活の問題を提起した『部活があぶない』(講談社現代新書)、錦織圭を育てたコーチの育成術を記した『戦略脳を育てるテニス・グランドスラムへの翼』(柏井正樹著/大修館書店)など企画構成も担当。指導者や保護者向けの講演も多い。最新刊は『世界を獲るノートアスリートのインテリジェンス』(カンゼン)。
2020年06月11日新型コロナウイルス感染症の影響で2020年4月に、緊急事態宣言が発令。学校は休校となり、多くの子供たちが家で勉強をしなければいけませんでした。しかし、同年5月、一部の地域で緊急事態宣言が解除され、学校が再開されたところもあります。3人の子供を育てている、秋山(@Aki8ma_3)さんの長男も早速小学校が始まりました。入学式以来の登校となる長男。「大丈夫かなー」と不安げな様子だったといいます。2歳の次男は、そんな長男の言葉を聞いて頼もしくこのようにいったそうです。にいちゃん、だいじょうぶだ!オレがいるぞ!不安を漏らす兄に対して、勇ましい発言をした次男。しかし、発言直後に次男に大ピンチが!なんと、不安…ではなく、おしっこを漏らしてしまったのです。かっこよく決めたものの、夫に抱きかかえられてその場から退場。ついに小学校の再開が決まった。入学式以来の学校に「大丈夫かなー…」と不安そうな長男(6)の声をそばで聞いていた次男(2)が「にいちゃんだいじょぶだ、オレがいるぞ」って言ったあとにおしっこを漏らして夫に抱えられて退場しました。— 秋山 (@Aki8ma_3) 2020年5月22日 2歳児らしいオチに「かわいすぎるでしょ!」「気持ちは十分に伝わった!」などのコメントが寄せられていました。その場からは退場になってしまったものの、次男に元気づけられた長男はきっと勇気を出して登校することができるでしょう![文・構成/grape編集部]
2020年05月23日こんにちは、けえこです。次男りくは妹のももが大好き。成長するにつれて、だんだんと反応が出てくると次男も楽しいのか、妹と遊びたくて仕方なかったみたいです。ただ、そのとき次男も2歳…。赤ちゃんと一緒に遊ぶと問題も出てきました。■兄妹の遊びをそばで見守る日々…力の加減って難しいですよね。子どもなら、なおさら。楽しいと思ってやってることでも、長女にとっては痛いときもありますよね。無理やり引っ張るつもりがなくても、まだ体がしっかりしていない長女はその勢いで倒れてしまうこともあります。初めは笑っていても、泣いてしまうときもありました。そのときは長女を見せて、「まだこんなにおててが小さいよ。りくと全然違うねぇ。だから、もう少し優しくしてあげてね」と伝えていました。しばらくは気を付けてくれるんですけどね。2歳だし、すぐまた忘れちゃいます。それはもう仕方ない! 私も横で見守っていました。■母が思うよりたくましかった? 長女の反撃次男に遊んでもらってよろこぶ反面、泣くことも多かった長女。「かわいそうかなぁ」と思ったりもしましたが、思ったより強かったです。夜、お兄ちゃんたちが寝静まった後、そーーっと和室に入って、いっぱい攻撃してました。「お兄ちゃんたち、なに寝てるの!? 遊ぼうよ!」と言ってるのか、「昼間はよくもやってくれたな!」って言ってるのか、私にはわかりませんが、強いなと思いました。個人的には、何もしてないのに攻撃されまくる長男たくが気の毒だなと思いました。
2020年04月23日こんにちは、エェコです。ご兄弟がいるご家庭の親御さん、子どもたちはケンカしますか? しませんか?わが家は毎日必ずケンカをしていますが(悲しい…)、そんな兄妹でも強固な絆を発揮するときがあります。今回はそのお話です。■兄妹はいつも喧嘩に小競り合い武田信玄と上杉謙信の戦いか! ってくらい、毎日リビングで小競り合いしています。だいたい語彙力で負けた妹が私に言いつけにきます。兄妹の宿命なのかなんなのか…。もうちょっと歳が離れていたらケンカにならないのかなぁ…。毎日ため息が出まくりです(私の)■おやつのためなら妹をも巻き込む!息子、こういうことで私から「ダメ」って言われると、必ず妹を巻き込みます。こ…こずるい…!!妹も妹で、わかってるのか兄の計略に乗っかります。こっちもこずるいぞ…!■目的が一致したときは仲良く協力…「何か食べたい」「何か買いたい」こういうときの子どもたちの結束力ってすさまじいです。打ち合わせしたワケでもないのに茶番がはじまります。共通の敵があらわれたとき、争ってた国同士が力をあわせて立ち向かう…なんて漫画やアニメでよくみますが、まさにソレ。国盗り合戦もこんな感じだよなぁ~と、ついつい兄妹争いに歴史の凝縮版を見ているような錯覚におちいる母でした。エブリディ、こんな感じならいいのに…そうはいかないのがお約束。でも結束して茶番してるときの兄妹は最高にかわいいんですよ! 思わずニヤニヤしちゃいます…!今はため息が出ちゃうけど、きっと時がたてば懐かしい思い出になるはず!将来大きくなったら子どもたちはこういうささいなこと、覚えてないんだろうな~。私の脳と胸にしっかりと焼き付けて、大きくなったときに思い出話をしてあげたいと思います。
2020年03月01日■年下の子と遊ぶのを楽しみにしている娘■見事なほど瞬時に赤ちゃん返り発動!今まで、一番年下でちやほやされてた娘。前日まで赤ちゃんと遊ぶ予定を自ら立てていたのに、私が赤ちゃんをかわいがったら、瞬時に赤ちゃん返り! 早かったです(笑)そこからグズグズになりましたが、なんとか持ち直して楽しく遊んでました。私と一緒に抱っこしたり、ミルクあげるお手伝いしたり…娘に妹か弟がいたらこんな感じなのかな。ウチは息子と娘の歳が少し離れていて、こういう経験がなかったので新鮮でした。
2019年01月11日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。突然プロポーズをしてきた彼から教えてもらった、忘れていた家族への愛情——。現状の打開策と兄への最善のサポートについて考え直すきっかけになりました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol. 23閉鎖的だった私たちに新しい風聞いてほしくなかったこと、話題にだしてほしくなかったことだと思っていた、兄の話。しかし、本当は誰かと支え合って理解したかったのかもしれない……そう、今なら感じます。両親の陰から見ていただけだった私は、兄の相談を誰にしたら良いのかわからず過ごしてきましたが、彼の親身なメッセージを見てからは大きく気持ちが変化しました。両親も、兄に理解を示してくれる彼に、“家族” として心を開くことができ、長年閉鎖的だった我が家に新しい風が吹き始めたのです。現状を打破するには……?兄は、一時期の暴力的な状態に比べると、本当に穏やかになりました。精神安定剤を飲んではいるものの、病院の回数も格段に減りましたし、テレビを見たり、パソコンで音楽を聴いたりと、何かに集中することができるようになったことも大きな前進です。しかし、今の暮らしを続けるとなると、診断書を提出して障害者手帳の更新をしながら、障害者年金(または、生活保護)を受け取ることになります。医療費のサポートや、交通機関の補助などは大変ありがたいことですが、それが兄の「生きること」に楽しさや嬉しさをもたらすのかといったらそれはまた別の話になるでしょう。私たちは、兄に「生きがい」を持ってほしいと願いました。役割を持つことで “生きがい” を見つけるそこで、彼を含めた私たち “家族” のアイデアは、「人は社会の役割を持つことで生きがいを得る。金銭的なサポートも大切だけど、社会との関わりを少しずつ増やし、精神的な自立を支援することにも注力したほうが良いのではないか?」というものでした。思い返せば、両親は兄が精神安定剤を飲んだり、病院を探したりすることに夢中になるばかりで、社会との関わりに対してサポートすることを忘れていた気がします。閉鎖的になっていたことを反省し、障害を持つ人への雇用があるのか探してみることに……。すると、どうでしょう。例えば、父の知り合いには、大人になってから喉の手術をして声帯を摘出した人がいました。声が出なくなってしまったのですが、パソコンを使った仕事に就くことができて明るく生活されているそうです。また、私の友人の仕事先にも精神的な障害を持つ方がいるけれど、コミュニケーションが必要な接客業ではなく、裏方として荷物を整理する役割についているとのことだったのです。今までは、社会復帰をするなんてまだまだ先……と思っていた両親も、兄ができることから始めてみようと背中を押すことに。そして、兄が働ける雇用先を探し、工場で働くという試みをしました。結果は、1か月という短い期間しか続かなかったのですが、それでも兄にとっては大きな社会的役割を果たせたと思います。すぐに、完全な社会復帰ができなくても、少しずつ自分でお金を稼ぐ能力を身につけることができれば、行動範囲や視野も広がると共に自分に自信がつくのではないか。これからも、チャンスがあれば積極的に探していきたいと思っています。世界でたった一つの “家族” だから大人になるにつれてできる人間関係は、幅広いものです。しかし、本当に自分が困ったときに助け合える関係や、時には言いたくないことも指摘してくれる関係、そして自分の背中を押してくれる関係、心の中に入り込んでくれる関係は、世界でたった一つの “家族” だと私は思います。その “家族” というのは、血が繋がっている・いないではなく、包み隠さず人生を共に歩む「絆」のこと——。それに気づくことができたのは、彼、両親、そして兄のおかげです。©gyro/Gettyimages©ipopba/Gettyimages©Chalabala/Gettyimages©BrianAJackson/Gettyimages
2018年08月07日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。自分の境遇を知られたくない思いから、恋愛どころか男性が苦手になっていったアラサー手前のこと。突然のプロポーズを受け動揺を隠せない私がいました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol.22「君を妻にしたい」——。その男性は出会ってすぐ私に好意を寄せてくれましたが、私は心を開くことはできませんでした。それなのに彼は、突然「君を妻にしたい」とプロポーズしてきたのです。初めは、冗談だと思っていました。出会って早々、まだデートの回数もままならないのに、なぜ急に……? 私のことを何も知らないのに、何を根拠に言っているのか理解できませんでした。おまけに、男性が苦手な私にとって、交際を飛び越えていきなり “結婚” はどう考えても難しい。とはいっても、どうにかしてこの男性不信から逃れたいと答えを探していたのは本当なのですが……。彼の言動は超ストレート。「君は、彼女じゃない。一生のパートナー、妻だと思う」と、本来なら少しずつ意識するであろう “妻” スタートで私のことを考えてくれたのです。毎日届く「人生プラン」に、驚きを隠せなかったその本気さが一番伝わってきたのは、毎日届く長文のメッセージでした。コミュニケーションや気持ちの共有を一番大切にしてくれるのですが、LINEのような短い文章を伝えるツールではなく、パソコンのメールアドレスに「これからの私たちについて」「今後の人生のプラン」「僕の今までの生き方」「心音の好きなところ」など、自分の人生観や仕事のこと、今までの恋愛について、私のどこが好きなのか、そして私たち二人でどんな人生を歩みたいのか。時には、PDFで自己紹介を添付してくれたり、過去にしていた仕事の様子や将来のビジョンをまとめた資料を送ってくれたり……。ここまで、自己開示をしてくれる人がいるんだと思うくらい、包み隠さずに自分のことを話してくれたのです。自分の話をするより、人の話を聞くことで相手は安心するといわれることがありますが、私は逆だと思っています。人の話を聞くより、自分の本音を相手に包み隠さず話すことは、相槌を打つよりエネルギーを必要としますし、話したくないことまで自分を開示することは時として辛いからです。彼は、良い情報だけではなく、自分の人生においての失敗や挫折もたくさん教えてくれました。本当に大切に思っている人にしか話さないような、“辛い経験” をまだ出会ったばかりの私に話し続けてくれました。出張で会えない時でも、毎日長文を送り続けてくれるその行動。「今日はもう帰る」と冷たくあしらっても、「なぜひとりになろうとするの?」と言いながら手を取ってくれたその優しさ——。少しずつ「私を理解してくれるのは、この人かもしれない」という気持ちが出てくるものの、それでも不安はいっぱいありました。曇り顔を察したのか、彼は、私が不安に思っていることや心の内で感じていることを、話してほしいと言ってきたのです。私以上に、私の家族を大切にしてくれた彼おそらく、中途半端に気持ちを探られたり、曖昧なアピールをされたりしていたら、絶対に言わなかったと思います。しかし、あまりにも真剣だということが伝わってきたので、私自身も心を開かなければ彼に申し訳ないと感じ、正直に思っていることをすべて話したのです。「一生支え合えるパートナーができるか不安」「私には、障害を持つ兄がいる」「男性を心から信用することができない」……など、包み隠さずそのまま話しました。そして後日、またいつものように朝起きたら長文のメッセージが届いていたのですが、内容に驚きました。「この前は、たくさん話してくれてありがとう。家族のことだけど、お兄さんはどんな状況なの? コミュニケーションは取れますか? 手話はできますか? 車椅子ですか? ……それとも、ベッドから動けない状態ですか?」そして、障害者施設のことや斡旋サポートのページなど参考になりそうなリンクが貼られていました。彼なりに兄のことを考えてくれたメッセージだったのです。引っかかっていた心のわだかまりが溶けた瞬間このメッセージを見た時、心臓の奥を強く握られたような痛みと共に感じたことは、「ああ、血の繋がっている私よりも、兄に対して真剣に考えてくれている」という現実を直視する彼の強さです。そのメッセージは「私には、障害を持つ兄がいる」ということだけを頼りに情報を探してきてくれた内容で、“手話” や、下半身が不自由な人のための “車椅子” など、精神障害ではなく身体障害についてだったのですが、それでも時間をかけて調べてきてくれたことに胸がいっぱいになりました。気づけば誰にも言うこともなく、心にしまいこんでいた感情——。兄のことを避けるようにしていたことを、血の繋がっていない彼に教えてもらうとは……。恥ずかしさと情けなさと、そして彼の大きな愛が混じり合って、スーッと心の詰まりが溶けていったのです。©andrej_k/Gettyimages©Geber86/Gettyimages©metamorworks/Gettyimages©123ducu/Gettyimages
2018年08月05日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。年齢を重ねるほど、素直な恋愛ができなくなっていった私——。「婚活」という言葉を知りながらも、結婚に対して前向きになれませんでした。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol. 21家庭を持つ責任と、結婚の重み結婚することが女性の幸せである、好きな男性と結ばれて出産し子育てをすることが素晴らしい……。友人の結婚式に出席したり、子ども連れの夫婦を見たりすると、“幸せ” なのは頭で理解できるけれど、いざ自分に置き換えてみると一歩踏み出せない。どこか他人ごととして遠くから眺めている状態が、アラサー近くになっても続いていました。その理由は、小さい頃から繰り広げられていた、“荒れた家庭” が目に焼き付いているからです。高校を退学した兄の担任の先生に深く頭を下げる両親、夜中に帰ってきて騒ぎ立てる兄、精神障害者となった兄に安定剤を飲ませるためにタイマーをかけている母、仕事で疲れているのに休日は兄の病院の送り迎えをする父——。兄のことが疎ましいわけではなく、大事な家族のひとりだと思っています。でも、それらの光景は、私にとって良いイメージではありません。表立っていないだけで、家庭環境に苦労している家族も多いかもしれませんが、私が小学生、中学生だった幼い頃の我が家はとにかく悲惨でした。大人になった今は、自分の家庭は少しだけ稀だっただけ。そう、解釈できているのですが……。本当に、一生寄り添えるパートナーって?私は、両親をとても尊敬しています。元気な自分を保つことができたのは、両親がいつも力を合わせて家庭を守ろうとしていたからでした。もし、あの幼い時に、両親の意見が合わずに離婚していたら、もっと自分の居場所を無くしていたと思いますが、両親はいつも前向きでした。「心音は自分の人生を明るく生きなさい。お兄ちゃんは、お母さんとお父さんの子どもです。何を言われても、怖くなんかないよ。だってお母さんのお腹から出てきたんだから」と、私が想像しているよりも大きな愛で兄を育てていました。そんな両親を見ていると、果たして自分にそんな責任を負えるのか? 何があっても、一緒に助け合えるパートナーが見つかるのかと不安ばかり募ります。学生の時のように、自然体でありのまま恋愛できれば良いのですが、年齢を重ねるほど “傷つきたくない” 気持ちが大きく膨らんでいくばかりだったのです。また、「できちゃった婚」のように、もし、予想しないタイミングで子どもができたらどうやって責任をとったら良いのかわからない、一生のパートナーと確信していない人とは絶対に子どもは作れない。家庭や出産に対して、“幸せ” のイメージより先に “恐れ” が先行している状態に、世間とのズレを自分でも感じていました。男性を避け、「女性専用」を選ぶほどだった大人の恋愛になれば、学生の頃とは違い、明確な告白がなくても良い雰囲気になって関係をスタートすることもあると思います。しかし、曖昧にスタートさせようとする男性に対して、どこまで本気なのか試したり、わざと怒らせるようなことを言ったりして「石橋を叩いて渡る」領域を超えて、叩きすぎて壊してしまうことも多々ありました。そんな、“疲れる恋愛” しかしていなかった私は、「恋愛はめんどくさいし、疲れるだけ」「そんなことなら自分の時間を大切に過ごしていたほうがいい」と深く恋愛をすることを忘れていったのです。両親からも、「心音は、結婚しないかもしれないね」「正解はないから、自由に生きなさい」と私の心情を知ってか知らずか、結婚をすすめることはありませんでした。恋愛に対してひねくれていた私は、男性が言い寄ってきても、「どうせまたこの人もすぐにいなくなる」「好きって言うけど、本当は一瞬だけでしょ?」と勝手に不信感をもって斜めから見ていた気がします。女子大を卒業した後は、気づけば男性がどんどん苦手になっていました。電車やバス、ジムなどはなるべく「女性専用」を選んだり、休日も女友だちと過ごすことが多かったり。または、本当は嬉しいはずなのに、デートで男性に荷物をもってもらうことすら抵抗がありましたし、帰りも家まで送っていくと言われても、「大丈夫、ひとりで帰れるから」と突き放すこともあったのです。私のプライベートを知る親しい人からは、「心音ちゃんって、もしかして男性嫌い?」と核心をついた質問をされることもありました。“嫌いではないけれど、避けてしまう” 自分でも分からないこの男性への接し方は、答えがあるなら教えてほしいと願うばかりでした。心の奥に入ってきた、たった一人の男性そんな男性への不信が強くなるアラサー手前のこと。出会ってすぐに、好意を示してくれた男性がいました。「彼氏はいないの?」「このままずっと一緒にいたい」と。軽い気持ちで声をかけてくるだけの男性に違いないと思った私は、冷たくあしらって社交辞令ですませていました。この人も、きっとすぐにいなくなるだろう。「好き」と簡単に言ってくる男性が信用できなかったので「彼氏はいないけど、もう恋愛をするつもりはない」とまで言って、突き放していた矢先——。なんとその男性は、彼氏彼女を飛び越えて「君を妻にしたい」とプロポーズしてきたのです。©martin-dm/Gettyimages©fizkes/Gettyimages©Mixmike/Gettyimages©flukyfluky/Gettyimages
2018年07月28日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。精神障害者となった兄を献身的に世話してきた両親は、長い年月をかけて現実を受け入れ、ようやく前向きに人生を歩みだしました。いっぽうで私は、人間関係に悩むようになっていきました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol. 20人と人との “距離”ってなんだろう……?精神を病んだ兄に全てを注いできた両親ですが、祖父母の言葉でありのままの現実を受け入れることができ、心にゆとりを持ち始めました。そのことをとても嬉しく思った私ですが、私自身は人間関係に悩むようになっていました。地元にいる時は、自分の意図と関係なく作られる人間関係も、地元を離れると良くも悪くも関係づくりは「自由」です。仕事で出会った人、飲み会で出会った人、友人の紹介で出会った人——。自分のことを正直に話す必要もなければ、相手のことを深く知ることも「自由」。その場限りの人間関係に対して、兄の話をすることは基本的にはなく、「兄弟っているの?」と家族の話題になれば、笑顔で「ひとりっ子だよ〜」と言ったり、「兄がいるけど遠くに住んでいて、まったく会っていない」と言ったりして適当に流していました。小学生、中学生と幼いときの私は、兄に対して「自業自得だ」と酷く不満を感じていましたが、年齢を重ねるにつれて精神的にも少しずつ大人になり、兄のことを責める気持ちは消えていました。しかし、障害を持つ兄の話題をあえて膨らませる必要はないと思っています。それは今でも変わりません。これらの言動は、相手に対して変な心配をかけないための返答であり、“良い嘘” だと感じていただけると幸いです。心の壁が顕著に出るのは、恋愛だった兄の話を具体的に知っている人は、私の周りに今でも少ないです。本当に気心しれた数人のみ。……良くも悪くも、悩んでいたり落ち込んでいたりする姿を極力見せないようにしてきたおかげで、「いつも笑顔で元気な子」「悩みがなさそう」というイメージで生きてこれたと思っています。仕事の人間関係や女友だちの間柄では、そこまで深く悩むことがなかった私ですが、顕著に心の壁が出てしまう時がありました。それは、大学を卒業しても克服しきれなかった、恋愛——。飲み会やデートはたまにすることはあっても、生涯を一緒に歩むことができる男性をイメージすることは、20代後半になってもできませんでした。学生時代の彼以降、何人かとは恋愛関係にありましたが、今振り返っても “作り物の私”。仕事の合間に時々会って、デート。笑顔で写真を撮っては、「また会おうね」と元気にメッセージを送るだけ。彼から距離を詰められると、「最近は忙しいから」「今週は、予定があるから」など、会う頻度をわざと減らすこともありました。「なんか心音って、心を開いてくれないよね」数年一緒にいた彼からは、同棲の話が出たこともありますが「私は、まだ結婚は考えていない」「一緒に住むのは、まだいいや」「自分の時間を大切にしたい」と、言われたら相手が傷つくであろう言葉をわざと言っている自分に薄々気づきながら、素直に恋愛することを避けていました。「なんでそんなに強がるの?」「もう少し、心を開いてほしい」「悩みがあるなら言ってよ」と言われるほど、私の心は殻に閉じこもっていったのです。その時は、ただ強がることしかできなかったけれど、わざと突き放していた本当の理由は、すべてを知られるのが怖かったから。私が兄の立場だったら、家族にこんなふうに思われるのはとても苦痛です。そんな気持ちを抱いてしまうのはよくないことだと思うけれど、相手がどんな反応を見せるのか……。もしかしたら、嫌われるかもしれない。オブラートに包んではっきりとは言わなくても、距離を置かれるかもしれない。自分には、背負いきれないと思われるかもしれない——。誰からもそんなことを言われていないのに、なぜか私は勝手に不安を感じていました。加えて、悩みや弱い部分を知られたら、自分を保てなくなるのではないか? と崩れる精神状態を恐れて、ある一定の人間関係より深くなる瞬間を感じると、突き放す癖が治らなくなっていきました。結婚や子育てのイメージ世の中では、「婚活」がブームになりましたが、幼い頃から兄の世話で苦労していた両親を見ていた私は、「家庭=大変」というイメージがどうしても拭いきれませんでした。もちろん、最愛の人と結ばれて子どもができて、新しい家族とともに幸せな家庭を作ることは、素晴らしいと頭では理解しています。理屈では消化できていても、心がついていかなかったのです。ずっと、ずっと——。©gilaxia/Gettyimages©ljubaphoto/Gettyimages©fizkes/Gettyimages
2018年07月26日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。精神を患った兄につきっきりになってから、気づけば早10年。走り続けた両親に安堵を与えたのは、祖母や祖父の言葉でした。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol. 19“頑張る気持ち” は、どんどん首を締めるばかり兄の状態が変化し始めてから、気づけば10年近くが過ぎていました。母は仕事をやめて、平日は仕事の父も休日は病院に同行。薬の飲み忘れがないようにフォローしたり、病院や薬に頼ることなく模索したり……。それを、10年も続けたのです。「頑張れ」「精一杯行動すれば、なんとかなる」「道は開けるに違いない」——。それらの言葉は、時として本人たちの首を締める言葉にもなります。私は、両親の “頑張り” に誇りを持っていましたが、それ以上頑張り続けたら両親のほうが疲れ果ててしまうと感じたので、これらの励ましの言葉は一切口にすることはありませんでした。まだできる、もっとできる……。この10年の間、私はプライベートを優先する両親の姿を見たことがありません。旅行や遠出の移動は、兄を連れて行くと周囲に迷惑がかかるため極力避けていましたし、兄は当然自炊ができないので、母や父のどちらかがご飯と薬の用意をしなければならず、夫婦でのんびり過ごすということもしなかったのです。また、病院に行くときはオシャレな格好が似つかわしくないからと、地味な服装で医師や看護師に頭を下げる日々……。たまには、好きな服を着て息抜きに旅行をしたって、罰は当たらないのではないか? と思うほど、両親は自分たちの人生すべてを兄に注いでいました。兄のためにも、「前を向いて生活しなさい」そんな時に支えてくれたのは、祖母と祖父の存在です。祖父母の家には、兄を連れていくこともあり、彼らは実際に兄の様子を目の当たりにしていました。そして、両親が思い悩む気持ちを汲み取りながら、親身に相談に乗ってくれることも……。唯一、兄の状況を知っていた祖母や祖父から言われた助言。それは、「お兄ちゃんは、病気です。前を向いて生活すれば良い」という、励ましでもなく応援でもない言葉でした。兄の状況を過度に悲観するのではなく、受け入れてあげること。そして、両親は自分たちの人生を明るく生きなさいという指針だったのです。兄の状況がよくなることを願う気持ちはみんな同じでしたが、“良い意味” で兄を受け入れることが、両親にとって大切なターニングポイントになったと言います。本来なら、仕事をしてやりがいを得ているかもしれないし、最愛の人を見つけて家庭を持っているかもしれない。そんな期待を抱えていたから、大人になった兄の “今の姿” をちゃんと受け止めることができなかった。それが、両親の本音だったのかもしれません。現状をふまえ、少しずつ気持ちを楽にすることで、張り詰めていた “何か” がほぐれていったのがこの時期でした。おそらく、娘の私が同じ言葉を言っても、両親の心境を変えることは難しかったと思います。祖父母だから言える、“本物の助言”。苦しい時に染み入る言葉は、「何を言うか」ではなく「誰が言うか」が大切だと学びました。以前通っていた病院へ戻ることにそして、両親は高額な自費診療をやめて、2つめに訪れた一番兄が落ち着いていた病院へ兄を再び通わせることにしました。いろいろと問題はありましたが、薬の量や体との相性、処方の方向性などを総合し、最も兄に合っていると判断。毎日思いつめていた気持ちが少しずつ穏やかになっていったのです。母は、パートタイムで仕事に復帰。仕事をする意味は、「お金を稼ぐ」ことだけではありません。仕事をすることで、いろいろな人とコミュニケーションが取れ、たわいのない世間話や趣味の会話をする時間を持てるようになりました。植物が好きな母は、花いじりをしたり、休日はガーデニングのワークショップに出かけたり。父は仕事漬けの毎日を少しずつ改めて、休日は早く起きてゴルフをしたり、ピアノを習い始めたりとアクティブに行動し始めました。“自分の時間” が、両親の毎日にやりがいと楽しみを見出すきっかけに繋がったのです。そんな両親の姿をみて、私は嬉しさを感じていました。いっぽうの私は、進路だけでなく、恋愛に対しても悩みを抱えていました。——。明るく振舞うことは得意だけれど、弱さや悩みをさらけ出せる、深い関係を築くことがうまくできなかったのです。©Zinkevych/Gettyimages©CaoChunhai/Gettyimages©AH86/Gettyimages©Ulianna/Gettyimages
2018年06月23日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。精神疾患の兄は薬の量も半分に減り、落ち着きを取り戻したかと思った矢先。両親は、新聞に大きく載っていた自費診療の病院を発見しました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol. 18両親は、誰よりも兄の回復を待っていた兄がお世話になった病院は、今まで2か所。両方とも、保険が適応される精神科でした。高校のある時期から激変した彼の状況に戸惑いながらも、やっと慣れてきた生活でしたが、両親は障害者手帳を発行された後も、兄の回復を諦めませんでした。「お兄ちゃんは、どこも悪くない」「また何かの拍子できっと、よくなる」と……。もちろん、自分の子どものことですから、両親が兄を良くしたいと思う気持ちは痛いほどわかります。しかし、妹の私からすると、当初に比べれば兄の状態はだいぶ落ち着いてきたように思えました。暴力的な言動や、過度の引きこもり生活を抜け、薬の量が半分に減り、入院ではなく通院に変わり病院に行く頻度もかなり落ちている。また、障害者手帳の申請や、障害者年金の受理までしているのだから、両親はもう少し気持ちを楽にしてはどうかと客観的に見ていました。世の中にあふれている「広告」そんなある日、「お兄ちゃんの病院を変えようと思う」と母から連絡がありました。なぜいきなりそんなことを言い出したのだろうか……?と考えていたのですが、よく聞けば新聞に大きく載っていた精神科に最後の望みをかけて診てもらいたいとのこと(当時は、藁をも掴む思いだったので深く考えていなかったけれど、その新聞掲載は記事ではなく広告だったそうです)。私は実家から離れて暮らしていたので、どんな状況だったかはわかりませんが、「都会に有名な精神科があるらしい」と田舎生まれの両親が言うのです。内容を詳しく聞いてみると、その病院は保険がきかない自費診療。実家から電車と新幹線、そして診察代や薬代を合わせたら1回行くだけでも約5万円くらいはかかります。正直、心の病気で悩んでいる人が一向に減らない現代で、自費診療を受けたから何かが急激に変わるとは思えず、私は半信半疑でした。しかし、基本的に、病院のことや薬については両親が決めていることなので、「興味があるなら、行ってみても良いんじゃない?」と反対はしませんでした。診断結果と処方薬が変化し、さらに悪化父が休みのときは一緒に行くこともありましたが、基本的に母と兄の2人で都会の病院へ通うようになりました。2年半近くそこの病院にお世話になりました。病名は、統合失調症ではなく「高次能機能障害」と診断があり、処方内容も異なりました。1回の診察で約5万円かかるので、総合的にみるとかなり高額な費用だったと言えます。結論からいうと、その病院に通って兄の病状は悪化してしまいました。高額な費用がかかったにも関わらず、兄はいつも興奮している状態で、当初の荒々しい兄に戻ってしまったかのよう……。両親が当時を振り返ると、「ビジネスとして成り立っている病院もあると思う」とのこと。もちろん、私たち以外の家族では成功した例もあるかもしれませんし、兄とは診察内容が合わず無念な結果になっただけ。そう思いたいのですが……。夢中になっている両親を救った言葉しかし、働くことができない状況の精神障害患者を対象に、自費診療を家族が長らく続けることは現実的に考えると難しい計画です。また、個人的な意見では、新聞に広告を出す予算があるならば、診察料をもっと良心的な値段に落としてもいいのではないでしょうか。とはいえ、「精神障害」患者を抱える家族にとっては、どんな手段でもいいから改善したい、社会復帰のためになんとかしたい、と辛抱強く頑張るケースは少なくありません。そんな藁をも掴む想いで頑張り続けた、両親を救った言葉。それは、祖母や祖父からの助言でした。©Geber86/Gettyimages©Daniela Jovanovska-Hristovska/Gettyimages©kieferpix/Gettyimages©AH86/Gettyimages
2018年06月07日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。大学を卒業したのち、私は初めてのひとり暮らしを経験。「自分の空間」を作ったことで、ストレスが軽減されていきました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol.17自分を高める時間が、心を強くしていった大学時代の私は、ほとんど家には寝るためだけに帰る生活でした。音大だったので日中の授業はもちろんのこと、放課後や夏休み、GWなどもすべて練習しているか演奏の本番が入っているハードなスケジュール。そして、空いた時間を利用してアルバイト。始発と終電の繰り返しの大学生活では、高校の頃ように、家族や兄について深く考えることも減っていきました。周りの友人は、個性があって自分の関心ごとを極めたい気持ちを持った人々ばかり。先輩や後輩または、外部から派遣されたレッスンの先生も、専門分野のことを中心に生活しています。地元で生活していた時に感じた、人の噂話で井戸端会議をする人たちも少ない。他人の生活を詮索したり比較したりする暇があるならば、自分の技量を高めるためにに時間を費やしていると表現したほうが正しいかもしれません。人は、何かにか夢中になっていたり、関心の高いことがあったりすると、他人に干渉しなくなるのかもしれません。自由な生き方を認めてくれる、両親理解ある両親のもと、大学卒業後の進路は……ずばり「未定」。とはいっても、音楽や芸術の大学を卒業した後に、私のようになるケースは少なくありません。薄々気づいてはいたけれど、楽器を仕事に結びつけることは現実的ではありませんでした。しかし、小学生の頃から身近だった音楽。形にならないからといって、すぐにきっぱりと切り捨てることもできない。また、“趣味” のようにたまに触れるだけというのは、少しずつ技量が落ちている自分を再確認するだけの虚しい時間でした。そして、私は大学卒業後も、生活費を稼ぎながら、細々とレッスンに通ったり演奏したりしていました。良く言えば、“夢見る音楽家”。悪く言えば、“ただのフリーター”。そんな状況でも、両親は「心音の人生だから、好きに生きなさい」「健康でいてくれるなら、それでいい」といつも認めてくれました。「うちは、お兄ちゃんがこんなふうだから、心音が頑張っていることが、お父さんとお母さんの支えだ」と言われたこともあります。実家を離れて、ひとり暮らしをスタートしかし、20歳を超えて、いつまでも甘えているわけにもいけない。大学時代はずっと実家にいましたが、特にあてもないまま大学卒業後にひとり暮らしを始めました。初めての家賃、初めての光熱費。今までは全部両親が支払っていてくれた生活費や、細かい生活用品なども “当たり前” ではなかったんだとひとり暮らしをしてから、やっと気づくことができたのです。ひとり暮らしは大変なこともありましたが、良いことも多くありました。それは、「自分の空間」ができたこと。小学校の時から、朝の目覚めは大抵が兄の騒ぎ声。学校から家に帰ってきても、「薬は飲み終わったのか」「洋服をちゃんと着替えなさい」「お風呂に入りなさい」……そんな、毎日繰り広げられる両親と兄のやり取りは、「自分の空間」をなくすばかりでした。学生時代の醍醐味であろう、友だち同士の “お泊まり会” を経験したこともなかったですし、「うちに遊びにきていいよ」と声をかけることすらできませんでした。高校時代の彼も、「なぜ心音の実家に行ってはいけないのか」と悩んでいたことが、頭をよぎります——。「自分の空間」は、心の負担を減らす私のひとり暮らしは、プライベートを充実させることができたのはもちろんのこと、心の負担がかなり減りました。借りた部屋は、実家から電車で20分程度離れた場所。両親はいつでも来られる距離でしたし、私も帰ろうと思えばいつでも帰れる距離。この “適度な距離” が、私にとって自分を見つめ直す良い機会になったのです。朝は自分の決めた時間に起きることができて、キッチンで料理をしていても危なっかしい兄の姿はない。夜中にお風呂に急に入ったり突然騒ぎ出したりすることもない……。兄から離れて自分の時間を大切にする、という選択をとった私の行動が、「逃げ」「現実逃避」だと感じる人もいるかもしれません。しかし、兄を客観的に見ることができてストレスが減ったのは事実です。両親に余計な心配をかけてはいけない。兄のことは、私から口出ししないほうが良い。そんな暗黙のルールが漂うなか、ひとり暮らしを始めたことで少しずつ自分の居場所を作ることできるようになっていきました。そんな、落ち着きを取り戻したある日、両親は新聞に大きく載っていた高額な自費診療の病院を発見。実家からは電車と新幹線を乗り継ぐ距離の、都心にある精神科でした。©cirano83/Gettyimages©ipopba/Gettyimages©Eva-Katalin/Gettyimages©monkeybusinessimages/Gettyimages
2018年06月01日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。女子大へ進学した私は、自分の関心があることに夢中になる日々。恋愛からどんどん遠ざかっていきました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol.16深くなる関係を恐れて、恋愛を避けていたバイト先が同じで、毎日のようにバイクで送り迎えをしてくれた元彼の前では、素直な自分でした。いつも私のことをサポートしてくれていた、頼れる年上彼氏。しかし、支えてくれることが、少しずつ大人になる私にとって逆に辛いことでもありました。彼のことが、嫌いになって別れたわけではありません。「もう、これ以上踏み込んで欲しくなかった」。これが、本音です。恋愛は、絆が深まるほど、お互いの生活に溶け込むことになります。家が近いから、一緒にいて楽しいから、見た目がかっこいいから。そんな小さなきっかけで始まった幼い恋は、月日が経つにつれて妙なプレッシャーへと変わっていったのです。両親の理解から、好きな分野を学ぶ……地元での青春はそろそろ終わり。自分の進路に向き合って、大学を選ぶ時期には、すっかり彼のことは頭からなくなっていました。両親に進学の相談を持ちかけたときのこと。「就職先は安定したところに」「将来性のある大学を」「結婚をして早く家庭を持ったほうがいい」など、子どもの将来を応援したい気持ちから出てくる言葉を親が子どもに言うことはよくあります。しかし、私の両親は、一度もそういったことを言いませんでした。背景には、心の病を抱えた兄の存在があります。毎日元気で笑顔に過ごしてくれたら、お母さんとお父さんはそれだけで嬉しい。いつもそう言いながら、「心音の好きなように生きなさい」と、私の気持ちを大切にしてくれたのです。私は大好きな音楽を専攻することにしました。一般的に、音楽や芸術関係の大学に進もうとすると、両親から止められるケースが多いのです。なぜなら、将来それを生かした仕事に就きにくいから。音楽や芸術は、目指してもゴールがある世界ではありませんし、学校で専門的に学んでも道が開けるかどうかはまったくの別問題。たとえ技術が高くても、周囲の評価が低ければ仕事にはなりません。当事者は、一生懸命勉強していても「趣味の世界」「お金がかかる遊び」だと、言われることもありました。興味関心が同じ、女友だちが心地よかった音楽という、不安定で先の見えないといわれがちな分野にも関わらず、私の両親は「やりたいことをやりなさい」と背中を押してくれました。それこそ、兄の時と同様に、世間の目はさまざまだったと思いますが、それでも私の味方でいてくれたのです。私は、県外に通う女子大生になりました。その大学は演奏だけでなく、楽器を修理したり、指導したりするなどのユニークな授業が評判で、遠方から学生たちが集まっていました。私は、その新しい環境に出会えたことで、居心地の悪い地元の生活から解き放たれていったのです。学校にいる男性といえば、先生のみ。同級生、後輩、先輩とすべて女子だったので、意識的に男性と交流しなければ恋愛に発展することもない環境は、私にとっては気持ちが楽でした。恋愛? めんどくさい……。たまにご飯くらいなら大学の進路が決まったと同時ぐらいにお別れした彼とは、2年近くはまじめに交際していたと思います。しかし、心の距離が近くなるにつれて苦しくなっていきました。好きな人だからこそ、家族のことが言えない。それを経験した私は、“うわべの恋” が得意になっていきました。合コン? デート? たまに、ご飯……。「華の大学生」とも言いますが、出会いや誘いも多くあるなか、特に本気になることもなく、たまに息抜き程度に遊ぶだけ。早い同級生は、大学在籍中から付き合っていた彼氏と、そのまま結婚というパターンもありましたが、兄のことが心に引っかかっている私にとって、恋人に自分の境遇を理解してもらって “結婚” するなんてことは、想像すらできなかったのです。©PeopleImages/Gettyimages©Professor25/Gettyimages©Bojan89/Gettyimages©skyneshe/Gettyimages
2018年05月22日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。通い慣れた精神科で、まさかの出入り禁止になった兄。バスに揺られて新しい病院へ向かいました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol.15誰にも相談できずに通い続けていた他の患者さんへ迷惑行為を重ねたために「出入り禁止」となった精神科は、兄が初めてお世話になった病院。入院と通院を始めてから、気づけば5年の月日が過ぎていました。その間に前進したことは、病名が統合失調症と判明したことや薬を毎日23錠飲むこと。そして、長らく通った病院から診断書を書いてもらうことで障害者手帳を申請し、重ねて書類の内容から障害者年金(※)を受け取れるようになったことです。※障害者年金は、診断書の内容や生活状況などで国から降りる金額が異なります。身内や近しい人たちにこのような経験をしている人はおらず、相談する先はいつも病院か市役所でした。兄がこのような状態になってからは、誰に相談したらよいのか? 正解はどこにあるのか? と、両親は日々模索したといいます。しかし、兄の病気のことは公にはできないため、家族間で内密にしながら改善方法を探すのは困難を極めました。インターネットやスマホの普及に伴って、たくさんのweb情報が公開されている現代にも関わらず、「精神障害」については触れにくくセンシティブな問題。信頼できる情報を探すことは、非常に難しいことでした。そして、「精神障害」に関する本を読んでも参考にはなるけれど、気軽に相談できるような相手ではなかったり情報元が古かったり……。ましてや同じ病院に通っている家族に聞いても、お互いに悩んでいることは同じなので、解決策はありません。そんな出口のないトンネルを、両親はひたすら彷徨い続けていました。「出入り禁止」が、逆転の発想に繋がる当時は、この「出入り禁止」を言い渡されたことはショックでしたが、今思えば違う医師の意見を聞く良い機会だったと思っています。相談する先がないため、両親は常に病院の方針と医師の言葉に従うだけの日々。「薬を◯錠飲んでください」と言われたら、疑いの余地もなく飲むしか選択肢がありませんでした。しかし、新しく訪ねた精神科で初診を受けたときのこと。病名は同じ統合失調症でしたが、薬の量がなんと1日12錠になったのです。嘔吐や気性の激しいアップダウンに耐えながら、23錠を5年間飲んでいたのにも関わらず、違う医師に診てもらったら半分近くまで薬の量が減少……!母に当時のことを聞いたら、「初めの病院は、薬が強いものが多く出されていた」「その時は相談する相手がおらず、医師の指示に従うしかないと思って鵜呑みにしていた」といいます。セカンドオピニオンの大切さを感じた出来事に変化したのです。病院によって方針がまったく異なるもし、あの「出入り禁止」がなければ、今も診察内容を疑わずに大量の薬を飲み続けていたかもしれない……そう思うと、不安がよぎります。もちろん、右も左もわからない状況の中、病院や医師のサポートのおかげで、いろいろなことが前進しました。しかし、二つ目の病院では薬の量が半分近くになった。これは、兄の体への負担を考えると、減らしたほうが良かったと素人の私たちには思えました。もし、同じように精神科の薬で悩んでいる方がいたら、腰が重たくても違う病院の診察を受けたり、違う医師の言葉に耳を傾けてみたりすることを強くオススメしたいと思います。外科のように、目に見えて切り傷が治っていく様子がわかれば良いのですが、“心の病気はその治っていく様子が見えない” のが難点です。診察後は基本的に、「飲み薬」が出されるのみ。症状が悪化したことを報告しても、また違う薬を重ねて出すだけ。その繰り返しで、どんどん薬の量が増えていくのです。初めての経験で、周囲に相談ができない状況のなか、見たこともない薬の名前をただひたすら飲む……。もちろん、それらが体に合っていて、症状が良くなっている兆しがあれば良いのですが、疑わずに副作用の強い薬を飲み続けるのは、私たちの経験からも一度見直したほうが良いと感じています。大学へ進学した私は、彼への壁が厚くなり……。その頃、高校を卒業した私は、県外にある女子大へ進みました。専攻は、幼い頃から心の支えだった音楽。「家族のことを教えて欲しい」と踏み込んでくる彼氏の言葉に耐えられず、私は彼とお別れを告げて自分のやりたいことに専念し始めます。今思えば、あの彼が唯一 “自然体な私” を知る男性でした。そこから私は、女子ばかりの大学生活を送り、男性と深い距離になることが難しくなっていきましたーー。©AngiePhotos/Gettyimages©Doucefleur/Gettyimages©tommaso79/Gettyimages©tommaso79/Gettyimages
2018年05月16日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。お世話になっていた近所の病院へ勝手に出入りする兄は、気づけば迷惑行為をするようになっていました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol. 14「家からすぐそこ」が逆効果だった田舎だった私の実家は、スーパーに行くのもコンビニに行くのも、徒歩30分はかかりました。近くにあるものといえば、自動販売機と雑貨洋品店くらい。ですから、車がないと生活ができません。そんな環境ではありましたが、母は車を運転できなかったので、遠出をするときや買い物をするときは、いつも父が出向いていました。困ったのは兄の通院です。平日、父は仕事で朝から晩までいないため車を出すことはできません。すなわち、病院はなるべく近い場所が好ましかったのです。幸運にも、近所の精神科は徒歩10分程度。自動販売機の次に近い場所にあったと言ってもいいくらいの距離でした。つまり、兄の通院は「すぐそこ」に行くだけ。これが、母にとってメリットだったのですが、兄にとってはデメリットでもありました。ひとりで勝手に病院に行く兄骨折や切り傷は、「治療が終わればまた元の生活ができる」というゴールがありますが、兄の病気はそういうものではありません。ですから、正直なところ精神科病棟は患者もその家族も、どんよりとしています。私がこうして綴っているように、精神的な病気を持つ人が家族にいると、終わりのないマラソンを走り続けているようなもので、基本的に顔は曇り空。明るく病院内で過ごすのは、難しいことでもありました。さまざまなタイプの精神的な治療を受ける患者がいるなか、兄は必要以上に人に話しかける性格でした。もちろん、精神安定剤を飲んでいるため、本来の兄の性格や本望だったかと聞かれたら答えはわかりません。母が目を離した隙に勝手にひとりで病院へ行き、患者さんに声をかけたり、見ず知らずの女性に電話番号を聞いたり、「たばこをちょうだい」と言ったり。そうしたことが続き、ついに医師からの呼び出しを受け「診察中止と病院の出入り禁止」を言い渡されてしまったのです。飲み込むしかない医師の言葉実家の周りには、もちろん他に精神科はありませんでした。母は、バスや電車を使って兄の通院をサポートしなければならない。どんよりとした空気で居心地は決してよくないけれど、やっと通い慣れた病院。そんな頼みの綱から、まさかお断りをもらうとは……。もちろん、病院側の立場になれば無理もない話で、多くいる他の患者やその家族たちに迷惑がかかるのは好ましくありません。医師からの宣告に、反論する余地はありませんでした。一から病院を探し直すことにそこで長らく通った近所の精神科を横目に、バスや電車でなるべく通いやすくて兄に合うような精神科を紹介してもらうため、県内で有名な大学病院に相談しに行きました。そして、利便性、評判、入院施設の有無などトータルで好印象だった病院を紹介してもらい、切り替えることになったのです。兄と母はバスに揺られて初めての診察へ。新しい病院で緊張しながら状況を話すと、医師の口から思いがけない診察結果が返ってきましたーー。©jsmith/Gettyimages©Михаил Руденко/Gettyimages©tuaindeed/Gettyimages©Milos-Muller/Gettyimages
2018年05月05日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。初めてできた彼氏に家のことを聞かれた私は、いつもの笑顔が消えて言葉が詰まってしまいました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol. 13彼と過ごす時間は特別同じバイト先で働く、4つほど歳の離れた定時制に通う彼。大きなバイクで学校まで迎えに来てくれて、そのまま彼の家で過ごしたり、バイト先のお店まで送ってもらったり。自宅からすぐの距離に住んでいたこともあり、私たちは毎日のように会っていました。彼は、校内の様子は知らないし、私の同級生とも特に接点はない。この距離感が、私にとっては気が楽だったので、普段学校の友人や家庭内では見せることのない、素直に甘えられる “本当の自分” に戻ることができていました。「家族について教えてよ」しかし、行く場所といえば常に彼の実家。私の実家は、友だちですらあがったことがありませんでした。兄が家にいるので、むやみに人を連れていって兄が安易に話しかけたりすることがイヤだったからです。高校生にもなれば、友だちと “お泊まり会” もよくあると思いますが、私の家には1回も呼んだことはありませんし、来て欲しくもありませんでした。とはいえ、1年以上も交際していれば、彼は「なぜ心音は自分を実家に招くことを嫌がるのか」、知りたがるようになったのです。「俺は実家に呼んでいるし、両親や兄弟にも心音のことを紹介してるのに……」と不満そうな顔を見せては、「まあ、いいけどさ」と半分諦めモード。「お父さんが厳しいから、彼氏がいるのは秘密にしたいんだ〜」と、適当に理由を言っては心の中で「お願い、触れないで」と叫んでいました。「俺の兄も、精神安定剤飲んでたよ」けれども、なんで私がそんなに実家がイヤなのか、ふとしたタイミングで言ったことがありました。「実は、私のお兄ちゃんずっと家にいるの」と。詳しくは告げず、「心の病気があって、家にいるんだ」とだけ説明したのです。彼の反応は、「そうなんだ、もっと早く話してよ〜。そんな気にすることじゃないよ。俺の兄も、前精神安定剤飲んでたし」という言葉。少しだけ安心したと同時に、「でも彼のお兄さんは、ちゃんと働いてるじゃん」。正直、精神安定剤を飲んでいたり、精神科にカウンセリングを受けたりという人は、表立って言わないだけで、多くいると思います。障害者手帳を持つまでは至らなくても、心のバランスを保つことが難しく、仕事をしながら精神科に通っている人は決して珍しい話ではありません。でも、私の兄は、働くなんて到底無理。会話でさえも成立させるのが難しいのですから。同じように心の病を抱えていても、彼の兄と私の兄では、雲泥の差がある……。彼との認識のズレに心がチクチク痛みました。……「やっぱり、実家に来ることはやめて欲しいな」という言葉しか出てきませんでした。通院していた病院先でその頃、近所の精神科に通院していた兄は、病院で開かれるデイサービスやイベントにも参加していました。病院に通っている患者はもちろん他にもいます。気さくに人とコミュニケーションしたがる人、自分の殻にこもって人とは接したくない人、家族とは話すけど医師には口を閉ざす人。さまざまな人々がいました。兄は、家から歩いてすぐだったその精神科に、診察やデイサービス以外にも勝手に足を運ぶようになっていきました。そこで、“ある問題”を起こしてしまいます。©petrenkod/Gettyimages©PeopleImages/Gettyimages©kitzcorner/Gettyimages©sudok1/Gettyimages
2018年04月25日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。精神障害者保健福祉手帳の2級を発行された、兄。両親でさえ、この状況を受け入れることに時間がかかりました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol. 12直視できないのは、私だけではなかったこの連載を読んで、兄の凄まじい変化に胸が痛んでいる方もいらっしゃると思います。その胸の痛みは、当時の私たち家族が感じていた紛れもない事実。妹である私ですら、この現実を直視することができずに心をかたく閉ざしていったことを今でも覚えています。そして、両親はさらに苦しい気持ちだったと私は想像しています。なぜなら、障害者手帳が発行された後も両親は、兄のことを周囲に言わなかったからです。この事実を隠していました。冷たく鋭い世間の目唯一両親がこの事実を話していたのは、祖父母と両親の兄弟のみ。本当に近い身内だけが知っていました。両親が仲良くしている古くからの友だちや知り合い、近所の人などは兄がこのような経緯を辿ったことは知りません。「世間体なんて気にしなくても良いじゃん」という意見もあると思いますが、この話をしたことで私たちが得るのは、多くの人からの「かわいそうだね」「大変だったね」と哀れみや同情の言葉だけ。兄が良くなるわけではありません。たとえ遠い身内だったとしても必要以上に兄の話をするのは、余計に私たちがストレスを抱える原因にもなったので、両親もなるべく内密にするようになったのだと察しています。また、よくある “親戚の集まり” のようなものも、兄が迷惑をかける可能性があるため、ほとんどうちにはありません。物心ついた時から結婚式やお葬式、法事などは両親のみが参加。兄は参加しないのが家族のなかでの暗黙の了解でした。“諦めと守り” の意味を理解する兄の回復を切に願っていた両親ですが、明るい兆しは一向に訪れる気配がなく、苦渋の決断をして、障害者保健福祉手帳を申請しました。これは、仕方のない選択でした。しかし、この決断は、デメリットだけではありませんでした。精神障害者保健福祉手帳の2級を発行された兄は、障害者年金として2か月に1回、国から13万円の援助金をもらえることになり、病院の診断や薬代の負担が軽くなったのです。また、交通機関が無料になるなど、地域によって異なるものの、待遇を受けられることに。こうして時間はかかったものの、「障害者」になることを選んだことで、兄を守ることができた。そう考えると、非常に前向きな選択だったと言えることでしょう。今となっては “生活の一部” となっているこの状況も、当時の両親からすると “ギリギリまで諦めたくなかった” というのが本心だと思います。なぜなら、もっと早い段階で障害者手帳を手にすることができたから。8年粘り続けてやっとの思いで申請した。これが、両親の決断だったと思うと、私は深い拍手を送りたいと心から感じています。その頃、私は初めて彼氏ができたこの頃、私は高校生。地元の飲食店でアルバイトを始めた私は、同じバイト先の年上男性と距離が近くなっていました。高校2年生から付き合い始めて、1年半か2年近く一緒にいました。第一希望の高校を落ちた私は、特に楽しみを見いだすことができずにただ通っていた高校生活と、冴えない家庭の間に挟まれて、バイトで元気に働くことが唯一楽しい時間でもありました。家も自転車ですぐ近くの彼。一緒にいる時間が長くなるにつれて、言葉が詰まる質問。それは、「心音の家族って、どんな感じなの?」という話題でした。好きな人に一番聞かれたくないことだったのです……。©laflor/Gettyimages©c11yg/Gettyimages©undefined undefined/Gettyimages©Toru-Sanogawa/Gettyimages
2018年04月18日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。病院通いと大量の薬を飲み始めて、4年近くが経とうとしていました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol. 11他人事のような発言に虚しさを覚える通っていた精神科の先生は、毎日心の病を抱える人たちと接して仕事をしているからか、先の見えない闘病生活に慣れている印象。「ご両親も、あまり肩に力を入れずに過ごしてくださいね」と、言われることもありました。正直、他人と身内では兄の病気に対する思いは雲泥の差です。「『あまり肩に力を入れずに』なんてよく言えたものだな」と、両親が呆れて帰宅することもありました。かつては学校で人気者だった兄が、たまたまこうなってしまっただけ。すぐに良くなる。そう願って両親は、兄に良い影響を与えると聞いたことは全て挑戦していました。薬と病院 “だけ” を頼りにしていても解決する見込みがないので、デトックス効果があると言われる話題のジュース、パワースポットでお参り、サプリメントや料理方法など、とにかく “なんでも” 良いと聞いたことは兄に試す。そんな日々だったのです。「病気」と認めたくない葛藤兄は、高校をやめてから3年間引きこもり、そこから病院に通いだしてもうすぐ5年目に差しかかろうとしていました。気づけば、25歳。周りの同級生は大学に進学したり、就職したり、早ければ結婚して家庭ができていたりと充実している様子です。そんななか、先の見えないトンネルをひたすら歩き続ける兄は、大人になるどころかひとりでは何もできない状態にどんどんなるばかり。薬と母親の付き添いがなければ、何もできません。それでも、「まだ治る」と信じていた両親は、兄に大量の薬を飲ませ、看病をします。「まだ治る」「肩の力を抜いてください」という、両親と医師の相反する言葉は、両者の葛藤を表している言葉だと私は感じます。8年を経て、両親が出した答え入院してすぐに兄の病名はわかったものの、それでもまだ「病気を抱える健常者」。このまま粘っていても、先は見えない。高額な医療費をいつまで払い続けるかもわからない……。治ると信じて戦い続けた結果、両親が下した決断は「障害者手帳」の申請に踏み切るということでした。障害者手帳を発行する手順は、通院していた病院に診断書を書いてもらい、住んでいる市役所に申請。診断書が全てで審査などははありませんでした。兄は、障害者になった障害者手帳には、大きくわけて、身体障害者手帳・療育手帳(知的障害者用)・精神障害者保健福祉手帳の3種類があり、さらに階級が分類されます。私の兄は、統合失調症の診断から「精神障害者保健福祉手帳」に当てはまり、1級〜3級まであるなかの2級。1級から順番に重度の障害と見なされ、国から降りる金額や待遇、保護などが異なりました。今までの入院や通院の様子、飲んだ薬などの診断書から判断されたのですが、兄は一番重度ではないものの、社会の適応が難しく両親のサポートが必要。そして、部屋のなかでは身動きができるが、自己判断できる精神状態ではない。そんな状況からこの結果になりました。自分の子どもがついに「障害者」になった瞬間。この選択をするまでに、8年かかったのです。©wutwhanfoto/Gettyimages©ClarkandCompany/Gettyimages©BrianAJackson/Gettyimages©kaipong/Gettyimages
2018年04月10日“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。大量の薬に不信感を抱いた母は医師に相談すると、思いがけない辛い言葉が返ってきました。文・心音(ここね)【兄は障害者】vol. 10母は精神的な病気について勉強する日々自宅で療養していても、兄は一向に良くならず、費用はかかるけれど、定期的な検査入院を繰り返していました。嘔吐がどうしてもひどい薬についてお医者さんに相談したり、大量に飲む水の対策を考えたり。検査入院をすると、兄の行動を医師が観察することができるので、良い方法だと考えたからです。そして母は、病院や薬、医師だけに頼ることなく、精神的な病気に関して自ら調べるようになっていきました。同じような境遇にいる家族が出している書籍を読んだり、セミナーに参加したり。全く知識がないところから、心の病気がどのように作られるのか、自律神経とは何か、薬の飲み方は本当に正しいのか。気づけばいろいろな精神障害について詳しくなっていきました。頭が真っ白になった言葉しかし、改善が見られない兄を心配して、診察の時に「どのくらい薬を飲み続けたら治るのでしょうか?」と母が聞いたところ、返ってきた医師の答えは「精神的な病気はなぜこうなるのか、今の医学でははっきりわからない」という言葉。母は、その回答に頭が真っ白になったと言います。なぜならその言葉の裏返しは、「治る見込みは今のところない」という意味だからです。あの大量の薬を飲み続けても、どれだけ入院しても、どれだけ勉強しても。いつ、どのタイミングで、どうしたら治るのか? まったく予想ができない人生がこれから始まろうとしている。そんな、ゴールのないマラソンがスタートしたのです。費用を考えると入院は高額だった定期的に検査入院をしていた兄ですが、保険が効くとはいえ、10日の入院で15万の費用がかかりました。食事や検査、薬などを全て診てもらえる代わりに、出費はどんどんかさみます。しかし、母は兄が高校をやめてから付きっきりでお世話をしていたので、仕事もできない状態です。復帰しても良いけれど、突然またどこで何をするかわからない兄をひとりにすることはできません。おまけに、「今の医学では原因がわからない」と言われてしまっては、右も左も選択の余地がなかったのです。そうしているうちにもお金はどんどん出ていきます。そこで入院から通院に変更し、定期的な検診と薬の処方をしてもらい、自宅で面倒をみるように切り替えていきました。精神科に通いだして、はや4年“神頼み” のように駆け込んだ精神科で、恐る恐る飲み始めた大量の薬の効き目は、4年めに入っても改善の方向性が見えませんでした。できるようになったことと言えば、「薬を決まった時間に飲むこと」だけ。アラームとカレンダーが増えて、薬の飲み方が上手になった。たった、それだけでした。体は健康だけど、心は病気。どうしようもならない兄に対して、両親はいつも怒るか泣くかのどちらかでした。夜な夜な「こんなふうになるはずじゃなかったのに」「どこで子育てを間違えてしまったのだろうか」と、互いに自分を責めあう両親の声は、私にとって痛み以外の何ものでもありませんでした。「別に、パパとママは悪くないよ」と言いたかったけれど、ただ遠くで聞いているだけだった当時の記憶。そこから両親は、ある決断に出ますーー。©demaerre/Gettyimages©atbaei/Gettyimages©elenaleonova/Gettyimages©KatarzynaBialasiewicz/Gettyimages
2018年04月05日